戦国ちょっといい話24
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0001人間七七四年
2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話23
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0003人間七七四年
2010/12/25(土) 20:53:46ID:wyoCucGR陰陽五行説では木性の陰に割り当てられており、
ここから日本では「きのと」(木の弟)ともいう。
乙の字は、ジグザグな形を形取ったもので、
そこから、種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態の ...
0005人間七七四年
2010/12/26(日) 01:15:17ID:vhtMt2S4∧ ∧ (ハハ)
( ´・ω・) (ヮl` )
( つ旦O O旦⊂ヽ
と__)__) 旦 旦 旦 旦 旦 旦 (_(_つ
濃茶 薄茶 玉露 煎茶 番茶 出涸し 日当山一のちゃのみ
;; コポ
旦 旦 旦 旦 旦 コポ 旦 旦 旦 旦
生茶 雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン お〜いお茶 髭茶 八女茶 狭山茶
旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦
緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯 ミユキのお手製太陽バクバク茶
0007人間七七四年
2010/12/27(月) 19:44:13ID:FNU0RgcN「おぅ志摩よ。国許の宮下藤右衛門が、大坂の弟に通じ、玉薬を横流ししておった。成敗したいが、あやつも聞こえし
強者だ。ここは、お前に討手を頼みたい。」
「せっかくの仰せですが、その儀は倅にお申し付けくだされ。」
「?三十郎にか?」
「はい。倅・三十郎、十七歳になりますが、鼠の首も取ったことがございません。ここは是非とも大事の場を踏ませ、
器量をご確認ください。」
「よかろう。三十郎を呼べ!」信之の前にまかり出た祢津三十郎は、上意討ちの命を謹んで受けた。
しばらくして後、上田から江戸にやって来た宮下藤右衛門は、さっそく信之のもとに報告に現れた。
「藤右衛門、大儀である。上田表は無事か?城中に変わった事はないか?」
「はい。国許に異常はございませぬ。」
「そうか!実は、お前について不審な噂を聞いてな。まあ、今日は休んで良い。三十郎、付き添ってやれ。」
「……はっ。」
藤右衛門に続き立ち上がった三十郎は、父の方へチラチラと視線を送ったが、幸直はにらみ返すばかりだった。
そのまま藤右衛門が廊下へ出た時、三十郎は動いた。
「上意である!藤右衛門、覚悟!!」
「小僧がっ!!」
藤右衛門が脇差に手をかけた瞬間、三十郎は飛び違いざまに斬りつけた。なおも逃げようとする藤右衛門に、三十郎は
返す刀で二の太刀を与え、崩れ落ちるその身体を押さえつけ、首を取った。
見事に上意討ちを果たした三十郎だったが、家中全体の評価は低かった。
「三十郎め、藤右衛門を斬った手並みは見事だが、親父殿の顔色をうかがい、にらまれてもなお、しばし動けなんだ。
肝が成っておらぬわ。今時の若い者はダメじゃのぅ。」
評価が変わったのは、この二人の会話の後である。
「志摩よ。三十郎、なかなかやるではないか。」
「はっ、有難き仰せ。それにしても、あの際に三十郎は『もう斬っても良いか?』と眼で訴えて来ましたので、
私も『殿の御前で万一の事あってはならぬ。部屋を出てからにせよ。』と目線を送りました。あやつはそれに応え、
殿の御座所を出た所で、仕掛けました。親の欲目ながら、場を外さぬ出来る男に育ってくれました…」
0008人間七七四年
2010/12/28(火) 10:04:35ID:ymEyzo9q0009人間七七四年
2010/12/28(火) 20:17:57ID:Tq63vMWB上州沼田城には城主真田信之の正室小松がいた。
その小松から家中の妻子に対してこのようなことを言った。
「出陣の留守は誰もが心細いものである。城に来て心を共に慰めなさい。」
家中の者たちはありがたい事だと皆沼田城に集まり、一人も残さず城中に入れ集められた。
さて小松はただ単に互いに慰めあうために妻子を留め置いたわけではなかった。
親を子が攻めるという事態においても
夫に付き従う臣下が心変わりを起こさぬよう、その妻子を人質にするためだったのだ。
この話が世に伝わると「誠に夫人には稀な謀略である」と評判になった。
0010人間七七四年
2010/12/28(火) 20:25:50ID:1HTm7sbT真田信之の妻、小松殿と関ヶ原と沼田の人々・いい話
既出っぽい?
0011人間七七四年
2010/12/29(水) 19:18:31ID:qArgZ48m「どうじゃ越中!障壁画はこのように小振りで、細工が細かいものが見栄えが良かろう。」
「肥前よ、それは違う。障壁画というものは、大型で迫力あるものの方が良いぞ。」
二人は口論になり、麓に下りても未だ言い争っていた。
「いや、小さい方が良い!」
「何を言う、大きい方だ!」
「いやはや、楽しそうなお話ですなあ。」
「!ハ、ハハ…これはこれは……」
「申し訳ない、宗匠……」
ここで二人は同行の知人、すなわち千利休のことを思い出した。
「そ、そうだ宗匠!今の我らの話、どうか宗匠にもご批評いただきたい!」
「さて。お武家の話を、私などが批評するも僭越でございますが…お武家の話に例えれば、
馬の大きさや体格の大小で、勇士かどうかが決まるのでしょうか?」
「……ご意見、至極ごもっともにござる………」
のちに利長は側近との雑談で、
「わしは戦場など少しも怖くは無かったが、太閤殿下の御前に出ること、大徳寺の春屋和尚の前で座禅を組むこと、
そして利休宗匠の前で茶を点てること、この三つだけは怖かった。」と語った。
0012人間七七四年
2010/12/29(水) 19:27:36ID:Dc4tBuOvしかし、千利休長身説が本当だった場合、この逸話の印象が変わるような
0013人間七七四年
2010/12/29(水) 19:44:46ID:wHwZo8xY0014人間七七四年
2010/12/29(水) 19:54:58ID:h23ODXU5強烈に印象に残ってるな。
0016人間七七四年
2010/12/29(水) 20:11:23ID:h23ODXU5いや逸話というかそのまま。
記録上、千利休が行った最後の茶会は、利休切腹の年の天正19年(1591)、
徳川家康一人を客として招いたもの(利休百回記)、ってだけの話。
どんな茶会だったか何が話されたか、一切不明。
ちなみにこの茶会のために利休が自分で作った竹茶杓「泪(なみだ)」が、後で古田織部に
形見として渡された。
0017人間七七四年
2010/12/29(水) 20:12:38ID:FWKg+blQ家康が利休にうすーい味噌汁ご馳走して、
利休に「何このお湯?w お椀の底が見えるんだけどwww」なんて言われた話も残ってるし
0018人間七七四年
2010/12/29(水) 20:20:45ID:h23ODXU5家康と利休の関係を超解釈して
「利休は実は家康のスパイで秀吉暗殺を狙っていたんだよ!!!」
「Ω ΩΩ< な、なんだってー!?」
という話をやってたw
0020人間七七四年
2010/12/29(水) 20:52:21ID:+3t3Yv4cありがとうございます
なるほど、茶会の記録が残っているけど、
なにが話されたかは残っていないと。
で、テレビ番組に勘ぐられたわけだw
0021人間七七四年
2010/12/29(水) 21:53:54ID:/N/4LqDH0023人間七七四年
2010/12/29(水) 22:59:42ID:BmYoqnoO.,,iilllll!!゙゛ .゙゙゙゙゙゙lllllllll!!゙ .゙゙゙゙゙゙゙lllllll iiiiii ´゙_,liilllll!!゙゙
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0024人間七七四年
2010/12/29(水) 23:55:45ID:xJM7hTA20025人間七七四年
2010/12/30(木) 21:25:24ID:qYHr6L2Z「間もなく城から討って出るので、みな本陣へ退いて、戦うべし。」
との噂が流れた。噂を聞いた森家の兵たちは、われ先にと竹束の備えを捨てて退いていった。
「情けなや。先代がご覧になれば、何と言われるか・・・」
味方の体たらくにタメ息をついた森家の家老・各務兵庫助元正は、長刀を杖にして五十路を迎える身を引きずり、
みずから前線に立つべく足を運んだ。
「ん?あれは弥平次か?」
無人と思われた竹束の備えの中に数十人の兵がおり、一人の侍が檄を飛ばしていた。鉄砲頭の若尾弥平次であった。
「下知なくば、ここを去ってはならぬ!下知に従わぬ者は、後で罪に問う!」
檄にも関わらず何人か退いた雑兵もいたが、弥平次の意気は衰えない。
「よいか、城方が来たら時分を見てわしが合図するゆえ、一斉に撃て。その後、わしが一番槍を入れてくれるわ。」
「おーい・・・」
槍をしごき、手に唾して気合を入れる弥平次に、どこからかやって来た同僚の右京が声をかけた。
「何とは無しに、みな退いてしもうた。わしも退こうと思ったが、あまりの心許なさに戻ってみれば弥平次、
おぬしが居るではないか。どうするつもりだ?」
「どうするも何も、他人はどうあれ、わしは『退け』との命を聞いておらん。ましてや、殿より先陣や鉄砲など
預かる身が、事の実否も確かめずに退くわけにはいかぬわい。お前も槍持つ身なら、腹を決めい。」
「その言葉、もっともじゃ。」右京は弥平次の近くに来ると、その横に自分の槍を置いてしゃがみこんだ。
「おい、何じゃそれは!敵が来れば、その槍でわしを転ばし、己が一番槍せんとの心得かっ!!」
「そ、そんなつもりはないっ!」一喝された右京は、あわてて槍を引き上げた。
「うむ、それで良い。戦場では味方といえども気が立っており、些細な事で災難に会いかねん。注意せい。」
「いやあ、すまんすまん。それにしても弥平次、おぬしは本当に動じぬのう。」
「先陣においては『天狗の雑説』と言って、噂によって聞き崩れ・裏崩れを起こす場合がある。
およそ前線を預かる身は、物事を静かに聞き届け、進退すべきものだ。覚えておけい。」
「さても聞こえし弥平次の言葉よ。」
後ろで黙って様子を見ていた元正は、目を細めて微笑み、本陣に帰っていった。
若尾弥平次、十八歳で森長可より感状を授かったのをきっかけに、頭角を現した男だという。
0026人間七七四年
2010/12/30(木) 21:43:39ID:RNPfTcUl0027人間七七四年
2010/12/30(木) 21:44:21ID:mmcAw9aP0028人間七七四年
2010/12/30(木) 21:55:57ID:uFPUDKh40029人間七七四年
2010/12/30(木) 23:42:18ID:8747H0z5gkbrgkbr
0030人間七七四年
2010/12/30(木) 23:48:48ID:KUCkbdHA忠政の代以降は土木工事の業者さんみたい。
0031人間七七四年
2010/12/31(金) 00:10:45ID:Zv33iGvp0032人間七七四年
2010/12/31(金) 00:31:23ID:nAo6VTIM「一揆とか弱い連中を一方的に殺戮するならともかく、こっちにも犠牲が出るような
戦をするのは嫌でござる!」
って人だからなあw
鬼武蔵が「忠政には家督を継がさせないように」って言ったのは、たしかに
人物をよく見てるわ。
0033人間七七四年
2010/12/31(金) 00:38:06ID:Zh6AHeUt優秀な戦国大名じゃん。
「良き敵見つけたり」なんて発想をする馬鹿が出てくるのは講談の中だけだよ。
0034人間七七四年
2010/12/31(金) 00:38:16ID:11ix+aVI0035人間七七四年
2010/12/31(金) 00:43:08ID:lrHtuvjp0037人間七七四年
2010/12/31(金) 00:55:33ID:7+0yu5Jb0038人間七七四年
2010/12/31(金) 01:00:03ID:Zv33iGvp0039人間七七四年
2010/12/31(金) 01:46:50ID:8WCSoI7c>「良き敵見つけたり」なんて発想をする馬鹿が出てくるのは講談の中だけだよ。
義弘がまさにそうじゃね?まぁふるぼっこされたけど
0040人間七七四年
2010/12/31(金) 06:24:13ID:11ix+aVI親→圧倒的不利な状況で戦って討死
長兄→一番乗りしたけど深入りしすぎて討死
三兄→主君守って討死
四兄→同上
五兄→同上
次兄(親代わり)→アレ
そら慎重にもなるわ
0041人間七七四年
2010/12/31(金) 13:00:13ID:7MPrldpW5代目で津山藩は召し上げられちゃうけど
0042人間七七四年
2010/12/31(金) 13:12:05ID:b9p6U2b9忠政からすると孫世代か?
でも家としてはその後も大名として存続しているから。
0043人間七七四年
2010/12/31(金) 16:57:13ID:O3ShwE8j徳川家康の勘気は解かれ、榊原康政を始めとする上田合戦への参加者は、謹慎状態から開放された。
康政のもとには、友人の本多忠勝と井伊直政が訪れ、祝いの酒宴が開かれることになった。
「しかし、このたび康政殿が、身も省みず大殿を諌め、御父子の仲を修復したる事、徳川家のため…いや、
天下のためのお働き。いかなる勲功にも勝りますぞ!」
「ふふん、そうか?」
“幼にして沈静”と言われたさすがの康政も、年下ながら自分より所領の多い直政に持ち上げられ、気を良くした。
「だがのぅ小平太よ。直政の言う事もっともだが、わしには一つ心得ぬことがある。怒らずに聞いてくれい。」
「なんじゃ、平八?わしとお前の仲じゃ、遠慮なく言ってみろ。」
康政にうながされた忠勝は、神妙な顔をして、話を続けた。
「うむ。こう言っては何だが、われら三人、『徳川にその人あり』と天下にその名を知られる身よ。」
「…まあな。」
「そのお前が、佐渡(本多正信)の後ろに控えておったのが心得ぬ。お前ほどの男が、先頭切って上田城に
バーッと乗り込み、ガーッと崩せば、関が原の陣に間に合い、大殿に怒られずに済んだのではないか?」
「……………」
「い…いや忠勝殿、それはですな……」
それ以前に、康政や正信は上田城なんぞ放っておいて、さっさと中山道を進みたかったのである。
だが、秀忠や若手が血気に逸ってそれを許さず、康政らはせいぜい真田にスキを見せないようにしたり、
深入りをしないよう戒めるしかなかったのである。そういう立場なのである。
ついでに言えば、康政・忠勝ともにこの時52歳。上野館林10万石と上総大多喜10万石の大名格であり、
そろそろ孫の一人や二人生まれている立場である。いい大人なのである。
「…でも、忠勝殿はこれでいいんですよね。あははは……」
「そうだよな、平八は変わっちゃダメだよな!ハッハッハッハッハッハッ!」
「?おう、そうだろうとも!ガハハハハハハハハ!!」
三人一同に打ち笑い、その夜は和やかに宴の時を過ごしたという。
0044人間七七四年
2010/12/31(金) 17:12:03ID:u2v4eWAV0045人間七七四年
2010/12/31(金) 17:13:38ID:IOseUWVO0046人間七七四年
2010/12/31(金) 18:07:53ID:lrHtuvjp0047人間七七四年
2010/12/31(金) 18:43:22ID:11ix+aVI0048人間七七四年
2010/12/31(金) 20:49:38ID:skdbaA+B0049人間七七四年
2011/01/01(土) 08:53:14ID:/83kieUQ近習の粟屋弥次郎らが呼びかけても、毛利元就は答えようとせず、初日の出に向かって瞑想するのみであった。
再三に渡る弥次郎の呼びかけに、やっと目を開いた元就は、近習たちに問いかけた。
「お前たちは、元旦を祝う理由を知っておるか?」「いえ・・・」
「では教えてやる。巷では理由も知らず日の出を拝み、昆布・栗を食い屠蘇など呑んで、やれ無病息災だ子孫繁栄だと
言って浮かれ、元旦という日を深く考えてもおるまい。
志ある者は違う。元旦は元三とも言い、年の始め、月始め、日の始めなれば、まずは早起きして一年の計を練るのだ。
“一年の計は早春の一月にあり、一月の計は一日にあり、一日の計は早朝にあり”。
例えば昨年を振り返るに、東国は豊作、西国は水害多く実り少なかった。
ならば、今年我らが考えるは、内は倹約に努め、民の貧しきを考えた法度を案ずること。
外は東からの兵火に応じる、あるいは東に攻める際、敵の兵糧豊かなるを予想し、長き陣にならぬよう勤めること。
どうだ?これだけ取っても、元旦だからと寝坊して、いきなり祝いの膳など取って浮かれる暇はあるまい。
一年の計を定めてから、ゆっくり食事を取れば良いのだ。さあ、太刀をよこせ。」
言われた近習たちは元就の部屋を見回したが、それらしき物は見当たらない。しかし、元就の話を熱心に聴いていた
粟屋弥次郎ただ一人は、ふと気づいて立ち上がり大広間に向かうと、正月飾りとともに備えられた具足から
太刀を取って戻った。
「殿、これでございますな?太刀も元旦にあり、と言ったところですかな?」
「うむ!弥次郎は、さっそく思う所あったようだな。」そう答えて、元就は今年始めての笑顔を見せた。
0050人間七七四年
2011/01/01(土) 09:40:47ID:VNcuJ8RXこういうのもあったよ。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x050.htm
0054人間七七四年
2011/01/01(土) 11:12:15ID:+amXjPnW0055人間七七四年
2011/01/01(土) 11:22:35ID:WXIpDj9Z0056人間七七四年
2011/01/01(土) 14:18:24ID:wcg46Jt70057人間七七四年
2011/01/01(土) 16:24:00ID:e0UmrO+A戦国時代には、お正月の宴会のゴタゴタで家が実質潰れたこともw
屁と恨み
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html
0058人間七七四年
2011/01/01(土) 17:15:50ID:mTC5PiA70059人間七七四年
2011/01/01(土) 19:27:11ID:aPin/+Z4アエラの12月号付録の武将の書状カレンダーが
めちゃめちゃ嬉しい2011年です。
昨年、ずんだcityの文学館にいった折
伊達家の正月料理の再現があったので興味深く激写してきた。
写真の腕はアレなので気にしてはいけない・・・
http://www.death-note.biz/up/n/14982.jpg
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http://www.death-note.biz/up/n/14990.jpg
時代は明記してたかどうか失念したが、雑煮に入ってるものが
以前こちらで紹介されていた政宗の頃のものとほぼ同じだったので
あまり時代は変わらないと思う。
いい話って訳でもないが季節ネタってことで。
0060人間七七四年
2011/01/01(土) 19:37:01ID:gcZjNpZM「ぶたないで」ww
>>59
実際見ると随分と豪勢だな
食ってみたいが当時の味つけは現代人の舌にはあわないのかな
0061人間七七四年
2011/01/01(土) 19:46:02ID:WXIpDj9Z見た目は豪華だけど
0062人間七七四年
2011/01/01(土) 21:01:57ID:R2O4GMX30063人間七七四年
2011/01/01(土) 23:14:02ID:cI2cLIwC0064人間七七四年
2011/01/01(土) 23:37:26ID:R2O4GMX3当然、黒田はドロドロなイメージでお願いしたい
0065人間七七四年
2011/01/02(日) 01:01:49ID:/985WbCZある合戦でのこと。清蔵が陣屋で寝ていると、信長が突然の出撃命令を出した。
ぐっすり寝ていた清蔵は出陣の貝の音を聞くと大いに慌て、寝床から飛び起きると
そのまま戦場に走った!到着した!「やれやれ、間に合った」その時、気がついた!
伊藤清蔵はついうっかり寝ていたときのままの姿、すなわちフンドシ一丁だけで戦場へと駆けつけてしまったのだ。
ふんどし以外、何も身につけていない、裸である、当然、武器も何も手にしていない。これには
清蔵本人も気がついたときは大いに驚いたが、その戦場にある敵や味方はもっと度肝を抜かれた。
「な、なんだあいつは、武器も持たず裸で戦う気か!?頭がおかしいんじゃないか!?」
敵味方から一斉に奇異の目で見られる清蔵。その視線に耐えられなくなった彼は
「うわああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
ヤケになった。
彼はフンドシ一丁の姿で、素手で、敵に向かって突進した。
武器も持たない裸の男が襲ってくる。敵もその、この世のものとは思えぬ光景に少々気圧された。
そのうえ伊藤清蔵は元々、信長の黒母衣衆に選ばれるほどの猛者である。強い。
最初の不幸な遭遇者をぶん殴って槍を奪うと、その槍でバッタバッタっと敵をなぎ倒す。
裸体のバーサーカーと化した清蔵に敵も気を飲まれ次々と犠牲となる。
気がつけば戦場には敵の死骸が累々と残され、その先にはふんどし一丁の殺人鬼、といった
地獄絵図が出来上がっていた。
この清蔵の活躍に、信長も「天晴!」と自ら声をかけ大いに褒めたたえたそうである。
そんな、伊藤清蔵さん、裸で大活躍と言うお話。
0066人間七七四年
2011/01/02(日) 01:38:14ID:6PF5j4B60067人間七七四年
2011/01/02(日) 02:00:22ID:uZ4+fJ5M0068人間七七四年
2011/01/02(日) 02:09:49ID:4OQCBe5m0069人間七七四年
2011/01/02(日) 02:55:25ID:yGEjdknU0070人間七七四年
2011/01/02(日) 05:43:21ID:POD9LQfW0071人間七七四年
2011/01/02(日) 06:25:22ID:5Row+Qpg0072人間七七四年
2011/01/02(日) 08:35:53ID:GlwnJVbh0073人間七七四年
2011/01/02(日) 09:18:20ID:JwsF0j5yつうかフンドシ一丁の男に殺された敵兵士たちの無念は想像するに余りあるw
0074人間七七四年
2011/01/02(日) 09:24:46ID:RqF8HveI長久さんはまともな装備をしない方が活躍するキャラなのか?
0075人間七七四年
2011/01/02(日) 09:45:46ID:RjQttS5F刀や槍さえ当たらなければ、逆に重い鎧を着けてるより裸の方が身軽で強いんじゃないか?
0077人間七七四年
2011/01/02(日) 10:03:51ID:3c+m0KrM避ける技量さえあれば強いかもな
0080人間七七四年
2011/01/02(日) 11:11:02ID:+MTiclYJ忠勝は東国無双だからな
よほど命が惜しくない者じゃない限り、近寄ろうともしないだろう
それに対して、直政は家康ですら夢中になるくらいの超絶美男子
敵も味方も「ウホッ、井伊男!」とタックルをかましてくることは想像に難くない
重装備にせざるを得ないのも、傷だらけなのもやむなし、といったところだろう
0081人間七七四年
2011/01/02(日) 11:26:05ID:iHSzXeX50083人間七七四年
2011/01/02(日) 12:03:57ID:Ps+00b1o0084人間七七四年
2011/01/02(日) 12:23:25ID:GlwnJVbhなんでも鉄砲の使い手らしい。
0085人間七七四年
2011/01/02(日) 12:39:16ID:epnRnGCQ秀吉「日輪の子のわしが銃弾に当たるわけない」
鬼武蔵「そうだな。名将が銃弾に当たるわけ無いよな」
セジウィック将軍「だいたい、あいつら象にさえ弾を外す腕だしな」
0086人間七七四年
2011/01/02(日) 15:32:51ID:4ngxtFfmパジャマで駆けつけたのを思い出した
0087人間七七四年
2011/01/02(日) 15:54:27ID:9wHJdKru「何してんの遅刻だよ!」と叫ばれ
ランドセル背負って町を激走した奴なら知っている
0088人間七七四年
2011/01/02(日) 18:22:53ID:9GcPxagR0090人間七七四年
2011/01/02(日) 18:36:01ID:xYD9XC/0逸話ではないが大晦日にやっていた「大戦国鍋TV」という番組で、
お正月に城を落とされた部将として、よりにもよって天庵様が「天才的な戦下手」として
紹介されてた。多分いい悪いスレの影響w
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/corner/daisengokunabe/index.html
0092人間七七四年
2011/01/02(日) 18:52:22ID:0wClpZpJねえ、もしかして、ひょっとすると、
それって、昔、正月になると先代の林家三平がやってた、
和尚がtwo???
このネタのどこが面白いかと言いますと・・・
0095人間七七四年
2011/01/02(日) 22:46:54ID:a7bxF7TD0096人間七七四年
2011/01/03(月) 16:05:11ID:IneLxYYjヲチは忘れたけどw
0097人間七七四年
2011/01/03(月) 16:23:35ID:YjbfaFUK「わしが信長公にご奉公に出たのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿の跡目を継ぐこととなり、
合計で1450貫となった。
その後越前府中3万3千3百石を下され、能登一国を下され、
さらにその後秀吉公から加賀の石川郡、河北郡を下され、さらに越中も我らが手により
切り取りにした。
このようにわしは若い頃から色々と骨を折り、主君から引き上げていただき、今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」
前田利家流新入社員への心得(?)というような逸話である。
0099人間七七四年
2011/01/03(月) 18:38:32ID:IVtnMDmk0100人間七七四年
2011/01/03(月) 18:39:11ID:CMhZf/Gu0101人間七七四年
2011/01/03(月) 21:39:53ID:TyTIM82V0102人間七七四年
2011/01/03(月) 23:28:45ID:SOr+bBPG0104人間七七四年
2011/01/04(火) 00:19:03ID:4i0NMg49怒りを抑えることを自らに課していた家康公だが、この時ばかりは怒り顕にして、
「武田勝頼に大将の器量なし。
勝頼は勇士を使う法をまるで知らない男だ。
鳥居のような豪の者には、敵であっても命を助け、その武勇に応えるべきである。
これは味方に忠義を教えることにもなる。
それを、主君のために命を賭けた忠義の士を磔にかけるなど、とんでもないことだ。
見ていろ。勝頼の運が尽きるときは、譜代の武士も代変わりして敵となることだろう。」
と言ったという。
0105人間七七四年
2011/01/04(火) 14:58:56ID:0wAMeUdu「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
でも信長公寵愛の小姓に嫉妬して斬り殺したら追放された。反省はしてない。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿から強引に家督を奪い
合計で1450貫となった。
その後、出世のために一向門徒を殺しまくったら越前府中3万3千3百石を下され、
能登一国を下され、土壇場で上司の柴田勝家を裏切るというウルトラCで秀吉公から
加賀の石川郡、河北郡を下され、さらにの元同僚の佐々成政が孤立して弱ってたので
越中も我らが手により切り取りにした。
このようにわしは若い頃から色々と汚い手を使い、主君から引き上げていただき、
今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」
0106人間七七四年
2011/01/04(火) 15:10:06ID:JVJouXOv0107人間七七四年
2011/01/04(火) 15:27:29ID:nlmKLoph0109人間七七四年
2011/01/04(火) 16:40:48ID:yP2btYx9「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった(チラッ)。この時初めて50貫を頂いた(チラッ)。
0110人間七七四年
2011/01/04(火) 17:13:29ID:eezC2J2+名乗りをあげてたよな・・・
家康も少し警戒してたみたいだけど、経歴的に全然敵じゃないだろw
0111人間七七四年
2011/01/04(火) 17:18:25ID:nlmKLoph分裂状態の豊臣大名を糾合しうる唯一の人物ではあった。
0112人間七七四年
2011/01/04(火) 18:45:35ID:/jAvkES6あの時では確かに又佐くらいにしか出来なかったな
ただ、利長が遺志を継いでそれやってたら、家康に取り潰されてた恐れはある
0113人間七七四年
2011/01/04(火) 19:36:30ID:VR4k0w+i0115人間七七四年
2011/01/04(火) 20:01:53ID:rTQaRzwq豊臣政権内部に友達が多いから侮れない
0116人間七七四年
2011/01/04(火) 20:28:54ID:OBCOKX6Jあれ?最近どっかで聞いたような?
0117人間七七四年
2011/01/04(火) 20:37:41ID:v0tL8FEQ秀吉が信長ばりに外様大名ぶっ潰して織田系大名配置してたら、
家康が同じように250万石持ってても形勢はわからなかったな
0118人間七七四年
2011/01/04(火) 21:08:17ID:/jAvkES6まとめで門番に対していちゃもん付けた利家様ご一行の中に氏郷いたよねw
印象ではもっとお行儀よさそう…って言っても、先陣切って
ノブ様に「おめー、いつまで一兵卒の気分でいるんだ」って言われたんだっけ
あの人も人のこと言えないけどw
>>116
やめてよ…。酒が不味くなる
0119人間七七四年
2011/01/04(火) 21:22:26ID:bdiAfRl+前田利家は豊臣秀吉の関東征伐の時、秀吉の機嫌を甚だ損ね(秀吉に無断で
無血開城したことが原因らしい)、大変立場が悪くなった。
こうなると利家が日ごろ出入りを許し目をかけていた者たちも一気に敵となり
利家を非難しはじめ、秀吉の前であからさまに利家の悪口をいうものも多かった。
利家の軍勢は1万を超えていたのに
「前田殿のご人数は4,5千といったところだそうです」
などと過小に伝えたりもされたそうだ。(つまり軍役をきちんと果たしていない、ということか)
木村常陸介重茲などは利家と兄弟のように親しくしていたのに、そんな彼でさえ
八王子城攻めの頃は利家のことを秀吉に悪し様に報告していたそうだ。
こんな中でも蒲生氏郷と浅野長政などは秀吉に向かって利家を弁護したと言う。
さて、そんな利家が秀吉との関係を修復し、再び重用されるようになると、
利家の京伏見の屋敷には、利家と関係を結びたい人々により門前市をなすという活況となった。
このころ利家は、前に自分に対して悪し様に言った連中を陰で笑っていたそうである。
(ホントにそう書いてある。『前廉支へ口を仕候衆を、陰にて御笑ひなされ候』(村井勘十郎覚書))
利家さんの生涯に何度かあったうち、最後の方の浮沈のお話。
0120人間七七四年
2011/01/04(火) 21:24:21ID:KCzVLr070121人間七七四年
2011/01/04(火) 22:32:45ID:dquYRhtL幕末まで大藩を保った前田家はもっと評価されていいと思う。
内ゲバ起こして潰れた家もごろごろあるわけだし。
0122人間七七四年
2011/01/04(火) 23:20:38ID:1TsHjgBe逆に、そう家だからこそ100万石を保てたんだろうけど〜
0123人間七七四年
2011/01/05(水) 00:46:00ID:TNPjoUr9・現在の東大赤門を建てる
・禁門の変で負ける
・アップルジャムをつくる
0125人間七七四年
2011/01/05(水) 07:56:17ID:ocM7vvGm0126人間七七四年
2011/01/05(水) 08:18:57ID:OwE9n3On0127人間七七四年
2011/01/05(水) 08:45:11ID:U+fECar9幕末は勤王派の跡継ぎと重臣を粛清して、佐幕派で藩内を統一したと思ったら、第二次長州征伐で幕軍が負けて、
勤王派に鞍替えしなきゃと大慌て。
藩内政治に右往左往している間にいろいろ乗り遅れた。
対外的には何もしてないけど、藩内は大流血してる。
0128人間七七四年
2011/01/05(水) 12:29:38ID:7UfslUNG0129人間七七四年
2011/01/05(水) 13:38:01ID:FAdblp3Q【歴史/愛知】甚目寺観音の仁王像の中から福島正則の墨書発見
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1294141215/
0131人間七七四年
2011/01/05(水) 16:44:06ID:4eMjUwDq天正十年、本能寺の変を受けて関東の情勢も流動的になってくる。
特に上州では神流川合戦の直後、沼田城の真田氏が北条氏に仕掛けて撃退されると、
今まで真田氏に従っていた国人衆は一気に北条寄りか、日和見に傾いて行った。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html
表向きでは和睦を結んだり、北条に従うと言ってみたり、外交の駆け引きを続けて
いる真田昌幸ではあったが、徳川氏や佐竹氏の動きを睨みつつ、逆襲の機会を窺っ
ていた。
そして勿論、北条氏の側もそれを十分承知の上であった。
先の交戦から三ヶ月、今度は北条氏から攻撃を仕掛ける。
富永主膳、多目周防守等を大将として吾妻郡に侵入した北条軍約五千は、大戸真楽
斎&但馬守兄弟の守る手子丸城を落した。
手子丸城を落せば真田信幸の守る岩櫃城まですぐである。
「今すぐに進撃するべきだ」
「いや、一旦建て直し、手子丸の支配を万全にした方がいい」
そんなこんなで長引く軍議。北条軍のお約束だNE☆!
勿論、北条軍は五千、信幸率いる真田軍は八百。数が違う。信幸が取る策は篭城以
外にありえない、と言う余裕があったのだろう。
が、「東の目立たないお兄ちゃん」は「東のミスターパーフェクト」でもあった。
信幸は篭城では勝ち目がないと見るや、八百騎で手子丸城に攻め寄せてきたのであ
る。
まずは二百騎を裂いて城に攻め懸ける。北条軍が応戦に出てくると、すぐに川沿い
を下って退却。追撃にかかる約一千騎を城から引き剥がした。
そして百五十騎で城に攻撃を始めると同時に、裏手の寺に放火する。
寡兵の筈の真田軍が、あちらからも、こちらからも湧いて出てくる。
圧倒的多数の筈の北条軍に動揺が広まり始めた時、
「あ、あれこそが真田信幸!」
寄せ手の中に金の馬鎧をつけた武将を見つけた北条軍は、深く考えるゆとりもなく、
飛びついてしまう。
……ところがどっこい。
この金の馬鎧をつけた武将、唐澤玄蕃允と言う。ハッキリと言ってしまえば囮だ。
本物の信幸はどこに?
