【徳川家総合】 徳川家康 公スレ その十一
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0001家臣団の話題も可です
2010/11/03(水) 23:52:31ID:r0D0CjOG重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
※下賎の者(百姓)は過疎時のみ構って当て馬にしましょう!
0009人間七七四年
2010/11/04(木) 23:31:54ID:JaIlFIRq首都機能があればいいだけの話。
天皇どうたらの弊害ももともと徳川のせいだな滅ぼさなかった。
0011人間七七四年
2010/11/05(金) 07:47:40ID:dMeWBcRt日本の東西対立を緩和し、政経分離し、
日本国は、完成する??
0012人間七七四年
2010/11/05(金) 10:22:30ID:iZT24qAf関ヶ原の戦いは、その後の大戦争の基本
http://s1.shard.jp/deer/0203/39/266.html
徳川家康は、関ヶ原の戦い以前にも八百長の戦いを重ねていたが、
本格的な八百長の戦いはこれが初めてだった。
目的は、
自分の天下取りが実際は、暗殺・裏切り・謀略・買収などの、
非戦闘によって行われるのだが、これでは、天下を取っても、
「名誉あるサムライ」の地位も評判も得られない。
それで、家康は、大々的な八百長の戦を演じて、欲しいものを、
完全に手に入れた。
それだけではない。
当時、両替商、商品取引などで、既に大規模なマーケットが形成されており、
戦況を裏切ることで、莫大な差益も手に入れた。ついでに、
どさくさにまぎれて邪魔者を消し去った。
0013人間七七四年
2010/11/05(金) 13:24:13ID:CCNB+Ukb> 当時、両替商、商品取引などで、既に大規模なマーケットが形成されており、
> 戦況を裏切ることで、莫大な差益も手に入れた。
これはなんなんだろうか?
0014人間七七四年
2010/11/05(金) 16:54:10ID:plYf2RHYそこが日本のいいところなんだよね。
0015人間七七四年
2010/11/05(金) 17:18:17ID:QSvelU0p0016仙台藩百姓
2010/11/05(金) 17:40:03ID:C5tbJVVP個人としてならともかく政治の曖昧さ程害のあるものはないお┐ (´ω`) ┌
しかも日本の政治の曖昧さは大概政治家の逃げ口上の為に成立しているようなもので
極めて危ういものを孕んでいるお┐ (´ω`) ┌
日本がどんなに軍事力を持っても、どんなに経済力を持っても
常に軽侮され風下に立たされるのは政治の不明さにあるのだお( ^ω^)
0017人間七七四年
2010/11/05(金) 18:46:30ID:plYf2RHY具体的にどんなこと?
0018人間七七四年
2010/11/06(土) 06:00:44ID:kO8lWvd+などのことを言いいたいのではないか。でも日本の軍事力はたいしたことはない。
0020人間七七四年
2010/11/06(土) 09:15:43ID:J8sq/yhGそういう部分は確かにあるけど百姓は日本の一面しか見ていないな。
0021人間七七四年
2010/11/06(土) 09:51:35ID:kLZZFUoz否めない。残念な人が天下を獲ると後世の人もつらい。
0022人間七七四年
2010/11/06(土) 11:06:37ID:qiJz1kGN0023人間七七四年
2010/11/06(土) 13:06:54ID:J8sq/yhG0024人間七七四年
2010/11/06(土) 17:39:29ID:UA6HemqF0025人間七七四年
2010/11/06(土) 21:16:19ID:jD+ReoJI言いにくいだろうけど、何の芸術でどいうことをやってるを明かさなければ何の役にも立たない
0026人間七七四年
2010/11/06(土) 21:21:16ID:J8sq/yhG0027仙台藩百姓
2010/11/07(日) 14:52:01ID:KLJ1SaXb>>21
確かに室町後期から桃山時代にかけて海外から様々な技法が入り日本の芸術界は飛躍し(江戸時代の芸術は殆どがこの流れを汲む)
幕末から明治にかけて再び欧州などから様々な技法が入り飛躍したおね
物事が成長するには刺激が必要だお( ^ω^)
>>22
