戦国ちょっと悪い話24
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0001人間七七四年
2010/12/11(土) 09:21:33ID:oSVIUoMx戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話23
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話23
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2010/12/11(土) 13:02:01ID:u9wZO8gU歌をダウンロード(その他のファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91986_misc.mp3
歌詞カードのダウンロード(PDFファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91988_misc.pdf
歌に登場する特産物紹介(PDFファイル)
http://www.pref.okayama.jp/file/open.php?f=/uploaded/life/27154_91989_misc.pdf
0003人間七七四年
2010/12/12(日) 11:58:20ID:0wWB9MJz《 ヾ⌒ソ /
. {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1乙でがんす 一緒に摺上原で遊ぶでがんす
(:::::::::::::::)
しωJ
0004人間七七四年
2010/12/12(日) 18:28:21ID:FKxORDkxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4950.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4951.html
文禄の役、上のようなことがなんだかんだあった挙句忠州までやってきた
先鋒の加藤清正と小西行長、この忠州から朝鮮の首都漢城へは二つの道があった。
小西行長は言う
「ここから都に向かう二本の道は、それぞれ漢城の東大門口、南大門口へと繋がっている。
南大門口は東大門口よりも10里近い。だが南大門口はその間に大河が流れている。
さて、我ら両人どちらの道を行くか、お互い遺恨の起こらないよう、籤によって
決めようではないか?」
と、籤を差し出す。ところが清正、籤になど見向きもせず
「それがしが南大門口へまいる!」
と、勝手に決めつけた。これには行長も「何と言う我侭なやり方であろうか!」と怒る。
しかし清正、却って行長をあざ笑い
「天草において一揆に攻め立てられ、わしに救援を求めたことを忘れたのか!?」
と、さらに行長に言葉を浴びせた。
ちなみに天草の一揆とは天正17(1589)の小西領天草における天草五人衆の蜂起、いわゆる
天正天草合戦の事である。このとき小西行長は加藤清正に救援を依頼したとされる。
これに小西行長は激怒した。
「今ここでの事と、天草の事は関係ないだろう!」
そう言って刀に手をかけた。清正これを見て大笑する
「小西がおかしなことをしておるわ!その気勢をどうして天草の時に出さなかったのか!?」
もはや売り言葉に買い言葉である。お互い声高に罵声を浴びせ、今にも
斬り合いにならんとした。その時である
「おやめなされ!」
加藤清正に同道してきた、鍋島直茂が二人の間に入った。
「扨も扨も、日本軍の先鋒たるお二人がこのような事では、日本国、および秀吉公の
御外聞を失うではありませんか!
そのうえ御両人がここで討ち果てられれば、秀吉公によるこの度の大陸出兵という構想は、
全く崩壊してしまいます!」
この直茂の言葉に冷静さを取り戻した加藤小西の二人、「尤もである」と喧嘩を止め、
南大門口を加藤清正、東大門口を小西行長の担当と決定した。
が、小西行長は清正の言葉が許せず、家臣の木戸作右衛門、日比左近右衛門に命じ、
その夜密かに、清正の軍勢が率いてきた船のともづなを切り、残らず流してしまったそうだ。
後々朝鮮役全体に影響を与える、朝鮮における清正行長の最初の衝突についてのお話。
0005人間七七四年
2010/12/12(日) 23:10:50ID:VGt/xQGi1592年4月24日尚州で李鎰に率いられた朝鮮軍を破った小西行長は、そこで景応舜という者を捕虜とした。
倭学通事であった応舜は日本語に通じており、行長は彼を朝鮮側との交渉の使者とした。
行長は応舜に秀吉からの手紙と礼曹(朝鮮の役所)への公文を託して解放すると共に
「講和の意思があるなら李徳馨を使者として四月二十八日に忠州で会いたい」との伝言を託した。
なお李徳馨は開戦前の交渉において日本側の使者を接待した人物である。
応舜の帰還によってこの事を知った朝鮮側は
事態が少しでも和らげばと応ずることとし、李徳馨も使者となることを希望したため
礼曹に答書を作らせて徳馨と応舜を忠州へと出発させた
が、その途中で忠州は陥落してしまい、一行は立ち往生する事となる。
応舜が様子を探る為に忠州へと向かったのであるが
運悪く加藤清正に捕まり、斬られてしまった。
徳馨はやむを得ず引き返し、講和の話はうやむやのうちに終わった。
0006人間七七四年
2010/12/13(月) 00:48:57ID:KDIT8k1C運悪いなホントに……。
00075
2010/12/13(月) 01:39:12ID:AXAqysHt・行長が捕虜を講和の使者にしたのは景応舜が初めてではなかった。
東來城で捕虜にした蔚山郡守の李彦誠という人物にも手紙を託して開放していたが
彦誠は罰せられることを恐れて自力で脱出したと申し出て手紙のことを報告しなかった。
が、応舜の書状に「前にも蔚山郡守に手紙を託したが返報がない」と書かれていた為発覚
・ルイス・フロイスの「日本史」に収められている行長から秀吉への書状にこの件に関する記述があるのだが
そこでは景応舜は日本へ人質を差し出すことと明侵攻の援助を伝える朝鮮国王からの使者となっている。
この記述が正しければ「仮道入明」は成功していたことに…
・宣祖実録によるとこの一件の後、朝鮮では「倭將逼擁コ馨爲主, 金誠一爲相」という噂が流れたという。
李徳馨は直接指名を受けたせいで疑われたのか。
金誠一はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2066.htmlこういった件もあって当時は評判が悪かったらしい。
0009人間七七四年
2010/12/13(月) 12:41:11ID:KDIT8k1C0010人間七七四年
2010/12/13(月) 13:28:50ID:3897upvK清正と行長関連の話が出てるので、向こう側の国で作られたお話を
朝鮮での争乱を書いた作品に『壬辰録』がある。
成立したのは17世紀ごろと見られており、実在の人物が出てくるが所謂軍談小説的なものである。
まあ、今で言うところの架空戦記みたいなもんなので、ツッコミどころ満載な話となっている。
バリエーションも色々あるらしいが、とりあえず自分が借りた本の解説に載っているものを。
とある子の居ない夫婦の夢にある男が現れた。
夫婦「げえっ、関羽!」
そう、三国志でおなじみの関羽である。
関羽が何しに現れたのかと言うと、何でも罪を犯した天上人を子どもとして授けてくれるらしい。
後に夫婦の元に子どもが生まれる。子どもは崔日景と名乗り宣祖に仕えることとなった。
ある夜、宣祖が不思議な夢を見た。それを聞いた崔日景は、
崔日景「その夢はつまり…倭が襲来してくることを意味しているんですよ!」
宣祖「な、なんだってー!?………ねーよwww」
不穏を煽ることを言った罪で崔日景は流刑にされてしまうのであった。
やがて怒涛の如く倭軍が侵攻してきた。
李舜臣は奮戦するも銃弾に倒れ、姜弘立は各地で倭軍を撃退するも清正に敗北。
朝鮮の朝廷は都落ちを決定する。
清正は漢城を包囲し城中に残っていた人たちを餓死寸前にまで追い込んでいたが、
その時、清正を叱責する声が空から聞こえた。
清正「げえっ、関羽!」
そうまた関羽である。
これに肝を潰した清正は慌てて退却。まあ、ビックリするわな。
一方、都落ちした宣祖の後を追った崔日景は金応瑞の任用と明に援軍を請うよう進言する。
その金応瑞の命を受けていた妓生によって、調攝(小西行長)も寝首を掻かれる。
ところ変わって明。
皇帝は朝鮮から援軍を要請されていたが、「農繁期だから無理」と断っていた。
しかし、またまた夢にあの男が現れた。
皇帝「げえっ、関羽!」
そうまたもや関羽である。
関羽曰く、
「皇帝は劉備の生まれ変わりで朝鮮の王は張飛の生まれ変わり。
つまり、義兄弟なんだから助けてやれ」
とのことである。この三兄弟、生まれ変わる時も一緒になれなかったようである。
0011続き
2010/12/13(月) 13:34:05ID:3897upvKところがこの李如松、朝鮮に赴いたのは良いが、わがまま言いたい放題であった。
李「氾濫してる鴨緑江に一晩で橋かけろゴルァ!龍のテールスープ象牙の箸で食わせろゴルァ!
あと、宣祖は王の器じゃねえから兵を引き上げるぞゴルァ!」
結局、柳成龍と崔日景の機転により、李は態度を改めた。
やがて両軍の決戦が行われるが、決着がつかない。
そこで、清正と李如松が直接対決をすることになった。
しかし、この対決に割り込む者がいた。
李・清正「げえっ、関羽!」
ま た 関 羽 か
結局清正は関羽の威に圧されて、李如松に討ちとられた。
かくして、関羽のおかg…もとい朝鮮軍と明軍の奮戦により戦いは終わった。
倭軍は撤退し宣祖も都に帰還することができたが、崔日景は病に倒れ亡くなった。
それぞれその後であるが、
李如松は朝鮮の風水が優れていることを知り、明の仇になると考え気脈を断つため各地を巡ったが、
山霊に懲らしめられて帰って行った。
姜弘立と金応瑞は、倭が再び侵攻する動きを見せたため、倭の都を攻めて勝利したが、
姜は美女に惑わされて朝鮮を裏切ったため、金は姜を斬り、金もまた自決した。
十数年後、降伏文書を受け取るため惟政が倭に赴くこととなった。
惟政は、18990字の詩を諳んじたり、焼かれた部屋に閉じ込められても動じなかったりと、
数々の窮地を神通力で乗り越えた。
この化けm…使者にビビった倭王は遂に観念。
二度と朝鮮を侵略しないこと、毎年人の皮三千枚と銅鉄三千斤を朝貢することを約束するのであった。
…とまあ、かなりぶっとんだ展開の話である。
ちなみに関羽がやたらと出てくるのは、明が援軍で来た時に関羽信仰がもたらされ、
それが民衆に広まったためとされる。
まあ、話ができたきっかけ自体は悲惨なものなので悪い話に。
0015人間七七四年
2010/12/13(月) 14:29:01ID:nZg3Tts9仲間割れし過ぎの朝鮮人にワラタ
0018人間七七四年
2010/12/13(月) 16:41:51ID:lfCqmgOq0019人間七七四年
2010/12/13(月) 16:53:25ID:Hxm8UP3o人の皮三千枚って何に使うんだろう
0020人間七七四年
2010/12/13(月) 16:54:31ID:bRWQzd3h張飛は士大夫に媚びて兵を虐待して寝首かかれたからな。
張飛本人は当の士大夫に「兵士風情と聞く口はない」とか言われてるのに。
上に虐待されてるのに、上に媚びて下を虐待するという、
なんというかアンビバレンツなアレは確かに朝鮮王朝っぽいかも知れん。
一方関羽は「文弱な名士風情に聞く口はない」とか言ってた。
なんか流れ的に明や朝鮮より加藤さんとか福島さんとかの方が親和性高そうなのはきっと気のせい。
0021人間七七四年
2010/12/13(月) 17:17:02ID:pETB/tPGの前半の話(朝鮮の民話)を元にした芥川の小説では
・加藤清正と小西行長が僧形で連れだって朝鮮をスパイ
・そのときに清正が一人の童子を殺そうとするのを行長が押しとどめる
・その童子・金応瑞が成長して、三十年後来襲した加藤小西軍に立ち向かう
・金応瑞は行長の朝鮮人愛妾・桂月香と共謀して行長殺害を企む
・行長の首を落とすことには成功するが、行長の死体は首なしのまま金応瑞に向かってくる
・なんとか倒すものの、桂月香は行長の子供を孕んでいたため金応瑞は月香を殺害
・まだ胎児でありながら行長の息子は無念さを叫びつつ死亡
0022人間七七四年
2010/12/13(月) 17:21:47ID:iPrjsivU0023人間七七四年
2010/12/13(月) 17:22:38ID:KDIT8k1C0024人間七七四年
2010/12/13(月) 17:48:14ID:pETB/tPG(1626年にマニラで死んでいるから、どっちにしろ朝鮮半島で死んでないけど)
ついでにwikiの金膺禹(キム・ウンウ、金日成の曾祖父の項目)の脚注
『壬辰倭乱の金応瑞将軍は、金日成の祖先か?』張海成(ジャン・ヘソン、???)
前半では、北朝鮮の歴史教育で「金日成の家は代々続いてきた革命家の家系」だったとしている件を取り上げ、
現在は金日成の曾祖父の金膺禹以降の家系からしか教えないが、かつて党が「唯一思想体系」を考えた当初は、
これを金應瑞まで接続して、「壬辰倭乱時に平壌まで侵攻してきた倭将小西飛騨守(内藤如安)の首を刎ねた、
金應瑞将軍は金膺禹の何代前の先祖である…」と、解説されたことがあるが大韓民国の歴史学者によると(中略)
どのように系譜を辿っても金日成が、金応瑞の子孫となることはあり得ない」と虚偽を暴露されてからは、
金膺禹以降の系譜しか教えなくなった・・・
さすが北朝鮮。民話をそのまま首領様のプロパガンダに利用するとは
0026人間七七四年
2010/12/13(月) 23:18:37ID:E+ZuJ6hA実際にいてそれに尾ひれがついたんだろなあ
鷹狩り中に暗殺された武将もいたし
0027人間七七四年
2010/12/13(月) 23:45:53ID:KDIT8k1C0028人間七七四年
2010/12/13(月) 23:50:18ID:khoUP8nS0029人間七七四年
2010/12/13(月) 23:53:30ID:nZg3Tts90030人間七七四年
2010/12/13(月) 23:56:53ID:+/GID+f3家臣がそれを取りに木に登ったら朝鮮の兵がやってきて下から弓撃って来て、
家臣の方は銃で応戦してなんとか退けた、なんて話もあったな。
敵兵が出るようなところでも鷹狩はやめられないのねw
0031人間七七四年
2010/12/14(火) 00:00:59ID:ovc33NCR→加藤清正が暗殺されたという噂に→ついでに小西行長も暗殺したことにする→加藤清正も小西行長も有名なので
間違いだと指摘される→じゃあ小西は小西でも飛騨守(内藤如安)でいいや→現在の噂に
こんなとこだったりして
0032人間七七四年
2010/12/14(火) 00:58:16ID:S1SBfOqb山城と大和の国境あたりのことであったようだ、
そこに文右衛門(又右衛門とも)と言う男がいた。年の頃40ほど。髪や髭に白いものが混じり始めた。
大小の刀にさらに鉈を差して山の中に入った。
そこに
「あっ!?」
50人ほどの集団がいた。衣服も垢や埃にまみれ、皆疲れきっているようだ。
そのうちの一人が文右衛門に声をかけてきた
「やあやあ、我々は全く怪しくない者たちなのだが、君はこのへんの地理に詳しいかな?」
怪しい。露骨にあやしすぎる。むしろ怪しさが人の形をとって集まったような集団である。
文右衛門もこのような連中に関わりたくはなかっただろう。
が、人が良かったのか
「え、ええまあ、このへんに住んでいるものですから…」
つい言ってしまった。
怪しい集団の目が、光った
「で、では、泉州の堺まで出る道を知っておるか!?」
「は、はあ。まあ一応…」
「よし、堺まで案内をいたせ!」
ちょっと待ってほしい。文右衛門は思った。このような怪しい連中、どうせまっとうな集団ではあるまい。
これ以上こいつらに関わると、後々どんな目に合うか知れたものではない。
「そ、それがその、私はこの先に妻子を待たせており、急いでおります。案内はどうか他のものに…」
と、集団の横をすり抜けようとした。そこで腕を掴まれる。
数人が襲いかかり気が付けば道に抑えこまれ、大小の刀も奪い取られた。
そして集団の中の一人がにこやかに、強い訛りのある声でいう
「案内せんなら、おはんの命ここで奪いもす。そいどん案内するなら、過分の礼をしもんそ。」
目が本気だ。
文右衛門は致し方なく彼らの要求を受諾。堺まで案内した。
堺まで到着するとこの集団は文右衛門を開放。約束通り多くの銀子を与えられた。
後でわかったことだがこの集団、関ヶ原より退却中の、島津義弘の一団だったそうである。
そんな、島津義弘関ヶ原退き口のヒトコマ。
0033人間七七四年
2010/12/14(火) 01:01:00ID:SqtyEf0o長篠合戦の大敗後、武田勝頼の打った起死回生の一手は徳川家の取り込みであった。
その成否は判らないが、武田への内通を疑われて家康の正室と嫡子が殺された事だ
けは確かである。
家康に正室の築山殿を斬るよう命令を受け、それを遂行した野中重政は、浜松に帰
還し、主君に報告を挙げた。
しかし家康から帰ってきた言葉は、
「……謀反とは言え、女の事だぞ。どうにでもやりようはあったろうに。馬鹿正直
に命令通り殺してしまったのか?」
その言葉を聞いた野中は、家康の本心を知り、その心を汲めなかった自分を恥じ、
自ら蟄居したと言う。
また、嫡子・信康の身柄が大久保忠世に預けられた時、守役の平岩親吉が家康の元
に出頭し、
「若君の悪評は全て中傷に過ぎません。例え本当の事であったとしても、それは守
役の自分に全ての責任があるのです。私の首を刎ねて織田様に差し出せばそれで良
いではないですか!」
と抗議した。
家康はそれに答えて
「信康の謀反など、私だって本気で信じてはいないさ。でも、徳川家は織田の援助
無しにはやって行けない。お前の首で信長殿が納得するなら、お前の言葉に従うの
も良いだろう。だが、信長殿が納得するには信康の首が必要なのだ。それが判って
いるのに、信康に加えてお前と言う忠臣の首を斬ってしまうのは私に取って何より
の恥なのだよ」
と、涙を流して平岩を説得した。
平岩も言葉もなく、号泣しながら退出せざるを得なかったと言う。
信康の死後、家康主従が幸若舞を見る機会があった。
源満仲が我が子を討つよう家臣に命じた際、その家臣は自らの子を殺し、主君の子
の身代わりとした、という演目であった。
幸若舞を見ながら、家康は大久保忠世に一言だけ声を掛けた。
「……忠世、お前はこの舞を良く見ておくが良い」
『徳川実記』より信康切腹を巡る諸々。
「お前も子供は可愛いか」が有名だけど、忠世も言われてたんだねぇ。
0035人間七七四年
2010/12/14(火) 01:30:19ID:OdMzCbUJ忠輝「なるほど、子を嫌う親はいないということですね」
秀康「生まれた時から手元に置いて大切に養育するよね、普通」
0036人間七七四年
2010/12/14(火) 01:39:29ID:S1SBfOqbちゃちゃ入れるのもあれだがあんたら相当大事にされてるぞ。
特に秀康は家康が本当に父親かどうか相当怪しいというのに。
0037人間七七四年
2010/12/14(火) 01:46:41ID:o3i2IefM0038人間七七四年
2010/12/14(火) 01:53:58ID:R/MXzwvL0039人間七七四年
2010/12/14(火) 02:09:51ID:i7fi4oGa鍋島さんが小西と加藤の仲裁してるけど鍋島さんの小西評。
行長の戦い方はただ大軍で小兵を飲み込みだけの無能者の手口。
しかも勝って当たり前の勝利を誇らしげにするところが更に小者臭い。
まぁその後明軍が援軍に着た際化けの皮がはがれたよね。
ほんとにあいつは…一方の清正は(ry
清正評は良い事ばっかり書いてあって印象になく忘れました。
(兵は整然とし士気溢れ〜とかだったと思う)
鍋ちゃん小西さんになんか嫌な事でも命令されたのか?('A`)
出典は確か鍋島関係の書状だったと思います。
0040人間七七四年
2010/12/14(火) 08:29:26ID:qqUpo91o大軍で寡兵を圧倒する戦い方は古来、王道の戦い方なのに
0041人間七七四年
2010/12/14(火) 10:16:52ID:QXLGzJVN0042人間七七四年
2010/12/14(火) 10:18:13ID:0sHdGFmt0043人間七七四年
2010/12/14(火) 10:25:21ID:X5P8Ax6x0045人間七七四年
2010/12/14(火) 12:18:59ID:qqUpo91o勝者は自画自賛の書き物を残したりできるけど、敗者は一切反論できないしな、歪められまくりだ
0046人間七七四年
2010/12/14(火) 17:49:56ID:S1SBfOqbそういう事よく言われるけど、後世の印象なんて勝者にだってコントロールできるものではないよ。
足利尊氏なんて室町幕府の創始者なのに、その室町幕府の全盛期ですら神格化・偶像化どころか、
むしろかなり評判の悪かった節があるw
0047人間七七四年
2010/12/14(火) 18:53:37ID:cTKSOB0dいつの間にか各地で奮闘し、最後の戦いでは
家康を追い詰めたことになってる大坂の陣とか
意外と歴史は勝者の物ではないかも知れない
0048人間七七四年
2010/12/14(火) 19:10:34ID:qqUpo91o0049人間七七四年
2010/12/14(火) 19:17:11ID:lmcfnwDPその結果同じ立場にも関わらず割を食らう人がいるのも。毛利さんとか
0050人間七七四年
2010/12/14(火) 19:30:26ID:wBjjQ4hM民間伝承(講談など)は全くの別物だろ
特に江戸時代の講談は幕府への不満に対するガス抜きという側面があるから
厳しく取り締まって情報管制までするメリットは無いよ
現に歴史としては勝者の書き残したものが信憑性の高い史料として扱われてるのだから
第四次川中島などは講談の方が通説となってるけど
0051人間七七四年
2010/12/15(水) 00:37:01ID:Ulx/bxE5幕府の監査が入った梅松論でも後醍醐に対する反逆を払拭しようとしてないんだから
室町幕府自体に、そこまでねじ曲げて神格化しようとする意志が無かったように思えるんだが
0052人間七七四年
2010/12/15(水) 19:05:45ID:dgl2CJIl奥州仕置後の朝鮮出兵時、南部信直と安東実季は、対立していた両者の和解の証として
安東実泰と南部信直の義娘(北信愛の娘)の結婚を取り決めた。
この婚姻は前田利家を仲介として進められ、文禄4(1595)年8月に二人は結婚することになっていた
のだが、この年、安東実季と比内郡の豪族浅利頼平との間で紛争が起きた。
両者は断続的に交戦を繰り返し、この紛争は中央も巻き込んだ大きな騒動となったのだが、
二人の結婚はこの騒動の影響をもろに受けた。
南部信直が8月に娘千代子に出した書状より
「お前の妹の結婚についてなんだけど、実季と頼平の争いのせいで、比内―檜山間はひとの行き来も
ないそうだ。おかげで連絡なんか来やしねえ、今月は難しそうだ、困ったわ(;´Д`)ハア」
「秋田側から結婚について22日に執り行いと連絡してきた。いや無理だろ(* ̄ ̄)/☆」
「津軽の奴が後押ししたせいで比内がその気になっちまったっぽい。比内勢が秋田方の稲を刈り
取りやがった。近日中に戦争はじまりそうだ・・・orz」
「結婚のことなんだけど、秋田の情勢が悪くなってるからとりあえず待てと人をやった(;´д`)トホホ…」
「秋田への輿入れのことだけど、もう連絡もなにも途絶えちまった。もう先に延ばすしかないわ。
しかも秋田の進退がやばいらしい(;´Д`)マジカンベン」
しかもこの8月には、盟友八戸政栄の息子で長女千代子の夫でもある八戸直栄が病死している。
隣国では戦争が始まるわ、おかげで娘の嫁ぎ先家自体が危なそうだわ、大事な娘婿は亡くなるわ、
どうにも良いことがない南部さんの憂鬱な8月。
0053人間七七四年
2010/12/15(水) 21:03:11ID:dGBZ5zDz敗者は敗者でこれ以上惨めにならないように美化させた記録を多く残すモノである。」
なんかの本で読んだが、妙に腑に落ちた。
0054人間七七四年
2010/12/15(水) 21:59:04ID:M2aU5zX70056人間七七四年
2010/12/15(水) 22:21:00ID:M2aU5zX70057人間七七四年
2010/12/16(木) 00:31:26ID:FWAScqun礼元は朝鮮役開戦時朝鮮南東部金海の府使(地方長官)であったが
金海は黒田勢の攻撃によってわずか1日で陥落してしまった。
徐礼元は城を棄てて逃亡し、生き残った。
礼元が再び日本軍と戦うこととなったのは1593年6月の晋州城であった。
前年の晋州城攻防戦で朝鮮軍を勝利に導いた「もくそ官」金時敏の後任者として晋州城に入った礼元は
半島南部支配の既成事実化を目指す日本軍9万と相対することとなった。
当時晋州城の状況は最悪だった。
明軍は講和を探るために積極的な攻撃を控える方針へと転換しており、傍観を続けた。
朝鮮軍は晋州城を棄てるか否かを議論したうえで主力は撤退、一部の義兵が入城するに止まった。
晋州城は敵中に全く孤立した状態だったのである。
攻防戦の最中礼元は日本軍を恐れるあまり心神喪失状態であったという。
防戦の指揮を執れば城壁への日本軍の工作を見逃し、巡城将となれば笠を脱いだまま泣きながら巡回を行って士気を落とす。
怯える城主の下では組織的な防御ができる筈もなく
城中の将はそれを補うべく最前線で戦い、次々と戦死していった。
そしてかの加藤清正の「亀甲車」によって城壁は崩され、多数の日本軍が突入してきたとき礼元はどうしたか?
礼元は再び金海を繰り返した。真っ先に逃げたのである。
城主の逃亡によってついに朝鮮軍は崩れ、晋州城は陥落した。
礼元は川に飛び込んで逃げた後、藪の中に潜んでいたところを見つかり、首を刎ねられた。
その首は塩漬けにされて京に送られ、「もくそ官」金時敏の首として晒された。
0058人間七七四年
2010/12/16(木) 08:26:20ID:W2tnJf8S0059人間七七四年
2010/12/16(木) 08:52:55ID:FOLGtUMUそんなんなら巡回すんなよw
0060人間七七四年
2010/12/16(木) 10:02:53ID:QE+Q5UG00061人間七七四年
2010/12/16(木) 11:19:57ID:NxzU8Gfu”おらんかい”に侵入。そこの”ゑんたん”という城を攻めたときのこと。
それはゑんたん城攻め前夜の評定の席のこと。清正がふと、こんなことを言った
「明日の城攻めに置いて一番乗りは誰になるかな?」
これを聞いた清正家臣の勇者、森本儀太夫は傲然といった
「誰って言われても…、俺がやりますよ。(誰々と候とも、某仕るべき)」
この言葉に黙っていられなかったのが、同じく勇者と名高い貴田孫兵衛である。
「はっ!この清正様の家中に他に人はいないかのような物言いをするうつけ者がおるわ!
(御前に人もなきやうに、物を申し勢虚け者かな)」
「うつけとはなにか!」
「文句があるのか!?」
森本と貴田、お互い頭に血がのぼり今にも斬り合いをせんばかりの形勢となった。
そこに清正が割って入る
「両人ともさすがの武士である!今夜の命はこの清正に預けてくれ。そしてそれを
明日の城攻めのために使ってくれ!」
これには両人さすがに畏れ入り、共に陣屋に帰った。
さて、森本儀太夫、陣屋に変えるとすぐさま飯を食い、腰兵糧を調えると夜のうちに
ゑんたん城の大手門の前に待機した。
そして夜明け頃、貴田孫兵衛も軍勢が集まる前に大手の前へとやってきた。
貴田に気がついた森本は声をかける
「今やって来たマヌケ野郎は孫兵衛か!?(今来たりたるほれ者は孫兵衛か)」
これに貴田
「ああそうだ!一緒に攻めこも…、あー!?」
森本儀太夫、貴田孫兵衛の返事が終わるのを待たずゑんたん城の大手に攻めかけた!
「これでわしが一番乗りじゃ!」
そしてそこにいたおらんかい人と組み合い、終にその首をとった。
「あの野郎出し抜きやがって!」
貴田孫兵衛もすぐさま続いて駆け込み、そこにいた身長八尺ばかり(約2メートル40センチ)の
大男と組み合ったが、これはおらんかい人の剣に突かれて討ち死にしてしまった。
このゑんたん城攻めにおいて、清正の軍はおらんかい人730名を討ち取った。
味方の死者は侍が、貴田を含めて7名、雑兵が27人だったという。
落城後、森本儀太夫から先の一番乗り争いのことを聞いた清正は
「さすがは義太夫である。孫兵衛は殘念なことであった。」
と、森本儀太夫には500石を加増。貴田孫兵衛は子がなかったので、帰国後その兄弟を探し
後を継がせたそうである。
ゑんたん城攻め、森本儀太夫・貴田孫兵衛の一番乗り争いのお話。
0062人間七七四年
2010/12/16(木) 12:57:33ID:A9D+GPJ1泣きながらの巡回はさすがにまずいということで即交代になったそうだ。
てか篭城側には泣いている徐礼元を見て発作的に斬ろうとして止められた人もいたとか。
ちなみに礼元の前に巡城将にだった者も礼元の次に巡城将になった者も
日本軍の銃撃で戦死している。妙なところで運がいい人だ。
0063人間七七四年
2010/12/16(木) 22:10:26ID:0D3WzeQBこれくやしいよね
こんなのを金時敏の代わりに取らなきゃいけないなんて…
やっぱどうせ勝つなら強い指揮官に勝ちたいよなー
0064人間七七四年
2010/12/17(金) 07:42:10ID:Y98GrbNp漢城放棄するはめになったんだよなぁ。朝鮮の役失敗の最大要因。
その後任がこんなヘタレとは…
0065人間七七四年
2010/12/17(金) 15:08:42ID:pq4m/SiT人々は恐れ、関わり合いを避けていたらしい。
彼の持槍は「又左衛門槍」と呼ばれ、人々は遠くにその槍の頭を見つけると
「ここに又左衛門が来るぞーーーーー!!!」
と叫んで皆家の中に駆け込むほど、彼を恐れたのだそうだ。
この事は後年、利家自身が家臣たちに(多分自慢気に)語ったことだそうである。
質の悪い不良以外の何者でもない、前田利家の若い頃のおはなし。
0067人間七七四年
2010/12/17(金) 15:45:15ID:fjyTEnM60068人間七七四年
2010/12/17(金) 15:54:26ID:SfPGvf3M0069人間七七四年
2010/12/17(金) 18:33:20ID:zkcF8vy5前田利家はその地を支配する織田家に仕える身(ついでに穴を貸す間柄)だ。
現代なら中国共産党幹部のドラ息子の取り巻きに相当する。
共産党から睨まれない限りは、人を殺そうが小学校の女子児童を丸ごと奴隷にしてもお咎めなしだ。
0070人間七七四年
2010/12/17(金) 19:21:22ID:e0Lb+jer人を殺して浪人してますがな
女子児童と結婚したりはしてるけどw
00721/2
2010/12/18(土) 00:17:54ID:37SNsXV4朝鮮の二王子を生け捕った加藤清正はオランカイからあんへん城へと帰陣し、そこで鹿狩りなどをして
休息していた。そこに明国よりの皇帝の勅使の一団が向かっているとの情報が入る。清正は城内を清掃させ、
丁重にこの勅使を迎えた。
あんへんに到着した勅使一行は、清正と対面すると、一礼の後通詞を通じ皇帝からの勅書を読み上げた。それに曰く
『日本はかつて、中華皇帝の下に仕える七つの王の一つであった。
皇帝は日本に王号を許し、日本は毎年貢物を納めに来ていた。
ところが近年はそのようなことがなくなり、あまつさえ今、小国日本の王の権臣である太閤秀吉は
軍勢を朝鮮に発し狼藉を犯した。
このことに皇帝陛下の叡慮は穏やかならず、ここに40万の軍勢を差し向けられた。
遼東の明朝鮮国境まで進出したところ、一戦にも及ばず、小西行長を始め日本勢は悉く武具を捨てて
逃げ退いた。そこで朝鮮の都まで追い詰め、都にあった宇喜多秀家を始め何れも討ち取った。
今や釜山港よりこの朝鮮国の内に、日本人というものは、加藤清正、お主達を除いて一人もおらぬのだ!
…さりながら、だ。加藤清正、そなたは法律を公平に運用し、罪のない者を斬ることもなく、慈悲深い者であると、
叡聞にまで達しておる。
さて、そなたは朝鮮国の二人の王子、並びに朝鮮第一の美女を捕虜にしたと聞いておる。
その者たちを、我々に渡すのだ。そうすれば我らは北京より数千隻の船を出し、清正とその軍勢を
無事、日本に帰国させるであろう。』
以上のような内容であった。清正これに
「四百予州の大王からの御綸旨を、秀吉の家老として私が拝見したこと、生前の大幸であります。」
と、勅書を恭しく頂戴し、「二王子はこちらにおりますが美女は後方に置いてあります。連れてくるまで
少々お待ちを」と勅使を馳走、そして日本の小袖などを引き出物として渡した。
この清正の態度に勅使たちも安心し、あんへん城に逗留した。
00732/2
2010/12/18(土) 00:18:53ID:37SNsXV4あんへんまで輸送するように、と伝えた。これに直茂も
「あの美女は太閤殿下に差し上げるつもりであったのですが、何事も清正殿のお考えに従いましょう」
と、侍二人を添えて美女を送り届けた。
さて、勅使が到着して5日ほどたった頃、美女が到着した。
清正は早速、二王子と美女を勅使に引きあわせた。勅使たちは「紛れもなく我々が求めていたのは
この王子たち、この美女のことだ!」と大喜び。と、この時
清正は「勅答を申し上げる!」と、勅使に向かって声を張り上げた
「朝鮮王子の儀は、太閤殿下に問うこと無くその方に渡すことは出来ない!」
そして美女を勅使たちの前に起き
「そもそも平安道で活動していた小西行長は、日本の堺港の町人に過ぎない!彼は宗対馬守の縁者であったゆえに、
朝鮮大明の案内者となり、かの道に遣わされただけなのだ!
日本国太閤殿下の本当の武将というのは、この加藤清正である!
40万の人数?こちらに差し遣わされれば良い!
幸い我々は今、良い場所に陣取っている。ここの太山をどううまく越えようとしても、1日に1万がやっとであろう。
我々は1日に1万づつ、40日のうちにその軍勢を討ち果たそう!そして直に北京に乗り込み、宮殿楼閣を
悉く焼き崩し、大王を生けどり、この朝鮮王子のようにして日本へ連れ帰るであろう!」
そしてこれを文書とし、これに『豊臣朝臣清正』と書判を据え勅使に渡した。そのうえで
「美女は外でお渡しする」
と、美女を磔の木にくくり上げ、清正自身が穂長の槍で、これを串刺しにした。
そして「これを持ち帰られよ」と、その死骸を勅使に渡した。
これを見た明の勅使は恐れおののいて帰国をした。
清正が明人などから『鬼上官』と呼ばれるようになったのは、この事からだという。
加藤清正、明の勅使と相対する、と言うお話。
0074人間七七四年
2010/12/18(土) 00:22:54ID:g3C3Ckze0075人間七七四年
2010/12/18(土) 00:23:31ID:kmJ/ebWi0076人間七七四年
2010/12/18(土) 00:31:08ID:jOI29Oovまぁ、美しさは罪〜♪って歌もあったけどなw
0077人間七七四年
2010/12/18(土) 00:36:03ID:MGce7drF0078人間七七四年
2010/12/18(土) 00:39:18ID:g3C3Ckzeブサイクだからと殺したら逆に人間性最悪だけどな。
美人だから浮き世の利得に拘らないという形になるわけであって。
0079人間七七四年
2010/12/18(土) 04:01:13ID:4Kqw3abi0080人間七七四年
2010/12/18(土) 10:09:42ID:FR/JHBHR朝鮮半島から泳いで帰ったというわけですね
0081人間七七四年
2010/12/18(土) 10:14:59ID:ciMbGaQG0082人間七七四年
2010/12/18(土) 10:27:52ID:pKXWqYQ10083人間七七四年
2010/12/18(土) 13:34:18ID:3ME5BnYQ0084人間七七四年
2010/12/19(日) 10:15:34ID:FiZ13f8c0085人間七七四年
2010/12/19(日) 11:05:37ID:9+RsN49T脇坂が凄い大物みたいな扱いなんだっけ?こっちじゃ、関ヶ原で寝返ったくらいの認識しかされてないような扱いなのに
0086人間七七四年
2010/12/19(日) 13:12:54ID:6iy/ygkp0087人間七七四年
2010/12/19(日) 13:35:05ID:nXw7uXzb0088人間七七四年
2010/12/19(日) 13:41:35ID:9+RsN49T0089人間七七四年
2010/12/19(日) 14:13:44ID:bjU4OF5Pまあどっちみち低い身分の出であることには変わりない。
だから小西行長を薬屋と見下す逸話をみるたびに
清正は傲慢で身勝手で嫌味な男だってイメージが……
福島正則みたいに抜けたところがあれば
愛嬌にもなるんだけども。
0090人間七七四年
2010/12/19(日) 15:02:27ID:loYwFdNS「二・三代前は目薬屋の成り上がりめ」って嘲られて
「武士の子が武士になっても、鷹が鷹の子を産んだだけの事。
鳶が鷹を産んでこそ偉大な事であり人は関心するものさ」と切り返したらしい。
0092人間七七四年
2010/12/19(日) 18:50:50ID:jaNk5+rDその第二十条より
『知行を質に入れたが返済ができず進退きわまり、今川家の方に「このままでは
出家するしかありません!」とか、「夜逃げするほかありません!」とか言ってきて、
借金の救済を願い出る者が居る。
あれは去る明応年間のことだ。庵原周防守がやはり借金で首が回らなくなり、今川家に
泣きついてきた。
彼には譜代家臣としての忠功もあるので無下には出来ず、今川家の所領から
焼津郷を債権者に与えて、借金の肩代わりをした。
ところが今度は今年、大永5年(1525)である、
今度は安房守(庵原忠胤か)がしきりに借金の救済を願いでて、聞き入れられなければ
御前を去るなどと言い立てるので、已むを得ず救済の下知を下した。
彼らは一家の家長であり老臣でもあるから、一度はこのような処置をしたが、
今後このように借金をして困窮し、救済を願い出るようなことに至れば、
所領没収とする!』
つまり借金の公的救済の停止をうたう条文である。
こんな条文に堂々と名前と行為を記載された庵原周防守さんと安房守さんには、自業自得ながら
少々気の毒な、そして戦国大名も家臣の借金にまで気を使わされて大変だな、というおはなし。
0093人間七七四年
2010/12/19(日) 19:00:02ID:PYk9+7BFそれと自分の伊豆三嶋の屋敷を貸主の寺院に売り払っているな。
当時の寺院や有徳人層からの借金で、大名の重臣クラスでも首が回らなくなるというケースが
しばしばあったみたいだな
0094人間七七四年
2010/12/19(日) 19:02:27ID:anSKeeP70095人間七七四年
2010/12/19(日) 20:44:07ID:dVzqKbH4結構真面目に払ってるんだな
0096人間七七四年
2010/12/19(日) 20:49:40ID:za8GgyiE0097人間七七四年
2010/12/19(日) 20:52:26ID:IXk11re/0098人間七七四年
2010/12/19(日) 21:56:37ID:pwhKf46i娘の方だって懐剣とか持ってそうだし…おいしくないな
0099人間七七四年
2010/12/19(日) 22:31:25ID:X+orVbJ1貸す方も借りる方も。
0100人間七七四年
2010/12/20(月) 03:01:00ID:kiDc5BxX上州沼田の豪族に金子美濃守という人物がいる。
少し前の雑談、「ヘタレ武将」の中でも名前が挙がっていた人物ではあるが、実は
それなりの能力は持っていたらしい。
元々は沼田氏の配下だったのだが、娘(妹・姪という説も有)を当主の妾として、
沼田氏が北条派・上杉派で内紛を起こした際には北条派を粛清、娘の産んだ子を世
継に据える事に成功。
しかし真田氏が進出してくると、孫を捨てて真田に寝返る。あまつさえ由良氏の援
助を受けた孫が逆襲に転じると、内応したように見せかけて謀殺してのけるという、
戦には弱いが謀略・調略に才能を発揮した武将だったようで、真田家中でも沼田衆
のまとめ役を務めたようだ。
そんな金子美濃守、戦続きで乱れた世の中を憂い、平和を祈願する為に、上州の修
験道場として有名な湯殿山に参詣しようと志した。
湯殿山で修行する僧に道案内を頼み、知り合いでもあった海蔵寺の住職にも同行し
て貰い、湯殿山に登り始める。
しかし、不思議な事に御山に一歩足を踏み入れた途端、美濃守の手足は竦み、頭は
クラクラとして前後もわからないようになってしまった。
案内人達が美濃守に問う。
「これは御山が貴方の入山を拒んでいるのではないでしょうか。貴方は何か、懺悔
するべき大罪を犯されておりませぬか?」
「し、仕方がなかろう!わしとて重代の主君を殺したくなどなかった!しかもわし
に取っては孫に当たる若君だったのだぞ!それでも、殺さねばならなかったのだ!