そう、主力中の主力、信幸直轄の兵三百と共に森の中に潜んでいた。
唐澤の姿しか見えていない富永&多目の主力部隊の、横腹からその精鋭部隊が伏兵
として襲い掛かる。
圧倒的多数の兵を持ちながら、散々に追い散らされた北条軍は、手子丸城に逃げ込
み、篭城を決め込む。
0132人間七七四年
2011/01/05(水) 16:45:14ID:4eMjUwDqこの時点で味方が追い散らされ、自分達を城外に残したままで篭城を始めた事を知
った一千騎(先ほど深追いした連中)、城兵との合流や連携を諦め、厩橋城目指し
て退却を始める。
そしてまた、榛名山の方角に逃げていく味方の旗を見た城内では、我も我もと逃げ
出す兵が続出する有様であった。
この様子を見た信幸は、
「裏門から逃げて行く連中がいるな。よし、裏門を封鎖して落ち延びる連中を片端
から討ち取ってしまえ。後、敵は大手門の防衛ばかりに気を取られ、北の丸には誰
も居ないように見える。そこから侵入するのだ」
この命を受けた唐澤玄蕃允ら五十名は、岩伝いに北の丸に侵入すると、信幸の見た
通り、人っ子一人いない。
ちょうど腹が減った彼等は飯を食って腹ごしらえした後(大手門では只今絶賛戦闘
中)、周囲の建物に火を放ち始める。
富永&多目は城中から上がった火の手を見て、「裏切りだ」「国人衆が寝返った」
などと叫びながら逃げ延びて行った。
北の丸に侵入し五十人は、逃げ延びる敵に紛れ込み、それぞれが五人、三人と討ち
取る高名を挙げたという。
中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち
取る手柄を立て、信幸直属の馬廻りとして取り立てられたという。
思いの他「やる夫真田」を読んでる方が多いようなので、ご存知の話かも知れませ
んが、真田信幸のお兄ちゃん無双。もしくは鬼いちゃんモード発動。
本来なら、引っ張り出された一千騎でも、信幸の総勢より多いんですけどね。
首を斬るより、心を折っちゃったんですかね。
一応、出典は「やる夫」じゃなくて「加沢平左衛門覚書」です。
0133人間七七四年
2011/01/05(水) 17:32:58ID:h2bLm+vj0134人間七七四年
2011/01/05(水) 17:54:58ID:Sj2FWFQg:::::::: | 信之がやってくれたようだな… │
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴は真田一族の中でも最弱 … │
┌──└────────v──┬───────┘
| 小松姫ごときに尻に敷かれる │
| ようでは真田の面汚しよ… │
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
幸隆 昌幸 信繁 大助
0135人間七七四年
2011/01/05(水) 18:00:08ID:v7LYiDk/0136人間七七四年
2011/01/05(水) 18:23:17ID:gwaZ52X/>中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち取る手柄を立て
なんというボーナスステージw
0137人間七七四年
2011/01/05(水) 19:31:39ID:FDGTaPWU0138人間七七四年
2011/01/05(水) 19:51:11ID:7UfslUNG六文銭着用前
/\___/\
/'''''' ''''''::\
|(へ), 、(へ)、.|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:| <もしも〜私が〜城を〜建てたな〜ら〜
| `-=ニ=- ' .:::::|
\ `ニニ´ ._/
(`ー‐--‐‐―/ ).|´
| | ヽ|
ゝ ノ ヽ ノ
↓
六文銭着用後
/\___/ヽ
/ノヽ ヽ、
/ ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
| ン(○),ン <、(○)<::| |`ヽ、
| `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l |::::ヽl
. ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/ .|:::::i |
/ヽ !l |,r-r-| l! /ヽ |:::::l | <サツガイせよ!サツガイせよ!
/ |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
/ | .| | .| ,U(ニ 、)ヽ
/ | .| | .|人(_(ニ、ノノ
0139人間七七四年
2011/01/05(水) 20:45:25ID:PEfG71Ru本能寺の変から3日経った頃、東福寺霊源院の裏手にある山から1人の男が降りてきて、長老にこう頼んだ。
「我々は本能寺の変で山に隠れた者ですが、三日何も食べておらず餓死寸前です。どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快く食事を差し出すと、その男は自分の分を平らげた後、残りを手ぬぐいに包んで山に持って帰っていった。
その日の夕刻、今度は先程の1人に加えて4人が降りてきて、同様の説明をし匿って欲しいと恭順の証か5人とも刀と脇差を手拭いで括い、差し出した。
長老は5人を院の天井に隠して寺の他の連中にも知らせないようにしていた。
その後、彼らが東国に帰ってしばらくすると刈谷城主水野忠重の使者が来て、先頃は長老のお陰で急難を免れ恩儀は付きませぬと言った。
そうあの5人は水野忠重とその家臣だったのである。
その後、霊源院は水野家の菩提寺となり寺領50石を与えられたそうである。
そしてもう一人、京にいた男がいた。
その名は鳥居元忠、彼は家康と共に上洛していたのだが堺へ行く前に瘧を患い京の旅館に投宿をしていたのである。
本能寺の変を聞いたとき元忠は狂乱した。
自身が危うい事にではない、家康の側にいないことにである。
京では様々な噂が飛び交い家康の安否は全くの不明、ここに至り元忠は決心した。
「此の様な状況下では家康様も逃れられまい。自分は病に倒れ、主君側に居れぬは何とも悔しい。この期に及んでは死んで冥土のお供をせん」
…何と言うか流石に幼少よりの仲というか言うことがクリソツである。
しかし老臣の高須信次がこう言って押しとどめた。
「家康様は並の大将ではございません。それに切腹するのは家康様の是非が解るまで抑えるべきです。短慮はいけません」
その説得に元忠も切腹を思いとどまり、潜伏することになったが問題はその場所である。
これも高須が長年祈願をしていた愛宕山の長床坊を提案し、これが容れられた。
しかし、長年のよしみとは言え何があるか解らない。そこで高須のみを馬上とし、元忠含めた彼らは下郎の格好をして元忠の家臣として長床坊へと向かった。
結果として長床坊の者達は快く迎えてくれたので、元忠も直ぐに身分を明かしてそこで身を潜めていた。
その間、長床坊の者たちが堺などで情報収集をするさなか、家康が三河に生還したという飛脚が届き、元忠も急ぎ三河へと戻った。
戻った元忠を家康は大いに喜び、また元忠も高須に大いに感謝して彼に何時も佩用している刀を与えたそうである。
どっちもいい話なんだが、やっぱり京にはセーフハウス的なモノが必要なんだなと思ったり。
0140人間七七四年
2011/01/05(水) 21:44:00ID:TlENGPMs0142人間七七四年
2011/01/05(水) 22:50:54ID:H2lH6u2r家康さんらより一世代上のイメージあるけど〜
0143人間七七四年
2011/01/05(水) 23:04:55ID:7UfslUNG「〜どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快くぶぶ漬けを差し出すと〜ということになる
0144人間七七四年
2011/01/05(水) 23:52:19ID:UwLpa3H80146人間七七四年
2011/01/06(木) 08:07:55ID:2fFFgccM元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね
前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・
0148人間七七四年
2011/01/06(木) 13:15:13ID:8mb9beZL0149人間七七四年
2011/01/06(木) 15:41:13ID:Eyqnb04f0150人間七七四年
2011/01/06(木) 20:16:33ID:d9Gr09Yv城攻めの前夜、前田利家の家臣、村井又兵衛長頼が軍営地の小屋で寝ていると、その夢に山伏が出てきて、
又兵衛に語りかけた
『時もよし!絶対に左の道を行くのだぞ!』
又兵衛、驚き目を覚ますと
「さてはわしが日頃から愛宕山を信仰している故に、このようなお告げを頂いたのだな!」
と愛宕権現に感謝し水垢離を行い、すぐに具足を付け大喜びで主君前田利家の陣所へと駆けつけた
「又左衛門(利家)様ー!合戦の準備できましたよー!」
「何刻だと思っているんだバカヤロウ!」
出てきたのは寝入ったところを起こされ不機嫌この上ない前田利家。
「まだ一番鶏すら鳴いていないじゃないか!もう少しあとになってから来い!」
「ちぇ〜」
村井又兵衛、仕方なく小屋に帰り二度寝をはじめると、その夢にもまた山伏が出てきて
『良いな、左だぞ。左に付くのだぞ』
と語りかけた。愛宕権現、なかなかしつこい。
さて、夜明け前信長の本陣より一番貝が轟いた!合戦の始まりである!
織田軍の先陣は一斉に金ヶ森城に押し寄せた!その中に当然村井又兵衛も居る。
彼らが城下にたどり着くと道が左右に分かれていた。織田軍はみな右の道へと進んだ。又兵衛も
皆と一緒に進んだが途中で「いやいや、愛宕山のお告げがあったではないか!それに従うのだ!」
と、分かれ道のところまで取って返し左の道を進むと、空堀と柴折垣で防御されている場所に出た。
と、その柴折垣の側に、誰とも知れぬ4,5人の男達がいる。又兵衛が
「そこにいるお前たちは敵か、味方か!?」と問いかけるとその中の一人
「ここに居るのは柴田修理(勝家)の甥、佐久間玄蕃(盛政)という者だ!」
「わたしは前田又左衛門(利家)の家来、村井又兵衛です!」
「又左殿の家来か。前からその名を承ってはいたが、この合戦場で初めてお会いできるとは実に喜ばしい。
夜が明ければ共にこの柴折垣を切り、ここから侵入しようではないか。」
そうしているうちに後から、後備の味方も駆けつけてきた。そこで又兵衛は玄蕃と声を掛け合いながら
柴折垣を斬り倒し、両人共に即座に敵の首を取った。
さて、このとき前田利家は、信長の居る本陣にいた。
又兵衛が利家に首を見せるとその姿が信長の目に止まり
「兼ね兼ねからの事だが又兵衛、手柄を立ておったな!」
と、陣所に置いてあった吊し柿を手ずから又兵衛に下し、また「並々ならぬ働きの験だ」と
南蛮からの献上物も又兵衛に与えたそうだ。
ところで同時に首をとった佐久間玄蕃。
彼は信長の本陣から離れた場所にいた、柴田勝家に首を見せに行っていたため、その首を
信長のお目にかけたのはかなり遅くになってからだったという。
村井又兵衛長頼、夢のお告げで手柄を立てる、と言うお話。
0151人間七七四年
2011/01/06(木) 23:37:14ID:iq9DhIn8時は天文の頃。尾張の国に初陣を迎えようとしている若武者がいた。
戦支度で忙しい中、城主の息子である若武者の姿が見当たらない。
はてどこへ行ったかと家中の者が探したところ、城の裏手で見つかった。
初々しい具足姿で泥だらけの両手を合わせ、一心に何かを祈っている様子だった。
「若、何をしておられるのです」
「ああお前か。すまぬな、すぐ行く」
若武者はその場を離れ、声をかけた家中の者と連れ立った。
その者は不思議に思い若武者のいた場所を振り返って見たが、
それこそ木立ちがあるばかりだ。
「何をあのように祈っておられたのです?」
「いや、大したことではない。気にするな」
このとき若武者は、城の裏手に一本の松を植えた。そして次の歌を詠んだ。
『初陣に松一本を手植えして死なば墓場のしるしとやせん』
残念ながら、この戦については資料が残っていない。
相手は誰だったのか、規模はどのくらいだったのか、勝算は高かったのか低かったのか。
それらは推測するしかないが、彼の根城はそれほど大きなものではなく、
あるいは城を枕に討ち死にすることを考えていたのだろうか。
結果的に彼はこの戦では死なず、その後も幾度もの戦を潜り抜け手柄を上げ、
長じては天下布武を掲げる男の下、織田家の筆頭家老にまでなった。
主君を失った後、かつての同僚に敗れ越前は北ノ庄城で自害、その生涯を終えた。
松を植えた故郷から遠く離れてはいるが、やはり自らの居城が墓場となったのである。
彼の戦に臨む覚悟は、その初陣の頃から変わらなかった、と言えるかもしれない。
柴田権六勝家の生誕地、明徳寺に伝わる逸話でした。
0152人間七七四年
2011/01/08(土) 00:53:28ID:1dFQn9tB0153人間七七四年
2011/01/08(土) 00:54:57ID:A00qfwHb0154人間七七四年
2011/01/08(土) 03:53:27ID:vmGhrQlv天正十年六月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html
天正十年九月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html
天正十年十月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5019.html
まで書いたんだから、最後まで書かなきゃ落ち着かない。
と言う事で天正十年真田vs北条の最終章。
阿曽、鎌田の両城を落とし、後は片品川を渡ればそこは沼田城、という所まで漕ぎ
着けた北条軍。
真田軍に立て直す暇も与えずに五千の兵が進軍を始めたのは十月二十八日。
沼田からも千三百の兵を出したというから、まさしく総力戦であろう戦いが沼田城
外、田北原にて行われる。
が、この戦いは互いに兵力をすり減らすだけの消耗戦となってしまう。
敵兵二百を討ち取ったとは言え、味方も百五十が討たれたという報告を聞くと、矢
沢頼綱はあっさりと引き上げの下知を下す。
全軍が沼田城に籠もり、堅く守って敵を寄せ付けない。
三日三晩、攻めに攻め続けても尚、崩れる気配さえ見えない沼田城に、北条軍は一
旦阿曾城まで退いて建て直しと兵の休息を図る。
しかし、阿曾城は元々、沼田城から片品川を挟んだ対岸の河岸段丘上に築かれた城。
沼田を攻める為に渡河を試みる敵軍を背後から牽制する為の城なのだ。
当然、大軍を収容する為の設備などあろう筈もない。
五千の北条軍の殆どは阿曾城と片品川に挟まれた丘陵地帯に野営せざるを得なかっ
た。
「さて、頃は良し……と言った所か」
北条軍が包囲を解いたその晩、真田家随一の猛将が動き始める。
「皆、三日三晩も城に引き篭もって、さぞや退屈しただろう。今夜は思う存分暴れ
るがいい!」
頼綱自らが大将として、塚本肥前守、金子美濃守、渡辺左近丞と言った沼田の主力
メンバー計七百騎が、揃いの装束に身を包んで秘かに出撃する。
阿曽城外……この三日、夜通しで戦い続け、体力気力共に使い果たした兵士達が、
ぐっすりと眠りこけている。
当然見張りも立ててはいるが、兵力差による慢心と、野営続きによる疲労が彼等の
集中力を削いでいた。
「うむ、この分なら勝利は動かんな。……総勢、かかれぇいっ!!」
ドンッ!ドンッ!ドン……ッ!
真夜中の片品川に響く太鼓の音。
それを契機に一気に北条軍へと雪崩れかかる真田軍。
山国の晩秋の寒さの中、野営と戦闘による疲労に蝕まれた北条軍兵士達の反応は鈍
い。
彼方此方であるいは真田兵に討たれ、あるいは同士討ちを始め、あるいは片品川に
落ちて流されるという混乱状態に陥る。
0155人間七七四年
2011/01/08(土) 03:55:22ID:vmGhrQlvが、数に劣る真田軍は深追いはしなかった。
「落ち着け! 敵は少数だ! 備えを立て直して包み込めば簡単に殲滅出来る!!」
将官クラスの名のある者共は流石に反応も早い。
完全武装の姿を兵士に見せ、当たり前ではあるが簡潔で的確な指示を飛ばすと、徐
々に兵士達の動揺も収まってくる。
しかしその時には既に、真田の夜襲部隊は戦場を離脱し、闇の中に消えていた。
「ぬぅ、逃げられたか。……いや、待て!あそこだ!沼須方面に夜襲の軍が逃げて
行くのが見えるぞ!」
引き上げの時にはもう、姿を隠す必要はないという事だろうか、松明を掲げて退却
する兵士の一団を発見したのは猪俣能登守。
「追え!今からならまだ追いつける!奴等を殲滅して沼田城の連中に見せつけてや
るのだ!」
「釣れたのは猪か」
「懲りるって事を知らないんでしょうかねぇ」
「金子、猪俣も貴様に言われたくはないだろうよ」
闇の中に消えた真田軍の陣中、矢沢頼綱と金子美濃守がほくそ笑む。
そう、皆さんご想像の通り、松明を掲げた一団、これは矢沢頼綱の計略であった。
金子美濃守の手勢から五十人を裂いて、わざと明かりを灯して北条軍の目の前に姿
を見せたのである。
「皆、判っているな。合言葉は『天』『気』だ。揃いの服を着て、合言葉を口にす
る者は斬るな。合言葉を知らん奴は服が揃いだろうと斬り捨てて良し! ……かか
れぇっ!!」
逃げて行く真田軍と思しき一団を追跡して突出した猪俣勢。
その腹背に喰らい付いたのは沼田城の中でも精鋭中の精鋭、矢沢頼綱率いる五百の
兵であった。
先の夜襲には素早く対応し、すぐさま立て直した猪俣も、二度目の奇襲には狼狽え
るばかり。あっと言う間に散り散りになって逃げて行ったという。
しかし……
「こっちにも居るぞ!」
「私もちょっとは働かないとね!」
逃げ惑う猪俣勢の逃げ道には、更に渡辺左近丞&金子美濃守の手勢が立ち塞がる。
こうなれば最早殲滅戦である。
矢沢勢によって二百、渡辺&金子勢によって百人を討たれた猪俣は、身一つで命か
らがら逃げ延びて行ったという。
この夜の真田軍の死者は僅かに十人。負傷者が五十人という大勝利であった。
北条軍は猪俣勢の死者のみでも三百。ましてや猪俣は数日前にも三百を討たれる大
敗北を喫している。
二千居た猪俣勢の内、六百がこの沼田で命を落したのである。
北条氏邦にとっても、自分の目の前で副将格の猪俣の惨憺たる有様を見せつけられ
たのは大きかったのかも知れない。
十月二十九日には信州で徳川家と和睦を結び、天正壬午の乱も終結している。
ここが引き際と、氏邦は遂に沼田を諦めて北条全軍を厩橋城に撤退させたのである。
これ以降、北条氏は武力ではなく、徳川家を相手取っての政治交渉で沼田を落そう
と方針を転換させる事になる。
二千の内六百を討ち取られるって、それ壊滅ですよね?(^^;
そりゃ猪俣さん、沼田に拘るだろうし、真田を恨むよね。
つか、金子さんが働いてる!?
0156人間七七四年
2011/01/08(土) 07:42:53ID:Jkxdo6Gr0157人間七七四年
2011/01/08(土) 07:43:28ID:QrYkurgm戦国DQN候補でありながら、ヘタレてしまう市松さんと権六・小六を並べるとは無礼な…
そこに直れ!成敗してくれる
0158人間七七四年
2011/01/08(土) 14:42:18ID:Vesf48T6ダウト!
0159人間七七四年
2011/01/08(土) 16:34:03ID:1keFmAl2この手塚という男、心根は正直で真面目なのだが、ある欠点があり中々出世に恵まれなかった。
それを知っていた官兵衛が、不憫に思い大事の奉行に起用したのである。
そんなある日、広間で官兵衛が近臣と碁を打っていると手塚がやってきた。何事か言うつもりが、
「……ぁ…………」
実は手塚は生まれつき「どもり」で、しかも極度のあがり症であった。
その為初手から殆ど声が出ず、顔を赤らめあたふたするばかり。
そんな様を見ていた小姓や近臣はなにがなにやらと首をかしげていると、碁盤を見ていた官兵衛が振り向きもせず
「材木が足りないなら、金に糸目はつけない。必要なだけ買うがいい」
すると、手塚は安心した様子で一礼をし、広間を去っていった。
周りの者に今のやり取りの事を問われた官兵衛が答えるに、
普請用の材木が足りないので、材木屋で買おうか山から伐らせるかを尋ねに来たのだそうだ。
それに対しての答えが「いくらでも買え」だとの事。
なぜ言いたいことが分かったのか?なぜああいう不便な者をお使いになる?と近臣が問うと、
「根気良く付き合っていたら、言いたい事、やりたい事は大体解るようになった。
確かに聞き取りにくいかもしれんが、仕事は長年真面目に務めてくれている。
だったら言いたい事を理解するよう努めるのは、上に居るわしの領分さ」
碁の相手は感嘆せざるをえなかったと言う。
0160人間七七四年
2011/01/08(土) 16:38:52ID:FUWVX7Fy0161人間七七四年
2011/01/08(土) 17:57:07ID:yWVtF2tQ0162人間七七四年
2011/01/08(土) 18:03:41ID:kXH96JVa長政「いや無理、無理」
0163人間七七四年
2011/01/08(土) 18:49:39ID:Vesf48T60164人間七七四年
2011/01/08(土) 18:55:55ID:A00qfwHb官兵衛は部下のよい所を見て愛してる感じ。
0165人間七七四年
2011/01/08(土) 20:11:29ID:kZtwCh+2この人心収攬術は絶頂期のころの秀吉のそばにいて学んだのかな
生来のたまものだとしたらまさに天才
0166人間七七四年
2011/01/08(土) 22:35:29ID:WEKcnV6a0167人間七七四年
2011/01/08(土) 22:44:13ID:ToPlwLO2家臣団が結束して黒田家を支え続けたので、家臣団に対して恩があるからな。
0168人間七七四年
2011/01/08(土) 22:51:52ID:gMzS+4Sq「あぅ、あぅ」しか言わないのに理解出来るとかないわwww
0169人間七七四年
2011/01/08(土) 23:06:40ID:RrZkjW6b0170人間七七四年
2011/01/08(土) 23:13:47ID:50AfToIEありゃ帰ってきちゃったの?だったら嫌だなw
0171人間七七四年
2011/01/08(土) 23:21:04ID:ianFumFU予想外のトラブルを持ち込まない。なら、普請仕事は天職じゃないか
0172人間七七四年
2011/01/08(土) 23:48:08ID:GtrGXPIJ例えば小一郎。
秀吉の異父弟だから下層の出なんだろうけど、他の戦国大名と伍して、
文武共に遜色無くこなしているよね。
加藤清正なんかの賤ヶ岳の七本槍だって、碌な出自じゃないし・・・
秀吉の周りってそう言うの多いyんだよね。
0173人間七七四年
2011/01/09(日) 03:56:37ID:w1h1wjF6全部網羅してるやる夫真田って、相当好き者が書いてるんだな・・・
真田系の逸話は悉く「やる夫で見た」になってるw
0174人間七七四年
2011/01/09(日) 17:42:34ID:cbJPsRPNスレまで建てたのに盛上らないんだが、、、
0175人間七七四年
2011/01/09(日) 17:55:37ID:+ThPPn5R0176人間七七四年
2011/01/09(日) 18:51:52ID:HQ81Hmqe弟たちの葬儀の日に敵さんを攻めたりしてるけど、
弟(蘭坊力)たちと仲悪かったわけではないよね?
何か兄弟との温かいエピソードあったら教えていただきたい。
鬼武蔵のいい話もあんまり知らんし。
0177人間七七四年
2011/01/09(日) 19:00:44ID:gxYtjNoa0179人間七七四年
2011/01/09(日) 19:13:44ID:+dI9g+dx鬼武蔵は賤ヶ岳の前、岐阜城に人質に入っていた弟の忠政を、自身で岐阜城に潜入して助けだした。
その時忠政を布団でぐるぐる巻きにして高石垣の上からたたき落とした。
布団にくるまわせたあたりが鬼武蔵の優しさ。
0180人間七七四年
2011/01/09(日) 19:21:49ID:iFb/aUaSなんという荒々しい救出劇w
高石垣の上から叩き落される衝撃に耐えるには布団一枚では足りないだろうな
何枚かぶ厚く巻いたのだろうが、窒息の危険もあっただろうに…w
0181人間七七四年
2011/01/09(日) 19:28:14ID:e8yZnfeh0182人間七七四年
2011/01/09(日) 19:59:55ID:a81FPY1A0183人間七七四年
2011/01/09(日) 20:17:27ID:j7cUEDWr0184人間七七四年
2011/01/09(日) 21:55:40ID:jJ4xZMNMほかの逸話はともかく、このくだりだけは案外本当かもしれんね。自分の娘にしても、
武家にではなくて、医者あたりがいいんじゃないか、と言っているし。
0185人間七七四年
2011/01/09(日) 22:00:37ID:f+qXzV9m0186人間七七四年
2011/01/09(日) 22:05:06ID:+dI9g+dx文禄2年(1593)1月、李如松率いる明軍4万3千余が小西行長の守る平壌に進攻。
行長はこの攻勢に耐え切れず平壌の蜂起を決断、軍勢をまとめ夜半密かに城を出、後方の
漢城へと向かった、
さて、平壌から漢城の間には黒田長政、小早川隆景・秀包親子らによって繋ぎの城が構築されていた。
小西行長は撤退の際、彼らにも共に漢城まで引くように誘った。だが黒田長政、小早川秀包らは
「敵の旗色を見ることもなく城を開けて退くなど、後に恥辱を受けること逃れがたい行為である!
小西殿は自ら戦ったのだから、早く漢城に退いて士卒を休息されるといいだろう。
我々は自分の城を引き払い、筑前宰相殿(小早川隆景)の城に軍勢を集結させ、漢城から反撃の軍勢が
出てくるのを待って先手をつかまつり、大明の人々との戦いを決する!」
これを聞いた行長は
「この上は是非に及ばず」
と、彼らを置いて漢城へと撤退した。
小早川、黒田勢撤退せず。漢城で行長からのこの報告に驚いたのは、秀吉より派遣された三奉行、
石田三成、増田長盛、そして大谷吉継である。
彼らはすぐに小早川隆景のところに使者を遣わし、
『急いで城から引き上げ、漢城へ入ってください!』
と伝えた。ところが小早川隆景、これを聞くと
「この度の戦、この朝鮮に渡海した最初から、日本に帰国することなど無いと覚悟していた。
私もこのように歳を取り、死んでも惜しくはない身であれば、大明の人々と向かい合い、
一戦して討ち死にすることも、老後の良い思い出となるであろう。
私一人が討ち死にしたからと言って、味方の弱みになるわけでもない。ここを開城して引き上げるなど、
断じて無い!」
そう言い切って使者を返した。
この返事に三奉行は慌てふためいた。
「防衛戦となる大河(漢江か?)を越えた場所で敵の大軍と戦うなど上策ではない!
そのうえここは外国であり、人々の心も計りがたい。
だからといって小早川殿を打ち捨てることなど、出来るわけもない!
一体どうすればいいのか!?」
石田三成と増田長盛は必死に相談し合ったが、どうしても結論が出ない。その時、
それまで押し黙っていた大谷吉継が立ち上がり、言う
「私が直接小早川殿の所へ罷り向かって異見を申し上げ、小早川勢を引き上げさせる!」
言い捨てると三成、長盛の返事も聞かず座を立ち、すぐさま隆景のもとに向かった。
そして隆景に対面し、理を尽くして撤退が最善策であることを説明。これに隆景もその理に服し、
吉継と連れ立って漢城へと退却した。
大谷吉継、小早川隆景を説得す。と言うお話
0189人間七七四年
2011/01/10(月) 01:34:07ID:AIiitz31「この度の戦、この朝鮮に渡海した最初から、日本に帰国することなど無いと覚悟していた。
私もこのように歳を取り、死んでも惜しくはない身であれば、大明の人々と向かい合い、
一戦して討ち死にすることも、老後の良い思い出となるであろう。
「討ち死にする」ことが「老後の思い出」になる、って辻褄が合わなくね?
あと、これ多分既出だよ。小早川隆景の方にまとめられてるはず。
0191人間七七四年
2011/01/10(月) 12:43:30ID:kHqp8P8Vそれだけならまだしも奥さんが弟に再嫁して身籠ってた日にゃ・・・
0193人間七七四年
2011/01/10(月) 21:22:44ID:gHbCxNl3若者たちが酒を酌み交わし、料理に舌鼓を打ち、大言壮語を楽しんでいた。
「いやぁその昔、高麗での戦の折、わしらのご先祖は、唐人を造作もなく切り伏せたそうな。首を取るにも、
河原で石を拾うより易かったというぞ。」
「本当か!わしもそのような時代に生まれて、存分に出世したかったのう!」
「・・・わしが子供のころ、昌厳どの(山田有栄)に聞いた話と、だいぶ違うの。」
剣客・歌人として知られる、柏原市右衛門(幽静)がつぶやいた。
「わしが同じような事を聞いたところ、昌厳どのは『誰からそんな臆病な事を聞いたのじゃ!?』と激怒し、
ご自身の体験を語って下さった・・・
================================================
泗川城下の海に、波がきらめき潮騒が轟いていた。
薩摩の人々が日ごろ慣れ親しんだ、鹿児島湾や日向灘のような海ではない。
何万という明軍の、見たこともない圧倒的な人の海に、刀槍の波がきらめき、怒号の潮騒が轟いているのだ。
二十歳を過ぎたばかりの山田有栄も、この光景を目にして青ざめるしかなかった。同僚には泡を吹く者までいる。
「も、もうだめじゃ。このまま波に飲まれ、砕け散るしかないのか・・・」
不意に、頬に痛みと熱を感じ、我に返った。目の前に呆れた顔をした島津忠恒が、馬の鞭を握り締めていた。
「 出 陣 。 」若武者どもを鞭で打ち、正気に返した忠恒は、静かに告げた。
「頃は良し!敵の「気」は衰えた、今こそ出るぞ!!」
『その時』を告げる島津義弘の檄に、ようやく気力を取り戻した薩摩隼人たちは、城を飛び出した。
================================================
・・・『嘘偽りを申し、まことの己を隠すのは、臆病者のする事ぞ。』 昌厳どのは、そう仰せになった。」
市右衛門の話を聞いた若者たちは感じ入り、以後軽々しい話をする事が無くなった。
0194人間七七四年
2011/01/10(月) 21:49:54ID:BIr3m6dv↓
戦ってみたら「まるでゴミのようだ」
って事だろ。
0197人間七七四年
2011/01/11(火) 12:58:19ID:aHs1UwMd>>173
やる夫真田で紹介されてないエピだな!? 承知した!!
二話連投でいくよ〜〜〜。
天正十二年正月、北条氏配下の白井長尾氏では、真田家に対しての夜襲を計画して
いた。
徳川家と和睦を結んで一年余り。沼田開城が和睦条件の一つだったにも係わらず、
未だに沼田城を明け渡そうとしない真田家に対する示威行動が目的だと思われる。
が、元々この攻撃の立案者は長尾家でも北条家でもなかった。
天正十年の戦争の際、真田家から寝返った上州国人衆、林太郎左衛門、吉野太郎右
衛門、井上金太夫の三人である。
三人曰く、
「沼田近くの戸鹿野郷には金持ちが多い。ここを夜討ちして、たんまりと金を頂こ
うじゃないか」
「戸鹿野は勇者と名高い高橋右馬允の領地だし、奴等に赤っ恥をかかせてやれるぜ」
との事で、家中の侍達を口説いて回った。
元々はこのように、家中の末端から出た、押し込み強盗のような計画だったのだが、
最終的に集まったのは実に百三十人と言うから、この時点では白井長尾氏を挙げて
の計画になっていたようである。
元真田家中で地理に詳しい三人を案内人として、百三十人の強盗団は闇に紛れて戸
鹿野郷に潜入する。
……彼等の渡った後、秘かに川にかかる橋を外してしまう人影の存在も知らずに。
0198人間七七四年
2011/01/11(火) 12:59:12ID:aHs1UwMdひっそりと静まり返る戸鹿野郷。
流石に静か過ぎやしないかと不審に思う者が出始めた頃、建物の陰、木々の陰から
わらわらと現れる真田兵。
「待ち伏せ!?」
「計画が漏れていただと!?」
「見ろ!橋も外されているぞ!!」
混乱する白井勢百三十人……いや、百三十人の中でたった三人だけは平然とした顔
をしている。
「いや、漏れたって言うか、元々お前等を殺す為に計画した事だし」
「俺達、真田家に帰参する事にしたんだ。手土産になってくれない?」
「あ、村の外には高橋殿だけじゃなくて金子殿の手勢も控えてるから、逃げ道はな
いよ?」
そう言うのはこの計画の発起人、林、吉野、井上の三人であった。
そう、真田vs北条の戦いで、真田家に未来はないと見て、家名存続の為に北条家
に身を投じた三人であったが、真田家はこの難局を潜り抜けた。
こうなると真田家に帰参したいが、ただ帰りたいと言っても許してもらえないだろ
う。
沼田国人衆の中心人物である高橋右馬允、金子美濃守に秘かに相談したのである。
二人は真田昌幸に三名が帰参したがっている事、手土産の手柄を立てる為に計略を
考えている事を報告。
昌幸から「金子、高橋と相談して良い様に計らえ」との許可を貰う。
高橋右馬允は予め戸鹿野郷に帰って、迎撃の準備を整えていたのである。
周到に準備された迎撃によって、あっと言う間に強盗団は壊滅。
橋を外された川を渡りきった、水練の達人が数人逃げ切ったのみで、残る百二十人
余りは全て討ち取られたのだという。
真冬の夜中に、群馬の山あいで水泳なんて、そりゃ死ぬわ。討たれた方が楽に死ね
るかも知れんぞ。(^^;
ちなみにこの功で三人は真田家帰参を認められ、高橋さんは加増されたという事で
す。……え?金子さん?さて、どなたでしたかな?
