戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0679人間七七四年
2011/02/10(木) 14:27:56ID:9mbnNtWa休復「琉球とか言う国が調子こいてるみたいだね
許しが貰えるなら俺が凝らしめにいって薩摩の臣にしてやろうか?
分かってるって、島津も徳川から沙汰を待つ身でそんな余裕が無い事なんて
だからよォ、俺達だけでヤってやんヨ!」
そう言うと休復は密かに船を借り自らの家臣と颯爽と琉球へ向かうのであった
・
・
その後
船は大風で破損し琉球にたどり着く事なく休復は薩摩にトンボ帰りする
休復「あぁ、なんて俺は不運なんだ何もかもが空しい!!」
こうして休復は琉球征伐を諦めました
めでたしめでたし
『西藩野史』から
因みに休復とは宇喜多秀家が使った偽名
0680人間七七四年
2011/02/10(木) 14:35:12ID:T7cOEd3F泳いで行け。
0681人間七七四年
2011/02/10(木) 15:58:33ID:GnXdaISt0682人間七七四年
2011/02/10(木) 16:42:08ID:hzgxJ0oS相模の北条氏と安房の里見氏が、海を挟んでにらみ合いをしていた頃の事。
安房水軍はしばしば相模の海岸に押し寄せ、北条氏を悩ませていた。
北条氏側も海岸沿いに番所を連ね、警戒を厳しくするくらいしか取る手がなかった
のである。
そんな感じでピリピリしたムードの中、小雨の降るある日。
小田原近くの入江に、小船が四、五艘ばかり陸地を目指して漕ぎ寄って来るのが発
見された。
「里見軍が来たぞっ!」
「房州水軍だ、逃げろっ!!」
町人達はうろたえ騒ぎ、逃げ出す。
しかし一方では、
「おお、あれが敵の軍船か」
「思ったより小さくね?」
と、浜に押し寄せて見物を始める者達もいた。
この騒動に、近くの番所から出動した高山大膳は群集を掻き分けて波打ち際へと進
み出ると声を上げる。
「おのれ憎き里見の勢め!今すぐ船を漕ぎ寄せ、尋常に勝負いたせ!!」
しかし……
シーーーーーーーーーーーン……
相手はまったくの無反応。
尚も相手の臆病をなじり、勝負を挑む大膳であったが、小船からは何の反応も返っ
てこない。
この辺りで漸く、野次馬達も、そして大膳自身も、何かがおかしいと気付き始めた。
「……あの船って」
「フツーの釣り船……じゃねぇの?」
0683人間七七四年
2011/02/10(木) 16:43:14ID:hzgxJ0oSそう、軍船にしてはやたら小さな船だと思ったら、実はこれ、ただの釣り船だった
のだ。
最近のピリピリムードに当てられた町人達が船に過剰反応し、野次馬が集まり、騒
動に釣られるように番所から侍が出動し……何が何やら判らない内に大騒動になっ
てしまったため、釣り船の方もキョトンとしたまま、何の反応も返せなかったので
ある。
(ど、どーしよう……ここまで来て「間違いでした。あれは釣り船です」じゃ収め
られないよなぁ、オレの面目的に……)
真相が判ったとて、大膳にとっては振り上げた拳の下ろす場所が見つかった訳では
ない。
どうして良いものか、気まずい沈黙が海岸に漂ったその時、
「そなたら如き、高山様の手を煩わせるまでもない!この一本唐傘を見よ!我こそ
は誓願寺の住職、庭林なるぞ!そなたらの相手は我こそがふさわしい!いざ、参れ!!」
雨の降る海岸、一本の傘を手にした僧侶が大膳の脇に進み出ると、そう声を上げた。
「二本傘」の旗指物を背負った大膳の劣化版を気取って見せたのである。
「確かに敵の侍じゃないなら、高山様より坊さんの出番だよなぁ」
海岸に集まった群衆は、あるいは爆笑、あるいは苦笑しながら、日常生活へと帰っ
て行き、高山大膳も面目を潰す事無く、この話は笑い話として語られるようになっ
た。
この話を聞いた北条氏政は、
「面白い坊主だ。こういう奴が仏法の問答も、面白く、わかりやすく聞かせてくれ
るんだろうな」
とのコメントを残し、庭林は小田原城下で大いに名を上げたのであった。
0684人間七七四年
2011/02/10(木) 18:59:59ID:BkXJQeM50685人間七七四年
2011/02/10(木) 20:20:57ID:YSnkna1A0686人間七七四年
2011/02/10(木) 20:58:09ID:U6fv33hH0687人間七七四年
2011/02/10(木) 21:21:58ID:l4w04jXn0688人間七七四年
2011/02/10(木) 23:02:46ID:iRqenFOl『お手紙いただきました。大変嬉しく思っています。
昨日出した手紙にも書いたのですが、わたしはこちらで普請の指導をしているため忙しく、
あなたに手紙を出すことが出来ませんでした。
やがて歳末の頃になれば、そちらに伺うことが出来るでしょう。
その時には、あなたの唇にキスをしましょう、それまで誰にも、その唇を触らせてはいけませんよ?
