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戦国ちょっといい話24

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0001人間七七四年2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0488人間七七四年2011/01/30(日) 00:01:08ID:JVfJIQob
>>485
それ書き込んでる間にググりゃいいだろ
ハルノート知らんの?
0489人間七七四年2011/01/30(日) 00:02:14ID:apT+Uz4B
謙信の話をすると頭おかしい信者とアンチがわんさか沸いてきて荒れるからやめて
0490人間七七四年2011/01/30(日) 00:03:05ID:iVxyLjqZ
>>487
考えるな感じろ
0491人間七七四年2011/01/30(日) 00:14:10ID:X0dbjm7V
>>490
不識庵を名乗る御仁だからな。
だって「不識」だぜ。
考えるより感じる武将なのだろう
0492人間七七四年2011/01/30(日) 00:30:22ID:6NI8u9rP
毘沙門天じゃなくて化身である俺のことを直接崇めろ!とか言ってるし、
謙信はガチで自分のこと毘沙門天の化身だと思ってた節があるしなぁ。サイコすぎる
なのに戦は超絶強いから始末に負えん。こんな変人に絡まれてボコられまくった信玄には同情を禁じえない
いっそ謙信が天庵様なみの能力だったら越信・関東は平和だったろうに
0493人間七七四年2011/01/30(日) 00:49:56ID:9Fh1EzjG
三国峠を超えて関東に攻め込む天庵の雄姿…見たかったなあ…
まあ沼田城あたりでUターンだろうけどw
0494人間七七四年2011/01/30(日) 01:01:56ID:gy/vP7ah
>>493
つかそれ以前に無能すぎて兄から家督を奪取できるとは思えんが
0495人間七七四年2011/01/30(日) 02:51:13ID:sLS/3Hgm
>>494
あの不思議な人望で奪いとるのさー
0496人間七七四年2011/01/30(日) 08:43:56ID:4zFWptO1
この不思議な人望へようこそ
君は  TOUGHBOY TOUGHBOY
時はまさに戦国〜
小田城で僕らは出会った
0497人間七七四年2011/01/30(日) 10:28:44ID:8WAwhxcX
>>487
空を飛びたかったんだよ(宗教的な意味で)……。
0498人間七七四年2011/01/30(日) 11:25:10ID:hEiJebmB
>>492
しかも商才があるから尚のこと厄介
あんだけ四方八方に遠征してそれでも大量の金を残してたっていうんだから
0499人間七七四年2011/01/30(日) 11:31:40ID:eRqCtBNi
佐渡の金山はまだ本格的には採掘してないってか、まだ統治してないっけか?
詳しくないからいい加減なことはいわないでおこう・・・
0500人間七七四年2011/01/30(日) 12:27:13ID:0D/7hF+i
佐渡制圧は景勝の時代じゃなかったっけか。
0501人間七七四年2011/01/30(日) 12:39:32ID:3OYch8ng
花の慶次ではそうだったが、ホントのとこはどうなんだろう

