【徳川家総合】 徳川家康 公スレ その十一
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0001家臣団の話題も可です
2010/11/03(水) 23:52:31ID:r0D0CjOG重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
※下賎の者(百姓)は過疎時のみ構って当て馬にしましょう!
0714人間七七四年
2011/02/05(土) 09:21:35ID:5iPszsA/0715人間七七四年
2011/02/05(土) 09:43:18ID:85mZaDm+軍記は基本フィクション。
「関八州古戦録」が史実のみを編纂したものであれば、軍記物語
のジャンルに属する事はない。
0717人間七七四年
2011/02/05(土) 11:10:39ID:cPsh1zkw嫌がったのは地縁的結びつきを切り離されるマイナスを恐れた家臣のほう
0718人間七七四年
2011/02/05(土) 11:41:25ID:85mZaDm+愚直で阿呆になるのが間違いない処世術。
現代でも一緒でしょ。オーナー社長に逆らう奴の行く末は皆一緒。
嫌な事でも『ありがとうございます、大変嬉しいです』が基本。
0719人間七七四年
2011/02/05(土) 12:49:18ID:Cde0S0yIはいい質問だと思うけどやっぱり、御家存続、これしかないだろう。
徳川家が存続、しかも安定強力そういう状態であればいつかは
チャンスがくるかもしれない。
豊臣政権はあの時点でも磐石ではないし結果論ではなく
年下の家康自身にもチャンスはくるかもしれない。
そういう意味で関東開発に努力したのだろうし素直に
忠臣?を勤めていたのだろう。
秀吉の先見の明とかそういうのは結果論であり
現在にまで東京が繁栄してるのはやはり家康の努力に
よるものだろうし江戸に首都機能を持っていったのも家康。
それを、秀吉に与えられたものとか現在の繁栄から
判断するのはどうなんだろう。
別に家康オタクじゃないけどね。
0721人間七七四年
2011/02/05(土) 13:32:13ID:XQi7Ryz1関八州古戦録なんて関東の歴史研究では常連の史料を全否定とかスゲーなw
0722人間七七四年
2011/02/05(土) 16:06:12ID:Cde0S0yI聞いただけだが戦国の開始時期でも関東は少し先に
もってくるとか、城郭の分野でも独特の解釈してるとか。
林矢せんせもだが、幸運だったとかいうのは結果論だろうし
そういう観点で秀吉や家康を語るのにはちと疑問があるな。
あくまであの時点ではというのを明確にしたほうがいいとは
思うのだけど。
0723人間七七四年
2011/02/05(土) 16:46:38ID:XQi7Ryz10724人間七七四年
2011/02/05(土) 19:26:54ID:CI/AAp2pこのスレの住人たち(特に百姓)は上にあげた掲示板のS左衛門のレスを読んでよく勉強するべき。
0725人間七七四年
2011/02/05(土) 19:35:29ID:gNMCrLLlhttp://s1.shard.jp/rabbit1/0203/37/252.html
ウィキペディアでの年月日の表示に疑惑が判明した。
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/index.html )
0726人間七七四年
2011/02/05(土) 20:40:00ID:ql7X7rxvその軍記物語を根拠にした>>704だろ。
自分でも通説って言ってるし。
本当に発言したかどうかも分からない事を、持論の土台にするのはどうかと思う。
0727人間七七四年
2011/02/05(土) 21:32:39ID:Y33DfR+8足軽や平民よりも上の、武士や商人は付いて来たんじゃ無いの?
0728人間七七四年
2011/02/05(土) 22:33:58ID:eF4WydTB『関八州古戦録』については上で詳しく書いたから参考にしてね
つうか軍記が基本フィクションとか本気で言ってるの?