私はここで、側に居る時以上にあなたの事を想っています。』
以上、豊臣秀吉より息子秀頼への手紙。
有名な書状だけど、ほとんどラブレターですなw
0691人間七七四年
2011/02/11(金) 00:53:21ID:LHVbWMiV0692人間七七四年
2011/02/11(金) 01:09:38ID:RDu5Lret妙心寺で出家して“鉄牛”と名乗っていた時のこと。
京の色町・六条柳町の左近という遊女から『久しぶりに是非とも団様にお会いしたい』と熱烈なラブレターが届いた。
この左近、柳町遊郭でも際だって美しかったが、まだ武士だった団右衛門が口説いた時には罵倒を加えたような女だった。
まあそんなことは昔のこととて、団右衛門がほいほい会いに行って酒を酌み交わすと、
用件は出来てしまった隠し子を託したいと言うことである。
(出家の身の団右衛門に預けるという事は、妙心寺に入れる口添えをしてくれということだろう)
「ははあん、そんなことか」と思いながらも、頼まれごとに二つ返事で快諾する団右衛門。
喜んだ左近は以前彼を振った時とは別人のように媚びて、お礼とばかりにしなだれかかり同衾を誘った。
しかし団右衛門、猛然と衾を蹴って立ち上がり、
「酔っぱらって忘れたのか? 俺は僧だぜ。同衾なんざご免だね」
とその手を振り払って帰ってしまった。
出家した後も飲酒や帯刀を止めなかった彼も、女犯に関してはストイックだったのか。
それとも見返りを目当てにするような男と思われることに我慢がならなかったのか。
兎に角、塙団右衛門、据え膳を引っくり返したというお話。
0693人間七七四年
2011/02/11(金) 01:35:04ID:NOW9/yKx0694人間七七四年
2011/02/11(金) 01:59:27ID:RDu5Lret失礼、筆が滑ってそのまま帰ったと書きましたが、
原文では同衾拒否の言葉とともに立ち上がったところで終わっています。
その後普通に面倒を見たんじゃないでしょうか。(そうじゃないといい話でもなんでもないですな)
0695人間七七四年
2011/02/11(金) 02:05:57ID:ecS0N8jH源平の公達たちとはまた違った武者ぶりがいいね
0697人間七七四年
2011/02/11(金) 08:24:17ID:79FkKFXsそしてそんな男にはこんな頼みごとはしないだろう
0698人間七七四年
2011/02/11(金) 09:12:50ID:d+M3oqIu0700人間七七四年
2011/02/11(金) 13:29:51ID:cgPGSa4k> 奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね
全部がそうとは言わんが、団右衛門さんは出奔した後、加藤嘉明の刺客が来たとき
自分の居場所を間違わないよう、家の前にでっかい表札を出しておくような人。
0701人間七七四年
2011/02/11(金) 13:39:51ID:am1RwmeE三河の人と同人種ってことかw
0702人間七七四年
2011/02/11(金) 13:40:47ID:/Qw0ZPAK0703人間七七四年
2011/02/11(金) 14:43:39ID:gKoolOEl親父が家康の臣だったけど三河一向一揆で一揆側に加担したから出奔。
で尾張について秀吉に仕えた。
めんどくさいのは生まれつきってことです。
0706人間七七四年
2011/02/11(金) 19:47:37ID:d+M3oqIu某所のネタによると、実際に追手が来たと言う話が全く残ってないから、かえって困るとか言ってたが・・・実際のところ来たのか?追手は
0707人間七七四年
2011/02/11(金) 21:22:04ID:5dmgYj+0「甲陽軍鑑」より、
小幡景憲の父、小幡昌盛が勝頼に暇乞いをする場面
巳の年(1580年・天正8年)霜月よりわずらい、
腫満なれども籠にのり、今年の御いとまごいを申し
この腫満(腹水貯留)の記述から、小幡昌盛は当時甲斐国の
地方病であった、日本住血吸虫症に罹患していたと言われるが、
(ミヤイリガイを中間宿主とし、人間にかかると肝臓やある時には脳を侵し
ひどい時には死に至らしめることもある)
