戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0436人間七七四年
2011/01/27(木) 16:47:36ID:GyfVzBbb0438人間七七四年
2011/01/27(木) 18:14:03ID:v/AJCwHqしていたという逸話をどっかで読んだことがあるんだけど本当なのかね?
0439人間七七四年
2011/01/27(木) 18:22:31ID:v/AJCwHqttp://www3.bunbun.ne.jp/hutongmi/054.htm
0440人間七七四年
2011/01/27(木) 18:23:32ID:oO99siU50441人間七七四年
2011/01/27(木) 19:19:22ID:Ui7vkMc20442人間七七四年
2011/01/27(木) 19:52:43ID:Q9lZeOBvリンク先読んだけどありきたりな葉隠論だな。
佐賀藩主に尽くすのが視野が狭いとする論だけど、
尊皇思想が登場する前の書物にそれを求めても・・・
現代日本人でもオバマの方針より身近な日本政府の政策に従って(あるいは反対)していくしかないのと一緒だ。
0443人間七七四年
2011/01/27(木) 21:49:01ID:qR1ODT22武士は早漏であることが一番良い!
と言う記述があると聞いたのだが本当?
0444人間七七四年
2011/01/27(木) 22:30:34ID:I9P1dmMH永井善左衛門の所に、板倉重宗が招かれた。
この時相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛、であった。
みなみな戦場生き残りの、老勇者たちである。
この頃今村は槍奉行、大久保彦左衛門は御旗奉行であった。
まず、今村が彦左衛門に食って掛かる
「わしは長久手でもどこの鑓場でも、人が十回かかるほどの働きをやって来たというのに
何のご褒美もなかったわ!彦左、おぬしはどれほど優れた働きをして、その様な結構なお役を
頂いたのだ!?」
これに彦左衛門
「わしは長篠で、鬼神のごとくと言われた岡部丹波を切り落とし、本多主水(彦左衛門の郎党)にその首を
取らせたわ!その他にもちくちくした事は数多あるが、まあ、甲州者などでは逃げたことが高名になるそうだ。」
これを聞いて黙っていられないのがその甲州者、そして高天神落城の際脱出した旧武田家家臣横田甚右衛門である。
「それがしが高天神城にこもったのは、『この籠城は運を開くことは出来ません』と勝頼様に申したのに
同心いたして頂けなかったゆえ、しからば一応勤め、どうしても駄目になれば敵を切り抜け、再び勝頼様に
お目見えいたしますと君臣約束した故である!!」
そう聞いても彦左衛門
「それは狭間潜(さまくぐり:城中から狭間(さま)を潜って逃げる者。転じて、逃亡者、臆病者)というものじゃ!」
「はっ!しかしあの時わしは三河者の頭の上を越えて行ったが、そのわしを指さす者すらおらんかったわ!」
「それはまあいい、ほかに何か無いのか?」
「ふん、そうだな、芦田小屋(芦田城)でも最も骨を折ったのはこのわしであった!」
この言葉に彦左衛門
「ほほう!芦田小屋から横田が逃げたという話は聞いていなかった!」
これには横田たまらず
「皆の衆あれを聞いたか!?三河衆は口が悪いから、人の武辺を言い貶す!全く意地の悪いことだ!
近藤石川といった連中に起請を書かせた上で言わせれば、ありのままに話すのだろうが。」
老勇者たちのいがみ合いヒートアップ。今にも発火せんばかりの空気の中、
ここで板倉重宗が割って入った
「いやはやいやはや!皆様はもはや老年でもあり、孫や子の事ばかりお話されると思っていたのですが、
武辺争いをなさるとは、近頃奇特なる事で、若き者の後学の為にも良いことです。
さあどうぞどうぞ、いくらでもやってください!さましく御重宝というべきものです!」
…と
この板倉重宗の言葉に気恥ずかしくなったか逆に白けたか、老勇者たち黙ってしまい、座敷の空気も
静まったそうである。
年寄りの冷や水ならぬ年寄りの武辺争い、と言うお話。
しかしまあこの人達、仲が悪いというより、そう言うコミニュケーションだたんでしょうねw
0445人間七七四年
2011/01/27(木) 22:32:52ID:JOKKPGzI死ぬか死なないか迷った時は死んどいた方が無難
ウッカリ死んだらただのアホだけど、死なないといけない時死に損ったら恥だよね
みたいなアレのこと?
