文禄の役、

文禄2年(1593)1月、李如松率いる明軍4万3千余が小西行長の守る平壌に進攻。
行長はこの攻勢に耐え切れず平壌の蜂起を決断、軍勢をまとめ夜半密かに城を出、後方の
漢城へと向かった、

さて、平壌から漢城の間には黒田長政、小早川隆景・秀包親子らによって繋ぎの城が構築されていた。
小西行長は撤退の際、彼らにも共に漢城まで引くように誘った。だが黒田長政、小早川秀包らは

「敵の旗色を見ることもなく城を開けて退くなど、後に恥辱を受けること逃れがたい行為である!
小西殿は自ら戦ったのだから、早く漢城に退いて士卒を休息されるといいだろう。
我々は自分の城を引き払い、筑前宰相殿(小早川隆景)の城に軍勢を集結させ、漢城から反撃の軍勢が
出てくるのを待って先手をつかまつり、大明の人々との戦いを決する!」

これを聞いた行長は
「この上は是非に及ばず」

と、彼らを置いて漢城へと撤退した。

小早川、黒田勢撤退せず。漢城で行長からのこの報告に驚いたのは、秀吉より派遣された三奉行、
石田三成、増田長盛、そして大谷吉継である。
彼らはすぐに小早川隆景のところに使者を遣わし、

『急いで城から引き上げ、漢城へ入ってください!』

と伝えた。ところが小早川隆景、これを聞くと

「この度の戦、この朝鮮に渡海した最初から、日本に帰国することなど無いと覚悟していた。
私もこのように歳を取り、死んでも惜しくはない身であれば、大明の人々と向かい合い、
一戦して討ち死にすることも、老後の良い思い出となるであろう。

私一人が討ち死にしたからと言って、味方の弱みになるわけでもない。ここを開城して引き上げるなど、
断じて無い!」

そう言い切って使者を返した。
この返事に三奉行は慌てふためいた。

「防衛戦となる大河(漢江か?)を越えた場所で敵の大軍と戦うなど上策ではない!
そのうえここは外国であり、人々の心も計りがたい。
だからといって小早川殿を打ち捨てることなど、出来るわけもない!
一体どうすればいいのか!?」

石田三成と増田長盛は必死に相談し合ったが、どうしても結論が出ない。その時、
それまで押し黙っていた大谷吉継が立ち上がり、言う

「私が直接小早川殿の所へ罷り向かって異見を申し上げ、小早川勢を引き上げさせる!」

言い捨てると三成、長盛の返事も聞かず座を立ち、すぐさま隆景のもとに向かった。
そして隆景に対面し、理を尽くして撤退が最善策であることを説明。これに隆景もその理に服し、
吉継と連れ立って漢城へと退却した。


大谷吉継、小早川隆景を説得す。と言うお話