一級資料であるとされる『信長公記』や『川角太閤記』だって軍記なんだよ
ちゃんと史料読んでればそんな勘違いはしないと思うんだけど
>>726
自分には感情的に全否定したがってる人が居る、つうだけに見えるね
つうか出典『関八州古戦録』だけじゃないし
0729人間七七四年
2011/02/05(土) 22:52:36ID:eF4WydTB簡単に言うと、その転封に付いてこなかったような半士半農の人たちを省いて、
家臣団を専業の武士で構成することによって大名との主従関係を明確にしたこと
で、付いてきた家臣たちに一から新しく領地を与えるんだけど、
この時地縁(先祖代々そこに住んでたから今もそこが領地)みたいなものを考慮せず
その家臣個人の能力や功績、主君との関係を重視して割り当てすることで、
家臣団をより大名の動かしやすい組織にすることができたわけ
もちろんかなりの荒療治だから、実行する大名にもそれ相応の手腕が必要だけどね
0730人間七七四年
2011/02/05(土) 23:35:39ID:XQi7Ryz1大名権力の強化を図るって意味もあるな。
こういった動きは島津や毛利といった非転封組も石田等奉行の力を借りて
行ってるわけだが、転封組に比べると大変だったようだね。
0731人間七七四年
2011/02/06(日) 00:08:52ID:HemyzUKj外部から役員派遣するようなもんか。
0732人間七七四年
2011/02/06(日) 00:17:03ID:WO6CQZ+N本能寺で信長が死んだ時も、旧武田領に獲得に意欲を出すとか
織田家忠義の臣、河尻秀隆が討たれのも家康の責任
このバァカが一揆を扇動したから
信長にたいしてはビクビクしてたくせにせこい
ましてや家康も織田家臣だろ
上杉や北条が甲斐に進行したのは納得できる
0733人間七七四年
2011/02/06(日) 01:13:26ID:iFSZ0LpCこの流れって簡単にまとめるとどういう流れ?
0734人間七七四年
2011/02/06(日) 05:58:20ID:woP55kGG信長公記は二次史料だよ。
一級資料とか微妙に誤魔化すのはどうかと思うぞ。
大辞泉よい
ぐんき‐ものがたり【軍記物語】
中世文学で、戦争・合戦を主題として時代の展開を描いた叙事的物語。
0735人間七七四年
2011/02/06(日) 06:02:06ID:7Zxb8nysそういった再建の過程で地縁を考慮しないというのは
秀吉の検地、大名の意思によって移動増減が可能になったとか
そういったところとの関連はなにかある?
両者ほぼ同時期に似たような土地を根本に置く政策を実行していた
というのに後の家康政権安定への影響も感じられてちと
思うところがあって。
0736人間七七四年
2011/02/06(日) 10:56:00ID:vP5Lo9UT二次資料だけど信長の事績を研究するにあたって
不可欠な一次資料であることは事実だけど?>『信長公記』
何を誤魔化してるっつうの
大辞泉より
ぐん‐き【軍記】
1 戦争を題材として記述した書物。戦記。軍書。
2 「軍記物」「軍記物語」の略。
『信長公記』や『甲陽軍鑑』、そして『関八州古戦録』は1
『絵本太閤記』や『真田十勇士』なんかが2
2は史料的価値は存在しないが、1は一次資料との
比較検討を行った上でしばしば研究者にとって引用される
初学者にとっては微妙な違いだけど、覚えておいてね
0737人間七七四年
2011/02/06(日) 10:58:13ID:vP5Lo9UT訂正
不可欠な一次資料→不可欠な一級資料
『信長公記』の資料的価値については
藤本正行氏の『信長の戦争』の最初に詳しいから参照してね
0738人間七七四年
2011/02/06(日) 11:38:10ID:LDECD0zu秀頼が1613年にだした備中に関する知行宛行状が残っている。
他にも山城や近江に関しても同様の物が残っている。
今の通説では豊家は摂津・河内・和泉を領有する65万7000石の大名ってこと
になっているが、これは誤りじゃないのか。
0739人間七七四年
2011/02/06(日) 11:38:35ID:vP5Lo9UT関連性は大有りですね
何といっても中世の武士の経済基盤は土地に拠るところが多いかんね
「武士の地縁」と「検地」、そして「大名鉢植え政策」は相互に重要なキーワード
戦国大名がしばしば実施した検地によって、
大名は自分の支配地の定量的評価が可能になった
で織豊政権で一般的になり江戸時代でも
盛んに行われた大名鉢植え政策によって、家臣たちを
主君の意向に沿って配置することができたわけ
「大名権力が強くなる」→「その強化された大名権力を背景に家臣統制を図る」
→「更に大名権力が強化される」の繰り返しという感じ
で、大名権力が強力になればその分政権が安定するのも当然の理屈
江戸時代も後半、天宝十一年になって幕府は川越藩と庄内藩、長岡藩の
三方領知替えを行おうとして失敗してるけど、これなんか
家臣の転封も満足に出来ないくらい幕府の衰亡を象徴した出来事として有名
間違ったことは言ってないと思うけど、この辺りについて
詳しく書いた本は多いので、興味があるなら一度参照して欲しい
家康の場合、同じ関東の佐竹や里見のように
豊臣政権奉行(上記の例で言うなら石田や増田)が
担当することなく独自の裁量で
この検地を実行することができたわけで、
そういう点からも豊臣政権における「特別扱い」は読み取ることができます
0740人間七七四年
2011/02/06(日) 11:39:07ID:VsjAJd6u限りなく一次史料に近いという認識なんだがあってる?