別に幕府が鎖国したから浮世絵や歌舞伎が生まれたわけではあるまいお( ^ω^)
まして幕府は弾圧する事はあっても支援や奨励をする事はなかったし
徳川幕府は全く関係ないお( ^ω^)
0028人間七七四年
2010/11/07(日) 15:28:17ID:wK2xInfX別に低い次元じゃないからいいじゃん。
0029人間七七四年
2010/11/07(日) 18:53:53ID:Ki8BwTXS0030な
2010/11/07(日) 20:14:42ID:W9OywMk00031人間七七四年
2010/11/10(水) 12:55:19ID:Qq2IMC3l0032人間七七四年
2010/11/11(木) 17:29:22ID:SfrKXaQM0033人間七七四年
2010/11/11(木) 20:42:21ID:3Bgui4wR0034人間七七四年
2010/11/14(日) 14:36:14ID:46IhP63qただ、自家の存続と、従属に甘んじても心の底では決して独立自尊を志向する気持ちを決して捨てない
この二つの目的をただ生涯守り続けた結果、それが天下統一という形になったって印象を持った。
明確に天下統一を目指した信長。秀吉は漠然と自分の未来の途方もない大きな幸福を予感しながら生きていた感じ
この二人と違って、家康は行動の原動力が、幸福を目指すような気持ちがなく、ただ受け入れられない不幸や屈辱を避けるのが原点みたいな印象。
0035人間七七四年
2010/11/14(日) 21:10:46ID:2MjMhZOv0036人間七七四年
2010/11/14(日) 21:22:14ID:o8OpJteL0037人間七七四年
2010/11/14(日) 23:22:18ID:5TJtgSX9家康はその逆
0038人間七七四年
2010/11/15(月) 21:49:26ID:cVZlpbWa「府中御殿」遺構:「三葉葵紋」入り鬼瓦の破片、きょう公開 /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101103-00000008-mailo-l13
0041あ
2010/11/19(金) 05:17:03ID:k6fJl2Yq秀吉ひいきVS家康ひいきだったな
0042人間七七四年
2010/11/19(金) 14:11:20ID:qkz4IGYJ0043人間七七四年
2010/11/20(土) 02:46:36ID:n4KXD2rt0044あ
2010/11/20(土) 08:42:27ID:oC5yWlAbしかし熱い三つ巴対談があったら凄まじそうだ
もちろん酒飲みながらの対談で
0045人間七七四年
2010/11/20(土) 17:56:34ID:dfhopVE5遠藤周作は母方の祖先が竹井将監で、
秀吉の中国攻めで、加藤清正に一騎討ちで討たれていたり、
遠藤周作自身がキリシタンだとの理由から、
信長の才智は評価するけど、絶対に上司にはしたくないと言ってる本を読んだことある。
0046人間七七四年
2010/11/20(土) 18:22:15ID:SUQ+wyCUこれは命令だ
0047人間七七四年
2010/11/20(土) 18:29:52ID:dfhopVE5若い子らは小説くらいからしか入るとこないのにな
0049人間七七四年
2010/11/20(土) 18:48:50ID:SUQ+wyCU0050人間七七四年
2010/11/20(土) 18:53:52ID:dfhopVE5オマエ、ネットだからすむけど、
リアルでそれ言ってみろ
殴られて土下座するハメになるぞ(笑)
0051人間七七四年
2010/11/20(土) 18:58:55ID:SUQ+wyCU0052人間七七四年
2010/11/20(土) 19:39:50ID:OFtAUPND0053人間七七四年
2010/11/20(土) 19:42:55ID:Su8fwZWP0054人間七七四年
2010/11/20(土) 20:27:27ID:1FtMV9TP0055人間七七四年
2010/11/20(土) 23:51:57ID:96Xp5Z0E0056人間七七四年
2010/11/20(土) 23:52:54ID:Su8fwZWP0057人間七七四年
2010/11/20(土) 23:57:29ID:6cUVjI6i0058人間七七四年
2010/11/22(月) 12:40:00ID:WLe4zija何であの辺って宿泊費がべらぼうに高いんだろうな?
