武田信玄は過大評価されすぎ!!
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年
2010/10/01(金) 15:10:40ID:bw315yRDその語天下をとった徳川家康がまだ未熟な時に破ったりとか運が良かっただけ
地方には資料が残って無くても、無名の武田信玄と同じ位強い武将はいたと思う
実際には武田信玄は一大名に過ぎない
0002人間七七四年
2010/10/01(金) 15:14:15ID:bw315yRD今川などですが村上氏も長野氏も豪族、今川は義元亡き後に
家康との共同です。
父、信虎が勢力基盤を作っていてくれたため近隣国を最初から上回る国力でしたし、
強国の今川とはこれも信虎の
外交政策で同盟を組んだ状態で非常に有利だったと思えます。
有名な戦いでは川中島や三方ヶ原ですがどちらも武田側の戦力が2倍近くあります。
同盟を破棄ばかりして外交が上手いとも思えません、
その辺は北条氏康などの方が上手と見えます。
小国から身を起し大敵を倒して大勢力を築いた織田信長や毛利元就こそが
戦国最強と言えるのではないしょうか?
信玄も謙信も地方の雄の域を出ることはないと思えます。伊達政宗や北条氏康、長宗我部元親らと同等です。
0003人間七七四年
2010/10/01(金) 15:16:58ID:bw315yRDほかは一部をかすめただけです。80万石程度です。
今川義元と大して変わりません。しかも、義元を倒したのは、信長です。
今川領に攻め込んだのも、徳川家康の密約で、共同出兵と大久保の三河物語にあります。
今川氏を滅ぼしたのは、三国同盟していた武田信玄です。家康ではありません。
三方原で、家康を破ったとはいえ、大軍であり、家康や四天王は討たれていませんし、
岡崎城、吉田城、浜松城など、主要な城は、落ちていません。
平原での決戦は兵力差が出るため、常に山間部の出入り口付近に留まっているのも問題ですね。
長宗我部元親は、四国全域で、4か国を制圧しているので、
国の数は信玄を上回っています、ただ四国勢は軍事力が弱いため、
評価が低い。結局、家康のおかげでしょう、武田マンセーは。
武田は、長篠で大敗し、裏切り続出で滅亡してますんで、
武田24将とか、知略のない人物ばかりですね。
甲陽軍鑑は、偽書と平戸藩の松浦氏に暴露されています、軍師山本勘助もいません、捏造です。
0004人間七七四年
2010/10/01(金) 15:41:55ID:BnCf+GCu信長のように革新的で
氏康のように民政家で
義元のように外交がうまくて
幸村のように少数の兵で大軍を破ることができて
元就のように大勢力に囲まれながらも自家の勢力を伸ばすことができて
政宗のように20代前半までに100万石を超える勢力を築くことができて
秀吉のように天下を手中に収めることができて
信玄のように最初から独立勢力で
謙信のように伝統礼節を重んじ
経久のようにどんぞこの時期は身一つまで落ちぶれてて
義弘のように外国勢からも恐れられて
天庵様のように家臣万民に慕われていて
家康のように最後は天下を末永く安定させることができなければ名将とは認定されない。
というか重複
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245090228/
0005人間七七四年
2010/10/01(金) 16:01:35ID:AbjqX4Ej世間一般軍記が史実な世の中と家康を大軍で蹴散らしてるんだから仕方ないでしょ
0007人間七七四年
2010/10/01(金) 16:08:54ID:OCZc+Zs2対武田以外は圧倒的強さを見せ、この時期でも姉川や対今川で圧倒的強さの徳川家康を
けちょんけちょんに倒し滅亡寸前に追い込んだ。
さらに東美濃攻防戦や上村合戦では寡兵で圧倒的大軍の織田軍を蹴散らし織田方を恐怖に貶めた。
長篠以降ですら武田の強さは日本一という評判は敵国織田の領国内にすら残っている。
日本で最高の地理的条件と運と富裕国に生まれながら圧倒的大軍で寡兵の敵に大苦戦や大敗を繰り返し
織田家を滅亡させた領土拡張率0の信長と三増峠、薩田峠、小田井原、上村、東美濃攻防、塩尻峠
と寡兵で大軍を破り続け貧国甲斐を大膨張させた信玄では比較にすらなるまい
三方ヶ原で戦死したのはこの時期の徳川としては高い身分や主だった物がほとんどで
この時期4天皇が戦死してたら後世に『徳川四天王』として残らなかっただけだろ
織田四天王が美濃戦線で戦死してたら残らなかったのと同じ
武田信玄が基地外のように貶められ、勝頼が持ち上げられるのは勝頼が招いた滅亡を
信玄に押し付けようとする織田厨の謀略だろう。武田が強いのは対織田徳川北条などで証明されている
0008人間七七四年
2010/10/01(金) 16:11:04ID:OCZc+Zs2信玄の天才的用兵により徳川は城からまんまと釣り出され10倍の被害を被る。
北条も同様に蹴散らされている。こんな巧みな用兵できる奴なんて他にそうそういない
0009人間七七四年
2010/10/01(金) 16:17:48ID:OCZc+Zs2徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達だからな。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる
徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない。
0010人間七七四年
2010/10/01(金) 16:28:06ID:8giSETB6事実は小笠原村上長野上杉北条徳川にフルボッコされているw
0011人間七七四年
2010/10/01(金) 16:55:15ID:YK30Berb川中島の時も上杉を上回る兵力だったしな。
同数だったらどうなってたか・・・・・・
>>7
正式な後継者でなくあくまで陣代という立場とされ、古参の家臣に対する権威や信頼が薄い身で
(これは信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだから)
周辺が敵ばかりという拡大された戦線・国内における今や乏しい金の産出量という状況に置かれた勝頼の身になれば、武田の滅亡に関して
信玄に責任がないなんてとても言えないな
0012人間七七四年
2010/10/01(金) 18:17:50ID:AbjqX4Ej相手より兵力を多く揃えてその優位をいかすのは基本だけどそれが出来る大名がどれほどいたよ
だから過大って誰の評価なんだよ>>1よ
評価というにはその対象があるんだろ?言ってみろよ
0013人間七七四年
2010/10/01(金) 18:23:52ID:qgMudDlGBY 孫子
0016人間七七四年
2010/10/01(金) 18:53:53ID:uqE3GHeW小笠原⇒村上他信濃豪族と共同戦線はるも塩尻峠で瞬殺
村上⇒2戦以外では全敗。飯富虎政にけちょんけちょんに蹴散らされる
越後から援軍貰って信濃に戻ってきた時は一日に20もの城を一蹴
上杉⇒上野も信濃も取られる
北条⇒三益峠 薩田峠始め駿河戦線で大敗し武蔵も上野も切り取られる
徳川⇒国力差をさしひいても圧倒的スピードで侵略されまくり滅亡寸前
三方ヶ原では死の恐怖を与えられる
織田⇒上村合戦、東美濃攻防戦で寡兵の武田に大敗し美濃口に足がかりを与える
>>11
金は勝頼が無理な外征や敗戦後の戦力回復に当てたからなくなっただけでしょ
多方面云々は勝頼自ら敵に回して自爆しただけだしそれに最近の研究だと勝頼の権力基盤は結構大きな
物だったとされてるし
>>12
信長なんかと違って大きな兵力をうまく運用する力がある点が優れている所だろうね
対家康織田北条戦などみれば一目瞭然
>>13
圧倒的大軍で寡兵の敵相手に醜態さらず糞武将と違って信玄は兵数をうまく生かした戦術で
軽微な被害で勝ったり圧倒的侵略スピードを見せたりしてるからすごいんだろうね
0017人間七七四年
2010/10/01(金) 18:59:22ID:bw315yRD多くの兵力を動因出来るかは石高によりものが多い
兵農分離もしていない武田は農民を兵に駆り立ててたから
兵が死ぬと百姓もいなくなるし、畑を耕す季節は退却しなければいけなかったし
実際の動員数は少ないよ
0018人間七七四年
2010/10/01(金) 19:03:07ID:5MFcH/aE0019人間七七四年
2010/10/01(金) 19:04:41ID:bw315yRD甲陽軍艦に書いてある事は嘘ばかりだからw
実際勝ちまくったなんて事無いよw
信玄を評価するなら普通の大名だよw
0020人間七七四年
2010/10/01(金) 19:05:57ID:/NCrvw2rはい、馬鹿はいりましたー
0021人間七七四年
2010/10/01(金) 19:06:22ID:5MFcH/aEまさか村上や家康や小笠原や北条や徳川や織田に勝ったのも嘘とか言い出すのかね
0022人間七七四年
2010/10/01(金) 19:06:34ID:8giSETB6信玄が部下に農民は戦に出すなと書状を出したが
部下にそれじゃ兵が集まりませんて言われた書状が残ってる
0023人間七七四年
2010/10/01(金) 19:08:06ID:bw315yRD0024人間七七四年
2010/10/01(金) 19:09:42ID:EVMZZ+p7織田信長(笑)
0025人間七七四年
2010/10/01(金) 19:10:06ID:/NCrvw2r織田ファンのレベルが低いと思われるから
0026人間七七四年
2010/10/01(金) 19:10:07ID:bw315yRD村上や小笠原は自分より兵力の劣るは豪族だし勝てて当たり前w
家康はまだ未熟な時に破ったりとか運が良かっただけ
北条や織田には勝ってないしw
0028人間七七四年
2010/10/01(金) 19:13:18ID:EVMZZ+p7笠にのるような勢いで諏訪佐久方面を侵略
これを覆したのが塩尻峠
家康はこの時期でも大軍朝倉相手に奮戦し大軍今川や一向宗に勝利するなど
強さは歴然としている
織田は上村合戦や東美濃攻防で蹴散らされてる
北条は薩多峠、三増峠で負け北武蔵や駿河を取られた
0029人間七七四年
2010/10/01(金) 19:13:47ID:bw315yRD0031人間七七四年
2010/10/01(金) 19:17:00ID:bw315yRD0032人間七七四年
2010/10/01(金) 19:21:51ID:/7xTh0WC確保できる国力がある事が前提条件 信玄には多方面での国力に勝る敵との戦線を抱えていた事等から
それを行う体力がなかっただけの事
信濃には割拠的地形で小豪族が分布するという特質があり、これには本能寺後の家康も散々手を焼いた。
信玄の信濃攻めにおいては長尾や上杉の介入もあったしな
なんか100回も見たような流れだが飽きないかね
0033人間七七四年
2010/10/01(金) 19:22:05ID:bw315yRD0034人間七七四年
2010/10/01(金) 19:24:02ID:bw315yRD信濃は小豪族ばかりで大名が居なかった訳だから
大名の武田なら普通は簡単に平定できるはずw
小豪族相手に梃子摺り過ぎだろw
0036人間七七四年
2010/10/01(金) 19:29:53ID:bw315yRD0037人間七七四年
2010/10/01(金) 19:30:48ID:/7xTh0WC地元武士が自治権益を守るため地理などを生かして交戦する特質がある
本能寺後の家康の信濃攻略を見てもわかるように小笠原を府中に送り込んだり
空手形の領土宛がいを出しまくったり間接統治によらざるを得ない環境という事で
その状況ですら大久保や鳥居など徳川方は真田や木曽などに敗戦し信濃はわずか3郡しか確保できなかった。
まして直接切り取るとなると多大なエネルギーが必要な事は明白だろう。
0039人間七七四年
2010/10/01(金) 19:35:27ID:bw315yRDましてや武田は兵農分離出来てないし秋には引き返して畑を耕さないといけないからなw
時間がかかりスギwww
0040人間七七四年
2010/10/01(金) 19:35:46ID:/7xTh0WC落ち武者?旧武田諸将は家康に匿われて天正壬午の時に大活躍し甲斐平定がスムーズにいった
直接的な要因となった。徳川を恨むどうこうといった話はあまり聞かない所かむしろ命の恩人のような…
>>38
天下をとった、しかも当時甲斐駿河遠江三河を領有する環境にあった徳川ですら
間接統治によらざるを得ず、散々手を焼いたんだからいかに信濃攻略が難しいかは
自明の事
0044人間七七四年
2010/10/01(金) 19:40:49ID:65aV9O2yそりゃ単にそれまでの北条や徳川との攻防で疲弊しきってただけの事で
知久、下条、松尾小笠原など戦わずして降伏し一門の仁科くらいしかまともに戦わなかったんだから。
そういう思考でいえば信長は美濃や畿内攻略は手こずりまくったけど家康は瞬殺したねって話でもするか?
0047人間七七四年
2010/10/01(金) 19:43:48ID:65aV9O2y徳川の信濃平定は単に豪族連中に領土安堵状出したり
間接的統治しいてるだけ
木曽が84年春に離反し夏に徳川が敗戦
小笠原・真田が85年に離反し85年春・秋と敗戦
徳川の信濃支配はこれで佐久諏訪伊那のわずか3郡となっている
0049人間七七四年
2010/10/01(金) 19:45:09ID:65aV9O2y兵農分離のできたプロ戦士を持ってして負けまくり家を滅ぼした凡将もいたがな
>>46
なら家康が断トツ最強で他はカスね
0052人間七七四年
2010/10/01(金) 19:48:32ID:bw315yRD徳川の家臣だけ領国経営を治めるって事が出来なかった訳なんだからw
でも徳川の天下は300年続いた訳だしこのやり方が一番正しいw
0053人間七七四年
2010/10/01(金) 19:51:33ID:65aV9O2y間接統治ですら苦戦すんだからまともに切り取ってそうそう簡単にうまくいくかって話してんのに
信玄の国力、信濃の地勢、長尾や上杉の介入。これ鑑みりゃ苦戦して当然
0054人間七七四年
2010/10/01(金) 19:51:53ID:bw315yRDやっぱり一番戦略がうまいのは徳川だなw
0056人間七七四年
2010/10/01(金) 19:56:04ID:bw315yRD0057人間七七四年
2010/10/01(金) 19:59:54ID:bw315yRD金山を掘り過ぎて財政を圧迫させていた
0058人間七七四年
2010/10/01(金) 20:00:04ID:65aV9O2y各上の国力なんだから時間かかって当然
これに長尾、山之内上杉が敵対なんだから。
0061人間七七四年
2010/10/01(金) 20:03:10ID:YK30Berbおいおい、傭兵つったって信長が雇ったそれは現代で言われるような戦闘のスペシャリストや、
三十年戦争でヴァレンシュタインが率いたような精鋭とは訳が違うぞ?
寄せ集めの雑兵ばかりでも、とにかく無期限で働いてくれる常備軍というのが大事だったんだ。
0063人間七七四年
2010/10/01(金) 20:04:45ID:65aV9O2y家中統制ガタガタでクーデター起こるほどだったのを大軍で襲って敗戦重ねて
調略で切り崩して勝っただけ。
領土面積による移動の手間でいっても甲斐〜信濃>>>尾張〜美濃なんだし
0065人間七七四年
2010/10/01(金) 20:07:25ID:AbjqX4Ej0066人間七七四年
2010/10/01(金) 20:08:00ID:65aV9O2y斉藤、本願寺、浅井、武田、伊勢長島と大敗や大苦戦
織田信長はよぇぇぇなー。
0067人間七七四年
2010/10/01(金) 20:08:25ID:bw315yRD自分が死んだ後の事は考えてなかったから
勝頼りが尻拭いをする羽目になったw
0069人間七七四年
2010/10/01(金) 20:11:19ID:65aV9O2y0070人間七七四年
2010/10/01(金) 20:12:59ID:AbjqX4Ej正確には信玄厨と信長厨
0071人間七七四年
2010/10/01(金) 20:13:26ID:bw315yRD結局最後にかったやつが一番強いんだよw
0073人間七七四年
2010/10/01(金) 20:15:11ID:65aV9O2y圧倒的大軍で攻めて倒そうと思ったらいっつも敵に妨害されて敗走。
最後には寡兵の光秀に奇襲されてお陀仏
0076人間七七四年
2010/10/01(金) 20:17:31ID:65aV9O2y光秀は信長よりずっと寡兵だろ。動員できる兵でいや信長のが多かったけど油断して奇襲されて戦死した。
0080人間七七四年
2010/10/01(金) 20:23:35ID:bw315yRDその原因を作ったのも信玄自身にも責任がある
0081人間七七四年
2010/10/01(金) 20:41:01ID:bw315yRD0082人間七七四年
2010/10/01(金) 20:50:31ID:4CjGJsfH0083人間七七四年
2010/10/01(金) 20:51:34ID:bw315yRD信玄は過大評価されすぎなんだよw
0084人間七七四年
2010/10/01(金) 21:01:46ID:8giSETB60086人間七七四年
2010/10/01(金) 21:26:36ID:7sErlBzLさてはこの板来たの初めてだろ?w
0087人間七七四年
2010/10/01(金) 21:28:27ID:k8kE1poy実際に国力で言えば織田家の10分の1もなかったろう
0090人間七七四年
2010/10/01(金) 21:35:07ID:7sErlBzLそうするといつも絡んでくるやつがいてねw
そいつがだがってやつw
かなりしつこいから気をつけろよwww
0091人間七七四年
2010/10/01(金) 21:37:13ID:mhZBwD7aマンセーはいい加減にしろ
0092人間七七四年
2010/10/01(金) 21:38:17ID:bw315yRDそういう馬鹿がいるから歴史の捏造がおきるんだよw
正当な評価が出来ないと偏った評価しか出来ないからなw
もっと客観的に見て正しい歴史を残さないと駄目だなw
0093人間七七四年
2010/10/01(金) 21:39:15ID:bw315yRDそうそうwそもそも人一人の能力でそんなに歴史は変わらないってw
余りにも能力がかけ離れすぎてるのはおかしいってw
0094人間七七四年
2010/10/01(金) 23:52:58ID:AbjqX4Ejこりゃアホなわけだ
0095人間七七四年
2010/10/01(金) 23:56:19ID:AbjqX4Ejお互い訳の分からない事をわめきあって存分に踊ってくれ
どうせお互い何一つソースも出せないゲームや漫画がソースの妄想をぶちまけあうんだろうなw楽しみだ
0098人間七七四年
2010/10/02(土) 00:49:42ID:DMOc7zVi「たら・れば」で論ずるのは適切ではない。
例えばこの板で散々叩かれている伊達政宗ですが、彼の「あと20年早く生まれていれば・・・」などというのは、
本人が負け惜しみで言った時こそ可愛げがあるのであって、周りがそれを本気で捉えて論ずるのはナンセンスだと思います。
0099人間七七四年
2010/10/02(土) 00:51:27ID:DMOc7zVi歴史学でも、仮想思考するときもありますが、状況証拠を精密に積み上げ、
可能性をギリギリまで煮詰めて論じてこそ、意味があります。
それでも「思考実験」の域を超えませんけれど。
残念ながら、学校教育では「歴史事項」は覚えさせられても、
学問としての「歴史学」は教えてくれません。
歴史を客観的に研究する上での、ノウハウをみんな知らないんです。
史料の見方・扱い方も、思考としての考え方も知りません。
私は大学で初めて、そういったメソッドを学びました。
それでも多くの歴史に関する本を読んだ人は、自然にそういうノウハウを身につけられます。
その域に達しない人は、言うまでも無く「歴史思考」としては大変未熟。
ベテランとビギナーでは対等に話をしてもかみ合いません。
こちらはまじめに歴史を論じているのに、歴史をただの趣味ツールとしか受け取れない人たちは、
住む世界が違う、ということです。
ですから、馬鹿げた仮定や空想は、私は無視しています。
未熟同士で、勝手に楽しめばいい。
ただ、無知なくせに専門的な話し合いに、割り込んでくるのには閉口させられますけどね。
言論・思想は自由ですが、馬鹿げたことを言うと、自分の値打ちが下がるということも認識してくれたら、
もうちょっと世の中も上品になると思います。
羞恥心の問題ですね。
羞恥心のかけらも無い連中が、「武士道」とか「義」とか言うのを見ると、正直情けないです。
0100人間七七四年
2010/10/02(土) 02:31:39ID:DMOc7zVi0101人間七七四年
2010/10/02(土) 02:51:18ID:GSB0R8Nbだがは今日は来ないみたいだから寝ときなww
0102人間七七四年
2010/10/02(土) 03:32:13ID:DMOc7zVi0103人間七七四年
2010/10/02(土) 11:55:23ID:gMKWEdvAだがやSubよりキモさだけなら勝ってるぞ
0104人間七七四年
2010/10/02(土) 12:00:47ID:gMKWEdvAマジレスしてやるとゲームの評価を気にしてる時点でゲーム脳
ゲームで過大過小は当たり前だし歴史ゲーム板にそういうスレがあるんだから板違いにも程がある
歴史を研究してる奴の見解に評価をくだすならともかくゲームをここで語られても困るわw
0107人間七七四年
2010/10/02(土) 13:25:57ID:DMOc7zViただ合戦に強いというだけでは天下統一など出来もしないのですが、
「彼らが生きていたら信長は・・・」などとまるで信長と対等かそれ以上に語られる事が多い所ではないでしょうか。
「戦国最強」とはどう言う意味か?彼らならどんな日本を作り上げられたのか-と問いたいですね。
0108人間七七四年
2010/10/02(土) 13:28:31ID:DMOc7zVi信玄の場合は善政をひいたとされるうそ。
実際は「民政において」大身の戦国大名の中で最も悪辣といって良いくらいの暴君だった。
両者の共通するのは、「天下を獲れた」という過大評価ですね。
0109人間七七四年
2010/10/02(土) 13:37:28ID:DMOc7zVi歴史研究の分野において、武田家の崩壊について信玄に
原因があったと言われる最大の理由は、
「武田家を近世大名化できなかった」からだと言われています。
大半の日本人が理解していませんが
「戦国大名」とは家臣団が構成する連合国家のまとめ役に
過ぎず、家臣に対する権限は非常に限定的なのです。
「御恩と奉公」で中央集権体制が確立した江戸時代の
大名とは根本から違うのです。
信玄ほど実力のあるカリスマがまとめ役の間は起こらなかった
問題が、必然的に次代当主が後を継ぐと噴出します。
これは信玄が信長がしたように、中央集権化を怠ったからと
言えるかもしれません。
よって、信玄本人の実力の有無が武田滅亡の
原因ではないでしょう。
0110人間七七四年
2010/10/02(土) 13:39:51ID:DMOc7zVi信玄の指示で諏訪を継ぎ高遠城代に過ぎなかった勝頼は当主として必要な帝王学を教えられてなかったんでまとめる為には軍功しかないと考えた!
海をとるために今川派だった義信を殺してのはまずかったですね!
義信は信玄に勝とも劣らない器と24将から評されしっかり帝王学も学んでましたから
0111人間七七四年
2010/10/02(土) 13:52:18ID:DMOc7zViシステムの敗北です。統治者の能力も要因としてはあるでしょうが、システムを変更できなかったことが最大の原因だと思います。
人間性はともかく、外交面での失敗は小さくありませんが、織田や徳川が無謬のように見えるのは結果論でしかありません。
システムが古びて、機能しないのにそれを変更できない会社は今も昔も淘汰されるものです。
0112人間七七四年
2010/10/02(土) 15:30:06ID:GSB0R8Nb0113人間七七四年
2010/10/02(土) 15:35:46ID:DMOc7zVi客観的に歴史の人物の評価を分析したいだけだからwww
0114人間七七四年
2010/10/02(土) 15:48:39ID:WHBay5hA0116人間七七四年
2010/10/02(土) 15:56:47ID:DMOc7zVi天下を取った徳川が惨敗した数少ない敵だったので、徳川家が自身の評価を上げるため過大評価しただけでしょ。
0117人間七七四年
2010/10/02(土) 16:01:26ID:DMOc7zVi0118人間七七四年
2010/10/02(土) 16:36:39ID:gMKWEdvAだから総合って何?ゲーム以外のもの挙げられるものなら挙げてみろよw
ある程度歴史を研究すりゃ信玄に限らずボロなんかどの大名でも大量に出てくるし自分の家の軍記を捏造マンセーは当たり前なんだが
まさか戦国板で軍記について批判しに来たわけじゃないだろ?一次史料と照らし合わせてどうぞ
0119人間七七四年
2010/10/02(土) 17:23:26ID:GSB0R8Nb0123人間七七四年
2010/10/02(土) 19:41:11ID:DMOc7zVi考えたことはありますか?
貢物、同盟などでひたすら時間を稼いでいました。
中央方面でも多くの敵を抱えていた信長にとっては、この2人の
上洛を少しでも遅らせ、自力をつける時間が欲しかったのでは
ないでしょうか。
戦国、下克上という時代の本質を理解していた信長が優秀で
あり、権威などにとらわれていた上杉、武田では狡猾さにおいて
信長に遅れをとっただけでしょう。
仮に優秀な2人が隣国同士で、性格は水と油です。
お互いを認めず、牽制しあっていましたので、結局は時間切れ、
その間に力を蓄えた信長、秀吉、家康の勝ちです。
もっとも他に評価の高い島津にいたっても
薩摩、大隈、日向程度でしかなく、地理的にも温暖で
雪深くない地域の割りに九州すら統一できませんでしたし。
関ヶ原の突破も、徳川軍の隙をついて一点突破しただけで
何も東軍全軍を相手にしたわけじゃありませんしね。
なにより、1500人で数万が展開した戦場を左右できるような
豪傑を家康が放置するわけはありません。見逃してもたいした
事がないから見逃した。ただそれだけ。
優劣にしても、見る目が変われば評価も変わる、その程度の
ものです。「強い」とされる意見と同じだけ、その反対の見方や
意見もあるものです。
0125人間七七四年
2010/10/02(土) 20:08:36ID:gMKWEdvAだから捏造なんてのはわかってんだよ 軍記なんて捏造マンセーの為のものだし
戦国板にわざわざ出張してきて信玄は過大評価!軍記は捏造(キリッとか言いに来たわけじゃないだろ?
三傑と比べれば劣ってるのは当たり前だしそれでも他の大名と比べれば抜きん出た存在に違いない
息子が人望を集めていただのなんだのソースも出さないで何を根拠に書いてるのかしら 根拠ないなら軍記以下だべ
自分の発言に責任を持って根拠にたる史料を是非とも提示して欲しいもんだ
軍記は捏造なのを理解しながら誰の評価を過大と言ってるのか知らんが批評をくだすなら当然一次史料は知ってるよな?
0126人間七七四年
2010/10/02(土) 20:52:01ID:DMOc7zVi歴史に「・・・たられば」はありません。武田が滅亡したのは信玄にも原因があったのは事実です。次に武田義信が生きていたら・・・・
では武田義信の死亡原因は何であったか考えてみてください。
妻の実家の今川家との策略で信玄をお館様から引きづり下ろす行動に出て信玄にとがめられています。
自分を排除しようとした者を自分の跡目にすることが考えられますか。
本家の血筋がなければ信玄が諏訪姫に産ませた勝頼が跡目になるのは自然の道理ではないでしょうか。
また、国と国の同盟は未来永劫つづくものではありらません。その時その時を生き残るための手段にすぎません。
都合が悪くなれば同盟を破棄して戦が繰り返されたことは、多くの史実が残されています。
今川家の滅亡は、天下を目指して上京する途中、桶狭間で織田信長に討たれています。
少なくともこの時点では三国同盟は維持されていました。三国同盟も義元というトップリーダーが亡くなった時点で同盟関係の形がもろくも崩れています。
偉大なリーダーの死とともに国体が弱体化して国が滅んでいくことは国内外問わず歴史の史実として残されています。
いつの時代も新しい強いリーダーを求めています。武田家も織田徳川連合軍に挑んで敗北し衰退した一族の結末であります。武田信玄は戦国時代の名称であったあったことは多くの人が認めています。歴史を推測すること楽しいですね、大いに推測してください。
参考
生涯 [編集]
天文7年(1538年)、甲斐の戦国大名である武田信玄(信玄)の嫡男として生まれる[1]。
晴信は天文5年に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を正室に迎えており、
『甲陽軍鑑』によればこれには武田氏と同盟関係にあった駿河国の今川氏の斡旋があったという。
天文19年(1550年)に13歳で元服し、4月8日には駿河の今川義元の娘(従姉妹)を正室に迎えている[2]。
傅役は飯富虎昌(『甲陽軍鑑』)。天文21年(1552年)8月には具足始が行われる(「高白斎記」)。
翌天文22年12月29日には、武田氏歴代の中ではじめて室町幕府将軍の足利義輝より足利将軍家の通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗り、
甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。
初陣は天文23年(1554年)の信濃国佐久郡の知久氏攻め[3]。
永禄元年(1558年)に晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の第4回川中島の戦いにおいても出陣して武功を挙げたという。
永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、
永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去、享年30[4]。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。
義信事件 [編集]
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄7年(1564年)7月に義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)、曽根周防守らが信玄暗殺の密談をしていたが、
計画は事前に虎昌の実弟である山県昌景の密書により露見し、永禄8年(1565年)1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。
さらに、義信も同年10月に甲府の東光寺に幽閉され、義元の娘と強制的に離縁の上、後継者としての地位を失い、同年11月13日には諏訪勝頼に信長の養女遠山夫人を迎えて誼を通じたという。
また、『甲陽軍鑑』では事件の背景を第4回川中島の戦いの顛末や、異母弟の諏訪勝頼(武田勝頼)が高遠城主となったことに対する不満にあるとしている。
義信事件について詳しい経緯は不明であるが、永禄3年の桶狭間の戦いにおける今川義元の戦死、永禄4年の第四次川中島合戦後の北信地域の安定を契機に、武田氏は対外方針を転換し、
義信事件後には今川氏との関係が悪化し永禄11年には今川領国への駿河侵攻が開始されているが、主要な武田氏研究者の間では事件の背景に親今川派の立場にある義信と今川領国への侵攻を志向する信玄の間に派閥抗争が存在していたことを想定する見解で一致している[5]。
事件後の永禄10年(1567年)8月7日には小県郡の生島足島神社において、領国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文が奉納されているが(『戦武』1099ー1186号)、これは事件後に生じた家臣団の動揺を鎮める意図であったとする見解がある[6]
0127人間七七四年
2010/10/02(土) 20:56:35ID:DMOc7zViちなみに正式に武田本家の後継者に指名されたのは、勝頼の子・信勝です。やっぱり、四男で、諏訪氏の子というのが都合悪かったようですね。勝頼は「後見役」でした。信玄のこの中途半端な措置が、武田滅亡につながった、といわれています。
正式後継者じゃなく、ただの後見ですから、部下がいうことを聞かないんですよ。
0128人間七七四年
2010/10/02(土) 21:03:14ID:DMOc7zVi「事業継承は、継ぐ側よりも、継がせる側の方に問題がある場合が多い」
0129人間七七四年
2010/10/02(土) 21:19:42ID:DMOc7zVi下準備が全く出来てなかったのが一番大きいな。 生前に家督を譲って形式でも当主として活動させていれば
信玄死後もスムーズに勝頼を当主とする体制に移行できたと思う。
0130人間七七四年
2010/10/02(土) 21:22:47ID:DMOc7zVi娘を武田家に嫁がせて、事あるごとに高価な貢物を送っていました。 ただ単純に高価なのではなく、桐の箱に武田の家紋を入れさせたりして
贈り物だけでなくそれを入れる箱さえもかなり凝った物を送っていたようです。 信長の信玄に対する念の入れようは相当なもんです。
それもこれも、信玄の時代の織田家は領土が急激に拡大して兵力が分散している上に 領土内では本願寺、一向宗、長嶋、雑賀などの一揆が盛んに起こり、
領土の周囲は敵に囲まれていたからです。 織田と武田が全面戦争をすれば兵力では織田が圧勝するはずだけど、 織田は兵力を一方面に集中出来ない状況にありました。
その証拠に織田は三方ヶ原では佐久間の手勢を援軍に送っただけで徳川を見捨てざるを得ませんでした。 とりあえず京都から岐阜までは戻ったけど何も手が出せないで動けませんでした。
というか、わざと手を出さなかったのかも。 美濃あたりまで攻め込ませて武田軍を消耗させておいて叩く作戦だったかも。 いずれにしても武田は織田領内に深入りすれば確実に負けます。
西上作戦開始前の時点で武田には3つの選択肢がありました。 西上して織田を潰すか、西上せずに今までどおり織田とは表面上仲良くしつつ深慮遠謀で苦しめるか、 完全に織田と仲良くするか。
信玄の西上作戦はかなり無理がありました。 実は武田家の国力はそれほど高くはないから、 順調に行ってもせいぜい美濃ぐらいまでしか到達できない、
あとの兵糧は敵地で奪うみたいな無茶な作戦でした。 (実は上洛しようとまでは思ってなかったのかも、という珍説もあるくらい)
そんな無茶な作戦を敢行してでも上洛しようとしたのは、信玄の健康上の問題があったからです。 しかし無茶な作戦を敢行するからには、絶対に成功しなければなりませんでした。
多大な出費をして、出費しただけでそのまま国に帰れば、国の経営は破綻します。 それほど無理して行なわれた作戦だったのです。。 まさに信玄が財政面で国家滅亡のトドメをさしたのが「無茶な西上作戦」でしたね。
結果として信玄が死んだおかげで反織田の勢力は衰え、逆に織田は息を吹き返し、 織田は悠々とひとつづつ潰して行きました。 3年後の長篠の合戦では、武田には最早なすすべがありませんでした。
兵農分離も出来ない貧しい山国の農民兵や、 唯一の自慢である時代遅れの騎馬軍団は最新鋭の鉄砲隊の前に壊滅しました。
0131人間七七四年
2010/10/02(土) 21:40:35ID:gMKWEdvA徳川を見捨てたとか上洛スレの最初の頃のような話じゃないか 懐かしいな
講談の脚色をくわえた話を真に受けてるようだし自分に都合良く話を解釈するのは皆やる事
甲陽軍艦は捏造とか言ったじゃないかw自分に都合のいい記述だけは採用か
とりあえず上洛スレの過去ログ漁ってこいよ その程度しか知識ないんじゃだがにさえ負けるぞwww
0134人間七七四年
2010/10/02(土) 21:48:43ID:GSB0R8Nbこの二人の対決が見たいw
0136人間七七四年
2010/10/02(土) 21:54:44ID:DMOc7zVi義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。
武田が滅びたのはどう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
0137人間七七四年
2010/10/02(土) 22:09:59ID:JsrZwBYt実際徳川家康は武田以外には圧倒的強さだからな。今川北条豊臣一向宗朝倉。
武田は対織田戦(上村、東美濃、岩村攻囲戦、高遠等)対北条戦でも強かったし
>>124
信長の大軍にわずか5000程度で蹴散らした東美濃攻防戦や上村合戦もあったしな
長篠だって『陣城にこもってる大軍の敵』にぬかるんだ地面の中発狂して突撃した勝頼の自爆が原因だし
逆にその状況で柵が到る所で破られ織田方にも損害でてるし
高遠攻防でも何十倍もの敵に野外戦で多くの損害与えて織田一門の一人を討ち取る奮戦ぶり。
どう考えても織田より強いな
家康も滅亡寸前の所だったし
0138人間七七四年
2010/10/02(土) 22:17:07ID:DMOc7zVi代行を務めた勝頼は武田家最大領土を獲得したにも関わらず正統後継者ではないとの事で評価は低く、
家臣の信望も今一のまま滅亡します。
義信を殺さなければ甲斐はまとまったかも知れませんし、せめて勝頼を後継者に指名すればもう少し滅亡を遅らすことも可能だったかも知れません。
それぞれ理由はあったので、今となってはですけど。
ただ、信玄の世代では、天下を握ると言うビジョンが無く、せいぜい領国を大きくすると言う考えしかありませんから、已む得ない面はあります。
織田信長のように、今川家を破りながら領土を奪わず、三河と言う干渉帯を作って西に全力を注ぐとか、兵農を分離して常備軍を創設するなどは天才だからの発想で、
彼以前の数多の大名は考えもしなかった発想ですから、信玄は天才と言うレベルではないことははっきりしています
まあ信玄はそこそこ優秀な普通の大名です。
0139人間七七四年
2010/10/02(土) 22:19:55ID:JsrZwBYt武田の滅亡は基地外勝頼の発狂のせいでしょ。信玄は半農状態なのに
兵農分離の完了した(笑)織田軍をびびらせ現に蹴散らしてるけど
勝頼の長篠の敗戦や御館の乱の失敗、無理な中央集権化や新府築城で台無しになった。
>>125
>三傑と比べれば劣ってるのは当たり前
戦闘では、信玄>>家康>信長>>>>>>秀吉
総合では 信玄≒信長>家康>>>>>>秀吉
こんなもんでしょ。家康が信長より強いのは戦績から一目瞭然だし
秀吉みたいに圧倒的大軍で寡兵の敵に醜態さらすような事はしてないし
>>130
信玄時代既に財政がパンクしてたら長篠敗戦後徳川相手に後詰で出兵したり関東出兵なんてできるわけないって。
基地外勝頼が『まるで城攻め』と称される堅固な陣地に寡兵でぬかるんだ地面、大量の鉄砲の迎撃の中無茶して
突っ込んだから負けただけだし御館の乱で葦名北条伊達と協力せず景勝に買収されただけでなく
北条相手に駿河伊豆国境や上野で公然と敵対行動取る愚を犯したしたから滅んだだけ
0140人間七七四年
2010/10/02(土) 22:26:08ID:DMOc7zVi結局武田家は滅びてるじゃんwww
天下を取った徳川が惨敗した数少ない敵だったので、徳川家が自身の評価を上げるため過大評価しただけでしょ。
0141人間七七四年
2010/10/02(土) 22:28:01ID:JsrZwBYt天下取った徳川家が唯一やられまくったって事は強い証拠でしょ。
現に織田や北条もけちょんけちょんに蹴散らされてるし
滅んだのは基地外勝頼の発狂のせいだし他の武田武将や信玄に押し付けるのは酷だろう
0143人間七七四年
2010/10/02(土) 22:34:04ID:JsrZwBYt長篠では雨でぬかるんだ地面で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に突撃
御館の乱では北条・伊達・葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する
新府城もあの状況でやるのは…としか。
能力どうこうを超えて基地外すぎるな。
0144人間七七四年
2010/10/02(土) 22:35:35ID:DMOc7zVi家康としては人生最大の敗戦と言えるでしょう。
しかし江戸時代家康は「神君」として絶対的な存在になります。
その家康の痛恨の出来事を脚色するためには
必要以上に武田信玄を持ち上げなければなりません。
また家康が信玄を尊敬したことも考慮されます。
その結果信玄と互角に渡り合った謙信の評価も上がることになり
両者はかなり高く評価されることになりました。
両者については秀吉が川中島を見て
「儚き戦をしたものよ。」の述べたことがすべてです。
二人とも「戦国大名」としては戦は強くても
「天下人」としては最低ランクだっただけです。
0145人間七七四年
2010/10/02(土) 22:37:50ID:DMOc7zViと思わざるを得ないと思います。
信長が信玄謙信を恐れた、とか
謙信は生涯負けなし、とか大真面目に言う人がいまだにいるというのは
やはりメディアの影響なんでしょうね。
0146人間七七四年
2010/10/02(土) 22:39:24ID:DMOc7zVi主なフィクションとして取り上げられるのが、信玄と謙信の一騎打ち、車懸かりの陣、山本勘助の策などが挙げられます
現代のメディアでも、話を面白おかしくするためにこういったフィクションは積極的に取り上げられます
武田の旧臣が家康やその配下に多く召し抱えられたのも手伝っています
0147人間七七四年
2010/10/02(土) 22:40:34ID:JsrZwBYtそれならなぜ敗戦の事実自体捏造せずまた真田の講談や長野の講談や糞もらしや
家康を神君どころか貶める逸話が紛れ込んでるんでしょうかね。
尊敬どうこうや持ち上げどうこうは所詮妄想の域を出ないだろう。
事実として家康は武田以外には圧倒的に強く天下を取ったが武田にはやられまくった
んだから武田は強いとしかいいようがない。北条や織田との戦いでも明白
0148人間七七四年
2010/10/02(土) 22:40:58ID:DMOc7zVi武田家において勝頼の能力が劣っていたという訳ではなく、人望も厚かった義信を信玄が死に追いやった事が家中に亀裂を生じさせたものと考えます。
勝頼には武田家の通字「信」が使われておらず、諏訪家の通字「頼」が使われている事から、信玄は勝頼には諏訪家を継承させるつもりであったようです。因みに勝頼嫡男(信玄の孫)は、信勝。
0149人間七七四年
2010/10/02(土) 22:44:11ID:JsrZwBYt信長公記ばかりが狂信的に信じ込まされてるし君の論理だと信長の方が圧倒的に過大評価されてると思うがな。
織田旧臣系だって結構生き残ってるぞ。細川藤堂金森稲葉丹羽前田ら。
0150人間七七四年
2010/10/02(土) 22:45:05ID:DMOc7zVi武田勝頼。
彼の戦場指揮官としての勇猛さ・優秀さは多くの方が持っているイメージの通りかと思われます。
また、長々書いても周知の事実なのではぶきますが、武田家の当主としての不安定さ、金山の枯渇・・・などの諸問題が勝頼にあったということも事実です。
それはおいといて。
勝頼は武田氏最大の版図を実現させましたが、そのこと自体は大きく評価するほどのことでもありません。
信玄死亡時の武田家は隆盛を極めており、その勢いをして信玄時代より少し領土を広げただけであるため、
「勝頼は信玄を越える武将だった」などと大袈裟に評価できたものではない。
まあ、広げたのは事実ですし、その軍事行動を決断したのも勝頼なのですがね。
長篠の戦い前後のネタは置いておいて、その後勝頼は、信玄以来の老臣の死を利用して自らの体制強化に励む。
勝頼はその象徴となる新府城を築城するのですが、それは結局、財政・領民に大きな負担をかけるだけの役割しか果たさなかった。
大軍を率いての軍事行動を頻繁に起こすが成果が上がらず、これも大きく財政を傾けた(まあ、状況からして仕方がないのですが)。
そのほか、御館の乱で北条家との同盟を潰してしまう、高天神城を見捨てる・・・などの失策は多いのですが、当時の武田家の状況はとにかく厳しく、
勝頼がいかほど思案しても打開できるものではなく、織田政権がある限り勝頼の滅亡は免れなかったでしょう。
その厳しい状況の中で、色々と頑張った勝頼ですが、それが実を結ぶことはなく、結果的に評価されるようなことをなすことができなかった。
世間で言われるとおり「悲劇の武将」と言う言葉が、一番よく勝頼を形容しています。
おまけとしてまとめると、
勝頼は「滅亡を免れない中で尽力した」
0151人間七七四年
2010/10/02(土) 22:46:44ID:JsrZwBYtよくわからんが>>143の失敗は家中の亀裂によって生まれたといいたいの?