これを二次とか軽んじられると織豊の専門家はなにも
できなくなりそだが。
0743人間七七四年
2011/02/06(日) 11:46:31ID:dX/dUMDO一次史料は書状や日記みたいにその当時リアルタイムで書かれた物。
後から書かれた物が二次史料というだけで、史料の信憑性とは関係無い。
信長公記は太田信定が当時のメモや聞いた事を元に後から書かれた物なので二次史料。
史料的価値の高い物は「一級史料」と呼ぶんであって、これには二次史料も含まれる。
0744人間七七四年
2011/02/06(日) 11:51:23ID:LDECD0zu>>742
無効なものなら今日まで保存しておく意味もないし、
通説なら幕府に疑われる元だから、幕府に提出するかするわな。
0745人間七七四年
2011/02/06(日) 11:52:20ID:VsjAJd6uふむふむ。
中世どころか通史での判断の根本に生産手段ー土地所有を
持ってくるのが普通だと思うけど、タテ割り専門の今の状態では
あまりそういうのを見かけなくて自分で個別に考えてる。
例えば鎌倉の前までは農具は木だったろうけど鎌倉あたりから
鉄になって、これで関東の固い土壌なんかも開拓しやすくなったとか。
遡ると卑弥呼の時代の鉄の話まで行ってしまうのだが、1400年省略して
信長がどうして他人の領土まで手を出すようになったのか、とか
秀吉の政権?というのが政権と呼べるようなものだったか
とか考えた場合に、秀吉は過渡期だったんだが、家康からは
安定した政権の基盤に完全に「地縁」みたいな中世的なものより
「経済政策」とも呼べるべき近世の感覚を感じるから
このあたり秀吉ー家康の比較とかをいろんな視点から
聞いてみたくてね。
どっかで太閤検地や刀狩みたいなのを過大評価しないほうがいいと言われて
これもよく考えてみないといけないとも思ったりして。
まとめて書いたから細かい点は勘弁ね。
0747人間七七四年
2011/02/06(日) 11:58:16ID:vP5Lo9UT飛び地のように直轄領、いわゆる蔵入地を持っていた
西軍武将の処分と東軍武将の加増転封で
それらが実質的に解体された関ヶ原の後も、
部分的に豊臣家のものとして残ってた、つうのは十分あり得る話
まあ何れにせよほんの微々たるものだとおもうけど
秀頼を「摂津・河内・和泉を領有する65万7000石の大名」と呼ぶのは
その領地の大部分が現在の大阪に集中していたからで、便宜的なものでしょ
豊臣政権の家康だって一般的には「関八州250万石を領有する大名」だけど、
実際は関東には佐竹のように徳川の指揮下にない大名も居たし、
その反面近江に2万石くらいを宛てがわれたりしてるわけで
0748人間七七四年
2011/02/06(日) 12:05:59ID:vP5Lo9UT太閤検地や刀狩の実情やその歴史的意義については
研究者によって様々だけど、まあ一般的には中学の教科書に載ってる通り、
中世封建制から近世封建制への転換点として評価されてます
脇田修先生なんかは秀吉の「経済政策」を高く評価し、
信長でも家康でもなく秀吉こそが近世封建制の完成者であると
認識してますね(『秀吉の経済感覚』より)
まあ研究者でも様々な意見はあるから、
比較検討してみると面白いかも知れませんね
0749人間七七四年
2011/02/06(日) 12:08:39ID:hHLzms/+>>704の史実性を問うてる以上、一級資料の話で誤魔化すな、という事だ。
一級資料は、史実性の軽重を意味する史料ではない。
軍記の意味を取り間違えてるとしか思えないんですけど。
>1 戦争を題材として記述した書物。戦記。軍書。
>2 「軍記物」「軍記物語」の略。
どう読んでも、1と2は並列じゃない。
1は広義の意味、2は狭義の意味を省略したもの、だ。
寧ろ細かく言えば、軍記物と軍記物語がイコールじゃない。
信長公記も甲陽軍艦も軍記物だ。
真田十勇士なんか、軍記じゃないだろ。立川の文庫本じゃないか。
いずれにせよ、>>704の根拠は史実性の疑わしいものであり、