0446人間七七四年
2011/01/27(木) 22:50:41ID:Q9lZeOBv乱世を生きた武人の気質なんだろうな
日露戦争時に薩長出身者が幕末の活躍を話してると、
桑名藩雷神隊だった立見尚文が、
「キミら、オレの隊からは逃げてたよね?」
みたいにチャチャ入れたりしてるしw
0447人間七七四年
2011/01/27(木) 23:44:54ID:cFLCpX3e黒鉄ヒロシが書いた漫画:葉隠に『早漏で候』っていうギャグがあった記憶はある
あと、病弱な奴はオナニーとか性交とか一切しなければ体が丈夫になっていくとか
母親が子供を庇い過ぎると子供がマザコンになって碌な人間に育たないとか
昔は自分から股に傷を作ってそれを武勇の証としたが、今はそんなことする奴はアホだと思われるとか
葉隠って話題が結構ループするんだよね
それもネタにされてた
0448人間七七四年
2011/01/28(金) 00:19:53ID:q9NGKeqw0449人間七七四年
2011/01/28(金) 01:06:37ID:swpyhMCdあの彦左がのほほんと孫の話なんてするわけがないくらいわかりそうなもんだが
0450人間七七四年
2011/01/28(金) 01:10:14ID:iRVaeWLn「あんたらもう孫がいるような歳なのに、そう言う子どもみたいな意地の張りあいしてて
それはどうなの?」
って底意で言っているんだよ。
0451人間七七四年
2011/01/28(金) 01:40:36ID:hii+OybT0452人間七七四年
2011/01/28(金) 03:58:35ID:MhR7EtTZさすがは板倉Jr.という話
0453人間七七四年
2011/01/28(金) 07:16:39ID:It5D2xgZ崩れかけたときに備え万全な家康旗本が現れて
Q太郎それを見て撤退だから話の筋は合っているのでは。
0454人間七七四年
2011/01/28(金) 08:15:47ID:7uEPuC2X男女の産み分け的には、
遅い方が世継ぎを作りやすいんだが、、、
0455人間七七四年
2011/01/28(金) 22:05:14ID:iRVaeWLn武勇優れた武士であったが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-515.html
ここに書かれているよう、武士としても勿論、歌人としても名が高く、当時を代表する文化人としても知られていた。
さて、彼の主君永井尚政が山城国淀城主となった頃のこと、永井家よりの禁裏への使者として、昌俊が
遣わされた。
この時朝廷の公卿たち、昌俊が和歌の達人であるとの評判を聞いていたため
「喜六(昌俊)よ、一つ歌を詠んでくれないか?」
とせがんだ。これに昌俊
『吉野山 花待つ頃の朝な朝な 心にかかる峰の白雲』
この歌に公卿たちは感嘆し、当時の京で大変な評判となったそうだ。
さて、それから数年の後のことである
ある公卿が嵐山に遊んだ時、その山奥に小さな庵を見つけた。
このような山奥にと、公卿は珍しく思いその庵を訪ねると、庵主である僧に招き入れられた。
そこで公卿と僧は宮中の式礼について、和歌についての興味深い話など色々と面白く語り合った。
この僧が非常に学識深く風雅の道にも造詣が深い事かったため話は興に乗り、春のことであったため、
ふとこの公卿、かつて佐川田昌俊が詠んだあの、吉野山の歌を吟じた。
「さてさて面白い歌であろう?堂上にてもこれほどの歌を讀めるものはおらんよ。」
そういう公卿にこの僧