でも最終的判断下すのは勝頼だし亀裂によって誤判断が生まれた史料も特にないし。
0152人間七七四年
2010/10/02(土) 22:48:17ID:DMOc7zVi一方、織田信長は戦略家として優秀だと思います。
信長は確実に勝てる見込のある相手にしか攻めて行かない。
強い相手に勝つことが目的ではないからです。
信玄は上杉謙信の強さを分かっていながら、戦いました。
そういう面では戦略家としては失格でしょう。
今川義元が死んだ後も、激戦だった第4次川中島の戦いの後になっても、まだ謙信と戦おうとしましたからね(実際に戦ったし)。
北方進出、あるいは上杉謙信対策にこだわりすぎでした。
ずばり、もっと早く南下すべきでした。
つまり、北陸への進出はあきらめて駿河に進行するか、あるいは三国同盟を大事にするなら「今川と共同で」三河に攻めて行けば良かったはず。
今川と共同ならそれほど前線に兵力を差し向けなくて済むので、謙信への備えとしてある程度の兵力を信濃に残せたはずです。
0153人間七七四年
2010/10/02(土) 22:50:04ID:JsrZwBYt繰り返し行うのは冷静さに欠けた猪武者と呼ぶ以外ない
彼の失態がなければ武田家の状況は史実より遥かにマシになってただろう
0154人間七七四年
2010/10/02(土) 22:54:50ID:DMOc7zViまず、信玄が過大評価されている理由についてですが、
徳川と江戸期における風潮が密接にかかわっています。
まず、徳川の陣立てですが、これが武田流なのはよく知られています。
最初のころは三河系の陣立てだったのですが、
後に改革をおこなって武田系の陣立てに変えています。
そして江戸期になると、甲陽軍艦は軍学書の最高峰的な扱いを受けます。
甲州流も同様です。
大河ドラマの新撰組に武田観柳斎なる甲州流軍学術の使い手がでてきましたね。
つまり、徳川が天下を取ってから200年以上甲州流は
軍学の最高峰であり続けたのです。
西洋式にくらべればはるかに古臭い戦術論ではありますが、
200年以上も幅を利かせていたというのは大きいです。
信長が勢力を伸ばせた理由は、いろいろあります。
都から遠からず近からずの土地(これはかなり重要)であり、
国力もそれなりに高い。
尾張が守護の地位陥落によって小勢力(といってもほとんど織田一門)が
乱立している状態だったのも大きいです。
対して信玄は、都からは遠すぎ、国力は最低ランク。起伏が大きい上に、
山間部はいまでもそうですが集落点在型の構造をしていますから寡兵が困難、
さらには塩といった必需品を交易に頼っていたという経済的な面も大です。
逆に回りは高い国力を誇る国が多くあります。
私としては信玄は「戦略的勝利の達人」であったと見ています。
戦では五分でも戦略的な勝利が多いのが彼の特徴です(代表的なのは川中島)。
負けを負けとも思わせない収集力、丹念な人材登用などが大きいですね。
なお、勝頼の信用については、資料的な裏がないものの、
その後の彼と重臣の軋轢を考えれば、
関係は甲陽軍艦に近いものであったというのもうなずけるかと思います。
なお、官位と官職は別物です。名前で名乗るのは官職。官位は正六位とかのことで、
厳密には尉といったものは官職にあたります。
さらに戦国時代において官職は、勝手に名乗っている人はゴマンといますし、
正式任官している人のほうが少ないです。
というかほとんどの人は正式任官していません(官職を名乗っていても正式任官を断るケースもありました)。さすがに大名クラスならば任官していることも多いのですが・・・
また、確実な資料というのは実際には本当にごく一部であり、
第1級資料とされている信長公記であっても、
怪しい部分はあります(これは日記からの転載という点から、
第1級よりも少し落ちるという説を出す人もいます)。第1級資料を無視するのは
論外ですが、2級3級4級であるからといって、内容をすべて嘘と捉えるのは明らかに問題があり、
また1級を1級たらしめているのはBC級の資料による裏づけであることも忘れてはなりません。そのため第1級といっても内容がすべて正しいわけではないです。
もっとも、甲陽軍艦はかなり怪しい資料ではありますが・・・
0155人間七七四年
2010/10/02(土) 22:58:49ID:JsrZwBYt>まず、徳川の陣立てですが、これが武田流なのはよく知られています。
>最初のころは三河系の陣立てだったのですが、
>後に改革をおこなって武田系の陣立てに変えています。
>そして江戸期になると、甲陽軍艦は軍学書の最高峰的な扱いを受けます。
>甲州流も同様です。
>大河ドラマの新撰組に武田観柳斎なる甲州流軍学術の使い手がでてきましたね。
>つまり、徳川が天下を取ってから200年以上甲州流は
>軍学の最高峰であり続けたのです。
>西洋式にくらべればはるかに古臭い戦術論ではありますが、
>200年以上も幅を利かせていたというのは大きいです。
むしろ強大な同盟者としてビビっていた織田軍学を学ばず滅亡した武田から
吸収しようとした点でいかに武田が強かったか理解できる材料でしかない
0156人間七七四年
2010/10/02(土) 23:01:50ID:NUYc4rl2勝頼を考える際に家康の存在は欠かせません。
長篠の戦いの前に三方原の戦いがあり、家康は信玄に散々な敗戦をしています。
家康はこのときから短気を抑え、策略家になったと言われています。
長篠の戦いでは信長の援助を受け鉄砲隊で勝利を収め、
その後の勝頼との戦いでは調略を繰り返しながら領土を奪っていきます。
領地支配に関しては基本的に信玄と同じような形態を取ったのではないでしょうか。
そのことは「人は石垣、人は城」と表現した信玄と同じカラーを見て取れます。
ここで組織論になりますが、現代のオーナー社長から次の息子に移行する会社を思い浮かべると比較し易いと思います。
父親が社長の時には能力主義で1億円以上の売上を管理する幹部が5人いたとします。
その5人は父親社長と同年代、一緒に苦労した仲でお互いのことをよく知っています。
その父親が病気で急死し、息子が社長を継ぎました。これからはITの時代ということで色々チャレンジしたいのですが、
幹部のうち4人まではIT投資に反対します。そこへ業界に大資本が参入し、先にIT戦略を展開して会社の売上は減少します。
息子は反対する幹部よりも自分と同年代の成長株な社員を優遇し、新しい事業を起こそうとします。4人の幹部は退職したり、
転職したりします。こういうことはよく起こります。オーナー社長の会社で代替わりがうまく行かないことが多いのはこういうことです。
外的な要因が小さければうまく行くこともありますが、勝頼の場合にも信長という大きな要因があり、リベンジを誓う家康という存在があったからこそ、
能力が少々あったくらいでも生き残ることができなかったのではないでしょう
0157人間七七四年
2010/10/02(土) 23:07:22ID:JsrZwBYt武田の滅亡の主要因は国人連中の離反の連鎖、元を正せば軍役過多による疲弊だろう
なぜこれを招いたかといえば>>143の要因にいきつくのは明白。
もう少し武将として冷静さがあれば滅亡は免れただろう。
>家康はこのときから短気を抑え、策略家になったと言われています
悪いけどソースよろしく。
その例示と勝頼の例がどう直結するの?勝頼は正確な判断力を持ってたという根拠は?
0158人間七七四年
2010/10/02(土) 23:07:29ID:DMOc7zVi上杉謙信との北信濃の争奪でも戦闘は上杉方が勝っても、そのあといつの間にか上杉方のほうが後退しているという例が多いようです。
勢力が飛躍的に大きくなれなかったのは、信玄の本領である甲斐がもともと生産力は高くなく、それほど大きな兵力を養えなかったこともあります。
0159人間七七四年
2010/10/02(土) 23:13:04ID:DMOc7zVi長篠の合戦についてですが、戦場とされる現場に行った人(例:紀行作家の宮脇俊三氏)の多くが
「非常に狭い場所で、ここで武田と織田・徳川合わせて数万の兵が戦ったなど到底信じられない」
と言っています。数万人の兵が入ったら、ラッシュ時の駅のような状況になりそうな山間の狭い平地であるようです。
なお、現在の歴史学界の定説としては
「織田側の三千の火縄銃による一斉射撃で、武田の兵がバタバタと撃ち倒された」
事実はなかった、とされています。
根拠は
1. 「三千丁の火縄銃」の一番古い根拠とされる史料で、「三千」の数字が後から書き加えられたものであり、筆跡が異なる。
本当は「千丁」であったようです。
2. 火縄銃というのは、一発撃つと周りに火花が飛び散り、黒色火薬ですから大量の煙が出るものです。
上述したような狭い場所で、仮に「三千丁を千丁ずつに分けての三段撃ち」をやろうとしても不可能です。隣の火縄銃の火花による暴発、濛々たる煙により視界ゼロ、といったことが起きます。
「三段撃ちは、物理的に有り得ない」ということです。
3. 武田軍の侍大将で討ち取られた者が多くいるのは事実ですが、退却戦の過程で討ち取られた者が多いとされています。いわゆる「設楽川を挟んだ『長篠の合戦の戦場』」で死んだと言われるのは、山縣昌景、真田兄弟など僅かとされています。
なお、「馬上で槍を振り回すことが出来たか否か」についてですが、現存する戦国時代の合戦屏風などの画像史料で、「馬上で刀や槍を振り回している」様子を描写しているものはありません。
一定以上の身分の武士が馬に乗っていたのは確かですが、それは
「戦場までの移動手段」
「指揮するときに、視線が高くなって遠くまで見えて指揮しやすい」
という理由によるものです。
江戸時代の早い時期までに描かれた合戦屏風の類で
「馬上の侍が槍を振り回している」
事例があれば教えて欲しいものですが、そのような例はないはずです。
0160人間七七四年
2010/10/02(土) 23:23:40ID:DMOc7zVi勝頼が御館の乱でどちらについても結果はあまり変わらなかったかもしれません。
そもそも景虎側が勝つということは実質北条が越後、越中を手に入れ巨大化することを意味します。
先立つ金が必要だったこともありますが、武田は既に長篠の惨敗と経済的困窮で弱体化しており、
同盟相手であった北条氏政も機会あらば、織田徳川方に付こうという魂胆があったと思われます。
つまり同盟相手とはいえ、信用の置けない北条が巨大化して自領を取り囲むような事態を避け、
上杉景勝に北条に対する牽制役をお願いするしかなかったとも言えます。
御館の乱で景虎側が勝っていてもその後に氏政に裏切られ、四方から攻め込まれていたでしょう。
勝頼が死期を早めた原因はもっと前の段階で長篠の惨敗、ご親類衆との不和、有効な経済政策を立案できなかった、
といった点につきると思います。
0161人間七七四年
2010/10/02(土) 23:33:48ID:DMOc7zVi新府城を造ったのは、織田の大軍に備えるためです。
甲信にはいくつも城がありましたが、
殆どが戦国前期〜中期にかけての城であり、
対数千の敵勢を想定して縄張りが作られています。(戦国時代後期まで、数万の敵に攻め込まれるということは有り得なかった為)
これが織田軍となると、対数万の縄張りが必要になり、
それが新府城でした。その証拠に、あの山本勘助と秋山信友が大改築した高遠城も僅か二日で落城しています。
ちなみに信長の築城は、ちゃんと領民に賃金を払って造っているので、造れば造るほど領民が潤うものであり、
歓迎されています。よって一揆が起こることはありません。それだけ、織田家と武田家の国力が違うということです。
勝頼が築いた新府城のそもそもの目的は、籠城して相手が疲れて撤退するのを待つためでも援軍を待つためでもありません。
新府城に来る前に、兵力を前線で消耗するはずの織田軍を待ち構えて決戦をするため。
決戦で織田軍を撃滅するのに都合がいい場所に、前もって城を築いただけです。
もちろん、新府城とそれに付属する支城で少しでも織田軍の戦力を消耗させる目的もありましたが。
当時の武田家の状況では、ただ単に籠城しても他国からの援軍は来ないし、織田家との経済力の差を考えれば、ただ籠城するだけではいずれは落ちるでしょう。
直接の原因は織田軍の侵攻があまりにも速かったために家臣の謀反が相次ぎ(もう武田は駄目だと見限られた)、勝頼の主力となる決戦部隊を用意できなかったから。
勝頼は城を造るよりよりどうすればよかったかは、私には分りません。いちばんの理想は織田家が勝頼には手に負えないくらい強大な勢力になる前に叩くことでしょうけど、そう簡単に出来るかどうか・・。
0162人間七七四年
2010/10/02(土) 23:35:57ID:DMOc7zVi0163人間七七四年
2010/10/02(土) 23:59:12ID:DMOc7zVi詰む7手くらい前で信玄から引き継いだようなもんだよ
0164人間七七四年
2010/10/03(日) 00:00:24ID:gn0hzI6p武田家が滅びる原因の全ては信玄の時代に構築されています
0166人間七七四年
2010/10/03(日) 00:14:01ID:gn0hzI6p戦が強い国はそもそも経済力が強い。信長は港湾利権や楽市楽座による商業利権という近代的な領国経営で莫大な軍資金を調達していたが、
武田家や上杉家の場合は金山だった。
特に甲州金は有名で、信玄の父である信虎の時代には金の採掘が始まっていたことが分かっている。
信玄の時代には金山の採掘が最盛期を迎えているが、どうも勝頼の頃にはあまり取れなくなってきたらしい。
それに、信玄が死亡したときの信長は、依然として四方を敵に囲まれて大変だったが、武田軍の撤退で一息つくと、次々に四囲の敵を個別撃破してしまった。
そうなってからでは信玄だろうと勝頼だろうと関係ないだろう。
強力になる一方の信長に対して、金欠が進む一方の武田では基礎体力の差が開く一方だ。
金欠が進んでいたが、敵は強くなる一方なので、城を築くなど防備を固めるためにやむなく増税したわけだが、それでは下は付いてこない。
税金を大将に差し出しても、後で見返りがあるのなら喜んで増税にも応じようが、城を築くなど守るためだけの増税では見返りなんてあるはずがない。
「金を毟り取られるだけの大将なんていらない」というのが武田滅亡時の家臣達の思いだろう。
0167人間七七四年
2010/10/03(日) 00:16:50ID:gn0hzI6p信玄が長生きしたとしても信長に勝つのは無理です。信玄が晩年に上洛戦を起こした時点でも
すでに信長と信玄の実力差は3倍近くありました。ですから信玄は信長包囲網を利用してでしか
戦うことはできなかったのです。さらに武田家の兵士は農民が主体であったので
いずれ4月になれば帰国せざるを得ませんでした。その後武田家の経済を支えた金山の収穫量は減少するので
さらに信長との実力差は開く一方です。ですからいずれは滅亡しかなかったでしょう。
ですから武田家の運命は滅亡しかなかったでしょう。
0168人間七七四年
2010/10/03(日) 00:19:05ID:gn0hzI6pフランス・ブルボン王朝の様にその勢力の最盛期を現出した当主(国王)が同時に衰亡の最大の原因をつくっていることも多々あります。武田家もこの類で、
武田滅亡の最大の原因をつくったのは勝頼への権力移譲を全く怠り、四方に敵を作って国力を疲弊させた信玄であることは明白です。
勝頼がどんな人物であれ、重臣達が自分を武田家当主として認めてくれてすらいない状況で日の出の勢いにある信長に勝てるはずがありません。
0169人間七七四年
2010/10/03(日) 00:49:42ID:SL/PLVGG君が書いてるのはwikiからの転載かね?
定説どおりかそうじゃないか知らないが現在と500年前じゃ地形や地勢が微妙に違うのかもしれんよ
>>160
北条家当主氏政は武田勝頼と縁戚関係もあるし理由もなく積極的に敵対しようとは思わないでしょ
実際氏政の一番の目標は関東制覇なんだから信玄時代も苦戦を強いられた武田を敵に回そうなんて思わんよ
事実勝頼の方から積極的に上野や駿河伊豆国境で敵対行動を取ってるし
それから長篠敗戦直後はともかくそれ以降は徳川の侵攻を阻んでるし
北条の要請に応じて関東(上野)に出兵したり、御館以降北条相手には優勢に戦ってるし
まだ経済的困窮とまではいえないよ。北条相手に侵略戦争するエネルギー
徳川や織田への防戦や侵略に使えばまだ大分マシだったと思われる
>>161
>新府城を造ったのは、織田の大軍に備えるためです。
>甲信にはいくつも城がありましたが、
>殆どが戦国前期〜中期にかけての城であり、
>対数千の敵勢を想定して縄張りが作られています。(戦国時代後期まで、数万の敵に攻め込まれるということは有り得なかった為)
>これが織田軍となると、対数万の縄張りが必要になり、
>それが新府城でした。
ソースよろしく。
>あの山本勘助と秋山信友が大改築した高遠城も僅か二日で落城しています。
何十倍もの兵力比で野外戦挑めば必然的にそうなると思われ。
>ちなみに信長の築城は、ちゃんと領民に賃金を払って造っているので、造れば造るほど領民が潤うものであり、
>歓迎されています。よって一揆が起こることはありません。それだけ、織田家と武田家の国力が違うということです。
何か笑い話のようなレスだけど正気かね?
>勝頼が築いた新府城のそもそもの目的は、籠城して相手が疲れて撤退するのを待つためでも援軍を待つためでもありません。
>新府城に来る前に、兵力を前線で消耗するはずの織田軍を待ち構えて決戦をするため。
>決戦で織田軍を撃滅するのに都合がいい場所に、前もって城を築いただけです。
>もちろん、新府城とそれに付属する支城で少しでも織田軍の戦力を消耗させる目的もありましたが。
>当時の武田家の状況では、ただ単に籠城しても他国からの援軍は来ないし、織田家との経済力の差を考えれば、ただ籠城するだけではいずれは落ちるでしょう。
決戦どうこうよりも財政的に逼迫させた政策として挙げられる
>直接の原因は織田軍の侵攻があまりにも速かったために家臣の謀反が相次ぎ(もう武田は駄目だと見限られた)、勝頼の主力となる決戦部隊を用意できなかったから。
…何か武田攻めまでの状況を無視するにも程があるけど。
君の脳内だと勝頼が長篠で大損害うけようが受けまいが、経済的困窮には直接的関連性がないといいたいの?
御館で失敗して北条を敵に回そうが、新府築城しようが、経済の逼迫に影響してないといいたいの?
大きな失敗を失敗として捕らえず意味のわからない論理で信玄が悪い信玄が悪いと言われても??としか。
0171人間七七四年
2010/10/03(日) 01:00:24ID:gn0hzI6p両軍の兵士数ですが、通説では織田・徳川連合軍3万8000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万5000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3000)となっています。
これには異説があり、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という説があります。
設楽ヶ原の狭さから、この数字は支持されています。また武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、
武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的と言われています。
小規模な戦とまでは言えませんが、通説よりは小規模でしょう。
0172人間七七四年
2010/10/03(日) 01:09:37ID:gn0hzI6p武田勝頼が上杉景勝に味方し景虎を見捨てたのは北条氏の勢力伸張を恐れたからです。
景虎は氏康の息子で北条氏政の弟で仮に上杉の当主になった場合は実家の力をバックにした可能性があります。
地図を見ればわかるように武田の領国は北陸から関東まで北条の勢力圏に覆われる形になります。
こうなれば北条から妻を向え縁戚関係に成ったとはいえ逆に勝頼は北条に取り込まれて属国化されると考えたことも頷けます。
北条との関係は悪化しましたが上杉景勝からは北信濃や上野の一部の領土に多額の軍資金も譲渡されたため一概に無益な選択とも言えない面があります
0174人間七七四年
2010/10/03(日) 01:11:29ID:gn0hzI6p勝頼は北条氏政がグズグズして出陣しないのに、不信感を持ったのでしょう。自分は北条の為に兵を損失するのはバカバカしいと思っていたところに、
景勝から同盟の申し出があり、条件として上野沼田、厩橋領と信濃飯山領、黄金の譲渡との事だったので、武田としては有益と考え景勝との同盟に踏み切ったのでしょう。
仮に景虎を助けていたとしていても、北条は織田信長と共に勝頼を攻めたでしょう。北条氏政の行動を見ているとよくわかります。
0176人間七七四年
2010/10/03(日) 01:15:44ID:gn0hzI6p私個人としては武田家滅亡の原因は何割かは
信玄にもあったと思います。
真実かはわかりませんが遺言で『武田の御旗を京都に立てよ』
つまりは天下を取れと言ってなくなりました。
結局はそれが織田家に徹底抗戦をするはめになり
滅亡への一歩を踏み出したのでしょう。
0177人間七七四年
2010/10/03(日) 01:18:37ID:gn0hzI6p0178人間七七四年
2010/10/03(日) 01:35:57ID:gn0hzI6p武田家が領していた甲信は、実は基本的に赤字財政の国でした。だからこそ外征を繰り返して新領地で補填する必要があったのです。
現代で例えれば、既存店の赤字売上を新店舗拡大で補填するようなものです。(勝頼は外征を頻繁に行ったと言われるが、それは信玄も同じ)
しかし、いつかは無理が来ます。武田家も来ました。
金山の枯渇が想定済みだったのか、信玄は自領の拡大を最優先して上杉と和睦をすぐに破り、縁戚関係のある今川を裏切り、北条も敵にしました。
さらに同盟関係にあった織田家をも敵に回し、今川攻めで同盟した徳川とも敵対します。最終的に北条とは同盟を復活させますが、一時は周辺国全てを敵に回しています。
これは明らかな戦略ミスであり、愚将と捉えかねられない失態です。
そして信玄が失った信頼は、すぐに回復しません。
信玄は同盟を全て自分から破りました。よって勝頼は周辺国と和睦することも出来ず、広がりすぎた戦線を維持するに莫大な戦費を注ぎ込まざるを得なくなっていました。
これが家中の反発を招き、頼っていた金山の生産量も年々落ち込む始末。それでも領地を拡大したのは勝頼の器量が優れていたからでしょう。
しかし、結局自分は「陣代」という立場であり、家臣を統制するには弱い立場にありました。これも信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだからです。
また長篠合戦ですら、強大化する織田家に対抗する最後のチャンスであり、あれがなくても武田家は史実通り滅んだでしょう。まず間違いなく。
これらが全て先代の信玄に起因します。よって武田家滅亡は勝頼よりも信玄に責任があるのは明白です。
0179人間七七四年
2010/10/03(日) 17:37:12ID:Kr8i3+5k小学生の国語の教科書音読して楽しい?
0180人間七七四年
2010/10/03(日) 17:40:58ID:Kr8i3+5kみんな優しいから黙ってるけどIDがあるから自分の疑問に自分で答えても虚しいだけだよ
自分の知識をひけらかしたいのか長々と書いて連投してバレてないとか思ってるのかもしれないけど
自作自演して恥ずかしくない?一応スレの私物化はマナー違反だから通報しとくよ
0181人間七七四年
2010/10/04(月) 03:42:57ID:XqpEgmCJ0182人間七七四年
2010/10/04(月) 04:43:42ID:1lMQsyW1田舎の方で勢いに乗って勢力を拡げたけど結局長持ちせずに滅亡しちゃいました、なんて話は戦国時代にはよくあったことで
単に武田もそのなかの1例に過ぎない
ただ、他の例と違ったのは日本史の主流となる織田-豊臣-徳川あたりのラインとの絡みがあったから、それで採り上げられることが多いのと
滅亡後の家臣で徳川に仕えたのが多数いて後の江戸時代に幕閣の要職に就く者とかを輩出したから
それで後世に武田だけやたら持ち上げられたってだけ
他の似たような例を挙げると、例えば尼子経久なんかも田舎で勢力を拡げて一時期は相当な隆盛を誇ったが結局武田と同じように長続きせず滅亡した
こっちはむしろ武田より凄いくらいで一時は11ヶ国の太守とまで言われたけど
こういったケースは徳川の隣に領地があった武田とは違って後の天下人との絡み全くがないから語られることはほとんどないわけで
まあ実際はそんな戦国大名には数多ある例の中の1つに過ぎないんだよ
0183人間七七四年
2010/10/04(月) 13:55:13ID:fhhW5tBS感じがする。確かに信玄は戦が強い印象があるが、あくまで準備段階が巧みな
のであって、それはむしろ政治力ということが言えるのでは無いでしょうか。
謙信に対しては北条と共闘する、信長に対しては包囲網でがんじがらめにして
から動く等。
また、個々の戦では相手よりも多い兵力で戦うようにしています。これらから
用意周到さが伺え、そこが本来信玄の評価されるべきポイントだと思います。
孫子曰く「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め・・・」を体現している感じ。
0184人間七七四年
2010/10/04(月) 18:31:25ID:xdGw9Z96戦の強さが違いすぎる
0185人間七七四年
2010/10/04(月) 18:50:05ID:XdPT3ReZ兵力で有利だからいつも勝てるだけ
0186人間七七四年
2010/10/04(月) 20:02:36ID:AJAKBl5Iそれ孫子の教えにケチつけてるじゃん
お前如きが異を唱えるとはどんだけ偉いんだ
むしろ多いのに義清に負けた事や謙信に弟を討ち取られた事だろ
0187人間七七四年
2010/10/04(月) 21:27:21ID:uza+wFGZ0188人間七七四年
2010/10/04(月) 23:10:55ID:AJAKBl5Iなんてマヌケなレスだ
孫子ってのは兵法の基礎中の基礎 それとも孫子より良い基礎的な兵法書でもあるのか?
基礎を踏まえた方が勝率は高いのは当たり前
0191人間七七四年
2010/10/05(火) 02:20:54ID:loSA/FHNそこが兵法
0193人間七七四年
2010/10/05(火) 07:45:30ID:+THA92ft連投してpgrして余程悔しいのかwww
ID出てるから丸わかりwその兵法書教えてくれよwww
無知な癖に知ったかぶりすると余計にアホに見えるのに気づかないとは恐ろしいもんだ
0194人間七七四年
2010/10/05(火) 11:58:54ID:EbSaSuSzせっかく結んだ同盟を反故にして結局周りを敵だらけにしてしまうのはどうなんだろう。
氏康も信玄は信用できないみたいなこと言ってるよね。
0195人間七七四年
2010/10/05(火) 15:32:31ID:Ggw0IErA仮にあなたがたかが百人の人たちを指揮して何かをしようとすれば、その難しさ、できる事の狭小さを
理解できることができるでしょう。まして万の軍勢を率いた状態で「変幻自在の軍略」などというものが
いかに絵空事か。
ナポレオンは敵中央への砲兵による集中砲火→騎兵での突撃というたったひとつの
戦術をもって生涯戦い抜き、実際その戦術を破れるものはほとんど存在しませんんでした。
そしてそれを破ったプロイセンのクリューパーも、指揮系統をアメーバ型にし
小隊へ行動の自由を与えたという軍制改革を行っただけで、「用兵」などと言う概念とは程遠いものです。
つまり戦に強いということはいかに外交によって有利な状況を作り出すか
いかに訓練された兵で軍を構成し、指揮系統をどう明確化するか。
いかに相手よりも大量の兵器、兵員を準備するかの経済的手腕。
そして地形の利用や相手方の切り崩し工作など・・・・
全て「政治力」の範疇に含まれています。戦と内政をわけて考えるなど馬鹿げていますよ?
0196人間七七四年
2010/10/05(火) 15:50:59ID:MsNg+zIzまさに其の通り!信玄は戦略が一環してないんだよ
今川北条と同盟したと思ったら同盟破棄したり
上杉と戦ったと思ったら徳川と戦ったり
結局戦った相手を滅ぼさなきゃ勝った事にならないんだよw
0202人間七七四年
2010/10/05(火) 20:24:40ID:+THA92ft無知なお前に教えてやると何故孫子が人気かと言えば最も上手く纏まってるからだよ
まあ具体的な反論も出せない知識不足じゃ論ずるに値しないなw読んだ事ある奴なら簡単に反論出来るレスなんだが
読んでないのバレて恥ずかしくないか?wwwどうせ同じレスか知識不足丸わかりのレス返ってくるんだろうがなw
まあまともな反論も出来ないんじゃSub以下の泥頭だな たまに相手してやるから有り難く思えよ
0205人間七七四年
2010/10/05(火) 22:38:10ID:+THA92ftID出てるのに連投するとは余程悔しいの?w
じゃあ内容の違い言ってみろよwww基礎的な箇所でいいからさw
所詮読んでない奴は具体的な反論なんかできないよねぇ
0207人間七七四年
2010/10/05(火) 22:48:00ID:MsNg+zIz理解できない奴に説明しても時間の無駄www
0208人間七七四年
2010/10/05(火) 23:01:43ID:+THA92ft奥もクソも一番基礎的な、誰もが守ってるような事でいいから挙げてみろよw
どうせ読んでないから一つも挙げられないんだろうが
というか軽く挙げてみろ、でその返しは自分が何一つ知りませんと言ってるようなものwww
よくそんなからっぽの頭でここに来たな 知ったかぶりがバレて今どんな気分?ねえどんな気分?w
0209人間七七四年
2010/10/05(火) 23:07:50ID:7qQuFRk20212人間七七四年
2010/10/06(水) 00:12:52ID:gdRYo1+N大軍を打ち破ったり大将首とったりしたことないの?
0213名無し募集中。。。
2010/10/06(水) 02:16:44ID:IxBH3sN3全部兵法が一緒と思っている時点で兵法を理解してない証拠!!
0214名無し募集中。。。
2010/10/06(水) 02:17:49ID:IxBH3sN3ないよ
0215名無し募集中。。。
2010/10/06(水) 02:26:39ID:IxBH3sN30216人間七七四年
2010/10/06(水) 02:34:30ID:+rouV3G4>武田信玄が過大評価されてるのは甲州軍艦とか歴史の資料が多く残ってただけで
甲州軍鑑ってなんですか?
0217名無し募集中。。。
2010/10/06(水) 02:38:28ID:IxBH3sN3馬謖でさえ己の才能に溺れてしまい
兵法を謝った解釈をしてミスをおかしてしまったからな
普通の人がちょと呼んだ位で兵法を全て理解できるわけがない!!
それだけ兵法は奥が深いんだよ!!!
0218名無し募集中。。。
2010/10/06(水) 02:46:02ID:IxBH3sN31じゃないけど甲陽軍艦のことだろ?
0220人間七七四年
2010/10/06(水) 04:18:07ID:OTeetawd近世最強の戦国大名が織田信長
結局中世の古い考えを脱する事が出来なかった武田が滅びて
中世の秩序を崩し、新時代を切り開いた織田信長が天下をとったんじゃんw
0221人間七七四年
2010/10/06(水) 04:24:26ID:OTeetawd中世代表の信玄は自分とは違う近代的な方法で
急速的に勢力を拡大した信長に焦ってたんだと思う
0222人間七七四年
2010/10/06(水) 04:26:04ID:OTeetawd中世から近世に移り変わると同時に武田家の政策も変わるべきだった
0223人間七七四年
2010/10/06(水) 05:02:20ID:TSxsrKjl「信玄公は、お優しい方じゃった・・・・・」、と言ってるけど
0225人間七七四年
2010/10/06(水) 11:12:17ID:SCLPktjc甲陽軍鑑と同レベル。
ランチェスター理論最強。てか唯一絶対の戦争哲学。
0229人間七七四年
2010/10/06(水) 19:36:20ID:FuYckHXC信長の事業を引き継いだが家康は義元の事業を引き継いだのか?
