戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0553人間七七四年
2011/01/31(月) 22:36:04ID:41D0So/4猿叫とかロマンがあるしw
0554人間七七四年
2011/01/31(月) 22:38:09ID:aPF+rYWt0555人間七七四年
2011/01/31(月) 22:52:49ID:LYBF9Oms塚原卜伝の遺言!(>>529の続き)
卜伝「さて彦四郎に家督を譲ると申したが、ただ極意の一の太刀だけは
唯授一人として既に人に伝えてあるからお前に教えられないが
お前が別の者から習うというのは一向に構わない。
因みに私が伝えたのは伊勢国司の北畠殿だ、あの方の元に赴いて教えてもらうがよい。」
そう伝えると稀代の剣豪は畢命し、それを見届けた彦四郎はこの言葉を受けて思った!
彦四郎「嫡子として迎えられ家督までを受け継いだのに
卜伝の代名詞である一の太刀を受け継いでいないなんて世間に知られたら・・・
それよりも天下の兵法者卜伝の子として人に一の太刀を習うのは快からず。」
然しながら彼の足は悠々閑々と勢州へ向かっていた。国司北畠具教卿の元へ参じた彼は具教卿にこう申し出た
彦四郎「どうも塚原家を継いだ彦四郎秀幹です。
うちの父が廻国修行の際にそちらにお世話になってお礼方々一の太刀を伝授したそうですが
どうです?あの父のことですから本当の一の太刀を教えているかどうか判りませんよ?
そこでお互いの一の太刀を見せ合い確かめてみましょう。」
具教卿「そういわれるとそうですな、名案です。」
彦四郎「まず先輩からどうぞ、どうぞ。」
具教卿「では、これが私が授かった一の太刀です!続いて彦四郎殿もどぞ。」
彦四郎「あ、いや、その必要には及ばず、私が授かった一の太刀と寸分違いません
いや〜良かった良かった。」
こうして彦四郎は見事一の太刀を体得したのであった。
0557人間七七四年
2011/01/31(月) 23:27:49ID:zxPvfyzP結果そうなったのは逸話扱いしてもいい気がする。ここで扱う気はないが。
吉川英治、司馬遼太郎、子母沢寛、立川文庫とか
0558人間七七四年
2011/01/31(月) 23:31:37ID:9JlihqWt0559人間七七四年
2011/01/31(月) 23:34:09ID:Wx78/k/90560人間七七四年
2011/01/31(月) 23:57:46ID:daQSSwl+伊達政宗正室愛姫は1653年1月24日逝去した。享年86歳の大往生である。
時代はすでに承応、四代将軍家綱の世となっており、最後の戦国大名とも呼ばれた男の正妻の死は、
戦の世がまた遠くなったことを告げるものでもあったろう。
亡くなる数日前から体調を崩し床に臥していた愛姫は22日には危篤となっていたのだが、
夫の月命日の24日に死にたいと気力で長らえたのだと伊達家の記録は語る。
戦国を生き抜いた女性は強かった。
仙台市博物館には、孫の綱宗が愛姫の遺品として伝えた一通の手紙が今も大切に保管されている。
姫愛用の硯箱にしまわれていた宛名もなく文面も不明瞭なこの手紙は、政宗5歳の時の手習いの書なのだという。
この80年も前の書付がいつごろどういった経緯で愛姫の手に渡ったのかは不明だが、
夫の幼い筆跡を常に傍らに置き、時折取り出してはいとおしげに眺めたであろう老いた夫人の姿を思うと、
なんとも暖かい気持ちになる。
激動の時代、60年近い歳月を連れ添った夫婦の絆は特別なものがあったのだろうと思わされる手紙の話。
安西先生・・・奥さんがほしいです・・・(´・ω・`)
0561人間七七四年
2011/02/01(火) 00:24:00ID:POV5hbPU自分と関係が深かったり本人が直接身につけてた物とかじゃね?