金子の家を残す為だったのだ!!」
0101人間七七四年
2010/12/20(月) 03:02:20ID:kiDc5BxX美濃守が、山伏達にそう言葉を返した途端、茂みの中から彼等の前に一匹の蛇が姿
を現した。
百尋もあろうかという巨大な大蛇であり、この大蛇は美濃守をジッと見据えたまま、
自らの腹を美濃守の目の前に晒した。
「…………平八郎様っ!!」
美濃守は騙し討ちにした孫の名を叫ぶと、その場に昏倒してしまう。
山伏達と海蔵寺の住職が大蛇を見ると、蛇の左の脇腹には痣のように見える模様が
あった。
生前の平八郎にも痣があったか、騙し討ちにした時に左脇を斬り付けたのか、美濃
守と平八郎にしか判らない何かがあったのだろう。
だが、この大蛇が平八郎の怨霊である事は確かだと、後に息を吹き返した美濃守自
身が語ったという。
山伏達&住職に担がれるように山を降りた金子美濃守。
海蔵寺の住職には
「平八郎様の霊を慰め、菩提を弔う為に出家されては如何だろうか?」
と提案されるがそれを拒否。
あくまで在家のままで平八郎の菩提を弔いたいと言って、湯殿山の参詣者達の為に
登山道の整備に私財を寄進したり、七度まで執拗に湯殿山参詣にチャレンジしたり
もしている。
だが、遂に美濃守が山頂にまでたどり着く事はなかったという。
この事があった後、美濃守の館では、日が暮れるたびに平八郎殿の霊が現れたと言
う。
沼田衆のまとめ役であった美濃守だが、配下の沼田衆の心も離れて行く。
この様子を見て真田昌幸・信幸父子も美濃守を見限ったのか、小田原征伐の後、関
東が静謐になると、美濃守の所領を替え、少しずつ減らして行った。
最後は自らの館もなく、縁者の元で病死して果てたと言う。
真田配下でのヘタレ敗戦の事ばかりが有名な金子さんですが、意外に謀略家だった
んですね。
出家を勧められて拒否する辺りは「戦国の武士として間違った事はしてない」とい
う矜持でも持っていたのでしょうか。
見方に寄ってはちょっと同情出来なくもない、金子美濃守と沼田平八郎の怨霊のお
話でした。
0102人間七七四年
2010/12/20(月) 03:07:22ID:4DsGlYKIいうことですね
K○MATSU「私の父が何か」
0103人間七七四年
2010/12/20(月) 10:31:32ID:U8AHGvqt0104人間七七四年
2010/12/20(月) 11:09:14ID:MNMRktQ30105人間七七四年
2010/12/20(月) 11:26:21ID:oL63smAx山伏達&住職「OKボス」
0107100-101
2010/12/20(月) 13:25:21ID:kiDc5BxX先の逸話では省略してしまいましたが、出典元では海蔵寺の住職が出家を勧めた時、
「うちの寺は元々、上杉顕定が討死した時、主君を守れず、仇も討てなかった後悔
から、沼田景秀が建立した寺」と、寺の縁起を語り始めます。
自分は「主君の菩提を弔う為の」「沼田氏所縁の寺」の住職である、とまるで説得
というより難詰するかのような雰囲気です。
平八郎の霊が出るようになって、人も離れたと書かれていますし、昌幸の陰謀云々
よりも、真田家中の雰囲気が「……出家すればいいのに」という空気だったんじゃ
ないですかね。
本人からしてみたら仕方なくやった暗殺ではあったのだけれど、周りの人達は皆、
ドン引きしていた。ってな感じでしょうかw
0108人間七七四年
2010/12/20(月) 17:50:35ID:Bz+orXp5細川政元は八幡神と愛宕の観音の申し子、更には聖徳太子の化身である。
元々は政元の父である細川勝元が臨終の際、秋庭備中守元明に語った話だ。
曰く、
「私が死んでも九郎(政元)がいるので心配はいらない。
なぜならあの子は愛宕の観音に祈願した日の明け方、あの子の母の夢枕に聖徳太子が立たれ
「我は聖徳太子である」と仰せになって口の中に飛び込まれた夜から七日目に授けられた子だからだ。
故に必ず威勢があるだろう」
そう、密かに語られたそうだ。
また、蓮如上人が弟子に語った話がある。
曰く、
「細川政元殿のことを、人々はみな、聖徳太子の化身と申している。
というのは、政元殿は、愛宕の観音と八幡神とに祈請して授かった子であるからだ。
その九郎政元殿が十二の年に、一宮大輔が九郎殿を奪って丹波へ下ったことがあった。
その夜の明け方の夢に、愛宕の観音よりの歌で、
君が代を 久しかれとぞ 祈りける 念彼観音の 力にまかせて
(君が代が久しく続け 観音菩薩にそのように祈り託するばかりである。)
とあり、九郎殿は夢に返歌をされて、
白妙の 雪は積もれど 八幡山 ゆくへ久しく 神にまかせん
(真白な雪がたとえ八幡山(男山八幡)に降り積もったとしても、我が代の行方は遠い将来まで、神の御意向にお任せすることにしたい。)
と詠まれた。そのような不思議なお方であった」
これらの話から、特に本願寺では細川政元は聖徳太子の化身、観音と八幡の申し子と言われていたらしい。
出典は『蓮如上人行實』所収「空善聞書」。
何故か政元の出生に関して第四四条、第九三条と二度語られている。
細川勝元・政元親子の信仰心の篤さを語る話でもあるが、後々の政元の愛宕信仰の結果を考えるとちょっと悪い話かもしれない。
0111人間七七四年
2010/12/21(火) 15:19:24ID:Y4gxcbxI0112人間七七四年
2010/12/21(火) 21:43:39ID:bksirmnU0113人間七七四年
2010/12/21(火) 21:50:07ID:H5JTVFtj0114人間七七四年
2010/12/21(火) 21:51:01ID:csiriydX0115人間七七四年
2010/12/21(火) 22:31:28ID:Fpji9tBu鷹超えた!?
0116人間七七四年
2010/12/21(火) 22:33:21ID:awmvwei90119人間七七四年
2010/12/22(水) 00:44:16ID:t113YYki文禄4年(1595年)頃にあるスキャンダルが大坂中の民に知れ渡った。
ある一行が道中、秀吉側室が疲れたので茶屋にて休憩するに至ったが、無論中にはお付の侍女らしか
居らず、周りには太閤から信頼のおける者が数名警護にあたっており出入り口を通れた者は
門番の厳しいチェックを受けた者で、実際に通る事が許されたのも身分ある女性だけだったが
名古屋山三郎が女装してあっさり入って暫くのち出てきたが為に不義密通疑惑の大騒ぎになる。
この出来事に関わったと言われている者たちは誰も死罪等を言い渡されておらず
大抵の者が処分がない事から、山三郎が行き付けの茶屋で先客として既に居た所を偶然居合わせ
太閤殿下の側室だからと云って"すぐ出て行けとは横暴である"と断り、のんびりして出てきた場を
たまたま野次馬に目撃され民草たちが大げさに話を広げたと云う話であるが山三郎はこの直後、
帝の直轄地として太閤と云えども手出しのし辛い四条に隠れた事や、この時の門番を任されて
いたいう太閤秀吉から信頼の厚い馬廻衆、小沢彦八郎と云う若衆が職を奪われている。
この事件の翌年、慶長元年(1596年)から約三年もの間、舞太夫として太閤に招かれたのは
”村山又八ら狂言師が伏見に招かれ太閤の前に狂言尽を為す”と"事始"などに記録されてる通り
山三郎本人ではなく、山三郎の直弟子達が代わりに太閤に贔屓されるに至っている事も
噂話に変に尾ひれがついてしまったと云われる。(村山又八は京芝居の祖と云われる人物)
更に翌年、慶長元年(1597年)には浪人の身で各地放浪をしていた小沢彦八郎が三十人程いた
森忠政側近衆の一員として仕官するに至り、後に山三郎が森家中に加わった際に
山三郎の末妹を娶る事を森忠政から許され、森家中でそれなりの地位となった事や
山三郎が出家した事がこの噂話に変な真実味を加えたのではないかと言われている。
実際には、このスキャンダルが流れた時期に太閤秀吉は山三郎の妹が森家へ輿入れする際
自身の結婚を山三郎と新婦の父に祝ってもらった事を諸将によく自慢しており亡き弟
秀長に代わり豊臣、名古屋の両家を代表して嫁ぎ先の森家へ名刀"鎌倉一文字"と
祝いの書状を送っている事から両者の仲はむしろ親密で山三郎が一時的に大阪から
遠ざかったという事実だけで噂が独り歩きしていって収拾がつかなくなっていった次第である。
この大坂スキャンダルは民草に目撃された雑説として知れ渡っていた事から江戸期に
なっても調べ上げる者が多く、この謎の側室が誰であったかを淀君と主張する
"近世奇跡考""嬉遊笑覧""塩尻"を始め、松の丸殿と主張する"泰平漫録""梅屋日記"など
側室が誰であったのか以外はどの書物からも時期、時間、場所等が一致しており
"異本大阪物語"に至っては、御丁寧にこと細やかに逢引方法が書かれている。
が、こんな下地のあるネタが淀殿バッシングの激しい徳川天下の時代で利用されないはずが無く
戦国期にはこの側室が誰か判らない事が民草の想像を駆り立て噂が広がったが、
江戸期にはこの女性を完全に淀殿と断定し、山三郎は弟子の村山又八の息子らが江戸に
歌舞伎座を起した為に現代でも歌舞伎直系の祖とされているが、恰も"歌舞伎役者"名古屋山三郎が
戦国の時代に存在したかのように脚色され、歌舞伎発祥以前に淀殿が若い歌舞伎役者連れ込んで
浮気をしていたと云うあべこべ話が成立してしまい、この偶然が重なっただけかも知れない
大阪での出来事は真偽はともかく、最終的に淀殿の不義密通説の土台として定着し、
時期を変え、相手を変え、秀頼の出生まで疑われることに大いに貢献する事になった・・・。
ただの噂が原型を留めずに変わっていく悪い話
0120人間七七四年
2010/12/22(水) 01:07:56ID:w0lRq0It0121人間七七四年
2010/12/22(水) 01:14:21ID:kxcv72cu0123人間七七四年
2010/12/22(水) 07:16:15ID:pRl6jfC9毛利にそのまんまなタイトルの小説があるんだ
親鷲子鷹孫鳶ってな
一族の小説なのに輝元が鳶ってのはひどいと思ったが
一番ひどいのは子鷹の部分が隆元でも元春でもなくて隆景ってところだった
0124人間七七四年
2010/12/22(水) 08:03:07ID:g0zZFn450125人間七七四年
2010/12/22(水) 23:39:35ID:7IbjQlmt0126人間七七四年
2010/12/23(木) 02:11:11ID:O6ZN9IN2今までなんとなく鷲>鷹>鳶の順番で大きくて強いのかと思ってたけど
ぐぐったらトビはオオタカやハイタカより大きいんだな
弱いのか?カラスによくつつきまわされてるもんな…
いっしょに鷲>鷹な感じの逸話を投下
関ヶ原での一戦が終わった後のこと、家康の本陣では首実験が行われ諸将が参集していた。
そこにやってきた小早川秀秋は、芝生の上にひざまずき、明日の佐和山城攻めでの大将を
つとめることを望んだ。
寝返った武将が前に出て働き、寝返り先もそれを認めるのが相互理解っつーもんで
まあ申し出自体は尋常なんだろうが、その場にいた福島正則に言わせると、
言い出す態度がやりすぎだったらしい。
後になって友人の黒田長政に言ったそうだ。
「いくら勝ったといっても、まだ将軍でもない内府に、中納言の秀秋が芝の上で手をついて
見せたのはみっともいいもんじゃなかったな」
黒田長政にしてみれば秀秋は寝返り工作を仕掛けられるくらいに誼を通じた相手、
十代の小僧のしたことと気楽に構えているのかもしれない。
「まあ鷹と雉が会ったと思えば、あんなもんかで済むだろ」
と、庇ってるんだか却って失礼なんだかよくわからない事を言って笑っている。
すると正則の方でも「それはお前の贔屓だな」「鷹どころか、鷲と雉くらいは違うだろ」と
笑ってしまって、その話はおしまいになった。
0127人間七七四年
2010/12/23(木) 02:29:31ID:O6ZN9IN2雉、やっぱ獲物的イメージ強いよなー
もうちょっとマシなフォローしてやってよと思った悪い話です
0128人間七七四年
2010/12/23(木) 04:16:20ID:dcK0nt3f初夢で吉とされる
一富士
二鷹
三茄子
は家康の好きなモノの順番だったらしい
0129人間七七四年
2010/12/23(木) 09:05:27ID:+Bc/juOC>>128
5番目辺りがタバコだけど、これも家康の好きな薬というカテゴリなんだろうか
0130人間七七四年
2010/12/23(木) 10:27:17ID:7/eUgEyb現在のアメリカ合衆国の国章から
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:US-GreatSeal-Obverse.svg
古くは東ローマの双頭のワシとか
全く関係ないがこの回は良かった
http://www.nhk.or.jp/darwin/program/program007.html
0131人間七七四年
2010/12/23(木) 10:38:59ID:1GePetwFhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Coat_of_Arms_of_the_Russian_Federation.svg
まぁ全然関係ないな
0132人間七七四年
2010/12/23(木) 11:21:23ID:1DESRd2zだね。
ロシアの双頭の鷲はローマ帝国の後継国家としての象徴とかいう話は
面白いんだけど、このスレとは無関係だ罠。
0133人間七七四年
2010/12/23(木) 11:27:33ID:XRFZlCo2それはローマの流れを汲んでるからではないのか?
それに強い動物を意匠にしてる事の方が普遍なような気が…
0134人間七七四年
2010/12/23(木) 12:51:04ID:IpEomSAS0135人間七七四年
2010/12/23(木) 12:53:53ID:0k6GL8HL0136人間七七四年
2010/12/23(木) 18:52:05ID:d65jbRhN日本の話に戻ろうぜ
0137人間七七四年
2010/12/23(木) 19:07:41ID:C0tcKKZN加藤清正は文禄の役の所業が豊臣秀吉の勘気を受け、処罰が下され切腹もありうる、と噂された。
このため清正は、弁明をせんと朝鮮より帰国。伏見に到着するとその足で増田長盛の屋敷へと向かった。
増田と対面すると、清正はまくし立てた
「私が今、高麗より直にあなたの所に参ったのは余の儀ではありません。
ご存知のように私は治部少輔(石田三成)の奴と大変仲が悪い。それ故に治部は太閤殿下に
ある事ない事私の悪口を申し上げ、殿下も遂に、それを誠と思し召され、私を切腹させよなどと
仰っているとの使いがあり、そのため急遽帰国したのです。
治部少輔と私が仲の悪いこと、殿下も内々にご存知のはずです。
そもそも私は数年来高麗に置いて忠功を成し、本来勲功こそ頂くべきなのに、讒言を誠に取られたために
斯くの如くに成り果てるとは、是非に及ばに仕儀でござる!」
これに増田長盛
「主計頭(清正)殿、あなたの数年来のご忠義は天下に隠れありません。そうであれば太閤殿下の
お怒りのことは、治部少輔と仲直り致せばそれで済むことではありませんか。
今の世の中に石田殿のことを治部の奴などと言う者は、日本中におりませんよ。
もしあなたにその気があるのなら、私は明日にでも治部少輔にこの事を申し、仲直りの
仲介をいたしましょう。
もしそうしなければ、今日のあなたのご相談を解決することは無理というものです。」
これを聞いて清正は激高した
「八幡もご照覧あれ!私は治部奴と一生仲直りすることはないと誓う!
何故ならあ奴は朝鮮国において数回の合戦に一度も参加せず、人の陰口ばかり言いまわり、
気に入らない人間を陥れようと企んだ!そんな穢き奴原と仲直りしてどうするというのか!?
例え太閤殿下のご機嫌直らず、このまま切腹仰せ付けられようとも、治部の奴めと仲直りするなど
絶対にありえぬ!」
そして怒気は長盛に向かう
「そもそもあなたの態度も納得できない!私は朝鮮に在陣中昼夜苦労し続け、帰国すると直にこちらに参った!
私の朝鮮での労苦に敬意を持ち、また日頃のよしみから考えても、玄関までとは申さぬ、せめて
次の間まで自ら出てきて、久しきことよ、懐かしきことよと出迎えるのが当然ではないか!
それなのに座に居ながら、頭ばかり捻り回しての挨拶とはいかなることか!?」
これは清正が無茶である。清正は先に連絡もなく長盛の屋敷に現れた上、その時長盛は別の客と
対面していたのである。長盛はその客との対面をわざわざ早く切り上げて、清正の相談に乗ったのだ。
(このあたり、清正側の人間の記録である『清正記』にも、正直に書かれている)
だが清正は怒りで道理も見えなくなっている
「もはや貴殿のような礼儀知らずと話し合いをしてもどうにもならぬ!今後は絶交致す!」
そう言い放って座を立ち返ろうとする。増田長盛はそれでも後を追いかけ
「そういう事ではない!とにかくもう少し私と話を聞かれよ!」
と説得しようとするが清正は耳を貸さず、長盛の屋敷を出た。
清正のこの日の態度に、加藤家の家臣たちは
「さてさて何という物狂わしい人であるのか。あのような讒言など、昔も今もある習いではないか。
そもそも清正様は三奉行(石田三成、長束正家、前田玄以か?)と仲が悪く憎まれている中、
右衛門少尉(長盛)殿だけは入魂していただいていたというのに、こんな事になってしまうなんて、
是非にも及ばぬ次第である。もはや太閤殿下のお怒りが解かれることもなく、切腹させられる可能性も
高いだろう。」
と、清正のやりようを大いに憤ったとのことだ。
以上、加藤清正が増田長盛と絶交するに至る顛末のお話。
0138人間七七四年
2010/12/23(木) 21:29:07ID:1GePetwFなんでもいいから怒りをぶつけたかったんだろうなぁ
0139人間七七四年
2010/12/24(金) 02:30:24ID:IwLzb5Oh勘気の内容もよくわからないのに初めから治部のせいと思い込むのは・・・
秀吉の機嫌を取ったり直接意見を言える立場なのに、この慌てようは心当たりがあるんだろうなあ
0140人間七七四年
2010/12/24(金) 02:58:56ID:vGJsAUQ00141人間七七四年
2010/12/24(金) 11:06:40ID:b84mgSVC上野国沼田を制圧した真田家は、続いて北条家配下の白井長尾氏攻略に動き始める。
天正十年夏、白井城の支城である猫城&樽城に、沼田衆&川田衆といった上州国人
衆を主力とした真田軍一千が押し寄せた。総大将は矢沢頼綱。
が、この侵攻は真田軍の散々な敗北に終わる。
矢沢頼綱が戦場に到着する暇もなく、白井長尾軍の伏兵による攻撃を受けた沼田衆、
続いて川田衆も総崩れになってしまったのである。
「……………」
報告を受けた頼綱、憮然とした表情を隠そうともしない。
勝敗は兵家の常。百戦錬磨の頼綱にそれが判らぬ筈もない。
しかし、それでも尚、憮然とせざるを得ない報告があったのである。
第二陣の恩田越前守&下沼田豊前守、猫城兵の伏兵により敗走。これはまだ良い。
同じく二陣に配されていた塚本肥前守、敗走する味方の兵を収容しつつ、樽城兵の
追撃をかわし、撤退。これはむしろ手柄と言っても良いだろう。
先鋒の中山右衛門尉、後続の沼田衆が崩れた為、敵中に孤立。奮戦するも最後は茂
みに足を取られ、二人掛りで討ち取られる。これも褒めてやりたい所だ。
では、問題なのは誰か。
二陣に配された金子美濃守、白井城からの後詰の兵七人と交戦。備えを崩して逃げ
惑う、とあるから敗走、と言うより壊走と表現した方が近いだろう。
「……七人?」
金子美濃守が何人の手勢を率いていたのかは判らない。
しかし、沼田衆の中心人物であった美濃守である。少なくとも百や二百の手勢はあ
ったのではないか。
「七十人ならともかく、七人に追いまくられて、逃げ惑っていた。と言うのか、奴
は?」
「そ、その様に報告を受けております」
「……いい加減、殺しといた方が良くないか、あいつ?」
苦虫を噛み潰したような表情の矢沢頼綱。負けるのは良しとしても、負け方と言う
物がある。あまりに無様な負け方をすると、一気に国は崩壊してしまう事があるの
だ。
頼綱には予想出来ていたのだろう。
この敗戦を見た国人衆、特に白井長尾氏と領地を接する川田衆が、次々に北条方に
寝返りを始めたのである。
北条氏邦に提出された連判状に記された名は、実に五十四名。
その後、頼綱は真田昌幸に信州からの援軍を請い、重要拠点から上州国人衆を外す
などの対応に追われる事になった。
……金子さん平常運転中、の巻。w
これ以降、真田氏の側から北条への侵攻はなくなってしまうので、真田氏による上
州制覇の野望を挫いた敗戦と言っても良いかもしれません。
つか、地元の国人衆を左遷した状態で、よく北条の大軍を何度も退けたな、頼綱さ
ん。マジバケモノだ。www
0142人間七七四年
2010/12/24(金) 11:28:27ID:XhJg9qTJ0143人間七七四年
2010/12/24(金) 11:38:39ID:oJtZlbFGは?」
「そ、その様に報告を受けております」
/´〉,、 | ̄|rヘ
l、 ̄ ̄了〈_ノ<_/(^ーヵ L__」L/ ∧ /~7 /)
二コ ,| r三'_」 r--、 (/ /二~|/_/∠/
/__」 _,,,ニコ〈 〈〉 / ̄ 」 /^ヽ、 /〉
'´ (__,,,-ー'' ~~ ̄ ャー-、フ /´く//>
`ー-、__,| ''
0144人間七七四年
2010/12/24(金) 12:25:12ID:ZFqcQU/5個人的なイメージなんだが
鷹は鷹匠って言葉があるから飼い慣らせる、忠義心があるイメージ。
→忠実で強い部下とか家臣っぽい。
鷲は好きな鷲匠とは言わないし、バンドの曲でeagle fly freeって曲があるし、何となく自由で束縛されない、悪くいえば身勝手なイメージ。
→強いけど自由人とか独立事業主とかトップの立場の者、或いは海外みたいに自分を守るものっぽい
そう考えたら鷹にたとえたのは豊臣家中の実力者、鷲にたとえたのは豊臣とは別の強大な支配者と考えたってのは考えすぎやろうか。
0145人間七七四年
2010/12/24(金) 18:14:58ID:oJtZlbFG籠城戦の話を募集します
0146人間七七四年
2010/12/24(金) 19:41:02ID:VsouNqE4鷲(イヌワシ)は日本書紀では吉兆をあらわす鳥とされ、
時代が下がっても天狗の化身として崇められた。
日本で一般的な鷹であるオオタカは飼い慣らす事ができて、これが鷹狩につかわれていた。
同じく日本書紀でも古墳時代ぐらいには鷹狩が行われていた事が書かれている。
また、鳶は大型の猛禽類ながら、油揚げをさらう諺のように、
小動物の捕食よりカラスと同じように死肉を漁ったり人間の食い物を狙う。
なので見かけだけの弱者・卑怯者といったイメージが当時からあるんだろうね。
0147人間七七四年
2010/12/24(金) 19:45:43ID:XOGsH1GK0148人間七七四年
2010/12/24(金) 20:00:26ID:g961Ikfu0149人間七七四年
2010/12/25(土) 01:28:50ID:VNXK8ghZ0150人間七七四年
2010/12/25(土) 11:34:52ID:E1EgMnCMたまに見かける
トビがタカを産むとかの言い回しはそのへんから来たのかねえ
0151人間七七四年
2010/12/25(土) 11:51:55ID:U0HLGF9Lんでもそれは、トビとカラスの生活圏が被ってるせいで
ワシやタカとトビのどっちが強いかとかとは別問題なんじゃ…って、なんか
戦国武将同士個人戦させたら誰が強いの?みたいな意味のない話になるけどw
0152人間七七四年
2010/12/25(土) 12:56:41ID:E1EgMnCMそらもちろんそうよ
それに成鳥になれば逃げ方あしらい方は身に付くから滅多にないし
ただ背景がどうあれ現象としては目立つことは目立つから
そういうイメージになっちゃったんでは、という話ね
0153人間七七四年
2010/12/25(土) 21:36:32ID:QQvyZKFa徳川方の勇士渡辺半蔵守綱が追撃してくる武田勢を追いのけ追いのけ退却してくると、
途中に自分の朋輩が重傷を負って倒れていて、一緒につれていってくれとたのむ。
助けて無事にかえってきた。
家康は、
「自分ひとりの退却さえやっとのことだったろうに、よくぞ助けてかえった」
とほめた。
だが渡辺は、
「いや、そうおほめにあずかっては恥かしい。
実を申しますと、厄介なことと思いましたが、自分がここで助けないで行っても後からくる味方の者が助けるかも知れない。
そしたら自分が助けなかったことが知れて自分の名折れになると思いましたので、やむなく引きうけたわけです。
途中でも何べん刺し殺そうと考えたかわかりません。それをおさえおさえやっとかえってきたのです」
と答えた。
家康はその正直をほめたという。
0154人間七七四年
2010/12/25(土) 21:42:16ID:OlzKxN+h>>途中でも何べん刺し殺そうと考えたかわかりません。
0155人間七七四年
2010/12/25(土) 21:43:14ID:d24pOLv80156人間七七四年
2010/12/25(土) 21:54:13ID:K+GVPaadいい話だと思うがね
0157人間七七四年
2010/12/26(日) 00:12:21ID:uAG8gc+W水野勝成といえば後年の名君ぶりと共に、前半生の野放図で無茶無茶な生き様も有名である。
勝成自信はその生涯に後悔はなかったようではあるが、それでも気にかかることがあった。
それは彼が殺した人々についてである。
といって勘違いしてはならない。彼は数えきれないほどの人間を戦場、およびそれ以外で
殺してきたが、その殆どについて気になどかけていない。ただ、そのうちの5人だけどうにも
忘れられないのだ。何故か
「いやあ、その五人を殺したのは、今考えても理不尽だったw」
殺した人間自身が、しかも勝成のような人間が理不尽というのだから、おそらくは想像を絶する
理不尽さで殺しちゃったのであろう。その為勝成は
「まあ、あれだけ理不尽に殺しちゃったんだから、あの5人はウチに祟っても仕方ないよねw」
などと言っていたらしい。
その後いつしか、水野家中では勝成が理不尽に殺した5人のことを、誰ともなしに
”五霊鬼”と呼ぶようになり、何か不吉なことが起こるたびに”五霊鬼
の祟りだ”と囁かれたそうである。
のちに福山藩水野家が5代目で断絶した時も、”五霊鬼
の祟り”と取りざたされたという。
水野家の五霊鬼、と言うお話
0158人間七七四年
2010/12/26(日) 00:15:12ID:S9qHTVbA0159人間七七四年
2010/12/26(日) 00:21:25ID:mVLzssMr0160人間七七四年
2010/12/26(日) 05:22:28ID:N7UiE+pV0161人間七七四年
2010/12/26(日) 10:27:40ID:MhPw796Iそれを断った家中の重臣を逆切れして斬った、とか、
身持ちが悪いと舅に注意されたところを逆切れして斬った、
とかより理不尽な殺し方って一体何なんだろう。
>>159
むしろ子孫ではなく本人を祟った、数少ない成功例なんじゃないかしら。
0162人間七七四年
2010/12/26(日) 10:34:11ID:7QYIOwUw(相手は)誰でもよかった
今は反省してる
0163人間七七四年
2010/12/26(日) 10:49:54ID:eSQDgiLi0164人間七七四年
2010/12/26(日) 10:58:04ID:OPkWKtQG0165人間七七四年
2010/12/26(日) 14:30:56ID:M1J2uBiV俺は反省などしない。後悔もしない。絶対に後ろを振り返ったりしない。
俺は前だけを見てるんだ(キリッ)。
0166人間七七四年
2010/12/26(日) 15:58:50ID:UJDGAnTJ:::::::: | 一霊鬼がやられたようだな… │
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴は五霊鬼の中でも最弱 … │
┌──└────────v──┬───────┘
| 水野ごときに殺されるとは │
| 五霊鬼の面汚しよ… │
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
二霊鬼 三霊鬼 四霊鬼 五霊鬼
0167人間七七四年
2010/12/26(日) 20:01:02ID:jfQfQCRLという文書があった。
ところが鼠が百の字をかじってしまったので、与える幕府は
百万石丸儲けとなり山内家は百万石丸損となってしまった。
以来、幕府では鼠を福の神として祭り殺さなくなったという・・・
南方熊楠 十二支考
突っ込みどころが満載だが熊楠に言ってくれw
0168人間七七四年
2010/12/26(日) 20:12:45ID:OPkWKtQG0170人間七七四年
2010/12/26(日) 22:02:26ID:gh/nWc7l新納忠元が島津義弘に茶を進上したときのこと、
柄にもなく緊張したのであろうか、落ち着きを欠いた進退を見せてしまった。
この事を義弘に見咎められると忠元、
「戦場ではこのような無作法、決して致さぬのですが・・・」
とらしくない言い訳をした。
これを聞いた義弘、
「おお、そうだそうだ。茶道の作法とはまことにやかましき物よ」
と膝を打って笑い、その後は二人して姿勢を崩してお茶をがぶがぶ飲んだとのこと。
島津義弘と新納忠元、文武両道の誉れ高い名将であるが
実は堅苦しいことは二人とも苦手だったらしい。
まとめサイトの管理人さん曰く
>島津家において新納忠元さんのポジションというのは非常に特別ですね。これは後世においてもそうで、
>島津家中における君主の理想像が島津義弘なら、家臣の理想像は新納忠元さんとされていた節があります。
( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4986.html )
とあるが、こういったおおらかな君臣関係も
義弘と忠元が理想の君臣とされた理由のひとつかもしれない。
0171人間七七四年
2010/12/27(月) 00:09:29ID:yUTmSb2G0173人間七七四年
2010/12/27(月) 16:59:08ID:axj8UBmLなんか前半の似た話が以前出ていたような
後段の槍半蔵コメが面白いから、新規の逸話扱いでいいと思うけどね
0174人間七七四年
2010/12/27(月) 20:52:40ID:FNU0RgcN発言がブレる事が多く、しかもそれを口から出まかせでゴマかすのが常であった。信之が三十郎と話す際は、
「お前、そりゃ嘘じゃろ?」(三十郎、夫ハうそにてハ無きか)というのが口ぐせだったという。
ある日、信之が側近たちを集めて言った。
「世も泰平となり、わしもそろそろ庭いじりなどやってみたい。庭石として置くに、ちょうど良い石はないか?」
三十郎が、これに答えた。「それならば、善福寺に良い石がありまする!」
「……お前ソレ、いつもの嘘じゃろ?」
「ウソではござらん!その証拠に、この事は植村何右衛門が良く存じております。何右衛門にお尋ねくだされ。」
やって来た何右衛門に、三十郎は問いかけた。
「先ごろ、わしとお主で善福寺の辺りに、鷹狩りに出かけたろう。その時、川端の少し小高い所で良い石を見て、
『この辺りに、これほど良い石はあるまい。』と話した事があったのう。」「はっ。」
「いかがですかな、殿?」
「よし、わかった。追って沙汰する。下がって良い。」「「ははーっ!!」」
信之が退出した後、何右衛門は三十郎に食ってかかった。
「先ほどは殿の御前ゆえ、つい答えてしまったが、拙者はそんな石の事など、覚えておりませぬぞ?」
「まあな。殿が『ウソじゃ』などと言うので、お主と鷹狩りに言った事を思い出して、名を出したまでよ。」
「け、結局ウソではござらぬか!殿が『その石を持って来い。』と仰せになれば、どうするおつもりかっ!」
「なァに、その時は『埋まっている部分が深くて掘り出せません。人手を出しますか?』とでも申しておけば、
お優しい殿のこと、『わが遊興のために、これ以上の人手は使えぬ。』とか言って、沙汰止みになるわ。」
またある日の事、信之のもとに大きな梨が献上された。さっそく信之は、梨を存分に味わった。
「美味いっ!これほどの梨は、この辺りでは食えまい。」
三十郎が、この声に反応した。
「味はともかく大きさなら、長井四郎左衛門のところの梨の方が大きゅうござる。のう、四郎左衛門?」
話を向けられた四郎左衛門が、「そうですな、このくらいはありますかな?」
手で直径五寸弱ほどの玉を作って見せると、三十郎は信之の方に向き直り、
「お聞きになりましたか。これほどあるそうです!」満面の笑みを浮かべ、腕で一尺余りの玉を作って見せた。
「……………!!」
日ごろ物事に動じぬ男として知られる四郎左衛門も、大いに驚き迷惑したという、
真田家で寿命が縮むのは殿様だけじゃない、というお話。
0175人間七七四年
2010/12/27(月) 21:11:41ID:6ctpxwy70176人間七七四年
2010/12/27(月) 21:18:24ID:wuPV4H9n※いい話スレを先にお読みください
とでも書いとけばよかったんじゃ
0177人間七七四年
2010/12/28(火) 00:00:26ID:Xjsp/wr2ttp://natsu.gotdns.com/img/nat01012.jpg
ttp://natsu.gotdns.com/img/nat01013.jpg
ttp://natsu.gotdns.com/img/nat01014.jpg
0179人間七七四年
2010/12/28(火) 03:52:58ID:2uZ+D2UY0180人間七七四年
2010/12/28(火) 10:43:25ID:rJwOlQNG太閤秀吉の居城伏見城も甚大な被害をうける。秀吉より謹慎を命ぜられていた加藤清正は、
被災した秀吉のもとに手勢300を引き連れいち早く駆けつけた。
そして清正は秀吉の許可を得て、警備のため中門に家臣の加藤博蔵、加藤與左衛門、
和田備中、大木土佐、小代下総、出田宮内といった者たちを置き
「この主計頭(清正)の許可を得ないものは、誰であっても通してはならない!」と命じる。
そのようにしている内に、石田治部少輔(三成)をはじめとした奉行の者たちが
登城してきた。三成は中門で止められると
「治部である。苦しゅうない、通らせよ。」
と言い放ち通り抜けようとした。ところが警備の者たち
「なんだと!?治部少輔などと言う者が、地震からこんなに遅れてやってくるものか!?
通すわけにはならぬ!」
と、三成の通行を拒絶。三成これに怒り
「天下において誰一人知らぬ者の無い、この治部少輔を知らぬ門番は一体どこの家中のものだ!?」
「加藤主計頭家中なり!!」
「主計!?主計は殿下より蟄居を命ぜられ御前を許されざる者ではないか!
それなのにこのように振舞うのは、一体どういう理由からか!?」
と、食って掛かる。
この時秀吉、この騒ぎを聞き
「治部が来たようだ。ここに通すように」と清正に言った。これに清正、警備の者たちに
「あのチビの悪口野郎を通せ!」
(かの背のちいさきわんざん(和讒:誹謗・中傷の事)ものめが通し候へ)
と命じ、三成はようやく門の内に入ったという。
そんな伏見大地震のヒトコマ。
0181人間七七四年
2010/12/28(火) 11:36:53ID:sVOKSlykこの話のせいで三成=チビで陰険、ってイメージになってるけど、遺骨調査によれば
華奢な骨格だが当時の平均くらいの身長だったんだよな。
まぁ陰険かどうかは遺骨調べても分からんけど・・・
0182人間七七四年
2010/12/28(火) 11:52:54ID:DFPaDCrwそれにしても加藤方の悪口は具体的なものが多いのに、治部方は何を言ったのかよくわからんよな
チクったとかの話は多いがその内容が悪口なのか?