0230人間七七四年
2010/10/06(水) 19:50:35ID:SHlnPy1E屁理屈じゃないよ
信長の事業と言われましても何じゃそら 義元の上洛事業なら家康はちゃんと果たしてるよ
秀吉は信長の領土を取り込んで主君の息子を殺し所領を取り上げた
家康も義元の領土を取り込んで主君の息子を無力にした
そっくりじゃないか
0232人間七七四年
2010/10/06(水) 20:01:29ID:SHlnPy1E>>226の理屈だと義元も天下取ったねw
ただ息子の氏真が家康と一緒に上洛した際信長に蹴鞠披露した時信長を天下人と認めちゃってる
ついでに義元が出来なかった上洛をはたしたとかほざいてる
そう考えると一応家康は事業を果たしたじゃないかwアホくさすぎるけどw
0235人間七七四年
2010/10/06(水) 20:21:12ID:SHlnPy1E家康→義元が死んだらほぼ独立、義元の旧領全て併呑、後は実力で天下、義元の息子には何も与えず
一緒じゃないか ね?
0237人間七七四年
2010/10/06(水) 20:28:44ID:SHlnPy1Eえ、何で?信長も義元も天下取ってないよ
レベルってなに?何万石やどれくらいの官位ならいいの?
義元も将軍継ぐ資格のある名門だから充分天下も狙えるよ
0238人間七七四年
2010/10/06(水) 20:36:13ID:OTeetawd信長が天下統一の基礎を作ったけど義元は信長に負けてるだろ!!
お前レベル低すぎるからもうここのスレに来るな!!
スレが荒れる!!
0239人間七七四年
2010/10/06(水) 20:48:12ID:SHlnPy1E碁盤は秀吉自身が作ったんだけど
信長の配下で実力のあった奴(明智柴田滝川)ほぼ全員敵に回してんじゃん
そりゃ最初は三法師という大義名分のため信長の碁盤を利用しなきゃいけなかったけど
信長の跡を継ぐなら毛利や上杉をあんなデカく残さないよ
スレが荒れるも何も史実参照に正しく突っ込んだだけだが
少し見返す限りスレ主はあんまり戦国時代を知らないみたいだね
まあよく知らない人用スレが戦国板にあってもいいかもね 勉強頑張ってな
0241人間七七四年
2010/10/06(水) 21:21:36ID:5juAcDDP0242人間七七四年
2010/10/06(水) 22:03:17ID:OTeetawd歴史上の人物を評価する場合、その人物の持つ地理的条件や社会的な背景など、様々な観点から総合的に判断しなければならない。
「たら・れば」で論ずるのは適切ではない。
例えばこの板で散々叩かれている伊達政宗ですが、彼の「あと20年早く生まれていれば・・・」などというのは、
本人が負け惜しみで言った時こそ可愛げがあるのであって、周りがそれを本気で捉えて論ずるのはナンセンスだと思います。
0243人間七七四年
2010/10/06(水) 22:04:04ID:OTeetawd歴史学でも、仮想思考するときもありますが、状況証拠を精密に積み上げ、
可能性をギリギリまで煮詰めて論じてこそ、意味があります。
それでも「思考実験」の域を超えませんけれど。
残念ながら、学校教育では「歴史事項」は覚えさせられても、
学問としての「歴史学」は教えてくれません。
歴史を客観的に研究する上での、ノウハウをみんな知らないんです。
史料の見方・扱い方も、思考としての考え方も知りません。
私は大学で初めて、そういったメソッドを学びました。
それでも多くの歴史に関する本を読んだ人は、自然にそういうノウハウを身につけられます。
その域に達しない人は、言うまでも無く「歴史思考」としては大変未熟。
ベテランとビギナーでは対等に話をしてもかみ合いません。
こちらはまじめに歴史を論じているのに、歴史をただの趣味ツールとしか受け取れない人たちは、
住む世界が違う、ということです。
ですから、馬鹿げた仮定や空想は、私は無視しています。
未熟同士で、勝手に楽しめばいい。
ただ、無知なくせに専門的な話し合いに、割り込んでくるのには閉口させられますけどね。
言論・思想は自由ですが、馬鹿げたことを言うと、自分の値打ちが下がるということも認識してくれたら、
もうちょっと世の中も上品になると思います。
羞恥心の問題ですね。
羞恥心のかけらも無い連中が、「武士道」とか「義」とか言うのを見ると、正直情けないです。
0244人間七七四年
2010/10/07(木) 09:23:22ID:AdI9E7ks0245人間七七四年
2010/10/07(木) 11:06:50ID:Fn8AualWアホな分だがより質が悪い
0246人間七七四年
2010/10/07(木) 12:52:14ID:pJMVfo4t0247人間七七四年
2010/10/07(木) 14:34:11ID:mnnZb9To秀吉が囲碁の道具を作る職人だったとは初めて知ったw
おまえも国語の勉強頑張ったほうがいいと思・・・いやいいんだ忘れてくれ。
0248人間七七四年
2010/10/07(木) 14:39:00ID:AFjGmWc30249人間七七四年
2010/10/07(木) 14:39:39ID:Qi1HHnDT0250人間七七四年
2010/10/07(木) 16:07:25ID:p0twKpNC0251人間七七四年
2010/10/07(木) 16:24:59ID:Lv9YnOoc最終走者徳川秀忠。
0252人間七七四年
2010/10/07(木) 17:22:55ID:im2qG/FAさめたわー
0254人間七七四年
2010/10/07(木) 18:49:14ID:wJpMY0IM対抗立志電ぐらいしかないが
0255人間七七四年
2010/10/08(金) 09:34:16ID:Am8vb3QF密かに建造を進めていた当時としては最大最強の規模と装備をもった軍船。
しかし駿河侵攻直前、本国甲斐からの移送が不可能というお粗末な事実が発覚し
製造責任者の嫡子義信と奉行の飯富某が責を問われ処分された。
もちろん江戸初期に甲州流軍学の嚆矢として著された「甲陽軍鑑」とは全くの無関係。
0257人間七七四年
2010/10/09(土) 11:12:45ID:XkTk3rqh戦国期ファンは、一度読むことをお薦めします。
鉄砲や農繁期の不利とか調査もせずに武田家を貶めていたデータが専門家の調査によってひっくり返ります。
武田信玄・上杉謙信が信長ともし戦わば・・が愚問と言い切る事ができる一書。
※ 信長が信玄・謙信に直接的な戦争で勝てることはありえない
※ 武田信玄の限界は孫子の体現者であったこと(孫子思想の限界)
0258人間七七四年
2010/10/09(土) 13:54:53ID:ChmKwppA信玄は中世の枠を抜け出す事が出来なかった
近代兵器を用い常識の範囲を超えた信長の勝ち
0259人間七七四年
2010/10/09(土) 14:18:30ID:G4aVMnlQ0261人間七七四年
2010/10/09(土) 23:37:17ID:75y1kZ6c古くはない。
今でも十分応用できる。
そもそも孫子は小さい国が決して負けないためにできた戦術書である。
つまり、戦わずにして勝つのが基本であるから、事前準備に時間を要し領土拡大には時間がかかる。
そして信玄をバカにした信長は結局、部下をきちんと掌握できずに謀反に合って死んでいる。
そして家康が学んだのは信長ではなく信玄(孫子)だった。
近代兵器というのは鉄砲の事かな?
あれは信長の兵が弱かったから仕方なく弱兵でも使える火器を増やし、戦争の決定をきめる突撃等を諦めた結果。
実際に大阪の陣で6割近い鉄砲を用意した家康が真田に押し捲られて家康さえも討ち取られたという説もあるほど。
検証すると鉄砲なんて大したもんじゃないよ。
戦国期を通じて長篠の戦でしか有効だった試しがない。それも嘘っぱちだと最近は言われてるけどね。
0262人間七七四年
2010/10/09(土) 23:40:28ID:75y1kZ6c野戦では鉄砲なんかより石部隊を使用していた。
鉄砲なんか狙撃にはむかないし、相手を怯ませて騎馬・歩兵で突撃する事位だったので、石で十分だったんだよ。
鉄砲は高いし、それなら同じくらい有効な石部隊を編成し、他に金使ったほうが全然良い。
0263人間七七四年
2010/10/10(日) 00:09:56ID:xf09spTC信長の凄いとこは家臣(柴田・羽柴)に沢山の兵を預け全国を統一したとこ
信玄は結局豪族の集まりじゃん、戦に勝てば自分の土地が潤うって古い体質から抜け出せなかた
0265人間七七四年
2010/10/10(日) 00:17:11ID:xf09spTC0269人間七七四年
2010/10/10(日) 01:07:07ID:xf09spTC中世の壁を突破できなかった「武田信玄」
中世の壁を打ち破った天才「織田信長」
0270人間七七四年
2010/10/10(日) 03:55:54ID:6Lhv0U9X要は保守的であったってだけで謙信北条織田徳川に囲まれてる中で
謙信以外は正面衝突出来ない軍団を築いたのはやっぱ凄いわ
保守的なのも当時の信長以外は皆そうなんだし
0272人間七七四年
2010/10/10(日) 04:30:25ID:6IQUuuEv武田家は騎馬率10%ほどで以外にも鉄砲の割合が高いことがわかっている
つまり他の大名とたいして変わらないということ
0273人間七七四年
2010/10/10(日) 04:36:01ID:xf09spTC0274人間七七四年
2010/10/10(日) 11:21:17ID:xf09spTC0275人間七七四年
2010/10/10(日) 11:48:57ID:RtZpTNRQ0276人間七七四年
2010/10/10(日) 13:20:12ID:gnmv0ikP武田軍が群を抜いて強かったのは事実。
それは甲州という土地や農民兵だったこと。
また、武田信玄がコミュニティを強固にする政策をとったこと。
等、色々な工夫がある。
そして、最も重要なのは戦う前に用意周到に工作(孫子)を行った事。
戦わずして勝つ → 戦うときには勝敗は決しているように準備をする
例 同盟者を離反 家来を裏切らせる 等等様々な工作を行う
弊害 準備に時間を要するため、信長のような急拡大ができない(孫子の限界)
0277人間七七四年
2010/10/10(日) 13:29:31ID:gnmv0ikP・土地から離れた外人部隊
・当時から甲州兵1人で近畿・東海兵4人分と言われている
・弱いから弱兵でもそれなりに威力を発揮できる非経済な鉄砲を集めた
0278人間七七四年
2010/10/10(日) 13:32:10ID:gnmv0ikP君主論は早急に統一するための哲学で、孫子は小さい国が負けないための哲学
孫子の体現者である武田信玄は死ぬ時まで孫子であり、上洛する時でさえ孫子(侵攻速度が遅い)であり、孫子の限界すら具現してしまった。
上洛で侵攻初めて2ヶ月経っても40キロ程度しか進んでいない遅さには足利義昭も朝倉もさぞや辟易したと思われる。
また、上杉謙信にコテンパンにやられてからは謙信が出てくると徹底的に逃げ、その結果、古今東西世界最高指揮官と自衛隊戦争研究者も認める謙信ですら信玄を討つ事はできなかった。
信玄の性格は信虎の轍を踏まないという生い立ちからも来ているのだろうと思う。
逆に信長は哲学的には君主論の体現者であり、侵攻速度は速いがコミュニティを作ることが出来ず、その結果、兵も弱いし求心力もつくれなかったので反乱が多く、最後は謀反で殺されてしまった。
信長は孫子の体現者である信玄を笑い、信玄はマキャベリスト信長を批判したが、結局はどちらも最後まで自らの哲学の限界を体現してしまった。
0279人間七七四年
2010/10/10(日) 13:42:35ID:gnmv0ikPこのように言われるが、その根拠をきちんと調査しているとはいない。
例えば武田信玄の軍は農民兵が多いが、農繁期に長期の戦争を出来る体制だったし、行ったこともある。
実際に、農繁期農閑期で戦争をしていたのではなく、孫子的な準備・工作が完了した時が戦争開始の時だった。
○ 信玄は孫子の体現者 石橋叩き、準備に時間がかかるから遅い 戦うときには凄く強い
信玄が天下統一するのは、あと100年寿命を延ばさないと無理
信長はマキャベリスト 拡大速度は速いが多くの問題が発生
信長も信玄も相手の短所を批判したが、両者を見た家康が選択したのは信長(君主論)ではなく信玄(孫子)だった。
また、織田信長が信玄や謙信と戦ったら云々という疑問は愚問である。
世界の戦史を研究している人によれば、「信長は信玄・謙信には勝てない。」との事である。
0280人間七七四年
2010/10/10(日) 15:11:16ID:4WlncJiv冷戦脳が作り出した妄言たる
西洋史観を参考に日本史に照らして考察するバカげた論は止めろ。
西洋史観に無理やり当てはめて信長マンセーする愚か者はコーエー武将ファイル厨にしか見えない。
0282人間七七四年
2010/10/10(日) 16:04:00ID:nG43dE4r信長公がやった政策はぜんぶ今川義元がやってたこと 鉄砲も義元のマネ
信長公は天才というより反対派をねじ伏せて大きな改革を断行した剛腕
0283人間七七四年
2010/10/10(日) 16:09:29ID:xf09spTC信長に篭城戦に持ち込まれると(事実家康に命令していた)遠州、三河、だけでも相当な日数を要したことです。仮に1年として、
上の表に当てはめると約3万石が必要となり、これに汁等の味噌や塩等も同様に必要になります。
米に換算するのは難しいですが1年分で約2万石と仮定します。併せて5万石とします。
主食の米だけで3万石を重量に換算すると930トンとなり輸送だけでも相当なコストになります。
更に必要経費も加算されますから、実際はもっと遥かに出費があったものと考えられます。
次に武田家の版図です。最大で甲斐、信濃(北信を除く)、東美濃(一部)、駿河、遠州(一部)、
西上野から計算できる石高は120万〜160万石と推測されます。この内税収入は約半分です。
つまり西向き遠征として歳入の6〜8%が最低でも必要になります。
これに対して織田家は尾張、伊勢(除く長島)、美濃(大半)を本拠地としておりこの3カ国の石高だけで約170万石と推定されます。
これに一部を除く畿内5カ国、近江(浅井領を除く)、志摩、伊賀(一部)、飛騨を領して合計約300万石以上と推測されます。
つまり武田家は信長+家康の半分以下の資本で対抗することとなり、本願寺+足利の連帯が怪しい同盟に乗らざる得なかったというところでしょう。
更に東国は兵農分離が遅れていた為、戦の最中であれ田植え、稲刈りの季節は大半の“武士”は帰郷しました。
戦の時期も限定せざるえなかったのです。これに対して織田家は多くは職業軍人。何時でも動因できたわけで、この点も東国大名たちに先んじた結果です。
最後に決定打は織田家と武田家の経済政策の差です。金山の在る場所を目指して動いた武田家。物流経済の中心を開発(フロンティア)した織田家。
長期で判断すればどちらが優位か一目瞭然でしょう。
全国的観点からすれば川中島の狭い土地を巡って人生の大事な時期を10年に渡って費やしてしまった2人に天下人の資質が問われると思います。
0284人間七七四年
2010/10/10(日) 16:14:16ID:xf09spTC1560年の「桶狭間の戦い」の当時では信長は武田信玄に
とても太刀打ちできなかったでしょう。眼中にも入らなかったと思います。
しかし、1570〜1573年の「元亀の擾乱」以後、
周辺の反対勢力を抑えこんだ信長の躍進を考えれば、話は別です。
信玄病死後の1575年の「長篠の戦い」において
武田軍を一網打尽にしたように、信長が勝つでしょう。
たとえ信玄がもう少し長く生きていたとしても、その可能性が高いと思います。
当時、用いられた新戦法の鉄砲隊の効力は疑問ですが
やはり、徳川家康との連合軍という切り札を持っていたことがポイントです。
つまり、数的兵力を確保・動員できる「政治力」を身につけたため、
信玄に優っていたと結論できます。
0285人間七七四年
2010/10/10(日) 16:25:30ID:xf09spTC信長は兵や物資の移動がめんどくさい上、見るべき産業もない甲斐を相手にしていなかったのです。
0286人間七七四年
2010/10/10(日) 16:30:10ID:nG43dE4r0287人間七七四年
2010/10/10(日) 16:30:41ID:xf09spTC最終的には敗北しかなかったでしょう。
三方が原の戦い時ですら信長と信玄の
勢力格差は3倍以上ありました。
その後武田家の経済を支えた金山の収穫量が
落ちるのでその差はさらに拡大したでしょう。
(滅亡時には10倍以上ありました。)
上杉でも同じくことです。
ですから両者は逆立ちしても信長に勝つことはできません。
0288人間七七四年
2010/10/10(日) 16:33:00ID:xf09spTC後世の都合に過ぎません。
信玄は家康を「三方が原の戦い」で一蹴しているので
信玄が「最強」でなければ家康の戦歴に傷つきます。
さらに徳川家家臣には武田旧家臣が多くいたので
それらに拍車をかけることになりました。
事実例え信玄が長寿を保ったところで
最終的には信長の大兵力に蹂躙されたでしょう。
当時でさえ信長と信玄の格差は倍以上ありました。
どう足掻いても信玄が勝てる可能性は少ないです
0289人間七七四年
2010/10/10(日) 16:35:48ID:xf09spTC家康の「汚点」を注ぐために作られたに過ぎません。
当時でも織田家との実力差は2倍以上はありました。
(信玄は信長に単独で対抗できないから「信長包囲網」を利用したのです。)
0290人間七七四年
2010/10/10(日) 17:25:48ID:xf09spTC上杉茂憲が、上杉謙信伝説を捏造したのを知ってますか?手取川で信長に勝った逸話の捏造もこいつの仕業です。巧妙なウソがばれるのを恐れて幕府存命時代ではなく、明治以降に主張を始めた!!
補足 上杉家御年譜や歴代古案は、後世に創作された偽書です。
0291人間七七四年
2010/10/10(日) 17:33:31ID:RtZpTNRQ0293人間七七四年
2010/10/10(日) 19:09:29ID:vStUDrOUこれは神話。きちんと検証されておらず、小説家が言い出して誰も検証せずに一人歩きしている。
武田信玄は農繁期農閑期の区別なく出兵できる体制を整えていた。
>つまり武田家は信長+家康の半分以下の資本で対抗することとなり、
経済力は信長の半分。しかし、武田信玄の作った体制なら実際の兵動員は6万を超える事ができる。兵站のために抑える必要があるが。
そして甲州兵は心身共に精強。心の部分は信玄のコミュニティ政策等からつくりだされている。一人で近畿の兵4,5人分と言われていた。
>(信玄は信長に単独で対抗できないから「信長包囲網」を利用したのです。)
光栄のゲームと違い、信玄で最も怖いのは諜報や様々な工作。単独で勝てても勝てなくても包囲網は当然作る。
信玄を全く理解していない発言と思われる。
>武田軍が強いと言う話は後に浪人となった武田武士が士官するために作り上げた作り話です。
凄い発想ですね。ビックリ。
>信長は兵や物資の移動がめんどくさい上、見るべき産業もない甲斐を相手にしていなかったのです。
信玄の領土は守りやすく、兵は強い。実際問題信玄に挑んでも勝てないでしょう。
また、関東は強国ばかりで信長では勝てない。当然弱小ばかりの空白地帯に侵攻するのは当然。
※ID:xf09spTCさんは、データはともかく戦略や政治について調べてみるべき。
一例として信長(佐久間)の命で篭城している家康を野戦に引っ張り出した信玄の神業等は全く感じる事が出来ていない。
つまり、計略だとか戦略や生き様、生い立ち、求心力等は全く考慮されていない。
それだけデータを集める事ができるのなら、兵法について学んでから戦史を調べるともっと面白くなりますよ。
つまり、野球の投手をID:xf09spTCさんは「玉のスピード、球種」でしか見ていない。
駆け引きとかまで観る目を養いましょう。
0294人間七七四年
2010/10/10(日) 19:14:26ID:vStUDrOUしかし、謙信は10手先まで読める神才
信長が勝てる要素はない。
ただ、信玄は孫子の体現者であり拡大速度が遅いので、始皇帝型の統一を目指すとなると100年近くかかるでしょうね。
また、信玄軍と信長軍は、大東亜戦争時の日本軍(信玄)と中国軍(信長)みたいなものです。
なぜ明治政府が農民を大切に保護したか等、大切な視点が抜けている。
ちょっと※ID:xf09spTCさんは視野がせまい気がします。
0295人間七七四年
2010/10/10(日) 19:16:16ID:xf09spTC(1)戦闘指揮
これは、無条件に信玄。若い頃、失敗したこともありますが、戦術的な能力はやはり山国で戦闘を数こなすと上昇するようです。まだ若かったとはいえ、
平地戰の得意な家康とあの三河軍団を三方原で赤子の手をひねるように打ち負かしていますので、反論はないでしょう。
。
(2)戦略
これは、信長でしょう。早い段階で天下を視野にいれ、明確なビジョンをもって行動しています。信玄はどちらかといえば、行き当たりばったり的なところが見られます。
特に、信長はそのイメージとは反して、我慢するときは徹底的に我慢します。その反動で我慢しなくてよくなると魔王のようにやりたい放題になりますが^^
ただ、少し減点なのは、えらい緻密なときとえらく認識の甘いときの落差があることですね。越前攻めなんかが典型でしょう。
(3)政治業績
これも信長ですね。信玄も信玄堤や棒道、鉱山開発など良き領主であるのは間違いがありませんが、信長は楽市楽座、地名の変更、兵農分離、計画的城下町建設、
朝廷の政治利用等あげればきりがなく、現代に影響をおよぼすものさえあります。特に、私が評価するのは、宗教勢力の政治からの駆逐は現代人が感謝してもいいように思います。
(4)外交
これは、いい勝負でしょうか。両者、さすがに食えません
ただ、信長は武力征伐一辺倒のような印象を受けますが、意外に調略も積極的です。政略婚姻はじめ、えさで寝返りさせるのを主に、勝てる段取りをして最後に力を使うという感じで、外交力は高いと思います。
総合では、やはり信長ですかね。
0296人間七七四年
2010/10/10(日) 19:19:09ID:xf09spTC桶狭間の合戦では、谷間に陣を置いて山の上から攻撃されたというのは本当ではないようです。近年は奇襲効果をあまり大きく評価しない考えが主流となってきています。
桶狭間山と言う山の上に今川本陣5000名が陣を構えている状態で、雨の中を2000名が突撃して突破したというのが本当らしく、今川義元も決して油断していたわけではなかったようです。
大阪の天王寺砦の戦いでも、兵力不足の中、援軍を待てなかった信長は、直轄部隊を率いて一向一揆を蹴散らしています。
織田軍は金で掻き集めた人間を諸将に率いさせていましたが、自分の率いる直轄部隊には子飼いの忠誠心のあるものや、戦いで目覚ましい働きをしたものを集めていました。
姉川の戦いでも、浅井勢に突き抜かれたのは、金でかき集めた部隊で、浅井勢を疲れさせれば目的は達したと言え、最後の二段は、浅井勢と同等以上の戦闘力を持っていたはずです。
信玄が最晩年の三方ゲ原の戦いの頃は、銃の数・経済力から考えて、武田信玄VS織田信長では、武田勢に勝ち目はなかったでしょう。
後の江戸幕府の成立とその長い統治によって、家康に都合の悪い情報の多くが消え失せてしまったことを考えると、武田信玄は徳川家康を取り込んで、
織田信長VS武田信玄+徳川家康という図式を狙って、謀略・調略を行っていたと思います。(資料としては聞きませんが。)
常識的に考えても、織田信長+徳川家康VS武田信玄では、勝負にならないが、織田信長VS武田信玄+徳川家康ならば、勝負になりますからね。
0297人間七七四年
2010/10/10(日) 19:21:50ID:RtZpTNRQ0298人間七七四年
2010/10/10(日) 19:23:45ID:xf09spTC私の解釈では・・・
個人戦や名乗りあっての旧来の戦闘<野戦や攻城戦>では武田信玄なり騎馬軍団が勝つと思うが、
時代の進展や現実の戦いでは→織田信長の天下布武の旗印の下に結集・増大した信長・家康とその家臣団は小さな戦闘&戦場の局地戦に仮に破れても、
農民兵の農繁期の徴発・出稼ぎ的な武田軍は大規模&長期戦では兵力・兵站が維持出来ず、ジリ貧の様相が強くなり、他方、織田軍には時間を味方に、
必要と有れば外国勢力の助勢も得て、局地で負けても大局的に、一進一退の末、結果的には信長の勝利に終わると思います。
0300人間七七四年
2010/10/10(日) 19:26:20ID:xf09spTC信長は傭兵による専用の軍隊を持ち、最新兵器である鉄砲を活用しました。
長篠の戦いは、信玄がもし存命であっても、同じ結果になったと思います。
0301人間七七四年
2010/10/10(日) 19:27:49ID:xf09spTC兵站に関する認識が無いため、食料は無償現地調達(略奪)で長期間にわたる戦線の展開などできる状態ではない
要するに、戦略的な構想が無いから、局地戦では勝利できても、それが体力を消耗する結果にしかならない(恩賞を与える原資が確保できない)
真田幸村と同じです、局地戦で戦果を挙げてもそれを活用する戦略が伴わないから、あだ花に終わるだけです
信玄は信長負けなかったかも知れませんが、絶対に勝てません
ある時期を過ぎればたいした脅威にはなりませんから、相手にしなければ良いだけです
0302人間七七四年
2010/10/10(日) 19:31:25ID:RtZpTNRQ天地人の脚本家と同程度のレベルと推測される
0304人間七七四年
2010/10/10(日) 19:38:12ID:RtZpTNRQ口調も書き込み方も同じな癖に必死に否定するあたりかなりのマヌケと思われます
0305人間七七四年
2010/10/10(日) 19:40:50ID:xf09spTCソース
桶狭間は言うまでもなく、若年の信長は鬼気迫っていた…と、思わず唸ってしまいます。
◆村木砦の戦い:小河(緒川)水野氏居城の近くに今川勢が村木に砦を構え、小河を封鎖してしまいました。那古屋の信長は清洲からの襲撃を懸念し、斉藤道三に援軍を頼み、安藤伊賀を派遣してもらいました。
千の安藤軍が那古屋に到着、安藤軍に那古屋近くに陣を敷いてもらい、信長は林ら重臣の異議を退け翌日出陣します。出陣の翌日、大風が吹き荒れ、水主らが反対する中、無理矢理渡海し、
翌日には水野氏と面会を果たします。出陣四日目、遂に村木の砦を攻め込みます。信長は最も守備の堅い南側を受け持ち、自ら鉄炮を放ち、小姓衆に怪我や死人が数多く出てしまうほど攻め込みます。
約八時間の激戦を経て砦を落去させました。二日後に那古屋に帰陣し、その翌日に安藤伊賀に美濃へ帰ってもらいました。この様子を聞いた斉藤道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と言いました。(『信長公記』より)
◆稲生の戦い:弟織田信勝(信行で流布。稲生の戦い当時は織田弾正忠達成と名乗っていた)謀反のときの戦いです。七百の信長に対して、東に千の柴田勝家、南に七百の林美作が陣を敷いていました。
信長はまず東の勝家に挑み、佐々孫介ら屈強のものたちが討ち取られ、次第に劣勢になっていたところ、味方同士が敵将の首を奪い合っているのを見た信長は、怒り狂い大音声を上げました。この姿を見た柴田勢が恐れをなし、崩れていきました。
次いで信長は南に向かい、林美作の頸を自ら討ち取って、遂に勝利を得ました。(『信長公記』より)
若年の頃の信長の戦いで、この二つが特に印象的です。若かりし信長はキレまくっています。
0306人間七七四年
2010/10/10(日) 19:45:19ID:RtZpTNRQ大概自分の家のものは都合良く書くのが鉄則である
0307人間七七四年
2010/10/10(日) 19:47:56ID:vStUDrOUかつて大内や三好等、長期間大軍率いて上洛した人達の軍も農民兵だった。
当時の信玄軍についても勿論だが、当時の家について調べると農繁期は戦えないなんてのは神話だとわかる。
0309人間七七四年
2010/10/10(日) 19:57:25ID:RtZpTNRQ0310人間七七四年
2010/10/10(日) 19:57:40ID:vStUDrOU0311人間七七四年
2010/10/10(日) 19:58:12ID:xf09spTC「武田信玄と勝頼−文書にみる戦国大名の実像−」 岩波新書
鴨川達夫著
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0703/sin_k343.html
という本に答えがあります。
1) 永禄11年 (1568年) の信玄の駿河侵攻の前後に信玄が信長に宛てた書状で
「信長に見放されたら自分は滅亡してしまう」
と述べた書状がある。
2) 信長は、信玄の同盟を求める姿勢に応じて、信玄と同盟を結んだ。信長は、永禄11年7月29日付の第三者への書状で「信玄と盟約が成った」と述べている。
この後、信玄は駿河に侵攻し、北条氏との数度の戦いを経て駿河を領土化した。
3) 信玄と信長は、その後は元亀3年 (1572年) の冬に徳川家康の領国である遠江に大軍で攻め込み、同時に美濃に秋山信友の軍勢を侵攻させて岩村城などを攻め取るまでの間、
緊密な同盟関係を結んだ。
4) 信玄に関する本にたいてい書いてある
「元亀2年 武田信玄は徳川家康の領国に侵入して足助城、吉田城を攻撃」
というのは、従来の研究者が、武田勝頼が天正3年に長篠の合戦に先立って三河の足助城、吉田城を攻めたことを書いた書状を『元亀2年に書かれた書状』と誤認したことによるものであり、
史実ではない。信玄と信長の同盟関係は、永禄11年から元亀3年 (信玄が死の直前に徳川家康の領国である遠江に侵入し、二俣城を攻略、
三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を粉砕した時) まで継続していた。
《この本で明らかにされた「歴史の訂正」です》
5) (3)のように、信玄が信長に敵対するに至ったのは、信長が足利義昭の構築した「信長包囲網」に取り囲まれていた最も苦しい状況の時であった。
信長は、自分が一番苦しい時に同盟を破った信玄を深く恨んだ。
元亀3年11月20日付で、信長が上杉謙信に宛てた書状で
「信玄の行いは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の嘲笑を顧みないものだ。信玄に対する遺恨は幾重にも重なり尽きることがない。信玄とは二度と再び付き合わない」
と、激しい怒りをぶちまけている。
6) その3年後、長篠の戦いで信玄の息子の武田勝頼の軍に大勝したことを報じた書状 (宛先は本に書いていない) では、
信玄が元亀3年に「(駿河侵攻を同盟者として手助けした) 恩を忘れて勝手な真似をした」ことに言及した上で、
『今回、その鬱憤を晴らした』と述べている。なお、この手紙を書いた時点では、信長は勝頼が討ち死にしたと認識していたらしい。
7) 天正7年 (1579年) の末以降、武田勝頼は織田信長との和睦を模索して盛んに信長に使者を送った。これは、同年に勝頼が上杉景勝と同盟して北条氏政と断交し、
西の織田・徳川、東の北条に挟撃される形になったことによる。
しかし、信長は勝頼の打診を全て門前払いし、和睦どころか「降伏」も受け付けない姿勢を崩さなかった。
例えば、勝頼が常陸の佐竹義重 (信長と友好関係あり、勝頼の敵である北条氏と敵対関係にあり) を介して信長と交渉したケースで、
天正7年の年末に安土に到着した勝頼の使者を、天正8年になっても相手にせず、無視していたという。
8) 天正10年(1582年)の正月、武田家の有力武将で武田領国と織田領国の接点に位置する木曽義昌が信長に通じた時、信長は武田家への総攻撃に踏み切り、
3月には武田勝頼とその家族が天目山で討ち取られて武田家は滅亡した。
信長は、木曽義昌と、従来から徳川家康を介して信長に寝返る姿勢を伝えていた穴山信君以外は、武田家の一族・家臣の降伏を許さず、
討ち取った武田勝頼と嫡子の信勝の首は京に送って晒し首とした。
この極めて厳しい姿勢は、(5)で紹介した、元亀3年の上杉謙信への書状に書いたことの通りである。
上記の本 「武田信玄と勝頼」 は武田が滅亡した原因が多く書いてあると思いますので、ぜひお読み下さい。
0312人間七七四年
2010/10/10(日) 19:59:12ID:vStUDrOU見えるデータに縛られているのは感じますね。
0313人間七七四年
2010/10/10(日) 20:03:35ID:vStUDrOU表裏比興の者
海千山千です。
若い頃に孫子を外れた行動すると竹箆返しが起こったせいか、中年以降は完全に孫子に沿っています。
今川攻めに北条を巻き込もうとしたりする等、上杉謙信みたいな善い人間ではないですよ。
0314人間七七四年
2010/10/10(日) 20:06:36ID:xf09spTCまた今川領に侵攻する際に駿河は武田、遠江は徳川という大井川同盟を交わしますが、自分がさっさと駿河を手にしてしまうと遠江も欲しくなって攻め込み、
徳川は条約違反を理由に北条と同盟を結ぶに至っています。さらに上杉に対しても信濃守護職を条件に将軍・義輝の調停で和睦したが、守護職に任じられた直後に破っています。(要は守護職が欲しかっただけ)
そして信長に対しても同じです。信長は信玄に対し、常に下手に出ています。嫡男の正室に信玄の娘を迎えることまで決め、
家康と信玄の仲が悪くなっても「家康を叱りますから」とまで言っている。ですが、信玄は織田領へ侵攻します。
このように信玄は同盟や条約など約束を常に自分から破っています。その所為で信用を失った武田家は、次代の勝頼が苦労する破目になります。
もし信玄が信義を大切にする人物であれば、嫡流(義信の家系)が今の時代まで存続していた可能性があります。
逆に信長の場合、苛烈なイメージはあれど約束を自分から破っていません。信玄とは正反対の人物です。浅井の裏切りも信長はあくまでも将軍の代理として朝倉攻めを行っており
織田浅井の同盟条約違反を理由にするには無理がありますし、延暦寺へも事前勧告を行っており、それも中立になれというだけのまともなもの。
石山本願寺に対しても相手から攻められたから戦っただけであり、長島一揆も先に条約違反をしたのは一向一揆側です。
ちなみに信長は乱取り(略奪)や人身売買を禁止したり、街道を整備して関所を廃したりしています。歴史的事実だけを考えれば、
織田信長という人物は上杉謙信以上に信義を大切にし、民に優しい人物と言えます。(謙信や氏康も略奪行為は促進している)
0315人間七七四年
2010/10/10(日) 20:15:22ID:xf09spTC0316人間七七四年
2010/10/10(日) 20:32:27ID:RtZpTNRQおまけに同じ口調で同じ締め方までして自分はスレ主でないと主張する頭の悪さまで皆に知らしめたのである
おそらく実齢か精神年齢が小学生なのろうが他の住人は気づかないフリをしてくれている
0317人間七七四年
2010/10/10(日) 20:33:51ID:xf09spTCこのキチガイはNG推奨だなw
0318人間七七四年
2010/10/10(日) 20:35:56ID:RtZpTNRQここまで耐性が低いマヌケも珍しいものである
0320人間七七四年
2010/10/10(日) 21:54:38ID:vStUDrOU信長が安定した時はないでしょう。
それがマキャベリストの宿命なんですよ。
織田家の末路も悲惨なものでした。」
0322人間七七四年
2010/10/10(日) 23:02:39ID:vStUDrOU何言ってるんだかわからない。
信玄存命時は、その手腕でまとまっていたでしょう。
織田信長はマキャベリストなので、常に不安定。
信長存命時は勿論の事、子供は子飼いの部下に・・。
0323人間七七四年
2010/10/10(日) 23:27:23ID:xf09spTCしかし私が最近聞いた話では、信玄は結んだ同盟を何度も自分から破棄していたために周囲の国からの評判も悪く、勝頼の世代でも武田家の悪評は変わらないため上杉と同盟を組む時にそれを指摘されたというものがあります。
信玄が義元の死後になって三国同盟を破り、駿河に侵攻をしてきた所からして同盟破棄を繰り返したために武田家の評判が悪くなったというのもあり得ない話ではないと思うのです。このツケが勝頼に回ってきたとしてもおかしくありません。
0324人間七七四年
2010/10/10(日) 23:29:50ID:xf09spTC下記の方も仰っていますが、信玄の天下構想は大内義興タイプです。この時には細川管領家も没落していますので、信玄は管領か副将軍の座について幕政を牛耳り、天下に号令したことでしょう。
ただ何故、信玄の代で政権が終わるかというと...