寄生虫である日本住血吸虫の生活環の解明、予防の徹底(生足で水に浸からない、生水を飲まない)、
コンクリート用水路によるミヤイリガイの減少により1978年以降日本では発生していない。
日本人が発見、生活環を解明したから「日本」住血吸虫症とついているだけなのに、
某国では第二次世界大戦中に日本軍が散布した、とのデマが流れていたり、
環境団体がコンクリートの用水路をやめろ!と自然に戻して、ミヤイリガイが
復活しかねない状態にあるから悪いスレ向きかもしれないが
0708人間七七四年
2011/02/11(金) 21:29:53ID:NOW9/yKx腫物もだけど戦国時代とは病気も違うんだな。
0709人間七七四年
2011/02/11(金) 21:41:50ID:/Qw0ZPAK0710人間七七四年
2011/02/11(金) 21:45:17ID:W3iPKyTK昔は何が怖いかって虫歯なったら地獄だよなあ
0711人間七七四年
2011/02/11(金) 21:55:06ID:fiXTdMrX0712人間七七四年
2011/02/11(金) 21:58:16ID:2KEhCzqB0713人間七七四年
2011/02/11(金) 22:43:15ID:P8qXXbgT政宗って本当に眼帯つけてたのかな?
愛姫が残した像は眼帯ついてないよね。
というのも前に読んだ本に「花柄の眼帯をしてた」って書いてあったんだ。
当時はそんなに歴史に興味がなかったから、軽く読み飛ばしちゃって今はすげー後悔してる。
ソースも結構しっかりした本だったんだけど、思い出せない。
ここの住人の方ならなにか知ってるかなと思ったんだ。
0714人間七七四年
2011/02/11(金) 23:11:48ID:NtwOkyVk眼帯付けてた記録はないと明言されてたよ。
役者さんには見栄えを良くするために付けさせてるんだって。
0715人間七七四年
2011/02/11(金) 23:26:10ID:ecS0N8jH0716人間七七四年
2011/02/11(金) 23:33:54ID:8LJS5kHw0717人間七七四年
2011/02/11(金) 23:38:15ID:LJ29ZiFeそれでも政宗に寄り添った愛姫は本物だと思う
0718人間七七四年
2011/02/11(金) 23:58:19ID:VcdevW/g0719人間七七四年
2011/02/12(土) 04:31:31ID:y7e1pxX9藤堂高虎も秀長に従い、但馬国に入った。
強兵を率いて一揆制圧の戦いを続けていたある晩、高虎は自ら敵方の砦付近まで偵察に行った。
砦の柵の前に迫った時だった。
柵の中から敵の見回り兵が、高虎めがけて槍を突き刺した。
「(痛ぇっ!)」
槍は高虎の太腿を貫通した。
「(こういうときは・・・と)」
高虎は慌てず騒がず、槍が刺し抜かれる瞬間、槍の穂先を袖口でしごいて自分の血のりを拭き取った。
「妙だな、確かに手ごたえはあったのだが・・・。朽ちた丸太でも突いたかな。」
敵兵は穂先を眺めながら去って行った。
ことなきを得た高虎は、ただちに大声で叫んで砦の中に押し入り、敵を斬りまくった。
そして、
「仇討ちじゃ!」と伝えて帰ったのであった。
その後、秀長は但馬を平定、高虎も褒美をたくさん(三千石)もらったそうな。
おまけに翌年、但馬では嫁さんまでもらって、
以来(子ができずに側室をもらうまで)嫁さんひとすじ、幸せに暮らしたということじゃ。
0720人間七七四年
2011/02/12(土) 04:38:34ID:Zop/G4a3俺だったら泣きべそかいて逃げるわ
0721人間七七四年
2011/02/12(土) 08:16:38ID:Y2IvTVcMあれだな。
佐竹義隆が「目から何か飛び出てて非常に醜い親父だった」と書いてるし
眼帯なしだったと考えればしっくりくるな
0723人間七七四年
2011/02/12(土) 10:38:04ID:fIJbKaII眼帯なし、片目のまぶたが張り付いているだけで変な奴っぽかった。
0724人間七七四年
2011/02/12(土) 10:54:37ID:gOclPejo0726人間七七四年
2011/02/12(土) 12:35:40ID:4kz2Ny9v0727人間七七四年