0199人間七七四年
2011/01/11(火) 13:03:11ID:aHs1UwMd徳川家と真田家が戦った第一次上田合戦の際の話。
真田家の家臣に深井某という者がいた。
この深井某、一日に三度手柄を立て、その全ての手柄に感状を賜ったという程の武
勇の主として知られていた。
真田軍の仕掛けるゲリラ戦によって徳川軍が総崩れになった時の事。
「待てぇ〜〜いっ!」
逃げて行く敵の中に、立派な身なりの武士を見つけた深井、「良き敵を見つけた」
とばかりに追いすがる。
「待て待てぇ〜〜〜〜!!」
総崩れの徳川軍の中、一人踏み止まって戦う馬鹿などそうそう居ない。勿論逃げる。
追う深井。
逃げる、追う。逃げる、追う。どこまで逃げても、どこまでも追う。
しかし、遂には追いつき、深井はまた一つ、兜首を討ち取る事に成功した。
「まったく往生際の悪い奴だぜ、一体どこまで逃げるんだか。なぁ、皆もそう思わ
んか?」
深井は周囲にいる筈の味方を見回し、苦笑を浮かべて言った。
が、何か様子がおかしい。
「いやぁ、俺等としては、お前がどこまで追いかけてくるのか、そっちの方が気に
なるなぁ」
右を見る。左を見る。も一度右。
敵。敵。……やっぱり敵。
後ろを見る……川。
「あ、あれ……? ここ……どこ?」
「敵陣」
0200人間七七四年
2011/01/11(火) 13:04:08ID:aHs1UwMdそう、敵を追いかける事に夢中になった深井、川を渡って敵陣の奥深くまで単騎で
侵入してしまったのだ。
勿論、味方は川端で追撃を止めている。
制止する味方の声さえ、彼は聞いておらず、自分が川を渡った事すら、気付いてい
なかったのだ。
「うっそ、俺、ヤバくね?」
いつの間にやら、三百人の敵兵に取り囲まれてしまったのである。
「……なんでウチの連中はこうも調子に乗る奴ばかりなんだ」
その報告を聞いた真田昌幸は頭を抱えた。
「しかし、深井が手柄を立てたのは間違いない事。ねんごろに弔って、遺族には見
舞金を贈りましょう」
悲しめばいいのか、怒ればいいのか、苦笑まじりの表情で、信幸も言った。
それを見た家臣、言いづらそうに口を開く。
「そ、それが……非常に言い辛いのですが……」
この深井某、なんと生きていた。
三百人に囲まれた状況で、包囲を突破し、川を渡って味方の陣地に帰還したのであ
る。
「ど、どうやって……?」
さしもの昌幸、信幸も口を開けて呆れている。
「い、いえ……本人の話では、『一生懸命頑張った』と。対岸から見ていた者の話
では、『鬼神の様な暴れっぷりだった』との事ですが……」
そう、何の計略もなく、ただただ夢中で敵中突破してしまったのである。
しかも、帰ってきた時には、かすり傷一つ負っていなかったと言う。
「そ、そうか……天晴れな事だな……うん……」
深井某は昌幸からお褒めの言葉を受け、更には真田の名字まで賜った。
その後は真田但馬守と名乗ったと言う。
いや、これ、叱っても良い様な気がするよ?(笑)
でも、これを叱ったら矢沢さんも叱らなきゃいけないような気もするからなぁ。
流石の矢沢さんも三百倍の敵とは戦った事ないだろうけど。(^^;
0201人間七七四年
2011/01/11(火) 13:07:01ID:3ZxI8Laz0202人間七七四年
2011/01/11(火) 14:07:13ID:3SiQ0UzQ0203人間七七四年
2011/01/11(火) 15:05:51ID:aHs1UwMd伝わっていないのではなく、私が読んだ『加沢平左衛門覚書』には、深井三●となっ
ており、どうやら原本の文字が潰れるか虫食いかで読めない状態だったようです。
そのため、名前不祥という事で「某」としたのは私の判断です。
試しにググッてみたら深井三弥という人が昌幸の配下にいたらしいので、この人がそ
うなのではないかと思われます。
でも、三弥の後も深井氏はそのまま続いてるみたいなんだよなぁ。真田氏を名乗らず
に。
三弥の長男が真田、次男が深井氏を継いだって事なのかなぁ?詳しくはちょっと判ら
ないです。
0204人間七七四年
2011/01/11(火) 16:42:11ID:TD6o4a/Kあるとき微妙公こと加賀藩主前田利常に、家臣が話をした。
家臣「わたくし東海道を旅しましたところ、近頃は旅籠というものができておりまして
宿を貸すだけでなく、食事も作ってくれるのです」
つまり旅館、このころ登場したんですね。
「しかるに、木賃宿をにて宿を借りるだけで自炊し、むすびを作って旅するは当家だけ」
家臣さん、「旅籠に泊まっていいでしょ? 経費で落としていいでしょ?」
と言ってるわけですね。
さてハナゲさんのお答え。
「武士であれば、自ら飯を炊き、腰兵糧するは当たり前。戦乱になれば旅籠などやっていけまいよ」
平時にあって乱を忘れず。基本的にはいい話です。
また、ほかの大名家が腰兵糧を作らなくなったことも伺えます。
しかしこの戦時態勢維持の考えが三百諸藩ことごとく困窮し没落する原因になるのですが
それはスレの趣旨と違うのでここまで。
0205人間七七四年
2011/01/11(火) 16:52:59ID:49mysqFhさすが前田家は賢いですな(棒
0206人間七七四年
2011/01/11(火) 18:46:18ID:9099Crvtどっちかというと両方とも悪い話じゃないか。
0207人間七七四年
2011/01/11(火) 19:16:03ID:dH8D7VQL周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。
家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」
嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は
輝政「あの佐藤忠信だって刀を盗まれた。寝入った時に刀を盗まれても
何の恥にもならぬ。お前を悪く言う奴は処罰してやるから」
と言って家臣を大切にしたという。
0208人間七七四年
2011/01/11(火) 19:27:35ID:xqN/tkYZたしか源義経の部下だよね。
0209人間七七四年
2011/01/11(火) 19:33:54ID:49mysqFh0210人間七七四年
2011/01/11(火) 20:20:03ID:wfgEmEcm0211人間七七四年
2011/01/11(火) 20:56:19ID:wZNSaqFGttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike12.html
佐藤忠信は、下から二番目の右から5人目に入っていますね。それ以外でも、戦国武将のご先祖様がたくさん
0213人間七七四年
2011/01/11(火) 20:59:08ID:3mEYSU8s0214人間七七四年
2011/01/11(火) 21:06:40ID:4ed479ld池田輝政の家臣が寝ている間に大事な刀と脇差を盗まれてしまった。
周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。
家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」
嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は
輝政「天下を獲ったあの家康公なんて戦場でウンコ漏らしてるんだぞ
しかもウンコ漏らしたの家臣にばれてる。刀を盗まれたのなんて何の恥にもならぬ」
と言って家臣を大切にしたという。
0215人間七七四年
2011/01/11(火) 21:07:19ID:j+m/BESFhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1989.html
0217人間七七四年
2011/01/11(火) 23:11:53ID:evobFoeO0218人間七七四年
2011/01/11(火) 23:55:07ID:Fr4eHNEL池田輝政の家臣が寝ている間に大事な刀と脇差を盗まれてしまった。
周囲の者たちはそのことで家臣を罵り、嘲笑った。
家臣「あ〜恥かいた。もうこの家出ていくか・・・」
嫌になった家臣は暇を願い出たのだが輝政は
輝政「この輝政なぞは夜の槍働きで伸し上がったのだ腰の物が無くとも
何の恥にもならぬ。お前を悪く言う奴は処罰してやるから」
と言って家臣を大切にしたという。
0219人間七七四年
2011/01/12(水) 01:01:20ID:tbpukY8c0220人間七七四年
2011/01/12(水) 14:31:43ID:Ic1uIIUoある時、南部家の三戸城で南部晴政の刀が盗まれた。犯人は分からず、刀番は事の次第を晴政に説明すると共に、
自分を罰するよう願った。だが晴政はその申し出を不問にした。
「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。
刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
この事は沙汰すべきでない、放っておけ」
0221人間七七四年
2011/01/12(水) 14:55:55ID:k2qbhP8uその時若侍が晴政の前に飛び出し、いつぞや刀を盗んだ石川五右衛門(仮)でござる、と名乗り出て奮戦。
主君の危機を救った、
とかの後日談つくと綺麗かつ逆に胡散臭くなるんだが…なさそうだな
0222人間七七四年
2011/01/12(水) 15:11:30ID:KS74u7ye0223人間七七四年
2011/01/12(水) 15:14:21ID:wFpzn6900224人間七七四年
2011/01/12(水) 19:39:07ID:bfuGc3hkhttp://sankei.jp.msn.com/life/trend/110112/trd1101121623003-n1.htm
0225人間七七四年
2011/01/12(水) 19:46:07ID:7kSVjFfY0226人間七七四年
2011/01/12(水) 22:29:28ID:Ak1plxtk0228人間七七四年
2011/01/13(木) 00:15:52ID:Y4q2ZEPg0229人間七七四年
2011/01/13(木) 01:42:00ID:UoJs9FlB南魚沼・八坂神社で「花婿の胴上げ」
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/18749.html
>胴上げは450年ほど前、魚沼地方を治めていた坂戸城主・長尾政景が城下繁栄のため「婿養子を大切にしなければいけない」としたことが始まりとされる。
>現在は婿養子に限らず、同地区で前年に結婚した男性が対象だ。
知らなかったw
0230人間七七四年
2011/01/13(木) 01:56:02ID:m0g72ZyUある時、毛利家の吉田郡山城で毛利元就の刀が盗まれた。犯人は分からず、刀番は事の次第を元就に説明すると共に、
自分を罰するよう願った。だが元就はその申し出を不問にした。
「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。
刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
この事は沙汰すべきでない、放っておけ」
その3年後、大内氏の月山富田城攻めに毛利も従い、大内氏が配下の裏切りにより尼子氏に敗北したため、
大内氏傘下の元就も撤退を余儀なくされる。
領国の安芸へ撤退する途中、石見の大江坂七曲りで、尼子軍に追い詰められた元就に
身代わりを申し出た若武者がいる。
そう、あの時名刀を盗んだ渡辺通である。
無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感動し、決して渡辺の家を見捨てないと誓い、
通の遺子の長を股肱の臣として重用。その態度は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、
長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々渡辺家のものが先頭の栄誉に与かることになった。
0235人間七七四年
2011/01/13(木) 14:08:09ID:JVmQudpJ0236人間七七四年
2011/01/13(木) 15:46:10ID:iDvrZC+E逆に婿を雪の上に放り投げる村もあるよな
どっちにせよ地元の若者と馬鹿騒ぎすることで垣根が無くなるんだろうけど
0238人間七七四年
2011/01/13(木) 18:31:12ID:weg6o8aZある時、蒲生氏郷と浅野長政がその家来17、8人を一度に同名(同じ名字)に
したことがあった。
これを聞いた前田利家は
「人というものが、手柄を立てたい、よく奉公し身代を増やしたいと思うのは、
ひとえに『我が名字を打ち立てたい!』と念願する故なのだ。
それなのにあの者たちは、家中のものを多く同名にした。
天下を取られた秀吉公の真似をしているのだろうが、これは全く無用のことだ。
総じて一家一類というものは格別、大切なものである。
仮に我が家において同名にするとすれば、村井豊後、高畠石見、青山佐渡、
奥村伊代、篠原出羽…、といった面々であろうか。彼らは多くの忠節もあり縁も深い
者たちである。
だがわしは彼ら自身の為をもって、そのように同名字にするような事は決して無い。」
『量産型蒲生』などで有名な同名字政策ですが、その当時既にこういった批判も
あったことが伺える、前田利家による同名字否定のおはなし。
0239人間七七四年
2011/01/13(木) 20:22:41ID:dKeKglmY戻って来た小左衛門の報告によれば
小左衛門「この先に神崎川があるから河を渡って対岸に陣を敷きましょう」
ということであった。しかし宿老の佃次郎兵衛と河村権七郎が反対した。
佃&河村「冬の、しかも夜に河を渡ったら兵士たちが凍えきってとても戦えない。
夜明けを待って、明日渡るべきでしょう」
明成「なるほど。もっともじゃ」
明成は宿老の意見を取った。しかし、それでも小左衛門は意見を曲げなかった。
小左衛門「天下を握る徳川家に味方しているのですから勝負に拘っても仕方ありません。
また、後々のことを考える必要もないのです。
しかし、他家に遅れを取るのだけはいけません。他家よりも先んじて戦うことだけを
考えましょう。遅れを取れば軍が無事でも国が危ういのです。
天下の乱れた戦国の世と徳川の世ではもはや戦う道理が違います」
佃&河村「な、なるほど〜!」
小左衛門の考えに宿老も唸り、明成も小左衛門の意見を喜んで採用した。
0243人間七七四年
2011/01/14(金) 12:26:56ID:BwL4ywctなんか納得しているようだけど、お前の240時点の思考が全くわからん。
どう考えても241解釈になるだろ?
誰か解説を。
0244人間七七四年
2011/01/14(金) 12:38:05ID:q1IAfuRd0245人間七七四年
2011/01/14(金) 13:07:58ID:rRSfwk49うーむ
0246人間七七四年
2011/01/14(金) 15:09:26ID:y0HbdlFf0250人間七七四年
2011/01/15(土) 14:30:12ID:URMYVkajヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
゙、::::::::-‐''""" ̄"'i
:V;;||:::: '~ニ=ッ, r='|
i!f !::::: ゙、i
i!ゝ!:::: ‐/リ
i::/:、 :::、 /''ii'V
 ̄ハ:::::\ "''il|バ''
ショカツリョウ
諸葛亮 曰く、
>>240 他にすることはないのですか?
0251人間七七四年
2011/01/15(土) 15:33:27ID:XG4WlY7d\ ∩─ー、 ====
\/ ● 、_ `ヽ ======
/ \( ● ● |つ
| X_入__ノ ミ そんな餌で俺様が釣られクマ――
、 (_/ ノ /⌒l
/\___ノ゙_/ / =====
〈 __ノ ====
\ \_ \
\___) \ ====== (´⌒
\ ___ \__ (´⌒;;(´⌒;;
\___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ
0252人間七七四年
2011/01/15(土) 15:39:23ID:N8YRV6Gvhttp://www.8000.gr.jp/kyoto/bessyo.htm
0253人間七七四年
2011/01/15(土) 16:06:55ID:XKQIeCjCこんがらがって来たw
0254人間七七四年
2011/01/15(土) 16:16:42ID:URMYVkaj武田勝頼・信勝や仁科盛信の首って晒された後どうなったんだろ
あんまり聞かないから気になってたんだけど
まさか北条夫人は晒し首にはならなかったんでしょ?
0256人間七七四年
2011/01/16(日) 00:01:50ID:ZHd62Dwq天正十三年、徳川家康が真田家の上田城を攻撃するのと歩調を合わせて、上野国で
は北条氏直が沼田城への攻撃を開始した。
厩橋城から出陣した総勢五万八千の大軍は、二手に分かれて進軍する。
片方は北条氏直・氏邦の率いる三万八千。
もう一方は北条氏照の二万である。
大雑把に言ってしまうと、氏直・氏邦は厩橋から利根川の東岸を北上、沼田に直行
するコース、氏照は西岸を北上して名胡桃城を攻撃、沼田城の背後を窺うというコ
ースを取っていた。
対する沼田城は二千に満たない小勢。共に篭城する周辺住民を合わせても七千前後
という人数にしかならなかった。
「猪俣様、沼田城外に多数の旗が見えます」
北条軍の先鋒は例によって猪俣能登守。彼の元に物見の兵が報告に来る。
「……矢沢頼綱が打って出たのか?」
「いえ、旗はこちらではなく、名胡桃城に向けて移動中です。旗の数から見て、総
勢は恐らく一千前後かと」
「千を率いる武将など、沼田には矢沢以外おるまい……陸奥守様(氏照)の動きを
察して、沼田を捨てて名胡桃を防衛拠点にするつもりか?」
「如何なさいますか?このまま見逃し、沼田攻略に専念いたしますか?矢沢のいな
い沼田など、容易く落せますぞ」
「いや、千とは言え、矢沢が名胡桃に合流したらやっかいだ。ここで討つぞ!」
猪俣は手勢三千を率い、名胡桃に向かう真田勢の後を追い始めた。
が、勿論、これが計略でない筈がない(笑)
あと少しで真田勢に追いつこうか、という所で俄かに猪俣勢の後方部隊が騒がしく
なる。
「背後から敵襲!待ち伏せをされました!」
そう、森の中でジッと息を潜め、猪俣勢をやり過ごした渡辺左近丞が、五百の手勢
で後方から奇襲を仕掛けたのである。
「な、伏兵だと!? 罠っ!?……では、あの先行する部隊は……」
「金子美濃守、推参!!」
名胡桃に向かう一千の勢は矢沢頼綱ではなかった。
金子美濃守の手勢に民間人を加え、彼等に旗を持たせて正規兵らしく装った囮であ
る。
勿論、渡辺左近丞の攻撃開始と共に、金子美濃守も反転、総攻撃に移っている。
加えて民間人とは言え、この時代は武装して戦い慣れた者も多い。彼等の奮闘もあ
った。
奇襲で浮き足立った所に前後からの攻撃を受け、猪俣勢は反撃を加える事も出来ず、
二百を討たれた挙句、散り散りになって逃げ帰ったという。
まとめの方で金子さんを擁護する発言が続いたので、ちょっと格好良い所を(笑)
……つか、本当に擁護しようのない無能は猪俣さんだという気がしてきた。(^^;
真田側の記録が出典なんだから仕方ない事ではあるんですが。
0257人間七七四年
2011/01/16(日) 02:49:32ID:vXrVwzrg0258人間七七四年
2011/01/16(日) 02:50:59ID:JElKcTQC0259人間七七四年
2011/01/16(日) 02:56:50ID:Iot/vh620260人間七七四年
2011/01/16(日) 08:23:53ID:y6qA0kon0261人間七七四年
2011/01/16(日) 08:59:49ID:1xYiSDpW0262人間七七四年
2011/01/16(日) 12:21:20ID:BM4GzxWe0263人間七七四年
2011/01/16(日) 13:53:06ID:ABEztcyG0265人間七七四年
2011/01/16(日) 18:46:44ID:w99rixxm朝鮮では激しい戦いが行われているさなか、日本軍の本営、名護屋にある太閤秀吉は
正直ヒマであった。そんなある日、秀吉が名護屋在陣の諸将を集めて言うことには
「諸将よ、お互い徒然に飽き果てているだろうが、面白いことをして遊ぼうにも大概の事は
もはやし尽くした。そこで一工夫、変わったことをしてみようと考えた。
皆々、競って、最も大いなる狂歌を読むのだ!」
大いなる狂歌?意外な命令に皆どうしていいか戸惑い、口を開く者も無かった。
そんな中しばらくして、徳川家康が進み出る
「皆、その様に遠慮ばかりしていては果てしもないことではないか。では私が江戸城主でも
あることから、江戸のある武蔵野の昔を詠んでみよう。」と
『武蔵野に 咲きはびこりし梅の花 天地に響く鶯の声』
これに秀吉「いやコレはコレは、徳川殿には武蔵野の江戸城主の事とて土地柄能くも大きく
詠み出たる事でござるかな。さあ諸将も遠慮せず詠みなされ!」
コレが呼び水となり、次に前田利家が
『富士山を 枕になして寝てみれば 足は堅田の浦にこそあれ』
それを受けて上杉景勝
『須弥山に 腰打ち懸けて大空を 笠に被れど耳は隠れず』
これに秀吉「いやコレは大きい大きい」と関心
すると蒲生氏郷進み出て
『須弥山に 腰打ち懸けしその人を まつ毛の先で突き飛ばしけり』
秀吉これを大いに賞賛し「蒲生殿には大きく詠み出されたることである。
ではこの次はワシが自ら詠み試みよう」と
『山根付け 海巾着に川は紐 緒締めは三五十五夜の月』
実に大きい歌である。秀吉自身もこの歌の出来に内心得意になっていたが、ふと側を見ると
御伽衆の曾呂利新左衛門が妙な表情で秀吉の方を見ている。
そこで秀吉「なんじゃ新左衛門そんな顔をして、お前も一首詠んでみるか?」
これに曾呂利喜んで「お歴々の前、恐れ多いことですが殿下の仰せでもあり、また先程より
諸将の御歌を聞くばかりで、私の方も一首詠みたくジリジリしておりました所、幸いにも
殿下のご命令に従い、数ならぬ新左ではありますが、一首つかまつります。」
と、
『天と地を 団子に丸めて手に載せて ぐっと呑めども喉に障らず』
これには秀吉はじめ満座の諸将「いやこれは、新左に大きくやられたものだ。
今日の一番大いなる狂歌はこれであろう!」と賞賛し、どっと笑ったそうである。
名護屋陣、大いなる狂歌比べ、と言うお話。
0266人間七七四年
2011/01/16(日) 18:50:06ID:+4K0eBBmttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-588.html
この詳しいバージョンか
ついでにそれを元にした落語の落ち
曽呂利新左衛門「ははー、兼光、頂戴いたします」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4249.html
0267人間七七四年
2011/01/17(月) 04:01:53ID:21iqkfIz>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5045.html
沼田方面でこんな事をやっている頃。
利根川対岸の川田地区では北条氏照の率いる二万の軍を迎えていた。
この川田城を落とされたら、名胡桃城までの道が開けてしまう。
岩櫃城の真田信幸が上田に居る現在、吾妻からの援軍は望めない。
沼田城からは根津幸直が派遣されてはいたが、彼を加えても総勢は三百。
氏照は白井長尾輝景を先陣として、子持山峠を越えて川田に押し寄せる。
戦略も戦術もない、兵数差を前面に出しての力押しだ。
ところが、川田城は包囲しても反応はなく、攻撃を仕掛けても反撃もない。
城内に突入してみると、そこには人っ子一人いない空城。
「防衛を諦めて名胡桃城に退却したか……まぁ、当然だな」
肩透かしを喰った長尾輝景は、一旦氏照の本陣に帰還するべく、兵をまとめる。
山の中の小城であった川田城には、大軍の北条勢を収容する施設などなく、わずか
な守備兵のみを残して引き上げざるを得なかったのだ。
奇襲があったのはその帰り道。
てっきり真田勢は名胡桃城に退却したものと思い込んでいた長尾勢は、川田城の支
城であった大竹城に対して、完全にノーマークであった。
そう、根津幸直を筆頭にした真田勢三百は川田城を捨て、支城の方に潜んでいたの
である。
土地勘のない山の中、茂みにはまって身動きの取れなくなる者、崖から落ちる者、
沢に落ちる者……死傷者は続出し、これほど険しい山中では、負傷者は捨てて行か
ざるを得ない。
これによってますます長尾勢の被害は増えて行った。
「川田がこれほどの難所だとは思わなかった。こういう山中では、大勢で一度に攻
め寄せても数の有利が活かせない。今日の敗戦は力攻めを命じた俺のミスだ。明日
はこちらも小勢で攻め寄せるべきだ」
敗戦を聞いた北条氏照は翌日、小部隊による川田進軍を命じる。
小部隊とは言ってもその数は二千。しかも三方向からの同時侵攻であり、合計六千
の兵力である。
三百の真田勢に抵抗の術はない。誰もがそう思っていた。
ここで一つ不思議な事があるのだが、北条家には真田家から寝返った上州国人衆が
大勢居る筈なのだ。しかしこの時の侵攻に際して、彼等の持つ川田の地勢等の情報
が活かされた形跡がまったくない。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5034.html
のように真田家に帰参した者がいた事を考えると、彼等はあまり重用されていなか
ったのかも知れない。
0268人間七七四年
2011/01/17(月) 04:03:18ID:21iqkfIz北条勢三手の内の一つを率いた長尾輝景、昨日の雪辱を誓って川田城へと殺到する。
が、今日も川田城は空。
念のために大竹城や、周辺の山の中も捜索してみるが、伏兵がいる様子もなかった。
「昨日の勝利に満足して、今度こそ名胡桃城に引き上げたのでは?」
「それとも、他の攻め口に迎撃に出たのかも知れんな」
「それでは、我々が他部隊と合流すれば、挟み撃ちに出来ますな」
「だが……お前、道知ってる?」
「……知りません」
「まぁ、放っておいても二千対三百なんだ。問題なく勝てるだろ?」
昨日、その三百に負けた将の言葉とも思えないが、常識的な認識ではある。
長尾輝景はこの日も兵をまとめ、子持山の峠を引き返して行こうとした。
帰り道にやっぱり奇襲があった。
「今日もかよっ!?」
「今日もだよっ!!つか毎日毎日、引っかかってんじゃねーよ!!」
峠に差し掛かった辺り、無駄足で引き返す北条軍を、根津幸直率いる真田勢が襲撃
する。
往路を襲撃しなかったのは、峠を下ってくる北条軍に攻めかかるのは不利、まして
これから城攻めをしようという敵は戦意が高い。だから陣地に帰ろうと、峠を登っ
てくる時に襲撃した方が良いと考えたのだろう。
長尾勢が川田城であれこれとしている間、十分に準備を整えて待ち構えていた真田
勢は、森から矢を射かけ、斬りかかったと思えば、森の中にサッと引き上げ、別方
向から斬りかかり……地形を知り尽くしたゲリラ戦でこちらの兵数を悟られぬよう、
奮戦をする。
この日も遂に長尾勢は追い立てられ、氏照の待つ本陣へと逃げ帰る事になった。
が、しかし、そこで待っていたのは激怒の表情を浮かべた北条氏照。
「お前もか」
「……はい?」
この時点では長尾輝景は自分が真田勢三百と交戦したと思っている。
だから自分は叱られるだろうが、他の二隊は無傷で帰還したのだろう、と。
「長尾、多目、小幡……貴様等三人揃いも揃って、二千の兵を率いて百人の真田勢
に打ち負け、おめおめと尻尾を巻いて逃げ帰って来おって!!」
「ひゃ……百!?」
この日、根津幸直は驚愕の策を立てていた。
三方から迫りくる六千の北条勢に対し、真田勢三百も三つに分けたのだ。
(二千vs百)×3という状態である。
「……と、言う事は……」
他のルートで進軍していた多目周防守、小幡上総介もやはり、百人の真田勢に破れ、
本陣まで逃げ帰っていたのである。
この日、根津隊が討ち取ったのは八十四人。他の二部隊もそれぞれ二十人、三十五
人を討ち取って沼田城に首を送った。
矢沢頼綱はこの戦果に大喜びし、沼田城を包囲する北条軍の目の前に晒したのだと
言う。
北条氏直が率いる本隊も沼田城を中々攻め落とせず、氏照隊の敗戦を聞いた氏直は、
遂に沼田からの撤退を決断したという。
百人で二千人を撃退とか。しかもそれを三部隊で同時にやってのけるとか。
いやいやいやいや、バケモノにも程があるだろ!?
0269人間七七四年
2011/01/17(月) 04:08:00ID:c+m7gPcR謙信も京に登るより関東に固執したのが分かる気がする
0270人間七七四年
2011/01/17(月) 04:08:41ID:c+m7gPcR0272人間七七四年
2011/01/17(月) 07:21:31ID:Izz/q1D70273人間七七四年
2011/01/17(月) 08:10:11ID:74SI7RaR酒に関しては越後の酒のほうが美味だったのかもしれないが・・・
0275人間七七四年
2011/01/17(月) 08:36:40ID:5VchPHjpは普通だったのに新潟側は雪降ってて正にトンネルを抜けると雪国って感じだった。
道も全然整備されていない当時、越後からわざわざあの峠を越えて遠征するのは
そうとう難儀だったろうに毎年のようにやって来る執念だけはすごい。
得るものは全くないのにw
途中沼田も通ったけど、耕作出来る土地なんてほとんど無いような山地だった。
こんな僻地を巡って真田と北条はどんだけ必死に争奪してるんだと呆れるほど何もない
真田にとっては必死だったけど、北条はそんな必死になるような場所でも無かった
のかもしれん。
0276人間七七四年
2011/01/17(月) 10:50:18ID:Ah8ighjE大群で兵糧攻めしてやれば良いのに、、、
0277人間七七四年
2011/01/17(月) 10:51:06ID:VuLje1OU0278267-268
2011/01/17(月) 10:56:18ID:21iqkfIzそれが兵站のリミットなんだろうね。
0279人間七七四年
2011/01/17(月) 10:58:39ID:Tz2le1PU0280人間七七四年
2011/01/17(月) 11:53:18ID:BaQsRr1I冬の間無駄飯食らいになる父ちゃんらが関東に出稼ぎに行ってて母ちゃんたちホクホク
雪が少なくて多少暖かい関東でヌクヌク
そこらじゅうに保管されている米を食いまくってムシャムシャ
というメリットが
0281人間七七四年
2011/01/17(月) 12:08:52ID:wZfjERuJ小幡って小幡信貞?西上野戦法衆で鳴らした男が…
落ちたものだな
0282人間七七四年
2011/01/17(月) 15:47:14ID:EsgbJQfX沼田には谷や盆地があるだろ
中世までの日本人は大河川や河口の湿地を治水する術も大政権も無いから
治水しやすい小河川の作った谷に住んでたんだよ
>>268に出てくる小幡氏の本領も小河川沿いにある
現代人が考えるほど価値は低くない
0283人間七七四年
2011/01/17(月) 18:41:24ID:RP23rVm90284人間七七四年
2011/01/17(月) 18:56:04ID:LsWz6+wT【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
0285人間七七四年
2011/01/18(火) 23:37:56ID:3bCKS5bK一度撃退されたので沼田を囲み攻めにしようとしたら、碓氷峠を奪われて
逆兵糧攻めの危機になったでござる。
0286人間七七四年
2011/01/18(火) 23:55:15ID:lClk80Z4対真田戦線の重要度は低く、真田が勢力を拡大しなければそれでいいという態度だった。
0287人間七七四年
2011/01/19(水) 00:06:29ID:3QtVpdikまあ、撃退されてもされてもまた兵を揃えてくるんだから、戦略レベルじゃ
真田の負けっぱなしなんだけどな。
0288人間七七四年
2011/01/19(水) 00:12:58ID:O0MUefs+戦略レベルで上手のラスボスにコテンパンにされるまでは
戦で負けようが
ノブからぞんざいな扱いうけようが
真田にやられようが
領域広げていったもんな。
0289人間七七四年
2011/01/19(水) 01:26:37ID:9YzPZI+aこの頃の氏直はすでに氏政から家督は譲られているんですよね?当主が戦場に行くのが不思議なんですが・・・
万が一討ち死にしたらどうするのかと言う意味で。
0290人間七七四年
2011/01/19(水) 01:33:22ID:/Cs2bbU3この時代どこでも、戦国大名の軍事活動は配下、盟下の大名、国人などによる連合軍を
率いる行為なので、その中心たる盟主の家の当主が率いるのが当然。
討ち死にしたらそれまでということ。
0291人間七七四年
2011/01/19(水) 01:51:08ID:eotCypAf嫌でも出るしかないでしょ。
それに戦争ってヒャッハー!すればいいってものじゃなくて敵の裏切りの約束を取り付けたり
占領地に禁制をだしたり、相手と和睦したりするから、
戦場のそばに当主がいた方が何かと都合がいいんじゃないか。
0292人間七七四年
2011/01/19(水) 02:16:32ID:6LHIGbAq0293人間七七四年
2011/01/19(水) 02:47:53ID:bxu/GW0W0294人間七七四年
2011/01/19(水) 03:01:45ID:d07oPON+ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4794.html
128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 11:16:25 ID:YmkILJn7
とある質問箱にこんな回答があった。
>そもそも戦国時代でゲームみたいに
>武将が自ら先頭に立って突っ込むなんてふつうありません。
>まぁピンチの時の決死の突撃とか味方を鼓舞するときなどには前線に出ますが、
>そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
>指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。
「そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。」
(´・ω・`)「・・・」
光安「殿、帰りますよ」
あれ?おかしいな・・・なにかが脳裏をよぎった様な・・・
0295人間七七四年
2011/01/19(水) 07:37:26ID:SLAgxWMq幸村が秀頼出陣を淀に求めたのもそれを狙ってた訳で
0299人間七七四年
2011/01/19(水) 16:36:51ID:qraloXDL>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5046.html
で徳川との同時侵攻も撃退されてしまった北条氏直。
こうなったらどうにかして沼田城を落とさなくては面目が立たない。
翌天正十四年五月に、再び沼田城へと押し寄せた。
今回は前回から更に動員数を増やし、実に七万もの兵で上野の片田舎の小城に攻め
寄せたのである。
と、そんな矢先に沼田城の矢沢頼綱から先鋒の北条氏邦宛てにお手紙が届く。
「去年勝てなかったからって、関東中の大名を引き連れてご苦労なこったね。ここ
数年、色々やってたみたいだけど、あいにく俺達はピンピンしてるよ?折角当主が
出馬してるんだし、さっさと攻めて来いよ。相手してやんぜ? 滋野頼綱より」
それに対して氏邦から頼綱へのレス。
「お手紙読んだよ。だって仕方ないじゃん。沼田って山の中で戦いづらいんだもん。
『攻めて来い』ってのは判るけど、俺達もこーゆード田舎って珍しくてさ。まずは
何日か、鷹狩りでもしてゆっくり骨休めしてから行くよ。その間に降参するって言
うなら、いつでも受け付けるよ?まずは落ち着いて考えてね。 平氏邦より」
しかしこんな和やかな文通をしている間に天候が急変、なんと三日三晩に渡って雨
と雷とが激しく続いた。
北条軍は本隊と連絡が途絶えるのを恐れ、沼田城を囲んでいた先鋒部隊を片品川の
南側へと引き上げさせる。
そしてその恐れは的中し、増水した河川は氾濫。北条軍がかけた橋を悉く押し流し
てしまったのである。
「先鋒を引き上げさせたのは正解だったな。まさかこんな事になるとは……」
雨が上がって現れたのは、利根川と片品川の氾濫による惨状。
雨がやんでも尚、濁流は渦巻き、渡河する事も橋をかける事も、到底出来そうにな
かった。
そんな北条軍の目の前。片品川を挟んだ対岸に真田兵が大勢、繰り出してきた。
攻撃か!? どうやって川を渡るつもりだ!?
