天正の頃北条家が上州沼田城へ押し寄せた時のことである。

北条氏邦と芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。

この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して北条勢を突き崩した。

北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。


それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。

昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉は
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
 危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。

仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。