>>498
関羽みたいに商売の神様になってもおかしくないよなあw
0502人間七七四年2011/01/30(日) 12:40:59ID:4Emvb3Sd
1589年なのでホントの所も景勝時代
0503人間七七四年2011/01/30(日) 12:46:03ID:WIRJXJzA
花の慶次でそんな話があったな。
0504人間七七四年2011/01/30(日) 12:56:03ID:X0dbjm7V
>>492
思い込みが強さの理由のひとつかと。
南無阿弥陀仏の一向宗の強さと同じ理由で
0505人間七七四年2011/01/30(日) 15:25:32ID:NvEgYGjA
>>497
つ タケコプター
0506人間七七四年2011/01/30(日) 16:19:18ID:6thTGywp
日本海側の交易で潤ってたらしいな
金融政策に関してだけは、金山掘って、掘りつくしたら、衰退してく
武田よりも評価していいと思うのだが・・・
0507人間七七四年2011/01/30(日) 16:35:48ID:6NI8u9rP
おいおい、日本有数の穀倉地で海に面した越後と山しかないド田舎の甲斐だぞ?
元々の経済地盤にとんでもない開きがあるってことを考えてくれよ
むしろ武田家はあんな貧弱な土地でよく頑張った方だと思う
0508人間七七四年2011/01/30(日) 16:41:25ID:a2lZTA/3
武田さんちは、金が取れてお金持ちかと思ったんだけど違うの?
0509人間七七四年2011/01/30(日) 17:05:01ID:Z/Ti5yN4
勝頼の頃には金が取れなくなったからお金持ちじゃなくなった
0510人間七七四年2011/01/30(日) 17:18:49ID:a2lZTA/3
ん?徳川になってからは金取れてたよね、甲斐の国。
もしかして長安さん何かやったの?
0511人間七七四年2011/01/30(日) 17:33:02ID:BrtZivF/
>>510
長安さんは枯れたとされた金銀の鉱山に、天正19年(1591)ごろ日本に伝わったとされる、
新しい精錬法である『南蛮絞り』をつかって復活させた。
0512人間七七四年2011/01/30(日) 17:39:39ID:BrtZivF/
ちなみに南蛮絞りについて
http://www.sumitomo.gr.jp/history/word/index05.html

現在の住友グループ成立の源流もこの技術から
0513人間七七四年2011/01/30(日) 18:40:02ID:3OYch8ng
横穴掘りのアマルガム製法だっけか、「捨て童子松平忠輝」で覚えた
0514人間七七四年2011/01/30(日) 21:13:06ID:THbnWOtE
越後が豊かな穀倉地帯になったのって江戸時代からじゃないの?
0515人間七七四年2011/01/30(日) 21:15:14ID:NvEgYGjA
>>507
その頃はコシヒカリや農林なんとかはなかったから、寒い越後で米なんかとんでもない!
とかなんか読んだ気がするんだけど実際はどうなんだろうね。
0516人間七七四年2011/01/30(日) 21:23:16ID:C57A0UIv
寒い越後を豊かな穀倉地帯にした重農主義と、農民たちのいい話ってことで落着
0517人間七七四年2011/01/30(日) 21:25:02ID:fxVtuhGE
>>514
そう、戦国時代だと農業的には40万石の中流国
0518人間七七四年2011/01/30(日) 21:46:46ID:0D/7hF+i
特産物と日本海貿易で勝ち組なのは変わらんけどね。
0519人間七七四年2011/01/30(日) 21:54:27ID:zbygqi2D
当時の越後人は、川と潟の湿地帯のごく一部を細々と耕作して暮らしてた。
雪は物凄いし到底勝ち組じゃない。
0520人間七七四年2011/01/30(日) 22:08:19ID:KMMz36Y7
日本の7割は山地だし、甲斐・信濃だけが特別貧しいって訳じゃないな
0521人間七七四年2011/01/30(日) 22:13:18ID:m3rTyT3a
山地には山地の利点もあるんだけど、やっぱ往来は不便だな。
0522人間七七四年2011/01/30(日) 22:17:47ID:BrtZivF/
>>520
信濃は当時穀倉地帯だったはず
0523人間七七四年2011/01/30(日) 22:59:58ID:fxVtuhGE
穀倉地帯は言いすぎ
寒冷地で日照が少ないところも多いが
水が豊富で耕作に適した山辺が多く、他地方と比べて貧しいとまではいえない
くらいにしとけ
0524人間七七四年2011/01/30(日) 23:38:10ID:JAyDqGvd
徳川家康は五大老の一人で自身に次ぐ存在だった前田利家が病死すると、同じ五大老だった上杉景勝に謀反の疑いをかけ、
討伐の為に会津に向けて出陣した。しかし、駿府に到着してからは鷹狩に明け暮れて一向に動こうとはしなかった。
見かねた本多忠勝は
「こんな調子では畿内で反乱が起きますぞ。」

