戦国ちょっと悪い話24
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0001人間七七四年
2010/12/11(土) 09:21:33ID:oSVIUoMx戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0427人間七七四年
2011/01/17(月) 00:53:26ID:gWIIiGjx洞中社会というのはそういうものだからな。
逆に言えばそういう社会の中で近隣をガンガン潰し回った政宗がどれだけ
異常な存在だったかと言うこともw
0428人間七七四年
2011/01/17(月) 01:00:32ID:c+m7gPcR0429人間七七四年
2011/01/17(月) 09:20:36ID:UGRJdrcA0430人間七七四年
2011/01/17(月) 09:24:32ID:DEOvGZBc策謀上手いの揃ってる一族も抱えてるが…むしろ抱えられてるのか?
0431人間七七四年
2011/01/17(月) 21:34:53ID:+uZPg+Gn「あの時滅ぼしておけば良かった」と
0432人間七七四年
2011/01/18(火) 00:54:44ID:lClk80Z4文禄4年(1595)の秀次事件。この処分に一応の決着が見られると、豊臣秀吉は近習たちに
こんな事を言い出した
「秀次がいなくなった以上、この上は大納言(前田利家)が秀頼の御守りであり、わしに何かあれば
秀頼のことは彼に頼らねばならぬ。そこで、秀次の領地であった美濃、尾張、伊勢を、大納言に
任せようと考えている!」
この言葉に驚いたのは秀吉の奉行、石田三成と増田長盛である。彼らはこのころ、前田利家とは関係が
非常に悪かった。そのためこの土頭ども(罵倒の言葉であろう。『頭に土が詰まっている連中』とでもいう意味か?)
が言うには(此土頭共申上候は)
「御意、誠にごもっともだと思います。
ですが、大納言殿は現在の武将の中でも無双の武辺者であり、なおかつ、しばしば腹を立てられる人でも
あります。
万一、大納言殿が上様に対しなにか気に入らないことがあった場合、その様な要地を手にしていれば、
その日のうちにも謀反をすることでしょう。
時に秀次様の伏見の御屋形は現在、番人を置いてそのままにしてあります。
大納言殿にはこの御屋形と、越中新川郡をご加増することで、上様のお気持ちは充分に伝わると思います。」
そう言われて秀吉も考えを変え、石田、増田の二人が言う通りにした。
さて、屋形拝領と加増のことを使者が伝えると、前田利家は忝くこれを受け、早速秀次の旧伏見屋形へと入った。
前田家の者たち、内部を見て大いに驚いた、座敷からトイレにいたるまで、黄金でで覆いつくされているのだ。
これに利家は
「この屋形の様子を見るに、さても関白(秀次)殿には、大それた望みなど無かったと思われる。謀反などというのは
どうやら嘘偽りであったのだろう。
わしらは子孫までも望みを持つ。このような座敷は必要ない!」
と、豪華な黄金の間を取り壊させた。これはすなわち、利家は天下に望みを持っているということであり、
石田、増田の警戒は正しかったんじゃないか?とも思うが、ともかくそんな事をしていると、秀吉が大国を
利家に与えようとしたのを石田、増田が邪魔をした、という情報が入り前田家中大いに怒る。
これにより利家と石田三成、増田長盛との関係は一層冷却化した。
そして利家と奉行の関係悪化は、この後またややこしい事態を起こすのだが、その話はまた後日。
前田利家、美濃尾張伊勢所有を妨害される、と言うお話。
0433人間七七四年
2011/01/18(火) 01:48:25ID:jM64WJZiという論法ですね。
うん、それは正しい。でもさ、使うべき所には使わなきゃ、天下なんて取れないんだよ、
又左さん。(^^;
0434人間七七四年
2011/01/18(火) 06:20:18ID:ka5sZIIR石田とかが借金の口利きして、金貸しからリベート受け取ったせいで金借りた奴から恨まれたのを考えるとスマートな人心掌握だと思う。
0435人間七七四年
2011/01/18(火) 18:34:14ID:3bu63EbZ天下を取りたかっただけだよ。勘違いしないでよね。」
0436人間七七四年
2011/01/18(火) 18:56:57ID:BIGOX6KN0437人間七七四年
2011/01/18(火) 23:45:10ID:3bCKS5bK島津の退き口のわけ