「それほど褒めるような歌ではありませんよ。この歌は昔、東下総守(東常縁)が詠んだ
『朝な朝な 雲たち添うる小倉山 峰吹く風は花の香ぞする』
という古歌によって詠んだものでしょう」
と言った。
さて、この公卿が帰ってきて親友にこの事を話すと、この友驚き
「それは他の者ではない!佐川田昌俊が隠遁して世をのがれ、そこに住んでいるのだろう!」
翌日公卿とその友はうち連れて再び嵐山に分け入り、かの庵室を訪ねたが、その庵は既に崩し捨てられ、
庵主はどこかへ行き去った跡だったという。
佐川田昌俊の有名な歌と、それにまつわる不思議なお話。
0456人間七七四年
2011/01/28(金) 22:08:37ID:hii+OybT0457人間七七四年
2011/01/28(金) 22:46:31ID:Alsf5Fmn京の都だし・・・
0458人間七七四年
2011/01/28(金) 23:02:48ID:UxDpwWfS0459人間七七四年
2011/01/28(金) 23:12:15ID:r5cdqpI7鹿島神宮の祠官卜部氏の子であるからリアルではモンクタイプの卜伝さん
ある時この卜伝、相当な使い手の武芸者に試合を挑まれたが
好かろう受けて立つ!と二つ返事。
さて自分の門人達に対戦相手の兵法者の情報を集めさせてそれらを聞き出した。
それによると、かの者は過去数度の木刀の試合に勝ったことがあるが
その時の状況は何れも通常の刀の持ち方とは逆の左手が上で右手が下の柄尻の方を持つ
左太刀という構えで、しかも勝を決めた時は必ず片手で敵を打つていたと言う。
「右兵法人の数度木刀の仕相に勝利有作法様子を聞くに、構えは左太刀、
扨勝利は右か左か必定片手にて利をする」
これを聞いた卜伝は何を思ったのかこの兵法者に
卜伝「おいィ?左太刀は普通の構えじゃない奇策だから勝っても卑怯すぐるでしょ?
天下に鳴り響いた卜伝と立ち会うのに左太刀はどちらかというと大反対だな」
と使いを送り、なおも「おい、やめろ馬鹿」「この仕相は早くも終了ですね」など
十度にも渡って使いを出したのだが相手の兵法者も卜伝からの使いが来るたびに
兵法者「左太刀の片手打ちをいやと思し召し賜わば、勝負する前から卜伝の負けにせられよ」と返事する。
むしろどちらの方が卑怯未練の振る舞いであろうか?と思われるが
そうまでしておきながら卜伝はこれで勝つる!と試合に挑む。
「そこにて卜伝仕相に仕る。卜伝勝利疑なし」
いざ立会いとなった時、相手の兵法者は額から一気に鼻唇まで切り裂かれて卜伝は勝利した・
この卜伝の戦いを甲陽軍鑑の結要本においては
「是全く一つ太刀の心静に名人の故也、相手も上手なれ共未名人にあらず、意地計也云々」と評す。
0460人間七七四年
2011/01/28(金) 23:31:53ID:NtjGRIFWと粘着する事で、逆に左太刀を使うよう、追い込んだって言う話でしたよね。
0461人間七七四年
2011/01/28(金) 23:37:35ID:zAyXf/3qいつぞやの日本シリーズとか
0462人間七七四年
2011/01/29(土) 05:49:12ID:jX5bYIY40463人間七七四年
2011/01/29(土) 09:25:42ID:hwuXeX/P打ったのはシュート、とコメントしてたのと同じ感じ?
0464人間七七四年
2011/01/29(土) 11:25:09ID:6MAAxpMBどっちかというと「俺はシュートが苦手だ、シュートは嫌だ」と言い続けて、絶対にシュートが来る状況を作った上で
そのシュートに山をはるってことじゃないかな?