世界遺産だから殿様商売でもしてるのか?
0059人間七七四年
2010/11/22(月) 13:19:43ID:GMKBpuw10060あ
2010/11/22(月) 14:31:42ID:PzT3ofrh0061人間七七四年
2010/11/22(月) 16:39:19ID:GMKBpuw1それに対比させるという意味で東照宮は派手にしなければならなかった
0062人間七七四年
2010/11/22(月) 20:11:42ID:rF/mmvTK0063人間七七四年
2010/11/22(月) 21:12:18ID:XfOEbemP日暮しの門といわれたのは日光東照宮だけでなく、大名屋敷の門も結構派手だったらしい
0064人間七七四年
2010/11/22(月) 21:24:03ID:f8bmrdBu悲しくて傍らで泣いたぞ。
0065人間七七四年
2010/11/22(月) 21:31:29ID:O3iZohma0066人間七七四年
2010/11/22(月) 22:12:01ID:GMKBpuw10067仙台藩百姓
2010/11/23(火) 07:20:36ID:OhtI8o/Eやたら派手にゴテゴテ付けとけば喜ぶ庶民や外国人には持ってこいで
結果的にはよい観光地にはなったおね( ^ω^)
庶民的思考の徳川家ならではだお( ^ω^)
0068人間七七四年
2010/11/23(火) 10:43:36ID:XYw0bALT国立情報学研究所
0069人間七七四年
2010/11/23(火) 12:09:01ID:/Qn7piJt0070人間七七四年
2010/11/23(火) 18:24:31ID:uMpUpDra0071仙台藩百姓
2010/11/25(木) 12:40:07ID:rqg60Ddd旅行を楽しめない国を作ったのは徳川だお( ^ω^)
徳川幕府は海外に対してだけでなく国内に対しても移動の自由を奪ったお( ^ω^)
まあ、結局は閉鎖的な社会に嫌気がさして御蔭参りなどという形で民衆の不満が爆発し
幕府も弾圧する力を失っていた事もあって黙殺するようになっていったけど( ^ω^)
0072人間七七四年
2010/11/25(木) 12:55:30ID:DFhhTkTS仙台の仕事して初めて知ったwww
0073仙台藩百姓
2010/11/25(木) 15:08:14ID:rqg60Ddd話しの流れが全く掴めないお( ^ω^)…
0075人間七七四年
2010/11/25(木) 22:50:17ID:Z7LtvQ3Nそりゃ、ガス抜きの一つぐらいは作らないとね。
お伊勢参り一つとって、江戸時代は移動の自由があった、という気はあるまい。
0076人間七七四年
2010/11/26(金) 03:12:18ID:u+U7CTJo旅行を楽しめるような国を作ったというのは間違いじゃないってことだよな
0077仙台藩百姓
2010/11/26(金) 12:42:45ID:igglbOUsその伊勢参り(御蔭参り)こそが自由が無かった事の象徴なのだお( ^ω^)
遊びの旅行などは認められなかったから宗教行事に託けて旅行するしかなかったのだお( ^ω^)
しかもこれだけが一生唯一の楽しみだったという悲しさ┐ (´ω`) ┌
しかし幕府はそれすら禁止したけど結局無視されて続けられていただけだお( ^ω^)
>>76
徳川幕府は旅行すら楽しめない国を造ったのだお( ^ω^)
0078人間七七四年
2010/11/26(金) 18:21:29ID:kPvIccu20079人間七七四年
2010/11/26(金) 18:59:06ID:bLqKoJEk0080人間七七四年
2010/11/26(金) 21:30:39ID:kPvIccu20081人間七七四年
2010/11/26(金) 21:55:28ID:KMD6KxAfさて、今日は徳川家康受を布教するため俺オススメBASARA家康受ハイクオリティサイト集をプレゼントしちゃう!
