戦国ちょっといい話23
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0001人間七七四年
2010/10/29(金) 00:03:37ID:9aBb5P9U戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話22
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284210262/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0003人間七七四年
2010/10/29(金) 01:34:22ID:OMnADYof《 ヾ⌒ソ /
. {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ >>1乙でがんす。一緒に笹カマ食うでがんす。
(:::::::::::::::つ⊂⊃
しωJ
0004人間七七四年
2010/10/29(金) 13:05:09ID:Z3/CjueD0005人間七七四年
2010/10/29(金) 15:09:53ID:6mqkX370∧ ∧ (ハハ)
( ´・ω・) (ヮl` )
( つ旦O O旦⊂ヽ
と__)__) 旦 旦 旦 旦 旦 旦 (_(_つ
濃茶 薄茶 玉露 煎茶 番茶 出涸し 日当山一のちゃのみ
;; コポ
旦 旦 旦 旦 旦 コポ 旦 旦 旦 旦
生茶 雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン お〜いお茶 髭茶 八女茶 狭山茶
旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦 旦
緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯 ミユキのお手製太陽バクバク茶
0006人間七七四年
2010/10/29(金) 18:00:47ID:4QJyzaynその頃、京では夜、西洞院通より怪鳥が飛び来たり、禁裏の殿上にとどまり光を放つ、という
怪異があった。主上はじめ禁裏の人々これに大いに驚き賜い、数夜にわたってこれが続いたため
ついに公卿達によって詮議が行われた。
「上古、源三位頼政が鵺を射たためしがある。この度も武家に命じて射さしむべし。」
すぐに将軍家へと勅使が立った。
その頃京に参勤し将軍家に将軍家に仕えていた者の中に、讃岐の住人、三谷弥七景春があった。
彼は当時、射手として類なき精兵と知られており、将軍家は彼を派遣することとした。
彼は参内し殿上の床に上って、怪鳥の来る時刻を待った。
しばらくすると怪鳥飛び来たり、禁裏の上まで来るとまばゆい光を発する。
三谷弥七景春心中に神明の擁護を祈り、これに、射る。
射応えあり。
矢は誤たず当たり、怪鳥は地面へと落ちた。
三谷景春はこれを確認しようと階を下らんとしたところ、段を踏み外し下まで落下してしまった。
それを見た公卿が
「そなたは怪鳥を射落とす程の者、心遅れるようなことはないだろうに、
今階段から落ちたのはどういう事か?」
と尋ねると景春
「不詳の身の私が参内をいたしただけでなく、階上にまで登りました。
その事を恐れたゆえに計らずも落下してしまったのです。」
そう答えた。
この事は帝の叡聞に達し帝感美ましまし、昔の頼政が官位であると、三谷弥七景春を
兵庫頭になし賜い、これより兵庫頭と弥七が、三谷家の通名となったそうである。
三谷氏に伝わる、通名についての伝承である。
0008人間七七四年
2010/10/29(金) 20:50:06ID:auyGLiEU0009人間七七四年
2010/10/29(金) 20:53:49ID:8ZNC1BDz0010人間七七四年
2010/10/29(金) 21:22:32ID:9aBb5P9U天明元年(1781)、姫路城主の酒井雅楽頭(忠以)は将軍の命により上京することとなった。
ところでその頃、忠以は狆を大変に愛玩して数匹を飼い、その中でも特に気に入った一匹に
いたっては、どこに行くにも連れて回っていた。であったが今回の上京は将軍の命による
公の重き御用であるため連れては行けぬと、江戸の屋敷に置いていくこととした。
ところが出立の日、この狆が駕籠の廻りを離れず、隙あらば主人の居る中に入ろうとする。
近習の者達駕籠に入れてはならぬとこれを防いだが、あるいは吠えあるいは噛み付き、
なかなか手に余る抵抗を示した。
困った忠以は
「とにかく品川の駅まで連れていこう。品川から返してしまおう。」として、
品川に着くとそこから返そうと色々と手を尽くしたが、先と同じく狆は頑強な抵抗を示し、
如何ともしがたく返すのを諦め、ついに上方まで連れていった。
さてさて忠以が京に着くと既に彼の狆のことは話題になっており、帝の叡聞にまで達した。
そして
「畜類ながらその主人の跡を追う心の哀れなり」
とて、六位を賜ったのだとか。
これを聞いて、いたずら事を好む殿上人の口ずさみだろうか、あるいは京童が言ったことだろうか、
こんな狂歌が出回ったそうだ
『くらいつく 犬ぞとかねてしるならば みな世の人の うやまわんわん』
右は根拠のない話ではあるが、当時所々で取りざたされていたので、ここに記す。
『耳袋』より
0011人間七七四年
2010/10/29(金) 22:17:14ID:aqMSiu1f明、朝鮮連合(およそ15万)に対して総攻撃を行うことにした日本
その先陣を任された立花宗茂、高橋直次
その先陣を率いるは
小野和泉
立花三左衛門
以下八百余人
中陣を率いるは
十時伝右衛門
内田忠兵衛
以下五百余人
後陣を率いるは
立花宗茂
高橋直次
以下千八百余人
中陣の十時伝右衛門、内田忠兵衛が
先陣を訪れ小野和泉に対して先陣を譲るように言う
小野和泉は軍法を破るだけじゃなく我を侮辱するつもりかと激怒
対する十時伝右衛門、
「そうではない、我々は老年で思い残すことはなにもない、貴殿らは今からの
人物だその勇気も智略も立花家には得がたい人物だからと先陣をお譲りくださいと説得」
真意を知った小野和泉は殿にお訊ね致しましょうと判断を求め
宗茂「それも一理だ」といい先陣と中陣を入れ替える
その結果明軍の先陣二万を退却させるも十時伝右衛門は毒矢により戦死してしまう
立花家の未来の為散った武将のいい話
既出だったらスマソ
0012人間七七四年
2010/10/29(金) 22:32:03ID:XD/8lSBN0013人間七七四年
2010/10/29(金) 22:33:36ID:ocerXQx/0016人間七七四年
2010/10/29(金) 22:48:15ID:nLAY8ySo,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
/;;ィ''"´ _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
`i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´ 人間無骨を持て・・・・・・
r'ニヽ, ( ・ソ,; (、・') i'
ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j ヾ~`''ヾ. 久しぶりに・・・・・・
ヽ) , : ''" `ー''^ヘ i!
ll`7´ _,r''二ニヽ. l キレちまったよ・・・・・・
!::: ^''"''ー-=゙ゝ リ
l;::: ヾ゙゙`^''フ /
人、 `゙’゙::. イ
0017人間七七四年
2010/10/29(金) 22:52:27ID:iN89yCj5義光と光安の顔文字ネタ、いい加減同一人物なんだろけどしつこくてキモくて勘弁して欲しい。
まとめブログのコメントまで顔文字でかなりげんなりした。
どうして最上オタってキモイ創作とか同じネタばっか使って受け狙おうとすんの?
そういう狙いがなきゃ最上結構好きだけど、最近の流れキモいわ…
0018人間七七四年
2010/10/30(土) 01:15:18ID:tvni0t9O比叡山に登ったことがあった。
そこで新右衛門、一休に向かいこんな事を言った
「『比叡の山路を拾ひ往くかな』、さて、この上をお付けください。」
これを聞くと一休、直ぐに
『さし解けて 麓に四貫の銭ばらり』
新右衛門、一休の機知に甚だ感服したそうである。
そんな一休頓知話の一つ。
0019人間七七四年
2010/10/30(土) 07:05:26ID:lcws2BBOhttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
こっちに書いて
0021人間七七四年
2010/10/30(土) 12:46:44ID:HZc4wF7N0022人間七七四年
2010/10/30(土) 12:50:14ID:+klLx9iA0023人間七七四年
2010/10/30(土) 13:24:13ID:zOe3pwM6思われがちだけど、大徳寺の住持になったのは応仁の乱後だったりするし、
戦国期の人物とも言えるんだよなぁ。もっとも、蜷川新右衛門が
亡くなったのが応仁の乱以前なので、このエピソードも応仁の乱
以前ってことになるけど。
0024人間七七四年
2010/10/30(土) 13:34:27ID:ZRFq1T4B0025人間七七四年
2010/10/30(土) 14:15:19ID:dZrgSghkある時いたずら者が一休のところへ、その手に雀を握って現れた。
一休の前に手を突きだし、言う
「和尚さん、この手の中の雀は生きていますか?それとも死んでいますか?」
いたずら者、一休が「生きている」と言えばその場で握りつぶし、
「死んでいる」と言えば逃がしてやろう、そんなふうに思っていたのだ。
「さあ、どうですか!?」
このいたずら者に一休、ただ一言
「無」
いたずら者はその場から逃げ帰ってしまったそうである。
0026人間七七四年
2010/10/30(土) 14:24:17ID:bXCzxG/3一休の前に箱を突きだし、言う
「和尚さん、この箱の中の猫は生きていますか?それとも死んでいますか?」
シュレディンガー、箱の中に確率的にしか予想できない毒ガス噴射装置をしかけていて、
猫の生死が半々な状態をつくっていたのだ。
「さあ、どうですか!?」
このシュレディンガーに一休、ただ一言
「無」
シュレディンガーは「なるほど、東洋には真偽のほかに無という概念があるのか」
といたく感心したという。
0027人間七七四年
2010/10/30(土) 15:31:32ID:hP8WM5VS水の中には今上っている月がうつっている。
そして水の中の月は秀忠が手を入れると二つに分かれた。
それを見た秀忠は
「今まさに天下は割れようとしている。
それを割れないようにするのは自分次第のことであるが
世にも心憂いものは天下取りの身の上である。」
と言って涙を流した。
秀忠が次男徳川忠長を甲府に押し込めたのはそれから間もなくのことであった。
0028人間七七四年
2010/10/30(土) 15:43:11ID:lcws2BBO天下と家のために愛情を断ち切ったのね。
現代だと「一国の総理が人前で泣くなんて政治家失格」みたいに言われそうだが
武士の時代の感覚は全然違うだろうね。
0029人間七七四年
2010/10/30(土) 16:05:08ID:Fi+9S3VH0030人間七七四年
2010/10/30(土) 17:57:01ID:qzuP0Gjyなかったような。
明治になってからかな?
0031人間七七四年
2010/10/30(土) 18:02:13ID:dZrgSghk江戸歌舞伎とかでも結構ワンワン泣いてるしね。
男が泣くな、という考えはそれまでもあったにせよ、社会通念のようになったのは
明治以降だろうね。
0032人間七七四年
2010/10/30(土) 18:07:33ID:lcws2BBO・怖いから泣く
・ひもじくて泣く
・痛いから泣く
・ケンカに負けて泣く
・女に袖にされて泣く
こういうのは当時でも駄目な泣き方だろう。
最後の泣き方は平安貴族なら情け深いとか言われたのかもしれないが。
0033人間七七四年
2010/10/30(土) 18:51:43ID:FEgxYnqvそういうので泣かないと冷たい〜ってなったんじゃないかな。
泣くのが駄目、なのは明治以降西洋の価値観画はいってからだろうな。
最上義光とか部下の悲恋話に号泣しまくってウワァァンとか美談ぽく残っているくらいだし。
0034人間七七四年
2010/10/30(土) 20:53:26ID:JZd3PdUK俺の話は無視しやがったくせに
0035泣くな渡右衛門 1/2
2010/10/30(土) 22:12:17ID:sK6KKi5p「!そうか、親父殿が・・・・・・」
真田家江戸家老の要職を務める渡右衛門の父・木村縫殿助は、今や死の床にあった。
昼も夜も無く渡右衛門は駆け続け、江戸藩邸へ向かった。
「父上!」
「・・・おぅ、間に合うたか・・・実はな、お前に頼みがある。わしは鈴木右近とある約束を交わし、誓紙まで書いたが
この有り様では、もはや約束も果たせぬ。お前、このまま国元へ帰り、誓紙を右近に返して謝ってくれ。」
真田家の名物男、鈴木忠重は国元で奉行職を歴任していた。
「そんな・・・誓紙を返すだけなら、他の者でも良いではありませぬか。せっかく急いで来たのです。
ここで、ご病状を看取らせて下さい。」
「いやいや、自分の体は自分が一番分かる。こたびは、もはや助からぬ。結果が分かるゆえ、看取るに及ばず。」
「しかし・・・」「たわけッ!!」
瀕死のはずの縫殿助が、鬼の形相を見せた。
「侍の親子が、国や主家を別にして死ぬ事など珍しくもないわ!末期に汝の顔など見とうもないわ、早く帰れ!!」
(わけの分からん約束事の誓紙一枚のために、親父の死に目に会えんとは・・・)
怒りと涙にまみれながら、渡右衛門は国元への道を急いだ。
0036泣くな渡右衛門 2/2
2010/10/30(土) 22:13:28ID:sK6KKi5p返された誓紙を押しいただく忠重にも腹が立つばかりの渡右衛門は、そっけなく鈴木家を辞去しようとした。
「確かにお渡しした。では、拙者はこれで。」
「ああ、待て待て。その顔ではお主、父御の言いつけに納得しておらぬな?だがなお主、この件の他に縫殿助から
何か遺言を授かったかな?」
「・・・・・・」
「それはな、縫殿助がお主という立派な倅を持ったがために、『他に思い残す事は無い』という信頼の表れよ。
その証拠にお主の面構え、縫殿助をそのまま若くしたようじゃ。縫殿助が、うらやましい・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「そこで、だ。縫殿助に似たるお主に、わしと縫殿助の『約束』を引き継いでくれたら、幸いじゃ。」
忠重は渡右衛門に、誓紙の中身を見せた。
「これは・・・!心得申した。ぜひ私に父の約束、果たさせて下され!」
明暦4年(1658)、鈴木右近忠重、主君に殉じ切腹。幕府より殉死の禁が出される中、「右近ならば苦しからず」と
特に許されての殉死であり、忠義の臣・鈴木右近は、歴史に名を残した。
その見届け役の名を、木村渡右衛門という。
0037人間七七四年
2010/10/30(土) 22:15:32ID:qzXMx2Z00039人間七七四年
2010/10/31(日) 00:51:37ID:VGJLsiVI親父さん、気持ちよいご臨終です。
0041人間七七四年
2010/10/31(日) 17:17:59ID:I7ssD0Kl0042人間七七四年
2010/10/31(日) 18:08:18ID:/GQzU3Hb0043人間七七四年
2010/10/31(日) 20:40:42ID:BO1JS6dS0044人間七七四年
2010/10/31(日) 20:42:40ID:mNoEYTnY0045人間七七四年
2010/10/31(日) 20:45:02ID:bQAkofRBスレ違いだけど
0046人間七七四年
2010/10/31(日) 21:01:56ID:ELZPdfzJ0047人間七七四年
2010/10/31(日) 21:25:26ID:LNZJfgHy「知行を得られる方法が五つある
一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。
二、怪しい行動で人に笑われる者。
三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。
四、計算高く、代官の格好が似会う者。
五、あてのない余所者。
得られない方法も五つある。
一、忠義一筋の者。こいつは子孫が栄えない。
二、武勇ある者。
三、世間体の悪い、行き届かない者。
四、計算高くない年寄り。
五、譜代!
たとえ餓死しようとも後者であるべし。」
つまり俺のようにあれ、と。
0048人間七七四年
2010/10/31(日) 21:27:38ID:9Ud1sHPW0049人間七七四年
2010/10/31(日) 21:30:26ID:VGJLsiVI0050人間七七四年
2010/10/31(日) 21:33:44ID:ugjAQWd7本当に何で兄貴の知行をもらわなかったんだろう?
0051人間七七四年
2010/10/31(日) 21:40:10ID:ZFerrBoK0053人間七七四年
2010/10/31(日) 21:50:22ID:AKq8ZS0l得意な奴が優遇されてるのが気持ち悪くてしょうがなかったんだろうな
でも、世の中治まりかけると、そういう政治力とか外交力とかがある奴が頼りなんだよなー
しかし世の中には、藤堂高虎みたいな徳川への肩入れが異様に早くて
武功もあるけど朝廷との交渉にも使えるようなのもいるからよくわからん
0055人間七七四年
2010/10/31(日) 21:53:10ID:2PiZQ/X20056人間七七四年
2010/10/31(日) 21:53:24ID:mNoEYTnY0057人間七七四年
2010/10/31(日) 21:56:34ID:ugjAQWd7桑名は東海道の最前線だ。
中山道の最前線、彦根を守る直政と合わせて最初の関門になる
0059人間七七四年
2010/10/31(日) 22:05:00ID:Dmh1lYdw二、怪しい行動で人に笑われる者。→味噌漏らして、周りから失笑をうける
三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→一見いい人そうだけど腹黒い
四、計算高く、代官の格好が似会う者。→不正で肥えた悪代官が似合います
五、あてのない余所者。→三河、尾張、駿河、遠江、武蔵をふらふら
完全に家康批判ですね。ありがとうございました
0060人間七七四年
2010/10/31(日) 22:11:07ID:/w10P4Bl秀吉批判だよ
一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。→織田家の忠臣と言いつつ裏でこそこそ
二、怪しい行動で人に笑われる者。→越中から勝手に帰国したりして笑いもの
三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→一見いい人そうだけど腹黒い
四、計算高く、代官の格好が似会う者。→実際京で代官もやってました
五、あてのない余所者。→若い頃尾張三河駿河をふらふら
そして信長批判だよ
一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。→義昭の忠臣を装いつつ裏でry
二、怪しい行動で人に笑われる者。→天下は朝倉殿持ちたまえなどと逃走
三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→最初は義昭にいい顔しまくってました
四、計算高く、代官の格好が似会う者。→計算高さはピカイチです。義昭の代官として権力を行使しました
五、あてのない余所者。→尾張美濃近江とふらふら
つーかどうとでもこじつけられるよこんなもの
0061人間七七四年
2010/10/31(日) 22:13:02ID:bQAkofRB0062人間七七四年
2010/10/31(日) 22:15:47ID:cm4c9LzF兄の遺臣たちのことを考えなかったとても迷惑な行為だと思うんだな。
0063人間七七四年
2010/10/31(日) 22:16:39ID:govhOdPn0064人間七七四年
2010/10/31(日) 22:44:08ID:SlfftqGy・強盗
・偽綸旨
0065人間七七四年
2010/10/31(日) 22:49:20ID:Dmh1lYdw一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
0066人間七七四年
2010/10/31(日) 22:59:29ID:JniP8I/80067人間七七四年
2010/10/31(日) 23:08:01ID:bQAkofRB一 被造人ハ人ノ命ニ従ウ可シ、但シ前条ニ反シナイ場合ニ限ル
一 被造人ハ前条、前々条ニ反シナイ場合ニ限リ自己ヲ保全ス可シ
0070人間七七四年
2010/10/31(日) 23:37:06ID:kAiTi26P彦左が三河物語書いて幕閣批判しまくって、それに同じような境遇の旗本
が「ご老人の言う通りだ」と盛んに持ち上げるんだけど、彦左はそいつらをも
「おまえらだって口ばっかで幕閣に直接なんか言ったのかよ」と毛嫌いしていたんだが、
主人公から「お前だって口ばっかじゃないか」と指摘されショックを受けるというのが。
0072人間七七四年
2010/11/01(月) 18:35:20ID:TDQPsGpw0073人間七七四年
2010/11/01(月) 18:43:18ID:R/S2XQGq政宗「京人(みやこびと)も懲りないね」
昔、安倍貞任が乱を起こし、弟の阿部宗任が捕らえられた。
東国の田舎者と馬鹿にした公卿が梅の花を示し、これは何と言うかと尋ねたところ、よどみなく歌でこう答えた。
わが国の梅の花とは見つれども大宮人は如何いふらむ
このことは川柳に「ソリャハァ梅だんべいと言わせる気」などと取り上げられている。
天正年間に上洛した伊達政宗に公家が、桜花を手折って「一詠を」と言ったところ、即、
大宮人梅にも懲りず桜かな
と詠んだとか・・・・・・。
公家にとってはバツの悪い話。
東北人にとってはスカっとする話。
そういえば
「東北はクマソの産地、文化程度は極めて低い」とのたまったサン○リーのお偉いさんも昔いましたね。
0074人間七七四年
2010/11/01(月) 18:59:20ID:R/S2XQGq古織様にもまーくんにも邪険にされている鮭様にも他人には譲れないものがあった。
それは「連歌」。五七五・七七・五七七を謳う雅である。
義光は「東国一の歌い手」と言われ、細川幽斎とも交流があったといわれる。
●面影の花をたびたびかえりみて/
過ぎ行くあとの関ぞ霞める (義光/里村玄仲)
なつかしい人の面影をしのばせる桜の花を、幾度も振り返り見ると、あの人と別れ過ぎて来た関所の建物も、うっすらと霞んでいる。あの人も霞の中に立って、こちらを見送っているのだろうか。
(マイラブお義が伊達家に嫁いで悲しいです)
●花ゆへに馴れ初めけるも縁(えにし)あれや/
変わらじとのみ契りつる仲 (義光/飛鳥井雅庸)
お互いに心変わりをしまいと固く契りあった二人の仲。美しく咲いた花がきっかけで愛しあうようになったのも、何か深い縁があったからだろう。
(兄妹は仲良しです。マイラブお義といえど、親父義守よりも好かれてるもんね。)
●暮るるまで帰さ忘るる花の下/
そことも知らず鐘かすむなり (義光/光高〈姓未詳〉)
日が暮れるまで帰ることさえ忘れてしまう花の下。どこで鳴るのか、夕方の鐘の音もぼんやりと霞んで聞こえてくる。のどかな春の日暮れよ。
(マイラブお義の事を考えてると時間さえ経つのが早いです。)
●散るあとも尋ぬる花の山深み/
帰りも絶えぬ鶯の声 (義光/里村唱叱)
里の桜が散った後も、もっと花を見たいと尋ね入った山深く、帰りの路でも鶯の声が絶えず聞こえていた。名残り惜しい花の季節もそろそろ終わりか。
(´・ω・`)「・・・」
光安「殿、帰りましょう」
●誰もただ花に心や浮かるらん/
出(い)で入りしげき九重の春 (義光/里村景敏)
だれもが花に浮かれて、たくさんの人が行き交う。都はまさにらんまんの春。
(´・ω・`)「満延・・・」
光安「殿、帰りますよ」
元歌
http://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=71337
シスコンと日常生活が垣間見える良い連歌。
0075人間七七四年
2010/11/01(月) 19:21:55ID:GWSBmuas家康が人質として駿府に送られた時は、ともに駿府に赴いた、家康初期の忠臣の一人である。
そんな酒井正親は桶狭間の後家康が三河を回復し独立を達成すると、当然のことながら
徳川家に置ける重臣の一人として大きな権勢を持った。
ところで徳川家中に神谷某という身分の低い侍があった。
この神谷は権勢を誇る重臣である正親に親しもうとせず、出会っても頭も下げず傲然としていた。
重臣に対して、無礼というべき態度である。
これを見た正親はすぐに家康の元に行き、神谷のことを告げた。曰く
「神谷という男は真に用いるべき者です。どうかその俸禄を倍にしてください。」
正親は再生した徳川家が、下の者達が権勢に諂うような家風になってはならぬと
このように薦めたのだ。
これは後年、家康が土井利勝に語ったことだそうである。
酒井正親、自分に媚びぬものを賞させる、というお話。
0078人間七七四年
2010/11/01(月) 19:41:50ID:pKcON8qIサントリーの社長は蝦夷とクマソの区別も付かなかった。
関西人にすれば、どっちも辺境の野蛮人で同じなんだよ。
0079人間七七四年
2010/11/01(月) 19:43:02ID:uNPwF7pl0081人間七七四年
2010/11/01(月) 20:12:51ID:0VE4LtCf0082人間七七四年
2010/11/01(月) 20:26:36ID:jScemNyp0086人間七七四年
2010/11/01(月) 21:56:25ID:kTeM64Lc0087人間七七四年
2010/11/01(月) 22:18:44ID:91+KYzM8当時叫ばれてた東北遷都論でニッカのお膝元の仙台が有力候補だったから
シェアが落ちるのを危惧して発言したら九州まで敵に回しちゃったんだよね
0088人間七七四年
2010/11/01(月) 22:35:52ID:AugUn7bk付け焼き刃の成金にしか見えなくなっちゃって痛々しかったなあ、あれ
まあ文化程度が地の底這ってるのは事実だと思うけど、公に言っちゃ
駄目だよねえ 未だに不買してる人がいたりするよ
0089人間七七四年
2010/11/01(月) 22:55:42ID:O2JZDtIi既出だけどせっかくなのでちょっと補足。
実はこの話の公家、この時二重にカウンターを食らっている。
前九年の役、衣川館の戦いで宗任の兄貞任を破った源義家、
敗走する貞任に向かって矢を番えながら逃げんなコラ、
「衣のたてはほころびにけり」と呼びかけた。
すると貞任は間髪いれず「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返し、
感心した義家は矢を下ろし追撃をやめたという。
それから五世紀後に、今度は奥州の伊達政宗の上の句に都の公家が
下の句を返せず恥かいた、という話。
0091人間七七四年
2010/11/01(月) 23:24:20ID:pKcON8qI0093人間七七四年
2010/11/01(月) 23:40:15ID:dex0TUdX0094人間七七四年
2010/11/02(火) 00:06:43ID:DkIYNf35家康が幽斎のところへ碁打ちを見に来るのでお前も来ない?と樹斎から手紙がきた。
使者には「行く行く、って言っといて」と返事をして直接幽斎のとこに行ったら、家康はまだ来てなかった。
ちょっと待ってると来たので、挨拶をして、山科黄門と一緒に会場に向かった。
山科の地下人と樹斎の勝負は樹斎が二目で負けた。
途中で幽斎が太閤から呼ばれて出てったけどすぐ帰ってきた。その後あれこれ碁話したり雑談したり。
夕飯の相伴にあずかって家康を見送って帰った。
四月十八日
家康が幽斎と一緒にやってきた。碁打ちも各々やってきて、早朝から日暮れまで盛り上がった。
二百人くらい来たけど、昨日幽斎が差し入れしてくれた鶴と塩雁でもてなした。
五月二日
幽斎から「家康がまた遊びに行きたいなって言ってるんだけど大丈夫?」と手紙がきた。
オッケーと返事すると「振舞は俺がするからな」とのこと。
五月四日
巳刻に家康が到着。その前に幽斎・柳原は来てたので、早速お座敷に移動。碁打ち見物。
古田織部が持ってきた切麦と雁の吸物で昼食。夕食は予定通り幽斎の振舞。
日本紀やうちの家の家系図とか見たりして、終始楽しそうでした。よかった。
五月九日
家康が南禅寺に来るよって長老から幽斎に手紙があったらしい。お前も来ない?って誘われた。
そんじゃ、って手土産持って向かったら家康はなんかむちゃくちゃ機嫌よくて
碁話とか雑談とかで盛り上がった。暮れ頃に帰った。松井佐州のお内儀にご馳走になった。
五月十二日
柳原亜相の屋敷に家康が訪問していたらしい。
私は別件で用事があったけど早めにすませて急いで向かうと、
家康に山科もついてきてたようでみんな碁打ったりワイワイやってた。途中で幽斎も来た。
家康は暮れ頃に帰って行ったので、見送りついでに私も帰った。
幽斎は明日早朝に在所に帰るというので、見送りに行けないからここで暇乞いをした。
兼見卿記より、文禄三年四月から五月にかけてやたら家康・幽斎との碁会記録の目立つ日記意訳抜粋。
単純にこの頃この周辺で碁がブームだったのか、はたまた幽斎は三月に弟を亡くしているようなので
みんなでワイワイ騒いで幽斎をなぐさめるためだったのか・・・
よくわからないけどなんか楽しそうな話。
0095人間七七四年
2010/11/02(火) 00:11:29ID:rSM/T7Tm0096人間七七四年
2010/11/02(火) 01:18:38ID:MUt707Cu「今日はお前んちでモンハンしようぜー」
「じゃあ飯は俺が買ってくるわ」
「やべぇwこっち瞬殺されたwwお前のプレイ見せてよ。……ふーん、ランス使いなんだ。どう攻めるの?」
「気が散るww」
なんか楽しそう
0097人間七七四年
2010/11/02(火) 01:23:58ID:vSmyKofT0098人間七七四年
2010/11/02(火) 01:42:59ID:/VykmNLyしかし、幽斎はどこにでも顔だすよなぁ…
0099人間七七四年
2010/11/02(火) 01:47:02ID:/VykmNLyageてもうた…orz
0101人間七七四年
2010/11/02(火) 02:29:00ID:YyLVmasL天理図書館報ビブリアに載ってる兼見卿記が手元にあるなんて羨ましいです。
文中の山科黄門は山科言経ですよね?もしそうな文禄三年四月から五月の言経卿記と照らし合わせることが出来ますね。
0103人間七七四年
2010/11/02(火) 03:42:14ID:DkIYNf35たぶんそう<山科言経
ビブリアは普通に県立図書館にあったんでまとめてコピってきた
探してみると意外にあるかもよ
ただビブリアの兼見卿記は原本の天理大所蔵品が中途半端な巻数のせいで
関ヶ原前は文禄二年〜慶長二年まで、あとは結構年代が飛んで関ヶ原時期すっとんでたり
重要な時期が追えなかったりするのが難点・・・
0104人間七七四年
2010/11/02(火) 09:27:50ID:N+2hyf0z三斎さんみたく自分の感情をはっきりと顕にしなところもね〜
でも、愛されるのはパーフェクト超人に近いけどそれをぶち壊すくらい人間味溢れる三斎さんだと思うw
0105人間七七四年
2010/11/02(火) 12:27:27ID:YyLVmasL教えていただきありがとうございます。
さっそく地元の県立図書館の蔵書検索したらビブリアありました。
0106get1
2010/11/02(火) 21:12:30ID:KhvIVSb/昔ある茶坊主の入れる御茶があまりにも美味しかったため
屏風に穴をあけ のぞくとそこには指を入れて味見している茶坊主の姿が
お茶を秀吉に運んでくるときに秀吉がひとこと
「この世で一番悪いことはなにかわかるか」
茶坊主は「それはのぞきでしょう」
茶坊主の見事なきてんに 褒美をとらせたという
0107人間七七四年
2010/11/02(火) 21:17:47ID:lXKxkFfC本当楽しそうな時はき合ってても楽しそうなんだよな…
0108人間七七四年
2010/11/02(火) 21:28:19ID:N+2hyf0z0109人間七七四年
2010/11/02(火) 21:29:39ID:o6SqjEFjttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2974.html
既出といえば既出・・・動画だけど
0110人間七七四年
2010/11/03(水) 00:03:26ID:ULQ1rfC6ラスボスの関東仕置きの結果、北条氏は改易。その後の関東には徳川家康が新しい
領主として東海から移動するコトとなった。
新領主である家康は、領地の巡検も兼ねた鷹狩を好んで行っていたが、ある時、狩
場の近くに「太平山龍淵寺」と号する寺院があると聞き、そこに立ち寄るコトにし
た。
「太平山という山号が縁起が良い」という理由での気まぐれだと言うが、この龍淵
寺は関東仕置きで唯一つ、最後まで落城しなかった忍城の城主、成田氏の菩提寺で
ある。成田氏の旧領を視察しておきたい、というのが家康の本音であったのだろう。
一説には最盛期には三十万石を領したとも言われる成田氏の菩提寺であり、その庇
護を受けていた為、かつては非常に栄えた寺院だったのだが、庇護者である成田氏
が武蔵国から去った後は威勢は衰え、龍淵寺は困窮に苦しんでいるのが現状であっ
た。
そんな龍淵寺を訪れた家康は住職である呑雪と対面する。
が、この呑雪という僧侶、何やら見覚えがある。確かに以前、どこかで顔を合わせ
ているハズだ。
「もしかして種松? お主、種松ではないのか!?」
記憶を掘り返して思い至った顔は、家康が未だ今川家の人質として駿河に居た時代
のモノだった。
駿河のある寺院で家康と共に、読み書きを習っていた少年、種松だったのだ。
「コレは奇なる縁もあったものだ!」
再会を喜んだ家康は、窮状に晒されているのが旧友であるコトを知り、龍淵寺に莫
大な寄進を与えようと申し出る。
しかし種松=呑雪は、
「出家に財産など無用。謀反人として処罰された方の菩提寺を手厚く保護されたの
では、徳川様にも迷惑がかかるでしょう」
と言って、申し出を断る。
寄進を「あげる」「いらない」という押問答の末、
「喰うモノにも困るようでは、修行や勉学にも支障が出るだろう、最低限の寄進く
らいは受け取ってくれ」
と、百石の土地を龍淵寺に漸く受け取らせたのは、翌年になってからのコトだった。
寺に百石って、かなり多いよね。つか、桁が違うよね。
この時に限って妙に気前の良かった権現様のいい話。
0111人間七七四年
2010/11/03(水) 00:16:38ID:0QwxePtl0112人間七七四年
2010/11/03(水) 00:17:20ID:0QwxePtl0113人間七七四年
2010/11/03(水) 00:18:07ID:0QwxePtl0114人間七七四年
2010/11/03(水) 00:18:08ID:7dafhyRU0115人間七七四年
2010/11/03(水) 00:38:33ID:nP9pUT1O無欲な寺って大概禅寺だよね
0116人間七七四年
2010/11/03(水) 00:58:53ID:vW9IVxPb0117人間七七四年
2010/11/03(水) 01:00:02ID:cRndASbc0118人間七七四年
2010/11/03(水) 01:08:28ID:WxQoIEmiだからこそ家康と友人づき合いできたのかもしれんが。
0121人間七七四年
2010/11/03(水) 07:47:51ID:WB2GRtFM上杉家臣の色部長実が一揆の処理の為にある山中に入った
で、 迷 っ た
不慣れな山中
一揆の事後処理であればこそ残党の存在も危惧された
困った色部長実の前に不意に雉が現れた
彼はこの雉に導かれて無事に人里にたどり着く事が出来たという
この事により色部家では雉は大切に扱われるようになった
後に色部家が領した米沢市窪田では食べるのを禁じる旧家がある
ちなみに雉は法に明記された現在の日本国の国鳥であるが…
国鳥を狩猟対象にして食っているのは日本位である
フランスも鶏を国鳥としているが法制化されてなかったりする
0122人間七七四年
2010/11/03(水) 14:51:55ID:ULQ1rfC6三河の地で徳川家康の父、松平広忠が、織田信長の父、織田信秀の侵略を受けてい
た頃の話。
後世「三河武士団の鉄の結束」みたいなコトを言われるが、実は度々三河武士団は
分裂し、他国に通じて内乱に明け暮れるコトも多かった。
この時も松平家一門の松平忠倫他、多くの武士が織田家に寝返り、今川家の救援を
仰いだ広忠と対立していた。
織田勢とそれに味方する三河勢に押され、岡崎城は既に孤立した状態。
しかし今川家の救援はまだ来ない。手も足も出ない広忠はなりふり構わない策を取
る。
「……松平忠倫を斬れ」
広忠は筧重忠を呼び出し、百貫の知行と引き換えに、三河における織田方の中心人
物、松平忠倫の暗殺を命じた。
重忠は、弟の筧正重と共に忠倫の居城、上和田砦に忍び込み、就寝中の忠倫を見事、
暗殺してのける。
しかし、余程緊張していたのか、そして主命を果たしたコトで気が抜けてしまった
のか、重忠は腰が抜けたように崩れ落ち、一歩も歩けなくなってしまう。
正重は慌てて兄の元に駆け寄ると、兄の腕を取り、こう言った。
「百貫の内、いくら出す? ケチなコト言ったらココに置いてくぞ?」
脅迫である。
しかし重忠はその言葉を聞いて、
「おまえ、人をゆするの、上手いなぁ」
と笑いながら、その度胸を褒め称えた。
重忠は弟に背負われ、無事に上和田砦を抜け出し、百貫の知行を貰ったという。
いや、そこ、感心するトコですか、兄ちゃん!?