(自分でも通説と言ってる)それを正当化するのは無理。
これ以上関係ない話に振り回すのは勘弁して欲しい。
0750人間七七四年
2011/02/06(日) 12:19:45ID:dX/dUMDO> 一級資料は、史実性の軽重を意味する史料ではない。
おかしな日本語だけど、「一級史料」ってーのは史料としての信憑性を意味する物だよ。
確かに「真田十勇士」は軍記物語じゃないな。「絵本太閤記」も違う。
ただ「関八州古戦録」も軍記物語じゃないぞ。
0751人間七七四年
2011/02/06(日) 12:23:50ID:vP5Lo9UT秀吉が家康に>>704に書かれてるように語った、
つうのは確実な一次資料に見られない事柄だが
(そもそも性質的に一次資料に残るようなものではない)、
最初から書いてるようにそこは自分の主張したいポイントじゃない
「江戸に首府を開くよう家康に命令したのは秀吉」であり
「>>704で書いたように江戸が小田原と比べて地政学的に優位な点が多い」
つうのは紛れもない事実
「これ以上関係ない話に振り回すのは勘弁して欲しい」
なんてまるで自分の書き込みかと思ったよw
一次資料以外は話にならないとか軍記が完全なフィクションとか
どこで聞きかじったかしらん半可通に困惑してる、
つうのがこちらの正直な感想なんだけど
頼むからちょっとは勉強してから書き込みして欲しい
0752人間七七四年
2011/02/06(日) 12:42:58ID:4BW7zbkW0753人間七七四年
2011/02/06(日) 12:50:48ID:VsjAJd6u脇田先生は学術的すぎるというか秀吉の場合は
経済感覚というか「お金の力はすごい&こわい」ってのを
よく知ってたという庶民の延長線上に感じたりもします。
人を動かすとかそういう組織の運営上というか。
経済政策というとなんというのだろうもっと社会の安定を
図るとか巨視的なものだろうけど、秀吉は近視眼ちゅうか
目先の欲望重視で考えてて、今で言うデフレ状態みたいな時には
どう対応したか興味あったりします。
家康は逆に欲望を先に出すと危険だ、みたいな秀吉を反面教師
にしたような組織を作ろうとしてたような。
これは江戸の治安の良さからも思うのですよね。
0754人間七七四年
2011/02/06(日) 12:53:53ID:vP5Lo9UT適当なこと言って突っ込まれてるのは>>749の方
「軍記」の定義については>>736で問題ない
「一級資料」という用語に違和感を覚えるなら「第一級の資料」とでも言い換えれば良い
「軍記」と「軍記物」、「軍記物語」の区分については
一般にしばしば混同され、研究者の間でも合戦を主題にした編纂資料を
その何れに該当させるか定見が見られないという点で、
文学評論の分野における「推理小説」と「ミステリー」の関係に近いと言える
ただそういうジャンル分け云々の前に、
『関八州古戦録』が第一級の資料ではないにせよ
フィクションとして切り捨てられる性質の資料ではないということは間違いない事実
この人はそこに反論できないから不毛なジャンル分けで絡んできてるのだと思う
0755人間七七四年
2011/02/06(日) 13:07:06ID:4BW7zbkWこれ以上絡まれたくないので、サイナラ
0756人間七七四年
2011/02/06(日) 13:22:09ID:vP5Lo9UTそりゃ秀吉は比較的低い階層の出身ですから、
「お金の力はすごい&こわい」つう庶民感覚を
十二分に身につけていたというのは否定出来ないでしょうね
まあ単に普通の庶民感覚を持ち合わせていただけの人間が
「関所を廃止することで物流を活発にする」
「金山銀山を直轄領化し、貨幣の鋳造権(秀吉のときはまだ過渡期だったが)を握る」
「座を廃止もしくはその権益を制限することで経済の活性化を図る」
「配下の大名や御用商人に海外貿易の認可を与え、巨額の富を獲得する」
「東国の安い米を畿内に持ってきて高く売り捌き、そのために港湾を整備する」
「千利休や本阿弥光悦のような文化人とつるんで茶器や日本刀の価値を釣り上げる」