つ俺サイトだぜ!http://hp.xxxxxxx.jp/yamadate/
ところで私は私は家康たんが
幼年期と肌のいちばん熟れた日本一えらい女帝時代を過ごしたS県に住んでるんですが
しかし某独眼竜県ほどたくさんの腐女子が来ちゃくれません
もっと来いやあ! おれは家康受がマイナーなんて信じねぇぜ…! (●0^)
ああともだち欲しい!!!
家 康 受 ツ ア ー や り ま せ ん か ! ? (こいつ必死だな…ドキッ!)
家康受けの同士の皆さんと巡りたいです!!!
もちろんゆかりの地では腐った話を交えつつ、そして密室でたっぷり濃密に語り合いませんか(笑)
家康たん受けの皆さーーん!お待ちしてます…!!
ぜひ!!!!
これが家康たんも愛したwwwww/(●0^)\フッジッサーン!
0082人間七七四年
2010/11/26(金) 23:38:42ID:Nmj9OiZN0083人間七七四年
2010/11/27(土) 07:36:57ID:IkOYPaGx旅行を楽しんでいる人がいたのに楽しめない国を作ったというのは無理な話だよ
それまで旅行を楽しめるような国だったわけじゃないんだし
0084人間七七四年
2010/11/27(土) 09:37:25ID:XIgrwfUq当時の日本以上に庶民が安全で快適に旅行を楽しめる国があったら教えてほしいくらいだ
0085人間七七四年
2010/11/27(土) 16:32:19ID:ihYuQLOl伊勢参りを行うような、ある程度の収入のある町人階級が
農業従事者が人口中絶対的多数を占めた近世封建社会で
「庶民」であるかどうかは微妙だし、
安全で快適だったかは比較資料が少なくて良く分からん
むしろ信者が江戸時代を美化しすぎてるだけだと個人的には思う
0086人間七七四年
2010/11/27(土) 19:47:32ID:MIMzUIJb0087人間七七四年
2010/11/27(土) 23:40:11ID:IkOYPaGx農民も伊勢参りしてたみたいだよ?
それと別に商業や軽工業やサービス業に従事しているような人たちが増えたのも
安定した国家運営が可能になったからじゃない?
0088人間七七四年
2010/11/28(日) 14:12:23ID:gYByXxss国が平和になったからあちこち旅できるようになったわけで
江戸幕府=平和は間違いない
0089人間七七四年
2010/11/28(日) 23:37:16ID:O7NwKhxL0090仙台藩百姓
2010/11/29(月) 07:56:03ID:J7NJ4Xtp幕府は弾圧する事はあっても楽しめるような法令を出した事などないお( ^ω^)
これは幕府の法令を破って民衆が実力で勝ち得た習慣であって
言うなれば民衆が作ったのだお( ^ω^)
それに江戸時代が特別治安良かったような事言う人いるけど
全時代を通しての犯罪率なんて分かっていないのに何を根拠にそんな事言っているのだお( ^ω^)
各地で頻繁に戦が行われていた戦国時代でさえ人々の往来が活発であった事を鑑みれば
いかにも胡散臭気な話しだと気付くはずだお( ^ω^)
0091人間七七四年
2010/11/29(月) 08:17:35ID:fNG3pPOwならそういう国を作ったことは否定しようがない
どんなに理屈をこねても事実は覆せない
0092人間七七四年
2010/11/29(月) 08:19:55ID:eaLnVBVl0093人間七七四年
2010/11/29(月) 08:57:31ID:BhrhkM75もし旅行ができないのだったら、民衆を惑わしたと言って発禁処分になってるだろ。
0094月孔雀
2010/11/29(月) 17:41:55ID:LJVYodoJ高度成長期の日本は、世界一治安のいい国といわれた。
安定期に入った現在の日本は、江戸時代に入った日本と似ている。
経済成長しない状況では、治安が悪くなるのではないかと思う。
0097人間七七四年
2010/11/30(火) 00:45:36ID:irlWUWux【岡崎市中心部地区】 ←現在の岡崎城周辺
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(統持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区】←岡崎市中心部地区より北に5キロ
・足利宗家の屋敷(足利尊氏の墓あり)
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に1キロ
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城 ←足利宗家の屋敷より北に3キロ
・仁木一族(幕府執事・伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城) ←足利宗家の屋敷より北に4キロ
【岡崎市南部地区】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
【豊田市中心部地区】