まぁ、本人が褒めてんだから、いい話なんでしょう。
やはり思考回路が一般人とは一味違う三河武士兄弟のお話でした。
0123人間七七四年
2010/11/03(水) 15:19:34ID:nP9pUT1O0124人間七七四年
2010/11/03(水) 16:17:20ID:YYLqJ/Q6こんなところだな
0125人間七七四年
2010/11/03(水) 18:17:54ID:qBIMlKWz0126人間七七四年
2010/11/03(水) 18:20:22ID:SzSntFrg0127人間七七四年
2010/11/03(水) 18:22:19ID:kI4Y1R10身内を信頼できるというのは戦国時代では珍しいね
0128人間七七四年
2010/11/03(水) 18:33:20ID:1zdyFUTe元亀元年四月二十日、朝倉義景征伐のために羽柴秀吉配下として山内一豊も従軍していた。
金ヶ崎の戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、
槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。
しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを
友人で味方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、
「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。
大塩「手伝っただけだもん」
0131人間七七四年
2010/11/04(木) 00:15:53ID:JTgYhWaZその通り。筧正重は旗奉行に抜擢↓されたりもしている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2258.html
0133人間七七四年
2010/11/04(木) 02:48:22ID:0vjofXrR0134人間七七四年
2010/11/04(木) 08:52:07ID:ZRW2JChT0135人間七七四年
2010/11/04(木) 09:14:59ID:CRjOOLvA越前一向一揆なんて何がなんだか分からんよ。
0136人間七七四年
2010/11/04(木) 10:29:52ID:4RedspJJ伊勢の一向一揆討伐に奮戦したのに恩賞がなかったから
地元越前の一揆衆を守護代と織田の代官にけしかけてやったぜェーヒャッハァアー!!!
0138人間七七四年
2010/11/04(木) 21:15:44ID:JZGU5ubO三好長慶の母は長慶を孕んだ時大願を起こし、七夜の月を待ち誓いをなして曰く
『我が孕むところの子、男子ならば三好七代天下を持たせ給え!
女子ならば皇后の位に立たせ給え!』
として、領地である三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れ頭から被り月の出のを
待っていた。
七夜の月が満ちる頃、祈りの験があり宿所に帰った。
やがて月満ちて長慶を産み、成長してついに天下を掌にした。
辺鄙なる阿波より出て天下を制するのは容易なことではなく、
これも母堂の立願があったおかげであろう、と言う。
また別の者の言うところでは、母堂がこの祈願をしたのは、夫である三好元長の
討死を聞いたとき、憤ってそうしたのだ、とも伝わる。
三好長慶生前の立願、と言うお話。
0139人間七七四年
2010/11/04(木) 21:35:32ID:+LRFfLbu0140人間七七四年
2010/11/04(木) 22:03:50ID:QnPFemwB0142人間七七四年
2010/11/05(金) 01:51:39ID:3ovTydvr織田信長が未だ尾張一国を統一したばかりのコト。
織田家中に中村藤吉郎と言う者がいた。
ある時、福富平左衛門の金龍の笄が盗まれるという事件が起こる。
周囲の者は皆、貧乏な藤吉郎を犯人と疑っていたのだが、それに反発した藤吉郎、
真犯人を自らの手で捕まえてしまう。
盗みの容疑者から一転、犯人逮捕の手柄を立てた藤吉郎の名は信長の耳にも入り、
彼の船越英一郎張りの活躍を面白がった信長は、藤吉郎の属する足軽組頭に命じ、
組頭の名字を藤吉郎に与えた上で三十貫の所領を与え、信長直臣とした。
後に美濃攻略を進める際、尾張から木曾川を越え、織田軍は美濃領内の村木という
地に砦を築いた。
しかし、この砦にはそれほど多くの人数を裂けない上、尾張から駆けつけるには大
河を越える必要があり、救援に時間がかかる。その為、守将を引き受ける者が誰も
居なかった。
そこで信長は「死なせても惜しくない者」として藤吉郎を抜擢。浪人三百を召抱え
て藤吉郎と共に村木砦に派遣した。
藤吉郎は美濃勢が攻め寄せても決して砦から出ず、ひたすら時間稼ぎをして援軍を
待つという戦術に徹した。
どのような挑発にも乗らず、攻め手が退くと近くの村を襲い、男女問わず数十人を
捕虜として砦に連れ帰り、下人として召し使う。
それを見て美濃勢が押し寄せるとまた、時間稼ぎに徹する。退却すると近くの村を
襲う。
そんなコトを繰り返す内、周辺の村々は村木砦に降服し、藤吉郎に従うから村人を
返してくれ、と詫びを入れるようになった。
大小合わせて五十余りの村が織田領となり、信長はその村を藤吉郎にそっくりその
まま与えたという。
名字も持たぬ卑賎の生まれであった為、生まれた村の名前を取って中村藤吉郎と名
乗っていたこの青年。
盗人を捕まえた当時の足軽組頭の名を木下雅楽助と言った。
信長の命により、彼の名字を譲り受けた籐吉郎は、その後『木下籐吉郎』を名乗り、
天下人への道を驀進してゆくコトになる。
ちなみに村木砦に籠もった三百人の浪人の内、篭城戦に功を立てて五百貫の所領を
得た者として蜂須賀小六の名前も残っている。
悪いスレで『明智軍記』から一つ投稿したので、こちらでも一つ。
正直「いい話か?」と問われると首をかしげてしまいますが。w
0143人間七七四年
2010/11/05(金) 01:53:47ID:w96kLkuQさもなくば遊女の話でも
0144人間七七四年
2010/11/05(金) 03:20:57ID:xGiJ4dGB安東さんでも出れば面白いな
まーくんの遺訓
仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂(へつらい)となる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする
過保護イクナイ
真面目は融通が利かない
丁寧過ぎるのは厭味
頭がいいと嘘をつく
人を信じると馬鹿を見る
(●Д゚)「いいかぽまえら、何事も程ほどにな」
サムライトルーパーを思い出した。
0145人間七七四年
2010/11/05(金) 03:28:11ID:nbTfxTl5三番目は微妙に違う。
厭味に見えるんじゃなくて、
「礼を尽くしすぎると媚びているかのように見られる」
ってこと。
0146人間七七四年
2010/11/05(金) 03:32:35ID:xGiJ4dGB知能指数は高いらしいが
記憶障害で物覚えも悪い。
脳みそが腐っているんだろうか?
自己レスながら
ミンス党の場合
身内や自分に必要以上に甘い
何事にも融通が利かない
言葉は丁寧だけど厭味
小賢しく平気で大嘘をつく
こいつらを信じた国民が馬鹿を見ている
0147人間七七四年
2010/11/05(金) 03:47:50ID:AkyqAxXQ0148人間七七四年
2010/11/05(金) 04:40:23ID:8qA6XDCZ0149人間七七四年
2010/11/05(金) 04:43:42ID:sr0EymY70150人間七七四年
2010/11/05(金) 05:12:10ID:kI8mVHfJ0151人間七七四年
2010/11/05(金) 07:57:22ID:UC3oJoBR0154人間七七四年
2010/11/05(金) 18:08:20ID:fhb7WSvO敵がいないと戦話って残らんからなぁ。安東水軍、逸話って殆どない
陸戦ならそれなりに残っちゃいるけど
南部さん家の北さんの軍勢に、家臣の嘉成の一隊が特攻して、馬が返り血で真っ赤になって帰ってきたとか
0155人間七七四年
2010/11/05(金) 18:17:25ID:eYDRCVR5海賊と言えばインパクト強いのが奈佐日本助。
主に名前が・・・・・・
それに日本海側で知名度のある水軍ってこの人くらいだし。
で、以前この人について面白い説を読んだんだが、
但馬には応仁の乱から彼の出現まで、全く活躍の形跡が無い。というか記録が無い。
だからこの人(一族)は水軍と言っても、ルソンとか、
そういう地域との交易が主な生業だったのではないか、と。
だから外国人に対抗して「日本助」なんて名乗ったんじゃあないか、というものだった。
もしそうだったら、決して名前負けはしてないことになるなぁ・・・・・・
0156人間七七四年
2010/11/05(金) 18:18:40ID:sRvqs+Oc戦国時代、風呂は今でいうサウナであったという。
そして京などには、風呂屋の存在なども確認されるものの、一般の家屋に置いては、
たとえ上流階級であっても必ず置かれる、という設備ではなかった。
そんな中風呂を焚くということは、人々を招いて行う寄り合いの場を設けることであり、
ちょっとしたベントでもあった。
その様子を、摂関家筆頭であり、当時太政大臣であった近衛尚通の日記
『後法興院生記』永正17年(1520)閏6月9日条より見てみよう
『細川尹賢(細川典厩家当主、摂津国分郡守護)が我が家の風呂を借りて焚いた。
これに京兆(細川高国)や細川高基(和泉半国守護)が入った。
その後食事など出し、細川家の面々は近衛尚通と対面し雑談、酒が出て盃を交わしていた所に
宝鏡寺、正受寺、継考院、久我女中(久我通言妻)、久我親子(久我通言・邦通)、
大徳寺女中(徳大寺実淳妻)、北政所(近衛尚通妻)、亜相(近衛稙家)なども現れ
相伴した。』
公家の当主だけではなく妻たちも集まり、賑やかな様子がよく見て取れるだろう。
この頃の風呂は上流階級の人々の社交上であったことがよくわかる記録である。、
やがて江戸期になるとこの感覚が、庶民にまで共有され、風呂屋が都市の多くの人々の
社交の場になったということであろうか。
そんな、戦国時代のお風呂のおはなし。
0157人間七七四年
2010/11/05(金) 19:22:53ID:YucBpEBp0158人間七七四年
2010/11/05(金) 19:54:51ID:xUivEGpcでも自分で逸話書き込んだ後に誤字見つけるとしょんぼりするのは確か
0159人間七七四年
2010/11/05(金) 19:57:33ID:YPUDXr1Y「大五」
読めれば別にいいじゃろ」
0160人間七七四年
2010/11/05(金) 20:25:47ID:kI8mVHfJ名前も同じ読みなら平気で違う字使うし
0161人間七七四年
2010/11/05(金) 21:06:58ID:HRHQbqfN0162人間七七四年
2010/11/05(金) 21:50:09ID:az8OKsvT今でもまあ贅沢だけど
0163人間七七四年
2010/11/05(金) 21:53:47ID:q6KnRMGa誰か文才ある人よろしく。
0164人間七七四年
2010/11/05(金) 21:59:44ID:BnolOS9Gあとサウナといってもミストサウナが主流だったって聞いたような覚えがある
0165人間七七四年
2010/11/05(金) 22:00:48ID:IvAz7A42風呂焚きとして二人、垢掻きとして別に二、三人の下男を雇っており、その他に上がり口に屈強な男を一人置き、
他の下男は脱衣所には入れないようにしていた。そのため客は安心して裸になり、衣服・荷物を預けて風呂を楽しんだ。
この風呂屋の主人・睡庵老人の所には毎日のように訪ねて来る者があったので、老人は毎日決まった時間に、訪問客
のみならず、客の使用人にも食事を振舞った。訪問客は、おかげでゆっくりと心行くまで老人との会話に興じた。
また老人は、自分はコタツが嫌いだったが、「顔を突き合せねば、話も弾まぬ。」として、炭の火をごく弱くして
置ゴタツを作らせ、来客同士が遠慮せず近寄って会話できるようにしたという。
備前老人物語に、「今時かく客あしらいする人まれなるべし」とまで書かれた、睡庵こと渡辺勘兵衛の風呂屋の話。
百戦錬磨のご隠居が一緒のコタツに当たらせてくれて、面白い話してくれる銭湯・・・ちょっと行ってみたいかも。
0166人間七七四年
2010/11/05(金) 22:56:57ID:kayMokpJこれかな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-547.html
0170人間七七四年
2010/11/05(金) 23:13:52ID:kayMokpJ十河存保を「政泰」の当て字使ってくれたおかげで「まさやす」ってよめた。
どっかに明石さんの当て字書いた古文書ないかな・・・
0172人間七七四年
2010/11/06(土) 00:07:12ID:Wr9ORYFs徳川家光の弟、忠長の側近に、池田三郎左衛門貞長という男が居た。
貞長は忠長に大変重用されていたのだが、それを妬んだ者の讒言により、藩を追放
という処分を下されてしまう。
駿河を追われた貞長は、武蔵国岡村(埼玉県深谷市)に蟄居し、私財を投じて荒れ
た神社仏閣を改築するなどして、現地の人々に慕われていたと言う。
やがて忠長は家光との確執や、自身の問題行動などによって改易・切腹とされてし
まう。
切腹に当たり、忠長は自らが追放した貞長を思い出し、
「貞長を追放したのは間違いだった。今更謝っても許してはもらえぬだろうが、も
し許してもらえるなら、自分の菩提を貞長に弔って欲しい」
と言い残し、命を絶つ。
この遺言を聞いた貞長は、これを最後の主命として岡村に全昌寺という寺院を建立
し、荒れ果てていた岡上神社に新しい社殿を奉納する。
これらの寺社の落成を見届けた貞長は一人、真新しい社殿の前で、主君の後を追っ
て切腹して果てたと伝わっている。
あまり評判の良くない駿河大納言。
そんな彼にも殉死してくれる忠臣がいたんだね。
貞長が切腹した岡上神社は現在、周辺の神社を合祀し、岡廼宮神社と改称して存続
しています。
0173人間七七四年
2010/11/06(土) 05:59:48ID:dPgHWx2/昔なんかの史料で「てるレ登」って書いてるのがあったんで
「レ登」→「澄」だと思ってた。
これって「明石てる澄(ずみ)」だよね。
0174人間七七四年
2010/11/06(土) 07:52:46ID:JXdQMnCt中国地方のあっちこっちに岩風呂ってのがある。
洞窟の中ででかい焚き火をして鎮火したら、水をまいてその上にゴザを引いて、みんなで着衣のままで洞窟に入る。
数百年前から伝わってるんだが、途絶えてしまって、最近地域で復活させたのとかもある。
0176人間七七四年
2010/11/06(土) 21:05:08ID:KZzJZvcwそんな深い穴じゃないよ。
せいぜい10人ぐらい入るといっぱいになる規模
これはちょっと大規模かつ建築物を使ってる例
http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/genmain.asp?mid=50004&cdrom=
0177人間七七四年
2010/11/06(土) 21:25:50ID:zfS8oD4y小説の「一夢庵風流記」での蒸し風呂エピソードがそのタイプだね。
洞窟の代わりに巨大なかまどを作って中で火を焚く方式。
八瀬の釜風呂の法、とか言ってたっけか。
0178人間七七四年
2010/11/07(日) 01:08:18ID:y6eRf6/W成田顕忠の父・五郎左衛門資員は顔を見ぬ内に死んでしまい
兄・顕泰も幼くもあり従臣達に助けられていた。
顕忠は幼い頃から聡明な子であり兄の顕泰を父のように敬い、顕泰も弟の顕忠を深く愛していた
それから顕忠は任官して刑部大輔となり、器量もあることから
あるときは陣代として出陣し、あるときは城代として守備を固め、度重なる戦功もあった。
顕泰の死去後、嫡男・親泰が相続する。この親泰も顕忠を父の如く重んじていた。
顕忠は忍城の南方に館(出城)を構えていた。
深田を埋め立てた所なので平田廓ともいわれ、家中の者は「平田殿」と尊敬していた。
この顕忠は深く佛法に帰依し、不犯で肉食は一切しなく、女は一人も使わなかった。
全くの禁欲生活である。
そのため世間では平田精舎とも言われていた。
63歳の時に身に墨染の衣を着て、清善斎全忠と号し、毎日の読経を欠かさなかった。
清善斎もだんだん年を取って90歳に近い時、最早余生がないとして
城主親泰を始めとし、家内の者と老臣を招いてこう告げた。
0179人間七七四年
2010/11/07(日) 01:09:31ID:y6eRf6/Wだから孝というはただ名だけで一度も教養を捧げた事が無い。
せめて出家得度して父母の菩提を弔らんと思ったが、亡き兄顕泰の深き情にほだされて
俗人として世を送った。
その故は大将の先陣に臨むや、城の守固くなければ敵の謀者にかかる事もあるし
又、外に在って内が心配な様では鉾先が鈍るものである。
さて又、戦争の習いとして大将に不意の禍あるとか、幼主をいただくとかの場合、
不肖と雖(いえども)も主を補け来らせんと心に誓った為である。
現今當城主親泰は健将であり、まことに倖せである。
この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗したが、心は法身に化して女犯肉食を禁或した。
然れども戦場では若干の人を亡した。
行いと言葉と相違する所はあるが、獨身だから後の子孫の上を思わず。
しかし、その家に生まれ、禄の食めば武士として主といい、兄といい志孝の道を
守なければならぬ。
在俗しては忠孝の二道を全うし、出家しては佛に仕えた。
一生の恩は足りた。
吾が死後の望にはこの館を寺と為(な)し、
年頃念じ奉る薬師如来を本尊とさるるなければ幸いこれに過ぐるものはない。」
0180人間七七四年
2010/11/07(日) 01:14:00ID:y6eRf6/W永正十六年五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るように命を経った。
下総守親泰は大いに哀惜し、遺言通りに新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。
一様wikiでは顕忠の方が兄でらしく父・資員も詳細不明で正等と同一人物とか何とか
0181人間七七四年
2010/11/07(日) 01:15:34ID:poSPerfX甲斐国武田家に川窪信実という武士がいた。
武田信玄の弟に当たる人物で、昇仙峡の更に奥、川窪の地を治めて領地を名字とし
た。
後に甲斐と武蔵の国境地帯を領していた兄・松尾信是が早世すると、その遺領を引
き継いだと言い、山の多い甲斐国の中でも、とりわけ山奥に領地を持っていたよう
である。
ある時、この川窪信実の元に篠瀬某という男が転がり込んでくる。
実はこの男は徳川家の家臣であり、家康の主命に逆らったとして徳川家を出奔、対
立していた武田家に逃げ込んだのである。
後に家康に許され、徳川家に帰参する事になった篠瀬に対し、信実は鷹を二羽与え、
家康への献上品とさせた。
この心遣いに家康は大いに感じ入り、信実を褒め称えたと言う。
時は流れて本能寺の変の後、家康が甲斐国に侵攻する。
家康は篠瀬を呼び出し、
「川窪信実殿が、先年の長篠合戦で討死にされた事は知っている。大変残念に思う
が、信実殿は御子息をお持ちではなかったか?もし居られる様なら是非、召抱えた
いのだが……」
篠瀬の仲介によって召し出された信実の息子、川窪信俊は家康に仕え、信州平定、
小牧長久手、小田原仕置きと抜群の戦功を立て、伏見城の番頭にまで抜擢されてい
る。
父・信実を亡くした時、まだ年少だった信俊は、伯父・信玄の未亡人に養われたと
伝えられ、武蔵国金窪(埼玉県上里町)に転封された際に養母を伴って国入りした
と言う。
その地で死した養母は、金窪の陽雲寺に葬られ、信玄との夫婦画像とされる肖像画
も現在まで伝わっている。
養母は秀姫と言う名で、陽雲寺では正室・三条夫人の事だと伝承されているらしい
が、死亡年代等、史実と食い違う箇所が非常に多く、「秀姫は信玄の側室の一人」
とか、「秀姫は架空の人物」とか、様々な説が取りざたされているらしい。
信玄自身が目立ち過ぎてるせいで、あまり語られる事のない、弟さん&甥っ子のい
い話。
っつか、カワクボさんをカナクボに転封って、権現様、洒落で知行地を決めてない
か?www
0182人間七七四年
2010/11/07(日) 01:37:15ID:poSPerfX成田顕泰は惣社長尾氏からの養子。
父・資員が戦に負けて、家督を養子に譲り渡す事を条件に和睦した。
と、いう事を踏まえて逸話を読むと、資員の実子である顕忠の微妙な
立ち位置が非常に不憫に思える。
そりゃ下手に子供なんか作って「成田の嫡流はこっちだ!」なんてな
っても困るよね。
『成田記』辺りでは顕忠の存在はおろか、資員が戦に負けた事も、顕
泰が養子である事も、華麗にスルーされているんだよねぇ。
そこら辺を加味して考えると、むしろ悪い話になっちゃうのかも。w
0183人間七七四年
2010/11/07(日) 15:12:49ID:T8W3tYLr山本常朝曰く
あるとき、家康公が戦いに敗れたのだがその直後から、
「徳川殿は大勇気の大将である。それはなぜかと言えば、
討ち死にした三河武士の中に後ろを向いて死んだ者が一人たりともいなかった。
皆が敵陣の方を枕にして倒れていたとのことだ」
という話が伝わったと私も聞いている。
武士は日ごろの心がけが死後にまであらわれるものだから、
その心がけを失えば恥ずかしいことになる。
0184人間七七四年
2010/11/07(日) 16:57:28ID:lwwSIsac0185人間七七四年
2010/11/07(日) 18:36:06ID:qvUwjqt+家康の武田オタクっぷりは、バネェな。
これじゃ武田武士団が、三河武士団並みの忠義の士にになるのも無理ないわな。
あの大久保彦左衛門が甲州筋目って目の敵にした理由がわかるわ。
0186人間七七四年
2010/11/07(日) 19:05:38ID:8J9QlSvJ中国「おいポチ 情報管理しろ うちに都合が良いようにしろ」
ポチ前原「OKボス 逆らった奴を探し出して、吊るし上げてやりますぜ」
ttp://adenhonpo.cocolog-nifty.com/blog/
0187人間七七四年
2010/11/07(日) 19:11:07ID:9biOa6nB仙台真田氏研究の第一人者で「仙台真田代々記」著者の小西幸雄氏による歴史対談が
近所で行われたので行ってきました。
真田氏のおこりから幕末あたりまでを二時間ほどで解説していただいたのですが、
真田徹氏が今回、先祖伝来の品を持参されて5時間ほど公開されました。
良くも悪くもない話ですが、その品々から面白かった逸話を。ガイシュツだったらすいません。
真田信繁が大阪夏の陣の時、家康に特攻して寸前まで追いつめた逸話は有名だと思うが、
その時に信繁が持っていたという采配が仙台真田家に伝わっている。
「真田幸村公死持の采配」と呼ばれるそれは、
細身の棒に和紙のふさをつけた采配で、持ち手は銀に唐草模様。
先端が平らになっており、そこに六文銭が刻まれている。
(http://sengokudama.jugem.jp/?day=20100130)
写真撮影禁止だったので画像のあるリンクを。
さてこの采配についての真田氏のお話。
「時が流れて、日本が開国すると、コレラが流行りまして、
これが仙台まで流行ってきた。
その時に仙台真田の者達が、神の如く強かったという幸村公にあやかろうと、
采配を千切って煎じて飲んだのだそうです。
千切った跡もありますよ。だから昔はもっとふさふさしてたはずです、
今細くなっちゃっていますが」
その他、家康襲撃を計画した幸村が着たと伝わる鎧の前立ても
急遽持参されて拝見。(鎧は写真のみ)
鹿の角を合わせた形で木製、金箔。意外と小さい。(両手のひらに乗るくらい)
そして鎧自体は黒くて地味。
真田幸村といえば赤い鎧が有名ではないか、との質問に、
「赤い鎧とか大きな前立ては映画などでかっこよかったので広まったのでしょうね。
そしてこの前立てはすぐに取れるようになっています。
戦ってる最中に大きな前立ては邪魔ですから。
家康や政宗みたいに後ろで座ってればいい人は違いますが、
中間的な立場の人は違うんですね」
他にもいろいろ話を聞いたのですが、2時間あっという間で興味深かった。
お父上の入っていた真田系の集まりに名代で参加したら、その集まりでは
「本当は幸村が夏の陣で家康を討ち取っており、
その後の家康は影武者で、一年たって用もなくなったので鯛の天ぷらで毒殺した」
って話が正しいことになってるってエピソードが個人的にツボでした。
0188人間七七四年
2010/11/07(日) 20:13:52ID:oXRvMh0e0189人間七七四年
2010/11/07(日) 22:22:14ID:fR7+B7HJ0190人間七七四年
2010/11/08(月) 07:19:27ID:oB4MJDt20192人間七七四年
2010/11/08(月) 12:36:04ID:2kpPAovL0193人間七七四年
2010/11/08(月) 12:41:11ID:FY0qh4Ex寺の住職なんかはそーゆー表現をするね。
普通の家の家督でも同じ表現を使うかは判らないが。
0194人間七七四年
2010/11/08(月) 12:42:10ID:YFRawMDF0195人間七七四年
2010/11/08(月) 14:07:48ID:Y+D1oDAs現当主の幸俊氏も上田真田祭りでお会いした際に「私より貴方の方がご存じですね」とか普通に言っちゃうし
直系でないのが負い目なのかねぇ
ちなみに幸俊氏の紹介は14世16代当主
系図上、家祖から14世代下の16番目の当主という意味
徹氏も同様の解釈で良いかと
0196人間七七四年
2010/11/08(月) 14:13:40ID:x5zuj3/G0197人間七七四年
2010/11/08(月) 14:51:40ID:Qup+r9qV0198人間七七四年
2010/11/08(月) 15:19:50ID:3PigNtQo松代藩でも使っちゃったし…
0199人間七七四年
2010/11/08(月) 16:45:06ID:FY0qh4Exもうその時代には一般には幸村だったんだね。
0200人間七七四年
2010/11/08(月) 19:03:46ID:+IA0ruhl信繁じゃ、兄貴の信之との繋がりがはっきり分かるから、大権現様の御本陣を
突き崩した日本一の兵(でも反逆者)が、真田の通字の信を名乗っちゃ拙いって
配慮で幸村にされ、講談で世間に名前を広められていったんじゃないのかな?
0202人間七七四年
2010/11/08(月) 19:09:41ID:6Qp8XbXD全然憚ってないし
0203人間七七四年
2010/11/08(月) 20:13:48ID:fEcVHg630204人間七七四年
2010/11/08(月) 22:02:58ID:PgObs3SO諸大名はなんのはばりもなく信繁関連グッズwを集めたりしていたけど、
松代藩は早い時期にははばかっていた感じはする。
完全な創作話になっちゃうけど、PHP文庫の川村真二の小説の「真田信之」で、
信之が信繁の法要を行おうとした際、一族に真田幸村という人物がいたことにして、
その人物に対する法要っていう名目にしたなんていう話があって、上手いこと
考えたなぁとか思った。
>>203
たしかに当初はそうだった。けど、信綱以降は「信」も通字になり、しかも
そちらのほうがメジャーだったのは家系図を見ても明らかだ罠。真田幸弘以降は
また「幸」のほうがメジャーになるけど。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E7.B3.BB.E8.AD.9C
って、ここ真田スレじゃなくていい話スレやん…
0205人間七七四年
2010/11/08(月) 22:27:38ID:tjaQF6ga0206人間七七四年
2010/11/10(水) 09:12:24ID:iF8657Ub江戸時代初期。「知恵伊豆」こと松平信綱が治める武州川越(現・埼玉県川越市)
に瀬川嘉右衛門という男が居た。
中々の武勇の持ち主で、川越藩では槍持ちを任されていたと言う。
しかしこの嘉右衛門、武勇以上に名を馳せている事があった。
それは「酒飲み」。
とにかく酒が大好きな男で、毎日浴びるように酒を飲んでいたという。
そんな生活をしていたら勿論、金は貯まらない。
少ない貯えを全て酒に注ぎ込み、酒の肴を買う金すらなかったのだが、嘉右衛門は
悪食としても知られ、肉だろうが魚だろうが、酒と一緒なら何でも頓着せずに食し
ていた。
そして挙句の果てに、手持ちの無い彼が食すようになったのが『虫』。
蝗の佃煮とか、蜂の子だとか、そう言った食用の虫ではない。
とにかく眼についた生物は全て口の中に放り込み、酒で流し込んでしまったらしい。
槍持ちに任じられた侍の事を「槍持ち奴」と言った事から、嘉右衛門は「虫食い奴」
(むしくいやっこ)と綽名されたという。
そんな嘉右衛門は、普段から人と変わった事をするのを好み、「傾き者」として知
られていた。
「虫食い」もあるいは人と違う事をやって見せようというパフォーマンスの一つだ
ったのかも知れない。
嘉右衛門のパフォーマンスは、遂には自らの死後の事にまで及ぶ。
自分の墓石を自ら作成し、「オレが死んだ後はこれを墓石にしてくれ!」と寺に収
めたのだ。
しかもこの墓石、普通の墓石ではない。
嘉右衛門自身の姿を写し彫った肖像の墓石だったのである。
彼の墓に参る人々は、嘉右衛門自身の姿に手を合わせ、墓前に酒を供える。ちょっ
と気の利いた人なら、そこらを這っている蟻でもつまんで酒の中に落としてあげた
かもしれない。
現在、川越の法善寺には嘉右衛門が作った墓は無く、後に作り直した二代目の肖像
墓が鎮座している。
羽織袴姿で酒樽に腰をかけ、酒杯を手にする彼の『墓』。
本人の死後、数百年にも渡り、大好きだった酒盃を傾ける自分の分身があるという
のは彼にとって、最高の幸せだったのかもしれない。
まさか、仙台のじいちゃんと鼠汁で勝負したの、コイツじゃなかろうな?www
(>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html)
0207人間七七四年
2010/11/10(水) 09:15:50ID:FznAY+r8アル中は怖いよ・・・
0208人間七七四年
2010/11/10(水) 09:20:25ID:iF8657Ub最後の余談と言うか、おちゃらかしに伊達政宗のネズミ汁の話へのリンクを
つけておいたんですが、後ろの)までアドレスと認識しちゃってて、上手く
繋がってくれませんね。
逸話の本題とは関係ないから放っておいてもいいんですが、一応貼り直して
おきます。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html
お騒がせして申し訳ない。
0209人間七七四年
2010/11/10(水) 12:23:29ID:mXnv+oOj芋虫握りつぶしの逸話が芋虫食いに変わっていたかも知れないな
いや惜しかった
0210人間七七四年
2010/11/10(水) 20:18:30ID:FznAY+r8いや、あの話は信玄は芋虫つかんだだけで潰してはいない。
素手で潰したら青くなるどころじゃ済まないとおもうよw
0212人間七七四年
2010/11/11(木) 03:31:34ID:+CvpBu8+小田の話は切腹か写メ貼り
0213人間七七四年
2010/11/11(木) 05:37:02ID:ecvI3Kum酒樽の上に乗っかってるのか
0214人間七七四年
2010/11/11(木) 15:07:36ID:ZUFX/iyV0215人間七七四年
2010/11/11(木) 15:29:08ID:w/PeVpkf明智光秀は京の町衆の支持を得るため、彼らを集め屋地子(町屋敷地にかかる税金)の
免除を宣言、そして
「信長は殷の紂であったのだ!」
と訴えた。
これを聞いた京童たちは
『光秀は自分を周の武王に例えている。片腹痛いことだ』
と、心で思ったものの、地子が免除されることのうれしさに、光秀に向かって
萬歳と叫び彼の行為を祝い、賀した。
江戸時代、京において屋地子が無いのは、ひとえに明智光秀の恩である、と言われていたという。
京の、屋地子免除の由来についてのお話
(秀頼事記)
0216人間七七四年
2010/11/11(木) 15:48:37ID:Mntz5VMe少なくとも徳川は継承しないと思ってたよ
豊臣家滅亡時に豊臣と名のつく物全て打ち壊されたし秀吉の墓さえも
0217人間七七四年
2010/11/11(木) 15:59:42ID:KyAMrvmj> 豊臣家滅亡時に豊臣と名のつく物全て打ち壊されたし秀吉の墓さえも
それは完全な勘違い。
阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓は破壊されておらず、妙法院によって供養され続けた。
江戸期に行われた秀吉「150周年忌」の記録もちゃんと残ってる。
豊国社に関しては徳川幕府において破却したことはなく、大坂の陣によって社領が没収されたため
自然と衰退していったが、家光の時代まで何度か再建案が出された。
だが旧豊臣系の牢人によると思われる大規模な献金が明らかになるなどの事件で
不平牢人への求心力を再び警戒され、豊国社のご神体は新日吉神社に移された。
0218人間七七四年
2010/11/11(木) 16:18:55ID:fndYu0Oi0219人間七七四年
2010/11/11(木) 16:31:33ID:HaX4qpOB家康の死後天海と崇伝が話し合って決めたとか
0220人間七七四年
2010/11/11(木) 17:15:35ID:37cZrGD+これまとめで読んだことがあるような。こんなに詳しくなかったけど。
ところで、中国の王朝の知識があるのに、一武官に対して「萬歳」を叫ぶなんて、不遜かつ不敬だよな、京童ども。
0221人間七七四年
2010/11/11(木) 17:18:37ID:9AMtga9S0222人間七七四年
2010/11/11(木) 17:49:54ID:7t7+nbd4この逸話だな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4276.html
0223人間七七四年
2010/11/11(木) 18:44:14ID:SrIQWawk0225人間七七四年
2010/11/11(木) 19:11:39ID:curhtko4天下布武ってちと古いゲームで意外と有能だった。
※最高数値25なんだけど一つでも10以上あれば優秀。
20以上はほとんどいない
軍事10(ラスボス13)
政治10(鮭様13)
魅力13(信様13)
合計 1201人中183位
0226人間七七四年
2010/11/11(木) 19:18:33ID:jwtE/378コーエーよりは妥当な能力設定だ
0227人間七七四年
2010/11/11(木) 21:26:36ID:FZCqiO8h格の違いは特にないと思うよ
崇伝が大明神を推して、天海が大権現を推した
大明神は秀吉に通ずるから、ということで大権現に決定した
まあ2人の権力争いの結果でもあるんだけど
0228人間七七四年
2010/11/11(木) 21:28:24ID:6chBs9p9豊国神社は秀吉の神社として祭る事を江戸時代ずっと禁じられてるぞ
恵比寿神を祭るように変えられてるんだよ
実は民衆は内緒でずっと秀吉を祭ってたんだけどね
明治維新になってようやく秀吉の神社と公に名乗れるようになった
0230人間七七四年
2010/11/11(木) 21:37:44ID:FZCqiO8h足利義満側近の満済もそう呼ばれてる
確か太原雪斎もそう呼ばれてたと思う
…惜しい、もう1人いれば「黒衣の宰相四天王」になったのに
0231人間七七四年
2010/11/11(木) 22:06:17ID:w/PeVpkf5人揃わないと四天王にはならないからな
0232人間七七四年
2010/11/11(木) 22:08:49ID:fFSXK1sf0233人間七七四年
2010/11/11(木) 22:19:24ID:VBVzhxDR0234人間七七四年
2010/11/11(木) 22:27:04ID:KyAMrvmj「ヤンデレ宰相、細川忠興でござる!」
0235人間七七四年
2010/11/11(木) 22:30:20ID:6chBs9p9つーわけで上記では宇喜多秀家のみだな
0236人間七七四年
2010/11/11(木) 22:34:59ID:KyAMrvmj忠興は従三位参議なので宰相。あ、あと池田輝政がいたな。
これは「いちもつ宰相」だろうか?w
0237人間七七四年
2010/11/11(木) 23:05:45ID:fFSXK1sf0239人間七七四年
2010/11/12(金) 02:45:03ID:tj8WcYnu0241人間七七四年
2010/11/12(金) 10:34:51ID:06EEDWpW「目赤不動レンジャー参上!」
「目黒不動レンジャー参上!」
「目白不動レンジャー参上!」
「目青不動レンジャー参上!」
「目黄不動レンジャー参上!」
「「「「「五人合わせて江戸を守る五色不動レンジャー!」」」」」
天海「・・・というのを考えた」
0242人間七七四年
2010/11/12(金) 12:51:57ID:GlKLhNtI五大老も6人にすれば良かったのにな
前田利家・徳川家康・小早川隆景・毛利輝元・上杉景勝
ときっちり5人だからなんの面白みもない
0244人間七七四年
2010/11/12(金) 14:51:05ID:HSjZ++dB0245人間七七四年
2010/11/12(金) 15:29:01ID:nzozjbIB0246人間七七四年
2010/11/12(金) 16:54:26ID:bFwZ6gEd案外有名ないい話が出てなかったので。
家光が将軍宣下の時、全国の大名を江戸城内に呼び寄せ
その場にて家光は異例の宣戦布告を行った。
「祖父や父は貴兄等と同属や盟友となった時期があったかもしれぬ、
しかしながら余は生まれながらの将軍である
これに不服があれば今すぐ国許へ帰り弓矢を取るがよい
我が徳川800万石、自らお相手致そう」
これまでと違い、楯突いても都合が悪ければ容赦なく潰す。
それも圧倒的国力を背景に、そういう異例の文言であった。
その場にて貴台の名将伊達政宗が口を挟む
「あいや待たれよ、そのような輩は将軍家のお手を煩わす訳には参らぬ
伊達40万石が陣頭に立ち成敗してくれよう」
これを皮切りに全国の大名が我も我もと続いた。
これは伊達政宗の策略だとか、講談の話だとか色々と議論はつきないが
事実はどうにせよ、そういう話は今も残っている。
これより応仁の乱より150年に渡り続いた戦国時代は終わった。
幾多の犠牲や策略や戦争、それらが支配する時代は
江戸城内の一喝によって終焉した。
ただ現代でこのスレを生きる人間において困ったことが一つある
相対的に戦国時代が無ったことはこの板で語ることは何も無くなるのだから
結局いいんだか悪いんだかの話。
0247人間七七四年
2010/11/12(金) 18:20:18ID:OAsTPB1O天下布武、大好きなんだけど真田の兄ちゃんの能力設定だけは不満が残る…
軍事 11
政治 5
魅力 12
って何よ…
02511/2
2010/11/12(金) 22:02:11ID:Pcp9T+QH逐電する。これにより大阪冬の陣が始まるのだが、この時のこと
泉州堺の津においてかねてから且元と心を通わせていた柴山小兵衛が大阪方の兵に攻められ困難な状況にある、
との知らせが入り且元は急遽兵を出した。且元の兵は、建部三十郎の収める尼崎まで至ると、茨木からの
兵だけでは心持たないと、建部三十郎に援兵を要請した。
建部三十郎はまだ幼少で、このころ尼崎城には建部の親類である池田利隆から、池田越前、宮城大蔵といった
武将が、兵と共に派遣されており、且元の軍はそれを知っていたため兵を請うたのである。
ところが尼崎の者達は且元の動向を未だ疑っており援兵を出さず、このため片桐軍は大敗を喫した。
このことは当然問題と成る。特に尼崎城に将兵を派遣していた池田利隆には世間からも、
大阪方に内通か!?と大いにとりざたされた。
さて、冬の陣の講和後、京の二条城において大御所、徳川家康直々に、この事件の詮議が行われた。
池田家からは宿老であり、家康からもよく知られている伴大膳というものが派遣された。
大膳は家康に対し様々に言い訳した。しかし家康の怒りは解けず、ついに
「今更色々言ったところで、現前に味方の兵が討たれていたのを見殺した事実は覆らぬ!
