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戦国ちょっといい話24

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0001人間七七四年2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0669人間七七四年2011/02/10(木) 10:32:58ID:FSLgCDEz
>>668
kwsk
まとめで見たところないしそもそも村井さんのカテゴリーすらないorz
0670人間七七四年2011/02/10(木) 11:43:42ID:rR1KY+UL
>村井さんの逸話なら美人局があった

これは村井さんが、
美人局にあってアワアワしちゃう話なのか、
美人局をしかけて誰かをアワアワさせちゃう話なのか、
美人局にあったアワアワしてる人を裁く話なのか、

興味があります!
0671人間七七四年2011/02/10(木) 11:53:44ID:dQRhk+ML
堀秀政が北庄城を修築した時のことである。

秀政がその弟の多賀秀種の措置宜しきを得ぬとしてこれを詰責した。
これを口惜しきと考えた秀種は翌朝致仕して北庄を去ってしまった。。

秀政は弟の致仕を聞くと途中不便なこともあるだろうと餞に黄金十枚を送り、人をやって届けさせた。
その後秀政は黄金を包んでいた紙を一枚一枚のして箱に納めながらこう言った。
「およそ財というものは用いるべき時は黄金十枚でも惜しむべきでない。
 無用の時はこの紙十枚といえども無駄にしてはならない。私を鄙吝と思うな。」
0672人間七七四年2011/02/10(木) 12:14:52ID:OUukF1Mc
Q太郎は若死にし過ぎ
せめて関が原くらいまで生きてれば
0673人間七七四年2011/02/10(木) 12:15:59ID:ShdENNEz
さすが名人Q太郎
0674人間七七四年2011/02/10(木) 12:17:54ID:rp56qvlX
家康「その通り!」
爆弾正「その通り!」
岡左内「その通り!」

又左「その通り!」
0675人間七七四年2011/02/10(木) 12:27:36ID:Kewfg9ND
村井さんもそうだけど、
同じ織田の丹羽長秀や滝川一益も逸話の面だと影が薄いよね。
この二人は四天王なのに
0676人間七七四年2011/02/10(木) 12:36:19ID:iI8ZBVn4
比較対象が秀吉光秀なら影が薄く思うのも当たり前じゃね
0677人間七七四年2011/02/10(木) 13:47:55ID:U6fv33hH
>>674
又左は別だw
0678人間七七四年2011/02/10(木) 14:02:26ID:W3BhpBnV
>>674
>>677
殿!我が城が攻められています!援軍を!!
0679人間七七四年2011/02/10(木) 14:27:56ID:9mbnNtWa
薩摩に休復と名乗る人物がいた

休復「琉球とか言う国が調子こいてるみたいだね
許しが貰えるなら俺が凝らしめにいって薩摩の臣にしてやろうか?
分かってるって、島津も徳川から沙汰を待つ身でそんな余裕が無い事なんて
だからよォ、俺達だけでヤってやんヨ!」
そう言うと休復は密かに船を借り自らの家臣と颯爽と琉球へ向かうのであった


その後

船は大風で破損し琉球にたどり着く事なく休復は薩摩にトンボ帰りする

休復「あぁ、なんて俺は不運なんだ何もかもが空しい!!」

こうして休復は琉球征伐を諦めました
めでたしめでたし

『西藩野史』から





因みに休復とは宇喜多秀家が使った偽名
0680人間七七四年2011/02/10(木) 14:35:12ID:T7cOEd3F
どうせ誰かが言うんだから先に言っておこう。
泳いで行け。
0681人間七七四年2011/02/10(木) 15:58:33ID:GnXdaISt
秀家元気いいなあw
0682人間七七四年2011/02/10(木) 16:42:08ID:hzgxJ0oS