戦国時代、ほぼ全ての武将(大名)が本貫(本拠地:武田の場合は甲斐)を大事にするからです。あの義興も11年間在京して政務を執りましたが、結局は本貫がピンチになって帰国していますし、
上杉謙信は関東管領に就いても関東へ拠点を移すことはありませんでした。つまり大名は版図を拡大しても本貫から動かない...というのが当時の常識でした。
故に信玄が上洛して天下を獲った場合、甲斐には勝頼が残ることになるはずです。そして信玄が死ねば上方で政局は必ず混乱します。何せ足利義昭と信玄が歩調を合わせられるわけがなく、
信長包囲網に代わって信玄包囲網が形成されるでしょうからね。そうなると当時の常識から考えて、勝頼は京の確保より甲斐の安全を優先します。つまり京は捨てられるのです。これにより武田の天下は失われます。
尚、織田信長の場合は意図も簡単に本拠地を他国へ移していますし、包囲網時は岐阜より京を保つことを優先させていますので、こういう二人の考え方の違いが天下を獲れるか獲れないかの差に繋がったと思います。
ちなみに信玄が裏切りを繰り返したことにより勝頼が苦労したのは本当です。信玄は上杉を裏切り、北条・今川を裏切り、徳川と織田を裏切っています。これにより一時期は大勢力全てを敵に回しています。
勝頼が戦ばかりしていたと言われるのは、こういう事情があったからに他ならず、勝頼が無能だったわけではありません。信玄の所為です。しかも信玄の晩年から甲州金山の産出量が減り始めており、勝頼の悩みは尽きなかったことでしょう。
0325人間七七四年
2010/10/10(日) 23:31:08ID:xf09spTC結果は20年ほどで使い切ってしまいました。信長のようにいわゆる経済政策をほとんどしていない信玄が、天下を維持できるとは思えません。
結論から言えば、信玄では天下を取れないし、天下を維持することもできない。というのが、私の感想です
0326人間七七四年
2010/10/10(日) 23:52:33ID:zGYdEeeU0327人間七七四年
2010/10/10(日) 23:54:04ID:RtZpTNRQ0329人間七七四年
2010/10/11(月) 00:04:18ID:ZBF0CUq9ここへどうぞ
如何に信玄が上洛無理かを語っている
0331人間七七四年
2010/10/11(月) 00:11:06ID:s6tyt/1k信玄の戦い方では全国統一するのは一代限りでは無理。
これは孫子の体現者の宿命です。
0333人間七七四年
2010/10/11(月) 00:15:25ID:s6tyt/1kただ、信玄がもう少し長生きすれば、信長は滅亡していたのは間違いありません。
信玄による詰め将棋は成っていました
0334人間七七四年
2010/10/11(月) 00:18:56ID:ueOygVaP無理じゃないでしょうか。 他の能力で勝っていても、信玄には信長ほどの革新性はなかったでしょうから。 歴史は信玄の能力よりも信長の革新性を必要としていたんだと思います。
もしかしたら信玄自身もその事を無意識にわかっていたのかもしれません。
0335人間七七四年
2010/10/11(月) 00:19:04ID:s6tyt/1kあの時点で信玄は死ぬつもりじゃなかったですから。
歴史上、実に多くの人が同じ失敗をしています。
歴史を知っている我々が言って良い問題ではありませんね。
0336人間七七四年
2010/10/11(月) 00:20:25ID:ZBF0CUq9信玄が徳川家を滅ぼしていたならまだ説得力はあるけど滅ぼせてないじゃん
三河尾張の城一つ一つ潰していくなんて時間かかりすぎて浅井朝倉が潰れる
信長がデカくなりすぎてるから包囲網の連中が一致団結して且つ信玄が同数以上の織田軍を撃破しない限り無理
そして信玄は大規模な合戦だと互角以下の戦歴しかない
信玄が天下統一とか80まで生きてても無理
0337人間七七四年
2010/10/11(月) 00:21:21ID:ueOygVaP武田信玄が病死しなくても織田信長に負けていたでしょう。
まず徳川家康は掛川・浜松・吉田・岡崎といった主要な城を維持しているため滅ぼすなり寝返らすなどして徳川領国を解体する必要がありそれから織田の領国を攻めねばなりません。
しかも三方が原の戦いでわずかな援軍しか送らなかったように織田信長は岐阜で美濃・尾張の軍勢を動員できる情勢にあります。
尾張にも清洲以下織田の城はあります。
それらを攻略しながら信長との合戦までもっていけるかといった問題があります。
上杉謙信の動向もありますし武田軍が長期の軍事行動に耐えられるかといった問題もあります。
上洛に成功したら結局、足利将軍家は傀儡のままで適切な時期に武田家が取って代り将軍家になっていたことでしょう。
確かに細川家や大内家など将軍を支え執政を行なうことで満足した大名もいましたが戦国時代も末期になるとそのような中途半端な体制は無くなり領国を完全に統治する戦国大名の権力構造が進展します。
織田信長のように征服した土地を完全に支配下に置かないかぎり勝ち残れないのです。
0338人間七七四年
2010/10/11(月) 00:22:02ID:s6tyt/1k信玄の死により信長は命拾いしたのです。
0339人間七七四年
2010/10/11(月) 00:23:04ID:ueOygVaP武田軍は農繁期までには、帰国しなければ
ならない軍隊でした。
季節限定の軍隊が信長に勝てるわけがありませんし
奇跡的に勝てたとしても
兵站もなにもなく、京に常駐できません。
(武田軍は基本的に略奪する軍隊です。)
0340人間七七四年
2010/10/11(月) 00:25:00ID:ueOygVaP私は「上洛否定説」ではなくて、「上洛不可能説」です。
その根拠は、「外線作戦の困難さ」です。
武田や朝倉などの包囲網側は、典型的な外線作戦です。その成否は、外線側の各軍の連携に依ることが大です。しかし、この時の外線側は、
1、武田信玄と朝倉や浅井に、信頼関係どころか面識すら無い。
2、総司令部が存在しない。
3、武田にも浅井・朝倉にも、織田信長以外の敵がいる。
4、武田と浅井・朝倉の連絡手段が乏しい。
この状況で、武田信玄は、「浅井・朝倉が織田軍の大軍を引きつけてくれている。決して、勝手に和睦したり戦線離脱したりしない。例え、一向一揆に府中を攻撃されても朝倉義景は帰らない。」と信じ込まねば、外線作戦は成功しません。
あなたなら、信じ込めますか?私が信玄なら、そこまで朝倉を信頼はしません。
もし、単独で信玄が信長と対戦するようなハメに陥れば、スケールメリットで、織田信長の勝利の確率が高いでしょう。
私が信玄なら、三方原の戦勝を宣伝材料にして、徳川方の国人領主の寝返りを促します。信長が武田勝頼や朝倉や斉藤を滅ぼした時のように。そしてこのような手段の方が、戦国時代では正攻法ですし。
なお、この寝返り工作が事前に成功していないことから考えて、この時の武田信玄は、準備が不十分だったことが伺えます。この寝返り工作の準備不十分なまま、浜松城を強襲したり、尾張への侵攻を企てるのは、ゲーム的、小説的であります。
0341人間七七四年
2010/10/11(月) 00:28:14ID:ZBF0CUq9まあ信玄が上洛とか無理なのは同意
最も上洛する気があったのかは知らんがね
0342人間七七四年
2010/10/11(月) 00:31:21ID:ueOygVaP戦争とは最終的には経済力のある者が勝ちます。
日本の中枢部を押さえている信長と
甲斐や信濃のような山国しか持っていない信玄とでは
メガバンクと地方銀行が競争するようなものです。
局地戦では信玄が勝つこともあるでしょうが
最終的には負けます。
なぜなら武田軍は大半(90%以上)が農民を徴兵した者ですから
農繁期には戦えません。
川中島の戦いも全て農閑期に行われています。
さらに最後の上洛戦でも10月に出陣し
三方が原の戦いは12月に行われています。
あのまま武田軍が進軍していても4月前には
帰国せざるをえません。
でないと国内経済を支える農作物に大打撃を受けるからです。
それに比べて織田軍は豊富な軍資金で雇われた傭兵であるため
1年中戦うことが出来ます。
そのため農繁期に攻撃し続ければいずれジリ貧状態に陥ったでしょう。
これは他の大名にもいえたことです。
だからこそ信長は天下を制することが出来ました。
0343人間七七四年
2010/10/11(月) 00:38:24ID:ZBF0CUq9傭兵なんてのは織田軍の1〜2割程度 織田とて農兵で構成されてる
いくら何でも特徴を過剰に取りすぎ
0344人間七七四年
2010/10/11(月) 00:44:10ID:ueOygVaP無理です。
まず信玄最後の遠征を「天下取りに動いた」という認識から違います。
本拠地を甲斐から動かさないまま、家康を破り、信長を破って京に旗を押し立てるような事が可能と思われますか?
長い長い兵站を織田徳川の残党、一揆などに襲われたら信玄は京に孤立、自滅するしかありません。
ここからIFの話になりますが。
家康を完全に滅ぼした信玄は、三河に有能な部下を配置して堅めさせ一旦甲斐に帰国するはずです。
それで、本拠地を駿河に移します。
(国人衆の連合体である甲斐武田軍にそれは大変難しい問題ですが)
で、早くて翌年大軍を率いて今度は本当に京を目指します。
ここでおそらく尾張三河の国境で信長と対決をする事になるでしょう。
しかし信長には勝てないと思います。
信玄は戦術に優れていますが戦略では信長の方が一枚上です。
お互いが数万の規模でぶつかり合う大会戦では戦術よりも戦略が重要です。
信長が北条を動かすという事も考えられますし、信長の戦い方は「決して大負けしない」というものですから、あの手この手で信玄を翻弄するはずです。
0345人間七七四年
2010/10/11(月) 00:58:14ID:ZBF0CUq9安価と内容ぐらいあわせろよ精神障害者
残党ってなんだよw信玄は帰依してんのに何で一揆に襲われるんだよwww
信玄は統治してた土地で残党に襲われた経歴なんか一回もないのによく言えるな
信玄が信長と大軍でわざわざ争う意味がわからん 引きつけられるなら背後で越中のように扇動すりゃいいだろ
信玄が上洛出来ないのは同意だがせめてもう少しまともな事言ってくれよ いくら何でも無茶苦茶すぎ
0346人間七七四年
2010/10/11(月) 01:01:00ID:ueOygVaP勝頼が滅んだために、信玄の寿命が延びたら、倒せたは、ただの妄想です。
家康は、寿命が尽きる前に、幕府開設、将軍を2代目に譲位、豊臣の大坂を破却できています。
武田信玄最後の抵抗でも、家康すら倒せなかった、ただそれだけ。。。。。
信長と決戦にすらなっていないので、ダメでしょう。本願寺や朝倉のほうが、よっぽど脅威でしょう。
0347人間七七四年
2010/10/11(月) 01:03:41ID:ueOygVaP外線作戦はゲームなら簡単です。なぜなら、ゲームなら、駒どうしが疑い合う事などなく、連携が確実に行えますから。
しかし、実戦では、そんな簡単にはいきません。人間は、疑うし、裏切るし。そのために、大切なのは、連絡と信頼。
武田信玄が実際に外線作戦を行う場合、連絡も満足にできない、合った事も無い、本願寺の指導部や、朝倉義景や、浅井長政を信頼せねば、成功しません。
武田信玄だけでは、全織田軍を相手に戦えません。だから、本願寺の指導部や、朝倉義景や、浅井長政が、織田信長と「単独講和」などせずに、織田軍の多くを引きつけ続けてくれなければ、武田軍は進撃できないのです。
「本願寺も朝倉殿も浅井殿も、決して裏切らずに、織田の大軍を引きつけ続けてくれている。織田軍が引けば追いかけてくれる。」
と、武田信玄が堅く信じられ続けられるか?
結局は武田は滅びる運命だったのです
0348人間七七四年
2010/10/11(月) 01:07:00ID:ueOygVaP兵農分離が完成、常時戦うことの出来る織田軍と農民を徴発しているため農閑期にしか戦えない武田軍ではシステムが違うのです。このシステムの違いが信長が天下統一に向けて驀進できた理由です。
謙信も信玄も良いときに死んだと思います。
長生きしていたら勝頼と同じ運命をだどったでしょう。
0349人間七七四年
2010/10/11(月) 01:10:42ID:ueOygVaP0350人間七七四年
2010/10/11(月) 01:46:42ID:ueOygVaP0352人間七七四年
2010/10/11(月) 02:59:55ID:ueOygVaP結局信玄の天下とりは大内義隆と同程度。
あるいは、上杉謙信の1553年の上洛程度。
日本を変える事は出来ない
父信虎を追放した晴信が採用した体制は、甲斐の権力者の連合体制であった。
これ以後、甲斐国では、勝頼が1582年に信長・家康に滅ぼされる直前まで、甲府盆地(国中)を支配する武田氏、
富士川流域(河内)を支配する穴山氏、都留郡(郡内)を支配する小山田氏三者による連合支配が続くことになる。「日本歴史館」(小学館)
以上の、支配方法をみても、武田信玄が天下をとっても群雄割拠が解消されるわけでもなさそうで、戦がなくなるという時代の夜明けを感じることができません。
0353人間七七四年
2010/10/11(月) 03:01:55ID:ueOygVaPもし京を制したとしても、すぐに甲斐に戻ってしまうでしょう。
もともと信長が天下を制したのは兵農分離と政教分離を成し遂げた背景がありますが、信玄はそれができていないために川中島で何回も戦う羽目になるし、
京都に出ても農繁期には兵隊を戻さざるを得ませんから。
信玄はあくまでも天皇を中心とした旧体制派の名門ですから、日本を造るのではなく、平安時代に戻すくらいしかできないでしょうね。
0354人間七七四年
2010/10/11(月) 03:03:21ID:ueOygVaP甲府にいてさえ駄目なのに、中央へ出るのは無理です。
京に進出しても、見物が終われば帰郷していたことは十分考えられます。
0355人間七七四年
2010/10/11(月) 03:05:53ID:ueOygVaP彼の言動からはそれを窺い知ることはできません。
それに諏訪氏をだまし討ちで滅ぼすようなことをしては天下を取ることはできませんよ。
ですから信州の半分以上を領有できただけで死ぬことになるのです。
本来なら駿河・遠江は武田が取れた筈です。それができなかったのはやはり恐れられはしたけれども人望はなかったのでしょう。
変に中央政界に出ると、一年中戦争してしなければならず、そんな戦争ができる軍制をしいていないので、崩壊が早まっただけのような気がします。
0356人間七七四年
2010/10/11(月) 03:09:48ID:RuZ8f7Q7それ以上のことは一般人はほとんど知らないだろう。
しかし信玄の生涯を総括すると、結局「謙信と戦った」という事績しか残らないんだよな。
辛うじて次点の功績に「家康に勝った」というのが来るだけ。
後は信濃の豪族を倒したっていうのはマニアック過ぎるし、今川滅ぼしたといってもすでに弱ってた氏真だし、
それ以外にこれぞ信玄の功績!というのは、ないんだよなあ。
0357人間七七四年
2010/10/11(月) 03:10:59ID:ueOygVaP天皇から官位をもらって、うまく丸め込まれるのでしょうね。
0359人間七七四年
2010/10/11(月) 03:38:35ID:ueOygVaP武田信玄は立派なことをしたわけでもないし、天下をとったわけでもないし、
単なる戦国時代に生きた地方の一大名です。
地方の一大名という立場をこえて、必要以上に過大評価されすぎてるような気がします
0360人間七七四年
2010/10/11(月) 06:38:44ID:ueOygVaP0361人間七七四年
2010/10/11(月) 06:46:51ID:ueOygVaPまた武田信玄は徳川家康が生涯唯一の敗北をきしたことで、家康よりも戦上手と定説化したのでしょう。
0362人間七七四年
2010/10/11(月) 07:34:56ID:ueOygVaP簡単に言えば、敵からの略奪ですね。
戦国初期においては食料、物資、金銭、労働力の不足から、「他国から奪ってくる」というのが半ば当然
のように「美徳」とされても居ました(甲陽軍鑑にも、各地で略奪しまくって国を豊かにした武田信玄を大変な名君と崇めている)
自国の民衆の飢えを満たすために他国から奪うのは(当時の常識では)当たり前のことで
あり、他国の略奪から自国の民を守るのも当たり前のことだったのです
戦国時代、他家の領地に踏み入って略奪の限りを尽くす...というのは常識です。人身売買まで行いました。しかし、信長は厳しい軍規により、それらを取り締まっています。
有名なのは上洛した際、一文でも盗んだ(略奪)者は処罰されたことです。京の民衆は、乱暴狼藉をしない織田軍を歓迎したと云われています。また統治政策も優れており、
織田領内の人間は他国に比べて裕福な生活をしていたようです。
また兵農分離も進められており、戦に駆り出される農民も減少していました。さらに信長は自国内で戦を殆どしないので、領地が荒れることもなく、領民は信長を慕ったそうです。
弱者である領民を味方に付けたことにより、信長は領地を増やすことが出来たのだと思います。
0363人間七七四年
2010/10/11(月) 08:35:46ID:ueOygVaPこれじゃあ民衆がついて来ないのは当たり前でしょw
0364人間七七四年
2010/10/11(月) 08:41:59ID:4J1tL4nuはイコールではありません。
また、信玄が人望ないとかいっている人は、もう少し調査してください。完全に間違ってます。
信長は実際に詰んでいました。
信長は防御を考えず、力の空白地帯にどんどん侵攻したため、ひじょうに守りにくい領土になっていた。
また、四面楚歌状態+国内のあちこちで大反乱。
一向宗や六角、三好もゲリラ戦を展開。
信玄を抜いても総勢10万以上を相手にしていました。
信長が詰んでいないと言うほうが通常に考えて難しいでしょう。
0365人間七七四年
2010/10/11(月) 08:48:00ID:ueOygVaP美濃尾張で信長と決戦し例え勝利したとしても長駆機動軍としての性質を持たない武田農耕兵団ではいずれ本拠が経済破綻を起こしてしまいます。
勝ったら帰還、また出撃して帰還のピストン運動では近江平野制圧、京奪還は非常に難しいでしょう。
0366人間七七四年
2010/10/11(月) 08:49:13ID:ueOygVaPその間に織田信長が力をつけたのだから信玄がもう少し長生きしていても天下統一はできなかったと思います。
0367人間七七四年
2010/10/11(月) 08:49:54ID:ueOygVaP0369人間七七四年
2010/10/11(月) 09:01:22ID:4J1tL4nu信長の支配携帯が土地に密着できないのも一族・黒人領主の統合に失敗した結果です。
兵農分離は軍事力強化のためではなく、政治的支配の強化と都市経済発達の目的が強い。
火力重視も弱兵だったから精兵主義を取れなかった結果。
最後まで弱かったし、戦闘を左右する機動力や突撃力は信長軍には備わらなかった。
また、信玄や謙信のように人々を精神的にも支配することに成功しているのに対し、信長への家来の忠誠は低いから拠り所としての土地と切り離す手法になった。
信長が大政治家で革命家なのはそのとおりだが、どうも事実を無視しているというか・・。
兵農分離は軍事的にはマイナスという基本を忘れてませんか?
結局人望のない信長は反乱ばかり起こって安定した時がなかったし、その弱点により天下統一はできなかった。
そもそも「本能寺の変」など、家臣団や領国を掌握し領民の信服を受けていた武田信玄・上杉謙信のもとでは起こりようがない。
信長の死後、天下を取った家康は信長をあまり参考にせず、信玄の模倣に努めたこともある。
信玄が死亡したときに、信長は詰んでいた
これは実際に大政治家で革命家だった信長の価値を落とす物ではありませんよ。
0370人間七七四年
2010/10/11(月) 09:03:55ID:ueOygVaP0371人間七七四年
2010/10/11(月) 09:04:00ID:4J1tL4nuこれは兵法を全く顧慮せず真正面からヨーイドンで戦う発想ですよ。
兵農分離だの農繁期だの農民兵は不便だのって神話はもう勘弁してください。
0372人間七七四年
2010/10/11(月) 09:08:23ID:ueOygVaP確かに徳川家はいわゆる武田家の「甲州流軍学」をもとに幕府運営をしていたと言われますが…はたして「信玄の模倣に努めたん」でしょうか?
三方ヶ原での敗戦を教訓にしたから?確かに神君おしかみの像を書かせて気を引き締めたそうですが、“学ぶ”というレベルではなく武将なら敗戦の分析は当然するでしょう。
「よく耐え」たのでしょうか?一般的に家康は幼少時人質の期間が長く、辛抱強くなったとイメージされますけど、何かに耐えて大成したとは思えません。妻と嫡男を信長に殺された事を我慢した?
史料には信長に殺されたとは書かれていません。信頼性のない軍記に書かれているだけです。「努力し」たでしょうか?信長・秀吉とは違い、家康の場合、信長と秀吉のお陰で天下が転がりこんできたと言う方が的を射ている気がするんですか…。
0373人間七七四年
2010/10/11(月) 09:10:39ID:4J1tL4nuそれは正解
信長は死ぬ時を除いて運が良い
金ヶ崎撤退だとか、死んでも変ではない環境におかれた大失敗を何度かあるが、全て脱している。
あの時点で完全に詰んでいるのも信玄の死により脱した。
0374人間七七四年
2010/10/11(月) 09:13:21ID:ueOygVaP早い時期から織田信長は武田軍より強い戦力を持っていました。ただ、山岳地帯で戦うのを嫌っていたのと、武田軍が山から下りてくるはずがないと考えていて相手にしていなかったのです。それに甲斐のような田舎を手に入れるメリットもありませんんでしたから。
0375人間七七四年
2010/10/11(月) 09:16:02ID:ueOygVaP織田信長の弱点は兵糧及び兵員の基本的な補給源が美濃・尾張であるという事と、彼が据えた政権の中心となるべき足利義昭の居場所が京であり、この間に確固とした補給路が確立しきれていなかった事が挙げられます。
それゆえにその分段線を浅井朝倉が琵琶湖の西岸だったり東岸だったりで確保しようとし、実際二度三度と分断された辺りが包囲網最大の危機でありました。
しかしそこで決定的な破綻に陥らなかったのは、3つあります。
1つめは分断された西の領域への本願寺の攻勢がなかった事(逆に本願寺に攻勢をかけていた)
西は警戒線を張って対処し、押しこまれてはいなかった。
2つめは中央の楔役である朝倉の本拠地帰陣
最重要な役目である分断&織田主力引き付け作戦を放棄したに等しい。
3つめは武田信玄の動きが三方が原以降停滞した事にあります。
信玄は三河野田の地にて明らかに意図不明な長滞陣を続けており、これが全体の戦略性に大きく作用しています。
武田信玄が病魔に侵されていなければおそらく西三河にまで武田に侵攻され、信長は武田家との決戦に対し主力を東に集めねばならなかったでしょう。
ただし信長は分断が緩くなったことで武田との決戦に十分な力を結集でき、武田信玄に敗北するとは思えませんけどね。
包囲網の危機を脱したのは朝倉義景の帰陣が最も大きな役割を担っていたでしょう。
そして信玄の病死と武田軍の撤退によって東の圧力が減少することでそれが決定的となった、という事だと思われます。
0376人間七七四年
2010/10/11(月) 09:18:27ID:ueOygVaP元々が一番厄介な敵を倒すために他勢力を利用しようという腹ですから誰しも貧乏くじを引くのは嫌なわけです。
信長はそこを衝いて離間し各個に対処しています。
その為に朝廷でも将軍でも、あるいは直接利害関係のない勢力でも、利用できるものはあらゆるものを利用しています。
その観点では京(朝廷と将軍)を押さえていたのも大きな理由のひとつです。
また、信長は支配地域の拡大にともない本拠地を戦略上最適と思われる場所に次々に移しています。
安土も京への交通の便、東西南北の各戦線への交通の便を考えてのことで、
つまり戦略的な機動力を重視して選定されています。
この機動力も一因と思います。
0377人間七七四年
2010/10/11(月) 09:20:12ID:ueOygVaP最も重要なことは「連絡手段」です。
当時は電話もFAXもEメールも無い時代ですから
連絡手段は「文書」しかありませんでした。
つまり信長が連絡網を絶ったことにより
各個撃破する体制が整えることができたからでしょう。
さらに単純な物量においても
織田氏は他氏の連合を上回るほどでした。
戦争において重要な物量で上回る以上は
最初から有利に戦うことができました。
0378人間七七四年
2010/10/11(月) 09:24:35ID:ueOygVaPあれは複数の進撃路により相手に揺さぶりをかけ、信長と主力決戦を行う目的だったと思っています。
家康の浜松城を放っておいたのもそのため。
最終的には清州、または岐阜城をターゲットにして後詰決戦を行うつもりだったのでは。
以前対北条の小田原攻めで複数進撃の外線作戦を使用した実績があり、これをより大規模に行うことで三増峠の合戦を再現する構想だった、なんてのは言い過ぎですかね。
でも遠山氏の岩村城を秋山信友率いる別働隊で攻め落としたのは、退却路確保のためもあったという気がします。
それはそれとして、そもそも上洛などできる計画も、能力も武田軍にはなかったと考えられます。
信玄は旧タイプの戦国武将。信長のような一足飛びの上洛作戦など想定の範疇外です。
また、上杉謙信のような権威に対する忠誠心などはなく、信長包囲網も、自分の野心の方便と割り切っていたと思います。
0379人間七七四年
2010/10/11(月) 09:32:18ID:ueOygVaPまず、1.朝倉が踏ん張る」から考えてみます。
ここでの論点は、「そもそも朝倉は義景の意思次第で踏ん張れたか?」ではないかと思います。
つまり、朝倉・浅井にそれだけの国力や兵力が残っていたかという点です。
大体、国境での小競り合いに徹していた武田と違い、朝倉も浅井も織田と足かけ3年戦っています。しかも小谷城の後詰めだの比叡山での籠城だの、長期の対陣も何度か行っています。
しかし当時の戦国大名でも兵農分離された常備軍を持っていた大名なんて信長ぐらいのもので、
大概の大名は農民に負担のかかる長陣を嫌います。(当時の動員力は1万石あたり300人前後のようですが、物資の輸送や国内の治安維持などを考えると就労人口の1〜2割は何かしら動員されると考えるべきかと)
領土の大半が戦場になった浅井はもちろん、長陣を強いられた朝倉も国内の農業に負担がかかり、作付面積が減る・除草や施肥が不充分・裏作ができないなど生産力が落ち込んでいたのではないでしょうか。
しかも畿内からの物の流通もストップしている。これ以上無理な遠征をしたら、兵士や国人が怠戦や離反を起こしていたかも知れない。
もう一つ、信長最大の危機と言われる三方ヶ原の戦いは真冬に行われた物です。つまり、北陸は雪の中です。
現代の、しかも太平洋側の人には実感しづらいでしょうが、身の丈以上の積雪で道が埋まるというのは切実です。現代より寒く、しかも除雪車なんて無い時代ですから、
無理に越前・近江間の雪道を押し通ろうとすれば凍死者や遭難者がどれだけ出るか想像がつきません。もちろん、荷車で大量の物資を輸送するなんて無謀でしょう。
朝倉にせよ上杉や伊達にせよ、日本海側の大名には「もし大雪が降って敵地に孤立したら…」という恐怖感が必ずあったと思います。だから、三方ヶ原で武田が勝ったからと言って朝倉はすぐには動けない。
つまり「1」の結論、朝倉には武田に呼応して踏ん張れるだけの余力は無かったと推測します。
続いて「2.信玄が長生きする」ですが、これもどれだけ効果があったか。
「1」でも述べましたが、農民兵主体の武田軍は長期の遠征が難しかったはずです。つまり信長は、武田に長期戦を仕掛ければいいと言うことになります。
具体的には、時代も地域も違いますが、第2次ポエニ戦争でハンニバルに攻め込まれた際のローマの対応に近い戦略を採ったことでしょう。つまり、
・武田軍と正面決戦は行わない。
・武田軍の攻撃には籠城戦で対応し、後詰軍でその動きを牽制する。
・武田軍のいない地域を攻略する。(例:農繁期になって武田軍が軍を引けば城を奪い返す)
・武田に呼応する勢力を攻略する。(例:朝倉、浅井、三好、本願寺、そして足利)
・織田方から武田に寝返る勢力を極力出さない。(特に徳川脱落という事態は避けなければならなかったでしょう)
といった戦略を採用することでしょう。織田家の強みは、岐阜・京・堺・大津といった当時の大都市を抑え、傭兵主体の常備軍を編成しやすいことです。
農民兵が積極的に動ける時期は正面決戦を避け、動けない時期に失地を回復すればいずれ武田が根負けすると信長は読んでいたのではないでしょうか。
この1573年初頭、織田も苦しいが信長包囲網の諸勢力もそれ以上に苦しかったと見ることができます。信長がよほどの失策をしない限り、「1」にしろ「2」にしろ織田が完全に敗北するとは考えにくいです。
0380人間七七四年
2010/10/11(月) 09:35:16ID:4J1tL4nu信長に限定するなら、あと1年生きていれば信長は滅亡していました。
信玄死後ならともかく、生前は信長は詰んでいたんですから。
信玄の失敗は村上を取り逃がしたこと。
越後に逃亡したことから、戦国時代最強の狂人、上杉謙信を引っ張り出してしまった。
謙信は正義のために戦っているから、信濃をあきらめる事はなく、決して妥協しない。
信玄が見返りだそうが何しようが敵対を止めない
信玄のように謀略は行わないが、直接的なケンカはアホみたいに強い。
戦史研究家が古代から現在に至るまでで世界最強の指揮官という人もいる。
結局は、村上を取り逃がした事が最大の分岐点ですね。
信長は敦盛を頻繁に歌って早く拡大しないと人生終わると自らを追い立てていた。
逆に孫子は負けないための兵法で、時間の概念がない。
その両者のカラーの違いを云々言っても仕方がない。
どちらも天才。しかし、信玄死亡前は信長は詰んでいた。
実際そうなのだから、それでいいじゃないですか。
0381人間七七四年
2010/10/11(月) 09:42:01ID:pAyYkF+K0382人間七七四年
2010/10/11(月) 09:47:42ID:ueOygVaP僕は武田家は信玄の代で詰んでたと思います。
信玄が敵を作り過ぎたのが要因ですね。
武田信玄は外交では大きな失敗をしています。
まず信玄は信濃守護職欲しさに上杉との講和を破っています。その後、駿河欲しさに三国同盟を一方的に破棄して北条を敵に回しています。
この時、嫡男まで切腹させたのは痛恨の失敗でしょう。そして今川攻めに至っては徳川を味方に付けたものの遠江欲しさに約束を破り
結果として徳川と北条が結びついてしまっている。そして徳川を蔑ろにした所為で、嫡男の正室に信玄の娘を迎えたいという非常に好意的だった織田まで敵に成っています。
1570年時、武田信玄の周囲の勢力は全て敵に成りました。これは大きな失敗です。これも全て信玄の領土欲が引き起こしています。
後に勝頼の代で北条・上杉と同盟をしますが、根本的な信頼は回復されていません。勝頼は信玄の所為でかなり苦労したと思います。
もし嫡男・義信の進言を受け入れて今川攻めを行わずにいたら、織田・徳川との関係も悪化しておらず、勝頼が陣代という不安定な立場で家臣団を率いることもなかったでしょう。
トップの言葉が絶対ではない...という背景が、長篠での無断撤退など引き起こしていると思われます。義信が武田の家督にあれば、こういうことは防げたと思います。
そして結果的に織田家の力が強くなって敵対したところで、信濃や駿河の割譲で甲斐一国の大名として生き残るという和睦の道もあったかと思います。
毛利はそうやって生き残っていますし、信長は長宗我部にも領地割譲付き降伏勧告を行っていますが、武田は問答無用で滅ぼしています。
それだけ武田に裏切られたという恨みが深かったのでしょう。(有力国人による連合政権は戦国大名に珍しいことではないので、武田が滅びた理由には相当しないと思われます)
ちなみに度重なる出兵は信玄の代から始まっており、勝頼だけが行ったわけではありません。その背景にあるのは敵対国家が多いことと金山の産出量減少で止むなく...という事情からです。
敵さえ作らなければ金も蓄えれたと思います。
0383人間七七四年
2010/10/11(月) 09:52:21ID:ueOygVaP実際は詰んでなかったよ
一番の要因の朝倉が本国に撤退した原因ですが国内の疲弊が進んでいたからではないでしょうか?
朝倉軍の行動を簡単な年表にするとこんな感じになります
1570年4月、織田軍が領内に侵攻、敦賀陥落も奪回
1570年5月、朝倉軍・近江に進出
1570年6月、姉川の戦い
1570年9月、朝倉軍・近江に再び進出、大津攻撃
1570年10-12月、比叡山に籠城・織田軍を釘付けに
1571年8月、朝倉軍・近江に進出するも敗退
1572年7-12月、近江に駐留
織田信長が攻めてきて以来、朝倉軍は一年の半分を遠征して戦いに明け暮れていたことになります。近江を地元とする浅井、同じく南近江を手中に収めている織田とは、近江で戦うことの意味が異なりますから、
三年間も近江戦線に釘付けとはいきません。おおよそ夏から秋にかけて近江に進出するというだけでも、朝倉家にとっては相当な負担だったはずです。
72年の撤退のタイミングは最悪だったと思いますが、「冬には帰る」というのは財政上の理由からも仕方がなかったのではないでしょうか。
この3年間、織田-朝倉の戦いは勝ったり負けたりを繰り返していましたから、義景はこの状況が長く続くと考えていた可能性もあります。未来から見れば「ここぞのタイミングで帰ってどうする!」となりますが、
当時の義景としては「ここで無理したら来年戦えないよ」ということだったのかもしれません。
実際、翌年の出兵では家臣の多くが「もう無理、勘弁して」と出兵を拒否しています。
純粋に財政上の理由だけから拒否したのかどうか定かではありませんが、越前の国力が限界に近付いていたことは間違いなさそうです。(じゃあ長期化させちゃ駄目じゃんって話ですが……)
0384人間七七四年
2010/10/11(月) 09:56:57ID:y1wTuWSZ信長包囲網の連合軍というと強そうに聞こえますが、実際は大して機能しません。
関ヶ原は東西連合軍の対決ですが、東軍には家康という強大な大将がいたから勝てたのです。
一方西軍の大将は誰か?