武蔵守(利隆)の心底、甚だ疑わしい!」
そう怒声を投げつけるとそのまま立ち上がって退出しようとした。その時である
伴大膳、脇差を後ろに投げ捨て、腹ばいに家康のものへと近づき小袖の裾にすがりつき
「これは何と情けのない上意でしょうか!?武蔵守(利隆)が御姫様(家康の娘で池田輝政の正妻督姫)の
お腹から生まれたのではないから、武蔵守をお孫とは思っていないということでしょうか!?
今、私の申し訳を聞きとどけて頂けないのなら、一体いつ、我が池田家の申し訳が聞かれることはあるのでしょうか!?」
そう、涙を流して訴えた。
家康は伴大膳のその姿に誠を感じ
「…よし。今お主の言うこと、聞き分けた。
早く帰って武蔵守に、安堵せよと伝えるが良い。」
これを聞くと伴大膳は手をあわせて平伏し、お礼を申し上げ急いで御前より下がった。
02522/2
2010/11/12(金) 22:03:14ID:Pcp9T+QH「あの伴大膳の父親も大膳と言って、武蔵守(利隆)の父、池田三左衛門(輝政)がまだ若年で庄三郎と
名乗っていた頃、その馬卒をしていたのだ。
小牧長久手の戦の時のことだ。父勝入、兄庄九郎(元助)が討死したと聞いた輝政は、自分も討死せんと、
戦場に馬を乗りつけようとした。
ところが輝政の馬の轡を取っていたかの父の大膳は輝政の命を聞かず、輝政の乗るまま馬を
引き下がらせはじめた。
輝政は怒り狂い、『離せ!離せ!』と馬上より鐙をつけたままの足で大膳を蹴りつけた。
2,3町(約2,300メートル)の間蹴り続け、大膳は頭から血が滝のように流れだした。
だがそんな事も構わず彼は馬を退かせ続け、ついに輝政を無事、退却させた。
あの時輝政が討死すれば、池田の家も絶えてしまっただろう。今、彼の家が播磨一国の大名としてあるのは、
その大膳の働きによって生き残ったが故のことなのだ。
…さすがその親の子ほどもある。あの大膳も主のために自分の身を庇うことがなかった。
今の世にわしの前に出て、あれほどのことを言う者を、他には知らんよ。
武蔵守は、良き人を持っておられる。」
そう、機嫌よく語ったという。
池田家の親子大膳、についてのお話。
0253人間七七四年
2010/11/12(金) 22:31:09ID:Ef4tJDkbこの逸話の某の息子か
宿老までなるなんて、息子はえらく出世したな。
利隆は見る眼があったな。
0255人間七七四年
2010/11/13(土) 00:54:37ID:f38Rd4j1信之の転封っていろいろ言われるけど
単純に領内を治め切れていないと判断されたって可能性はないのかな。
0256人間七七四年
2010/11/13(土) 02:37:39ID:oPOC2lpj一方、弟の方は
軍事24
政治13
魅力13
という、超一流の評価をされていた。
軍事が全武将中2位の評価って…(1位は謙信公の25点満点)
0257人間七七四年
2010/11/13(土) 03:08:44ID:wOh9BwzS0258人間七七四年
2010/11/13(土) 05:42:50ID:JV9iNVJy家光個人の優秀さを語るエピって聞いたこと無いけどなー。
あくまで有能な家臣団の言う事をよく聞いたってだけじゃね?
知恵伊豆さんとかさ。
0259人間七七四年
2010/11/13(土) 06:12:24ID:wGUfrbuK持ってる典型例が劉邦とか。
持ってない典型例が後醍醐天皇とか。
0260人間七七四年
2010/11/13(土) 07:24:32ID:9Yidvj2S後醍醐天皇は比叡山を降りるとき、新田義貞の進言を受け入れて、皇太子に譲位して、
北陸に脱出させたりしている。
0261人間七七四年
2010/11/13(土) 08:22:06ID:PXzBnM/qだれか一人に権力・責任が集中しないようにした
難しい案件がたらい回しになってしまい、それを修正するのに苦労ようしたがw
0263人間七七四年
2010/11/13(土) 09:36:50ID:03s/JiMS0264人間七七四年
2010/11/13(土) 09:47:51ID:hJveC0Vd0266人間七七四年
2010/11/13(土) 13:24:12ID:+f3S1D7Uね、菅谷さん
0267人間七七四年
2010/11/13(土) 15:44:27ID:pvIJ0006後醍醐天皇も楠木正成の信玄を突っぱねて失敗しているから、
もうさすがに言うこと聞くしかないと思ったんだろうね
0268人間七七四年
2010/11/13(土) 15:45:24ID:pvIJ0006失礼しました
武田信玄は突っぱねてない
0269人間七七四年
2010/11/13(土) 15:46:04ID:sflfPDKq一行目だけでかなり時空を飛び越えた気分になった
0270人間七七四年
2010/11/13(土) 15:52:19ID:TyRgsvl5鬼武蔵に殺されてれば良かったのに。
0271人間七七四年
2010/11/13(土) 18:44:23ID:FuD3MRdl0273人間七七四年
2010/11/13(土) 19:23:37ID:wrl66x6D0277人間七七四年
2010/11/13(土) 22:45:34ID:Sa6L79KY若い頃は秀吉好きの家康嫌いだったそうだが、小説で家康を書いていくうちに家康の魅力がわかってきたそうな
0278人間七七四年
2010/11/13(土) 22:47:50ID:SeIaibzf「ガキは信長とか秀吉が好きだよね。家康の凄さは大人じゃないと解からんよね」
みたいなこと言ってたなあ。
0279人間七七四年
2010/11/13(土) 22:49:47ID:4zXJiRP80280人間七七四年
2010/11/13(土) 22:51:17ID:9yQUECx3→司馬ファンにおける家康嫌いの多さ
0281人間七七四年
2010/11/13(土) 23:10:32ID:+JD41I1w0282人間七七四年
2010/11/13(土) 23:24:07ID:wrl66x6Dどこが家康ラブやねんw
全作品で一言でも司馬が「家康が好き」といった文があるなら抜き出してみなよw
『城塞』は勝ったはずの家康が臆病で暗殺を恐れて脱兎の如く逃げ出すところで終わる。
これはもちろん史実でなく司馬の創作。
『覇王の家』は家康がいかに「覇王」という言葉に似合わない人間か再三繰り替えす話。
無意味に挿入される司馬創作の家康格好悪いエピソード満載。
遺作の『濃尾三州記』で繰り返される「家康は臆病だから○○した」という司馬的解釈。
三方が原も一向一揆も桶狭間も「臆病だから」で済まされる。
このごく短い話で「臆病」という言葉数百回使われてるぜ。
司馬遼太郎が大好きな秀吉と比べてみれば一目瞭然だ。
0283人間七七四年
2010/11/13(土) 23:28:34ID:pvIJ0006これでますます家康を陥れる小説とかが増えるんだろうな
司馬は家康のこと「功罪半ば」と言ってるので、一応の功績は認めてるんだよな
0284人間七七四年
2010/11/13(土) 23:37:59ID:+JD41I1w0285人間七七四年
2010/11/13(土) 23:38:49ID:4nh98T8fきたない、さすが司馬きたないと思ったw
0286人間七七四年
2010/11/13(土) 23:55:42ID:bf/H7pq2NHKと一緒だね!
0287人間七七四年
2010/11/14(日) 00:07:20ID:Lw6BxDZP大御所クラスだから許されるけど、ふつうの作家じゃ編集者がざっくり削ってあの半分くらいにしそうだw
0288人間七七四年
2010/11/14(日) 00:19:50ID:Vo7pMxvPそろそろ、司馬信者が「歴史作家になる才能の欠けるやつが司馬の悪口を言う」と書き込む頃合だw
0289人間七七四年
2010/11/14(日) 00:46:06ID:K/oVdpuh世間では、いわゆる豊臣恩顧大名が大阪方に内応する、との風聞激しく、
将軍である徳川秀忠もこれを心配し、立花宗茂に相談した
「世間では豊臣恩顧の大名が大阪方に寝返ると言っている。そのような者がいるのだろうか?」
「おりません!」
宗茂は断言した。あまりにはっきりと言う宗茂に逆に疑問を感じた秀忠
「どうしてそのように言い切れるのか?」
宗茂、答える
「それはこう言うことです。豊臣恩顧というなら、私ほど豊臣家の恩顧を受けたと考えられている
者はおりません。
仮に大阪方に内応しようとする大名がいれば、必ず私にも声をかけてくるでしょう。
そのような事があれば私は、御所様(秀忠)の恩に報いるためにも、その者と刺し違える覚悟でおりました。
…ですが、今までそのような者は私のところに来ず、幸いにも命を永らえております。
今にいたってそうなのですから、内応者はいない、と考えてしかるべきでしょう。
もし私が何者かと刺し違えて死んだ、ということを聞かれたら、その時は内応者が出たのだと
お考えください。」
この宗茂の言葉に秀忠、大いに安堵したとのことである。
立花宗茂、秀忠の不安を晴らす、と言うお話。
0290人間七七四年
2010/11/14(日) 01:56:58ID:EXDh49aH>>283
特に最近はにわか西軍びいきも多くなってるからなあ。必要以上に三成が義将と持ち上げられている
けど、「へいくわい者」の面も忘れちゃいかんと思う(それ含めても三成は魅力的な人物だしね)
そもそも「司馬史観」とか言っちゃう痛い知識人が結構いるのがねえ。ムキになって
否定しにかかる奴も相当だけど、小説は小説として、エッセイはエッセイとして楽しむもの
じゃないかと。同じ人物でも、作家によってかなり解釈が違うのが歴史ものの楽しみでもあるからね。
0291人間七七四年
2010/11/14(日) 02:28:23ID:a+dZfkP3http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152281475/
0292人間七七四年
2010/11/14(日) 04:07:20ID:p2SSjZXA好き嫌いの激しい人物だって分かるだろ
そう言えば司馬遷も好き嫌い激しいよな
自覚してたから司馬ってペンネームにしたのかね
0293人間七七四年
2010/11/14(日) 04:31:01ID:uNj8HaXF須美大佐がノモンハンでかっこよくかつやくするのをかくはずだったからそれはないとおもうよ、
雑誌の対談で須美さんとなかの悪かった軍人とあったから癇癪おこした須美さんに絶交されてかけなくなったけど
0294人間七七四年
2010/11/14(日) 04:33:41ID:uNj8HaXF0295人間七七四年
2010/11/14(日) 07:12:05ID:KNPG9dKb骭c一郎の花の慶次や影武者徳川家康もひどいぞ秀忠が悪人に描かれてるし
0296人間七七四年
2010/11/14(日) 07:53:06ID:y+ucnjOQ小説にイチャモンつける奴も同類だけどな、お前にまともな小説の一つでも書けるのかって言いたい
0297人間七七四年
2010/11/14(日) 08:25:35ID:oKjv/OtX言われてみるとその通りなのに、教科書知識で「幕府の鎖国政策=家康の方針」って思い込んでた。
0298人間七七四年
2010/11/14(日) 09:44:03ID:9Ie1rKur秀吉のラスボス化と家康の狸っぷりは、太閤記や覇王ではなく関ヶ原や城塞で書かれてるしな〜
大きな合戦も作品毎にだぶって書くことないしね
0299人間七七四年
2010/11/14(日) 09:52:16ID:FW2hYQu4戦国時代に下克上をなした人物で、松永久秀の名が最初に挙がって思わず笑ってしまったw
世間一般じゃそんなにメジャーとはいえないと思うんだが…
汚いさすが弾正汚い。
0300人間七七四年
2010/11/14(日) 10:29:47ID:NAnF1vCv北条早雲や斎藤道三は、下克上の例じゃないというのが最近の考えになってるようだし。陶晴隆よりかはメジャーだろうし
0301人間七七四年
2010/11/14(日) 10:33:34ID:7JqAGYBj○晴賢
変換しにくいけど間違えないでね
ちなみに晴賢も下剋上からほど遠い人だと思うのよ
0302人間七七四年
2010/11/14(日) 10:35:21ID:4ymTMLRu0303人間七七四年
2010/11/14(日) 10:52:55ID:VHD+7td5いわゆる「謀反」とか「主家乗っ取り」とかを下克上と呼ぶものと思ってた
あとは親戚一族が宗家を乗っ取るとか
細川政元、陶晴賢、南部晴政、津軽為信、豊臣秀吉、明智光秀あたりは
どう解釈すればいいんだろう?
0304人間七七四年
2010/11/14(日) 11:11:54ID:Vo7pMxvP悪い話の方で、思い差しと衆道の逸話が書かれたので便乗。
島津家久の息子で、関ヶ原で勇戦、討死した島津豊久は輝くような美少年であった。
唐入りに臨み、豊久は島津家中の勇士たちを一人ひとり前へ呼んで『思い差し』をした。
これにより勇士たちは感激した。
「豊久様は、私一人を愛して目をかけてくださるのか、このお方のためならば命はいらぬ」
豊久の思い差しを受けた者は、戦場で果敢に奮戦したという。
明治時代まで島津の士族の間で語り継がれた伝説的逸話。
有名な『薩摩の衆道』とはいかなるものだったか、そして薩摩兵の強さの理由の一端を教えてくれる話。
0305人間七七四年
2010/11/14(日) 11:12:03ID:aRLLNuIu0306人間七七四年
2010/11/14(日) 11:15:21ID:EXDh49aH松永久秀も下克上とは微妙に違うような。長慶は晩年まで実権をもっているし、むしろ
長慶死後に三人衆なんかと三好氏を「分裂」させた人物じゃないか?
主家の実権を奪った、あるいは放逐したというと朝倉敏景や長尾為景なんかはどうだろうか。
0307人間七七四年
2010/11/14(日) 11:19:00ID:K/oVdpuh> いわゆる「謀反」とか「主家乗っ取り」とかを
最近は戦国期に、そういうような形での「下克上」はほとんど存在しなかった。
って言う考えが主流だな。
戦国時代を下克上で説明すること自体少なくなってる。
0308人間七七四年
2010/11/14(日) 11:27:20ID:8qbbwvnLスパルタ教育
テーベの神聖隊的な絆
アレクサンドロス的な包囲殲滅戦法
これだけそれえば、負ける気しないな
0309人間七七四年
2010/11/14(日) 11:28:20ID:LB/k/SbY0310人間七七四年
2010/11/14(日) 11:29:37ID:fGrsdfxQ0311人間七七四年
2010/11/14(日) 11:30:28ID:4ymTMLRu0314人間七七四年
2010/11/14(日) 17:10:09ID:Jfg+xTPp本当に白い人だったから、柳川返り咲きでも12万石止まりだったわけで(豊臣時代より1,5万石低い)
あの時代にこんな人が存在したこと自体が異常ともいえるが、道雪、紹運の二人が作り上げた最高の
戦闘サイボーグだからかもしれない。
技の一号(道雪)、力の二号(紹運)、そしてV3(宗茂)って言葉が頭に浮かんでくるわな。
ちなみにライダーマンは、高橋統増(宗茂弟)だろう。(兄貴より早死にだし)
0315人間七七四年
2010/11/14(日) 18:56:50ID:ZYK4wdS90316人間七七四年
2010/11/14(日) 19:00:01ID:K/oVdpuhDQNが最終的に名君になったことと、半裸で日本に密航してきた野生児が
帰国するときにはスーツに身を包んだ文明人になってたことを掛けているわけだなw
0318人間七七四年
2010/11/14(日) 20:28:56ID:ZYK4wdS90319人間七七四年
2010/11/15(月) 01:38:27ID:uWnlfVr9いやここそもそもいい話だからさ
てか腐女子とか居たりするの?ここ
君等喜ばせるようなとこじゃないよ、ここ
0320人間七七四年
2010/11/15(月) 01:59:27ID:7U7bDMib0321人間七七四年
2010/11/15(月) 02:08:36ID:uWnlfVr9一次元しか見ない浅い知識
これらの条件を満たすのは腐女子しかいない
自分としてはそれすらも疑惑で終わらせてあげたところに
>>312の求める優しさと黒さと表現してみた
0322人間七七四年
2010/11/15(月) 05:31:24ID:mFuCBd0z違います。
佐竹は常陸守護。義重の息子の義宣の代に、常陸三十三館を虐殺して統一しただけ。
小田は佐竹に追い回されてえらい目に。
0326人間七七四年
2010/11/15(月) 07:04:10ID:GM1SlSQV0327人間七七四年
2010/11/15(月) 08:22:07ID:PYUuB72H0328人間七七四年
2010/11/15(月) 08:24:05ID:mFuCBd0z秀吉の時代になってようやく、だね。
江戸氏、大掾氏、南方三十三館を滅ぼして、やっと国主になれた。
秀吉の関東征伐がなかったらとても常陸統一なんてできなかった。
0329人間七七四年
2010/11/15(月) 08:28:14ID:uWnlfVr90330人間七七四年
2010/11/15(月) 08:57:41ID:CjuahJc3土浦あたりまで秀吉にもらってるわけだし
0331人間七七四年
2010/11/15(月) 09:14:58ID:c+F0w69z常陸にあった結城領は、佐竹に獲られたり佐竹派の多賀谷に掠められたり小田に奪われたりだし
しかし戦国期の佐竹の支配地域って地図で見るとずいぶんいびつだな
常陸より南郷を中心にした陸奥方面の領域のが影響力でかいんじゃないか
まあ本土の戦局悪化で最終的に伊達にほとんど盗られちまうが
0332人間七七四年
2010/11/15(月) 09:21:08ID:mFuCBd0zなかなかお詳しい。
その通りなんです。
佐竹は戦国時代、ほぼ北への勢力伸長に意を注ぎ、南方は太田、梶原、真壁に任せっぱなしなんですな。
0333人間七七四年
2010/11/15(月) 09:30:18ID:MZzGyjM/結城・多賀谷・水谷中心だが、いわゆる『領国化』が極めて遅れていた地域だってこと。
結城の本城は下総の国だが常陸と下野にも所領があった。。
佐竹の支配領域ってのは・・・佐竹スレでも散々議論があったが
そもそも『領域』という見方が彼ら常陸・下野・下総の『洞中』の領土構成には馴染まないと思う。
大体どこまでが独立領主で、どこまでが佐竹の旗下と言えるのか線引きが極めてあいまい。
0334人間七七四年
2010/11/15(月) 09:45:05ID:mFuCBd0zおおむね常陸北部だけが佐竹領だったようですね。
中部は江戸氏、南部は大掾氏と小田氏
佐竹氏の侵攻方面は陸奥南部と下野北部。
下野への侵攻は失敗だったようですが。
0335人間七七四年
2010/11/15(月) 10:53:54ID:EZ9Bl5XG0336人間七七四年
2010/11/15(月) 11:49:54ID:HPO3ciZT江戸期の領国支配体制 室町期の領国支配体制
【将軍】 【将軍】
↓ ↓
大名 (鎌倉公方等)
↓ ↓
家中 (関東管領等)
↓ ↓
領民 守護大名 \
↓ │
内衆 │
↓ │ここまで守護大名の
在地被官 │直接の権限が及ぶ範囲
↓(半済権) │
荘園 /
↓↓↓ 軍役権
大名級国人(ほぼ独立。将軍もしくは鎌倉公方に直通)
国人・地侍(被官関係は様々)
↓
惣村、商工民(被官関係は様々)
※国人・地侍・惣村・商工民は守護大名、大名級国人、あるいは
将軍家、あるいは他の有力守護家の被官となっており、必ずしも
当国の守護大名の被官ではない。二重、三重の被官関係も珍しくない。
0337人間七七四年
2010/11/15(月) 12:27:37ID:c+F0w69z那須氏の抵抗が激しすぎた
もたもたしてる間に下野西部が北条に靡いて那須氏ともども慌てる羽目になるが
しかし関東〜東北の『洞中』の概念はマジわかりにくい……
天正初年に家臣化したように見える白河結城ですら独自性保ってるもんなぁ
0338人間七七四年
2010/11/15(月) 12:44:54ID:F3jgbjwv直属の上司の命令は絶対だが、上司の上司からの直接命令は受けるいわれはない。
みたいなもん?
0339人間七七四年
2010/11/15(月) 12:50:40ID:6ql0DmmU洞中は簡単にいえば相互扶助の安全保障同盟だな。洞中のどこかに外部から攻め込まれる
危険があればその危機に対し共同で対処する。
ただしそのかわり、最初から国人の独立性を保証した上での同盟なので内部的な統合力は
非常に弱い。
白河結城も「洞中」の構造が解体されていない以上、従属化は出来ても
仕組みとしてある程度の独立性が保たれる。
又統合力が弱いので洞中が統一行動として他所に攻め込む、といった行動もほぼ不可能。
今の世界で言えばイギリス連邦とか、あんな感じかなあ?
0341人間七七四年
2010/11/15(月) 14:55:01ID:OCsI7RQi上司の上司でも指示者じゃない人からの直接命令は聞けません。
とか
0342人間七七四年
2010/11/15(月) 18:40:45ID:M3C3PQpy唯一憶えた家紋
それが佐竹家
0343人間七七四年
2010/11/15(月) 23:11:52ID:aW9si6eG「秀忠はあまりに律儀すぎる、人は律儀というばかりではならない。」
それを聞いた正信は秀忠にこれを伝え
「上様には時々は嘘を仰せられるのがよいでしょう」と言うと
秀忠は笑いながら
「内府様の嘘なら、買い手はいくらでもあるが、わしが嘘をついても誰も買うものはいないだろう」と言った。
いい話ではないかもしれないけど、秀忠の人柄がよく表れている話なので。
0344人間七七四年
2010/11/15(月) 23:27:02ID:MZzGyjM/「困るほどの律義者」って評したと言われてるよね。
こういう逸話もあるし、律義者同士、秀忠と義宣は気が合ったのだろうか。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1939.html
0345人間七七四年
2010/11/16(火) 00:33:35ID:JuTLxD33関ヶ原後の処遇にはそういう理由もあるとか。
0346人間七七四年
2010/11/16(火) 00:38:17ID:1bo331D+忠興の健康を心配した秀忠が「充分養生してくれ。生きてさえいてくれればそれでいいから。」
って言われて忠興ガチ泣きしたらしい。
0347人間七七四年
2010/11/16(火) 00:51:59ID:kKO1i+vphttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2526.html
0348人間七七四年
2010/11/16(火) 09:30:49ID:uWzMg+weそんなオレにも佐竹さんの血がちょっとは入ってるらすぃwwww
0349人間七七四年
2010/11/16(火) 12:10:44ID:Zm23GdNd0350人間七七四年
2010/11/16(火) 16:55:39ID:djn3zSeK0351人間七七四年
2010/11/16(火) 17:13:40ID:oGz3Bizkマスターキートンでいってたwww
日本だと旗印の方がいろいろあって面白そうだね〜
0352人間七七四年
2010/11/16(火) 18:24:28ID:0Nkdul+L鳥や虫もあるやん
と、思ったけど、たぶん350が言ってるのって動物かな、それなら確かに、なんでかあんまり見ないよね
0353人間七七四年
2010/11/16(火) 18:52:22ID:osGx92de真田さんみたいに
0354人間七七四年
2010/11/16(火) 19:02:33ID:YNYRMjkB動物ってか海外だと幾何学模様以外だと竜とか虎とか獅子、象、鷲や盾、剣みたいに力強いモチーフが多いじゃん
0355人間七七四年
2010/11/16(火) 21:32:23ID:dnUrQWT4龍や鳳凰は一応存在する。
ttp://www.otomiya.com/kamon/animal/ryu.htm
後は兎、鹿、雀、鶴、蝶、馬、猿など。
虎だの獅子、象は日本に近世まで殆ど関わり合いがなかったし、
家系を僭称する時は当然家紋も流用、分家は変えるだけなので
新しく出来にくいというのは有ると思う。
ヨーロッパでもフランス王家は百合、イギリス王家はエニシダ(プランタジネット)
->薔薇(バラ戦争以降紅白の薔薇)と家そのものは植物(花)が結構多い。
獅子(イングランド)、ユニコーン(スコットランド)、竜(ウェールズ)
といったように動物は国そのもの(王位)を示していたりする。
盾は元々紋章を盾に書いていたからだろう。紋章にある
盾の多くはただのフィールドと呼ばれる台座。
また鷲はローマの軍旗等から。東ローマから双頭(西洋と東洋を示す)
ローマを継ぐと主張した神聖ローマ帝国やロシア帝国を通じて
現ロシアまで継承されている。
0356人間七七四年
2010/11/16(火) 21:44:20ID:kKO1i+vp0357人間七七四年
2010/11/16(火) 22:34:24ID:djn3zSeKなんとなく海外は動物ばっかなイメージがあったが(主要な紋章がそうだし)植物もないわけじゃないので
わざわざトン
0359人間七七四年
2010/11/16(火) 23:53:14ID:7L6Susgn家紋はまぁ思ったより適当だな。5,6個併用するし。
0360人間七七四年
2010/11/17(水) 00:17:36ID:ke3RIG+nようやく、一人の者が藤堂高虎の寝所に進み出たもようです。
「井上十右衛門でございます。西島八兵衛、青地五郎兵衛らと、雑務を取り仕切っておりますが、
日々憂えることありて、恐れながら申し上げます。」
「申してみよ」
「はっ、この屋敷には鉄砲の一挺もなく、万が一の際には不用心極まりございません。
ぜひ幕府に申し述べた上で、藩地より鉄砲千挺ほど取り寄せてはいかがかと」
「うむ、なかなかに感心である。だがな、鉄砲が入用の時は幕府に申し述べて
何挺でも随時取り寄せるのは簡単な事じゃ。心配には及ばぬぞ。」
「しかしながら、一、二の大名からの申し入れなら用意もできましょうが、
騒がしい世の中となっては幕府も警戒して許可なさらないかも知れません。」
「なあに、そうなればもはや乱世じゃ。かくなる上は、幸い向かいに肥前殿の
屋敷があるではないか、そちらに押し入り鉄砲の千挺ほども奪い取るまでのことよ。
なんで心配することがあるか、わははは・・・」
井上十右兵衛門、浮かぬ顔で戻って参りました。西島、青地に報告をしている様子です。
「なんと、我が殿の大雑把なことよ!」
一同、落胆とも驚愕ともとれる声をあげております。
はい、あのレポートから幾年月、藩主藤堂高虎がご逝去され、
しめやかに葬儀が執り行われた藤堂藩江戸屋敷です。ただいま物品をあらためて
いるようですが・・・、何やら東北隅の櫓二階が騒がしいもようです。
何と言う事でしょう。そこには磨き上げられた鉄砲千三百挺ならびに
これに添えた火薬、弾丸、猩猩皮の袋がずらりと取り揃えてあるではありませんか。
やはり高虎公、なんと用意周到であったかと、家臣一同感じ入って悲しみを新たに
しているようです。この中には、おそらく井上らの姿もあることでしょう。
以上、藤堂藩江戸屋敷からお伝えしました。
0361人間七七四年
2010/11/17(水) 00:32:03ID:o3nj+Z7H0362人間七七四年
2010/11/17(水) 08:40:22ID:RFIHCYF7幾何学模様っぽくなることが多いと聞いたことが
http://www.amazon.co.jp/dp/4416309295 >こういうの
ずんだ市博物館で子供らがキャッキャいいながら三引両紋つくってた
0363人間七七四年
2010/11/17(水) 09:18:16ID:EnDRWBGk知らんかったorz
0364人間七七四年
2010/11/17(水) 09:43:15ID:B2oH9jAF島原の乱鎮圧を終えた福山藩御一行は船で福山まで帰る事に、ところが途中下関に差し掛かったところで突風に煽られ一団の乗る船があわや転覆といった事態になった
そこで家来たちは老体の勝成の身を案じて小舟で近くの陸地へ上陸させようとした、しかしそのやり取りを屋形の中で聞いていた勝成は
「それはとんでもない事だ、自分の一命をなげうって主君の為に働いた家士を見殺しにして主君である勝成ひとりが逃げたとあっては、それこそ天下の物笑いだ。人の存亡は天の命ずるところである、この勝成は士卒と運命を共にするつもりであるから無用の心配せぬがよい」
と屋形の障子を閉めてしまった。
しばらくしてその突風はやんだ
0366人間七七四年
2010/11/17(水) 17:06:05ID:ia5QDJ/Dただいま、徳島では「蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮〜25万石の礎〜」(http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/event/2010/201010/20101023_01.html)なる展覧会が開催中。
これといった出物はなかったんだけど、そこで紹介されてたちょっとした逸話より。
蜂須賀正勝公、桶狭間の合戦の際、縁起を担いで縁の寺にあった鉄製の地蔵像を戦場に持ち運ぼうとした。
しかし、さすがに重くて運べず(当たり前だ…)、錫杖だけを持っていくことにした。
その合戦で武功を挙げたことから、感謝の念を深くした正勝は錫杖を自らのトレードマークとし、以降、蜂須賀家では代々、錫杖が馬印となった。
蜂須賀正勝が桶狭間に従軍してたとか、戦場に地蔵像(しかも鉄製)運ぼうとしたとか突っ込みどころが多いのは勘弁。
そう書いてるんだもの。
0367人間七七四年
2010/11/17(水) 17:15:10ID:MzSPG0CF鉄製の地蔵を振り回し当たるを幸いなぎ倒す
0368人間七七四年
2010/11/17(水) 18:03:43ID:FFoV+e2P家康のと違って軽くて持ち運び楽そうだしカッケーな
0369人間七七四年
2010/11/17(水) 19:58:59ID:0cdywh9X俺はその徳島城博物館の、太宗の香炉と呼ばれる香炉の
小堀遠州の筆と伝わる箱書きが縦書きで
賀
蜂須家
ってなってるのが気になって気になってしょうがないんだよおおおおお
書き損じないで!そしてごまかさないで!
あと香炉のボディ真正面に 宗 太 って書いてあって
なるほど太宗の香炉ねって安易さも地味に気になる
0370人間七七四年
2010/11/17(水) 20:29:37ID:R8fari4u0371人間七七四年
2010/11/17(水) 20:35:35ID:GSxnIyEx0372人間七七四年
2010/11/17(水) 21:59:26ID:5HOHq1lI0373人間七七四年
2010/11/17(水) 22:07:06ID:o3nj+Z7H8世紀の伝説的な書の達人である顔真卿の『顔勤礼碑』
現在でも書道のお手本に使われるほど。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Yan_Qinli_Stele.jpg
0374人間七七四年
2010/11/17(水) 22:17:04ID:ppa4zd0u書き方とかじゃなくて文字自体を変化させてるから
0375人間七七四年
2010/11/17(水) 22:23:14ID:UhoQ+cdz0377人間七七四年
2010/11/20(土) 01:41:27ID:7vny0g+Fある時、一人の山伏が黒田長政に面会を許され、こう言った。
「昨晩、黒田様が五ヶ国の太守となった夢を見ました。お目通りが許されるタイミ
ングでこのような夢を見たとは、間違いなく吉兆の霊夢かと思われます」
それに対して長政、
「おおそうか、そりゃ目出度い!そなたの夢の通り、五ヶ国を拝領したら必ずや祝
儀を与えよう!」
と応え、その場では何も与えず、面会は終わった。
数日後……
「昨晩、鍋島様が五ヶ国の太守となった夢を見ました。お目通りが許されるタイミ
ングでこのような夢を見たとは、間違いなく吉兆の霊夢かと思われます」
佐賀城で同じ事を言う山伏の姿が。
その言葉を聞いた鍋島直茂、
「そりゃ良い夢だ!真に目出度い!おい、祝儀として金を包んでやれ!」
と、金百疋を山伏に与えたという。
「殿……よろしかったので?あの山伏、筑前の黒田家でも同じ事を言っていたと聞
いておりますが……?」
山伏が退出した後、恐る恐る直茂に疑問をぶつける家臣。
「よいのだ。我々が弓矢を取って生活を立てるように、皆それぞれの方法で生活を
立てねばならんのだ。あの山伏は、あのような事を言って金を施してもらわねば生
きて行けぬのだろう?あの金子はあ奴に恵んでやったと思えばよい」
直茂さん、山伏の嘘を見破った上で、「物乞いに金をくれてやっただけ」と平然と
言ってのける。の巻。
突っ込み所としては数日前の福岡での出来事を何故佐賀の家臣が知っていたのか。
早耳デスネ?と言った所だろうか(笑)
0380人間七七四年
2010/11/20(土) 04:50:13ID:Yvq3my9o0382人間七七四年
2010/11/20(土) 08:01:10ID:eFxm3Mvf0383人間七七四年
2010/11/20(土) 08:12:11ID:jxmb+j0T0384人間七七四年
2010/11/20(土) 12:49:00ID:XIlMvHZa0385人間七七四年
2010/11/20(土) 13:21:33ID:Q7V1/wZB毛利輝元「よーし、徳川征伐しちゃおっか」
家臣「お止めください!」
前田利長「今より睨まれるのー!?(((;゚Д゚)))ブルガタ」
伊達政宗「五ヶ国……?