緊張が走る北条軍を尻目に、彼等はのんびりと鳥を撃ったと手を叩き、鹿を撃った
と大喜びをして狩りを楽しんでいた。
0300人間七七四年
2011/01/19(水) 16:37:38ID:qraloXDLそして数日後、ようやく川の水も治まってきた頃、沼田城から矢文が届く。
「片品川を渡りたいなら自由にどうぞ。邪魔はしないよ。こっちは待ち草臥れて退
屈してるんだ。早く来てくれ」
「ぬぐぐぐぐぐぐ……」
これほど圧倒的な兵力を持っているというのに、ここまで虚仮にされる屈辱。
橋を掛けなおす手間も惜しいと北条軍は川を押し渡り、沼田城に攻め寄せた。
「一気に攻め落とせ!!我等を虚仮にした報いだ。目にものを見せてやれ!!」
怒り狂った北条軍の勢いは凄まじく、防御側が堀にかかる橋を落す暇もなく大手門
を制圧、城内へと押し寄せる。
続いて三の丸へもこの勢いで押し寄せようという時……
ドォォォォン!!
「な、何事だ!?」
背後で起こった轟音に、皆の足が止まる。
「た、大変です!大手門にかかる橋が落とされました!!……真田軍の忍びによって!!」
「なんだとっ!?」
「わ、我々は退路を絶たれ、城内に閉じ込められましたっ!!」
北条軍に動揺が走る中、三の丸からは弓矢、鉄砲、石飛礫までが雨霰と打ち込まれ
る。
更には三の丸の門が開き、七千の真田兵&民兵が北条軍に止めを刺すべく雪崩を打
って走り出す。
パニックを起こした北条軍は阿鼻叫喚の中、抵抗も出来ずに真田軍に討ち取られて
行った。
そして城外。
堀を挟んで繰り広げられる惨劇を、なす術もなく眺めているだけの彼等にとっても、
これは他人事ではなかった。
「かかれぇ!!」
別の城門から出撃した矢沢頼綱の率いる一千が、目の前の大虐殺を呆然と眺める北
条軍に襲い掛かったのだ。
沼田城に突入した先鋒の部隊は壊滅。
それに続く第二陣も頼綱に追い立てられ、討死にする者、川に流される者は数限り
がない、という状態であった。
散々挑発を重ねられた挙句の惨敗という結果に激怒した氏直は、沼田城を皆殺しに
してやる、と息巻いていたのだが、再び降り始めた雨はまたも周辺の川を氾濫させ
た。
参陣した諸豪族の間に漂う厭戦気分を感じた氏直は、歯噛みをしながらも兵を退か
ざるを得ず、小田原に引き返して行ったという。
なんつーか、挑発の手紙に付き合うなよ、北条さんちもさぁ。(^^;
雑兵には口合戦を禁止してなかったっけ?自分たちでやってどうすんのさ。
0301人間七七四年
2011/01/19(水) 16:59:13ID:Noof9hdAねぇねぇ、また負けちゃったけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
0302人間七七四年
2011/01/19(水) 17:18:21ID:zZj+aTex0303人間七七四年
2011/01/19(水) 17:27:12ID:/Cs2bbU30304人間七七四年
2011/01/19(水) 17:33:03ID:WdQexWzJ0305人間七七四年
2011/01/19(水) 17:35:40ID:rzcxgPVr真田が徳川を翻弄したのと話を釣り合わせる
ために北条をボコボコにしたって事にしてるだけ
0306人間七七四年
2011/01/19(水) 18:03:18ID:eMU9QMk0なにより、動員数万なら、上田合戦よりもはるかに規模が大きいのに
大して知られていないというのがねい。
0307人間七七四年
2011/01/19(水) 18:14:14ID:QnRA4Zjr0308人間七七四年
2011/01/19(水) 18:18:07ID:p0NUjSzr0309人間七七四年
2011/01/19(水) 18:20:40ID:nhzlIoLaなどの連合軍と戦い、北関東での北条優位を確立した沼尻の戦いですら北条の動員は多くても
1〜2万なので、真田だけを相手に数万の動員とかありえないわなw
0310人間七七四年
2011/01/19(水) 18:22:41ID:EsQpA7G8汚いなさすが真田汚い
0311人間七七四年
2011/01/19(水) 18:26:39ID:2LZG+p4J八百長八百長
0312人間七七四年
2011/01/19(水) 20:28:13ID:53N6X4ll0313人間七七四年
2011/01/19(水) 21:26:00ID:OzGs+Brm島津の朝鮮記とかもだがこの時代の脚色は半端内からしょうがない。
やる夫とか同様物語として楽しめば委員ジャマイカ
0314人間七七四年
2011/01/19(水) 21:39:58ID:cMMPyNjZ0315人間七七四年
2011/01/19(水) 21:52:47ID:Uwayo8Mu0316299
2011/01/20(木) 00:59:34ID:+O6WGFJQ参陣した中には宇都宮氏の名前まで入ってます(笑)
あくまで逸話として投下しているので、真偽については私を責めないでね?
でも、家譜ってどれもこんなもんじゃね?(^^;
0317人間七七四年
2011/01/20(木) 12:01:36ID:NPM39iI6ただ続けて無双ばかりだから、みんな胸焼けしてるってとこやね
0318299
2011/01/20(木) 14:27:24ID:+O6WGFJQあ〜うん……無双無双としつこいかな、とは自分でも思ってました。
『加沢平次左衛門覚書』を読んで、投下出来そうな逸話はこれが最後かな、と思った
ので、間を空けずに投下しちゃいましたが。
やはり書いた本人が感じてたくらいだから、皆それは感じてたか。
申し訳ありませんでした。とりあえずこれで私の手持ちの真田関連ネタは終了ですの
でご安心を。
0319人間七七四年
2011/01/20(木) 14:39:33ID:l/lm738Mいやいや、おもしろかったです。乙でした。
0322人間七七四年
2011/01/20(木) 15:17:25ID:xnTztkBy0323人間七七四年
2011/01/20(木) 15:39:08ID:nDaZk2mrや、逸話は面白かったですよ
ノリでツッコミ入れたがるのはここの住民の性分というか・・・いやスマンカッタ
0324人間七七四年
2011/01/20(木) 22:48:32ID:VpwVoTCF又助が耳川を渡河した時、隠れていた薩摩武士が矢を放ってきた。驚いた又助が向かって行こうとしたところ、
六郎太夫がその前に立ちはだかり、薩摩武士に叫んだ。
「おーい、味方じゃ!間違えるな!!」
しばらくポカーンとしていた薩摩武士だったが、やがて気を取り直すと、弓を構えた。
「うつけが。とんだ勘違いをしておるわ!どれ、そのまま的になってくれい。」
「・・・なワケねーだろ!!」
父と目で語り合い、六郎太夫がトボけて薩摩武士を引き付けている間、密かに回りこんだ又助は、横から薩摩武士に
斬りかかった。だが、未熟な又助の一刀は敵に弓で受け止められ、弓を斬り折られながらも薩摩武士は太刀を抜き放ち、
逆に又助へ向け、強烈な突きを見舞った。
無情にも膝上を貫かれた又助は倒れ伏したが、油断した薩摩武士が近づいて来るところを下から斬りつけ、その左足を
切り落とした。(や・・・やった!それにしても、これが戦か。疲れた、もう動けん・・・)
「何をしておる!?敵は、まだ息がある。早う起きて止めを刺さぬか!!」
動かない又助を見た六郎太夫は、倒れた薩摩武士の近くまで又助を引きずり寄せ、一喝した。
父の叱咤を受けた又助は、最後の気力を振り絞って薩摩武士の首を取ると、今度こそ動けなくなった。
「よーし!初陣の身で良くやった。さあ、引き上げじゃ!!」力を使い果たした息子を、父は馬に担ぎ上げて
乗せてやり、本陣までの道すがら、いつまでもいつまでも褒めてやった・・・
・・・又助が「親父にはかなわん。」と思ったのは、父が追いかけて来た薩摩武士に対し、振り向くと同時に放った槍で
一人の喉を貫き、引き抜きざまに横に振るってもう一人を馬から叩き落し、一喝して残る武者どもを追い払った後、
悠々と喉を貫いた武者の首を取った時である。
0325人間七七四年
2011/01/20(木) 22:57:14ID:Pu7u3tWS0326人間七七四年
2011/01/20(木) 22:58:00ID:/jDHX1KO0327人間七七四年
2011/01/20(木) 23:01:20ID:lBsB1Qy30328人間七七四年
2011/01/20(木) 23:52:05ID:oTfw6vIv忠勝とか鬼武蔵とか才三とか有名レベルはどうなるんだ…
0329人間七七四年
2011/01/21(金) 00:31:34ID:K9+ECi2O永祿6年(1563)11月25日、土呂と針崎の一揆勢は上和田へと押し出した。
これに岡崎の徳川家康は自ら出陣、両軍は激突したが、しばらくして一揆勢は敗勢となり
妙国寺の方面への逃げ出した。
これは一揆勢の罠であった。
彼らはわざと逃げ出し追い来た徳川勢を、針崎の森に置いた伏兵をもって討つ、
という作戦であったのだ。いわゆる捨て奸(すてがまり)である。
さて、この撤退する一揆軍の殿を務めていたのが、本多九郎三郎という侍であった。
これを徳川軍の大久保忠世が見つける。忠世と本多九郎三郎は、古くからの友人であった。
忠世、本多を追いかける。本多も忠世の姿を認めると引き返し、「勝負!」
互いに打ち戦った。しかし勝負がつかず
「寄れや!組もう!」
「心得た!」
互いに武器を投げ捨て、組み合いを始めた。
上に下にと揉み合っていたが、本多のほうが力優っていたか、忠世はついに組み伏せられた。
大久保忠世、絶体絶命!…と、忠世、本多に向かってこう言い放った
「いかに本多殿!忠義に背き、一揆に与するのみならず、昨日や今日までの朋友の
よしみを忘れ、私の首をとって、一体誰の見参に入れようというのか!?」
本多九郎三郎、これを聞くと
「確かになあ…。お前のような友人を討ち取っても、感状を得るような事ではないのだ…。」
と忠世を引き起こした。すると二人、
「くくく…」
「あっはっはっはっは!」
互いに大いにうち笑い、そしてまた、左右に別れた。
ちなみに一揆勢の捨て奸だが、家康がいち早く、一揆勢の逃げ方がおかしいと気づき
「追い打ち無用!深入りするべからず!」
と命令を出したためその計略も虚しくなり、妙国寺から土呂、針崎へと引き上げたそうである。
そんな、三河一向一揆でのヒトコマ。
0330人間七七四年
2011/01/21(金) 00:42:33ID:xMtPNWWs0331人間七七四年
2011/01/21(金) 00:43:37ID:89GZHsF00332人間七七四年
2011/01/21(金) 00:55:17ID:snAnfnoR0333人間七七四年
2011/01/21(金) 03:23:17ID:8lGyJpFP0334人間七七四年
2011/01/22(土) 04:45:58ID:in1GdwYp島原の乱の後の事だが、柳河藩に宗茂が目をかけていた安東助四郎
という若者がいた。助四郎は病弱だったが、聡明で好学心が高かった
ため、宗茂は江戸に呼んで、勉学に励ませていた。しかし、それを
心好く思わない者達がいて、助四郎に色々と言って来ることがあり、
それを苦にした助四郎は、病気と称して柳河に帰ってしまった。
そのことを知った宗茂は、実情を調べた上で助四郎に手紙を送った。
「病はいかがか。容態はどうかと心配している。だがこちらで聞いた
ところ、帰国した理由はそればかりではあるまい。お前の勉学は私と
忠茂が認めたもので、我らはお前のことを少しも疑ってはいない。
お前に何かと申した者達はこちらで吟味する。どうか、やる気を取り
戻してほしい。お前が確かな人物であることは見届けている。」
これを受けた助四郎は発奮し、以前以上に勉学に励んだという。
後に、助四郎は省庵と名乗り、関西の巨儒と謳われる大儒学者と
なったそうな。
0335人間七七四年
2011/01/22(土) 12:23:55ID:8bWr5mnxもちろん正信さんもこの中に入ってる
このときは仲良かったんだけどなあ
0336人間七七四年
2011/01/22(土) 13:38:53ID:JHn6gVjb会社が小さい頃は力が弱いから生き残るために社員が一丸となって頑張るけど、
会社が大きくなって余裕が出てくると社員が増えたり派閥が出来たりして軋轢が生じ始める
0338人間七七四年
2011/01/22(土) 19:15:50ID:3P3v2+hp見る目が合って気遣いも出来る宗茂はやっぱ良い男とも思うけど
0339人間七七四年
2011/01/22(土) 22:46:05ID:FdqAM1xJ戦の世から離れてくると善からぬ家臣が増えてくるんだなあ
0340人間七七四年
2011/01/22(土) 22:52:47ID:rh7IN3pi渡辺半蔵は一番槍11度、名のある者の首を取ること9度、
片や服部半蔵は一番槍2度、名のある者の首を取ること11度、
互いに堂々たる戦歴である。
ところがそんな渡辺半蔵だが、彼は合戦の前敵と対峙すると、鎧が音を立てるほどガタガタと
震えていたというのだ。であるのに合戦が始まると、そんな事など無かったかのように剛強に
暴れ回る。人々はそれが、あたかも別の人間であるかのように見えたと言う。
渡辺半蔵は震えた、と言うお話。
0341人間七七四年
2011/01/22(土) 22:59:15ID:0hbGveok0342人間七七四年
2011/01/22(土) 23:01:17ID:3P3v2+hp0344人間七七四年
2011/01/22(土) 23:33:59ID:ayW90HaSって考えるとすごい話だと思うなあ、下手に戦を恐れないよりも格好いいと思う
0346人間七七四年
2011/01/23(日) 12:47:50ID:op4mvnvt相変わらずの完璧超人ぶり。
この時代は、まだまだ十時摂津さんも国許で頑張ってたはずだから
良からぬ連中は、徹底的に根性焼きされただろうな。
0347人間七七四年
2011/01/23(日) 13:18:22ID:hsGbcIcJせいぜい呼び出してこんこんと諭すくらいのイメージ
0348人間七七四年
2011/01/23(日) 13:46:08ID:lN1N9TQC自分の祖先がめんどくさい人種だったとは。
0349人間七七四年
2011/01/23(日) 14:13:34ID:aOu9fMRz0351人間七七四年
2011/01/23(日) 16:58:13ID:AIMOXUU/悪い話ねーんじゃねえのか
0352人間七七四年
2011/01/23(日) 17:12:47ID:JKkFBA+p悪い話というか、妻との関係で苦労したり、牢人して江戸に出たとき、資金が尽きて
家臣たちが仕方なく食事に雑炊出したら、「こんな変わった料理だして気を使わないで、
俺は普通の飯でいいよ」と斜め上の方向に解釈したり、人柄がまっすぐなことは確かだが
完璧人間とはちょっと違うとおもうぞ?>宗茂
0353人間七七四年
2011/01/23(日) 17:25:31ID:aOu9fMRz0354人間七七四年
2011/01/23(日) 17:34:38ID:WFSG8bia0355人間七七四年
2011/01/23(日) 17:40:56ID:hsGbcIcJセックスレスか?
0357人間七七四年
2011/01/23(日) 17:46:58ID:/Cap/O0M0359人間七七四年
2011/01/23(日) 18:09:55ID:op4mvnvtァ千代が男前過ぎるからだろ。
同じ男前でも小松殿のような浜松城婚活大合コン大会のような女らしい話がないからな。
秀吉の名護屋城大名妻NTR大会に参加を求められた時、何を勘違いしたか、完全武装
の次女数十人を引き連れて行ったほどだし、美女だけど全然女らしくない。
さぶ要素のない宗茂にとっては魅力ない妻だったんじゃないかな?
0360人間七七四年
2011/01/23(日) 18:20:45ID:aOu9fMRzどちらも引かないなら上手く行く訳が無い。
0362人間七七四年
2011/01/23(日) 18:38:24ID:qkDqgqcR0365人間七七四年
2011/01/23(日) 23:19:48ID:aOu9fMRz0366人間七七四年
2011/01/23(日) 23:24:37ID:op4mvnvtファザコン、男勝り、女主人
このタイプが惚れるのは、真田の兄ちゃん60歳ヴァージョン以降くらいかもしれない。
父親の道雪さんが59歳の時の子供だからな。
0367人間七七四年
2011/01/23(日) 23:28:51ID:0nVvLwHF0368人間七七四年
2011/01/23(日) 23:38:53ID:qyhr38my0369人間七七四年
2011/01/24(月) 00:08:24ID:YmW0Mqdbマスヲさん扱いするのは無理があるだろう
0370人間七七四年
2011/01/24(月) 00:47:40ID:RwMeCe73それから間もなく、徳川家康の御前でこの話が出た。
話題が話題だけに、おそらくは若年とは言え武士として如何なものかと、幾分の嘲笑や
侮蔑が混じっていただろう。
が、家康の反応は意外なものだった
「どんなものでも見たことの無いものを始めて見れば、驚くものだろ?
秀頼公が牛を見て驚いたと言うが、それは当然のことだ。
わしだってもし初めて見たら、牛なんてものは特に恐ろしいと感じるだろう。」
初めて見た牛を恐れるのは恥でも問題でもない、としたのだ。
家臣が秀頼を侮ることをたしなめたか、あるいは家康らしい合理主義で語っただけか、
家康、秀頼の恐怖を当然とする、と言うお話。
0371人間七七四年
2011/01/24(月) 01:00:26ID:fQOhp6RUびびるのは無理ない。
0372人間七七四年
2011/01/24(月) 01:03:33ID:OFsSwK6z秀吉って城の中生まれだったかな…って疑問に思っちまったじゃないかw
0374人間七七四年
2011/01/24(月) 01:08:56ID:irpUoVAkTO BE 大阪の役
0375人間七七四年
2011/01/24(月) 01:37:25ID:Cj4CPmZR0376人間七七四年
2011/01/24(月) 02:02:44ID:sLtSswDN0377人間七七四年
2011/01/24(月) 06:52:37ID:+WQv9ex70379人間七七四年
2011/01/24(月) 15:12:16ID:83VtPZ/00380人間七七四年
2011/01/24(月) 19:17:23ID:B5U6n/d/0381人間七七四年
2011/01/24(月) 19:46:09ID:MlOaa5v7母方の祖母に「裏切り者の家系が自慢できるんかい!」と突っ込まれていたが。
そもそも秀秋って無嗣断絶により改易されたんじゃ…
(側室の子と言われる羽柴秀行の系統という説だったのか?)
0383人間七七四年
2011/01/24(月) 20:14:25ID:1DA6gtmI家系図見ても近所の人ととかばかりで貴種流離譚が入り込む余地がありません……
0385人間七七四年
2011/01/24(月) 21:14:39ID:bGFq3rOO先祖の宗家は、豊臣軍に本当にフルボッコされて討死
一部は徳川に拾ってもらって旗本になったけど
うちの直系先祖は、百姓になって今に至る
0386人間七七四年
2011/01/24(月) 21:19:04ID:5lSswm0m0387人間七七四年
2011/01/24(月) 21:32:00ID:SsySyJVP0388人間七七四年
2011/01/24(月) 21:33:09ID:sLtSswDN0389人間七七四年
2011/01/24(月) 22:23:23ID:YmW0Mqdb0390人間七七四年
2011/01/25(火) 00:01:09ID:1Avq+srx0391人間七七四年
2011/01/25(火) 02:21:25ID:CuVGgK0Yてなわけで弘前以西には親戚は一切住んでいないw
0392人間七七四年
2011/01/25(火) 12:09:45ID:osT5rHaVうちは江戸時代から苗字があるって程度の
稀に番付載ってた地方地主だ(´・ω・`)
0393人間七七四年
2011/01/25(火) 12:31:20ID:YTOngWiI0394人間七七四年
2011/01/25(火) 12:59:13ID:R4tPUzQl0395人間七七四年
2011/01/25(火) 13:09:17ID:md7ywBoVしかしあんまし続けるなら専用のスレ行った方が
0396人間七七四年
2011/01/25(火) 15:27:35ID:+3nNqy0O「狂おうでや」
と、家臣らを引きつれ喚声をあげながら馬を狂ったように乗り回したという。
これが「お狂いあそばす」信長のストレス解消法であた。
と同時にチャッカリ馬術の訓練にもなっているところはさすがだw
0397人間七七四年
2011/01/25(火) 19:40:22ID:aA7Ihvfx>家臣らを引きつれ喚声をあげながら馬を狂ったように乗り回した
やっている事は現代の珍走と大して変わらなさそうなのに
妙に格好良く見えるのはやはり格の違いというべきか。
0399人間七七四年
2011/01/25(火) 20:24:56ID:8T1F/COF政宗が家臣引き連れて馬を狂ったように乗り回してたらまた政宗だよ…だし
長可が家臣引き連れて馬を狂ったように乗り回してたらこのDQN次はどこ攻める気だよ!だわな
そして一条さんなら家臣がついてこず一人で馬を狂ったように…
0400人間七七四年
2011/01/25(火) 20:29:33ID:be7sKMEB0402人間七七四年
2011/01/25(火) 20:32:31ID:0pCPIw3z信玄が家臣引き連れて馬を狂ったように乗り回してたら家康はウンコもらすのか
0403人間七七四年
2011/01/25(火) 20:32:36ID:Ntp4zmAT0404人間七七四年
2011/01/25(火) 20:41:41ID:mwmCUkN7さんざん引きこもり言われてるけど、北条ってそれほどおとなしくなくね?
むしろ積極的に外征して局地戦での敗退がネタになってる
0405人間七七四年
2011/01/25(火) 20:46:16ID:66axgH2J0406人間七七四年
2011/01/25(火) 20:48:28ID:mwmCUkN7そーゆーつもりじゃなかったんだが、すまそ
0408人間七七四年
2011/01/26(水) 00:14:28ID:SpWhQzom因みに俺自身は社家
0409人間七七四年
2011/01/26(水) 02:08:20ID:Ac6YNEQv戦国時代の主要な合戦にはほぼ全て参加。
0410人間七七四年
2011/01/26(水) 02:21:27ID:qyIOF+62という物があった。理由はこうである
「あれは慶長元年(1596)の伏見の大地震の時のことであった。
太閤様は如何なされたかと、皆が安否を確かめるため走っていたが、わしより先に
足早に行く者があった。
わしはこの者に走り負けるのも口惜しいと思ったが、よく見るとそやつは帯を後ろで結んでいる。
そこで人込みのなかわしは、そやつの帯の端を取って解いた。
丁度門のうちに入ったときそやつの帯はほどけ、刀脇差も地に落ちた。
これを取り上げ帯を直している間にわしは、そやつを追い抜き先に駆け抜けたのだ。
こう言うこともあるので、我が家中のものは必ず、帯を前に結ぶように!」
以上、加藤嘉明家中が帯を前で結ぶ理由
0411人間七七四年
2011/01/26(水) 02:27:18ID:BfWdqplq追い越された、って話はないのかな
0412人間七七四年
2011/01/26(水) 02:31:20ID:BfWdqplq加藤嘉明「袴帯は前で結ぶものだ。決して後ろで結ぶな。」
と思ったら既出っぽい
0413人間七七四年
2011/01/26(水) 02:33:03ID:qyIOF+620414人間七七四年
2011/01/26(水) 02:52:53ID:/nsWbOJN地味だけど決して人畜無害系じゃないんだよなこの人
0415人間七七四年
2011/01/26(水) 03:47:27ID:Wgj3U5TN罪人だらけの島って、DQN多いの?
0417人間七七四年
2011/01/26(水) 08:22:56ID:u/iuNDjH親から子に受け継がれるとしたらDQNよりもインテリなんじゃねーの
0418人間七七四年
2011/01/26(水) 09:36:18ID:3RRCsBdx宇喜多八郎秀家さんのはるか以前には鎮西八郎為朝さんとかいたんだよね
0419人間七七四年
2011/01/26(水) 10:31:32ID:VJ8gyN+J0420人間七七四年
2011/01/26(水) 15:20:38ID:3kBGhh5W山本常朝
「あるとき、太閤様が大名衆を集めて生け花の会を開いたのだが、
直茂公の前にも花器と生花が用意されていた。
ところが直茂公には生け花の経験がなかった。
そこでどうしたかと言うと生花の束を鷲掴みにして、
そのまま剣山に突き刺して太閤様に差し出されたのだ。
それを御覧になった太閤様は、
「形は悪いが、心意気は見事である」
と、言われたとのことである
0421人間七七四年
2011/01/26(水) 15:52:22ID:7UrYXUCq> 「形は悪いが、心意気は見事である」
こう言うしか無かったんだろうなw
テストで「0点だけど全問きちんと答えているのがえらい」みたいな。
0422人間七七四年
2011/01/26(水) 16:17:13ID:Jif0yKC2つか、葉隠も結構めんどくさそうなイメージあるなぁ〜
0423420
2011/01/26(水) 17:00:43ID:3kBGhh5W本文で剣山と意訳しましたが、
この時代、今のような針のついた剣山ではなかったらしいです。
0424人間七七四年
2011/01/26(水) 18:25:23ID:JFxT9qfj少なくとも信長の下にいたときはやる暇なんかないよね
0425人間七七四年
2011/01/26(水) 19:02:20ID:6rsQ2ZgUだけど心意気は見事なのか。
よくわからんなあ
0426人間七七四年
2011/01/26(水) 19:07:29ID:qAr9Fg9L江戸時代だが、基本的に10両以上の窃盗と今の日本で言う刑法の重罪事案は全部死刑
島流しになるのは、ケチな窃盗や共犯者達、政治犯と思えばいい。
島についても、基本的に島の住民とは隔離されていた。
住民と接触出来たのは、老人の罪人や医師などのインテリ技術者。
宇喜多秀家は身分の高い武士(大納言)なので特例中の特例。
>>424
京都で奉行やっていた時じゃないか?
0427人間七七四年
2011/01/26(水) 19:58:20ID:ZUSyDy2o人によるだろうな
先日悪い話に出てた尾藤知宣ならとんでもないことになってたかもしれん
直茂の人物が良かったんだろうな
0428人間七七四年
2011/01/26(水) 20:05:21ID:WUtUPlqR0429人間七七四年
2011/01/26(水) 20:55:59ID:Odb2kL0Sそのせいか彼は捕虜200人を解放した。
そして自分が可愛がっていた小鳥も籠から放してやろうとした。
だがもう弱りきっていた純忠は、それを侍女に頼んだのである。
「すまぬが小鳥を放してやってくれんか・・・」
「かしこまりました」
ところが侍女の小鳥の扱いが雑だったようで
「ゴルァ!小鳥ちゃんをもっと大事に扱わぬかーっ!(゚Д゚#)」
純忠は激怒してしまったのである。
(はっ、いかん。怒ることはゼウス様の御意志に反するに違いない)
と我に返った純忠は
「怒ってすまなかった。しかし、小鳥はゼウス様が作られたのだ。
ゆえにわしは小鳥を可愛がっておる。ぜひ、お前もそうしてほしいのだ」
と言って侍女に立派な帯を与えた。死の前日のことだったという。
0430人間七七四年
2011/01/26(水) 21:18:25ID:3kBGhh5W0432人間七七四年
2011/01/27(木) 02:02:36ID:I9P1dmMHかさにかかって攻める徳川軍は、先へ先へと乱入する。
これに徳川軍の部隊長たちは「止まれ!止まれー!」と制しようとするが、その命令も耳に入らず
少しも止まらない。
この時家康
「軍勢にああいう勢いがついたときは、止めようとしても止まるもんじゃない。
まあそのままにしておけば、先で敵に合って止まるだろう。
我らはそうなった時すぐに対応できるよう、即刻備えを立てよ。」
と命じた。
案の定その軍勢は先で待ち受けた敵と遭遇したが、後方の備えが万全であったため
大きな問題にならなかったという。
おそらくこう言うのが戦場の呼吸というものだろう。そんな事をちょっと思わせるおはなし。
0434人間七七四年
2011/01/27(木) 09:51:30ID:aMdOUEmA葉隠自体が直茂や茂安と同世代の爺さんが
勝茂世代の人間から閑職に追いやられて、「あの頃はよかった」と漏らした愚痴を拾い集めた本だから
0436人間七七四年
2011/01/27(木) 16:47:36ID:GyfVzBbb0438人間七七四年
2011/01/27(木) 18:14:03ID:v/AJCwHqしていたという逸話をどっかで読んだことがあるんだけど本当なのかね?
0439人間七七四年
2011/01/27(木) 18:22:31ID:v/AJCwHqttp://www3.bunbun.ne.jp/hutongmi/054.htm
0440人間七七四年
2011/01/27(木) 18:23:32ID:oO99siU50441人間七七四年
2011/01/27(木) 19:19:22ID:Ui7vkMc20442人間七七四年
2011/01/27(木) 19:52:43ID:Q9lZeOBvリンク先読んだけどありきたりな葉隠論だな。
佐賀藩主に尽くすのが視野が狭いとする論だけど、
尊皇思想が登場する前の書物にそれを求めても・・・
現代日本人でもオバマの方針より身近な日本政府の政策に従って(あるいは反対)していくしかないのと一緒だ。
0443人間七七四年
2011/01/27(木) 21:49:01ID:qR1ODT22武士は早漏であることが一番良い!
と言う記述があると聞いたのだが本当?
0444人間七七四年
2011/01/27(木) 22:30:34ID:I9P1dmMH永井善左衛門の所に、板倉重宗が招かれた。
この時相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛、であった。
みなみな戦場生き残りの、老勇者たちである。
この頃今村は槍奉行、大久保彦左衛門は御旗奉行であった。
まず、今村が彦左衛門に食って掛かる
「わしは長久手でもどこの鑓場でも、人が十回かかるほどの働きをやって来たというのに
何のご褒美もなかったわ!彦左、おぬしはどれほど優れた働きをして、その様な結構なお役を
頂いたのだ!?」
これに彦左衛門
「わしは長篠で、鬼神のごとくと言われた岡部丹波を切り落とし、本多主水(彦左衛門の郎党)にその首を
取らせたわ!その他にもちくちくした事は数多あるが、まあ、甲州者などでは逃げたことが高名になるそうだ。」
これを聞いて黙っていられないのがその甲州者、そして高天神落城の際脱出した旧武田家家臣横田甚右衛門である。
「それがしが高天神城にこもったのは、『この籠城は運を開くことは出来ません』と勝頼様に申したのに
同心いたして頂けなかったゆえ、しからば一応勤め、どうしても駄目になれば敵を切り抜け、再び勝頼様に
お目見えいたしますと君臣約束した故である!!」
そう聞いても彦左衛門
「それは狭間潜(さまくぐり:城中から狭間(さま)を潜って逃げる者。転じて、逃亡者、臆病者)というものじゃ!」
「はっ!しかしあの時わしは三河者の頭の上を越えて行ったが、そのわしを指さす者すらおらんかったわ!」
「それはまあいい、ほかに何か無いのか?」
「ふん、そうだな、芦田小屋(芦田城)でも最も骨を折ったのはこのわしであった!」
この言葉に彦左衛門
「ほほう!芦田小屋から横田が逃げたという話は聞いていなかった!」
これには横田たまらず
「皆の衆あれを聞いたか!?三河衆は口が悪いから、人の武辺を言い貶す!全く意地の悪いことだ!
近藤石川といった連中に起請を書かせた上で言わせれば、ありのままに話すのだろうが。」
老勇者たちのいがみ合いヒートアップ。今にも発火せんばかりの空気の中、
ここで板倉重宗が割って入った
「いやはやいやはや!皆様はもはや老年でもあり、孫や子の事ばかりお話されると思っていたのですが、
武辺争いをなさるとは、近頃奇特なる事で、若き者の後学の為にも良いことです。
さあどうぞどうぞ、いくらでもやってください!さましく御重宝というべきものです!」
…と
この板倉重宗の言葉に気恥ずかしくなったか逆に白けたか、老勇者たち黙ってしまい、座敷の空気も
静まったそうである。
年寄りの冷や水ならぬ年寄りの武辺争い、と言うお話。
しかしまあこの人達、仲が悪いというより、そう言うコミニュケーションだたんでしょうねw
0445人間七七四年
2011/01/27(木) 22:32:52ID:JOKKPGzI死ぬか死なないか迷った時は死んどいた方が無難
ウッカリ死んだらただのアホだけど、死なないといけない時死に損ったら恥だよね
みたいなアレのこと?