相模の北条氏と安房の里見氏が、海を挟んでにらみ合いをしていた頃の事。

安房水軍はしばしば相模の海岸に押し寄せ、北条氏を悩ませていた。
北条氏側も海岸沿いに番所を連ね、警戒を厳しくするくらいしか取る手がなかった
のである。

そんな感じでピリピリしたムードの中、小雨の降るある日。
小田原近くの入江に、小船が四、五艘ばかり陸地を目指して漕ぎ寄って来るのが発
見された。

「里見軍が来たぞっ!」
「房州水軍だ、逃げろっ!!」

町人達はうろたえ騒ぎ、逃げ出す。
しかし一方では、

「おお、あれが敵の軍船か」
「思ったより小さくね?」

と、浜に押し寄せて見物を始める者達もいた。

この騒動に、近くの番所から出動した高山大膳は群集を掻き分けて波打ち際へと進
み出ると声を上げる。
「おのれ憎き里見の勢め!今すぐ船を漕ぎ寄せ、尋常に勝負いたせ!!」
しかし……

シーーーーーーーーーーーン……
相手はまったくの無反応。

尚も相手の臆病をなじり、勝負を挑む大膳であったが、小船からは何の反応も返っ
てこない。
この辺りで漸く、野次馬達も、そして大膳自身も、何かがおかしいと気付き始めた。

「……あの船って」
「フツーの釣り船……じゃねぇの?」
0683人間七七四年2011/02/10(木) 16:43:14ID:hzgxJ0oS


そう、軍船にしてはやたら小さな船だと思ったら、実はこれ、ただの釣り船だった
のだ。
最近のピリピリムードに当てられた町人達が船に過剰反応し、野次馬が集まり、騒
動に釣られるように番所から侍が出動し……何が何やら判らない内に大騒動になっ
てしまったため、釣り船の方もキョトンとしたまま、何の反応も返せなかったので
ある。


(ど、どーしよう……ここまで来て「間違いでした。あれは釣り船です」じゃ収め
られないよなぁ、オレの面目的に……)

真相が判ったとて、大膳にとっては振り上げた拳の下ろす場所が見つかった訳では
ない。
どうして良いものか、気まずい沈黙が海岸に漂ったその時、

「そなたら如き、高山様の手を煩わせるまでもない!この一本唐傘を見よ!我こそ
は誓願寺の住職、庭林なるぞ!そなたらの相手は我こそがふさわしい!いざ、参れ!!」

雨の降る海岸、一本の傘を手にした僧侶が大膳の脇に進み出ると、そう声を上げた。
「二本傘」の旗指物を背負った大膳の劣化版を気取って見せたのである。

「確かに敵の侍じゃないなら、高山様より坊さんの出番だよなぁ」

海岸に集まった群衆は、あるいは爆笑、あるいは苦笑しながら、日常生活へと帰っ
て行き、高山大膳も面目を潰す事無く、この話は笑い話として語られるようになっ
た。


この話を聞いた北条氏政は、
「面白い坊主だ。こういう奴が仏法の問答も、面白く、わかりやすく聞かせてくれ
るんだろうな」
とのコメントを残し、庭林は小田原城下で大いに名を上げたのであった。
0684人間七七四年2011/02/10(木) 18:59:59ID:BkXJQeM5
坊さん、素晴らしい空気の読みっぷりだなw
0685人間七七四年2011/02/10(木) 20:20:57ID:YSnkna1A
難破したから泳いで帰ったのではないのか。
0686人間七七四年2011/02/10(木) 20:58:09ID:U6fv33hH
釣り船の人はめちゃくちゃ怖かっただろうなぁw
0687人間七七四年2011/02/10(木) 21:21:58ID:l4w04jXn
つ 釣られないぞ
0688人間七七四年2011/02/10(木) 23:02:46ID:iRqenFOl
慶長2年(1597)12月2月付、書状


『お手紙いただきました。大変嬉しく思っています。

昨日出した手紙にも書いたのですが、わたしはこちらで普請の指導をしているため忙しく、
あなたに手紙を出すことが出来ませんでした。

やがて歳末の頃になれば、そちらに伺うことが出来るでしょう。
その時には、あなたの唇にキスをしましょう、それまで誰にも、その唇を触らせてはいけませんよ?