そーだ、百万石もらってねー!!今からねじこむぞ!!!」
0386人間七七四年
2010/11/20(土) 13:25:38ID:0mp2jpGYなるほど、新年の恒例行事は本当は
毛利輝元「徳川征伐の用意は整ったか」
家臣「まだその時ではありません」
が正しかったわけか
0387人間七七四年
2010/11/20(土) 14:10:21ID:XIlMvHZa0389人間七七四年
2010/11/20(土) 19:46:00ID:ucqWrv6w0390人間七七四年
2010/11/20(土) 19:56:18ID:vaRLvTYdいろいろ考えるもんだな
0393人間七七四年
2010/11/20(土) 23:02:18ID:1jw89/Dm0395人間七七四年
2010/11/21(日) 00:06:31ID:d7FKAjzh長篠の戦いの直後、武田勝頼のもとに一門衆の穴山信君が訪れた。
戦後処理のために徳川と交渉することを許して欲しいというのである。
つまり徳川家に金品を贈って、捕虜の身請け、遺体や遺品の回収と弔いなどの許可を得たいというのだ。
ところが、これに対して勝頼は頑として許可を出さず、食い下がる信君に怒って罵声を浴びせた。
しかし、穴山信君にはどうしても戦後処理を進めねばならない理由があった。
wikipediaによると、戦死した主な武将について
>>武田四天王の山県、内藤、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継
とあるが、これらは武田政権中枢の、言わば戦死した官僚たちである。
これらの武将たちが、武田の新領土である信州や山梨北部の領主なのもそれを表している。
しかし、本当に悲惨だったのは、河内(山梨南部地域)・木曽の半独立豪族たちであった。
特に戦場に近い河内では、下部左京、丹沢主馬、井出元輔、下村源助、市ノ瀬左衛門ら有力国人が戦死し、兵卒も大損害を被った。
主従関係こそなかったようだが、これら河内衆の指揮を執っていたのが穴山信君であり、責任を感じていたのであろう。
勝頼から許可が得られないと知ると、駿河の配下豪族・万沢氏に独自に交渉するよう命じた。無論彼の独断である。
信君の努力の結果、内々に許可が出た。戦死者の家族や部下たちは長篠に向かい、人捜しをしたり弔いをしたりした。
これらは本来、勝頼が責任を持つべき部類の仕事だと思われるのだが、なぜ指示せず交渉も却下したのかは分からない。
だが主君の怒りを恐れない信君の優しさに、家中の士卒のみならず河内衆みなが感激した。
武田滅亡時、これら河内衆は武田庶家までほとんどが穴山信君に従って徳川に寝返ることになる。
0396人間七七四年
2010/11/21(日) 00:27:23ID:d7FKAjzh「信君はお味方危うしと見るや、敵に背中を見せて一目散に逃走。武田逍遙軒と信豊も続き、ついに潰走が始まった」
というような認識が一般的だけど、実はこのあたりの記述は、例の甲陽軍鑑にしかないんだよね。
指揮下にあった武田の庶家衆まで討ち死にしているってことは、本当は奮戦したのかも知れない。
0397人間七七四年
2010/11/21(日) 00:45:35ID:L4DoOPR40398人間七七四年
2010/11/21(日) 01:06:27ID:V3+RI8MR退路を断たれて全滅もありえた
0399人間七七四年
2010/11/21(日) 01:07:21ID:NWqfuSSQ下部氏は秋山氏や三枝氏と同族で甲斐源氏。
下村氏は井出氏と、穴山氏は丹沢氏と(ry
甲斐情勢は複雑怪奇なり
0400人間七七四年
2010/11/21(日) 01:09:39ID:gF9EBSbi「甲州情勢は複雑怪奇なり」
と言わない・・・と思ったら、甲斐と「怪」奇をかけているのか
0401人間七七四年
2010/11/21(日) 01:11:58ID:NWqfuSSQ0402人間七七四年
2010/11/21(日) 01:12:14ID:G+XKskO8本来は脇備か後備を勤めてるはずの部隊も前面に出し兵力差を補ったんだろう。
そこから推測できる状況としては
予備兵力を前面に出してしまったことから酒井の片翼包囲に対応できず前に進むしかなく
精鋭たる本来の先手である山縣隊らとは錬度士気とも劣る親族部隊が
数時間の激闘に耐えられず、最初に敗走したって事だろう
軍鑑は本来軍事テキストで無理にでも理屈の通った敗因を作る傾向があり
穴山以外はその後も重用されてるから軍鑑の長篠の記述は鵜呑みには出来ないな
0403人間七七四年
2010/11/21(日) 01:36:16ID:M4yaFFC1軍記ものとか兵法書とか戦場の霧を無視してること大石
0404人間七七四年
2010/11/21(日) 08:25:25ID:JyqEQqUU0405人間七七四年
2010/11/21(日) 10:07:59ID:zeoTJXYHだからこそ参謀組織が発達していくんだから
0407人間七七四年
2010/11/21(日) 10:49:38ID:ywZFe45sってのはあるのかね?
0409人間七七四年
2010/11/21(日) 11:23:54ID:4a70b2O8情報収集と的確な分析というのは強調されるけど、近代戦ですら「戦場で手に入る情報で確実なものはない。全く正反対の噂が飛び交っていたりするから」
と言われてるくらいだしね
0410人間七七四年
2010/11/21(日) 11:37:44ID:tsfrYBQq中国だと昆陽の戦いがややそれっぽい。
公称百万(実数は多説あり)相手に一万弱で籠城。
もちろんそのままじゃ落ちるだけなんで援軍呼んで挟撃するために13騎が夜間脱出。
劉秀は兄が反乱軍指導者の政敵のため、疎まれてか足止めのため周囲の地域から募兵後ゲリラ戦展開。
そこで本来文官で傍流皇族の劉秀が、うっかり雷雨の日に敵宰相を殺してしまってさぁ大変。
敵は虎の子の精兵が一気に瓦解するわ、従軍してた対異民族戦での歴戦の名将が散り散りに逃げて分断された地域に逃げ込むわ。
味方は劉秀の兄の発言力が強くなりすぎて兄が粛清されるわ、そのごたごたで洛陽奪取を赤眉に先越されるわ。
予想外過ぎて敵も味方も大混乱に陥れてしまった。
0411人間七七四年
2010/11/21(日) 12:09:29ID:iI+QVGP90412人間七七四年
2010/11/21(日) 12:35:48ID:iz8X6d5W0413人間七七四年
2010/11/21(日) 12:57:53ID:zu2BFfRz0414人間七七四年
2010/11/21(日) 13:09:13ID:iI+QVGP90416人間七七四年
2010/11/21(日) 16:10:54ID:saAd/65Uこ、これは焼き味噌じゃ!!
0417人間七七四年
2010/11/21(日) 16:43:24ID:2hWSh0ji上総国に酒井小太郎定隆という男がいた。
元々は遠江国の土豪だったのだが、知行が少ない事を不満に思い、戦乱の続く関東
で一旗挙げようとわずか三人の従者のみを連れて下向。鎌倉公方・足利成氏に仕え
たのだと言う。
しかし、公方家は鎌倉を追われ古河に逃亡。出世が望みであった定隆はそれを期に
足利家を見限り、上総国に渡った。
当時の上総国は安房国の里見義豊の支配下にあった。
諸国を見聞した浪人として義豊に面会した定隆は、各国の軍法や見聞きした戦の詳
細、大名の評判等を余す事なく義豊に披露し、その功で家臣に取り立てられる。
その当時上総を制したばかりの里見家は、下総からの執拗な攻撃に悩まされていた。
新参の定隆はまず、下総勢との最前線に投入される事になる。
この戦で定隆は活躍。上総、下総の国境地帯を押さえ、これ以上の敵の侵入を防ぐ
事に成功した。
これに喜んだ里見義豊・義弘の両将は、定隆に上総国の三分の二を任せる事にし、
越中守の名乗りを許した。
定隆は当時寂れていた土気の古城を再興してそこを居城と定め、上総を治めたと言
う。
大永元年(1521年)八十七歳になった定隆は土気城を長男・左衛門佐定治に譲り、
出家&隠居。隠居城となった東金城は後に三男・孫五郎隆敏が相続する。
これにより上総には土気・東金の両酒井家が並立する事になるのである。
『土気古城再興伝来記』から上総酒井氏の出世話。
通説では定隆は美濃国出身で、幕府の軍に従って下向。幕府から鎌倉公方家に乗り
換えて、成氏の命によって上総北部を平定した、という事のようですね。
この『土気古城再興伝来記』、中々面白い逸話が載っているんですが、あまり長文
なのも、連投での大量投下も、ウザいと思いますので、一日一〜二話位のペースで
投稿させていただきます。いい話、悪い話合わせて計六〜八話位かと思われますが、
よろしかったらお付き合いください。
……一つだけ言わせて貰おう。里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!
0418人間七七四年
2010/11/21(日) 19:10:52ID:88qvFQ00里見の謎だね
0419人間七七四年
2010/11/21(日) 19:14:35ID:djmKJfZM0421人間七七四年
2010/11/21(日) 21:33:46ID:XveU73MM伊達政宗だって9代目と17代目と二人いるじゃん
0422人間七七四年
2010/11/21(日) 21:35:48ID:4a70b2O80423人間七七四年
2010/11/21(日) 21:36:04ID:OW74PhoH0424人間七七四年
2010/11/22(月) 00:51:11ID:b16A/BfL0425人間七七四年
2010/11/22(月) 06:00:43ID:UK1+okYB0426人間七七四年
2010/11/22(月) 06:26:48ID:LsN32bIh0427人間七七四年
2010/11/22(月) 06:39:39ID:tbrnX57g270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 03:53:48 ID:01sVF3IG
毛利家臣の福原氏も何がなにやら。
福原広俊(毛利元就の外祖父)
↓
福原貞俊(筆頭重臣)
↓
福原広俊(筆頭家老)
↓
福原貞俊(四人衆の一人)
↓
福原元俊(豊臣姓を賜る)
↓
福原広俊(輝元時代の重臣)
↓
福原元俊(長州藩永代家老)
↓
福原広俊(長州藩永代家老)
272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 02:11:59 ID:s2PiBCJL
こういうの見ると甲斐の郡内小山田さんとこがやっぱり奇異に写る
小山田信隆
↓
小山田信有(越中守)
↓
小山田信有(出羽守)
↓
小山田信有
↓
小山田信茂(↑の弟)
0428人間七七四年
2010/11/22(月) 07:16:26ID:auvWP8u50429人間七七四年
2010/11/22(月) 07:44:59ID:EBT+8M+/おれは松たか子兄を染五郎と呼ぶ。
ややこしい。
0430人間七七四年
2010/11/22(月) 09:23:30ID:6YeM6tjh俺の先祖もほとんど一代ごとに名前が入れ替わってるだけだったなぁ
昔はあまり名前に頓着してなかったと考えるには偏諱とかあるのはおかしいしよくわからんなぁ
0431人間七七四年
2010/11/22(月) 09:45:35ID:aHSadx3yいんですが、流石に寛政年間に書かれた本では、単純に当主の世代を把握し切れていなかっ
たと見るのが妥当かと。w
0432人間七七四年
2010/11/22(月) 09:49:01ID:aHSadx3y>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4893.html
の酒井定隆の時代、下総国に日泰聖人という僧侶がいた。
定隆が上総に渡る際、船を襲った高波を鎮めたと言い、それが縁で酒井家の尊崇篤
い僧侶であった。
下総国八幡郷(千葉県市川市八幡)で八幡宮の神主を務める市川刑部の息子が疫病
にかかった。
病人は、
「これは八幡神の崇りだ。私には親しくしている高僧がいるから、彼の読経を聞か
せてもらいたい」
と訴えたのだが、何故か近所の者、親族一同は相談の上、それを無視。日泰聖人に
祈祷を頼んだ。
日泰聖人が読経を上げると、たちまちに病人は快癒してしまったという。
またある日の朝、本堂でのお務めの最中。
突然怪しげな風が本堂を舞い始める。
日泰が入り口の方を振り返ると、そこには一人の女性が赤子を抱いて立っていた。
「…………寒い……」
泣きながらつぶやく女性。
出産の際に命を落した女性が、子供を死なせてしまった後悔から化けて出てくる亡
霊、『産女』であった。
「ここは……寒い……この子…助け…て……?」
涙を流し、助けを求めながら日泰に赤ん坊を差し出す産女。
日泰はその赤ん坊を受け取り、片手で抱き上げて女性と赤ん坊の為に読経してやっ
た。
女性が深々と頭を下げて姿を消した時には、日泰の腕に抱かれた赤ん坊の姿も消え
ていたと言う。
しかし、それが夢でなかった証拠として、日泰の片腕は凍えたまま、一生涯動く事
はなかったのである。
『土気古城再興伝来記』から法華宗の坊さんの話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4113.html
といい、法華宗の坊さんは産女に縁があるな。ww
0433人間七七四年
2010/11/22(月) 10:29:55ID:uAHfw04cいや父親では駄目だったから、ってことなんだろうけど
0435人間七七四年
2010/11/22(月) 11:16:38ID:OFcpXlAj功徳や霊能力もあると考えられていたのではないか。
もちろん個人差は非常に大きいが。
0436人間七七四年
2010/11/22(月) 11:23:57ID:ZYXAemV3お葬式やると穢れで神事ができないからって檀家をもってないんだよね
0437人間七七四年
2010/11/22(月) 11:29:10ID:LDgAF04R0440人間七七四年
2010/11/23(火) 08:24:29ID:6q0XuDhK成仏する前に
「赤ん坊なめんな?! 赤の他人が何で抱いてるんだよ?!
経唱えるのを止めないと凍らせるぞ? あ!?
凍らせちゃってるのに読経続けるなんて度胸あるな!? くッ!!」
てな感じで凍らせちゃってたんじゃね?
0441人間七七四年
2010/11/23(火) 10:49:11ID:1xlbSPMO日本もJr.や 大小○○ の概念を取り入れるべきだ
大小山田信有(越中守)
↓
中小山田信有(出羽守)
↓
小小山田信有
0442人間七七四年
2010/11/23(火) 12:52:12ID:ySTUTlpN大小○○ってのは外国人の名前を分かりやすくするためのものだろう?
だから日本人には外来語を導入すべきだ。
小山田信有α
↓
小山田信有β
↓
小山田信有γ
0444人間七七四年
2010/11/23(火) 13:22:36ID:0ILJiCxQ0445人間七七四年
2010/11/23(火) 13:26:54ID:1C21UKU1「何代目〇〇守(官位)」、「何代目〇〇屋」、「何代目〇〇衛門」って呼ぶのが普通だった。
家督を継ぐとはその家の「屋号」を継ぐ事なわけだ。
0446人間七七四年
2010/11/23(火) 13:48:52ID:Z69JN7gCだが現代人的感覚だと名前(諱)まで使い回すのはそれでいいのかよ、という
もやもや感は拭えないな。当時の感覚では別に気にしなかったのだろうけど。
0447人間七七四年
2010/11/23(火) 13:55:59ID:WJzUmZ63もちろん絶対に口に出して言うことはない。
0448人間七七四年
2010/11/23(火) 14:12:08ID:dqWEyWjP0449人間七七四年
2010/11/23(火) 14:49:52ID:D4SD4O3l元康「忠真、鍋を元服させようと思う。」
忠真「鍋之助をですか?鍋之助はまだ12歳ですぞ?」
元康「何を言う。鍋はもう大人顔負けの働きをしているではないか。問題なかろう。」
忠真「しかし…まだ早すぎでは…。」
元康「そうと決まれば名前を付けなければならんな…まあ通称は父親と同じ平八郎でいいだろう。」
鍋之助「ドキッ」
元康「諱はどうしようかのう…。やはり『トンヌラ』かのう。ちと平凡すぎるな。」
鍋之助「(た、助けて…)」
忠真「あの、せめて『忠』の字は入れて…」
元康「何かいいダジャレはないものかのう。本多平八郎ホニャララ、うーむ。」
鍋之助「ガクガクブルブルブル…」
元康「父も祖父も戦死しているからのう。勝てそうな名前がいいのう。本多平八郎勝つ…。」
鍋之助「…」
元康「本多平八郎ただ勝つ…。忠勝…。よし、これにしよう!ただ勝つのみ。
鍋、これからは本多平八郎忠勝と名乗るがよい!」
忠真・鍋之助「ホッ…」
こうして本多鍋之助は元服して本多平八郎忠勝と名乗るようになった。
家康公、このころはまだネーミングセンスは普通だったというお話。
0450人間七七四年
2010/11/23(火) 14:55:57ID:WJzUmZ63オシャレではないけど。
0451人間七七四年
2010/11/23(火) 15:25:55ID:xt4/Xerf0452人間七七四年
2010/11/23(火) 15:51:47ID:eHpHqfNz0453人間七七四年
2010/11/23(火) 16:02:44ID:1C21UKU1http://feb.2chan.net/img/b/src/1290480474629.jpg
0454人間七七四年
2010/11/23(火) 16:03:36ID:1C21UKU10455人間七七四年
2010/11/23(火) 16:06:16ID:1xlbSPMO0456人間七七四年
2010/11/23(火) 17:06:18ID:ydIFhD3Lたいへんだ。入ってくる。どうすればいいんだ・・・!!
「私・・・キュアマリン・・・今あなたのベランダにいるの・・・」
ベランダだと!? ベランダから入ってくる気か!?
「私・・・キュアマリン・・・今セブン・イレブンにいるの・・・」
あれ? うちの裏のコンビニか?
「私・・・キュアマリン・・・今吉野家にいるの・・・」
おお・・・遠ざかってゆく・・・。
それは3年も前のことでした。
今朝、会社へ出かける前に、「ハバロフスクにいる」
との便りをもらいました。春はまだ遠いだろうなあ。
がんばれよ。
0458人間七七四年
2010/11/23(火) 22:01:45ID:TaCKzR+m0459人間七七四年
2010/11/23(火) 23:49:14ID:WuaCG2FH戦国もアニメも関係ないけど。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/38_1.html
0460人間七七四年
2010/11/24(水) 00:31:00ID:1Loh8rnMちょっと懐かしくてホロリ。今じゃ平仮名だそうですが
0461人間七七四年
2010/11/24(水) 00:48:12ID:UDaj1NRj第二次国府台合戦の結果、里見家の勢力は大きく減退する事になった。
北条家は下総、上総を踏み潰し、そのまま安房まで攻め込もうと大軍を動員。手始
めに池野和田城の多加蔵人を攻め、自害に追い込む。
国府台合戦の折には北条勢の追撃を食い止め、敗走中の里見勢を無事に逃がした土
気城の酒井中務丞胤治。
当然、自分も攻められると考え、半ば以上切腹も覚悟で篭城の準備を進めていた。
が、そんな所にやってきたのは北条家からの使者。
なんと和睦に応じて欲しいと北条家の方から打診してきたのである。
「上総酒井家の初代・定隆公は遠江の出身。その頃に今川家の客将であった我が北
条家初代・早雲公が定隆公と入魂のお付き合いをさせていただいておりました。
我等としては胤治殿に何の恨みも持っておりません。昔の友誼を忘れず、我等に力
を貸してはいただけぬでしょうか? 北条家には早雲公と定隆公で交わした手紙も
残っております。その様な縁がある家を、我等の手で滅ぼしたくはないのです」
胤治は和睦に応じ、息子を人質として小田原に送る事になった。
この和睦に激怒したのは里見義弘。
「裏切り者の末路として見せしめにしてやる」
と意気込み、六百騎の軍勢を土気城に送り込んだ。
しかし、安房からの遠征で疲れが取れない所を土気勢に攻め立てられ、逆に敗走に
追い込まれてしまう。
酒井家中の竹内太郎左衛門、逃げる里見勢を見て、
「こんな事もあろうかと、抜け道を準備してたんだよ!」
と、里見勢の敗走路に先回り。物陰から弓の狙撃であっと言う間に十四、五人を打
ち落としてしまう。
里見勢はこれを一人だとは思わず、別働隊による奇襲にあったと勘違い。パニック
を起こしたように散り散りになって安房に逃げ帰ったと言う。
0462人間七七四年
2010/11/24(水) 00:49:45ID:UDaj1NRj戦後、論功恩賞の場で
「一番の手柄は竹内太郎左衛門を置いて他にはいない」
と皆が口をそろえるが、そんな中ただ一人富田伊豆守が、
「太郎左衛門が十数人を討ち取ったと言っても、勝ちに乗る味方に追い立てられて
逃げ回る連中を討ったに過ぎない。敵に打ち勝ち、敗走させた我々を差し置いて、
そのおこぼれに預かった太郎左衛門が一番手柄とは納得出来ない。それに、奴は討
ち取った連中から武具やら衣服やらを剥ぎ取って自分の物にしている。それだけで
十分の恩賞といえるんじゃないか?」
この言葉によって議論は紛糾。
「富田の言葉にも一理ある」「いや、でも竹内が十数人を討ったのは事実だぞ」
主君重臣を交えて様々な意見が噴出する中、板倉長門守が口を開く。
(>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4895.html の板倉大蔵の息子)
「味方の武士が敵に向かって命を賭け、謀を巡らすのはすべて恩賞の為だ。功を立
てたのに恩賞をケチッては誰も戦場で働かず、国が成り立たない。ここは当然、太
郎左衛門への恩賞はケチるべきじゃない。それに太郎左衛門は人より抜きん出た手
柄を立てようと謀を巡らせた結果の手柄だ。伊豆守は彼のような謀を持たなかった。
当然、一番手柄は太郎左衛門の物だと言うべきだろう。そもそも太郎左衛門が敵か
ら剥ぎ取った武具等は、主君から下された恩賞ではない。その様な物を理由に恩賞
を減らされたのでは道理が立ち行かなくなってしまうではないか」
これによって竹内太郎左衛門の一番手柄が決まり、恩賞が下された。
しかし富田伊豆守は板倉長門守を恨み、これ以降不和になったと言う。
流れで一緒に並べてしまったけど、『土気古城再興伝来記』から北条家&酒井家の
旧交のお話と、スタンドプレーでの手柄も超OK!な戦争のお話。
……長台詞が多いな。我ながら読みづらい。orz
0464人間七七四年
2010/11/24(水) 10:02:14ID:1Loh8rnM>451の山県さんも平八さんの名付を喜んでいるジャマイカ
0465人間七七四年
2010/11/24(水) 19:25:04ID:fAQ5IgJD大力として有名であった。
彼が16・7の頃のことだという。
若侍達が多く寄り集まり、諸国の武辺のことなど語り合う事があった。
そのなかで非常によく喋る者が一人居たが、彼が急に進み出て
「そうそう能登守(満延)聞いてくれ。貴殿は力持ちだという話だが、それを是非試してみたい。
山形両所宮に大鐘が釣ってあるだろう?最近も力自慢の兵たちが集まって、この鐘の掛け下しが出来るかどうかで
その力を見せ合っていたよ。
貴殿ほどの大力ならあの位の鐘簡単に持てるだろう?俺達が見物している前で、それをやって見せてくれよ!」
まあ、大人の力自慢でも手こずる鐘を、満延もそう簡単に持ち上げられるものか。
持ち上がらなければ笑ってやろう。という魂胆なのだろう。
これに満延
「いいよー」
と簡単に答え、皆と共に山形両所宮に着くと、その鐘を見るやいなや、瞬く間もあらん、気がついたらすでに鐘を
取り下ろしていた。
さらにひょいと抱えると自由自在に頭の上で回し、さらに鐘を持ったまま雲井の上に飛び上がり、
お手玉のようにポンポンと取り扱った。
「何だ、提灯より軽いじゃないか。この程度の軽い鐘を、なんでお前たちは大げさに言ってたんだい?」
そしてふと気が付き
「あ、そうそう!この鐘俺にくれないか?在所の鶴子(現山形県尾花沢市)まで持って
帰りたいんだ!」
「い、いいけどお前、鶴子ってここから10里以上離れているじゃないか…」
「大丈夫大丈夫!」
延沢満延、この鐘を難なく鶴子まで持ち運んでしまったとか。
これを見た者、この話を聞いた者は、彼のあまりに常識はずれの大力に、
呆れぬものはいなかったという。
延沢満延少年と山形両所宮の大鐘、というお話。
0466人間七七四年
2010/11/24(水) 20:48:15ID:OADkwknv「くれないか?」は宮司さんに聞かないとw
0467人間七七四年
2010/11/24(水) 22:19:29ID:83L2p/ihi r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ く れ な い か ?
(レスは省略されました。すべてを見たいときはここをクリックしてください)
0468人間七七四年
2010/11/25(木) 13:16:17ID:pnbFlo9T0469人間七七四年
2010/11/25(木) 13:42:12ID:aDdCkTFB実はこの勝成という名前、関ヶ原以降に自分で付けた名前である。
幼名は国松だし、本来は忠則と言う水野家の諱を継いだ立派な名前を持っていた。
じゃあ、なんで名前を変えたのか?
伝承によれば
自分は「戦に勝つなり」だから勝成と言う名前に変えたらしい。
って言うか関ヶ原以降に変えたのならとっくに30半ば過ぎてるわけで
もうこの頃にはそれなりの立場にいただろうに
と思ったが、この人放浪中も「六左衛門」と名乗ってる
今の意味で言うと「ろくでなし」と自分から名乗ってたらしい。
ある意味納得。
まあ、ともかく水野勝成はこの「勝成」と言う名前はいたく気にいってたらしく
後年、島原の乱の平定に行く際、沼隈郡能登原沖矢の島近くを通った時にこんな一首を残してる。
武士の 矢のにかかる 門出には 矢種つきせぬ 軍かつなり
歌の内容はかつてその地であった源平の合戦の故事を題材にしたものであり
平教経がその地で那須与一の部隊らと対峙した際、平教経が射た矢がとある島に当たり
その後、この島から矢竹がたくさん採れるようになり、
この島を「矢の島」と名付けたことに由来する話なのだが
歌の最後に自分の名前とかけて
「軍かつなり」つまり戦に勝つなりと、親父ギャグな一首を残したw
まあ縁起担ぎが出来る名前に改名したのは、ある意味良かったのかも。
左義長まんじゅうといい、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3036.html
名前の付け方がストレートな水野さんのお話。
0470人間七七四年
2010/11/25(木) 15:03:46ID:w/ZZb8hq0471人間七七四年
2010/11/25(木) 15:45:52ID:oZeTXhQU0472人間七七四年
2010/11/25(木) 16:32:45ID:34jYn3080473人間七七四年
2010/11/25(木) 18:14:56ID:p2nffH7Vみずの かつしげ と読ませてる例も多いな
0474人間七七四年
2010/11/25(木) 18:39:09ID:YqZTvPlO他にも居るかもしれんがかなり少ない感じ。
あと家臣には下の方の「長」で、「信」のほうは、一族以外は同盟大名やその子弟にしか許してない
感じですな。
0475人間七七四年
2010/11/25(木) 18:41:55ID:K34eHT6j0477人間七七四年
2010/11/25(木) 23:18:49ID:YqZTvPlO利家の息子は信長時代は利勝。秀吉の時代になってから利長。
つーか信長の時代にその偏倚を利の後ろに持っていけるわけ無いでしょw
森家の長隆、長氏は確かに信長の偏諱だね。森家は信長から愛されすぎてるわw
0478人間七七四年
2010/11/25(木) 23:58:20ID:EFii+6Qq蘭丸が、「イヤ、『長』でいっすよ」
と答えたという話を聞いたことがあるけど、さすがにデマだよな?
0479人間七七四年
2010/11/26(金) 00:04:29ID:+556C9Ed真実かどうかはともかく、信長と蘭丸の関係ならそういう事もありそうだね、
ってことが重要なんだろうな。
0480人間七七四年
2010/11/26(金) 00:53:48ID:+556C9Ed幕府の旗本の中に、古に福島家に仕えたものの子孫があり、この者が家より、
立花宗茂が福島正則から借金をした、その証文を見つけ、立花家に差し出し
その証文を返した、という事があったという。
その証文には、このように書かれていた
『拠無き儀にて金子借用いたし候。いついつの頃には、きっと返却致すべき候。
もし違約いたし返済致さずば御笑い成さるべく候。』
これを見た人々
「古の武士は義の心も強く、笑われることを何にも代えがたい恥だと思っていたのだ。」
と、感嘆したとのことだ。
宗茂がその借金を返したのかどうか、証文が何故その旗本の家に残ったのか、
その事はよくわからない。
ともかくも戦国の武士の風を感じさせる、借金証文についてのお話。
0481人間七七四年
2010/11/26(金) 00:59:25ID:J+L1UfJw意外と人にたかるのがうまかったのかも知れん
0482人間七七四年
2010/11/26(金) 02:31:25ID:6hoLr8Za0483人間七七四年
2010/11/26(金) 05:26:32ID:wXqm3rKb家光が朝鮮人(朝鮮通信使だろう)の曲馬を観覧する機会があった。
この時伊達政宗も家光に相伴にしていたのだが、どうやら早朝の催しだった様で、
少なくとも政宗のほうは朝食がまだだったらしい。
ここで仙台藩士、大越茂世というものがあった。
かつて大阪の陣で片倉重長の軍に属して兜首を上げた武勇の人だったが、
実のところそれよりも料理の腕で政宗に数々の奉公を立てた人であった。
この茂世、主君が腹を空かしているだろうと思い行厨(弁当)を一つ拵えると、
数奇屋橋を通って政宗のもとへと急ごうとした、のだが……
「あいや、またれい。例え伊達公の御家中と謂えど、今通ること罷りならん」
この数寄屋橋、ちょうど将軍警護のために幕臣が通行規制を行っているところだったのだ。
まあ将軍が江戸市中に繰り出してるわけで、当然の厳戒態勢だっただろう。
というか陪臣を将軍に近づけるわけが無いのが道理である。
とはいえ茂世としても、家臣としての面子というものがある。
「主君はおそらく飢えている。お許し願いたい」
「いや無理。貴殿の主君は上様のお傍にある。近づけるわけにはゆかぬ」
茂世にも義務があるなら、番士にしたって同じこと。当然答えはノーだ。
では茂世は諦めるか。普通なら諦めるところだろう。
というか、将軍の傍近くまで近よろうとか近づけるとかそもそも考えない。
ところがどっこい、この大越茂世という武士は、
政宗からすら「こいつ勇敢だけど平気で法を犯す人柄だからなぁ」といわれる類の男だった。
「主人を飢えさせる。何の面目あって生きていけるだろうか」
言うが早いが、どっかと番士の前に座り込んだ茂世は脇差の鞘を払い、
その切っ先を迷わず突きたてようとする!
驚いたのは番士である。当然の義務を果たしてるだけなのだが、
よりにもよって将軍の間近で祝いの席を血に汚されてはたまらない。
ましてや、相手は家光の覚えめでたき伊達政宗の家臣なのだ。
何がどう転んで自分に罪が及ばないとも限らないではないか。
「……そこまでなさるならやむを得ぬ、通られよ」
「かたじけのうござる」
話がどう通ったのか、誰が許可したのかは記録には残らない。
だが茂世は数奇屋橋を通過し、家光の傍らに控える政宗の下に弁当を届けた。
こうした数々の茂世の忠勤に、政宗は大いに気をよくしたという。
大越茂世、法を曲げてでも政宗に弁当を届けるの巻。
……ただし、政宗は茂世の出身(大越顕光の義弟、大越源兵衛(甲斐守の弟)の子)自体は大嫌いで、
嫡男でやっぱり茂世の忠勤を評価していた忠宗に対しては、
「俺こいつ自身はともかくこいつの出身嫌いだから取り立てない。お前の代で取り立てろ」
なんてむちゃくちゃを言い残していたりするからまーくんもたいがい執念深い……
0484人間七七四年
2010/11/26(金) 07:29:42ID:lHmgAf8I0485人間七七四年
2010/11/26(金) 10:42:58ID:+DiPReHf0486人間七七四年
2010/11/26(金) 11:55:41ID:UY0lCKSqむしろ、出自で恨まれて
当時だったらもっと可哀想なことになりそうなのが
俺の代は取り立てないけど息子の代では取り立ててもいいよ
って話になってるあたりがちょっといい話の部分じゃないのかと。
0487人間七七四年
2010/11/26(金) 12:08:13ID:/FL1osud本人自体のことは恨むどころか出来れば取り立ててやりたい、って思ってたんでしょ。
0488人間七七四年
2010/11/26(金) 12:40:13ID:UY0lCKSq自分の代で取り立てないのは周りへのけじめもあるのかもね。
0489人間七七四年
2010/11/26(金) 12:45:20ID:MF5CnMsz0490人間七七四年
2010/11/26(金) 13:07:31ID:SpIFX+YN0491人間七七四年
2010/11/26(金) 14:07:50ID:fwNoKnVy嫌いだからて、いかにも印象操作してる感じがする。
田村家出品で、反伊達派だから、政治的な配慮もあるだろ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1249.html
04921/2
2010/11/27(土) 00:04:26ID:tE13QuhJ讃岐は松山の善通寺に、納所(施物の金品・米穀などの出納事)そしている僧があった。
彼は大変に律儀篤実な性格であったため信頼され、その年の寺中諸勘定(年間の収入と支出の計算)を
任された。
ところがこの僧、もとより計算など不案内で、一切の不正無く正直に計算したにもかかわらず、どうしても
20両ほどが足りない、ということになった。
彼はこの事を朝夕思い悩み、計算をしなおしたり数字の確認をしたりしたが、やはりどうしても20両足りない。
真面目な性格のこの僧『これは私の責任である。こんな体たらくで生きていても恥辱であるだけだ。
…よし、死のう。』と思いつめ、遺書を書き『今宵死のう』と坐禅を組んで夜がふけるのを待った。
その時である
「死ぬのはしばらく待ちなさいよ」
戸の外から突然、声が聞こえてきた。
僧驚き
「わ、私は死ぬことを誰にも言っていない!私の心中を知るお前は何者か!?」
「まあまあ、ちょっと外に出てきてください。言っておきたいことがあります。」
僧が外に出てみると、そこにいたのは大きな古狸であった。
「恐れながら、聞いて頂けますかね?俺はね、この山に数年来住んでる狸で、こう言うことには鼻が効くのさ。
あんたはどうしてそこまで心が追い詰められて、死のうなんて思ってるのさ?」
「…もはや決心したことであるし、隠すこともないだろう。
かくかくしかじかの理由で私は死を決したのだ。…それにしても、かねてからこの山に年久しく住む狸がいるとは
聞いていたが、おまえだったのか。その狸が、どうして私が死のうとするのを止めようとするのか?」
「その前にちょっとお聞きしますが、足りない額はいくらで?ふむ、20両…。分かりました、俺がその20両、
明後日までに用意しましょう!だから死んじゃだめですよ?じゃ!」
去ろうとする狸に僧、慌てて呼び止め
「ちょっと待て!お前の志は大変ありがたいが、それは駄目だ!
狸は金を持っているわけがない。金を用意するというのならおおかた、どこかから盗み取ってくるのだろう。
それは私が盗むのも一緒である。やはりいけない。この事止めにしよう!」
「ははは、あなたがそう疑うのも尤もなことだが、そんなことはしないよ。安心して待っていなさいって。」
そう言って立ち去った。
04932/2
2010/11/27(土) 00:05:22ID:tE13QuhJ本当に持ってくるとは…」
僧、大いに喜んだ。…が小判を見るうちに
「違う!これは違う!」
僧、驚いて
「た、狸よ、この小判はたしかに金で出来ているが、我々が使っている小判とは形がまるで違う!