2011/02/12(土) 12:42:27ID:bOHGdVJ8なんか小学生の時目を刺されて同じようなことをして窮地を脱した
忍者の話を読んだ気がするんだけど、なんだっけ?
0728人間七七四年
2011/02/12(土) 14:43:00ID:ej3qNQ0K俺の記憶では、暗殺に行った先で天井裏に潜んでいた所、
気配を気取ったターゲットに額を刺されたが同じような処置をして騙す事に成功、
見事暗殺してのけたが、それ以来額が窪んだままになったので
窪額だかその逆だかの異名を取る事になった忍者だったような
0730人間七七四年
2011/02/12(土) 14:59:15ID:X+dLOQHI汁の二度掛けとか兵法講義で小便に立つ話のような
テンプレ的な話だったのかな。壮絶な覚悟とかを示す。
0731人間七七四年
2011/02/12(土) 15:13:41ID:TIVEbThU0732人間七七四年
2011/02/12(土) 17:30:27ID:LCQvKY1V0733人間七七四年
2011/02/12(土) 18:05:30ID:qu/FzoBsそういやあの漫画には信玄が忍者を見破る逸話もあったな
0734人間七七四年
2011/02/12(土) 22:04:06ID:fyl04PqE「仇討ちじゃ」って、どこにかかるんだ?太腿?
それとも「仕返しじゃ」くらいの意味?
0736人間七七四年
2011/02/12(土) 23:31:45ID:QT7+EzUphttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4299.html
加藤嘉明が賤ヶ岳七本槍として名を馳せる何年か前のこと。
同輩の男が嘉明の相馬眼が優れていると聞き及んで訪ねてきた。
「HEY! ジミー、馬を買おうと思ってたんだが君の相馬眼が優れていると聞いて
やって来たよ、どうか馬喰のとこに一緒に行って見繕ってくれないかい?」
自分の相馬眼を褒められて悪い気がしない嘉明は承諾して一緒に馬喰のところまで
行って馬を見繕ってやることにした。そこである一頭の馬に目が留まった。
その馬を見た嘉明は「ちょっと癖の悪そうな馬だし本質的にはマイラーだと思うが
春のクラシックまでならなんとかなりそう」と思ったかは定かではないが
明らかに癖の悪い馬ではあるがそこ以外は申し分の無い馬であると男に薦めた。
すると男は「ジミー、確かに良さそうな馬だけどあの癖の悪い部分を再調教して
癖が無くなったら買うからって馬喰にちょっと掛け合ってくるわ」と言ってあまり乗り気ではない様子。
その態度にイラッとした嘉明は「いやいや、あの癖の悪さも含めてのいい馬で癖が無くなるように
調教したらいい部分もなくなっちゃうから今買うべきだ」と言って今が買い時だと強調したが
男は何やかんやと理由をつけて買おうとしない。
そこで切れた嘉明は「いい馬がいるのに癖があるからって理由で見逃すんじゃなく、
癖馬でも乗りこなそうという気概がないと殿のためにいい奉公なんか出来ないぜ、
あと俺はジミーじゃねぇ」と怒ってしまった。
後にそのことが信長の耳に入り「嘉明の言う事がもっともである」と言って嘉明を賞賛したとさ。
0737人間七七四年
2011/02/12(土) 23:50:18ID:9dJHA8T1徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山が
家康のもとにやってきた。
甲冑を着込んで。
どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた
「我らが手にも三人の法師武者があるわ」
これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。
この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。
大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。
0738人間七七四年
2011/02/13(日) 00:08:43ID:S+HF8EsR天海だったかな?