絶対に来ると分かっていて準備していれば、少々ややこしい業でも対処できる、ってことで。
0465人間七七四年
2011/01/29(土) 11:43:15ID:OseatOna0466人間七七四年
2011/01/29(土) 11:43:21ID:rq8Z4UHq敵である武田家方面から「見附はやばい!見附は困る!」って声が聞こえてきて
家康「あれどう思う?」
酒井忠次「浜松より見附に我々がいた方が、武田にとって都合がいいってことです」
ってのがあったな。
0467人間七七四年
2011/01/29(土) 12:44:25ID:nNLLY4K8押すなよ?押すなよ?絶対に押すなよ?と言われると押したくなる
日本人には効果的な計略だったんでしょうねw
0468人間七七四年
2011/01/29(土) 13:08:02ID:X1hp5UO1宮本武蔵
「武士なのだから死ぬ覚悟は当り前。
死の覚悟は武士でなく、坊主、女、百姓においても、
義理、恥を知る者なら覚悟出来るものである。
武士の行う兵法の道は、何事においても勝つことを基とする。」
剣豪の考え方も興味深いね。
余談、塚原卜伝が宮本武蔵の打ち込みを鍋のフタで阻止したのは創作だとのこと
0469人間七七四年
2011/01/29(土) 13:17:23ID:Ks8Y3evL目処がつかなかったそうで。
武田が大井川越えでなく伊那から侵攻してきたことから考えても、天竜川流域と
浜名湖両方を睨む浜松の方が優れていたんだと思う。
下手をすれば吉田城を落とされるような最悪の事態もあったかも。
0470人間七七四年
2011/01/29(土) 14:39:46ID:E4U6xfhEちょっとオーストラリアの監督に「高さのサッカーは卑怯」「高さのサッカーはツマラナイ」ってメールしてくる
0471人間七七四年
2011/01/29(土) 14:59:09ID:4wCFdztF0472人間七七四年
2011/01/29(土) 16:12:21ID:klcJqwxdその辺が所詮無名の武芸者風情ってことか
0474人間七七四年
2011/01/29(土) 18:49:59ID:uQurS41E0475人間七七四年
2011/01/29(土) 19:10:46ID:941ndqfO家臣一同「あんな不便なところ行きたくねーよ」
信長「移転先はやっぱ小牧山にするわ」
家臣一同「小牧山ならまあいいか」
信長「ニヤリ」
0477人間七七四年
2011/01/29(土) 19:13:21ID:PCU6yu/d0479人間七七四年
2011/01/29(土) 19:35:14ID:uJihSEWc0482人間七七四年
2011/01/29(土) 21:34:50ID:a0GsyjBm0486人間七七四年
2011/01/29(土) 23:50:00ID:1fNd4jkfhttp://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1101/25/news056.html
0487人間七七四年
2011/01/29(土) 23:51:12ID:hMx5wnvoつか謙信は何考えてたんだかさっぱりわからん
菅令の名を名分にして関東支配を目論んでるのかと思ってたが、それにしちゃ行動がおかしい点が多い
わざわざ敵方の人間を養子にして内乱の火種作ったりしてるし、
第一、征服すべき関東の敵の家人を養子にしたらせっかく管令なったのに意味がない。わからん
0489人間七七四年
2011/01/30(日) 00:02:14ID:apT+Uz4B0492人間七七四年
2011/01/30(日) 00:30:22ID:6NI8u9rP謙信はガチで自分のこと毘沙門天の化身だと思ってた節があるしなぁ。サイコすぎる
なのに戦は超絶強いから始末に負えん。こんな変人に絡まれてボコられまくった信玄には同情を禁じえない
いっそ謙信が天庵様なみの能力だったら越信・関東は平和だったろうに
0493人間七七四年
2011/01/30(日) 00:49:56ID:9Fh1EzjGまあ沼田城あたりでUターンだろうけどw
0496人間七七四年
2011/01/30(日) 08:43:56ID:4zFWptO1君は TOUGHBOY TOUGHBOY
時はまさに戦国〜
小田城で僕らは出会った
0498人間七七四年
2011/01/30(日) 11:25:10ID:hEiJebmBしかも商才があるから尚のこと厄介
あんだけ四方八方に遠征してそれでも大量の金を残してたっていうんだから
0499人間七七四年
2011/01/30(日) 11:31:40ID:eRqCtBNi詳しくないからいい加減なことはいわないでおこう・・・
0500人間七七四年
2011/01/30(日) 12:27:13ID:0D/7hF+i0501人間七七四年
2011/01/30(日) 12:39:32ID:3OYch8ng>>498
関羽みたいに商売の神様になってもおかしくないよなあw
0502人間七七四年
2011/01/30(日) 12:40:59ID:4Emvb3Sd0503人間七七四年
2011/01/30(日) 12:46:03ID:WIRJXJzA0506人間七七四年
2011/01/30(日) 16:19:18ID:6thTGywp金融政策に関してだけは、金山掘って、掘りつくしたら、衰退してく
武田よりも評価していいと思うのだが・・・
0507人間七七四年
2011/01/30(日) 16:35:48ID:6NI8u9rP元々の経済地盤にとんでもない開きがあるってことを考えてくれよ
むしろ武田家はあんな貧弱な土地でよく頑張った方だと思う
0508人間七七四年
2011/01/30(日) 16:41:25ID:a2lZTA/30509人間七七四年
2011/01/30(日) 17:05:01ID:Z/Ti5yN40510人間七七四年
2011/01/30(日) 17:18:49ID:a2lZTA/3もしかして長安さん何かやったの?