・中条一族(尾張守護)の屋敷と城(金谷城) ←源頼朝ゆかり高橋荘地頭、有力御家人 ←足利宗家屋敷より北に10キロ
【豊田市南部・安城市地区】
・上野一族(石見守護等)の屋敷と城(上野城) ←足利宗家の屋敷より西に3キロ
・斯波一族(管領家、奥州管領、北陸探題)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
【西尾市幡豆郡地区】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・一色一族(四職、九州探題、丹波守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に20キロ
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
0099人間七七四年
2010/11/30(火) 01:24:45ID:T/0KdxpB貧乏長屋の住人たちだって江戸時代では超勝ち組
彼らは一生に一度伊勢参りに行けたかもしれないが、
大多数の農民にとっては伊勢参りなど夢の話だった
0100人間七七四年
2010/11/30(火) 01:45:55ID:irlWUWux【岡崎市中心部地区】 ←現在の岡崎城周辺
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(統持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区】←岡崎市中心部地区より北に5キロ
・足利宗家の屋敷(足利尊氏の墓あり)
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に1キロ
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城 ←足利宗家の屋敷より北に3キロ
・仁木一族(幕府執事・伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城) ←足利宗家の屋敷より北に4キロ
【岡崎市南部地区】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
【豊田市中心部地区】
・中条一族(尾張守護)の屋敷と城(金谷城) ←源頼朝ゆかり高橋荘地頭、有力御家人 ←足利宗家屋敷より北に10キロ
【豊田市南部・安城市地区】
・上野一族(石見守護等)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より西に3キロ
・斯波一族(管領家、奥州管領、北陸探題)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
【西尾市幡豆郡地区】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・一色一族(四職、九州探題、丹波守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に20キロ
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
0101人間七七四年
2010/11/30(火) 01:47:52ID:a+FKvS2a0102人間七七四年
2010/11/30(火) 01:48:29ID:irlWUWux足利義満ゆかりの禅僧である、義堂周信の書いた「空華集」によると
「三河国碧海郡碧海荘は、管領家の斯波義将の墳墓の地である」と書いてある
墳墓の地とは、先祖の墓がある地、故郷とかの意味
要するに一般的に呼ばれる尾張足利氏とは、タダ尾張守に由来するだけで、尾張とは全く縁がなく
西三河人が西三河に住みながら、尾張守であったワケだな
初代斯波氏である斯波家氏は、父親から陸奥国紫波郡の地頭職を相伝する一方
祖父からは三河国碧海郡碧海荘の地頭職を相伝した
一族の本拠地は名前の由来である陸奥国紫波郡ではなく、西三河の三河国碧海郡碧海荘であった
0103人間七七四年
2010/11/30(火) 01:50:57ID:irlWUWux【足利一族】
仁木氏、上地氏(仁木氏流)、戸賀崎氏、荒川氏(戸賀崎氏流)、細川氏、上地氏(細川氏流)畠山氏、今川氏
斯波氏、一色氏、上野氏、石橋氏(斯波氏流)、石堂氏、関口氏(今川氏流)、入野氏(今川氏流)、木田氏(今川氏流)
東条吉良氏、西条吉良氏、渋川氏、桃井氏、岩松氏
【足利被官】
高氏、上杉氏、倉持氏、粟生氏、伊勢(藤原氏流)、板倉氏、大平氏(高階流)、大谷氏(坂上氏流)、小野田氏、和田氏
■仁木氏(三河国額田郡仁木)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義清→足利義実→仁木実国(初代仁木氏)
仁木義勝、仁木頼章、仁木義長、仁木頼勝、仁木頼直、仁木義有、仁木義基
■一色氏(三河国幡豆郡一色)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→一色公深(初代一色氏)
