戦国ちょっと悪い話24
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0794人間七七四年
2011/02/13(日) 13:23:34ID:GOTpJhPV1522年、主家赤松氏を凌ぎ備前・美作・播磨ら3カ国を牛耳る浦上村宗と淡路に追われて浪人となっていた浦上村国・小寺藤兵衛の間で戦争が起こった。
浦上村国が別所・在田・龍野赤松氏を引きこむなど暗躍し、村宗と戦えるだけの兵力をかき集めたのである。
開戦直後は村国方も奮戦するが名将、宇喜多能家などを擁する村宗軍団は強く徐々に敗色が濃厚な情勢となってきていた。
しかしここで両軍を揺るがす知らせが舞い込む・・・内戦に漬け込んで但馬の山名誠豊が備前に攻め込むというのである。
ここで村国はすかさず村宗に接触を図る。
村国「そもそも同姓の誼に背いてまで今貴殿と対峙しているのも、全て赤松家再興のためであって、決して私怨によるものではない。いまもし兄弟垣に争って山名に国を奪われてしまっては、
あとで臍を噛んで後悔しても間に合わない。ついではここで和睦し、幼君政祐(のちの晴政)を立て、一緒になって山名の軍勢に当たり、これを撃退しようではないか!」
村国は方針を転じ、村宗の専横を赤松の家臣として憎んでいる訳でこの戦は私闘ではないことを饒舌に語り、和議を説いた。
自分から戦を仕掛けてきておいて厚かましい事この上ない申し出だが、かつて浦上家には苦い経験があった。
1480年代に山名との間で起こった福岡合戦の際に家中の分裂に浸け込まれ、実際に領国から追われてしまった経験がある。
村宗は渋々ながら村国との間に和議を交わし、対山名の為に共同戦線を張る提案を受け入れた。
そして山名家と赤松・浦上連合との戦に移行するのだが驚愕したのは山名軍である。
非常に短期間の間に内戦がすっかり収まっていて迎撃体制が整えられていたのだから・・・
結果として備後からまで兵をかき集めてまで侵攻を画策した山名軍は翌1523年まで居座るも敗れ、但馬へと逃げ帰った。
この一件で一番得をしたのは不覚にもガチガチの反村宗派である村国の復権を許した村宗でも無く、意気込んで侵攻した割にはまるで得るものがなかった山名でも無く
劣勢だったはずの浦上村国であったという話。
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