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戦国ちょっといい話24

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0001人間七七四年2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/

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戦国ちょっと悪い話24
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0146人間七七四年2011/01/06(木) 08:07:55ID:2fFFgccM
>>145
元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね

前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・
0147人間七七四年2011/01/06(木) 08:57:31ID:LloT+Aod
>>146
彦左衛門ってそこで名が出るほどの大身ではないんじゃ。
0148人間七七四年2011/01/06(木) 13:15:13ID:8mb9beZL
もういい年だからこれで楽隠居させるつもりだったとかじゃね?
0149人間七七四年2011/01/06(木) 15:41:13ID:Eyqnb04f
伏見の切腹者って、何で放置されたの?
0150人間七七四年2011/01/06(木) 20:16:33ID:d9Gr09Yv
織田信長が近江、金ヶ森城を攻めた時のこと

城攻めの前夜、前田利家の家臣、村井又兵衛長頼が軍営地の小屋で寝ていると、その夢に山伏が出てきて、
又兵衛に語りかけた

『時もよし!絶対に左の道を行くのだぞ!』

又兵衛、驚き目を覚ますと

「さてはわしが日頃から愛宕山を信仰している故に、このようなお告げを頂いたのだな!」
と愛宕権現に感謝し水垢離を行い、すぐに具足を付け大喜びで主君前田利家の陣所へと駆けつけた

「又左衛門(利家)様ー!合戦の準備できましたよー!」

「何刻だと思っているんだバカヤロウ!」
出てきたのは寝入ったところを起こされ不機嫌この上ない前田利家。

「まだ一番鶏すら鳴いていないじゃないか!もう少しあとになってから来い!」
「ちぇ〜」

村井又兵衛、仕方なく小屋に帰り二度寝をはじめると、その夢にもまた山伏が出てきて
『良いな、左だぞ。左に付くのだぞ』
と語りかけた。愛宕権現、なかなかしつこい。

さて、夜明け前信長の本陣より一番貝が轟いた!合戦の始まりである!
織田軍の先陣は一斉に金ヶ森城に押し寄せた!その中に当然村井又兵衛も居る。
彼らが城下にたどり着くと道が左右に分かれていた。織田軍はみな右の道へと進んだ。又兵衛も
皆と一緒に進んだが途中で「いやいや、愛宕山のお告げがあったではないか!それに従うのだ!」
と、分かれ道のところまで取って返し左の道を進むと、空堀と柴折垣で防御されている場所に出た。

と、その柴折垣の側に、誰とも知れぬ4,5人の男達がいる。又兵衛が

「そこにいるお前たちは敵か、味方か!?」と問いかけるとその中の一人
「ここに居るのは柴田修理(勝家)の甥、佐久間玄蕃(盛政)という者だ!」

「わたしは前田又左衛門(利家)の家来、村井又兵衛です!」

「又左殿の家来か。前からその名を承ってはいたが、この合戦場で初めてお会いできるとは実に喜ばしい。
夜が明ければ共にこの柴折垣を切り、ここから侵入しようではないか。」

そうしているうちに後から、後備の味方も駆けつけてきた。そこで又兵衛は玄蕃と声を掛け合いながら
柴折垣を斬り倒し、両人共に即座に敵の首を取った。

さて、このとき前田利家は、信長の居る本陣にいた。

又兵衛が利家に首を見せるとその姿が信長の目に止まり

「兼ね兼ねからの事だが又兵衛、手柄を立ておったな!」
と、陣所に置いてあった吊し柿を手ずから又兵衛に下し、また「並々ならぬ働きの験だ」と
南蛮からの献上物も又兵衛に与えたそうだ。


ところで同時に首をとった佐久間玄蕃。

彼は信長の本陣から離れた場所にいた、柴田勝家に首を見せに行っていたため、その首を
信長のお目にかけたのはかなり遅くになってからだったという。


村井又兵衛長頼、夢のお告げで手柄を立てる、と言うお話。
0151人間七七四年2011/01/06(木) 23:37:14ID:iq9DhIn8
何年か前に地元紙に載ってた話。うろ覚えなので色々おかしいかもです。

時は天文の頃。尾張の国に初陣を迎えようとしている若武者がいた。
戦支度で忙しい中、城主の息子である若武者の姿が見当たらない。
はてどこへ行ったかと家中の者が探したところ、城の裏手で見つかった。
初々しい具足姿で泥だらけの両手を合わせ、一心に何かを祈っている様子だった。

「若、何をしておられるのです」
「ああお前か。すまぬな、すぐ行く」

若武者はその場を離れ、声をかけた家中の者と連れ立った。
その者は不思議に思い若武者のいた場所を振り返って見たが、
それこそ木立ちがあるばかりだ。

「何をあのように祈っておられたのです?」
「いや、大したことではない。気にするな」

このとき若武者は、城の裏手に一本の松を植えた。そして次の歌を詠んだ。

 『初陣に松一本を手植えして死なば墓場のしるしとやせん』

残念ながら、この戦については資料が残っていない。
相手は誰だったのか、規模はどのくらいだったのか、勝算は高かったのか低かったのか。
それらは推測するしかないが、彼の根城はそれほど大きなものではなく、
あるいは城を枕に討ち死にすることを考えていたのだろうか。

結果的に彼はこの戦では死なず、その後も幾度もの戦を潜り抜け手柄を上げ、
長じては天下布武を掲げる男の下、織田家の筆頭家老にまでなった。
主君を失った後、かつての同僚に敗れ越前は北ノ庄城で自害、その生涯を終えた。

松を植えた故郷から遠く離れてはいるが、やはり自らの居城が墓場となったのである。
彼の戦に臨む覚悟は、その初陣の頃から変わらなかった、と言えるかもしれない。


柴田権六勝家の生誕地、明徳寺に伝わる逸話でした。
0152人間七七四年2011/01/08(土) 00:53:28ID:1dFQn9tB
そういえば権六と市松と小六て何かキャラかぶってね?
0153人間七七四年2011/01/08(土) 00:54:57ID:A00qfwHb
別に
0154人間七七四年2011/01/08(土) 03:53:27ID:vmGhrQlv