私はここで、側に居る時以上にあなたの事を想っています。』




以上、豊臣秀吉より息子秀頼への手紙。
有名な書状だけど、ほとんどラブレターですなw
0689人間七七四年2011/02/11(金) 00:45:21ID:XDKpB3ty
>>688
秀頼の唇とねねの乳首
お前らどっち吸いたいよ
0690人間七七四年2011/02/11(金) 00:53:01ID:cgPGSa4k
>>689
通説に従うと、この年に高台院さんは50歳なんだが
0691人間七七四年2011/02/11(金) 00:53:21ID:LHVbWMiV
秀頼の乳首
0692人間七七四年2011/02/11(金) 01:09:38ID:RDu5Lret
お騒がせ男・塙団右衛門が地味加藤こと旧主の加藤嘉明に奉公構された末に、
妙心寺で出家して“鉄牛”と名乗っていた時のこと。

京の色町・六条柳町の左近という遊女から『久しぶりに是非とも団様にお会いしたい』と熱烈なラブレターが届いた。
この左近、柳町遊郭でも際だって美しかったが、まだ武士だった団右衛門が口説いた時には罵倒を加えたような女だった。

まあそんなことは昔のこととて、団右衛門がほいほい会いに行って酒を酌み交わすと、
用件は出来てしまった隠し子を託したいと言うことである。
(出家の身の団右衛門に預けるという事は、妙心寺に入れる口添えをしてくれということだろう)

「ははあん、そんなことか」と思いながらも、頼まれごとに二つ返事で快諾する団右衛門。
喜んだ左近は以前彼を振った時とは別人のように媚びて、お礼とばかりにしなだれかかり同衾を誘った。

しかし団右衛門、猛然と衾を蹴って立ち上がり、
「酔っぱらって忘れたのか? 俺は僧だぜ。同衾なんざご免だね」
とその手を振り払って帰ってしまった。

出家した後も飲酒や帯刀を止めなかった彼も、女犯に関してはストイックだったのか。
それとも見返りを目当てにするような男と思われることに我慢がならなかったのか。


兎に角、塙団右衛門、据え膳を引っくり返したというお話。
0693人間七七四年2011/02/11(金) 01:35:04ID:NOW9/yKx
隠し子はどうなったんだろう。
0694人間七七四年2011/02/11(金) 01:59:27ID:RDu5Lret
>>693
失礼、筆が滑ってそのまま帰ったと書きましたが、
原文では同衾拒否の言葉とともに立ち上がったところで終わっています。
その後普通に面倒を見たんじゃないでしょうか。(そうじゃないといい話でもなんでもないですな)
0695人間七七四年2011/02/11(金) 02:05:57ID:ecS0N8jH
戦国武者って出所進退に男くさい爽やかさがあるから好きだな
源平の公達たちとはまた違った武者ぶりがいいね
0696人間七七四年2011/02/11(金) 02:50:55ID:wxxhg+fO
>>692
これやってたら坊主として最低な野郎と言いふらされそうで怖い
0697人間七七四年2011/02/11(金) 08:24:17ID:79FkKFXs
俺だったら間違いなくヤル。
そしてそんな男にはこんな頼みごとはしないだろう
0698人間七七四年2011/02/11(金) 09:12:50ID:d+M3oqIu
奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね
0699人間七七四年2011/02/11(金) 13:13:19ID:NABWCRk9
>>678
待ってろよ!今そっちに銭を投げたからな!
0700人間七七四年2011/02/11(金) 13:29:51ID:cgPGSa4k
>>698
> 奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね

全部がそうとは言わんが、団右衛門さんは出奔した後、加藤嘉明の刺客が来たとき
自分の居場所を間違わないよう、家の前にでっかい表札を出しておくような人。
0701人間七七四年2011/02/11(金) 13:39:51ID:am1RwmeE
>>700
三河の人と同人種ってことかw
0702人間七七四年2011/02/11(金) 13:40:47ID:/Qw0ZPAK
というか地味加藤さんも結構めんどくさい性格してるしめんどくさい人同士が意地はると大変なことになるという実例では
0703人間七七四年2011/02/11(金) 14:43:39ID:gKoolOEl
というよりも、地味加藤さんは三河の人。
親父が家康の臣だったけど三河一向一揆で一揆側に加担したから出奔。
で尾張について秀吉に仕えた。