と忠告すると、家康は忠勝の口を手で塞ぎ、
「黙れ。こうしているのは、ワシをうつけと思わせて反乱を起こさせ、それを打ち破る為だ。
 さすれば天下は我が物となり、お前も一国の大名だ。」

と一喝した。結果、思惑通りに石田三成が挙兵。関が原にてこれに勝利した事で家康は天下を手中にしたのだった。
以上、家康の狙い通りに天下を取ったお話。
0525人間七七四年2011/01/30(日) 23:45:46ID:LlLWY3Lk
行きは駿府に一泊しかしてないし、
帰りは忠勝先発隊にいたんだけどね
0526人間七七四年2011/01/30(日) 23:48:11ID:KMMz36Y7
>>524
>お前も一国の大名だ


完全にダウト
そもそも譜代には誰にも一国与えてないだろw
0527人間七七四年2011/01/31(月) 00:44:10ID:jTmn98yv
まあ逸話だし。家康のやるやる詐欺はいつものことだし
0528人間七七四年2011/01/31(月) 01:41:34ID:kd3pubkB

鍋島勝茂が自宅に客を招き、食事を振舞う機会があった。
その客は、兼ねてから噂に聞いていた事を直接、勝茂にぶつけてみる。

「鍋島殿は鶴料理を食べただけで、白い鶴か黒い鶴か、見抜く事が出来ると伺って
おりますが、それは本当の事なのですか?」
「ええ、仰る通り。繊細な味の違いを比べれば、見分ける事など簡単に出来ますよ」
「おお、それは面白い。それでは只今振舞われたこの料理、これは白鶴ですか?そ
れとも黒鶴なのでしょうか?」
「うむ、この料理は……鶴に似てはいるが鶴ではない。ズバリ真鴨ですな!!」

興に乗った亭主と客。どこまで本気なのか、ポンポンと軽口が飛び出してくる。

「ほう、それでは答え合わせと参りましょうか。給仕方の者をお呼びいただけます
かな?」
「承知しました。……おい、吉左衛門を呼んで参れ」

実は襖の裏に控えてこのやり取りを聞いていた福地吉左衛門、慌てて台所へと取っ
て返した。


「……中々参りませんな」
「今日はそんなに忙しいとも思えぬのですが……おい、吉左衛門はまだか?」

「おまらせいらしましらぁ〜〜〜〜」

漸く御前に出てきた福地吉左衛門、フラフラと怪しい足取りで、呂律は完全に回っ
ていない。
明らかに泥酔していた。

「なっ、何をやっておるのだ!?」
「きょーのおりょおりわぁ〜〜、つる? しろ……かも? くろ…かも、ま……かも?
アハハハハハッハッ!!」

ベロンベロンに酔った吉左衛門はまともに会話が成立しそうにない。


先程、勝茂と客のやりとりを聞いた吉左衛門、慌てて台所に行き、大急ぎで酒を大
量に飲み干したのである。
家臣の醜態を取り繕い、客にひたすら謝り倒す勝茂。
そしてその陰でうやむやになってしまった「白鶴か、黒鶴か」という問い。


佐賀武士に取っては主君に恥をかかせる事が一番いけないのである。
家臣の恥なら家臣が腹を切れば済む事なのだ。
勝茂が答えを外しても、酒の席での笑い話じゃないか、などとは考えない。
つまり、吉左衛門にとっては「答え合わせ」をさせない、という事が最優先事項だ
ったのである。

三河武士とは違う方向に面倒臭いシグルイの人々。
「家臣が客の前で粗相するのは主君の恥にはならんのか?」
とか
「じゃぁ家族や家臣からの駄目出しはちょっと控えてあげようよ」
とか言ってはいけないのである。多分。
0529人間七七四年2011/01/31(月) 02:42:40ID:LYBF9Oms
塚原卜伝、後継者を選ぶ