事実上の大将石田三成は貫禄不足。名目上の大将毛利輝元はやる気が無い。つまり大将不在なんです。
これでは連合軍も機能しません。
信長包囲網もこれに似たもので、北方の朝倉は優柔不断。西の三好も信長に「時勢を読めぬ輩」と呼ばれる烏合の衆。武田軍は強いが甲斐と京都は離れており長期遠征は不可能。
そして何より呼掛け人である足利義昭は実質的な力はなく、しかも京にあり信長の手中にある。
つまり信長包囲網はリーダー不在のバラバラ軍団であり、おそらく信長は困難は感じても滅亡の危機だなどは一度も思わなかったと思います。
0385人間七七四年
2010/10/11(月) 10:01:03ID:ueOygVaP包囲網に加わる諸将は,基本的に共同で何らかの作戦をするつもりはありません。信長軍を各地に分散させることで,個々の戦いを進めやすくする程度に過ぎません。
つまり朝倉が戦いを挑んでくる「可能性」があれば,信長は武田との戦いに全軍を投入することはできない=武田は戦いやすくなるというものです。
もちろん,それがもっとも効率的になるのは,同時期に一斉に信長領に攻め込むことですが,それはマクロ的にみただけで個別にみれば,
朝倉のように決して強くない武将は個別撃破されるリスクも大きかったわけです。おそらくそれは武田にしても十分わかっていたと思いますから,
一応手紙を送って檄を飛ばし,動いてくれればラッキー,それが駄目でも国境に兵力を増強してくれるだけもいいよ,という感じだったのではないでしょうか。
基本的に共同作戦というのは、狭い範囲でしか機能しません。関ヶ原でも,関ヶ原という局地戦では共同作戦が実現しましたが,
石田と上杉,徳川と伊達といった大きな範囲では,まったく作戦上の連携はなかったわけです(それぞれがそれぞれの思惑で戦っていた)。
0386人間七七四年
2010/10/11(月) 10:15:51ID:ueOygVaP上杉は義がある。
正義の為と、よく言われておりますが、理解できません。
謙信時代・・・北条領に攻め入り、関東の各地に放火and略奪
信濃、越中、能登にも同様の惨劇をもたらす。
大義名分は、「頼まれたから」らしいですが、
能登に関しては誰からも頼まれていません。
また、1人の人間に頼まれて出兵→各地の民を苦しめた。
それが、景勝の関ヶ原の頃になると・・・
西軍敗戦後、主家の豊臣家を見捨てて、
「民を守るため」云々で情けなく降伏。
結局、『義』というものは、戦などの大義名分に過ぎないと思うのですが。
石田三成や宇喜多秀家の方が、『本当の義』があるように思えます。
上杉も他の諸大名と変わらないと思います。
0387人間七七四年
2010/10/11(月) 10:20:41ID:ueOygVaP敵の領地の田畑を刈ったり、住人の逃げ出したあとの空き家に押し入って残っているものを略奪したり、
捕虜を奴隷として売ったりしていたようですから。しかも、食事はタダで与えてもらえるのですから、
居食いするしかないのに比べると、農民の中には非常にメリットを感じている人もいたのではないかという推測がなりたちます。
もっとも、負け戦になってしまってはこうはいかないわけですが、謙信についていくとそういう心配はあまりない。だからこそ人気があったのではないでしょうかねえ。
このため、謙信の関東出兵を「公共事業として行われていた」という方もいらっしゃいます。
0388人間七七四年
2010/10/11(月) 10:41:45ID:0D62Y15h>>848
藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で
「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言う
ベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、
襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、
通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしたが、
市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で
「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、
「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、
「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、
それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、
数々の疑問を呈している。
0389人間七七四年
2010/10/11(月) 11:01:08ID:ueOygVaPでは一体、謙信は何のために戦っていたのだろうか。果たして従来の謙信評は妥当なものなのだろうか。色々と疑問が湧いてくる。
領土欲が薄いとの指摘は、半ば当たっているようにも思われる。越後を領国化し、更には越中・能登・信濃と加賀と上野の一部を領有した謙信に領土欲がなかったとは思われないが、
関東管領に就任してから10回以上に及ぶ関東出兵では、上野の一部を領有できたくらいで大した成果はない。無論、謙信の不手際ということも考えられるが、
武田信玄や北条氏康のような名将も一目置いた戦国最強の武将である謙信がこのような無駄をしたわけだから、謙信は関東管領という旧秩序や人間関係を重んずる義将で、
領土欲はなかったとの評価があるのも分からないではない。
だが、視点を変えてみると、また別の解釈も可能となる。謙信は、北条と武田が武田の駿河侵攻を機に対立した際には北条と手を組んでいるが、その時北条に上野の「返還」を要求しているから、
関東でも領土欲が皆無だったとは言い切れないが、北陸と比較して領国化には熱心ではなく、やはり関東での領土欲は薄かったように思われる。では、何が目的で謙信は10回以上も関東に出兵したのかというと、
端境期における口減らしと物品の略奪と奴隷狩りだったと思われる。これは、謙信の関東への出兵時期から推測されることで、秋冬から春夏にかけての長期越冬型が多いのである。
二毛作のできない越後においては、冬場の口減らしは切実な問題であった
そうすると、謙信の関東出兵は、関東管領という地位を大義名分にした略奪行為であり、領土獲得はあまり視野にはなかったということになる。端境期に口減らしをして新たな「雇用」を創出してくれる謙信は、
越後人にとっては救世主的存在だったのではなかろうか。現在でも越後で謙信の人気が高いのは、一つにはこうした遠因もあるだろうし、また謙信軍の強さの一因は、無論謙信自身の優れた才能もあるだろうが、
略奪行為の機会が多く与えられていることによる兵の戦意の高さにもあると思う。無論、戦国大名による略奪は珍しくはなかったが、領国化を考慮して、村や町での略奪を禁止し安全を保障することも多かった。
だが謙信の場合、関東の領国化についてはあまり真剣に考えていないか、略奪よりも優先順位を低く置いていたと推測される。
0390人間七七四年
2010/10/11(月) 11:22:23ID:ueOygVaP敵国においても、兵糧は略奪せず、購入するよう命令所を出し、
京の町で兵士が女性をからかっただけで切り殺すほどの徹底ぶりでしたから、
他国のように略奪を臨時ボーナスのエサにして、流民や野党を
軍役衆に農民兵たちが混入せず、自分たちが直接軍に参加して、
直接略奪行為を行って私腹を肥やすようなシステムを
否定するため、獏大な財政支出を必要としました。
略奪行為の禁止、これが、織田信長が最初のころ、
反乱を起こしたり、反抗す国人の鎮圧にてこずった一因でもありました。
それでも、信長はかたくなに民衆への略奪行為を禁止しつづけます。
0391人間七七四年
2010/10/11(月) 11:27:23ID:tVQzCpH7個人でブログとかやればよくね?
0392人間七七四年
2010/10/11(月) 11:31:13ID:ueOygVaP0393人間七七四年
2010/10/11(月) 11:44:35ID:tVQzCpH70395人間七七四年
2010/10/11(月) 11:46:32ID:kvi+i9+i0396人間七七四年
2010/10/11(月) 11:48:33ID:ueOygVaP貴方の書き込みこそ無駄な書き込みですよ
内容の濃い長文で書いてこそ価値があると思います。くだらない書き込みでスレを消費しないで下さい
0397人間七七四年
2010/10/11(月) 11:55:18ID:tVQzCpH7ブログって知ってる?ブログ。htmlとか知らなくても
日記をアップできちゃうんだよ。
0398人間七七四年
2010/10/11(月) 11:56:55ID:tVQzCpH7http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1280541171/l50
0399人間七七四年
2010/10/11(月) 11:57:29ID:ueOygVaPそれぞれ国元の新潟県や山梨県では、いまだに伝説的な善政家として伝わっていますが、彼らに攻められた関東地方ではたまったものではなく、悪魔のような略奪者としての記録が残っています。。
0400人間七七四年
2010/10/11(月) 11:58:16ID:tVQzCpH7まだ建設的だよ。日記は日記帳でね。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228600746/l50
0402人間七七四年
2010/10/11(月) 12:04:00ID:ZBF0CUq9とりあえず通報しとくよ
>>394
安価も内容も滅茶苦茶な方に議論も何もないでしょ
時に丁寧?語で時に普通口調で内容は滅茶苦茶、精神状態が非常に不安定に思われるからそういう意味でも通報しとく
0403人間七七四年
2010/10/11(月) 12:05:22ID:ueOygVaP0406人間七七四年
2010/10/11(月) 12:14:32ID:ueOygVaPそしてそれらに勝手に手を出す事は禁じられています。ただしモチベーションを上げるために「一定期間のみ」取り放題・犯し放題を許す場合もあります。
武田信玄もよくやっています。反対にそれらすべてを禁じていた戦国大名は織田信長。
厳重に管理して金に換算したりして分け与えるようにしています。破れば将であろうとも死罪や追放。
0407人間七七四年
2010/10/11(月) 12:23:27ID:mRZEF+Hu0408人間七七四年
2010/10/11(月) 12:23:48ID:ZBF0CUq9荒らしすぎてリアル警察呼ぶ羽目になるかもしれんが
親切に忠告してやったのにバカな奴
0409人間七七四年
2010/10/11(月) 12:33:10ID:ueOygVaP0410人間七七四年
2010/10/11(月) 12:50:07ID:8tiAWP74信玄厨に気を付けろよw
0411人間七七四年
2010/10/11(月) 13:28:10ID:B9VcI31Tそれソース出してね
0412人間七七四年
2010/10/11(月) 13:43:52ID:mRZEF+Huそれ以前にお前キモイからwww
0413人間七七四年
2010/10/11(月) 14:10:01ID:I4/MEgOhとりあえず、信玄に関してのソースは信玄が発した乱暴狼藉禁止の制札が現在も以下に残ってます。
能成寺、普明寺、長年寺、清光寺等々
この寺社内では狼藉を禁ずというもの。逆に言うと、外では狼藉OKということでしょう。
0414たこちゃん
2010/10/11(月) 17:38:43ID:k4XLHVPfそれと同じで信玄厨の書き込みレベルも低くて笑えるw
まあ信玄厨になったやつって八割がゲームの影響なのが頷けるわw
0415人間七七四年
2010/10/11(月) 19:41:53ID:YB5am6Z2地図上の面積が大きいせいで織田家に対抗できる国力があったと思われてるのが痛い
ほんとは少ない戦力でうまく戦ったってかんじ?
0416人間七七四年
2010/10/11(月) 20:09:09ID:RuZ8f7Q7飛騨まで手を延ばして姉小路wの争いにまで介入。ご苦労なことです。
0418人間七七四年
2010/10/11(月) 21:34:32ID:s5wMmHFH朝倉云々の話では信長が詰んでいる状況は引っ繰り返せません。
なんせ、周囲は全部敵で領土内でも大反乱があちこちで勃発。
それに貴方も言われていた上杉謙信の動きについても完璧に封じ込めている。
絶対に信玄の情洛中は上杉は動けない。
あの時信長は詰んでいた。
それは動かしようがない事実なのです。
信長は天才ですが、あらゆる面で天才だったとするのは逆に信長の偉大さを観てないことになります。
穴も勿論あります。
信玄の穴は時間の観念がすっぽり抜けた孫子哲学の体現者だったことです。
0421人間七七四年
2010/10/12(火) 01:47:06ID:6vi+Nwo80422人間七七四年
2010/10/12(火) 01:57:24ID:6vi+Nwo8徳川家康なんて、現代では全く通用しない男だぞ(笑)
おまけに、日本人は軍事に疎いというか、歴史を厳正に、厳密に検証することよりも
物語として情緒的に楽しむことを好む性分だから、冷徹な歴史の真実からは目を背ける
戦国期の検証で特に酷いと思うのは、石高=国力という、中世的思考が未だに根付いていることだ
現代においても、信長の感覚以下な輩の多いこと、多いこと(笑)
0423人間七七四年
2010/10/12(火) 02:07:51ID:6vi+Nwo8おまけに偏屈な性格だから、真人間はその言動に翻弄され、疑心暗鬼で不信に陥る
強烈な異才の持ち主だから、同じく異才の持ち主である秀吉とは相性が実にいい、自然と馬が合う
政宗も異才の持ち主だから、この三者は信長と政宗は出会ったことはないが、
おそらく息が合ったことだろう
煌めくような異才の持ち主ではない家康には、信長の先進性が見えていないし、理解しようともしないだろう
当然、家康はこういう三者からは人間的に浮いてしまうし、中世的な信玄が好み
信玄、謙信、家康は逆の意味で相性がいいだろうね
0424人間七七四年
2010/10/12(火) 02:11:47ID:Wf/10UUnなにせ斉藤は義龍と道三との内紛や浅井との戦いや義龍の死や稲葉山乗っ取り事件等で信長が侵略する前に既にガタガタだったし
信長は義龍相手に手も足も出なかったしな
0425人間七七四年
2010/10/12(火) 02:13:00ID:NBnIu8xB信玄の死と朝廷の力がなきゃ一次包囲網の時点で
織田領国は崩壊してたに違いない
0426人間七七四年
2010/10/12(火) 02:14:32ID:ia8w8z+M対武田以外は圧倒的強さを見せ、この時期でも姉川や対今川で圧倒的強さの徳川家康を
けちょんけちょんに倒し滅亡寸前に追い込んだ。
さらに東美濃攻防戦や上村合戦では寡兵で圧倒的大軍の織田軍を蹴散らし織田方を恐怖に貶めた。
長篠以降ですら武田の強さは日本一という評判は敵国織田の領国内にすら残っている。
日本で最高の地理的条件と運と富裕国に生まれながら圧倒的大軍で寡兵の敵に大苦戦や大敗を繰り返し
織田家を滅亡させた領土拡張率0の信長と三増峠、薩田峠、小田井原、上村、東美濃攻防、塩尻峠
と寡兵で大軍を破り続け貧国甲斐を大膨張させた信玄では比較にすらなるまい
三方ヶ原で戦死したのはこの時期の徳川としては高い身分や主だった物がほとんどで
この時期4天皇が戦死してたら後世に『徳川四天王』として残らなかっただけだろ
織田四天王が美濃戦線で戦死してたら残らなかったのと同じ
武田信玄が基地外のように貶められ、勝頼が持ち上げられるのは勝頼が招いた滅亡を
信玄に押し付けようとする織田厨の謀略だろう。武田が強いのは対織田徳川北条などで証明されている
0427人間七七四年
2010/10/12(火) 02:15:44ID:dr1E26dU勢力拡張できた。運だけ野朗
0428人間七七四年
2010/10/12(火) 02:16:28ID:Ay7MY7Si家康は瞬殺した。
0429人間七七四年
2010/10/12(火) 02:17:09ID:CngkWSeQ圧倒的国力持ちながら寡兵の敵に負けまくり結局家康に天下取られたし。
家康は今川、朝倉、北条、豊臣、武田など常に圧倒的大軍相手に奮戦し畿内や美濃を瞬殺して天下を取った。
信長や秀吉は圧倒的国力で持って寡兵の敵に負けまくり美濃や畿内に大苦戦し家を滅ぼした。
0430人間七七四年
2010/10/12(火) 02:18:02ID:ztoL12ny姉川では家康以下が露見し上村合戦や東美濃攻防戦で蹴散らされ
高遠や岩村攻囲戦でも大苦戦か大損害。
徳川が押さえてなきゃ義元なき後の今川や浅井朝倉、武田あたりに瞬殺されてただろ
徳川の戦闘力が高いのは対朝倉、一向宗、今川、北条、豊臣などで歴然。
圧倒的大軍で各地で敗戦を繰り返す雑魚長より遥かに強い。
織田が徳川の位置にいたら信玄に瞬殺されてたのは間違いない
0431人間七七四年
2010/10/12(火) 02:19:31ID:MORn4Yxe0432人間七七四年
2010/10/12(火) 02:21:35ID:T6oP4kuu生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず
運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。
普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。
幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない
兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。
1546年
信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年
信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年 村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年 叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年
舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年 桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
スーパーラッキーパンチ。
1560年 桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年 斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。 嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。 軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年 14条で弟を死なせたからか信清離反。 尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年 新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。 東美濃で武田の一部隊と衝突。
あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。 砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出して たまらず敗走。
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。
逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
1567年
幼君に不安を感じた美濃三人衆寝返る。
これに乗じて稲葉山攻略
これより信長は畿内・伊勢の侵攻に移る。しかし相変わらず…
1567年
楠・高岡城の攻略に失敗。
0433人間七七四年
2010/10/12(火) 02:23:20ID:4HraTwrx浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。 朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
姉川の戦い。 従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。 数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。 織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。 信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。 その後しっかり和睦を破る
1571年
伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。 氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。 比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年
信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年
武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。朝倉は一門に裏切られての最後であった。
0434人間七七四年
2010/10/12(火) 02:36:44ID:6vi+Nwo8信長は戦略上、旧態依然とした諸勢力と自然敵対関係にならざるをえない
実際、周囲は敵ばかりになるし、信玄は義昭と結託し、旧体制を巧みに糾合しつつ、
信長包囲網を形成した
確かに、信玄派が夢を見ても不思議ではない状況下ではある
信玄は確かに名将だと思うが、天才ではない
個人的には、実際に長生きしても、肩を落として甲斐へ撤兵する事態になると思う
もっと長生きして欲しかった
0435人間七七四年
2010/10/12(火) 09:30:59ID:K1MtfJap死ぬか生きるかの瀬戸際に何度も立っているし、兵も弱かった。
信玄上洛時にも国内で大反乱、周りは全部敵
頼みの上杉家も信玄の謀略で完全に封じ込められて動けない。
信玄って戦闘ばかりがクローズアップされるけど、ほんとうに恐ろしいのは事前準備。
太ったおじさんがトイレでも何処でも相手をいかに詰めるか謀略ばかり考えている暗い奴だ。
だから人気はないのも当然だし、私も信長の方が好き。
信長は最後まで家臣の忠誠は低かったし、求心力も全然ないから反乱だらけで最後は反乱で殺されてしまった。
政治家としては一流だし、天皇に退位を迫り脅迫する等の革新性もあった。
しかし、信長と信玄では軍事・謀略センスが天地ほども違う。
信玄には絶対に勝てない。
ここの連中みたいにヨーイドンで両軍ガチンコなんて戦争は信玄はしない。
もっと暗い友達にはなりたくない孫子の具現者なんですよ。
0436人間七七四年
2010/10/12(火) 09:41:57ID:91GT7miN相応しいじゃないか
0437人間七七四年
2010/10/12(火) 11:35:58ID:IEWOgvB7家康を配下につけたのも信長の力量でしょうよ
信長が雑魚だったら見限って他の勢力につけばいいだけだし
0438人間七七四年
2010/10/12(火) 12:55:41ID:bXp2qTr/領土内では信虎の反動で色々な政策を実施して慕われていたが、外交や謀略となると汚い手を使う。
信玄のイメージはデブ親父が普段から人を裏切らせたり陥れたりする事を常に考え、戦争前にそれを実行し成功させた後に機が熟したと判断されて戦争を起こす。
こんなのは真田や上杉と違って爽やかさがないから人気は出ない。
しかし、やっている事は孫子の体現者で、その戦いに関する能力は織田信長なんて足元にも及ばない。
好きか嫌いかって話になると友達にはなりたくない。
が、その戦いにおけるセンスは大天才。
孫子を使って今も中国は一手、一手と謀略を打っている。
日本の状況も、アメリカは国債と経済、軍事パワーバランスの変化で封じられている。
日本国内も政治家、マスゴミ、そして日本国民に対する世論誘導がされている。
どんどん覇権確立のために行動をおこしている。
孫子の哲学は、戦わずにして勝つ情報・諜報戦を主としている。
日本も孫子を勉強して、中国の出方とわが身を振り返るべきだよ。
0439人間七七四年
2010/10/12(火) 12:57:12ID:bXp2qTr/もうすぐ詰みそうです。
0440人間七七四年
2010/10/12(火) 15:55:23ID:MR7MoQoQ四六時中医者を離せなかった病人に長生きを期待するのは無茶。
そんな病人が遠征を始めるって、その行為自体がもはや無謀な行為。
三方原後死亡したのは極めて当然の成り行きで、なんら事故でも不運でもなく予測できた事態。
0441人間七七四年
2010/10/12(火) 16:14:36ID:WxjxR532現代なら支社長どまりで取締役にはほど遠い。
0442人間七七四年
2010/10/12(火) 17:23:11ID:XvbnLgh1甲斐から京までは遠すぎる。
0444人間七七四年
2010/10/12(火) 17:34:27ID:ofcqdFzF0445人間七七四年
2010/10/12(火) 17:34:37ID:Q+KmadzF0446人間七七四年
2010/10/12(火) 17:36:42ID:Q+KmadzF0447人間七七四年
2010/10/12(火) 17:50:16ID:ZykeQz8p0448人間七七四年
2010/10/12(火) 18:04:11ID:91GT7miN0449人間七七四年
2010/10/12(火) 18:30:37ID:Q+KmadzF0450人間七七四年
2010/10/12(火) 18:41:28ID:MR7MoQoQ信玄→誰も取りたがらない田舎の領地奪って戦国最強(笑)
イチロー→勝利に絡まない単打内野安打積み上げて10年連続200本安打(笑)
0451人間七七四年
2010/10/12(火) 18:41:43ID:5XG5FeFo家康が最強だなw
普通に考えたら川中島で戦って全勝した上杉が最強
0452人間七七四年
2010/10/12(火) 18:43:26ID:5XG5FeFoそういう事を言う人は全くわかってない人だと思う。
全員が京を目指さなくちゃいけないの?
鎌倉幕府って何ですか?
0454人間七七四年
2010/10/12(火) 18:45:42ID:Q+KmadzF棚から牡丹餅w信長が居なかったら天下平定はありえなかったw
上杉最強とか武田最強とか言ってるのは時代劇やゲームに騙されすぎw
0455人間七七四年
2010/10/12(火) 19:44:46ID:ofcqdFzF幕府ではないが、信長に焼き討ちされた比叡山に代わる宗教の総本山を夢想していた節がある。
まあさらに西には石山本願寺もあってやり辛いだろうし、とても幕府に代替できたものでもないだろうが。
0457人間七七四年
2010/10/12(火) 21:54:35ID:pQ/uo3uL文学の範疇じゃなく、きちんと専門で戦史研究やってる専門家の間じゃぁ信長は弱いって定説なってますよ。
ただ力の真空地帯に進んでっただけ。
技も謀略の何もあったもんじゃない。
逆に信玄は自分より小さい相手でも内部で裏切らせたり外交で孤立させたり散々嫌がらせをして凄く弱体化してから兵を進めた。
戦わずにして勝つ 孫子の体現者といわれる所以 暗いけどね・・。
0458人間七七四年
2010/10/12(火) 21:57:19ID:MA9brHJUナニコレ?
0459人間七七四年
2010/10/12(火) 22:05:38ID:MR7MoQoQ北畠も三好三人衆も強豪ですが?
0460人間七七四年
2010/10/12(火) 22:21:38ID:JxZCWhEX0461人間七七四年
2010/10/12(火) 22:35:16ID:Q+KmadzF結局民衆の心を掴まないで領国経営なんて出来るわけないんだよ!
信玄は三河遠江を攻略できなかったのは略奪をしまくってたからだよ
0462人間七七四年
2010/10/12(火) 22:43:27ID:91GT7miNソースも無いアホ乙
略奪はどこでもやるもんですwやりすぎたなんてどこの史書にも載ってないwww
流石自作自演、口調丸出し嘘吐きのマヌケっぷりを晒したスレ主www戦国時代の基礎的な事もわかってないとは恐れ入るw
0464人間七七四年
2010/10/12(火) 23:16:54ID:qcW4mUQwなにせ斉藤は義龍と道三との内紛や浅井との戦いや義龍の死や稲葉山乗っ取り事件等で信長が侵略する前に既にガタガタだったし
信長は義龍相手に手も足も出なかったしな
0465人間七七四年
2010/10/12(火) 23:18:45ID:G1UWAunM信長は包囲網に延々苦戦して結局本能寺で全て失ったけど
政宗は強大な南奥州連合を打ち破ってわずか5年もの間に25万石⇒180万石と圧倒的拡張見せたし
佐竹も相馬も滅亡寸前だったし。秀吉の惣無事令が出てたのがネックで運が悪かったな
0466人間七七四年
2010/10/12(火) 23:19:40ID:ocKexRrp圧倒的国力持ちながら寡兵の敵に負けまくり結局家康に天下取られたし。
家康は今川、朝倉、北条、豊臣、武田など常に圧倒的大軍相手に奮戦し畿内や美濃を瞬殺して天下を取った。
信長や秀吉は圧倒的国力で持って寡兵の敵に負けまくり美濃や畿内に大苦戦し家を滅ぼした。
0467人間七七四年
2010/10/12(火) 23:20:27ID:xeRAfouD姉川では家康以下が露見し上村合戦や東美濃攻防戦で蹴散らされ
高遠や岩村攻囲戦でも大苦戦か大損害。
徳川が押さえてなきゃ義元なき後の今川や浅井朝倉、武田あたりに瞬殺されてただろ
徳川の戦闘力が高いのは対朝倉、一向宗、今川、北条、豊臣などで歴然。
圧倒的大軍で各地で敗戦を繰り返す雑魚長より遥かに強い。
織田が徳川の位置にいたら信玄に瞬殺されてたのは間違いない
0468人間七七四年
2010/10/12(火) 23:21:17ID:QKOZqXVg勢力拡張できた。運だけ野朗
信長は畿内や美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
0469人間七七四年
2010/10/12(火) 23:23:05ID:m4BzR/xq政宗は反伊達包囲網に対して一歩も引かず最上を政略で取り入れた後圧倒的早さで潰していったし
人取橋では何倍もの兵力差を見事跳ね返して見事葦名を滅ぼし相馬も滅亡寸前だった。
島津義弘も寡兵で大軍を蹴散らす戦をしてきたし。包囲網こそなかったが
0470人間七七四年
2010/10/12(火) 23:25:45ID:lBFscMeS斉藤親子や三好よりも遥かに劣るからだろうな
三好や斉藤親子が生きてたら手も足も出なかっただろう
斉藤義龍には実際勝てなかったしな
本当に運だけの奴だ。
0471人間七七四年
2010/10/12(火) 23:27:42ID:lBFscMeS斉藤戦では圧倒的大軍で龍興に大敗したけど敵勢の目に砂ぼこりが入って相手が動揺したのに攻めかかったら大敗して
北畠は敵が後ろから味方に襲われたから勝てただけだし
0472人間七七四年
2010/10/12(火) 23:34:19ID:a9a8jddKそれだけはねぇよw
低脳無知乙
0473人間七七四年
2010/10/12(火) 23:36:31ID:+7SwPQy6どんな感じで?
正直略奪頻度で言えば織田も大して変わらず
むしろ織田の虐殺規模や起こされた反乱規模は
他大名の追随を許さない
恨みを買っていたというなら、織田のほうがよっぽど
天下が取れないというなら織田のほうが無理で
実際に無理だった
0475人間七七四年
2010/10/12(火) 23:48:56ID:+7SwPQy6部下に兵が集まりませんなんていわれた書状は存在しない
あるというなら詳細を希望
兵農分離なんて言い出したら、それを指示してる信玄と
指示してない信長という明確な差があるだけ
0476人間七七四年
2010/10/12(火) 23:51:29ID:+7SwPQy620年とか言ってるが
それは上杉相手に5回の川中島を繰り広げた期間をこみにしている
豪族達相手なら10年足らずで攻略し、そこから上杉家の介入が入って
川中島がはじまった
0478人間七七四年
2010/10/13(水) 01:06:17ID:cDdgkMqm村上小笠原徳川織田どこをとっても結束のある大勢力ばかり
信長のように卑怯な騙まし討ちを使うこともねえしなw
0479人間七七四年
2010/10/13(水) 01:07:21ID:Xakoqqtw0480人間七七四年
2010/10/13(水) 02:16:18ID:XLNTa7WGコピペなんてした覚えないぞ
信玄の勝利はそんなに騙しうちしてないが
>>479
いつ氏真相手にだまし討ちしたんだ
今川のほうから同盟破棄してきたっていうのにな
分裂させたのは信玄が調略で今川の武将を寝返らせたから
織田の場合は完全に信長関係なく、三好が勝手に内戦してただけ
0481人間七七四年
2010/10/13(水) 02:52:19ID:Xakoqqtwそもそも信濃の豪族自体が分裂しまくってて統一勢力がなかったしな。
長野は元山内上杉家臣で憲政逃亡後分裂して独立勢力になった奴。
姉小路と江馬の分裂抗争してる飛騨に介入。今川は徳川が分裂して抗争中。
騙し討ちは諏訪頼重を同盟破棄からの騙し討ち、高遠頼継も騙して切腹、
村上義清を謀略で騙し討ち、西上作戦も同盟を一方的に破棄してからの騙し討ち。
つーか信玄の真骨頂は騙し討ちを含めた謀略だろうがw
今川から同盟破棄してきたってソースは?
0482人間七七四年
2010/10/13(水) 09:50:55ID:Zuz3UN+f長野を独立勢力というなら北畠も浅井や斉藤の家臣の城主らも皆独立
村上や高遠や諏訪がだましうちにカウントするなら信長はどれだけ増えるんだよ
秋山も一向一揆も対武田の同盟も全て騙まし討ち
0483人間七七四年
2010/10/13(水) 11:13:43ID:OecEYWb6横から悪いが>>480のIDは随所に見られるから複数あるIDとは別人だろう
信濃豪族連合は共同戦線張っているし、長野は長尾上杉の傘下として西上野を統括しており
長尾上杉は何度も長野救援の兵を起こしている
諏訪はもともと諏訪のほうから協定違反してきたのだし、
高遠頼継も向こうから同盟破ってきた
村上義清をだまし討ち?いつの話だ?
砥石調略のことを言ってるなら敵対してた相手の城を寝返らせただけで
だまし討ちなんてもんじゃないな
さらにいうと、砥石以外の城は大抵武田が村上を撃破して軍事力で制圧し
村上が最終的に勝ち目なしとみてとんずらしたわけで
だまし討ちとかいわれてもわけわからん
西上作戦のときも、それ以前に信長が武田が足利に要請してた、勝頼への将軍家一字拝領と官位叙任をつぶした事や
両属してた岩村遠山を勝手に領土に組み込んだのを無視して、よくそんなことがいえるな
信長厨は自分に原因がある事を相手になすりつけて逆切れする所が信長そっくり
今川から同盟破棄してきたソースは深沢書状、氏真が上杉にあてた書状、塩止めの政策、北条氏照の書状、などなど。
てか、このことに関してはいろんなところで何度も言われてると思うが
そもそも先に塩止めしといて敵じゃないとかいうなよ
0484人間七七四年
2010/10/13(水) 11:16:34ID:OecEYWb6つか、今川相手には駿河攻略は一ヶ月で終わらせて
その後出張ってきた北条相手に戦って駿河取ってんだから
分裂してた畿内とった信長と違ってガチで獲得してるだろ
0486人間七七四年
2010/10/13(水) 11:59:02ID:RUvAm1pw信長万歳の信長公記「東から武田信玄がきて、西からは朝倉浅井がきて、織田家は方々手ふさがりだ」
これが現実
0487人間七七四年
2010/10/13(水) 12:30:45ID:a9H9MZXf謀略家、信玄の特徴をよくとらえてますね。
まともにぶつかったら謙信最強。
事前の謀略入れると信玄の方が上かな。
織田はちょっと二人には勝てないね・・。
0488人間七七四年
2010/10/13(水) 12:40:14ID:pfrj+DDu実際その中で動けるのは朝倉くらいで他は烏合の衆
ひとつずつ潰せばあっさり倒せるから信長も実際そこまで焦ってなかっただろw
0489人間七七四年
2010/10/13(水) 13:01:37ID:RUvAm1pw焦ってるからそう書いてある
朝倉以外も武田西上に呼応して出撃しており、
武田も美濃侵攻を進め、織田家はまさしく方々てふさがり
織田は義昭に対して人質出しますから講和しようとか言い出すくらい弱気
0491人間七七四年
2010/10/13(水) 13:15:13ID:vy/e32Ug久しぶりに来たらだが来てるしww
だが復活記念カキコ♪
0492人間七七四年
2010/10/13(水) 13:31:30ID:zJ6ISRfs上洛スレはともかくこのクソスレは存分に叩いてくれよ
0494人間七七四年
2010/10/13(水) 15:05:10ID:vy/e32Ug武田家滅亡は信玄のせいだし
0495人間七七四年
2010/10/13(水) 15:27:54ID:pfrj+DDu0497人間七七四年
2010/10/13(水) 15:33:58ID:aVdb5U07基地外が発狂して外交でも合戦でも内政でも失態やらかしたから滅んだだけ。
0498人間七七四年
2010/10/13(水) 15:39:59ID:RUvAm1pw信玄死亡してから10年近くたって
勝頼の失態が重なった上での滅亡だな
悔しいからって無理に信長と一緒にしようとせんでいい
どうせ信長みたいな崩壊は戦国の有力大名クラスじゃまずないから
比せられるわけないんだから
0499人間七七四年
2010/10/13(水) 16:00:32ID:c43aHVlj買ってしまたことだけど、北条氏政の実弟上杉景虎が上杉家を継いでいたら
北条と上杉は同盟し、武田領をおかしてたとおもう ありゃどうしようもねーわ
0500人間七七四年
2010/10/13(水) 16:22:43ID:RUvAm1pw北条にしてみれば関東制覇が宿願で
東の武田を侵す余裕も意味合いもない
史実として御館以降に武田を敵に回し、もともと相手にしていた関東諸侯とあわせて
多方面作戦で苦戦に陥り、関東制覇が遠のいている
上杉のほうも上杉家臣団の意向もあるから、そんな北条の言うことを唯々諾々と聞くとは思えず
武田を攻める意味合いも薄い
もともと西に織田が存在してる時点で、北条・上杉にとって武田は防波堤になりこそすれ、
積極的に攻め込む対象でもない
0502人間七七四年
2010/10/13(水) 16:49:13ID:w+WNefTN実際のとこ京都で不穏な噂が流れてそれに乗じて蜂起した義昭を見て
京の民衆が不安に思ったらしいが柴田明智らにあっさり潰されて安心した
だからなー
一部の人間は信長公記の方々手ふさがりの部分だけ持っていろいろ言ってくるけど
そんな一部分だけ抽出して結論づけようとしても当然意味がない
そんな史料の引用の仕方ならどうとでもいえる
この手の人間は悪意持ってレスしてるだけでまともな議論なんて望んでいないと判断していいんじゃないか
0503人間七七四年
2010/10/13(水) 17:36:59ID:mkPfxGZk光栄のゲームじゃあるまいし。
北条は関東で独立勢力を目論んでいた。
0504人間七七四年
2010/10/13(水) 17:38:16ID:mkPfxGZk国内でも大反乱があちらこちらで起こっていた。
0505人間七七四年
2010/10/13(水) 17:55:10ID:zJ6ISRfs小規模ながら北条は武田を攻めてるが 勝頼に撃退されたが
取れるとこなら取るだろ 元々同盟破ったのは武田なんだから隙見せりゃ攻めるのは当たり前
越後も北条に任せればそれこそ織田徳川だけに専念出来たのに敵を増やすとか訳わからん
0506人間七七四年
2010/10/13(水) 18:23:38ID:pfrj+DDuどんなまともな議論をするのかと思えば言ってる事が支離滅裂で笑えるw
今仕事で忙しいから書き込み出来ないけど夜じっくり相手してあげるよw
0507人間七七四年
2010/10/13(水) 19:14:14ID:hIriViQUけっして一大名ではなく圧倒的存在感をもっていたからな
戦国当時からずっと評価され続けている稀有な武将それが武田信玄
0508人間七七四年
2010/10/13(水) 19:32:13ID:3snSXsQP逆逆
「織田家が方々手ふさがりなのを、誰かが足利義昭様の耳に入れてしまったから、
将軍様は織田に対して反逆したのか?」というのが文言
筆者が織田家の大田であることからも
当時の状況は、織田家が窮地で、足利の耳に入ってしまった場合、裏切られても仕方ないものだと
織田家の人間自身が認めていたわけだ
てか、こんなに明確な事をよくもまあ、そこまで曲解できるなと感心するが
信長公記の文言見れば普通に理解できる程度のことでしかないだろ
>>505
>>499・>>500は御館の勝頼の判断をあれこれ言ってて
>>500は勝頼が北条を敵に回す必要はない、って事を言ってるのに
御館以後のことをあげて、そのレスはどうかと思うぞ
0510人間七七四年
2010/10/13(水) 19:50:38ID:vy/e32Ug「信長は方々手塞がりだ」
とでも言われたからなのかなぁ
これが信長公記の約
つまり太田がそのとき信長がピンチだったと言ったわけではない
こんな簡単な文すら読めないのかよww
どうりで低学歴なわけだww
0511人間七七四年
2010/10/13(水) 19:55:37ID:3snSXsQPどうやったらそんな解釈になるんだ…
前後から要約してみれば
「将軍様が反逆した、なぜだろう?
織田家の東から武田信玄がきて、西から朝倉浅井が来て、それらの押さえに兵を回して方々手ふさがりな状況を、
誰かが将軍様のお耳に入れてしまったからなのだろうか?」
という感じになる
どうみても、大田はこの当時の織田家の現状を、足利将軍に知られてしまったら
裏切られても仕方のないくらいのピンチだったといってるようにしか読めんが
こんなのも読めないのか、お前
0512人間七七四年
2010/10/13(水) 20:02:52ID:vy/e32Ugぷぷw
俺が持ってる全訳信長公記にはそう書いてありますが?w
有名な訳者の言ってることが間違ってるわけないでしょwww
0515人間七七四年
2010/10/13(水) 20:31:54ID:3snSXsQP明日の都合あるんだが
誰もがお前みたいに一日中365日貼り付けるわけじゃない事は理解してくれ
最近は仕事が忙しくて、今日は久しぶりの書き込みなんだからな
これから年末までまた忙しい
0516人間七七四年
2010/10/13(水) 20:39:20ID:vy/e32Ug俺だって仕事の合間をぬって来てるんだぜw
それだったら楽しませてくれよw
今ちょうどプロジェクトの山場だから明日からしばらく来れないし
0517人間七七四年
2010/10/13(水) 20:41:47ID:3snSXsQPIDにご注目ください↓
495 :人間七七四年:2010/10/13(水) 15:27:54 ID:pfrj+DDu
すれ主は最近来ないのか?wだがとの対決が見たいんだが
と>>495ではスレ主でないといいつつ
506 :人間七七四年:2010/10/13(水) 18:23:38 ID:pfrj+DDu
しばらくスレ見てなかったけど俺のスレが信玄厨に荒らされてるわw
どんなまともな議論をするのかと思えば言ってる事が支離滅裂で笑えるw
今仕事で忙しいから書き込み出来ないけど夜じっくり相手してあげるよw
と>>506ではスレ主宣言
どうやらこのスレのスレ主とやらは、成りすましでレスをしてた事が確定したようだな
0518人間七七四年
2010/10/13(水) 20:42:50ID:3snSXsQPおまえいつもいるだろ
過去ログ見る限り10年以上前から2chで粘着してるのに
いまさらなに言ってんだ
0519人間七七四年
2010/10/13(水) 20:47:11ID:vy/e32Ug織田厨成り済まし事件には笑ったw
0520人間七七四年
2010/10/13(水) 20:51:02ID:3snSXsQPなにいってんだ?