めんどくさいのは生まれつきってことです。
0704人間七七四年2011/02/11(金) 19:31:15ID:s2pesM7h
>>700
地味加藤家では出奔した奴は必ず殺すみたいなルールがあったの
だろうか・・・
0705人間七七四年2011/02/11(金) 19:47:00ID:PxnisQlv
>>704
いや、そういう例は一切無い。
団衛門はむしろ刺客に来てもらいたくて宣伝してたっぽいw
0706人間七七四年2011/02/11(金) 19:47:37ID:d+M3oqIu
>>704
某所のネタによると、実際に追手が来たと言う話が全く残ってないから、かえって困るとか言ってたが・・・実際のところ来たのか?追手は
0707人間七七四年2011/02/11(金) 21:22:04ID:5dmgYj+0
悪いスレ>>762は自分ではありません

「甲陽軍鑑」より、
小幡景憲の父、小幡昌盛が勝頼に暇乞いをする場面

巳の年(1580年・天正8年)霜月よりわずらい、
腫満なれども籠にのり、今年の御いとまごいを申し

この腫満(腹水貯留)の記述から、小幡昌盛は当時甲斐国の
地方病であった、日本住血吸虫症に罹患していたと言われるが、
(ミヤイリガイを中間宿主とし、人間にかかると肝臓やある時には脳を侵し
ひどい時には死に至らしめることもある)
寄生虫である日本住血吸虫の生活環の解明、予防の徹底(生足で水に浸からない、生水を飲まない)、
コンクリート用水路によるミヤイリガイの減少により1978年以降日本では発生していない。

日本人が発見、生活環を解明したから「日本」住血吸虫症とついているだけなのに、
某国では第二次世界大戦中に日本軍が散布した、とのデマが流れていたり、
環境団体がコンクリートの用水路をやめろ!と自然に戻して、ミヤイリガイが
復活しかねない状態にあるから悪いスレ向きかもしれないが
0708人間七七四年2011/02/11(金) 21:29:53ID:NOW9/yKx
そういや瘧も日本ではもう発生していないんだよね。
腫物もだけど戦国時代とは病気も違うんだな。
0709人間七七四年2011/02/11(金) 21:41:50ID:/Qw0ZPAK
だが癌は今も昔も…変わらないものもある
0710人間七七四年2011/02/11(金) 21:45:17ID:W3iPKyTK
マラリアは海外からお持ち帰りする人がたまにいるね
昔は何が怖いかって虫歯なったら地獄だよなあ
0711人間七七四年2011/02/11(金) 21:55:06ID:fiXTdMrX
日本住血吸虫の被害とその撲滅運動は涙なしでは語れない
0712人間七七四年2011/02/11(金) 21:58:16ID:2KEhCzqB
病院にグロい写真貼ってあるヤツだっけ?
0713人間七七四年2011/02/11(金) 22:43:15ID:P8qXXbgT
スレチだったらスマソ。