これは一体どういう金なのか!?」
「これはね」
狸、答える
「讃岐と土佐の境、人家も耐えた幽谷に埋まっていた、長宗我部の埋蔵金さ。
長宗我部盛親が関ヶ原の後没落したときのことだ。
長宗我部の連中はその幽谷に、金銀を埋め隠したんですよ。
これがまた恐ろしく深く険しい谷でね、我々の眷属であってもなかなか、手がだせないんなが、
まあどうにかこうにかして、そこからこの20両を揃えてきたのですよ。」
「どうしてそこまでして…?」
「俺はこの山に住んで年久しくなるわけだが、そのうちに子孫も増えて、食料にも事欠く時があったのさ。
だがそんな時、納所のあんたが寺のお供え物を山に捨ててくれた。それを拾ってきて俺は自分の
眷属を養うことが出来たんですよ。その恩返しさ。
…ま、もう一つ正直に言えば、あんたに死なれて新しい納所になったら、あんたみたいに俺達に良くして
くれないんじゃないか、とも思ってね。まあそんなわけで俺たちの眷属一同、必死でその埋蔵金を探したのさ。
じゃあな!」
そう言って姿を消した。
残された僧は途方に暮れた。
「このような金、今の世間に通用しないではないか。」
もはや致し方なく、住寺にすべてを告白した。住寺大いに驚き
「計算が合わないからと言って、死を考えるなどあっていいものか!」
と、彼の誠実さを感じつつ叱った。しかしてその長宗我部の20両、住寺にもどうにも取計れず、
事の訳と共に松山の役所に届けた。事のあまりに奇異さに役所から領主に伝えられ、領主からは
「その金子、現在通用している小判に直せばいくらほどになる?」との諮問を受け、専門家が計算したところ
「百両あまり、といったところです」との答え。
そこで長宗我部の埋蔵金20両は領主のもとに差し置かれ、善通寺には新たに、通用金で百余両が
下げ渡された、とのことである。
讃岐善通寺の狸と長宗我部埋蔵金、のお話。
0494人間七七四年
2010/11/27(土) 01:36:27ID:40SVBwaw0496人間七七四年
2010/11/27(土) 11:05:08ID:vGEDQhUj常に赤ら顔ででっぷりと突き出た腹、短足、風呂嫌い、そいつが狸だ
最近は飲みに行く同僚も金もなくて寂しがってるからちょっと相手してやれ
0497人間七七四年
2010/11/27(土) 11:09:41ID:kIKHEjZHこれは経済規模が拡大したから?
0499人間七七四年
2010/11/27(土) 13:13:47ID:cbQ5ndMJ純度と大きさ、も+かな。
200年後の金の方が他の混ぜものして質を落としている。
8代将軍の頃で例えると「家康の頃より今の方が小判1両の質が落ちており、含有率が半分以下」
って言われてる。
その後含有率はどんどん下がっており、15代の頃には開国その他の小判改訂の影響で
トンでもない内容に。
0500人間七七四年
2010/11/27(土) 14:47:28ID:w/UemxFO0501人間七七四年
2010/11/27(土) 14:49:04ID:eB89gQu30502人間七七四年
2010/11/28(日) 00:48:37ID:xpDCb4XP山本常朝曰く
「春岳和尚の言うには、天地をも動かす気合を備えた者は、
日本開闢以来、豊臣秀吉ただ一人だったろうと思う、とのことだ。」
0503人間七七四年
2010/11/28(日) 06:33:24ID:yWasqKfi0504人間七七四年
2010/11/28(日) 10:41:43ID:XWDtN4Z5そらそうよ。大判=十両なんだから。
江戸時代には大判にはプレミアがついて十倍以上の価値になったらしいが。
0505人間七七四年
2010/11/28(日) 11:35:52ID:wC+n/paj対小判相場があるのは認める
05061/2
2010/11/28(日) 17:15:38ID:HMxmlkupいち早く釜山、登莱を攻略した日本軍は、これから直ぐに朝鮮の都に向かって進撃するか、
それとも秀吉からの命令を待つかで評議をした。
ところが諸将の議論様々に分かれ、とても纏まりそうにない。
この時、福島正則が進み出て発言した
「今回日本を離れ高麗の地に向かうと決まった時から、この命は太閤殿下に捧げ、死骸を
朝鮮の地に晒そうと思い定めて来た。
このような事今更あなたがたに申すのもおこがましいが、三千の兵が一致して命をかるんずるときは
万の兵を破るのも安いと言う。いわんや今我々には十余万の人数がある。
進んで決戦をするのに何の不足があるだろうか!
各々方、どう思われる!?」
すると加藤清正が進み出て言う
「武具を肩に懸けるほどの人間であれば、戦場に望んで誰が命を惜しむものか。
ましてや今回の戦、上古にも例のない朝鮮征伐のために我々は差し向けられた。
その先陣を仰せ付けられた私に言わせれば、なおもってこれからの行動こそ慎重にすべきだと考える。
我が身命を捨てるということはさておいても、進むべきでないときに進み、止まるべきではないときに止まり、
この戦全体を壊してしまっては、上の御為、またさらには日本国末代までの瑕瑾となってしまう。
評議というものは意見を調整し行動を一致させるためのものであろう。
福島殿の言葉、近頃稀な傍若無人である!」
「傍若無人とはなにか!?」
「そうではないと言うのか!?」
正則と清正互いに非難しあい、斬り合いでもしかねぬ勢いとなった。
05072/2
2010/11/28(日) 17:17:43ID:HMxmlkupここで座長役と言っていい小早川隆景が、立花宗茂の方を向いて言った。
「宗茂殿、あなたは秀吉公から西国一の武勇と呼ばれたほどの方です。
若手であるからと遠慮せず、思ったことを遠慮なく申されると良い。」
宗茂、これを再三辞退したが、正則と清正の喧嘩による空気を変えてほしい、そんな気持ちもあったのだろう、
隆景の言葉に促され、諸将もしきりと宗茂に発言を求めた。そこで宗茂も断りきれず、
ようやく発言をした
「私のような若輩者が申し上げるようなこと、少しも役に立つとは思えませんが、
申さねば隆景殿の権威を軽んずるようにも思え、愚見を申し上げます。
我々の捕虜にここから都までどれほどあるか尋問したところ、まだ遥々と遠い。と申しました。
ところで、多人数というものは直ぐに集められるものではありません。
もしここでの議論が整わず、都への進軍が遅々として遅れれば、敵は大軍が都に集まり、
我々がこれより進軍する道すがらを、その大軍をもって難所難所に配置しこれに防がれれば、
我らにとって由々しき困難と成るでしょう。
ここは一刻も早く都へ討ち入り、都において合戦を遂げ、あるいは敵が都も放棄するようでしたら
そこを占領し、ともかくも都まで進出した上で再び如何様にも評議いたせば良いのではないでしょうか?」
これに諸将
「それは大変正しい意見であると考えます。しかしながら朝鮮の都に人数が未だ集まっていないと申されたが、
そう考える根拠は何であろうか?」
「そこです。仮に大軍が既に招集してあるのなら、釜山、登莱をはじめ各城に少人数が籠城しているだけ、
という事になるはずがありません。既に人数が集まっているのであれば、彼らは大軍をこれらの城に差し向けて
防衛をしたでしょう。そうでない以上、未だ人数は集まっていないと考えてしかるべきだと思います。」
この宗茂の意見に諸将尤もと同意し、日本軍は釜山に留まること無く都に向かって進軍した。
文禄の役発進の軍議、と言うお話。
0508人間七七四年
2010/11/28(日) 18:22:46ID:rNf5YOEl0509人間七七四年
2010/11/28(日) 18:24:57ID:fAaiSzv2安心の宗茂
0510人間七七四年
2010/11/28(日) 18:50:01ID:7CzQdynq慎重な清正も、史実とは違うなw
問題は、なぜ、どこからこういう逸話が作られたのかだね。
0511人間七七四年
2010/11/28(日) 19:10:06ID:UkNzBkDi宗茂の証文の話が出たのでついでに
水野勝成が猟に出かけた時の話し、猟に熱中し過ぎて案外遠くまで来てしまった勝成、そのため路銀が乏しくなったので放浪時代から馴染みのある庄屋 江草五郎左衛門という者にお金を借りる事になった
水野「すまんが路銀が底をついてしまったので少しばかり都合してもらえないか?」
江草「それは構いませんがいくら水野様とはいえしっかりと証文を書いてもらいますよ、それと借金は私の年貢の前払いって形にしてもらいます!」
勝成はその条件を快諾しすぐに証文を書いて渡した
証文
金二百両 年貢の一部としてにわかに受取った 勝成
江草の大馬鹿者へ
と、
五郎左衛門とかなり仲が良かった事と「普通に書いたんじゃ面白くねぇな」とふざけた勝成の性格が垣間見える話
ちなみに証文も現存しています
0513人間七七四年
2010/11/28(日) 19:29:32ID:fAaiSzv20514人間七七四年
2010/11/28(日) 21:29:25ID:DTJnfDCk江草ILE「いえいえ、お殿様にはかないませぬ」
勝成・江草「わはははは」
0515人間七七四年
2010/11/28(日) 21:43:19ID:xpDCb4XP山本常朝が言う
「直茂公が本庄村の梅林庵で習字を習われていた頃の話なんだが、
梅林庵の近くにあった宝持院という寺が、
髪の手入れ、着付などすべてにおいて心からのお世話を直茂公に尽くされた。
その後、直茂公がご成長なされ感謝の気持ちから宝持院に対して、
『何なりと望みのものがあればかなえましょう』
と仰せられたので、宝持院は、
『当寺としてはなにも御願いすることはありません。
ただ蒟蒻を一生の間食べ続けたいと思っています。
直茂公がご親切に仰ることでございますので、どうかこの望みをかなえてください。』
と申し上げたそうだ。
なに!その願いはどうなったかと?
もちろん我が鍋島藩の誇る直茂公のこと、それ以前に武士に二言はないのが当たり前でもあろう。
生涯に渡り、2日に1度、使いの者が宝持院へ蒟蒻を届けたということである。
0516人間七七四年
2010/11/28(日) 23:25:22ID:44CUhdD00517人間七七四年
2010/11/28(日) 23:29:02ID:rNf5YOEl0518人間七七四年
2010/11/29(月) 00:23:26ID:xNPSrX4Uぐぐったら1700年代後半に粉こんにゃくができるまでは
収穫期にしか食べることができなかった、としてあったが
でも葉隠の成立時期から考えるとこの逸話のほうが正しいのか
0519人間七七四年
2010/11/29(月) 01:47:55ID:OEVQNE8B賞味期限の概念がない時代だし、蒟蒻をどう保存していたのかもわからないし、
じっくり調べないと答えが出なさそうな問題だね
0520人間七七四年
2010/11/29(月) 01:49:39ID:NQE4ka3t毎食、あるいは毎日食べ続けることに直結するか否かという問題があるが。
0521人間七七四年
2010/11/29(月) 01:58:31ID:MVJYrPUX買ったりもらったりするようになったのはここ4,50年くらいだよ。
群馬じゃ今でも家庭で作るしね。
0522人間七七四年
2010/11/29(月) 03:32:29ID:c2xRG3Z6ばあちゃんが作ったこんにゃく食べると市販の物は食えない
0523人間七七四年
2010/11/29(月) 10:16:22ID:U+fTly3G0524人間七七四年
2010/11/29(月) 15:19:06ID:PxPDDUSz0525人間七七四年
2010/11/29(月) 18:24:51ID:1EY/M0Uehttp://www.hagex.com/pic/2010/0105001.JPG
群馬県の県庁舎 空撮
http://www.hagex.com/pic/2010/0105002.JPG
群馬県の民家
http://www.hagex.com/pic/2010/0105003.JPG
群馬県民
http://www.hagex.com/pic/2010/0105004.JPG
群馬県民
http://www.hagex.com/pic/2010/010514.JPG
群馬県から逃亡する県民
http://www.hagex.com/pic/2010/010513.JPG
栃木県との戦いに備える群馬県職員
http://www.hagex.com/pic/2010/0105005.JPG
群馬県民と栃木県民の戦い
http://www.hagex.com/pic/2010/0105006.JPG
裁きを受ける群馬県民
http://www.hagex.com/pic/2010/0105007.JPG
群馬県の日常
http://www.hagex.com/pic/2010/0105008.JPG
群馬テレビの放送より
http://www.hagex.com/pic/2010/0105009.JPG
0526人間七七四年
2010/11/29(月) 19:14:19ID:Vc5Ov/BE0527人間七七四年
2010/11/29(月) 19:17:53ID:leP6P1pf0528人間七七四年
2010/11/29(月) 20:22:05ID:sT0CZEmIまさか蒟蒻でこんな反応する奴が出てくるとは。
0529人間七七四年
2010/11/29(月) 21:09:41ID:zMULgwBt「本願寺の血統の凄さ」
本人は、摂関や清華七家の猶子となるのが慣例で、
奥さんは上流貴族の姫君ばかり
坊主が姫さんを孕ませて、世襲してきたのが真宗本願寺派の歴史
17世法如に至っては、子供30人も生ませてるw
寝所で、深層の姫君が、坊主にオマンコされてたんだぞw
0530人間七七四年
2010/11/29(月) 21:19:30ID:eZDVCVQO深層の姫君なら仕方ないな。
色んな意味でディープそうだし。
0531人間七七四年
2010/11/29(月) 21:19:59ID:rpAN+KAW0532人間七七四年
2010/11/29(月) 21:35:21ID:NQE4ka3t更に足利将軍家とかなり関係の深い外戚の家柄。
その上で一つの権威を握る地位に居るんだから何もおかしくない。
単なる坊主みたいな詐欺めいた言い方はちょっと頂けないかな。
0533人間七七四年
2010/11/29(月) 21:38:41ID:X6eDrTqF0535人間七七四年
2010/11/29(月) 22:13:25ID:j9nD9UvB三淵兄弟や細川蔵人についてよみたい
0536人間七七四年
2010/11/29(月) 22:18:07ID:2q4Q+oPMお姫様(とくに悲劇のヒロイン)が不細工じゃお話にならないからな。
>>534
顕如の場合は正室と仲良かったみたいだけどなあ。
政略結婚で云々といっても、わりと上手くいっているケースのほうが多そうだな。
0537人間七七四年
2010/11/29(月) 22:18:48ID:3H5qS9Zg金持っているやつは美女こませるし、
複数女の中でも良い女の方が交渉回数増えるだろうし
それが正室じゃないにしろ
美貌の遺伝子は家系にどんどん食い込んでくるだろ
0538人間七七四年
2010/11/29(月) 22:20:25ID:dALEQ9BNブサイク認定されておりますがなにか」
0539人間七七四年
2010/11/29(月) 22:29:44ID:gIMOCkA0http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-919.html
や
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2452.html
といった逸話(というより史実)が残ってるくらいだから、必ずしもいやいや政略結婚てわけでもないと思うが。
0540人間七七四年
2010/11/29(月) 23:41:26ID:f80pRbOb0543人間七七四年
2010/11/30(火) 00:41:03ID:NS5kdboN0545人間七七四年
2010/11/30(火) 09:50:21ID:2hkiFQ/V特に新しいエピソードは無いけどね。
http://www.podyose.com/
0549人間七七四年
2010/11/30(火) 12:07:00ID:HgyGrIXf“突然の陣触れのでしたので、支度もロクに出来ず、さぞ大変だったと存じます。
そちら(大坂)で他家と万事調整して行くのも難しいこととは存じますが、よろしくお願いします。
また、今回は河内守(長男・信吉)が大将ですが、息子はまだ若く、信之様のようには行かないし、
最近は幕府の法度も固く、さぞかしやり辛いでしょう。
ですが、どんな難しいことを言ってきても、御陣のうちは信之様に免じて忠義を尽くし、
奉公していただくよう、お頼み申し上げます。
この書状は、家老衆に回覧の上、御意見をいただきますよう、お願いします。
少なくてお恥ずかしいのですが、金子を用意しました。どうぞ皆様で分けて下さい。”
(まことニすこしにてはつかしく候へ共、金子すこし進し候を、みな手前よりうけとり候べく候)
大坂の陣直前、小松殿より真田家重臣団への書状。
息子に「兄弟のうちどっちか死んでも良かった」、本気でそんな事言う親はいませんよ・・・
0551人間七七四年
2010/11/30(火) 18:04:23ID:90NdDKu20552人間七七四年
2010/11/30(火) 19:56:53ID:8LFKZm7N0553人間七七四年
2010/11/30(火) 20:27:45ID:gupvwgjyつくばの国史跡 小田城跡 大規模改修の跡 発見
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20101130/CK2010113002000065.html
0556人間七七四年
2010/11/30(火) 20:46:07ID:RPMfp4R4「それ、今月のわしのお小遣い…(´;ω;`)ウッ」
0557人間七七四年
2010/11/30(火) 20:47:57ID:Rx6fe16p「おじいちゃん、ご飯は昨日食べたでしょ」
0558人間七七四年
2010/11/30(火) 20:59:36ID:WIjO28Qo0561人間七七四年
2010/11/30(火) 21:15:28ID:jCxiZd8T0562人間七七四年
2010/11/30(火) 21:26:45ID:m3UT8wuX昔の美形だろうに。
江戸時代までは大きい目の娘さんは切れ長細めに見えるように
がんばってメイクしてたんだぞ。
0563人間七七四年
2010/11/30(火) 21:39:16ID:nS3pIBql明治帝は割りと端正だし、大正帝・昭和帝も平安面ではない。
皇太子&サーヤ&娘まで遺伝するって、どんだけあの皇后の遺伝子は強いんだ……。
0564人間七七四年
2010/11/30(火) 22:01:53ID:WUbndmjP朝鮮渡来系は朝鮮発祥民族では無いし経由しただけ
今の朝鮮人の祖先とは遺伝子的にも別物
そもそも天皇家のルーツって朝鮮渡来系で確定だっけ?
とりあえず明治天皇の眉毛でも見て勉強し直そうな
0566人間七七四年
2010/11/30(火) 23:07:46ID:n3ualORv>>564 天皇家は部落と同じで近親相姦しすぎで顔とかおかしいとも言えるんじゃ?
親子でとか家族でとか
皇太子とか、もろ朝鮮顔だけど。
あと、どの道朝鮮の血筋は途中からは入ってるし、そもそも藤原氏から山ほど嫁を
送り込まれた時点で、朝鮮系の血が濃いのは確かじゃないかな
0568人間七七四年
2010/11/30(火) 23:45:32ID:nS3pIBqlいやだから今の皇族の超平安面は、香淳皇后由来だってば。
香淳皇后の血が入る前後で比較したら、全然違うだろ。
0569人間七七四年
2010/12/01(水) 00:00:20ID:LrgXHGVrだから藤原氏が朝鮮渡来系なの
因みに今の朝鮮人はモンゴル系がルーツ
藤原氏(百済民族)はツングース系です
藤原氏の血が濃くてモンゴル系の顔になる訳が無いんですよ
0570人間七七四年
2010/12/01(水) 00:01:35ID:09zkh3dX0572人間七七四年
2010/12/01(水) 00:31:38ID:W8jMBJ/G能が催された。
この時関白秀次が、楽屋にて腰のものを差したまま見物をしていた。
これを見た前田利家は
「常に刀を差して油断をしていない。実に若い人に似合いの振る舞いである!
太閤殿下の躾が宜しいのであろうから、このことお伝え致そう。」
などと、大いに褒めた。
この言葉は直ぐに秀次の耳に入り、家臣の猪子内匠に
『大納言が、私の意図に気が付いてくれた!何と喜ばしいことだろうか。
今日本中の大名に気付かれるよりも、大納言一人に気付かれる方がずっと嬉しい。」
と話した。この発言は後で猪子内匠が前田利長と共に利家の元へと参り、伝えられた。
これを聞いた利家、大いに機嫌を良くしたそうだ。
秀次がこのように喜んだのは、当時武道において前田利家に肩を並べるほどのものは
天下にいなかったためだ、とのことである。
以上『利家夜話』より、豊臣秀次、前田利家の褒め言葉に歓喜する、と言うお話。
…まあ『利家夜話』は全編にわたって恥ずかしげもなくこんな話ばっかり収録されている、胸焼けがするほどの
前田利家賞賛冊子なんですけどねw
0574人間七七四年
2010/12/01(水) 00:33:00ID:4FGhGy/B>>568 それは、明治天皇以前の人の顔が良く解らないです
参考HPとかあったら、URL下さい
0576人間七七四年
2010/12/01(水) 00:42:22ID:KcDCf50K家康と互角といわれてもぜんぜんピンとこない・・・
0577人間七七四年
2010/12/01(水) 00:43:14ID:lcp+Cgnq0578人間七七四年
2010/12/01(水) 01:21:32ID:oMSjmJX/まあ数名の首を取っただけで大名まで出生し、自分は爺さんになるまで生きてたのだからすごい勝ち組だよね。
これほど運がよかった人も珍しいな。他には一豊くらいか?
0580人間七七四年
2010/12/01(水) 01:29:38ID:fGxWCde0いつだかwikiでそう書かれていたのを見た記憶がるが
あと鎌足には、当時、人質になっていた百済王子説があるんだそうな
ぐぐったらそんなことを書いてるブログがあった
0581人間七七四年
2010/12/01(水) 01:33:38ID:4FGhGy/Bうちの中学時代の藤原って教師が、藤原氏は朝鮮系で自分もそうであるって、大声で学校で
力説してたけどあれ嘘なのか?
当人は思いっきりモンゴロイドな顔っていうか、朝鮮系な顔してたな
目だけタレ目だったけど、混血なのか整形なのかは知らない
まあ学校の教師なんて、部落系とか朝鮮系がやたらに多かったり幅利かしてたりするし
嘘だったのかもな 同和教育とか、思いっきりな捏造歴史の教育してたし
0583人間七七四年
2010/12/01(水) 01:45:08ID:4FGhGy/B近年の帰化系かなあ?公立中学校だった
知ってる創価系の在日韓国人でも、今川とか日本の現地の大名の名前を勝手に名乗ってたりするから、
帰化した時とかにそのまま本名にした口かも知れないけど
当人がそう大声公然と主張してた以上、当人は認めないと思う
0585人間七七四年
2010/12/01(水) 01:48:04ID:AOLyrRpX全部五摂家とかの「家名」を苗字にしているはず。
あるいはこの板の有名所だと大友氏とか少弐氏とか蒲生氏とかみたいな土地や官制由来の姓。
あと、地域名+藤で伊藤とか近藤とか。
0588人間七七四年
2010/12/01(水) 06:10:19ID:652mal4C0589人間七七四年
2010/12/01(水) 06:22:05ID:4FGhGy/Bネトサヨもネトウヨも発狂したように荒すと思うよ?まあ荒す気は無いのよ
藤原氏とか天皇家の話で、Bや朝鮮ら絡むとぶっちゃけ発狂する連中が怒る
ネタだったけどそこまで書かないと意味不明だから書いただけ
私は部落系右翼や宗教に遠慮するマスコミじゃないから
0590人間七七四年
2010/12/01(水) 07:31:36ID:cp0Hm7o2氏は領地の地名を名乗っています。
だからその怪しげな藤原先生の御説がおかしいと
分かって良かったねと言う所で手打ちにしなよ。
その先生は氏と姓の違いも分かってないと思う。
0591人間七七四年
2010/12/01(水) 08:40:55ID:4FGhGy/Bご教授感謝します
0592人間七七四年
2010/12/01(水) 10:24:07ID:WCUoAbED0593人間七七四年
2010/12/01(水) 10:40:59ID:vxnp32xMどう贔屓目に見ても平民苗字必称義務令以降につけたのが丸わかりと。
0595人間七七四年
2010/12/01(水) 12:50:48ID:OsC2mg4P生暖かい目で嘲笑って許してやろうぜ
0596人間七七四年
2010/12/01(水) 12:56:59ID:Ou9ye7OD0597人間七七四年
2010/12/01(水) 18:45:28ID:TwuTTbTP0598人間七七四年
2010/12/01(水) 23:46:38ID:W8jMBJ/Gこんなことを言った。
「大納言様は内府様(徳川家康)に対して、その官位も支配する国の数も劣っております。
ですが御城(大阪城か?)において人々の言うことには、『利家様は内府様より五層倍は強い』と
されています。
その理由は第一に、利家様ご本人が無双の武辺者であること。
次に利家様が、太閤殿下の覚えが大変めでたいこと。
さらに浅野幸長、有馬法印、徳山五兵衛、斉藤刑部、村井豊後、奥村伊代といった、有力な
与力大名や有能な家臣を持たれていることです。
我々のようなものでも登城するとき、内府様と同行するのと大納言様と同行するのでは、
気持ちのあり方が全く違います。
利家様のお供をするときは気分も良く、我々まで心が清められたかのようになります。」
以上『利家夜話』より、大野治長らによる前田利家と徳川家康の比較。
利家がこの歯の浮くようなおべんちゃらをどう聞いたのかは書かれておらず、
想像するより他にない。
だが前田家としては、記録するに価する出来事だった模様であるw
0599人間七七四年
2010/12/02(木) 00:05:25ID:Wole6jt5はじめてここに来たときは、実りある板だと感動したのに・・・
0600人間七七四年
2010/12/02(木) 00:10:05ID:SjcyPE56鬼武蔵が「戦国の平和主義者」として紹介されたら面白そうだよな
そして誰もいなくなった的な平和主義者だけど
0601人間七七四年
2010/12/02(木) 00:18:14ID:YKZLm19Vまあ遺書だけ見てそれを極限まで拡大解釈すれば出来ないこともない>平和主義者鬼武蔵
0602人間七七四年
2010/12/02(木) 00:27:13ID:K8Es14JB山岡家康なんて平和のために日本を制圧してるじゃんw
0603人間七七四年
2010/12/02(木) 00:27:43ID:5aYH46hz0604人間七七四年
2010/12/02(木) 00:29:10ID:YKZLm19V家康が制圧した日本への評価はともかく。家康が平和の為に天下をとったのは
別に間違いじゃないぞ?
0605人間七七四年
2010/12/02(木) 00:31:36ID:XabtKWGjまぁ理屈と膏薬はなんにでもつくってのは本当だよなぁ
0606人間七七四年
2010/12/02(木) 04:38:05ID:k1KuZ3bn結局のところ、武力は絶対悪とする行き過ぎた平和主義も理屈なんだよねw
この世の思想として形が出来たものは全て理屈。
0607人間七七四年
2010/12/02(木) 08:18:11ID:hBBFC7j1為政者たちからも求められた部分があるしなぁ。
そこになんやかや理屈は必要なわけで
0608人間七七四年
2010/12/02(木) 10:00:40ID:4Ib0gEdG門兵「嫌だぁ死にたくない、死にたくない」
0609人間七七四年
2010/12/02(木) 10:10:30ID:caSzaZZNそれは必ずしも合理的だとか科学的に正しいとは限らないわけで…
我々も後世からみたら馬鹿な理屈で動いていると思われるかもしれないわけで…
0612人間七七四年
2010/12/02(木) 13:28:24ID:+1mMNY8a天正十三年、常陸国田野の領主・羽石内蔵允盛長が、結城晴朝から離反し、宇都宮
家に通じているのではないかと風評が立った。
晴朝は配下の久下田城主・水谷蟠龍を呼び出して告げる。
「羽石の謀反は噂などではない。本当の事だ。奴の討伐は他の者にも命じてあるの
だが、もし討ち損じたら結城家の恥となってしまう。念には念を入れて、そなたに
も出陣して貰いたいのだが、どうか?」
この申し出をあっさりと引き受けた蟠龍、結城家諸将の軍勢を待たず、水谷軍のみ
で田野城を急襲する。
「羽石が宇都宮家に通じているのは明白だ。長引くと笠間からの援軍が来るぞ!て
っとり早くサクッとヤッちまえ!」
しかし、これは流石に羽石の事を舐め過ぎていた。
元々晴朝が、他の連中だけでは心許ないと言う程に武勇に優れた武将であり、田野
城も堅固な要害である。
水谷軍は攻め込みながらも攻めきれず、宇都宮家配下の笠間軍による援軍を許して
しまう。
早くも水谷軍が戦線を開いた事、笠間軍の援軍が田野城に入った事を聞いた晴朝は、
急いで結城軍からも援軍を編成して田野に送り込んだ。
また、宇都宮家の家臣でありながら結城家に通じ、笠間家とは犬猿の仲であった益
子家からも援軍が届いた。
「援軍忝い!これから水谷軍が城を落します故、益子・結城の両軍は周囲の警戒に
当たり、重ねての援軍がある様なら、これを追い払って頂きたい!」
速攻での決着を諦め、腰を据えて攻撃を始めた蟠龍。
三晩四日の間、攻めに攻め続けて、三千の敵兵は三百余りにまで数を減らしていた。
「最早ここまで」
勝負を諦めた羽石はしかし、腹を斬る事よりも、戦って死ぬ事を選ぶ。
「我こそが羽石内蔵允!雑兵共はそこを退け!水谷蟠龍、尋常に勝負いたせ!」
最後に残った本丸の門を開け、水谷軍に向けて突撃を決行する羽石軍。
この突撃を知った蟠龍も、羽石の奮戦に報いるべく、前線に馬を走らせた。
水谷蟠龍、この時六十三歳。
互いに槍を合わせ、半刻程の打ち合いの末羽石内蔵允は力尽き、田野城は落城した。
田野領が水谷・結城・益子の三家で分割された時、羽石家で飼われていた名馬「田
野黒」を蟠龍が手に入れた。
後に徳川家康から書状が届いた際、その返信と共に田野黒は徳川家へと贈られた。
家康からは名馬のお礼として、一羽の鷹が蟠龍に贈られたと言う。
いよいよ老境に至った蟠龍、自ら筆を取って自画像を描き上げたのだが、その際に
家康から貰った鷹を一緒に描き、
「私の死後、この鷹も私と共に成仏させてやりたいのだ」
と語ったのだと言う。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4886.html
のコメ10でちょっと触れられている水谷さんの田野城攻め。
『水谷蟠龍記』だとこう書かれてますよ、と。
つか、全体的には良い話寄りだとは思うんですが、援軍に対して「俺達だけでやる
から、お前等はそこらで見てな!」ってのはどうよ?
彼等にも面子ってもんがあるんじゃないか?
0613人間七七四年
2010/12/02(木) 20:55:05ID:hACedRSl0614人間七七四年
2010/12/02(木) 21:05:55ID:skxtHIsZ0615人間七七四年
2010/12/02(木) 21:25:11ID:V/Gfwmfp0616人間七七四年
2010/12/02(木) 21:36:55ID:KH0ouGsxしかし、ある時この小僧は寺から逃げ出して親のところに帰って来た。
親が小僧に理由を尋ねるには
「僕は立派なりたいと思って頑張って耐えていたのですが、お師匠の
折檻が酷いので逃げてきたのです。お師匠は僕に髪剃りをさせるのですが、
初心者なものですから時々失敗してお師匠の頭から血が出ると、大変折檻されます。
それと味噌をするときに、すりようが悪いと朝夕叩かれたり、便所に行くと
便所に行くのは悪いと折檻されました。もうとても耐えられない」
なんて酷い師匠だろうと思った親は住職にクレームをつけて子どもを引き取ると言った。
すると住職は呆れた顔でこう言った。
「大人のお前が小僧のたわ言を鵜呑みにするとは情けない。
望み通り引き取ってもらうが、檀家の手前、真相をはっきりさせておこう。
味噌の件だが…すりこぎでするのが当たり前なのに、あやつは味噌を鍋に入れて塗り杓子の
背中でこするから注意してるのに、何度も繰り返して何本も杓子を折ったのじゃ。これが折れた杓子ね。
便所の件だが、わしがあやつに何か申し付けると、あやつは代官衆のために新しく作った来客用の便所で
居眠りをしおるから叱ったのだ。誰も入らないように下していた鎖を捻じ切ってな。これが壊れた鎖ね。
そして髪剃りの件だが、あやつも剃る練習をしたろうと、わしの頭を剃らせたら腹を立ててわざと
傷をつけおったのだ。ほれ、わしの頭は傷だらけじゃろ」
そのように証拠を見せられた親は納得して帰っていったということだ』
「…という話でな。これは訴訟で裁く時にも大事なことだ。一方の話だけを聞くと相手はなんて
酷い奴だと思うものだ。また納得した話であっても、ゆっくり聞くと何かおかしいと後で気づく。
断片的なことで全体を判断することなどできはしない。それさえ心得ておれば、もう何も言うまい」
板倉勝重は息子重宗にそう教えた。
0617人間七七四年
2010/12/02(木) 21:46:47ID:sc4GiUvy0619人間七七四年
2010/12/02(木) 22:12:24ID:ZuPKwu3h0620人間七七四年
2010/12/03(金) 00:14:52ID:6qh5rOk3無双かどうかは兎も角、内府だって相当の武辺者だからなー
刀も槍も、馬術に水練・・・ 算盤はとっしーのが上で間違いないだろけど
0621人間七七四年
2010/12/03(金) 00:22:42ID:JY9qqdApなんか寺の小僧として育ててはいけない逸材じゃなかったんだろうか。
ヒャッハーさんとかそっちのほうに預けたほうがw
0622人間七七四年
2010/12/03(金) 01:05:33ID:MtOgbT0wそもそも利家夜話以外で利家を家康より上だとか天下無双だとか褒めてるのってあるのか?
槍の又左ってのは聞くけどその武篇話は聞いたことないな〜。忠興とかの方が……
0623人間七七四年
2010/12/03(金) 01:19:12ID:/hgrEFV6最近だとゴミみたいな新書沢山出してる八幡和郎なんか典型
史料は・・・前田家のものしかないと思うがw
0624人間七七四年
2010/12/03(金) 01:30:08ID:/YE+SeQC集めて使いどころ無し、まつにまで罵られるあり様の利家より
莫大な金を集めつつもそれをいざとい言うときに使える家康の方が・・・
やっぱり利家って小物臭が漂うなw
0625人間七七四年
2010/12/03(金) 03:23:52ID:twSRFJrt0626人間七七四年
2010/12/03(金) 07:08:51ID:oY+hcrgD小物と言うより周りが大物過ぎて「名脇役」にしかなれなかった
と思う。
社長が信長、同僚に秀吉と光秀、ライバル企業の社長が家康って…
これで抜きん出た業績上げろって言われても常人なら無理ゲーの域。
しかも一度クビになった社員だぜ?生え抜きのエリート社員から脱落
して、ニートから這い上がった偉人だよ。
0627人間七七四年
2010/12/03(金) 12:56:38ID:/Mk2wI8x0628人間七七四年
2010/12/03(金) 16:48:36ID:BurMyOpx0629人間七七四年
2010/12/03(金) 17:52:53ID:suAWVBLM大名は他家や家臣に舐められたらおしまいだろw
0631人間七七四年
2010/12/03(金) 18:21:29ID:0zIDgTdY0632人間七七四年
2010/12/03(金) 21:39:12ID:Aurw/2vnいや、朝鮮人もネトウヨも大して変わらん
同属嫌悪みたいなもん
戦国時代でこれぞまさに同属嫌悪っていう逸話ないかな?
0633人間七七四年
2010/12/03(金) 21:40:47ID:yIpUaVgFオマンコの具合が良かった
0634人間七七四年
2010/12/03(金) 21:53:17ID:kvKs0j2c自分が正しいって思うのは構わないんだけど、TPOはわきまえて欲しいというか。
0635人間七七四年
2010/12/03(金) 21:58:17ID:yIpUaVgF豊臣完子は、豊臣秀勝と浅井長政と市の娘・江(崇源院)の娘
伯母である茶々の養女となり、関白・九条忠栄に嫁いだ
今上天皇は織田信長・浅井長政・豊臣秀吉の血も継いでいる
0636人間七七四年
2010/12/03(金) 22:15:04ID:gsiYezwBいい加減他所でやれ
0637人間七七四年
2010/12/03(金) 23:43:29ID:96DA0LLq韓国人がやたらにネトウヨとか言うけど、実際の右翼動揺その急先鋒みたいな顔して
おかしな真似する部落や在日韓国人当人だったりするんじゃないかと
個人的に、在日特権に反対する会みたいなのもそうじゃないかと思う
まあスレ違いではあるけど、関連あるならそれも多少は議論もいいかとは思う
>>635あれ?、秀勝は養子であって秀吉の血は引いてないんじゃないの?
私が間違えてる?