0511人間七七四年
2011/01/30(日) 17:33:02ID:BrtZivF/長安さんは枯れたとされた金銀の鉱山に、天正19年(1591)ごろ日本に伝わったとされる、
新しい精錬法である『南蛮絞り』をつかって復活させた。
0512人間七七四年
2011/01/30(日) 17:39:39ID:BrtZivF/http://www.sumitomo.gr.jp/history/word/index05.html
現在の住友グループ成立の源流もこの技術から
0513人間七七四年
2011/01/30(日) 18:40:02ID:3OYch8ng0514人間七七四年
2011/01/30(日) 21:13:06ID:THbnWOtE0515人間七七四年
2011/01/30(日) 21:15:14ID:NvEgYGjAその頃はコシヒカリや農林なんとかはなかったから、寒い越後で米なんかとんでもない!
とかなんか読んだ気がするんだけど実際はどうなんだろうね。
0516人間七七四年
2011/01/30(日) 21:23:16ID:C57A0UIv0518人間七七四年
2011/01/30(日) 21:46:46ID:0D/7hF+i0519人間七七四年
2011/01/30(日) 21:54:27ID:zbygqi2D雪は物凄いし到底勝ち組じゃない。
0520人間七七四年
2011/01/30(日) 22:08:19ID:KMMz36Y70521人間七七四年
2011/01/30(日) 22:13:18ID:m3rTyT3a0523人間七七四年
2011/01/30(日) 22:59:58ID:fxVtuhGE寒冷地で日照が少ないところも多いが
水が豊富で耕作に適した山辺が多く、他地方と比べて貧しいとまではいえない
くらいにしとけ
0524人間七七四年
2011/01/30(日) 23:38:10ID:JAyDqGvd討伐の為に会津に向けて出陣した。しかし、駿府に到着してからは鷹狩に明け暮れて一向に動こうとはしなかった。
見かねた本多忠勝は
「こんな調子では畿内で反乱が起きますぞ。」
と忠告すると、家康は忠勝の口を手で塞ぎ、
「黙れ。こうしているのは、ワシをうつけと思わせて反乱を起こさせ、それを打ち破る為だ。
さすれば天下は我が物となり、お前も一国の大名だ。」
と一喝した。結果、思惑通りに石田三成が挙兵。関が原にてこれに勝利した事で家康は天下を手中にしたのだった。
以上、家康の狙い通りに天下を取ったお話。
0525人間七七四年
2011/01/30(日) 23:45:46ID:LlLWY3Lk帰りは忠勝先発隊にいたんだけどね
0527人間七七四年
2011/01/31(月) 00:44:10ID:jTmn98yv0528人間七七四年
2011/01/31(月) 01:41:34ID:kd3pubkB鍋島勝茂が自宅に客を招き、食事を振舞う機会があった。
その客は、兼ねてから噂に聞いていた事を直接、勝茂にぶつけてみる。
「鍋島殿は鶴料理を食べただけで、白い鶴か黒い鶴か、見抜く事が出来ると伺って
おりますが、それは本当の事なのですか?」
「ええ、仰る通り。繊細な味の違いを比べれば、見分ける事など簡単に出来ますよ」
「おお、それは面白い。それでは只今振舞われたこの料理、これは白鶴ですか?そ
れとも黒鶴なのでしょうか?」
「うむ、この料理は……鶴に似てはいるが鶴ではない。ズバリ真鴨ですな!!」
興に乗った亭主と客。どこまで本気なのか、ポンポンと軽口が飛び出してくる。
「ほう、それでは答え合わせと参りましょうか。給仕方の者をお呼びいただけます
かな?」
「承知しました。……おい、吉左衛門を呼んで参れ」
実は襖の裏に控えてこのやり取りを聞いていた福地吉左衛門、慌てて台所へと取っ
て返した。
「……中々参りませんな」
「今日はそんなに忙しいとも思えぬのですが……おい、吉左衛門はまだか?」
「おまらせいらしましらぁ〜〜〜〜」
漸く御前に出てきた福地吉左衛門、フラフラと怪しい足取りで、呂律は完全に回っ
ていない。
明らかに泥酔していた。
「なっ、何をやっておるのだ!?」
「きょーのおりょおりわぁ〜〜、つる? しろ……かも? くろ…かも、ま……かも?