0446人間七七四年
2011/01/27(木) 22:50:41ID:Q9lZeOBv乱世を生きた武人の気質なんだろうな
日露戦争時に薩長出身者が幕末の活躍を話してると、
桑名藩雷神隊だった立見尚文が、
「キミら、オレの隊からは逃げてたよね?」
みたいにチャチャ入れたりしてるしw
0447人間七七四年
2011/01/27(木) 23:44:54ID:cFLCpX3e黒鉄ヒロシが書いた漫画:葉隠に『早漏で候』っていうギャグがあった記憶はある
あと、病弱な奴はオナニーとか性交とか一切しなければ体が丈夫になっていくとか
母親が子供を庇い過ぎると子供がマザコンになって碌な人間に育たないとか
昔は自分から股に傷を作ってそれを武勇の証としたが、今はそんなことする奴はアホだと思われるとか
葉隠って話題が結構ループするんだよね
それもネタにされてた
0448人間七七四年
2011/01/28(金) 00:19:53ID:q9NGKeqw0449人間七七四年
2011/01/28(金) 01:06:37ID:swpyhMCdあの彦左がのほほんと孫の話なんてするわけがないくらいわかりそうなもんだが
0450人間七七四年
2011/01/28(金) 01:10:14ID:iRVaeWLn「あんたらもう孫がいるような歳なのに、そう言う子どもみたいな意地の張りあいしてて
それはどうなの?」
って底意で言っているんだよ。
0451人間七七四年
2011/01/28(金) 01:40:36ID:hii+OybT0452人間七七四年
2011/01/28(金) 03:58:35ID:MhR7EtTZさすがは板倉Jr.という話
0453人間七七四年
2011/01/28(金) 07:16:39ID:It5D2xgZ崩れかけたときに備え万全な家康旗本が現れて
Q太郎それを見て撤退だから話の筋は合っているのでは。
0454人間七七四年
2011/01/28(金) 08:15:47ID:7uEPuC2X男女の産み分け的には、
遅い方が世継ぎを作りやすいんだが、、、
0455人間七七四年
2011/01/28(金) 22:05:14ID:iRVaeWLn武勇優れた武士であったが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-515.html
ここに書かれているよう、武士としても勿論、歌人としても名が高く、当時を代表する文化人としても知られていた。
さて、彼の主君永井尚政が山城国淀城主となった頃のこと、永井家よりの禁裏への使者として、昌俊が
遣わされた。
この時朝廷の公卿たち、昌俊が和歌の達人であるとの評判を聞いていたため
「喜六(昌俊)よ、一つ歌を詠んでくれないか?」
とせがんだ。これに昌俊
『吉野山 花待つ頃の朝な朝な 心にかかる峰の白雲』
この歌に公卿たちは感嘆し、当時の京で大変な評判となったそうだ。
さて、それから数年の後のことである
ある公卿が嵐山に遊んだ時、その山奥に小さな庵を見つけた。
このような山奥にと、公卿は珍しく思いその庵を訪ねると、庵主である僧に招き入れられた。
そこで公卿と僧は宮中の式礼について、和歌についての興味深い話など色々と面白く語り合った。
この僧が非常に学識深く風雅の道にも造詣が深い事かったため話は興に乗り、春のことであったため、
ふとこの公卿、かつて佐川田昌俊が詠んだあの、吉野山の歌を吟じた。
「さてさて面白い歌であろう?堂上にてもこれほどの歌を讀めるものはおらんよ。」
そういう公卿にこの僧
「それほど褒めるような歌ではありませんよ。この歌は昔、東下総守(東常縁)が詠んだ
『朝な朝な 雲たち添うる小倉山 峰吹く風は花の香ぞする』
という古歌によって詠んだものでしょう」
と言った。
さて、この公卿が帰ってきて親友にこの事を話すと、この友驚き
「それは他の者ではない!佐川田昌俊が隠遁して世をのがれ、そこに住んでいるのだろう!」
翌日公卿とその友はうち連れて再び嵐山に分け入り、かの庵室を訪ねたが、その庵は既に崩し捨てられ、
庵主はどこかへ行き去った跡だったという。
佐川田昌俊の有名な歌と、それにまつわる不思議なお話。
0456人間七七四年
2011/01/28(金) 22:08:37ID:hii+OybT0457人間七七四年
2011/01/28(金) 22:46:31ID:Alsf5Fmn京の都だし・・・
0458人間七七四年
2011/01/28(金) 23:02:48ID:UxDpwWfS0459人間七七四年
2011/01/28(金) 23:12:15ID:r5cdqpI7鹿島神宮の祠官卜部氏の子であるからリアルではモンクタイプの卜伝さん
ある時この卜伝、相当な使い手の武芸者に試合を挑まれたが
好かろう受けて立つ!と二つ返事。
さて自分の門人達に対戦相手の兵法者の情報を集めさせてそれらを聞き出した。
それによると、かの者は過去数度の木刀の試合に勝ったことがあるが
その時の状況は何れも通常の刀の持ち方とは逆の左手が上で右手が下の柄尻の方を持つ
左太刀という構えで、しかも勝を決めた時は必ず片手で敵を打つていたと言う。
「右兵法人の数度木刀の仕相に勝利有作法様子を聞くに、構えは左太刀、
扨勝利は右か左か必定片手にて利をする」
これを聞いた卜伝は何を思ったのかこの兵法者に
卜伝「おいィ?左太刀は普通の構えじゃない奇策だから勝っても卑怯すぐるでしょ?
天下に鳴り響いた卜伝と立ち会うのに左太刀はどちらかというと大反対だな」
と使いを送り、なおも「おい、やめろ馬鹿」「この仕相は早くも終了ですね」など
十度にも渡って使いを出したのだが相手の兵法者も卜伝からの使いが来るたびに
兵法者「左太刀の片手打ちをいやと思し召し賜わば、勝負する前から卜伝の負けにせられよ」と返事する。
むしろどちらの方が卑怯未練の振る舞いであろうか?と思われるが
そうまでしておきながら卜伝はこれで勝つる!と試合に挑む。
「そこにて卜伝仕相に仕る。卜伝勝利疑なし」
いざ立会いとなった時、相手の兵法者は額から一気に鼻唇まで切り裂かれて卜伝は勝利した・
この卜伝の戦いを甲陽軍鑑の結要本においては
「是全く一つ太刀の心静に名人の故也、相手も上手なれ共未名人にあらず、意地計也云々」と評す。
0460人間七七四年
2011/01/28(金) 23:31:53ID:NtjGRIFWと粘着する事で、逆に左太刀を使うよう、追い込んだって言う話でしたよね。
0461人間七七四年
2011/01/28(金) 23:37:35ID:zAyXf/3qいつぞやの日本シリーズとか
0462人間七七四年
2011/01/29(土) 05:49:12ID:jX5bYIY40463人間七七四年
2011/01/29(土) 09:25:42ID:hwuXeX/P打ったのはシュート、とコメントしてたのと同じ感じ?
0464人間七七四年
2011/01/29(土) 11:25:09ID:6MAAxpMBどっちかというと「俺はシュートが苦手だ、シュートは嫌だ」と言い続けて、絶対にシュートが来る状況を作った上で
そのシュートに山をはるってことじゃないかな?
絶対に来ると分かっていて準備していれば、少々ややこしい業でも対処できる、ってことで。
0465人間七七四年
2011/01/29(土) 11:43:15ID:OseatOna0466人間七七四年
2011/01/29(土) 11:43:21ID:rq8Z4UHq敵である武田家方面から「見附はやばい!見附は困る!」って声が聞こえてきて
家康「あれどう思う?」
酒井忠次「浜松より見附に我々がいた方が、武田にとって都合がいいってことです」
ってのがあったな。
0467人間七七四年
2011/01/29(土) 12:44:25ID:nNLLY4K8押すなよ?押すなよ?絶対に押すなよ?と言われると押したくなる
日本人には効果的な計略だったんでしょうねw
0468人間七七四年
2011/01/29(土) 13:08:02ID:X1hp5UO1宮本武蔵
「武士なのだから死ぬ覚悟は当り前。
死の覚悟は武士でなく、坊主、女、百姓においても、
義理、恥を知る者なら覚悟出来るものである。
武士の行う兵法の道は、何事においても勝つことを基とする。」
剣豪の考え方も興味深いね。
余談、塚原卜伝が宮本武蔵の打ち込みを鍋のフタで阻止したのは創作だとのこと
0469人間七七四年
2011/01/29(土) 13:17:23ID:Ks8Y3evL目処がつかなかったそうで。
武田が大井川越えでなく伊那から侵攻してきたことから考えても、天竜川流域と
浜名湖両方を睨む浜松の方が優れていたんだと思う。
下手をすれば吉田城を落とされるような最悪の事態もあったかも。
0470人間七七四年
2011/01/29(土) 14:39:46ID:E4U6xfhEちょっとオーストラリアの監督に「高さのサッカーは卑怯」「高さのサッカーはツマラナイ」ってメールしてくる
0471人間七七四年
2011/01/29(土) 14:59:09ID:4wCFdztF0472人間七七四年
2011/01/29(土) 16:12:21ID:klcJqwxdその辺が所詮無名の武芸者風情ってことか
0474人間七七四年
2011/01/29(土) 18:49:59ID:uQurS41E0475人間七七四年
2011/01/29(土) 19:10:46ID:941ndqfO家臣一同「あんな不便なところ行きたくねーよ」
信長「移転先はやっぱ小牧山にするわ」
家臣一同「小牧山ならまあいいか」
信長「ニヤリ」
0477人間七七四年
2011/01/29(土) 19:13:21ID:PCU6yu/d0479人間七七四年
2011/01/29(土) 19:35:14ID:uJihSEWc0482人間七七四年
2011/01/29(土) 21:34:50ID:a0GsyjBm0486人間七七四年
2011/01/29(土) 23:50:00ID:1fNd4jkfhttp://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1101/25/news056.html
0487人間七七四年
2011/01/29(土) 23:51:12ID:hMx5wnvoつか謙信は何考えてたんだかさっぱりわからん
菅令の名を名分にして関東支配を目論んでるのかと思ってたが、それにしちゃ行動がおかしい点が多い
わざわざ敵方の人間を養子にして内乱の火種作ったりしてるし、
第一、征服すべき関東の敵の家人を養子にしたらせっかく管令なったのに意味がない。わからん
0489人間七七四年
2011/01/30(日) 00:02:14ID:apT+Uz4B0492人間七七四年
2011/01/30(日) 00:30:22ID:6NI8u9rP謙信はガチで自分のこと毘沙門天の化身だと思ってた節があるしなぁ。サイコすぎる
なのに戦は超絶強いから始末に負えん。こんな変人に絡まれてボコられまくった信玄には同情を禁じえない
いっそ謙信が天庵様なみの能力だったら越信・関東は平和だったろうに
0493人間七七四年
2011/01/30(日) 00:49:56ID:9Fh1EzjGまあ沼田城あたりでUターンだろうけどw
0496人間七七四年
2011/01/30(日) 08:43:56ID:4zFWptO1君は TOUGHBOY TOUGHBOY
時はまさに戦国〜
小田城で僕らは出会った
0498人間七七四年
2011/01/30(日) 11:25:10ID:hEiJebmBしかも商才があるから尚のこと厄介
あんだけ四方八方に遠征してそれでも大量の金を残してたっていうんだから
0499人間七七四年
2011/01/30(日) 11:31:40ID:eRqCtBNi詳しくないからいい加減なことはいわないでおこう・・・
0500人間七七四年
2011/01/30(日) 12:27:13ID:0D/7hF+i0501人間七七四年
2011/01/30(日) 12:39:32ID:3OYch8ng>>498
関羽みたいに商売の神様になってもおかしくないよなあw
0502人間七七四年
2011/01/30(日) 12:40:59ID:4Emvb3Sd0503人間七七四年
2011/01/30(日) 12:46:03ID:WIRJXJzA0506人間七七四年
2011/01/30(日) 16:19:18ID:6thTGywp金融政策に関してだけは、金山掘って、掘りつくしたら、衰退してく
武田よりも評価していいと思うのだが・・・
0507人間七七四年
2011/01/30(日) 16:35:48ID:6NI8u9rP元々の経済地盤にとんでもない開きがあるってことを考えてくれよ
むしろ武田家はあんな貧弱な土地でよく頑張った方だと思う
0508人間七七四年
2011/01/30(日) 16:41:25ID:a2lZTA/30509人間七七四年
2011/01/30(日) 17:05:01ID:Z/Ti5yN40510人間七七四年
2011/01/30(日) 17:18:49ID:a2lZTA/3もしかして長安さん何かやったの?
0511人間七七四年
2011/01/30(日) 17:33:02ID:BrtZivF/長安さんは枯れたとされた金銀の鉱山に、天正19年(1591)ごろ日本に伝わったとされる、
新しい精錬法である『南蛮絞り』をつかって復活させた。
0512人間七七四年
2011/01/30(日) 17:39:39ID:BrtZivF/http://www.sumitomo.gr.jp/history/word/index05.html
現在の住友グループ成立の源流もこの技術から
0513人間七七四年
2011/01/30(日) 18:40:02ID:3OYch8ng0514人間七七四年
2011/01/30(日) 21:13:06ID:THbnWOtE0515人間七七四年
2011/01/30(日) 21:15:14ID:NvEgYGjAその頃はコシヒカリや農林なんとかはなかったから、寒い越後で米なんかとんでもない!
とかなんか読んだ気がするんだけど実際はどうなんだろうね。
0516人間七七四年
2011/01/30(日) 21:23:16ID:C57A0UIv0518人間七七四年
2011/01/30(日) 21:46:46ID:0D/7hF+i0519人間七七四年
2011/01/30(日) 21:54:27ID:zbygqi2D雪は物凄いし到底勝ち組じゃない。
0520人間七七四年
2011/01/30(日) 22:08:19ID:KMMz36Y70521人間七七四年
2011/01/30(日) 22:13:18ID:m3rTyT3a0523人間七七四年
2011/01/30(日) 22:59:58ID:fxVtuhGE寒冷地で日照が少ないところも多いが
水が豊富で耕作に適した山辺が多く、他地方と比べて貧しいとまではいえない
くらいにしとけ
0524人間七七四年
2011/01/30(日) 23:38:10ID:JAyDqGvd討伐の為に会津に向けて出陣した。しかし、駿府に到着してからは鷹狩に明け暮れて一向に動こうとはしなかった。
見かねた本多忠勝は
「こんな調子では畿内で反乱が起きますぞ。」
と忠告すると、家康は忠勝の口を手で塞ぎ、
「黙れ。こうしているのは、ワシをうつけと思わせて反乱を起こさせ、それを打ち破る為だ。
さすれば天下は我が物となり、お前も一国の大名だ。」
と一喝した。結果、思惑通りに石田三成が挙兵。関が原にてこれに勝利した事で家康は天下を手中にしたのだった。
以上、家康の狙い通りに天下を取ったお話。
0525人間七七四年
2011/01/30(日) 23:45:46ID:LlLWY3Lk帰りは忠勝先発隊にいたんだけどね
0527人間七七四年
2011/01/31(月) 00:44:10ID:jTmn98yv0528人間七七四年
2011/01/31(月) 01:41:34ID:kd3pubkB鍋島勝茂が自宅に客を招き、食事を振舞う機会があった。
その客は、兼ねてから噂に聞いていた事を直接、勝茂にぶつけてみる。
「鍋島殿は鶴料理を食べただけで、白い鶴か黒い鶴か、見抜く事が出来ると伺って
おりますが、それは本当の事なのですか?」
「ええ、仰る通り。繊細な味の違いを比べれば、見分ける事など簡単に出来ますよ」
「おお、それは面白い。それでは只今振舞われたこの料理、これは白鶴ですか?そ
れとも黒鶴なのでしょうか?」
「うむ、この料理は……鶴に似てはいるが鶴ではない。ズバリ真鴨ですな!!」
興に乗った亭主と客。どこまで本気なのか、ポンポンと軽口が飛び出してくる。
「ほう、それでは答え合わせと参りましょうか。給仕方の者をお呼びいただけます
かな?」
「承知しました。……おい、吉左衛門を呼んで参れ」
実は襖の裏に控えてこのやり取りを聞いていた福地吉左衛門、慌てて台所へと取っ
て返した。
「……中々参りませんな」
「今日はそんなに忙しいとも思えぬのですが……おい、吉左衛門はまだか?」
「おまらせいらしましらぁ〜〜〜〜」
漸く御前に出てきた福地吉左衛門、フラフラと怪しい足取りで、呂律は完全に回っ
ていない。
明らかに泥酔していた。
「なっ、何をやっておるのだ!?」
「きょーのおりょおりわぁ〜〜、つる? しろ……かも? くろ…かも、ま……かも?
アハハハハハッハッ!!」
ベロンベロンに酔った吉左衛門はまともに会話が成立しそうにない。
先程、勝茂と客のやりとりを聞いた吉左衛門、慌てて台所に行き、大急ぎで酒を大
量に飲み干したのである。
家臣の醜態を取り繕い、客にひたすら謝り倒す勝茂。
そしてその陰でうやむやになってしまった「白鶴か、黒鶴か」という問い。
佐賀武士に取っては主君に恥をかかせる事が一番いけないのである。
家臣の恥なら家臣が腹を切れば済む事なのだ。
勝茂が答えを外しても、酒の席での笑い話じゃないか、などとは考えない。
つまり、吉左衛門にとっては「答え合わせ」をさせない、という事が最優先事項だ
ったのである。
三河武士とは違う方向に面倒臭いシグルイの人々。
「家臣が客の前で粗相するのは主君の恥にはならんのか?」
とか
「じゃぁ家族や家臣からの駄目出しはちょっと控えてあげようよ」
とか言ってはいけないのである。多分。
0529人間七七四年
2011/01/31(月) 02:42:40ID:LYBF9Omsこの世に生を受けてより三十九度の合戦に挑み、真剣での立会いを行うこと十九度
木刀においては立ち会うこと数知れず、斬って捨てた者の数二百十二人と言われ
その間刀槍にての傷はなく僅かに六度の矢傷を被るのみと言う
戦国乱世を剣一本で渡ったこの男にもその生涯に幕が下りようとしていた。
己の死期を悟った卜伝は、家督を立てようと養子三人を試すことにした
何れも実子のいない卜伝に剣の腕を見込まれて養子になった者達であった。
さて卜伝は自室の入り口の暖簾の上に木枕を仕掛け、部屋に入ろうと暖簾を捲くると
木枕が落ちてくるように仕掛けておいてまず長男を呼び出した。
長男は部屋の前で立ち止まり「見越之術」を用いてこの木枕を取り除き
何事もなかったように部屋に入り座った。
(以見越之術見付之、取其木枕而入座也)
卜伝はまた木枕を先程のように仕掛けて次男を呼び出した
次男は部屋に入ろうとしたが木枕が落ちてきたのを察すると飛び退いてこれ(木枕)を避け
己の刀に手を掛けたが、木枕であることを確認すると気を静めて座った。
(二男開弈時木枕落、飛去懸手於刀、慎而入座也)
そして卜伝は三度同じように仕掛けを施し三男を呼び出した
三男は暖簾を潜ろうとするなり落ちてくる木枕を、地に付く前に刀で斬り、それから座った。
(開暖簾之時木枕落、忽技刀斬之於中而入座也)
卜伝は二男と三男の二人に怒りながらも諭した
「お前達木枕ごときに驚いてどうする?常在戦場の心で先々の事を見越していないからだ
彦四郎(長男)のみが不測の事態に心を動かさず
これ(見越之術)を知るところであったので彼に家督を譲る」
孫子の勝兵先勝而後求戰に通ずる教えである。
0530人間七七四年
2011/01/31(月) 05:16:21ID:iAxPTM0c0531人間七七四年
2011/01/31(月) 05:47:10ID:X2FDwo3J0532人間七七四年
2011/01/31(月) 05:56:01ID:KdOYAL5W上泉信綱くらいしか信用できん
0533人間七七四年
2011/01/31(月) 10:27:15ID:sakEqEon0534人間七七四年
2011/01/31(月) 11:31:11ID:BqR74IDU0536人間七七四年
2011/01/31(月) 13:56:13ID:jTmn98yvでも武蔵が細川家に厚遇されたり、合戦に参加したのは紛れもない事実
少なくとも、あの当時武蔵の有名が轟いてたのは間違いないだろう
0538人間七七四年
2011/01/31(月) 18:56:39ID:sakEqEon厚遇ねw
忠興と忠利の数千通の往復書簡の中に
ただの一度も宮本武蔵に比定できる名前は出てこないけどねw
0539人間七七四年
2011/01/31(月) 19:01:35ID:X2FDwo3J0540人間七七四年
2011/01/31(月) 19:11:20ID:+PknxsYn0542人間七七四年
2011/01/31(月) 19:32:24ID:J5Hp/DzU戦国時代の戦場だと無名の農民にも討ち取られる可能性が・・・
そもそも刀自体あんま出番ないし
そういえば武蔵は島原の乱に勇んで参加したけど、石落とされて負傷リタイア
だったな
0543人間七七四年
2011/01/31(月) 19:57:05ID:o56Yi92Yピンからキリまでだからな。
義輝や具教は除くにしても、
上泉や柳生、真壁、富田あたりは、
剣豪以外で実績を残していたりするし。
0544人間七七四年
2011/01/31(月) 20:40:59ID:kLBARefx0545人間七七四年
2011/01/31(月) 21:00:22ID:ZfiD3iZx0546人間七七四年
2011/01/31(月) 21:03:41ID:41D0So/4まあでも、宮本武蔵は各地に足跡残ってて、
何処に行ってもそれなりの持て成しを受けているのも事実だからなあ
0548人間七七四年
2011/01/31(月) 21:52:08ID:LRVg2V3F0550人間七七四年
2011/01/31(月) 22:23:46ID:qgvI2/ag示現流は刀を抜くだけで人が死ぬからダメ絶対
抜かずして勝つのが至高の勝利とか言って
弟子にも免許ついでに同じ事を強要してるし
剣客としてそれはいい話なんだろうか?
0551人間七七四年
2011/01/31(月) 22:26:19ID:dGA99R2S0552人間七七四年
2011/01/31(月) 22:31:44ID:g8fMUI+h0553人間七七四年
2011/01/31(月) 22:36:04ID:41D0So/4猿叫とかロマンがあるしw
0554人間七七四年
2011/01/31(月) 22:38:09ID:aPF+rYWt0555人間七七四年
2011/01/31(月) 22:52:49ID:LYBF9Oms塚原卜伝の遺言!(>>529の続き)
卜伝「さて彦四郎に家督を譲ると申したが、ただ極意の一の太刀だけは
唯授一人として既に人に伝えてあるからお前に教えられないが
お前が別の者から習うというのは一向に構わない。
因みに私が伝えたのは伊勢国司の北畠殿だ、あの方の元に赴いて教えてもらうがよい。」
そう伝えると稀代の剣豪は畢命し、それを見届けた彦四郎はこの言葉を受けて思った!
彦四郎「嫡子として迎えられ家督までを受け継いだのに
卜伝の代名詞である一の太刀を受け継いでいないなんて世間に知られたら・・・
それよりも天下の兵法者卜伝の子として人に一の太刀を習うのは快からず。」
然しながら彼の足は悠々閑々と勢州へ向かっていた。国司北畠具教卿の元へ参じた彼は具教卿にこう申し出た
彦四郎「どうも塚原家を継いだ彦四郎秀幹です。
うちの父が廻国修行の際にそちらにお世話になってお礼方々一の太刀を伝授したそうですが
どうです?あの父のことですから本当の一の太刀を教えているかどうか判りませんよ?
そこでお互いの一の太刀を見せ合い確かめてみましょう。」
具教卿「そういわれるとそうですな、名案です。」
彦四郎「まず先輩からどうぞ、どうぞ。」
具教卿「では、これが私が授かった一の太刀です!続いて彦四郎殿もどぞ。」
彦四郎「あ、いや、その必要には及ばず、私が授かった一の太刀と寸分違いません
いや〜良かった良かった。」
こうして彦四郎は見事一の太刀を体得したのであった。
0557人間七七四年
2011/01/31(月) 23:27:49ID:zxPvfyzP結果そうなったのは逸話扱いしてもいい気がする。ここで扱う気はないが。
吉川英治、司馬遼太郎、子母沢寛、立川文庫とか
0558人間七七四年
2011/01/31(月) 23:31:37ID:9JlihqWt0559人間七七四年
2011/01/31(月) 23:34:09ID:Wx78/k/90560人間七七四年
2011/01/31(月) 23:57:46ID:daQSSwl+伊達政宗正室愛姫は1653年1月24日逝去した。享年86歳の大往生である。
時代はすでに承応、四代将軍家綱の世となっており、最後の戦国大名とも呼ばれた男の正妻の死は、
戦の世がまた遠くなったことを告げるものでもあったろう。
亡くなる数日前から体調を崩し床に臥していた愛姫は22日には危篤となっていたのだが、
夫の月命日の24日に死にたいと気力で長らえたのだと伊達家の記録は語る。
戦国を生き抜いた女性は強かった。
仙台市博物館には、孫の綱宗が愛姫の遺品として伝えた一通の手紙が今も大切に保管されている。
姫愛用の硯箱にしまわれていた宛名もなく文面も不明瞭なこの手紙は、政宗5歳の時の手習いの書なのだという。
この80年も前の書付がいつごろどういった経緯で愛姫の手に渡ったのかは不明だが、
夫の幼い筆跡を常に傍らに置き、時折取り出してはいとおしげに眺めたであろう老いた夫人の姿を思うと、
なんとも暖かい気持ちになる。
激動の時代、60年近い歳月を連れ添った夫婦の絆は特別なものがあったのだろうと思わされる手紙の話。
安西先生・・・奥さんがほしいです・・・(´・ω・`)
0561人間七七四年
2011/02/01(火) 00:24:00ID:POV5hbPU自分と関係が深かったり本人が直接身につけてた物とかじゃね?
故人が自分の顔も知らなかった頃の字の練習帳を大事にするってなんかピンとこないんだよな
夫婦の機微ってわかりそうでわからんのう
0562人間七七四年
2011/02/01(火) 00:35:56ID:EQ8OY2Clそりゃそうでしょみんな武将(領主)だもん
このへんの人らは剣豪じゃなくても名が残るでしょうよ
当時の連歌師みたいに芸で高名になってと言うと何人いるか…
0563人間七七四年
2011/02/01(火) 00:51:12ID:uBmv4cItその辺はもう政宗と愛姫だけにわかる世界だからな…
推測だが政宗も手習いの書を大事にしてたんじゃないか。
普通5歳の時のものなんてなくなっちゃうだろう。
0564人間七七四年
2011/02/01(火) 02:20:07ID:XjRxLqZ4私は武将の妻ではないけど、なんかわかるなあ、愛姫の気持ち。
たまらなく愛しいのよね、ちっちゃい頃の夫の何かって。
何ともいい話だなあ。
0565人間七七四年
2011/02/01(火) 07:21:52ID:3cPT4rgB0567人間七七四年
2011/02/01(火) 10:38:01ID:N2S4ysgFこういった価値観から薩摩拵という独特な拵えが生まれた。
薩摩拵(さつまごしらえ)
江戸時代の各藩は、武術流儀に最も適した各藩独特の拵を考案し実戦に備えていた。
薩摩拵もこのような主旨から発案された外装で、実用性を追求したため武骨な格好となっている。
この拵形式の根底には薩摩示顕流がある。
同剣法の掟に『平常は刀を抜くべからず、止むを得ず抜刀した場合には必ず相手を倒すべし』
とあるところから刀を抜かずに相手を倒すことを目的とするべく、
柄を太く長くして立鼓を取らず、厚手の牛革を巻いて漆をかけ、
さらにその上に糸か革紐を巻き締めて目貫を装着せず、鉄の縁頭で強固な作りとした。
同時に逆角の突起を凸形として帯から素早く抜けるようにし、
刀身を鞘に収めたまま柄頭で相手を直接攻撃したことからもその利点が判る。
鐔には鞘止と称される小穴が開けられているが、刀を無闇に抜かないことをおしえたもので、
この穴に針金や紐を通し鞘に固定していた。
ttp://www.weblio.jp/content/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8B%B5
0568人間七七四年
2011/02/01(火) 17:44:36ID:ISiT/pTP雑貨屋の女主人等を女城主に準えている・・町興しに都合の良い話・・
0569人間七七四年
2011/02/01(火) 18:25:29ID:wK5tAtTd0570人間七七四年
2011/02/03(木) 00:22:36ID:iW5CYElE北条氏邦と芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。
この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して北条勢を突き崩した。
北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。
それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。
昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉は
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。
仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。
0571人間七七四年
2011/02/03(木) 00:31:21ID:Vz6wvp4Q北条氏照と自分の先祖の墓造ってたな
http://www.takaosan.info/topics44.htm
0573人間七七四年
2011/02/03(木) 23:45:41ID:Zw24thxAそのおかげで若かりし西郷隆盛が真剣で直に斬られずにすんだ訳でして
刀としての機能以上に結果的には歴史の役にはたったみたい
0574人間七七四年
2011/02/04(金) 00:03:57ID:HPsaP5Mjいいんじゃないの、刀ってそもそも『斬る』ものじゃなくて、
『打つ』ものだし。
むしろ平安以来の本来の使い方に近いかもな。
0576人間七七四年
2011/02/04(金) 09:03:39ID:Xvroi6C8釣り野伏せ!?
0578人間七七四年
2011/02/04(金) 16:59:24ID:GAoRia6iその中で特に真壁道無なんて神道流を習ってた一武将ってだけだしね。
0579人間七七四年
2011/02/04(金) 20:18:09ID:rMNVI8uN他の将軍奉公衆を集めて迎え撃つことになり、両者は宇治住山(炭山)で激突した。
戦は細川方で歴戦の士として知られる細野壱岐守藤敦が焼働きを行い、動揺した三好党を藤孝が大いに攻め、勝利した。
「いやぁ藤孝殿。自身が武者働きしての勝利、お見事にござった!この藤敦も感服しましたぞ。」
「うむ。ご助力、感謝いたす。それにしても、付け火の火が収まらんのう。ちと、火を吹き飛ばすとするか。
おーい誰か!その辺にあるもので良い、何かあおぐものを探して参れ。」
家臣が持ってきた物であおぎ始めた藤孝を見て、物に慣れた藤敦も仰天した。
30年の歳月が過ぎ、京は吉田山に隠棲する細川藤孝改め幽斎を、同じく一線を退き高台院(北政所・ねね)の
警護等で日々を暮らす細野藤敦が訪れ、二人は往時を懐かしく語り合った。
「あのころ幽斎殿は、碁盤を団扇代わりに火をあおいで消すほどの怪力であったが、今はどうですかな?」
「いや、それはさすがに若いから出来たこと。今は何をしても人に劣るばかり。歌も一向に上手くなりません。
だが、心だけは昔に勝るように思いまする。」
幽斎は、ことさらに真面目な顔をして答えたという。
0580人間七七四年
2011/02/04(金) 21:00:29ID:s+cs36pL幽斎さんなら扇げると解ってても持ってかねーだろw
0581人間七七四年
2011/02/04(金) 21:21:47ID:TehIyN8s管領就任式を無事済ませた晩、謙信の枕元に平将門の亡霊が現れた。
将門は謙信に言った。
『その方、少々の武辺に奢り誰の断りをもって関東の霸者を名乗るか。。。』
『余は新皇、平将門なり。関八州は渡さぬ。。。』
これに謙信、
「余は都におわす日本国天皇の勅命を受けて関東の逆賊を討ち平らげよ、と天子からお言葉を戴いておる。」
『。。。』
「畏れ多くも新皇を語り朝廷を蔑ろにする貴様は許して置けん!!」
『!!!!』
謙信は叫ぶやいなや将門の首を一刀両断にした。将門は霧のように消えたという。
侍臣が書き残した書には謙信の刀にはまだ生温かい黒い血が流れていたと言う。
0582人間七七四年
2011/02/04(金) 21:44:20ID:AHg3mXtz0583人間七七四年
2011/02/04(金) 21:48:34ID:jt6nyCy90584人間七七四年
2011/02/04(金) 22:00:59ID:HPsaP5Mj0585人間七七四年
2011/02/04(金) 22:02:07ID:BrlVxj5C0586人間七七四年
2011/02/04(金) 23:46:42ID:4LqpgU1V0587人間七七四年
2011/02/04(金) 23:50:18ID:+hUDptWO0588人間七七四年
2011/02/05(土) 01:00:47ID:IuImS5zS実はこちらと重複ですな。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html
0589人間七七四年
2011/02/05(土) 07:11:22ID:f5N0zaKD滝川一益「信長様です」
0592人間七七四年
2011/02/05(土) 14:20:00ID:aXJbtTz/そんなある晩、道真の夢枕に龍神が現れた。
「道真、明朝一番に会った者を人身御供として差し出せ。そうすれば神の力で城はすぐに完成するだろう…」
「マジで!?わかりました!」
毎朝一番に自分に会いにくる愛犬を少し可哀想に思いつつ、龍神と約束をした。
翌朝。
「犬ジャネ━━━(゚д゚;)━━━!!」
愛娘の世禰(よね)姫が来た。
「夢に龍神様が現れてry…私が生贄になります!」
道真と同じ夢を見たというのだ。
しかし、可愛い娘にはそんな事させられない。龍神を怒らせてしまってもだ。
「ゆ、夢なんか気にしなくていいって!生贄とかなにそれこわい」
思いとどまらせようと道真は必死に説得するが、世禰の決意は固かった。世禰は館を抜け出し、城の完成を祈りつつ七ツ釜に身を投じた。
まもなくして、城は完成したという。
あるとき、河越城が攻められた。
堀のあたりに敵兵がやってくると、どこからともなく霧が発生し、それは集まって雲になった。
風も吹いて辺り一面真っ暗になり、ついには洪水も発生した。敵はすっかり混乱し、退散したという。
これらの現象、太田道灌が城の堀に棲む主に起こさせたらしい。
河越城の危機を救った堀の主の名は「ヤナ」。
よねが(人として、怪物ヤナとして?)太田親子の危機を救ったいい話。
0593人間七七四年
2011/02/05(土) 14:30:38ID:DUf7I7Agエフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を
主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。
エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。
彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、
お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりに
してください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。
0595人間七七四年
2011/02/05(土) 14:47:31ID:DUf7I7Ag自分の知り合いのフロイスよりずっとましな宣教師は
「エフタはおそらく使用人を念頭に神に誓ったのでしょう。
同胞の命を軽んじた彼に対し神は罰を与えたのです。
アブラハムがイサクを神に捧げようとしたときの故事からもわかるように、
神は人身御供など求めてなかった、ただ彼が悔い改めることを望んでいた
しかし彼はおろかにも娘を捧げてしまった」
と旧約の神を新約っぽく解釈してた。
戦国時代の宣教師もこの人身御供をつかれたら痛かっただろう
0596人間七七四年
2011/02/05(土) 15:53:12ID:mSJNP5TH0597人間七七四年
2011/02/05(土) 17:09:42ID:kcb+0ipPそれとも越後のやらないかに退治されて消えちゃったのか
0598人間七七四年
2011/02/05(土) 17:33:54ID:xDxlLu1W0599人間七七四年
2011/02/05(土) 17:39:19ID:nMkOj5Jp「皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いをかけた御方とされているから
成り上がりの代表とされる超時空太閤に味方するのはありえるかもな。
0601人間七七四年
2011/02/05(土) 18:35:38ID:TkP48Y3Hすると秀吉の北条征伐の裏では崇徳院vs平将門の二大怨霊バトルがあったのかねぇ?