逆恨み・・・とかもありそうだが内容がわからんことにはなぁ
0183人間七七四年
2010/12/28(火) 12:20:28ID:IGGwBcno「よし、両方死ね。」で丸く収まったろうに
惜しい人を亡くしたもんだよ、ほんと
0184人間七七四年
2010/12/28(火) 12:23:14ID:1HTm7sbT秀吉様の家臣らが内部分裂を起こしてしまうとは
くやんでもくやみきれぬのお」
0185人間七七四年
2010/12/28(火) 12:48:04ID:CT9e5yhZ0189人間七七四年
2010/12/28(火) 21:21:12ID:l7RgHNwbそれから、どっちもどっちですが、清正くんはちょっと大人げないと思います。
0190人間七七四年
2010/12/28(火) 21:23:57ID:NqYQW4gzヒント:朝鮮征伐絡み。
ヒント2:書状で勝手に豊臣姓を名乗った。
ところで、清正ってなんで豊臣にしてもらえなかったんだろう?
実は秀吉にあまり重く見られてない?
0191人間七七四年
2010/12/28(火) 21:41:08ID:JxyngBYh家康とかも秀吉が生きてる間は豊臣朝臣徳川家康だったな
0192人間七七四年
2010/12/29(水) 00:36:27ID:uftchwiJ織田組は先生怖いからみんな言うこと聞くし、
徳川組も面倒くさいけど、みんな先生大好きでいいクラスなんだが・・・。
0193人間七七四年
2010/12/29(水) 01:01:20ID:kKPZ4rUKウィキペディアみたら三成の兄が豊臣氏貰ってるみたいだけど
0194人間七七四年
2010/12/29(水) 01:31:35ID:7Bf0fCtPどちらかというと、秀長が取り立てたっていう見方が強いんだっけか。
0195人間七七四年
2010/12/29(水) 06:51:01ID:gKFJJkPl信長の顔自体はあまり怖くないんだよな
ttp://www.shouzou.com/mag/p2.html
現代でも通用する顔かもしれん
0196人間七七四年
2010/12/29(水) 08:54:34ID:RxID7/8Ahttp://img.5pb.org/s/10mai556480.jpg
0198人間七七四年
2010/12/29(水) 09:14:06ID:RxID7/8Ahttp://sugiue-t.s3.x-beat.com/cgi-bin/uploader/source/up1628.jpg
0200人間七七四年
2010/12/29(水) 09:57:30ID:6Ii8ogiH0202人間七七四年
2010/12/29(水) 11:53:46ID:lpv9p3f2「行ったら戻らぬ赤木のお城、身捨てどころは田平子(たびらこ)じゃ」
太閤検地に激しく抵抗し頻発する大規模な一揆に、いよいよ疲労困憊した豊臣秀長は、
藤堂高虎らに城を築いたうえでの一揆討伐を命じた。
後に、築城の名手と呼ばれる高虎は、なるほど小規模ながら恰好の砦となる立派な城を築いた。
さて、城は完成した。
その祝儀をのべるように公布され、土地のおもだった者たちも招かれた。
彼らは一揆の首謀者でもある。
一人ずつ奥に通された彼らは、そのまま捕らえられ、打ち首となった。
城の西方にある田平子峠に、さらされたその首は150とも300とも。
高虎在居の期間、ついに一揆は起こらなかった。
城の名は、赤木城。
田平子峠の道路工事の際には、多量の人骨が出土したという。
高虎信者にはへこむ話である。だれか慰めてほしい・・・
0203人間七七四年
2010/12/29(水) 11:56:17ID:mUphlCBqまぁ、高虎さんならこの位のことをやっていてもおかしくはないんじゃない?
0204人間七七四年
2010/12/29(水) 12:46:23ID:Brn9MFHA0205人間七七四年
2010/12/29(水) 13:12:07ID:CDjx4jSe0206人間七七四年
2010/12/29(水) 13:14:58ID:s5Lc7aw40207人間七七四年
2010/12/29(水) 13:16:34ID:aEJaRUAU0208人間七七四年
2010/12/29(水) 13:21:15ID:H6lXtSqQまぁ大なり小なり皆、似たことをやっていたんだろうけどさ
0213人間七七四年
2010/12/29(水) 14:44:14ID:rifB0KJy絶対に舞ってないだろw
0214人間七七四年
2010/12/29(水) 17:33:50ID:NHjbxwlf三成次男が豊臣氏をもらっているみたいそうだ。三成娘が北政所の養女になったからからそうだ。
0215人間七七四年
2010/12/29(水) 23:09:39ID:q+i5dGyy0216人間七七四年
2010/12/30(木) 02:02:19ID:n7pNbJxD織田家の甲州征伐によって武田家が滅ぼされると、信長の手によって論考恩賞がな
された。
中でも徳川家康は「長年武田家の圧迫を支え続け、この度も駿河&甲斐南部を素早
く平定した事は大きな手柄である」として、駿河一国を与えられた。また、甲斐国
巨摩郡を与えられた穴山梅雪も徳川の旗下として添えられた。
しかし家康は、
「私の元には前の駿河国主・今川氏真殿が身を寄せております。彼に駿河を与えれ
ば、国人衆もなびき、駿河は安定するのではないでしょうか?」
と提案。
信長はそれを聞いて、
「お前には功があるから駿河を与えると言っているのだ。氏真に何の功がある?何
の能がある?お前がいらないと言うなら、駿河は俺に返上せよ。それが筋だろう」
氏真も徳川の客将としてちょっとばかり働いておけば、信長の扱いも違っただろう
にね。
ちなみにこの武田攻めのちょっと前までは、家康の下で城主などを務めていたよう
ですね、氏真さん。
が、武田攻めの際には何をやっていたのかまったく不明。手柄どころか消息すら良
く判らないという状態のようです。
0217人間七七四年
2010/12/30(木) 02:15:52ID:sfNRkI8aええとね、氏真さんは長篠のあと信長から、対武田の調略を任されたの。
でもその調略は武田家中の旧今川家臣からすら
「こんな調略受けるわけないっていうwwww
俺らは勝頼様に忠誠を誓うっていうwwwww」
と馬鹿にされる始末。そこで信長は氏真を担当から解任。(このとき氏真にくっついてた
今川旧家臣団も遂に解散した)
新たに対武田調略を、遠江の回復に集中していた家康に任せると、家康は
武田の駿河支配のトップである穴山梅雪の一本釣りという離れ業を成功させたわけですな。
0218人間七七四年
2010/12/30(木) 08:35:28ID:RNPfTcUl0219人間七七四年
2010/12/30(木) 08:51:24ID:D85i/KHf0220人間七七四年
2010/12/30(木) 09:50:07ID:j4Pe7d330221人間七七四年
2010/12/30(木) 10:27:04ID:sfNRkI8aその足で家臣連れて浜松の家康のところに行って
「しばらく世話になるよ!」
って平然と世話させたところだなw
まああっさり世話しちゃう家康も家康なんだけど。
居心地が良かったのか、京に出るまで10年くらい家康の下で居候暮らしていたらしい。
0222人間七七四年
2010/12/30(木) 10:37:12ID:kCfFoEQZ0223人間七七四年
2010/12/30(木) 10:57:29ID:L/i8jI2D0224人間七七四年
2010/12/30(木) 11:16:37ID:BsCUdzL3後の小説とかでおもしろおかしく描かれただけで。
0225人間七七四年
2010/12/30(木) 11:28:26ID:gMbimw+n0226人間七七四年
2010/12/30(木) 12:16:58ID:eaRzKf7j無能だから策謀も出来んだろうし
人望も無いから担ぎ上げる奴もいないし…
…とりあえず無害だから世話しておいていいんでね?
もしかしたら超運良く役に立つ可能性もごくわずかに残ってるし
と家康が考えても否定できない
0227人間七七四年
2010/12/30(木) 12:19:47ID:KP/qTS7cま、結局役に立てる機会は来なかったわけだがw
0228人間七七四年
2010/12/30(木) 12:21:29ID:br+Qt9nO氏真見れば優しい気持ちになれるもの
0229人間七七四年
2010/12/30(木) 12:42:52ID:6Z5Nby31今川家というか品川家を高家にしてまあ権威付けにはなったんじゃないか?
氏真が見事な働きで駿河を回復&穴山梅雪をゲット
本能寺後には梅雪の手引きで甲斐や信濃に進出し、対家康・対北条の睨みとなって秀吉に厚遇される。
北条滅亡後は早川殿の縁から北条の旧領を得て六大老の一人に収まり
ついには東軍総大将となって天下への道を…みたいな架空戦記ってないかな。
0230人間七七四年
2010/12/30(木) 13:01:01ID:eaRzKf7j0231人間七七四年
2010/12/30(木) 13:05:31ID:563x/cty0232人間七七四年
2010/12/30(木) 13:08:06ID:jeyKGsMa家臣団に加えずに、適当に養護するってのが微妙な線だったのかも知れない
0233人間七七四年
2010/12/30(木) 13:20:39ID:7LyAThY40234人間七七四年
2010/12/30(木) 13:32:18ID:wd+btQio幼い竹千代に手ほどきしてやったと妄想する。
0235人間七七四年
2010/12/30(木) 13:45:31ID:jeyKGsMa0236人間七七四年
2010/12/30(木) 14:42:06ID:RNPfTcUl蒲生氏14代当主、蒲生貞秀には秀行、高郷、秀順という3人の息子がいた。
年老いた貞秀は情勢不安な近江の勢力として生き残りを賭けて長男秀行に蒲生氏の家督を譲ると次男高郷を六角氏へ、三男秀順は細川家へと仕えさせる。
しかしながら長男の秀行は父に先立って早世してしまい、貞秀は新たな後継者の指名を迫られた。そこで真っ先に名乗りを挙げたのが・・・
高郷「兄の子である秀紀はまだ幼少の身でございます。私にお任せください父上。」
次男の高郷である。しかしながら貞秀は了承せず嫡孫である秀紀を後継者に指名した。
そして1513年に貞秀は死去。正式に秀紀が蒲生氏の家督を継ぐことになったのだが、
高郷はここに至っても所領の配分に不満を漏らすなど全く納得していなかった。
この後、高郷は六角家臣としての足場固めに腐心し始め、息子定秀の嫁を六角氏家臣の名家馬淵氏(佐々木氏庶流)から迎えるなど血縁の結び付きも持った。
長い年月をかけて六角氏当主である定頼の信任を得た高郷はついに長年胸のうちに燻っていた野望を実行に移す。
高郷「秀紀を討ちます。定頼様も力をお貸しください。」
0237人間七七四年
2010/12/30(木) 14:43:57ID:RNPfTcUl1522年8月、蒲生秀紀の篭る音羽城は蒲生高郷と六角定頼の軍に攻囲され、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に秀紀は定頼の呼び掛けに応じて降服した。
これにより秀紀は蒲生家の家督を高郷の息子である定秀に譲らされた上に音羽城を退去させられ、同城は廃城となっている。(日本最古の城割と言われる)
しかしながら家督を奪われた秀紀はこの理不尽極まりない一件にもちろん納得がいかない。新たに鎌掛城という要害の堅城を築きそこを居城としていた。
一方、家督を簒奪したものの完全に二つに蒲生家が分裂してしまった事が高郷・定秀親子は不満であった。高郷らは鎌掛城の秀紀の抹殺を決意する。
1525年12月。蒲生親子の刺客である禅僧、祥善に毒を盛られた蒲生秀紀は苦しさに悶えながら腹を切り裂くと池に身を投げて息絶え、
鎌掛城も定頼の名によりわずか3年で廃城処分となった。
これにより蒲生氏嫡流は断絶し高郷-定秀流が蒲生氏の嫡流に成り代わったのだった。
後に92万石の大大名となる蒲生氏郷は定秀の孫に当たる人物である。
0245人間七七四年
2011/01/01(土) 00:42:14ID:+amXjPnW0246人間七七四年
2011/01/01(土) 18:08:51ID:NiZPC8K6http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-234.html
0247人間七七四年
2011/01/01(土) 21:35:38ID:Nc40vIBTこの落語をやるの?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8419513
0248人間七七四年
2011/01/01(土) 21:39:41ID:e0UmrO+A2011/01/02 05:00〜05:30 の放送内容 NHK教育
* 日本の話芸・選 講談「大名 荒茶の湯」
* 一龍斎貞水 〜東京・浅草木馬亭で収録〜
出演 【出演】一龍斎貞水
http://tv.yahoo.co.jp/program/80977/?date=20110102&stime=0500&ch=8208
0249人間七七四年
2011/01/02(日) 01:14:57ID:xEkz75X00250人間七七四年
2011/01/02(日) 01:21:04ID:JbNqF8I4そういや、忍たまの上級生の鉢屋三郎のモデルとなった鉢屋弥之三郎という忍者が
尼子経久の命令で元旦に富田城をのっとった、てさ
無理矢理戦国ネタとつなげてみた
0251人間七七四年
2011/01/02(日) 10:12:09ID:9GcPxagR0252人間七七四年
2011/01/03(月) 03:13:01ID:+xEWcKo5http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4588.html
がトリビアとして紹介されてた。
スタッフ、絶対ここ見てるだろw
0253人間七七四年
2011/01/03(月) 10:30:15ID:qkpdAANv0254人間七七四年
2011/01/03(月) 15:25:13ID:DETzVWnDヒャッハーより鬼武蔵にふさわしいキャラがいたことを
世が世なら、類まれなる戦闘力を持つ鬼武蔵の死を悼んだラスボスの命令によりサイボーグとして復活
「俺はいじめと人殺しが大好きなんでな」とか言いながら死DON隊の隊長に
頭に受けた致命傷の後遺症で
「ひゃあ〜はははは!たまんねえ〜!脳がはちきれそうだぜぇ!!」
「脳がぁぁ〜! 脳が痛えぇぇ〜!!」
と呻くが、百段に乗って戦場に出れば
「おのれぇ…影も形もないようにしてやる!」
と叫びながら大活躍
あまりの活躍に危機を感じたラスボスから疎まれるも
「俺のどこが気に入らねぇんだ!」
「約束ってのは、する時より破る時の方が刺激的で面白いんだぜぇ!」
「ひゃ〜はっはっはっはぁ!太閤も内府もガキどもも、この俺様がまとめて痛ぶってやるぅ〜ぜぇ〜!
俺様はいじめと人殺しがだぁ〜い好きなんでなぁ!ひゃあ〜ははははは!!」
と虐殺のかぎりを…って、台詞は「太閤も内府も」以外はオリジナルからのコピペなんだが違和感なさ杉
0255人間七七四年
2011/01/03(月) 15:31:18ID:2qjcnUU80257人間七七四年
2011/01/03(月) 18:33:34ID:JmgKK+hd0258人間七七四年
2011/01/03(月) 19:52:44ID:FmDXt7No0260人間七七四年
2011/01/03(月) 23:37:36ID:YjbfaFUKその言葉の意味、私にはよくわかります。』
(名将の子ニハ、必ず不運の者が生まれ候と申し候事、存知あたり候。)
これは毛利隆元が、彼が帰依する国清寺惠心に送った書状の一節である。
隆元の苦しみが垣間見られる、印象的な言葉であろう。
0261人間七七四年
2011/01/03(月) 23:45:20ID:lW+pdgvy0262人間七七四年
2011/01/03(月) 23:54:12ID:AnZ71xIa0263人間七七四年
2011/01/04(火) 08:28:45ID:+m6wm3n+0264人間七七四年
2011/01/04(火) 08:42:49ID:WQ2dx8im0265人間七七四年
2011/01/04(火) 08:59:16ID:vkIJz2Mv庶長子はそれなりにやんちゃもしたようだが
0266人間七七四年
2011/01/04(火) 09:00:56ID:/jAvkES60267人間七七四年
2011/01/04(火) 09:32:28ID:PBPQzyho↓
大友宗麟「こ れ は ひ ど い」
↓
大友義統「」
0268人間七七四年
2011/01/04(火) 09:36:13ID:7P8wkj8U0269人間七七四年
2011/01/04(火) 09:45:46ID:9w/ZIwOS兄弟へのコンプもこじらせると生きづらくなる
この流れだと勝頼とか義統が隆元に近いかもな
0270人間七七四年
2011/01/04(火) 10:39:03ID:vxqR593n0271人間七七四年
2011/01/04(火) 14:37:18ID:yP2btYx90272人間七七四年
2011/01/04(火) 17:38:50ID:3/vQfZQL宗麟の言い分
「ふざけんなよクソ親父。幼いころ母を亡くして傷心の俺をほったらかして若い後妻といちゃいちゃしやがって、
おまけに付けてくれた御守役は裏切り者で、俺の廃嫡に賛成する始末、結局俺の廃嫡をだしにして有力家臣を粛清
しようとしたら逆襲されてアボーン。
その後病弱な体に鞭打って、やたらと騒がしい家臣共をまとめ、戦国一の陰険謀略厨の元就のちょっかいをかわし、
なんとか家を守ってきたんだぞー。あーよだきー、温泉にでもいってこよう。」
義統の言い分
「親父が悪い。宗茂が悪い。太閤が悪い。三成が悪い。内府が悪い。官兵衛が・・・」
0275人間七七四年
2011/01/05(水) 09:40:18ID:Kqlr6QET「それ毛利の文書に載ってるエピソードだろ。
たまんねえーよなあいつら、よほど俺に負けたのが悔しいのか
ある事ない事書き散らしやがって、なんだあの粘着ぶりは、
どこぞの民族そっくりだぜ。
第一こちとら病弱なうえ、おっかねー女房が見張ってんだぜ、
そんなヒマねえーって。
それにしても、うちのカミさんといい、道雪んとこの娘っ子や、吉岡の後家さんといい、
なんでうちの家中はとんでもねえ女が多いんだ、はたから見てるにはいいだろうが、
実際亭主である俺たちにとってはたまったもんじゃねえー。」
と女運が悪い大友家中を代表して宗麟公がのたまいました。
0276人間七七四年
2011/01/05(水) 10:18:56ID:h2bLm+vj0277人間七七四年
2011/01/05(水) 13:15:16ID:lDaannpHいやでもアナタ、その猛女たちに随分と助けられているじゃないのさ(笑)
0278人間七七四年
2011/01/05(水) 13:17:01ID:DjJ+r8zOこのスレには逸話を聞きに来てるんだが…
0282人間七七四年
2011/01/05(水) 13:48:14ID:Ju1pFLES面白い奴の真似をしてつまんない奴が二番煎じ三番煎じの似たような事をしても面白くないわな
まぁネタは刺身のツマみたなもんで主役にはなれないからやるなとは言わんがほどほどにな
盛り上がればいいだろってのはVIPやニュー速の論理で大多数のスレは住み分けをある程度してるし
0283人間七七四年
2011/01/05(水) 13:49:04ID:FUZxFRH9ただのキャラ遊び、なりきりはやり過ぎると他がしらける
あくまでここのメインは逸話だって事は忘れないでおこうぜ
0284人間七七四年
2011/01/05(水) 14:45:44ID:Kqlr6QET福岡かどっかで攻城戦真っ最中の立花道雪勢。時あたかも正月
長い攻城戦に倦み、里心もつきまくりに正月である。
「もー辛抱たまらん、かーちゃんにあいてぇーよー。まー丁度戦もひと段落ついて膠着状態だし、・・・」
と持ち場を抜け出して国元にこっそり帰るものが続出した。
「なぬー!」
それに気付いた道雪。ただちに国元へ取って返し、
これら不届き者を家族諸共ふんじばり、
「戦闘中になに勝手な事しとんじゃい、見せしめじゃぁー」
と御成敗されましたとさ。
ガイシュツなら勘弁。
宗麟「おめぇも結構苛烈だよなぁー」
道雪「締めるとこは締め、緩める時は緩める。人事の基本でござる。」
宗麟「極端すぎる気がするが・・」
道雪「戦国とは極端なものでござる、婿殿にもきっちりと教え込みもうす。」
宗麟「宗茂・・・」
0285人間七七四年
2011/01/05(水) 15:06:00ID:DjJ+r8zOうん、既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-876.html
0286人間七七四年
2011/01/05(水) 16:02:45ID:rkB5twjNってか逃げる者見逃してたら軍隊なんてすぐ崩壊する。
0287人間七七四年
2011/01/05(水) 19:08:53ID:7UfslUNG赤ん坊背中におぶったまま薙刀で追い掛け回しそうだけどな
0288人間七七四年
2011/01/05(水) 19:14:56ID:zYsairgDそういえば鬼武蔵の姉のうめさんは、旦那の木下勝俊が関ヶ原の時鳥居さんたちに伏見城
追い出されて帰ってきたら
「それで黙って戦もせずノコノコ帰ってきたのか!?」
と激怒して、即座に出家して離縁したなw
0289人間七七四年
2011/01/05(水) 22:38:20ID:QYVbd6/Chttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-355.html
↑歌人に和歌を送りつけて批判するところがそこはかとくな嫌味だよな。
でも勝俊も歌人らしく歌を返してるんだ。
「おもひやる久米のさら山さらと あられふる夜の竹のした庵」
久米のさら山=久米の佐良山(現在の津山)
さらと=皿斗(昔の寺院とかに見られる斗の様式。地名にかけた?)
詳しい意味は素人なのでちょっと知らん。
0290人間七七四年
2011/01/06(木) 00:40:27ID:dyUkhhHU和解してたかどうかは不明
0291人間七七四年
2011/01/06(木) 04:00:26ID:57JT7mrR0292人間七七四年
2011/01/06(木) 06:47:44ID:DZUhzG250293人間七七四年
2011/01/06(木) 07:07:42ID:SR5bqfWS0294人間七七四年
2011/01/06(木) 12:28:16ID:BeVQMS5K∧_∧ ┌────────────
◯( ´∀` )◯ < 僕は上杉謙信ちゃん!
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lll
0295人間七七四年
2011/01/06(木) 12:31:07ID:GbcrQX5i0296人間七七四年
2011/01/06(木) 15:22:27ID:0f7pTQ+Q天正十年六月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html
天正十年九月、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html
という経過を辿った天正壬午の乱の裏番組。
局地戦では一勝一負という結果ではあるが、全体的に見てみれば、城持ちの有力国
人数人を討たれ、動揺した国人衆の離反が続くなど、真田家にとってはジリ貧の状
態であった。
北条家としてみれば、イケイケで押し切りたい所である。ましてや対徳川家の状況
があまり芳しくない事を考えれば、上州〜北信濃をしっかり押さえるのは死活問題
でもあったのだ。
十月上旬、今度は沼田方面に北条軍が侵入を始める。
長井城の恩田越前守が一旦は北条軍を押し返す健闘を見せるが、北条氏邦自らの出
陣によってあえなく落城。恩田は命からがら沼田へと落ち延びた。
続いて囲まれたのが阿曾城と鎌田城。
この両城を奪われたら沼田城までは一直線、という重要拠点である。
北条は阿曾を上泉主水等三千、鎌田を猪俣能登守等の二千で囲み、その背後に氏邦
が一千の兵で控えるという布陣であった。
沼田城の矢沢頼綱はこれを見て出陣。鎌田城から川を挟んだ地点に陣を取る。
とはいえ、兵力はたったの五百。
「頼綱め、余程鎌田城を取られたくないと見える。だが、奴の首さえとってしまえ
ば、この戦は終わりだ! 鎌田城よりも頼綱の首を優先するぞ!」
猪俣は鎌田城の押さえとして五百を置き、千五百の兵に渡河を命じた。
両軍は片品川の川原で正面から激突。
そう、矢沢頼綱、何の策も弄さず、真正面から三倍の敵に突っ込んだのである。
しかも加勢を買って出た根津幸直に予備兵力として後ろに控えておくように命じる、
という余裕まで見せている。
……半刻程の戦いの後、戦場に並んでいたのは猪俣勢の首、三百。
しかも猪俣の側近が十七名まで討たれるという惨憺たる結果であった。
十月二十二日になって鎌田城の攻め手が猪俣から須賀加賀守に交代すると、須賀は
猪俣の轍は踏むまいと城攻めに集中する。
沼田城内には「もう一度援軍を」と言う声もあったのだが、頼綱も二匹目の泥鰌は
いないとわかっていたのか、この時は鎌田城を見殺しにしている。
無事、鎌田城を落した北条軍では、「このまま一気に沼田城まで進軍するべし」と
の評定があったという。
0297人間七七四年
2011/01/06(木) 15:23:41ID:0f7pTQ+Qそして二十三日の夜。
こちらも包囲されたままの阿曾城。隣りの鎌田城が落城し、次は自分達かと戦々恐
々としていた……わけではないようだ。
「戦乱の世だからといって、我々は神仏をないがしろにし、戦の計略のみを考えて
日々を過ごしてばかりだ。丁度今夜は二十三夜だし、神仏を祭って平和を祈ろうで
はないか!」
現在では廃れてしまったが、かつては月齢二十三夜の日には二十三夜講と言って皆
が集まり、神仏を祭る集会があったのである。
ともあれ城主の提案によって、篭城する五百の城兵達は祭りを始めてしまう。
城主の名前を、金子美濃守……数ヶ月前にやらかしたばかりの「あの人」である。
三千の敵兵に包囲されたこの状況で、厳粛な祭祀ならともかく、酒を振舞っての飲
めや騒げやの宴を始めてしまった。
その度胸は褒めてあげてもいいかもしれない。
そんな宴会の真っ最中、
「敵襲だ!北条軍の夜襲が来たぞ!」
見張りに立っていた兵が宴会場へと駆け込んでくる。
三千の北条軍。しかも先頭に立っているのは鎌田城攻略から外された猪俣能登守。
雪辱に燃える大軍を前に、五百人の酔っ払いでは相手にならない。
一つの鎧を数人で取り合い、太刀や長刀も奪い合い。奪い合いの結果、相手を殺し
て鎧や刀を身につけるという連中が続出した。
挙句の果てには厩に繋いだままの馬にまたがり、走らせようと躍起になる者までい
たというのだから、もうベロベロの泥酔状態だったのだろうか。
金子美濃守は防御の指揮を取る事もなく、さっさと逃げ出す。
酔っ払った足で、なんとか岩伝いに城を脱出すると、沼須郷の海應山金剛院に逃げ
込んだ。
北条方でも金子の追跡をしており、夜が明けると金剛院を取り囲み、寺内の捜索を
始める。
しかし、どこへ消えたのか遂に金子の身柄を捕捉する事は出来ず、美濃守は無事、
沼田城へと落ち延びて行ったのだという。
金子美濃守は若い頃から信仰が厚く、田北原という地に愛宕社を建立したのだが、
沼田氏が没落して以来、兵乱によって社は荒れ放題になってしまった。
美濃守はこれを憂い、愛宕の御神体を金剛院に保管してもらっていたのである。
この時、美濃守が助かったのは、愛宕の御加護によるものだと、もっぱらの噂であ
った。
真田vs北条の第三幕。
前半の矢沢さんの無双っぷりと後半の金子さんの無能っぷりの対比を楽しんでいた
だければ……(笑)
しかし金子さんってば、湯殿山参詣に拘ったり、愛宕神社を大事にしたり、戦中に
二十三夜講を開いてみたり……まじで出家した方が良くないか?
前半と後半に落差がありすぎて、いい話と悪い話のどっちに投稿するか迷っちゃう
な。w
0298人間七七四年
2011/01/07(金) 20:59:40ID:c4ClPPV6この時清正は王子たちに座を作り対面し、酒食を出して丁重にもてなした。
が、王子の近習たちが料理を運ぶのに走りまわる清正の家臣たちを見て、にわかに騒ぎ始めた
「さては我々をたばかり、ここで王子を討つ気だな!?」
彼らは半弓を手に取り弓をつがえ清正を狙い、今にも彼を射殺そうとした。
「此は如何に!?」
清正たちは押し止めようとしたが、いかんせん言葉が通じない。
なにか言うたびに王子の近習たちはジリジリと近づいてくる。清正絶体絶命のピンチ!
と
「そうだ!」
この時清正、思いついた!
「中国では印章を与えて契約をするという!ということは…!」
清正、火打袋から印を取り出し、鼻紙に押してこれを近習一人ひとりに渡した。
印鑑の押された鼻紙を手にした近習たちはとたんにおとなしくなり、それぞれ矢を外し
弓を横において平伏した。清正は危ういところで命が助かった。
後で清正は家臣たちに
「日本で数度の戦に参加したが、これほど危ない目にあったことはなかったよw
大陸では会盟に印章を用いることを知らなかったら、今日は犬死しただろうな。」
と、自分の才覚を誇ったそうである。
加藤清香さ、とっさの印鑑で助かる、と言うお話。
0299人間七七四年
2011/01/07(金) 21:00:33ID:c4ClPPV6×加藤清香さ
○加藤清正
でw;
0300人間七七四年
2011/01/07(金) 21:00:55ID:E+ZDbbvL0301人間七七四年
2011/01/07(金) 21:08:08ID:3E8gr/pe0302人間七七四年
2011/01/07(金) 21:10:22ID:c4ClPPV6>>301
すまんちゃんと書かなかったオレが悪かった。
これは捕虜にする前の、清正の側が王子たちの籠っていた城に乗り込んでの降伏式の時の話。
0303人間七七四年
2011/01/07(金) 21:52:11ID:010pIps00304人間七七四年
2011/01/07(金) 21:57:37ID:Ahvw9ldj部下の裏切りでこういう状況になっただけに。
0305人間七七四年
2011/01/07(金) 23:50:35ID:7lb3G4qn0306人間七七四年
2011/01/08(土) 00:17:45ID:ToPlwLO2関が原の合戦が終わり、家康が戦後の領地分配を考えていた時のこと。
江戸城の御次の間、「佐渡柱」として有名な柱にもたれかかっていつものように居眠りをしていた
本多正信が突然、うわ言のようにそんな言葉を発した。
これを聞いた徳川家康、正信を起こして
「どうした佐渡、何かあったのか!?」
「はっ!?ゆ、夢でしたか。いやはや上様、先に少将(結城秀康)様がに与えられる予定の
越前のうち、敦賀は重要な港湾であるから幕府直轄にし、代わりに少将様には他の地を与える、
という話がありましたな。」
「ん?ああ、そんな話があったな?」
「先ほど夢のなかで、少将様がその事を知り大いに怒られ、私に『お前のせいだ!お前のせいだ!』
と殊の外叱りつけられたのです。それでたいへん驚いたのですが…、
いやはや夢でしたか、良かった良かった。」
「…」
正信の伝えたいことを察した家康は、敦賀を含めた越前一国を秀康に与えた、とのことである。
本多正信、夢で結城秀康に叱られる(?)、と言うお話。
0307人間七七四年
2011/01/08(土) 00:51:49ID:ne4QGx0y0310人間七七四年
2011/01/08(土) 07:45:03ID:QrYkurgm0311人間七七四年
2011/01/08(土) 08:04:56ID:Ohpi2xHi家康が亡くなったら佐渡もすぐ死んだよね
そのせいで後年、息子が父のぶんまで報いを受けたのかも知れんけど
0312人間七七四年
2011/01/08(土) 08:09:09ID:ptIhe0ra0313人間七七四年
2011/01/08(土) 08:16:41ID:nn3U+MyT0315人間七七四年
2011/01/08(土) 09:16:26ID:A00qfwHb0316人間七七四年
2011/01/08(土) 10:23:08ID:w6LTL9DFと諫言してしてその通りにしたら大御所の権威が疑われる。
夢の話ということにして恩恵を与えれば丸く収まるであろうという、
いつもの権現様のお賢い説教話。あーはいはいありがたや。
0317人間七七四年
2011/01/08(土) 11:06:59ID:tyTX5SxMいつもの佐渡さんらしい、はっきりとものを言わずに自分のやりたい方向に物事を誘導する極めて日本人的な
操作方法の話だろ。
0318人間七七四年
2011/01/08(土) 11:08:44ID:NyqEnkzT0319人間七七四年
2011/01/08(土) 12:36:54ID:QrYkurgm0320人間七七四年
2011/01/08(土) 12:49:19ID:NyqEnkzTあくまでブラフで、現場では現実的な目的のため、なるべく摩擦を起こさない形で実際の利害調整を
行っていることがハッキリ解るし。
「主張を押し通す」なんてのは欧米でもそう言う条件が整ったときのみに起こる、
極々例外的な話だわ。
0321人間七七四年
2011/01/08(土) 14:42:00ID:v4n3RyCb0322人間七七四年
2011/01/08(土) 15:01:24ID:339x5FNj0323人間七七四年
2011/01/08(土) 15:06:13ID:A00qfwHb超人治主義の時代の話なんだから、現代の組織社会にそのまま当てはまるわけではない。
0324人間七七四年
2011/01/08(土) 17:05:40ID:bwWUn6lM0326人間七七四年
2011/01/08(土) 17:57:39ID:cOi1uJgKどこかで天変地異や怪異が起きました
→政治が乱れてるせいで神がお怒りになってるようだ
→神の怒りならしかたない、改正しよう
諫言したいために怪異でっちあげたりとかして
鳥が逆に飛んだ、とかなかったっけ?
0327人間七七四年
2011/01/08(土) 18:02:25ID:cOi1uJgK天人相関説だ
諫言した人にすれば、おいおい、本気にするなよ^^;って感じかもしれないがw
0328人間七七四年
2011/01/09(日) 12:46:47ID:LajhZS7tこのせいで、後々には天災や飢饉を報告すること自体が皇帝への批判になるということで、
地方で災害やらが起きても報告されず、救援などの手当もされないということが起きたん
じゃなかったっけ?