故人が自分の顔も知らなかった頃の字の練習帳を大事にするってなんかピンとこないんだよな
夫婦の機微ってわかりそうでわからんのう
0562人間七七四年
2011/02/01(火) 00:35:56ID:EQ8OY2Clそりゃそうでしょみんな武将(領主)だもん
このへんの人らは剣豪じゃなくても名が残るでしょうよ
当時の連歌師みたいに芸で高名になってと言うと何人いるか…
0563人間七七四年
2011/02/01(火) 00:51:12ID:uBmv4cItその辺はもう政宗と愛姫だけにわかる世界だからな…
推測だが政宗も手習いの書を大事にしてたんじゃないか。
普通5歳の時のものなんてなくなっちゃうだろう。
0564人間七七四年
2011/02/01(火) 02:20:07ID:XjRxLqZ4私は武将の妻ではないけど、なんかわかるなあ、愛姫の気持ち。
たまらなく愛しいのよね、ちっちゃい頃の夫の何かって。
何ともいい話だなあ。
0565人間七七四年
2011/02/01(火) 07:21:52ID:3cPT4rgB0567人間七七四年
2011/02/01(火) 10:38:01ID:N2S4ysgFこういった価値観から薩摩拵という独特な拵えが生まれた。
薩摩拵(さつまごしらえ)
江戸時代の各藩は、武術流儀に最も適した各藩独特の拵を考案し実戦に備えていた。
薩摩拵もこのような主旨から発案された外装で、実用性を追求したため武骨な格好となっている。
この拵形式の根底には薩摩示顕流がある。
同剣法の掟に『平常は刀を抜くべからず、止むを得ず抜刀した場合には必ず相手を倒すべし』
とあるところから刀を抜かずに相手を倒すことを目的とするべく、
柄を太く長くして立鼓を取らず、厚手の牛革を巻いて漆をかけ、
さらにその上に糸か革紐を巻き締めて目貫を装着せず、鉄の縁頭で強固な作りとした。
同時に逆角の突起を凸形として帯から素早く抜けるようにし、
刀身を鞘に収めたまま柄頭で相手を直接攻撃したことからもその利点が判る。
鐔には鞘止と称される小穴が開けられているが、刀を無闇に抜かないことをおしえたもので、
この穴に針金や紐を通し鞘に固定していた。
ttp://www.weblio.jp/content/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8B%B5
0568人間七七四年
2011/02/01(火) 17:44:36ID:ISiT/pTP雑貨屋の女主人等を女城主に準えている・・町興しに都合の良い話・・
0569人間七七四年
2011/02/01(火) 18:25:29ID:wK5tAtTd0570人間七七四年
2011/02/03(木) 00:22:36ID:iW5CYElE北条氏邦と芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。
この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して北条勢を突き崩した。
北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。
それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。
昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉は
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。
仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。
0571人間七七四年
2011/02/03(木) 00:31:21ID:Vz6wvp4Q北条氏照と自分の先祖の墓造ってたな
http://www.takaosan.info/topics44.htm
0573人間七七四年
2011/02/03(木) 23:45:41ID:Zw24thxAそのおかげで若かりし西郷隆盛が真剣で直に斬られずにすんだ訳でして
刀としての機能以上に結果的には歴史の役にはたったみたい
0574人間七七四年
2011/02/04(金) 00:03:57ID:HPsaP5Mjいいんじゃないの、刀ってそもそも『斬る』ものじゃなくて、
『打つ』ものだし。
むしろ平安以来の本来の使い方に近いかもな。
0576人間七七四年
2011/02/04(金) 09:03:39ID:Xvroi6C8釣り野伏せ!?