政宗って本当に眼帯つけてたのかな?
愛姫が残した像は眼帯ついてないよね。
というのも前に読んだ本に「花柄の眼帯をしてた」って書いてあったんだ。
当時はそんなに歴史に興味がなかったから、軽く読み飛ばしちゃって今はすげー後悔してる。
ソースも結構しっかりした本だったんだけど、思い出せない。
ここの住人の方ならなにか知ってるかなと思ったんだ。
0714人間七七四年2011/02/11(金) 23:11:48ID:NtwOkyVk
大河独眼竜政宗やってた時に関連本で政宗が
眼帯付けてた記録はないと明言されてたよ。
役者さんには見栄えを良くするために付けさせてるんだって。
0715人間七七四年2011/02/11(金) 23:26:10ID:ecS0N8jH
独眼竜は面白かったなー。国分盛氏の無能っぷりにはイライラさせられたけどw
0716人間七七四年2011/02/11(金) 23:33:54ID:8LJS5kHw
風林火山で山本勘助がアワビの眼帯してたので吹いたw
0717人間七七四年2011/02/11(金) 23:38:15ID:LJ29ZiFe
眼帯が無いと言うことは、結構顔の見目が悪くなるな
それでも政宗に寄り添った愛姫は本物だと思う
0718人間七七四年2011/02/11(金) 23:58:19ID:VcdevW/g
別に恋愛結婚じゃないし
0719人間七七四年2011/02/12(土) 04:31:31ID:y7e1pxX9
天正8年、秀吉は但馬を屈服すべく秀長を守護に命じた。
藤堂高虎も秀長に従い、但馬国に入った。
強兵を率いて一揆制圧の戦いを続けていたある晩、高虎は自ら敵方の砦付近まで偵察に行った。
砦の柵の前に迫った時だった。
柵の中から敵の見回り兵が、高虎めがけて槍を突き刺した。

「(痛ぇっ!)」
槍は高虎の太腿を貫通した。

「(こういうときは・・・と)」
高虎は慌てず騒がず、槍が刺し抜かれる瞬間、槍の穂先を袖口でしごいて自分の血のりを拭き取った。

「妙だな、確かに手ごたえはあったのだが・・・。朽ちた丸太でも突いたかな。」
敵兵は穂先を眺めながら去って行った。

ことなきを得た高虎は、ただちに大声で叫んで砦の中に押し入り、敵を斬りまくった。
そして、
「仇討ちじゃ!」と伝えて帰ったのであった。

その後、秀長は但馬を平定、高虎も褒美をたくさん(三千石)もらったそうな。
おまけに翌年、但馬では嫁さんまでもらって、
以来(子ができずに側室をもらうまで)嫁さんひとすじ、幸せに暮らしたということじゃ。
0720人間七七四年2011/02/12(土) 04:38:34ID:Zop/G4a3
太腿貫通しているのに人を殺せるのが凄いな
俺だったら泣きべそかいて逃げるわ
0721人間七七四年2011/02/12(土) 08:16:38ID:Y2IvTVcM
>>713
あれだな。
佐竹義隆が「目から何か飛び出てて非常に醜い親父だった」と書いてるし
眼帯なしだったと考えればしっくりくるな
0722人間七七四年2011/02/12(土) 08:17:33ID:Y2IvTVcM
>>719
いたなあそういう忍者w
0723人間七七四年2011/02/12(土) 10:38:04ID:fIJbKaII
「おんな太閤記」だったかな?政宗は嫌みな小悪党キャラ。
眼帯なし、片目のまぶたが張り付いているだけで変な奴っぽかった。
0724人間七七四年2011/02/12(土) 10:54:37ID:gOclPejo
徳川家康でも、眼帯なかったような気がする
0725人間七七四年2011/02/12(土) 11:33:23ID:7a8vl+AX
>>719
こいつ絶対ニンジャだろ・・・
0726人間七七四年2011/02/12(土) 12:35:40ID:4kz2Ny9v
藤堂流偵察術
0727人間七七四年2011/02/12(土) 12:42:27ID:bOHGdVJ8
>>725
なんか小学生の時目を刺されて同じようなことをして窮地を脱した
忍者の話を読んだ気がするんだけど、なんだっけ?
0728人間七七四年2011/02/12(土) 14:43:00ID:ej3qNQ0K
>>727
俺の記憶では、暗殺に行った先で天井裏に潜んでいた所、
気配を気取ったターゲットに額を刺されたが同じような処置をして騙す事に成功、
見事暗殺してのけたが、それ以来額が窪んだままになったので
窪額だかその逆だかの異名を取る事になった忍者だったような
0729人間七七四年2011/02/12(土) 14:46:47ID:hUGI8Do/
>>727
学研まんがの忍者の巻だな