この世に生を受けてより三十九度の合戦に挑み、真剣での立会いを行うこと十九度
木刀においては立ち会うこと数知れず、斬って捨てた者の数二百十二人と言われ
その間刀槍にての傷はなく僅かに六度の矢傷を被るのみと言う
戦国乱世を剣一本で渡ったこの男にもその生涯に幕が下りようとしていた。
己の死期を悟った卜伝は、家督を立てようと養子三人を試すことにした
何れも実子のいない卜伝に剣の腕を見込まれて養子になった者達であった。
さて卜伝は自室の入り口の暖簾の上に木枕を仕掛け、部屋に入ろうと暖簾を捲くると
木枕が落ちてくるように仕掛けておいてまず長男を呼び出した。
長男は部屋の前で立ち止まり「見越之術」を用いてこの木枕を取り除き
何事もなかったように部屋に入り座った。
 (以見越之術見付之、取其木枕而入座也)
卜伝はまた木枕を先程のように仕掛けて次男を呼び出した
次男は部屋に入ろうとしたが木枕が落ちてきたのを察すると飛び退いてこれ(木枕)を避け
己の刀に手を掛けたが、木枕であることを確認すると気を静めて座った。
 (二男開弈時木枕落、飛去懸手於刀、慎而入座也)
そして卜伝は三度同じように仕掛けを施し三男を呼び出した
三男は暖簾を潜ろうとするなり落ちてくる木枕を、地に付く前に刀で斬り、それから座った。
 (開暖簾之時木枕落、忽技刀斬之於中而入座也)
卜伝は二男と三男の二人に怒りながらも諭した
「お前達木枕ごときに驚いてどうする?常在戦場の心で先々の事を見越していないからだ
彦四郎(長男)のみが不測の事態に心を動かさず
これ(見越之術)を知るところであったので彼に家督を譲る」

孫子の勝兵先勝而後求戰に通ずる教えである。
0530人間七七四年2011/01/31(月) 05:16:21ID:iAxPTM0c
3人が比較されるというと、なんらかのオチを期待してしまったが、何も無かったw
0531人間七七四年2011/01/31(月) 05:47:10ID:X2FDwo3J
見越之術って透視能力なのか?
0532人間七七四年2011/01/31(月) 05:56:01ID:KdOYAL5W
宮本武蔵を筆頭に剣豪と呼ばれてる奴らは総じて胡散臭い

上泉信綱くらいしか信用できん

0533人間七七四年2011/01/31(月) 10:27:15ID:sakEqEon
よりによって一番神格化された怪しいやつを信用すんなよw
0534人間七七四年2011/01/31(月) 11:31:11ID:BqR74IDU
松山主水「信用出来るのは俺の二階堂平法だけだな」
0535人間七七四年2011/01/31(月) 13:26:55ID:41D0So/4
>>532
宮本武蔵はいろいろ言われるが、
五輪書と絵画を見るとハッタリの剣豪とは思えない迫力があると思ふ
0536人間七七四年2011/01/31(月) 13:56:13ID:jTmn98yv
剣豪の逸話って誇大になりがちだから、何もかもでたらめだと決め付ける奴が多い
でも武蔵が細川家に厚遇されたり、合戦に参加したのは紛れもない事実
少なくとも、あの当時武蔵の有名が轟いてたのは間違いないだろう
0537人間七七四年2011/01/31(月) 14:00:45ID:LnXnczcC
>>528
珍しく叱られない話だが、家臣の機転の利かせ方が明後日に行ってるなあ
0538人間七七四年2011/01/31(月) 18:56:39ID:sakEqEon
>>536
厚遇ねw
忠興と忠利の数千通の往復書簡の中に
ただの一度も宮本武蔵に比定できる名前は出てこないけどねw
0539人間七七四年2011/01/31(月) 19:01:35ID:X2FDwo3J
松山主水はべた誉めされてるのになw
0540人間七七四年2011/01/31(月) 19:11:20ID:+PknxsYn
柳生十兵衛「宮本武蔵殿などほとんど創作でござるよ」
0541人間七七四年2011/01/31(月) 19:25:19ID:rg3GBomV
>>540
何という懐の深さ…これが柳生の無刀の構えか…。
0542人間七七四年2011/01/31(月) 19:32:24ID:J5Hp/DzU
江戸時代みたいに平和な時代だと剣豪はもてはやされるかもしれないが
戦国時代の戦場だと無名の農民にも討ち取られる可能性が・・・
そもそも刀自体あんま出番ないし