実は鶴松が死んだのは将門公の呪いだったりして・・・
0602人間七七四年
2011/02/05(土) 19:22:32ID:OGRuMlVlなんだこの戦国帝都大戦
0603人間七七四年
2011/02/05(土) 20:04:06ID:Dr3q4v6+家康公に味方して大坂の猿軍団を滅ぼしたじゃないですか。
0604人間七七四年
2011/02/05(土) 20:09:12ID:ARP3XR5n(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-85.html)
「物事を決めるときには、何に気をつけなければならないのでしょう」
「簡単です。ただ、ゆっくり考えればよい」
「では、何を特に考えるべきでしょう」
「決断の基本は仁愛です。
仁愛さえあれば、その決断が適切でなくともひどくはずれることはないものです。
しかし、仁愛がなければ理屈は通っても誤りなのです」
隆景は信義を重んじ、一度言ったことを曲げたりしなかったという。
0605人間七七四年
2011/02/05(土) 20:41:35ID:mSJNP5TH小早川隆景は悪く言われることがあまりないね。
武田信繁、立花宗茂もそうだけど、
常に良い人間であろうとすれば、
外れないものなのかもしれない。
でもそれが難しいw
0606人間七七四年
2011/02/05(土) 20:44:24ID:rZl4ESM8> 小早川隆景は悪く言われることがあまりないね。
宇喜多直家「小早川隆景って奴は全然信用できんね」
小早川隆景「俺もお前を全く信用できんね」
0607人間七七四年
2011/02/05(土) 20:49:22ID:kcb+0ipP0608人間七七四年
2011/02/05(土) 21:01:46ID:mSJNP5TH良い悪いは置いといて、謀略家は徹底した善人は苦手だよな。
謀略は人の欲につけこむものだから
0612人間七七四年
2011/02/06(日) 11:11:39ID:yeraT44+「全ての人に好かれる者は必ずしも可ではない。。
皆に憎まれる者も可ではない。
善人に好かれ、悪人には憎まれる者こそ良き人物と言える」
とあるけど、隆景さん当てはまってるよ
0615人間七七四年
2011/02/06(日) 18:22:42ID:OUHiBTAb0617人間七七四年
2011/02/06(日) 18:34:17ID:0TEiG2zq「父上。忠恒、ただ今参りました。私が来たからには、もうご安心ください。」
「ああ…頼む……」
(うーん、元気が無いな。この地で兄者を亡くしたのが、まだ堪えておるのか……そうだ!)
同月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い、晩も忠恒の陣屋で食事をとるよう勧めた。
「ぜひお越しください。少々、変わった趣向を用意しましたので。」
「変わった趣向じゃと?…おお、これは!」
忠恒の陣屋には、日本のそれと遜色ない立派な蹴鞠の庭が造られており、その庭で忠恒と近習たちが、
京滞在中鍛えた蹴鞠の腕前を、義弘の前で披露した。
「あっはっはっはっ!見よ見よ、忠恒め、いつの間にこれ程に腕を上げたのじゃ!」
(良かった!お元気になられたようだ…)
好評だったのか、忠恒は同月9日にも義弘のほか島津豊久・忠長等の見守る中、蹴鞠を行なっている。
…ので、名護屋で送迎船待ってた約40日のうち、晴れたら蹴鞠って遊んでたのは、黙っといてあげて下さい。
それにしても、自分の主人のことを「いつも蹴鞠ってやがる。(御鞠如常)」とか書いたり、
「今日は何も無かったです。(何たる儀無之候)」とか書いた次の行で「晩に盗人、成敗被成候。」
とか言ってる、元ネタ書いた面高連長坊はマジ大物だと思います。
0618人間七七四年
2011/02/06(日) 18:36:28ID:7nQWEAC40619人間七七四年
2011/02/06(日) 18:38:34ID:OUHiBTAb書状で注意を受けた、て書いてたのに
その後義弘が蹴鞠好きになった、ということか
0620人間七七四年
2011/02/06(日) 18:48:35ID:yctrOdOk日頃は口うるさく注意してたとしても
実際に息子が自分のところに来てくれて
上達したギターの腕前を披露してくれたら
嬉しくて泣いちゃうかもしれないだろ?
そういうことだ
0622人間七七四年
2011/02/06(日) 18:53:32ID:CTv09xKa0623人間七七四年
2011/02/06(日) 19:10:23ID:ATDiyX5d義弘も楽しんだふりをしてやったんだろう
大将が沈んでると兵に影響するしそういう心遣いも大将の心得だよ
0624人間七七四年
2011/02/06(日) 19:14:15ID:yU6tyuIK0625人間七七四年
2011/02/06(日) 19:19:49ID:GYLw/rhX0628人間七七四年
2011/02/07(月) 02:00:06ID:yKJ6OsOL0629人間七七四年
2011/02/07(月) 02:06:33ID:LWy4hYOE長政怒って取っ組み合い→
黒田官兵衛苦笑い
0630人間七七四年
2011/02/07(月) 03:20:36ID:3SXgXmWZ北条 vs 小弓公方+里見で行われた第一次国府台合戦の時の話。
北条方の武士・伊山助四郎と江川兵衛大夫という二人が先駆けを行い、公方方の武
士と戦った。
助四郎、兵衛大夫ともに相手を討ち取りはしたのだが、やはり相手も軍の先頭を駆
ける勇者である。助四郎は重い傷を負ってしまう。
それを見た兵衛大夫は、
「助四郎、無理をするな。その傷ではこれ以上進む事は出来ぬだろう……というか、
取った首を抱えて歩く事すら難しいのではないか?鼻のみを削ぎ、鎧の上帯に挟ん
で帰ると良い」
「馬鹿言うな!お前は俺に、この手柄をふいにしろと言うのか!?」
この頃、北条家の軍法では、鼻を持ってきても手柄とは認められなかった。
雑兵の鼻を削いで兜首と偽ったり、酷い時には味方の戦死者の鼻を削ぐ者まで居た
からである。
手柄と認められない所か、そのような卑怯な真似をする人間だと見做される恐れが
あったのだ。
「安心しろ、首実検の際には俺がちゃんと証言してやる。もしもお前が帰り道で死
んじまっても、俺は間違いなく、お前の手柄を報告してやるとも」
そう言いながら、兵衛大夫は自分の討ち取った相手の鼻を削ぎ始める。
「おい、仮に俺が鼻を持って行ったとしても、お前まで付き合う事はないだろう。
お前はちゃんと首を持って行けよ!」
「俺はこれから、もう一度敵陣に突っ込んでくる。そん時に取った首をぶら下げて
たら邪魔で仕方ねぇだろう?だから俺も鼻を削いで行くんだよ。もしもの時は俺の
手柄をお前が証言してくれよ。もしも検使がお前の手柄を認めないって言うなら、
俺がこれから取ってくる首をお前にくれてやるさ」
そう言い残し、兵衛大夫は再び敵陣へと走り去った。
暫くの後、兵衛大夫が一つの首と一つの鼻を持って本陣へと帰ってきた。
彼は首実検の場に直行し、助四郎とのやりとりを証言。そして二人の取ってきた鼻
を手柄と認めてくれるよう、検使の山中修理亮に迫った。
「何を興奮している。認めるも何も、ホレ、これを見てみろ」
と、味方の手柄を全て記した首帳を兵衛大夫の前に示した。
そこには
『伊山助四郎 首一つ』
『江川兵衛大夫 前後首二つ』
と既に記されてあった。
「助四郎が重傷を負いながらも帰ってきて、お前とのやりとりを全て説明してくれ
たよ。それを横で聞いておられた氏綱様が、『兵衛大夫が帰ってくるのを待つ事は
ない。首二つの手柄と記してやれ』と仰られたのだ」
官僚組織が発達し、法治国家として他国をリードしていた北条家。
法の適用は意外に柔軟だったようです。
0631人間七七四年
2011/02/07(月) 03:31:41ID:c4EXQvxV助四郎と兵衛大夫は床を共にし、
交わりを交わしたとされています。
0632人間七七四年
2011/02/07(月) 19:00:31ID:0c1F5dkvある城攻めにおいて、大谷吉継の部隊が仕寄り(城攻めのための足場)を構築していたときのこと。
この妨害のために城方から大いに攻撃を受けた。
吉継はそんな中でも前線で指揮をしており、これを心配した家臣のある者が、このように申し上げた
「ここは矢弾がたくさん来る場所です。どうか後方に退いてください。」
吉継はそれを聞くと、その場で立ち上がりこの者に言った
「運命の矢は、いつも一本だけだ」 (運の矢は一本のものよと被申候由)
そして、決して後方に下がろうとはしなかったと言う。
なんとなく大谷吉継の死生観が見えてくるようなお話。
0633人間七七四年
2011/02/07(月) 22:56:41ID:bQxQ1j6d___
/ \
. / _ノ ヽ、_\
/ (● ) (● ) \ え・・・いきなりそんなこと言われても・・・////
| //////(__人__)/// |
\ /
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| ,― 、,―、 |
\  ̄ ̄ (⌒⌒)  ̄/
 ̄ ̄\\//
0634人間七七四年
2011/02/07(月) 22:58:16ID:y0jDoS8c0635人間七七四年
2011/02/08(火) 01:16:32ID:38LElsq70636人間七七四年
2011/02/08(火) 01:53:27ID:DFM4gp7H> 数日後、
>
> 助四郎と兵衛大夫は床を共にし、
>
> 交わりを交わしたとされています。
それで助兵衛ってオチかい?
0637人間七七四年
2011/02/08(火) 02:01:45ID:VYjO1Xrx0638人間七七四年
2011/02/08(火) 02:17:22ID:Uobkgw+M出来た言葉な。
0640人間七七四年
2011/02/08(火) 14:18:12ID:8aXi7oFG戦闘継続が困難なくらいの深手を負ってるのに数日後にはもう床を共にするってタフだなーと
しょうもない所で感心してしまった
0641人間七七四年
2011/02/08(火) 15:35:55ID:uNF3fNQA0642630
2011/02/08(火) 15:53:02ID:d07GTLhv出典の『小田原北条記』にもそのような話は出ていません。
631氏のネタだと思います。
念のため。
0643人間七七四年
2011/02/08(火) 16:50:31ID:Zo8rXred0645人間七七四年
2011/02/08(火) 19:56:51ID:VeeRXdho【殿中】
_
| |
, - | |
☆ //_|_|_
∧,,∧ ☆ ヽ/',/ 0∧,,∧∧,,∧ っ ∧,,∧
(;´・ω) \ i !从 //(ω;` ) '・ω・) っ (ω・`;)
/´ 7っ lニlヽニニ0「(^ly(^l^7っ' _) c< y/ ^7っ ☆ ,、_n
ノlハヾヽ /_(;'-ω)7っ ソ バヽ( ( く ソ ノ < \ , - 、_)lノ/7っ
<ノ l_」」 ιヾミ<^)《^) 〈_ノノヽ_>」ヽ_> <_ノノ 、_> <_と[_l l彡'´
0649人間七七四年
2011/02/09(水) 00:09:46ID:S201hNb9曽根内匠助昌世と言えば。武田信玄に仕え信玄から直接軍学や築城術を学んだとされ、
後蒲生氏郷のもとで会津若松の縄張り、町割りを行うなど、この時代でも特に有能な武士として
有名な人物であった。
さて、その曽根内匠は晩年、先代の伊達政宗のもとに寄宿した。
そこで政宗は嫡男の越前守(当時)忠宗なども呼び、曽根内匠の武辺話を聞かせた。
さて曽根の武辺話が始まってしばらくすると、忠宗が座を立った。
政宗はこれを見て
「どうして座を立つのだ?」
「はい、小便に行きたくて…」
これを聞いて政宗は激怒し
「よいか!武士と申すものは微変話を聞いているときは、我を忘れ、気づかぬうちに
小便を漏らす、という程のものなのだ!
どうしても小便がしたければ、その場で垂れ流せ!!!」
と、忠宗を叱りつけたという。
…とまあ、竹中さんのところとどっちが先だったんでしょうね。このお話。
0650人間七七四年
2011/02/09(水) 00:11:45ID:HueWbSDM・・・まさかそのせいで
0652人間七七四年
2011/02/09(水) 00:20:07ID:XcI70Dyk軍議や戦の際に厠へ行かなくて済むような道具を発明することを思い付いた
しかし、自らの手では出来なかった為に、陸前国伊具郡の洋学者を訪ね、四年の月日の後に開発されたのが、
御陸奥(おむつ、昔はその使用法から御絞めと言った)
伊達家代々に伝わる地場産業となったのである
0653人間七七四年
2011/02/09(水) 00:35:17ID:WgbcqCYYガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3046.html
そんでもってどっちの逸話が先かもリンク先を参照
0656人間七七四年
2011/02/09(水) 01:48:21ID:L4veG7Jl政宗はこれを見て
「どうして座を立つのだ?」
「はい、小便に行きたくて…」
これを聞いて政宗は激怒し
「よいか!武士と申すものは微変話を聞いているときは、我を忘れ、気づかぬうちに
小便を漏らす、という程のものなのだ!
どうしても小便がしたければ、その場で垂れ流せ!!!」
と、忠宗を叱りつけ.今度は自分が便所に行った
0657人間七七四年
2011/02/09(水) 02:22:09ID:iyA39aJE忠宗「父上!それでは父上自身が先に言われた武士の道に背くではありませんか!」
政宗「わしは良いのだ。陸奥守だからな。」
忠宗「陸奥守?」
政宗「武士の陸奥(みちのく)」
お後がよろしいようで
テケテンテンテン
0658人間七七四年
2011/02/09(水) 03:29:23ID:tGGMcSml武士なんだから先に済ませとけって怒るんだろうな
0659人間七七四年
2011/02/09(水) 06:52:39ID:tlWfV6CZ0660人間七七四年
2011/02/09(水) 13:31:17ID:qDMD4819ラスボスの島津戦殿の話とかだとどうやっても詰んでるのかよ、って感じだけど
0661人間七七四年
2011/02/09(水) 21:35:17ID:X0NF08BA0662人間七七四年
2011/02/09(水) 21:41:15ID:S201hNb9本能寺の時信忠を助け二条城にこもり、二人の息子と共に討ち死にした事とか
0663人間七七四年
2011/02/09(水) 23:02:45ID:PtLbnNJ3それに比べて裏臭いは
0664人間七七四年
2011/02/09(水) 23:06:25ID:67eoQl3m0665人間七七四年
2011/02/10(木) 01:34:56ID:FSLgCDEzまとめ見たら村井さんがまだないようなんで
塀の修復
京都所司代時代、御所の塀の修復をすることを命じた貞勝は、
織田家による京の復興をイメージさせるためか、
作業をする人夫たちを班に分けて、それを競わせたうえで、
塀の上で踊りなどをさせ、大変な騒ぎとなったそうな。
天皇や貴族も見に来たそうな。(信長公記)
確か秀吉にも太閤記あたりでこんな逸話があった気がしますが、創作かな。
0666人間七七四年
2011/02/10(木) 03:15:08ID:PUTUHoC2話がそれとフロイスしか見たこと無いんだけど
信長の筆頭文官みたいな地位の人がそれだけって寂しいつうか妙つうかそんなもんなのか・・
0667人間七七四年
2011/02/10(木) 03:34:19ID:U6fv33hH0669人間七七四年
2011/02/10(木) 10:32:58ID:FSLgCDEzkwsk
まとめで見たところないしそもそも村井さんのカテゴリーすらないorz
0670人間七七四年
2011/02/10(木) 11:43:42ID:rR1KY+ULこれは村井さんが、
美人局にあってアワアワしちゃう話なのか、
美人局をしかけて誰かをアワアワさせちゃう話なのか、
美人局にあったアワアワしてる人を裁く話なのか、
興味があります!
0671人間七七四年
2011/02/10(木) 11:53:44ID:dQRhk+ML秀政がその弟の多賀秀種の措置宜しきを得ぬとしてこれを詰責した。
これを口惜しきと考えた秀種は翌朝致仕して北庄を去ってしまった。。
秀政は弟の致仕を聞くと途中不便なこともあるだろうと餞に黄金十枚を送り、人をやって届けさせた。
その後秀政は黄金を包んでいた紙を一枚一枚のして箱に納めながらこう言った。
「およそ財というものは用いるべき時は黄金十枚でも惜しむべきでない。
無用の時はこの紙十枚といえども無駄にしてはならない。私を鄙吝と思うな。」
0672人間七七四年
2011/02/10(木) 12:14:52ID:OUukF1Mcせめて関が原くらいまで生きてれば
0673人間七七四年
2011/02/10(木) 12:15:59ID:ShdENNEz0674人間七七四年
2011/02/10(木) 12:17:54ID:rp56qvlX爆弾正「その通り!」
岡左内「その通り!」
又左「その通り!」
0675人間七七四年
2011/02/10(木) 12:27:36ID:Kewfg9ND同じ織田の丹羽長秀や滝川一益も逸話の面だと影が薄いよね。
この二人は四天王なのに
0676人間七七四年
2011/02/10(木) 12:36:19ID:iI8ZBVn40679人間七七四年
2011/02/10(木) 14:27:56ID:9mbnNtWa休復「琉球とか言う国が調子こいてるみたいだね
許しが貰えるなら俺が凝らしめにいって薩摩の臣にしてやろうか?
分かってるって、島津も徳川から沙汰を待つ身でそんな余裕が無い事なんて
だからよォ、俺達だけでヤってやんヨ!」
そう言うと休復は密かに船を借り自らの家臣と颯爽と琉球へ向かうのであった
・
・
その後
船は大風で破損し琉球にたどり着く事なく休復は薩摩にトンボ帰りする
休復「あぁ、なんて俺は不運なんだ何もかもが空しい!!」
こうして休復は琉球征伐を諦めました
めでたしめでたし
『西藩野史』から
因みに休復とは宇喜多秀家が使った偽名
0680人間七七四年
2011/02/10(木) 14:35:12ID:T7cOEd3F泳いで行け。
0681人間七七四年
2011/02/10(木) 15:58:33ID:GnXdaISt0682人間七七四年
2011/02/10(木) 16:42:08ID:hzgxJ0oS相模の北条氏と安房の里見氏が、海を挟んでにらみ合いをしていた頃の事。
安房水軍はしばしば相模の海岸に押し寄せ、北条氏を悩ませていた。
北条氏側も海岸沿いに番所を連ね、警戒を厳しくするくらいしか取る手がなかった
のである。
そんな感じでピリピリしたムードの中、小雨の降るある日。
小田原近くの入江に、小船が四、五艘ばかり陸地を目指して漕ぎ寄って来るのが発
見された。
「里見軍が来たぞっ!」
「房州水軍だ、逃げろっ!!」
町人達はうろたえ騒ぎ、逃げ出す。
しかし一方では、
「おお、あれが敵の軍船か」
「思ったより小さくね?」
と、浜に押し寄せて見物を始める者達もいた。
この騒動に、近くの番所から出動した高山大膳は群集を掻き分けて波打ち際へと進
み出ると声を上げる。
「おのれ憎き里見の勢め!今すぐ船を漕ぎ寄せ、尋常に勝負いたせ!!」
しかし……
シーーーーーーーーーーーン……
相手はまったくの無反応。
尚も相手の臆病をなじり、勝負を挑む大膳であったが、小船からは何の反応も返っ
てこない。
この辺りで漸く、野次馬達も、そして大膳自身も、何かがおかしいと気付き始めた。
「……あの船って」
「フツーの釣り船……じゃねぇの?」
0683人間七七四年
2011/02/10(木) 16:43:14ID:hzgxJ0oSそう、軍船にしてはやたら小さな船だと思ったら、実はこれ、ただの釣り船だった
のだ。
最近のピリピリムードに当てられた町人達が船に過剰反応し、野次馬が集まり、騒
動に釣られるように番所から侍が出動し……何が何やら判らない内に大騒動になっ
てしまったため、釣り船の方もキョトンとしたまま、何の反応も返せなかったので
ある。
(ど、どーしよう……ここまで来て「間違いでした。あれは釣り船です」じゃ収め
られないよなぁ、オレの面目的に……)
真相が判ったとて、大膳にとっては振り上げた拳の下ろす場所が見つかった訳では
ない。
どうして良いものか、気まずい沈黙が海岸に漂ったその時、
「そなたら如き、高山様の手を煩わせるまでもない!この一本唐傘を見よ!我こそ
は誓願寺の住職、庭林なるぞ!そなたらの相手は我こそがふさわしい!いざ、参れ!!」
雨の降る海岸、一本の傘を手にした僧侶が大膳の脇に進み出ると、そう声を上げた。
「二本傘」の旗指物を背負った大膳の劣化版を気取って見せたのである。
「確かに敵の侍じゃないなら、高山様より坊さんの出番だよなぁ」
海岸に集まった群衆は、あるいは爆笑、あるいは苦笑しながら、日常生活へと帰っ
て行き、高山大膳も面目を潰す事無く、この話は笑い話として語られるようになっ
た。
この話を聞いた北条氏政は、
「面白い坊主だ。こういう奴が仏法の問答も、面白く、わかりやすく聞かせてくれ
るんだろうな」
とのコメントを残し、庭林は小田原城下で大いに名を上げたのであった。
0684人間七七四年
2011/02/10(木) 18:59:59ID:BkXJQeM50685人間七七四年
2011/02/10(木) 20:20:57ID:YSnkna1A0686人間七七四年
2011/02/10(木) 20:58:09ID:U6fv33hH0687人間七七四年
2011/02/10(木) 21:21:58ID:l4w04jXn0688人間七七四年
2011/02/10(木) 23:02:46ID:iRqenFOl『お手紙いただきました。大変嬉しく思っています。
昨日出した手紙にも書いたのですが、わたしはこちらで普請の指導をしているため忙しく、
あなたに手紙を出すことが出来ませんでした。
やがて歳末の頃になれば、そちらに伺うことが出来るでしょう。
その時には、あなたの唇にキスをしましょう、それまで誰にも、その唇を触らせてはいけませんよ?
私はここで、側に居る時以上にあなたの事を想っています。』
以上、豊臣秀吉より息子秀頼への手紙。
有名な書状だけど、ほとんどラブレターですなw
0691人間七七四年
2011/02/11(金) 00:53:21ID:LHVbWMiV0692人間七七四年
2011/02/11(金) 01:09:38ID:RDu5Lret妙心寺で出家して“鉄牛”と名乗っていた時のこと。
京の色町・六条柳町の左近という遊女から『久しぶりに是非とも団様にお会いしたい』と熱烈なラブレターが届いた。
この左近、柳町遊郭でも際だって美しかったが、まだ武士だった団右衛門が口説いた時には罵倒を加えたような女だった。
まあそんなことは昔のこととて、団右衛門がほいほい会いに行って酒を酌み交わすと、
用件は出来てしまった隠し子を託したいと言うことである。
(出家の身の団右衛門に預けるという事は、妙心寺に入れる口添えをしてくれということだろう)
「ははあん、そんなことか」と思いながらも、頼まれごとに二つ返事で快諾する団右衛門。
喜んだ左近は以前彼を振った時とは別人のように媚びて、お礼とばかりにしなだれかかり同衾を誘った。
しかし団右衛門、猛然と衾を蹴って立ち上がり、
「酔っぱらって忘れたのか? 俺は僧だぜ。同衾なんざご免だね」
とその手を振り払って帰ってしまった。
出家した後も飲酒や帯刀を止めなかった彼も、女犯に関してはストイックだったのか。
それとも見返りを目当てにするような男と思われることに我慢がならなかったのか。
兎に角、塙団右衛門、据え膳を引っくり返したというお話。
0693人間七七四年
2011/02/11(金) 01:35:04ID:NOW9/yKx0694人間七七四年
2011/02/11(金) 01:59:27ID:RDu5Lret失礼、筆が滑ってそのまま帰ったと書きましたが、
原文では同衾拒否の言葉とともに立ち上がったところで終わっています。
その後普通に面倒を見たんじゃないでしょうか。(そうじゃないといい話でもなんでもないですな)
0695人間七七四年
2011/02/11(金) 02:05:57ID:ecS0N8jH源平の公達たちとはまた違った武者ぶりがいいね
0697人間七七四年
2011/02/11(金) 08:24:17ID:79FkKFXsそしてそんな男にはこんな頼みごとはしないだろう
0698人間七七四年
2011/02/11(金) 09:12:50ID:d+M3oqIu0700人間七七四年
2011/02/11(金) 13:29:51ID:cgPGSa4k> 奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね
全部がそうとは言わんが、団右衛門さんは出奔した後、加藤嘉明の刺客が来たとき
自分の居場所を間違わないよう、家の前にでっかい表札を出しておくような人。
0701人間七七四年
2011/02/11(金) 13:39:51ID:am1RwmeE三河の人と同人種ってことかw
0702人間七七四年
2011/02/11(金) 13:40:47ID:/Qw0ZPAK0703人間七七四年
2011/02/11(金) 14:43:39ID:gKoolOEl親父が家康の臣だったけど三河一向一揆で一揆側に加担したから出奔。
で尾張について秀吉に仕えた。
めんどくさいのは生まれつきってことです。
0706人間七七四年
2011/02/11(金) 19:47:37ID:d+M3oqIu某所のネタによると、実際に追手が来たと言う話が全く残ってないから、かえって困るとか言ってたが・・・実際のところ来たのか?追手は
0707人間七七四年
2011/02/11(金) 21:22:04ID:5dmgYj+0「甲陽軍鑑」より、
小幡景憲の父、小幡昌盛が勝頼に暇乞いをする場面
巳の年(1580年・天正8年)霜月よりわずらい、
腫満なれども籠にのり、今年の御いとまごいを申し
この腫満(腹水貯留)の記述から、小幡昌盛は当時甲斐国の
地方病であった、日本住血吸虫症に罹患していたと言われるが、
(ミヤイリガイを中間宿主とし、人間にかかると肝臓やある時には脳を侵し
ひどい時には死に至らしめることもある)
寄生虫である日本住血吸虫の生活環の解明、予防の徹底(生足で水に浸からない、生水を飲まない)、
コンクリート用水路によるミヤイリガイの減少により1978年以降日本では発生していない。
日本人が発見、生活環を解明したから「日本」住血吸虫症とついているだけなのに、
某国では第二次世界大戦中に日本軍が散布した、とのデマが流れていたり、
環境団体がコンクリートの用水路をやめろ!と自然に戻して、ミヤイリガイが
復活しかねない状態にあるから悪いスレ向きかもしれないが
0708人間七七四年
2011/02/11(金) 21:29:53ID:NOW9/yKx腫物もだけど戦国時代とは病気も違うんだな。
0709人間七七四年
2011/02/11(金) 21:41:50ID:/Qw0ZPAK0710人間七七四年
2011/02/11(金) 21:45:17ID:W3iPKyTK昔は何が怖いかって虫歯なったら地獄だよなあ
0711人間七七四年
2011/02/11(金) 21:55:06ID:fiXTdMrX0712人間七七四年
2011/02/11(金) 21:58:16ID:2KEhCzqB0713人間七七四年
2011/02/11(金) 22:43:15ID:P8qXXbgT政宗って本当に眼帯つけてたのかな?
愛姫が残した像は眼帯ついてないよね。
というのも前に読んだ本に「花柄の眼帯をしてた」って書いてあったんだ。
当時はそんなに歴史に興味がなかったから、軽く読み飛ばしちゃって今はすげー後悔してる。
ソースも結構しっかりした本だったんだけど、思い出せない。
ここの住人の方ならなにか知ってるかなと思ったんだ。
0714人間七七四年
2011/02/11(金) 23:11:48ID:NtwOkyVk眼帯付けてた記録はないと明言されてたよ。
役者さんには見栄えを良くするために付けさせてるんだって。
0715人間七七四年
2011/02/11(金) 23:26:10ID:ecS0N8jH0716人間七七四年
2011/02/11(金) 23:33:54ID:8LJS5kHw0717人間七七四年
2011/02/11(金) 23:38:15ID:LJ29ZiFeそれでも政宗に寄り添った愛姫は本物だと思う
0718人間七七四年
2011/02/11(金) 23:58:19ID:VcdevW/g0719人間七七四年
2011/02/12(土) 04:31:31ID:y7e1pxX9藤堂高虎も秀長に従い、但馬国に入った。
強兵を率いて一揆制圧の戦いを続けていたある晩、高虎は自ら敵方の砦付近まで偵察に行った。
砦の柵の前に迫った時だった。
柵の中から敵の見回り兵が、高虎めがけて槍を突き刺した。
「(痛ぇっ!)」
槍は高虎の太腿を貫通した。
「(こういうときは・・・と)」
高虎は慌てず騒がず、槍が刺し抜かれる瞬間、槍の穂先を袖口でしごいて自分の血のりを拭き取った。
「妙だな、確かに手ごたえはあったのだが・・・。朽ちた丸太でも突いたかな。」
敵兵は穂先を眺めながら去って行った。
ことなきを得た高虎は、ただちに大声で叫んで砦の中に押し入り、敵を斬りまくった。
そして、
「仇討ちじゃ!」と伝えて帰ったのであった。
その後、秀長は但馬を平定、高虎も褒美をたくさん(三千石)もらったそうな。
おまけに翌年、但馬では嫁さんまでもらって、
以来(子ができずに側室をもらうまで)嫁さんひとすじ、幸せに暮らしたということじゃ。
0720人間七七四年
2011/02/12(土) 04:38:34ID:Zop/G4a3俺だったら泣きべそかいて逃げるわ
0721人間七七四年
2011/02/12(土) 08:16:38ID:Y2IvTVcMあれだな。
佐竹義隆が「目から何か飛び出てて非常に醜い親父だった」と書いてるし
眼帯なしだったと考えればしっくりくるな
0723人間七七四年
2011/02/12(土) 10:38:04ID:fIJbKaII眼帯なし、片目のまぶたが張り付いているだけで変な奴っぽかった。
0724人間七七四年
2011/02/12(土) 10:54:37ID:gOclPejo0726人間七七四年
2011/02/12(土) 12:35:40ID:4kz2Ny9v0727人間七七四年
2011/02/12(土) 12:42:27ID:bOHGdVJ8なんか小学生の時目を刺されて同じようなことをして窮地を脱した
忍者の話を読んだ気がするんだけど、なんだっけ?
0728人間七七四年
2011/02/12(土) 14:43:00ID:ej3qNQ0K俺の記憶では、暗殺に行った先で天井裏に潜んでいた所、
気配を気取ったターゲットに額を刺されたが同じような処置をして騙す事に成功、
見事暗殺してのけたが、それ以来額が窪んだままになったので
窪額だかその逆だかの異名を取る事になった忍者だったような
0730人間七七四年
2011/02/12(土) 14:59:15ID:X+dLOQHI汁の二度掛けとか兵法講義で小便に立つ話のような
テンプレ的な話だったのかな。壮絶な覚悟とかを示す。
0731人間七七四年
2011/02/12(土) 15:13:41ID:TIVEbThU0732人間七七四年
2011/02/12(土) 17:30:27ID:LCQvKY1V0733人間七七四年
2011/02/12(土) 18:05:30ID:qu/FzoBsそういやあの漫画には信玄が忍者を見破る逸話もあったな
0734人間七七四年
2011/02/12(土) 22:04:06ID:fyl04PqE「仇討ちじゃ」って、どこにかかるんだ?太腿?
それとも「仕返しじゃ」くらいの意味?
0736人間七七四年
2011/02/12(土) 23:31:45ID:QT7+EzUphttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4299.html
加藤嘉明が賤ヶ岳七本槍として名を馳せる何年か前のこと。
同輩の男が嘉明の相馬眼が優れていると聞き及んで訪ねてきた。
「HEY! ジミー、馬を買おうと思ってたんだが君の相馬眼が優れていると聞いて
やって来たよ、どうか馬喰のとこに一緒に行って見繕ってくれないかい?」
自分の相馬眼を褒められて悪い気がしない嘉明は承諾して一緒に馬喰のところまで
行って馬を見繕ってやることにした。そこである一頭の馬に目が留まった。
その馬を見た嘉明は「ちょっと癖の悪そうな馬だし本質的にはマイラーだと思うが
春のクラシックまでならなんとかなりそう」と思ったかは定かではないが
明らかに癖の悪い馬ではあるがそこ以外は申し分の無い馬であると男に薦めた。
すると男は「ジミー、確かに良さそうな馬だけどあの癖の悪い部分を再調教して
癖が無くなったら買うからって馬喰にちょっと掛け合ってくるわ」と言ってあまり乗り気ではない様子。
その態度にイラッとした嘉明は「いやいや、あの癖の悪さも含めてのいい馬で癖が無くなるように
調教したらいい部分もなくなっちゃうから今買うべきだ」と言って今が買い時だと強調したが
男は何やかんやと理由をつけて買おうとしない。
そこで切れた嘉明は「いい馬がいるのに癖があるからって理由で見逃すんじゃなく、
癖馬でも乗りこなそうという気概がないと殿のためにいい奉公なんか出来ないぜ、
あと俺はジミーじゃねぇ」と怒ってしまった。
後にそのことが信長の耳に入り「嘉明の言う事がもっともである」と言って嘉明を賞賛したとさ。
0737人間七七四年
2011/02/12(土) 23:50:18ID:9dJHA8T1徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山が
家康のもとにやってきた。
甲冑を着込んで。
どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた
「我らが手にも三人の法師武者があるわ」
これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。
この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。
大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。
0738人間七七四年
2011/02/13(日) 00:08:43ID:S+HF8EsR天海だったかな?