という風な巨視的な経済政策をとれたとは自分には思えません
これらの政策の数々はまんま家康にも踏襲されてます
家康が「逆に欲望を先に出すと危険だ」つうことを秀吉から反面教師的に学んだ、
ってのは確か堺屋太一氏も同様のことを仰ってましたね
けどそれって対外戦争を繰り返し勢力圏(「経済圏」と言い換えてもいい)を
膨張し続けるという戦国時代的価値観を否定しただけであって、
主要な経済統制では上でも述べましたけど家康のそれは秀吉のものとほぼ同じです
戦争が経済政策の表れの一つである以上、無視できない要素ではありますが
>>755
( ^ω^)
0757人間七七四年
2011/02/06(日) 14:15:58ID:VsjAJd6uぇ、堺屋そんなこと言ってたの?困ったな・・
脇田先生の本を読んだ時に思ったのが、決して揶揄するわけではないけど
秀吉って全部自分がいい思いするためにしたんじゃないかな、みたいに
思ったわけですよ。
学問的に解釈するとそうなるのかもしれないけど、脇田先生はかえって
下世話的な発想をされるような方じゃないでしょう。
少なくとも天下人秀吉の経済政策というよりは、「ウハウハだがや」じゃないかなってね。
つまりやってることは、にゃ古屋人のケチ感覚だでかんわ、とか。
秀吉ファン?の方には怒られそうだけどこれは、でらホメ言葉、ってことで
自分は秀吉を高く評価してる。
ただ、あんまり持ち上げられると少しこそばゆいというかね。
0758人間七七四年
2011/02/06(日) 18:29:21ID:8Ve823Sf一次資料だからって必ずしも信憑性が高いとも断言はできない
0759人間七七四年
2011/02/07(月) 00:18:15ID:rFBirO4x元々の話は『秀吉の、家康に対する恩が成立するか』という話だったわけで。
で、長々と続いてる話は『軍記物の信憑性』。まぁ、大きく変質してる。
何の事はない。>>704で終わってるわな。
軍記物の信憑性をいかに説いたところで、>>704の秀吉発言の証明には繋がらん。
本論である『秀吉の恩、先見性』の論拠にはなってないって事だよ。
0760人間七七四年
2011/02/07(月) 08:33:46ID:jNJB8qpQ0761仙台藩百姓
2011/02/07(月) 08:55:05ID:eNsqKkdk「恩は成立する」に決まっているじゃんお( ^ω^)
武家は「所領安堵」をして貰う事で主君に「奉公」するのだお( ^ω^)
朝廷が認める国に住む限り勝手に領有して良い土地など一寸たりとも有り得ないのだお
だから天皇に許可を貰う事になり、実際には天皇の代理人(時の権力者)によって決定されるお( ^ω^)
鎌倉時代以降武家の所領安堵は直接の主に委ねられていたお
つまり家康は秀吉の臣下となり所領を安堵してもらった事で「御恩」を受け「奉公」の義務が生じたのだお( ^ω^)
所領の加増だの金品の下賜などは「褒美」であって別の事だお
新恩ともいうように基本の御恩に重ねて与えられると言う事だお( ^ω^)
家康などは所領安堵の御恩に加えて所領の加増や官位の昇進など多重の御恩を受けていたお( ^ω^)
0762人間七七四年
2011/02/07(月) 11:39:09ID:MkbolWU5仙台藩百姓氏へ
http://mitubaaoi.bbs.fc2.com/
上記掲示板にいるS左衛門氏と議論してみてください。
0764人間七七四年
2011/02/07(月) 17:58:00ID:F+26zGcd0765人間七七四年
2011/02/07(月) 19:13:47ID:ml9xzlmn>>761のような御恩と奉公の基本原則はどの大名も同じだが、とりわけ徳川家は
豊臣公儀から100万石の加増を受けてんだぜ。
100万石といえばそれだけで大大名の所領だ。
徳川家が恩に感じるかどうかなんて関係ないよ。
客観的にそれが利になっているかどうかだ。害より利が大きければどう考えても
「恩」 だから徳川家は豊臣恩顧の大名。
0766人間七七四年