島津の勇名を天下に知らしめた、関ヶ原の「島津の退き口」
敵中を“前に向かって退いて”関ヶ原を縦断し、伊勢街道に抜けたわけだが、
このルートを選んだのは以下の理由からだと言われている。
第一に、戦局に寄与せずただ撤退するのは、島津家の面目が許さなかったこと。
第二に、天満山を背に布陣していた島津軍が北(北国街道)や西(中山道)に
向かおうとすると山を登らねばならず、このとき65歳でかなり肥満していた
島津義弘が、山登りを面倒くさがったこと。
0438人間七七四年
2011/01/19(水) 00:58:11ID:Noof9hdA事実上殿になって撤退どころではなく手薄な伊勢街道に抜けるのが敵の意表もついて
最も合理的だったと考えている
0439人間七七四年
2011/01/19(水) 01:04:50ID:KXjjqLfZ0440人間七七四年
2011/01/19(水) 01:06:14ID:OzGs+Brm0441人間七七四年
2011/01/19(水) 01:11:23ID:/Cs2bbU3結果的に中央突破っぽくなった、と思ってる。
0443人間七七四年
2011/01/19(水) 02:08:42ID:yX8hlm7U0444人間七七四年
2011/01/19(水) 02:12:21ID:QH2gKQ2y1万人で家康の首取れたと思う
0446人間七七四年
2011/01/19(水) 03:18:47ID:eotCypAfそこまで都合のいい思考をできる444に乾杯
0447人間七七四年
2011/01/19(水) 03:28:43ID:lc3Vo/pG確か燃え萌え戦国武将対決!鍋島直茂VS島津家久って番組で言ってた
0448人間七七四年
2011/01/19(水) 03:48:11ID:bxu/GW0W1万もいたら、黒田なり福島なりと正面衝突してるよ
0449人間七七四年
2011/01/19(水) 05:00:33ID:2LZG+p4J0450人間七七四年
2011/01/19(水) 06:52:17ID:/j0WTPoFやっぱり太ってて居たのもさることながら、雑兵の負担を考えて山登りルートを避けたのもあると思いたいなあ
0451人間七七四年
2011/01/19(水) 12:26:31ID:N4EeK6Fi0452人間七七四年
2011/01/19(水) 18:57:15ID:aaeKndE50453人間七七四年
2011/01/19(水) 19:00:38ID:nhzlIoLaつーかいわゆる「関ヶ原退き陣」で島津はたしかに家康本陣と遭遇したが、
堂々と突破したとかではなく、東軍のふりをしてコソコソ通り過ぎただけだぞ。
そもそも島津の記録にそう書いてある。
0454人間七七四年
2011/01/19(水) 19:40:06ID:M81Z+1fLだって小牧長久手から16年もブランクあるし……
島津なんてつい2年前まで朝鮮でドツキ合ってたんだし仕方ないよ(´・ω・`)
0456人間七七四年
2011/01/19(水) 21:17:57ID:ZyeoQhJlそれって中馬だろw
前そんな逸話がここに投稿されてた
中馬を「ちゅうま」だとばっか思ってたのは良い思い出
0458人間七七四年
2011/01/19(水) 22:09:12ID:BfJ3UjlG北原掃部なる若者が居た。
彼もご多分に漏れず「維新さぁが難儀しやっど」を合言葉に故郷鹿児島から駆けつけた者であり、
さらにご多聞にもれず義弘を戦場から逃すために奮戦した者でもあった。
激戦の末傷ついて人事負傷となり残念にも敵に捕えられ、彼はとうとう首をはねられることになった。
人事を尽くして天命を待つ。もう粉っては泰然自若として死に臨む他ない。
覚悟を決めた掃部は敵兵にしばし猶予を乞い、戦場に持参してきた腰の天吹(尺八)一管をやおら取り出し
この世の最後の別れとして「鶴の巣篭もり」の一曲を静かに吹き鳴らした。
日が傾きかけた血生臭い戦野、嘆くが如く啼くが如く響く妙音に死を前に聊かも動じぬ神色自若たる態度。
敵兵もこの若い武士の風流と覚悟に感嘆置く能わず「勝敗は決した。首を刎ねる事もあるまい」ついに許して助命する事となった。
だが掃部は「既に天吹のための猶予を頂いたれば」これ以上の情けは無用と武士の面目を守り自決してしまった。
彼の天吹は薩摩の一族の元に届けられ「助命器」と銘打たれてその後も大切に保管されたという。
このことを聞いた義弘は掃部の遺族を手厚く保護し、家名の絶えぬように取り計らったという。
北原の家名は江戸時代以降も続き、明治には鹿児島公園の西郷隆盛像を手がけた安藤照氏を輩出することになる。