一色範氏、一色直氏、一色範光、一色頼行
■上野氏(三河国碧海郡上野)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→上野義弁(初代上野氏)
上野頼遠、上野頼兼
■石堂氏(不明)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→石堂頼茂(初代石堂氏)
石堂義房、石堂頼房
■細川氏(三河国額田郡細川)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義清→足利義実→細川義李(初代細川氏)
細川和氏、細川頼春、細川師氏、細川頼貞、細川顕氏、細川貞俊、細川政氏
■斯波氏
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)
斯波高経、斯波家兼
■今川氏(三河国幡豆郡今川)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→吉良長氏→今川国氏(初代今川氏)
今川範国、今川範氏、今川国満、今川頼基、今川頼貞、今川頼周
■吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞家、吉良貞経、吉良氏家、吉良貞義、吉良満義、吉良満貞、吉良尊義
0104人間七七四年
2010/11/30(火) 02:06:21ID:irlWUWux「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている、尾張土着は田舎臭く馬鹿なのはあたりまえ」
■尾張の歴史■
◆平安時代〜鎌倉時代◆
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)乗っ取られる
・以後荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する
*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼
◆鎌倉時代〜室町時代◆
・中条氏(本拠地は三河国高橋荘地頭職、尾張守護)
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡、尾張守)
*藤原李兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)
同時期に三河国居た親族(足利一門)
・吉良長氏(父親の兄、幡豆郡吉良)
・吉良義継(父親の弟、幡豆郡吉良)
・吉良満氏(吉良長氏の長男、従兄弟、斯波家氏の姉もしくは妹が室、幡豆郡吉良)
・今川国氏(吉良長氏の次男、従兄弟、幡豆郡今川)
・吉良経氏(吉良義継の長男、従兄弟、幡豆郡吉良)
・一色公深(弟、幡豆郡一色)
・上野義弁(弟、加茂郡上野)
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡、尾張守)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色)が支配する
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する
・附家老は成瀬家(三河国額田郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)
◆現代◆
トヨタのパシリとなる
0105人間七七四年
2010/11/30(火) 13:13:05ID:n+Hnq8Hg0106人間七七四年
2010/11/30(火) 13:49:58ID:nhTalgUH0107人間七七四年
2010/11/30(火) 15:38:26ID:3GQjSsjM0108仙台藩百姓
2010/11/30(火) 17:25:33ID:79Tgexef天下分け目の戦いは、女たちの心の中にこそあった
いつ果てることもない戦乱に翻弄され、愛する人を次々と失い、明日への希望を抱くことも叶わない戦国の世──。
乱世の苦しみを誰よりも味わいながら、太陽のような温かい愛で天下太平を願い、たくましく生き抜いた女性たち。
彼女たちの、たくさんの涙が、たくさんの頬笑みが、たくさんの愛が、次なる平和と繁栄の時代への礎となっていく──。
【チーフ・プロデューサー 屋敷 陽太郎】
田渕久美子さんの骨太な物語展開と、魅力的な登場人物たちの奥行きある人間ドラマは、まさに"愛"にあふれています。
その愛を豊かに表現していただくために、お一人お一人に激しい情熱をもって番組への参加を呼びかけました。
スタッフ一同、出演者の皆さんの演技に負けないよう、創造性に富んだ収録現場作りを目指します。
ぜひ、田渕ワールドを楽しみながら、視聴者の皆さんに深く共感していただけるドラマを一緒に作っていきましょう!
「テレビは愛」で、あり続けるために。
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