0578人間七七四年
2011/02/04(金) 16:59:24ID:GAoRia6iその中で特に真壁道無なんて神道流を習ってた一武将ってだけだしね。
0579人間七七四年
2011/02/04(金) 20:18:09ID:rMNVI8uN他の将軍奉公衆を集めて迎え撃つことになり、両者は宇治住山(炭山)で激突した。
戦は細川方で歴戦の士として知られる細野壱岐守藤敦が焼働きを行い、動揺した三好党を藤孝が大いに攻め、勝利した。
「いやぁ藤孝殿。自身が武者働きしての勝利、お見事にござった!この藤敦も感服しましたぞ。」
「うむ。ご助力、感謝いたす。それにしても、付け火の火が収まらんのう。ちと、火を吹き飛ばすとするか。
おーい誰か!その辺にあるもので良い、何かあおぐものを探して参れ。」
家臣が持ってきた物であおぎ始めた藤孝を見て、物に慣れた藤敦も仰天した。
30年の歳月が過ぎ、京は吉田山に隠棲する細川藤孝改め幽斎を、同じく一線を退き高台院(北政所・ねね)の
警護等で日々を暮らす細野藤敦が訪れ、二人は往時を懐かしく語り合った。
「あのころ幽斎殿は、碁盤を団扇代わりに火をあおいで消すほどの怪力であったが、今はどうですかな?」
「いや、それはさすがに若いから出来たこと。今は何をしても人に劣るばかり。歌も一向に上手くなりません。
だが、心だけは昔に勝るように思いまする。」
幽斎は、ことさらに真面目な顔をして答えたという。
0580人間七七四年
2011/02/04(金) 21:00:29ID:s+cs36pL幽斎さんなら扇げると解ってても持ってかねーだろw
0581人間七七四年
2011/02/04(金) 21:21:47ID:TehIyN8s管領就任式を無事済ませた晩、謙信の枕元に平将門の亡霊が現れた。
将門は謙信に言った。
『その方、少々の武辺に奢り誰の断りをもって関東の霸者を名乗るか。。。』
『余は新皇、平将門なり。関八州は渡さぬ。。。』
これに謙信、
「余は都におわす日本国天皇の勅命を受けて関東の逆賊を討ち平らげよ、と天子からお言葉を戴いておる。」
『。。。』
「畏れ多くも新皇を語り朝廷を蔑ろにする貴様は許して置けん!!」
『!!!!』
謙信は叫ぶやいなや将門の首を一刀両断にした。将門は霧のように消えたという。
侍臣が書き残した書には謙信の刀にはまだ生温かい黒い血が流れていたと言う。
0582人間七七四年
2011/02/04(金) 21:44:20ID:AHg3mXtz0583人間七七四年
2011/02/04(金) 21:48:34ID:jt6nyCy90584人間七七四年
2011/02/04(金) 22:00:59ID:HPsaP5Mj0585人間七七四年
2011/02/04(金) 22:02:07ID:BrlVxj5C0586人間七七四年
2011/02/04(金) 23:46:42ID:4LqpgU1V0587人間七七四年
2011/02/04(金) 23:50:18ID:+hUDptWO0588人間七七四年
2011/02/05(土) 01:00:47ID:IuImS5zS実はこちらと重複ですな。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html
0589人間七七四年
2011/02/05(土) 07:11:22ID:f5N0zaKD滝川一益「信長様です」
0592人間七七四年
2011/02/05(土) 14:20:00ID:aXJbtTz/そんなある晩、道真の夢枕に龍神が現れた。
「道真、明朝一番に会った者を人身御供として差し出せ。そうすれば神の力で城はすぐに完成するだろう…」
「マジで!?わかりました!」
毎朝一番に自分に会いにくる愛犬を少し可哀想に思いつつ、龍神と約束をした。
翌朝。
「犬ジャネ━━━(゚д゚;)━━━!!」
愛娘の世禰(よね)姫が来た。
「夢に龍神様が現れてry…私が生贄になります!」
道真と同じ夢を見たというのだ。
しかし、可愛い娘にはそんな事させられない。龍神を怒らせてしまってもだ。
「ゆ、夢なんか気にしなくていいって!生贄とかなにそれこわい」
思いとどまらせようと道真は必死に説得するが、世禰の決意は固かった。世禰は館を抜け出し、城の完成を祈りつつ七ツ釜に身を投じた。
まもなくして、城は完成したという。
あるとき、河越城が攻められた。
堀のあたりに敵兵がやってくると、どこからともなく霧が発生し、それは集まって雲になった。
風も吹いて辺り一面真っ暗になり、ついには洪水も発生した。敵はすっかり混乱し、退散したという。
これらの現象、太田道灌が城の堀に棲む主に起こさせたらしい。
河越城の危機を救った堀の主の名は「ヤナ」。
よねが(人として、怪物ヤナとして?)太田親子の危機を救ったいい話。
0593人間七七四年
2011/02/05(土) 14:30:38ID:DUf7I7Agエフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を
主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。
エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。
彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、
お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりに
してください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。
0595人間七七四年
2011/02/05(土) 14:47:31ID:DUf7I7Ag自分の知り合いのフロイスよりずっとましな宣教師は
「エフタはおそらく使用人を念頭に神に誓ったのでしょう。
同胞の命を軽んじた彼に対し神は罰を与えたのです。
アブラハムがイサクを神に捧げようとしたときの故事からもわかるように、
神は人身御供など求めてなかった、ただ彼が悔い改めることを望んでいた
しかし彼はおろかにも娘を捧げてしまった」
と旧約の神を新約っぽく解釈してた。
戦国時代の宣教師もこの人身御供をつかれたら痛かっただろう
0596人間七七四年
2011/02/05(土) 15:53:12ID:mSJNP5TH0597人間七七四年
2011/02/05(土) 17:09:42ID:kcb+0ipPそれとも越後のやらないかに退治されて消えちゃったのか
0598人間七七四年
2011/02/05(土) 17:33:54ID:xDxlLu1W0599人間七七四年
2011/02/05(土) 17:39:19ID:nMkOj5Jp「皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いをかけた御方とされているから
成り上がりの代表とされる超時空太閤に味方するのはありえるかもな。
0601人間七七四年
2011/02/05(土) 18:35:38ID:TkP48Y3Hすると秀吉の北条征伐の裏では崇徳院vs平将門の二大怨霊バトルがあったのかねぇ?