俺はマジで昨日今日くらいにしか書き込んでないぜ
かれこれ一ヶ月近く書き込んでなかったと思うが
いい加減、他人を一人だと思うのはやめろ
誰もが織田を崇拝してて、それにケチをつけるのが一人だけ、なんてありえないんだから
実際に史実を見ても織田はとてもそんな完璧な大名ではないどころか
欠点がかなり多い
史実に触れてそれを知り、主張する人間が多数いるのは当たり前のことだ
0521人間七七四年
2010/10/13(水) 20:51:11ID:hIriViQU最強の名将として尊敬されてるんだけど
0522人間七七四年
2010/10/13(水) 20:53:56ID:vy/e32Ug調べれば調べるほどショボいことがわかる
0523人間七七四年
2010/10/13(水) 20:54:24ID:pfrj+DDu0524人間七七四年
2010/10/13(水) 20:55:34ID:3snSXsQP逆だろ
調べれば調べるほどすごい事がわかる
逆に信長は調べれば調べるほど敗戦が多いことや
かなり保守的で迷信深いことや
統治がぼろぼろなことがわかる
0525人間七七四年
2010/10/13(水) 20:57:00ID:3snSXsQPお前がスレ主だというなら>>495でスレ主ではない人間としてレスしてる事は成りすまし
スレ主でないなら>>506が成りすましのレスになる
どっちにしろアウトだな
0526人間七七四年
2010/10/13(水) 21:00:38ID:vy/e32Ug上杉にボコられ北条にボコられ徳川にボコられ
これでどこが強いと?
つかいくら忙しいっていっても週一くらいはレスできるべ?
0527人間七七四年
2010/10/13(水) 21:04:03ID:3snSXsQP長野は江戸時代の講談にしかない
村上にはそれ以上に勝ってる
小笠原なんてのは江戸時代の軍記を鵜呑みにしてさえも
武田勢の先鋒を一回撃破しただけで、本隊がきたら逃亡してることになる
上杉を最終的に川中島から追い払い西上野も奪取、
北条には勝ちまくって駿河取ってるぞ
徳川にぼこられるどころかフルぼっこにしてトラウマ植えつけてるが
これでどこが弱いと
つか本当に忙しい時期の社会人にそんなゆとりがあるとおもってんのか?
2chに使うより有意義なことっていくらもあんだよ
0528人間七七四年
2010/10/13(水) 21:04:06ID:pfrj+DDu>>506の俺のスレってのは俺のお気に入りのすれって意味ですれぬしって意味ではないですよw
勘違いさせちゃってすいません
0531人間七七四年
2010/10/13(水) 21:07:51ID:pfrj+DDu0532人間七七四年
2010/10/13(水) 21:09:26ID:vy/e32Ug息抜きて考えればいいだろ?w
2chに書き込むのはお互い良い息抜きになるんだからw
俺のしてる仕事はストレスたまるんだよw
0534人間七七四年
2010/10/13(水) 21:13:14ID:3snSXsQPそんでその息抜きとやらで朝から晩まで踊り続けるって?
ありえんだろ
本当に疲れてるときなんて2chで不毛にわめきあうよりも
酒飲んで音楽でも聴いてたり、寝たりしたいもんだ
忙しい時期は気がむかなきゃ2chに張り付いたりしたくないな
0536人間七七四年
2010/10/13(水) 21:19:48ID:3snSXsQPそれだと文章がおかしくなるな
もうどう見ても言い訳が苦しくなってるから
さっさとID切り替えて「別人のスレ主」を召還する作業にでも移れ
0538人間七七四年
2010/10/13(水) 21:21:33ID:vy/e32Ugだがさんてどんな音楽が好きなの?w
戦友の俺には教えてくれるよねw
俺はサザン、ミスチル、B'z、AKB48が好きかなww
0539人間七七四年
2010/10/13(水) 21:24:01ID:3snSXsQP逆に言い出したほうがもっと無理になる
お前が言い出したレスを見てもな
>>538
ノーコメント
お前が戦友って何の冗談だ
0540人間七七四年
2010/10/13(水) 21:25:43ID:pfrj+DDu0542人間七七四年
2010/10/13(水) 21:28:53ID:vy/e32Ug最強寝ても疲れが取れない・・・
0543人間七七四年
2010/10/13(水) 21:30:38ID:vy/e32Ug0544人間七七四年
2010/10/13(水) 21:32:16ID:3snSXsQPうまいもの食ったり、昼寝したり、
色々あるだろ
0545人間七七四年
2010/10/13(水) 21:33:26ID:3snSXsQP0546人間七七四年
2010/10/13(水) 21:34:39ID:6FJ3fYsM第一次織田信長包囲網で語られるのは、武田信玄・浅井長政・朝倉義景・比叡山・本願寺・紀伊鉄砲衆って事になるのでありましょう。
織田信長の弱点は兵糧及び兵員の基本的な補給源が美濃・尾張であるという事と、彼が据えた政権の中心となるべき足利義昭の居場所が京であり、この間に確固とした補給路が確立しきれていなかった事が挙げられます。
それゆえにその分段線を浅井朝倉が琵琶湖の西岸だったり東岸だったりで確保しようとし、実際二度三度と分断された辺りが包囲網最大の危機でありました。
しかしそこで決定的な破綻に陥らなかったのは、3つあります。
1つめは分断された西の領域への本願寺の攻勢がなかった事(逆に本願寺に攻勢をかけていた)
西は警戒線を張って対処し、押しこまれてはいなかった。
2つめは中央の楔役である朝倉の本拠地帰陣
最重要な役目である分断&織田主力引き付け作戦を放棄したに等しい。
3つめは武田信玄の動きが三方が原以降停滞した事にあります。
信玄は三河野田の地にて明らかに意図不明な長滞陣を続けており、これが全体の戦略性に大きく作用しています。
武田信玄が病魔に侵されていなければおそらく西三河にまで武田に侵攻され、信長は武田家との決戦に対し主力を東に集めねばならなかったでしょう。
ただし信長は分断が緩くなったことで武田との決戦に十分な力を結集でき、必ずしも武田信玄に敗北するとは思えませんけどね。
包囲網の危機を脱したのは朝倉義景の帰陣が最も大きな役割を担っていたでしょう。
そして信玄の病死と武田軍の撤退によって東の圧力が減少することでそれが決定的となった、という事だと思われます。
0548人間七七四年
2010/10/13(水) 21:40:21ID:6FJ3fYsMやはり朝倉義景につきると思います。
岐阜に信長を帰してしまっただけでなく、追い討ちにも失敗し
さらには自国に引き上げてしまった1572年12月が
崩壊の瞬間と言えるのではないでしょうか。
この時点で信長に単独で対抗できる勢力はなく
いくら武田信玄といえどもその例外ではありません。
だからこそ各大名の連携なくして信長撃破は有り得ないのに
朝倉義景の撤退というのは信玄にとって考えられない選択だったのでは。
伊能文書の内容が事の重大性を今に伝えていると思います。
補足になりますが、一番の危機の瞬間はもう1つあったかもしれません。
本格的な包囲網構築の前の時期ではありますが…
本願寺、三好三人衆討伐に赴いた野田、福島城の戦いの最中に
浅井朝倉連合軍が京洛周辺まで攻め込み、さらに比叡山が敵に回り
比叡山に篭る浅井朝倉を攻めあぐねているまま
南近江に六角残党、伊勢長島に一向宗と
次々に半信長勢力が蜂起していった志賀の陣の時期の1570年12月です。
0549人間七七四年
2010/10/13(水) 21:43:06ID:6FJ3fYsM戦国BASARAも真に受けているけど。。。。。。。。。。
逆に武田や上杉が包囲されて滅亡したり・しかかったりしている。
信長が上洛した後に、本願寺、浅井、朝倉と対立して手いっぱいの時期に、武田信玄が家康と戦った。ただ、それだけ。
つまり、余裕がなかったというだけで、追い詰められていたわけではない。
武田信玄の信者とかが、本気で信じているんで、困ったモノですね。
武田信玄も周囲を、織田、徳川、上杉、北条に包囲されて、どこにも勢力拡張の余地がなかったので、
今川との盟約を破った。。。。。。。。。。。
0550人間七七四年
2010/10/13(水) 21:43:57ID:6FJ3fYsM「邪魔になる。天下布武が遅れる。しかし、自分が滅ぶ危機など感じていない。」
って所だと思う。
なぜなら、この包囲網は、
1、実質的な総司令部はない。
2、連携するための連絡手段に乏しい。
3、包囲側にも、織田軍以外に敵がいる。
この時代の「連携」の難しさについて考えて欲しい。
今日に例えれば、
「お互いに面識のない北海道と九州の人が、手紙の遣り取りだけで、連携して仕事をする。」
よりも難しい。現代なら2日ほどで確実に手紙は届くが、当時は届かなかったりしたのだ。
しかも、敵は、織田軍だけではないのだ。
武田信玄が
「朝倉殿は決して軍をひかない。例え、府中を一向一揆に攻撃されても。」
朝倉義景が
「武田殿は決して軍をひかない。例え、上杉謙信に北信を攻撃されても。」
とお互いに信じ合わねばならないのだ。手紙の遣り取りだけで、お互いに、面識も無いのに。
0551人間七七四年
2010/10/13(水) 21:45:30ID:6FJ3fYsMまず徳川家康は掛川・浜松・吉田・岡崎といった主要な城を維持しているため滅ぼすなり寝返らすなどして徳川領国を解体する必要がありそれから織田の領国を攻めねばなりません。
しかも三方が原の戦いでわずかな援軍しか送らなかったように織田信長は岐阜で美濃・尾張の軍勢を動員できる情勢にあります。
尾張にも清洲以下織田の城はあります。
それらを攻略しながら信長との合戦までもっていけるかといった問題があります。
上杉謙信の動向もありますし武田軍が長期の軍事行動に耐えられるかといった問題もあります。
上洛に成功したら結局、足利将軍家は傀儡のままで適切な時期に武田家が取って代り将軍家になっていたことでしょう。
確かに細川家や大内家など将軍を支え執政を行なうことで満足した大名もいましたが戦国時代も末期になるとそのような中途半端な体制は無くなり領国を完全に統治する戦国大名の権力構造が進展します。
織田信長のように征服した土地を完全に支配下に置かないかぎり勝ち残れないのです。
0552人間七七四年
2010/10/13(水) 21:48:09ID:6FJ3fYsM上杉謙信、武田信玄。過大評価の両輪だと思います。
武田信玄は信濃一国を切り取る時間や外交の不備、後継者問題みんなグダグダ。
上杉謙信も本当にそこまで義の人だったのか? 後戦負け無しってのも・・・・手取川の戦いは本当にあったかどうか胡散臭いし、
北条攻めでは十万も動員しながら、結局小田原は落とせなかったし。
0553人間七七四年
2010/10/13(水) 21:48:12ID:hIriViQU言ってみろ
0554人間七七四年
2010/10/13(水) 21:53:47ID:6FJ3fYsM名将なのは認めるが武田が滅びたのは信玄が敵を作り過ぎたからでしょう。
武田信玄は名将と云われますが、外交では大きな失敗をしています。
まず信玄は信濃守護職欲しさに上杉との講和を破っています。その後、駿河欲しさに三国同盟を一方的に破棄して北条を敵に回しています。この時、嫡男まで切腹させたのは痛恨の失敗でしょう。
そして今川攻めに至っては徳川を味方に付けたものの遠江欲しさに約束を破り、結果として徳川と北条が結びついてしまっている。そして徳川を蔑ろにした所為で、
嫡男の正室に信玄の娘を迎えたいという非常に好意的だった織田まで敵に成っています。
1570年時、武田信玄の周囲の勢力は全て敵に成りました。これは大きな失敗です。これも全て信玄の領土欲が引き起こしています。
後に勝頼の代で北条・上杉と同盟をしますが、根本的な信頼は回復されていません。勝頼は信玄の所為でかなり苦労したと思います。
もし嫡男・義信の進言を受け入れて今川攻めを行わずにいたら、織田・徳川との関係も悪化しておらず、勝頼が陣代という不安定な立場で家臣団を率いることもなかったでしょう。
トップの言葉が絶対ではない...という背景が、長篠での無断撤退など引き起こしていると思われます。義信が武田の家督にあれば、こういうことは防げたと思います。
そして結果的に織田家の力が強くなって敵対したところで、信濃や駿河の割譲で甲斐一国の大名として生き残るという和睦の道もあったかと思います。
毛利はそうやって生き残っていますし、信長は長宗我部にも領地割譲付き降伏勧告を行っていますが、武田は問答無用で滅ぼしています。
それだけ武田に裏切られたという恨みが深かったのでしょう。(有力国人による連合政権は戦国大名に珍しいことではないので、武田が滅びた理由には相当しないと思われます)
ちなみに度重なる出兵は信玄の代から始まっており、勝頼だけが行ったわけではありません。
その背景にあるのは敵対国家が多いことと金山の産出量減少で止むなく...という事情からです。敵さえ作らなければ金も蓄えれたと思うと残念でなりません
0555人間七七四年
2010/10/13(水) 22:01:15ID:6FJ3fYsMまず戦上手かより上手なのかを比較する時に、大将の資質と、配下武将の資質と、地元の民(=兵隊)の資質の大きく3つに分けて考えなければなりませんね。
そして戦うとなると、その戦場の地形、気候、どちらかの地元かどうかなどなど様々な条件が絡んできます。
武田信玄や上杉謙信が強いというイメージがあるのは、おそらく中央政権である織田信長が苦戦を強いられたからでしょう。歴史は中央政権に近い立場から書かれやすい。
特に武田が最強とよくされるのは、のちに江戸幕府を樹立する徳川家康が散々な目にあわされたからでもあると思います。
ぶっちゃけ大将の資質なら、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、島津義弘、伊達政宗...それぞれの脂の乗りきった頃はそんなに変わらないと思います。
兵隊の資質では地方によって差があるとされていました。文明化された地より野蛮な(文明の届かない)地、
商業国より農業国、平地より山地...より過酷な環境の地の方が兵隊の強さが上がるとされていました。
例えば、甲斐、越後、遠江、三河、北近江などです。
配下武将の資質も兵隊の資質に近い。なぜならほとんどの大名の家来はそれぞれの代々の地元出身者であるからです。
それを崩したのは織田信長と豊臣秀吉くらいです。
と、ここまで書いてきましたが、ぶっちゃけ一つの物差しでどちらが強いかなどは本当は計れません。
武田信玄や上杉謙信が戦上手で名を馳せたのは、おそらく初期からではないと思います。
そういう武将の成長もある。
だからどの段階をとるかにもよりますし、例えば北条早雲は戦や謀略上手でも鉄砲のある時代を知らないから、
彼の率いる軍隊が鉄砲を主流とした軍隊より強いかと言ったら疑問だったりしますしね。
そして戦いとは、ある一定以上の将にとっては、将棋でいう詰みでしかないんです。
その前に謀略、外交、流言、引抜、焼き働き、青田刈りなどありとあらゆる方法で相手を弱らせ、
人材発掘、練兵、兵器購入などあらゆる方法で自軍を強化し、勝てると踏んだ段階でしか戦わない、そういうものでした。
それは、戦争の古代や中世におけるバイブルというべき孫子に載っている事です。
唯一、そうした東西の人間たちが会し互角に近い形で行われたのは関ヶ原の戦いで、そこで島津は敵中突破して逃げるその他の西軍より兵隊の強さを見せました。
それでも少数が為に多勢に攻め立てられて生き残った者はほんの一握りでした。それは本当に強かったのか?そして強いけど負けている。
とまぁお答えになってないんですが、厳密に比較はできません。
ただし、相手に倍する、もしくは数倍する兵力を持っていたなら、それを分散させることなく集中して戦争につぎ込めるのなら、どんな名将にも勝てます。
結局その程度です。
0556人間七七四年
2010/10/13(水) 22:03:13ID:vy/e32Ugこのタイミングはできすぎだろww
まさか・・・w
0557人間七七四年
2010/10/13(水) 22:07:29ID:pfrj+DDu0558人間七七四年
2010/10/13(水) 22:24:48ID:zJ6ISRfsまあいくらソースを求めても信長公記と甲陽軍艦しか出さないから頭悪いと思ったらwww
自分はスレ主じゃない(キリッとほざいた嘘がすぐバレる程頭が悪いのもゲーム脳なら納得だわな
せめて講談の捏造を発表しろよゲーム脳www全くソースのない脳内勢力図や年表を発表されても困るんだよw
0559人間七七四年
2010/10/13(水) 23:17:07ID:Xakoqqtwで、実際は今こそ好機と蜂起するもあっさり鎮圧される。
それに別に信玄単体で手塞がりってわけでもないしな。浅井朝倉その他包囲網勢力が追い詰めてたってだけで
信玄は単なるその一員。
0562人間七七四年
2010/10/14(木) 00:55:38ID:AfIs+Sk8一方、織田信長は戦略家として優秀だと思います。
信長は確実に勝てる見込のある相手にしか攻めて行かない。
強い相手に勝つことが目的ではないからです。
信玄は上杉謙信の強さを分かっていながら、戦いました。
そういう面では戦略家としては失格でしょう。
今川義元が死んだ後も、激戦だった第4次川中島の戦いの後になっても、まだ謙信と戦おうとしましたからね(実際に戦ったし)。
北方進出、あるいは上杉謙信対策にこだわりすぎでした。
ずばり、もっと早く南下すべきでした。
つまり、北陸への進出はあきらめて駿河に進行するか、あるいは三国同盟を大事にするなら「今川と共同で」三河に攻めて行けば良かったはず。
今川と共同ならそれほど前線に兵力を差し向けなくて済むので、謙信への備えとしてある程度の兵力を信濃に残せたはずです。
0563人間七七四年
2010/10/14(木) 03:01:51ID:AfIs+Sk80564人間七七四年
2010/10/14(木) 08:25:53ID:8zAx2dqJ上杉謙信は動きを完全に封じられてたでしょ。
>562
手法の違い。
信長は拡大に急ぎすぎて結局滅亡した。
どちらが良いかは解らない。
0565人間七七四年
2010/10/14(木) 08:35:27ID:AfIs+Sk8織田が滅んだのは信忠まで死んでしまったのが痛かったと思います。
信忠が生きていれば間違いなく織田が天下を取っていました。
たまに誤解してる人がいますが、秀吉は織田家の人間を誰も殺していません。
織田信雄が信孝を殺したのを黙認しましたが、それだけです。
秀信に対しても、常に織田家の当主として寓し、自分が取って代わろうとはしませんでした。
織田家を乗っ取るのではなく、豊臣家という新しい姓を朝廷に作ってもらって、摂政関白として日本を治めます。
このとき、自分より格下になった織田家を潰そうとすれば潰せますが、最後まで潰しませんでした。
権力に飢え、権力のためなら主家を乗っ取ることにも躊躇しない、そんな非道の人物ではないんです。
信忠が無能ならともかく、武田攻めなどの記録を見る限り、決して無能な人物とも思えません。
また、信忠が先に死んで後継者が無能なら、秀吉が簒奪することもありうるかもしれませんが、
信忠は秀吉より20歳くらい若く、秀吉のほうが先に死ぬ公算が高い。
秀吉は織田家の筆頭家老と言う地位で、十分満足したのではないでしょうか。
従って天下は織田がとっていました
0566人間七七四年
2010/10/14(木) 08:35:52ID:8Nu9XXMx信玄は確実に領地を自分のものにして統治しなきゃ気が済まない性格だろうから無理
それに海はどうしても欲しいだろうし
海が欲しいけど越後に謙信がいるからわざわざ同盟破ってまで攻めるわけで
今川と共同で攻めたって今川領を経由しなきゃいかんのは不安だろうし
その仮定はもう信玄じゃないな
0567人間七七四年
2010/10/14(木) 08:41:04ID:8Nu9XXMx誰もそんな勘違いしてないが どこ見てんの
秀吉が謀叛するとか言われる原因は信孝殺して信雄の所領を取り上げたからだろ
無知乙
0568人間七七四年
2010/10/14(木) 08:42:14ID:AfIs+Sk8まず本能寺後の信忠が脱出するルートですが、大まかに三つあります
@東の勢田川を越え、唐橋を落とす。唐橋さえ落とせば2〜3日の猶予が出来るので、その間に岐阜の軍勢を安土へ呼び寄せ
織田全軍に光秀討伐を下知する。本能寺は信忠の泊まっていた妙覚寺より南にあるので、京の奪取は可能と思われる。但し、坂本城の存在が気になるところ。
A大阪への脱出。大坂には異母弟・信孝の1万数千がいるし、池田恒興など摂津衆を掻き集めれば2万にはなる。京さえ脱出すれば大坂行きは比較的安全だが
信孝軍は信孝が逸った所為で、兵士は15〜60歳というはば広い年齢層から成り立っており、光秀軍と戦えば負ける可能性が高い。ただ秀吉軍の来着を待てば、勝ちは揺るがないだろう
B京都御所へ逃げる。妙覚寺から御所は北にあるので移動は可能と思われる。そして御所に逃げ込んでしまえば光秀は手が出せない
家臣への命令は武家伝奏を使うことで可能となり、結果的に秀吉が光秀を討つ事になるでしょう。しかし、朝廷が変事の黒幕であった場合は命の危険性がある
このように危険はあるものの脱出は可能です。そして脱出すれば光秀に勝利はないでしょう。そして、その後の信忠の天下統一は可能と考えます。何故なら
・信忠領は濃尾と信長の遺領を加えて150〜200万石と家中一
・柴田勝家は信忠に従う。
・丹羽長秀や堀秀政、池田恒興も信忠に従う。
・信雄と信孝は信忠が健在なら仲違いしない。
・三兄弟が結束すれば、他社が担ぐ織田一門はいなくなる。
・秀吉に功があっても一カ国増が限度。
・信長の死に伴い、信忠は昇進(大納言あたりに)
また私が注目するのは松姫(信玄五女)の存在です。信忠は26歳にもなって正室がいないという珍しい武将です。
一説には元婚約者であった松姫に迎えの使者を送ったとされていますので、恐らくは松姫を正室に迎えるはずだったと考えて間違いないと思います。
そして松姫が正室となれば、甲信は織田領に回復されるでしょう。
信忠が脱出したとしても、甲信は荒れるはずです。しかし、信忠と松姫の祝言が行われれば、武田の遺臣は信忠に従うはずです。(信玄も諏訪家を滅ぼし、娘を娶って諏訪家臣を従えた)
そして甲信が落ち着けば、手を伸ばしていた徳川も抑えている領地を織田へ返すしかありません。
となると、摂津より東は全て信忠が抑えることとなり、総兵力15万、総石高500万石は軽く超えます。秀吉に天下への野心があっても対抗は不可能でしょう。黙って従うしかありません。
また天下統一までの期間ですが、私は信長がやるより信忠の方が早いと思います。何故なら、信長は宇喜多を秀吉が降伏させたとき、
領地安堵したことを叱責しています。その結果、秀吉は毛利降伏には領地割譲を条件とし、交渉していました。また信長は長宗我部にも領地割譲を通告しています。
このような晩年の信長は、降伏の条件に領地割譲を求めていたことが考えられます。
故に領地割譲に従いそうにない長宗我部、島津(+龍造寺の可能性も)、北条とは少なからず戦になると予測しています。戦になれば、長引くことでしょう。
しかし、信忠の場合はそこまで苛烈な要求はしないと思われ、従うなら許したでしょう。
さらに家臣の結束も、信長時代より信忠時代の方が固いと思います。何故なら信長は功臣である佐久間や林を追放しており、家臣の間ではいつ自分の番になるか怯えていたことでしょう。
しかし、信忠ならそんなことはありません。故に家臣としては信忠の方が遥かに仕え易い主君だったはずです。
これらにより敵を無闇に作らない信忠の方が天下統一は圧倒的に早いのでは?と私は考えています。また羽柴は当然ながら徳川も晩年は織田から駿河一国を拝領していますので、
もはや家臣化したも同然です。(対等な同盟者なら恩賞にはならない)さらに上記に列記した如く、反抗しても絶対的に信忠有利であり勝ち目がないので、
両者とも一大名として終わるしかありません。
※信長は生前に信忠を将軍職に推していたとされています。これが真実であれば、何処かの段階で信忠は将軍となり、天下統一に拍車が掛かるのは間違いありません。
私が思うに、信忠は当時の戦国武将の感覚とそれほどかけ離れた思考の持ち主ではない、と思います。よって天下構想は幕府による統治であると考えます。ただ何を望んだか?
というものはないと思います。何故なら天下をどう統治していくか、ということは信長が考えることであり、信忠が口を挟めることではないからです。故に信忠は天下がどうのこうのより、
信長(つまり父親)の考えを読むことをに徹していたと予測します。
0569人間七七四年
2010/10/14(木) 08:44:42ID:8Nu9XXMx大軍で離反者続出してる武田を滅ぼせるのは信孝でもできたろうに
本能寺で逃げずに死んでる程度なのに天下統一できるのか?
0570人間七七四年
2010/10/14(木) 08:45:55ID:AfIs+Sk8・いくつか例外があるものの戦国時代の大名家も基本は長子相続。信忠は信長から格別の待遇を受け実際織田家の当主になった。
信忠の長子が存在すればその子が正統な当主になるというのはまったく当然の話。
・信雄自身一武将として格別の経験や実績があるわけではない。
・本能寺の変が起きた時点で信雄は北畠家の人間。
・清洲会議の頃には織田家の後継者問題など重臣達にとっては二の次になっていて、天下人の座を巡っての覇権争いに関心が集まっている。織田家の血と一定の所領を有する信雄はむしろ邪魔な存在。
ゆえに清洲会議に呼ばれなかったのも当たり前。重臣達が強く推す要素がありません。
0571人間七七四年
2010/10/14(木) 08:47:52ID:8Nu9XXMx誇大妄想乙
脱出できてないから死んでるんだが それが信忠の限界
信孝を担いでた柴田が素直に従う根拠もないし秀吉に組従った奴らが信忠の配下に収まる保証もない
0572人間七七四年
2010/10/14(木) 08:48:35ID:AfIs+Sk8ただし天下統一と言う信長の意思は受け継ぎました。
秀吉は織田家の家臣ですから
織田家を支えていかなくてはならないはずですが
(戦国時代ですからその辺は曖昧ですが・・)
いつの間にか織田家の天下を簒奪しました。
その中で信孝は殺され、信雄、三法師は排除されました。
信孝は辞世の句で
昔より、主を討つ身の 野間なれば 報いをまてや 羽柴筑前
と詠んでいます
その30年後にそのとおりになりました。
0573人間七七四年
2010/10/14(木) 08:50:57ID:AfIs+Sk80574人間七七四年
2010/10/14(木) 08:51:21ID:8Nu9XXMx後見人の信雄信孝を殺し所領召し上げてる時点で駄目だろ
天下への関心ってじゃあ信忠になっても天下への関心で皆が勝手に動き出すじゃん
信忠支持した秀吉、信孝担ぐ柴田で史実と同じ流れでおしまい
0575人間七七四年
2010/10/14(木) 08:51:56ID:AfIs+Sk8信長の晩年は、信忠が事実上の総大将として役目を担っており、実績はかなりのものです。もし信忠が生きていれば、光秀を討ったのは信忠になったでしょう。何故なら....
・濃尾二カ国は信忠領で、動員兵力は三万を超える。
・岐阜は元信長の居城で城下は整備済み、兵が集めるのも早い。
(伊勢に信雄一万もいるし、細川や筒井も味方する可能性がある)
・秀吉が上洛してきても、光秀自身が信忠討伐を優先する。
・秀吉は信忠の命令に従わざるを得ない。
・既に織田の家督は信忠が継いでおり、信長領はそのまま信忠が引き継ぐ。
このように秀吉が出る幕がなくなり、論功行賞で僅かな加増を受けるのみでしょう。さらに信忠が天下人になり、秀吉や家康が敵わない要素が多分に揃っています。
・柴田勝家は信忠に味方する。
・丹羽長秀や池田恒興・堀秀政なども信忠に味方する。
・信雄と信孝も信忠がいれば仲違いしない。
・これにより織田と戦う家康の大義名分がなくなる。(担ぐ人物がいない)
・甲信を失っても、松姫(信玄五女)との婚儀と勝長がいれば取り戻せる。
(勝長は正式に信玄の養子になった経緯がある)
・つまり信忠直轄領は少なくとも濃尾・甲信・信長領(200万石以上)となる。
・毛利は織田(羽柴ではない)と和睦した事になっている。(宇喜多も織田に臣従)
(信忠が領地安堵を下せば、毛利は羽柴を見捨てる可能性が高い)
・信忠は既に高位、信長死去に伴い昇進する(恐らくは大納言クラス→大臣職へ)
このように信忠が有利になる要素は多分に揃っていても、秀吉や家康が有利になる要素はかなり乏しい状況です。信忠が暗愚なら別ですが、実際はかなり優秀(信長には劣る)な人物だったようです。しかも信長が苛烈だったのに比べ、
家臣としては信忠の方が追放などのリスクが少ない分、仕えやすいときている。もしかすると信長の代より家臣の結束が固い可能性があります。
また勘違いしやすいのですが、当時の秀吉は後に大老となって豊臣政権を動かしていた家康とはまったく異なり、家中での権力は中国地方に及ぶ程度に過ぎません。よって足元はかなり脆弱でした。(家康も東海三カ国では織田と戦えない)
0577人間七七四年
2010/10/14(木) 08:54:33ID:AfIs+Sk8信忠が生きていれば、間違いなく織田が天下人になっていたでしょうね、もちろん本能寺で信長が光秀に討たれていてもです。
信長は、長男の信忠を他の兄弟とは別格扱いで、自ら英才教育を施しています。信長に謁見した宣教師によると、
信長と信忠は同席していましたが、次男三男はお膳の運び役をしており、次の間に控えていたそうですからね。
それでも信長は、信忠を跡継ぎとしては物足りないと、大分悩んで側近の祐筆などにこぼしていたそうです。
信長の命令は絶対で、独断で作戦を行うことを非情に嫌います、いちいち信長の了解を取らなければ行動が出来ません。
でも、いつもいつも信長の命令を忠実に実行するだけでは、無能扱いされるのですから、上司としては仕えにくいタイプですよね。
武田攻めの総仕上げは、長男の信忠を総大将にして甲斐に送り込んでいます。自分が行くまでは、みだりに強敵武田に攻め寄せることを禁じています。
しかし、信忠は信長の命令を無視して、武田軍の機を見て、頃合よしとして総攻めにして、武田を信長の到着を待たずに滅ぼしてしまいました。
これを聞いた信長は激怒するどころか、側近連中に、これで自分も安心できると、非情に喜んだそうですよ。
青年信忠もこの頃には、跡継ぎとしてふさわしい立派な武将に育っていたのでしょう、なので信忠存命ならば秀吉も野望など抱く理由がありません。
そのために、信忠には幼少の頃より、おもちゃなどを与えて、ご機嫌をとってきたのですし、いくら山崎の功が大きくても丹羽などが秀吉を後押ししませんからね。
0578人間七七四年
2010/10/14(木) 08:55:58ID:8Nu9XXMx信孝担いでた柴田が何で信忠を担げるって言えるんだ?
お前の言うとおり三法師を担ぐのが当たり前なのにわざわざ信孝を担いでいるが
イメージだけでモノ言われてもねぇ・・・しかも最近知ったことだろお前
教えといてやるが既に信長は信忠に家督を継がせてるんだよ 本能寺の時当主は信忠なんだ
0579人間七七四年
2010/10/14(木) 08:56:40ID:AfIs+Sk8信忠ですが18才の初陣から武田家攻略で数々の武功をあげており、信忠の器量に家臣から疑問の声が上がることはほとんどなかったことから考えると相当有能な人物であったことが考えられます。
本能で討ち死にしてしまいますが、25才の若さで武田、毛利と渡り合い、部下に明智光秀や秀吉がいたとはいえ全くの負け知らずの武功です。
逆に言えば彼には明智光秀や秀吉を使いこなすだけの器量があり、清洲会議で信忠の子、三法師が織田家を継ぐとした秀吉の決定に誰も逆らえなかったのはそれだけ信忠が優れていたのを家臣からも認められていたからと言えます。
内政や計略が信長に及ぶかどうかは分かりませんが、戦術眼に関しては信長に勝るとも劣らない人物だったといえます。
0580人間七七四年
2010/10/14(木) 09:01:40ID:8Nu9XXMx信忠の戦歴は大軍の武田攻めぐらいしかない
実際は本能寺で光秀に襲われた時に有楽斎は逃げ出せたのに信忠は逃げれなかった
そこまでの器量はない
清洲をやたら出すが関東管領の滝川を交えないでやった会議が参考になるとは思えんが
史実通り信孝を柴田が担ぎ秀吉が討って信忠を傀儡にしてEND
0581人間七七四年
2010/10/14(木) 09:02:39ID:AfIs+Sk8信忠が健在だった場合のシナリオはまず、本能寺の変後、信忠と秀吉が合流して明智を討ちます。
んで論功行賞で秀吉に光秀旧領の丹波らへんを与えて終わりでしょうね。
あとは信長の事業をそのまま引き継いで各々の担当地区の制圧に戻るだけですね。
0582人間七七四年
2010/10/14(木) 09:05:14ID:AfIs+Sk8信忠が健在であれば、秀吉や勝家より多くの兵を持っているわけですし、織田家の家督は形式的にですが信長から信忠に譲られており、年齢もあいまって、信忠は「全く疑義なく」織田家を信長から継承します。
逆心である光秀の兵は1万5千ほどであったとされますが、信忠の直轄の兵力だけでも3万に達し、光秀の2倍となります。
そして、信忠が無事に岐阜城または安土城に入れば、光秀の組下の細川藤孝、筒井順慶は当然に信忠の下につきます。近江の諸将もみな信忠につきます。
明智の自前の兵が一人も離反しなかったとしても、圧倒的な信忠の兵力の前では敵するべくもなく、一もみで押しつぶされるでしょう。
史実では豊臣秀吉が行った天下統一は信忠によって成し遂げられ、柴田勝家も羽柴秀吉も「織田家の家老」として生涯を終えたと思われます。
0583人間七七四年
2010/10/14(木) 09:08:36ID:AfIs+Sk8信忠はこの時点では「織田家の頭領」です。信長はとうの昔に家督を譲っています。織田家の所領は美濃・尾張だけです。つまり信長は織田家の頭領ではなく、
織田信長が版図を広げた所領すべてのトップです。言い換えれば織田国の首長。会社で言うと、織田本社の社長が信忠で、数十社をまとめた織田グループの会長が信長です。
信長が倒れれば自動的に会長職に付く立場。しかも教育係は秀吉です。子供の頃から育てている信忠を粗末に扱うとは思えませんし、家臣からの信も失います。
信忠ですが、他の子供よりもまともな思考・性格だったようです。彼の弟たちは気位は高く性格は短気ですが、他の家臣にいいように扱われ結局落ちぶれます。
伝説で「家康の長男信康は有能で武将として優れていて、信忠では勝てないので難癖をつけて切腹させた」と言われますが、そういううわさが出るぐらい性格はおとなしかったのでしょう。
能力は美濃・尾張の所領をうまくまとめ生産性も上げ、武田の侵入も許さなかった事から決して低くはないと思います。
ということで信忠が生きていれば、秀吉を一種の軍師として版図を広げていったとも考えられます。
でも彼は目の前で炎上する本能寺を捨てて逃げる事はできずに、兵力優勢で知略もある光秀に対して少数で攻めて亡くなりました。
優しすぎる性格だったのでしょうね
0584人間七七四年
2010/10/14(木) 09:09:11ID:8Nu9XXMxだから柴田が従う根拠は?