0638人間七七四年
2010/12/03(金) 23:43:40ID:GvanS3gN0639人間七七四年
2010/12/03(金) 23:45:04ID:mpK4FuLuだから秀吉自身のの血は継いでいない。
つまらない書き込みするな。
0640人間七七四年
2010/12/03(金) 23:51:46ID:z0gj06Ji秀吉の夭折した息子の名前が秀勝。
良質の史料では確認できないが、長浜行くと実在が信じられている。
0641人間七七四年
2010/12/04(土) 00:35:59ID:i85is0ZEhttp://otona.yomiuri.co.jp/mystyle/hiscolumn/101202.htm
0642人間七七四年
2010/12/04(土) 02:01:59ID:Jkv0mX8x現在の栃木県足利市を領していた足利長尾氏。
この足利長尾氏には、山鳥を「縁起の悪い鳥」として忌避。捕ってはいけないとい
う触れが出ていたと言う。
それは長尾氏の先祖であり、鎌倉武士団の頭領でもあった鎌倉権五郎景政が、奥州
後三年の役で左目を矢で射られたのが由来である。
権五郎を射た矢に付けられていた矢羽が山鳥の羽だったと言うのである。
足利市の路地裏には現在も『ごんごろ様』と呼ばれる、小っさな社がある。
これが鎌倉権五郎景政を祀った物だと伝わっている。
どっちかと言うと鎌倉・室町スレか?でも、鎌倉よりも更に昔の話だし、足利長尾
氏の話でもあるから、こっちに。
足利以外の長尾氏ではどーだったんかな?長尾以外にも権五郎の子孫は残ってるん
だし。皆、揃って山鳥は禁止だったんでしょうか。
0643人間七七四年
2010/12/04(土) 22:30:27ID:KGfwYQp6その理由はこうである。
利家が織田信長からの命で前田の家督を継ぎ、荒子の所領を兄である蔵人から
引き渡されたとき、兄の内室は大変に怒り憤り、屋敷の中に様々な呪いごとをして、
さらにそれが外に逃げないよう障子屏風まで完全に封じさせた上で、屋敷より出たのだそうだ。
ところが
「わしはその兄嫁の呪いのかかった屋敷に入ってから吉事ばかりが起こり、
大いに出世もした。
これから考えるにつまり、人を呪うという事は全く効果がない、やっても意味のない行為
だと言うことだ。」
前田利家、その実体験から来る呪詛否定のお話。
0644人間七七四年
2010/12/04(土) 22:39:50ID:bNPXX6Xdなるほど、マイナスかけるマイナスで加賀百万石が生まれたのか
0646人間七七四年
2010/12/04(土) 22:56:55ID:uBcVPQAM一度は小姓斬って出奔してるんだから効いてることは効いてるんじゃないの
幸運の神様、超時空太閤大明神の御加護かもしれんけどさ
0647人間七七四年
2010/12/04(土) 23:00:04ID:EHSEBM/L0648人間七七四年
2010/12/04(土) 23:01:42ID:hO55I8B1高いびきかいて寝られるくらいの神経の持ち主じゃないと戦国時代渡っていけないよね。
0649人間七七四年
2010/12/04(土) 23:04:01ID:bNPXX6Xd0650人間七七四年
2010/12/04(土) 23:09:28ID:RI3Pno6G「儂は恥じるようなことは何一つしておらん。それでも閻魔が咎めるんなら一戦するまでだ」と断った人だからなー。
ある意味、信長以上の自分本位・合理主義者だよね。
0651人間七七四年
2010/12/04(土) 23:17:57ID:4tyj8BWlあと神社から「あなたの呪い人形が境内から見つかったんですけど…」とか連絡あったけどなにも起きなかったしなあ
0652人間七七四年
2010/12/04(土) 23:50:15ID:EvSV1/mRそんなん教えられても困るwww>呪い人形
まあ呪いの舞台になるって、その神社が身近な人からすると相当頭来ることらしいから
名前がわかった>>651に犯人をどうにかしろよって言いたかったのかもねw
丑の刻参りとか、冷静に考えると「呪いとか信じてる変な格好した人が釘とトンカチ持って
夜中にウチ(の近く)に来る」って状況なわけで、普通に怖いわー
0654人間七七四年
2010/12/05(日) 05:49:09ID:saMqIsOh0656人間七七四年
2010/12/05(日) 07:42:25ID:7qRpPDRb験者読んで呪詛とか盛大にしてたかと思うと…
0657人間七七四年
2010/12/05(日) 07:47:08ID:+KewGARF修験者から税金とれば儲かるな」
0660人間七七四年
2010/12/05(日) 11:20:34ID:SH1J2ONJ安心するのは早いな
呪い人形は儀式期間中に誰かに知られた時点で無効になる
だから何も起きないのは当然
呪い人形が牛の刻参りと呼ばれる由縁は
人に見つかりにくい時間帯に儀式を行わざるえなかったから
とりあえず>>651は酒癖の悪さをなおそうな
0661人間七七四年
2010/12/05(日) 12:51:18ID:PxGNlk6p651「妊娠した同級生と別れようとして100万回くらいしねと言われたけどいきてるよ」
0663人間七七四年
2010/12/05(日) 12:55:04ID:oKbsD39j0664人間七七四年
2010/12/05(日) 12:57:30ID:wI9n7Cvn『大仏も焼けた 狂えただ 遊べただ 浮世に不定の身を以て』
という、実に刹那的で末世的な小唄が流行ったそうな。
0665人間七七四年
2010/12/05(日) 12:58:31ID:wI9n7Cvn0666人間七七四年
2010/12/05(日) 13:32:03ID:PxGNlk6p0667人間七七四年
2010/12/05(日) 15:49:49ID:YdtZNPb+0668人間七七四年
2010/12/05(日) 15:59:25ID:eM2psqAH女性の陰毛をお守りにするのってこの時代にはまだなかったんだろうか
情を通じた相手じゃなきゃダメとか処女じゃなきゃ効かないとかいろんな話を聞くけど
0669人間七七四年
2010/12/05(日) 17:15:48ID:bgzH12Ex0670信長の菩提寺の・・・
2010/12/05(日) 17:20:14ID:wfofgJy3-----------------
人というものは妻を娶って子供が出来たならば、たとえその子が片輪者で
あろうとも相続をさせるのが普通である。
私が実の子を廃嫡して養子を迎えた(※宗家から景紀を養子に迎えている)
ことを不思議に思っている者がいるが、こういう理由がある。
貞景様(義景の祖父)の時代に一族の小次郎(初代孝景の次男景明の子景純)
が孝景様の孫でありながら、既に宗家とは縁が遠くなり、集まりの際の席次も
決して高くはなかった。それを見た家中の者どもも彼を冷淡に扱った。
我が兄景明の子がそうであれば、末弟である我が子も同じであろう。
だから自分は惣領貞景様の子を養子に迎えたのだ。これは我が家のためでも
あり、我が家臣のためでもあるのだよ。
-----------------
時は変わって本能寺の変の後の京都。
羽柴秀吉が主催する織田信長の葬儀で導師を務める一人の高僧がいた。
名を古渓宗陳、あるいは蒲庵古渓。
出家後、下野国足利学校に学んだ後、京都大徳寺の江隠宗顕に師事。
堺の南宗寺住持を務めた後、天正元年より大徳寺住持となる。
信長菩提寺となる大徳寺塔頭総見院の開祖でもある。
堺時代に千利休と親しく交わり、その茶道の弟子となり、その参禅の師となった。
後に信長の新たな菩提寺建設を巡り、秀吉の怒りを買い博多へ配流される。
許されて帰洛するも、大徳寺木像事件に関与し利休は切腹、怒りの収まらぬ秀吉は
大徳寺をも破却しようとする。
命を伝える使者の面前で、古渓は短刀を手にして自害を試みる。この命懸けの抵抗に
秀吉も驚き破却を諦め、大徳寺は救われたのである。
その後は洛北に隠遁し生涯を終えている。
この古渓、実は朝倉氏の出身である。
信長に滅ぼされた朝倉氏出身の彼が信長の菩提を弔うとは皮肉だが、まだ二十歳そこそこの
大徳寺修行時代に宗滴一周忌に際して悼文を捧げている。
古渓は廃嫡された宗滴の実子 であったのかも知れない。
0671人間七七四年
2010/12/05(日) 17:25:56ID:b45c+zNm日露戦争に際して、ロシアのギリシア正教会は全土の教会で
日本へ神罰が下るよう、全力で神に祈った。
しかし何も起こることなくロシアは敗北。
18年後、関東大震災が発生。
このことから、ロシアの物理学者カピッツァはこう結論した。
「神は、我々から9光年以内にいる」
お祈りして神に届くのに約9年、
神の怒りが地球に到着するのに約9年。
神の御意志も光速は越えられないらしい
0672人間七七四年
2010/12/05(日) 17:32:14ID:dbhZkW9k田中啓文「蹴りたい田中」という本でまんまそのネタが(スサノオの呪いが光速を越える、というSF)
>>671
爆弾正が大仏を焼き討ち?したのが永禄10年(1567年)10月10日
自爆したのが天正5年(1577年)10月10日
「仏は、我々から5光年以内にいる」
0676人間七七四年
2010/12/05(日) 20:57:56ID:V8xgvBwI0677人間七七四年
2010/12/05(日) 21:14:41ID:k6DezwAUそろそろ呪縛解いておかんとやばいぞ・・。
0679人間七七四年
2010/12/06(月) 05:24:50ID:/1LUBfWE0680人間七七四年
2010/12/06(月) 15:45:26ID:f0zEpWkg常陸国下館に水谷蟠龍斎という武将がいた。
母が老僧から貰った玉を飲み込むという夢を見てから、ちょうど一年後に生まれた
子供であり、左眼には瞳が二つあった為、
「観音様の御加護を受けた若君だ」
と評判になった。
赤ん坊の頃に一度も泣き声を上げた事がなく、七歳で弓馬兵法を習い、八歳で師匠
を超えた。九歳からは仏道の修行にも励み、十一歳で家臣の間の争いを自ら決裁す
るという知勇を兼ね備えた少年であった。
十七歳で初陣を飾り、見事な手柄を上げた蟠龍であったが、その翌年、とある事件
を起こしてしまう。
水谷家と共に結城家に仕えていた多賀谷家。
その多賀谷の家老であった成田主馬が蟠龍の前を騎乗のままで通り過ぎようとした。
それを見咎めた蟠龍が、問答無用で成田を斬り殺してしまったのである。
多賀谷家ではこれに怒った。
「成田に無礼があったと言うなら我等に訴えるべきではないか、それが事実である
なら謝罪もしよう。だが、詮議もせずに問答無用で斬り捨てるとは乱暴過ぎる!」
同じ結城家の配下武将同士でもある。力を合わせるべき両家なのだから、過激な行
動は控えるべし、と言った所か。
しかしこの抗議に蟠龍、
「無礼を働かれてその場で処断しないのは臆病者のやる事だ。味方だろうと何だろ
うと、我が水谷家に無礼を働いた者は即刻斬る!これが水谷家のルールだ」
と、返答。
多賀谷の抗議に対して「お前等のやり方は臆病者のやり方だ!」と罵りを返したの
である。
これはもう、全面衝突しか残っていない。
多賀谷軍が下館城を囲み、水谷軍もそれを迎撃する構えを取る。
慌てたのは結城政勝、二人の主君である。
両軍が対峙する下館城に、自ら出馬して双方に説得を試みた。
「多賀谷と水谷は車の両輪、鳥の両翼である。片方が滅亡したら、もう片方も、結
城家までもが滅びてしまう。私の顔に免じて、これ以上の争いは勘弁してくれない
か」
最早説得と言うより懇願である。
主君にそこまでさせてしまった事に、流石に罰の悪さを感じたのだろうか。二人は
共に兵を退かせ、政勝の前で和睦の酒盛りを執り行った。
政勝は両将の仲直りを非常に喜び、感激のあまり家臣のお囃子に合わせて自ら『高
砂』を舞う程であったという。
『水谷蟠龍記』より蟠龍少年の度胸の良い話? 私は部下の戦争に自ら割って入った
結城政勝さんの良い話のようにも思えた。
まとめブログの方では「坂東を代表するヒャッハー」などとコメントされてますが、
水谷側の記録ですからかなり良い感じに描かれています。
やってる事自体は敵陣に単騎突入したり、味方の重臣切り殺したりと、確かに制御
不能のヒャッハーという気がしないでもないですね。ww
0681人間七七四年
2010/12/06(月) 20:40:56ID:q3RRfTysこの日、諸大名は関白秀次のいる聚楽に出仕、正月年賀の拝謁をし、それを終えてから
太閤秀吉の御座所へと出仕した。
ところがこの日、秀吉は大変機嫌が悪く、出仕した諸大名への対面もしようとしなかった。
皆どうしたものかと戸惑っているところ、、太鼓打ちの樋口というものが御前にまかり出て
「目出度の御正月にて御座候」
とご挨拶申し上げたところ、秀吉
「なにが目出度の正月なものか!天下を人に取られ、このように手狭なところに隠居してしまっては、
面白いことなど何も無いわ!」
とものすごい剣幕で吐き捨て、樋口、言葉もなく這々の体で引き下がった。
このような事なので大名衆への対面も何時まで経っても行われず、これについて話し合った結果
「今のようなご機嫌ではどうにもならない。ここは主計殿(加藤清正)が御前へ罷り出られて
お心に合うようなことを申し上げてご機嫌を直してきてくれ。」
こうして加藤清正が一人、秀吉の御前へと出た。
この時清正、赤装束だったとか。
さて秀吉は清正に声をかけた
「主計、名護屋城の普請はどうなっておるか!?」
清正はすぐさま
「ははっ!名護屋の城、ことごとく出来ました!大阪城に劣らない、素晴らしい出来でございます!」
「なに?もう出来た?ふむ…ふふふ、そうでなくてはならぬ」
秀吉、たちどころに機嫌が直った。
そして名護屋城の完成を大いに喜び、諸大名へのご対面も無事、果たされたそうである。
加藤清正、拗ねた秀吉の機嫌を直す。というお話。
しかしこの時ホントに名護屋城は出来ていたのかね?
まあある程度確信があったから言えたのだろうけど。
0682人間七七四年
2010/12/06(月) 20:53:52ID:o3lZyXkD0683人間七七四年
2010/12/06(月) 20:58:07ID:lzo8QWy2自分の意思でやったんじゃないのかw
気分屋は怖いなw
0685人間七七四年
2010/12/06(月) 21:02:11ID:xMGDA/Im単に先に秀次に挨拶に行っちゃったのが気に入らないという真正かまってちゃん
0686人間七七四年
2010/12/06(月) 21:14:51ID:GvF9jC8o天下人までのし上れたんだろうな。
そういう意味ではラスボスらしい逸話だ。
0687人間七七四年
2010/12/06(月) 22:53:58ID:o3lZyXkD0688人間七七四年
2010/12/06(月) 23:35:34ID:gc/2yqXO現代の成り上がり者(某歌舞伎役者殴った連中)と比べてもその凄さがわかる。
0689人間七七四年
2010/12/07(火) 00:12:32ID:vyLkdiGr26歳海老パンチャーは単に気分屋というか、
戦国だと主君が侮辱されたので切り殺しましたというとこかもね
0691688
2010/12/07(火) 00:16:17ID:abU+zQ2/687ではなかった
0692人間七七四年
2010/12/07(火) 00:37:31ID:T7NEcgLMスレチだったらすいません。またガイシュツだったら更にすいません。
「368年後の赦免状」
大阪冬の陣における旗本の切捨てや、
大阪夏の陣の遅参を理由に、
松平忠輝は家康から蟄居謹慎を命ぜられた。
忠輝は元和二年(1616年)の家康の臨終にも立ち会えず、
また葬儀参列も許されなかった。
同年七月には伊勢朝熊へ流罪、元和四年(1618年)には飛騨高山へ、
寛永三年(1626年)には信濃諏訪高島城へと移される。
夫人である五郎八姫は元和六年(1620年)に仙台へ帰り、
14年ほどの結婚生活も終わりを告げた。
そんな忠輝は諏訪で57年ほど長生きし、
天和三年(1683年)に逝去、今の長野県諏訪市の貞松院に葬られる。
さて、時は流れ、昭和五十年代に入った頃。
貞松院の山崎和雄住職から、
徳川宗家十八代当主徳川恒孝氏に書状が届けられた。
「松平忠輝公が、夜な夜な夢に出てきて、
予を赦免してくれと仰有っておられるので、
ぜひご配慮願いたい」
書状はこれきりではなく、この後も再三にわたって懇願があった。
そこで昭和59年(1984年)、徳川氏は忠輝に「永対面禁止を解く」と
赦免状を出し、368年ぶりに忠輝は自由の身となった。
昭和62年(1987年)10月24日、
忠輝公三百回忌に合わせてご赦免報告会が行われ、
同年11月には五郎八姫との再会の催しが執り行われ、
伊達家の現当主の妹さんが出席したという。
368年たってようやく赦免された忠輝の
ちょっと良かったねという話。
0693人間七七四年
2010/12/07(火) 08:54:39ID:t9cbbySN0694人間七七四年
2010/12/07(火) 09:50:56ID:35oetDbwなんだかんだで親交があるのか?
0695人間七七四年
2010/12/07(火) 10:10:47ID:v+KEU5Y3親戚付合いの延長みたいのもんだからそんなに驚くことじゃないと思うが・・・
0696人間七七四年
2010/12/07(火) 10:23:54ID:rLqzIf0E家康と終生会えないということだと思ってた。
06971/2
2010/12/07(火) 12:15:34ID:Lep7ejhJ桶狭間において今川義元を破った織田信長に対し京の朝廷は、熱田参拝を名目として
禁裏御蔵職・立入左京亮宗継を密かに勅使として尾張清須へと派遣した。
信長への依頼内容は
一・断絶した公家の相続についての協力
一・横領された御料所の回復についての協力
一・京都御所の修繕についての協力
であったらしい。
立入宗継は10月24日、京を出立。同28日、清須の道家尾張守(武井夕庵の事か?)宅に到着。
朝廷からの奉書の内容を知った道家尾張守は「織田家の面目、これに勝るものはない!」と喜び、
「今朝鷹狩にでられた信長様は帰りにちょうど、ここに立ち寄られる。」と知らせる
7つ(午後3〜4時頃)に道家の邸宅に帰り、風呂に入りながら道家からの報告を聞き歓喜した。
「忍びの勅使であるというからにはここで対面しよう、村井貞勝を呼べ」「昼からこちらにおります」
そこで村井に奉書の内容を読み上げさせると座敷にて立入と対面。
信長はまず村井から綸旨(天皇のお言葉)書の内容を聞く。そして三箇条の書き立てを受け取ると
先ず日付の下に花押を書き入れ、喜色を隠すこと無く
「私は未だ尾州でさえ半国の主でしか無いのに、天下の御用を仰せ付けられました。
この御力を以て当国を年内にも従え、来年は美濃国を退治いたしましょう。
それもこれも、この二通(綸旨書と書き立ての奉書)の御力です。」
と、花押を入れた三箇条を立入に渡した。
さて、そのあとは宴会と成る。下戸と言われる信長もこの時は大いに杯を交換したようだ。
そして興に乗り「私がこれから料理しますよ!」と座から立つ。この時家臣に
「使いを出して三左衛門(森可成)、権六(柴田勝家)、五郎左衛門(丹羽長秀)、藤吉郎(木下秀吉)、
左近(滝川一益)を呼べ。この事を知らせねばならん。年寄りどもには申すことはない。機密事項だ、
この5人だけに伝えろ。」と命じた。
そうしているうちに料理が出来た。昼間信長の鷹狩の獲物を調理した雁の汁と鶴の刺身である。
信長は料理の出来が気になったようで、2度も3度も台所から出てきて
「どうぞどうぞ召し上がってください!酒の方は心のままに致して、…料理の出来はいかがですかな?」
これに立入たち
「このように新鮮な雁や鶴、生まれて初めてです!」
と絶賛。
これには信長も満足至極の体で「さあどうぞどうぞ、どんどん飲んでくだされ」
と、2,3遍も酒を勧めた。そのようにしているうちに森可成ら5人が到着し立入に引き合わさせた。
さて、立入たち勅使一行の表向きの目的は熱田参拝である。
この事を信長の伝えると
「2,3日過ぎて11月1日頃、吉日を選んで参拝なされませ。
村井貞勝と道家尾張守を案内人にしてください。先の5人(森可成ら)もどうぞお召しください。
そして暮方に船で清洲城へと帰って、ゆるりと御休息なさればよいでしょう。
明日は未明から鷹狩に出るつもりです。明日の晩はその獲物を料理して出しますよ!」
どうも信長、京からの勅使に自分の獲物の料理を褒められたのがよほど嬉しかったらしい。
その上で
「勅使の皆様には、明日の朝飯が済んだら船を出して清洲城の周りを巡らせ、網を打って振舞うように。
先の五人とわしの小姓の外は、誰も彼らに合わせぬようにせよ!」
道家たちに命じ、屋敷へと帰った。しかし夜明け前には又、鷹狩にと出発したという。
06982/2
2010/12/07(火) 12:16:34ID:Lep7ejhJそして森、柴田ら織田家の将5人が網を打った。
ところがこの時船頭が船の操縦がうまく行かず、船がうまく停止せず網を打つことが出来ない。
接待の責任者である道家尾張守はこれに苛立ったか、滝川一益や木下藤吉郎に
「あなた方が操船をしてください!私が網を打ちます!」
と言った。これに木下藤吉郎
「まあまあ、いつも網を打っている者にお任せなさい。これは舟遊びではありませんか。
みなさまも舟遊びをいたしましょう。滝川殿は小鼓を、小姓の(堀)久太郎ともう一人は太鼓、村井殿は笛、
京から来た皆様は謡い候へ!」
そこから船の上で大いに音曲で遊んだ。
そのうちに七つ時(3〜4時頃)
舟遊びをしているところに、一艘の小舟が現れた。乗っているのは頭巾を深々とかぶって人相を隠した
謎の男。2,3人の配下を引き連れている。
信長から、勅使に誰も合わせてはいけないと命ぜられている一同は緊張した
「何者にて候や!?ここは忍び遊びの場であるぞ曲者め!」
これに男
「このように派手に囃したてているものが忍びの舟遊びとは、珍しいことを聞くものだな。」
と、頭巾を取る。そこには
「あっ!信長様!」
「楽しそうにやっているな」
にこやかな顔の信長であった。
「信長殿、今晩の肴はいかがでしたか?」
立入、鷹狩の成果を尋ねた。これに信長はっきりと
「少しも獲れませんでした!」
これには一同大爆笑。信長も大いに笑いながら
「それにしても小鼓を打って騒いでは秘密を守るのも難儀です。舟遊びはここまでとしましょう。」
と、船から上がらせ、料理を振舞ったそうである。
織田信長の勅使接待、のお話。
0699人間七七四年
2010/12/07(火) 12:46:48ID:rLqzIf0E0700人間七七四年
2010/12/07(火) 12:55:58ID:oAbrbSM+なぜか天正年間の重臣たちばかりに囲まれてる信長様w
0701人間七七四年
2010/12/07(火) 13:01:20ID:35oetDbw0702人間七七四年
2010/12/07(火) 18:28:59ID:sfioSWZs0703人間七七四年
2010/12/07(火) 20:04:16ID:Iijy3/f7叔父「小太郎、お主は弓道を好むか?」
甥 「ええ嗜みますが…何か?」
叔父「人の主になるものは弓道を好み自ら稽古すれば徳が多いものだぞ。
何故かと言うと、主人が弓を好めば家来の者どもも主人の相手を
しようと末端にいたるまで稽古をして、家中に優れた射手が多く
生まれるからだ。そうしないとな、義務的に感じたり面倒臭いと
感じたりして、一向に稽古しないものだからな」
甥 「なるほど」
叔父「大将が常平生稽古していれば、不慮の合戦が起き、敵味方双方が
睨み合いになった時、弓矢は役立つ。ほら唐でも日本でも「弓取」
とは言うけれど「鑓取」とは言わない。だから主人は弓道を好み
自ら稽古すべきなのだよ」
甥 「馬上でも鑓・長刀より弓の方が有利ですね」
叔父「それからな、小太郎、天晴れな戦いぶりをする武者に対してな、
あれ程の者は他にはおるまい、と誉めてはならんぞ。その場合は
並ぶ者はいても優れたる者はいないだろう、と言って誉めるのだ」
甥 「言葉を選んで増長させないと言うことですか、なるほど」
叔父「合戦の時、武者奉行たる者は後方に陣取らず先頭に立つのが基本だ。
その理由は、兵が討ち取った敵兵や功名の負傷を大将に見せようと
旗本に集まるからだ。大将が虎口(陣の出入り口)に控えておれば、
前面の人数が自然と厚くなり、陣の配りがより一層強くなるからだ。
後方に陣取るとなるほど退却には都合がよい。だが、大将が健気に
その場に踏み止まろうとしても、恐慌にかられた味方に踏み殺される
場合もあるぞ」
甥 「自分は決して後ろに控えることは致しません!」
叔父「その心意気やよし!最後に言うておくが、たとえ武者奉行として
軍権をまかされたとしても、御屋形様のことを軽々しく思っては
いけない。あくまで大将は御屋形様なのだ。御屋形様は扇の要。
そう思って日々ご奉公しようではないか、小太郎よ」
およそ半世紀後
甥 「わしは叔父さんのことばを胸に刻んでこの歳までご奉公してきたよ。
陣では決して後ろに陣することもなかった(笑)
叔父さんの子、私の従兄弟は御屋形様に弓引いて滅亡してしまったが…
世間の老人は暇で暇で仕方ないというが、自分はこの歳になっても
少しも暇ではない。御屋形様と二人でいかに諸国を切り取るか思案を
めぐらせているといつの間にか夜が明けてしまう(笑)
いや、わしは名将ではないよ。名将と呼ばれる者は一度ぐらいは大きな
敗北を喫しているからね。敗北していないわしは名将じゃない(笑)」
叔父の名は朝倉景冬、甥の名はご存知朝倉宗滴。
以上「朝倉宗滴夜話」からの抜粋でした(意訳ありまくり)。
0704人間七七四年
2010/12/07(火) 20:44:01ID:VsYeLoGt0705人間七七四年
2010/12/07(火) 21:46:28ID:Iijy3/f70706人間七七四年
2010/12/07(火) 23:17:05ID:OzSmRfbi0707人間七七四年
2010/12/08(水) 01:45:40ID:m9p8F0KXで、>692エピからすると徳川当主に対面禁止のようで。
0709人間七七四年
2010/12/08(水) 09:08:08ID:iEynUsa9山本常朝が言う
「直茂公が、
『義ほど深いものはないだろう。
身内が死んで涙の流れないこともあるが、縁もゆかりもなく、
会ったこともない歴史上の人物の逸話に義を感じ涙がこぼれるのだから。』
と言われたとのことだ。」
0710人間七七四年
2010/12/08(水) 09:15:26ID:No5BJJ9J0712人間七七四年
2010/12/08(水) 10:21:50ID:0Oe5N/820713709
2010/12/08(水) 11:50:25ID:iEynUsa90714人間七七四年
2010/12/08(水) 16:38:00ID:ZpFtcZ4Mそのお市の方は津軽和徳城主 小山内讃岐の娘だったが、
元亀2(1571)年、大浦為信によって和徳城は陥落、父・祖父・兄弟が戦死してしまう。
その後15歳の時に田舎館城主千徳政武と結婚する。だがその結婚生活もわずか3年で終わりを迎える。
天正13(1585)年、田舎館城も攻め落とされ、千徳政武は郎党300人と共に玉砕。
夫を殺したのは、またしても津軽為信だった。
お市の方は山中深くに逃れた。
時は流れて慶長6年(1601年)3月。津軽為信は居城の堀越城からほど近い清水森で
津軽征服戦争の開始以来戦死した者を、敵味方問わず供養する大法要を10日に渡り営んだ。
三町四方に柵を廻し、横7間・縦15間の仮仏殿を建て、中央に9間の須弥檀をしつらえ、
130人の僧侶を並べて、線香のけぶる中、読経を読む。
亡者の名は貴賤無く紺紙金泥でずらりと書かれ、内陣には108の灯明に花飾りが飾られた。
法要の4日目、参拝者に混じって、三十路を過ぎた気品のある女性が仏前に歩み寄った。お市の方だった。
彼女は一巻の文を掲げ、朗々と読み上げた。
それ義によって軽きものは武士の命 情けによって捨てやすきは婦人の身なり。
わが夫はなはだに武名を重んじ すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う 惜しいかな。
この人世にありし程は、武士の道いささか迷い給うことなし さるによりてその深浅またいくばくぞや。
伝え聞きし高麗、唐の勇士にも恥じず、勇めるときは千万刃のなかへも、われ先に行かんこと難しとせず。
またその情けの勇なることは、もののあはれを敷島や大和島根の道芝の露に宿れる月影の
はかなき世のありさまを、よく知り給えしぞかし。
われまた、その妻となりて、その人の座の片端にその身をおき 年月を経ること すでに三年になり、
起き臥しをともにして、人の情深き淵に沈みし身なれども、
別れしその日よりは、ただ浮かべるものは涙のみなり。
せめて亡き霊の菩提ともならんかしと思い、その年より十年余り七とせに満ちぬるまで
人目枯れにし山かげに、この身を隠し、朝な夕な、その亡き跡をとぶらうといえども、さらに答うる事なし。
亡き魂よあわれと思え添寝せし 三とせの夢の さめもやらぬを
その年のその目にやがて伴いて 行きしむを しるやしらずや
御身の仇ならんとせし者までも、かく御法(のり)の網にもらし給わで、救いとらんと誓い給う御心をば、
亡き霊もいかぽかり御悦び尊み奉らんかし。
わが慕うその面影は、たまの軒端にたなびくなる紫の雲にほの見ゆる心地こそすれ、
誠に君が情をよすがとして、われもつれ行き給えや。
伴いて われも行きなん まてしばし 死出の山路の 道しるべせよ
かかるつたなき筆の跡は、恥を書き残すに似たれども、誰に向かいて何事をいいおかんよりもあらされば、
ありがたき御芳情によりて、夫の幽霊もさぞ成仏にいたりなんと、
いく尊くありがたく、御心を鄙びたる一巻に残すのみ。
慶長六歳三月十日 田舎館掃部妻
積る年三十四 敬白」
読み終えた彼女は文を祭壇に捧げると、懐から短剣を取り出した。
参拝者の視線が集まる祭壇の前で、彼女は己の胸に短剣を突き刺した。
彼女は突き刺した短剣を抜き、最後の力を振り絞って再び胸を突き、その場に崩れ落ちた。
亡き夫への切々たる想い、仇である津軽為信への怨念の清算を語り終えた彼女の胸中は、
いったいどのようなものだったのだろうか。
千徳政武夫人、お市の方の鮮烈なる最後。
0715人間七七四年
2010/12/08(水) 16:43:15ID:S1eZ7nNo0716人間七七四年
2010/12/08(水) 17:32:34ID:x6z9Mdk20717人間七七四年
2010/12/08(水) 17:38:53ID:QPib7uRD0718人間七七四年
2010/12/08(水) 17:54:08ID:RReOphV0http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/81/3e50a90de685c81dda478a0afdb774d9.jpg
木像にも
http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/img/juho_tyoukoku_image1_66.jpg
銅像にも
http://stat001.ameba.jp/user_images/20100901/22/sengoku-busyou-asiato/72/c6/j/o0440058810725803231.jpg
0719人間七七四年
2010/12/08(水) 17:59:24ID:No5BJJ9J0720人間七七四年
2010/12/08(水) 18:53:56ID:nv/6Ho/lむしろ誇るべきだろ
0721人間七七四年
2010/12/08(水) 18:55:04ID:ItDbwCvo0722人間七七四年
2010/12/08(水) 19:00:36ID:RReOphV0>信長が天下とってたらヒゲ禁止令とかだしてそう
ピョートル1世「呼んだ?」
0723人間七七四年
2010/12/08(水) 19:54:32ID:2BiAwexXhttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291802634/
0724人間七七四年
2010/12/08(水) 19:55:59ID:NqD9OvKm0725人間七七四年
2010/12/08(水) 20:16:04ID:LlO6eVqG「週刊 戦国甲冑(かっちゅう)をつくる」を創刊する。
特定分野に関する知識や情報を、週刊・隔週刊形式で提供する同社のマガジンシリーズ。
これまで歴史・映画・音楽・人物・乗り物・アニメなどで135タイトルを展開し、
累計4億冊を売り上げる。数年前からは戦国時代ブームに着目し、「週刊 安土城をつくる」
「週刊戦国武将データファイル」を発売。「好評を得たことから今回の企画に至った」という。
今回発売するのは、パーツ付き「本格甲冑模型」クラフトマガジン。
毎号付属のパーツを組み立てることで、伊達政宗公所用の甲冑「黒漆五枚胴具足」を
2分の1スケールで再現できる。「戦国時代に関連した模型として、特に人気が高く
特徴的な甲冑である伊達政宗公所有の甲冑模型を作ろうということになった」(同社広報担当者)。
完成品の大きさは高さ約80センチ・幅約38センチ。パーツ素材には、
金属・皮革・麻布・正絹・組みひも・馬毛など、当時の素材に近いものを使用。
組み立て方も本物の甲冑の工法を元にした。「詳細な調査と研究を重ね、全国でも
数名しかいない甲冑師の協力を得て完全再現した」(同)。
A4変形判13ページ。価格は、創刊号=790円、2号以降=1,990円。全55号。
以下ソースである
http://sendai.keizai.biz/headline/820/
http://images.keizai.biz/sendai_keizai/photonews/1291797572_b.jpg
0727人間七七四年
2010/12/08(水) 20:45:04ID:g1zN4iiWおまけの雑誌にまだここで紹介されてない逸話なんか載せてあるといいね
0728人間七七四年
2010/12/08(水) 20:54:54ID:Ij+qi8yj0729人間七七四年
2010/12/08(水) 21:00:19ID:U6X0zD+b0730人間七七四年
2010/12/08(水) 21:04:26ID:U6X0zD+bやっぱ政宗の甲冑はセンス良いね、中の人はアレだけど。
現代に生まれてたらピー子みたいな仕事してたのかもね。
0731人間七七四年
2010/12/08(水) 21:11:26ID:ViUnNH8A0734人間七七四年
2010/12/08(水) 23:28:00ID:NMAqrwC80735人間七七四年
2010/12/09(木) 00:20:31ID:alXUQX7w伊達の鎧なら
1,723,500円+半年程でレプリカが手に入るZE
http://m.rakuten.co.jp/rms/msv/Item?i=10000017&s=198062&c2=1832519796
子供用なら259,350円
http://m.rakuten.co.jp/rms/msv/Item?i=10000027&s=198062&c2=1832519796
子供用の兜だけなら10万円をきる
http://m.rakuten.co.jp/rms/msv/Item?i=10000143&s=198062&c2=1832519796
未組立ハーフサイズ鎧の10万円は妥当だと思うが
漆で処理して欲しい箇所がプラスチックだったりしたら…
この手の商品はクオリティが分からないから怖い
0737人間七七四年
2010/12/09(木) 03:01:47ID:AnwDK9k+ダイエーホークスのヘルメットとかセンス無さ過ぎ
寛斎とかに誉められると評価落ちる
0738人間七七四年
2010/12/09(木) 03:11:54ID:050bN8MA10人中3人に好かれるセンスでも、その3人が熱狂的ならメシは食える。
ダサい人間に評価されても、そのものの本質は変わらない。
評価している人ではなく、評価されているものを見るべき。
理屈御免
0739人間七七四年
2010/12/09(木) 04:16:36ID:l2ZQNPNx>>727
伊達政宗の鎧兜は恐らく日本で一番知られているし、人気もあるでしょう。
一般的にも歴史オタやその他的にも。
0741人間七七四年
2010/12/09(木) 06:47:05ID:exNxDjFx政宗は甲冑以外の衣服を見ても、寛斎とかデザイナーが唸りそうなセンスをしてるような気がする。
まぁファッションショーで使った服をそのまま普段着るような感じだけどw
0742人間七七四年
2010/12/09(木) 07:19:17ID:2zB+8ik5本人がマイナス20点くらい
0743人間七七四年
2010/12/09(木) 11:16:04ID:lNeThrFWそういう意味では忠興も似たようなもんか
個人的にはソーラーパネルが欲しかったなー
0744人間七七四年
2010/12/09(木) 11:39:12ID:E5fXw7SP北条氏配下である安房万喜城主・土岐頼春は、北条氏による里見義康討伐のための派兵要請に従い、
重臣である大曽根右馬充、三階図書之助らに300騎をつけ、名代として小田原へと派遣した。
さて、これを見逃さなかったのが里見義康である。土岐頼春は房総の里見家にとって喉元の棘であった。
義康は上総庁南、庁北両城の城主、武田信栄に「万喜城からは多くの兵が相模へと派遣された。
これを攻め滅ぼすのは今しかない!」と、万喜城攻めを命じ、武田信栄は先鋒として家臣・多賀六郎左衛門、
多賀勘解由左衛門らに数百騎をつけ万喜城攻めに向かわせた。
さらに武田信栄は
「万喜城を囲んでもあの城は屈強の要害であり、簡単には落ちないだろう。
攻略に手間取れば万喜城の支城である鶴ヶ城、亀ヶ城より援兵が出て、我々は却って危機に陥る。
この両城を抑えた上で無いと安心して万喜城を攻め取ることは出来ない。」
と、佐々駿河守が籠っている亀ヶ城へ鶴見甲斐守70騎、鶴見弾正が籠る鶴ヶ城には一宮隼人50騎を
押さえとして派遣した。さあ万全である。
寅の刻(午前3時頃)、武田信栄は馬に轡を結び、密かに兵を率いて万喜城に向かい出陣。
万喜城からわずか1キロ、川一つを隔てた松丸村というところに陣を張った。
これまで武田が兵を出しても土岐は難所に兵を置いてこれを防いでいたのだが、今回は土岐の兵が
相模に派遣されて少なくなったことから、一気に城際まで押し寄せたのである。
万喜城の側はこの武田の動きを全く察知できず、夜明けになって敵が押し寄せていることを知り大いに驚いた。
土岐頼春が櫓に登ってこれを見れば、武田勢は持ち楯掻き楯をつき矢弾を飛ばして一気に攻め破ろうとする。
頼春は弓鉄砲を放って必死に防衛の指揮をとるも敵は大軍、衆寡の差はいかんともしがたく
城は危うきの縁にあった。その時である
武田勢の後ろに突然、軍勢が現れた。
これは万喜城の危機を知った土岐頼春の家臣、安房矢竹城主・浅生主水助が、付近の領民を集め、
高野城の勢と合わせて500騎で後詰めを決行したのだ。
「万喜城中の方々出て、先駆けの者共の剛臆を見給え!」
そう言い放つと後詰勢は鐘太鼓を鳴らし、大声で喚きながら武田勢の後ろを襲う!