せっかく助命されたのに「武士の面目」ということで自害して果ててしまうのは
果たしていい話なのか悪い話なのか・・・判断が分かれるかもしれませんが。
0459人間七七四年
2011/01/19(水) 22:17:19ID:6h+fJKOFそこで最初の覚悟の通り命を絶ったから綺麗な話になるんだろうな
助かったら「芸は身を助ける」みたいな話になっちゃうし
まあ現代の価値観ではああだこうだ言われる類の話ではあるよね
0460人間七七四年
2011/01/19(水) 22:26:00ID:z7/GEfG1今、大河ドラマ『利家とまつ』レンタルして見てるんだけど、
ドラマでの利家の小物ぶりは、まつ様ageのためだと思ってたんだが、
このスレの逸話見てると、ある意味では史実に忠実だったんだろうかw
>>410
『センゴク』での秀久しか知らないけど、
やっぱり、政治能力とか指揮官としての能力はダメダメだったんだな・・・
0462人間七七四年
2011/01/19(水) 22:35:18ID:ZyeoQhJlそれは陣を下げた、いや、下げてないってことじゃなかったか?
旗が立ってた、立ってなかったうんぬんだったかもしれないが
とにかく彦左衛門が言いたかったのは「最近ワシら老臣に冷たくない?」ってことだろ
0464人間七七四年
2011/01/19(水) 22:37:00ID:Noof9hdA宗滴の言うような犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本という価値観と
武士の美徳・美意識はどこで線引きされていたんだろう
織田軍団は利益の意識が強かったが信長の強烈な美意識である程度バランスがとれてたが
信長死後秀吉になって旧織田系は完全にバランスが崩れてしまったようにも見える
0465人間七七四年
2011/01/19(水) 22:42:08ID:4fFGBnrq夕日に染まる戦場に、ふと流れ出す尺八の音色。
敗残兵を小突き回していた足軽も手を止め、音のするほうに目を向ける。
その一角だけ喧騒が静まり、嘆くが如く啼くが如く響きわたる尺八の音。
勝手な想像だけど、泣ける光景だね……。
0466人間七七四年
2011/01/19(水) 22:50:54ID:t9gLdotq自らの死刑が執行される寸前に見事な縦笛演奏で遺族の心を打ち、死を免れた少年(イラン)
執行官が少年に聞いた。「あの世に行く前に最後の願いがあるなら、言ってみるがよい」
ペイマンド少年は、死ぬ前にネイを演奏したいと答えた。執行官は頷き、少年にネイが渡された。
少年は、心をこめてネイを奏でた。
深い哀愁を帯びた音色と旋律。今まさに命を絶たれようとしている少年のその演奏は、その場にいた全員の
琴線に触れた。被害者の遺族も、その例外ではなかった。
イランの法律では、被害者の遺族に対し、死刑執行の直前に懲罰願いを撤回するオプションが用意されている。
しかし、アムネスティ・インターナショナルによると、これまでにそのオプションが行使されたことは“きわめて稀か、
あるいはほとんど前例がない”という。
少年が殺めた男性の遺族は、心底憎きはずの少年の見事な演奏に心を打たれ、その“前例のない選択”を下した。
遺族が懲罰願いを撤回したことにより、ペイマンド少年は死刑を免れた。
0467人間七七四年
2011/01/19(水) 22:52:12ID:WPV4yfbC0468人間七七四年
2011/01/19(水) 22:52:42ID:BfJ3UjlGああ、誤字が多いな。お恥ずかしい・・・
維新さぁが ⇒ 惟新さぁが
人事負傷 ⇒ 人事不省
粉っては ⇒ こうなっては
です。
追記ですが安藤照氏は渋谷駅のハチ公像(初代)の製作者でもあるそうです。
掃部の自決、義弘の家名保護がなかったら、渋谷駅の風景も今とは違ったものになっていたかも知れませんね。
0469人間七七四年
2011/01/19(水) 23:22:26ID:nbacYumBhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3258.htmlの逸話思い出したわ。
0470人間七七四年
2011/01/19(水) 23:28:35ID:uJtLxFH/「勝つことが本という価値観」と「武士の美徳・美意識」ってそこまで相反するもんでもなかったんじゃないかな。
謀略なんかも武士として賞賛される行いだったわけで。
0471人間七七四年
