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戦国ちょっと悪い話24

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0001人間七七四年2010/12/11(土) 09:21:33ID:oSVIUoMx
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2010/12/11(土) 13:02:01ID:u9wZO8gU
地産地消おかやまの唄

歌をダウンロード(その他のファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91986_misc.mp3

歌詞カードのダウンロード(PDFファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91988_misc.pdf

歌に登場する特産物紹介(PDFファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91989_misc.pdf
0003人間七七四年2010/12/12(日) 11:58:20ID:0wWB9MJz
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1乙でがんす 一緒に摺上原で遊ぶでがんす
  (:::::::::::::::)
   しωJ
0004人間七七四年2010/12/12(日) 18:28:21ID:FKxORDkx
前スレからの流れて清正と行長の朝鮮陣での喧嘩

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4950.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4951.html

文禄の役、上のようなことがなんだかんだあった挙句忠州までやってきた
先鋒の加藤清正と小西行長、この忠州から朝鮮の首都漢城へは二つの道があった。

小西行長は言う

「ここから都に向かう二本の道は、それぞれ漢城の東大門口、南大門口へと繋がっている。
南大門口は東大門口よりも10里近い。だが南大門口はその間に大河が流れている。

さて、我ら両人どちらの道を行くか、お互い遺恨の起こらないよう、籤によって
決めようではないか?」

と、籤を差し出す。ところが清正、籤になど見向きもせず

「それがしが南大門口へまいる!」

と、勝手に決めつけた。これには行長も「何と言う我侭なやり方であろうか!」と怒る。
しかし清正、却って行長をあざ笑い
「天草において一揆に攻め立てられ、わしに救援を求めたことを忘れたのか!?」
と、さらに行長に言葉を浴びせた。

ちなみに天草の一揆とは天正17(1589)の小西領天草における天草五人衆の蜂起、いわゆる
天正天草合戦の事である。このとき小西行長は加藤清正に救援を依頼したとされる。

これに小西行長は激怒した。

「今ここでの事と、天草の事は関係ないだろう!」

そう言って刀に手をかけた。清正これを見て大笑する

「小西がおかしなことをしておるわ!その気勢をどうして天草の時に出さなかったのか!?」

もはや売り言葉に買い言葉である。お互い声高に罵声を浴びせ、今にも
斬り合いにならんとした。その時である

「おやめなされ!」

加藤清正に同道してきた、鍋島直茂が二人の間に入った。

「扨も扨も、日本軍の先鋒たるお二人がこのような事では、日本国、および秀吉公の
御外聞を失うではありませんか!
そのうえ御両人がここで討ち果てられれば、秀吉公によるこの度の大陸出兵という構想は、
全く崩壊してしまいます!」

この直茂の言葉に冷静さを取り戻した加藤小西の二人、「尤もである」と喧嘩を止め、
南大門口を加藤清正、東大門口を小西行長の担当と決定した。

が、小西行長は清正の言葉が許せず、家臣の木戸作右衛門、日比左近右衛門に命じ、
その夜密かに、清正の軍勢が率いてきた船のともづなを切り、残らず流してしまったそうだ。

後々朝鮮役全体に影響を与える、朝鮮における清正行長の最初の衝突についてのお話。
0005人間七七四年2010/12/12(日) 23:10:50ID:VGt/xQGi
同じく忠州絡みの話を

1592年4月24日尚州で李鎰に率いられた朝鮮軍を破った小西行長は、そこで景応舜という者を捕虜とした。
倭学通事であった応舜は日本語に通じており、行長は彼を朝鮮側との交渉の使者とした。
行長は応舜に秀吉からの手紙と礼曹(朝鮮の役所)への公文を託して解放すると共に
「講和の意思があるなら李徳馨を使者として四月二十八日に忠州で会いたい」との伝言を託した。
なお李徳馨は開戦前の交渉において日本側の使者を接待した人物である。

応舜の帰還によってこの事を知った朝鮮側は
事態が少しでも和らげばと応ずることとし、李徳馨も使者となることを希望したため
礼曹に答書を作らせて徳馨と応舜を忠州へと出発させた

が、その途中で忠州は陥落してしまい、一行は立ち往生する事となる。
応舜が様子を探る為に忠州へと向かったのであるが
運悪く加藤清正に捕まり、斬られてしまった。
徳馨はやむを得ず引き返し、講和の話はうやむやのうちに終わった。
0006人間七七四年2010/12/13(月) 00:48:57ID:KDIT8k1C
運悪く加藤清正に捕まり

運悪いなホントに……。
000752010/12/13(月) 01:39:12ID:AXAqysHt
ID変わっているけどちょっと補足を…
・行長が捕虜を講和の使者にしたのは景応舜が初めてではなかった。
 東來城で捕虜にした蔚山郡守の李彦誠という人物にも手紙を託して開放していたが
 彦誠は罰せられることを恐れて自力で脱出したと申し出て手紙のことを報告しなかった。
 が、応舜の書状に「前にも蔚山郡守に手紙を託したが返報がない」と書かれていた為発覚

・ルイス・フロイスの「日本史」に収められている行長から秀吉への書状にこの件に関する記述があるのだが
 そこでは景応舜は日本へ人質を差し出すことと明侵攻の援助を伝える朝鮮国王からの使者となっている。
 この記述が正しければ「仮道入明」は成功していたことに…

・宣祖実録によるとこの一件の後、朝鮮では「倭將逼擁コ馨爲主, 金誠一爲相」という噂が流れたという。
 李徳馨は直接指名を受けたせいで疑われたのか。
 金誠一はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2066.htmlこういった件もあって当時は評判が悪かったらしい。
0008人間七七四年2010/12/13(月) 11:10:47ID:lfCqmgOq
>>4
鍋島さんが一緒で良かったねw
アレとかアレとか、もう一人変なのがいたら大変だったろうな・・・・
0009人間七七四年2010/12/13(月) 12:41:11ID:KDIT8k1C
鍋島さん=鉄の胃袋
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