武田勢、大いに驚き浮き足立つ。
これに万喜城の兵たちも力を得、城門を開いて討って出る。
一転、武田勢は挟撃される形となった。
その頃、巳の下刻(午前10時頃)、武田勢は寅の刻(午前3時頃)から深夜移動して長駆ここまで押し寄せた
上に、食事も出発前に取ったきりで、疲労はピークに達していた。その上でこの思いもよらぬ後ろからの
襲撃である。
武田勢は前後の敵に揉まれるように責め立てられ、悉く潰走。武田信栄は命からがら庁南城へと
逃げ帰る。土岐頼春、見事な逆転、大勝利であった。
天正17年、安房万喜城攻防戦のお話
0745人間七七四年
2010/12/09(木) 13:02:00ID:EF1MqZIrやはり面白い
0746人間七七四年
2010/12/09(木) 15:51:36ID:hjRoHILz直江兼続の愛の甲冑は、兜は本物だが鎧は偽物なんだよなあ。
昭和40年代と平成に入ってからで、写真も違っている。
どうも所蔵している上杉神社内部の問題らしいが・・・
0747人間七七四年
2010/12/09(木) 16:17:08ID:0QM4xyhTいい話スレに投下したのに、「確かにコイツ、ヒャッハーだよね」なんて一言を付
け加えてしまった水谷さんのお話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4936.html
お詫びがてらに今度こそ、正真正銘良い話……かな?(^^;
ある年、常陸国では不作となり、水谷蟠龍が治める下館領では、年貢が例年の三分
の一程度しか納められなかった。
「これでは来年までの一年間、財政的にやって行けないぞ」
水谷家の重臣達が頭を抱えて対策を練っていると、
「おい、これを処分して金を作れ」
主君・蟠龍が差し出したのは水谷家に伝来する家宝の刀、六振り。
「な、何を仰いますか!? 家宝の刀を質に入れるなどと……」
「質? 何を言うか。質では安く買い叩かれる。こういう時はパァッと売り払うに限
るのだ。売っちゃえ、売っちゃえ!」
「……そ、そんなっ!」
「名刀など千振り持っていたとしても、千人の侍がいなければ役には立たんではな
いか。無駄に名刀を持っているより、百人、五百人の譜代の衆を助ける金に替えた
方がどれだけ有益な事か。いいから売って来い!」
蟠龍は六振りの名刀全てを売り払い、来年度の予算に充てた。しかも余った金は家
中の侍、百姓達にまで配布し、生活の足しにさせたと言う。
これに感激した領民一同、翌年が豊作となると皆で金を出し合って、一旦は売り払
った家宝の名刀を全て買い戻し、蟠龍の元へ献上した。
「お前達……せっかく今年は豊作だと言うのに、こんな事をしたのでは、今年もお
前達の生活は苦しいままではないか……」
蟠龍は皆の心遣いに感激しつつも、領民の生活を思い、布告を出す。
「今年の年貢は例年の三分の一を納めればそれでよい」
百姓一同、これに驚き、「それで国はやっていけるのか」と、布告の撤回を求めた
のだが、蟠龍はこれを譲らず、結局その年は三分の一しか年貢を受け取らなかった
と言う。
……あれ?三分の一じゃ、やって行けないから刀を売ったんじゃなかったっけ?
『水谷蟠龍記』から領民思いの良い君主と恩返しする良い領民のお話。
0748人間七七四年
2010/12/09(木) 17:06:17ID:7O+p02KP0750人間七七四年
2010/12/09(木) 17:31:35ID:1Tpr/D9c実際には使用してない気もするけど
0751人間七七四年
2010/12/09(木) 17:33:09ID:E5fXw7SP実際は家康のものなんだよな。
0752人間七七四年
2010/12/09(木) 18:43:54ID:qfMMp56Y家康も所有してた記録はあるが、合戦で着用した記録はないね
0753人間七七四年
2010/12/09(木) 18:58:57ID:1Tpr/D9c>>751
この話では信雄が西洋兜作る→子孫が西洋甲冑作る→信長のものにされる
ってことになっていたけど、家康のを参考にして西洋甲冑つくったってこと?
0754人間七七四年
2010/12/09(木) 19:01:34ID:E5fXw7SP映像とかで信長が良く付けてる南蛮胴のほとんどは、家康のこの南蛮具足がモデルなのよ
http://www.toshogu.jp/shisetsu/images/imageh02.jpg
0756人間七七四年
2010/12/09(木) 19:10:18ID:NpoITbE5なんという名君。
あと「例年」の1/3と「豊作時」の1/3じゃ後者の
方が多いんで財政的に困んなくても不思議は無い。
0757人間七七四年
2010/12/09(木) 19:19:44ID:1CrEEs7+0758人間七七四年
2010/12/09(木) 19:50:55ID:NpoITbE50760人間七七四年
2010/12/09(木) 22:54:17ID:lGQtqJTA0761人間七七四年
2010/12/09(木) 22:59:38ID:lGQtqJTA荒砥城07・二の郭物見櫓
http://f.hatena.ne.jp/miffy4312/20101126210140
みたいな小城を数百人で守ったのだろう。
0762間違えた
2010/12/09(木) 23:02:46ID:lGQtqJTAhttp://f.hatena.ne.jp/miffy4312/20101126210139 か
0764人間七七四年
2010/12/10(金) 13:26:19ID:bB5Lgh6Q例年、要するに「今までと同く」って意味だから、
756の解釈、豊作時の三分の一ってことでいいんじゃないの?
そうじゃないと凶作豊作関係なく同じ年貢を納めなくちゃいけなくなるだろう。
0765764
2010/12/10(金) 13:27:28ID:bB5Lgh6Qがわかりやすいか。
0766人間七七四年
2010/12/10(金) 17:29:08ID:lJtNhjQt0767人間七七四年
2010/12/10(金) 20:35:48ID:lJtNhjQthttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101210/acd1012101928003-n1.htm
0768人間七七四年
2010/12/10(金) 20:38:20ID:cRL4nQ95斬新な言い回しだなw
0769人間七七四年
2010/12/10(金) 20:40:52ID:HloUx1ZN現代で高知県内の上士と下士の子孫を憎み合わせるわけにもいかないから
敵は幕府であり東京ってことなのか?
0770人間七七四年
2010/12/10(金) 20:45:05ID:43kuLpT4どれだけ土佐で抵抗してたんだよw
0771人間七七四年
2010/12/10(金) 20:47:02ID:zNcxKqJZ探せばあるもんなんだなあ
0772人間七七四年
2010/12/11(土) 06:25:55ID:6x0jf7xE土佐は大河を観る限りでは上士の下士に対する態度はひどすぎる。
あれなら憎み合ってもしょうがない。
まぁ、あの大河は見廻組が新撰組に対して、
幕府直参であることをたてに威張りまくっていたから、
ありもしない演出する脚本家が作ってるとはわかるけどw
0773人間七七四年
2010/12/11(土) 16:17:06ID:aMszVBP5しっかりしてたり。
昨年の天地人みたいな修正しようの無い脚本じゃなかったからいいじゃない。
0774人間七七四年
2010/12/11(土) 17:58:12ID:g81+Qrvw特に秀忠の扱いが
0775人間七七四年
2010/12/11(土) 18:05:50ID:WCNjiVqL異母兄を暗殺し、異母弟を暗殺しようとして、さらには同母弟の鷹を殺しておきながら自分の鷹を与えて「兄上は優しいなあ」と信頼を得るような策士キャラは
期待しない方がよさそうです
0776人間七七四年
2010/12/11(土) 18:57:10ID:T9bjNgF+それだけでも見ものだと思うんだが・・・・
0777人間七七四年
2010/12/11(土) 19:04:41ID:g81+Qrvw0778人間七七四年
2010/12/11(土) 19:14:54ID:T9bjNgF+二人目まではいいとしても、流石に三人目は別の名前にすりゃいいのにな。
0779人間七七四年
2010/12/11(土) 19:18:19ID:9NrdB7Yu0780人間七七四年
2010/12/11(土) 19:31:36ID:UpCWqPM2上士下士が本格的に憎み合ってたのは薩摩じゃねえかなぁ、と思うが
「また上士に好き放題されたいのか」って川路寿明に言われた薩摩下士出身の警察官が誰も西郷に味方しなかったとか
0781人間七七四年
2010/12/11(土) 19:37:22ID:J7VjYktY「新興下士」との争いなんだよね。貴族とブルジョアだな。
土佐勤王党のメンバー見れば解かるけど、下士なのにほとんどが金持ちの家の子息。
あれは新興ブルジョアが「金持ってる俺達にも参政権をよこせ」っていう運動なわけだ。
いわゆる「長宗我部由来」の下士は幕末期、ほとんどが上士についている。
0785人間七七四年
2010/12/11(土) 20:05:19ID:WCNjiVqL0786人間七七四年
2010/12/11(土) 20:25:48ID:nRzlBcX7西郷自身は下士出身じゃなかった?
妙円寺詣りの時「道をどけ」って言った年上の上士を投げ飛ばして
下士のヒーローになったって逸話があった気が
それが原因で上士の子に襲撃されて以来どっちかの手が不自由になったはず
0787人間七七四年
2010/12/11(土) 20:29:50ID:J7VjYktY西郷は上士だよ。じゃなきゃ薩摩士族の青年団体である郷中のリーダーになんかなれない。
0788人間七七四年
2010/12/11(土) 20:49:53ID:iedl3Jen0789人間七七四年
2010/12/11(土) 20:58:06ID://L/ncvMんで、西郷家は藩主直属とはいえ下から2番目の御小姓組で、格的には
郷士と一緒のはず。
0790人間七七四年
2010/12/12(日) 02:16:46ID:j+iXo1qN200石鳥の郷士もいれば無高の上士もいたり・・。
0792人間七七四年
2010/12/12(日) 10:59:59ID:VDJQizwBhttp://blogs.yahoo.co.jp/hoshiyandajp/25307278.html
0793人間七七四年
2010/12/12(日) 11:09:03ID:GurneYxx0794人間七七四年
2010/12/12(日) 12:32:03ID:oBHatUUq土人に負けるとか幕府弱すぎワロタw
0795人間七七四年
2010/12/12(日) 12:55:47ID:BNxuRy5I0796人間七七四年
2010/12/12(日) 13:14:18ID:Kh3bnQ9V田舎は特に・・・・
0797人間七七四年
2010/12/12(日) 13:19:51ID:t4mx0UHshttp://www.nicovideo.jp/watch/sm2284401
0798人間七七四年
2010/12/12(日) 13:25:20ID:VGt/xQGiこういう話って全世界にあるんだよね。
0799人間七七四年
2010/12/12(日) 14:10:59ID:ZjJ2J/npひえもんとり
肝練り
えのころめし
みんな薩摩の貴重な文化なんです尊重してあげてください
0800人間七七四年
2010/12/12(日) 15:17:07ID:A/hLD+2L0801人間七七四年
2010/12/12(日) 18:17:28ID:oBHatUUq0802人間七七四年
2010/12/12(日) 20:24:28ID:2FCN0QXg地域・時代ごとの結婚の形式に正しい、間違っているなんて言っても詮無いし
結局その後の当人同士の付き合い方次第なのはここの逸話が示すとおりだしな
0804人間七七四年
2010/12/12(日) 20:41:20ID:VpRZZ0jp0805人間七七四年
2010/12/12(日) 20:54:38ID:3N47KFMn0807人間七七四年
2010/12/12(日) 23:28:47ID:Kerw5unU御成敗式目でも辻取り(路上で女性を捕まえて妻にする)は禁止されていて、御家人がやらかすと100日の停職処分になるとのことw
御伽草子でもものぐさ太郎が辻取りをやっているな。
0808人間七七四年
2010/12/12(日) 23:36:06ID:LrpghTUj略奪婚は娘を取られるだけだが
押しかけ婿では、嫁だけでなく家屋敷も財産も田畑も全て分捕られるという・・・
0809人間七七四年
2010/12/12(日) 23:44:21ID:ITeJ3gij0810人間七七四年
2010/12/13(月) 00:07:34ID:Hxm8UP3o0811人間七七四年
2010/12/13(月) 00:12:14ID:A4egQgC9みたいな描写があった気がするんだがこういうの見てるとどっちが受益者なのかわからないな
0812人間七七四年
2010/12/13(月) 00:19:29ID:dSiIKObW和田さんの判例からすると懲役40年くらいの量刑だな
0813人間七七四年
2010/12/13(月) 00:23:54ID:bRWQzd3hこないだ正史スレで信憑性について侃々諤々の議論になってたが。
0814人間七七四年
2010/12/13(月) 00:38:56ID:AXAqysHt略奪婚の場合嫁さんの実家の財産の分与はどうなるんだろう。
0815人間七七四年
2010/12/13(月) 00:42:02ID:TOkzhyl+その期間過ぎて奪還できないと、それは神の祝福したもう結婚と認められたとかで。
0816人間七七四年
2010/12/13(月) 00:53:30ID:KK0ibJs6尾張地方では夜道怪と読んでいたそうな。
0817人間七七四年
2010/12/13(月) 00:57:29ID:+/GID+f30818人間七七四年
2010/12/13(月) 01:23:40ID:jpsC8GHe0819人間七七四年
2010/12/13(月) 03:01:09ID:JfnhbZnf織田家の甲州征伐によって武田家が滅ぼされ、信長が富士山や駿河路の名勝を見物
しながら安土に帰ると決定すると、道中を領する徳川家康は粗相のない様、道を整
備し、宿舎や休憩所も用意し、信長を迎える準備に大わらわとなった。
そんな信長の元に、一人の男が訪れる。
「信長殿!マロも一緒に富士山を見たいでおじゃるよ!」
どこまでもアグレッシブな元・関白にして現・太政大臣、近衛前久であった。
が、信長からの返答は冷たい。
「あんたね、家康が今、どんだけ苦労して街道整備してるか判ってる?右大臣の俺
を迎える準備だけですっげー迷惑掛けてんのに、今から『太政大臣も一緒に行くね』
なんて、家康に言えると思う?あんた何考えてんの?木曽路を通って帰んなさい!
ハウス!!」
門前払いを喰った太政大臣様は、とぼとぼと山道を引き返して行ったという。
そんなトラブルもありながら、道中を楽しんだ信長一向。
浜松での盛大な祝宴の際、家康に対して礼を述べた。
「今まで吉良に兵糧を蓄えていたのは東国征伐が長く、困難な戦になるだろうと考
えていたからだ。これほど簡単に武田を滅ぼせた為、蓄えた八千石がほぼ手付かず
で残っている。もうこの八千石は必要ない米だ。徳川家で良いように使ってくれ」
と、気前良く大量の兵糧を徳川家へと贈ったと言う。
『徳川実記』より家康に気を使う信長さんの良い話……の筈。
こんだけ家康に気を使ってるのに、前久を追い返したのは「驕り高ぶり、高慢であ
る」と、他ならぬ徳川家の記録で非難されちゃうのはちょっと気の毒じゃないか、
信長さん。
0820人間七七四年
2010/12/13(月) 03:09:55ID:qBpmnI+c0822人間七七四年
2010/12/13(月) 09:44:32ID:bd7R9kKOつまり三国志とは孫権(呉初代皇帝)の妹の夫・劉備(蜀初代皇帝)の息子・劉禅の妻・張皇后の母の叔父・夏侯淵の従兄・
曹操(魏王)の甥・曹真の姪の夫・司馬師の甥・司馬炎(晋初代皇帝)の伯父・司馬?(東晋初代皇帝・司馬睿の祖父)の舅・
諸葛誕の従兄・諸葛亮が互いに戦う話と言うことか
0823人間七七四年
2010/12/13(月) 09:58:15ID:5jXYi9Sg0824人間七七四年
2010/12/13(月) 13:13:10ID:bRWQzd3hそういう奇遇な話だと、三国時代は、
劉邦(魯の人)の作った前漢を王莽(元斉の人)が禅譲を受けて滅ぼしたあとに、
劉秀(元魯の人)が再興した後漢が分裂時代に入り、
曹操(魯の人)劉備(元魯の人)孫権(元斉の人)の間で天下を奪い合った。
という話でもある。
あと、北周、隋、唐の皇族が実は結構近い血縁集団となってるが、これを結びつけてるのが独孤氏。
その独孤氏の祖は劉秀の三男、沛(元魯国の地域)の献王劉輔となっている。
どれだけ魯国&斉国内で国をやりとりすれば気が済むのかと。
まぁ、スレチだが。
0825人間七七四年
2010/12/13(月) 13:44:22ID:Ir0Vs+U4家康が安土城登城の際、街道整備や兵や馬の為の食糧を街道に配布したり
0826人間七七四年
2010/12/13(月) 15:35:35ID:aM8wuEEe0827人間七七四年
2010/12/13(月) 17:04:00ID:JU1sl7ap徳川幕府成立後にも千石以上の所領を五徳に与えたり
0828人間七七四年
2010/12/13(月) 17:10:10ID:gwqFjTdi0829人間七七四年
2010/12/13(月) 17:24:09ID:+/GID+f3信康事件が「徳川内部の事情」っていうのは、未だに断定できる証拠の一切無い
想像の産物にすぎんよ?
史料的には彦左さんなんかがはっきり書き残した分、「信長強要説」のほうが分がいい。
0830人間七七四年
2010/12/13(月) 18:28:14ID:JU1sl7ap彦左さんの史料自体が疑われると思うんだが
永倉新八の自伝から幕末語るようなもん
家忠日記あたりに夫婦仲最悪で信長の命令って書いてあったらいいんだけど
安土日記にゃ、信長は「家康の好きなように」としか言っとらんね
牛ちゃん織豊系だから、でスルーするなら彦左も徳川系だからでイーブンだと思うし
0831人間七七四年
2010/12/13(月) 19:12:20ID:dSiIKObW無理難題を言いつけて徳川と手切れをしようとしたら、あっさり従ったので、もうしばらく生かしておいて利用しようとしただけ
0832人間七七四年
2010/12/13(月) 19:29:12ID:+/GID+f3一応重要なことは作左さんもそうだが徳川家の側では、徳川が天下をとる以前から
信康事件を「信長の強要」と理解しており、一方の織田家の側には、当時を知っている人々が
残っていた時期であっても、それに対する何らかの反論は存在しない。
信長強制説も徳川内部の事情という説も確かに決定的な証拠は存在しないが、
どちらが有力かといえば「信長強制説」の方が、少なくとも現在の時点では有力、
と見たほうが公平だと思うよ。
>>831
> 長篠で武田の脅威が完全に取り去られたから徳川の防波堤は完全に必要なくなった。
それはない。長篠のあと信長は家康に、武田家に対する集中的な調略を行わせている。
信長は長篠の結果武田が弱体したとは考えていたが、止めも刺さないうちに
「もう東は大丈夫」などと思うような脳天気な武将ではないよ、信長は。
0833人間七七四年
2010/12/13(月) 19:30:03ID:+/GID+f30834人間七七四年
2010/12/13(月) 19:44:33ID:JU1sl7ap家忠日記にゃ家康と信康の仲が不穏な様は書かれているけど
0835人間七七四年
2010/12/13(月) 20:16:25ID:O/1k9IMghttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
それ以上はこちらでどうぞ
0836人間七七四年
2010/12/13(月) 20:17:10ID:+/GID+f3三河物語も当然として、松平記や当代記にもそう記録されてるでしょ?もちろん徳川実紀にも。
というか「徳川家内の紛争説」は想像や推測で補完している部分が大きすぎて、
まともに受け取るべき説とはとでも思えないんだわ。
一種の創作小説だと思う。
0837人間七七四年
2010/12/13(月) 20:19:06ID:+/GID+f30838人間七七四年
2010/12/13(月) 20:21:35ID:FRyovLe/0839人間七七四年
2010/12/13(月) 20:23:13ID:A4egQgC9信長に畜生レベルの親子関係をチクってそれを知った信長がうらやましからんといって
両方殺せと命じたが家康はまんちょに無中だったのでどうでもよかったという話
0840人間七七四年
2010/12/13(月) 20:31:11ID:FRyovLe/子供まで産んだというのもあるぞw
0841人間七七四年
2010/12/14(火) 00:46:35ID:/dopAFUA0842819
2010/12/14(火) 00:55:28ID:SqtyEf0o『徳川実記』には書いてあるね。
悪い話向きだと思うからあっちに投稿しておく。
織田、徳川どちらの史料にどんな事が書いてあっても「捏造だ」で済ませられちゃう様な
気がする。
北条の手紙なんかで残ってたら面白いんだけどね。
0843人間七七四年
2010/12/14(火) 02:36:57ID:fmhf0ugE0845人間七七四年
2010/12/14(火) 06:19:44ID:WetDDjoe0848人間七七四年
2010/12/14(火) 19:30:16ID:9vzUE/DO0849人間七七四年
2010/12/14(火) 21:20:26ID:OdKWoZRR「王(天皇)というものは厨子に入れて持ち運ぶ事ができるのか?」
「いいえ、王は厨子に入れて持ち運びはできません。吉法師様。」
七郎左衛門は茶筅髷の若殿にこう答えたという。
0850人間七七四年
2010/12/14(火) 21:58:32ID:SPZySiTHあと悪い話でもないのでこちらに・・・
正月の門松の竹の先端を斜めに切り落としてるのと平らに切ってあるのがありますよね?
斜めの切り口は「ソギ」と呼び、平に切られた切り口は「寸胴(ずんどう)」と呼ぶそうです。
「寸胴」は節が詰まっていて漏れないと縁起を担いで金融関係で使われるそうです。
元々は「寸胴」だけでしたが「ソギ」の門松を広めたのが徳川家という説があるそうです。
ある年の大晦日に、武田家から松平家(後の徳川家)へ次の一句が送られました。
「松枯れて 竹類なき 明日かな」
これを見て松平から武田に返句が送られる。
松枯れで 武田首なき 明日かな」
松平家では、こう詠みながら門松の竹の上部を斜めに切り落としたといいます。
この時を境に、松平家の門松の竹の頭は「斜め切り」となり、
江戸開幕後、関東に「ソギ」が広がってたそうです
返句を酒井忠次さんが詠んだという話もあるそうですよ〜
門松に「ソギ」と「寸胴」の二種類あるのか不思議だったのでググってみたらこんな話にぶち当たった次第。
0851人間七七四年
2010/12/14(火) 23:31:30ID:i4+jp2j9生前の正雪は徳川頼宣のもとに親しく出入りしており
その最期においても捕吏に「紀伊大納言家来」を名乗るなど繋がりを感じさせた。
正雪の遺書には
「紀伊大納言の名を騙ったのは人を集める為であり、扶持を受けたりはしていない」と書かれていたものの
幕閣の疑いは晴れず、頼宣を江戸城に召喚し正雪の遺書を示して釈明を求めた。
すると頼宣はおもむろにこれをみて
「まことにお家のために慶賀にたえぬ。もしこれが外様諸大名の名を騙りたれば安心し難いが
お家の血脈たる某の名を騙るとは、これぞまさしくお家安泰の兆しである。」と答えたという。
0853人間七七四年
2010/12/15(水) 11:49:40ID:63XqE5/V毎年の例大祭では、まず最初に徳川信康公慰霊祭を行ってから、藩主たちの番となるのであった。
いい話ですねー。でも400年も気にし続けなくちゃならないのは大変だ。
0854人間七七四年
2010/12/15(水) 12:05:02ID:PDEQAXpe俗説の12ヶ条の逸話などを別にしても後暗い所はあったんだろう。
0856人間七七四年
2010/12/16(木) 06:29:03ID:jCna04B+アクセスが集中して見れませんって、エラーページになってるんだけど
これアクセスブロックされてんのかな……
0857人間七七四年
2010/12/16(木) 07:27:17ID:9ZLJmorofc2がメンテ中。fc2はアホ仕様なのでメンテ告知ページではなくエラーページに
強制リダイレクトするようになってる。
0858人間七七四年
2010/12/16(木) 20:21:14ID:AdsW1wN4両者が帰国の準備を進める中、会津四天の佐瀬源兵衛のもとに、佐竹の客将・太田三楽斎より書状が届いた。
“このまま帰国すれば、今生の別れとなろう。互いにいつ果てるか分からぬ身である。老後の思い出に、
顔を合わせて旧交を温めたし。”
「さすがは三楽じゃ、よし、会おう!」
源兵衛は小躍りして喜び、すぐさま主君・蘆名盛氏の許しまで得てしまったが、同僚たちはこれを危ぶんだ。
「相手は謀将として名高い太田三楽だ。ノコノコ行けば、何が待っていることか。」
「いや、わしはヤツを良う知っておるが、そんな男ではない。」
心配する同僚をよそに、源兵衛は甲冑を脱ぎ捨て道服に着替えると、わずかな手勢を連れて佐竹陣へ向かった。
久しぶりに対面した源兵衛と三楽斎は、膝を突き合わせて来し方行く末を語り合い、名残を惜しみつつ別れた。
無事戻って来た源兵衛に、同僚たちが詰め寄った。
「いくら三楽と懇意と言えども、昨日までの敵のもとに、鎧も着けずに出かけるとは何事じゃ!
我ら、手に汗を握って待っておったのだぞ!?」
「何を言う。わしは昔、関東に武者修行に出向いた折、三楽の居城でやっかいになった。その時は武辺話に
花が咲き、毎日夜が更けるまで語りあったものだ。そのわしらの仲に、妙な謀略などあろうものかよ。」
「それでも万に一つ、という事もある。やはり危なかろう。」
「なぁに、万に一つなどという事があっても、顔と顔、眼と眼を合わせておれば、そうそう不意を打たれる
ことはないわ。向こうが動いた瞬間、こちらもお相手し、刺し違える。会津と佐竹、一人ずつ減るだけよ。」
「だ、だが帰るところを、後ろから襲われたらどうする?」
「わしの馬の名はご存知かな?」「……確か、『韋駄天』だったか。」
「そう!その名の通り、風のごとく逃げ去るのみよ。このようになっ!!」
そう言って笑みを浮かべると、源兵衛は愛馬に一鞭当て、懐かしき会津へ向けて駆け出した。
0859人間七七四年
2010/12/17(金) 01:11:44ID:WD6cwNo9戦国時代の二つの南部
天正18年(1600)、南部軍の大将として津軽氏と戦っていた八戸政栄は、
三戸の南部信直の呼び出しを受け急遽帰国した。
二人はそれぞれ三戸南部氏・八戸南部氏の二大巨頭ではあるが、
家中で立場の弱い信直になにかと親身になってくれたのが政栄だった。
このとき信直は人生最大のピンチを迎えていた。彼は思い詰めた末、政栄にこう切り出した。
信直「八戸殿は小田原に行かれるおつもりですか?」
政栄「…………」
信直「いま関東の大小名はこぞって太閤様のもとに参陣し、御沙汰を待っています。
我らも一刻も早く小田原へ行かねば後々よろしからぬことになるでしょう。
しかし参陣したくとも、津軽は騒ぐし九戸も不穏だし、領地を留守にはできない。
だからといって参礼をしないわけにも行かない。
…あなたは他の末家と違い、朝廷公家に直参するお家ですから、
一緒に小田原に行き、本領安堵されたいと思っています。
しかし我ら二人が領土を空けるわけにはゆかないのです。
だから、どうかこの地に残り、南部の土地を守っていただけないでしょうか。
御朱印を拝領する名代として、ご子息の直栄殿をお連れします。
当主のあなたが直接参陣できない理由は私から利家様に必ずご説明します。
当家の存亡はあなた一人の思慮に懸かっております!お願いいたします!!」
政栄は少し考えこんでから、静かに語り出した。
政栄「おっしゃる通り、八戸は三戸から一度も禄を受けたことはありません。
ですが、先祖代々不幸のあるときは互いに助け合い、家を存続させてきました。
いま九戸政実と津軽為信の反逆によって、ご領内は三つに分裂してしまっています。
こんなとき私まで太閤様に参礼したら、嫡家の威勢はさらに弱まり、滅亡してしまうでしょう。
南部の大事に自分の家の都合のことなど申してはおられません。
私が自領とあなたの領地をお守りします。
あなたはお気遣いなく、すぐに小田原へ行きなさい。
息子は参陣させますが、八戸の所領安堵はご領内が落ち着いてから後日願い出るつもりです」
信直はうなだれて政栄の話を聞いていたが、話が終わるとワーッと泣き崩れた。
「八戸殿、かたじけない…。ご親切は決して忘れません」
こうして信直は領内に八戸政栄を残し、ようやく小田原に参陣できたという。
結局八戸は大名になれなかったんだけど、
信直が八戸家を立てたので彼の生前はまあ良好な関係だったそうな
0860人間七七四年
2010/12/17(金) 01:15:10ID:WD6cwNo90861人間七七四年
2010/12/17(金) 01:39:06ID:f1LztK/70862人間七七四年
2010/12/17(金) 07:29:04ID:yGpFqwuY信直はいいんだが、利直がなあ…。ただでさえ外様豪族の力が強い南部で
権力を確立する為には外様潰しが必須だったとはいえ。
0866人間七七四年
2010/12/18(土) 13:00:08ID:fzn9ifAV音泉 ttp://www.onsen.ag/
ネットラジオのサイトだがアニメ・ゲーム・声優ネタがほとんど。
特に興味なかったんだが
戦国時代を扱う「遠近孝一のスキモノ!戦国RADIO」というのを流してる。
いずれ実際の歴史と関係ないゲーム・アニメの話をしてるんだろうと思ったら、結構コアな話してて驚いた。
今週はキリシタンの歴史を話してる。
0867人間七七四年
2010/12/18(土) 18:36:15ID:SrhgMEe60868人間七七四年
2010/12/18(土) 20:09:36ID:1h0kVlqe0869人間七七四年
2010/12/19(日) 00:15:19ID:3D8ctbXA讃岐に入国した親正は、丸亀・引田といった讃岐旧来の城に飽き足らず、高松の地に新城を築くことにした。
しかし、高松での築城に決定的な自信の持てなかった親正は、黒田官兵衛に縄張りについて相談した。
「官兵衛殿、どうでしょうか?」
「・・・問題なし。むしろ、一段と良き城地にござる。」
「そうですか!いや良かった。それ、その地図にもある高松より半里ばかり西南の石清尾山、なかなか大きい山で
高松に近過ぎるので、要害のため如何かと思ったのですが・・・」
「何を言われる。石清尾山あってこそ高松は良き城地なのです。この山、高松のためには味方千騎に値しますぞ。
もし阿波・伊予等から敵が寄せて来れば、海に面した高松は、ひとたまりもありますまい。
しかし、石清尾山で敵の進軍を妨げる事によって、京・大坂から援軍が来るまで、持ちこたえる事が出来ましょう。
軍略上で大事な土地を『要害』というのは、味方には『要(かなめ)』、敵には『害』となるからなのです。」
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー いや、ホントかどうかは知らんけど。
0870人間七七四年
2010/12/19(日) 01:16:14ID:uoYQJMH1山本勘助と同じで名軍師=河豚というお約束、という説を見たよ。
ベッキー道雪もそうだし、首から下はいらない人たちの系譜は
史記の孫ヒンまでさかのぼりそうだね。
いや、ホントかどうかは知らんけど。
0871人間七七四年
2010/12/19(日) 01:19:03ID:X+orVbJ10872人間七七四年
2010/12/19(日) 06:39:47ID:cU/EqjfW0874人間七七四年
2010/12/19(日) 10:20:44ID:67CQfCJl0875人間七七四年
2010/12/19(日) 11:51:32ID:hWEioXdo0876人間七七四年
2010/12/19(日) 13:08:57ID:THHK4Ctf「陥とす(殺す)ことが必要」
或いは
「死が必要」
だな。
害が「死」とか「殺す」とかを意味していて、要が動詞的用法だと「必要である」ということになる。
つまり、割とそのまんま、文字通りの意味だったりする。
08771/2
2010/12/19(日) 17:08:55ID:5KSHtmH+『 難波の霞 』と書かれた紙切れが入っているだけだった。
「これは、何のことじゃ?」
島津家の重臣達がいくら頭をひねって考え抜いても、何の意味があるのか、さっぱり分からない。
「まずい。これでは明日、義久様に恥を掻かせてしまう!」
「だが、どうすれば・・・」
「おや、何の騒ぎですかな?」
「おお武蔵どの!良いところに来てくれた!実は、こんなものが宮中より届いたのですが・・・」
重臣達は最後の頼みの綱、通りかかった新納武蔵守忠元にすがりついた。
「ああ、こりゃ和歌の定番ネタのことじゃな。」忠元は、あっさり謎を解いた。
“難波潟 刈りふく蘆の 八重霞 ひまこそなけれ 春のあけぼの”(二条為氏・新後撰集)
「難波の入り江には蘆が生い茂り、それを覆い隠すように霞が立ち込める、というのが定番の情景でな。
つまり『難波の霞』が隠すのは『あし』、『あし』を隠すのは履き物。
すなわち、宮中に特有の履き物である木靴・革靴を改めて参れ、という謎かけじゃよ。」
「「「おおお!さすがは武蔵どの!!」」」
「新納忠元が謎を解いた」という噂はたちまち宮中に伝わり、公家衆はその姿を見んと宮中で待ち受けた。
08782/2
2010/12/19(日) 17:09:44ID:5KSHtmH+(あれが名高い新納武蔵守かいな)(武名高く教養深いと評判の武蔵守が、こんな小さいお人とは)
(しかし、ほんにえらいおチビさんどすなあ)(あれで有名だから、むしろ大したモンやホホホ・・・)
「・・・・・・!!」「忠元。」
「・・・わかって、おります。」義久に暗に釘を刺された忠元は、暴れ出したい衝動を必死で抑えた。
無事、参内を遂げた島津家一行に、天皇は親しく声をかけた。
「さて、薩摩は遠国だ。何ぞ上方と変わっている、珍しき事はないか?武蔵守よ、どうだ?」
「そうですな、薩摩では跳び方が面白いと、良く蛙を棒で突っつくのが上方と変わっておりまする。」
「か、蛙?!」
「ええ、あのゲコゲコ鳴く蛙です。都にも蛙が多いようで、楽しみな限りにござる。ハハハ・・・」
忠元は、天皇の左右に控える百官を見渡して笑った。
「さ、左様か。それは面白い事を聞いた。島津家の者ども、今日は下がって良いぞ。」
島津家一行が退出した後、公家衆は忠元を嘲笑った。
「聞くと違って、何や阿呆なこと言うお人でしたなあ。」「ほんに・・・ホホホ・・・・・・」
「阿呆は卿達だ。」
「な、何を申されます主上!」「・・・『井蛙』という言葉を知っているか?」
「『大海を知らず』、という話でおじゃりますか?」
“井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏虫不可以語於氷者、篤於時也。”(荘子)
「和歌の知識という井戸に篭もる都の蛙を、薩摩者が漢籍という棒で突ついた、という訳だ。
分かったか。以後、田舎者とて武家を嘲笑うこと、まかりならぬ。これ以上、朕に恥を掻かせるな。」
天皇の静かな怒りに、公家衆は一言も返せず、うなだれるばかりだった。
0879人間七七四年
2010/12/19(日) 17:37:21ID:uElzWMr0そして公卿ざまぁw
こーいうスカッとする話良いな
0880人間七七四年
2010/12/19(日) 20:01:10ID:yzSaXCRW大辞泉から
ぬみ【要=害/▽要】
・攻防上で重要な地点。要衝。ぬま。
よう‐がい〔エウ‐〕【要害】
・地形がけわしく守りに有利なこと。また、その場所。「―の地」「―堅固な城」
・戦略上、重要な場所に築いたとりで。要塞(ようさい)。「天然の―」
大辞林から
ぬま 【▽要・〈要害〉】
・要害。要衝。ぬみ。
ちなみに要衝↑は
・軍事・交通・産業のうえで大切な地点。要所。「交通の―」
やっぱり官兵衛さん凄いや、どうしてこう言う事がスラスラ出てくるのかね。
0881人間七七四年
2010/12/19(日) 21:11:56ID:m+4oBwsYこの切り返しはかっこいいな。
まーくんの逸話にしてもそうだが、自分もイヤミに対してさらっと皮肉で返せるだけの
教養を身に着けたいと思うわ。
0882人間七七四年
2010/12/19(日) 23:04:08ID:1sNA1Ur2こんな知的な人だったのか
0883人間七七四年
2010/12/19(日) 23:13:55ID:jaNk5+rD自尊心を回復するタイプの話はだいたい後世の作り話
つーかこの時代公家こそ漢詩の本家本元みたいな集団で、島津の連中がどうひっくり返ったって
そっち方面の教養でかなうわけがないw
0884人間七七四年
2010/12/19(日) 23:15:16ID:We44p8Ws0886人間七七四年
2010/12/20(月) 00:40:04ID:wlfUvjdu島津が上洛できる時期の天皇だと後陽成天皇しかいないけど、この時期だと
15〜20歳とかだもの。年齢設定だけでも、まず作り話確定かと。
さんざ馬鹿にされたので、こういう作り話で鬱憤を晴らしたんだろうねい。
0887人間七七四年
2010/12/20(月) 00:41:03ID:4XVUKRai0888人間七七四年
2010/12/20(月) 00:41:58ID:D8Fa/BJt0889人間七七四年
2010/12/20(月) 00:54:39ID:YeFZGQtA「要害」というのはそもそも中国語では
人体において命にかかわる重要な部位の事ですな。
そこから転じて「要害之地」は取られたら終わりの
軍事上最重要地点の事を指すようになったわけです。
昔の日本人は漢籍に出てくる「要害之地」を見て
「要害」が何の事かよくわからなかった。
(書き下してみるぞ!→害を要するってなんじゃらほい??)