大塔宮の話とかもあったな
0730人間七七四年2011/02/12(土) 14:59:15ID:X+dLOQHI
>槍の穂先を袖口でしごいて〜てのも
汁の二度掛けとか兵法講義で小便に立つ話のような
テンプレ的な話だったのかな。壮絶な覚悟とかを示す。
0731人間七七四年2011/02/12(土) 15:13:41ID:TIVEbThU
あの学研の漫画意外と知られてるのなw俺も小学生のころ読んだわ
0732人間七七四年2011/02/12(土) 17:30:27ID:LCQvKY1V
でもなんであの学研まんが忍術と手品の二本立てだったのかは謎
0733人間七七四年2011/02/12(土) 18:05:30ID:qu/FzoBs
最後には町が手品の町みたいに終わってたな、あの漫画
そういやあの漫画には信玄が忍者を見破る逸話もあったな
0734人間七七四年2011/02/12(土) 22:04:06ID:fyl04PqE
ひとつ疑問が。
「仇討ちじゃ」って、どこにかかるんだ?太腿?
それとも「仕返しじゃ」くらいの意味?
0735人間七七四年2011/02/12(土) 23:31:14ID:nt0wFdxz
>>734
そりゃあ怪我の仇だろうな
0736人間七七四年2011/02/12(土) 23:31:45ID:QT7+EzUp
ジミーさんが前の方に出てたんで便乗して。これの別バージョンになるんかな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4299.html

加藤嘉明が賤ヶ岳七本槍として名を馳せる何年か前のこと。
同輩の男が嘉明の相馬眼が優れていると聞き及んで訪ねてきた。

「HEY! ジミー、馬を買おうと思ってたんだが君の相馬眼が優れていると聞いて
やって来たよ、どうか馬喰のとこに一緒に行って見繕ってくれないかい?」

自分の相馬眼を褒められて悪い気がしない嘉明は承諾して一緒に馬喰のところまで
行って馬を見繕ってやることにした。そこである一頭の馬に目が留まった。

その馬を見た嘉明は「ちょっと癖の悪そうな馬だし本質的にはマイラーだと思うが
春のクラシックまでならなんとかなりそう」と思ったかは定かではないが
明らかに癖の悪い馬ではあるがそこ以外は申し分の無い馬であると男に薦めた。

すると男は「ジミー、確かに良さそうな馬だけどあの癖の悪い部分を再調教して
癖が無くなったら買うからって馬喰にちょっと掛け合ってくるわ」と言ってあまり乗り気ではない様子。

その態度にイラッとした嘉明は「いやいや、あの癖の悪さも含めてのいい馬で癖が無くなるように
調教したらいい部分もなくなっちゃうから今買うべきだ」と言って今が買い時だと強調したが
男は何やかんやと理由をつけて買おうとしない。

そこで切れた嘉明は「いい馬がいるのに癖があるからって理由で見逃すんじゃなく、
癖馬でも乗りこなそうという気概がないと殿のためにいい奉公なんか出来ないぜ、
あと俺はジミーじゃねぇ」と怒ってしまった。

後にそのことが信長の耳に入り「嘉明の言う事がもっともである」と言って嘉明を賞賛したとさ。
0737人間七七四年2011/02/12(土) 23:50:18ID:9dJHA8T1
大坂の陣の折の話である。

徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山が
家康のもとにやってきた。

甲冑を着込んで。

どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた

「我らが手にも三人の法師武者があるわ」

これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。

この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。

大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。
0738人間七七四年2011/02/13(日) 00:08:43ID:S+HF8EsR
>一人の僧