そういえば武蔵は島原の乱に勇んで参加したけど、石落とされて負傷リタイア
だったな
0543人間七七四年2011/01/31(月) 19:57:05ID:o56Yi92Y
剣豪と言っても、
ピンからキリまでだからな。
義輝や具教は除くにしても、
上泉や柳生、真壁、富田あたりは、
剣豪以外で実績を残していたりするし。
0544人間七七四年2011/01/31(月) 20:40:59ID:kLBARefx
丸目「仲間に入れてください」
0545人間七七四年2011/01/31(月) 21:00:22ID:ZfiD3iZx
憲法色で名を残した吉岡は異色だよね。
0546人間七七四年2011/01/31(月) 21:03:41ID:41D0So/4
>>538
まあでも、宮本武蔵は各地に足跡残ってて、
何処に行ってもそれなりの持て成しを受けているのも事実だからなあ
0547人間七七四年2011/01/31(月) 21:30:58ID:Y0KDc7St
>>544
お前ちょっと畑耕しただけだろ
0548人間七七四年2011/01/31(月) 21:52:08ID:LRVg2V3F
東郷先生の事も思い出してあげてください
0549人間七七四年2011/01/31(月) 22:22:25ID:g8fMUI+h
>>488
なるほど、ハル・ノートのハルさんなのね。
てっきり戦国武将のニックネームかと……
0550人間七七四年2011/01/31(月) 22:23:46ID:qgvI2/ag
東郷さん後年は鎖で刀を封印したんだよな
示現流は刀を抜くだけで人が死ぬからダメ絶対
抜かずして勝つのが至高の勝利とか言って
弟子にも免許ついでに同じ事を強要してるし
剣客としてそれはいい話なんだろうか?
0551人間七七四年2011/01/31(月) 22:26:19ID:dGA99R2S
中島敦の「名人伝」みたいだ
0552人間七七四年2011/01/31(月) 22:31:44ID:g8fMUI+h
そんな刀を持ち歩いて、意味があるのかなあ?
0553人間七七四年2011/01/31(月) 22:36:04ID:41D0So/4
東郷さんから始まった示現流は幕末に至ってまで結果出したから良いんじゃね?
猿叫とかロマンがあるしw
0554人間七七四年2011/01/31(月) 22:38:09ID:aPF+rYWt
まあ、示現流の猛攻なら鞘でも充分危険な気がするがw
0555人間七七四年2011/01/31(月) 22:52:49ID:LYBF9Oms
>>530 オチと言うか続きはあります

塚原卜伝の遺言!(>>529の続き)

卜伝「さて彦四郎に家督を譲ると申したが、ただ極意の一の太刀だけは
   唯授一人として既に人に伝えてあるからお前に教えられないが
   お前が別の者から習うというのは一向に構わない。
   因みに私が伝えたのは伊勢国司の北畠殿だ、あの方の元に赴いて教えてもらうがよい。」

そう伝えると稀代の剣豪は畢命し、それを見届けた彦四郎はこの言葉を受けて思った!