0739人間七七四年
2011/02/13(日) 00:12:07ID:prNQyHLp0741人間七七四年
2011/02/13(日) 00:32:35ID:GOTpJhPV0742人間七七四年
2011/02/13(日) 00:33:40ID:vdBJgzcm>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか
0743人間七七四年
2011/02/13(日) 00:40:10ID:bkRgrFXX0745人間七七四年
2011/02/13(日) 01:27:33ID:vdBJgzcm“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。
「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」
「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」
「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」
「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」
折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。
0746人間七七四年
2011/02/13(日) 04:21:45ID:k6MLXP8v関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる
0747人間七七四年
2011/02/13(日) 08:18:33ID:zQGldhXw0748人間七七四年
2011/02/13(日) 11:37:19ID:DWwt4EEW加藤光泰は文禄の役の時
迫る明の大軍に対して
兵糧の不足を理由に漢城からの撤退を主張する三成に
(`・ω・´)光泰「米がなければ砂を食えばいいんだよ!」
三成「砂なんて食べられるわけがないでしょう常識的に考えて」
(`・ω・´)光泰「食えるもん!おれ食えるもん!砂の食い方も知らないのかよバーカ!バーカ!」
という超理論をブチ上げた逸話しか知らないなあ。
そしてなぜか光泰のこの砂食いスピリッツに感化された諸将によって
明の大軍を迎え撃つことが決定してしまった
後の碧蹄館の戦いである。
0749人間七七四年
2011/02/13(日) 11:42:30ID:cULL00l1砂はいけるのか?
0750人間七七四年
2011/02/13(日) 12:01:01ID:GOTpJhPV0754人間七七四年
2011/02/13(日) 18:25:54ID:2vFxlbxn宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
実は八丈島で捕れた鯨の腸をつなぎ合わせた浮き袋を考案して
泳ぐ際の負担を軽くしていたことはほとんど知られていない
江戸中期、八丈島を飢饉が襲った際
試みにこの浮き袋をつくり江戸で売ったところ泳げない武士の間でたちまち大人気となり
その儲けで島民全員を糊して余りある米を買う事ができたと言う
そのとき島民が考案者である秀家に感謝を示す意味でこれを「宇喜輪」と名づけたことは
賢明な読者諸氏には既にお分かりのことであろう
なお八丈島宇喜多氏が「浮田」と改姓したのもこの頃であるが
これは宇喜輪の利益で軍備を整えた宇喜多の子孫が幕府に弓をひくのではないかと
危ぶむ幕閣の視線をそらすためであったという
さらに余談であるが、ドイツ起源の料理として今日著名な「ソーセージ」も宇喜輪に端を発する
遠州灘で宇喜輪を使って泳いでいる秀家にオランダ東インド会社の帆船が食料を売ったと言う記録があり
このときにオランダ人が腸をつなぎ合わせる料理の発想を得それをドイツ人が実用化したという
その証拠に「ソーセージ」を表す「腸詰」と言う単語は
オランダ人から体調を聞かれた秀家の「超つれえ」という日本語から来ているという話が
ドイツの限られたソーセージ・マイスターの間で口伝として残っている
0755人間七七四年
2011/02/13(日) 18:33:21ID:pZRAq/J+遅レスだが茂庭綱元の日記に、何かの祝い事のときに
政宗が紅白幕の模様の眼帯をしていたという記述があった
ということを本で読んだ覚えがある。アイパッチではなく
そういう柄の布を巻いていたかもしれない
0758人間七七四年
2011/02/13(日) 19:05:40ID:zQGldhXw> 宇喜多秀家が大坂の陣に際し八丈島から大坂まで泳いでわたった故事は余りにも有名であるが
この一行目でさすがに解るだろw
0759人間七七四年
2011/02/13(日) 22:02:15ID:iWpNnSfo0761人間七七四年
2011/02/14(月) 01:15:23ID:puwfzaQQ0762人間七七四年
2011/02/14(月) 01:18:57ID:rRCpTngr0764人間七七四年
2011/02/14(月) 02:31:31ID:gKCVeQYw0766人間七七四年
2011/02/14(月) 10:47:27ID:jQK1vxKn信長「三河殿、古今の英雄と言われる人物は数多いるがあなたは誰が最も優れていると思うか」
家康「それは上様以外ござらりませぬ」
信長「余の事はおけ。小平次(酒井忠次)、そちはどうだ?」
忠次「安土様の破格の偉業には頼朝公も義満公も足元にも及びませぬ」
このように信長は居合わせた重臣一人一人に親しく問うたので皆感涙したという。
そして全員が信長こそが古今最も秀でた英雄と褒めちぎるなかただ一人、違う人物を挙げる男がいた。。。
信長「平八郎(本多忠勝)、そなたはどうだ?」
忠勝「それは我が殿、徳川家康公でございましょう。殿は仁篤く、臣下を慈しみ、戦に置いては勇猛、仮に上様がいなければ天下を統べるのは我が殿以外ござらん!」
これは歪曲して聴けば謀反とも取れる言いようであり、家康以下一同は仰天して腰を抜かし、中には今にも忠勝を切ろうとする者までいたが。。。
信長は嬉しそうに手を叩き上機嫌で忠勝を褒め囃し、天下統一成れば家康の陪臣として武蔵一国を宛がう約束をしたという。
信長の死により約束は反古になったが家中に面目を施した忠勝は死ぬまで息子達にこの話しを誇ったという。
0767人間七七四年
2011/02/14(月) 10:57:14ID:6/+txjmT0768人間七七四年
2011/02/14(月) 11:30:34ID:KfaXMPAtまあ自分の殿様が好き過ぎるんだろうけど。
0769人間七七四年
2011/02/14(月) 11:33:21ID:gKCVeQYw0770人間七七四年
2011/02/14(月) 11:42:46ID:o3jjrn0l作左やタダーヨならどんなことをいっていたであろうか。
0771人間七七四年
2011/02/14(月) 11:48:50ID:6/+txjmT豊田市周辺だけ見ると尾張と変わらないけど、
足助、飯田とかになると奥地な感じが今でもする。
あと、信長と秀吉は残ってる趣味言動が都会的だけど、三河武士は田舎者の臭いが強い。
良い意味でねw
0772人間七七四年
2011/02/14(月) 11:49:59ID:sqTNEcos0773人間七七四年
2011/02/14(月) 12:07:31ID:Pkfpiuuo作左たち連れてきた方が覚えよかったかもなw
0774人間七七四年
2011/02/14(月) 12:30:24ID:LaaNxEpS0775人間七七四年
2011/02/14(月) 12:40:54ID:LFHduT5a0776人間七七四年
2011/02/14(月) 12:50:07ID:bRq9Wt0z0777人間七七四年
2011/02/14(月) 13:42:44ID:6/+txjmTみんながみんな三河アゲしたら信長みるみる機嫌悪くなる気がするw
織田家臣も主君ないがしろにされて面子立たないし、
近江衆と尾張衆の喧嘩の再現になりそう
0778人間七七四年
2011/02/14(月) 17:06:56ID:HJqyiNuZ0780人間七七四年
2011/02/14(月) 18:25:00ID:NYnHwWSu0781人間七七四年
2011/02/14(月) 19:10:44ID:295YJYYp0782人間七七四年
2011/02/14(月) 20:34:49ID:9Tyxn4CtTERUのいい話ないか。
一応一流の文化人だろ、TERU。それ系の話をくれ。
0784人間七七四年
2011/02/14(月) 21:28:04ID:B/8gKS5Q対武田戦で家来でもない徳川家が果たした役割を考えれば悪口の一つや二つ言って叱るべきだし
0785人間七七四年
2011/02/14(月) 21:42:50ID:Pkfpiuuo0786人間七七四年
2011/02/14(月) 22:05:41ID:a6DCbeqi後で、陰口をたたいてるだけ?まあ、そう言わないで
0787人間七七四年
2011/02/14(月) 22:19:34ID:ErCRo6fT-‐―- 、
/..::::::::::::::::::.丶
. /..::::::::::::::::::::::::::: ヽ
i.::::::::::::」:::」:::」::」」i l
∞ / (● (● ∞
‖| ~" ゝ~" |l
‖八 З ./ |l <伯父上は間違ってごじゃる
‖ |ヽ\_ /ソ
0788人間七七四年
2011/02/14(月) 22:23:36ID:l/vd/fek0789人間七七四年
2011/02/14(月) 22:26:50ID:nyeM28P7必ず上と下の呪いがかかる。
0790人間七七四年
2011/02/14(月) 22:40:08ID:iRa36T0V6人中半分端折っとるがな
0792人間七七四年
2011/02/14(月) 22:41:52ID:a6DCbeqi蘭丸・坊丸・力丸の三人、名前は出さなかったけど、6人兄弟で5人在命と答えてたんで、鬼武蔵や忠政がdisられたわけじゃない
0793人間七七四年
2011/02/14(月) 22:57:13ID:pByIXCAz三法師の母親は森可成の娘じゃなかった?
0794人間七七四年
2011/02/14(月) 22:59:41ID:a6DCbeqi0795人間七七四年
2011/02/14(月) 23:04:38ID:+yj+V6GU0796人間七七四年
2011/02/14(月) 23:05:17ID:thF9AuNQ役者のせいでわかりにくいが初はまだ10歳くらいなので勘弁してくださいw
>>793
という説がある、という感じで確証はないはず。>三法師の母親は森可成の娘
0798人間七七四年
2011/02/14(月) 23:31:47ID:ybOV8tnMまぁスレ違いだ
0799人間七七四年
2011/02/15(火) 00:04:18ID:xyafO0yT……あたかも史実のように語ってくる知人さえいなければなぁ
0800人間七七四年
2011/02/15(火) 01:42:15ID:k/6hapsQだけどバサラ、てめーはダメだ
0801人間七七四年
2011/02/15(火) 10:25:08ID:CZFhRDCk「さんさいさま、さんさいさま!おうたをうたってくださいな。」
「おう、よしよし!さて、何の唄が良いかな?」
養女のお三にせがまれた三斎こと細川忠興は、快く求めに応じた。
「いつもの、さつまのうたがききたいです!」
「いいともいいとも。この唄はな、わしの古い友達に教えてもらった唄なのだよ・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4768.htmlの後、
細川忠興は上洛して来た島津家一行の中に、新納忠元の姿を認めた。
「忠元殿、いつぞやは。」
「これは忠興殿!・・・・・・そうでしたか、あの旗印は、幽斎殿のものではなく、忠興殿でしたか。
小牧の戦いで、徳川軍相手に水際立った殿軍ぶりを見せたという勇士に、無粋な物言いをしてしまいました。」
恐縮する忠元に、忠興は素直な感謝の気持ちを述べ、以後二人は互いに宴会等に招きあう昵懇の仲となった。
“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”
琉球の使節が薩摩での歓待ぶりを本国でも語ろうという筋の隆達節は、ある席で忠元が唄ったものだという。
のちに忠興の孫・細川立孝の正室となったお三(源立院)は養父の面影を懐かしみ、この隆達節と
それにまつわる話を、家臣たちに語った。
お三の語りは家臣たちによって「細川家記」に収録され、忠興と忠元の交誼を現代に伝えている。
0802人間七七四年
2011/02/15(火) 20:23:20ID:P0Ix4H4Aわかります
三斉様は大河出演の可能性が高くなって
今からアットホームなイメージアップをはかる気ですな
しかしながら浅井家と言えば森家の敵
例え娘だろうとあの方が黙って見過ごすとお思いか?
0803人間七七四年
2011/02/15(火) 20:43:37ID:Wn3XMCki「その者は私をあまり訪ねて来ませんので、人柄をよく存じません」
利勝がそう答えたことは、家康を怒らせた。
「お前のところに出入りする奴ばかり役職につけたら、おべっかばかりになって
家中に無能しかいなくなるじゃあないか。
お前のところに出入りしない者や、お前に対して不遜な奴でも有能な者を見抜いて推薦し、
出入りしている者であっても軽薄者は退けるよう、わしに進言するのがお前の役目なんだぞ」
利勝はこの言葉を胸にして家康の補佐役として成長した。
その成長ぶりを見て家康は
「利勝は同じ誤りを繰り返さず、真心を持って使える人物だ」と言った。
0804人間七七四年
2011/02/15(火) 20:48:06ID:ldT9RDI+0805人間七七四年
2011/02/15(火) 21:28:15ID:A6/EccxDhttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/news/20110213-OYT8T00036.htm
これを見て
あの鈴木大学の弓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-753.html
が見つかったのか!?
と思ったのは俺だけではあるまい
0807人間七七四年
2011/02/15(火) 21:52:55ID:kuNRN1C8明清の秀吉伝説まとめ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
明史日本伝
薩摩州の奴隷で、信長に木の下で出会ったので、「木下人」と名づけられ重用。
阿奇支(明智or安芸氏?)を信長の命令で討滅した折、信長が明智に殺されたのを知り、
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅す。その後、信長の三子を廃し、
関白を僭称し、信長の後継者となる。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4202.html
関ヶ原軍記大成成立の頃の中国における伝説
秀吉は元々、呉か越のあたりに居た書生(中国人)。
科挙に受かることが出来ず将来に絶望し、中国を捨てて日本に渡り、
遂に日本人となってその天下を取った。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4201.html
「笑府」
関白(秀吉)は、身のたけ数丈、腰の太さが百まわり
首の重さは数千斤の妖怪
追加
「水滸後伝」第三十回
関白は身の丈八尺、白象に乗ってシャム征服を図る。
髪をぐるぐる巻きにし、先の丸まった鉄棒を武器とする。
清・康熙年間成立の小説「野叟曝言」
関白木秀は、美男の明の使者二人をものにしようと、
酒に睡眠薬を入れ眠らせるが、一人は関白夫人・寛吉が奪い取る。
関白は眠っていてはもの足りぬと、残った一人(主人公)を覚醒させる。
驚いた主人公は刀で斬りかかるが、関白は椅子で受け止め、格闘。
主人公は敵せぬと自殺。もう一人も関白夫人を殺したのち自殺。
「斬蛟記」
関白平秀吉は西晋の神仙・許真君(許遜)に斬られた蛟の子が
日本で長じた物であり、一兵卒より身を起こし、旧関白を殺害し
六十六州を平らげる。
蒙仙師や黄石公などの仙人により、頭を落とされるがその死体は
長さ数千丈、蛇形にして魚鱗あり、という姿だった。
とっくに妖怪にされまくりだから、バサラなんてかわいいもんだ
0809人間七七四年
2011/02/15(火) 22:37:51ID:uhSCI7/m昔から全く進歩してないなw
0812人間七七四年
2011/02/15(火) 22:44:07ID:dQGmBJ0o0813人間七七四年
2011/02/15(火) 22:47:48ID:Isx4cWlZガラシャ様見に行こうぜ!!
0814人間七七四年
2011/02/15(火) 22:47:51ID:kuNRN1C8水滸後伝「第三十回」→水滸後伝「第三十五回」
「いい話」には微妙かもしれないが、下二つを紹介していた
青木正児「江南春」拘肆野語・支那戯曲小説中の豊臣秀吉、に
「我が不世出の英雄豊臣秀吉の誇りを毀けること甚だしいものであるが、
それにしても外国の小説にまで描かれてその雷鳴を轟かしたことは
吾々の痛快を覚ゆるところである」(昭和二年)
と書いていたもんで
>>805のネタを遮ってスマン
0817人間七七四年
2011/02/16(水) 00:48:22ID:5tCQd1A0よくある話よくある話
0819人間七七四年
2011/02/16(水) 01:25:57ID:iLbrX0+N0820人間七七四年
2011/02/16(水) 01:35:25ID:kyTwzR6c朝鮮役もその枠に入れられて考えられたんだろう。
0821人間七七四年
2011/02/16(水) 01:41:17ID:lgARsKsc>>819
>>807
> ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4202.html
にちゃんと書いてある
> ところがこれ、実は倭寇の頭領であった王直の履歴そのままなのである。
> 同じく日本から大陸を攻めた人物として、いつしかそれぞれの話が重なってしまったのだろうか?
0822人間七七四年
2011/02/16(水) 02:49:59ID:lM/fH4M+そんな与太話は流布されてすぐに戦前の史学会で否定されてるしw
あんなトンチキ説を取り上げるのはインパクト与えたい三流メディアだけなんだけどな。
それを例に出すのはお前の程度も知れるから止めておけ。
0823人間七七四年
2011/02/16(水) 03:44:45ID:l72QDUwYいや、815は本気でそれを持ち出したわけじゃないと思うのだが・・・
さすがにこのスレにまで来る奴が義経=チンギス説を信じてる筈がなかろう。
根拠のないトンチキ認定はどこの国も少なからずやってるって事でしょ。
0824人間七七四年
2011/02/16(水) 04:14:46ID:eLnB+5Prだからうちの民族凄いんだぜ!と言い出すのと、
負けて悲劇的な最後を遂げた人物が
実は死なずに生き延びていて・・・ってのは
なんか同じように見えて違う感覚のような気がする。
トンチキ認定ってくくりは一緒だけど。
0825人間七七四年
2011/02/16(水) 06:50:16ID:5YKPD8aCそれでも日本では20世紀になってから出てきた話だよ。
どこの国も一度は通る道だ。
半島では21世紀になってからもやってるみたいだけどね。
0826人間七七四年
2011/02/16(水) 06:58:14ID:dB8VfThd0827人間七七四年
2011/02/16(水) 07:09:48ID:hlLwehjX0828人間七七四年
2011/02/16(水) 08:23:33ID:VtrxOxNr0830人間七七四年
2011/02/16(水) 20:35:19ID:xBRdKwiM当時の明人が、秀吉の業績をそこまで凄いと思うだろうか。
読んでる我々は現代日本人だから、戦国日本を統一したのは不世出の偉業と思うけどさ。
どう考えても中華思想華やかなりし当時の明人の脳内だと、
「モラトリアムして自分探ししてたアホが、逆恨みしてとんでもないバイタリティ発揮して辺境の小国乗っ取って襲ってきた」
というシチュエーションだと思うんだが。
0831人間七七四年
2011/02/16(水) 21:09:17ID:wkU1UowKなんかうちの国と因縁ある設定にした方がドラマチック」とかな
0832人間七七四年
2011/02/17(木) 00:12:54ID:cdRMPZ7pなんで森忠政は兄の敵である家康に接近した訳?
TERU池田はラスボスが間を取り持って家康の娘婿になったから分かるんだけど。
上記の例とか、兄貴が蘭丸殺した人間を召し抱えたみたいに「武功は武功」・「戦国の世の常」的なものかな?
川中島増封は森家が無理にとってつけた事みたいだし。
0833人間七七四年
2011/02/17(木) 00:22:01ID:94ILP9340834人間七七四年
2011/02/17(木) 00:27:30ID:bgIVk3f2徳川と戦ったのはあくまで秀吉に与力したというだけで、お互いに敵対したかったわけではないし、
その意味で仇ではない。また痛い目にあったからこそその人の実力がわかるって部分もある。
戦国大名は狼の群れみたいなもんだ。噛み付かれて彼我の差を知って屈服するんだよ。
0835人間七七四年
2011/02/17(木) 12:44:42ID:WE5R798nえ、兄をぬっころしててくれたおかげで当主になれたのだから感謝するだろ。
0836人間七七四年
2011/02/17(木) 12:55:19ID:HhkQrD2J0837人間七七四年
2011/02/17(木) 13:21:45ID:UEfCrLOx長可を討ち取った誰かはどうなったんだろう。
0838人間七七四年
2011/02/17(木) 14:59:30ID:9l560cQ8完璧超人立花宗茂は旧敵の小早川隆景を義理の親にしてるし
親父を殺した島津とは共に西軍で戦った仲間としてるんだから
立場が変わればそんなもんだろうといえば優等生の宗茂ゆえに逆に胡散臭く聞こえるが
戦国期トップレベルのDQNの弟と戦国期トップレベルの優等生が同じような思考をしているから
これが戦国時代の常識なのではと思った
0840人間七七四年
2011/02/17(木) 15:55:05ID:9GYbjDFc0842人間七七四年
2011/02/17(木) 18:05:52ID:+hSGBrCV名のある相手に討ち取られたのはむしろ喜ばしい事なんだろう
0844人間七七四年
2011/02/17(木) 19:07:52ID:zkuO4Yhw意味を読み取れず本気でそこ突っ込むお前の程度はさらに低いよ。
ヲレの即興の作り話しに100以上の拍手したり大量のコメント残したりとここの奴らは プッ
これからもヲレの妄想逸話で猿を喜ばしてやるからね プッ
0845人間七七四年
2011/02/17(木) 20:05:06ID:zlxEqfjF名古屋城普請を命じられた清正は普請に熱心に取り組んだ。
清正はよく普請のそばで行われる市場に顔をだし、市場まる事買う事がよくあった。
そして大きな仕事の前はここで買った品(酒、食料、日常品など)を大盤振る舞いしたという。
清正の故郷も近い事もあり大勢の人が集まり、市民や他国の家臣も参加してこの宴会は毎回大騒ぎになっていた。
そして大工事当日は美少年5、6人に華美な小袖羽織を着せ、現場を見回った。
この少年達、余程見栄えがよかったのか
「およびなけれど万松寺の華を、折りて一枝欲しうござる」
(近くにある万松寺の美しい花になぞらえた美少年を褒める歌?)
この様な歌が流行り美少年を一目見たいと大勢の女性が加藤家の屋敷に集まった。
清正は彼女等を屋敷に入れ、少年達を披露し酒を振舞い楽しんでいたという。
藤原惺窩も現場で清正等一行の工事を見ていた。惺窩の従者は清正のあまりの放蕩振りに驚き
従者「全く肥後殿は何を考えているのか。このような事をしていては普請など上手くいく筈もなかろう」っと呟いた。
それを聞いた惺窩は
「それは全く見当違いな話だ。天下は徳川家というご時世だ。他の者が徳川家に睨まれまいと規則通りに仕事をするのに
肥後殿はあのように堂々とした振る舞いをしている。工務も決して遅れてはいまい。
それにな、ああやって現場で仲間を増やしておけばいざという時に役に立つものだ。
このような事が出来るのは今や肥後殿だけだろう。度量のある武士とは彼の様な者を言うのだ。
大御所様の御目に掛かるのもこれだけ観て十分わかる。」
っと清正の度量に感服したそうだ。
名古屋城築城後は
音にきこえしなごやの城を、踏みやならいた肥後の衆が
という歌が流行し名古屋での清正の名声は高まったという。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1857.html
こういう事故が起こっても普段から必要経費(保険)をかけておけばなんとかなる!っという
清正の人心把握術のお話。
0849人間七七四年
2011/02/17(木) 21:55:08ID:8TMNEi/X0851人間七七四年
2011/02/17(木) 22:19:56ID:sbxiq9zv意見を聞き、その人々が支持する者をその役職につけるようにした、という。
勿論これには理由がある。
「人の上に居る人間は惣じて、人の善し悪しが見えにくくなっているものなのだ。
何故ならどんな人間であっても、上の者の考えに合わせそれに迎合し、上の人間に
気に入ってもらおうとしてしまう。これは人情というものなのだ。
そのためその者の本心は非常に見えにくく、どんな賢明な君主であっても、
上からの視点ではその善悪を判断しずらくなってしまうのだ。
よって実際に下で働く者たちの意見を聞くことで、上からの視点では見えないものを
補うことができるし、また下の者たちも、自分たちの意見が汲み上げられた上役ということで、
その下知にもよく従うようになるのである。」
家康の人材の使い方の一端についてのおはなし。
0852人間七七四年
2011/02/17(木) 22:41:01ID:G9k4U7kR実際は現場に顔を出して
「お前達の替わりに番をしてるから遊んで来いよ」
と下の者にプレッシャーを与えるけどね
0854人間七七四年
2011/02/17(木) 23:28:52ID:wdf+id6r戦略拠点を任せておいて「柱の傷〜」とか理解不能なイチャモンつけて怒るけどな
氏康歴史資料館でも作れば良かったのかと
0855人間七七四年
2011/02/17(木) 23:33:01ID:4ZYnF/O80856人間七七四年
2011/02/17(木) 23:33:40ID:0/P6lueW0857人間七七四年
2011/02/17(木) 23:35:41ID:wwDKOgz1>ああやって現場で仲間を増やしておけばいざという時に役に立つものだ
どんな「いざ」だよw
0860人間七七四年
2011/02/17(木) 23:45:01ID:sbxiq9zvむしろ武士の場合女にデレデレする方が白い目で見られた。
衆道は武張って男らしい趣味だと考えられてた。
0862人間七七四年
2011/02/18(金) 00:17:51ID:5GhEqUAa地味加藤さん、松山築城では城下のおたたさん(魚を売り歩く女性)に協力を仰いだり
嫁さんが炊き出しに出たりと、なんだかアットホームなアプローチをしているね。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3837.html参照)
築城予定地の勝山に棲んでいた八百八狸の頭・隠神刑部と、
「狸に危害を加えない代わり狸もお城を末長く守る」
と言う約定を結んだ、なんて伝説もあって、
これが二百年後のお家騒動を元にした講談『松山騒動八百八狸物語』
に繋がるのはまた別のお話。
0863人間七七四年
2011/02/18(金) 00:25:37ID:aMuUUD2B0864人間七七四年
2011/02/18(金) 00:28:07ID:5GhEqUAa…二百年後は講談成立時期でした
0865人間七七四年
2011/02/18(金) 09:45:51ID:o4FGuh/V石が落ちても誰もしゃべらないってことだなw
しかも幕府の役人まで半ば見て見ぬふりだしw
0866人間七七四年
2011/02/18(金) 17:48:24ID:koAYKGx9鍋島勝茂が徳川家光に従って上京した時の話である。
勝茂が泊まっていた宿舎に、若年寄の永井尚政から書状が届いた。
それに対する返書を持たせ、相浦源左衛門を永井家の宿舎に送り出す。
が、あいにくと永井尚政は二条城に登城しており、宿舎を留守にしていた。
取次ぎの者からそれを聞くと、源左衛門はそのまま、二条城へと直行してしまう。
勿論、何のアポもなく二条城に入る事など出来はしない。
源左衛門はただただ、勝茂に言われた「永井殿に届けてくれ」という言葉のみを考
えており、その辺りの手続きは一切考慮していなかった。
門の前で衛兵に止められる。当然である。それどころか侵入を企てた怪しい奴、と
して拘束されかかってしまう。
「私は怪しい者ではありません!鍋島信濃守(勝茂)の使いとして参りました。永
井様にお目通りを致したいのです!」
当然、何のアポもなく城で執務中の幕臣に面会など出来はしない。
だが、「鍋島家の臣」と言われると、門番としても自らの一存で拘束してしまって
良いものか、少々不安になってくる。
そんな時に、門前での騒ぎを聞きつけ、一人の男が城から出てきた。
「どうした、何の騒ぎなのだ?」
「岡部様! これは良い所に。この男が鍋島家の使者を名乗り、ここを通せと言って
おるのですが……」
「なんだ、信濃殿のお使いとな。それなら私が手紙を預かろうではないか」
いかにも身分の高そうなその男は、気さくな感じでそう言うと、手紙を寄越せと手
を差し伸べる。
しかし……
0867人間七七四年
2011/02/18(金) 17:49:16ID:koAYKGx9「いえ、この手紙は主君に預けられた大事な手紙でございます!いかに身分の高い
御方であろうと、見も知らぬ御方に預ける事など出来ませぬ!」
源左衛門はその手をあっさりと拒絶。
「え……? 知らない? 私の事を……? お前、鍋島家の者で……永井家に使者に立
つ位には重用されてる者なんだよ……ね?」
呆然とした男。それもその筈、この身分の高そうな男、大垣城主・岡部長盛の嫡子、
岡部宣勝であった。
そして実は宣勝は鍋島勝茂の妻の弟。主君の義理の弟なのである。
義兄の家臣が困っている様子だったからと声を掛けてあげた宣勝、何故か自分が誰
なのか、勝茂との関係がどうなのか、社会的にどの程度信用出来る人間であるのか、
一生懸命に源左衛門に説明する羽目となってしまった。
漸く納得してくれた源左衛門から手紙を預かった宣勝は、手ずから城内の永井尚政
に手紙を届け、返書まで持ってきてくれるという良い人ぶり。
それどころかその日の晩、義兄の許を訪れた宣勝は、
「二条城での騒ぎを聞きましたかな? あの男、愚直に過ぎる所はありますが、中々
の器量ではないですか。私は気に入りましたな、是非、目をかけてやってくだされ」
と勝茂へのフォローまでしてやった。
将軍が滞在中の城で騒動を起こしてしまった源左衛門、もうこれは切腹しかない、
と思い詰めていたのだが、宣勝のフォローによって世間の評判はむしろ高くなった。
勝茂からもこの件へのお叱りは一切なかったと言う。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4528.html
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2624.html
というキッツイ逸話持ちのお姉ちゃんの弟さんのお話。
……お父さん、育て方間違えたんじゃない? 逆! 性格逆でお願い!!
0868人間七七四年
2011/02/18(金) 18:01:30ID:KURTc/d/0869人間七七四年
2011/02/18(金) 20:13:18ID:EOsgiZcA0870人間七七四年
2011/02/18(金) 23:01:24ID:IosbNlWN0871人間七七四年
2011/02/18(金) 23:22:27ID:1wshhUje0872人間七七四年
2011/02/19(土) 01:33:19ID:Rc+iCtKpところが清正だけはとっさに鬼の面と短刀を手に取り、道具箱の中に隠れた。
盗品を村外れまで運んだ泥棒がその道具箱を開けると、鬼の面をかぶった清正が飛び出してきて、たちまち泥棒の一人を
切り捨てたため、残りの者達は
「鬼じゃ!鬼が出た!」
と驚きのあまり一目散に逃げてしまったという。
清正少年、泥棒を撃退したいい話。
0873人間七七四年
2011/02/19(土) 01:50:30ID:NMqjuvxE現代のお面とは感覚が全然違うような
0874人間七七四年
2011/02/19(土) 02:30:57ID:Vzchav0y0875人間七七四年
2011/02/19(土) 02:40:20ID:x53vzWWY泥棒「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」
0876人間七七四年
2011/02/19(土) 08:41:41ID:nkhfZZQR0877人間七七四年
2011/02/19(土) 09:49:16ID:Qu8k2yhJ0878人間七七四年
2011/02/19(土) 11:35:31ID:66LlXUkg神聖である、信仰しているということはむやみに畏れ遠ざけることじゃないし、子供は昔から怖いもの知らず。
また、鬼神の力を借りるという意思で被り、一種のトランス状態になって恐怖を克服するのはありうるよ。
トランス状態って要するにぶっちゃけ思い込みによる自己神格化な訳で、立ち向かう勇気は溢れると思う。
0879人間七七四年
2011/02/19(土) 12:41:41ID:NMqjuvxEなるほど〜!
本当にそういう意味で清正がお面被ったように思えてきたよ。
文字通り鬼になったわけだね。
女性が化粧すると気が強くなるのと一緒かな。
0881人間七七四年
2011/02/19(土) 14:58:14ID:3Cyaw363うん、>>880の前世は福島正則なんだよきっと・・・。
0883人間七七四年
2011/02/19(土) 15:37:06ID:vAuCsby+そういうことはあるだろうね。
鈴木大拙の「日本的霊性」にも念仏宗の信徒(若い娘)が、
お伊勢参りの道でヤマイヌの群れに囲まれたときに、
もうダメだと思って無心で南無阿弥陀仏を唱えたらヤマイヌが退散したという話があった。
無心の気迫が通じるみたいなことなのだろう
0885人間七七四年
2011/02/19(土) 19:38:57ID:x53vzWWY化粧とった→化け物
0888人間七七四年
2011/02/19(土) 20:00:33.09ID:ecpPsbQH0890人間七七四年
2011/02/19(土) 20:35:20.60ID:Rc+iCtKpだがその犬を男は返り討ちにして殺し、草履を無くした上に手足に血をつけて帰宅した。
その様子を見ていた母親から問い詰められると、男は犬を殺した事は認めたものの果物を盗もうとした事は認めようとはしなかった。
そんな男を母親は家の仏間に連れて行き、父親の位牌を前に
「父上はいつもそなたを見ている。嘘をつけば地獄に落ちる。」
と諭した。この言葉を聞き男は猛烈に反省し、信仰を深め、清廉潔白な人物に育ったと言う。
この男は後の加藤清正である。
0891人間七七四年
2011/02/19(土) 21:03:52.80ID:qh1TmXW30892人間七七四年
2011/02/19(土) 21:11:01.15ID:Y549yEgw人間
虎
朝鮮人
犬←new
0893人間七七四年
2011/02/19(土) 22:20:43.40ID:ClsIMj26>>清廉潔白な人物
>>清廉潔白
0894人間七七四年
2011/02/19(土) 22:23:18.17ID:1PA64pC+天正20年(文禄元年)(1592)、文禄の役、朝鮮に出兵した播磨・三木城主の中川秀政は10月24日、
現地での鷹狩の最中気がついたら敵兵に囲まれていた、と言ううっかりプレイで討死。
享年25歳であった。
さて、主君のあんまりな死に嘆き悲しんでいる中川家の家臣のところに加藤清正がやって来た。
そしてこの家臣に品物を手渡した。その品物を見て驚く家臣に清正
「これを与える。これで元気を出せ!」
「あ、あの、これは…?」
赤鬼の面であった
「この地で手に入れたものだが、おぬしに渡す!何時までもくよくよするのではないぞ!」
「は、はあ…」
家臣はよく解らない。何故赤鬼の面なのか?どうして赤鬼の面が自分を慰めることになるのか?
ただ単に清正が赤鬼の面が好きだというだけではないか?