2011/02/07(月) 19:47:00ID:zqhabvYg0768人間七七四年
2011/02/07(月) 19:57:35ID:ml9xzlmn基本的に所領の加増を受けている者、滅亡寸前なのを豊家の力で
保護された大名(たとえば大友家とか)は豊臣恩顧でいいだろ。
0769人間七七四年
2011/02/07(月) 19:57:56ID:yGIcGYVU秀吉が豪放磊落なオッサンつうイメージは、
秀吉自身が聚楽第の金配りや北野大茶湯などの
大衆の度肝を抜くパフォーマンスでアピールしていたもの
ですから秀吉をウハウハおじさんと捉えるのは当たらずとも遠からずかもしれませんね
ただそういうパフォーマンスを実行するために
何処からともなく金を捻出してきたのが秀吉の才覚なわけで、
秀吉は紛れもなく当時としては突出した経済感覚の持ち主だったと思いますよ
自分的にはむしろ家康の方が気になりますね
黎明期の徳川幕府の経済政策は豊臣政権の模倣もしくは延長線上にあるもので、
家康個人の創意工夫みたいなものが見えないように思います
また、家康が大久保長安みたいな吏僚を軽蔑してたなんて逸話も伝わってます
儒教的観念に凝り固まった小瀬甫庵が『太閤記』で秀吉の金融政策を批判したように、
若年の頃から古典的教養を身につけてきた家康にとって、
金を転がすことで更に金を産む近代的な経済システムは
胡散臭いものに見えてたんじゃないですかね
>>759
>元々の話は『秀吉の、家康に対する恩が成立するか』という話だったわけで。
ま、ぶっちゃけその「本論」とやらももう終わってるんだけどね
後は感情的にならずにどれだけ客観的事実を見つめることが出来るか、ってだけの話
0770人間七七四年
2011/02/07(月) 20:11:38ID:9M4CMt92「あなたのためだから」って言われて、うれしいと思うか、だわな。
がんばって儲けたら、「社長のおかげだぞ、恩だろ」ってか。
0771人間七七四年
2011/02/07(月) 20:26:32ID:9M4CMt92秀吉の場合は儲けた金を独り占めせずにバラまく、これが人心把握にもなるでしょうし
高度成長にもつながる、部分的には素晴らしいことなんですよね。
ただあくまで秀吉個人の能力であって、その死後にシステムとして継続できるかは
また別問題。
家康の場合は、システムとして成立、させたわけで、秀吉のやり方を踏襲したとしても
やはり同列に論ずるのはちと抵抗がある。
もっとも、家康の経済システム、というのも不明確だし
経済面の評価判断と言うのは、歴史の方にできるものなのかどうか。
恩の話でもそうだけど、一般社会での苦労や経験のない学者の方に
理論で「あれは恩である」と言われても説得力に欠けるし
だからこそ、そういう理論や史料主義にこだわって
本心とか心中は、ばかげた話とか検証不能とかごまかしてるようにも感じる。
自分はどうでもいいのだけどね。
秀吉も家康も偉くて、庶民には理解できない、ってとこで。
0772人間七七四年
2011/02/07(月) 20:50:55ID:/7pdmbOx0773人間七七四年
2011/02/07(月) 21:25:52ID:TTesI7JD力が強大だから臣従はするけどねー。みたいな。
当時の武将が旧領にこだわったりしたわけだから、父祖伝来の地を失ってるし
普通に加増転封だーわーいわーいって話でもなかっただろうし、
箱根以東に置かれて、東海道を直臣で固められた段階で、自分が警戒されてるのは
家康自身わかっただろうし。
警戒されてる以上、主従の信頼なんてものはできないから表面上の臣従だろうしねぇ。
0774人間七七四年
2011/02/07(月) 23:10:16ID:ml9xzlmn改易しなかったのはやっぱ秀吉のあまさなんだよなあ
0775人間七七四年
2011/02/07(月) 23:15:20ID:zqhabvYg0777人間七七四年
2011/02/08(火) 00:07:46ID:89GrgXMc戦っても家康に勝ち目はない。
当時の徳川家と豊家にどれだけの力の差があると思ってるんだ?