実は鶴松が死んだのは将門公の呪いだったりして・・・
0602人間七七四年
2011/02/05(土) 19:22:32ID:OGRuMlVlなんだこの戦国帝都大戦
0603人間七七四年
2011/02/05(土) 20:04:06ID:Dr3q4v6+家康公に味方して大坂の猿軍団を滅ぼしたじゃないですか。
0604人間七七四年
2011/02/05(土) 20:09:12ID:ARP3XR5n(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-85.html)
「物事を決めるときには、何に気をつけなければならないのでしょう」
「簡単です。ただ、ゆっくり考えればよい」
「では、何を特に考えるべきでしょう」
「決断の基本は仁愛です。
仁愛さえあれば、その決断が適切でなくともひどくはずれることはないものです。
しかし、仁愛がなければ理屈は通っても誤りなのです」
隆景は信義を重んじ、一度言ったことを曲げたりしなかったという。
0605人間七七四年
2011/02/05(土) 20:41:35ID:mSJNP5TH小早川隆景は悪く言われることがあまりないね。
武田信繁、立花宗茂もそうだけど、
常に良い人間であろうとすれば、
外れないものなのかもしれない。
でもそれが難しいw
0606人間七七四年
2011/02/05(土) 20:44:24ID:rZl4ESM8> 小早川隆景は悪く言われることがあまりないね。
宇喜多直家「小早川隆景って奴は全然信用できんね」
小早川隆景「俺もお前を全く信用できんね」
0607人間七七四年
2011/02/05(土) 20:49:22ID:kcb+0ipP0608人間七七四年
2011/02/05(土) 21:01:46ID:mSJNP5TH良い悪いは置いといて、謀略家は徹底した善人は苦手だよな。
謀略は人の欲につけこむものだから
0612人間七七四年
2011/02/06(日) 11:11:39ID:yeraT44+「全ての人に好かれる者は必ずしも可ではない。。
皆に憎まれる者も可ではない。
善人に好かれ、悪人には憎まれる者こそ良き人物と言える」
とあるけど、隆景さん当てはまってるよ
0615人間七七四年
2011/02/06(日) 18:22:42ID:OUHiBTAb0617人間七七四年
2011/02/06(日) 18:34:17ID:0TEiG2zq「父上。忠恒、ただ今参りました。私が来たからには、もうご安心ください。」
「ああ…頼む……」
(うーん、元気が無いな。この地で兄者を亡くしたのが、まだ堪えておるのか……そうだ!)
同月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い、晩も忠恒の陣屋で食事をとるよう勧めた。
「ぜひお越しください。少々、変わった趣向を用意しましたので。」
「変わった趣向じゃと?…おお、これは!」
忠恒の陣屋には、日本のそれと遜色ない立派な蹴鞠の庭が造られており、その庭で忠恒と近習たちが、
京滞在中鍛えた蹴鞠の腕前を、義弘の前で披露した。
「あっはっはっはっ!見よ見よ、忠恒め、いつの間にこれ程に腕を上げたのじゃ!」
(良かった!お元気になられたようだ…)
好評だったのか、忠恒は同月9日にも義弘のほか島津豊久・忠長等の見守る中、蹴鞠を行なっている。
…ので、名護屋で送迎船待ってた約40日のうち、晴れたら蹴鞠って遊んでたのは、黙っといてあげて下さい。
それにしても、自分の主人のことを「いつも蹴鞠ってやがる。(御鞠如常)」とか書いたり、
「今日は何も無かったです。(何たる儀無之候)」とか書いた次の行で「晩に盗人、成敗被成候。」
とか言ってる、元ネタ書いた面高連長坊はマジ大物だと思います。
0618人間七七四年
2011/02/06(日) 18:36:28ID:7nQWEAC40619人間七七四年
2011/02/06(日) 18:38:34ID:OUHiBTAb書状で注意を受けた、て書いてたのに
その後義弘が蹴鞠好きになった、ということか
0620人間七七四年
2011/02/06(日) 18:48:35ID:yctrOdOk日頃は口うるさく注意してたとしても
実際に息子が自分のところに来てくれて
上達したギターの腕前を披露してくれたら
嬉しくて泣いちゃうかもしれないだろ?