天正十年六月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html

天正十年九月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html

天正十年十月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5019.html

まで書いたんだから、最後まで書かなきゃ落ち着かない。
と言う事で天正十年真田vs北条の最終章。


阿曽、鎌田の両城を落とし、後は片品川を渡ればそこは沼田城、という所まで漕ぎ
着けた北条軍。
真田軍に立て直す暇も与えずに五千の兵が進軍を始めたのは十月二十八日。

沼田からも千三百の兵を出したというから、まさしく総力戦であろう戦いが沼田城
外、田北原にて行われる。
が、この戦いは互いに兵力をすり減らすだけの消耗戦となってしまう。
敵兵二百を討ち取ったとは言え、味方も百五十が討たれたという報告を聞くと、矢
沢頼綱はあっさりと引き上げの下知を下す。

全軍が沼田城に籠もり、堅く守って敵を寄せ付けない。
三日三晩、攻めに攻め続けても尚、崩れる気配さえ見えない沼田城に、北条軍は一
旦阿曾城まで退いて建て直しと兵の休息を図る。

しかし、阿曾城は元々、沼田城から片品川を挟んだ対岸の河岸段丘上に築かれた城。
沼田を攻める為に渡河を試みる敵軍を背後から牽制する為の城なのだ。
当然、大軍を収容する為の設備などあろう筈もない。
五千の北条軍の殆どは阿曾城と片品川に挟まれた丘陵地帯に野営せざるを得なかっ
た。


「さて、頃は良し……と言った所か」
北条軍が包囲を解いたその晩、真田家随一の猛将が動き始める。
「皆、三日三晩も城に引き篭もって、さぞや退屈しただろう。今夜は思う存分暴れ
るがいい!」
頼綱自らが大将として、塚本肥前守、金子美濃守、渡辺左近丞と言った沼田の主力
メンバー計七百騎が、揃いの装束に身を包んで秘かに出撃する。


阿曽城外……この三日、夜通しで戦い続け、体力気力共に使い果たした兵士達が、
ぐっすりと眠りこけている。
当然見張りも立ててはいるが、兵力差による慢心と、野営続きによる疲労が彼等の
集中力を削いでいた。

「うむ、この分なら勝利は動かんな。……総勢、かかれぇいっ!!」
ドンッ!ドンッ!ドン……ッ!
真夜中の片品川に響く太鼓の音。
それを契機に一気に北条軍へと雪崩れかかる真田軍。
山国の晩秋の寒さの中、野営と戦闘による疲労に蝕まれた北条軍兵士達の反応は鈍
い。
彼方此方であるいは真田兵に討たれ、あるいは同士討ちを始め、あるいは片品川に
落ちて流されるという混乱状態に陥る。
0155人間七七四年2011/01/08(土) 03:55:22ID:vmGhrQlv

が、数に劣る真田軍は深追いはしなかった。
「落ち着け! 敵は少数だ! 備えを立て直して包み込めば簡単に殲滅出来る!!」
将官クラスの名のある者共は流石に反応も早い。
完全武装の姿を兵士に見せ、当たり前ではあるが簡潔で的確な指示を飛ばすと、徐
々に兵士達の動揺も収まってくる。
しかしその時には既に、真田の夜襲部隊は戦場を離脱し、闇の中に消えていた。

「ぬぅ、逃げられたか。……いや、待て!あそこだ!沼須方面に夜襲の軍が逃げて
行くのが見えるぞ!」
引き上げの時にはもう、姿を隠す必要はないという事だろうか、松明を掲げて退却
する兵士の一団を発見したのは猪俣能登守。
「追え!今からならまだ追いつける!奴等を殲滅して沼田城の連中に見せつけてや
るのだ!」


「釣れたのは猪か」
「懲りるって事を知らないんでしょうかねぇ」
「金子、猪俣も貴様に言われたくはないだろうよ」
闇の中に消えた真田軍の陣中、矢沢頼綱と金子美濃守がほくそ笑む。
そう、皆さんご想像の通り、松明を掲げた一団、これは矢沢頼綱の計略であった。
金子美濃守の手勢から五十人を裂いて、わざと明かりを灯して北条軍の目の前に姿
を見せたのである。

「皆、判っているな。合言葉は『天』『気』だ。揃いの服を着て、合言葉を口にす
る者は斬るな。合言葉を知らん奴は服が揃いだろうと斬り捨てて良し! ……かか
れぇっ!!」

逃げて行く真田軍と思しき一団を追跡して突出した猪俣勢。
その腹背に喰らい付いたのは沼田城の中でも精鋭中の精鋭、矢沢頼綱率いる五百の
兵であった。
先の夜襲には素早く対応し、すぐさま立て直した猪俣も、二度目の奇襲には狼狽え
るばかり。あっと言う間に散り散りになって逃げて行ったという。

しかし……
「こっちにも居るぞ!」
「私もちょっとは働かないとね!」
逃げ惑う猪俣勢の逃げ道には、更に渡辺左近丞&金子美濃守の手勢が立ち塞がる。
こうなれば最早殲滅戦である。
矢沢勢によって二百、渡辺&金子勢によって百人を討たれた猪俣は、身一つで命か
らがら逃げ延びて行ったという。


この夜の真田軍の死者は僅かに十人。負傷者が五十人という大勝利であった。
北条軍は猪俣勢の死者のみでも三百。ましてや猪俣は数日前にも三百を討たれる大
敗北を喫している。
二千居た猪俣勢の内、六百がこの沼田で命を落したのである。
北条氏邦にとっても、自分の目の前で副将格の猪俣の惨憺たる有様を見せつけられ
たのは大きかったのかも知れない。
十月二十九日には信州で徳川家と和睦を結び、天正壬午の乱も終結している。
ここが引き際と、氏邦は遂に沼田を諦めて北条全軍を厩橋城に撤退させたのである。
これ以降、北条氏は武力ではなく、徳川家を相手取っての政治交渉で沼田を落そう
と方針を転換させる事になる。