2011/01/19(水) 23:52:50ID:WPV4yfbC0472人間七七四年
2011/01/20(木) 00:00:38ID:oTfw6vIv誰もが清く正しく美しく生きられるわけじゃないのは今も昔も変わらないわけで
だからこそ美しく散った人間は語り継がれると…
0473人間七七四年
2011/01/20(木) 01:27:28ID:AmREw0Fa前田利家と秀吉の奉行衆との対立から起こったおはなし。
豊臣秀吉の死の3年ほど前というから、慶長元年(1595)頃の話か。
その頃秀吉の奉行衆、石田三成、増田長盛、長束正家らは、冷え切っていた
しかし秀吉の信頼深まり秀頼の後見となった前田利家との関係をこのままにすることも出来ず、
奉行たちは関係の改善を模索し、利家の重臣である徳山五兵衛、岡田長右衛門などに
働きかけていたが、なかなか芳しい結果を得られなかった。。
そんな中、石田三成が事前に連絡もなく利家の元を訪れ強引に対面し、それまでのことを謝罪、
関係修復を図るという挙に出た。
これを知って怒ったのが増田長盛である。三成は同じく利家との関係改善を模索している、
しかも同僚である増田にすら、その事を知らせず単独で行ったのだ。
増田は三成のやり方に激怒した。こうなったら意地でも三成の力を借りず、自分独自の力で
前田利家との関係を築かねばならない。彼は家臣に
「誰か前田家の家中に知っているものは居ないか!?」
と尋ねると、右筆の者が
「昔私と同僚であった南部小兵衛と言う者が、現在前田家で大納言(利家)様の
馬廻りをしております」
と言う。
「ならばそのつてを使うのだ!」
調べてみると南部小兵衛は前田家において、重臣の岡田長右衛門に目をかけられていることが
解った。そこから岡田長右衛門、神谷信濃といった前田家中枢の者たちに繋がりをつけ、
ついに前田家重臣筆頭というべき村井長頼を動かすことに成功。
村井の口利きで増田長盛は利家と対面を果たし、今後、懇意にすることを約束した。
この事があったために増田長盛は、そして石田三成もせっかく利家との関係修繕に成功した自分を
一切頼らなかった増田の態度にあてつけを感じたか、彼らは表面上は良い関係にみえても、
内側では互いに激しく憎んでいた、という。
もしかすると関ヶ原に置いて増田が、三成に同調する体を見せながら、東軍に西軍の内情を
知らせていたのはこの事があったためか、なんてことも想像させる、増田長盛、三成に怒る、
と言うお話。
0474人間七七四年
2011/01/21(金) 00:45:03ID:AtWaAOexこういうのは現代でも心当たりがあるな
お互い意地を張らなければ修復できるんだがなぁ
0475人間七七四年
2011/01/21(金) 18:50:52ID:rZpsgktC0476人間七七四年
2011/01/21(金) 22:23:27ID:0dBR1auH渡辺糺と大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。
「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」
大野治長これを聞くと首を振り
「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。
そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」
すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
と言って去った。
後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。
後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。
0478人間七七四年
2011/01/21(金) 23:13:14ID:snAnfnoR0479人間七七四年
2011/01/21(金) 23:42:00ID:/XlwqW9Rもっと遠まわしに話してええええええ
0480人間七七四年
2011/01/22(土) 08:16:32ID:qlvpyR6o嫌がる人は多いわな、こう率直だと。
0481人間七七四年
2011/01/22(土) 08:45:23ID:0l/26EUw0482人間七七四年
2011/01/22(土) 13:39:13ID:jhdSEYjf北海道ではアイヌ族の間に恋の花として伝えられています。好きな人に思いをこめて贈れば必ず結びつくといいます。
ただしその人に送り主が分からないように相手の人が何気なく手に取るようにしむけなくてはいけません。
富山県や長野県では家を滅ぼし、人を不和にする呪いの花といわれています。
昔佐々成政が、愛妾ばかりをかわいがるのをねたんだ他の腰元たちがあることないことを吹き込んだ為、
怒った成政が愛妾を斬り殺してしまいました。この愛妾が立山に黒百合が咲くとき、佐々家は滅亡するとうらみを込めて叫んだそうです。
その後成政は珍しい花として黒百合を淀君に献上したことがもとで、お家断絶の憂き目にあってしまったと伝えられています。
0483人間七七四年
2011/01/22(土) 15:48:10ID:lCMCvMyq功名が辻だったかな
0484人間七七四年
2011/01/22(土) 15:50:58ID:kanMUdF+http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2215.html
黒百合を献上した相手が北政所と淀殿の違いはあるけど既出かと。
0485人間七七四年
2011/01/22(土) 15:53:39ID:0hbGveok0486人間七七四年
2011/01/23(日) 16:57:55ID:JKkFBA+pそしてこんな事を申し上げた
「いやいや、今回の戦、これだけの大軍を集めた内に、逆意の者(内通者)もなく、
誠に結構なことでございました。」
これに家康、フっと笑い
「今回のような勝ち戦の時は、敵は死んでしまうからな。逆意の者がいたかどうか、
調べようもなくなるわ。」
と、政宗をジロリと見て
「…全く無かったとは、思えないな。」
政宗これを聞いて
「いかにも、御意ご尤もと存じます。もし仮に、私の家来の中に逆心有るものがいたとしても、
御勝利につき敵に口無く、…知ることの出来ないことも当然、ありましょうな。」
と答えた。
この腹の探り合いを日本語に訳すと
家康「内通者が居ないなんてそんな事信じちゃいない。政宗、お前のところも
叩けばホコリが出そうだぞ?」
政宗「仮に私のところで何かあったとしても、それは家臣が勝手にやったこと。
それに追求するのも証拠不足難しいでしょ?そういう事にしましょうよ。」
といったところか。
戦勝の祝いの場の和やかな対面。二人とも実ににこやかな表情。だけど目は笑っていない。
そんな情景を想像させる、大阪陣勝利、家康政宗対面の事。
0487人間七七四年
2011/01/23(日) 18:29:35ID:hsGbcIcJ0488人間七七四年
2011/01/23(日) 18:33:32ID:WFSG8bia0489人間七七四年
2011/01/23(日) 18:39:40ID:6g3/tkWl0490人間七七四年
2011/01/23(日) 23:43:58ID:0JejoTqV0493人間七七四年
2011/01/24(月) 10:25:53ID:bkCiApbO二人が攻めるは岩谷城、蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主松本舜輔やその子氏輔は黒川城に詰めており、城代井上河内守が代わって城を預かっていたが何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。決着を付ける時と見たのかもしれない。
「すぐに兵を発し山内家を討ち滅ぼすべし」
そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。
「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。某にお任せいただければ必ずや山内一族を帰順させて参ります故、しばし追討の儀はお待ち下さいませ」
そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。最良の成果といっていいだろう。
……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。
舜輔「えっ」
盛氏「えっ?」
舜輔「何それこわい」
政清「(にやり)」
家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、この話には続きがある。
後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らないぱっと出の男だった。
どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。
0494人間七七四年
2011/01/24(月) 10:28:24ID:bkCiApbO明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名盛隆に討たれる。
……潰されても仕方がないといわざるを得ない。
0495人間七七四年
2011/01/24(月) 10:35:54ID:wjmialUeなんでそんなに回りくどい事しなきゃならなかったんだろう。
0496人間七七四年
2011/01/24(月) 15:07:18ID:n0sDOQSh0497人間七七四年
2011/01/24(月) 16:08:21ID:37Kdlzi2陽気に駆られたのか、馬上の彼は小歌を歌いながら機嫌よく馬を進めていた
しかし、酒を飲みだすようになると風向きが少し異なってきた
杯が無いので、馬の柄杓や竹筒から直接飲み、しかも馬上である
直ぐに酔いが回った
その内に飲み仲間が欲しくなったのか、片手に手綱、片手に竹筒を持ち馬を走らせながら
行列を「酒飲みいねぇか、酒飲みいねぇか」と尋ね回りだした
そして酒飲みを見つけて強く迫ったそうである
立派な飲酒運転、いや飲酒乗馬である上に、絡み酒である
さて、かの大名は誰か?
福島正則?、島津忠恒?、黒田長政?
答えは……徳川家康でしたぁ!
イヤ、ホント、マジで
でも、ちゃんと酒飲みを捜す所が家康らしいといえばそうかもしれない
0498人間七七四年
2011/01/24(月) 16:27:38ID:V/DlXyfN0499人間七七四年
2011/01/24(月) 17:41:05ID:fQOhp6RU0500人間七七四年
2011/01/24(月) 17:50:29ID:PsdT6mdX0501人間七七四年
2011/01/24(月) 18:11:35ID:+WQv9ex70503人間七七四年
2011/01/24(月) 18:56:14ID:Ton56FQR幕府開いた後かよw
0504人間七七四年
2011/01/24(月) 19:15:55ID:+WQv9ex70505人間七七四年
2011/01/24(月) 19:25:09ID:yJ52B3EH0506人間七七四年
2011/01/24(月) 20:36:33ID:YxdZ1Eud60過ぎてから青春を取り戻したかのようだ
0507人間七七四年
2011/01/24(月) 22:38:48ID:FDX8zAeWしかし酒呑みを探してから強要するあたりの抑制のきき方が凄いw
市松なら
0509人間七七四年
2011/01/25(火) 10:15:15ID:RYqXRmfb明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
文亀元年(1501年)蘆名盛高、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ。
永正二年(1505年)蘆名家中で松本氏と佐瀬、富田陣営が衝突。当主蘆名盛高が後者を、嫡子盛滋が前者を支援。盛滋・松本氏陣営が敗れて伊達氏を頼る。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
天文十年(1541年)蘆名盛氏、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ(文亀元年とは別件&別人)
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
永禄十一年(1568年)蘆名盛氏、謀叛を起こした庶兄の蘆名氏方を討つ。
天正六年(1578年)山内重勝、大槻政通が越後上杉氏に通じて謀叛。蘆名盛氏に討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。同年、盛隆は男色のもつれから大庭三左衛門に殺害される。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名亀王丸に討たれる。
天正十六年(1588年)猪苗代盛国謀叛、伊達氏を会津盆地に引き込む。
天正十七年(1589年)摺上原の敗戦後、会津四天が一致して謀叛し蘆名盛重を常陸に追放する。
蘆名氏にとっては一門筆頭の猪苗代氏と四天筆頭の松本氏の謀反は日常業務の内です
そんなことで族滅していては洞中が持たない
他の洞でもここまで酷いのはほとんど見ないけどな!
0511人間七七四年
2011/01/25(火) 11:54:45ID:Noba06/A0512人間七七四年
2011/01/25(火) 12:55:03ID:HQyMFkIWhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3710.html
実際のところ上のように松本氏に対する処遇を誤った結果、伊達が付け入る隙の
一つになった観は否めない。四天筆頭の動員力は蘆名を支える柱の一つでも
あったはずだし。
蘆名宗家の力が強化されていけば差し引きで帳尻も合っただろうけど歴代当主の
相次ぐ急死が重なって果たせず、他の家臣の力が増しただけだったりではね。
0513人間七七四年
2011/01/25(火) 13:10:55ID:7BjZsWcwある合戦に置いて秀吉は、尾藤甚右衛門知宣に殿を命じた。さらに
「今日の殿は大変重要である。撤退中敵が追って来ても絶対にそれと戦ってはならない!」
さて、実際に軍を引き上げると、案の定敵が追ってくる。尾藤は命令通りにこれを相手にせず
引き上げ作業を続けたのだが、はるか後方の山上にいた秀吉は、その様子を見て激怒した
「どうして尾藤は合戦をしないのだ!?あいつは大腰抜けだ!!」
そうしているうちに無事兵の撤収を完了させた尾藤が戻ってくる。「何故戦わなかった!?」
尾藤の顔を見るやいなや秀吉は猛然と叱りつけた。
これには尾藤も戸惑うしか無い
「先に、絶対に戦ってはならないと命ぜられました。それ故に相手にしなかったのです。」
しかし秀吉
「合戦をしないようにとの命令は大法である。だが明らかに敵を討ち取る事の出来る状況に引き込んだ時、
これと戦わないのは目が明いていないのと同じことだ!
まあ佐久間備前、大膳兄弟のように、戦うべきでない時でも合戦をする連中よりはましだろうがな!」
そう言って尾藤を下がらせた。
ちなみにこの佐久間備前、大膳兄弟とは、賤ヶ岳の結果死んだ佐久間盛政の弟たちだだったそうだ。
ところでこの場に蒲生氏郷がいた。氏郷は秀吉に
「先程のお言葉、佐久間兄弟にとって誠にかたじけない仰せでありました。
そこで佐久間兄弟を、私に家臣として頂けないでしょうか?」
秀吉はその望みを許し、氏郷に佐久間兄弟を与えたということである。秀吉に悪例として出された
佐久間兄弟への、氏郷のフォローだったのだろうか。
とにかく全部の歯車がかみ合っていない感じの、妙にもやもやする九州役のヒトコマ。
0514人間七七四年
2011/01/25(火) 14:20:18ID:0pCPIw3z戦国のゆとり社員それが尾藤知宣
0515人間七七四年
2011/01/25(火) 14:31:11ID:3i5yRyCP0516人間七七四年
2011/01/25(火) 14:55:20ID:md7ywBoVこの前の伊野波みたいなもん。
0518人間七七四年
2011/01/25(火) 15:05:12ID:DuOMYhfy戦って負ける→ワシの指示を無視して負けるとは獄門だな、GOKUMON
戦わない→叱責
何この無理ゲー
0520人間七七四年
2011/01/25(火) 15:12:40ID:66axgH2J指示無視で結果を出すのを繰り返して出世したのが加藤清正か
0521人間七七四年
2011/01/25(火) 15:41:19ID:eQtjHPU+当時はまだ自分も偉くなる前だから我慢しながら使ってたけど、もう我慢する必要無いってか?
0522人間七七四年
2011/01/25(火) 15:48:01ID:99TntDbz昔の弱かった・つらかった時期を知ってる家臣が疎ましかったのかもね
0523人間七七四年
2011/01/25(火) 15:48:56ID:N3owsEAo0524人間七七四年
2011/01/25(火) 15:49:55ID:N3owsEAoなんでTOPクラスって入力したはずなのにTOPページクラスとか入力されてるんだよ
MS-IMEより酷いのかもしれん
0525人間七七四年
2011/01/25(火) 15:50:45ID:N3owsEAo0526人間七七四年
2011/01/25(火) 15:53:00ID:jFzytkmRイメージ的には信長の影に隠れているが、親族関連以外は信長より徹底してると思う。
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