天海だったかな?
0739人間七七四年2011/02/13(日) 00:12:07ID:prNQyHLp
加藤の光泰さんは、なんていわれてるんだっけ?
0740人間七七四年2011/02/13(日) 00:25:55ID:zQGldhXw
>>739
空気加藤
0741人間七七四年2011/02/13(日) 00:32:35ID:GOTpJhPV
甲府24万石の大名だったというのに・・・
0742人間七七四年2011/02/13(日) 00:33:40ID:vdBJgzcm
>>737
>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか
0743人間七七四年2011/02/13(日) 00:40:10ID:bkRgrFXX
山崎の恨みはらさいでか!
0744人間七七四年2011/02/13(日) 00:56:01ID:iR8VTLZV
>>742
顕如所用と伝わる兜もあるな
0745人間七七四年2011/02/13(日) 01:27:33ID:vdBJgzcm
地味加藤さんのエピソード


“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。

「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」

「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」

「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」

「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」


折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。
0746人間七七四年2011/02/13(日) 04:21:45ID:k6MLXP8v
>>742
関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる
0747人間七七四年2011/02/13(日) 08:18:33ID:zQGldhXw
イメージで言われても困るがな
0748人間七七四年2011/02/13(日) 11:37:19ID:DWwt4EEW
>>739
加藤光泰は文禄の役の時
迫る明の大軍に対して
兵糧の不足を理由に漢城からの撤退を主張する三成に

(`・ω・´)光泰「米がなければ砂を食えばいいんだよ!」

三成「砂なんて食べられるわけがないでしょう常識的に考えて」

(`・ω・´)光泰「食えるもん!おれ食えるもん!砂の食い方も知らないのかよバーカ!バーカ!」


という超理論をブチ上げた逸話しか知らないなあ。

そしてなぜか光泰のこの砂食いスピリッツに感化された諸将によって
明の大軍を迎え撃つことが決定してしまった
後の碧蹄館の戦いである。
0749人間七七四年2011/02/13(日) 11:42:30ID:cULL00l1
土食文化ってのは世界各地にあるらしいし日本でも「壁を舐めて飢えをしのぐ」なんて言うけれど
砂はいけるのか?
0750人間七七四年2011/02/13(日) 12:01:01ID:GOTpJhPV
砂なんか食ってるから血を吹いて死ぬんだよ
0751人間七七四年2011/02/13(日) 12:56:06ID:pFxqVH2W
>>748
ああ・・・宗茂の見せ場作ってくれたってことか
いい話だな
0752人間七七四年2011/02/13(日) 13:44:29ID:7D4/stwk
>>748
馬を売ってた地味加藤さんをスカウトしたのも、第三の加藤さんじゃなかったっけ?
0753人間七七四年2011/02/13(日) 14:39:03ID:6xDFA7sH
>>737
権現様の円熟味と戦前の緊張感が和らいだ情景が目に浮かぶ逸話だな
0754人間七七四年2011/02/13(日) 18:25:54ID:2vFxlbxn
宇喜輪

宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
実は八丈島で捕れた鯨の腸をつなぎ合わせた浮き袋を考案して
泳ぐ際の負担を軽くしていたことはほとんど知られていない

江戸中期、八丈島を飢饉が襲った際
試みにこの浮き袋をつくり江戸で売ったところ泳げない武士の間でたちまち大人気となり
その儲けで島民全員を糊して余りある米を買う事ができたと言う
そのとき島民が考案者である秀家に感謝を示す意味でこれを「宇喜輪」と名づけたことは
賢明な読者諸氏には既にお分かりのことであろう

なお八丈島宇喜多氏が「浮田」と改姓したのもこの頃であるが
これは宇喜輪の利益で軍備を整えた宇喜多の子孫が幕府に弓をひくのではないかと
危ぶむ幕閣の視線をそらすためであったという