史実じゃ三法師の継いだ織田家に謀叛してるのに
光秀を討つ秀吉がその程度の加増もおかしい 信忠の兵が集まるより早く秀吉は光秀を討ってる速さだし
0585人間七七四年
2010/10/14(木) 09:10:28ID:AfIs+Sk8最近の研究の結果で、かなり優秀な人物であったということが分っています。
まず、本能寺の変に直面しての判断の的確さと果断さ。
最初に小規模の反乱を疑い(常識的なナイス判断です)、馬廻を連れて本能寺へ向かいます。
しかし、明智勢の謀叛と察知すると、無理な突撃戦を演じることなく、二条城に向かいます。
(京都脱出は無理と判断したのも的確です…脱出に失敗して捕縛されたら正に最悪の事態です)
二条城では集まってくる直轄軍をよく統率し、明智勢を何度も押し返す奮戦を見せています。
確実に織田家の最後であろう時間に、玉砕覚悟の戦いを維持できたのは大将たる信忠の能力による所です。
しかも、戦闘開始前に嫡男を僧侶(前田玄以)に託して逃亡させているのも優れた判断と言えましょう。
そう思えば、
彼が生き残っていれば、織田家があの段階で瓦解する可能性は極めて低いと言えましょう。
信忠の嫡男(秀信)もそれなりに気概のある武将に育ちましたから、きちんと帝王学を授かれば、
更に優れた為政者になったことと思われます。
0586人間七七四年
2010/10/14(木) 09:16:19ID:8Nu9XXMx質問に答えろよks
まあ飽きたからマジレスすると既に家督継いでる信忠が生きてたら清洲会議なんぞ起きない 信長が死んでも何一つ変わらん
信孝達が四国攻め入り毛利上杉滅ぼし天下統一確実 柴田が信孝を担いでも信孝が担がれるわけない
0587人間七七四年
2010/10/14(木) 09:16:52ID:AfIs+Sk8信忠の長男という事実は非常に重いものであることに変わりはありません。
次に信孝は山崎の合戦での功績、柴田勝家が烏帽子親、次男の信雄が暗愚、織田家を取り巻く情勢が成人当主を望んでいたことなどから後継者の一人となりました。
ただ信孝は先にも触れたように他家に養子に出ています。武田勝頼が諏訪家に入っていたことを理由に武田の家督を継げなかったように、
当時の常識から養子に出た信孝を当主とするには大きな抵抗がありました。さらに信雄も養子(北畠家)に出ており、しかも四男の秀勝も養子(羽柴家)です。
もし勝家が強硬に信孝を推していれば、秀吉は対抗馬として秀勝をも後継者の一人に担ぎ出した可能性があります。(実際、会議で存在をチラつかせた可能性はある)その秀勝が織田家当主となれば、
秀吉が実権を握ることは目に見えていましたので、勝家としては折れて三法師を認めるしかなかったのだと思います。
このような状況では、神戸氏である信孝はどう手を打っても家督は継げません。
0588人間七七四年
2010/10/14(木) 09:19:57ID:AfIs+Sk8ただ秀吉が擁立した三法師を立てた理由の中に信長の意志が上げられていました。
信長としては家督争いを避けるために長男を立て筋目を望んだのに二人を戻すのはその意志に反するといった理屈です。
信忠も討たれたまさに不測の事態なのですがこれは一定の影響を持ちました。
信雄と信孝が家督を継げなかった一番の原因は二人が対立していたからです。
これは深刻で出生の段階からして早かったのに弟として三男にされた信孝は兄を恨み、信雄にしても四国征伐大将を任された弟の台頭に嫉妬していたようです。
0589人間七七四年
2010/10/14(木) 09:23:56ID:AfIs+Sk8ということは少なくとも起きなかったと思いますよ。
秀吉が実質的に織田家を乗っ取ることができたのは
三法師という幼君をまつりあげ、その後見者という立場や
養子で信長の実子である秀勝を利用しましたが
名目上はすでに家督を継いでいた信忠が生き残っていたとしたら
そのようなことは全く不可能です。
0590人間七七四年
2010/10/14(木) 09:36:03ID:AfIs+Sk8信長の後を継いで安土幕府の初代征夷大将軍になったでしょう。
史実なら、秀吉が中国から反転して戻ったときに、
主家筋である信孝を一喝して
光秀討伐の軍の主導権を握ったまま勝利したので
その後の跡目争いの清洲会議で発言権が増し、
信忠の嫡男である三法師を担いで自身が台頭して天下統一!
云々の話は成り立たなかったでしょうね。
信忠は既に跡継ぎに指定され、
各所でも軍を率いてそれなりに将として活躍してましたから
跡を継ぐ時期が早まっただけになったのではないでしょうか。
さすがの秀吉も信忠を差し置いて台頭すれば只の謀反人にされますから、
そんなことはありえないので、
その後はすんなり信忠政権が下天下統一したでしょう。
0591人間七七四年
2010/10/14(木) 09:46:36ID:AfIs+Sk80592人間七七四年
2010/10/14(木) 12:20:24ID:8Nu9XXMx何一つ資料を出さないのも実に見事な妄想ぶりですな
仕事もしないキモオタ童貞包茎ニートは流石としか
0593人間七七四年
2010/10/14(木) 12:26:41ID:8Nu9XXMxこれだから講談信者かゲーム脳は質が悪い 人の文章を読む力もないんだから
2chのマナーも守らずひたすらゲームで得た知識を長文連投でつづり都合の悪い事は理解できない可哀想な頭w
悔しかったら軍記以外のソース出してみなw無理だろうがwww
0594人間七七四年
2010/10/14(木) 12:42:52ID:cM2R/Gylただ、信玄があと1年生きていれば織田はなくなっていましたね。
0595人間七七四年
2010/10/14(木) 15:23:26ID:Z0013OkP全時代で認められている歴史的事実。
この冷厳な重要こそ重要なのではないでしょうか?
0597人間七七四年
2010/10/14(木) 16:52:32ID:Z0013OkP0599人間七七四年
2010/10/14(木) 17:45:00ID:td1ddvtf一般人じゃなく、専門家から評価されているけどね。
0600人間七七四年
2010/10/14(木) 17:52:38ID:PmS1QkT60602人間七七四年
2010/10/14(木) 18:01:45ID:PmS1QkT6武田家滅亡の責任の7割は、武田信玄にあったというのが定説。
著者は信玄の犯した失敗を次のように箇条書きにして指摘します。
・真剣に天下を狙うのなら、川中島で時間をかけ過ぎた
・自分の寿命を考えずにいつまでも家督相続を行わなかった
・自分に対する過信から後継者育成に真剣に取り組まなかった
・勝頼を“代理の当主”にするという中途半端な禅譲を行った
・勝頼を軽んじる古参幹部を残し、後継者がやりにくい体制にした
武田家滅亡に学ぶ事業承継
武田関連の書籍で最も高い評価を得ている書籍。Amazonのレビューの
評価も高い
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%AE%B6%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E6%89%BF%E7%B6%99-%E5%8C%97%E8%A6%8B-%E6%98%8C%E6%9C%97/dp/4344011880/ref=wl_it_dp?ie=UTF8&coliid=I3A8DMT9XFACDV&colid=1BVRXM1QM3QJT
0603人間七七四年
2010/10/14(木) 18:02:25ID:PmS1QkT6武田家滅亡に学ぶ事業承継 「武田家滅亡は信玄に7割、勝頼に3割の非」
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%AE%B6%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E6%89%BF%E7%B6%99-%E5%8C%97%E8%A6%8B-%E6%98%8C%E6%9C%97/dp/4344011880/ref=wl_it_dp?ie=UTF8&coliid=I3A8DMT9XFACDV&colid=1BVRXM1QM3QJT
●レビューで低評価
信長は本当に天才だったのか 工藤 健策
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794216262/ref=s9_simz_gw_s0_p14_t1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-2&pf_rd_r=0AACVNQXJJYSES2SHBYF&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376756&pf_rd_i=489986
0604人間七七四年
2010/10/14(木) 18:03:06ID:PmS1QkT6タイトルでこの二人についてはかなり詳細な記載があるのですが、信玄は名前すら出てきません。
長篠の戦いで倒される相手として武田家や武田氏として名前があがるのみです。
信長や秀吉は歴史を動かした。この二人が統一した政権を奪ったのが家康ですが、家康は天下を統一した
人という評価は受けていないようです。
検定があり、もっとも客観的史実の評価が厳しい教科書での評価はこのようなものです。
信玄は人気があるようですが、歴史的な重要な人物とされていません。
なんの偉業も成していませんから。
0605人間七七四年
2010/10/14(木) 18:03:48ID:PmS1QkT6日本史上、有数の暴君である戦国大名。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが、上杉に阻まれる
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武田信玄(適正値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
信玄が信長よりスタートに恵まれない → だがの妄想
信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
これが結論
0606人間七七四年
2010/10/14(木) 18:05:26ID:PmS1QkT6それで武田信玄が過大評価されるようになった。江戸時代に書かれた甲陽軍艦や武田の軍法などがまさにそれ。
武田信玄以降、日本の政局から大きく取り残されることとなった山梨県民が、その武田信玄過大評価に一役買ったところも
ある。地元出身の歴史研究家が誇張された信玄像を資料等の曲解で裏付けもした。
それが、実力、業績不相当な、虚像を生んだ原因だろう。
これからは、等身大の武田信玄の再評価が求められる。
0607人間七七四年
2010/10/14(木) 18:07:39ID:PmS1QkT6タチが悪いためできるだけ関わりたくないランキング
1.武田厨
信玄マンセーのため必要以上に他者に噛み付く。相手にソースを要求するが自分は意図的な曲解大好き。
今だに甲陽軍監や片目のスーパー軍師勘助やファンタジー幸村を信奉しているオールドタイプ。
信玄を愛し過ぎて、信玄が日本を作ったと言わんばかりの物言い。天下人信長秀吉は病的なまでに大嫌い。信玄マンセー家康なら認めてやってもいいらしい。
スレ板関係無しに信玄の話題さえあればどこにでも出張してくる。信玄以外がマンセーされたらそれはそれで出張してくるから本当にうざったい。
2.伊達厨
厨の中の厨とは彼らのこと。ガイキチ大名政宗に己を投影させたがる重度の厨二病患者。少しオツムが弱いか反社会的性格の持ち主。
あまり歴史は詳しくないが何となく政宗カッコイイと思っている。実際天下取れたし、秀吉家康秀忠家光ら天下人から恐れられた政宗スゲー!という妄想大好き。
ちなみに政宗以外の伊達ファンは厨に含まず。ただそういう奇特な方はなかなかいない。
3.織田厨
言ってることは間違っていないがなんか見下してくるのが癪にさわる。
馬鹿で非常識な武田厨をからかいたがるのも周囲からは迷惑な話。顔真っ赤にした武田厨が暴れても火に油を注ぐSっぷりもうざい。
4.徳川厨
ソース大好き。家康マンセー以外の話題にはソース要求。自分の家康語りではソースのお披露目。
秀吉嫌いの武田好き。信長には複雑な心境。武田厨よりソースの選定は気を遣ってる模様。
5.義と愛厨
三成直江幸村厨など現実と妄想、史実とファンタジーの区別がつかなくなったかわいそうな人種。
歴史に詳しくないどころか極限に頭が悪いのでまともなコミュニケーションがとれない。
しかし、自覚症状があるためか無視すればあまり害はない存在。
0608人間七七四年
2010/10/14(木) 18:25:42ID:8yeqBjK7織田厨のフリをして信玄貶しばっかやってるし
しかも北条厨を問い詰めるとほとんど根拠が伝説講談レベル。
おまけに学者の引用まで根拠が「〜に違いない」レベルのアホ宗教信者ぶり。
0609人間七七四年
2010/10/14(木) 18:59:42ID:PmS1QkT6戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
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武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
毛利元就(適正値)
統率98 武勇72 知略115 政治89
徳川家康(適正値)
統率102 武勇88 知略100 政治115
豊臣秀吉(適正値)
統率105 武勇65 知略110 政治120
織田信長(適正値)
統率120 武勇105 知略105 政治105
北条氏康(適正値)
統率95 武勇82 知略89 政治110
上杉謙信(適正値)
統率92 武勇99 知略68 政治95
信玄が信長よりスタートに恵まれない → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。
0610人間七七四年
2010/10/14(木) 19:20:58ID:hPXXLpNT信長は包囲網に延々苦戦して結局本能寺で全て失ったけど
政宗は強大な南奥州連合を打ち破ってわずか5年もの間に25万石⇒180万石と圧倒的拡張見せたし
佐竹も相馬も滅亡寸前だったし。秀吉の惣無事令が出てたのがネックで運が悪かったな
0611人間七七四年
2010/10/14(木) 19:21:11ID:td1ddvtf統率68 武勇56 知略82 政治72
↑何これ?
知略って何?
政治って?
意味わかんないんだけど
0612人間七七四年
2010/10/14(木) 19:24:48ID:uNwAuJ0cなにせ斉藤は義龍と道三との内紛や浅井との戦いや義龍の死や稲葉山乗っ取り事件等で信長が侵略する前に既にガタガタだったし
信長は義龍相手に手も足も出なかったしな
0613人間七七四年
2010/10/14(木) 19:25:44ID:GwssNrvv姉川では家康以下が露見し上村合戦や東美濃攻防戦で蹴散らされ
高遠や岩村攻囲戦でも大苦戦か大損害。
徳川が押さえてなきゃ義元なき後の今川や浅井朝倉、武田あたりに瞬殺されてただろ
徳川の戦闘力が高いのは対朝倉、一向宗、今川、北条、豊臣などで歴然。
圧倒的大軍で各地で敗戦を繰り返す雑魚長より遥かに強い。
織田が徳川の位置にいたら信玄に瞬殺されてたのは間違いない
0615人間七七四年
2010/10/14(木) 19:26:32ID:uOfGzsOY勢力拡張できた。運だけ野朗
信長は畿内や美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
0618人間七七四年
2010/10/14(木) 19:28:09ID:egoOaG0K岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
70 羽柴秀吉
0619人間七七四年
2010/10/14(木) 19:30:01ID:WF68xDeJ0620人間七七四年
2010/10/14(木) 19:32:07ID:PmS1QkT6,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、 ウホッのはやきこと風の如く
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ ( やらないか?と会話せざること林の如く
/o O / l´ ● ::::::::::ヽ ' ,ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ●ヽ ∧ `⌒/7へ‐´ いい男!すること火の如く
/ ,イ レ_ i ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 ,,,,,,,,,,,,,,,|,,,,, ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、 アッーする事山の如し
彡:::::::::::l ト、,, |∪ | / | l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \,,,`ー'/ ,イ 川ハ ヾー‐'^ー "
0621人間七七四年
2010/10/14(木) 19:33:24ID:PmS1QkT6「アスペルガーだがは史料をもとに完璧な推察をしている」と自己擁護運動を展開中
この痛さにどのスレでも火だるま的な総攻撃を受けているが得意のイミフの反撃で応戦
アスペルガーだがの根拠が無い妄想レスを偉大なる証拠に掲げ
都合の悪い人を敵と見なしては証拠を出せ出せと連呼攻撃
アスペルガーだがの痴態に多くのスレが無意味に荒らされています
しかしアスペルガーだがは本当に阿呆だよな
いつまで自演を続けているのだろう?
そしてアスペルガーだがは負け犬ということを忘れて再び戻って醜態を晒すのはいつだろう?
0622人間七七四年
2010/10/14(木) 19:33:46ID:y4jAAqzGどこが暴君だってんだ。
普通に同格相手に勢力を拡大してる。嘘をつくなよ。
>>家臣や国内の不満を生むこととなり息子の勝頼は拡大路線をつらなけらばいけないこととなる
ソースよろしく。でてこないだろうけど。
>>度重なる外交への不義により武田家への他国の信用性はゼロに等しく、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することが
>>結局できなかった
これもソースよろしく。普通に勝頼は関東諸侯やら上杉やらと結んでる。
信玄死亡時は北条が同盟国。長篠と御館を押し付けるのはおかしすぎ。
>>一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
武田滅亡は長篠の7年後だが、7年が1か月か。すごいすごい。
長篠直後で勝頼が援軍に行けない状態でも岩村城を5か月かけても落とせなかったくせに。
武田が崩壊したのは長篠と御館で北条や徳川との多方面作戦での疲弊。
その間たくさん戦ってる。
>>信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
随分苦労してるがな。
画像が畠山じゃねえか。
その基準なら信長さまは統率40代きりそうだな。
知略はぼろぼろだな。
>>信玄が武田よりスタートに恵まれない
そもそもこの文章がおかしいと思わんのか。
信長と書きたかったんだろうが実際恵まれてないんだが。
だから笠原上杉、長尾上杉、北条、織田徳川、上田原後の信濃連合
十分戦ってる。
いい加減妄想はやめとけ。
とりあえず根拠となる資料を出して立証してもらおうか
>>信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
毎年餓死者が続出する貧国甲斐と信虎を追放した事で国人統制の問題もあった。
>>一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
はいはいうそうそ。
信秀はもとから尾張で最強の実力者。弾正忠家の実力は20万石以上。それに加えて津島熱田の経済力を有してる。
信長は普通に継承してる。信長がそむかれたのはその素行から。
上杉からは5年で西上野20万石とってるし、北条からは2年で駿河15万石とってるが。
>>謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や
その後で第4回川中島で撃退も成功。西上野も攻略してる。
>>氏康の病気をねらって
氏康が病気になるのは武田が駿河の大部分を手に入れたあとだといってんだろ。低脳が。
>>両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができず。
北条は駿河の継承権を譲り受けてる。西上野は上杉の領土。
普通に北信濃・西上野・駿河と50万石を軽く超える領土を得てるんだが。
とりあえず資料だしてくれや。お前の妄想の。
0624人間七七四年
2010/10/14(木) 19:34:45ID:y4jAAqzG織田信長
日本史上、有数のキチガイである戦国大名。
同格の斎藤義龍にとても勝てず、幼君にも何度も負けてるすさまじい戦下手。
ただ桶狭間で敵先陣と間違えて本陣突っ込んだり、手も足もでない斎藤義龍が早死にし
信玄謙信がちょうどいいタイミングで死に、畿内に勢力の真空が生まれていたという
非常な幸運に恵まれてはいた。しかし素行が悪すぎた為、家臣や味方に生涯裏切られ
最後は息子ともども重臣にころされ、織田家は完全に崩壊した。
信長死後誰も織田家を守ろうとせずみんなで自分の勢力拡大に走った面からも
いかに慕われていなかったかがわかる。
戦国でもっとも短期で崩壊した大名であろう。
武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
これを基準とした場合の信長の能力地
織田信長
統率40 武勇50 知略52 政治45
信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ→キチガイ織田厨のウソ
信秀はもともと尾張最強の実力を有しており、晩年には三河と美濃の領域は失ったが
尾張国内の力は顕在。信長は普通にこれを継承しており、後で素行の悪さでそむかれた。
実際継承時は弟も林も柴田も佐久間も平手もおじも従っており、名古屋周辺だけなんて
ありえない事がわかる。
信長は信玄より戦が強い→キチガイ織田厨のウソ
実際信長は生涯において格下相手に負けまくっている。
その敗戦数は数十に達する。根っからの戦下手。
秀吉・家康の天下は信長のおかげ→キチガイ織田厨の大ウソ
信長死後、織田家は完全に崩壊しており、秀吉はその旧織田家の勢力争いを勝ち抜き、
さらに多くの大名を倒して天下を統一した
秀吉は織田の一族でも何でもなく、もちろん信長から禅譲などしてもらっていない。
秀吉の天下は彼の実力によるもの。家康に至ってはなにをかいわんや。
0625人間七七四年
2010/10/14(木) 19:36:44ID:rM9SqSM3斉藤戦では圧倒的大軍で龍興に大敗したけど敵勢の目に砂ぼこりが入って相手が動揺したのに攻めかかったら大敗して
北畠は敵が後ろから味方に襲われたから勝てただけだし
0626人間七七四年
2010/10/14(木) 19:37:42ID:PmS1QkT6http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1243482738/18
0627人間七七四年
2010/10/14(木) 19:38:13ID:ZHCPyaxY生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず
運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。
普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。
幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない
兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。
1546年
信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年
信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年 村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年 叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年
舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年 桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
スーパーラッキーパンチ。
1560年 桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年 斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。 嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。 軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年 14条で弟を死なせたからか信清離反。 尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年 新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。 東美濃で武田の一部隊と衝突。
あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。 砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出して たまらず敗走。
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。
逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
1567年
幼君に不安を感じた美濃三人衆寝返る。
これに乗じて稲葉山攻略
これより信長は畿内・伊勢の侵攻に移る。しかし相変わらず…
1567年
楠・高岡城の攻略に失敗。
0628人間七七四年
2010/10/14(木) 19:38:22ID:PmS1QkT6http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1243482738/19
0629人間七七四年
2010/10/14(木) 19:39:42ID:PmS1QkT6http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284739993/484
0630人間七七四年
2010/10/14(木) 19:40:05ID:xHeOjGxt北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
0631人間七七四年
2010/10/14(木) 19:40:58ID:TJsAwzCX信長は包囲網に延々苦戦して結局本能寺で全て失ったけど
政宗は強大な南奥州連合を打ち破ってわずか5年もの間に25万石⇒180万石と圧倒的拡張見せたし
佐竹も相馬も滅亡寸前だったし。秀吉の惣無事令が出てたのがネックで運が悪かったな
0633人間七七四年
2010/10/14(木) 19:45:07ID:ChLlXgkY実際は天下とれず圧倒的大軍で寡兵の光秀その他畿内のゴミ大名に大敗を続け
100万石はあろう弾正忠家継ぎながら天下失った凡将
0634人間七七四年
2010/10/14(木) 19:48:31ID:TRsyCTOq雨の影響で武田軍の足が鈍り、途中で砂ぼこりが武田軍の兵士の目に入りさらに木曽や穴山が裏切ったから勝てただけ。
上村合戦東美濃攻防戦、高遠&岩村攻囲戦、三方が原。戦うたびに醜態さらず織田軍が勢力広げたなんて江戸期の講談がベースの妄想
0635人間七七四年
2010/10/14(木) 19:49:52ID:WF68xDeJ0636人間七七四年
2010/10/14(木) 19:50:42ID:hdgKAtpz家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞
4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
5最上義光 1558年 1万石 50万石 50倍
6葦名盛氏 1504年 3万石 120万石 40倍
7伊達政宗 1584年 15万石 220万石 15 倍
8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍
9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0倍
0637人間七七四年
2010/10/14(木) 19:53:16ID:3WmUujWL0639人間七七四年
2010/10/14(木) 19:56:08ID:PmS1QkT6コピペ荒らしのスキルしかない低脳なので見苦しいですね
0640人間七七四年
2010/10/14(木) 19:58:12ID:yncrGFBx0641人間七七四年
2010/10/14(木) 19:59:03ID:PmS1QkT6http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245090228/7
0643人間七七四年
2010/10/14(木) 20:01:54ID:WF68xDeJ暇なやっちゃなー
0645人間七七四年
2010/10/14(木) 20:09:05ID:yncrGFBx0646人間七七四年
2010/10/14(木) 20:09:48ID:PmS1QkT60650人間七七四年
2010/10/14(木) 20:16:56ID:Z0013OkP0654人間七七四年
2010/10/14(木) 20:29:22ID:yncrGFBxあんたやけに古いコピペ持ち出してきてるから昔からいたんだろ?
でもあんたみたいなキャラの濃いやつがいたら有名になってるはずだよね?w
でもあんたを見たのは今日が初めて
おかしいなぁw
0655人間七七四年
2010/10/14(木) 20:53:58ID:XQbqcdfy0656人間七七四年
2010/10/14(木) 21:52:18ID:cJI3WeZo0657人間七七四年
2010/10/14(木) 22:33:12ID:AfIs+Sk80658人間七七四年
2010/10/14(木) 22:42:45ID:+mi/qT2mアンチ秀吉に警告しておいてやるが、コピペ荒らしはアク禁対象だからな。
いい加減にしとかねえと運営に通報されたら終わりだぞ。
0659人間七七四年
2010/10/15(金) 01:11:07ID:HC+eUrNSまず三河の徳川をどこまでつぶしておくか、信玄の目標が尾張か岐阜かそこら辺も問題になります。
そちらの前提条件としては徳川は滅ぼしてはいない、その後尾張へ進行するということですね。
徳川はとりあえず抑えることができたから尾張に入ることはできたでしょう。しかしそこからどうするかということです。
尾張制圧なら三河も制圧しておかなければならない。それは多分1年以上かかる話で、包囲網の意味がありません。
居城をおとすか前線に出て釘づけの織田本隊をたたくしか意味がないでしょう。それ以外に上洛戦の意味はないです。
織田とすれば武田の補給線が伸び切るまで待ち、耐え切れず撤退すればとられた領地、城を取り返せばいいのです。
だから大会戦をしないで戦力を消費しないで戦えばまったく問題ありません。
ただし信玄が腰をすえて徳川の三河、尾張を占領していく方が信長には苦しいものになったはずです。
結論としては尾張に侵入してもそれだけでは信長を倒せず、場合によっては徳川と織田の挟み討ちで戦力を減らした可能性もあります。
あくまで私の考えです、史料云々ではなく。織田の居城を落としてしまい引き返せないようにするか、信長を野戦で完全撃破する、これ以外に信玄が勝つ方法はありません。
包囲している大名は浅井ぐらいしか積極的には動かないと思いますので、包囲して攻めまくられる状況に信長がなれば別ですが、実際そうなりませんから信玄が大勝利しなければ信長は倒せないというのが私の見方です。
0660人間七七四年
2010/10/15(金) 01:12:16ID:HC+eUrNSそもそも遠国からの急な出征は無理があるもかもしれませんね。1時的には連勝を重ねても。第一、信長は京を支配下に置いているので朝廷を動かし、信玄に不利な状況を与えたり・・・。
0661人間七七四年
2010/10/15(金) 01:22:57ID:HC+eUrNSだから新秩序構築を目指す織田・徳川連合と真っ向から対立した。たとえ上洛できたところで少々肩書きが増えるだけの話です。
いまさら室町幕府が延命できたとしても、それでどうして戦国時代が終わるといえるのか。
そういう大義のない遠征だったから、信玄の死去で右に回れです。信玄についてきたものの、家臣団は自分の領地が気になってしかたがないわけだ。
それに比べ織田軍団は信長が非業の死を遂げても何ら動揺することなく体勢を立て直すことができた。
信長の大義を見事に秀吉が継承したのです。織田の家臣団は皆、天下統一の大義で意思統一が出来ていました。
ただ単に信長をかついでいたわけではない。これが何よりも決定的な違いなのだ。能力とかそんなものは二の次、人望だけでも人は動かない。
人は大義によって動くのだ。大義の為に死にたいと考えるのだ。勢力拡大も大義は大義だが天下統一とはおよそ次元が違います。所詮、武田氏は天下統一の抵抗勢力に過ぎなかったということだ。
0662人間七七四年
2010/10/15(金) 01:30:43ID:HC+eUrNS他の大名にあったのは、管領(管領代)また副将軍として天下人の地位です。しかし、『天下人=天下統一構想』ではなく、あくまで足利幕府という枠の中での天下人になります。
しかも、その足利幕府の仕組みは既に時代遅れであり、例え一時的に再興できても何処かで壊れたでしょう。
さらに言えば、信玄は信長に勝てないから不可能です。
信玄上洛時、信長大ピンチ!といわれるのは嘘です。何故なら京畿に残っている信長派の大名は本願寺や三好勢を見事に抑えていたし、大軍を擁す浅井・朝倉勢は秀吉一人を抜くことが出来ない体たらく。
あくまでの信長は、信玄に備えて岐阜に三万の精鋭を留めていました。(つまり、信長には三万もの余力があった)しかも信玄は家康に勝ったとはいえ、三河・遠江を平定できておらず、背後に家康を残して尾張へ攻め込むのは自殺行為です。
仮に尾張へ侵攻したとしても、信長は清洲・小牧・那古野・守山など各城に手勢を配し、信玄の侵攻を押し止めたでしょう。(野戦をすれば信玄が勝つでしょうが、家康に籠城せよと命じていた信長が野戦を仕掛けるとは思えない)
そして農繁期を向かえ、信玄は撤退します。また尾張ヘ向かわず、三河平定を進めても徳川の抵抗に合い、信玄は途中で撤退するでしょう。
一度撤退してしまえば、再征まで準備期間が1〜2年(大軍なので)は必要です。その間に将軍・義昭は京を追放され、浅井・朝倉は滅ぼされ、長島一向一揆も潰されます。これにより信長の力は増大の一途を辿り、
武田家との国力に大きな開きが生じます。こうなると信玄が勝つ方法はなく、その後で信玄がどう立ち回ろうが信長の勝利は確定的です。
※ちなみにどの大名も農繁期に出陣は可能ですが、頑張っても最大動員兵力の6割ほどしか出せません。よって6割では織田攻めは不可能なので、信玄は撤退します。
0663人間七七四年
2010/10/15(金) 01:31:24ID:HC+eUrNSその上に、一般に武田の騎馬軍団、騎馬隊という言葉が流布していますが、存在しなかったという事実があるからです。
武田家の騎馬含有率は戦国大名の中でも非常に低いものであり、簡単にいうと、一人の騎馬兵に歩兵がつくという状態で、そのここの騎馬兵の武勇が非常に優れていただけなのです。
これは、さまざまな文献で残っているはずですが。つまり、半農半武の歩兵が、信長の農業から切り離された専門の軍兵と戦うわけです。しかも、鉄砲隊です。玉を詰め込む時間を見ても、歩兵が敵兵まで到達できるよしはありません。
だから、勝頼もあっけなく破れたのです。
十年長く生きていれば、信玄はむしろ、評価を落とす羽目になっていたでしょう。
0664人間七七四年
2010/10/15(金) 06:37:58ID:LzUh4sBw0665人間七七四年
2010/10/15(金) 06:47:45ID:LzUh4sBwスレ主の書いてる文章はすばらしいし凄く勉強になる
こういうスレを大切にして欲しいわ
0666人間七七四年
2010/10/15(金) 07:45:10ID:Z2Ay56ue0667人間七七四年
2010/10/15(金) 08:23:14ID:zADXveJL常備兵より農民兵の方がずっと強いというのが常識。
信長は農民兵を育てられなかったから常備兵を仕方なく作った。
それに農繁期で撤退とかいう人は、神話にまどわされずにもっと調べろと言いたい。
※ 農繁期や農民兵が不利とかいう人は、何を言っても基本がなってないので信じられない。
長文レスお疲れ様でした。
0668人間七七四年
2010/10/15(金) 08:24:14ID:zADXveJL0669人間七七四年
2010/10/15(金) 12:21:06ID:5kYRLoQI当然、不満が出るだろうし、収穫にも影響が出るであろう
0670人間七七四年
2010/10/15(金) 12:23:13ID:5kYRLoQI越後兵と薩摩兵が最強とかも定説。気候の影響かな
0672人間七七四年
2010/10/15(金) 14:43:13ID:LzUh4sBwただ、織田信長が家督を継いだ時、織田家は周囲の戦国大名との連戦でベテランの下士官が多く戦死していたため、
最初は苦労したらしい。そのため、他国の戦争で降伏してきたベテランの下士官を積極的に受け入れて陣容を強化したとか。
0673人間七七四年
2010/10/15(金) 14:44:00ID:l1Gt4lh20675人間七七四年
2010/10/15(金) 19:12:33ID:Z2Ay56ue0676人間七七四年
2010/10/15(金) 19:17:25ID:83mAd5RM0677人間七七四年
2010/10/15(金) 19:41:37ID:nbjmXqsoゲーム板でも行けよw
勝手な妄想で信長語られるとイラっとする
0678人間七七四年
2010/10/15(金) 20:03:43ID:5kYRLoQI0680人間七七四年
2010/10/15(金) 22:59:05ID:yjOD5/+fバカ丸出し恥ずかしい。
0681人間七七四年
2010/10/16(土) 05:31:10ID:NV4RJuif応仁の乱以降の動乱が一段落し(父親の信秀以前は、各国の勢力図もごちゃごちゃで、地域経済もままならない状態だった)、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元など、軍事・政治の手本となる大名がいて、信長には彼らにはない若さがあった。
農耕と略奪が主だった世の中を、貨幣制度と商業を充実させることに目をつけ、伊勢湾と琵琶湖の交易で富を得、京に近いことで他の有力大名に先駆けて先手を打つことができ、
さらに時代が味方した(鉄砲伝来と火薬の普及・諸外国との貿易による戦力の充実)ことで武田を打ち破り、また家臣にも恵まれていたおかげで、信長も自分自身の才能を如何なく発揮できたと・・・。
まぁ、信長と秀吉が平定した状態の日本を、武田の軍略や北条の統治・インフラ制度などを学習して日本を統一した徳川がある意味最大の勝者だと思いますが、天運とか奇跡という言葉が似合うのは信長だと思います
0682人間七七四年
2010/10/16(土) 05:35:56ID:NV4RJuifただ、その人の全体を見て、評価すべきところは評価し、否定すべきところは否定することが肝要かと思います。
さて、信長の政策についてですが、あくまで僕の個人的な意見ということを前提にして・・・
・楽市楽座政策
・近代的な経済感覚
・鉄砲を重視した戦略
・常備軍の編成
・軍団性の採用
・身分にとらわれない人材採用
・鉢植え式の家臣移動
・宗教勢力、朝廷との分離政策
これらは信長固有の政策であるとは言い切れず、過去に同じことをした武将もいましたし、同時代にも同じことをしていた大名は多くいました。
しかし、これらの政策を全て行った大名は信長の他にいたでしょうか?逆に信長もこれらの政策全てを自分で考えたのではないかと思います。
信長は、過去の事例、周辺の大名の政策を見て、聞いて、学び、それを吸収して実践していったところだと思います。
信長は情報の有益性を理解していたと言います(桶狭間の奇襲も情報収集力のよるところが大きいと思います)。また、地球儀を初めて見た信長は一瞬で地球が丸いことを理解したといいます(真実かどうかはわかりませんが・・・)
信長のすごいところはその革新性ではなく、情報収集力と吸収力、そして行動力だと僕は思います。
0683人間七七四年
2010/10/16(土) 05:38:06ID:NV4RJuif日本人は古来から現在にかけて、土地というものに固執する民族です。
たとえ上洛したとしても本拠地を移すことをせず、したがって経済基盤を作ることは出来なかったでしょう。
逆に言えば、信長であればどの土地にいても天下を統一できた可能性もあります。
きっと、尾張より遠方の土地でも物流を促進させて経済を発展させ、その資本力でもって近隣の諸大名を駆逐して大きくなっていけたのではないかと思います。
よく「京という位置に近かったから信長はあそこまで大きくなれた」という声も聞きますが、私はそうは思いません。
むしろ、近すぎたがゆえに四面楚歌の形を作ってしまったということも否定できないのではないでしょうか?
もちろん、多分に運に恵まれてもいましたし、信長自身もそれほど戦上手ではなかったようですが、それらを差し引いても「信長であれば・・・」という期待感を持たせてくれる偉大な人物です。
0684人間七七四年
2010/10/16(土) 05:41:07ID:NV4RJuif信玄や謙信は上洛しても本拠地を動かず中央を支配する力があったか疑問です。まあ織田は中央に近い利点があったればこそで遠い甲斐や越後では難しい面もあったのでしょう。
なので足利幕府が滅んでいても武田、上杉幕府が成立するかといえばまず無理ではないでしょうか?