彦四郎「嫡子として迎えられ家督までを受け継いだのに
    卜伝の代名詞である一の太刀を受け継いでいないなんて世間に知られたら・・・
    それよりも天下の兵法者卜伝の子として人に一の太刀を習うのは快からず。」

然しながら彼の足は悠々閑々と勢州へ向かっていた。国司北畠具教卿の元へ参じた彼は具教卿にこう申し出た

彦四郎「どうも塚原家を継いだ彦四郎秀幹です。
    うちの父が廻国修行の際にそちらにお世話になってお礼方々一の太刀を伝授したそうですが
    どうです?あの父のことですから本当の一の太刀を教えているかどうか判りませんよ?
    そこでお互いの一の太刀を見せ合い確かめてみましょう。」

具教卿「そういわれるとそうですな、名案です。」

彦四郎「まず先輩からどうぞ、どうぞ。」

具教卿「では、これが私が授かった一の太刀です!続いて彦四郎殿もどぞ。」

彦四郎「あ、いや、その必要には及ばず、私が授かった一の太刀と寸分違いません
    いや〜良かった良かった。」

こうして彦四郎は見事一の太刀を体得したのであった。
0556人間七七四年2011/01/31(月) 23:25:59ID:lF4Ucjyr
>>542
首切り茂吉のコピペを思い出した。
0557人間七七四年2011/01/31(月) 23:27:49ID:zxPvfyzP
講談士や小説家に、人々の歴史認識を塗り替えようという気はなかったろうけど、
結果そうなったのは逸話扱いしてもいい気がする。ここで扱う気はないが。

吉川英治、司馬遼太郎、子母沢寛、立川文庫とか
0558人間七七四年2011/01/31(月) 23:31:37ID:9JlihqWt
心技体を磨いてくと、人を切るってことの意味とかになっちゃうからなぁ〜
0559人間七七四年2011/01/31(月) 23:34:09ID:Wx78/k/9
剣豪の北畠や足利も忘れないであげてください。
0560人間七七四年2011/01/31(月) 23:57:46ID:daQSSwl+
今日は愛妻の日だったそうなので夫婦の話。

伊達政宗正室愛姫は1653年1月24日逝去した。享年86歳の大往生である。
時代はすでに承応、四代将軍家綱の世となっており、最後の戦国大名とも呼ばれた男の正妻の死は、
戦の世がまた遠くなったことを告げるものでもあったろう。
亡くなる数日前から体調を崩し床に臥していた愛姫は22日には危篤となっていたのだが、
夫の月命日の24日に死にたいと気力で長らえたのだと伊達家の記録は語る。
戦国を生き抜いた女性は強かった。

仙台市博物館には、孫の綱宗が愛姫の遺品として伝えた一通の手紙が今も大切に保管されている。
姫愛用の硯箱にしまわれていた宛名もなく文面も不明瞭なこの手紙は、政宗5歳の時の手習いの書なのだという。
この80年も前の書付がいつごろどういった経緯で愛姫の手に渡ったのかは不明だが、
夫の幼い筆跡を常に傍らに置き、時折取り出してはいとおしげに眺めたであろう老いた夫人の姿を思うと、
なんとも暖かい気持ちになる。
激動の時代、60年近い歳月を連れ添った夫婦の絆は特別なものがあったのだろうと思わされる手紙の話。

安西先生・・・奥さんがほしいです・・・(´・ω・`)
0561人間七七四年2011/02/01(火) 00:24:00ID:POV5hbPU
普通、故人を偲ぶ品って結婚指輪とか家族で撮った写真とか、
自分と関係が深かったり本人が直接身につけてた物とかじゃね?
故人が自分の顔も知らなかった頃の字の練習帳を大事にするってなんかピンとこないんだよな
夫婦の機微ってわかりそうでわからんのう
0562人間七七四年2011/02/01(火) 00:35:56ID:EQ8OY2Cl
>>543
そりゃそうでしょみんな武将(領主)だもん
このへんの人らは剣豪じゃなくても名が残るでしょうよ

当時の連歌師みたいに芸で高名になってと言うと何人いるか…
0563人間七七四年2011/02/01(火) 00:51:12ID:uBmv4cIt
>>561
その辺はもう政宗と愛姫だけにわかる世界だからな…