そういうことだ
0622人間七七四年
2011/02/06(日) 18:53:32ID:CTv09xKa0623人間七七四年
2011/02/06(日) 19:10:23ID:ATDiyX5d義弘も楽しんだふりをしてやったんだろう
大将が沈んでると兵に影響するしそういう心遣いも大将の心得だよ
0624人間七七四年
2011/02/06(日) 19:14:15ID:yU6tyuIK0625人間七七四年
2011/02/06(日) 19:19:49ID:GYLw/rhX0628人間七七四年
2011/02/07(月) 02:00:06ID:yKJ6OsOL0629人間七七四年
2011/02/07(月) 02:06:33ID:LWy4hYOE長政怒って取っ組み合い→
黒田官兵衛苦笑い
0630人間七七四年
2011/02/07(月) 03:20:36ID:3SXgXmWZ北条 vs 小弓公方+里見で行われた第一次国府台合戦の時の話。
北条方の武士・伊山助四郎と江川兵衛大夫という二人が先駆けを行い、公方方の武
士と戦った。
助四郎、兵衛大夫ともに相手を討ち取りはしたのだが、やはり相手も軍の先頭を駆
ける勇者である。助四郎は重い傷を負ってしまう。
それを見た兵衛大夫は、
「助四郎、無理をするな。その傷ではこれ以上進む事は出来ぬだろう……というか、
取った首を抱えて歩く事すら難しいのではないか?鼻のみを削ぎ、鎧の上帯に挟ん
で帰ると良い」
「馬鹿言うな!お前は俺に、この手柄をふいにしろと言うのか!?」
この頃、北条家の軍法では、鼻を持ってきても手柄とは認められなかった。
雑兵の鼻を削いで兜首と偽ったり、酷い時には味方の戦死者の鼻を削ぐ者まで居た
からである。
手柄と認められない所か、そのような卑怯な真似をする人間だと見做される恐れが
あったのだ。
「安心しろ、首実検の際には俺がちゃんと証言してやる。もしもお前が帰り道で死
んじまっても、俺は間違いなく、お前の手柄を報告してやるとも」
そう言いながら、兵衛大夫は自分の討ち取った相手の鼻を削ぎ始める。
「おい、仮に俺が鼻を持って行ったとしても、お前まで付き合う事はないだろう。
お前はちゃんと首を持って行けよ!」
「俺はこれから、もう一度敵陣に突っ込んでくる。そん時に取った首をぶら下げて
たら邪魔で仕方ねぇだろう?だから俺も鼻を削いで行くんだよ。もしもの時は俺の
手柄をお前が証言してくれよ。もしも検使がお前の手柄を認めないって言うなら、
俺がこれから取ってくる首をお前にくれてやるさ」
そう言い残し、兵衛大夫は再び敵陣へと走り去った。
暫くの後、兵衛大夫が一つの首と一つの鼻を持って本陣へと帰ってきた。
彼は首実検の場に直行し、助四郎とのやりとりを証言。そして二人の取ってきた鼻
を手柄と認めてくれるよう、検使の山中修理亮に迫った。
「何を興奮している。認めるも何も、ホレ、これを見てみろ」
と、味方の手柄を全て記した首帳を兵衛大夫の前に示した。
そこには
『伊山助四郎 首一つ』
『江川兵衛大夫 前後首二つ』
と既に記されてあった。
「助四郎が重傷を負いながらも帰ってきて、お前とのやりとりを全て説明してくれ
たよ。それを横で聞いておられた氏綱様が、『兵衛大夫が帰ってくるのを待つ事は
ない。首二つの手柄と記してやれ』と仰られたのだ」
官僚組織が発達し、法治国家として他国をリードしていた北条家。
法の適用は意外に柔軟だったようです。
0631人間七七四年
2011/02/07(月) 03:31:41ID:c4EXQvxV助四郎と兵衛大夫は床を共にし、
交わりを交わしたとされています。
0632人間七七四年
2011/02/07(月) 19:00:31ID:0c1F5dkvある城攻めにおいて、大谷吉継の部隊が仕寄り(城攻めのための足場)を構築していたときのこと。
この妨害のために城方から大いに攻撃を受けた。
吉継はそんな中でも前線で指揮をしており、これを心配した家臣のある者が、このように申し上げた
「ここは矢弾がたくさん来る場所です。どうか後方に退いてください。」
吉継はそれを聞くと、その場で立ち上がりこの者に言った