家康が滅ぼされるだけ
0778人間七七四年
2011/02/08(火) 00:10:54ID:V13AflPi0781人間七七四年
2011/02/08(火) 10:26:06ID:FqKyhb4Bこないだからゲームの話になってないか。いいけど。
0782人間七七四年
2011/02/08(火) 10:53:36ID:kOZSilbsそこらじゅうで謀反起きるんじゃ無いか?
0783人間七七四年
2011/02/08(火) 11:11:00ID:63rHacyl0784人間七七四年
2011/02/08(火) 13:00:29ID:JpzAmOjC0785人間七七四年
2011/02/08(火) 13:54:31ID:Em0yHA2M何でだろう(′・_・`)?
0786人間七七四年
2011/02/08(火) 13:56:30ID:bil5tu6Y0787人間七七四年
2011/02/08(火) 14:04:26ID:63rHacyl法律違反による改易転封でも説明会は開いて大藩には釈明?してる
本多正純も「やたらに処罰してると信用なくなって滅んじゃうぞ」と書状に書いてた
明確な基準による処罰なら受け入れられるさ
問題は「邪魔だから潰しちゃおう!」的な恣意的な運用
0789人間七七四年
2011/02/08(火) 17:07:43ID:X9e6iG0zアフターケアを欠かさなかったから
0790人間七七四年
2011/02/08(火) 21:11:39ID:89GrgXMc当時の関白殿下に逆らうって事は即朝敵になるってことだからな。
家康配下がはたして家康に従うかどうかだな?
仮に従っても国力の差からいっていずれジリ貧になり滅亡。一族郎党皆殺しがオチだよ。
0792人間七七四年
2011/02/08(火) 21:33:55ID:IwIqV8L20795人間七七四年
2011/02/08(火) 22:33:27ID:89GrgXMcあ、いいのがあるぞ
大政所を焼き殺そうとした件もあったな。
0796人間七七四年
2011/02/08(火) 22:38:28ID:YXEJu+Yb豊臣政権最大の功臣/無類の律義者/秀吉の妹婿/海道一の弓取り
だかんね
こんな人間を難癖付けて殺しちゃうよりも、
部下として仕事してもらうほうが何倍も賢い
ifを言うなら家康が秀吉より先に寿命で死ねば良かったんじゃね
0797人間七七四年
2011/02/08(火) 22:41:04ID:ifOgRO4h前田とか毛利とか上杉とかも改易しちゃえばよかったのにって話にはならんのかね?
うちらは後の歴史知ってるからそう言えるけど当時の状況で家康ってそんなに
怪しい行動でも取ってたの?内心はどうであれ律儀者で通ってた様な気が。
そんな人を理不尽な理由で改易しようとなんてしたら他の大名から総スカンじゃね?