推測だが政宗も手習いの書を大事にしてたんじゃないか。
普通5歳の時のものなんてなくなっちゃうだろう。
0564人間七七四年2011/02/01(火) 02:20:07ID:XjRxLqZ4
>>560
私は武将の妻ではないけど、なんかわかるなあ、愛姫の気持ち。
たまらなく愛しいのよね、ちっちゃい頃の夫の何かって。
何ともいい話だなあ。
0565人間七七四年2011/02/01(火) 07:21:52ID:3cPT4rgB
小さい頃の思い出の品を嫁に勝手に捨てられた俺が来ましたよ
0566人間七七四年2011/02/01(火) 10:06:39ID:dwtPQ1zQ
>>565
その後酒に酔って絡んで斬り捨てたわけですな?
0567人間七七四年2011/02/01(火) 10:38:01ID:N2S4ysgF
>>552
こういった価値観から薩摩拵という独特な拵えが生まれた。

薩摩拵(さつまごしらえ)
江戸時代の各藩は、武術流儀に最も適した各藩独特の拵を考案し実戦に備えていた。
薩摩拵もこのような主旨から発案された外装で、実用性を追求したため武骨な格好となっている。
この拵形式の根底には薩摩示顕流がある。
同剣法の掟に『平常は刀を抜くべからず、止むを得ず抜刀した場合には必ず相手を倒すべし』
とあるところから刀を抜かずに相手を倒すことを目的とするべく、
柄を太く長くして立鼓を取らず、厚手の牛革を巻いて漆をかけ、
さらにその上に糸か革紐を巻き締めて目貫を装着せず、鉄の縁頭で強固な作りとした。
同時に逆角の突起を凸形として帯から素早く抜けるようにし、
刀身を鞘に収めたまま柄頭で相手を直接攻撃したことからもその利点が判る。
鐔には鞘止と称される小穴が開けられているが、刀を無闇に抜かないことをおしえたもので、
この穴に針金や紐を通し鞘に固定していた。
ttp://www.weblio.jp/content/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8B%B5
0568人間七七四年2011/02/01(火) 17:44:36ID:ISiT/pTP
NHKで岩村城の女城主の話が。
雑貨屋の女主人等を女城主に準えている・・町興しに都合の良い話・・
0569人間七七四年2011/02/01(火) 18:25:29ID:wK5tAtTd
その女主人らも最後は逆さ磔にされちゃうのか
0570人間七七四年2011/02/03(木) 00:22:36ID:iW5CYElE
天正の頃北条家が上州沼田城へ押し寄せた時のことである。

北条氏邦と芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。

この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して北条勢を突き崩した。

北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。


それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。

昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉は
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
 危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。

仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。
0571人間七七四年2011/02/03(木) 00:31:21ID:Vz6wvp4Q
八王子城で討ち死にした中山勘解由家範の子孫か?

北条氏照と自分の先祖の墓造ってたな
http://www.takaosan.info/topics44.htm
0572人間七七四年2011/02/03(木) 23:28:27ID:nZInk0OL
>>567
最早それ刀である必要がないのでは
0573人間七七四年2011/02/03(木) 23:45:41ID:Zw24thxA
>>572
そのおかげで若かりし西郷隆盛が真剣で直に斬られずにすんだ訳でして
刀としての機能以上に結果的には歴史の役にはたったみたい
0574人間七七四年2011/02/04(金) 00:03:57ID:HPsaP5Mj
>>572
いいんじゃないの、刀ってそもそも『斬る』ものじゃなくて、
『打つ』ものだし。
むしろ平安以来の本来の使い方に近いかもな。
0575人間七七四年2011/02/04(金) 05:32:54ID:yWnMAEJr
>>573
むしろ切られていた方が歴史的には多くの人間が死なずに済んでいたかもしれない。
0576人間七七四年2011/02/04(金) 09:03:39ID:Xvroi6C8
>>570
釣り野伏せ!?
0577人間七七四年2011/02/04(金) 10:39:01ID:URdEepNW
>>575
アイズの人!?
0578人間七七四年2011/02/04(金) 16:59:24ID:GAoRia6i
>>562
その中で特に真壁道無なんて神道流を習ってた一武将ってだけだしね。
0579人間七七四年2011/02/04(金) 20:18:09ID:rMNVI8uN
元亀2年(1571)10月、織田信長の近江出陣の隙を突き、三好党が山城に乱入した。これに対し、細川藤孝が
他の将軍奉公衆を集めて迎え撃つことになり、両者は宇治住山(炭山)で激突した。