二千の内六百を討ち取られるって、それ壊滅ですよね?(^^;
そりゃ猪俣さん、沼田に拘るだろうし、真田を恨むよね。
つか、金子さんが働いてる!?
0156人間七七四年2011/01/08(土) 07:42:53ID:Jkxdo6Gr
えーと、金子美濃守って実は二人いた・・・んでしたっけ?w
0157人間七七四年2011/01/08(土) 07:43:28ID:QrYkurgm
>>152
戦国DQN候補でありながら、ヘタレてしまう市松さんと権六・小六を並べるとは無礼な…
そこに直れ!成敗してくれる
0158人間七七四年2011/01/08(土) 14:42:18ID:Vesf48T6
〜金子美濃守〜と言った沼田の主力メンバー云々…

ダウト!
0159人間七七四年2011/01/08(土) 16:34:03ID:1keFmAl2
ある時、黒田官兵衛は手塚という男に下屋敷普請の奉行に命じた。
この手塚という男、心根は正直で真面目なのだが、ある欠点があり中々出世に恵まれなかった。
それを知っていた官兵衛が、不憫に思い大事の奉行に起用したのである。

そんなある日、広間で官兵衛が近臣と碁を打っていると手塚がやってきた。何事か言うつもりが、
「……ぁ…………」
実は手塚は生まれつき「どもり」で、しかも極度のあがり症であった。
その為初手から殆ど声が出ず、顔を赤らめあたふたするばかり。
そんな様を見ていた小姓や近臣はなにがなにやらと首をかしげていると、碁盤を見ていた官兵衛が振り向きもせず
「材木が足りないなら、金に糸目はつけない。必要なだけ買うがいい」
すると、手塚は安心した様子で一礼をし、広間を去っていった。

周りの者に今のやり取りの事を問われた官兵衛が答えるに、
普請用の材木が足りないので、材木屋で買おうか山から伐らせるかを尋ねに来たのだそうだ。
それに対しての答えが「いくらでも買え」だとの事。

なぜ言いたいことが分かったのか?なぜああいう不便な者をお使いになる?と近臣が問うと、
「根気良く付き合っていたら、言いたい事、やりたい事は大体解るようになった。
確かに聞き取りにくいかもしれんが、仕事は長年真面目に務めてくれている。
だったら言いたい事を理解するよう努めるのは、上に居るわしの領分さ」
碁の相手は感嘆せざるをえなかったと言う。
0160人間七七四年2011/01/08(土) 16:38:52ID:FUWVX7Fy
何と言う理想の上司
0161人間七七四年2011/01/08(土) 17:57:07ID:yWVtF2tQ
凄すぎるw そらラスボスにも警戒されるわw
0162人間七七四年2011/01/08(土) 18:03:41ID:kXH96JVa
又兵衛「主君とはこうあるべき」

長政「いや無理、無理」
0163人間七七四年2011/01/08(土) 18:49:39ID:Vesf48T6
人使いのうまさは信玄にも伍するな…
0164人間七七四年2011/01/08(土) 18:55:55ID:A00qfwHb
信玄は嫌いな部下でも適材適所で使い
官兵衛は部下のよい所を見て愛してる感じ。
0165人間七七四年2011/01/08(土) 20:11:29ID:kZtwCh+2
官兵衛は凄すぎるw
この人心収攬術は絶頂期のころの秀吉のそばにいて学んだのかな
生来のたまものだとしたらまさに天才
0166人間七七四年2011/01/08(土) 22:35:29ID:WEKcnV6a
普通に人を大事にする組織なだけじゃないの?
0167人間七七四年2011/01/08(土) 22:44:13ID:ToPlwLO2
というか官兵衛さんは有岡城に1年間幽閉されたとき、寝返り説、死亡説も流れる中
家臣団が結束して黒田家を支え続けたので、家臣団に対して恩があるからな。
0168人間七七四年2011/01/08(土) 22:51:52ID:gMzS+4Sq
大岡忠光じゃあるまいし相手が

「あぅ、あぅ」しか言わないのに理解出来るとかないわwww
0169人間七七四年2011/01/08(土) 23:06:40ID:RrZkjW6b
実際には材木の在庫を把握してて、その内聞きに来るだろうと予想してたんじゃないの?
0170人間七七四年2011/01/08(土) 23:13:47ID:50AfToIE
父ちゃん健在だし家督継げる年齢の弟たち居るし
ありゃ帰ってきちゃったの?だったら嫌だなw
0171人間七七四年2011/01/08(土) 23:21:04ID:ianFumFU
予測出来る程に、きっちり計画立ててその通りに物事を進められる人材だったんやね
予想外のトラブルを持ち込まない。なら、普請仕事は天職じゃないか
0172人間七七四年2011/01/08(土) 23:48:08ID:GtrGXPIJ
>>165
例えば小一郎。
秀吉の異父弟だから下層の出なんだろうけど、他の戦国大名と伍して、
文武共に遜色無くこなしているよね。
加藤清正なんかの賤ヶ岳の七本槍だって、碌な出自じゃないし・・・
秀吉の周りってそう言うの多いyんだよね。
0173人間七七四年2011/01/09(日) 03:56:37ID:w1h1wjF6
>>154
全部網羅してるやる夫真田って、相当好き者が書いてるんだな・・・
真田系の逸話は悉く「やる夫で見た」になってるw
0174人間七七四年2011/01/09(日) 17:42:34ID:cbJPsRPN
おまいらNHK系のBShiで、18時から江やるの知ってる?

