松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
これも公記の誤記で、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。
ちなみに軍記物「和州諸将軍伝」に松永筒井は明智の扱いで元亀2年
11月1日和睦したという。 実際、この間の同時代史料に戦闘はなく、
逆に翌年3月筒井が上洛している。戦闘再開は4月末(松永謀反)。

私見では畿内の大まかな流れとして、
元亀元年攝津武将寝返り工作。 元亀二年義昭方武将と信長方武将の重なり
合う問題頻発のため、義昭と和睦交渉。11月頃徐々に戦闘停止。
元亀三年3月義昭・三好和睦成立。

義昭・三好和睦の裏には、近い将来の義昭・信長の正式な手切れを見越し
ての事であり、 和睦で無駄な争いが続く攝津を安定させ、更に松永らを
誘って河内をも平定させる計画だったと思う。 松永・畠山の対立は表向き
織田領内の内紛として。

誤算は和睦によって生じる荒木の主君追放責任(旧主池田勝正は義昭側に
いる)からの織田転身と、 突如、三好本国で起きた「大形殿騒動」かな。

大形殿騒動。天正元年初頃〜5月と推定される。

阿波・讃岐は名目上守護細川真之のほか、阿波国主は三好長治(実休子)、
讃岐は十河存保(長治弟)。 実休の右腕だった篠原長房が鬼十河・実休死後、
長治・存保の後見として二国を実質的に統治していた。 長房は三人衆の次席に
位置し、永禄期の松永内戦では三人衆側として度々畿内に上陸して形勢を逆転、
元亀元年野田戦では2万を率いて上陸し追撃、瓦林・茨木を落とすなど、三人衆を
勢いつける力となっていた。 だが一族の篠原自遁が「大形殿」を側室にした事を怒ると、
自遁の讒言で後見を解雇され、川島城に謹慎。 大形殿とは守護細川持隆の後室で、
持隆が実休に討たれると実休の妻となった女性。
3月真之・長治(共に母が大形殿)の攻撃を受け5月討死。存保も別事で長房と対立し
参戦したのが決定打という。 この騒動で四国からの後方支援が無くなってしまっていた。