さらに余談であるが、ドイツ起源の料理として今日著名な「ソーセージ」も宇喜輪に端を発する
遠州灘で宇喜輪を使って泳いでいる秀家にオランダ東インド会社の帆船が食料を売ったと言う記録があり
このときにオランダ人が腸をつなぎ合わせる料理の発想を得それをドイツ人が実用化したという
その証拠に「ソーセージ」を表す「腸詰」と言う単語は
オランダ人から体調を聞かれた秀家の「超つれえ」という日本語から来ているという話が
ドイツの限られたソーセージ・マイスターの間で口伝として残っている
0755人間七七四年2011/02/13(日) 18:33:21ID:pZRAq/J+
>>713
遅レスだが茂庭綱元の日記に、何かの祝い事のときに
政宗が紅白幕の模様の眼帯をしていたという記述があった
ということを本で読んだ覚えがある。アイパッチではなく
そういう柄の布を巻いていたかもしれない

0756人間七七四年2011/02/13(日) 18:45:50ID:DWwt4EEW
>>754
最後に民明書房が抜けてるぞ
0757人間七七四年2011/02/13(日) 19:00:25ID:zWWxnX9v
>>754
本当なのかどうか一瞬迷ったじゃねーかw
もうちょっとネタって分かりやすくしようよw
0758人間七七四年2011/02/13(日) 19:05:40ID:zQGldhXw
>>757
> 宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが

この一行目でさすがに解るだろw
0759人間七七四年2011/02/13(日) 22:02:15ID:iWpNnSfo
三連休で一生懸命考えたんだろうな
0760人間七七四年2011/02/13(日) 22:11:02ID:Tu25HnAN
>>757
0761人間七七四年2011/02/14(月) 01:15:23ID:puwfzaQQ
今年の大河ドラマ並みの逸話だな
0762人間七七四年2011/02/14(月) 01:18:57ID:rRCpTngr
織田のぶかね(変換できない)の知名度があがっただけよしとしようw
0763人間七七四年2011/02/14(月) 01:46:39ID:Zri1eYJe
>>748
本宮ひろ志が描いたジャンプの読み切り作品の「大飢饉」で土粥ってのがあったがそれなんかね?
0764人間七七四年2011/02/14(月) 02:31:31ID:gKCVeQYw
>>754ちょと面白かったぞw
0765人間七七四年2011/02/14(月) 06:57:58ID:a6DCbeqi
>>762
大坂の陣の直前に、突然死んで暗殺説もあるのに、これまでスルーされっぱなしだもんな
0766人間七七四年2011/02/14(月) 10:47:27ID:jQK1vxKn
武田氏を滅ぼした信長が、駿遠三遊覧で家康の接待を受けた時に家康とその重臣達にこんな話しをした。

信長「三河殿、古今の英雄と言われる人物は数多いるがあなたは誰が最も優れていると思うか」
家康「それは上様以外ござらりませぬ」
信長「余の事はおけ。小平次(酒井忠次)、そちはどうだ?」
忠次「安土様の破格の偉業には頼朝公も義満公も足元にも及びませぬ」

このように信長は居合わせた重臣一人一人に親しく問うたので皆感涙したという。

そして全員が信長こそが古今最も秀でた英雄と褒めちぎるなかただ一人、違う人物を挙げる男がいた。。。

信長「平八郎(本多忠勝)、そなたはどうだ?」
忠勝「それは我が殿、徳川家康公でございましょう。殿は仁篤く、臣下を慈しみ、戦に置いては勇猛、仮に上様がいなければ天下を統べるのは我が殿以外ござらん!」

これは歪曲して聴けば謀反とも取れる言いようであり、家康以下一同は仰天して腰を抜かし、中には今にも忠勝を切ろうとする者までいたが。。。

信長は嬉しそうに手を叩き上機嫌で忠勝を褒め囃し、天下統一成れば家康の陪臣として武蔵一国を宛がう約束をしたという。
信長の死により約束は反古になったが家中に面目を施した忠勝は死ぬまで息子達にこの話しを誇ったという。
0767人間七七四年2011/02/14(月) 10:57:14ID:6/+txjmT
東国無双カッコよすぎ
0768人間七七四年2011/02/14(月) 11:30:34ID:KfaXMPAt
発言と周りの反応から察するに徳川家臣団は信長の事嫌いだったんだろうなあ。
まあ自分の殿様が好き過ぎるんだろうけど。
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