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【反逆者】 荒木村重 【薄情者】

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0001人間七七四年2010/12/03(金) 17:41:50ID:h7Z7C6Ck
妻子を見捨てて逃亡した彼ですが反省はしていたようです
0042人間七七四年2011/11/05(土) 14:03:13.53ID:kVMbVI9U
大形殿騒動って
軍記に載ってる話だろ。
本当にあったかも疑問だな。
なんせ天正6年正月にも
義堯の命で謙信の上洛支援として、
阿波淡路の兵が堺に
上陸してるし。
いまだ義昭側に三好衆が帰属してる。
0043人間七七四年2011/11/05(土) 16:44:04.22ID:pbf/wSxc
>>41
信長公記では松永降伏が昨年冬(元亀3年~天正元年)となっているけれど、
今年冬(天正元年~天正二年)の間違いというだけかと。
三好義継が11月に死んでいるので久秀の降伏はやむなしだろうし、
信長が久秀の降伏を許したのは、>>36の通りかと。

篠原長房については、日本史人物生没年表の方も疑わしい。
淀古城の戦いと一致させているだけではないだろうか。
篠原長房が死んだ後、三好長治が三好本国を纏めたのだろうけど、
比較すると力不足だったと思う。
>>42
いくらなんでも年代比定がおかしいかと。
0044人間七七四年2011/11/05(土) 18:47:02.01ID:sxdyxd5/
すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?

たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。

公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してたと考えてたよ。
個人的には和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。

篠原長房に関しては日本史人物生没年表のとおりに義昭の抵抗に最後まで付き合って戦死したのではないかと思うが。

>>42に関しては
大和多武峰(談山神社)の宗徒に義堯は呼応を命じており
談山神社文書と義堯文書は裏が取れるっぽい。
ちょうど毛利に東進がスタートし栗屋が摂津に入り、
児玉が淡路岩屋に入り三木城が織田から離反するなど
一連の流れから天正6年で合ってると思われ。
0045人間七七四年2011/11/05(土) 19:19:57.74ID:pbf/wSxc
>>44
>すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
>天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?
おそらく。(>>39も引用なのでスマソ)

但し信長が検分のため接収した多聞山城に入城したのは元亀2年だから、
多聞山城の落城は天正元年12月26日頃であり、信長公記の記述は明らかにおかしい。

>たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
>足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。

天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、
これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を
目的とした行動と考えるのが自然かと。
0046人間七七四年2011/11/05(土) 20:42:18.33ID:pbf/wSxc
>日本史人物生没年表によれば長房は7/16死去

調べたら上桜城の戦いの日だった。年表は元亀4年説をとってることになる。
なんらかの騒動により、篠原長房が三好長治の殺害されたのは確かの様。
0047人間七七四年2011/11/05(土) 22:30:35.22ID:UpGVVV5k
話を端折り過ぎて大和多聞山城を信長が接収した日付と
落城した日付の前後に何があってのことかわからん…
0048人間七七四年2011/11/05(土) 22:31:33.35ID:fX1+ak6T
>>33
単純に領民の不満を放置したら大名としての存続が危ういと判断したのだろう
0049人間七七四年2011/11/05(土) 22:57:11.33ID:UpGVVV5k
池田追放も市民意思だろうね。
0050人間七七四年2011/11/06(日) 09:22:40.91ID:uoDdFOSJ
>>18
一族見捨てて一人逃げたというのは、完全に誤伝だよね。