まあ菅直人が小泉政権時代に、地震や噴火を理由に政権交代を求めていたが....
http://plaza.rakuten.co.jp/obiekt/diary/200411020000/
0329人間七七四年
2011/01/09(日) 12:52:29ID:DplXew4o何というブーメランw
0330人間七七四年
2011/01/09(日) 17:02:52ID:f+qXzV9m関ヶ原の戦いもほぼ東軍の勝利が確定的な情勢となった時のこと。
石田家家臣、蒲生真令(頼郷、かつての横山喜内)は武士として最期の意地を見せんとして残った味方を集めて東軍の部隊に突撃したが、
護衛も次々と倒され、いつしか真令の周りには護衛が一人もおらず、馬も失い徒歩で戦場を彷徨っていた。
そうしている内に頼郷は東軍方の織田有楽斎の姿を目にする。
真令「そこに居るのは織田有楽様ではございませぬか。それがし、元蒲生家の家臣で横内喜内でございます。」
有楽斎にも分かるようにあえて昔の名乗りで語りかける真令。
有楽斎も横内喜内とは旧知の間柄である。馬にも乗らず護衛も付けずに現れた真令の様子を見て有楽斎は油断してしまっていた。
有楽斎「おお、存じておるぞ。わしに会ったのが汝の幸せ。わしが内府に命乞いやろう。付いて参れ。」
戦場慣れしていない有楽斎には敗色濃厚な西軍の武将がここまで単騎で突貫してきたという発想は全くなかったらしい。
勝手に真令が投降するものと勘違いして家康への助命を頼んでやろうと言ったのだ。
真令はすとっぼけた事を言う有楽斎に笑いながらこう言葉を返した。
真令「ハハハ、信長公の弟君とは思えぬお言葉。命乞いする喜内とでも思ったか!」
0331人間七七四年
2011/01/09(日) 17:04:52ID:f+qXzV9mまさかの不意打ちを受けた有楽斎であったがここで幸運だったのはこの状況で「体がスムーズに動いた」事であった。
有楽斎「うわああああああああああああああああああああああ!?」
仰天しとっさに体を真令の向かってる方の反対側へ倒した有楽斎であったが今は乗馬中である。
無理な体勢になった有楽斎はバランスを崩して落馬したのである。
ブンッ・・・
真令(なん・・・だと・・・)
還暦前の老人とは思えぬ反応で馬から滑り落ちた有楽斎の前に真令の刀は有楽斎の高股の部分をかすめただけに終わった。
しかも落馬した有楽斎に次の太刀を食らわせようにも有楽斎の馬が邪魔で斬れない。すぐさま真令は有楽斎の家臣たちに囲まれてしまった。
もはやこまれでと覚悟を決めた真令。寄ってきた有楽斎の家臣二人を斬り殺すが、多勢に無勢。
有楽斎家臣の千賀兄弟に取り押さえられてしまった。
千賀「今です、有楽斎様!首をお取り下さい!」
有楽斎「う、うむ・・・」(超腰痛い・・・)
こうして織田有楽斎は「負傷(主に落馬時)しながらも自らの手で(千賀兄弟の取り押さえた)蒲生真令の首を挙げる」という武功を立てたのである。
この武功は他の東軍の将に「有楽の武辺末の初物」とからかわれたが有楽斎もほとんど家臣のおかげで首を取ったようなものなので「老の似合わぬ事」と謙遜しきりであった。
0332人間七七四年
2011/01/09(日) 17:17:46ID:p43BD3p40333人間七七四年
2011/01/09(日) 17:41:10ID:a81FPY1A婦女子を逃がした時に一緒に逃がされたんじゃないかな
(戦力的に女子供と同等に考えられてたと言いたいわけじゃない、たぶんきっと。)
0334人間七七四年
2011/01/09(日) 17:53:34ID:uzW1yDlb0336人間七七四年
2011/01/09(日) 17:58:47ID:jgM4TFce老犬斎>>>>>>>>>>>>有楽斎なのに
老犬斎の空気ぷりが半端ない。
有楽斎は茶の湯やってて文化人枠だからしょうがないか
0337人間七七四年
2011/01/09(日) 18:02:18ID:+ThPPn5R無能ゆえに戦国の世を生き残れた武将って結構いるよね・・・
0338人間七七四年
2011/01/09(日) 19:49:24ID:nVBWhDZO長期の対陣に家康も暇していたのかやおら弓を取り出すと城へ向かって射始めた
と言っても流石に大城郭の小田原城、城に届かなかったが左右の近臣はオベンチャラで入ったと言い始めた
それを聞いた家康、淡々と
「いや、城までは程遠い」
のみ言い、弓衆を呼ぶまでもないと、近場にいたのであろう弓の名手である松平康安を呼ぶと矢を射るよう命じた
康安も弓を射るも殆どが土居に落ち、ようやく一筋が城の塀に刺さった
これを見た家康はようやく左右の近臣を向くと
「康安程の名手でもこうなのだ、お主ら嘘を付いたな」
と不機嫌に言った
わざわざオベンチャラを否定する為に呼びつけられ、弓を射させられた康安にはご苦労様と言うしか無い
それにしても一々実例を以て否定する家康も大人気ないというか、まぁ甘言が大嫌いが故なんだろうが
0339人間七七四年
2011/01/09(日) 19:56:00ID:+dI9g+dxお家の滅ぶ時だと心得られよ!」みたいなことを言ってたような。
0342人間七七四年
2011/01/09(日) 22:34:16ID:FxjQM0Zn悪いところを指摘してくれる口うるさい爺が必要
0343人間七七四年
2011/01/09(日) 22:52:38ID:u23N6nV0康安で思い出したけど、偏諱もらったせいで変な名前になっちゃったのこの人が戦国一だよな
ほかに輝照(てるてる)とか長永(ながなが)とか吉義(よしよし)なんて武将いないもんな
0346又兵衛
2011/01/09(日) 23:03:08ID:sqV0I1k90347人間七七四年
2011/01/09(日) 23:12:15ID:xkzg4CPF0349人間七七四年
2011/01/09(日) 23:50:48ID:03ZLplsT0350人間七七四年
2011/01/09(日) 23:51:08ID:l4SGOwp6ちょっと調べてみた
これがたぶんそうじゃないのかな
大島満光(土岐光定の耳孫)
平手英秀(政秀の祖父)
望月繁重(海野氏一族)
斯波義良は違うみたいだけど
0352人間七七四年
2011/01/10(月) 09:08:02ID:Y+z3XhUR0354人間七七四年
2011/01/10(月) 09:23:58ID:4vy/GENqインパクトでは信信には勝てなかっただろうなあw
0355人間七七四年
2011/01/10(月) 16:45:19ID:cY0cnWF/「そう思うのが凡夫の浅ましさ」とやりこめる話ばっかりだな。
0356人間七七四年
2011/01/10(月) 16:48:51ID:4ZvFqGiBつまり本多佐渡は忠臣だったんだよ。
0357人間七七四年
2011/01/10(月) 16:53:14ID:KcYEdIjF周りはごますりする奴ばかりで誰も注意してくれる人がいなくなるとか。
さんまがテレビで言ってた
0358人間七七四年
2011/01/10(月) 16:56:43ID:/CJlPUJwそして人間がお世辞にどれほど弱いものか、
自分からお世辞を拒否し続けた家康はやっぱりすごいよ。
0359人間七七四年
2011/01/10(月) 17:00:39ID:CSVrzNAH0361人間七七四年
2011/01/10(月) 18:49:23ID:K2p4jzz9独裁者系の支配者ってのは、
最期は周りを信じられなくなって、
猜疑心の塊で死んでいくパターンが多いような。
0362人間七七四年
2011/01/10(月) 18:49:33ID:BIr3m6dv>>359と>>360の首が晒されていましたとさ
┼ヽ -|r‐、. レ |
d⌒) ./| _ノ __ノ
0365人間七七四年
2011/01/10(月) 20:43:10ID:kdkuQA1Bそして秀吉のもとに、供の者十人ばかりを連れただけで、秀吉を主君として
初めての出仕をすることとなった。
この時成正は秀吉のもとに向かう途中、前田利家の陣の前を通った。すると前田家の者たち、
成政に向かって一斉に、どうと笑い出したのだ。
言うまでもなく「笑われる」というのは、この時代の武士にとって最大の侮辱である。
賤ヶ岳以降、成正と争い続けていた前田家の者たちは、ここぞとばかり降服した成政を
嘲笑したのだ。
しかしこの侮辱に、少数の供を連れただけの成正は何もできず、屈辱に耐え
笑われるがままにその前を通り、秀吉の元へと向かったという。
『利家夜話』より、前田家中、佐々成政を笑う。と言うお話。
0369人間七七四年
2011/01/10(月) 22:21:47ID:9QiZt9vS越前平定を果たし越前の国主となった柴田勝家らに対して、信長は9カ条にわたる訓戒状を発布した。
いわゆる「越前国掟」である。
「第九条 事新しき子細候と雖も、何事に於ても信長申し次第に覚悟肝要に候、
さ候とて無理・非法の儀を心におもひながら巧言を申し出すべからず候、
其段も何とぞかまひ之れ有らば、理に及ぶべし、聞き届けそれに随うべく候・・・」
(新しい事態が生じた場合も、何事においてもワシの指図に従って実践する覚悟が必要である。
しかし、ワシの指図が間違っていることを承知していながら口先だけの追従を申し出てはならない。
そういう場合もなんとか願い出申せば道理に気がつくはずで、貴様の申し出を聞き届けワシもそれに従うはずである。・・・)
この訓戒上の続きには「決してワシに足を向けて寝てはならない。」とか書いてるから、ガチでノブの間違いを指摘できた
猛者はいなかったんじゃないかな〜
0371人間七七四年
2011/01/10(月) 22:47:19ID:tWl6FjD00372人間七七四年
2011/01/11(火) 16:47:02ID:EdU1KOmW秀吉は全然大陸的じゃないよ
全国の金山・銀山の支配権とか貿易の利益を独占出来た
けど、石高とか徳川以下だし。豊臣政権も所詮大名連合から
脱し切れてない。
信長が天下統一してたら家臣を皆殺しにして、専制君主に
なってたかもしれんが
0373人間七七四年
2011/01/11(火) 17:16:37ID:OjnsGeMw> けど、石高とか徳川以下だし。
君は勘違いをしている。秀吉は天下統一段階で約210万石と言われているが、
これは「蔵入地」からの税収であり、まるまる秀吉の懐に入る数字。
これを年貢と換算して秀吉の実際上の石高を計算すると、豊臣家の平均税率は
7公3民だと言われているので、210÷7×10で、300万石相当。
で、家康の方だが、豊臣政権時代、徳川家は与力大名も合わせて250万石とされる。
が、関東に置いて家康は北条氏の時の税率、4公6民をそのまま継承したので
250÷10×4で、100万石、さらにここから与力大名分などを除くと、徳川家としての
実際の収入は80万石程度だったとされる。
つまり秀吉の政権時代、秀吉と家康の間には実際上の石高で300万石:250万石、
実収入にいたっては210万石:100万石と、倍以上の開きがあったわけだ。
0374人間七七四年
2011/01/11(火) 18:02:52ID:wZNSaqFG0375人間七七四年
2011/01/11(火) 20:11:48ID:4C8hQ4Zx「百姓は天下の根本也。飢えず、困窮せぬ如く養うべし」
普通に読めば、「百姓は天下の根本だから飢えて困らないようにしないと」
と言う意味だと思うけど、「百姓は生かさないよう、殺さないように」と訳されてるw
0376人間七七四年
2011/01/11(火) 20:16:49ID:T3JO+h6d0377人間七七四年
2011/01/11(火) 21:40:32ID:OjnsGeMw彼は藤の森と大仏殿との間で、同じく京に進む、誰とも知れぬ騎馬7,8騎に護衛された籠を見かけたが、
急ぎの使いでもあり挨拶もせずその一行を追い抜かした。
このとき問題が一つ。籠の中にいたのは、伊達政宗であった。
「あいつ挨拶もせず俺らを乗り越しやがったぞ!?馬引けえええええええええええええ!!!!!!!」
政宗、激怒。とっさに馬に乗り換えもう一騎とともに北村八兵衛をあとを追い、なんと抜き返した!
「キャッホー!オレを抜かそうなんて100年はええ!」
と、政宗が言ったかどうかは知らぬが、これには北村も驚きしばし呆然とした。だが、
「い、いやいや、わしも急ぎの御用の途中なのだ」
と、再び馬を駆けさせた。と、ここで不幸がもう一つ
「ギャー!」「あ」
北村八兵衛、なんと政宗の後を必死になって走り追いかけていた政宗の挟箱持をうっかり、馬で踏んづけて
しまったのだ。巻き込み事故である。
これに政宗はさらに激怒!そのうちに後から追いついてきた伊達家の騎馬の者たち4,5騎も合流し、北村は彼らに
取り巻かれた。
政宗が怒鳴る
「オラァ!?お前誰だ!?ここにいるのは伊達政宗だ!俺の一行を乗り過ぎ政宗の挟箱持を乗り倒したお前!
お前の主人は誰だ!?主人から政宗にそうしろと言われて、こんな事しやがったのか!?」
政宗、北村が主人からの命令で、わざと自分に侮辱を与えたのだと考えたらしい。
おそらくそうされる心当たりが山ほどあったのだろう。
ここで北村八兵衛、政宗の怒声にひるむこと無く、馬上から降りもせずこう言い放った
「わたくしは前田利家の家来、北村八兵衛と申す者です!急ぎの使いのため、京へ行く途中でした。
追い越したことを、その様に乗り越しなどと申されご立腹なさるとは、全く思いもしませんでした。
しかしこの事、わが主君前田利家が聞けば、私に罰を与えることでしょう。
であれば、政宗殿ご自身がここにお出でになっているようですし、私は今から責任をとって、
政宗殿の御前にて切腹つかまつります!」
さて、これを聞いて青くなったのは、伊達政宗である
「ま、前田…殿の…、家来!?」
押しも押されぬ豊臣政権の重鎮の家来ではないか!前田家と問題を起こせば、伊達家が危なくなるのは
眼に見えている。この時伊達家の重臣と思われる年を取った騎馬のものが政宗の方に近づき囁く
『殿、あの者ガチで切腹しかねません。そうなると伊達家もただでは…』
『そんな事は解ってる!』
「き、北村殿と申したかな!?」
政宗、コロリと態度を変え、北村八兵衛に、にこやかに穏やかに話しかけた
「と、利家卿からの急なる御使とは、ご苦労に存ずる。ささ、どうぞ早くお通りくだされ。それにしても見事な馬の
乗りっぷりですなあ」
などと北村を持ち上げ丁重に挨拶し、彼が通るのを見送ったそうだ。
後で前田利家はこの事を聞き、大笑いしながら「そんなふうに喧嘩腰にするものではないぞ」と
北村八兵衛を少し注意した、そうである。
伊達政宗、前田家の使いに追い越される、と言うお話
0378人間七七四年
2011/01/11(火) 23:38:08ID:Ojteo06g0379人間七七四年
2011/01/11(火) 23:57:24ID:fTJHC1Qn仕方ないよね、うん。
プッ
0380人間七七四年
2011/01/12(水) 00:05:48ID:pF6TC415強いものにはひたすら媚びろ
ストレスは弱いものにぶつけて発散しろ
0381人間七七四年
2011/01/12(水) 00:11:13ID:3UHAk3NZ0382人間七七四年
2011/01/12(水) 00:38:34ID:WQjYQzay0383人間七七四年
2011/01/12(水) 00:43:54ID:bi3FHbWnこれってむしろ、本来なら
なんか処分を受けそうな失態やらかした侍が
運良く大身の大名に見逃されたいい話じゃね。
なんか ID:OjnsGeMwの書きかたからすると
伊達政宗をディスりたい気持ちが先行してるみたいだが
こういうことって処世術に過ぎないし。
0384人間七七四年
2011/01/12(水) 00:57:08ID:tbpukY8cどういうつもりだ>>381、そういう言葉は、森家にはねーんだぜ…
そんな、弱虫の使う言葉はな……。
「ブッ殺す」…そんな言葉は使う必要がねーんだ。
なぜなら、オレや、森家の家臣は、その言葉を頭の中に思い浮かべた時には!
実際に相手を殺っちまって、もうすでに終わってるからだッ!
だから使った事がねェーッ。
>>381、オマエもそうなるよなァ〜〜〜、森家の家臣なら…
わかるか?オレの言ってる事…え?
『ブッ殺した』なら、使ってもいいッ!
0386人間七七四年
2011/01/12(水) 01:38:29ID:tbpukY8cよ、可政卿に連なるお方とは、ご苦労に存ずる。ささ、どうぞ早くお通りくだされ。それにしても見事なレスの
返しっぷりですなあ
0387381
2011/01/12(水) 01:39:40ID:3UHAk3NZ0388人間七七四年
2011/01/12(水) 01:47:12ID:MLsN01ig.∵ ○ ノ
':. | ̄
_| ̄| / >
0390人間七七四年
2011/01/12(水) 02:48:09ID:CjS8Lj4j0393人間七七四年
2011/01/12(水) 11:45:05ID:XlVSRd6hそんな政宗が大好きです
0394人間七七四年
2011/01/12(水) 15:49:02ID:k1AIihGLいい話かもしれないが、普段の行いが極悪なので悪い話にw
0395人間七七四年
2011/01/12(水) 16:59:38ID:7kSVjFfYもし政宗が腹を切れといったら逆に謝罪したかもしれんよ
0396人間七七四年
2011/01/12(水) 18:07:31ID:4fBAmBos0397人間七七四年
2011/01/12(水) 18:23:14ID:fF/vSbLm377の投稿者だが、政宗をdisるつもりはなくて、言葉使いとかは手を入れたが
内容は殆ど原文通りなんだわ。まあ原典があの悪名高い(?)利家夜話なんだがw
利家夜話は政宗に限らず、他の大名が前田利家の権威に平伏する、おとなしくする、といった
話がやたらあってね、>>396の言ってる三斎様を殴り続けた話も、利家夜話の中に
収録されてるのw
そういう、前田利家ageの本に収録されている逸話なんで、個人的には政宗に対して
悪意はないと弁明しておくw
0398人間七七四年
2011/01/12(水) 18:24:26ID:xlUUc3vA0399人間七七四年
2011/01/12(水) 23:14:07ID:qD3h7XQk政宗の長所だと思うがどうか。
0400人間七七四年
2011/01/12(水) 23:20:59ID:gL/7F6Bpそれで命も家も血も名声も残せた訳だしな。
0401人間七七四年
2011/01/12(水) 23:50:16ID:2tQ0tElSさすが政宗様、相変わらずの変わり身で!と、感心してしまうのは毒されてるのでしょうか
0402人間七七四年
2011/01/13(木) 08:46:04ID:bjLJHB7U権力中枢に近いやつに讒言されれば圧倒的に立場悪くなるのは
現代よりもひどそうだな。
0403人間七七四年
2011/01/13(木) 16:20:01ID:m0g72ZyU自分を罰するよう願った。だが元就はその申し出を不問にした。
「刀番と言っても朝から晩まで始終刀を守っているわけではあるまい、ならば罰するには及ばない。
刀のある場所は城の奥だ、刀ひとつを盗む為にわざわざ奴僕がくるところじゃない。
刀は武器だ。おおかた武に励み、剣を好む若侍が、馬鹿な心を出して盗んだのだろう。
ならば、その刀をもってよく奉公してくれるだろう。武士の盗みにはそのようなこともあるものだ。
これがもし、武士が金銭や米穀を盗んだというなら、法をもって処罰しよう。
この事は沙汰すべきでない、放っておけ」
その3年後、大内氏の月山富田城攻めに毛利も従い、大内氏が配下の裏切りにより尼子氏に敗北したため、
大内氏傘下の元就も撤退を余儀なくされる。
領国の安芸へ撤退する途中、石見の大江坂七曲りで、尼子軍に追い詰められた元就に
身代わりを申し出た若武者がいる。
そう、あの時名刀を盗んだ渡辺通である。
無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感動し、決して渡辺の家を見捨てないと誓い、
通の遺子の長を股肱の臣として重用。その態度は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、
長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々渡辺家のものが先頭の栄誉に与かることになった。
0404人間七七四年
2011/01/13(木) 17:22:45ID:enxeHMa7むしろそう言うレベルでしか持ち上げられない辺りが利家らしいと
逆に微笑ましく見えて・・・・は来ないかw
0407人間七七四年
2011/01/14(金) 11:24:00ID:gqvdiOW2大阪城奥の矢倉に、4,5人ほどの侵入者が3,4日ほど滞在した形跡が発見された。
これは矢倉に用のあった奉行衆の一人が発見したもので、調査の結果
内堀が破壊されており、土蔵の脇には食事を作り、食った後があった。
この事すぐに秀吉の耳に入り
「現場に詳しい者の仕業に違いない!」
と、そのあたりの工事を担当した大工、壁塗りなどを捕らえ糾明させた。
しかし彼らが、物取りなどを目的として浸入した形跡はまるで無く、
結局真相は解らずに終わった。
この時捕らえられた大工、壁塗りたちの多くは、糾明の最中に殺されたそうだ。
その矢倉は各番所などから離れた場所にあったため、警備担当者も全く把握できて
いなかったという。
さて、その年の7月。秀次事件が起こる。
これにより矢倉の件は
『秀次公が密かに忍を置き秀吉公がお出でになったところを討ち果たし、
そのまま天下をお取りになるつもりだったのだ』
と、説明されたという。
大阪城矢倉、不審者侵入事件について伝わる話である。
0408人間七七四年
2011/01/14(金) 11:29:06ID:u++unH6i安し…じゃないな安定したラスボスクオリティ
0409人間七七四年
2011/01/14(金) 14:59:56ID:4u0D7K6X一般に「真田幸村」と称される人物は存在せず、正式には「真田信繁」という名前
であった事は良く知られている。
しかし、真田家の家臣が書いた『加沢平次左衛門覚書』には、「幸村」は勿論、
「信繁」なる人物も登場しない。
真田昌幸の子供は源三郎信幸が長男、二つ年下の弟に藤蔵信為、更にその下に源五
郎がいると記録されている。
この信為が、信繁の事であろうか。それとも三男の信勝の事なのか。
もしかしたら大阪でやらかしちゃった人は、記録から抹消されてしまったか。(^^;
通常、信繁は信幸の一つ年下で、第一次上田合戦の際には上杉家に人質に出ていた
とされるが、この二つ年下の弟、信為は上田合戦に参加している。
参加とは言っても、昌幸の側に控えて共に付き従ったと言い、部隊を率いていた信
幸とは同列には語れないが、三尺五寸の大長刀を杖に突き、ゆらりゆらりと城から
打ち出した、とある。
1mちょいのでかい刀を杖として、ふらふらとよろめきながら父の後を付いて行っ
という事だ。
この時信為の年齢、十八歳。
……それ、周囲で見てる兵士的にどうなん?士気、さがらねぇ?(^^;
逸話というほどのネタじゃないんですが、信為とかいう正体不明の人物の出陣光景
に、ちょっと突っ込みを入れたくなってしまって……(笑)
0410人間七七四年
2011/01/15(土) 00:06:06ID:SBXoeJhyところが小諸における秀久の統治は非常に評判が悪く、領内の一郡が逃散で滅びた、などとの噂もあった。
さてそんなある時のこと、夜半、突如として浅間山より、提灯を千ばかりも灯したような巨大な光が出現した。
小諸の城は浅間山のすぐ下であったため、上下の者たち驚いてこれを見つめていると、その光は
自分たちの方に向かってくるではないか!
小諸の者たち等しく肝を潰したが、その光は城の南の方へと通り過ぎた。
そのうちに激しい雷雨が起こり人々は家の中に避難、そして夜が開け外に出た人々が見たものは!
小諸城の中に、幅5,6間(約10メートル)、長さ50間(約90メートル)ほどの地面が、堀のように
くり抜かれていた!
小諸の人々はなんと不思議なことかと驚き、
世間の人々は、「越前守(秀久)の家臣たちの質が非常に悪く、百姓たちに酷くあたるという悪名が
非常に広まったため、浅間山に鬼の精でもあって、これがその様なことをしたのではないか?」
などと噂したという。
小諸に謎の怪光線あらわる、と言うお話。
0411人間七七四年
2011/01/15(土) 00:25:39ID:xzQdTSZ2千曲川も近いし、天然の谷を堀代わりにしていたりするから
雷雨で地盤が緩んでその辺りに崩落した?
0412人間七七四年
2011/01/15(土) 00:30:13ID:/DqSqdN7実は全く関係無い2つの出来事が結びつけられた感じかねぇ
0413人間七七四年
2011/01/15(土) 00:56:54ID:URMYVkaj)、._人_人__,.イ.、._人_人_人
<´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| /
/ // |::: + ) )|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;|// ////
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;|// ///
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| ///
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ////
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
0414人間七七四年
2011/01/15(土) 11:37:25ID:k2ZPE7+2<´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ , ;,勹
///// /:::: (y ○)`ヽ) ( ´(y ○) ;;| ノノ `'ミ
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| 彡,,,,, ,,, y ヽ
/ // |::: + 〉 〉|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;| l`゚ ゚' ミ |
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;| ⊂二二" ミ ヾ
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| 彡~~~~ ミ | もちつけ
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ,-‐― 彡l川| ll || ll| il|―-、 天狗なんていないから
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/⌒⌒⌒\ |ll | ヽ
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__// / / /⊂) z W`丶ノW ヽ
0415人間七七四年
2011/01/15(土) 16:03:13ID:5Tzwvzhh0416人間七七四年
2011/01/15(土) 20:11:03ID:Yp31fSBF0417人間七七四年
2011/01/15(土) 20:11:45ID:e6wwEj6M0418人間七七四年
2011/01/16(日) 00:52:58ID:tc5ZwTNfで、小諸の民の秀久に対する怨嗟の声を受けて久々にハッスル
0419人間七七四年
2011/01/16(日) 10:32:53ID:KckIMXHC0420人間七七四年
2011/01/16(日) 16:05:37ID:aYfMv7pc武田戦では森長可・団忠正でワンセット扱いだったのに
0421人間七七四年
2011/01/16(日) 17:11:47ID:rQHyZCVN0422人間七七四年
2011/01/16(日) 22:52:39ID:SsqYAh33小田倉の戦い(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4685.html)は大関高増の活躍によって那須・佐竹の勝利に終わったが、
那須家当主資胤の高増への拭い難い不審感を生んだ。
また、他の那須七党たち(一部除く)も高増を恨んで福原弾正左衛門資郡(資胤の弟)の戦功ばかりを言い立てたため、高増は怒って出仕を止めてしまった。
これを好機と捉えた資胤は、高増の家人松本美作守を密かに呼び出し、高増を誅殺するよう命じた。
仕方なく了承した松本だが、黒羽城に帰ると当然高増に打ち明ける。
「罪もなく殺されるのは納得いかないだろ^^;」
と、高増は逆心し、佐竹義昭に助けを求めた。
義昭の次男義宗を那須家の当主として迎えるという約束のもと、佐竹家重臣東左近将監政義率いる宇都宮・大関合わせて三千余騎が烏山西方二十余町に布陣、
それに対し那須側は資胤兄弟をはじめとする一千二百余騎で迎え撃った。
数に劣る那須家であったが、千本秋縄斎・蘆野意教斎・秋元越前守らの奮戦により宇都宮・大関勢を押し込め、那須勢を大軍と見誤った政義は降伏して常陸へ逃げ帰った。
(義政が那須勢を大軍と見誤ったのは那須八幡大菩薩が那須家を守護するために霊験を現わしたのだと人々は噂した)
その後那須勢は高増の籠る黒羽城に攻め寄せたが、高増の指揮のもと城兵が奮戦し、さらに高増の弟大田原綱清が高増救援に駆け付けたため、那須勢は囲みを解いて撤退した。
0423人間七七四年
2011/01/16(日) 22:55:07ID:SsqYAh33先の戦いの翌年、大関側の要請によって佐竹義重の陣代長倉遠江守当は茂竹左馬介・川井甲斐守・助川周防守ら常州兵を率いて烏山東方三十余町のところに出陣した。
佐竹勢は川を前に陣取っていたが、那須の者たちにとってはよく知る川、難無く渡り佐竹・大関の間に割って入った。
那須勢は重代の家臣から野伏・一揆衆まで命を捨てて動き回ったので佐竹勢は壊乱し逃げ出した。
この時大関勢は「地元だけど在所から遠いから地形がわからない。長倉殿は攻めの案内者なのだから殿よろしく^^」といって先に引いてしまった。
これを見た資胤は
「大関の連中は元々那須家の家来、最後には降参してくる。そのまま逃がしてやれ。常州の連中は一人も打ち漏らすな!」
と息もつがず攻め続けたので、佐竹勢の大半は討死、長倉も負傷して引いた。
大河井の流れは四・五日も血に染まり、紅の楯を並べたように見えたという。
那須家の内乱は永禄六年(1563年)より足掛け6ヵ年も続き、討死・負傷した者は数を知れない。
永禄十一年(1568年)、金剛寿院の住職尊瑜法印が仲介に入り、和議が成った。
資胤の嫡男資晴が使者として黒羽城に入り、高増もこれ以上主家に弓を引くわけにはいくまいと、正式に和睦を結んだ。
ここに周辺勢力を巻き込んだ那須家の内乱は一応終結した。
0424人間七七四年
2011/01/16(日) 23:15:49ID:hXEvT0hD0425人間七七四年
2011/01/16(日) 23:40:38ID:JElKcTQCこの後も何事も無く重臣
0426人間七七四年
2011/01/17(月) 00:36:25ID:qkQrjqxi0427人間七七四年
2011/01/17(月) 00:53:26ID:gWIIiGjx洞中社会というのはそういうものだからな。
逆に言えばそういう社会の中で近隣をガンガン潰し回った政宗がどれだけ
異常な存在だったかと言うこともw
0428人間七七四年
2011/01/17(月) 01:00:32ID:c+m7gPcR0429人間七七四年
2011/01/17(月) 09:20:36ID:UGRJdrcA0430人間七七四年
2011/01/17(月) 09:24:32ID:DEOvGZBc策謀上手いの揃ってる一族も抱えてるが…むしろ抱えられてるのか?
0431人間七七四年
2011/01/17(月) 21:34:53ID:+uZPg+Gn「あの時滅ぼしておけば良かった」と
0432人間七七四年
2011/01/18(火) 00:54:44ID:lClk80Z4文禄4年(1595)の秀次事件。この処分に一応の決着が見られると、豊臣秀吉は近習たちに
こんな事を言い出した
「秀次がいなくなった以上、この上は大納言(前田利家)が秀頼の御守りであり、わしに何かあれば
秀頼のことは彼に頼らねばならぬ。そこで、秀次の領地であった美濃、尾張、伊勢を、大納言に
任せようと考えている!」
この言葉に驚いたのは秀吉の奉行、石田三成と増田長盛である。彼らはこのころ、前田利家とは関係が
非常に悪かった。そのためこの土頭ども(罵倒の言葉であろう。『頭に土が詰まっている連中』とでもいう意味か?)
が言うには(此土頭共申上候は)
「御意、誠にごもっともだと思います。
ですが、大納言殿は現在の武将の中でも無双の武辺者であり、なおかつ、しばしば腹を立てられる人でも
あります。
万一、大納言殿が上様に対しなにか気に入らないことがあった場合、その様な要地を手にしていれば、
その日のうちにも謀反をすることでしょう。
時に秀次様の伏見の御屋形は現在、番人を置いてそのままにしてあります。
大納言殿にはこの御屋形と、越中新川郡をご加増することで、上様のお気持ちは充分に伝わると思います。」
そう言われて秀吉も考えを変え、石田、増田の二人が言う通りにした。
さて、屋形拝領と加増のことを使者が伝えると、前田利家は忝くこれを受け、早速秀次の旧伏見屋形へと入った。
前田家の者たち、内部を見て大いに驚いた、座敷からトイレにいたるまで、黄金でで覆いつくされているのだ。
これに利家は
「この屋形の様子を見るに、さても関白(秀次)殿には、大それた望みなど無かったと思われる。謀反などというのは
どうやら嘘偽りであったのだろう。
わしらは子孫までも望みを持つ。このような座敷は必要ない!」
と、豪華な黄金の間を取り壊させた。これはすなわち、利家は天下に望みを持っているということであり、
石田、増田の警戒は正しかったんじゃないか?とも思うが、ともかくそんな事をしていると、秀吉が大国を
利家に与えようとしたのを石田、増田が邪魔をした、という情報が入り前田家中大いに怒る。
これにより利家と石田三成、増田長盛との関係は一層冷却化した。
そして利家と奉行の関係悪化は、この後またややこしい事態を起こすのだが、その話はまた後日。
前田利家、美濃尾張伊勢所有を妨害される、と言うお話。
0433人間七七四年
2011/01/18(火) 01:48:25ID:jM64WJZiという論法ですね。
うん、それは正しい。でもさ、使うべき所には使わなきゃ、天下なんて取れないんだよ、
又左さん。(^^;
0434人間七七四年
2011/01/18(火) 06:20:18ID:ka5sZIIR石田とかが借金の口利きして、金貸しからリベート受け取ったせいで金借りた奴から恨まれたのを考えるとスマートな人心掌握だと思う。
0435人間七七四年
2011/01/18(火) 18:34:14ID:3bu63EbZ天下を取りたかっただけだよ。勘違いしないでよね。」
0436人間七七四年
2011/01/18(火) 18:56:57ID:BIGOX6KN0437人間七七四年
2011/01/18(火) 23:45:10ID:3bCKS5bK島津の退き口のわけ
島津の勇名を天下に知らしめた、関ヶ原の「島津の退き口」
敵中を“前に向かって退いて”関ヶ原を縦断し、伊勢街道に抜けたわけだが、
このルートを選んだのは以下の理由からだと言われている。
第一に、戦局に寄与せずただ撤退するのは、島津家の面目が許さなかったこと。
第二に、天満山を背に布陣していた島津軍が北(北国街道)や西(中山道)に
向かおうとすると山を登らねばならず、このとき65歳でかなり肥満していた
島津義弘が、山登りを面倒くさがったこと。
0438人間七七四年
2011/01/19(水) 00:58:11ID:Noof9hdA事実上殿になって撤退どころではなく手薄な伊勢街道に抜けるのが敵の意表もついて
最も合理的だったと考えている
0439人間七七四年
2011/01/19(水) 01:04:50ID:KXjjqLfZ0440人間七七四年
2011/01/19(水) 01:06:14ID:OzGs+Brm0441人間七七四年
2011/01/19(水) 01:11:23ID:/Cs2bbU3結果的に中央突破っぽくなった、と思ってる。
0443人間七七四年
2011/01/19(水) 02:08:42ID:yX8hlm7U0444人間七七四年
2011/01/19(水) 02:12:21ID:QH2gKQ2y1万人で家康の首取れたと思う
0446人間七七四年
2011/01/19(水) 03:18:47ID:eotCypAfそこまで都合のいい思考をできる444に乾杯
0447人間七七四年
2011/01/19(水) 03:28:43ID:lc3Vo/pG確か燃え萌え戦国武将対決!鍋島直茂VS島津家久って番組で言ってた
0448人間七七四年
2011/01/19(水) 03:48:11ID:bxu/GW0W1万もいたら、黒田なり福島なりと正面衝突してるよ
0449人間七七四年
2011/01/19(水) 05:00:33ID:2LZG+p4J0450人間七七四年
2011/01/19(水) 06:52:17ID:/j0WTPoFやっぱり太ってて居たのもさることながら、雑兵の負担を考えて山登りルートを避けたのもあると思いたいなあ
0451人間七七四年
2011/01/19(水) 12:26:31ID:N4EeK6Fi0452人間七七四年
2011/01/19(水) 18:57:15ID:aaeKndE50453人間七七四年
2011/01/19(水) 19:00:38ID:nhzlIoLaつーかいわゆる「関ヶ原退き陣」で島津はたしかに家康本陣と遭遇したが、
堂々と突破したとかではなく、東軍のふりをしてコソコソ通り過ぎただけだぞ。
そもそも島津の記録にそう書いてある。
0454人間七七四年
2011/01/19(水) 19:40:06ID:M81Z+1fLだって小牧長久手から16年もブランクあるし……
島津なんてつい2年前まで朝鮮でドツキ合ってたんだし仕方ないよ(´・ω・`)
0456人間七七四年
2011/01/19(水) 21:17:57ID:ZyeoQhJlそれって中馬だろw
前そんな逸話がここに投稿されてた
中馬を「ちゅうま」だとばっか思ってたのは良い思い出
0458人間七七四年
2011/01/19(水) 22:09:12ID:BfJ3UjlG北原掃部なる若者が居た。
彼もご多分に漏れず「維新さぁが難儀しやっど」を合言葉に故郷鹿児島から駆けつけた者であり、
さらにご多聞にもれず義弘を戦場から逃すために奮戦した者でもあった。
激戦の末傷ついて人事負傷となり残念にも敵に捕えられ、彼はとうとう首をはねられることになった。
人事を尽くして天命を待つ。もう粉っては泰然自若として死に臨む他ない。
覚悟を決めた掃部は敵兵にしばし猶予を乞い、戦場に持参してきた腰の天吹(尺八)一管をやおら取り出し
この世の最後の別れとして「鶴の巣篭もり」の一曲を静かに吹き鳴らした。
日が傾きかけた血生臭い戦野、嘆くが如く啼くが如く響く妙音に死を前に聊かも動じぬ神色自若たる態度。
敵兵もこの若い武士の風流と覚悟に感嘆置く能わず「勝敗は決した。首を刎ねる事もあるまい」ついに許して助命する事となった。
だが掃部は「既に天吹のための猶予を頂いたれば」これ以上の情けは無用と武士の面目を守り自決してしまった。
彼の天吹は薩摩の一族の元に届けられ「助命器」と銘打たれてその後も大切に保管されたという。
このことを聞いた義弘は掃部の遺族を手厚く保護し、家名の絶えぬように取り計らったという。
北原の家名は江戸時代以降も続き、明治には鹿児島公園の西郷隆盛像を手がけた安藤照氏を輩出することになる。
せっかく助命されたのに「武士の面目」ということで自害して果ててしまうのは
果たしていい話なのか悪い話なのか・・・判断が分かれるかもしれませんが。
0459人間七七四年
2011/01/19(水) 22:17:19ID:6h+fJKOFそこで最初の覚悟の通り命を絶ったから綺麗な話になるんだろうな
助かったら「芸は身を助ける」みたいな話になっちゃうし
まあ現代の価値観ではああだこうだ言われる類の話ではあるよね
0460人間七七四年
2011/01/19(水) 22:26:00ID:z7/GEfG1今、大河ドラマ『利家とまつ』レンタルして見てるんだけど、
ドラマでの利家の小物ぶりは、まつ様ageのためだと思ってたんだが、
このスレの逸話見てると、ある意味では史実に忠実だったんだろうかw
>>410
『センゴク』での秀久しか知らないけど、
やっぱり、政治能力とか指揮官としての能力はダメダメだったんだな・・・
0462人間七七四年
2011/01/19(水) 22:35:18ID:ZyeoQhJlそれは陣を下げた、いや、下げてないってことじゃなかったか?