戦は細川方で歴戦の士として知られる細野壱岐守藤敦が焼働きを行い、動揺した三好党を藤孝が大いに攻め、勝利した。

「いやぁ藤孝殿。自身が武者働きしての勝利、お見事にござった!この藤敦も感服しましたぞ。」
「うむ。ご助力、感謝いたす。それにしても、付け火の火が収まらんのう。ちと、火を吹き飛ばすとするか。
おーい誰か!その辺にあるもので良い、何かあおぐものを探して参れ。」

家臣が持ってきた物であおぎ始めた藤孝を見て、物に慣れた藤敦も仰天した。




30年の歳月が過ぎ、京は吉田山に隠棲する細川藤孝改め幽斎を、同じく一線を退き高台院(北政所・ねね)の
警護等で日々を暮らす細野藤敦が訪れ、二人は往時を懐かしく語り合った。

「あのころ幽斎殿は、碁盤を団扇代わりに火をあおいで消すほどの怪力であったが、今はどうですかな?」
「いや、それはさすがに若いから出来たこと。今は何をしても人に劣るばかり。歌も一向に上手くなりません。
だが、心だけは昔に勝るように思いまする。」

幽斎は、ことさらに真面目な顔をして答えたという。
0580人間七七四年2011/02/04(金) 21:00:29ID:s+cs36pL
碁盤持ってきた奴ワロスw
幽斎さんなら扇げると解ってても持ってかねーだろw
0581人間七七四年2011/02/04(金) 21:21:47ID:TehIyN8s
上杉謙信が関東管領に就任した時のお話し。

管領就任式を無事済ませた晩、謙信の枕元に平将門の亡霊が現れた。
将門は謙信に言った。

『その方、少々の武辺に奢り誰の断りをもって関東の霸者を名乗るか。。。』
『余は新皇、平将門なり。関八州は渡さぬ。。。』

これに謙信、
「余は都におわす日本国天皇の勅命を受けて関東の逆賊を討ち平らげよ、と天子からお言葉を戴いておる。」

『。。。』

「畏れ多くも新皇を語り朝廷を蔑ろにする貴様は許して置けん!!」

『!!!!』

謙信は叫ぶやいなや将門の首を一刀両断にした。将門は霧のように消えたという。

侍臣が書き残した書には謙信の刀にはまだ生温かい黒い血が流れていたと言う。
0582人間七七四年2011/02/04(金) 21:44:20ID:AHg3mXtz
あの将門公すら退治するとは・・・謙信強すぎるなw
0583人間七七四年2011/02/04(金) 21:48:34ID:jt6nyCy9
毘沙門天だからな!
0584人間七七四年2011/02/04(金) 22:00:59ID:HPsaP5Mj
さすがに将門の方が強そうだがなあw
0585人間七七四年2011/02/04(金) 22:02:07ID:BrlVxj5C
センゴク謙信のイメージそのまんまだな
0586人間七七四年2011/02/04(金) 23:46:42ID:4LqpgU1V
ガチキチ相手に怨霊など無力
0587人間七七四年2011/02/04(金) 23:50:18ID:+hUDptWO
天皇に反旗翻した相手に言っていることがずれているあたりも謙信っぽいな
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