自分の領地を保障してくれるからこそ従っているわけでそれがいつ身勝手な理由で
奪われるか分からんってなったら誰も従わなくなると思うぞ。豊臣政権って
大大名の寄り合いだからそっぽ向かれたらあっという間にお終いでしょ。
0798人間七七四年
2011/02/08(火) 22:44:25ID:4GFhqC4T0799人間七七四年
2011/02/08(火) 22:51:33ID:08mecAxq0800人間七七四年
2011/02/08(火) 22:55:29ID:JpzAmOjC0801人間七七四年
2011/02/09(水) 05:14:37ID:iFlgKpA50802人間七七四年
2011/02/09(水) 08:54:40ID:zS56ph4I結局自分で首絞めたわけだ
近江八幡で名君って言われてる秀次だしそこそこ良かったろうに
0804人間七七四年
2011/02/09(水) 09:27:21ID:3MAo4LLt大器晩成型の典型だろうな。
出世は一番遅いがなってしまえば一番慕われて
さらに一番出世するという。
ダメおやじもそうだったな・・
0805人間七七四年
2011/02/09(水) 19:27:23ID:SWYX7WT60806人間七七四年
2011/02/09(水) 19:28:27ID:PPxZACrRあれは本多重次独断の脅しじゃね
逆にそこには井伊直政が厚遇したおかげで秀吉から感謝されたという話があるぐらい
なにか外に用事があっても重次じゃなくて直政を通したってぐらい気に入られてた
0807人間七七四年
2011/02/09(水) 19:35:03ID:PPxZACrR家康が命を賭けて秀吉と対決しようとしたら
心底臣従して無いであろう各地の武将に共闘を呼びかけるはず
まさに家康の徳川陣営vs“秀吉の”豊臣陣営という形で
関が原どころじゃない再度全国戦乱の世になったんではないかと
勝算が0ではない、うまくいったら今より領土を広げられると思えば
家康に共感する大名はいないとは思えない
でも秀吉もバカじゃない、せっかく苦労してまとめた日本なのに
なんでわざわざ徳川を煽って潰さなきゃならんのかと
>>797
律儀は置いといても
妹を嫁に出してるし、秀頼と千姫を婚約させちゃってるし
ある意味身内的な関係にしちゃってるから改易する理由を見つけるのは困難じゃないかね
それどころかそれをすることによって手元に徳川を引き寄せたと思ってる節が秀吉にあるしね
0808人間七七四年
2011/02/09(水) 20:00:14ID:sc7Tj8Fs当時の関白殿下に逆らうってのは朝廷に弓引く逆賊って事だからな。
関白ってのは征夷大将軍と違って、自身が天皇の代理人だからそうなる。
家康に同調した時点で他領の領主から攻められるし、狂っている奴でも
なければ家康側に付くやつなどおらんだろ。
それどころか、家康配下の武将が離反する可能性は高いぞ。
0809人間七七四年
2011/02/09(水) 20:21:51ID:1MEaAPgnほぉ
それだと秀頼が孤立したのはいったいどういうわけで?
またそれまでの関白の存在感のなさはいったいどういうこと?
0810人間七七四年
2011/02/09(水) 20:38:08ID:Ef39/SL9北条攻めは北条が服従しないどろこか、秀吉傘下の大名に手を出したのが発端だろ?
すでに臣従してる家康には当てはまらないと思う
0811人間七七四年
2011/02/09(水) 21:03:49ID:D5KGtWh8>心底臣従して無いであろう各地の武将に共闘を呼びかけるはず
>まさに家康の徳川陣営vs“秀吉の”豊臣陣営という形で
>関が原どころじゃない再度全国戦乱の世になったんではないかと
まさしく小田原征伐の後北条氏がそういうこと考えてたんじゃないかな
東北に惣無事令ガン無視の伊達政宗、
中部に秀吉に臣従して間もない後北条の縁戚徳川家康、
尾張伊勢に嘗ての部下である秀吉に屈服して心中穏やかならぬ織田信雄、
西国には毛利島津長曽我部といった戦国の群雄たち
そいつらが揃って秀吉の元に馳せ参じて戦国最後の稼ぎ場とばかりに
後北条をボコボコにしたのが現実なわけ
事実『改正三河後風土記』といった資料には小田原攻囲中の諸侯に
積極的に後北条が調略を仕掛けてたという記事が見える
ま、誰も相手にしなかったみたいだけど
0812人間七七四年
2011/02/09(水) 22:16:14ID:PPxZACrR「家の格」というより「家の実力」か
あの時代でもまだ関東は田舎扱いだったというし
それと北条はともに戦ってくれそうなほどの信頼関係は他にあったのかな
もちろんそれなりの力のある大名家と
ただ話はまたこの話に戻るが
秀吉は小牧・長久手の局地敗戦ででも家康の力をかなり認めたというのは事実
だからこそ露骨な懐柔に出たわけだし、
家康も力を示せたことを納得したから一応建前では臣下となったようだし
秀吉の政権の下では何があっても豊臣vs徳川は無かっただろうね
他家もこういうのは敏感に感じ取ったのは間違いなく
だからこそ親徳川派もでてきたということで
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