旗が立ってた、立ってなかったうんぬんだったかもしれないが
とにかく彦左衛門が言いたかったのは「最近ワシら老臣に冷たくない?」ってことだろ
0464人間七七四年
2011/01/19(水) 22:37:00ID:Noof9hdA宗滴の言うような犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本という価値観と
武士の美徳・美意識はどこで線引きされていたんだろう
織田軍団は利益の意識が強かったが信長の強烈な美意識である程度バランスがとれてたが
信長死後秀吉になって旧織田系は完全にバランスが崩れてしまったようにも見える
0465人間七七四年
2011/01/19(水) 22:42:08ID:4fFGBnrq夕日に染まる戦場に、ふと流れ出す尺八の音色。
敗残兵を小突き回していた足軽も手を止め、音のするほうに目を向ける。
その一角だけ喧騒が静まり、嘆くが如く啼くが如く響きわたる尺八の音。
勝手な想像だけど、泣ける光景だね……。
0466人間七七四年
2011/01/19(水) 22:50:54ID:t9gLdotq自らの死刑が執行される寸前に見事な縦笛演奏で遺族の心を打ち、死を免れた少年(イラン)
執行官が少年に聞いた。「あの世に行く前に最後の願いがあるなら、言ってみるがよい」
ペイマンド少年は、死ぬ前にネイを演奏したいと答えた。執行官は頷き、少年にネイが渡された。
少年は、心をこめてネイを奏でた。
深い哀愁を帯びた音色と旋律。今まさに命を絶たれようとしている少年のその演奏は、その場にいた全員の
琴線に触れた。被害者の遺族も、その例外ではなかった。
イランの法律では、被害者の遺族に対し、死刑執行の直前に懲罰願いを撤回するオプションが用意されている。
しかし、アムネスティ・インターナショナルによると、これまでにそのオプションが行使されたことは“きわめて稀か、
あるいはほとんど前例がない”という。
少年が殺めた男性の遺族は、心底憎きはずの少年の見事な演奏に心を打たれ、その“前例のない選択”を下した。
遺族が懲罰願いを撤回したことにより、ペイマンド少年は死刑を免れた。
0467人間七七四年
2011/01/19(水) 22:52:12ID:WPV4yfbC0468人間七七四年
2011/01/19(水) 22:52:42ID:BfJ3UjlGああ、誤字が多いな。お恥ずかしい・・・
維新さぁが ⇒ 惟新さぁが
人事負傷 ⇒ 人事不省
粉っては ⇒ こうなっては
です。
追記ですが安藤照氏は渋谷駅のハチ公像(初代)の製作者でもあるそうです。
掃部の自決、義弘の家名保護がなかったら、渋谷駅の風景も今とは違ったものになっていたかも知れませんね。
0469人間七七四年
2011/01/19(水) 23:22:26ID:nbacYumBhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3258.htmlの逸話思い出したわ。
0470人間七七四年
2011/01/19(水) 23:28:35ID:uJtLxFH/「勝つことが本という価値観」と「武士の美徳・美意識」ってそこまで相反するもんでもなかったんじゃないかな。
謀略なんかも武士として賞賛される行いだったわけで。
0471人間七七四年
2011/01/19(水) 23:52:50ID:WPV4yfbC0472人間七七四年
2011/01/20(木) 00:00:38ID:oTfw6vIv誰もが清く正しく美しく生きられるわけじゃないのは今も昔も変わらないわけで
だからこそ美しく散った人間は語り継がれると…
0473人間七七四年
2011/01/20(木) 01:27:28ID:AmREw0Fa前田利家と秀吉の奉行衆との対立から起こったおはなし。
豊臣秀吉の死の3年ほど前というから、慶長元年(1595)頃の話か。
その頃秀吉の奉行衆、石田三成、増田長盛、長束正家らは、冷え切っていた
しかし秀吉の信頼深まり秀頼の後見となった前田利家との関係をこのままにすることも出来ず、
奉行たちは関係の改善を模索し、利家の重臣である徳山五兵衛、岡田長右衛門などに
働きかけていたが、なかなか芳しい結果を得られなかった。。
そんな中、石田三成が事前に連絡もなく利家の元を訪れ強引に対面し、それまでのことを謝罪、
関係修復を図るという挙に出た。
これを知って怒ったのが増田長盛である。三成は同じく利家との関係改善を模索している、
しかも同僚である増田にすら、その事を知らせず単独で行ったのだ。
増田は三成のやり方に激怒した。こうなったら意地でも三成の力を借りず、自分独自の力で
前田利家との関係を築かねばならない。彼は家臣に
「誰か前田家の家中に知っているものは居ないか!?」
と尋ねると、右筆の者が
「昔私と同僚であった南部小兵衛と言う者が、現在前田家で大納言(利家)様の
馬廻りをしております」
と言う。
「ならばそのつてを使うのだ!」
調べてみると南部小兵衛は前田家において、重臣の岡田長右衛門に目をかけられていることが
解った。そこから岡田長右衛門、神谷信濃といった前田家中枢の者たちに繋がりをつけ、
ついに前田家重臣筆頭というべき村井長頼を動かすことに成功。
村井の口利きで増田長盛は利家と対面を果たし、今後、懇意にすることを約束した。
この事があったために増田長盛は、そして石田三成もせっかく利家との関係修繕に成功した自分を
一切頼らなかった増田の態度にあてつけを感じたか、彼らは表面上は良い関係にみえても、
内側では互いに激しく憎んでいた、という。
もしかすると関ヶ原に置いて増田が、三成に同調する体を見せながら、東軍に西軍の内情を
知らせていたのはこの事があったためか、なんてことも想像させる、増田長盛、三成に怒る、
と言うお話。
0474人間七七四年
2011/01/21(金) 00:45:03ID:AtWaAOexこういうのは現代でも心当たりがあるな
お互い意地を張らなければ修復できるんだがなぁ
0475人間七七四年
2011/01/21(金) 18:50:52ID:rZpsgktC0476人間七七四年
2011/01/21(金) 22:23:27ID:0dBR1auH渡辺糺と大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。
「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」
大野治長これを聞くと首を振り
「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。
そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」
すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
と言って去った。
後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。
後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。
0478人間七七四年
2011/01/21(金) 23:13:14ID:snAnfnoR0479人間七七四年
2011/01/21(金) 23:42:00ID:/XlwqW9Rもっと遠まわしに話してええええええ
0480人間七七四年
2011/01/22(土) 08:16:32ID:qlvpyR6o嫌がる人は多いわな、こう率直だと。
0481人間七七四年
2011/01/22(土) 08:45:23ID:0l/26EUw0482人間七七四年
2011/01/22(土) 13:39:13ID:jhdSEYjf北海道ではアイヌ族の間に恋の花として伝えられています。好きな人に思いをこめて贈れば必ず結びつくといいます。
ただしその人に送り主が分からないように相手の人が何気なく手に取るようにしむけなくてはいけません。
富山県や長野県では家を滅ぼし、人を不和にする呪いの花といわれています。
昔佐々成政が、愛妾ばかりをかわいがるのをねたんだ他の腰元たちがあることないことを吹き込んだ為、
怒った成政が愛妾を斬り殺してしまいました。この愛妾が立山に黒百合が咲くとき、佐々家は滅亡するとうらみを込めて叫んだそうです。
その後成政は珍しい花として黒百合を淀君に献上したことがもとで、お家断絶の憂き目にあってしまったと伝えられています。
0483人間七七四年
2011/01/22(土) 15:48:10ID:lCMCvMyq功名が辻だったかな
0484人間七七四年
2011/01/22(土) 15:50:58ID:kanMUdF+http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2215.html
黒百合を献上した相手が北政所と淀殿の違いはあるけど既出かと。
0485人間七七四年
2011/01/22(土) 15:53:39ID:0hbGveok0486人間七七四年
2011/01/23(日) 16:57:55ID:JKkFBA+pそしてこんな事を申し上げた
「いやいや、今回の戦、これだけの大軍を集めた内に、逆意の者(内通者)もなく、
誠に結構なことでございました。」
これに家康、フっと笑い
「今回のような勝ち戦の時は、敵は死んでしまうからな。逆意の者がいたかどうか、
調べようもなくなるわ。」
と、政宗をジロリと見て
「…全く無かったとは、思えないな。」
政宗これを聞いて
「いかにも、御意ご尤もと存じます。もし仮に、私の家来の中に逆心有るものがいたとしても、
御勝利につき敵に口無く、…知ることの出来ないことも当然、ありましょうな。」
と答えた。
この腹の探り合いを日本語に訳すと
家康「内通者が居ないなんてそんな事信じちゃいない。政宗、お前のところも
叩けばホコリが出そうだぞ?」
政宗「仮に私のところで何かあったとしても、それは家臣が勝手にやったこと。
それに追求するのも証拠不足難しいでしょ?そういう事にしましょうよ。」
といったところか。
戦勝の祝いの場の和やかな対面。二人とも実ににこやかな表情。だけど目は笑っていない。
そんな情景を想像させる、大阪陣勝利、家康政宗対面の事。
0487人間七七四年
2011/01/23(日) 18:29:35ID:hsGbcIcJ0488人間七七四年
2011/01/23(日) 18:33:32ID:WFSG8bia0489人間七七四年
2011/01/23(日) 18:39:40ID:6g3/tkWl0490人間七七四年
2011/01/23(日) 23:43:58ID:0JejoTqV0493人間七七四年
2011/01/24(月) 10:25:53ID:bkCiApbO二人が攻めるは岩谷城、蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主松本舜輔やその子氏輔は黒川城に詰めており、城代井上河内守が代わって城を預かっていたが何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。決着を付ける時と見たのかもしれない。
「すぐに兵を発し山内家を討ち滅ぼすべし」
そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。
「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。某にお任せいただければ必ずや山内一族を帰順させて参ります故、しばし追討の儀はお待ち下さいませ」
そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。最良の成果といっていいだろう。
……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。
舜輔「えっ」
盛氏「えっ?」
舜輔「何それこわい」
政清「(にやり)」
家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、この話には続きがある。
後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らないぱっと出の男だった。
どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。
0494人間七七四年
2011/01/24(月) 10:28:24ID:bkCiApbO明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名盛隆に討たれる。
……潰されても仕方がないといわざるを得ない。
0495人間七七四年
2011/01/24(月) 10:35:54ID:wjmialUeなんでそんなに回りくどい事しなきゃならなかったんだろう。
0496人間七七四年
2011/01/24(月) 15:07:18ID:n0sDOQSh0497人間七七四年
2011/01/24(月) 16:08:21ID:37Kdlzi2陽気に駆られたのか、馬上の彼は小歌を歌いながら機嫌よく馬を進めていた
しかし、酒を飲みだすようになると風向きが少し異なってきた
杯が無いので、馬の柄杓や竹筒から直接飲み、しかも馬上である
直ぐに酔いが回った
その内に飲み仲間が欲しくなったのか、片手に手綱、片手に竹筒を持ち馬を走らせながら
行列を「酒飲みいねぇか、酒飲みいねぇか」と尋ね回りだした
そして酒飲みを見つけて強く迫ったそうである
立派な飲酒運転、いや飲酒乗馬である上に、絡み酒である
さて、かの大名は誰か?
福島正則?、島津忠恒?、黒田長政?
答えは……徳川家康でしたぁ!
イヤ、ホント、マジで
でも、ちゃんと酒飲みを捜す所が家康らしいといえばそうかもしれない
0498人間七七四年
2011/01/24(月) 16:27:38ID:V/DlXyfN0499人間七七四年
2011/01/24(月) 17:41:05ID:fQOhp6RU0500人間七七四年
2011/01/24(月) 17:50:29ID:PsdT6mdX0501人間七七四年
2011/01/24(月) 18:11:35ID:+WQv9ex70503人間七七四年
2011/01/24(月) 18:56:14ID:Ton56FQR幕府開いた後かよw
0504人間七七四年
2011/01/24(月) 19:15:55ID:+WQv9ex70505人間七七四年
2011/01/24(月) 19:25:09ID:yJ52B3EH0506人間七七四年
2011/01/24(月) 20:36:33ID:YxdZ1Eud60過ぎてから青春を取り戻したかのようだ
0507人間七七四年
2011/01/24(月) 22:38:48ID:FDX8zAeWしかし酒呑みを探してから強要するあたりの抑制のきき方が凄いw
市松なら
0509人間七七四年
2011/01/25(火) 10:15:15ID:RYqXRmfb明応元年(1492年)松本藤右衛門輔忠、富田氏、伊藤氏などと組んで謀叛。蘆名盛高に討たれる。
明応四年(1495年)松本備前守輔豊(輔忠の次兄)、猪苗代氏、伊藤氏などと組んで謀叛、長沼正義に討たれる。
明応七年(1498年)蘆名盛高、松本家当主豊前守行輔、その従兄弟大学頭輔治、小四郎輔任ほかを誅殺する。
明応九年(1500年)蘆名盛高、謀叛与同の疑いで松本対馬守輔政(輔忠の三兄)を滅ぼす。
文亀元年(1501年)蘆名盛高、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ。
永正二年(1505年)蘆名家中で松本氏と佐瀬、富田陣営が衝突。当主蘆名盛高が後者を、嫡子盛滋が前者を支援。盛滋・松本氏陣営が敗れて伊達氏を頼る。
大永元年(1521年)蘆名盛舜、謀叛を起こした松本大学、藤左衛門兄弟(宗家との血縁不詳)を討つ。また同年、猪苗代氏の謀叛に松本一族多数が参加。
天文十年(1541年)蘆名盛氏、謀叛を起こした猪苗代盛頼を討つ(文亀元年とは別件&別人)
弘治元年(1555年)松本与右衛門輔敦(輔忠の子)、猪苗代氏庶流の小桧山盛長と共に蘆名盛氏に謀叛、討たれる。
永禄十一年(1568年)蘆名盛氏、謀叛を起こした庶兄の蘆名氏方を討つ。
天正六年(1578年)山内重勝、大槻政通が越後上杉氏に通じて謀叛。蘆名盛氏に討たれる。
天正十二年(1584年)松本太郎行輔(輔豊の玄孫)、蘆名盛隆に謀叛し討たれる。同年、盛隆は男色のもつれから大庭三左衛門に殺害される。
天正十三年(1585年)松本輔弘(輔忠の孫)、伊達家に寝返って謀叛。蘆名亀王丸に討たれる。
天正十六年(1588年)猪苗代盛国謀叛、伊達氏を会津盆地に引き込む。
天正十七年(1589年)摺上原の敗戦後、会津四天が一致して謀叛し蘆名盛重を常陸に追放する。
蘆名氏にとっては一門筆頭の猪苗代氏と四天筆頭の松本氏の謀反は日常業務の内です
そんなことで族滅していては洞中が持たない
他の洞でもここまで酷いのはほとんど見ないけどな!
0511人間七七四年
2011/01/25(火) 11:54:45ID:Noba06/A0512人間七七四年
2011/01/25(火) 12:55:03ID:HQyMFkIWhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3710.html
実際のところ上のように松本氏に対する処遇を誤った結果、伊達が付け入る隙の
一つになった観は否めない。四天筆頭の動員力は蘆名を支える柱の一つでも
あったはずだし。
蘆名宗家の力が強化されていけば差し引きで帳尻も合っただろうけど歴代当主の
相次ぐ急死が重なって果たせず、他の家臣の力が増しただけだったりではね。
0513人間七七四年
2011/01/25(火) 13:10:55ID:7BjZsWcwある合戦に置いて秀吉は、尾藤甚右衛門知宣に殿を命じた。さらに
「今日の殿は大変重要である。撤退中敵が追って来ても絶対にそれと戦ってはならない!」
さて、実際に軍を引き上げると、案の定敵が追ってくる。尾藤は命令通りにこれを相手にせず
引き上げ作業を続けたのだが、はるか後方の山上にいた秀吉は、その様子を見て激怒した
「どうして尾藤は合戦をしないのだ!?あいつは大腰抜けだ!!」
そうしているうちに無事兵の撤収を完了させた尾藤が戻ってくる。「何故戦わなかった!?」
尾藤の顔を見るやいなや秀吉は猛然と叱りつけた。
これには尾藤も戸惑うしか無い
「先に、絶対に戦ってはならないと命ぜられました。それ故に相手にしなかったのです。」
しかし秀吉
「合戦をしないようにとの命令は大法である。だが明らかに敵を討ち取る事の出来る状況に引き込んだ時、
これと戦わないのは目が明いていないのと同じことだ!
まあ佐久間備前、大膳兄弟のように、戦うべきでない時でも合戦をする連中よりはましだろうがな!」
そう言って尾藤を下がらせた。
ちなみにこの佐久間備前、大膳兄弟とは、賤ヶ岳の結果死んだ佐久間盛政の弟たちだだったそうだ。
ところでこの場に蒲生氏郷がいた。氏郷は秀吉に
「先程のお言葉、佐久間兄弟にとって誠にかたじけない仰せでありました。
そこで佐久間兄弟を、私に家臣として頂けないでしょうか?」
秀吉はその望みを許し、氏郷に佐久間兄弟を与えたということである。秀吉に悪例として出された
佐久間兄弟への、氏郷のフォローだったのだろうか。
とにかく全部の歯車がかみ合っていない感じの、妙にもやもやする九州役のヒトコマ。
0514人間七七四年
2011/01/25(火) 14:20:18ID:0pCPIw3z戦国のゆとり社員それが尾藤知宣
0515人間七七四年
2011/01/25(火) 14:31:11ID:3i5yRyCP0516人間七七四年
2011/01/25(火) 14:55:20ID:md7ywBoVこの前の伊野波みたいなもん。
0518人間七七四年
2011/01/25(火) 15:05:12ID:DuOMYhfy戦って負ける→ワシの指示を無視して負けるとは獄門だな、GOKUMON
戦わない→叱責
何この無理ゲー
0520人間七七四年
2011/01/25(火) 15:12:40ID:66axgH2J指示無視で結果を出すのを繰り返して出世したのが加藤清正か
0521人間七七四年
2011/01/25(火) 15:41:19ID:eQtjHPU+当時はまだ自分も偉くなる前だから我慢しながら使ってたけど、もう我慢する必要無いってか?
0522人間七七四年
2011/01/25(火) 15:48:01ID:99TntDbz昔の弱かった・つらかった時期を知ってる家臣が疎ましかったのかもね
0523人間七七四年
2011/01/25(火) 15:48:56ID:N3owsEAo0524人間七七四年
2011/01/25(火) 15:49:55ID:N3owsEAoなんでTOPクラスって入力したはずなのにTOPページクラスとか入力されてるんだよ
MS-IMEより酷いのかもしれん
0525人間七七四年
2011/01/25(火) 15:50:45ID:N3owsEAo0526人間七七四年
2011/01/25(火) 15:53:00ID:jFzytkmRイメージ的には信長の影に隠れているが、親族関連以外は信長より徹底してると思う。
0528人間七七四年
2011/01/25(火) 21:08:32ID:V/nWGyUHでも、これって美談扱いだよな、確か
0529人間七七四年
2011/01/25(火) 21:10:45ID:Y8O+rXBa0530人間七七四年
2011/01/26(水) 01:54:22ID:D1skHDJM下野国の佐野宗綱が佐竹氏と手を組み、北条氏に抵抗していた頃の話。
宗綱に取ってはお隣さんである藤岡城と榎本城が佐竹氏と手を切り、北条方に寝返
るという事件があった。
宗綱は激怒し、すぐに両城を攻撃する準備を始める。
そんな時に配下の将、山上藤七郎を筆頭にした若者三十六人が、宗綱の許可を得る
事なく、榎本城に夜襲を仕掛けた。
榎本城はこの奇襲に狼狽し、まともな抵抗が出来ないまま、藤七郎らに城中への侵
入を許してしまう。
しかし、彼等の快進撃もここでタイムアップ。城を落しきれないまま、夜明けを迎
えてしまった。
周囲が明るくなった事で、佐野勢が少人数である事を知った榎本城は、ここで漸く
反撃を開始。
藤七郎等は七人にまで討ち減らされ、退却せざるを得なかった。
藤七郎達の行動を知った宗綱は、命令違反の抜け駆けを行った上に、多数の犠牲者
を出して逃げ帰ってきた事に激怒。
主君の怒りを知った藤七郎は「大庵寺にて切腹いたします」と言い残し、城を去っ
た。
周囲の家臣達の取成しもあり、何とか許しを貰ったのだが、その報せが大庵寺に届
くより早く、藤七郎は切腹を遂げていたという。
「戦うべきでない時でも合戦をする連中」はここにもおりましたとさ。
しかし小城とはいえ、三十六人で城攻めって無茶すぎるだろ。
0531人間七七四年
2011/01/26(水) 11:07:22ID:qyIOF+62大坂の陣の時のこと
細川忠興は弟である細川玄蕃頭(興元)にこんな事を尋ねた
「丹羽五郎左衛門(長重)、立花飛騨守(宗茂)の勢の働きはどうか?」
玄蕃頭答えて
「丹羽、立花の勢は散々の不出来です。前に彼らに良い働きが出来たのは、
それぞれの重臣であった江口三郎右衛門、十時孫右衛門(連貞)が居たおかげでした。
ところが今回はその両人が居りません。そのため、丹羽立花勢は散々の体となっております。」
このように立花の事も散々に言っている細川興元だが、この人の妻は立花宗茂養女(高橋鎮種の娘)
さったりする。親戚なのだ。親戚故にきついのかも知れないが。
ともかく細川興元、丹羽、立花勢の働きをを酷評する、と言うお話。
0532人間七七四年
2011/01/26(水) 11:14:54ID:eoJXUVWqどちらを信用するかにもよるなw
十時さんが有能な人なのはわかるが
でも大坂の陣だと判断しづらいような
0533人間七七四年
2011/01/26(水) 11:15:24ID:u/iuNDjHおおっ、やっと悪い話らしいのが出たなw
丹羽と立花って両方とも改易された者同士だけど
一度組織が吹っ飛ぶと立て直すのは難しいんだろうか?
0534人間七七四年
2011/01/26(水) 13:47:26ID:msrWOVwI0535人間七七四年
2011/01/26(水) 14:51:44ID:hfRjro5Cttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-451.html
をみてくれい。
ともかく、甲斐姫は秀吉の側室となり、成田家は下野烏山に移封となった。
しかしそれについて真書太閤記には
『ひとりの妖女、一、二寝の間に三万石の地を進退す。
秀吉薨じて墳土乾かざるに、たちまちにして乱起これども、重恩の諸将これに死をいたすものなきゆえん』
とある。
つまり豊臣恩顧の諸将が「やってらんねーぜ」と、見切りをつけてしまったというのだ。
1行目−2行目のつながりが強引過ぎるとおもうが、真書太閤記の作者栗原柳庵は不快に思ったらしい。
あ、この本江戸後期のものか。
0536人間七七四年
2011/01/26(水) 17:34:55ID:JI0vbB6F新たな封を豊前に得たが、日ごろ温厚で心優しき細川三斎公、
愛する夫人を失った痛手からまだなかなか立ち直れずにいたのであった。
そんな鬱々とした気分のある日、気晴らしにと小倉の城からさほど遠からぬ
長行の地に公は鷹狩りに出たのであった。
紫川の西、肥沃な広野が広がり小高い丘の起伏が織り成す地は
良き猟場であった。
久々の狩で汗をかいた公が、荒れはてた祇園神社に休息を求めた。
その昔、この地の豪族長野氏が手厚く保護したころは
ずいぶんと栄えた神社であったが、公の目の前には
朽ち果てつつある本殿が見えた。
憐れに思った公、ご神体の状態を仰ぎ見たく扉を開けようとしたのであったが、
長年の雨露泥に汚れ果てた扉であったから、思わず手にした鞭を差し伸べて
扉を開けてしまった。
その瞬間、本殿から1羽の鷹が飛び出し、公の両目をしたたかに蹴りつけた。
そのまま鷹は大空に飛び去っていった。
その直後である。公の眼前は暗転し両目が見えなくなった。
あまたの戦場を駆け抜け武勇の誉れ高い公であったが、
おおいに恐れおののいた。その場にぬかずき、
おのれの無礼をわびにわびた三斎公であった。
暫くすると不思議なことに片目だけが見えるようになった。
ほっと安堵する公であったが、見えなくなった片方の目も快癒を願った。
そのために立派な社を新たに造作したのみならず、
領内三箇所に祇園神社を分詞したのであった。
その社の一つが今も小倉城内八坂神社に残っている。
さらに京都の祇園祭りに負けじと、小倉の祇園祭を創始したのも三斎公であった。
似ても似つかぬ男くさい祭りとなってしまったが。
0537人間七七四年
2011/01/26(水) 18:36:21ID:HJyJbuAi, '´  ̄ ̄ ` 、i r-ー-┬-‐、i
, '´  ̄ ̄ ` 、 |,,_ _,{|
i r-ー-┬, '´  ̄ ̄ ` 、゚`lリ
| , '´  ̄ ̄ ` 、┬-‐、i !
i r-ー-┬-‐、i _,{| .イ
ト| |,,_ _,{| {"゚`lリ ))
⊂N| "゚'` {"゚`lリ_''_ !)|
ト.i ,__''_ ! ー .イ `J
⊂ \ ー .イ ⊂ )
ヽ ⊂ )(⌒)|
(⌒)|三 `J
三 `J
神木→ |
⊂( ゚д゚ )
ヽ ⊂ )
(⌒)|
三 `J
∧_∧
((ヽ( )ノ) ∧_∧
ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ( )ノ) ∧_∧
∧_∧ | . . | ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ( )ノ)
(ヽ( )ノ)(___人__ ) | . . | /⌒ヽ ヽ ̄ l  ̄ ./
ヽ ̄ l  ̄ ./ ; 丿 し ( _,;*;,__ (ヽ( )ノ) | . . |
∧|_∧ || ∪ ∪ ; 丿 ヽ ̄ ∧_∧ (___人__ )
(ヽ( )ノ) ∧_∧ ∪ (ヽ( )ノ)丿 し
ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ(::::::::::::::::)ノ) ∧_∧ ヽ ̄ l  ̄ ./
一本の「神木」を巡る熱い男の闘い・・・西大寺会陽(はだかまつり)
毎年二月第三土曜日 岡山市西大寺町
0538人間七七四年
2011/01/26(水) 21:50:03ID:nEYal3qI十時さんっていうと、どこまでも宗茂にもついて行った人ってイメージだったけど、
大阪の陣には居なかったのかね、意外。
0540人間七七四年
2011/01/27(木) 01:50:24ID:q/p6M57N0542人間七七四年
2011/01/27(木) 15:29:05ID:jr6G3fvhそしたら矢が飛んでくるなどの大坂方の勢いで供回りが動揺したもんだから
秀忠がちょっと下がろっか?って宗茂に意見を仰いだら今度は
宗茂曰く「大坂方はもう疲れが見えます。ここで下がったら味方の士気に影響します」
そしたらほどなく大阪方が次々撤退した
っていうような逸話をみたことがあるんだけどなんだったっけな?
0543人間七七四年
2011/01/27(木) 15:53:14ID:yB5s8aPc夏の陣では、真田、毛利の猛突撃に続いて右翼側から
大野らの混成部隊が秀忠の本陣に突っ込んだのでは。
秀忠自ら槍をとって、立ち上がり、とか。
宗茂は秀忠の相談役だったから、そんなこともあったかも。
0545人間七七四年
2011/01/27(木) 17:01:13ID:tNt0E/u+0546人間七七四年
2011/01/27(木) 22:34:20ID:+Dhh+RyE豊臣秀吉
ききしより 眺めにあかぬ 厳島 見せばやと思う雲の上人
長束正家
宮島の 春の景色は 君が代の 風ふかぬとや花もしるらむ
増田長盛
ゆく舟も 君がみゆきの 折をえて 浪もしづけき春の宮島
石田三成
春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の心ちこそすれ
大谷吉継
都人に 眺められつつ しま山の 花のいろ香も名こそたかけれ
ここで長束と増田のいう「君」=秀吉だよね。
あと大谷の「しま山」は島津とかけている、と思う
資料に歌の意味とか背景の解説がないんでなんとなくしか分からない…
詳しい人がいたらお願いします
0547人間七七四年
2011/01/27(木) 22:55:03ID:pwnIT3PV「この宮島の景色は全国で有名なのは、都人が評価しているからなのだ(自分の目にはそうでもない)
同じように「島なんとか」とかも有名だが、実際はたいしたことないだろう」
と解釈してしまった
いや、三成でもあるまいし、そんな空気を読めないことは言わないか
0548ありなんありなん
2011/01/27(木) 23:06:06ID:SMNbb66n0549人間七七四年
2011/01/27(木) 23:15:46ID:I9P1dmMH大谷さんのは素直に
『(秀吉などの)都から来た人々に眺められているためか、厳島の山に咲く山桜の色や香りも、
より一層引き立っているようである』
でいいと思うよ。
あと順に
秀吉『聞いていたよりもずっと眺めていて飽きない厳島の風景である。
京の宮中の人々にも見せてやりたいものだ』
長塚『宮島のこの春の景色の中に、確かに君(秀吉の)の世の風が吹いているとは
花も知らないであろう』
増田『海を行船も、君(秀吉)の行幸という素晴らしい時期を得たため、静かな波の中を
進んでいく春の宮島の風景である』
石田『春のたびの、とりわけて花の盛んな時期の山桜である。
その花の盛んな様は既に、ずっと南にある霧島にいるような心地がする』
こんな感じかと
0550546
2011/01/27(木) 23:55:00ID:+Dhh+RyEひらがなで「しま」って書いてあるから掛け言葉だと思いこんでた。
霧島って今噴火してるところだけど桜の名所なのか
0551人間七七四年
2011/01/27(木) 23:59:17ID:mvYmcyAc桜特集するサイト市がつくっとるね
まぁ当時どうだったかは分らんけど適してはいたんじゃないか
0552人間七七四年
2011/01/28(金) 00:05:34ID:gANGkQga0553人間七七四年
2011/01/28(金) 00:10:29ID:ug6x0t/F0554人間七七四年
2011/01/28(金) 00:52:35ID:swpyhMCd0555人間七七四年
2011/01/28(金) 05:43:55ID:MhR7EtTZていうかこれ悪い話なのか?
0557人間七七四年
2011/01/29(土) 00:28:11ID:K4fmYetH鍋島勝茂が佐賀を治めていた頃の事。
龍造寺家の村中城を大改造し、佐賀城が鍋島家の居城として生まれ変わった時の事
である。
勝茂は既に隠居していた父の直茂に新しい居城を自慢したくて、お披露目の為に佐
賀へと招待し、自ら佐賀城を案内した。
「あそこから攻められた時はここでこう防御します」
「ここが弱いので、あっちでこうしてそれを補うのです」
「いざと言う時はあそこでああして……」
勝茂は城の隅々まで、父にお披露目し、知略の限りを尽くした防御のノウハウを説
明した。
それは師である父、直茂への挑戦だったのかもしれない。
だが、父の反応は……
「……これだけ?」
「え? は、はい。そうですが……」
「じゃぁ、一つだけ、お前が忘れている物があるね」
「そ、それは何でしょう!?」
「お前が腹を斬る場所。この城にはそれが用意されてないよ」
その後、直茂は国の防衛というものは『城』やら『陣立て』で行うものではなく、
『人の和』が大事なのだ。敵が攻め寄せた際の戦術、戦略をあれこれと決めて置く
よりも、周囲の者達への気配りこそが大事であり、いざと言う時に命を捨てて守っ
てもらえるような主君になる事こそが肝要である。と勝茂を諭したのだという。
城を新築したら「この城は落城するから切腹する場所を用意しとけ」と叱られたで
ござる。の巻。
やっぱり叱られるんだな……勝茂さん……
0558人間七七四年
2011/01/29(土) 02:59:42ID:SnQMlMfi0559人間七七四年
2011/01/29(土) 08:39:13ID:V4gJ46j+0560人間七七四年
2011/01/29(土) 09:34:43ID:oQEWojKz0561人間七七四年
2011/01/29(土) 11:10:56ID:GSUXXxBh親父の構想通りにやった息子に、「言った通りに完成させたのは良いが、家中の統制にも気を配れ」と忠告しているようにも見える
0562人間七七四年
2011/01/29(土) 12:10:14ID:0VGUIu70世間一般では最上家の家督は
家を思う忠臣・氏家定直の言により
最上義守から義光に譲られたことになっている。
しかし近年の山形新聞や見つかった史料からは
義守は隠居してからも度々義光を廃し、家督を奪おうと画策した形跡が見受けられる。
伊達輝宗書状「中野(義守)殿、嫡義(光)殿を廃し、山形に還らんとす」
(隠居した最上義守さんが、義光から家督取り戻すから兵貸してくれってうるさくて困る)
義守「家督は譲ったけど、お義にはワシの方が好かれてるもんね」
義光「父上と言えども冗談ではすまされませんぞ、私の方が好かれています!」
義守「ワシの方が好かれてる!!」
義光「私の方が好かれてます!!!」
一説では義姫は家督相続で言い争う義守と義光に刀を抜いて脅して相続を決めさせたーという伝承もあるものの、大崎合戦で輿で戦場に乗りつけるなどの行動を見るに、あながち伝承とも思えなくなってきた・・・
0563人間七七四年
2011/01/29(土) 12:27:17ID:0VGUIu70幼少の最上義光が父の湯治の連れで
蔵王で盗賊の頭目二人を切り殺し、一人を殴り殺したのは有名な話。
義光はこの騒動で顔に傷を負ったものの、父の義守から褒美として家伝の刀を頂戴している。
武勇伝、完。
いや、ちょっとまて、
武勇伝とはちいと違う。
チェス盤を180度ひっくり返してみる。
蔵王と言っても山形のお城から通える
一応は「最上のお膝元」。
そんな処で領主の息子が賊に襲われる程最上の権威は墜ちていた。
実際にこの時点で山形盆地
北の5割が伊達家に歯向かって最上義守を支えた
北の守役、天童八楯が幅を利かせ、
残りを長崎の中山氏と山形城の最上氏で領土を争っていた。
最上義光の初陣も中山氏攻めである。
最上義守「羽州探題の官位上、金を積んで将軍の「義」の字を倅に拝領したものの・・・」
最上義光の青春期に関してはまた別な機会に。
え?鮭の話はまだ無いんだ。ゴメン。|ω・`)
0564人間七七四年
2011/01/29(土) 13:30:17ID:SRwC7vFl0566人間七七四年
2011/01/29(土) 19:48:05ID:wysPB8SUお前の逸話でもなんでもねえじゃん
最上スレに「こういう資料があったよ」って書くならまだしも
しかも連投…
0567人間七七四年
2011/01/29(土) 19:55:16ID:STlx3OLb前から同じやつがやってるんだろなあと思う
0568人間七七四年
2011/01/29(土) 23:19:53ID:9GeNkwbI0569人間七七四年
2011/01/29(土) 23:28:37ID:hMx5wnvo0570人間七七四年
2011/01/29(土) 23:30:55ID:hMx5wnvo0571人間七七四年
2011/01/30(日) 00:16:12ID:xRSqDpq00572人間七七四年
2011/01/30(日) 00:30:31ID:toLUb0vv0573人間七七四年
2011/01/30(日) 00:44:52ID:A16Wvp5r0574人間七七四年
2011/01/30(日) 00:51:06ID:fxVtuhGE0575人間七七四年
2011/01/30(日) 00:54:28ID:N9F3f4Xw0576人間七七四年
2011/01/30(日) 00:54:56ID:4Emvb3Sd0577人間七七四年
2011/01/30(日) 01:32:27ID:hXY1ZQQc0578人間七七四年
2011/01/30(日) 02:27:14ID:09VHSzYN0580人間七七四年
2011/01/30(日) 02:38:25ID:J/yx0Jcz武田信玄が西上州に攻め込んだ時の事。
ある山城を囲んだ信玄は、この城には井戸がなく、どこかから水を汲み上げなくて
はならない事を見抜いた。
早速周囲を調べてみると、城の西側にある見銘寺という寺の付近に水汲み場があり、
城で働く使用人達は毎日そこから城まで、水を運んでいるのだと判った。
それが判ってしまうと話は簡単。武田軍は見銘寺に軍勢を入れ、山から下りてくる
使用人達を片っ端から撃ち殺してしまう。
水汲みに行った使用人が一人も帰らぬ事で、城方も水源が武田軍に抑えられた事を
悟った。
何度か決死隊を組んで水汲みを強行するも、すべて失敗に終わった城方では、最後
の策を立てる。
大力の侍三十人で、山の上の城内から、大石を次々に見銘寺へと落し始めたのであ
る。
大石の一つは見事に見銘寺を直撃。
武田軍は大きな被害を出して兵を退いた……と、ここまでは作戦通り、大成功であ
る。問題はこの後。
大石に押しつぶされた寺から出た炎が周辺を焼き、山の上の城にまで飛び火してし
まったのである。
火が漸く治まった時、後に残っていたのは焼け崩れた城の跡……廃墟だけであった。
武田軍では被害は出たものの、戦う事なく城が落ちたのは目出度い事だ。と喜び、
城方では寺を潰した仏罰があたったのだ。と嘆いたのだという。
0581人間七七四年
2011/01/30(日) 02:58:44ID:ltGxFPzO0582人間七七四年
2011/01/30(日) 03:06:31ID:k48A3xtF0583人間七七四年
2011/01/30(日) 06:05:53ID:NRL28KJb0584人間七七四年
2011/01/30(日) 09:36:41ID:Sn2Y2vB5地方活性化といいながら私企業のゲームの売り込み。
ttp://www.rekisizzle.com/special/
もう戦国のキャラクターはBASARAでこりごり。
0585人間七七四年
2011/01/30(日) 12:47:39ID:BG8yuVhZ0586人間七七四年
2011/01/30(日) 13:04:22ID:N9F3f4Xw景勝の代に本間が最上やら蘆名やらと組みだしたので見過ごせなくなった。
0587人間七七四年
2011/01/30(日) 13:06:26ID:N9F3f4Xw0588人間七七四年
2011/01/30(日) 22:14:38ID:BrtZivF/大阪城では毎年夏になると、蔵に仕舞ってあるものの虫干しをした。
大阪御加番(大阪在番大名を補足する役儀。1万石の御役料がつく。小大名がこれに当たる)の人足たちが
蔵の中からいろいろな武器、兵具を取り出しているうちに、大量にある鉄砲の中で、異様に大きく重いものがあった。
これを持ち出そうとした人足はあまりの重さに思うように運べず
「こんなに重い鉄砲を使うのは、一体どんな奴なんだ!?」
とブツブツいっていたが、よくよく見てみるとその銃身に『南無妙法蓮華経』と象嵌で掘り込んである。
こう言うことをよく知る者がこれを見て驚いた
「これは加藤清正の持筒をこの大阪城に納めたものに違いない!清正は自分の武器の多くに、お題目を
彫り込んでいたということだ!」
これにその場にいた人々
「剛勇で有名であった清正の持ち物なら、あのように大きく重いのも当然であろう」
と納得。皆々感心した。
…と、これに納得せず逆に憤ったのが最初に運んでいた人足である
「加藤清正は異国までもその名を響かせた人だと言うが、人を殺すものである鉄砲にお題目を掘るなど、
不都合というべきではないか!それにおれはこの鉄砲を運んだおかげで大いに肩を痛めてしまった!
まったく、清正など大馬鹿者だ!!」
そのように散々に清正を罵った。ところがである
「う…うう!?」バタンッ!
この人足が突然倒れた。皆驚いて駆け寄るが、ふらりと、何事もなかったかのように立ち上がり、
憤怒の表情。そして本人とは違う声で
『雑人の身分として、我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!』
「き…」「清正公が乗り移った!?」
その場の者共大いに驚き恐懼し、とにかくも人足の悪口を色々と詫びたが、清正はどうしても承知しない。
仕方がなくそこの加番(担当責任者)松平日向守(直紹、糸魚川1万石)の所に報告に行くと、そこにいた
日向守家老大いに驚き、急いで裃などつけてその場に駆けつけ清正に向かって
「さてさて、なんと不届至極なる人足でしょうか!よりにもよって故のある武器に対しての雑言、あなた様が
憤るのもご尤も至極と存じます。ですが物の数ならぬ雑人のしたことでもあります。
そこをおもんばかり、何分にも御宥恕を相願います。」
と懇切丁寧に訴えた。これに清正威儀を改め
『許しがたきことではあるが、雑人の儀でもあり、またその主人の断りも丁寧であるので、許してとらす。』
と言うと、そのまま倒れた。
慌てて皆で起こしてみると、人足から清正は離れ、元に戻っていた。
しかしこの人足この後2,3日は、ぼーっとして意識がハッキリしない様子だったそうである。
加藤清正、悪口を言った人足に祟る。と言うお話。君たちも清正公の事を語る時は気をつけような!
0589人間七七四年
2011/01/30(日) 22:25:47ID:O+XjA5Xr0590人間七七四年
2011/01/30(日) 22:28:45ID:gKWsMkiI0591人間七七四年
2011/01/30(日) 22:33:31ID:KMMz36Y7ゆかりのものに触りながら悪口言わんと駄目なのかな・・・
0592人間七七四年
2011/01/30(日) 22:55:19ID:NRL28KJb0593人間七七四年
2011/01/31(月) 00:08:52ID:PXeoL7/1太閤は家康に王子(秀頼)の後見を頼んだが、次第に家康は謀反を企てるようになった。
太閤の崇拝者は秀頼に天下を取らせようとし、石田三成、小西行長、加藤清正が同盟を結び、家康が謀反を起こした自分の領地を平定しに出かけた隙をつき、挙兵し、都にいた家康の手の者を殺した。
家康はそれを知ると軍を率いて都を襲った。
同盟者たちは多くの兵を連れていたが統一がとれずに、有馬晴信の裏切りの為、内府に滅ぼされた。
薩摩の殿は家康を出し抜いて領地に引き上げ、有馬は裏切ったために許された。
肥後の殿は和睦し、小西は捕まり殺され、石田は頭を下にして磔にされた。
0594人間七七四年
2011/01/31(月) 00:24:18ID:8F8PDzUQ0595人間七七四年
2011/01/31(月) 00:39:20ID:rfVEZ9daところで有馬の娘あたりの洗礼名がマリアだったら
有馬マリアとなって、逆さに読んでも同じ名前に
0598人間七七四年
2011/01/31(月) 10:50:21ID:LXnzbk2b誰の事だろ?