0739人間七七四年
2011/02/13(日) 00:12:07ID:prNQyHLp0741人間七七四年
2011/02/13(日) 00:32:35ID:GOTpJhPV0742人間七七四年
2011/02/13(日) 00:33:40ID:vdBJgzcm>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか
0743人間七七四年
2011/02/13(日) 00:40:10ID:bkRgrFXX0745人間七七四年
2011/02/13(日) 01:27:33ID:vdBJgzcm“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。
「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」
「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」
「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」
「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」
折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。
0746人間七七四年
2011/02/13(日) 04:21:45ID:k6MLXP8v関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる
0747人間七七四年
2011/02/13(日) 08:18:33ID:zQGldhXw0748人間七七四年
2011/02/13(日) 11:37:19ID:DWwt4EEW加藤光泰は文禄の役の時
迫る明の大軍に対して
兵糧の不足を理由に漢城からの撤退を主張する三成に
(`・ω・´)光泰「米がなければ砂を食えばいいんだよ!」
三成「砂なんて食べられるわけがないでしょう常識的に考えて」
(`・ω・´)光泰「食えるもん!おれ食えるもん!砂の食い方も知らないのかよバーカ!バーカ!」
という超理論をブチ上げた逸話しか知らないなあ。
そしてなぜか光泰のこの砂食いスピリッツに感化された諸将によって
明の大軍を迎え撃つことが決定してしまった
後の碧蹄館の戦いである。
0749人間七七四年
2011/02/13(日) 11:42:30ID:cULL00l1砂はいけるのか?
0750人間七七四年
2011/02/13(日) 12:01:01ID:GOTpJhPV0754人間七七四年
2011/02/13(日) 18:25:54ID:2vFxlbxn宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
実は八丈島で捕れた鯨の腸をつなぎ合わせた浮き袋を考案して
泳ぐ際の負担を軽くしていたことはほとんど知られていない
江戸中期、八丈島を飢饉が襲った際
試みにこの浮き袋をつくり江戸で売ったところ泳げない武士の間でたちまち大人気となり
その儲けで島民全員を糊して余りある米を買う事ができたと言う
そのとき島民が考案者である秀家に感謝を示す意味でこれを「宇喜輪」と名づけたことは
賢明な読者諸氏には既にお分かりのことであろう
なお八丈島宇喜多氏が「浮田」と改姓したのもこの頃であるが
これは宇喜輪の利益で軍備を整えた宇喜多の子孫が幕府に弓をひくのではないかと
危ぶむ幕閣の視線をそらすためであったという
さらに余談であるが、ドイツ起源の料理として今日著名な「ソーセージ」も宇喜輪に端を発する
遠州灘で宇喜輪を使って泳いでいる秀家にオランダ東インド会社の帆船が食料を売ったと言う記録があり
このときにオランダ人が腸をつなぎ合わせる料理の発想を得それをドイツ人が実用化したという
その証拠に「ソーセージ」を表す「腸詰」と言う単語は
オランダ人から体調を聞かれた秀家の「超つれえ」という日本語から来ているという話が
ドイツの限られたソーセージ・マイスターの間で口伝として残っている