様々な疑問をかかえ、ともかくもその家臣は赤鬼の面を持って帰国した。
が、だからと言ってこれをどうしたものかよく解らず、そのまま放置し、そのうちこの家臣も死んだ。
後継ぎなどにもその面についての言及はなく、完全に忘れ去られた。
時は流れ延宝3年(1675)、この家臣の子孫がたまたまこの面を見つけた、しかも清正の
寄進状と共に。こんなモノにもちゃんと寄進状を書いていたのですね清正公。
だが、やはり子孫もこれをどうしていいのか解らず、地元の月輪寺へと奉納した。
そのうちに月輪寺が赤鬼面と対になる黒鬼面を購入し、これを用いて鬼追いの祭礼を
行うようになった。これは「三木・大宮の鬼追式」として、現在も大宮八幡宮と月輪寺にて
神仏習合の祭礼として行われている。
清正寄進の面、なんだか色々あって祭礼となる。と言うお話。
0895人間七七四年
2011/02/19(土) 22:27:54.54ID:awBWDt7y「熊と戦う前に、牛か、せめて犬と戦ってからにしろ」って
0896人間七七四年
2011/02/19(土) 23:02:08.85ID:SeT607j4後藤又兵衛が生き延びていた、という話は又兵衛桜が有名ですが
愛媛県の松前町にも、又兵衛が逃げ延びてきたという話が伝わっています
大阪からなんとか脱出した又兵衛は、旧友の加藤嘉明を頼ってこの地を訪れました
徳川家からの捜索を逃れるため、名を弟の市郎右衛門と偽り、百姓となったそうです
百姓となった後は、地域の開拓に尽力し、寛永11年にその生涯を終えます
今でも後藤新田、後藤の堰などの事跡が残っています
http://shikoku-net.co.jp/ehime/kankou/iyogun/masakikankou.htm
↑参考にさせていただきました
又兵衛夫婦のものとされる墓の写真もありますよ
個人的に「旧友の加藤嘉明を頼って」という部分が気になります
又兵衛の主君と仲良かったから交流はあったと思いますが…
なんとなく相性悪そう
0897人間七七四年
2011/02/19(土) 23:05:44.83ID:o1BraLN+松前城から松山城に移していることだが
昔の居城近く、というならありか
0898人間七七四年
2011/02/20(日) 00:11:34.18ID:zIpvnBRWそこ伊予に旅行行った時行きましたわー。
そう遠くない同県伊予市の長泉寺にも後藤又兵衛の墓があって、
こっちは生存説ではなく、戦死した又兵衛の首を持って逃げた部下がここに葬ったという伝承が。
叔父の藤岡九兵衛(又兵衛幼少時代の保護者)が住職をしていた縁で、
大坂入城前に又兵衛が加藤嘉明との交誼を頼って、妻子を託したことが碑文に刻まれています。
程近い三谷に塙団右衛門の子説もある程仲の良かった雲居国師の生誕地があったり、
松前城跡には加藤家を出奔した団右衛門の事跡が看板に書かれたりしていて、
この大坂の両豪傑好きにはちょっとした穴場地域に感じました。
>>897
松山から松前もそう遠くないしね
松山築城の際に破却した松前城の建材を再利用した話もあるし
0899人間七七四年
2011/02/20(日) 00:42:58.78ID:ojBUX0H1「寿能の蛍」
昔、池の辺りで笛を吹いている娘がいた。やがて娘の周りには蛍が集まり、その中のとびきり大きい蛍が娘を池の底へと連れさった。
やがて娘が目を覚ますと目の前に美しい上品な女がいた。
「実は私、昔この地を治めていた潮田家の能と申します。寿能城が落城した際に私は待女と共にこの池に入水したのですが竜神様にこの夏の期間だけ蛍となり一族に祈りを捧げる事ができるのです。どうか我が一族を供養してください」
この姫の気持ちに心をうたれた娘は供養塔を建てたと言う。
0900人間七七四年
2011/02/20(日) 00:56:05.58ID:eG9/zR8H寿能城が落城したのって小田原征伐の時なのか
0901人間七七四年
2011/02/20(日) 01:47:05.20ID:qcMhgtEk武田信昌のころ、甲斐に加賀美武光という武士がいた。
加賀美家は武田を初めて名乗った信義の弟である遠光以来の家である。
小笠原や南部などの名門を生んだが、それらと異なり他国へ雄飛しなかったためか、南北朝の頃には既に衰微していた。
この武光、虐められっ子だったのか、あるとき馬に乗って道を行くと、国人大井某の郎党に犬をけしかけられた。
突然のことに馬は竿立ちになり、武光は落馬した。そこへ多数の犬が襲いかかる。
武光は応戦するが、落馬した時に怪我でもしたのか、抵抗虚しく噛み殺されてしまった。
後日その弟が訴えを起こしたが既に証拠はなく、また誰もが大井某を恐れて証言しなかった。
逆に「武光は盗みに入って犬に食われた」という噂がまととしやかに流れ、
「いぬ(く)いなる おとにきこへし かかみのたけみつ」と彼を囃し立てる歌まで流行った。
「乾の方向に住む加賀美武光は、名刀を持っているという噂だったけれど、実は鏡のような竹光だったのだろう、犬に食われてしまったよ」。
これに激怒した竹光の弟は弔い合戦を挑むが、大井他の連合軍に敗れて死に、領地も奪われてしまった。
しかし武光の子は信虎に仕え、大井、栗原などの仇を取って領地を回復し、代々の信濃守を名乗ったということである。
子孫は後に家康に仕え、武蔵に移されるも、旗本加賀美家として800石あたりで存続した。めでたしめでたし。
0902人間七七四年
2011/02/20(日) 01:50:01.88ID:qcMhgtEk×これに激怒した竹光の弟は
○これに激怒した武光の弟は
0903人間七七四年
2011/02/20(日) 05:58:02.23ID:I/FrWL2Z面で思い出した逸話
享禄3年(1530年)、大内勢が東肥前へ侵攻してきた。
迎え撃つは、少弐氏被官の龍造寺家兼公。
神埼郡田手畷にて、両軍は攻防。
さしもの家兼公も、大内の大群には苦戦する。
その時、面をかぶった「赤熊」姿の軍勢が、大内の横腹を突いた!
大内勢を打ち破るきっかけとなった赤熊勢の親玉は、鍋島清久公。
これ以後、龍造寺家と鍋島家の親しき関係が始まった。
そして、これをきっかけに、佐賀の伝統芸能「面浮立」が始まったとも言う。
0904人間七七四年
2011/02/20(日) 09:51:18.64ID:z2tHLap4http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3989.html
0905人間七七四年
2011/02/20(日) 12:04:08.42ID:Sb8t4MgA戦国時代の双子に関する逸話ってないのかね?
歳の近い兄弟の話は聞いたことあるけど
こと双子となるとその存在すら聞いたことが無いもんで
0906人間七七四年
2011/02/20(日) 12:07:00.18ID:1fl5kBdC0907人間七七四年
2011/02/20(日) 12:07:20.00ID:kGgISsUyこれってイジメ云々じゃなくて、普通に狙ってやった暗殺でねえの?
信昌のころの甲斐なんて、普通に世紀末だろ。
甲斐犬(かいけん)は日本固有種の中では最も凶暴で、オオカミの血が混じってる。
というか犬の血が混じったオオカミ。無茶苦茶獰猛だし、訓練すれば集団行動も出来る。
0910人間七七四年
2011/02/20(日) 13:55:45.75ID:f9vTY7Jn月曜夜八時の枠の「江戸を斬る」のTなんかがそうだったかな。
0912人間七七四年
2011/02/20(日) 16:05:30.51ID:3we+YkSQでは、代わってもう少し解説させてもらおうか。
甲斐犬はオオカミのハーフと一般に言われるが、ニホンオオカミよりはタイリクオオカミに近い。
甲斐犬と呼ばれるようになったのは割と最近で、それまでは甲斐虎と呼ばれていた。
文献上の初出は奈良時代、東北などに導入されてクマ狩りなどに使われていたという。
かつては山岳地帯でよく野犬が見られたそうだが、あまり群れでの行動はしないという。
甲斐の人間と違うのは、主人だけにはなつくことだろうか。
ただし家庭で飼っても主人は基本的に一人(夫婦の力関係によっては母親の場合もww)にのみしかなつかず、
その主人の命令ならば下位の人間の言うことも聞くが、とにかく非常に飼育が面倒だそうである。
戦後品種改良が進み、「一吠えされたので犬がいることは分かったが、次の瞬間には地面に引き倒されていた」
というような、典型的な甲斐犬の個体は少なくなっているという。が、筆者は散歩していた主従にやられたことがある。
0913人間七七四年
2011/02/20(日) 16:15:34.68ID:3we+YkSQオオカミとしての傾向
ものすごく敏捷、身軽、よじのぼる。
人を噛む。馴れない。訓練は無理。
遠吠えをする。ワンと吠えない。
イヌとしての傾向
尾を振る(食事の時)、人にも接する。
帰家性がある。
用途は、家庭犬・番犬・猟犬。臭い、毛抜けは気にならないので
室内でも飼える。用便をかねて散歩が必要。暑さ寒さにも強い。
性格は、一人の飼い主にしかなつかない忠犬。きつい面もある
ので他人や他犬とフレンドリーになるようなしつけが大切。
頭脳明晰で訓練はOK.。
野性味のある体型から想像できるように、いったん野に放せば
敏捷性に優れ、その跳ぶ姿は疾風のごとくで、この甲斐犬ほど
山野に似合う犬はいない。
確かに甲斐犬は二君に交えない武士道を地でいく忠犬だし、日本刀に例えられるほど頭脳明晰だ。
しかしながら甲斐犬には3kイメージ−きつい、怖い、咬みつくといったマイナーな面があるのも事実だ。
とくに猟場において他人を咬んだり、友猟犬とけんかするので、「友人を無くす犬種」だと言われている。
柴犬と比較して甲斐犬の飼育登録数が極端に少ないのは、この辺が原因かもしれない。
甲斐犬愛好家のみなさんが、あまりにも酔いしれて「この性格こそ甲斐犬の本質なり」、
「これでこそ甲斐犬なり」と申されても、あばたもえくぼでは世間には通用しないだろう。
0914人間七七四年
2011/02/20(日) 16:16:09.95ID:kHIbRhgP武田信玄は犬だったのか!!
0915人間七七四年
2011/02/20(日) 16:24:41.07ID:7MUt+Xv+0917人間七七四年
2011/02/20(日) 16:31:07.66ID:P9eXwdkGおお914よ 死んでしまうとは情けない…
0918人間七七四年
2011/02/20(日) 16:49:37.31ID:tTFXFs/9,::´::::::::::::::::::、::::`, 小
で {:::::::::::::r ''"__ _、::} 甲 痛 島
も ',:::::"::/ rqrq|/ 斐 っ
ち !,::、ゝ J.| 犬 : 弥
ょ j:,| -=,| に : 太
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と ,┴─`─='. ま ね
用 ,, -": : : : : : : 0 : : └-. 、 れ |
あ ,‐" : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ``i. た 全
る /: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :| け .然
し /: : : : :i : : : : : : : : : 0: : : : : : :|: :| ど 痛
越 /./: : : : :|: : : : : : : : : : : : : : : : | : | 痛 く
後 ,' /: : : : : :,: : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :|. く ね
帰 , i: : : : : : / : : : : : : : : : 0: : : : : : : :|: : :| ね え
る ; |: : : : : / : : : : : : : : : : : : : : : : : : | : : | え
わ ; | : : 三i : : : : : : : : : : : : : : : : : : : | : : | わ
', , : : : : ,: : : : : : : : : : : 0: : : : : : : :| : : |
|: : : : :ハ : : : : : : : : : : : : : : : : : : ', : : l
i : : : : : ,: : : : : : : : : : : : : : : : :/: 〉: :/
',: : : : : :, : : : : : : : : : 0: : : : : :/: } :/
ハ: : : _:_〉: : : : : : : : : : : : : : : :/ヾ
ィ ヽ,: : : : : : : : : : : : : /: : : l
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l i, i, iヲー──‐': : : : : : : : イ
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|ゞ、 zN |: : : : : : |
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-594.html
0919人間七七四年
2011/02/20(日) 16:55:54.22ID:FwNe6wyD0920人間七七四年
2011/02/20(日) 18:22:56.29ID:lM2a2qKkなにそのジャンプマンガ?
0921人間七七四年
2011/02/20(日) 19:20:49.32ID:64Nbr+Xbその影に軍用犬として甲斐犬が使われていた事は
あまり知られていない。
甲州流軍学によると武田軍の軍法とは、
まず甲州犬を敵陣に放ち敵を混乱させ、次に小山田勢による投石で
敵の足をとめ、最後に騎馬軍団による突撃で止めを刺すというものだった。
このように先鋒として活躍した甲州犬であるが、警護犬としても優秀で
第四次川中島の合戦で上杉謙信が単騎武田の本陣に斬り込んだ時、武田信玄
の傍らにいた信玄の愛犬「竹虎」が主人の命を救った事は有名である
民明書房刊『戦国時代のトップブリーダー』より
0922人間七七四年
2011/02/20(日) 19:41:03.64ID:9NLJ9Rqt0923人間七七四年
2011/02/20(日) 20:26:52.45ID:Nolio+8m馬鹿に見えるけど実際軍用犬に使われたくらいで頭だっていいんだぜ。
まあ知力体力ともに傑出するも、気性の問題で採用されなかったんだけどな。
http://www.geocities.jp/atommirai/aso/fuji.html
人だろうと犬だろうとやたら周りに噛み付く(しかも離さない)のは、
ご主人様だーいすきなヤンデレメイドみたいなもんで。
本当はいい子なんだぜ。うん、性根は悪い子じゃないんです。山梨県民と違って。
さて犬の話題はこれくらいにしておこうか。
0925人間七七四年
2011/02/20(日) 22:05:09.72ID:hcoJILWV不思議に思いこれを占ってもらったところ、「大変な吉夢だ!」と言う。
その理由はこうだ
「『是』と言う文字を分解すると『日の下の人』となります。これを握るというのは
日の下の人をすべ掌握するということ、すなわち天下を握るということです。
松平の家より必ず、天下を握る人が出てくることでしょう!」
清康はこれに大いに喜んだ。後、彼の孫である徳川家康が天下人となること、
誰もが知るところである。
清康の見た「是」の夢、と言うお話。
0926人間七七四年
2011/02/20(日) 22:05:47.61ID:DnFIAaCI既にそのジャンルは開拓済みです
http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/50378957.html
0930人間七七四年
2011/02/21(月) 01:18:19.80ID:w0xBGyAf武田信玄・・・敵に回したらこれほど恐ろしい男はおるまい。
0931人間七七四年
2011/02/21(月) 01:30:06.05ID:8YxABTNe>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4068.html
の逸話で知られるように、北条家において「大道寺の九つ提灯」と言ったら武勇の
誉れ、名誉の象徴となる旗指物であった。
それにあやかって、北条家中では提灯を旗指物にする者も多かったのだという。
松田康郷の与力であった山下民部左衛門もその当時、やはり「九つ提灯」にあやか
って「六つ提灯」を旗指物としていた。
しかし天正十三年、北条氏政が皆川氏征伐の為に下野国に出征した際の話である。
同じく北条家中の三好孫太郎が、民部左衛門の旗指物を眼にして声を掛ける。
「アンタが指してる六つ提灯、これには何か謂れがあるのかい?例えば親から継い
だとか……」
「いえ、その様な事はありません。私の好みであり、勇者たらんという決意の現れ
です」
「そうか。だがな、提灯の指物はそんな軽い物じゃねえんだ。俺が初めて手柄を上
げたのは天文の頃だが、それ以来、氏康公に直接声を掛けて褒めていただけるよう
な手柄を七度上げた。そのたびに提灯を一つずつ増やして行き、今はホレ、この通
りだ」
孫太郎が自らの背中を示すと、そこには「七つ提灯」の旗指物があった。
「まぁ、それは俺の勝手な思い入れさ。大した武功もねぇ内から六つの提灯を背負
うなんざ、普通は気後れしちまうもんだが、それを平然としてるのは肝が太い、理
想が高いと褒めるべきかもな」
「…………」
民部左衛門は数日後の戦場にて、大石八郎という大力の侍を討ち取った際、八郎の
首を取るや否や、自らの旗指物から提灯を五つ引きちぎると、「一つ提灯」を背負
って自陣へと帰還したのだという。
0932人間七七四年
2011/02/21(月) 01:35:44.67ID:IxFnV1Fh0933人間七七四年
2011/02/21(月) 01:41:57.00ID:8m2BbT/E小田原提灯【オダワラヂョウチン】
おだわら‐ぢょうちん 〔をだはらヂヤウチン〕 【小田原▽提▽灯】
円筒形で、不用のときは畳んで袂(たもと)または懐中に入れて携帯のできる提灯。
天文年間(1532〜1555)小田原の甚左衛門の創製という。懐(ふところ)提灯。
http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%8F%90%E7%81%AF
天文年間だから氏綱末期、氏康初期くらいだな
0934人間七七四年
2011/02/21(月) 16:31:42.08ID:7uzgP5wZこんなに早くレスポンスがあるとは予想外、ありがとう!
秀康の双子だったかも、か
永見貞愛が長生きしてたらどうなってたんだろ?
とにかく興味深い話も聞けたしサンクス!
0935人間七七四年
2011/02/21(月) 22:27:09.76ID:M8Izn4y+桃太郎侍と松平備前守も双子だからな。
0936人間七七四年
2011/02/21(月) 23:40:08.30ID:hTDmhYiJちなみにネーミングの由来は謙信だったりする。
朝倉・長尾・松平もいたな・・・・・・
0937人間七七四年
2011/02/22(火) 00:29:16.34ID:09Bhuv3vちなみにみどり牧場の関係者はみんな武田だったりする。
本多・服部・滝川・毛利もいたな・・・・・・
0938人間七七四年
2011/02/22(火) 00:35:08.30ID:V6SQDpBL0939人間七七四年
2011/02/22(火) 00:37:53.15ID:rKRc8A0I0940人間七七四年
2011/02/22(火) 00:38:59.72ID:3V9agx/b0941人間七七四年
2011/02/22(火) 01:17:13.00ID:DLDxfB7c残念ながら既出かも。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-767.html
0942人間七七四年
2011/02/22(火) 03:19:49.16ID:KdGcoVKGををぅ……なんたることか。
まとめサイトに反映されないから、どうしたのかと思っていたんですが。
くそぉ、これで三度目だぜ。
毎回、確認はしているつもりなんだけどなぁ。
御眼汚しどころか、ホントにゴミになってしまって申し訳ない。いや、マジで。
0945人間七七四年
2011/02/22(火) 13:07:02.93ID:42FAuTqy二人の逸話がごっちゃになって後世に真田幸村の逸話として残ったに違いない
0947人間七七四年
2011/02/22(火) 18:16:01.62ID:519b1JRZ0948人間七七四年
2011/02/22(火) 18:58:19.73ID:lZBNHHnrそして曽根内匠と武藤喜兵衛のことである。
いずれも次代の武田家を担うと見込まれた男たちであり、特に内匠と喜兵衛は今川領侵攻戦において
物見・先鋒として衆目を驚かす活躍を見せ、信玄に「内匠と喜兵衛は、わが両の眼」とまで言わしめた。
将来を期待された六人だったが、その後それぞれ劇的な人生を歩んだ。
甘利左衛門は、要衝・上野箕輪城を任され出世頭となったが、落馬事故がもとで早くに世を去った。
土屋右衛門と三枝勘解由は、長篠の露と消えた。
長坂源五郎は、義信事件に連座して死んだとも、父・釣閑斎とともに勝頼の馬前で果てたともいう。
残る二人、駿河興国寺城を守っていた曽根内匠は、武田崩れの際に徳川家康の軍門に下り、
兄たちを長篠で失った武藤喜兵衛は、真田安房守昌幸と名乗り、実家の名跡を継いだ。
天正13年(1585)8月、押し寄せる徳川軍を上田城で迎え撃った昌幸は、辛くもこれを撃退した。
徳川軍には武田旧臣も多く参加しており、昌幸が去って行くその背中を櫓上から見つめていると、嫡男・信幸が
報告にやって来た。日ごろ冷静沈着な信幸も、思わぬ大勝に興奮しながら語った。
「いや〜しかし、何とか勝ちましたな!それにしても、武田の旧臣どもの腰の抜けた様ときたら。
『信玄の両眼』などと言われし曽根内匠も、今日は槍を引きずって逃げて行きましたぞ!」
「たわけ。
わしから見れば、内匠の逃げっぷりは、お前たちの追撃の仕方よりも上手であったわい。
(内匠が逃ふりハ、おぬしらが追よりハ増して見えし。)
立場が逆なら、お前たちなんぞとっくに内匠に討たれておるわ。」
昌幸の言葉により熟練の士としての評判を保った内匠は、のちに蒲生氏郷の懇請により蒲生家に仕え、
会津若松城の縄張り等にも参画し、奥州にもその名を轟かせたという、比興者の友情?の話。
0949人間七七四年
2011/02/22(火) 20:13:37.16ID:DAvt/LVK三枝勘解由、曽根内匠、武藤喜兵衛の三人が共に城門に詰め寄り
一番槍は三枝勘解由だったが二番槍は曽根内匠と武藤喜兵衛だったそうな。
0950人間七七四年
2011/02/22(火) 21:27:09.39ID:WqW1caRX武田で近習と言えばやっぱりそういう関係があったのかなと思ってしまう
0951人間七七四年
2011/02/22(火) 22:25:19.19ID:vtrdKpLz0952人間七七四年
2011/02/22(火) 22:36:07.66ID:8ygyoD2d,r' `' 、
/ ヽ
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0953人間七七四年
2011/02/22(火) 22:36:50.30ID:lUl7ZWDf0954人間七七四年
2011/02/22(火) 22:40:58.04ID:0oPze45R0955人間七七四年
2011/02/23(水) 00:00:51.81ID:pGVFFn9O0956人間七七四年
2011/02/23(水) 01:23:22.26ID:d687VlU/0959人間七七四年
2011/02/23(水) 19:25:12.44ID:Wn8666Dd0960人間七七四年
2011/02/23(水) 19:55:58.84ID:sHX13SSe0961人間七七四年
2011/02/23(水) 22:14:49.01ID:j2+rYow30963人間七七四年
2011/02/24(木) 00:07:20.10ID:nrv3cI8P0964人間七七四年
2011/02/24(木) 00:07:27.54ID:LjbneSLB飼い主(甲斐主)には大人しくしとこうってことだよ。言わせんな、恥ずかしい。
0966人間七七四年
2011/02/24(木) 00:47:48.95ID:1DCjvkL+0967人間七七四年
2011/02/24(木) 10:30:12.95ID:+btdGJvw「身上之義〜まーくん、息子の就職を心配して口利きをしてもらう」
高知市の旧家で、伊達政宗から、徳川家家臣本多正純に宛てた長男秀宗の、今でいうところの就職斡旋依頼書(口利き依頼書?)みたいな書状が見つかったそうな。宇和島藩の成立と政宗の冬の陣参戦にも関係している書状らしく、
時代は大坂冬の陣の頃(慶長19年)1614年の11月10日付けで、徳川家康が大坂冬の陣に向かうため二条城に居たときに書かれた書状らしい。
内容としては、「うちの息子(秀宗)が秀吉の傍にいた経緯もあった上に、側室の子なので役職に就けなかったから、本多さん、両御所(家康と秀忠)様にお願いして何とかしてください。返す返すお願いします」
と念を押した内容だそうな。
徳川幕府の公式記録「徳川実紀」に書かれたものによると、この日に二条城で家康と会って翌日の軍議にも参加。この時に本多正純に根回ししたものと言われており、それから伊達親子は冬の陣に参加し、その功績から秀宗は宇和島藩を貰うことになる。
どの時代も自分の子供の就職を心配する親はいるもんなんですねぇ・・・。
0968人間七七四年
2011/02/24(木) 12:31:34.06ID:piSKvOMi0969人間七七四年
2011/02/24(木) 21:12:22.89ID:LjbneSLB座布団より>>962のわんわんおの画像をいただければ頭をひねった甲斐が(ry
あ、森さま、直家公より握り飯を頂戴しておりますがおひとついかがでしょうかw
0970人間七七四年
2011/02/25(金) 01:14:41.59ID:qCs374Pj栄えた当主の務め的なところもあるんだろう
0971人間七七四年
2011/02/25(金) 04:04:33.53ID:RIOyyr4j秀宗が家継いだらどうなったかな
たいして変わらんか
0972人間七七四年
2011/02/25(金) 06:02:41.15ID:U252Cr3w>どの時代も自分の子供の就職を心配する親はいるもんなんですねぇ・・・。
そこまでやったのにその息子は後に和霊騒動起こして政宗公を激怒させると・・・・・・。
親の心子知らずとはよく言った話ですわな。
0973人間七七四年
2011/02/25(金) 06:36:47.29ID:TDAkbb7u和霊騒動後に率直に話し合って和解もしたわけだし。
殺された山家公頼一族はお気の毒様だけどね!
忠宗は輝宗的な優等生だな。政宗が頭の上がらない男とはそういうタイプ
のようであり、あるいは故父を意識して教育したのかも知れない。
0974人間七七四年
2011/02/25(金) 06:37:50.30ID:BPp6Ojweまだ子犬だったが、そんなに猛々しい犬だったのか。
やけにおどおどしていて、全然強そうに見えなかったな。
0975人間七七四年
2011/02/25(金) 13:48:54.48ID:uKX1E9Oe最近は日本犬でも大人しさを優先して繁殖させてるから
むかしは凶暴だった犬種でもだいぶ飼いやすくなったよ。
0976人間七七四年
2011/02/25(金) 18:04:09.52ID:Ln8LUYq60977人間七七四年
2011/02/25(金) 21:04:55.14ID:RIId7T2o海に出た。いきなり漂流映画始まった。救命艇の上での密室劇。やばい。渋い。ポセイドンアドベンチャー的な
ハッチ開始5分で二回キチガイって言った。ていうか全部で5回くらい言った。
ハッチ漂流船での食人展開来た。さすが虫けら、倫理のカケラもないな。最高だ。狂ってるな。
地震で自分の卵を亡くして気が狂ったカメムシの母親が拾ってきたさなぎを赤ん坊と間違えてキチガイ可愛がりをしてる。
クロアリのオジサンがその蛹を食おうとしている。カメムシをかばうハッチ。
ハッチを殴ってカメムシをキチガイと呼ぶ大人。もうだめだ。
てんとう虫の子供兄妹が漂流船でジャンケン遊び。ハッチが仲間入りしようとしたら妹が
「私たちは共食いをするの。じゃんけんで負けた方が食べられるのよ。問題ないでしょ」と明るく答えた。
なにこの地獄アニメ。バトルロワイヤルよりヒでえ。
兄妹が仲良くて幸せだった頃の回想シーンやめろ。なぜ虫が人の言葉を使うんだ。
本能で動いてる虫のくせに悩むから、余計きつい。ハッチが空腹で幻覚見てる。
恵みの雨がきたら、嵐はじまた。地獄だ。
食べないでとっておいた蛹から蝶が生まれた。即座に飛んでどっか行った。
爺虫「エンマ虫さん私の死骸をあげますから、子供たちを食べないでください」→爺死。
エンマ虫「蝶が生まれるのを見たらなんか、爺を食う気にならねえ」
蟻「俺も食べたかった蛹から蝶が生まれた時、ちょっと良かったって思った」
→全員疲労状態マックスで殺し合いすらできない餓死寸前。
助けた紋白蝶が渡りの仲間の大群を連れてきて漂流船を運んでくれた。デウスエクスマキナか。
いや、伏線やってたか。辛うじて救いかな
昆虫物語 みなしごハッチ 60話実況 漂流共食地獄 - 【逆襲の】玖足手帖【シャア】
ttp://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20110209/1297244828
0978人間七七四年
2011/02/25(金) 21:17:38.11ID:MqUlyjYr親父よりはお袋さんに似たのかな >忠宗
あれだけ自由な父親じゃ色々困らされただろうに
ケンカしたり嫌ってたりした形跡を見たことがない
0979人間七七四年
2011/02/25(金) 21:54:27.56ID:25roWutc0980人間七七四年
2011/02/25(金) 23:58:16.70ID:CDs81fSk山本常朝
「敵に首を打ち落とされても、そこからさらに一働きは出来るものだぞ。
新田義貞の最期(矢が眉間にあたり、自ら首を切り深泥に隠して後死す)がその証拠だ。
心が不甲斐ないから、一矢報いぬままだというのに倒れてしまうんだ。
最近では大野道賢の目覚ましい働き(大阪夏の陣後、堺の町を焼いた罪により火あぶりにされたが、
火あぶりにかけられながらも身じろぎせず、
焼死したところを確認する検使が火の始末を始めたところ、
焼死体に見えた道賢が飛び掛かり脇差を抜き取り、
一突きに殺した途端、たちまち灰になって崩れ倒れた。)を見るがいい。
これは、何かしてやろうと一筋に思いこんだ結果であろう。
武勇のためには、怨霊にも悪鬼にもなってやるぞ!と、
人並みはずれたふてぶてしさを心に持てば、
首が落ちても死ぬはずはない!!
0981人間七七四年
2011/02/25(金) 23:59:59.53ID:UXi8VYEaこれはいい話なのか?
0982人間七七四年
2011/02/26(土) 00:00:51.16ID:WrN7CRq/大野道犬斎治胤の執念
新田義貞の話は無いが、既出っぽい
0983人間七七四年
2011/02/26(土) 00:08:46.22ID:Sq51FbAXたしかに微妙ですが、心意気の面でw
>>982
鍋島武士から見た大野道賢。関連した逸話ということでお許しください
0984人間七七四年
2011/02/26(土) 00:30:25.41ID:y+WGegrb0985人間七七四年
2011/02/26(土) 00:32:39.96ID:y+WGegrb↓スレタイ
戦国ちょっといい話25
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0986人間七七四年
2011/02/26(土) 00:48:40.82ID:H+4rDOmphttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298648878/
0987人間七七四年
2011/02/26(土) 00:58:22.92ID:VFaIDwm8乙、弾正殿へのお目通りさし許す。
0988人間七七四年
2011/02/26(土) 01:30:10.33ID:hTC/UEnk0989人間七七四年
2011/02/26(土) 15:58:43.13ID:6iC3lGD7____i ̄i___ /ヽ /ヽ /\
| _______ | i--ヽ ┴ 亠 イ--i
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_,二二二二二,____ | ======= |
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「二ノ L_」 .| └-┘ |
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0991人間七七四年
2011/02/26(土) 17:21:36.37ID:AHgVqInv乙也
0992人間七七四年
2011/02/26(土) 20:16:59.70ID:Sq51FbAX誰か忘れたけど有名な学者かなんかが、
大野道賢の最期のようなことは現実にありえると思うみたいなこと書いてた
0993人間七七四年
2011/02/26(土) 20:19:06.41ID:PZ1P8vyc0994人間七七四年
2011/02/26(土) 21:47:18.39ID:Sq51FbAXごめん、詳しくは覚えてない。
ただ、山本常朝の父、重澄が大阪の陣参戦してるし、
大野道賢の話は本当にあった話だから広まったのだとオレは思ってる
0995人間七七四年
2011/02/27(日) 00:25:35.62ID:8YdkF8qV焼死については知らないなあ
0996人間七七四年
2011/02/27(日) 02:48:56.88ID:pPZu9nXL戦時中に爆撃跡の死体処理作業した人に聞いて見るといい
トラウマになるから読まない事をお勧めするが↓
最初は死体を丁寧に集めて埋めるんだが
その内疲労困憊して感覚が麻痺して
面倒くさくなって棒鈎でぶっ刺して引きずって集める方法になる
実際、五体満足で人の形をした焼死体なんか無い状況だから仕方ない
しかし黒炭に見える死体に鈎をぶっ刺した途端に「ギャア!」って断末魔が…
それも20体に1人くらいの確率で生きてる
頭と胴体しか残って無いような黒炭ですら断末魔を上げる
医学的にどんな状況なのかは知らないが
戦時中の焼死体処理の話
0997人間七七四年
2011/02/27(日) 02:55:07.21ID:hcSxiMrn>>990
よし判った! そんなキミに、『葉隠』からこの逸話を贈ろう!!
佐賀藩の侍に道白と五郎兵衛という父子がいた。
息子の五郎兵衛はある日、以前から仲の悪かった岩村久内という男と喧嘩を起こし
てしまう。
この喧嘩によって面目を潰された久内は、兄・源右衛門と供に五郎兵衛の家に仕返
しに行った。
しかし、五郎兵衛の方でも、この襲撃は予想していたのである。
互いに十分に準備を整えた上での大喧嘩。たちまちの内に五郎兵衛の家は乱戦の場
と化した。
久内の兄・源右衛門、そして道白の婿(五郎兵衛の義兄弟)である勝右衛門がそれ
ぞれ重傷を負い、戦闘不能。
久内自身も道白と彼の女房によって取り押さえられてしまう。
双方に被害は出たものの、これで終わり。誰もがそう思った。
「……ここまでやれば、武士の意地を通した事になるでしょう。兄を連れて帰り、
心静かに切腹の準備をしたい。離してはいただけないでしょうか?」
神妙に口を開いた久内の言葉に道白も納得したのか、取り押さえていた手を離し、
刀を返してやった……が、その途端!
久内は抜き打ちに道白に斬りかかり、背中に一箇所、更に首を切り落としてしまっ
た。
道白は首の骨まで切断され、のどの皮だけがつながり、首はだらりと前に垂れ下が
る様な状態であった。
道白は自分の手で首を元の位置に据え直し、医者に行ったのだという。
顎に薬を付け、縄をつけて梁から吊り、傷口を縫った。
傷口がずれないよう、全身を米の中に埋めて療治した結果、この怪我は完全に回復
したのであった。
ちなみに久内は、道白を斬った後、更に五郎兵衛にも重傷を負わせ、源右衛門を背
負って逃走。
しかし重傷を負った源右衛門、そして五郎兵衛も、この時の傷によって死んでしま
ったのだという。
……うん、人間じゃないね、道白。
0998人間七七四年
2011/02/27(日) 02:57:54.59ID:ZFtXCcQe10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
'、 `'ー‐''" / lzュ、__
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