でも時々一緒に出てくる「易守難攻」から察するに
攻め難く守り易い、凄い場所なんじゃなかろうかと考えた。
まぁとにかく、こんな風にして日本語における
「要害」の強くて堅いイメージができあがったわけです。
言葉とはかくも難しく、そして面白いというお話。
0892人間七七四年
2010/12/20(月) 02:12:30ID:r7VS/C1n新納とか戦場で和歌の応酬をする話とか残ってるし
4兄弟のお父さんやそのお父さんの和歌を見る限り教養レベルはかなり高いと思うが
それが転じてこんな話になったんだろう
公家相手ってところが薩摩の田舎精神醸しだしてていいじゃないかw
この当時の公家の学問レベルがどれくらいだったかきになる
0893人間七七四年
2010/12/20(月) 03:52:08ID:wlfUvjduちょっと悪い話にw
>>892
たとえば、当時でも公家では家学 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%AD%A6
やら、細川幽斎で有名な古今伝授なんてものが綿々と受け継がれていたわけで。
儀式と学芸をするのが皇族や公家のお仕事。武家の嗜みなんかと同じレベルで語っちゃ
いけないでそ。もちろん、武家にも先に挙げた細川幽斎みたいな例外もいるけどさ。
0894人間七七四年
2010/12/20(月) 07:28:54ID:vQUDL0WD仏教者として有名な正三ですが、生まれは三河則定城主鈴木重次の長男です。
初陣は天下分け目の関が原でした。後の大阪の陣では武功を挙げ200石取りの旗本となっています。
彼は戦場で生死に近かった三河武士の経験を通じて、仏教に傾倒していきます。
ついに42歳のときに出家をします。しかし本来旗本の出家は禁止されています。
しかし、後に名を残す僧のなにか凄いオーラがあったのか、秀忠公が正三の人柄仏法への真摯さに感じたのか、
出家の罪を不問とし、長男正三のいなくなった本家が養子を取ることも認め鈴木家の存続も認めました。
これが正三道人誕生の話です。他のエピソードもありますのでまた書きたいと思います。
0895人間七七四年
2010/12/20(月) 09:12:43ID:P1VmSyrn室町、戦国期は公家の断絶や没落がバタバタ起きてる
朝廷に強い影響力があるか、下野して成功出来るほど高い能力を持った公家以外が
一定の文化レベルを保持し続けられるかはちょっと疑問かな
真偽についてはそういうスレじゃないんで言わない
0897人間七七四年
2010/12/20(月) 15:04:50ID:X6EpBuBo「幽斎さんは神」で異論は無いな?
0898人間七七四年
2010/12/20(月) 15:41:04ID:J3XK/Q0O武将の話題扱った事あるの?
0899人間七七四年
2010/12/20(月) 16:18:55ID:RuG0Nvsp0900人間七七四年
2010/12/20(月) 17:08:09ID:yteEorP8弟子にしたりして教えてもいいって事なんですか?剣術でいう免許皆伝みたいなもの?
0901人間七七四年
2010/12/20(月) 17:19:53ID:UsCRXYPl0902人間七七四年
2010/12/20(月) 17:51:42ID:vQUDL0WD>>894で話した通り出家した正三。
あるとき正三のもとに一人の百姓が訪ねてきた。
百姓「正三さぁ、ワシは浄土へ往生しとうていつも念仏しとるんじゃが、
果たしてこれでええんやろうか?」
正三「おお!素晴らしいことではないか。
念仏の誓いを建ててもすぐ辞めてしまう者もおるのに立派な心がけじゃ。
ではすこし念仏の参考になる話をしようかね。
まず念仏には五つの種類があるんだ。
一つは功徳(善言を成して御利益を願う)の念仏じゃ。
二つは慙愧懺悔の念仏。
三つは裁断の念仏よ。この三つめの念仏とは念仏の剣を持って善念、悪念どちらも南無阿弥陀仏と切り払う念仏じゃ。
四つは末期の念仏。
五は平等の念仏じゃな。万事に碍えられず、南無阿弥陀仏と、松吹く風と斉しく申す念仏じゃ。
まぁ、この五種じゃね。」
百姓「正三さぁ、どれも気持ちいい念仏じゃなあ。
そのなかでもワシは三つ目の裁断の念仏が気にいりました!!
これ一つでワシの念仏の用は調うですよ。
本当にありがとうごぜえます。」
と、その百姓は喜び勇んで帰り六年ほどの後、見事な往生を遂げたということである。
0903人間七七四年
2010/12/20(月) 17:54:49ID:vQUDL0WD尋ねてきたのは恐らく三河にも多い念仏宗の農家の方です。
他宗派の相手にも見事に法を説いた正三と、それをすぐに理解した百姓。
いい話なので投稿させてもらいました。
0904人間七七四年
2010/12/20(月) 18:14:54ID:7kXG8d/L0905人間七七四年
2010/12/20(月) 18:16:34ID:vQUDL0WDそう、その人です。
天草でも治水関係かなにかで伝説残していたような記憶がありますね。
また気が向いた時でも調べて書き込みます。
0906人間七七四年
2010/12/20(月) 21:51:58ID:TO1loJjJところが、職人が懸命に木材を組んでいるスキに、一緒について来た職人の子供が茶壷で遊び出しており、
そのうち壷の口に突っ込んだ手が抜けなくなってしまい、オマケに忠秋の近習たちに見つかった。
「殿様の大事な壷に、なにをしておる!?早く抜かんか!」
「それが、どうしても抜けないんで!」
「ならば止むを得ぬ。その子の手を切り落とすか。」
「そんな!お、お願いします、どうかお助けくだせぇっ!」
父親と近習の剣幕に、とうとう子供は泣き出してしまい、泣き声を聞きつけて忠秋もやって来てしまった。
騒ぎの原因を聞いた忠秋は、
「なにをいつまでも愚かな事をしておる。早う、こうせぬか。」
と言って脇差に手を伸ばすと、その柄頭を茶壷に叩きつけた。壷は打ち砕かれ、子供の手は抜けた。
すぐさま職人は忠秋の前に土下座し、感謝した。
「大切な壷を割ってまで倅を救っていただき、まことに有難うごぜぇます。この罪は、あっしが受けます!
どうかどうか、倅だけはお助けを・・・」
「何の罪だ?」土下座したままの職人を横目に、訳が分からない、という顔をして忠秋は去った。
職人は、泣いた。
0907人間七七四年
2010/12/20(月) 22:48:24ID:M5yl7yy30908人間七七四年
2010/12/20(月) 22:50:25ID:P1VmSyrn潔さにまったく感服だ
0909人間七七四年
2010/12/20(月) 23:02:48ID:r7VS/C1n0910人間七七四年
2010/12/20(月) 23:03:17ID:mvhlA8n1この茶壷は修復されて名前伝わったりしてないのかな
0911人間七七四年
2010/12/20(月) 23:13:56ID:arsXuBo80912人間七七四年
2010/12/20(月) 23:21:58ID:cUmdBwFm0913人間七七四年
2010/12/20(月) 23:44:27ID:M5yl7yy3, '´  ̄ ̄ ` 、
i r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ
ト.i ,__''_ !
/i/ l\ ー .イ|、
,.、-  ̄/ | l  ̄ / | |` ┬-、
/ ヽ. / ト-` 、ノ- | l l ヽ.
/ ∨ l |! | `> | i
/ |`二^> l. | | <__,| |
_| |.|-< \ i / ,イ____!/ \
.| {.| ` - 、 ,.---ァ^! | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{ ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
}/ -= ヽ__ - 'ヽ -‐ ,r'゙ l |
__f゙// ̄ ̄ _ -' |_____ ,. -  ̄ \____|
| | -  ̄ / | _ | ̄ ̄ ̄ ̄ / \  ̄|
___`\ __ / _l - ̄ l___ / , / ヽi___.|
 ̄ ̄ ̄ | _ 二 =〒  ̄ } ̄ / l | ! ̄ ̄|
_______l -ヾ ̄ l/ l| |___|
0914人間七七四年
2010/12/21(火) 01:38:19ID:SSgOVa/+本能寺の変の前日、堺見物をしていた徳川家康は、百助を食べさせ、
0916人間七七四年
2010/12/21(火) 07:02:47ID:ny4dfNZc>百助を食べさせ、
こんな文章に続きなんかないんじゃないのw
0918人間七七四年
2010/12/21(火) 10:41:11ID:awmvwei90919人間七七四年
2010/12/21(火) 18:16:00ID:tUWAV86S0920人間七七四年
2010/12/21(火) 18:34:50ID:PPNL95xc物にもよるが、茶壷の口はかなり狭いぞ。
後、入れ物の口は入れるより出す方が難しい。徒然草の仁和寺の和尚の話然り。
0921人間七七四年
2010/12/21(火) 18:41:24ID:eOqZj02M万休院茶壷 京丹後市指定文化財
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/kyoiku/bunka/shiryokan/digitalmuseum/data/images/c36-01_1.jpg
0922人間七七四年
2010/12/21(火) 18:42:20ID:awmvwei90923人間七七四年
2010/12/21(火) 18:45:00ID:Clonsq4H度量が広い忠秋がかっこいい。
0924人間七七四年
2010/12/21(火) 18:45:50ID:vTt+wDc40925人間七七四年
2010/12/21(火) 18:46:50ID:H5JTVFtj0926人間七七四年
2010/12/21(火) 18:50:57ID:eOqZj02M将軍に新茶を献上する御茶壷行列が来たら粗相の無いよう家の中に入るように、って内容だそうで。
0927人間七七四年
2010/12/21(火) 19:16:46ID:UmyveuxH0928人間七七四年
2010/12/21(火) 20:29:01ID:JKOUaWki0929人間七七四年
2010/12/21(火) 20:30:26ID:awmvwei90930人間七七四年
2010/12/21(火) 21:16:49ID:hvw+D8Wq三歳なら…
0931人間七七四年
2010/12/21(火) 23:05:43ID:3emiZKE1>>919
圧迫されてると浮腫んで本気で抜けなくなる
0932人間七七四年
2010/12/21(火) 23:35:18ID:eOqZj02M「私は連歌における作法の大切さを、三好修理太夫(長慶)殿から学んだ。
連歌の席において修理太夫殿は、まるで人形であるかのようにじっと座られていた。
膝の傍らには扇が、少し斜めに置かれていた。
夏の暑い時期などは、その扇をいかにも静かに右手に取り、左手を添えてそっと三、四間だけ
開き音を立てずに使い、終えるとまた左手を添えて閉じ、元の場所に置いた。
驚くべきことにはその置いた位置が、前と畳の目一つほども違っていなかったのだ。」
若き日の細川幽斎に感銘を与えた、天下人三好長慶の連歌の作法についてのお話。
0935人間七七四年
2010/12/22(水) 01:36:50ID:UmiZs8RO0936人間七七四年
2010/12/22(水) 01:59:34ID:egFmaFqS0937人間七七四年
2010/12/22(水) 02:05:40ID:2RrRhynu凄い人ってのは分かるんだけど…
中途半端な所で終わってるからだろうか?
0938人間七七四年
2010/12/22(水) 02:05:52ID:bkl73xJgそういう解釈もありか
将軍家と同様問答無用で容赦しないからみんな隠れたのかと思ってた
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8E%A1%E8%8C%B6%E4%BD%BF
上林家って、利休とつながって同僚を追い落としてトップになったんだよね
まあ、いまもって続いてるブランドだからこういうのは書いちゃいけないのかもしれないけど
長慶は子供を失ってからダメになりはじめたんだっけ?
やはりみんな同じなんだね
もし本能寺の時に信長だけが生き残ってたらどうなったかな
0939人間七七四年
2010/12/22(水) 09:28:04ID:W+rPJZKY0940人間七七四年
2010/12/22(水) 15:58:11ID:1HhChuTH「ふーむ、扇は前7列、左29列目に置くのが作法でござるか。メモメモ」
0941人間七七四年
2010/12/22(水) 18:09:16ID:FLsDvIaDttp://www.yonezawa-naoe.com/images/information/IMG_1076.jpg
ttp://www.yonezawa-naoe.com/images/information/IMG_1078.jpg
前田慶次郎が使用したと伝えられる甲冑は全国に3つ現存しますが、最も有名な
米沢市宮坂考古館に所蔵される甲冑をペーパークラフト化しました。
ttp://www.yonezawa-naoe.com/information/101219.html
0943人間七七四年
2010/12/23(木) 10:41:36ID:JQ7Y5mdn0944人間七七四年
2010/12/23(木) 19:16:53ID:SYYvQTnN戦国時代からアナタの頭脳に挑戦!!(『後奈良院御撰何曽』より)
Q1,竹生島には山鳥もなし?
Q2,風呂のうちの連歌?
Q3,海中の蛙?
Q4,稚児の髪なきは 法師に劣り 田舎に置け?
Q5,一昨日も 昨日も今日も 篭もり居て 月をも日をも 拝まざりけり?
正解は一時間後に
一応現代人でも解けそうなのを選んだつもり
0945人間七七四年
2010/12/23(木) 19:47:23ID:72/+g28X0946人間七七四年
2010/12/23(木) 20:00:35ID:IzyyeUJB0947人間七七四年
2010/12/23(木) 20:18:22ID:SYYvQTnN「竹生島」に「山鳥」→「嶋」が無いのは「竹生」→「笙」
Q2答,『袋』
「ふろ」の内に「連歌の会の作品」、つまり「句」を入れると「ふ句ろ」→「袋」
Q3答,『蔦』
「うみなか」→十二支の「卯・巳の中」にあるのは「辰(たつ)」、それが「返る」と「つた」
Q4答,『碁石』
「ちご」の「頭(かみ)」が無くなれば「ご」、「ほうし」の「尾」つまり末尾だけ取っておけば「し」、
その中に「い」を置けば(「い」なかに置く)、「ごいし」
Q5答,『御神楽』
「おととい、きのう、きょう」で「三日」、「月も日も無く引き篭もる」のは「暗い」→「三日暗」
個人的に「破れ蚊帳」→「蚊入る」→「蛙」がこの時代すでにあった事にビックリ
0948人間七七四年
2010/12/23(木) 20:21:26ID:C0tcKKZN全然わからんかったw;
なぞなぞでも発想の方向性が違うな。
0950人間七七四年
2010/12/23(木) 21:01:31ID:GpWyhL64これの兜は↓の表紙のような西洋兜をモデルにしてるんだよな。そういうわけで実物は兜のつばの前後が上に反っている。
ttp://www.amazon.co.jp/Conquistadores-Men-at-Arms-Terence-Wise/dp/0850453577/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1293105429&sr=8-2#reader_0850453577
0951人間七七四年
2010/12/24(金) 00:15:04ID:Luv9nhQoある日の日暮れの頃、越後春日山30万石の領主堀秀治が、伏見の屋敷にて客を送り出すため、
家臣などを引き連れ門の外まで出た。
家老の堀監物直政は、一団の中で秀治から最も離れた位置にいたという。
と、秀治が外に出た瞬間、彼に恨みを持つ者であろうか、外に隠れていた者が突如、
秀治に駆け寄り斬りつけた。
秀治もとっさに刀を抜いて応戦しようとした。その時である
一番遠くにいたはずの堀直政が、気がつけば最初に秀治の元に駆け寄り
この狼藉者を一刀のもとに斬り倒した。
秀治の左右の者たちは、倒された狼藉者に止めを刺すのがやっとであった。
後日、秀治の近習の者たちは直政に面会を求め、このように聞いた
「あの時は日暮れで視界も悪くなっていた上、さらには突然の出来事でもありました。
そのようであったため我々も心ならずも秀治様のお側に行くのが遅れたのですが、
我々より遥か隔たった場所にいた直政様が一番に狼藉者を斬り捨てました。
どうしてそのようなことができたのか、我々にはさっぱりわからないのです。」
これに直政
「いやいや、お主達の武辺が私に劣るわけではない。ただ私は、かねてから一つの心構えを
決めていたのだ。お主達はその心構えを知らなかった。ゆえに私に先を越されたのだよ。
調度よい機会だ、今後もそなたたちは殿のお供を勤められるわけであるし、今後の心得にも
成ることだろうから、今までこれを人に話したことはなかったが、ここでお主達に
伝授いたそう。
総じて殿の御前に伺候し、御後に供奉する時は、仮初にもよそを見ること無く、
最初から最後まで殿から目を離さない。これが最も重要なことだ。
そうしていれば殿の動静において、たとえ針ほどの細かな異変でも気が付かないということはない。
そういう心構えを持っていれば、先日のような不慮の事があっても自分が考えるよりも早く
体が動くものなのさ。
お主達は今私の言ったこと、どうか忘れないようにしてくれ。」
堀直政の、主君を守る心構えについてのお話。
0952人間七七四年
2010/12/24(金) 10:05:08ID:5/m2kIJtなんという逆転の発想
0953人間七七四年
2010/12/24(金) 10:20:56ID:q77dxGsP0958人間七七四年
2010/12/24(金) 11:51:45ID:eEN0YUxV0960人間七七四年
2010/12/24(金) 18:15:51ID:oJtZlbFG籠城戦の話を募集します
0961人間七七四年
2010/12/24(金) 19:46:12ID:ucXBffq2有名な話だが、まだ出ていないと思うので。
戦国有数の勇将・山県昌景にあやかりたいと思う人物は数多く、武田信玄の弟・一条信龍は彼に活躍の秘訣を問う。
昌景応えて曰く、「訓練も大事だが、心がけもまた大事。常に初陣のつもりで戦いの臨み、慎重に策を練ります」と。
彼ほどの歴戦の猛者でも、おごることもなく常に緊張感を持ち続けることができたということ自体がすごい。
また、信龍も同じく常に武備を怠らないなど、平時に乱を忘れないという姿勢だったそうで通じるものがあるようで。
新田次郎の「武田勝頼」だと、信龍はただの偏屈なおじさんだったので意外だった。
ただ、相手が勝頼だったら話がかみ合わなかったかも。
0962961
2010/12/24(金) 19:46:58ID:ucXBffq20963人間七七四年
2010/12/24(金) 20:52:52ID:mazqxYVJ他人の不幸は蜜の味、とか思えるようなのを・・・
0964人間七七四年
2010/12/24(金) 20:54:51ID:1+oUmrFu1592年10月、日本軍は釜山から漢城への補給路の安全を確保すべく
朝鮮軍の策源地と見られていた晋州城の攻略を決定した。
この動きに対して朝鮮軍は晋州牧使金時敏に城の守りを固めるように命じると共に
柳崇仁に官兵及び義兵を率いさせて日本軍を迎撃させることとした。
が、柳崇仁は日本軍に敗れ、晋州城への撤退する。
しかし柳崇仁に対して晋州城の門が開かれることはなかった。
金時敏は柳崇仁の入城を拒否を拒否したのである。
なおこの時の柳崇仁の役職は慶尚道兵使
朝鮮の行政単位は道・府・牧・郡・県なので晋州牧使の金時敏よりもかなり上である。
柳崇仁の入城を拒否した結果金時敏はわずか3800の兵で20000の日本軍と戦うこととなった。
しかし兵や住民は金時敏の下で団結しており、城外にあって日本軍の後方を脅かした義兵たちの働きもあって
見事1週間に渡る戦いを勝ち抜き、日本軍を撤退させた。
この時晋州城外にあった義兵の将郭再祐はこの事を聞いて「此計足以完城, 晋人之福也」と歎じたという。
0965人間七七四年
2010/12/24(金) 20:59:48ID:1+oUmrFu悪い話の気もするんだけど、朝鮮では金時敏の働きが働きだけに帳消しにされているっぽい。
0966人間七七四年
2010/12/24(金) 23:04:32ID:AESOfYUg本多某「・・・」
0967人間七七四年
2010/12/24(金) 23:15:23ID:mL+gXyit秀長軍は連日、激しく攻め立てたが、先鋒の藤堂与右衛門が城方の境与三右衛門春時と戦い、
互いに傷ついたのを期に、兵糧攻めに切り替え、じっくりと攻めるようになった。
そんなある日、丸山城に秀長からの書状が届けられた。
“この近くの山に、狼が出没している。双方で人を出して狩り、長陣の退屈しのぎにしようではないか。”
「何をこしゃくな。よし、受けて立て!」さっそく秀長軍と城方、双方で人手を出して山狩りを行なった。
秀長は狩り立てた狼を胴切りにして、頭側を手元に残すと、尾の方に酒十樽と肴を添えて城方に贈った。
思っても見ぬ贈り物に城中は沸いたが、ある者が疑問を呈した。
「敵からの贈り物だぞ?毒が入っているかも知れぬではないか!」
「しかし羽柴美濃守という男、そんな悪辣な手を使うような者ではないと聞くが。」
「うーむ、どうする?」
城中の皆が悩む中、境与三右衛門が名乗りを上げた。
「わしとしては美濃守を信じたいが、毒入りかも知れぬというのも、然るべき疑問じゃ。そこで、だ。
ここは、わしが毒見をしよう。おのおの方は、わしが飲んだ後しばらく様子を見ても、遅くはあるまい。」
この意見にみな賛成し、与三右衛門は自分の飯茶碗を取り寄せると、酒樽から七、八杯汲み上げて飲み干し、
自室で静かに座りこんだ。城の皆が注目する中、与三右衛門はそのうち体を傾けると、完全に倒れこんだ。
「すわっ!やはり毒であったか!」
城中は色めきたったが与三右衛門の容態を確かめると、かすかに息をしているので、医師をつけて見守った。
翌日の夕方になって、与三右衛門は眼を覚ました。
「おおっ、与三右衛門!おぬし一日中、寝ておったぞ。やはり毒だったのか?!」
「…いいや。あれは極上の美酒じゃ!あんな酒は飲んだことがないわ。わしは久しい篭城の苦しさも忘れ、
心を仙境に飛ばしておったわい。」
「なんじゃ、そうだったか。よーし、飲むぞーっ!!」
「あいや、待て待て!わしのような飲み方をすれば、たちまち酔い潰れて城の守りに差し支えてしまうぞ!
少しずつじゃ、少しずつ!」
こうして贈られた美酒は、城方の一人ひとりに少しずつ配られた。
「そうと知っていれば、最初にガブ飲みしておいたものを……」と、城方のうちノンベエは与三右衛門を恨んだ。
>>960のご期待に沿えるか疑問だが、篭城と贈り物のお話。
0968人間七七四年
2010/12/24(金) 23:33:16ID:hLdqxQMj0969人間七七四年
2010/12/25(土) 00:18:45ID:O3ze9m3Yまあラスボスと秀長の違い、とか言っちゃうと話は簡単だけど
0970人間七七四年
2010/12/25(土) 00:29:13ID:d24pOLv80971人間七七四年
2010/12/25(土) 00:41:44ID:Ap/L5lTK江戸時代初期まで犬はご馳走だったし
0972人間七七四年
2010/12/25(土) 00:46:28ID:c218PFmw0973人間七七四年
2010/12/25(土) 01:01:33ID:GHsD1Fdz朝鮮ではどうか知らないけど。
0974人間七七四年
2010/12/25(土) 01:06:37ID:d24pOLv80976人間七七四年
2010/12/25(土) 08:13:02ID:E/VLMAt5待てよ。家畜なら生類憐れみの令なんかで犬殺しを規制されたりしないだろう
どこからそんな話持ってきたの?
0977人間七七四年
2010/12/25(土) 11:35:48ID:8wf1wLwK江戸の庶民にとって年に数度食べる犬がご馳走だった、って話で、
それを生類哀れみの令で禁じたために綱吉はひどく庶民から恨まれたとか。
ただこれ、真偽はおいておくとしても大都市江戸の話だからな。
他の地方でどうだったかまではちょっと。
0978人間七七四年
2010/12/25(土) 11:57:20ID:S4WEEx4i「我等若き頃迄は、御當代の町方に於て、犬と申すものはまれにて、見當り不レ申候。
若したまさか見當り候へは、武家町方共に下々のたべものには犬にまさりたる物は無レ之とて、
冬向になり候へば、見掛け次第に打ち殺し、賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」
(江戸の町方に犬はほとんどいなかった。
というのも、武家方町方ともに、下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、
冬向きになると、見つけ次第撃ち殺して食べたからである。)
0979人間七七四年
2010/12/25(土) 12:28:17ID:ERpvuv5a黄昏の頃駿府の市街において、当時の駿府城主徳川頼宣の家臣である飯田伝吉が、
同僚である朝比奈甚太郎、松野勘助と喧嘩となった。
(ちなみに飯田は朝鮮から帰化した者だったそうだ。)
その喧嘩の仔細はこうである、朝比奈と松野が飯田に対して悪口を言い、さらに刀を抜いて
斬りかかろうとした。おそらく脅しのつもりだったのだろう。が、これに飯田伝吉は、彼らの挑発に
遂に耐え切れず自らも刀を抜き立ち向かい、松野とその従僕をたちまち斬り殺した。
朝比奈も死にはしなかったものの、三ヶ所に傷を負ってその場に倒れた。
飯田はそこから退転した。
この事件は駿府町奉行彦坂九兵衛より、徳川家康にまで報告される。
これを聞いた家康は、飯田伝吉が侮辱した相手を見事に斬り捨て退けた手腕が
神妙であると褒め、速やかに召し返すことを命じた。
また重症を負いながら生きながらえた朝比奈甚太郎に対しては、相手を過言によって
侮辱した罪もある上、返り討ちに会うなど未練の振る舞いであると、切腹を申し付けた。
この当時の武士というものが、どういう所を認められどういうところが忌避されるか、
何となく見えてくる記録である。
0980人間七七四年
2010/12/25(土) 12:36:48ID:ERpvuv5a0981人間七七四年
2010/12/25(土) 12:39:52ID:ERpvuv5a↓スレタイ
戦国ちょっといい話24
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0983人間七七四年
2010/12/25(土) 13:27:39ID:U0HLGF9L戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/
0984人間七七四年
2010/12/25(土) 17:35:19ID:k3z7AU1H犬も歩けば棒に当たると言われるように、
当時の江戸では、犬が外を歩いていると普通に撲殺されて食われてた。
江戸は人口が多いので獣肉の供給が不十分だったからだ。
その為に江戸付近では犬を見る事ができないという有様となり、
ついには生類哀れみの令で犬「も」規制対象になったという訳。
あれは犬目的でなく、あくまで捨て子や老人などの弱者救済の為のものだからね。
0985人間七七四年
2010/12/26(日) 01:45:49ID:BO82FvtZ「何と言っても畠山家の被官、三木牛之介じゃろう。」「おお、そうじゃ!牛之介がおったわ。」
三木牛之介は畠山稙長・政国に仕え、天文11年(1542)、河内太平寺の戦いで木沢長政軍へ一番槍を入れ、
天文16年、摂津舎利寺の戦いでも武功を表し、三好為三入道政勝に討ち取られたという剛の者である。
「牛之介はの、古式ゆかしい大鎧で身を固め、兜に五尺の鍬形を立て、その片方に
“運在天見敵無退”(運は天に在り、敵を見て退くこと無し)
と書き付け、もう片方に
“人は只 さし出ぬこそ よかりけれ 戦にだにも 先駆けをせば”
という歌を書き付けていたそうな。」
「ふむ、そりゃ確かに武士として天晴れな心構えじゃな。」
「なんじゃそんな歌、なーんも感心できんわい。」と言ったのは誰あろう、関白秀吉その人だった。
「大体そんな心得、昔の話じゃろう?わしなら、こうだ。
“人は只 さし出るこそ よかりけれ 戦のときも 先駆けをして”
今時こんな心構えでなければ、出世なぞ出来んぞい?」
0986人間七七四年
2010/12/26(日) 01:48:30ID:uqoGHCGd加藤清正みたいなのが大出世できたのかもな
0987人間七七四年
2010/12/26(日) 12:37:29ID:eSQDgiLi北 鎧 L_ / / ヽ 鎧 |
朝 が / ' ' i !? マ
ま 許 / / く ジ
で さ i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、
だ れ l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ
よ る _ゝ|/'/⌒ヽ ヽ/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ
ね の 「 l ′ 「1 /てヽ′| | | 「L! ' i'ひ}
l は ヽ | ヽ__U, ヽ シノ ノ! ! |ヽ_、ソ, ヾシ _ノ
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ | 〈 _人__人ノ_ i く
人_,、ノL_,iノ! /!ヽ r─‐- 「 キ L_ヽ r─‐- 、 u
ハ キ / / lト、 \ ヽ, -‐ ノ モ 了\ ヽ, -‐┤
ハ ャ { / ヽ,ト、ヽ/!`h) | |/! 「ヽ, `ー /)
ハ ハ ヽ/ r-、‐' // / |く イ > / / `'//
0988人間七七四年
2010/12/26(日) 19:51:21ID:RMrY86OH当時はまだ早かったかのう。
0989人間七七四年
2010/12/26(日) 19:57:42ID:YK4CSP8Q0990人間七七四年
2010/12/26(日) 19:59:58ID:uAG8gc+W江戸初期、って話すらあるくらいw
0991人間七七四年
2010/12/26(日) 20:07:15ID:uqoGHCGd戦国時代式に軽量化等アレンジして使ったんだろう。
大鎧は騎馬じゃないと力を発揮できない。鉄砲にも全くの無力だ。
0993人間七七四年
2010/12/26(日) 23:50:20ID:rga6NwjD0994人間七七四年
2010/12/27(月) 08:21:53ID:HUzcies52ch書き込み転載
「紀效新書」1595年 戚継光
「これは日本のサムライが明に攻めて来た時に初めてわかったことである。
彼らは舞うように跳び回り、前方への突進は光が閃くようで我ら明の兵は
恐れおののくのみだった。 日本人はよく躍動し、一息で一丈(約3m)も
飛び込んできて、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間隔があっても攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎて、(サムライと)遭遇すれば皆両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである」
「揮刀如神」 明末期
「日本のサムライの剣術はまるで神の如しだ。 我々の兵士(明兵)はサムライを見れば皆身が
すくみ逃げ腰になる。 剣術に優れたサムライだが剣術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、その他あらゆる兵科と比べても不足が見つからない。
本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から武術を鍛えられ始め、
壮年にいたれば手に負えなくなる」
「単刀法選」 程宗猷 1621年
「日本剣術は神秘的だ。左右への跳躍が凄まじく誰にも予測できない。
そのため長技(槍)を使っても毎回刀に負けてしまう」
「広東新語・語器」 屈大均(1630〜95)
「日本人が全力で動く時風のように漂って動く。 常に寡兵で陣に入って来て、
大勢の兵士でも抵抗できない。 その刀の使い方は、長い方で構え守り、短い方で止めを刺す。
しゃがんでいるかの如く低く移動し、決して退かない。 相手が何人いようと対応する、島の中の絶技である」
「大君の都」 Rutherford Alcock 1863年
「彼ら(サムライ)は、相当に熟達した刀の使い手である。小さい方の刀を使うときは、
二度突く必要は無い。たったの一突きで相手に致命傷を与える。大きいほうの刀を使うと、
ただの一振りで相手の四肢を切り捨ててしまう」
0996人間七七四年
2010/12/27(月) 08:46:14ID:cTTU4HxJ0997人間七七四年
2010/12/27(月) 09:17:03ID:I4ahUmbYただし、その重さが兜を含めて最大40kgにも及ぶ重厚な甲であり、しかも付属具が多く、攻撃の機能性を考慮した兜とはいいがたい。
あくまで騎射戦での矢に対する防御を第一に考慮し、草摺の構造からしても徒歩には適さない(前の草摺に足が当たって歩きにくい)馬上用の甲である。』
近藤好和「弓矢と刀剣」P.29
一方、大力で特に重い甲冑を着けていたとされる井伊直政所用の当世具足の重量は24・5kgしかない。
あとは分かるな?
0998人間七七四年
2010/12/27(月) 09:21:03ID:I4ahUmbY×攻撃の機能性を考慮した兜とはいいがたい。
○攻撃の機能性を考慮した甲とはいいがたい。
0999人間七七四年
2010/12/27(月) 09:40:23ID:uWO4zQvM1000人間七七四年
2010/12/27(月) 10:00:35ID:Nd6kabk/対矢用としては優秀な効果があったから
陣や馬上で采配を取る大将にはそれなりに適してたともいえるな>大鎧
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