>花隈城への移動は純粋に戦略的な理由からのこと。
>村重が毛利に救援要請にいったあとも戦争を継続した主体は領民たちだったこと、 >>12
0051人間七七四年2011/11/06(日) 09:30:14.79ID:75MIDmdY
無理でしょー 城主が死を覚悟して戦う兵士においらは戦術的に考えて他の
城に移動するけどおまえらはここで死ぬまで戦ってねなんて通らんでしょー
0052人間七七四年2011/11/06(日) 09:30:28.38ID:7I+cZwYv
池田勝正も知正も村重も市民に首を挿げ替えられてるだけ
都市国家の市民が指導者を選出してるようなもんでしょ。
0053人間七七四年2011/11/06(日) 09:52:41.27ID:uoDdFOSJ
>>51
花隈城、尼崎城、石山本願寺には毛利軍の乃美宗勝、荒木元清、桂元将らが
来てるのだから、援軍待ちの状態であって死ぬ覚悟なんか必要無いし、
有岡城は相当な堅城だから早々に落城するなんてありえないという判断で
妻子残したんだと思う。(実際は部下の裏切りで落城。)
0054人間七七四年2011/11/06(日) 10:15:32.12ID:M2pfJRlb
責任を取る必要がない民衆のほうが好戦的な時もあるんだな
今も昔も
0055人間七七四年2011/11/06(日) 10:45:50.77ID:7I+cZwYv
まぁ惣村一揆の都市版だもんな。
0056人間七七四年2011/11/06(日) 12:37:31.40ID:nhorEP+V
池田追放は荒木が領民と通じて行ったもの、と考えるべきだろ
0057人間七七四年2011/11/06(日) 15:23:29.71ID:hfSGak8T
そりゃある程度の武将なら織田の強さも解るけど、摂津の庶民は
「尾張の田舎者なんかたいした事ないやろ」程度に考えていただろうし。
0058人間七七四年2011/11/06(日) 17:38:54.06ID:Y4W8iLl3
本願寺や毛利も後援してたし。
天皇の和睦斡旋で時間稼ぎをしてるうちに
中川や高山の調略に信長が成功しなければ、
織田は丹波戦線も崩壊する可能性もありやばかったのも事実。
0059人間七七四年2011/11/06(日) 21:14:50.51ID:uoDdFOSJ
池田勝正も荒木村重も信長の度重なる出征の犠牲者ということなのか。
それとも矢銭が問題?
0060人間七七四年2011/11/07(月) 09:44:16.26ID:IaXzc8cK
秀吉がいた別所の播磨
佐久間がいた本願寺の摂津
明智のいた波多野や赤井の丹波
この辺りの戦線は互いに補給路を構築してたから織田は崩壊するね。
手取川の大敗のためか、
織田は慢性的に兵力不足に陥っていて
天皇に頼る以外に手段が無くなってた。
この機会に姫路の北に位置する但馬南部の生野銀山を毛利が奪取してたら、
織田は雪崩れを打って崩壊したろうね。
第二次木津川口の勝利による開場封鎖の成功は大きい
0061人間七七四年2011/11/07(月) 16:39:32.51ID:VFUExXY9
「信長の棺」だったかなあ、なんかの歴史小説で村重が逃げたのは包囲軍の責任者が
秀吉から信長公嫡男、織田信忠公に交代した直後、と書いてあった気がする
それで信長公は跡継ぎ息子に何してんだ!と思う反面、息子かわいさにその憎しみを
村重に向けてしまい、女子供全串刺しというルーマニアのワラキア公ヴラドなみの
残虐性を発揮してしまったという気がする
0062人間七七四年2011/11/07(月) 18:05:10.28ID:WbOS3hPd
ツッコミ必要だよね?
>>60
謙信とっくに死んでるし。
村重の謀反は全然戦略的じゃ無いよ、絶対。
>>61
村重は逃げてないし、逃げて信長が怒る理由もわからないし、
捕虜を虐殺したのは有岡城陥落後だから、織田信忠公は褒められる側だし。
0063人間七七四年2011/11/07(月) 18:17:55.87ID:VFUExXY9
現実から目を背けていては真実には辿りつけないぞ!
村重は死にたくねえ、死にたくねえと思ってお気に入りの少女の側室を連れて毛利領に逃げたんだ
やつはそこで兵をくれ、またがんばるって言ったがさすがにそれは許されなかった
兵のみならず、妻子まで見捨てて逃げた男は武士として死んだも同然なんだ・・・
0064人間七七四年2011/11/07(月) 18:27:26.86ID:WbOS3hPd
現代的解釈程度じゃプロにはなれんよ。
0065人間七七四年2011/11/07(月) 19:29:21.02ID:rJIjBwzU
手取川の戦い以前の織田軍はたしかに兵力不足を感じさせない。
謙信や丹波の赤鬼が死んでから
まだ半年しか経ってないよ。
どこの戦線も兵力不足で織田は苦戦続き。
そこに荒木が大規模に決起だから天皇を頼ったのが信長。
この隙に宣教師を脅迫して高山や中川らを寝返らせる時間を作った。
もっとも毛利は天皇の斡旋をシカトして
木津川口で大敗したおかげで
制海権を手に入れた織田は摂津での戦局打開に成功しちゃうけど。
0066人間七七四年2011/11/07(月) 19:34:33.29ID:12K/YJGI
>もっとも毛利は天皇の斡旋をシカトして
>木津川口で大敗したおかげで
>制海権を手に入れた織田は摂津での戦局打開に成功しちゃうけど。

「毛利が天皇の斡旋をシカト」したことと「木津川口の大敗」に何の因果関係があるの?
0067人間七七四年2011/11/07(月) 19:39:21.30ID:Cn9eETrt
荒木元清が厚遇されたのは何でだろ?
0068人間七七四年2011/11/07(月) 19:39:52.64ID:12K/YJGI
>>62
>>61は歴史小説というフィクションの感想文を書いているだけだから真面目に指摘しても無駄かと
0069人間七七四年2011/11/08(火) 02:06:30.27ID:V4+eTLkU
荒木って結構可愛がられてたのに
なんで謀反したんだろうな?不思議だわ
0070人間七七四年2011/11/08(火) 10:10:07.85ID:7xm63Som
もともと離反癖があるやつじゃん
0071人間七七四年2011/11/09(水) 08:49:25.78ID:IkqC3kJO
和田親子殺したり
松永同様に
面従腹背の見本みたいなやつらだ。
しかし松永も大和国における
反筒井の領民の意向であり
久秀の意思は関係ないのかも知れない。
0072人間七七四年2011/11/11(金) 23:06:22.57ID:QWAVMLpQ
和田惟政・池田勝正・伊丹忠親を選んだ信長の目は本当に節穴だね。
漏れなく落ちぶれてるし。
0073人間七七四年2011/11/11(金) 23:36:00.60ID:m9ld/xG0
面従腹背こそ我らの個性
0074人間七七四年2011/11/13(日) 14:05:49.13ID:5QFeiDTN
>>72
だよな。お前ならそんなミスしねえもんな!
0075人間七七四年2011/11/13(日) 19:05:06.40ID:OX7wcNGi
信長は家臣にすべて丸投げで
ロクに内政をやらんから
松永や荒木らが
在地支配を続けることが可能だから面従腹背してる。
実際に信長が彼らを支配していたというのも難しい。
彼らは自分に都合がよい時や劣勢の時だけ、
信長に味方顔しただけ。
0076人間七七四年2011/11/16(水) 19:26:20.63ID:gXjnJYwi
>>74
ありえないだろw
俺だったら絶対、村重と右近を選ぶねw
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