アハハハハハッハッ!!」
ベロンベロンに酔った吉左衛門はまともに会話が成立しそうにない。
先程、勝茂と客のやりとりを聞いた吉左衛門、慌てて台所に行き、大急ぎで酒を大
量に飲み干したのである。
家臣の醜態を取り繕い、客にひたすら謝り倒す勝茂。
そしてその陰でうやむやになってしまった「白鶴か、黒鶴か」という問い。
佐賀武士に取っては主君に恥をかかせる事が一番いけないのである。
家臣の恥なら家臣が腹を切れば済む事なのだ。
勝茂が答えを外しても、酒の席での笑い話じゃないか、などとは考えない。
つまり、吉左衛門にとっては「答え合わせ」をさせない、という事が最優先事項だ
ったのである。
三河武士とは違う方向に面倒臭いシグルイの人々。
「家臣が客の前で粗相するのは主君の恥にはならんのか?」
とか
「じゃぁ家族や家臣からの駄目出しはちょっと控えてあげようよ」
とか言ってはいけないのである。多分。
0529人間七七四年
2011/01/31(月) 02:42:40ID:LYBF9Omsこの世に生を受けてより三十九度の合戦に挑み、真剣での立会いを行うこと十九度
木刀においては立ち会うこと数知れず、斬って捨てた者の数二百十二人と言われ
その間刀槍にての傷はなく僅かに六度の矢傷を被るのみと言う
戦国乱世を剣一本で渡ったこの男にもその生涯に幕が下りようとしていた。
己の死期を悟った卜伝は、家督を立てようと養子三人を試すことにした
何れも実子のいない卜伝に剣の腕を見込まれて養子になった者達であった。
さて卜伝は自室の入り口の暖簾の上に木枕を仕掛け、部屋に入ろうと暖簾を捲くると
木枕が落ちてくるように仕掛けておいてまず長男を呼び出した。
長男は部屋の前で立ち止まり「見越之術」を用いてこの木枕を取り除き
何事もなかったように部屋に入り座った。
(以見越之術見付之、取其木枕而入座也)
卜伝はまた木枕を先程のように仕掛けて次男を呼び出した
次男は部屋に入ろうとしたが木枕が落ちてきたのを察すると飛び退いてこれ(木枕)を避け
己の刀に手を掛けたが、木枕であることを確認すると気を静めて座った。
(二男開弈時木枕落、飛去懸手於刀、慎而入座也)
そして卜伝は三度同じように仕掛けを施し三男を呼び出した
三男は暖簾を潜ろうとするなり落ちてくる木枕を、地に付く前に刀で斬り、それから座った。
(開暖簾之時木枕落、忽技刀斬之於中而入座也)
卜伝は二男と三男の二人に怒りながらも諭した
「お前達木枕ごときに驚いてどうする?常在戦場の心で先々の事を見越していないからだ
彦四郎(長男)のみが不測の事態に心を動かさず
これ(見越之術)を知るところであったので彼に家督を譲る」
孫子の勝兵先勝而後求戰に通ずる教えである。
0530人間七七四年
2011/01/31(月) 05:16:21ID:iAxPTM0c0531人間七七四年
2011/01/31(月) 05:47:10ID:X2FDwo3J0532人間七七四年
2011/01/31(月) 05:56:01ID:KdOYAL5W上泉信綱くらいしか信用できん
0533人間七七四年
2011/01/31(月) 10:27:15ID:sakEqEon0534人間七七四年
2011/01/31(月) 11:31:11ID:BqR74IDU■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています