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戦国ちょっと悪い話24

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0001人間七七四年2010/12/11(土) 09:21:33ID:oSVIUoMx
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0427人間七七四年2011/01/17(月) 00:53:26ID:gWIIiGjx
>>426
洞中社会というのはそういうものだからな。
逆に言えばそういう社会の中で近隣をガンガン潰し回った政宗がどれだけ
異常な存在だったかと言うこともw
0428人間七七四年2011/01/17(月) 01:00:32ID:c+m7gPcR
政宗はフナとかコイしかいない池に放たれたブラックバス
0429人間七七四年2011/01/17(月) 09:20:36ID:UGRJdrcA
ドロリとした独特な味のドラマが生まれやすいので嫌いではないよ、洞の中の大名たちの逸話。
0430人間七七四年2011/01/17(月) 09:24:32ID:DEOvGZBc
那須の当主は戦上手いの揃ってるしなぁ。
策謀上手いの揃ってる一族も抱えてるが…むしろ抱えられてるのか?
0431人間七七四年2011/01/17(月) 21:34:53ID:+uZPg+Gn
千本や伊王野は思っただろうな

「あの時滅ぼしておけば良かった」と
0432人間七七四年2011/01/18(火) 00:54:44ID:lClk80Z4
ええ、毎度おなじみ『利家夜話』より、他の資料には見えない秀次処分の後のちょっとした騒動。

文禄4年(1595)の秀次事件。この処分に一応の決着が見られると、豊臣秀吉は近習たちに
こんな事を言い出した

「秀次がいなくなった以上、この上は大納言(前田利家)が秀頼の御守りであり、わしに何かあれば
秀頼のことは彼に頼らねばならぬ。そこで、秀次の領地であった美濃、尾張、伊勢を、大納言に
任せようと考えている!」

この言葉に驚いたのは秀吉の奉行、石田三成と増田長盛である。彼らはこのころ、前田利家とは関係が
非常に悪かった。そのためこの土頭ども(罵倒の言葉であろう。『頭に土が詰まっている連中』とでもいう意味か?)
が言うには(此土頭共申上候は)

「御意、誠にごもっともだと思います。
ですが、大納言殿は現在の武将の中でも無双の武辺者であり、なおかつ、しばしば腹を立てられる人でも
あります。
万一、大納言殿が上様に対しなにか気に入らないことがあった場合、その様な要地を手にしていれば、
その日のうちにも謀反をすることでしょう。

時に秀次様の伏見の御屋形は現在、番人を置いてそのままにしてあります。
大納言殿にはこの御屋形と、越中新川郡をご加増することで、上様のお気持ちは充分に伝わると思います。」

そう言われて秀吉も考えを変え、石田、増田の二人が言う通りにした。


さて、屋形拝領と加増のことを使者が伝えると、前田利家は忝くこれを受け、早速秀次の旧伏見屋形へと入った。
前田家の者たち、内部を見て大いに驚いた、座敷からトイレにいたるまで、黄金でで覆いつくされているのだ。
これに利家は

「この屋形の様子を見るに、さても関白(秀次)殿には、大それた望みなど無かったと思われる。謀反などというのは
どうやら嘘偽りであったのだろう。
わしらは子孫までも望みを持つ。このような座敷は必要ない!」

と、豪華な黄金の間を取り壊させた。これはすなわち、利家は天下に望みを持っているということであり、
石田、増田の警戒は正しかったんじゃないか?とも思うが、ともかくそんな事をしていると、秀吉が大国を
利家に与えようとしたのを石田、増田が邪魔をした、という情報が入り前田家中大いに怒る。
これにより利家と石田三成、増田長盛との関係は一層冷却化した。

そして利家と奉行の関係悪化は、この後またややこしい事態を起こすのだが、その話はまた後日。

前田利家、美濃尾張伊勢所有を妨害される、と言うお話。
0433人間七七四年2011/01/18(火) 01:48:25ID:jM64WJZi
天下を取るには金がかかる、蓄財に励まなかったとは、天下を望んでいなかった証拠だ!
という論法ですね。

うん、それは正しい。でもさ、使うべき所には使わなきゃ、天下なんて取れないんだよ、
又左さん。(^^;
0434人間七七四年2011/01/18(火) 06:20:18ID:ka5sZIIR
死ぬときの「貸した金は催促するな」って遺言を考えると、貯めた金を貸し付けることでいろんな人に恩を売ってたんじゃないかと思うんだがな。
石田とかが借金の口利きして、金貸しからリベート受け取ったせいで金借りた奴から恨まれたのを考えるとスマートな人心掌握だと思う。
0435人間七七四年2011/01/18(火) 18:34:14ID:3bu63EbZ
小野和泉「べ、べつに、あんたのためにお金を貯めたんじゃないんだからね。
     天下を取りたかっただけだよ。勘違いしないでよね。」
0436人間七七四年2011/01/18(火) 18:56:57ID:BIGOX6KN
小野さんはいい人だよね
0437人間七七四年2011/01/18(火) 23:45:10ID:3bCKS5bK
いい悪いどっちにしようか迷った島津義弘の話。


島津の退き口のわけ

島津の勇名を天下に知らしめた、関ヶ原の「島津の退き口」
敵中を“前に向かって退いて”関ヶ原を縦断し、伊勢街道に抜けたわけだが、
このルートを選んだのは以下の理由からだと言われている。

第一に、戦局に寄与せずただ撤退するのは、島津家の面目が許さなかったこと。
第二に、天満山を背に布陣していた島津軍が北(北国街道)や西(中山道)に
向かおうとすると山を登らねばならず、このとき65歳でかなり肥満していた
島津義弘が、山登りを面倒くさがったこと。
0438人間七七四年2011/01/19(水) 00:58:11ID:Noof9hdA
個人的には先に崩れた石田・小西・宇喜多・大谷隊の兵士で溢れかえっていて
事実上殿になって撤退どころではなく手薄な伊勢街道に抜けるのが敵の意表もついて
最も合理的だったと考えている
0439人間七七四年2011/01/19(水) 01:04:50ID:KXjjqLfZ
ってか輿に乗ってるんだから山登りめんどくさいとか関係ないのでは?
0440人間七七四年2011/01/19(水) 01:06:14ID:OzGs+Brm
めんどくさいで家老含む数多の勇者をすり潰したのならちょっと悪いじゃねぇな
0441人間七七四年2011/01/19(水) 01:11:23ID:/Cs2bbU3
まあ個人的には戦場に取り残されて敵の薄いところを選んで移動していたら、
結果的に中央突破っぽくなった、と思ってる。
0442人間七七四年2011/01/19(水) 01:23:59ID:bxu/GW0W
>>440
全員志願兵だから文句は言えない
0443人間七七四年2011/01/19(水) 02:08:42ID:yX8hlm7U
まあ個人的にはやけくそだったであろうと考える。
0444人間七七四年2011/01/19(水) 02:12:21ID:QH2gKQ2y
まあ個人的には1500人で中央突破出来るなら
1万人で家康の首取れたと思う
0445人間七七四年2011/01/19(水) 03:11:37ID:nhzlIoLa
>>444
島津のは中央突破などという撤退行動ではなく、端的に壊滅、壊乱と呼ぶべき状況。
0446人間七七四年2011/01/19(水) 03:18:47ID:eotCypAf
戦国時代全体で見ても大名の首取った事例なんて数えるほどしかないのに
そこまで都合のいい思考をできる444に乾杯
0447人間七七四年2011/01/19(水) 03:28:43ID:lc3Vo/pG
その少ない例の家久の繋がりの野郎どもだから期待したくなっちゃうんじゃない?
確か燃え萌え戦国武将対決!鍋島直茂VS島津家久って番組で言ってた
0448人間七七四年2011/01/19(水) 03:48:11ID:bxu/GW0W
1500しかいなかったから、東軍外様勢と徳川先鋒の隙間をすり抜けることが出来た
1万もいたら、黒田なり福島なりと正面衝突してるよ
0449人間七七四年2011/01/19(水) 05:00:33ID:2LZG+p4J
どうでもいい事だけど1500人じゃなくて300人
0450人間七七四年2011/01/19(水) 06:52:17ID:/j0WTPoF
逃げる途中に、馬をつぶして食ったとき「殿を担ぐ雑兵の分が先で、殿に食わせる分はない」と義弘の分の馬肉を奪い取った雑兵がいたそうだし
やっぱり太ってて居たのもさることながら、雑兵の負担を考えて山登りルートを避けたのもあると思いたいなあ
0451人間七七四年2011/01/19(水) 12:26:31ID:N4EeK6Fi
吉川広家書状という一次資料などから、島津は三千なのが事実
0452人間七七四年2011/01/19(水) 18:57:15ID:aaeKndE5
少数精鋭の突撃には弱い事で定評のある徳川
0453人間七七四年2011/01/19(水) 19:00:38ID:nhzlIoLa
>>452
つーかいわゆる「関ヶ原退き陣」で島津はたしかに家康本陣と遭遇したが、
堂々と突破したとかではなく、東軍のふりをしてコソコソ通り過ぎただけだぞ。
そもそも島津の記録にそう書いてある。
0454人間七七四年2011/01/19(水) 19:40:06ID:M81Z+1fL
>>452
だって小牧長久手から16年もブランクあるし……
島津なんてつい2年前まで朝鮮でドツキ合ってたんだし仕方ないよ(´・ω・`)
0455人間七七四年2011/01/19(水) 20:27:44ID:N4EeK6Fi
>>452
天王寺の戦いも実際は豊臣方は家康本陣にすらたどり着いていない可能性がある
0456人間七七四年2011/01/19(水) 21:17:57ID:ZyeoQhJl
>>450
それって中馬だろw
前そんな逸話がここに投稿されてた

中馬を「ちゅうま」だとばっか思ってたのは良い思い出
0457人間七七四年2011/01/19(水) 21:44:57ID:OzGs+Brm
>>455
普通にたどり着いてないよ。本陣に一切損害ねーもんw
まぁ物語やからね
0458人間七七四年2011/01/19(水) 22:09:12ID:BfJ3UjlG
島津の退き口の流れに乗って

北原掃部なる若者が居た。
彼もご多分に漏れず「維新さぁが難儀しやっど」を合言葉に故郷鹿児島から駆けつけた者であり、
さらにご多聞にもれず義弘を戦場から逃すために奮戦した者でもあった。

激戦の末傷ついて人事負傷となり残念にも敵に捕えられ、彼はとうとう首をはねられることになった。
人事を尽くして天命を待つ。もう粉っては泰然自若として死に臨む他ない。
覚悟を決めた掃部は敵兵にしばし猶予を乞い、戦場に持参してきた腰の天吹(尺八)一管をやおら取り出し
この世の最後の別れとして「鶴の巣篭もり」の一曲を静かに吹き鳴らした。

日が傾きかけた血生臭い戦野、嘆くが如く啼くが如く響く妙音に死を前に聊かも動じぬ神色自若たる態度。
敵兵もこの若い武士の風流と覚悟に感嘆置く能わず「勝敗は決した。首を刎ねる事もあるまい」ついに許して助命する事となった。
だが掃部は「既に天吹のための猶予を頂いたれば」これ以上の情けは無用と武士の面目を守り自決してしまった。
彼の天吹は薩摩の一族の元に届けられ「助命器」と銘打たれてその後も大切に保管されたという。

このことを聞いた義弘は掃部の遺族を手厚く保護し、家名の絶えぬように取り計らったという。
北原の家名は江戸時代以降も続き、明治には鹿児島公園の西郷隆盛像を手がけた安藤照氏を輩出することになる。


せっかく助命されたのに「武士の面目」ということで自害して果ててしまうのは
果たしていい話なのか悪い話なのか・・・判断が分かれるかもしれませんが。
0459人間七七四年2011/01/19(水) 22:17:19ID:6h+fJKOF
>>458
そこで最初の覚悟の通り命を絶ったから綺麗な話になるんだろうな
助かったら「芸は身を助ける」みたいな話になっちゃうし

まあ現代の価値観ではああだこうだ言われる類の話ではあるよね
0460人間七七四年2011/01/19(水) 22:26:00ID:z7/GEfG1
>>404
今、大河ドラマ『利家とまつ』レンタルして見てるんだけど、
ドラマでの利家の小物ぶりは、まつ様ageのためだと思ってたんだが、
このスレの逸話見てると、ある意味では史実に忠実だったんだろうかw


>>410
『センゴク』での秀久しか知らないけど、
やっぱり、政治能力とか指揮官としての能力はダメダメだったんだな・・・
0461人間七七四年2011/01/19(水) 22:28:01ID:1htvNvph
>>457
大久保彦左衛門がなんかかいてなかったっけか
0462人間七七四年2011/01/19(水) 22:35:18ID:ZyeoQhJl
>>461
それは陣を下げた、いや、下げてないってことじゃなかったか?
旗が立ってた、立ってなかったうんぬんだったかもしれないが
とにかく彦左衛門が言いたかったのは「最近ワシら老臣に冷たくない?」ってことだろ
0463人間七七四年2011/01/19(水) 22:36:36ID:N4EeK6Fi
>>461
あれは後退する際に旗を乱したという話だからなぁ
0464人間七七四年2011/01/19(水) 22:37:00ID:Noof9hdA
大きなテーマすぎてここで話すことではなさそうなんだけど前から思ってたのは
宗滴の言うような犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本という価値観と
武士の美徳・美意識はどこで線引きされていたんだろう
織田軍団は利益の意識が強かったが信長の強烈な美意識である程度バランスがとれてたが
信長死後秀吉になって旧織田系は完全にバランスが崩れてしまったようにも見える
0465人間七七四年2011/01/19(水) 22:42:08ID:4fFGBnrq
>>458
夕日に染まる戦場に、ふと流れ出す尺八の音色。
敗残兵を小突き回していた足軽も手を止め、音のするほうに目を向ける。
その一角だけ喧騒が静まり、嘆くが如く啼くが如く響きわたる尺八の音。

勝手な想像だけど、泣ける光景だね……。
0466人間七七四年2011/01/19(水) 22:50:54ID:t9gLdotq
某blogに書かれていたニュース思い出した(宣伝になるんで詳細はググッてくれ)

自らの死刑が執行される寸前に見事な縦笛演奏で遺族の心を打ち、死を免れた少年(イラン)

執行官が少年に聞いた。「あの世に行く前に最後の願いがあるなら、言ってみるがよい」
ペイマンド少年は、死ぬ前にネイを演奏したいと答えた。執行官は頷き、少年にネイが渡された。
少年は、心をこめてネイを奏でた。
深い哀愁を帯びた音色と旋律。今まさに命を絶たれようとしている少年のその演奏は、その場にいた全員の
琴線に触れた。被害者の遺族も、その例外ではなかった。
イランの法律では、被害者の遺族に対し、死刑執行の直前に懲罰願いを撤回するオプションが用意されている。
しかし、アムネスティ・インターナショナルによると、これまでにそのオプションが行使されたことは“きわめて稀か、
あるいはほとんど前例がない”という。
少年が殺めた男性の遺族は、心底憎きはずの少年の見事な演奏に心を打たれ、その“前例のない選択”を下した。
遺族が懲罰願いを撤回したことにより、ペイマンド少年は死刑を免れた。
0467人間七七四年2011/01/19(水) 22:52:12ID:WPV4yfbC
昔、美しい音楽を演奏してたせいで狙撃された若殿がいましてね…
0468人間七七四年2011/01/19(水) 22:52:42ID:BfJ3UjlG
>>458

ああ、誤字が多いな。お恥ずかしい・・・

維新さぁが ⇒ 惟新さぁが
人事負傷  ⇒ 人事不省
粉っては  ⇒ こうなっては

です。

追記ですが安藤照氏は渋谷駅のハチ公像(初代)の製作者でもあるそうです。
掃部の自決、義弘の家名保護がなかったら、渋谷駅の風景も今とは違ったものになっていたかも知れませんね。
0469人間七七四年2011/01/19(水) 23:22:26ID:nbacYumB
>>466
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3258.htmlの逸話思い出したわ。
0470人間七七四年2011/01/19(水) 23:28:35ID:uJtLxFH/
>>464
「勝つことが本という価値観」と「武士の美徳・美意識」ってそこまで相反するもんでもなかったんじゃないかな。
謀略なんかも武士として賞賛される行いだったわけで。

0471人間七七四年2011/01/19(水) 23:52:50ID:WPV4yfbC
当主代理やってる指揮官クラスの人と、一騎駆けの武士クラスの人では意識が違うのは当たり前じゃね?
0472人間七七四年2011/01/20(木) 00:00:38ID:oTfw6vIv
う〜ん、まあ誰かが書いてたんだけど
誰もが清く正しく美しく生きられるわけじゃないのは今も昔も変わらないわけで
だからこそ美しく散った人間は語り継がれると…
0473人間七七四年2011/01/20(木) 01:27:28ID:AmREw0Fa
さて、利家夜話収録の、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5048.htmlによって深まった
前田利家と秀吉の奉行衆との対立から起こったおはなし。

豊臣秀吉の死の3年ほど前というから、慶長元年(1595)頃の話か。

その頃秀吉の奉行衆、石田三成、増田長盛、長束正家らは、冷え切っていた
しかし秀吉の信頼深まり秀頼の後見となった前田利家との関係をこのままにすることも出来ず、
奉行たちは関係の改善を模索し、利家の重臣である徳山五兵衛、岡田長右衛門などに
働きかけていたが、なかなか芳しい結果を得られなかった。。

そんな中、石田三成が事前に連絡もなく利家の元を訪れ強引に対面し、それまでのことを謝罪、
関係修復を図るという挙に出た。

これを知って怒ったのが増田長盛である。三成は同じく利家との関係改善を模索している、
しかも同僚である増田にすら、その事を知らせず単独で行ったのだ。

増田は三成のやり方に激怒した。こうなったら意地でも三成の力を借りず、自分独自の力で
前田利家との関係を築かねばならない。彼は家臣に

「誰か前田家の家中に知っているものは居ないか!?」

と尋ねると、右筆の者が

「昔私と同僚であった南部小兵衛と言う者が、現在前田家で大納言(利家)様の
馬廻りをしております」

と言う。

「ならばそのつてを使うのだ!」

調べてみると南部小兵衛は前田家において、重臣の岡田長右衛門に目をかけられていることが
解った。そこから岡田長右衛門、神谷信濃といった前田家中枢の者たちに繋がりをつけ、
ついに前田家重臣筆頭というべき村井長頼を動かすことに成功。
村井の口利きで増田長盛は利家と対面を果たし、今後、懇意にすることを約束した。

この事があったために増田長盛は、そして石田三成もせっかく利家との関係修繕に成功した自分を
一切頼らなかった増田の態度にあてつけを感じたか、彼らは表面上は良い関係にみえても、
内側では互いに激しく憎んでいた、という。


もしかすると関ヶ原に置いて増田が、三成に同調する体を見せながら、東軍に西軍の内情を
知らせていたのはこの事があったためか、なんてことも想像させる、増田長盛、三成に怒る、
と言うお話。
0474人間七七四年2011/01/21(金) 00:45:03ID:AtWaAOex
そんなこと思うのも仲が良いからこそって感じだな

こういうのは現代でも心当たりがあるな
お互い意地を張らなければ修復できるんだがなぁ
0475人間七七四年2011/01/21(金) 18:50:52ID:rZpsgktC
佐渡さんのように私心を捨てれば無問題…なわけねー
0476人間七七四年2011/01/21(金) 22:23:27ID:0dBR1auH
大坂の陣の時のこと
渡辺糺と大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。

「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」

大野治長これを聞くと首を振り

「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。

そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」

すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」

と言って去った。


後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。

後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。
0477人間七七四年2011/01/21(金) 23:06:55ID:ZjW1erGp
>>476
>「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
長政「ああ、全くだなクソっ!」
0478人間七七四年2011/01/21(金) 23:13:14ID:snAnfnoR
噂を立てられながら実直に見回りを続ける神経凄過ぎw
0479人間七七四年2011/01/21(金) 23:42:00ID:/XlwqW9R
そういう微妙な事をそのままズバズバ言っちゃ駄目でしょおおおおおおおお
もっと遠まわしに話してええええええ
0480人間七七四年2011/01/22(土) 08:16:32ID:qlvpyR6o
度量がある人間なら使いこなせたりうまくやれるんだけどねえ、又兵衛。
嫌がる人は多いわな、こう率直だと。
0481人間七七四年2011/01/22(土) 08:45:23ID:0l/26EUw
直家「大住をそのままにしておくとは、又兵衛は甘いのぉ」
0482人間七七四年2011/01/22(土) 13:39:13ID:jhdSEYjf
黒百合の呪い。。。

北海道ではアイヌ族の間に恋の花として伝えられています。好きな人に思いをこめて贈れば必ず結びつくといいます。
ただしその人に送り主が分からないように相手の人が何気なく手に取るようにしむけなくてはいけません。
富山県や長野県では家を滅ぼし、人を不和にする呪いの花といわれています。

昔佐々成政が、愛妾ばかりをかわいがるのをねたんだ他の腰元たちがあることないことを吹き込んだ為、
怒った成政が愛妾を斬り殺してしまいました。この愛妾が立山に黒百合が咲くとき、佐々家は滅亡するとうらみを込めて叫んだそうです。
その後成政は珍しい花として黒百合を淀君に献上したことがもとで、お家断絶の憂き目にあってしまったと伝えられています。
0483人間七七四年2011/01/22(土) 15:48:10ID:lCMCvMyq
何年か前の大河ドラマで見たような気がするな>淀に黒百合献上
功名が辻だったかな
0484人間七七四年2011/01/22(土) 15:50:58ID:kanMUdF+
>>482
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2215.html
黒百合を献上した相手が北政所と淀殿の違いはあるけど既出かと。
0485人間七七四年2011/01/22(土) 15:53:39ID:0hbGveok
いろいろバリエーションがあるんだねぇ・・・
0486人間七七四年2011/01/23(日) 16:57:55ID:JKkFBA+p
大坂夏の陣が終わり、豊臣家は滅亡。この時伊達政宗は徳川家康に拝謁しその勝利を祝い、
そしてこんな事を申し上げた

「いやいや、今回の戦、これだけの大軍を集めた内に、逆意の者(内通者)もなく、
誠に結構なことでございました。」

これに家康、フっと笑い
「今回のような勝ち戦の時は、敵は死んでしまうからな。逆意の者がいたかどうか、
調べようもなくなるわ。」

と、政宗をジロリと見て

「…全く無かったとは、思えないな。」

政宗これを聞いて
「いかにも、御意ご尤もと存じます。もし仮に、私の家来の中に逆心有るものがいたとしても、
御勝利につき敵に口無く、…知ることの出来ないことも当然、ありましょうな。」

と答えた。

この腹の探り合いを日本語に訳すと

家康「内通者が居ないなんてそんな事信じちゃいない。政宗、お前のところも
   叩けばホコリが出そうだぞ?」
政宗「仮に私のところで何かあったとしても、それは家臣が勝手にやったこと。
   それに追求するのも証拠不足難しいでしょ?そういう事にしましょうよ。」

といったところか。
戦勝の祝いの場の和やかな対面。二人とも実ににこやかな表情。だけど目は笑っていない。
そんな情景を想像させる、大阪陣勝利、家康政宗対面の事。
0487人間七七四年2011/01/23(日) 18:29:35ID:hsGbcIcJ
だから神保隊は…おや?誰か来たようだ
0488人間七七四年2011/01/23(日) 18:33:32ID:WFSG8bia
神保が浮かばれないよ!
0489人間七七四年2011/01/23(日) 18:39:40ID:6g3/tkWl
神保などいなかった。いいな、いなかったんだ
0490人間七七四年2011/01/23(日) 23:43:58ID:0JejoTqV
TERU(>3<)「クシュン!!」
0491人間七七四年2011/01/24(月) 01:02:24ID:kejyFCDx
>>479
>>480
又兵衛は、徳川家臣ならうまく行ったのにね・・・残念
0492人間七七四年2011/01/24(月) 01:05:30ID:kejyFCDx
>>486
真田の娘?わしゃ知らねえよ
0493人間七七四年2011/01/24(月) 10:25:53ID:bkCiApbO
永禄元年、会津四家の一つに数えられる奥会津の豪族、山内俊政・横田俊範兄弟が兵を起こした。
二人が攻めるは岩谷城、蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主松本舜輔やその子氏輔は黒川城に詰めており、城代井上河内守が代わって城を預かっていたが何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。決着を付ける時と見たのかもしれない。

「すぐに兵を発し山内家を討ち滅ぼすべし」

そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。

「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。某にお任せいただければ必ずや山内一族を帰順させて参ります故、しばし追討の儀はお待ち下さいませ」

そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。最良の成果といっていいだろう。

……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。

舜輔「えっ」
盛氏「えっ?」
舜輔「何それこわい」
政清「(にやり)」

家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、この話には続きがある。

後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らないぱっと出の男だった。

どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。
0494人間七七四年2011/01/24(月) 10:28:24ID:bkCiApbO
ちなみに松本さん家の反乱年表。

明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名盛隆に討たれる。

……潰されても仕方がないといわざるを得ない。
0495人間七七四年2011/01/24(月) 10:35:54ID:wjmialUe
蘆名に従う気無いだろ、これw
なんでそんなに回りくどい事しなきゃならなかったんだろう。
0496人間七七四年2011/01/24(月) 15:07:18ID:n0sDOQSh
30年越しで不忠の松本家を潰す、いい話に思えてきたw
0497人間七七四年2011/01/24(月) 16:08:21ID:37Kdlzi2
とある大名が領地に帰るときの話

陽気に駆られたのか、馬上の彼は小歌を歌いながら機嫌よく馬を進めていた
しかし、酒を飲みだすようになると風向きが少し異なってきた
杯が無いので、馬の柄杓や竹筒から直接飲み、しかも馬上である
直ぐに酔いが回った

その内に飲み仲間が欲しくなったのか、片手に手綱、片手に竹筒を持ち馬を走らせながら
行列を「酒飲みいねぇか、酒飲みいねぇか」と尋ね回りだした
そして酒飲みを見つけて強く迫ったそうである
立派な飲酒運転、いや飲酒乗馬である上に、絡み酒である


さて、かの大名は誰か?
福島正則?、島津忠恒?、黒田長政?

答えは……徳川家康でしたぁ!
イヤ、ホント、マジで
でも、ちゃんと酒飲みを捜す所が家康らしいといえばそうかもしれない
0498人間七七四年2011/01/24(月) 16:27:38ID:V/DlXyfN
いやいや、どこの家中にも居るよなこんな馬鹿・・・って、家康本人かよ!?
0499人間七七四年2011/01/24(月) 17:41:05ID:fQOhp6RU
政宗じゃねえのかよw
0500人間七七四年2011/01/24(月) 17:50:29ID:PsdT6mdX
これ家康が若い頃の話?面白いなw
0501人間七七四年2011/01/24(月) 18:11:35ID:+WQv9ex7
悪い話で、この程度の大人しさってのも凄いのかも
05024972011/01/24(月) 18:38:49ID:37Kdlzi2
>>500
多分、慶長9年頃の話
0503人間七七四年2011/01/24(月) 18:56:14ID:Ton56FQR
慶長9年=1604年=家康63歳?
幕府開いた後かよw
0504人間七七四年2011/01/24(月) 19:15:55ID:+WQv9ex7
倹約と我慢の人生から解放されてちょっとハッスルしちゃって、第2の青春を謳歌してるだけですよ、きっと・・・将軍位も息子に譲ったことだし
0505人間七七四年2011/01/24(月) 19:25:09ID:yJ52B3EH
やはり影武者と入れ替わったんじゃないの?w
0506人間七七四年2011/01/24(月) 20:36:33ID:YxdZ1Eud
ハッスルしすぎて子供もたくさん作っちゃったしねw
60過ぎてから青春を取り戻したかのようだ
0507人間七七四年2011/01/24(月) 22:38:48ID:FDX8zAeW
回春…か

しかし酒呑みを探してから強要するあたりの抑制のきき方が凄いw
市松なら
0508人間七七四年2011/01/24(月) 23:35:33ID:kejyFCDx
>>494
100年間も族滅されずに残ったのか?信じられない
0509人間七七四年2011/01/25(火) 10:15:15ID:RYqXRmfb
>>508
明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
文亀元年(1501年)蘆名盛高、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ。
永正二年(1505年)蘆名家中で松本氏と佐瀬、富田陣営が衝突。当主蘆名盛高が後者を、嫡子盛滋が前者を支援。盛滋・松本氏陣営が敗れて伊達氏を頼る。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
天文十年(1541年)蘆名盛氏、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ(文亀元年とは別件&別人)
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
永禄十一年(1568年)蘆名盛氏、謀叛を起こした庶兄の蘆名氏方を討つ。
天正六年(1578年)山内重勝、大槻政通が越後上杉氏に通じて謀叛。蘆名盛氏に討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。同年、盛隆は男色のもつれから大庭三左衛門に殺害される。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名亀王丸に討たれる。
天正十六年(1588年)猪苗代盛国謀叛、伊達氏を会津盆地に引き込む。
天正十七年(1589年)摺上原の敗戦後、会津四天が一致して謀叛し蘆名盛重を常陸に追放する。

蘆名氏にとっては一門筆頭の猪苗代氏と四天筆頭の松本氏の謀反は日常業務の内です
そんなことで族滅していては洞中が持たない

他の洞でもここまで酷いのはほとんど見ないけどな!
0510人間七七四年2011/01/25(火) 11:52:21ID:lZjQOr7O
>>497
成り上がりが陥りやすい病に家康もかかっていたんだろうか…
0511人間七七四年2011/01/25(火) 11:54:45ID:Noba06/A
若い時とか壮年期にやるとめんどくさい家臣が腹きりかけたり退転しそうになったりするんだぜ、きっとw
0512人間七七四年2011/01/25(火) 12:55:03ID:HQyMFkIW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3710.html
実際のところ上のように松本氏に対する処遇を誤った結果、伊達が付け入る隙の
一つになった観は否めない。四天筆頭の動員力は蘆名を支える柱の一つでも
あったはずだし。
蘆名宗家の力が強化されていけば差し引きで帳尻も合っただろうけど歴代当主の
相次ぐ急死が重なって果たせず、他の家臣の力が増しただけだったりではね。
0513人間七七四年2011/01/25(火) 13:10:55ID:7BjZsWcw
豊臣秀吉による九州役の時のこと

ある合戦に置いて秀吉は、尾藤甚右衛門知宣に殿を命じた。さらに

「今日の殿は大変重要である。撤退中敵が追って来ても絶対にそれと戦ってはならない!」

さて、実際に軍を引き上げると、案の定敵が追ってくる。尾藤は命令通りにこれを相手にせず
引き上げ作業を続けたのだが、はるか後方の山上にいた秀吉は、その様子を見て激怒した

「どうして尾藤は合戦をしないのだ!?あいつは大腰抜けだ!!」

そうしているうちに無事兵の撤収を完了させた尾藤が戻ってくる。「何故戦わなかった!?」
尾藤の顔を見るやいなや秀吉は猛然と叱りつけた。

これには尾藤も戸惑うしか無い
「先に、絶対に戦ってはならないと命ぜられました。それ故に相手にしなかったのです。」

しかし秀吉
「合戦をしないようにとの命令は大法である。だが明らかに敵を討ち取る事の出来る状況に引き込んだ時、
これと戦わないのは目が明いていないのと同じことだ!
まあ佐久間備前、大膳兄弟のように、戦うべきでない時でも合戦をする連中よりはましだろうがな!」

そう言って尾藤を下がらせた。
ちなみにこの佐久間備前、大膳兄弟とは、賤ヶ岳の結果死んだ佐久間盛政の弟たちだだったそうだ。

ところでこの場に蒲生氏郷がいた。氏郷は秀吉に
「先程のお言葉、佐久間兄弟にとって誠にかたじけない仰せでありました。
そこで佐久間兄弟を、私に家臣として頂けないでしょうか?」

秀吉はその望みを許し、氏郷に佐久間兄弟を与えたということである。秀吉に悪例として出された
佐久間兄弟への、氏郷のフォローだったのだろうか。


とにかく全部の歯車がかみ合っていない感じの、妙にもやもやする九州役のヒトコマ。
0514人間七七四年2011/01/25(火) 14:20:18ID:0pCPIw3z
言われたことしかやらない、できない
戦国のゆとり社員それが尾藤知宣
0515人間七七四年2011/01/25(火) 14:31:11ID:3i5yRyCP
言われたこと以外もやっちゃうセンゴクは?
0516人間七七四年2011/01/25(火) 14:55:20ID:md7ywBoV
結果出るなら無問題

この前の伊野波みたいなもん。
0517人間七七四年2011/01/25(火) 14:56:28ID:lMIlZzwV
>>514
これ仮に戦ってても太閤殿下は叱責したと思うよ
尾藤が気に入らないんだろう
0518人間七七四年2011/01/25(火) 15:05:12ID:DuOMYhfy
戦って勝つ→なぜワシの指示を無視した!と叱責
戦って負ける→ワシの指示を無視して負けるとは獄門だな、GOKUMON
戦わない→叱責

何この無理ゲー
0519人間七七四年2011/01/25(火) 15:09:04ID:f+Ju0cLj
>>517
俺もそう思う
0520人間七七四年2011/01/25(火) 15:12:40ID:66axgH2J
秀吉「指示待ち人間はいらねえんだよ」

指示無視で結果を出すのを繰り返して出世したのが加藤清正か
0521人間七七四年2011/01/25(火) 15:41:19ID:eQtjHPU+
ラスボスは信長死後になると、自分の織田家時代からの古参家臣に妙に厳しいというか、冷たい。
当時はまだ自分も偉くなる前だから我慢しながら使ってたけど、もう我慢する必要無いってか?
0522人間七七四年2011/01/25(火) 15:48:01ID:99TntDbz
古代中国の越王勾践みたいに
昔の弱かった・つらかった時期を知ってる家臣が疎ましかったのかもね
0523人間七七四年2011/01/25(火) 15:48:56ID:N3owsEAo
どんだけっつーか、日本TOPページクラスの厳しさで有名だけど
0524人間七七四年2011/01/25(火) 15:49:55ID:N3owsEAo
ああ グーグルIMEって余計だな
なんでTOPクラスって入力したはずなのにTOPページクラスとか入力されてるんだよ
MS-IMEより酷いのかもしれん
0525人間七七四年2011/01/25(火) 15:50:45ID:N3owsEAo
しかも他スレだここ 誤爆です ごめんなさい
0526人間七七四年2011/01/25(火) 15:53:00ID:jFzytkmR
能力第一主義、厳罰主義なんだろ。
イメージ的には信長の影に隠れているが、親族関連以外は信長より徹底してると思う。
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