スレまで建てたのに盛上らないんだが、、、
0175人間七七四年2011/01/09(日) 17:55:37ID:+ThPPn5R
女性が主人公の大河ドラマに興味はないなあ、最近の大河って女性視聴者向けだしね
0176人間七七四年2011/01/09(日) 18:51:52ID:HQ81Hmqe
大人気の鬼武蔵は、弟を殺した人間を配下にしたり、
弟たちの葬儀の日に敵さんを攻めたりしてるけど、
弟(蘭坊力)たちと仲悪かったわけではないよね?

何か兄弟との温かいエピソードあったら教えていただきたい。
鬼武蔵のいい話もあんまり知らんし。
0177人間七七四年2011/01/09(日) 19:00:44ID:gxYtjNoa
「心のやさしい鬼の城です。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。名物茶器もございます。」
0178人間七七四年2011/01/09(日) 19:09:12ID:e8yZnfeh
>>174
見はするけど期待は全くしていない
0179人間七七四年2011/01/09(日) 19:13:44ID:+dI9g+dx
>>176
鬼武蔵は賤ヶ岳の前、岐阜城に人質に入っていた弟の忠政を、自身で岐阜城に潜入して助けだした。
その時忠政を布団でぐるぐる巻きにして高石垣の上からたたき落とした。

布団にくるまわせたあたりが鬼武蔵の優しさ。
0180人間七七四年2011/01/09(日) 19:21:49ID:iFb/aUaS
>>179
なんという荒々しい救出劇w
高石垣の上から叩き落される衝撃に耐えるには布団一枚では足りないだろうな
何枚かぶ厚く巻いたのだろうが、窒息の危険もあっただろうに…w
0181人間七七四年2011/01/09(日) 19:28:14ID:e8yZnfeh
殺そうとしてるだろ、それw
0182人間七七四年2011/01/09(日) 19:59:55ID:a81FPY1A
それがトラウマで性格が・・・
0183人間七七四年2011/01/09(日) 20:17:27ID:j7cUEDWr
「俺が死んでも忠政を跡継ぎにするな」もやさしさです。
0184人間七七四年2011/01/09(日) 21:55:40ID:jJ4xZMNM
>>183
ほかの逸話はともかく、このくだりだけは案外本当かもしれんね。自分の娘にしても、
武家にではなくて、医者あたりがいいんじゃないか、と言っているし。

0185人間七七四年2011/01/09(日) 22:00:37ID:f+qXzV9m
忠政の器量は取るに足らないからやめとけと純粋に森家を心配してたと思ってた。
0186人間七七四年2011/01/09(日) 22:05:06ID:+dI9g+dx
文禄の役、

文禄2年(1593)1月、李如松率いる明軍4万3千余が小西行長の守る平壌に進攻。
行長はこの攻勢に耐え切れず平壌の蜂起を決断、軍勢をまとめ夜半密かに城を出、後方の
漢城へと向かった、

さて、平壌から漢城の間には黒田長政、小早川隆景・秀包親子らによって繋ぎの城が構築されていた。
小西行長は撤退の際、彼らにも共に漢城まで引くように誘った。だが黒田長政、小早川秀包らは

「敵の旗色を見ることもなく城を開けて退くなど、後に恥辱を受けること逃れがたい行為である!
小西殿は自ら戦ったのだから、早く漢城に退いて士卒を休息されるといいだろう。
我々は自分の城を引き払い、筑前宰相殿(小早川隆景)の城に軍勢を集結させ、漢城から反撃の軍勢が
出てくるのを待って先手をつかまつり、大明の人々との戦いを決する!」

これを聞いた行長は
「この上は是非に及ばず」

と、彼らを置いて漢城へと撤退した。

小早川、黒田勢撤退せず。漢城で行長からのこの報告に驚いたのは、秀吉より派遣された三奉行、
石田三成、増田長盛、そして大谷吉継である。
彼らはすぐに小早川隆景のところに使者を遣わし、

『急いで城から引き上げ、漢城へ入ってください!』

と伝えた。ところが小早川隆景、これを聞くと

「この度の戦、この朝鮮に渡海した最初から、日本に帰国することなど無いと覚悟していた。
私もこのように歳を取り、死んでも惜しくはない身であれば、大明の人々と向かい合い、
一戦して討ち死にすることも、老後の良い思い出となるであろう。

私一人が討ち死にしたからと言って、味方の弱みになるわけでもない。ここを開城して引き上げるなど、
断じて無い!」

そう言い切って使者を返した。
この返事に三奉行は慌てふためいた。

「防衛戦となる大河(漢江か?)を越えた場所で敵の大軍と戦うなど上策ではない!
そのうえここは外国であり、人々の心も計りがたい。
だからといって小早川殿を打ち捨てることなど、出来るわけもない!
一体どうすればいいのか!?」

石田三成と増田長盛は必死に相談し合ったが、どうしても結論が出ない。その時、
それまで押し黙っていた大谷吉継が立ち上がり、言う

「私が直接小早川殿の所へ罷り向かって異見を申し上げ、小早川勢を引き上げさせる!」

言い捨てると三成、長盛の返事も聞かず座を立ち、すぐさま隆景のもとに向かった。
そして隆景に対面し、理を尽くして撤退が最善策であることを説明。これに隆景もその理に服し、
吉継と連れ立って漢城へと退却した。


大谷吉継、小早川隆景を説得す。と言うお話
0187人間七七四年2011/01/10(月) 00:51:23ID:QHfsguYg
>>159
感動した
0188人間七七四年2011/01/10(月) 00:56:27ID:QHfsguYg
>>174
とうの昔に知っているぞ、勿論みた どこに建てたんだよ
0189人間七七四年2011/01/10(月) 01:34:07ID:AIiitz31
>>186
「この度の戦、この朝鮮に渡海した最初から、日本に帰国することなど無いと覚悟していた。
私もこのように歳を取り、死んでも惜しくはない身であれば、大明の人々と向かい合い、
一戦して討ち死にすることも、老後の良い思い出となるであろう。