0755人間七七四年
2011/02/13(日) 18:33:21ID:pZRAq/J+遅レスだが茂庭綱元の日記に、何かの祝い事のときに
政宗が紅白幕の模様の眼帯をしていたという記述があった
ということを本で読んだ覚えがある。アイパッチではなく
そういう柄の布を巻いていたかもしれない
0758人間七七四年
2011/02/13(日) 19:05:40ID:zQGldhXw> 宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
この一行目でさすがに解るだろw
0759人間七七四年
2011/02/13(日) 22:02:15ID:iWpNnSfo0761人間七七四年
2011/02/14(月) 01:15:23ID:puwfzaQQ0762人間七七四年
2011/02/14(月) 01:18:57ID:rRCpTngr0764人間七七四年
2011/02/14(月) 02:31:31ID:gKCVeQYw0766人間七七四年
2011/02/14(月) 10:47:27ID:jQK1vxKn信長「三河殿、古今の英雄と言われる人物は数多いるがあなたは誰が最も優れていると思うか」
家康「それは上様以外ござらりませぬ」
信長「余の事はおけ。小平次(酒井忠次)、そちはどうだ?」
忠次「安土様の破格の偉業には頼朝公も義満公も足元にも及びませぬ」
このように信長は居合わせた重臣一人一人に親しく問うたので皆感涙したという。
そして全員が信長こそが古今最も秀でた英雄と褒めちぎるなかただ一人、違う人物を挙げる男がいた。。。
信長「平八郎(本多忠勝)、そなたはどうだ?」
忠勝「それは我が殿、徳川家康公でございましょう。殿は仁篤く、臣下を慈しみ、戦に置いては勇猛、仮に上様がいなければ天下を統べるのは我が殿以外ござらん!」
これは歪曲して聴けば謀反とも取れる言いようであり、家康以下一同は仰天して腰を抜かし、中には今にも忠勝を切ろうとする者までいたが。。。
信長は嬉しそうに手を叩き上機嫌で忠勝を褒め囃し、天下統一成れば家康の陪臣として武蔵一国を宛がう約束をしたという。
信長の死により約束は反古になったが家中に面目を施した忠勝は死ぬまで息子達にこの話しを誇ったという。
0767人間七七四年
2011/02/14(月) 10:57:14ID:6/+txjmT0768人間七七四年
2011/02/14(月) 11:30:34ID:KfaXMPAtまあ自分の殿様が好き過ぎるんだろうけど。
0769人間七七四年
2011/02/14(月) 11:33:21ID:gKCVeQYw0770人間七七四年
2011/02/14(月) 11:42:46ID:o3jjrn0l作左やタダーヨならどんなことをいっていたであろうか。
0771人間七七四年
2011/02/14(月) 11:48:50ID:6/+txjmT豊田市周辺だけ見ると尾張と変わらないけど、
足助、飯田とかになると奥地な感じが今でもする。
あと、信長と秀吉は残ってる趣味言動が都会的だけど、三河武士は田舎者の臭いが強い。
良い意味でねw
0772人間七七四年
2011/02/14(月) 11:49:59ID:sqTNEcos0773人間七七四年
2011/02/14(月) 12:07:31ID:Pkfpiuuo作左たち連れてきた方が覚えよかったかもなw
0774人間七七四年
2011/02/14(月) 12:30:24ID:LaaNxEpS0775人間七七四年
2011/02/14(月) 12:40:54ID:LFHduT5a0776人間七七四年
2011/02/14(月) 12:50:07ID:bRq9Wt0z0777人間七七四年
2011/02/14(月) 13:42:44ID:6/+txjmTみんながみんな三河アゲしたら信長みるみる機嫌悪くなる気がするw
織田家臣も主君ないがしろにされて面子立たないし、
近江衆と尾張衆の喧嘩の再現になりそう
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