0599人間七七四年
2011/01/31(月) 11:27:19ID:A+814i4r石田や小西と組んだことになっているし。
0600人間七七四年
2011/01/31(月) 12:34:03ID:LnXnczcC0601人間七七四年
2011/01/31(月) 15:12:45ID:ZfiD3iZx0602人間七七四年
2011/01/31(月) 22:21:44ID:JAsF0B3Z美濃斎藤家の重臣として名を馳せた日根野弘就という武将が居たが彼は斎藤家滅亡後も信長には降らず彷徨っていた。
弘就(次の仕官先を探さねばなぁ・・・織田家以外で)
意地でも織田家以外で仕官先を探す弘就一族。そんな彼らは東へと向かっていた。
そうして選んだ仕官先とは・・・
今川氏真「ようこそ、今川家へ!」
よりによって武田信玄にボロボロにされ徳川家に今まさに滅ぼされようとしている今川家であった。
雇われた弘就は禄は美濃時代とは比べ物にならないぐらい減ってしまったがそれでも一廉の武将である。
金丸砦の戦いでは徳川家の久野宗信を敗走させ、救援に現れた小笠原氏興も破り、更に救援に現れた岡崎衆をも敗走させるなど将才を見せ付けた。
しかしながら一つの局地戦で勝ったところで戦局が覆るわけでもない。
弘就(ああ、もうだめねこの家)
すごく今更ではあるが今川家の限界を悟った弘就一族は掛川落城前に静かに去っていった。新たな仕官先を求めて・・・
弘就「次は・・・そうだな。近江の浅井家なんていいかな。」
0603人間七七四年
2011/01/31(月) 22:36:51ID:QrQoIA4X0604人間七七四年
2011/01/31(月) 22:38:51ID:iiET33MS0605593
2011/01/31(月) 22:44:16ID:73ZvUjqM日本王国記に注釈を付けたイエスズ会のモレホンは「裏切ったのは別の人たちで、有馬ではない。この記述は誤りである」と書いている。
訂正すべきところは他にあると思うんだけど…
ちなみに「天下」は五畿内という5つの国を指す、と最初の方に説明がある。
ヒロンは貿易相手にオランダを選んで、カトリックを計画的に迫害し始めた家康が大嫌いで、強欲だの暴君だの書いている。
秀吉は「我らの父」で、秀吉はパードレを迫害し財産を没収したが、我々には危害を加えず、我々を侮辱した日本人は厳罰に処された、とある。
26聖人の殉教の記述もあるけど、この本では秀吉が石田三成の意見を取り入れて、命令を修正したことになっている。
立場がちがうと見方もここまで変わるのか…という感じです。
0606人間七七四年
2011/01/31(月) 22:54:03ID:EZx8nUI4自分で死のうと思ってもなかなか死ねなかった人なので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1257.html
0607人間七七四年
2011/01/31(月) 22:56:33ID:Lz/Itk3h寺町のある寺の僧侶たちの間でもめ事が起こり、訴訟にまで発展した。
家政はこれを聞いて、その件はそのまま放置しておくよう指示していたが、
その後ふと駕籠で寺町まで赴き、寺に上がり込むと当事者である僧侶たちを呼び出した。
家政は、双方の言い分を聞いた後、こう言い渡した。
「そもそも、お前たち出家は自分たちが人のもめ事を仲裁する立場だろう
そのお前たちが訴訟を起こしたなんて話になったら聞こえがよくない
とにかく今回はやめておけ」
そして硯と紙を借りると、さらさらと歌を書きつけて僧侶たちに差し出し
さっさと帰ってしまったそうだ。
山寺の春の夕公事来て聞けば 入相の鐘にわけも聞へず
…新古今和歌集に能因法師の「山里の春の夕暮来てみれば 入相の鐘に花ぞ散りける」と
いうのがあるが、これを引き合いに出して
「全く能因法師の言うとおり、私なんか公事を聞きに来たけど、花が散るように鐘の音で
坊主の言い分も聞こえなかったよ、なかったことにしてもいいよね?」と言いたかった…
と、取ればいいのかな。
家政のユーモアを感じて面白かったが、僧侶たちは煙に巻かれた気分だろうなと思って
こっちに投下。
0608人間七七四年
2011/01/31(月) 23:44:41ID:zxPvfyzP欠点あっても日本王国記はいい史料だけどね。
0609人間七七四年
2011/02/02(水) 12:25:01ID:tKaF4vUN肥後熊本には加藤清正の廟や像があり、領主細川家はこれを崇拝し、
供僧などを置いて供膳香華を絶やさなかった。
さてある時のこと、一人の供僧が清正像の前に膳を据え、さて亭坊へと戻ろうとしたところ、
清正の像を守る覆いに、ネズミが開けたと思われる穴が見えた。この時供僧
「しかし清正という人は無双の剛勇で異国にまで名が轟いた人だ。ネズミもそんな人に
害をなすことはあるまい」
と下山した。
それから暫くして、膳を取りしまうため再び山に上がる。と、なにやら赤いものが見える。
…それは
なんと膳の上に、大きなネズミが五寸釘で、ごっすんと貫かれていたのだ!
これに供僧は気を失うほど驚き、這々の体で下山した。そしいてこれを聞いた他の僧たちが登り
その場所を清め膳を下げたのだという。
清正公、不届きなネズミに五寸釘、と言うお話。
0610人間七七四年
2011/02/02(水) 13:02:35ID:s3hr8CXQ「もう一つの関ヶ原」長谷堂城跡 土砂崩れを半年放置 山形
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110202-00000001-khk-l06
0611人間七七四年
2011/02/02(水) 16:55:53ID:bEkdssM4>五寸釘で、ごっすん
これが言いたかっただけじゃないだろうなw
しかしこの間の話と言い清正の霊、器が小さいw
0612人間七七四年
2011/02/02(水) 17:09:54ID:qENLAr1/おや、熊本から荷物が・・・
0613人間七七四年
2011/02/02(水) 23:12:46ID:+iul67L+0614人間七七四年
2011/02/02(水) 23:26:47ID:wyKiaCDMある年の正月元旦、下野国唐沢山城下の事。
「おい、あれ……殿様じゃあねぇのかい?」
「あ、本当だ。正月早々、鎧兜を持ち出して、まるで戦にでも出るみたいじゃない
か」
そう、唐沢山城主である佐野宗綱が、完全武装した姿で沢山の兵士達を引き連れて
城から出てきたのである。
流石に正月元旦の事。目撃した誰もが戦とは思わず、何らかの祭儀でも執り行って
いるのだと考えた。
「それにしても……」
「あぁ、それにしても、なぁ……」
「「あの女、一体何なんだ……?」」
宗綱の侍行列の先頭には、白い帷子を着た若い女が歩いていたのである。
何となく気味の悪いその様子に、城下の誰もが眉をひそめていたのだが、誰一人と
して気付かぬ内に、その女はどこかへと消え去ってしまったと言う。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html
の数時間前。
宗綱さんが出陣した時の不吉のお話。
ちなみに宗綱の戦死を受けて、まず佐野家の家臣達が行った事は、
「正月の出陣は縁起が悪い」
と反対していた大貫越中守を攻撃して切腹に追い込む事だったそうです。
「お前が不吉な事言うから、殿が死んじゃったじゃねぇか!」
という事でしょうか?
100%とばっちりだよなぁ。
0616人間七七四年
2011/02/03(木) 21:01:08ID:74hw9emm知恵の回る占い師は権力者に悪い予言をしない
で後で知人に実はこう・・・と漏らす
って話も類型的だな
0617人間七七四年
2011/02/03(木) 21:14:35ID:lB3tLnOl0618人間七七四年
2011/02/03(木) 21:23:38ID:s2e/+OAbだけどこの手の縁起担ぎって意外とはったりが効くから不思議
あの伊達のDQNも小さい頃はエライ上人様の生まれ変わりだから行く末は名君!ってもて囃されたらしいし
まあ転生した時になんかとんでもねー事故があったんだろうな
0619人間七七四年
2011/02/03(木) 21:39:57ID:oudl8WKhエリヤ「ユダヤ人たちに危機が訪れる、と予言したのに聞いてもらえませんでした」
カサンドラ「トロイの敗戦を予言したのに狂人扱いされました」
安倍泰親「地震や源平合戦を予言したのに狂人扱いされました」
田豊「袁紹の敗戦を予言して当たったのに殺されちゃいました」
0620人間七七四年
2011/02/03(木) 22:48:03ID:vogiO29Pカッサンドラは予言しても誰も信じてくれないようにさせられたんだけどな
よりにもよって未来を見通す力を選んで、その力使われた結果カッサンドラに逃げられて
その腹いせにカッサンドラの予言を誰も信じないようにしたアポロンはホントどうしようもない
でも物語としては面白いんだよな、ギリシア神話
0621人間七七四年
2011/02/03(木) 22:58:52ID:luD3Vgfj0622人間七七四年
2011/02/03(木) 23:01:52ID:sfsjhhBB0623人間七七四年
2011/02/03(木) 23:29:13ID:vsNoQp8Z0624人間七七四年
2011/02/04(金) 02:25:05ID:J/np1n0Y田中傳左衛門であった。
さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。村越は田中吉政に
「三成を生け捕ったのは何者であるのか?内府様は御目見え致したいとおっしゃっておられる」
と伝えた。ところが吉政これに
「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは無用であります」
と断った。
ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕えその後関白秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。
ところが秀次による千石堀普請の時、その工事内容がよくないと秀次の御意に触り、
牢人することとなった。
そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、同時に傳左衛門は
豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米をその働きの対価として受け取っていた。
そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、そうさせないために村越にそんな事を
言ったのだ、という。
後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。
三成の発見者の、その後に付いての話である。
0625人間七七四年
2011/02/04(金) 03:10:09ID:XjoJIjqIある時、ある所で、ある男が釣りを楽しんでいた。
静かな水面に糸を垂らし、魚の目の前でチョンチョンと針を揺らしてみせる。
と、
「フィッシュオ〜〜〜ン!!」
澄んだ水の中で、大きな魚が針を口にするのが見えた瞬間、男は勢い良く糸を引い
た……引き過ぎた。
ビタン!!
背後で大きな音がする。魚が何かにぶつかった音だ。
釣りとは言っても、縫い針を曲げた物に糸をつけただけの、簡単な仕掛けである。
勿論、現代の釣り針のように『かえし』などという物が付いている訳ではない。
つまり、勢い良く引っぱった為、魚は針から外れ、男の背後へとすっ飛んで行って
しまったのである。
ここで少々時間を遡ってみよう。
佐賀藩の藩主・鍋島勝茂の屋敷で、勝茂は小姓である中野数馬に腰を揉ませていた。
余程疲れていたのか、数馬のマッサージが心地よかったのか、勝茂はいつしかうつ
らうつらと寝入ってしまう。
と、
ビタン!!
大きな音と共に、顔面に何やら水に濡れた物がぶつかって目が覚めた。
勝茂が目を開けるとそこには、大きな鮒が一匹、ビチビチと跳ね回っている。
「屋敷で居眠りしてたら顔の上に魚が降って来た。何を言ってるのか(ry」
まさしくポルナレフ状態の勝茂、ふと数馬の姿を探すのだが、それが見当たらない。
ここで漸く、状況が勝茂にも飲み込めた。
自分が寝入ったのを良い事に、数馬が屋敷の庭にある池で、釣りを楽しんでいたの
である。
「数馬ぁ!!隠れとらんで出て来んかぁ〜〜っ!!」
悪戯がバレた数馬は、すごすごと縁の下から這い出すと、
「……ワン!」
と一声鳴いて逃げ去ったのだという。
「あぁ、何だ、野良犬の仕業か……………なんて言うと思うか、バカタレ!!」
中野数馬ってこの人……後には家老に就く、佐賀藩期待の俊英だった筈なんだけど
なぁ。
楽しそうだなぁ、お前等(笑)
0626人間七七四年
2011/02/04(金) 03:16:30ID:HPsaP5Mj釣り、で早くも鍋島ネタだと気がついたw
死ぬことと見つけたりのいくさ人が、こんな愛嬌ある人たちだったとはw
0627人間七七四年
2011/02/04(金) 03:18:47ID:Iz5P9JgD0630人間七七四年
2011/02/04(金) 09:42:12ID:p5RWxu9q0631人間七七四年
2011/02/04(金) 16:40:05ID:URdEepNW静かな畷に糸を垂らし、魚の目の前でチョンチョンと針を揺らしてみせる。
と、
「フィッシュオ〜〜〜ン!!」
澄んだ畷の中で、大きな魚が針を口にするのが見えた瞬間、男は勢い良く糸を引い
た……引き過ぎた。
ビタン!!
目の前で大きな音がする。魚が何かに討たれた音だ。
釣りとは言っても、沼地に誘い込んでの火縄伏兵だけの、簡単な仕掛けである。
勿論、現代の釣り針のように『指向性地雷』などという物が付いている訳ではない。
つまり、勢い良く引っぱった為、魚は重臣もろとも、奈落へとすっ飛んで行って
しまったのである。
0632人間七七四年
2011/02/05(土) 00:33:15ID:vr1eb2NV0633人間七七四年
2011/02/05(土) 10:59:26ID:kG0jpM5K>>625の釣りと沖手畷の釣りを掛けたネタでしょうに
わからんネタならスルーして
わざわざageてまで突っ込みいれんでもよろし
0634人間七七四年
2011/02/05(土) 11:38:45ID:CbRHBOkh面白いと思ったんだろうけど起承転結の結部分が抜けてるよ
せめて最後に「後に沖田畷の釣り野伏といわれる戦法である」
とでも書いておいたほうが波風立たなかったのに
0635人間七七四年
2011/02/05(土) 11:40:19ID:tg7JsjFO0639人間七七四年
2011/02/05(土) 12:49:35ID:znth5dxu0640人間七七四年
2011/02/05(土) 12:53:57ID:DUf7I7Ag0641人間七七四年
2011/02/05(土) 13:02:27ID:Tn/sgVRS0642人間七七四年
2011/02/05(土) 13:04:37ID:4lcg6Lnk0643人間七七四年
2011/02/05(土) 13:44:02ID:rZl4ESM8石田三成は近江古橋という場所にいたが、大勢の中にまぎれていた。
だが田中傳左衛門はかねてより三成を見知っていたので声をかける。
しかし三成
「人違いでしょう?わたしは治部少ではありません」
と惚けた。これに傳左衛門
「…ご失念でしょうか?わたしはあなたをよく覚えております。関白様(秀次)に仕えていた
田中傳左衛門です。」
これに三成は観念し傳左衛門に捕らえられ、近所の寺へと連行。そこから田中吉政に
注進し、陣所へと向かった。
三成の姿は一尺二、三寸(約40センチ)の脇差を指し柿帷子の着物、米5合ほどを入れた袋を
腰に付けていた。
三成の脇差の目貫は金の駒であったが、裏目貫がなくなっていた。これに気がついた傳左衛門が
訳を尋ねると三成
「私が逃亡するとき、家臣の一人がどうしても離れようとしなかった。そこで裏の目貫を外して取らせ、
”お互い大阪城に無事入り付いたら、そこでまた目貫を合わせよう”と言って別れたのだ。」
そして傳左衛門に尋ねる
「木工頭(石田正澄、三成兄)はどうなったか?」
「木工頭殿は妻子を刺し殺し、ご自身も自害された、とのことです。」
そう聞くと三成はこう、呟いた
「…ざっと済んだ。」
そして
「私がこのように落ち延びたのは、どうしても大阪城に入り再起をしたかったからだが、
このように生け捕られてしまった。」
傳左衛門は新しい着物と帯を三成に進め、脇差も指すことを許した。これに三成は
今度の一件を心静かに語り
「百姓などの手にかかるようであれば恥辱であっただろうが、傳左衛門のおかげで
当面の恥はまぬがれた。さあ、早く兵部少輔(田中吉政)に注進なされるが良い。
この上は首が晒されるべきものと、覚悟いたしておる。」
そうして、三成を乗り物に乗せ傳左衛門は陣所へと向かった。
この時三成「これを、其方に形見として残す」と、先の脇差を手渡した。
石田三成の捕縛と連行の時の模様である。
0644人間七七四年
2011/02/05(土) 18:28:46ID:TkP48Y3H0645人間七七四年
2011/02/05(土) 19:48:39ID:7ft8EcyG悪い話ではないだろうと思ったが、前の話の続きだからこっちでいいのか
石田三成はいい人に捕まったよね、しみじみする話だ
0646人間七七四年
2011/02/05(土) 19:50:55ID:CbRHBOkh別れた家臣のほうはどうなったんだろうw
実は身軽な単独行動しようとしたけど
どうしても付いていくと言って離れない家臣がいたから
嘘付いて裏目貫を渡したとか?
0650人間七七四年
2011/02/05(土) 20:43:57ID:UkeUgMC8大阪落城、秀頼自害の報告を受けた家康は静かに「ざっとすみけり」と言った、
という話を思い出した。同じ台詞だけど心境はだいぶ違うな…
0651人間七七四年
2011/02/05(土) 20:46:06ID:36GMoLSQ0652人間七七四年
2011/02/05(土) 21:19:17ID:oUntEb9xキチガイは消えろ。
カスが
0653人間七七四年
2011/02/05(土) 23:09:24ID:70vUqBmcこいつにだけは捕まりたくないという人物は?
…三成?
0654人間七七四年
2011/02/05(土) 23:26:24ID:WxiEnAPS悪久には捕まりたくないな
0655sage
2011/02/05(土) 23:50:23ID:MKQsFzNFそりゃ対面の時に自分の黒歴史を指摘されたらフラグ立つだろ。
0656人間七七四年
2011/02/06(日) 00:07:09ID:ohxFaQ7K島津は「開城すれば安全に落ち延びさせる」と言っておきながら
いざ開城とったら身柄をとらえ、「これが島津の軍法」と居直った話があるからな…
0657人間七七四年
2011/02/06(日) 00:10:02ID:jfmq6pdA0658人間七七四年
2011/02/06(日) 00:21:51ID:Jotme8GF0659人間七七四年
2011/02/06(日) 00:23:11ID:WO6CQZ+N何が海道一の弓取り(笑)だよバ〜カ
信長が死んだ途端に威勢良く吠えだしやがって
本能寺変の時に、旧武田領(現織田領)で一揆が多発したのも、姑息な家康が扇動したから
その欲に走った愚かな行動のせいで、織田家忠義の臣である河尻秀隆が討たれた
秀隆は最後まで自分の任された領地を離れようとしなかった
0660人間七七四年
2011/02/06(日) 00:34:15ID:jqDwCLPc0661人間七七四年
2011/02/06(日) 01:04:44ID:/Tn888zE酒入ったのには絶対捕まりたくない
0662人間七七四年
2011/02/06(日) 01:48:25ID:lP+EcF3wトーマスが宝満城を開城する際に自分と夫人を立花城まで送る事も条件に付け加えたが
土壇場で島津側に聞き入れて貰えなかった
とは言え、島津側でも意見が二分していて
宗茂の偽降伏が発覚した後や反攻時も身柄は丁重に保護されてる
トーマスがあっさり開城した挙げ句にまんまと捕まったのは
宝満城が非戦闘員の避難所になっていて籠城戦が難しかった点と
立花宗茂の偽降伏の為の布石を演じ
反攻時の為の兵を城下に無傷で残す為ではと考えられている
もしくは当時はまだ甘ちゃんだった
0663人間七七四年
2011/02/06(日) 01:51:00ID:LcxOVY3w彼は越前出身の医師で琉球に帰化し、剃髪し僧体ていたため法師武者と喜安日記には書かれています。
薩軍が首里城に迫ると琉球軍まず越来親方以下百数十人で迎撃にあたります。しかし薩軍の雨のような鉄砲の前に死者続出。
やむなく退却し首里城にこもることにします。しかし薩軍の首里の町を焼きながらの進軍に琉球王家は和平交渉を開始します。
那覇の町(首里は政治の中心・那覇は経済の中心)で和平交渉が始まったころ、交渉の最中にもかかわらず法元二衛門を大将とする軍勢が首里城への攻撃を開始。
この攻撃を止めるべく薩将の市来織部と村尾笑栖が首里城へ駆けつけたところ、正門に立ち抗戦したのがこの法師武者でした。
この法師武者、正門の櫓の上に仁王立ちし
「薩摩の野郎ども、寄せて来たれども、何ほどのことあらん」
と櫓の上から巧みに矢を射掛け薩軍を近づけない。
この状況で薩軍は市来・村尾から、法師武者へは尚寧王より停戦の使者がとどき法師武者は法元に捕らえられます。
この法師武者、法元から
「汝は日本人なり。なぜ日本を忘れて我らと戦うのか?」
と問われ
「自分が琉球王から受けた恩は厚い。今、不幸にして捕虜となり死につく身だが、後悔することは何もない」
と答えます。これを聞いた尚寧王は金銀財宝を出し法師武者の助命を懇願、また法元も感心するにいたり助命された。
彼の名は喜安日記には載っていないが、その後子孫が琉球王朝の御典医・御典薬となったため「山崎二休」と言う名が伝えられています。
まあ日本を裏切ったってことで悪い話の方に。
たぶん越前を脱出したころは「越前の狂犬」が暴れまわってたころじゃないかなと。
0664人間七七四年
2011/02/06(日) 06:03:55ID:4WgKwyPi悪さんは、宇喜多を何年かかくまったり、真田や秀頼をかくまった伝説ができるくらいだから、意外と頼れるのかも?
0665人間七七四年
2011/02/06(日) 08:32:21ID:s0gTutn00666人間七七四年
2011/02/06(日) 09:20:39ID:uTkDtj+R城下や周辺に潜伏する残党の掃討に取り掛かる中、さて敗将、降将の処遇が問題となる。
政宗「守屋俊重。約定どおりの寝返り大儀だったな。お前の放火のお陰で城が早く落ちたわ(●∀・)」
俊重「ははっ、ありがたき幸せ」
政宗「ってことで、お前の褒美は死刑な。次俺が裏切られるかもしんねーしw」
俊重「( д) ゚ ゚」
……定番の謀反人の処刑があったり、
政宗「お前ら、敵ながらやるじゃん。俺の家臣になれよ、その為にわざわざ生け捕らせたんだし(●∀・)」
遠藤壱岐守「あざーっす!」
大波新四郎「DQNの家臣とか聞いたことないので抜けますね^^;」
……わざわざ政宗自らスカウトしておkされたり断られたり。
そうこうしてるうち、退却に失敗した一人の若武者が政宗の前に引き立てられた。
名を須田秀広、十六歳。初陣だった。
父は和田城主須田盛秀、二階堂家家臣団佐竹派の指導者である。
我らがまーくん、どうも叔母に反伊達を炊きつけたと見てこの盛秀に強い遺恨を抱いてたらしい。
政宗「よし、見せしめ用生贄GET!(●∀・)」
実に即決である。政宗は直ちに処刑の命を下すと、自ら秀広を城下に引きずり出した。
焼け落ちた城下に刑場を作らせ、焼け出された領民を集める。
そして刑場に秀広を引っ立て……はて、刑場の様子が何かおかしい。
刑場のど真ん中に柱が一本。焼け落ちた柱とかじゃなくて今おったてたばかりの柱が一本。
なんというか、刑場としては斬新なスタイルである。少なくとも斬首とか切腹のスタイルではない。
秀広も群集もさぞかし当惑しただろうが、伊達兵はそんな当惑を他所にてきぱき死刑囚を柱に括り付けていく。
秀広「……えーと、これは?」
政宗「ああ俺斬新な処刑スタイル考えたんだよ。ちなみに処刑人は俺な(●∀・)コウエイダロ?」
そう告げる政宗の手にあるのは、紛れもない火縄銃。その銃口はまっすぐ秀広を捉えていて――やがて、銃声が刑場に轟いた。
そう、これはまさに日本史上における初の銃殺刑の記録である。
しかも大名家当主自らが処刑人。
一般的には銃弾一発で即死できるとは思えないが……ともかく、史書には政宗手ずから射殺した、とある。
どうにもいろいろと政宗の抱えた黒い情念を感じざるを得ないって点で悪いお話。
0667人間七七四年
2011/02/06(日) 09:30:37ID:YiBiiUBE0668人間七七四年
2011/02/06(日) 09:39:26ID:uOxhRtj+と思ってたらまさかの銃殺刑
0669人間七七四年
2011/02/06(日) 09:46:59ID:zGDtpz/T0670人間七七四年
2011/02/06(日) 09:55:44ID:yU6tyuIK0671人間七七四年
2011/02/06(日) 09:56:18ID:7nQWEAC4前装式で射撃行程がメンドクサくて弾も火縄も消耗品
それでもこれ使ってみようぜってのは遊び心が働いたんだろうなぁ
人命ですら遊びに使える時代に献杯
0673人間七七四年
2011/02/06(日) 10:09:51ID:uOxhRtj+政宗のカッコ悪い話になってしまう
0674人間七七四年
2011/02/06(日) 10:24:47ID:YKN3qZDk0675人間七七四年
2011/02/06(日) 10:34:58ID:ohxFaQ7K頭に押しつけるくらい近距離から撃つ銃殺刑もある。
打ち首とか磔と同感覚だったとしたら、ごく近い距離から撃ったんじゃないかな。
日本初の鉄砲による狙撃は宇喜多直家の部下で、日本初の鉄砲による自殺は荒木村重の家老だっけ?
0676人間七七四年
2011/02/06(日) 11:07:26ID:C6WmlBHe0677人間七七四年
2011/02/06(日) 11:16:26ID:Oa0IpLpGそして日本初の銃撃による戦死者は三好政成(政康の兄貴)の朗党で、
日本初の銃撃による武将格の戦死者は三好実休公だな
0678人間七七四年
2011/02/06(日) 14:24:48ID:/Tn888zE0679人間七七四年
2011/02/06(日) 14:28:46ID:LcxOVY3w0682人間七七四年
2011/02/06(日) 18:49:57ID:CTv09xKa1599年、徳川家康暗殺疑惑により大野治長は失領し下野に流され結城氏預かりとなっていた。
この事件、事実関係を洗うとどう考えても冤罪であったのだがとにかく治長は失脚したのだ。
しかし翌年、そんな治長にも転機が訪れる。「関ヶ原の戦い」である。
結城晴朝の斡旋で蟄居は解かれていた治長。なんとかしてこの天下が動く戦いで自身の立場を変えたかった。
しかしながら急な事であった上に領無しなので金も用意できない。やむなく浅野幸長に頼み込んで護衛の兵を十人程度借りている。
ほぼ一兵卒のような立場だがこれでやるしかない。治長は浅野隊の中に加えてもらい戦地へと赴いた。
それで時は流れて関ヶ原本戦・・・なのだが、幸長隊の配置は前線からかなり遠かった。そこで治長は
治長「俺を最前線に立たせてくれ!頼む!」
どうしても功を挙げようと必死であった。幸長も意を汲み取り、治長は本戦直前におそらく真っ先に敵に接触するであろう福島正則隊に入れてもらう事になった。
そして戦端が開くと治長はわずかな人数の護衛と共に目の前の宇喜多秀家の部隊に飛び込んでいく。
最前線も最前線でがむしゃらに奮闘する治長はついに宇喜多家の鉄砲頭、河内七郎右衛門を一騎討ちの末に討ち果たすという武功を挙げたのだった。
戦後、この話は家康の耳にも届いたようで、大野治長は1万石を与えてられている。
更に、治長は片桐且元と共に徳川家と豊臣家の調整に尽力し5000石を加えられ1万5000石の領主として復権を果たしたのであった。
0683人間七七四年
2011/02/06(日) 18:52:35ID:CTv09xKaついでに同じく失脚してた土方雄久もひっそり復権してるので功を挙げなくても復活してたかもしれない。
0684人間七七四年
2011/02/06(日) 18:58:03ID:s0gTutn00685人間七七四年
2011/02/06(日) 18:59:02ID:4p8p5ikx0686人間七七四年
2011/02/07(月) 00:31:25ID:bkhC9RCC邪魔な男だったのか?
0687人間七七四年
2011/02/07(月) 00:36:12ID:0c1F5dkvそもそも家康のでっち上げだったって部分に疑問を持ったほうがいい。
家康暗殺の話は家康のあずかり知らぬところで出来たもので、具体的な名前の上がった
噂が出た以上、時の執権者として家康は何らかの処分を行わざるをえない。
0688人間七七四年
2011/02/07(月) 00:38:01ID:c4EXQvxV0689人間七七四年
2011/02/07(月) 00:43:31ID:vt8kLmCf十年以上後の大坂の陣の政治状況と一緒にしちゃいかん。
はっきり言えばこの当時、事実は関係なくこういう不穏な噂に名前が出た事自体が
問題があり、これを処分しなかった場合、未だ絶対的な権力を確立していない
家康では、その権威に疑問符を持たれる。
いい悪いじゃなくて、そうせざるを得ない状況であり、あたかも後の展開のための
布石だったように考えるのは、ちょっと小説的すぎる話だわ。
0690人間七七四年
2011/02/07(月) 01:11:12ID:mRS2tjXJ0691人間七七四年
2011/02/07(月) 01:49:55ID:znbdUFah前田利長が上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・加藤清正・細川忠興と同盟して家康を狙い
それを知った石田三成が家康に通報、家康の命で近江の要害に籠った、なんて話が載っている。
あと家康が淀殿を室に迎えようとしたがすでに大野治長の子を孕んでいたので断られ
怒った家康が治長を流刑にしたなんて話も。
0692人間七七四年
2011/02/07(月) 02:15:36ID:0c1F5dkv前田に関しては家康どころか豊臣家の許可も取らずに無断帰国なんてしてるから、
謀反の話が出てもしょうがない、と言うかむしろ出て当然の話だな。
0693人間七七四年
2011/02/07(月) 04:05:54ID:jegn2kvv0694人間七七四年
2011/02/07(月) 17:07:40ID:3cxDHPP70695人間七七四年
2011/02/07(月) 18:20:58ID:tdpRK57b時は天正15年のこと、前年に阿波に入国した蜂須賀家政は、
領国の経営に頭を悩ませる日々を送っていた。
長宗我部元親を抑え、四国を平定はしたものの、
当時、阿波には未だ多くの有力土豪や山間部の土豪、地侍、三好氏の残党、
土地持ち本百姓の一揆など、また新たに抱えた諸浪人たちが家政に服さないのではないかと心配事は多かった。
そんな中、とんでも無いものが発見された、
山間部、祖谷地方の阿佐家が隠し持っていた、一対の「平家の赤旗」である。
軍旗は戦において非常に重要なものであるが、いくら何でも物持ちが良すぎる、
源平の合戦はこの時既に400年も昔の事で有る。
しかし、いくら古いものとはいえ、軍旗は軍旗、
それを南北朝期には足利幕府をさんざん悩ませた、阿波山岳武士の末裔が所持していたのである、
さすがに見過ごす訳にはいかない、あえなく没収となったのである。
・・・ご存知の方も多いと思いますが、この話、後日談があって、
この平家の赤旗、現在も伝わっております、それも没収された筈の当の阿佐家に。
なんでも、蜂須賀家の手によって掛け軸として表装して返されたんだそうであります。
掛け軸にしてしまえば、軍旗として使えないということなのでしょうが、
ずいぶん気を使った処置ですね、いったい何があったんでしょう?
今となってはわかりません。
0696人間七七四年
2011/02/08(火) 00:37:51ID:EO1kr+RX0697人間七七四年
2011/02/08(火) 17:17:39ID:hhreNxhC0698人間七七四年
2011/02/08(火) 19:02:24ID:Uobkgw+Mいわゆる愛宕百韻でのこと。
この連歌の会には正親町大納言(季秀)も参加していた。
正親町大納言の証言によると、連歌の最中に光秀は、居眠りをしていたと言う。
これに側の者たちがそっと起こそうとする
「光秀殿、光秀殿?」
光秀「はっ?ええと、本能寺の堀の深さはいかほどでしたかな!?」
「は?」
光秀「は…、あ、いやいや、何でもござらぬ!」
このような事があったそうだ。
会の面々は『突然関係の無いことを言い出して、おかしな事だ』と思ったが、
後に本能寺の変が起こったとき、皆その事を思い出したという。
本能寺の前に居眠り出来る光秀も大したものだが、そんな光秀の
連歌の謎かけどころじゃないうっかり発言、と言うお話。
0699人間七七四年
2011/02/08(火) 19:24:50ID:rXDLli0w0700人間七七四年
2011/02/08(火) 21:24:13ID:gEqqX6EV0701人間七七四年
2011/02/08(火) 21:51:34ID:aR5f4YKEあれだけの男が根回しもなしのやけっぱちの謀反をせざるを得ないほど追い詰められるとは
これが黒田さんなら本能寺で発作的に襲うなんぞやらず、慎重に事を進めただろうに
0702人間七七四年
2011/02/08(火) 21:53:36ID:GdcmxwyR0703人間七七四年
2011/02/08(火) 21:58:55ID:Nw5WCKXp左手を使う機会が全然無かったんだろうか
0704人間七七四年
2011/02/08(火) 22:03:49ID:LylQWOu4秀吉が電光石火で帰ってきたのが痛かった
0705人間七七四年
2011/02/08(火) 23:55:34ID:gaN7ZdUuどれが一番良かったんだろうな
0706人間七七四年
2011/02/09(水) 00:01:45ID:6eWJ1bY+0707人間七七四年
2011/02/09(水) 00:07:07ID:HueWbSDM0708人間七七四年
2011/02/09(水) 00:20:49ID:c+v7LC+l0709人間七七四年
2011/02/09(水) 00:37:58ID:ef2DbKfZ0710人間七七四年
2011/02/09(水) 01:06:09ID:iyA39aJEさて、光秀の死を見届けた左兵衛は山中に隠れた。京の市中には
『日向守(光秀)の与党を見つけたものには褒美を取らす』
(日向守か與黨人尋出来候はば可有褒美)
との高札が立ち並んでいたのだ。
この杉尾左兵衛の在所は、京より近い塔の森と言う土地であった。
どうにかそこまで忍び行こうと、近くにあったカカシの蓑笠を取ってこれを着、
脇差を抜いて柴を刈り、樵の風情となって探索の目をかわし、塔の森へとたどり着いた。
着いてみればだがしかし、我家の前に多くの人が集まっている。
「これはさては、私を探しに来た者たちか?」
と、裏に回って聞き耳を立ててみる。するとこの騒ぎは、左兵衛が討ち死にしたと聞いた親類たちが集まり、
死の時の模様を知ろうと、巫女を呼んで口寄せをさせている所だと知った。
そして今まさに、巫女が自分の死に様を語っているところであった。本人のすぐ側で。
ここで左兵衛、裏口より家の中へ入ってくる。
これには親類たち大いに驚きかつ喜んだ。そして絶好調に左兵衛討ち死にの模様を語っていた巫女は
その場から逃げ出したと言う。
この杉尾左兵衛、後に肥後へと渡り、さらに大坂の陣の時大阪城へ入り、そこで討ち死にしたと言う。
明智光秀家臣杉尾左兵衛、生きているうちに口寄せされる、と言うお話。
0711人間七七四年
2011/02/09(水) 01:12:30ID:ltBdKIfS0712人間七七四年
2011/02/09(水) 02:38:36ID:fcdTauIG笑いの対象にすらなって行ったことが分かるな。
0713人間七七四年
2011/02/09(水) 10:01:39ID:fePN5wZp連歌ってツルっと本音が出やすいと何かで読んだ
それが面白くて一部で流行ったとかナントカ
にしたって豪快すぎるバラしかただなあw
0715人間七七四年
2011/02/09(水) 19:35:11ID:mXQ5H2J5宣教師達からも日本で一番貧しい国と名指しされる肥後を拝領した清正。
国人割拠、島津北上、肥後国人一揆っと領内は荒れるに荒れていた。
清正は肥後拝領後直に朝鮮出兵っと領国経営がままならぬままだった。
そんな戦場にいる清正に三成から一通の手紙が届いた。
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| |
/  ̄ ̄ ̄ ̄ /_____
/ 豊臣家に /ヽ__//
/ 年貢を納めろ / / /
/ / / /
/ ____ / / /
/ / / /
/ / / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / /
清正は出兵から二年、豊臣家への年貢の払いを滞納していたのだ。
確かに払わない清正がこの場合は悪いのだが、朝鮮出兵や肥後の事情を考えれば
それくらい融通を利かせても良いんじゃないか・・・。
小西との関係で悪化していた三成への心象はますます悪くなったという。
0716人間七七四年
2011/02/09(水) 19:44:15ID:u4QYuLG/寺社領(というか荘園か?)というものが、実質的に有名無実化したこともあるんでしょうね。力なき理念は、無力という意味合いでも
0717人間七七四年
2011/02/09(水) 19:45:38ID:8TtORFHV0718人間七七四年
2011/02/09(水) 19:52:19ID:LOtKvmJh肥後にあった豊臣の蔵入地からの年貢を清正が横領していたってことだろ、それ。
普通に清正の悪い話だと思うがなー。
0719人間七七四年
2011/02/09(水) 19:54:57ID:fcdTauIG叡山燃やしたから貴重な文書が大量に灰になって中世の実相が掴めない。
中世文書史料のほとんどは寺社がもっていて、寺社の最大のものが叡山だったからな。
0720人間七七四年
2011/02/09(水) 20:05:27ID:RdCzuwve佐々成政「肥後って統治しにくいのよ…。」
0721人間七七四年
2011/02/09(水) 20:13:57ID:u4QYuLG/家康が関ヶ原の戦いの後で、「蔵入り地を全部お前らにやるよ」とやったのは、各大名家にとっては、うれしい収入なんですね
0722人間七七四年
2011/02/09(水) 20:20:19ID:MwmdjJ/xそれとも蔵入地が無かった?