「討ち死にする」ことが「老後の思い出」になる、って辻褄が合わなくね?
あと、これ多分既出だよ。小早川隆景の方にまとめられてるはず。
0190人間七七四年2011/01/10(月) 01:38:00ID:3dAYOV2j
>>185
忠政は森家基準だと異質だな
時代にはマッチしたが
0191人間七七四年2011/01/10(月) 12:43:30ID:kHqp8P8V
>>170
それだけならまだしも奥さんが弟に再嫁して身籠ってた日にゃ・・・
0192人間七七四年2011/01/10(月) 19:30:29ID:DX0dILY/
>>189
自分のじゃなくて他人の老後なんじゃね。
皆が語り伝えてくれるんじゃないか的な。
0193人間七七四年2011/01/10(月) 21:22:44ID:gHbCxNl3
戦国乱世の時代もはるかに過ぎ、人々が元禄の泰平を謳歌していたころ。花のお江戸を遠く離れた薩摩でも、
若者たちが酒を酌み交わし、料理に舌鼓を打ち、大言壮語を楽しんでいた。

「いやぁその昔、高麗での戦の折、わしらのご先祖は、唐人を造作もなく切り伏せたそうな。首を取るにも、
河原で石を拾うより易かったというぞ。」
「本当か!わしもそのような時代に生まれて、存分に出世したかったのう!」

「・・・わしが子供のころ、昌厳どの(山田有栄)に聞いた話と、だいぶ違うの。」
剣客・歌人として知られる、柏原市右衛門(幽静)がつぶやいた。

「わしが同じような事を聞いたところ、昌厳どのは『誰からそんな臆病な事を聞いたのじゃ!?』と激怒し、
ご自身の体験を語って下さった・・・

================================================

泗川城下の海に、波がきらめき潮騒が轟いていた。

薩摩の人々が日ごろ慣れ親しんだ、鹿児島湾や日向灘のような海ではない。
何万という明軍の、見たこともない圧倒的な人の海に、刀槍の波がきらめき、怒号の潮騒が轟いているのだ。

二十歳を過ぎたばかりの山田有栄も、この光景を目にして青ざめるしかなかった。同僚には泡を吹く者までいる。
「も、もうだめじゃ。このまま波に飲まれ、砕け散るしかないのか・・・」



不意に、頬に痛みと熱を感じ、我に返った。目の前に呆れた顔をした島津忠恒が、馬の鞭を握り締めていた。
「 出 陣 。 」若武者どもを鞭で打ち、正気に返した忠恒は、静かに告げた。

「頃は良し!敵の「気」は衰えた、今こそ出るぞ!!」
『その時』を告げる島津義弘の檄に、ようやく気力を取り戻した薩摩隼人たちは、城を飛び出した。

================================================

・・・『嘘偽りを申し、まことの己を隠すのは、臆病者のする事ぞ。』 昌厳どのは、そう仰せになった。」

市右衛門の話を聞いた若者たちは感じ入り、以後軽々しい話をする事が無くなった。
0194人間七七四年2011/01/10(月) 21:49:54ID:BIr3m6dv
戦う前「も、もうだめじゃ」

戦ってみたら「まるでゴミのようだ」

って事だろ。
0195人間七七四年2011/01/10(月) 22:14:39ID:Gsg+2emo
そんな>>193の若者たちそのものな事を言わなくても…
0196人間七七四年2011/01/10(月) 22:47:22ID:QHfsguYg
>>194
そうなのか?
0197人間七七四年2011/01/11(火) 12:58:19ID:aHs1UwMd

>>173
やる夫真田で紹介されてないエピだな!? 承知した!!
二話連投でいくよ〜〜〜。


天正十二年正月、北条氏配下の白井長尾氏では、真田家に対しての夜襲を計画して
いた。
徳川家と和睦を結んで一年余り。沼田開城が和睦条件の一つだったにも係わらず、
未だに沼田城を明け渡そうとしない真田家に対する示威行動が目的だと思われる。

が、元々この攻撃の立案者は長尾家でも北条家でもなかった。
天正十年の戦争の際、真田家から寝返った上州国人衆、林太郎左衛門、吉野太郎右
衛門、井上金太夫の三人である。


三人曰く、
「沼田近くの戸鹿野郷には金持ちが多い。ここを夜討ちして、たんまりと金を頂こ
うじゃないか」
「戸鹿野は勇者と名高い高橋右馬允の領地だし、奴等に赤っ恥をかかせてやれるぜ」
との事で、家中の侍達を口説いて回った。

元々はこのように、家中の末端から出た、押し込み強盗のような計画だったのだが、
最終的に集まったのは実に百三十人と言うから、この時点では白井長尾氏を挙げて
の計画になっていたようである。


元真田家中で地理に詳しい三人を案内人として、百三十人の強盗団は闇に紛れて戸
鹿野郷に潜入する。
……彼等の渡った後、秘かに川にかかる橋を外してしまう人影の存在も知らずに。

0198人間七七四年2011/01/11(火) 12:59:12ID:aHs1UwMd


ひっそりと静まり返る戸鹿野郷。
流石に静か過ぎやしないかと不審に思う者が出始めた頃、建物の陰、木々の陰から
わらわらと現れる真田兵。
「待ち伏せ!?」
「計画が漏れていただと!?」
「見ろ!橋も外されているぞ!!」
混乱する白井勢百三十人……いや、百三十人の中でたった三人だけは平然とした顔
をしている。

「いや、漏れたって言うか、元々お前等を殺す為に計画した事だし」
「俺達、真田家に帰参する事にしたんだ。手土産になってくれない?」
「あ、村の外には高橋殿だけじゃなくて金子殿の手勢も控えてるから、逃げ道はな
いよ?」
そう言うのはこの計画の発起人、林、吉野、井上の三人であった。


そう、真田vs北条の戦いで、真田家に未来はないと見て、家名存続の為に北条家
に身を投じた三人であったが、真田家はこの難局を潜り抜けた。
こうなると真田家に帰参したいが、ただ帰りたいと言っても許してもらえないだろ
う。
沼田国人衆の中心人物である高橋右馬允、金子美濃守に秘かに相談したのである。

