そういえば岡崎の信康と水野信元は信玄と内通してたっぽいしね。
浜松派閥の華やかな武功に対して岡崎派閥は内治の地味な仕事ばかりで反発してたと言うし。

謙信が生きてて越前乱入が開始され毛利7万を播磨で抑える兵力が信長にはなかったから完全に破滅してたよね。
北条も謙信が上洛戦をするなら北条軍も援軍に出すから連れていってとお願いしてきてたし。
天正4年の8月前後に義昭によって北条・武田・上杉の同盟の形ができてきてた。
天正5年4月には義昭が島津にも北条・武田・上杉が同盟したので上洛戦やるから協力せよと言ってる。
義昭が上洛戦として本願寺に呼応しての先鋒を六角義堯の阿波淡路軍の堺上陸と宇喜多先鋒の毛利軍を考えていた。
さらに六角に呼応して高野山金剛峯寺や大和多武峰宗徒が挙兵し、
毛利も播磨に栗屋を、淡路に児玉を派兵し三木城へ兵糧を入れる。
この大規模作戦発動が近いために信長の紀州攻めは途中切り上げの中途半端な講和で引き上げており
(固執してると退路がふさがれる)
義昭は謙信に信長の紀州攻めは失敗したから、このチャンスに北陸出兵せよと言ってる。

まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立する元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。