0724人間七七四年
2011/02/09(水) 20:24:54ID:iyA39aJEそりゃあもう。年貢収入だけでなく、自分の領地の中に自分ではどうにも出来ない土地が
わんさかあって、しかも管理だけはしないといけない。さらに中央政権からの監視の場所にも
なっている、という大名にとって悪いことずくめのシステムだからな>蔵入地
尾張なんて太閤検地で57万石なのにそれを管理する清須の福島正則は24万石と半分以下。
どれだけ中央に吸い取られていたかがよくわかりますなw
0725人間七七四年
2011/02/09(水) 20:36:40ID:MwmdjJ/x当時、尾張国を統治してたのは福島だけだったの?
0726人間七七四年
2011/02/09(水) 20:59:57ID:LOtKvmJhおひおひ、比叡山を焼いたのは信長が初めてじゃないし、信長の時はむしろ小規模な焼き討ちだったのはもう常識だろ?
0728人間七七四年
2011/02/09(水) 21:26:20ID:AnJMoWad「小規模」というのは「そーゆー説もある」程度かも知れんが、「信長が初めてじゃない」
のは常識じゃないか?
数度に渡る焼き討ちによって貴重な文書が焼失したのは間違いではないと思うが、全てを
信長のせいにするのはおかしいと思うぞ。
0729人間七七四年
2011/02/09(水) 21:29:50ID:K1D28lOOそれで紛失したものがあれば、愚痴を言われるのは仕方ない。
陶の謀反の時に山口が〜とか、大友の遠征で寺社仏閣が〜とか、
本能寺や大阪城で茶器が〜とか、ラスボスの韓国遠征で文化が〜ニダとか、
言われるのと同じ。
0730人間七七四年
2011/02/09(水) 21:30:29ID:iyA39aJEいや、他にもいるが正則は尾張の秀次旧領を与えられているので、尾張の大半は
管理していたと考えていいだろう。
0731人間七七四年
2011/02/09(水) 21:32:04ID:S201hNb9残っている国なんだぜ。
0732人間七七四年
2011/02/09(水) 21:32:09ID:qaddsFiA秀頼は関ヶ原をどう思ってたんだろう
0733人間七七四年
2011/02/09(水) 21:36:51ID:S201hNb9無くなるというか、そもそも>>715の逸話でも解るように日本全国に散らばった
蔵入地の管理は三成ら奉行衆がやっていたのね。
なので関ヶ原の結果豊臣家奉行衆が消滅すると、蔵入地管理のシステムが
まるごと無くなって、豊臣家の方でいくら保持しようとしても現実的に無理、という状況に
なったと考えられる。
0734人間七七四年
2011/02/09(水) 21:42:56ID:MwmdjJ/x安東は会津征伐で山形へ行った時にかかった費用の蔵入地から流用分の報告を片桐にしてるし。
0735人間七七四年
2011/02/09(水) 21:54:14ID:MUVeSRhG_/⌒⌒\
/ \
/ 〃自称子孫ヾ 丶
| ノ/ィノ|ハヘ |
|イ ⌒ ⌒丶 |
ヒ| ` <oo> ´ リ むふふん、むふふん
|の____の|
丶 `亠亠亠′ノ
>―――<
/ ハ `ニ、, \
/ ト、ヽ ,'/| \
ハ。。。|、ヽ// | 。。。 \
厶,_|通 |\'/ /| 貨 ,/ ヽ
`V | l/ / | / ̄[ブ
| _| ヽ!_/ , ◇、 {ノ_ ヽ
V'〈. \ { ノ`◇ノ ̄卞、}
_, -‐'二/ ノ>三江三三/ r-イヽ、〉
/ ̄フ/{ 〈‐'´/,イ | |._{l_{.ハ>┴‐'¨ヽ
/ノ / /,>-'/| !|_ -|‐'T ヽ \__ノ
ノ// ,/ / /入|__!| | | V.ハ ノ
__人〃 / / / /'´ | !|| _ゝ| ハ ノ 〉|(
く_二-' ‐' ∧/ ,ハ |/ /| ,川 | / ´ / |_ヽ、
 ̄`ーニ__∠__|ノ∠ニ_Zィフ‐ヘL.ノ_/_ノ===='
 ̄\_/ ̄ }三ニ=‐'´
織田信成が織田信長の子孫って本当?【4代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1281832265/
0736人間七七四年
2011/02/10(木) 00:32:37ID:BkXJQeM5これだけでも家康の逆心の証拠は十分すぎるほど明らか
そういう事情を知ってるくせに加藤や福島は無用な忠義ポーズとったり、
もっともらしい理屈こねて格好付けるから嫌いだわ。前田とか藤堂みたいに堂々としてろっての
0737人間七七四年
2011/02/10(木) 00:48:32ID:iRqenFOlいや、関ヶ原以前に既に、秀吉の遺言に反して五大老五奉行が合議で島津の加増などを
行っており、「豊臣家の執権勢力は領地の加増、安堵の権限を持つ」という先例が出来ていた。
関が原後の家康による恩賞の差配は関ヶ原の結果豊臣政権の執権者が家康ひとりになったため
でもあるが、たとえ三成の蜂起がおこらず、上杉征伐により上杉が滅ぼされたとしても
その上杉領の分配は豊臣家の最高権力者である家康の主導のもとに行われただろう。
過去の、例えば清洲会議を見ても解かるけど、この時代領地の差配って増えても減っても
高度に政治的な問題だから、、巨大な権威と権限を持った人物がやらないと収まらないんだわ。
前田利家亡き後そう言う人物は、家康以外存在しなかった。
0738人間七七四年
2011/02/10(木) 02:30:56ID:njqePj74加藤清正は奥へ(嫁さんの家)いった際も刀を決して手放そうとしなかった。
さて良いムードなのに刀を全く外そうとしない清正を見かねた女中が
「あのー・・・清正様?ここには見知った女子しかおりません。そのような物(刀)は外してはいかがでしょうか?」
っと進言した。これに清正は。
「そうしたいのも山々だが今戦力になるのは己のみだ。
外歩いてるときは家臣達のおかげで 素 っ 裸 でも歩けるが今は俺だけしか戦えるない。だから刀は外さない。」
っと答えた。
この話を聞いた家臣達は自分達の力を信じてくれている清正に感動して
「清正様が何時で安心して裸で歩けるような力量をつけるぞ!!」っと更に武芸に励んだという。
清正が神経質すぎる悪いお話。
0739人間七七四年
2011/02/10(木) 09:21:33ID:W3BhpBnV0740人間七七四年
2011/02/10(木) 09:45:39ID:9mbnNtWa女中は納得し、家臣は同情したがスルーした
0741人間七七四年
2011/02/10(木) 10:33:01ID:KebDXuRN0742人間七七四年
2011/02/10(木) 11:25:29ID:znZyPgX80743人間七七四年
2011/02/10(木) 11:32:12ID:IZq6JeJ4そりゃ水野家に行くならそうだろうなぁと思ってしまった
いつの間にかどこからか刀をひっつかんで下人がずんばらりん(RY
0745人間七七四年
2011/02/10(木) 19:03:47ID:BkXJQeM5性格的には秀忠や光秀みたいな真面目君じゃないが・・・
0746人間七七四年
2011/02/10(木) 19:23:48ID:EpLpXjes(父光秀は側室持たなかったとよく言われるが、普通に持ってなかったっけ?)
・珠の入信の手引きしたり、自分が受洗して、神父の代わりに珠の洗礼を
執り行った小侍従(清原マリアとは別の説を採る)は、
一説には明智の側室の娘で、珠とは異母姉妹。
・そんでその小侍従が家臣に娶されたとき「忠興殿と御悪しくなりて」
嫁に出された、とはっきり書かれてるので、たぶん忠興のお手つきで、
色々あって捨てられたらしい(忠利かその弟は側室が産んで、珠の子だと
しようとしたので頭きて文句言って捨てられた説を聞いたけど、詳細不明)。
まあそりゃ侍従としてついて来た身分の低いヤツとはいえ、顔もよく似た
(秀吉に伺候する際、顔が似てる侍従が身代わりでいったエピあり)姉妹と
ダンナがネンゴロになられたら、そらカルトにも走るわ。
0749人間七七四年
2011/02/11(金) 11:18:57ID:ONMVvM0Vしかしこの後、加藤家の旧臣を引き取ろうと言うものはおらず
福島家旧臣には再仕官を求める声があったのは悲しいけれど、それはまた別のお話。
0750人間七七四年
2011/02/11(金) 13:35:16ID:fGGbfdXsガラシャも生首放置する話、気の利かない下男は斬られても仕方ないという手紙
を残してるあたり案外似た者夫婦かもしれん
0751人間七七四年
2011/02/11(金) 14:37:02ID:tcyMGyzY加藤清正が鷹狩に出かけた時だ。
この日疲れが溜まっていた清正は輿で寝ていた。
この輿を旧阿蘇氏の家臣、国右衛門というものが草むらから狙っていた。
そして輿が目の前を通り過ぎようとした国右衛門飛び出し
「加藤清正!主君の仇討たせてもらうぞ!」
っと輿に横から刀を突き刺した。
この時清正は後ろに寄りかかって寝ていた為事なきを得た。
清正「なかなかどうして、良い腕の持ち主ではないか。
どうだ?俺の下で仕えてみないか?」
国右衛門「年来仇と思っていたお前に仕える気は毛頭ない。斬るがよい。」
清正「…これは殺すには惜しいな。だが…仕方がない」
清正は自信の刀を抜き振り下ろした。
だが刀は空を斬った。
清正「どうだ?これで国右衛門なる者は死んだも同然だ。
生まれ変わったつもりで仕えないか?」
国右衛門「…そこまで言われるのならこの命を預けてみよう」
これに清正は大いに喜び刀を収めその刀を国右衛に渡し刀持ちを命じたのである。
清正はこの様な事件があったにも係わらず鷹狩を中止せずに決行し
さらに国右衛門に刀持ちを命じるという清正の度胸のある話し。
国右衛門は朝鮮出兵時に清正の護衛を勤め見事な戦死を遂げた。
>>738はリップサービスで実は自分の実力を一番信じてるんじゃね?
という結構悪い話し。
0752人間七七四年
2011/02/11(金) 14:44:06ID:5dmgYj+00753人間七七四年
2011/02/11(金) 14:45:21ID:PxnisQlv加藤清正の武士としての男らしさが非常に良く出ているいい話なのにw
後世ある種の信仰の対象になったのもよくわかるわ。
ただ、『小さな小屋掛けですら家臣に任せず自分で監督する』と言われた清正だけに、
能力という意味では、悪く言えば家臣のことを全く信用してなかったのだろうね。
0754人間七七四年
2011/02/11(金) 14:48:51ID:KTEMhQkJ0755人間七七四年
2011/02/11(金) 18:06:27ID:HuNjGQto最近あった>>715の話もそういうことになるな。
三成にしては気がきく…のか?散々な言われようだがwww
0756人間七七四年
2011/02/11(金) 18:30:21ID:/Qw0ZPAK0757人間七七四年
2011/02/11(金) 18:35:36ID:5dmgYj+00759人間七七四年
2011/02/11(金) 19:28:44ID:5dmgYj+0そもそもレスを希望してないんだが
このくらいは過去から見て許容範囲だと思っていた
スレの雰囲気を悪くはしたくないんで、これ以上は書かないが
0761人間七七四年
2011/02/11(金) 19:41:20ID:GRGPUeMe0762人間七七四年
2011/02/11(金) 20:01:43ID:7O+IwWQM0764人間七七四年
2011/02/11(金) 23:26:21ID:LJ29ZiFeイチイチ、言葉にセンスを求めていけば
逸話を書き込む人間だって恐縮するんだしさ
0765人間七七四年
2011/02/11(金) 23:30:17ID:kdWu50E00767人間七七四年
2011/02/11(金) 23:40:18ID:IhRenedr単発ならまぁツボが違うんだろうな位でスルーするけど
延々と「ガチョーン」だの「ゲッツ!」だの言ってるようなもんでしょ
ネタとして楽しませる事を目的としてるなら2chの注意書きにもあるように面白いレスを心がけようぜ
>>759の場合はコミュニケーションを求めず自分が楽しんでるだけだし
0768人間七七四年
2011/02/11(金) 23:40:58ID:2KEhCzqB0769人間七七四年
2011/02/11(金) 23:52:47ID:PxnisQlv浅野幸長の陣において、銃弾を防ぐ竹束の側で足軽が、大筒を修理していた。
この時足軽、大筒の砲身にしがみつくような形でいたらしい。
と、この足軽に大阪城より撃ちかけられる。この時一発の銃弾が、
なんとこの足軽の頭から入り尻に抜け、さらにその後ろにいた足軽の胸に当たり
二人ともその場で死んでしまった。
一石二鳥と言うが、これは一発二足軽であろうか?
これに大阪方は大いに盛り上がったが、ここに浅野軍の上田宗箇が駆け寄り、
やおらその大筒の上に乗り立った。
そして大阪城の方を覗き込み
「さあ撃ってこい!撃ってこい!」
と挑発。これに怒った大阪方からの銃弾が上田宗箇に集中したが、しかし一発も当たらなかった。
これには敵味方双方から『主水(上田宗箇)のありようは見事!』と賞賛されたそうである。
上田さんにとってはいい話だけど銃弾一発で犠牲になった上、上田さんを引き立たせる
役回りになった足軽2人にはお気の毒なおはなしw
0770人間七七四年
2011/02/11(金) 23:58:17ID:IhRenedrまぁこれは上田さんの良い話だろう
精度が悪いって分かってても中々出来るもんじゃない
0771人間七七四年
2011/02/12(土) 00:17:11ID:2ADAvvr60772人間七七四年
2011/02/12(土) 00:25:51ID:f3XLYuZu尻に図星ときたときにゃあ体感的にスローモーでいくんじゃないか。
0773人間七七四年
2011/02/12(土) 00:53:04ID:QyWR3jky焼き味噌弾で死んだ足軽B
運命の弾を共有した戦場の悲劇だな
だが、彼らの整備していた大砲こそが後々…
権現様が矢弾飛び交う掘りの前で憂愁に耽るわけだ
0774人間七七四年
2011/02/12(土) 00:56:33ID:Hw0jNnz8火縄銃なんて強風向かい風でも威力が半分くらいになりそうなのに
0775人間七七四年
2011/02/12(土) 03:22:58ID:LMv+/ZZshttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=4950&cr=930094f11cfee81487f71a35c8390e15
↑っで
「軍令に背きただ私利を貧るは町人の行いに似ている」
と行長に言い放ち激怒させた清正だが、他にも凄まじい嫌みを言い放っている。
忠州に攻めいる軍議の席、諸侯が地図を囲み居並ぶ中清正は地図にとある道を見つけこう言い放った。
「小西殿にはこの『薬店道』を通って忠州に攻めこんでもらいたい」っと。
鍋島直茂「アーアー('A`)マータハジマッタヨ」
当然こんな事を言って穏やかに済むはずがない。
行長は激怒して刀に手を掛けた、が対する清正は…。
詫び入れる様子もなく涼しい顔でそれを見ているだけだった。
行長の姿勢はポーズだけと舐めていたのか、
剣術の達人である自分に自信があるからなのか
清正の考えは定かではないが完全に行長を見下しているのだけは確かだ。
この場も直茂が行長をなだめてその場を治めたという。
それにしても朝鮮で小西と加藤がぶつかると鍋島さんがよく仲裁に入ります。
何か裏で秀吉から命令受けていたかもしれないですね…。
0776人間七七四年
2011/02/12(土) 03:50:20ID:DYVmWunx鍋島直茂の妻、陽泰院(彦鶴姫)は佐賀の豪族、石井家の出身であった。
賢夫人として名高い陽泰院であったが、息子の勝茂に対しては一つだけ、政治への
口出しをした事があった。
「私の実家の石井一族の者の処遇ですが……決して勘定方のお役目にはつけぬよう、
頼みますね。依怙の沙汰と言われるかも知れませんが、こればかりはお願いします」
「母上? お役目に付けろと仰るのならともかく、付けるなとはどういう事なので
しょう?」
「だって、勘定役などをおおせつかって、毎日毎日お金を目の前にしていたら、つ
い手が出ちゃう事ってあるじゃないですか? 私、親族が裁かれるのなんて見たく
ありませんもの。初めっからお金とは無縁の生活をしてれば、欲なんてかかないん
です。だからお願いしますね」
「は、はぁ……承知いたしました……」
その後、本当に石井一族が勘定方から外されたのかどうかは定かではない。
陽泰院様のエコヒイキの話。
言い方を変えれば「出世しなけりゃ責任も取らされる事はないよね!」という微妙
な言い分ですよね。
だからと言っちゃなんですが、悪い話に。
0777人間七七四年
2011/02/12(土) 09:35:18ID:vtp3F+Uz0778人間七七四年
2011/02/12(土) 17:42:03ID:x8KWjoB5良く判っている賢婦人だ。
0779人間七七四年
2011/02/12(土) 17:58:30ID:nt0wFdxz徳川に天下を取らせた名誉家系ってことで、家格は黒書院溜の間詰めという
譜代最高格だが、実務を任せて変に責任を取らせる事態にしてはいけないと、
幕府の政治にかかわらせなかったらしい。
0780人間七七四年
2011/02/12(土) 20:08:46ID:YsmcYqoP0781人間七七四年
2011/02/12(土) 20:13:46ID:gMiSCmYQ大身譜代の連中は武家の本業である要所や地方の押さえに専念しろ
それこそが名誉であり武士の本懐である。
将軍の使い走りの元締めである老中は中堅連中に任せろ、
簡単に言うと、石高=軍事力、武士の本来の仕事=軍人、って認識だった。
だから中堅連中は戦の無い時代に老中として功績を挙げ、
大身譜代の仲間入りするのが夢であり、老中は通過点で大身譜代が終着点。
例として功績を挙げ大身譜代となった土井家は嫡流から老中を出さなくなり
5万石の中堅に落ちた本多家は老中を出すようになったと。
0782人間七七四年
2011/02/12(土) 20:56:47ID:W5UMCIl90784人間七七四年
2011/02/12(土) 21:57:17ID:gia8eoRK0787人間七七四年
2011/02/12(土) 22:54:32ID:PzZQvijq有名なペトロ・岐部、彼の話はまだ出てこないようなので。
1584年に豊後の豪族、岐部家に生まれ有馬のセミナリオにてキリスト教神学を学ぶ。
1614年、幕府によってマカオに追放される。が、この地では日本での布教が
はなはだ困難と知った教会は彼らを見捨てる。
これからが彼の執念の物凄さ、マカオからゴアへ、司祭の叙階を受けられないと知ると歩いて
イラン、アラビア半島を陸路西に向かい、日本人として初めてエルサレムに巡礼を成す。
バチカンに向かい、イエズス会を驚かせるが司祭に叙階。
日本に帰りついたのは1630年、激しい弾圧の中をキリシタンの隠れ里を密かに訪ね訪ねの伝道。
1614年、ついに捕縛される。この時期、彼は幕府にとっての最過激カルト集団の親玉であったから、
将軍家光直々の詮議があった。また転ばせ屋のプロ、井上筑後守も悪魔のごとき甘言、或いは
必殺逆さ吊りで攻め立てるもギブアップせずに殉教。
「沈黙」のモデル、横で吊るされた管区長代理フェレイラ神父はあえなく棄教。
岐部はあっさりと去っていくフェレイラを散々に呪いつつ死んだとか。
0788人間七七四年
2011/02/12(土) 22:59:43ID:PzZQvijq0790人間七七四年
2011/02/13(日) 09:43:43ID:goQl1g6w豊後は大友宗麟の庇護下にキリスト教が盛んだったから、
彼のようなハードコアな人物が出てきたのであろう。
岐部自身は、かなり意固地で功名心にはやる人だったらし
くマカオやゴアではうとまれていたらしい。
一人で托鉢しながら砂漠を歩いて行ったとか。
伝説では、遥かな地、バチカンのイエズス会の文書の中に、
豊後での布教に尽くした己が父の名を見つけ、涙したとか。
以後、焦る気持ちを抑える冷静さ、統率力を身につけたらしい。
0791人間七七四年
2011/02/13(日) 10:38:15ID:x/b+taMaカトリックの意地を見せるとばかりに日本に密入国しまくり殉教しまくったと聞いた
なんかブームの真っただ中に置かれてしまった日本のお役人の胃の明日はどっちだ
0793人間七七四年
2011/02/13(日) 12:50:12ID:7Owo/IJZ0794人間七七四年
2011/02/13(日) 13:23:34ID:GOTpJhPV1522年、主家赤松氏を凌ぎ備前・美作・播磨ら3カ国を牛耳る浦上村宗と淡路に追われて浪人となっていた浦上村国・小寺藤兵衛の間で戦争が起こった。
浦上村国が別所・在田・龍野赤松氏を引きこむなど暗躍し、村宗と戦えるだけの兵力をかき集めたのである。
開戦直後は村国方も奮戦するが名将、宇喜多能家などを擁する村宗軍団は強く徐々に敗色が濃厚な情勢となってきていた。
しかしここで両軍を揺るがす知らせが舞い込む・・・内戦に漬け込んで但馬の山名誠豊が備前に攻め込むというのである。
ここで村国はすかさず村宗に接触を図る。
村国「そもそも同姓の誼に背いてまで今貴殿と対峙しているのも、全て赤松家再興のためであって、決して私怨によるものではない。いまもし兄弟垣に争って山名に国を奪われてしまっては、
あとで臍を噛んで後悔しても間に合わない。ついではここで和睦し、幼君政祐(のちの晴政)を立て、一緒になって山名の軍勢に当たり、これを撃退しようではないか!」
村国は方針を転じ、村宗の専横を赤松の家臣として憎んでいる訳でこの戦は私闘ではないことを饒舌に語り、和議を説いた。
自分から戦を仕掛けてきておいて厚かましい事この上ない申し出だが、かつて浦上家には苦い経験があった。
1480年代に山名との間で起こった福岡合戦の際に家中の分裂に浸け込まれ、実際に領国から追われてしまった経験がある。
村宗は渋々ながら村国との間に和議を交わし、対山名の為に共同戦線を張る提案を受け入れた。
そして山名家と赤松・浦上連合との戦に移行するのだが驚愕したのは山名軍である。
非常に短期間の間に内戦がすっかり収まっていて迎撃体制が整えられていたのだから・・・
結果として備後からまで兵をかき集めてまで侵攻を画策した山名軍は翌1523年まで居座るも敗れ、但馬へと逃げ帰った。
この一件で一番得をしたのは不覚にもガチガチの反村宗派である村国の復権を許した村宗でも無く、意気込んで侵攻した割にはまるで得るものがなかった山名でも無く
劣勢だったはずの浦上村国であったという話。
0795人間七七四年
2011/02/13(日) 13:41:44ID:zzRd3SbN0797人間七七四年
2011/02/13(日) 18:03:24ID:y+6+7etR内部争いしてるけど外から攻められると結束するところと、
漁夫の利とかすごく得意そうな人がいるあたり
0798人間七七四年
2011/02/13(日) 18:05:55ID:bY7KRaDahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%B4%A9%E3%82%8C
大物崩れ
川中島や設楽が原よりもダメージが大きい
0800人間七七四年
2011/02/13(日) 20:33:49ID:GOTpJhPVこれも悪い話かな。
0801人間七七四年
2011/02/13(日) 20:50:38ID:zzRd3SbN0802人間七七四年
2011/02/13(日) 20:58:14ID:Tu25HnAN0804人間七七四年
2011/02/14(月) 01:41:58ID:nyeM28P7謀って招き、これを謀殺せんとする。
このとき信長は信行を殺すため、三人の士を潜ませた。
が、信行もさるものである。座敷に置いて謀を察すると、三人の刺客を巻き、いち早く廊下へと逃れた。
このまま信行の家臣団が控えているところまで行き着かれれば、城外へと脱出も不可能ではない。
信行の謀殺は失敗か!?と、その時である
廊下に控えていた池田恒興がとっさに信行を捕らえ、これを刺し殺した。
信長の謀があわや失敗するところを救ったのだ。
これにより信長の尾張統一が大きく進んだのは、言うまでもない。
織田信行謀殺事件に関する逸話の一つである。
結果はいいけど、これ自体はそれほどいい話でもないなと思ったのでこっちに。
(寛政重修諸家譜)
0805人間七七四年
2011/02/14(月) 13:45:42ID:66Mv1wEKでも武の時代じゃないから平安風になるんだよな。
今は昔。
管のおとど、国債格下げを聞きしに「そういうことは疎いので」と
いんだびう切り上げぬる。
その言葉を世の人聞きしに日本株売り売りせり。
おとど弁明せしも、聞くひとなかりけり。
0806人間七七四年
2011/02/14(月) 18:02:01ID:B/8gKS5Q0807人間七七四年
2011/02/14(月) 19:07:32ID:xKlrkUOg売国 ちょっといい話・悪い話のほうにでもどうぞ(笑)
0809人間七七四年
2011/02/14(月) 19:52:35ID:kYVX1VUy宇都宮尚綱は足利晴氏の要請を受けて領を接する那須高資を倒すべく兵を率いて出陣。1549年9月27日の朝、下野の喜連川で両軍は激突した。
宇都宮軍3000人に対して那須軍が用意できた兵はわずか300人、兵力差は歴然としていた。
しかしながら那須軍の粘りは凄まじく、午前中は宇都宮軍と互角に渡り合うほどであったがやはり午後になると徐々に劣勢となっていく。
那須軍を押し始めていた宇都宮軍であったが那須軍もただ小勢でやられに出て来たわけではない。
山越えで迂回していた那須七騎の一つ、伊王野資宗の軍勢がにわかに宇都宮本陣に肉薄していたのである。
勝利を目前にしてやや慢心があったのかもしれない。予期せぬ新手の登場に宇都宮本陣は混乱した。
尚綱「な、なんだと・・・ええい、落ち着け!」
怒涛の勢いで攻めかかる伊王野の軍勢を前に尚綱の判断も冷静さを欠いた。混乱を収めようと尚綱は馬を進めてしまう。
そこで伊王野資宗は立派な身なりをした騎馬武者を視界に捉えた。
資宗「弥五郎よ!あの騎馬武者こそ宇都宮尚綱ぞ!矢を放て!」
伊王野家一の弓の名手、鮎ヶ瀬弥五郎の剛弓は一矢で尚綱の胸板を貫き、命を奪い去った。
そして弥五郎は敵陣に討ち入ると尚綱の首を取り、高らかに叫んだ。
弥五郎「宇都宮尚綱討ち取ったりー!那須勢、伊王野家家臣、鮎瀬弥五郎実光が討ち取ったりー!」
総大将が首を取られた宇都宮軍はもはや混乱どころではなく総崩れである。宇都宮軍は甚大な被害を出しながら領国へと逃げ帰った。
こうして「喜連川女月坂の戦い」は那須高資の逆転大勝利で幕を下ろしたのであった。
0810人間七七四年
2011/02/14(月) 20:10:30ID:+iHgqyzK家中はある一家のおかげでゴタゴタだが。
0811人間七七四年
2011/02/14(月) 20:40:00ID:qyXH6lX6地の利で最大限カバーしてる感じ。
0812人間七七四年
2011/02/14(月) 20:48:34ID:nNVuD4M0圧倒的兵力差があるときの大将討ち死に率高すぎだろ
上杉朝定
武田元繁
今川義元
陶晴賢
龍造寺隆信
油断大敵とはよくいったものだ
0813人間七七四年
2011/02/14(月) 20:49:36ID:TiFls+sUそのうち二件が下野で発生しているのはなぜか?
0814人間七七四年
2011/02/14(月) 20:51:20ID:GP5eG0oWそして日本という国を作った。
那須地方には日本一有名な弓取りと、それなりにうつくしい風景と、
まあまあおいしい水と、日本一過ごしやすい(?)気候を作った。
天使がいった。
「神様、これではあまりに那須家が恵まれすぎています!」
神はこたえた。
「心配するな。獅子身中の虫を作った」
0819人間七七四年
2011/02/14(月) 22:01:18ID:bEx/fawyそしたら毛利の勢力がいまいち拡大できなくて、
TERUに現実以上の苦労が舞い込んだんじゃなかろうか。
0820人間七七四年
2011/02/14(月) 22:07:33ID:a6DCbeqi0821人間七七四年
2011/02/15(火) 00:23:40ID:cvwA1TzH元ネタは20年以上前に親父の本棚で見つけたこぼれ話系をまとめた本。
山崎合戦の折、秀吉は喉が渇いて大変困っていた。
幸いにもちょうど寺を見つけたので「茶を一杯」と所望した。
しかし、この寺の坊主共は
「あいにく茶なんて高価なものはここにはありません。白湯ならいくらでも召し上がれ」
と大量に湯を飲ませて秀吉を帰した。
後に天下人となった秀吉は、この寺に 「湯澤山 茶久連寺」 と寺号を授けた。
で、この寺はどこなのだろうと調べたら
普現山 聖善院 西遊寺(京都府八幡市)
でのエピソードなのだそうだ。
地理的にも条件に合うし、上京区の浄土院(まとめ収録済みの寺)と茶くれん寺が
二寺あるのかと思っていたが、ふと思い立ってさらに調べたら
姫路市 法輪寺にも中国攻めの折、英賀城攻略時のエピソードとして西遊寺と
同じような話が伝わっていた・・・
余談だが、司馬遼の祖先がこの戦いに守兵として参戦していたとかなんとか。
姫路と京都だから距離もあるし、ネタの使い回しをしても気づかれまいと思ったのだろうか。
このエピソード自体が悪い話なのかどうかわからないが、自分の中では何とも締まりの悪い話。
0822人間七七四年
2011/02/15(火) 00:31:59ID:vTNhSUf/命だけでなく嫁まで奪ってしまう勝入斎さんはやりてやなぁ〜
0823人間七七四年
2011/02/15(火) 01:44:13ID:+AgygaNY有名すぎてないのか投下。あまり知られていない知らずに食べたパターン。
加藤清正、二条の会見で家康より饅頭を2個貰い1つをその場で食べた。
そしてもう1つは持ち帰ったという。
帰り道の船でもう1つの饅頭を従者に与えた所、突然どす黒い血を大量に吐いて即死した。
これを見て清正、顔面蒼白となり自分の死を覚悟したという。
それから急激に病状が悪化し、死に至った。
しかし従者が即死したのに清正はなぜ即死しないのか?
真の武人には猛毒さえも容易くは効かぬという事でみな納得し感動したらしい。
従者が死んだ途端に病状悪化する清正もプラシーボ効果っぽいちょっとカッコ悪い話し
逸話で食べ物お持ち帰りの話しが結構多いので毒饅頭もお持ち帰りパターンを。
0824人間七七四年
2011/02/15(火) 02:20:32ID:jmjWCCD8加藤清正の息子である忠広の改易が決定した時の話。
加藤家は武勇の家として知られていた為、この改易に抵抗して、熊本城に篭城する
のではないか、との噂が流れた。
そうなると鎮圧の軍を出さなければいけないのは九州諸将である。
佐賀の鍋島家でも今後の事に関して、重臣の間で評定が重ねられた。
その評定の場に呼び出されたのは成富兵庫。
既に隠居した老人の身であったのだが、家中でも特に加藤家と親しく付き合ってい
た事から、『事情通』として招聘されたのである。
「はぁ? 篭城!? 加藤家が!? ないないないない!! 絶〜〜対にない!!」
成富兵庫、自分が呼び出された用件を聞くなり、そう断言した。
「しかし兵庫殿、加藤家は先代清正公以来の武勇の家。そう素直にお取り潰しに従
いますかな?」
「加藤家が武勇の家っちゅうのは清正公の頃の話じゃろ!清正公や、公と共に戦っ
た勇者は皆死に絶え、今ではすっかり贅沢三昧の家風に変わってしもうた。熊本城
には、篭城出来るだけの金も兵糧も残っとらんよ」
その上、秘かに幕府の方でも加藤家を警戒し、肥後の商人から米を買い取り、上方
に持ち出してしまっていたという。
これでは戦いたくとも戦えない。
加藤家は大人しく改易に応じるしかなかったのである。
0825人間七七四年
2011/02/15(火) 03:25:41ID:12FwCu8N…しかしこの人清正死んだあとの加藤家とも付き合いあったのね
0826人間七七四年
2011/02/15(火) 03:34:33ID:GnOqSWLq0827人間七七四年
2011/02/15(火) 11:24:26ID:YLyN703/0828人間七七四年
2011/02/15(火) 11:26:38ID:YLyN703/0829人間七七四年
2011/02/15(火) 12:02:03ID:k/6hapsQ0830人間七七四年
2011/02/15(火) 18:59:22ID:P0Ix4H4A熊本城だけでもかなりハイスペック
全国の様々な城や城跡を見た事があるが
兵糧攻め以外に攻略方が思いつかんかった
丘にある城、平地にある城、両方の利点を持ってる
当時貧しかった肥後でこれを完成させた清正は悪い意味でスゴいと思う
0831人間七七四年
2011/02/15(火) 19:06:53ID:dQGmBJ0o忠広当時の徳川にゃ後顧の憂いもないし徹底抗戦しようったって何を待つんだって話だし
当たり前のように落ちただろうけど。
0832人間七七四年
2011/02/15(火) 19:11:05ID:KeUtXPRC熊本城が大規模な城になったのは細川時代の拡張のため。
加藤時代は対島津のみを想定した、比較的規模の小さい城だった。
細川時代も熊本城の戦略目的は対島津の押さえで、縄張りを見ればわかるが
薩摩方面以外の防備は非常に薄く弱い作りになっている。
0833人間七七四年
2011/02/15(火) 19:18:27ID:2J21xXcn逆に言えば、その頃から対薩摩用として作られてたのか・・・破却される予定だったのを鎮台にしたのは正解だったんだな
0835人間七七四年
2011/02/15(火) 19:20:26ID:QJglTUBP忍城や上田城みたいに小さくても持ちこたえる城もあれば
八王子城みたいに巨大な城でも守備が1500人くらいだと1日で
落城したりする
0836人間七七四年
2011/02/15(火) 21:44:50ID:puFtS76j0837人間七七四年
2011/02/15(火) 21:50:24ID:ykU9a49x0838人間七七四年
2011/02/15(火) 21:50:47ID:KeUtXPRC守るには大きすぎて防衛に人数を取られすぎるし敵に取られても困る、って事で。
0839人間七七四年
2011/02/15(火) 21:53:35ID:P0Ix4H4Aやっぱり細川の代からも時間をかけて今の熊本城になったのか
流石に清正の代だけであの城は無理だよな
危うく熊本県民に騙される所だった
加藤2代目が有能なら危険人物として難癖つけて転封
無能なら島津の抑えに使え無いし抵抗しないから改易って事か
0840人間七七四年
2011/02/15(火) 22:47:07ID:Isx4cWlZ0841人間七七四年
2011/02/15(火) 23:47:30ID:h3SDHOWd安土城は大手門からまっすぐ歩いていくだけで本丸だろ
防衛には向いてないから敵にとられても問題なくね?って思う
0842人間七七四年
2011/02/16(水) 12:59:26ID:yJsdsNc5>>825
>>成富兵庫の逸話大儀である、このカッパのミイラをやろう
ありがたきしあわせ。
それではお返しとして逸話という程の物でもない、成富兵庫の小ネタを。
成富兵庫が上杉家の家臣・某と話をした時の事。
「全国諸侯の中でも、鍋島家は特に将軍家の御恩が厚く、おろそかに思う事は出来
ませんな」
「まったく仰せの通りですな。しかし鍋島家以外にも似たような話はある物。その
家の方々にも権現様の御恩を思い出していただきたいものです」
……この文面では少々判りづらいかと思うので超意訳を。
「鍋島家は関ヶ原の時、西軍についたってのに減封もされずに良かったよな(嫌味)」
「あの戦はそもそもお前等が原因だろ!上杉家こそ潰されてないだけでも幸せだと
思えよ!(嫌味)」
関ヶ原ネタで他家に喧嘩売るって、どんだけ度胸あるんだ、この上杉家臣。
しかも褒められる類の度胸じゃねぇだろ、コレ。
0843人間七七四年
2011/02/16(水) 13:07:38ID:qHyTYA/1恐いよなぁwwwwww
0844人間七七四年
2011/02/16(水) 14:02:21ID:QWadoMGM0845人間七七四年
2011/02/16(水) 14:08:01ID:1pf763St0846人間七七四年
2011/02/16(水) 14:35:15ID:4Rl/V5oj0847人間七七四年
2011/02/16(水) 15:57:31ID:zxe3NbXu0848人間七七四年
2011/02/16(水) 19:54:07ID:iLbrX0+Nませんな」
「まったく仰せの通りですな。しかし鍋島家以外にも似たような話はある物。その
家の方々にも権現様の御恩を思い出していただきたいものです」
l;;llllll||lll从从WWWl||ll,,ツ从ツツノlイノ'彡ヽ
イ从、从从从从从ll|| |リ从////ノノ彡;j
jl从从从从;;;;;;;;;;;;从;;;;;/;;;;;;;;;、、、;;-ー、イ彡:}
(ミミ;;ッ''"゙ ̄ '、::::゙`゙''ー、/"´::: :::: |;;;;;彡|
}ミミ;;;} ::: {:: ゙:::::、::: :::ィ ,,:::: };;;;イ;;l
jミミ;;;;} ::: ヽ::::ミヽ:: | ノ W:: |;;;;彡:|
}ミ;;;;;;} ::: ヾ {:::::ミ ヽ j イ|从 ":::: };;;;;;彡{
iミ゙;;;ノ:::::: \'、 }}: l||イ /,ィ;;、、-ーーヾ'ァ;;イ、
{;;;;リ:レ彡"三三ミヽ,,リ{{,,ノ;;;;ィ≦==ミ'" |;;〉l.|
l"';;;l ゙'''<<~(::) >>::)-ら::ィ'ー゙-゙,,彡゙ .:|;l"lリ
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l'、〈;', ::: :::::::t、,j iノ:::、::.. ..::::lー'/
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)ヽ"´ ''''"レl_ヽ,,,', ヾ'ー、:::;r'"`' ゙'';;"" ゙l| ::j ::: |: l,,,,
゙''(,l ', l| リ {"ィr''''' ーー''ijツヽ l| :" l |',`ヽ,
き 利 (l :'、 `',. 'l| |;;゙゙゙゙"""´ー、;;| ノ: / /リヽ \
. く い Z::::ヽ '、 ゙'t;ヽ ` ´ ノ;;リ ,r' // |
な. た >; :::ヽ ::ヽミニニニ彡'" , ':::::// |
┃ ふ フヽ ::\ : ミー―― "ノ , ':::: //: |
┃ う }ヽヽ :::::\::( ̄ ̄ ̄ /:::://: |
┃ な }| ヽヽ :::::`'-、竺;;ニィ':::// | l
// 口 (: | ヽ ヽ :::: ::::::... ::// | |
) ・・. を ( | ヽ ヽ:: ::::::... // リ. |
つ、 r、{ | ヽ ヽ // / |
ヽ '´ | ヽ ヽ // / |
0849人間七七四年
2011/02/16(水) 22:32:32ID:1l3htzIG届けた者は「これは聚楽より届けたものです。浅野弾正(長政)殿へも急いで書状を届けねばならないので、
後から戻ってきてご返事を賜ります」と、すぐに帰ってしまった。
番所の者たちが持ってきた書状を三成が見ると、文箱の上には『石田治部殿まいる』と書かれているだけで、
差出人の名前はどこにもない。不思議に思って中を見ると、そこには幼い者のような筆跡でこうあった
『近々太閤(秀吉)様が聚楽へ御成になるということで、様々な準備が行われています。
中でも北山にて行われる鹿狩りの為ということで、諸国より弓鉄砲の優れたものを選りすぐり、
数万にも及ぶほど召し上げられておりますが、これは全く狩りのためのものではなく、関白(秀次)様の
御謀反の為のものであるように見受けられます。
この事は対面して申し上げたいのですが、返り忠の者と言われるのも口惜しく、またこれを申し上げなければ
重恩を被った主君に弓を引く事になります。其の様な事から我が名を隠しました。』
怪文書である。
三成は驚き急いで秀吉の御前に参りこの事を申し上げた。これを聞いた秀吉は
「関白がわしに一体何の遺恨があるというのか?それは関白に疎まれた者が、その腹いせに行ったことではないか?」
と、本気で受け取ろうとはしなかった。だが三成これに
「いや、私にも色々と存じあわせていることがあります。先ずは関白様の家老である田中兵部(吉政)を召し寄せ、
彼を騙して様子を見てみたいと思います。」
秀吉は「くれぐれも隠密に」と、これを許した。
さてこの頃、田中吉政は摂津国河内の堤普請の奉行をしていたが、三成の緊急の呼び出しにより、
夜通しで三成の宿所へと駆けつけた。三成は奥座敷の方に招き入れ、彼ら二人のほか誰もおかず差し向かいになり、
そこで話し始めた
「田中殿?御辺は生死の境にたっておられる。この三成こそが、お命を助けることが出来る。」
これに吉政は大いに驚き
「これはいかに!?夢にも思わぬことをおっしゃる!一体何事が起こったのか話していただきたい!」
「さればだ田中殿、御辺が三成ほどの親友を持たなかったら今度の大事を、どうやっても逃れることが
出来ないところであったぞ?拙者がそなたの首を継いでさし上げようというのだ。」
この不遜な言葉に吉政は怒った
「何を申すか石田殿!?今日本の侍の中に、この田中のことを御前において悪し様に言うような者が居るとは
思えない!たとえ讒言されたとしても、お上(秀吉)が用いることはないと信じている!