二人は真田昌幸に三名が帰参したがっている事、手土産の手柄を立てる為に計略を
考えている事を報告。
昌幸から「金子、高橋と相談して良い様に計らえ」との許可を貰う。
高橋右馬允は予め戸鹿野郷に帰って、迎撃の準備を整えていたのである。


周到に準備された迎撃によって、あっと言う間に強盗団は壊滅。
橋を外された川を渡りきった、水練の達人が数人逃げ切ったのみで、残る百二十人
余りは全て討ち取られたのだという。


真冬の夜中に、群馬の山あいで水泳なんて、そりゃ死ぬわ。討たれた方が楽に死ね
るかも知れんぞ。(^^;
ちなみにこの功で三人は真田家帰参を認められ、高橋さんは加増されたという事で
す。……え?金子さん?さて、どなたでしたかな?

0199人間七七四年2011/01/11(火) 13:03:11ID:aHs1UwMd


徳川家と真田家が戦った第一次上田合戦の際の話。
真田家の家臣に深井某という者がいた。
この深井某、一日に三度手柄を立て、その全ての手柄に感状を賜ったという程の武
勇の主として知られていた。


真田軍の仕掛けるゲリラ戦によって徳川軍が総崩れになった時の事。

「待てぇ〜〜いっ!」
逃げて行く敵の中に、立派な身なりの武士を見つけた深井、「良き敵を見つけた」
とばかりに追いすがる。
「待て待てぇ〜〜〜〜!!」
総崩れの徳川軍の中、一人踏み止まって戦う馬鹿などそうそう居ない。勿論逃げる。
追う深井。
逃げる、追う。逃げる、追う。どこまで逃げても、どこまでも追う。

しかし、遂には追いつき、深井はまた一つ、兜首を討ち取る事に成功した。
「まったく往生際の悪い奴だぜ、一体どこまで逃げるんだか。なぁ、皆もそう思わ
んか?」
深井は周囲にいる筈の味方を見回し、苦笑を浮かべて言った。

が、何か様子がおかしい。
「いやぁ、俺等としては、お前がどこまで追いかけてくるのか、そっちの方が気に
なるなぁ」


右を見る。左を見る。も一度右。
敵。敵。……やっぱり敵。

後ろを見る……川。

「あ、あれ……? ここ……どこ?」
「敵陣」

0200人間七七四年2011/01/11(火) 13:04:08ID:aHs1UwMd


そう、敵を追いかける事に夢中になった深井、川を渡って敵陣の奥深くまで単騎で
侵入してしまったのだ。
勿論、味方は川端で追撃を止めている。
制止する味方の声さえ、彼は聞いておらず、自分が川を渡った事すら、気付いてい
なかったのだ。
「うっそ、俺、ヤバくね?」
いつの間にやら、三百人の敵兵に取り囲まれてしまったのである。


「……なんでウチの連中はこうも調子に乗る奴ばかりなんだ」
その報告を聞いた真田昌幸は頭を抱えた。
「しかし、深井が手柄を立てたのは間違いない事。ねんごろに弔って、遺族には見
舞金を贈りましょう」
悲しめばいいのか、怒ればいいのか、苦笑まじりの表情で、信幸も言った。
それを見た家臣、言いづらそうに口を開く。
「そ、それが……非常に言い辛いのですが……」

この深井某、なんと生きていた。
三百人に囲まれた状況で、包囲を突破し、川を渡って味方の陣地に帰還したのであ
る。
「ど、どうやって……?」
さしもの昌幸、信幸も口を開けて呆れている。
「い、いえ……本人の話では、『一生懸命頑張った』と。対岸から見ていた者の話
では、『鬼神の様な暴れっぷりだった』との事ですが……」

そう、何の計略もなく、ただただ夢中で敵中突破してしまったのである。
しかも、帰ってきた時には、かすり傷一つ負っていなかったと言う。


「そ、そうか……天晴れな事だな……うん……」

深井某は昌幸からお褒めの言葉を受け、更には真田の名字まで賜った。
その後は真田但馬守と名乗ったと言う。


いや、これ、叱っても良い様な気がするよ?(笑)
でも、これを叱ったら矢沢さんも叱らなきゃいけないような気もするからなぁ。
流石の矢沢さんも三百倍の敵とは戦った事ないだろうけど。(^^;

0201人間七七四年2011/01/11(火) 13:07:01ID:3ZxI8Laz
これも陸戦型モンスターか
0202人間七七四年2011/01/11(火) 14:07:13ID:3SiQ0UzQ
そんなフリークスなのに名前が某ってかわいそう
0203人間七七四年2011/01/11(火) 15:05:51ID:aHs1UwMd
>>202
伝わっていないのではなく、私が読んだ『加沢平左衛門覚書』には、深井三●となっ
ており、どうやら原本の文字が潰れるか虫食いかで読めない状態だったようです。
そのため、名前不祥という事で「某」としたのは私の判断です。

試しにググッてみたら深井三弥という人が昌幸の配下にいたらしいので、この人がそ
うなのではないかと思われます。
でも、三弥の後も深井氏はそのまま続いてるみたいなんだよなぁ。真田氏を名乗らず
に。
三弥の長男が真田、次男が深井氏を継いだって事なのかなぁ?詳しくはちょっと判ら
ないです。
0204人間七七四年2011/01/11(火) 16:42:11ID:TD6o4a/K
『微妙公御発語』より
あるとき微妙公こと加賀藩主前田利常に、家臣が話をした。

