すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?

たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。

公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してたと考えてたよ。
個人的には和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。

篠原長房に関しては日本史人物生没年表のとおりに義昭の抵抗に最後まで付き合って戦死したのではないかと思うが。

>>42に関しては
大和多武峰(談山神社)の宗徒に義堯は呼応を命じており
談山神社文書と義堯文書は裏が取れるっぽい。
ちょうど毛利に東進がスタートし栗屋が摂津に入り、
児玉が淡路岩屋に入り三木城が織田から離反するなど
一連の流れから天正6年で合ってると思われ。