徐礼元という人物がいる。

礼元は朝鮮役開戦時朝鮮南東部金海の府使(地方長官)であったが
金海は黒田勢の攻撃によってわずか1日で陥落してしまった。
徐礼元は城を棄てて逃亡し、生き残った。

礼元が再び日本軍と戦うこととなったのは1593年6月の晋州城であった。
前年の晋州城攻防戦で朝鮮軍を勝利に導いた「もくそ官」金時敏の後任者として晋州城に入った礼元は
半島南部支配の既成事実化を目指す日本軍9万と相対することとなった。

当時晋州城の状況は最悪だった。
明軍は講和を探るために積極的な攻撃を控える方針へと転換しており、傍観を続けた。
朝鮮軍は晋州城を棄てるか否かを議論したうえで主力は撤退、一部の義兵が入城するに止まった。
晋州城は敵中に全く孤立した状態だったのである。

攻防戦の最中礼元は日本軍を恐れるあまり心神喪失状態であったという。
防戦の指揮を執れば城壁への日本軍の工作を見逃し、巡城将となれば笠を脱いだまま泣きながら巡回を行って士気を落とす。
怯える城主の下では組織的な防御ができる筈もなく
城中の将はそれを補うべく最前線で戦い、次々と戦死していった。

そしてかの加藤清正の「亀甲車」によって城壁は崩され、多数の日本軍が突入してきたとき礼元はどうしたか?
礼元は再び金海を繰り返した。真っ先に逃げたのである。
城主の逃亡によってついに朝鮮軍は崩れ、晋州城は陥落した。

礼元は川に飛び込んで逃げた後、藪の中に潜んでいたところを見つかり、首を刎ねられた。
その首は塩漬けにされて京に送られ、「もくそ官」金時敏の首として晒された。