家臣「わたくし東海道を旅しましたところ、近頃は旅籠というものができておりまして
宿を貸すだけでなく、食事も作ってくれるのです」

つまり旅館、このころ登場したんですね。

「しかるに、木賃宿をにて宿を借りるだけで自炊し、むすびを作って旅するは当家だけ」

家臣さん、「旅籠に泊まっていいでしょ? 経費で落としていいでしょ?」
と言ってるわけですね。
さてハナゲさんのお答え。

「武士であれば、自ら飯を炊き、腰兵糧するは当たり前。戦乱になれば旅籠などやっていけまいよ」

平時にあって乱を忘れず。基本的にはいい話です。
また、ほかの大名家が腰兵糧を作らなくなったことも伺えます。

しかしこの戦時態勢維持の考えが三百諸藩ことごとく困窮し没落する原因になるのですが
それはスレの趣旨と違うのでここまで。
0205人間七七四年2011/01/11(火) 16:52:59ID:49mysqFh
経費節約のためですか。
さすが前田家は賢いですな(棒
0206人間七七四年2011/01/11(火) 18:46:18ID:9099Crvt
>197
どっちかというと両方とも悪い話じゃないか。
0207人間七七四年2011/01/11(火) 19:16:03ID:dH8D7VQL
池田輝政の家臣が寝ている間に大事な刀と脇差を盗まれてしまった。
周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。

家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」

嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は

輝政「あの佐藤忠信だって刀を盗まれた。寝入った時に刀を盗まれても
   何の恥にもならぬ。お前を悪く言う奴は処罰してやるから」

と言って家臣を大切にしたという。
0208人間七七四年2011/01/11(火) 19:27:35ID:xqN/tkYZ
源平時代での例えはよく知らないからわかりにくい。
たしか源義経の部下だよね。
0209人間七七四年2011/01/11(火) 19:33:54ID:49mysqFh
戦国武将たちがあこがれるスーパーヒーローだと思っとけば間違いない。
0210人間七七四年2011/01/11(火) 20:20:03ID:wfgEmEcm
俺たちが鬼武蔵にシビレるぅ!あこがれるぅ!ようにか
0211人間七七四年2011/01/11(火) 20:56:19ID:wZNSaqFG
江戸時代に入っても、鎌倉武士なんかは結構人気で、源平の武者で相撲番付「源平武者揃番付」なんかが作られたり
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike12.html
佐藤忠信は、下から二番目の右から5人目に入っていますね。それ以外でも、戦国武将のご先祖様がたくさん
0212人間七七四年2011/01/11(火) 20:58:20ID:Ojteo06g
>>199
それなんて戦国無双?
0213人間七七四年2011/01/11(火) 20:59:08ID:3mEYSU8s
佐藤忠信と聞くと狐のイメージしかない
0214人間七七四年2011/01/11(火) 21:06:40ID:4ed479ld
>>207
池田輝政の家臣が寝ている間に大事な刀と脇差を盗まれてしまった。
周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。

家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」

嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は

輝政「天下を獲ったあの家康公なんて戦場でウンコ漏らしてるんだぞ
    しかもウンコ漏らしたの家臣にばれてる。刀を盗まれたのなんて何の恥にもならぬ」

と言って家臣を大切にしたという。
0215人間七七四年2011/01/11(火) 21:07:19ID:j+m/BESF
佐藤忠信と戦国武将とのエピといえばこれだね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1989.html
0216人間七七四年2011/01/11(火) 21:08:23ID:3mEYSU8s
>>214
父・兄の敵だったとは言え、舅に対してなんてことを
0217人間七七四年2011/01/11(火) 23:11:53ID:evobFoeO
ウンコだって証拠あんのかよ?
0218人間七七四年2011/01/11(火) 23:55:07ID:Fr4eHNEL
いや、輝政的にはこうだ

池田輝政の家臣が寝ている間に大事な刀と脇差を盗まれてしまった。
周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。

家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」

嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は

輝政「この輝政なぞは夜の槍働きで伸し上がったのだ腰の物が無くとも
   何の恥にもならぬ。お前を悪く言う奴は処罰してやるから」

と言って家臣を大切にしたという。
0219人間七七四年2011/01/12(水) 01:01:20ID:tbpukY8c
さすが妻酷将軍器が違った
0220人間七七四年2011/01/12(水) 14:31:43ID:Ic1uIIUo
刀を盗まれた話で思い出した。


ある時、南部家の三戸城で南部晴政の刀が盗まれた。犯人は分からず、刀番は事の次第を晴政に説明すると共に、
自分を罰するよう願った。だが晴政はその申し出を不問にした。

「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
 刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。

 刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
 ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
 これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
 この事は沙汰すべきでない、放っておけ」
0221人間七七四年2011/01/12(水) 14:55:55ID:k2qbhP8u
その話が広まったしばらく後、南部勢苦戦の折晴政の身にも危険が迫っていた。
その時若侍が晴政の前に飛び出し、いつぞや刀を盗んだ石川五右衛門(仮)でござる、と名乗り出て奮戦。
主君の危機を救った、

とかの後日談つくと綺麗かつ逆に胡散臭くなるんだが…なさそうだな
0222人間七七四年2011/01/12(水) 15:11:30ID:KS74u7ye
王妃にセクハラした家臣の話そのまんまじゃねーかw
0223人間七七四年2011/01/12(水) 15:14:21ID:wFpzn690
秦の穆公にも似たような話があった
0224人間七七四年2011/01/12(水) 19:39:07ID:bfuGc3hk
ついに政宗のタイガーマスクが出たらしい
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/110112/trd1101121623003-n1.htm
0225人間七七四年2011/01/12(水) 19:46:07ID:7kSVjFfY
伊達直人よりねずみ小僧とかのほうがピンと来るな
0226人間七七四年2011/01/12(水) 22:29:28ID:Ak1plxtk
殿様ありがたや(-人-)
0227人間七七四年2011/01/13(木) 00:12:41ID:7r3HoIe2
>>225
盗みじゃん
0228人間七七四年2011/01/13(木) 00:15:52ID:Y4q2ZEPg
まあ戦国大名だって強盗みたいなものだしな
0229人間七七四年2011/01/13(木) 01:42:00ID:UoJs9FlB
地域繁栄へ「婿」に手荒い祝福
南魚沼・八坂神社で「花婿の胴上げ」