石田殿!そなたは最近出頭いたし、御前近くまれ参られているとは言え、人に向かって首を継いでやる、命を
助けてやる、などと言い出す謂れがあるか!?よろしい、只今すぐに御前にまいろう!
御辺も無用なことをして私を助けるくらいなら、罪があるというのなら我が首をここで討て!」
こう言って膝を治し刀の柄に手をかけ、思いつめた気配で三成を睨む。
ここで三成、小声で
0850続き
2011/02/16(水) 22:33:17ID:1l3htzIGしかしここはお心を静めて聞いていただきたい。
関白様が御謀反を計画されていることが明らかとなった。
太閤殿下は『中村(一氏)は病気で出仕しておらず、これを知らないということもありうるだろう。だが田中兵部が
知らないということは絶対にありえない!頼むまじきは人の心だ!急ぎ召しだし腹を切らせよ!』と仰せられた。
だが私はその時『お言葉ではありますが、関白様はこれほど不覚なることを思い立つような心理状態で、
中村や田中にそれを打ち明けておりましょうか?私がかねがね伺っていることに、その両人は関白様に
度々ご異見申し上げるため、出仕しても関白様がご機嫌を悪くされ、御前から遠ざけられているとの事です。』
と、そなたに変わって申し上げると、『それはそうかも知れないが、さりとてこれ程の事を準備しているのなら、
何につけても不審なことが現れるべきなのに、それも言わないとはいかなることか!?』『その儀でございますが、
田中兵部は内々に私に申してくるようにしているのですが、今までは関白様にそのような野心があろうとは
全く存じなかったために見逃していたのです。知った上は今まで以上に、関白様の御振舞で聊かでも怪しいことは
すべて報告させましょう』
…と、このように申し上げたのだ」
吉政これを聞いて
「こ、これは考えもつかないことであった。一大事というからには私がなにか讒言を受けたものとばかり…。
そういう事ならば私は関白様から外様者のように扱われているので、そんな大事を知らせられるわけもないのだが、
太閤殿下が私を憎く思われるのも無理は無い。しかし全く存ぜぬ旨は、御前に出ても申し抜く。
…この上は石田殿の言うとおり、関白様の周辺を伺い見ることといたそう。」
ここに、田中吉政は三成、そして秀吉のスパイとなった。そして確かなことは何も確認できなかったが、
とにかく秀次の身の回りのことで少しでも怪しいと感じたものを、毎日三成へと知らせた。
そして三成もまた、この書状を持って秀吉に
「御謀反もはや、疑い無く候。田中兵部は昨日はこう申してまいりました。今日はこのように申してきました。」
と、これもまた毎日のように言上。遂に秀吉は決断する。
「ならば、急ぎ踏み潰すべし」
秀次事件直前、石田三成が田中吉政を取り込んだ事について残る逸話である。
0851人間七七四年
2011/02/17(木) 00:28:38ID:hHPHEzeY0852人間七七四年
2011/02/17(木) 02:05:10ID:MvGqCKcy0853人間七七四年
2011/02/17(木) 04:50:09ID:tWgHZ559後世の創作なんだろうけど、出展元がいつ頃の文書か気になります
0854人間七七四年
2011/02/17(木) 13:04:08ID:h3FShjiC0856人間七七四年
2011/02/18(金) 00:15:46ID:LspNf9sWその際、前波吉継が桂田長俊と改名したように、他の将も改名している。
自発的なものというより、信長の命令によるものだったらしい。
で、改名された名前は、桂田長俊以外はそれぞれの持ち城にちなんだもの。安易と言えば安易だけど、信長が子供に対して発揮したネーミングセンスのことをおもえば文句はいえまい。
結果、朝倉の名は捨てさせられてこんな感じに。
朝倉景鏡→土橋信鏡(大野郡・土橋城主)
朝倉景健→安居景健(足羽郡・安居城主)
朝倉景冬→三富景冬(丹生郡・三富城主)
で、ここで問題?になるのが丹生郡・織田城主の朝倉景綱。
景綱「んじゃワシは、織田景綱ってことで、よろ」
信長「……」
丹生郡織田には、まさしく織田家の名乗りのルーツとなった織田剣神社があり、いわばこちらが「織田」の本家本元。
信長も駄目とは言えなかったと思うが、二人がどんな顔をしていたのか非常に見てみたい。
ただ、ここの織田は「おた」と濁らない読み。
なので、おそらく読み方は違ったと思う。
そんな織田景綱も、織田の名乗りをひけらかす暇もなく?、富田長繁が引き金を引いて巻き起こった一向一揆に居城・織田城を攻められて逐電。その後、彼の姿を見た者はいない。
0857人間七七四年
2011/02/18(金) 00:21:23ID:pSXxe+mN0858人間七七四年
2011/02/18(金) 00:24:58ID:5GhEqUAa0860人間七七四年
2011/02/18(金) 06:25:11ID:ZB+/DbHe0861人間七七四年
2011/02/18(金) 11:01:46ID:RxJ9qyLT0862人間七七四年
2011/02/18(金) 15:22:23ID:v8ljFPNohttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1298006267/
0863人間七七四年
2011/02/18(金) 15:44:18ID:AZivvAOOこれだな。こっちが伝・九鬼で
http://koubai.auctions.yahoo.co.jp/auction/auction?pid=mie_shima_city&oid=1295416287868163&aid=i11256175
こっちが伝・豊臣由縁ね
http://koubai.auctions.yahoo.co.jp/auction/auction?pid=mie_shima_city&oid=1295416287868163&aid=i11256182
九鬼の方はデザイン的にも江戸期の作りっぽいな。兜も源平風を意識して明らかに実戦用じゃない。
豊臣由縁の方は実戦甲冑の感じが確かにする。桐紋が確かなら、多分小田原陣以降の戦の
褒美か何かとして、豊臣系の誰かから下賜されたものだろうな。
0864人間七七四年
2011/02/18(金) 23:11:21ID:eFIBCe120865人間七七四年
2011/02/18(金) 23:46:52ID:AZivvAOO加藤清正は小西に援軍を出し、あたご山という場所に陣した敵軍を攻める。
この時清正軍の先手、南部無右衛門、山岡道阿弥、鵤(いかるが)平次らはあたご山のすぐ側に
備を立てた。これに清正の本陣より使いが来る。その内容は
『その様に山に近い場所に備を立てては、敵が山から落とし掛かってきた場合突き崩されてしまう。
山から離れた場所に備を立て直せ』
というものであった。しかしこの使いに対応した南部無右衛門は
「私が先手に居る以上、そのような心配ご無用でござる!」
と傲然と顔を上げて言い放った。
さて、敵は清正が心配したとおり、山から駆け下り、
これまた清正が心配したとおり、清正軍の先手を圧倒。
先手の備は一支えもできず本陣へ崩れかかり、清正自身が敵の将木山弾正と
槍を合わせるほどの乱戦となった。
さてこの合戦の後、清正は南部無右衛門を呼びつけ怒鳴りつけた
「先手が崩れたのは、お前が誤った判断をしたためだ!!」
ところが無右衛門、これにうなだれるどころかさらに傲然とした表情でこう言い放った
「先手は崩れてはおりませんでした!私は備を立て直そうとして一旦下がらせただけなのです。
ところが山岡道阿弥が何もせず逃げたため、散々に崩れたのです。
叱るのなら山岡を重ねて叱りつけるべきです!」
清正これを聞いて
「その言い方、気に入った!(そのやうに申さるるこそよけれ)」
と、無右衛門の言い訳に納得してしまったそうである。
加藤清正、南部無右衛門の言い分を認める、と言うお話
(武功雑記)
0866人間七七四年
2011/02/19(土) 00:50:11ID:dahkB4+s清正に仕えてたの?
0868人間七七四年
2011/02/19(土) 09:56:33ID:YizMEq5xhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4033.html
どこに行ってもジャイアニズムで押し通すのか・・・
0870人間七七四年
2011/02/19(土) 16:17:24ID:hvYxp81y1623年に成立した「おもろさうし」のうち、「きこゑ大きみかなし おもろ御さうし」には霊力による
怨敵退散の歌がありますが、そこで薩摩兵は「前坊主(まえぼじゃ)」と書かれています。
半分ハゲっていう意味の悪口ですね。
0871人間七七四年
2011/02/19(土) 18:05:29ID:hNVjagVX0872人間七七四年
2011/02/19(土) 18:17:20ID:Amzrs2k70873人間七七四年
2011/02/20(日) 07:54:20.47ID:/uSiJaMTヤマトマエボジャをニライ・カナイに沈めろって歌ですな
実際、当時の琉球兵は薩摩兵を前にして「悪霊退散!」とかしてるわけで…
平和ボケの恐ろしさは現代にも通じるものがあるな
0875人間七七四年
2011/02/20(日) 09:39:22.69ID:hcoJILWV当時の琉球=平和国家、っていうのは幻想にすぎんよ。勿論平和国家なんて概念自体
存在しなかったしね。
0876人間七七四年
2011/02/20(日) 14:43:01.33ID:lM2a2qKk0877人間七七四年
2011/02/20(日) 14:51:11.45ID:f9vTY7Jn0878人間七七四年
2011/02/20(日) 19:19:02.81ID:YoMMHn1G便器って話も聞いたことがある。この手の話って兵の動揺を鎮める方便なのか
指揮官もガチで信じてたのか気になるけど、負けちゃった以上馬鹿にされてもしょうがないのか。
0879人間七七四年
2011/02/20(日) 19:25:48.43ID:tETHQC3Qロシアが日露戦争の時日本を呪っていたらしいぞ。
0882人間七七四年
2011/02/20(日) 20:06:52.13ID:+A9m+RKNその結果日本では大震災が起き、当時のロシアの物理学者カピッツァはこう結論した
「神は、我々から9光年以内にいる」
0883人間七七四年
2011/02/20(日) 20:43:27.38ID:OHh6Ep+z粥は立派な兵器だよ。煮えたぎった奴はヤバい。
0884人間七七四年
2011/02/20(日) 20:52:51.30ID:Ed3Grad40885人間七七四年
2011/02/20(日) 20:58:08.78ID:IsY/bVbY0886人間七七四年
2011/02/20(日) 21:11:45.33ID:9NLJ9Rqt城攻めにおいて守備側の攻撃手段としては割とポピュラー
0887人間七七四年
2011/02/20(日) 21:29:33.26ID:NYYHUWGU0888人間七七四年
2011/02/20(日) 21:57:36.03ID:kY5YI97A0889人間七七四年
2011/02/20(日) 22:00:07.83ID:Tl//ucZ0勿体ねえのう
0890人間七七四年
2011/02/20(日) 22:18:44.94ID:Zv5Ac0ieそれを使えば大して損ではないよ
0891人間七七四年
2011/02/20(日) 22:20:21.32ID:vDB6d8xdまあそこで撃退しないと永遠にメシ食う必要がなくなると思えば
勿体なくてもやるしかないんだろうねえ
0892人間七七四年
2011/02/20(日) 22:49:16.13ID:BdNnnsU40894人間七七四年
2011/02/20(日) 23:31:58.80ID:rZmgTEs7水が無いから米が炊けないのか
だから米自体が無用の長物だったんだな
0895人間七七四年
2011/02/21(月) 01:07:40.43ID:IxFnV1Fhその逸話、いろんな城であるよね。15世紀の筑前の花尾城とか
知ってるだけで4箇所くらいあったような。
0896人間七七四年
2011/02/21(月) 08:45:40.59ID:foJ28ZtS日本国内だけでのみならず三国志からの引用だったり
この間ムガル帝国誌読んでたら又兵衛の逸話そっくりの話が載っててびっくりした事がある
0897人間七七四年
2011/02/21(月) 09:34:58.68ID:Ttf8nDYfもちろん、海賊に襲われた時にぶっかけるため。
0898人間七七四年
2011/02/21(月) 12:34:55.30ID:0SC68FmZ0899人間七七四年
2011/02/21(月) 17:11:41.50ID:8m2BbT/E家康の叔母の所に出入りし、ある時借金をしたという。
しばらく後にこの叔母のお局が、近藤に借金の返済をするように言ってきた。
ところが近藤
「いやいや、私は借金などしておりませんよ!」
と、しらばっくれる。
これにはお局も驚き呆れた。近藤は借金をするときちゃんと、借受の手形を書いて
いたからである。
そこでお局はその手形を近藤に見せつけ、「さあ返済を!」と迫った。
このとき近藤
この手形を奪うとその場で引き裂き、さらにそれを口に入れご丁寧に歯で噛み砕いた!
そして目を怒らせ睨みつけると
「たわけめ!こんな手形への捺印など、わしが本気でしたと思ったか!?」
と散々に怒ったそうである。逆ギレもいいところである。
この事は後に息子の近藤石見守秀用が、「うちの父はこんな大へそ曲がりでありました」
と、述懐したことだそうだ。
0900876
2011/02/21(月) 18:34:58.49ID:k57PnUeF直接かけたんじゃなくって、道や坂で流して、足を火傷させようとしたんだけれど、これは琉球における悪霊祓いの儀式と同じものなんだそうだ
0901人間七七四年
2011/02/21(月) 19:13:59.78ID:z5bVtjAQ居直ったとか踏み倒す気満々とか盗人猛々しいとか、豆腐の角に頭ぶつけて死にやがれこのドサンピンめとか書くと教養ありげに見えると思う。
0902人間七七四年
2011/02/21(月) 19:17:20.28ID:8M4vGcGF0903人間七七四年
2011/02/21(月) 19:19:56.63ID:zabodcXR0905人間七七四年
2011/02/21(月) 19:41:56.20ID:c3te5Quiもとはは人間相手の」足止め戦術だったものが、悪霊相手にも使われていたってことじゃないかな。
草鞋履きならそれなりに効果がありそうな気がするんだけど、
0906人間七七四年
2011/02/21(月) 22:41:21.08ID:I11qOmd10907人間七七四年
2011/02/21(月) 23:43:03.89ID:fvZYd/lo溶かした鉄をぶっかけたってやつだな
0908人間七七四年
2011/02/22(火) 00:28:32.99ID:aR5sMCxL0909人間七七四年
2011/02/22(火) 04:12:42.00ID:QUoufZ3H「殿がご所有の平蜘蛛の釜を、信長公はご所望になっております。
この上はご進上申し上げるべきではないでしょうか?」
ところがこれに久秀
「たわけたる事を申すな。あの釜を信長にやった上に、我らが首まで所望されたら
どうするのだ?」
それから暫く後、再び家老が久秀に申し上げた
「この頃世間に取りざたされている話を聞いてみれば、殿の御身に大事が迫っておるようですぞ!」
久秀これを聞くと胸を反り返らせ
「ふぁ〜ぁ」
と大あくびをし、
「あらうれしや。思い出になることだ」
そのように言ったそうである。
2度目の謀反の前あたりの話であろうか?松永久秀とその家老の会話である。
0910人間七七四年
2011/02/22(火) 13:40:24.44ID:iWLMHTVC最上義光が釣りや馬での遠出、泳ぎ、川遊びなどで志村・氏家らに怒られたのはそこそこ有名な逸話。
で、最上好きには面白そうなツイッター見つけた。
https://twitter.com/Shake_love_bot
元ネタはこちら【戦国ちょっといい話・悪い話まとめ】
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
【2ch戦国板】http://toki.2ch.net/sengoku/
2ch戦国板住人の皆さま及びまとめブログ管理人様に感謝。 #2ch
我が殿またもや鮭を追いて最上川にて行方不明に候。
泳ぎは達者なればいずくかの岸辺にて岩場流木の類にかかりて難を逃れたるものと思しく候。
お見かけあっても手出し無用にて候。今後の為ご放置いただきたく覚え候。【氏家守棟】
放せ氏棟! 鮭が、鮭が来るのじゃ!(゚Д゚#)ツカミドリスルノジャ!
←城下の馬見ヶ崎川に鮭が遡上すると聞いて褌一つで走りだそうとしたらしい
【代理投稿】我が殿またもや先陣を争いて行方不明に候。
陣中の諸兄もしお見かけあれば最上家本陣の氏家守棟の元まで
お連れくだされば重畳に候。身の丈六尺、兜は三十八間総覆輪筋兜。
鉄の指揮棒を持っておいで也。生死不問。報奨鮭五疋。
よろしくお願い申し上げ候。【氏家守棟】
時々(?)ネタが混じってるので安易に信用しないで自分でも調べてね(´・ω・`)
|´・ω・`))ソレヨリ氏家ガマダ怒ッテルカ様子ヲ見テキテクレ
0911人間七七四年
2011/02/22(火) 13:51:28.57ID:qPj1M4qE0912人間七七四年
2011/02/22(火) 13:54:53.61ID:+uQHBN2G0913人間七七四年
2011/02/22(火) 14:04:37.20ID:T1WsQSaH謙さんかっけー! → 政宗ファンに
・その後興味がわいて、歴史モノとか逸話なんかを見る
もしかして政宗ウザくね……?
・最上擁護のサイトとか見つける
へー、最上ってすごいんだな。政宗ってダメじゃね? →政宗アンチに
・あちこちで自演を繰り返す最上擁護に嫌気がさす。
最上もダメじゃこりゃ → 一週もどって政宗ファン、最上アンチに
今ここ。
ごめん、主体性のかけらもなくて。
0915人間七七四年
2011/02/22(火) 14:23:14.02ID:yfL4OCpn0917人間七七四年
2011/02/22(火) 16:35:09.92ID:ssuJD8Lp0918人間七七四年
2011/02/22(火) 17:33:34.17ID:SJ8qPaS5悪いとこがあるくらいの方が面白いだろ
まぁ弱いだけの奴も面白いけどな!
親しみやすさを感じてもらえるようにすべきなんだろうか」
お珠「あなたは完璧な鬼です」
0920人間七七四年
2011/02/22(火) 17:39:29.32ID:IsdC1BIz0924人間七七四年
2011/02/22(火) 18:48:28.84ID:mzsiaKZSその尼子氏の牢人に、金玉が大きくなる持病の持ち主がいた。
居たんだから仕方が無い。
で、その牢人が陰嚢を湯で洗っているとき、口ずさみにこんな事を拍子をつけて歌っていたそうだ
『ふふふふ〜ん♪
毛利家の大になるは、尼子の滅亡〜
陶が大になるは、大内家の滅亡〜
ふぐりの大なるは、それがしが滅亡〜♪』
で、それを近くでたまたま聞いた者がいて
「お、おぬし、何を言っているんだ!?」
と尋ねてきたので、牢人は斯様斯様と詳しく説明してやったそうである。
(武功雑記)
…何でこんなどうでもいい話が記録されちゃったんだろう?w
0925人間七七四年
2011/02/22(火) 18:49:33.46ID:Yvt6R5Ns0926人間七七四年
2011/02/22(火) 19:14:37.19ID:BycG4MVG0927人間七七四年
2011/02/22(火) 20:02:34.73ID:DAvt/LVK0928人間七七四年
2011/02/22(火) 20:25:12.52ID:9vzXotMc鼻歌歌いながら洗ってるようなら違うんだろうなw
でも「それがしが滅亡〜♪」ってことは痛みもあったのかね
0930人間七七四年
2011/02/22(火) 22:43:27.53ID:DwLwMj1Uおまえのせいで最上ヲタであることが恥ずかしい。
0931人間七七四年
2011/02/23(水) 12:09:30.14ID:ae4q67kq:::::::: | 若殿の逸話はもう尽きたようだな… │
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…若殿は黒田家の中でも最も短慮 … │
┌──└────────v──┬───────┘
| 理想の主君として話題となる │
| 大殿の息子とも思えぬ。 │
| 黒田家の面汚しよ… │
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
又兵衛 太兵衛 大膳 官兵衛
0932人間七七四年
2011/02/23(水) 13:37:31.36ID:vdPdQ0B1ではそんな若殿に如水さんのお言葉
あるとき黒田如水が、息子長政にこんな事を語った
「織田信長公が松永弾正殿に『武辺者とはどういう者を言うのか』とお尋ねになったことがあった。
この時弾正殿は
『そういう者は二種類あります。
まず、一番槍、一番乗りをすべしと心がけ、上に対し非常に目立つ者達。これが一種類。
そしてもう一種類は、そう言う目立つ者達に隠れ上からは見えにくい、真に役に立つ
殊の外慎み深き者達です。
私も家中に、一番槍、一番乗りを心掛ける者、12、3人は持っています。
ですが一番槍の者が敵に槍を突きつけているとき、彼らの後ろにまわり槍の石突(槍の底部)を
才槌(小形の木槌)を持って打ち込むと言うような者は、5人、3人も持っておりません』
筑前(長政)よ、この如水は世間にその才能が目立つ、前者のタイプである。
一方そなたは才槌で石突を打ち込む立場を覚悟している者だ。
ただし、それ一辺倒では総大将としては気配りが足りない。
大将軍、名将と呼ばれるには、状況状況で機転を利かせることこそ必要なことであるぞ。」
『才槌で石突を打ち込む者』というのは、先手が拡大した戦線を確保することを
心掛ける者、ということだろうか?
それにしても如水さん、長政を褒めているようで、あれだけ前線で一番槍をやりたがってる人に
「俺はスタータイプだけどお前はどうしたって裏方タイプだなあ」と、盛大に全否定している
感じがいかにもこの親子である。
以上、黒田如水が長政に語った、松永久秀の武辺者論。
0933人間七七四年
2011/02/23(水) 16:29:54.69ID:943oRQrtという流れなのかと思ったが、全否定で終わってんのかよ。
さすがだな。黒田家と鍋島家は一切ブレない。
0934人間七七四年
2011/02/23(水) 17:06:30.82ID:nPRSxXuH0935人間七七四年
2011/02/23(水) 17:57:33.60ID:h8Kf1gij長政は意図してなかったとはいえ、関ケ原前後で如水の乾坤一擲の賭けをぶち壊したからなぁ
あの如水の行動を読めというのは無茶だけど、自分の親父のことよくわかってなかったんだなと思う
長政も十分すぎるくらい優秀なんだけど、如水と比べると器の違いが浮き出るから気の毒だ
0936人間七七四年
2011/02/23(水) 18:06:24.09ID:pFjyuf5w0937人間七七四年
2011/02/23(水) 20:26:09.72ID:2XGZndZA0939人間七七四年
2011/02/23(水) 22:14:31.37ID:BMLTf31H0940人間七七四年
2011/02/23(水) 22:21:43.75ID:iM0kRpHV0941人間七七四年
2011/02/24(木) 04:12:17.47ID:8Fly0/Wg「わしはな、貴所(長政)の公儀上手に感じ入っておる。
今後は知らぬが、今までの両御所様(家康・秀忠)の御前、そして幕府高官たちとの
関係においてお主はいささかの失敗もすること無く御奉公しておる。
これを公儀上手と呼ぶのだ。
わしなどは太閤様の前で2度しくじった。1度目の時は播州の寺社でしばらく蟄居したなあ。
近年は九州のことで叱られた。
先の関ヶ原の時は、わしの行動が御所様(家康)の構想と全く噛み合わなかった。
あの時はこうだった。お主は東で御所様のお供をしていた。わしは国元にあって隠居の身だったが
人数を抱え隣国の豊前で働き、30日ほどでこれを討ち従え、その後金吾殿(小早川秀秋)が
お留守にしている所領の仕置を行い、筑前の立花左近(宗茂)の城に軍勢を寄せた時、
薩摩討伐のお触れが来た。
この時加藤肥後守(清正)殿は薩摩に接する国の領主であったので、先の立花殿と講和をし
それから肥後を出発し薩摩との国境まで詰め掛けたところで、
『当年中は薩摩に仕掛けてはならぬ。早々に引き上げるように』
との命令が来たため国元に帰った。
我らは東と九州の二ヶ所において御所様に御馳走いたした上は、お主とは別にわしにも
国や知行が拝領されるものだと信じきっていたのだが、そのような御内意は一度もわしの元に
届かなかった。
どうやらわしが隠居の身の上だというのに、お主の留守にその金銀を取り出し豊後や
その他に手出ししたことを不似合いだと思われたようだ。
本来ならお主の城である中津城に引き篭もり、世間の成り行きやお主の動向などを注視することこそ
然るべきだったのに、隠居の身であのように働いたことが不似合いであると思われた。それ故に、
わしの国元での働きは御意に召すことが出来なかった。
わしはな、太閤様の時代に『一角の大名になってやる!』と思っていたのだが、そうは成れなかった。
関ヶ原の時も又、同じく出来なかった。
我が心のことながらわしは、自分を過大に評価しすぎているのだなあ。
太閤様も御所様も、『黒田如水という人物に見合うのはこの程度だ』と見切っておられたのだよ。
太閤様のわしに対するお目利き、御所様のわしに対するお目利きは少しも違わない。
これには感動するほどだよ。
この上はな、わしは浮世を捨てようと思っている。
歌道三昧の生活をしようか、あるいは月見花見の遊山をして過ごそうか。
お主はこの如水の身の上をどう待遇したものかと能々考えていたようなので、
その為ここでこの事を、申し聞かせてやったのだ。」
(川角太閤記)
晩年の黒田如水の挫折感、あるいは諦観を感じさせる述懐である。
0942人間七七四年
2011/02/24(木) 10:18:45.54ID:Epso76/G「ムリヤリいい話にしてんじゃねえぞ親父」
と息子は言いたいと思うんだがなあ……。
0944人間七七四年
2011/02/24(木) 12:41:20.10ID:onmTgomV勝茂さんは知らん!
0945人間七七四年
2011/02/24(木) 12:47:06.94ID:k2dzP2dcね、天庵さま?
0946人間七七四年
2011/02/24(木) 14:51:28.47ID:51fqpjvfそんなことはない、為せばなると天庵様は仰せです。
さあ一緒に越後の軍神気取りを討ち取りに行きましょうぞ
0947人間七七四年
2011/02/24(木) 17:53:07.38ID:yZCQTJ3H0948人間七七四年
2011/02/24(木) 19:26:36.12ID:P88ZnCtu0949人間七七四年
2011/02/24(木) 20:07:35.89ID:P/RN/4Vy見てたらいきなり名前出てきてコーヒー吹くかと思ったわw
0950人間七七四年
2011/02/24(木) 20:21:44.70ID:Wo819EISというかあのAAもぴったり合うと思うw
0951人間七七四年
2011/02/24(木) 21:49:05.46ID:av3dPesC俺は「一番槍、一番乗りを心掛ける者」=才能ある先駆者、家名を大いに上げた一代目(家康タイプ)
お前は「才槌で石突を打ち込む者」=地道な努力でそれを確かなものにする二代目(秀忠タイプ)
という御家の栄えさせかたを、戦の勝ちにもっていくやり方に例えたうえで
だけどある程度は両方の素質持ってないと駄目って話かと深読みしそうになったけど
やっぱ単純に俺のほうがすごいから、お前分相応にしろ、でもそれじゃ俺は超えられねぇって話なだけだろうな
0952人間七七四年
2011/02/24(木) 22:21:38.30ID:MDGu0TqTそう言えば天庵様がついにゲームに登場。
http://www.unicorn-a.com/products/gesen18/sengoku3/char/oda2_uziharu.html
天庵様のことは想像以上に世間にも広まっているのか?w
0953人間七七四年
2011/02/24(木) 22:31:59.50ID:+wCwcXkb0954人間七七四年
2011/02/24(木) 22:34:57.65ID:GNZCv7sXってよりによってクソゲーで有名なエロゲーシリーズかよw
0955人間七七四年
2011/02/24(木) 22:36:04.06ID:/eEadD8y0956人間七七四年
2011/02/24(木) 22:43:49.65ID:UiH4Rqsk0957人間七七四年
2011/02/24(木) 23:06:33.63ID:GYK8Jyxy0958人間七七四年
2011/02/24(木) 23:24:00.65ID:yZCQTJ3H0959人間七七四年
2011/02/24(木) 23:31:29.72ID:jPs8y5ZVなんか戦国ランスと天下統一と信長の野望の蒼天録を混ぜたようなゲームだな
てか大友宗麟が過大評価されてる気がするw
0961人間七七四年
2011/02/25(金) 03:45:21.65ID:zVnSmgEM0962人間七七四年
2011/02/25(金) 04:58:35.18ID:hEN37VRR黒田如水が病に倒れ、臨終の床についていた頃のことである。
黒田長政は床にある父如水に向かって言った
「父上はそろそろ死にそうですが、私には心残りがあります」
(はや御果可被成候に、心に懸りし事御座候)
死にかけの父親にこんな事言い出す長政も相当なものである。ま、ともかく続き
「それは、私は今一万ほどの手人数を持つように成りました。
そこで黒田如水を自分の旗本に置き使い、私の采配で一合戦お目に掛けたかった。
それだけが心残りなのです。」
これを聞いたその死にそうな黒田如水、長政に
「おいおい、わしはお前がそれ程のアホだとは思わなかったぞ!」
(扨其程に貴所は気の付候はんと思ひ不寄候處に)
「そんな事なら、わしの方には今生に思い残すことなど何も無いよ。
大昔の名将弓取りなどの事は、書物に記録してあるだろう?
わしはそれらを読んで綿密に分析してみたところ、近代において名将や弓馬の道の上手は
美濃・尾張・三河、この三ヶ国から出るようになっているのだ。
その三ヶ国の名将たちの戦の仕様、その武者振りの体、まあ日本のうちそれ以外の地域は
残りカスみたいなもんだな。」
だから三ヶ国の出身ではない長政の采配など、たかが知れている。
そんなものを経験できなくても自分には何の後悔もない。ということなのだろう。
しかし如水も死にかけなんだから、息子にもうちょっと可愛気のある言葉を遺してあげても
いいような気もするがw
ともかく最後までこの息子にこの父親、としか言い用のない父子の会話である。
(川角太閤記)
0963人間七七四年
2011/02/25(金) 05:11:50.91ID:k3xHwwL80964人間七七四年
2011/02/25(金) 06:14:54.06ID:K5spKSxR0965人間七七四年
2011/02/25(金) 08:40:29.64ID:MLxUTQsI0966人間七七四年
2011/02/25(金) 09:14:15.66ID:pq45nIdIお前なんぞの戦の腕なんてたかがしれてるよプギャー
本当にこの親子はなんというか、なんというか……
0968人間七七四年
2011/02/25(金) 11:09:14.51ID:yYVCfplf0969人間七七四年
2011/02/25(金) 11:17:33.51ID:SIy2Sbgj必要以上の戦局の安定化はむしろ邪魔なんだから
0970人間七七四年
2011/02/25(金) 11:18:23.28ID:yYVCfplfあんな天然に天下とれんわ
0971人間七七四年
2011/02/25(金) 11:19:17.98ID:SN6Hd6Ye何でなんだろう・・・本当に
0972人間七七四年
2011/02/25(金) 11:22:59.13ID:yYVCfplf0974秀忠
2011/02/25(金) 17:38:22.35ID:koR0Ue6C∩∩ ぼ く ら の 春 は こ れ か ら だ ! V∩
(7ヌ) (/ /
/ / ∧_∧ ||
/ / ∧_∧ ∧_∧ _(´∀` ) ∧_∧ ||
\ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄ ⌒ヽ(´∀` ) //
\ /⌒ ⌒ ̄ヽ、秀忠 /~⌒ ⌒ /
| |ー、 / ̄| //`i 勝茂 /
| 秀宗 | | 長政 / (ミ ミ) | |
| | | | / \ | |
| | ) / /\ \| ヽ
/ ノ | / ヽ ヽ、_/) (\ ) ゝ |
| | | / /| / レ \`ー ' | | /
0975人間七七四年
2011/02/25(金) 17:42:55.52ID:GzNdByUq0976人間七七四年
2011/02/25(金) 18:16:08.94ID:LXXs/9tH0977人間七七四年
2011/02/25(金) 18:33:34.14ID:VxpavJiq0978人間七七四年
2011/02/25(金) 19:28:59.49ID:f97GA1AI0980人間七七四年
2011/02/25(金) 21:04:40.62ID:zy5hZ7PMTERU「鬼畜伯父上より父上の方が良かったです…っ!(涙)」
0981人間七七四年
2011/02/25(金) 21:42:23.66ID:O/pSs/39伯父上→叔父上の方が正しいぞ
0982人間七七四年
2011/02/25(金) 22:10:04.22ID:S4F2SHBo0983人間七七四年
2011/02/25(金) 22:11:56.89ID:S4F2SHBo戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
0985人間七七四年
2011/02/25(金) 23:09:25.68ID:UOGjODTL軍師孝高(or直茂)「君は本当にバカだな・・・」
君主長政(or勝茂)「・・・(ちくしょう、いつか殺してやる・・・)」
なんてのは、もっと嫌だが
0986人間七七四年
2011/02/25(金) 23:28:08.15ID:UXi8VYEa一番最初に公開するインパクトがあって、尚且つ後にとって置く弾は大物を用意したいっていう、
なんかそういう判断だろう
0987人間七七四年
2011/02/26(土) 03:20:52.37ID:gjjFlY8y0988人間七七四年
2011/02/26(土) 14:10:55.66ID:ZaUtNrBQ埋めかわりにここんところ如水ネタが続いたので・・・
熊本の今年デビューした競輪選手に松岡孝高って選手がいるのだが、
彼の兄2名も競輪選手で名前を孔明と貴久って言うんだ。
父親が歴史好きでそれぞれ諸葛孔明と島津貴久、黒田孝高から名前をとったらしい。
このスレの住人にも子供の名前を武将名にした御仁がおられたりしないでしょうか?
0989人間七七四年
2011/02/26(土) 14:22:18.70ID:PZ1P8vyc結構最近武田信玄が逮捕とかあっただろ
0990人間七七四年
2011/02/26(土) 14:31:14.91ID:NyiZeKim0991人間七七四年
2011/02/26(土) 14:35:22.35ID:H+4rDOmp0992人間七七四年
2011/02/26(土) 14:44:12.41ID:Qe3AJj9G寺社乗っ取りを企てた福岡の武田信玄?
恐喝事件おこした北海道の武田信玄?
福岡の御屋形様は信玄と書いてノブトラって読ませてるからセーフだと思うよ
0993人間七七四年
2011/02/26(土) 15:07:29.28ID:lCXD9nV9は現代人にしては名前負けしてない気がするw
0997人間七七四年
2011/02/26(土) 16:13:03.16ID:Hib3Muv70998人間七七四年
2011/02/26(土) 16:15:04.66ID:gjjFlY8y0999人間七七四年
2011/02/26(土) 16:24:37.51ID:64K2UZCD1000人間七七四年
2011/02/26(土) 16:31:03.86ID:xuBHSRZk10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
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