「運命の矢は、いつも一本だけだ」 (運の矢は一本のものよと被申候由)
そして、決して後方に下がろうとはしなかったと言う。
なんとなく大谷吉継の死生観が見えてくるようなお話。
0633人間七七四年
2011/02/07(月) 22:56:41ID:bQxQ1j6d___
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/ (● ) (● ) \ え・・・いきなりそんなこと言われても・・・////
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0634人間七七四年
2011/02/07(月) 22:58:16ID:y0jDoS8c0635人間七七四年
2011/02/08(火) 01:16:32ID:38LElsq70636人間七七四年
2011/02/08(火) 01:53:27ID:DFM4gp7H> 数日後、
>
> 助四郎と兵衛大夫は床を共にし、
>
> 交わりを交わしたとされています。
それで助兵衛ってオチかい?
0637人間七七四年
2011/02/08(火) 02:01:45ID:VYjO1Xrx0638人間七七四年
2011/02/08(火) 02:17:22ID:Uobkgw+M出来た言葉な。
0640人間七七四年
2011/02/08(火) 14:18:12ID:8aXi7oFG戦闘継続が困難なくらいの深手を負ってるのに数日後にはもう床を共にするってタフだなーと
しょうもない所で感心してしまった
0641人間七七四年
2011/02/08(火) 15:35:55ID:uNF3fNQA0642630
2011/02/08(火) 15:53:02ID:d07GTLhv出典の『小田原北条記』にもそのような話は出ていません。
631氏のネタだと思います。
念のため。
0643人間七七四年
2011/02/08(火) 16:50:31ID:Zo8rXred0645人間七七四年
2011/02/08(火) 19:56:51ID:VeeRXdho【殿中】
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ノlハヾヽ /_(;'-ω)7っ ソ バヽ( ( く ソ ノ < \ , - 、_)lノ/7っ
<ノ l_」」 ιヾミ<^)《^) 〈_ノノヽ_>」ヽ_> <_ノノ 、_> <_と[_l l彡'´
0649人間七七四年
2011/02/09(水) 00:09:46ID:S201hNb9曽根内匠助昌世と言えば。武田信玄に仕え信玄から直接軍学や築城術を学んだとされ、
後蒲生氏郷のもとで会津若松の縄張り、町割りを行うなど、この時代でも特に有能な武士として
有名な人物であった。
さて、その曽根内匠は晩年、先代の伊達政宗のもとに寄宿した。
そこで政宗は嫡男の越前守(当時)忠宗なども呼び、曽根内匠の武辺話を聞かせた。
さて曽根の武辺話が始まってしばらくすると、忠宗が座を立った。
政宗はこれを見て
「どうして座を立つのだ?」
「はい、小便に行きたくて…」
これを聞いて政宗は激怒し
「よいか!武士と申すものは微変話を聞いているときは、我を忘れ、気づかぬうちに
小便を漏らす、という程のものなのだ!
どうしても小便がしたければ、その場で垂れ流せ!!!」
と、忠宗を叱りつけたという。
…とまあ、竹中さんのところとどっちが先だったんでしょうね。このお話。
0650人間七七四年
2011/02/09(水) 00:11:45ID:HueWbSDM・・・まさかそのせいで
0652人間七七四年
2011/02/09(水) 00:20:07ID:XcI70Dyk軍議や戦の際に厠へ行かなくて済むような道具を発明することを思い付いた
しかし、自らの手では出来なかった為に、陸前国伊具郡の洋学者を訪ね、四年の月日の後に開発されたのが、
御陸奥(おむつ、昔はその使用法から御絞めと言った)
伊達家代々に伝わる地場産業となったのである
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