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/18749.html

>胴上げは450年ほど前、魚沼地方を治めていた坂戸城主・長尾政景が城下繁栄のため「婿養子を大切にしなければいけない」としたことが始まりとされる。
>現在は婿養子に限らず、同地区で前年に結婚した男性が対象だ。


知らなかったw
0230人間七七四年2011/01/13(木) 01:56:02ID:m0g72ZyU

ある時、毛利家の吉田郡山城で毛利元就の刀が盗まれた。犯人は分からず、刀番は事の次第を元就に説明すると共に、
自分を罰するよう願った。だが元就はその申し出を不問にした。

「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
 刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。

 刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
 ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
 これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
 この事は沙汰すべきでない、放っておけ」

その3年後、大内氏の月山富田城攻めに毛利も従い、大内氏が配下の裏切りにより尼子氏に敗北したため、

大内氏傘下の元就も撤退を余儀なくされる。

領国の安芸へ撤退する途中、石見の大江坂七曲りで、尼子軍に追い詰められた元就に
身代わりを申し出た若武者がいる。

そう、あの時名刀を盗んだ渡辺通である。

無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感動し、決して渡辺の家を見捨てないと誓い、
通の遺子の長を股肱の臣として重用。その態度は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、
長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々渡辺家のものが先頭の栄誉に与かることになった。
0231人間七七四年2011/01/13(木) 06:54:00ID:sFtI3Rrd
>>230
わかりづらいボケはやめとけよ
0232人間七七四年2011/01/13(木) 09:31:09ID:b02CZzE7
父の汚名を挽回した かよう に罪を着せるとは
>>230は万死に値する
0233人間七七四年2011/01/13(木) 10:08:03ID:8BxgkHc0
>>232
汚名を挽回してどうするんだよwww
0234人間七七四年2011/01/13(木) 13:26:19ID:ARLY4EF/
>>232
こんなところにジェリドがw
0235人間七七四年2011/01/13(木) 14:08:09ID:JVmQudpJ
虎姫 (中川秀成室)の一生を書いてくれ
0236人間七七四年2011/01/13(木) 15:46:10ID:iDvrZC+E
>>229
逆に婿を雪の上に放り投げる村もあるよな
どっちにせよ地元の若者と馬鹿騒ぎすることで垣根が無くなるんだろうけど
0237人間七七四年2011/01/13(木) 18:19:30ID:Tv5JYI/c
>>230
>長州藩の正月の甲冑開きの儀式

まさか代々「今年はどうしますか?」と藩主に尋ねる係かwww
0238人間七七四年2011/01/13(木) 18:31:12ID:weg6o8aZ
最近評判の芳しくない前田利家公のいい話

ある時、蒲生氏郷と浅野長政がその家来17、8人を一度に同名(同じ名字)に
したことがあった。
これを聞いた前田利家は

「人というものが、手柄を立てたい、よく奉公し身代を増やしたいと思うのは、
ひとえに『我が名字を打ち立てたい!』と念願する故なのだ。

それなのにあの者たちは、家中のものを多く同名にした。
天下を取られた秀吉公の真似をしているのだろうが、これは全く無用のことだ。

総じて一家一類というものは格別、大切なものである。
仮に我が家において同名にするとすれば、村井豊後、高畠石見、青山佐渡、
奥村伊代、篠原出羽…、といった面々であろうか。彼らは多くの忠節もあり縁も深い
者たちである。

だがわしは彼ら自身の為をもって、そのように同名字にするような事は決して無い。」


『量産型蒲生』などで有名な同名字政策ですが、その当時既にこういった批判も
あったことが伺える、前田利家による同名字否定のおはなし。
0239人間七七四年2011/01/13(木) 20:22:41ID:dKeKglmY
大坂冬の陣の話。加藤明成は大坂が近くなると加賀山小左衛門を斥候に出した。
戻って来た小左衛門の報告によれば

小左衛門「この先に神崎川があるから河を渡って対岸に陣を敷きましょう」

ということであった。しかし宿老の佃次郎兵衛と河村権七郎が反対した。

佃&河村「冬の、しかも夜に河を渡ったら兵士たちが凍えきってとても戦えない。
      夜明けを待って、明日渡るべきでしょう」

明成「なるほど。もっともじゃ」

明成は宿老の意見を取った。しかし、それでも小左衛門は意見を曲げなかった。

小左衛門「天下を握る徳川家に味方しているのですから勝負に拘っても仕方ありません。
      また、後々のことを考える必要もないのです。
      しかし、他家に遅れを取るのだけはいけません。他家よりも先んじて戦うことだけを
      考えましょう。遅れを取れば軍が無事でも国が危ういのです。
      天下の乱れた戦国の世と徳川の世ではもはや戦う道理が違います」

佃&河村「な、なるほど〜!」

小左衛門の考えに宿老も唸り、明成も小左衛門の意見を喜んで採用した。
0240人間七七四年2011/01/13(木) 20:42:52ID:gxFM5SG1
>>239
こいつ何言ってんだw わしは徳川に加担する者は好かぬのじゃ
0241人間七七四年2011/01/13(木) 21:21:16ID:TofP9uyL
>>239

つまり争いの相手は大坂方ではなく徳川方の内輪の中、ということだな
0242人間七七四年2011/01/13(木) 22:46:49ID:gxFM5SG1
>>241
なるほど! 馬鹿農民には難しいでござる
0243人間七七四年2011/01/14(金) 12:26:56ID:BwL4ywct
>>242
なんか納得しているようだけど、お前の240時点の思考が全くわからん。
どう考えても241解釈になるだろ?
誰か解説を。
0244人間七七四年2011/01/14(金) 12:38:05ID:q1IAfuRd
そもそも240が何を言ってるかが分からない
0245人間七七四年2011/01/14(金) 13:07:58ID:rRSfwk49
歴史を齧ってまだ間もないのか、或いは単に智謀が氏真さん並だったのか
うーむ
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