そういう意味では今川家は足利の縁続きなので幕府が滅べば今川幕府を開き京に本拠地を持つ可能性もあったでしょう。義元も氏真もその方が嬉しいでしょうし。
やはり信玄は信長のようなことはできないと思います。
0685人間七七四年
2010/10/16(土) 05:51:14ID:NV4RJuifですから敵対しているものに関してはその限りではないですが忠誠を誓うようであれば領土を得た直後の領民にたいして非道なことはしませんね。
まぁ・・・とはいえ献上として金品をださせたりもしてますけどね。これは同盟関係の武将にも当てはまりまして例えば裏切りまくった松永久秀も何度も許してますね。
ただ家臣に関しては有能な者に関しては手厚くしてましたが無能な者には容赦ないですね。
一方武田信玄のほうですが極悪非道
上杉謙信についでかなりの悪行三昧を繰り返してます。武田が通るあとにはペンペン草も残らない。といわれるくらいに。
ただし家臣に対してはかなりの手厚さで厚遇しています。
そういう意味においても信玄と信長はかなり対極なのかもしれませんね。
0686人間七七四年
2010/10/16(土) 05:58:15ID:NV4RJuif徳川家康や織田信長、豊臣秀吉のことを悪く言う人は結構います。
そもそも人物評価は賛否両論あっていいと思います。人間なので功罪はあるはずです。
ところが、武田信玄や上杉謙信を悪く言う人は非常に少ないですよね。
批判したり指摘すると、ものすごい抗議があります。
これってある意味異常なことだと思うのです。
そういう人に限って、伊達政宗を過大評価しすぎだ、アニメの見過ぎだ、だとか中途半端で自分勝手な歴史観に基づいて批判したりするのですよね。
確かに過大評価の部分はあるでしょうが、自分が武田信玄や上杉謙信を過大評価していることを認めようとしないのです。
信玄は佐久地方支配に際して反乱した人々を女子供でも容赦なく皆殺しにしています。
謙信だって「戦で負けなしの軍神」扱いは過大評価だと思いますし。関東で拉致した人たちを自ら差配して売り飛ばして儲けたという。
その為に毎年の関東遠征の真の目的が略奪・人さらいだったといわれています。
0687人間七七四年
2010/10/16(土) 06:06:48ID:NV4RJuif・実弟・信勝の時も一度は許したにも拘らず、二度目を企てたので謀殺。
・武田家との同盟は、信玄から一方的に破棄された。
・浅井との同盟は、あくまで上洛して将軍に恭順しない朝倉の討伐であって、将軍の代理として出陣になる。よって織田家として討伐に向かったわけでないので、浅井=織田の関係に違反したとは言えない。
・延暦寺焼討ちは事前に宗教勢力ならば中立をせよ、と伝えている。しかし延暦寺は浅井・朝倉に味方した。
・長島一向一揆は、信長との約束を最初に破ったのは一向一揆側である。
・そもそも信長が一向宗を弾圧したことはなく、禁止したこともない。石山合戦も本願寺側から戦端を開いている。(本願寺側は信長から苛烈な要求があったとしているが、何処までが本当か、信憑性に欠ける部分が多い)
・波多野一族の磔も、波多野が最初に信長を裏切っているので当然といえば当然。
・長宗我部とも明確に領土分けしたわけではなく、要求もどちらかと言えば長宗我部と三好家の抗戦を調停している立場。
色々と書きましたが、中には形式的処置に過ぎないものもあります。ただ信長は外聞(評判)をもの凄く気にしていたようで、大義名分を重視しています。よって当時の常識感覚からすれば、自分から約束を破っていないと言えると思います。
0688人間七七四年
2010/10/16(土) 06:13:38ID:NV4RJuifまた今川領に侵攻する際に駿河は武田、遠江は徳川という大井川同盟を交わしますが、自分がさっさと駿河を手にしてしまうと遠江も欲しくなって攻め込み、徳川は条約違反を理由に北条と同盟を結ぶに至っています。
さらに上杉に対しても信濃守護職を条件に将軍・義輝の調停で和睦したが、守護職に任じられた直後に破っています。(要は守護職が欲しかっただけ)
そして信長に対しても同じです。信長は信玄に対し、常に下手に出ています。嫡男の正室に信玄の娘を迎えることまで決め、
家康と信玄の仲が悪くなっても「家康を叱りますから」とまで言っている。ですが、信玄は織田領へ侵攻します。
このように信玄は同盟や条約など約束を常に自分から破っています。その所為で信用を失った武田家は、次代の勝頼が苦労する破目になります。
もし信玄が信義を大切にする人物であれば、嫡流(義信の家系)が今の時代まで存続していた可能性があります。
逆に信長の場合、苛烈なイメージはあれど約束を自分から破っていません。信玄とは正反対の人物です。浅井の裏切りも信長はあくまでも将軍の代理として朝倉攻めを行っており、
織田浅井の同盟条約違反を理由にするには無理がありますし、延暦寺へも事前勧告を行っており、それも中立になれというだけのまともなもの。
石山本願寺に対しても相手から攻められたから戦っただけであり、長島一揆も先に条約違反をしたのは一向一揆側です。
ちなみに信長は乱取り(略奪)や人身売買を禁止したり、街道を整備して関所を廃したりしています。歴史的事実だけを考えれば、織田信長という人物は上杉謙信以上に信義を大切にし、民に優しい人物と言えます。(謙信や氏康も略奪行為は促進している)
0689人間七七四年
2010/10/16(土) 06:41:45ID:ThO8ho+gところが、武田信玄や上杉謙信を悪く言う人は非常に少ないですよね。
批判したり指摘すると、ものすごい抗議があります。
これってある意味異常なことだと思うのです。
↑ 信玄・謙信批判となると、
農民兵・常備兵問題だとか農閑期しか戦えないとか石高あたり何人の動員とか鉄砲が少ないから弱い
な〜んていう非常識ばかりです。
まともな批判が少ないのが問題。
また、孫子や兵法の理解もしておらず、戦闘時は勿論、外交、謀略等の駆け引きとか見えてない人が多い。
0690人間七七四年
2010/10/16(土) 07:34:33ID:NV4RJuif自国領民には優しかったと言うより、生かさず殺さず上手にだましたと言うべきでしょうか。
甲斐武田軍団は信玄の下では結束は固かったですが、理由は負ける戦からは上手に逃げて、四分六でせこく常勝だったからです。
有名な武田の騎馬軍団は勝った時の〆として投入して、無敵を誇ったのです、川中島の合戦ではあまり出てこないでしょ、はったり専用です。
若い人には、英雄願望が強いでので、織田信長や豊臣秀吉が人気があります。
しかし、爺さんになると、こういった派手な事はバカらしく幼稚に思えてくるんです、どちらかと言うと、用意周到で狡猾かつ緻密な蜘蛛の巣を張るようなネチネチとした地味さを好むんですよ。これが武田信玄、と山本勘助コンビです。
昔から、信玄だ謙信だと爺さんどもが、やたらともてはやして本を出版したり購入しまくって、戦国ブームが起こったのです。
それと人心掌握や交渉術などが企業家にもてはやされたため人気が出ました。
時代や景気によって企業家は、信長、秀吉、家康の本を読みます、けど結局は三者の集大成として規模は小さいですけど、中身の濃い信玄にたどり着くのです。
お爺さん殺しですね。
0691人間七七四年
2010/10/16(土) 08:44:16ID:UGqpxLeNもしかして織田房くん?
0692人間七七四年
2010/10/16(土) 08:51:26ID:NV4RJuif0693人間七七四年
2010/10/16(土) 10:14:42ID:chCUsO5o最近得た講談とゲームのイメージをここで貼り付けてオナニーしてるだけ
0694人間七七四年
2010/10/16(土) 10:25:52ID:chCUsO5o今までスレ主さんが書いた資料は甲陽軍艦と信長公記だけで書状など信用に足る資料ではありません
またよく聞いた話では、等と言ってる事からソース不明の妄想である可能性が高いです
これは僕の個人的な見解ですがスレ主さんの考えている信長信玄は現実の信長信玄とは著しく異なるのではないでしょうか
自分のイメージだけを展開して書いている為史料を知ってる方からしたら訳の分からない文章になってるでしょう
また、ここは自分が建てたスレだからと気にくわない人を追いだそうとしたことから
類い希なる自己中心的なマナー知らずね人物だと推察できます
その為思いこむと人の話を聞かず、結果架空の信長信玄像を造りそれについて熱く一人で語っています
自分はスレ主じゃないと主張した後スレ主と同じ口調の締め方をしてしまってる醜態をさらしているので
歴史を考察するに辺り視野を広く客観的に物事を見るという大切なものが欠けています
つまりスレ主さんの書いている文章は小学生が書く作文よりはるかに価値のないゴミ文章です
スレも頭の悪いスレ主さんが建てたので糞スレなのです
0695人間七七四年
2010/10/16(土) 10:26:46ID:chCUsO5o0696人間七七四年
2010/10/16(土) 10:30:01ID:chCUsO5o今までスレ主さんが書いた資料は甲陽軍艦と信長公記だけで書状など信用に足る資料ではありません
またよく聞いた話では、等と言ってる事からソース不明の妄想である可能性が高いです
これは僕の個人的な見解ですがスレ主さんの考えている信長信玄は現実の信長信玄とは著しく異なるのではないでしょうか
自分のイメージだけを展開して書いている為史料を知ってる方からしたら訳の分からない文章になってるでしょう
また、ここは自分が建てたスレだからと気にくわない人を追いだそうとしたことから
類い希なる自己中心的なマナー知らずの人物だと推察できます
その為思いこむと人の話を聞かず、結果架空の信長信玄像を造りそれについて熱く一人で語っています
自分はスレ主じゃないと主張した後スレ主と同じ口調の締め方をしてしまってる醜態をさらしているので
歴史を考察するに辺り視野を広く客観的に物事を見るという大切なものが欠けています
つまりスレ主さんの書いている文章は小学生が書く駄文よりはるかに価値のないゴミ文章なわけです
スレも誰も話を聞いていないので糞スレと言えます
0697人間七七四年
2010/10/16(土) 10:31:22ID:chCUsO5oかなり控え目に書いたと思います
0698人間七七四年
2010/10/16(土) 10:34:51ID:chCUsO5o0699人間七七四年
2010/10/16(土) 10:46:46ID:h5oy0QAq0700人間七七四年
2010/10/16(土) 14:52:44ID:jfWHtVXk武田信玄は具体的にあの豪族集団のバラバラな国をまとめ上げれたこと、
軍律や信条に素晴らしい部分が多いこと、敗走が少ないことかな。
織田信長はカリスマ性があって気性が荒いのにそれなりに冷静なとこがあったこと、
あと濃尾平野の生産基盤があったとはいえ爆発的に領土を広められたことかな。
欠点を上げるとすれば、武田信玄の方は後継体制が甘かったこと、織田信長の方は
気性が荒すぎて敵を作りすぎて自滅したとこかな。
0701人間七七四年
2010/10/16(土) 15:42:55ID:NV4RJuifそしたら貴方が信用してる資料のソースを出し貴方の意見を書いて頂けますでしょうか?
人の意見を批判するだけで歴史にかんする書き込みは一切ないようですと書き込む価値は無いですよwww
0702人間七七四年
2010/10/16(土) 16:01:42ID:1uKtRBKN0704人間七七四年
2010/10/16(土) 16:36:43ID:NV4RJuif信憑性のある資料のソースを持ち出し私に武田信玄が凄いと言うことを納得させられたら大したものですよ
0705人間七七四年
2010/10/16(土) 16:37:03ID:h5oy0QAq本当にかわいそうなやつw
0706人間七七四年
2010/10/16(土) 18:44:10ID:chCUsO5oスレ主さんは史料を教えろと言いますがまず最低限のものを自分で調べる頭もないみたいです
少しネットで調べればある程度名のある書状の残りなどぼちぼちあるにも関わらず
これは僕の個人的な見解ですがスレ主さんの考えている信長信玄は現実の信長信玄とは著しく異なるのではないでしょうか
自分のイメージだけを展開して書いている為史料を知ってる方からしたら訳の分からない文章になってるでしょう
また、ここは自分が建てたスレだからと気にくわない人を追いだそうとしたことから
類い希なる自己中心的なマナー知らずの人物だと推察できます
その為思いこむと人の話を聞かず、結果架空の信長信玄像を造りそれについて熱く一人で語っています
自分はスレ主じゃないと主張した後スレ主と同じ口調の締め方をしてしまってる醜態をさらしているので
歴史を考察するに辺り視野を広く客観的に物事を見るという大切なものが欠けています
つまりスレ主さんの書いている文章は小学生が書く駄文よりはるかに価値のないゴミなのです
0707人間七七四年
2010/10/16(土) 18:48:51ID:chCUsO5o0708人間七七四年
2010/10/17(日) 00:05:51ID:j0et/ZTB0710人間七七四年
2010/10/17(日) 00:32:19ID:j0et/ZTB信玄が生きてたときしてもまちがいなく織田政権に飲み込まれていたでしょう。
戦の強さでも経済力の差でもありません。
早くから天下を統一して新しい国家を作るというビジョンを持った人間と
一家の為に勢力範囲を拡大しようとしていた人間のちがいだと思います。
生涯甲府にはりついていた人間と清洲、岐阜、安土と拠点をどんどん移していった
人間の差ともいえます。
織田政権下では軍人は専門職、関所も無く、自由経済なんですから
一般の人の支持はまちがいなく織田政権でしょう。
例えは奇抜ですが
私たちもいまさら共産主義国家になりたくないでしょう。
でも そのくらい 信長のやったことはドラスティックだったんですから。
信長公記に勝頼の領民がはやく織田がやってこないか心待ちにしていた
という記述があるのですが あながちウソでもないかもしれませんよ。
0711人間七七四年
2010/10/17(日) 00:46:06ID:j0et/ZTB1.貧弱な国力を顧みず実現の可能性の殆どない上洛を繰り返した
2.自他共に後継者と目されていた義信を死なせて諏訪氏の人間でしかない勝頼を後継者としただけでなく、
勝頼への権力移譲を全く怠り家中が四分五裂する原因を作った
3.行き当たりばったりの無計画な政略で境を接するすべての大名を敵に回した
これらを行ったのは当然信玄なので武田家滅亡の最大の原因を作ったのは1信玄であります。
自分の能力を十全に発揮できる権力を与えられなかったのが勝頼の最大の悲劇でしょう。
信玄は戦術・戦略は一流でも政略は三流でしかありません。
0712人間七七四年
2010/10/17(日) 01:26:21ID:6dtd6qLsttp://cocoro.boy.jp/sengoku/index.html
<主だった武将を抜粋し、総合ポイントで順位付け>
北条氏康 253p(戦闘78政治93知力82)
小早川隆景 249p(戦闘73政治86知力90)
織田信長 245p(戦闘75政治85知力85)
武田信玄 240p(戦闘80政治80知力80)
三好長慶 233p(戦闘67政治84知力82)
豊臣秀吉 232p(戦闘75政治80知力77)
今川義元 231p(戦闘74政治80知力77)
斎藤道三 228p(戦闘66政治76知力86)
伊達政宗 228p(戦闘71政治81知力76)
毛利元就 227p(戦闘73政治77知力92)
徳川家康 226p(戦闘74政治78知力74)
島津義弘 224p(戦闘90政治63知力71)
長宗我部元親 218p(戦闘74政治72知力72)
信玄の評価はまあまあと言ったところだな
0715人間七七四年
2010/10/17(日) 04:58:17ID:j0et/ZTBゲームだと「家臣」は皆「中央集権型」に編成されていてある意味「織田型家臣団」に統一されているのに対して実際の歴史ではそうではありませんでした
まず「織田型家臣団」に再編成できた国は少数派であり徳川家康ですら「関東への国替え」によって初めて完全に達成できたほどです(信長のように「血の粛清」を繰り返して
完全に自国を自分の手に掌握できた人物は珍しいのです)
中世の天才「上杉謙信」も
中世の秀才「武田信玄」も
家臣団は「中世型」…つまり
「有力御家人の権利を認める代わりに自分が代表者であることを認めてもらう」という形には違いが無いのです
彼らは新たに登用した有能な人材でも家臣団の中の「名家」に養子にしてもらうとか、断絶してしまった名家を「復興させる」(とほかの有力家臣が認めた場合)という
手段を用いなければ引き立てることができませんでした。
もしも有力家臣の意志に背くようなことをすれば直ちに反乱内乱が起き家中統率どころではなくなるからです(天才型の上杉謙信はよくもめ事をおこしていたようです)
甲陽軍鑑で「一枚岩」のような表現をされている武田24将でも、実際に信玄が完全に統率できるようになったのは「三方が原の戦い」の時だったと言われています。
対して「自分に反抗するのもは根こそぎ切り捨て」も辞さない織田家では出自が謎だろうがどこからかの流れ者であろうが
才能さえあれば「信長の独断」で自由自在に役職を与えることができました(反対する人が居ない為)
武田も上杉も…新しく切り取った領地を「思いのままに部下に与えて」(もちろん、加増など「おいしい思い」はさせていますが)積極的な領地拡大戦争を「自分の腹心を配置しながら」行えるという「天下統一型」の国家戦略を
可能にした近世の天才・織田信長の経営術には遠く及ばなかったでしょう。
あと家臣の能力に関しては「過剰に高い評価」だと考えますおそらく一番最初に発売された「信長の野望」で(家臣などの要素は存在しなかった時代のもの)プレイヤーが選択できたのは「オダ」と「タケダ」のみだったので
(文字の表記はすべてカタカナだった)開発陣の思い入れが強かったのでしょう。
仮に…ですがゲームの評価が本当に忠実な能力の反映なのでしたら少なくても上杉や北条にあそこまで苦戦しなかったでしょうし(つまり上杉や北条の相対的評価は不当に低い)今川など義元が討死する前に
撃破していても不思議ではないでしょう(義元死後、武田の本格的な侵攻を受けても今川は随分と持ちこたえ、ついに調略で寝返らせることでようやく武田も今川の領地を侵食できました…つまり今川の相対的評価も低い)
やはりゲームと史実とは大きく異なる…と言わざるを得ません。
0716人間七七四年
2010/10/17(日) 05:06:50ID:j0et/ZTB織田と上杉、武田では経済力に格段の差がありました。これでは最初から負けているようなものです。
信玄は義元が存命中は駿河に侵攻できませんでした。そのため信濃に侵攻せざるを得ず上杉と無駄な戦いをせざる得ませんでした。
信玄も桶狭間の戦いの恩恵を受けた一人です。そのため「大河ドラマ」では桶狭間の戦いは信長と信玄の共謀によるものと描かれることが多いのです。
0717人間七七四年
2010/10/17(日) 07:42:26ID:j0et/ZTBたとえ上洛できたところで少々肩書きが増えるだけの話です。いまさら室町幕府が延命できたとしても、それでどうして戦国時代が終わるといえるのか。
そういう大義のない遠征だったから、信玄の死去で右に回れです。信玄についてきたものの、家臣団は自分の領地が気になってしかたがないわけなのです。
それに比べ織田軍団は信長が非業の死を遂げても何ら動揺することなく体勢を立て直すことができたのです。信長の大義を見事に秀吉が継承したのです。
織田の家臣団は皆、天下統一の大義で意思統一が出来ていました。ただ単に信長をかついでいたわけではないです。これが何よりも決定的な違いなのです。
能力とかそんなものは二の次、人望だけでも人は動かない。人は大義によって動くのだ。大義の為に死にたいと考えるのです。
勢力拡大も大義は大義だが天下統一とはおよそ次元が違います。所詮、武田氏は天下統一の抵抗勢力に過ぎなかったということなのです
0718人間七七四年
2010/10/17(日) 08:17:15ID:kUqwpXdvスレ主の完全勝利!!!
0719人間七七四年
2010/10/17(日) 08:21:33ID:j0et/ZTB0720人間七七四年
2010/10/17(日) 08:24:14ID:Jv3IiXE00721人間七七四年
2010/10/17(日) 08:28:34ID:j0et/ZTBただの荒らしという事がわかりましたwwwやる事と言えばコピペとソースを出せとかしか言わないしはっきり言って雑魚ですwww
なんか弱すぎて拍子抜けしてしまいましたわwww
0722人間七七四年
2010/10/17(日) 08:29:41ID:j0et/ZTB0723人間七七四年
2010/10/17(日) 09:05:09ID:j6xl8doD俺でよければ
スレ主さんがここで書いてる文章は歴史群像書のようなイメージだけで書かれています
今までスレ主さんが書いた資料は甲陽軍艦と信長公記だけで書状など信用に足る資料ではありません
またよく聞いた話では、等と言ってる事からソース不明の妄想である可能性が高いです
これは僕の個人的な見解ですがスレ主さんの考えている信長信玄は現実の信長信玄とは著しく異なるのではないでしょうか
自分のイメージだけを展開して書いている為史料を知ってる方からしたら訳の分からない文章になってるでしょう
また、ここは自分が建てたスレだからと気にくわない人を追いだそうとしたことから
類い希なる自己中心的なマナー知らずの人物だと推察できます
その為思いこむと人の話を聞かず、結果架空の信長信玄像を造りそれについて熱く一人で語っています
自分はスレ主じゃないと主張した後スレ主と同じ口調の締め方をしてしまってる醜態をさらしているので
歴史を考察するに辺り視野を広く客観的に物事を見るという大切なものが欠けています
つまりスレ主さんの書いている文章は小学生が書く駄文よりはるかに価値のないゴミ
0724人間七七四年
2010/10/17(日) 09:06:18ID:j6xl8doD0725人間七七四年
2010/10/17(日) 09:11:05ID:j6xl8doD基本戦国板の住民はゲームからのソースは相手にしないんだよ だがでさえね
だからスレ主はこのスレ埋めたらさっさと巣に帰ればいいんじゃないか
講談やゲーム、市の捏造を信じ切ってるみたいだけど生憎そんなアホは戦国板にいないんだ
構ってやってる俺もアホな部類だけどな
0726人間七七四年
2010/10/17(日) 09:13:13ID:j6xl8doD世間一般ではと言っちゃってるが世間一般の評価が高いからこんなスレ建てたんじゃないかね
やれやれこんな矛盾した言動のスレ主じゃ誰も相手にしなわな
だがもこんなマヌケ構わんだろう
0727人間七七四年
2010/10/17(日) 11:33:18ID:j0et/ZTBそういう屁理屈はもういいからwww
人の意見を批判するだけで歴史にかんする書き込みは一切ないようですと書き込む価値は無いよwww
0728人間七七四年
2010/10/17(日) 11:43:38ID:j0et/ZTB信憑性のある資料のソースを持ち出し私に武田信玄が凄いと言うことを納得させる事も出来ないのかしら?www
それじゃあ荒らしと変わりないわwww
0729人間七七四年
2010/10/17(日) 11:53:56ID:j0et/ZTB■だが別人格まとめ
・初代のだが・・・先ず最初に奇想天外な自論を主張し全レス攻撃で荒らしまくる
・二代目だが・・・みんなに受け入れられないと見るや別人格に成りすまして自説を支援
・三代目だが・・・更に別人格を作り出すもみんなの総攻撃を受け短期間で消滅
・四代目だが・・・携帯電話で別人格に成りすますもすぐに見破られて消滅
・五代目だが・・・馬鹿な荒らし風に成りすましあまりの愚かさにだがとは別人では?と思わせることに成功
・六代目だが・・・ついに自演ID戦法を習得しIDを大量乱発(だが自演自爆事件で自滅)
・七代目だが・・・自己否定を宣言するも全レスの癖が裏目に出てやはり自爆
だがって人は自演やり放題みたいねwwwマジ受けるわwww
0730人間七七四年
2010/10/17(日) 17:29:48ID:UW5gn3koだがは精神崩壊してフルボッコバブーと言って敗走w
0731人間七七四年
2010/10/17(日) 20:52:45ID:4bl8Xuqi0732人間七七四年
2010/10/18(月) 05:51:59ID:NF4NBWxIまず武田信玄に天下統一をしようという野望はありませんでしたので、その時点で不可能です。戦国時代、天下統一の野望をはっきりと持っていたのは織田信長ただ一人であり、
秀吉も家康も信長のヴィジョンに魅せられただけです。他の大名にあったのは、管領(管領代)また副将軍として天下人の地位です。
しかし、『天下人=天下統一構想』ではなく、あくまで足利幕府という枠の中での天下人になります。しかも、その足利幕府の仕組みは既に時代遅れであり、例え一時的に再興できても何処かで壊れたでしょう。
さらに言えば、信玄は信長に勝てないから不可能です。
信玄上洛時、信長大ピンチ!といわれるのは嘘です。何故なら京畿に残っている信長派の大名は本願寺や三好勢を見事に抑えていたし、大軍を擁す浅井・朝倉勢は秀吉一人を抜くことが出来ない体たらく。
あくまでの信長は、信玄に備えて岐阜に三万の精鋭を留めていました。(つまり、信長には三万もの余力があった)しかも信玄は家康に勝ったとはいえ、
三河・遠江を平定できておらず、背後に家康を残して尾張へ攻め込むのは自殺行為です。仮に尾張へ侵攻したとしても、信長は清洲・小牧・那古野・守山など各城に手勢を配し、
信玄の侵攻を押し止めたでしょう。(野戦をすれば信玄が勝つでしょうが、家康に籠城せよと命じていた信長が野戦を仕掛けるとは思えない)そして農繁期を向かえ、
信玄は撤退します。また尾張ヘ向かわず、三河平定を進めても徳川の抵抗に合い、信玄は途中で撤退するでしょう。
0733人間七七四年
2010/10/18(月) 20:33:59ID:q+aU6v5Z0734人間七七四年
2010/10/18(月) 20:54:21ID:rkHyTQ4M嘘をつくな!
アスペルガーだがはコピペ荒らしを何回も繰り返しています
ID:j6xl8doD=アスペルガーだが
0735人間七七四年
2010/10/18(月) 22:31:27ID:G+ZYrCGm0736人間七七四年
2010/10/19(火) 08:31:42ID:u+hhGKTy死ぬとか健康管理がなってないし、無能すぎ。
戦はタイミングが命なので信玄は到底名将とはいえない
0737人間七七四年
2010/10/19(火) 08:34:45ID:rhrqBb2H0738人間七七四年
2010/10/19(火) 09:17:39ID:CpQQGFMZあの時代にそれを求めるのは酷。
ごく一部の例外を除いて、人生50年の時代だからなぁ。
そう考えると、家康は凄いなぁ。否・・・信玄から学んだのは軍法だけじゃないのかも。
0739人間七七四年
2010/10/19(火) 11:22:36ID:5dUd9hIc0740人間七七四年
2010/10/19(火) 13:50:18ID:rSOjp3HS0741人間七七四年
2010/10/19(火) 15:33:37ID:vpFfVmo1ただその方法論が多くの場合間違っていたということだ。
信玄の間違った方法論↓
「温泉はいっときゃたいがい治るし」
0742人間七七四年
2010/10/19(火) 19:24:48ID:Y1X+FDLH戦国武将で常時医者を伴ってたようなのなんて、他は秀吉(それも晩年になってから)くらい
加えて50過ぎて当時としてはいつ死んでも不思議じゃない年齢
0743人間七七四年
2010/10/19(火) 22:42:01ID:1VAXvvl2それを板垣退助だかに怒られたって話どっかで見た
0744人間七七四年
2010/10/20(水) 14:55:35ID:5a40A+ob0745人間七七四年
2010/10/20(水) 15:35:46ID:eqQaEwSq0746人間七七四年
2010/10/21(木) 16:18:46ID:+7p4GxJO甲府の山猿です。
0747人間七七四年
2010/10/21(木) 16:38:29ID:v/YW0a90駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
愚者の義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
愚者の息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
愚者の息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ者達はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
ちなみに近江77万5000石・伊勢56万7000石。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の荒廃した領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡の軍略を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
これだけ有利な状況だった信長だが、実際は負け戦ばかりである。国力と朝廷や幕府などに頼んでの和睦で助かってきただけ。
0748人間七七四年
2010/10/21(木) 17:24:59ID:xKImu54Ahttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1210524233/46
0750人間七七四年
2010/10/22(金) 12:15:30ID:7AUJJH1q悪く書かれてる。義元、勝頼は普通に有能だし朝倉だって馬鹿じゃない。
後戦に負けてるって書いてるけど戦に強い=優秀なら上杉謙信が
最強になるけど現実は違うわけで・・・。そもそもこのスレは信玄の
評価は過大か正当かを問うスレなのになんでいちいち信長を引き合いに
だすんだ?信玄が信長と絡んだのなんて最晩年だけだしそれすら直接
戦ったのは徳川。引き合いにだすんなら上杉、北条、村上、長野当たりが
適当だと思うんだが何故そこまで信長を意識するの?
0751人間七七四年
2010/10/22(金) 12:28:58ID:iby1tBc8長い割りに内容ゼロだな。何を言いたいのかさっぱりわからん。
要は信玄が落とした城のほうが山城で難攻だったから信玄のほうが上と言いたいのか?
1行ですむじゃねえかwしょうもない。
実際には信玄は強力な統一勢力がある方面はさけ、小勢力が割拠する信濃方面に出たに過ぎん。
そもそも地理的条件として山間の盆地だから割拠するわけで、そこが山城なのは当たり前だろw
しかも信濃方面へ進んだと思えば、上野へ、同盟破棄して駿河へと侵攻することに対する
目的性が全く感じられない。単に攻めやすいところを行き当たりばったりで攻撃してるに過ぎない。
これは侵攻の目的が侵攻そのものであり単に領土欲にしか過ぎないことを物語っている。
ビジョンも糞もない。大した軍略ですことw
一方信長は全く違う。尾張統一時点で隣接する他国のうち「最も強力な」統一勢力のある
美濃を攻撃目標としている。これは明らかに何らかのビジョンに基づく戦略であり、その時点で
天下を意識したかはともかく、結果としてそれを成し遂げた時、周囲を既に圧倒する大勢力となったということ。
美濃一国の攻略までの7年間と、その後の領国拡大のスピードの速さを比較すれば
始めからそういう方針であったことがしれる。
そしてその方針は真っすぐに京都へ向かっている。
局地戦が強い云々のレベルの話じゃないんだよ。信長と信玄では政治家として天と地ほどの差がある。
0752人間七七四年
2010/10/22(金) 12:51:36ID:sHJOJE6bたしかにその英主や馬鹿世継ぎの補佐役が生きてたら信長は逆に滅亡してたろうね。
まあ信長が圧倒的大軍で攻めたはずなのに
結局、伊勢の北畠に土下座して和睦してもらったくらい弱いのが信長だからね。
0753人間七七四年
2010/10/22(金) 13:31:01ID:iby1tBc8戦国大名は軍事指揮者であると同時に、いやむしろそれ以上に為政者だ。
強いの弱いのとかいう低レベルなゲーム脳でしか語れない白痴はすっこんでろ。
0754人間七七四年
2010/10/22(金) 16:46:53ID:CIMLKg9jまったくのウソで
実際は大苦戦しまくりの三ヶ月間で
苦戦した末に信長の方から和睦を言い出してる。
5万対1万6000での伊勢平定戦で織田は大苦戦して和睦をした。
阿坂城では生涯唯一と言われる秀吉の怪我まであった(矢が左股に刺さった)
さらに大河内城でも織田軍は大苦戦しバタバタと将が討ち死にしまくり。
将来の織田幹部候補が大量に死んでる。
結局、和睦になり、北畠側が人質として茶箋丸を取ることになった。
そしてやってきた茶箋丸には警備として織田に寝返った者たちも含めた
尾張・伊勢500が駐屯するようにやってきた。
そして織田に内部から乗っ取りを謀られた。
北畠側はその時に和睦が罠だったと気づいた。
0758人間七七四年
2010/10/23(土) 05:30:43ID:eA1z4w1a>>最も強力な統一勢力のある美濃斎藤義龍
旧土岐家臣2万が背後にいて親子で内紛してるような国ですが?
しかも有力家臣団の牽制しあう上に君主が載ってるような情況なので
父道三のような独断専行政治ではなく、義龍は「宿老」と呼ばれる
重臣の意見を取り入れる合議制を敷かざるおえなかった。
それが龍興の時代になって竹中半兵衛らに一瞬で
岐阜城を乗っ取られてから返却して頂くありさまな原因になる。
>>これは明らかに何らかのビジョンに基づく戦略であり
あっ?「何らか」の時点でまったく明らかになってないだろw
>>それを成し遂げた時、周囲を既に圧倒する大勢力
よくわからない何かを成し遂げたら?日本語大丈夫?
そもそも美濃斎藤を滅ぼすと信長は周囲を圧倒する大勢力になると知ってたとなると
信長はすでに太閤検地の石高調査結果を見てきてる証拠だね。
前世では秀吉の部下として太閤検地をしてたのが信長かね?
するとループしてやり直しの罰ゲームをしたのに
本能寺を避けれなかった大馬鹿者ですね。
>>美濃一国の攻略までの7年間
10年はかかってるはずだけど?
>>始めからそういう方針であったことがしれる
>>そしてその方針は真っすぐに京都へ向かっている
伊勢方面は完全無視ですか?
ただ単に家康が自立して東にいたからでしょ。
>>信長と信玄では政治家として天と地ほどの差
で、結局どこら辺よ?箇条書きにして書いてくれるかね?
0759人間七七四年
2010/10/23(土) 06:09:38ID:eA1z4w1a志賀の陣と並行しておきた野田城・福島城の戦いで失い
長島門徒の攻撃で信長の弟信興が討死
坂井政尚まで討死
朝廷と信長包囲網の主である足利義昭に土下座して
朝倉義景や六角義賢との和睦斡旋を願った。
信長公記では朝倉方から義昭に仲介を頼んだとデタラメ記述があるが
浅井へ「公家・門跡方の政道の件は貴国より沙汰に及ぶべきの条相違これあるまじき事」
という朱印状を
朝倉へ「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」(三河物語)
という起請文を提出しており信長から和議を申し出たものと考えられている。
0760人間七七四年
2010/10/23(土) 08:36:31ID:bdrlhAtF物資の関係であれ以上長引く事は避けたかったんで、織田方の一方的敗北
ってわけでもない。もし一方的に信長をぼこれる環境下なら義昭や朝廷の
仲介なんか無視すればいい。所詮あの時代は両方とも権威だけの存在。
もし無視できないとするんなら信玄の西上作戦も京を信長が押さえてる以上
朝廷に間に入って貰えば信玄は撤兵せざるをえない事になるんだが。
0761人間七七四年
2010/10/23(土) 10:51:05ID:Kdps2tZ8足利義昭の誘いに乗り、本願寺・浅井・朝倉他の脆弱な織田家包囲網を信用して西上してきた一点だけを見ても、信長との政治的センスの差は一目瞭然ですよね。
もし信玄が長生きしても、信長の包囲網切り崩しか朝廷への和平工作で大義名分を失い、甲斐に引き上げたのは確実と思われます。
政治センスに優れた信長相手に、単回の合戦勝利は何の意味も持ちませんから。
行く末は信長に頭を下げるか、勝頼のように滅ぼされるかどちらかだったでしょう。
つまり史実と同様の経過、あるいはもっと遅い時期に武田攻めになります。ただ、信長のことだから、信玄が頭を下げてきた場合には家康のようにとり込む可能性もおおいにあったと思います。
信玄の政治力が信長より優れていたなんていう意見を見ると見識を疑いますね。信長のことを知らない人の発想でしょうね。
0762人間七七四年
2010/10/23(土) 10:52:23ID:Kdps2tZ8家臣団を掌握するのには最低でもそれぐらい必要だったのです。しかし信長が信玄の死を知っていたため時間を作らせなかったのです。
勝頼は暗愚ではなかったのですが家臣の暴走を止められなかったのです。信長は兵法の基本である相手の倍以上の兵力を集めることに力を注いでいました。
一度負けても必ず最後に勝っているのはそこに長けていたからです。それなので例え武田信玄でも信長には最終的には負けていたでしょう。
0763人間七七四年
2010/10/23(土) 10:57:49ID:Kdps2tZ8短い自分の人生の時間を無駄にしないように、リスクはあっても、京付近を領有する政治的・経済的優位さを良く理解して、京を目指して一直線に進める思いっきりの良さが不可欠です。
自己の安全を最優先にして、本拠地から同心円状にしか領地を拡張し得ない普通の武将には無理です。信玄も所詮この類です。
本拠地の甲斐の国から、その都度、取りやすい領地を同心円状に累積していったというだけで、いかに大大名になったとしても、
所詮、毛利や北条と同じで、最終的にローカルな抵抗勢力にしかならなかったでしょう。
信玄が10年、20年、早く信濃を領有できたとしても、越後・越中・上州・武蔵・東海地方に泥沼の戦いを強いて領土を拡張し、大大名になるだけのことで、
とてもその生涯で天下人にはなれなかったのではないかと思います。
もし信長が信玄であったなら、信玄のように川中島付近の領有にこだわらず、村上氏をほどほどに無力化したら和睦して、
上杉氏・北条氏とは争わず、全力で東海・近畿に進出したのではないでしょうか。
0764人間七七四年
2010/10/23(土) 11:00:38ID:Kdps2tZ80765人間七七四年
2010/10/23(土) 11:13:10ID:bdrlhAtF立たされてる。そのタイミングで裏切った信玄を信長が許すとは
思えない。それに特に長篠以降信長にとって武田攻略は完全に
片手間だが信玄が存命ならそういう訳にもいかんだろうから
むしろ武田滅亡は史実より早まったんじゃない?
0766人間七七四年
2010/10/23(土) 11:56:08ID:Kdps2tZ80767人間七七四年
2010/10/23(土) 12:46:35ID:bpxs5QfC0768人間七七四年
2010/10/23(土) 12:59:58ID:apl8U9m7物資の関係で朝倉も和睦したがってたと言うのは一次史料にはない話だと思いますが出典はどこですか?
朝廷の和睦工作を信長が頭を下げて頼めば、三河譲渡あたりで信玄と和睦条件を詰めてくれたと思いますよ。
>>767
そいつ子供レベルの書き込みしかしてないから
バカそうだから相手にしない方がいいね。
0769人間七七四年
2010/10/23(土) 13:16:13ID:bdrlhAtFまあでも雪の関係上朝倉もあれ以上の継戦する事は無理だった事は事実。
というか豪雪で物資や人の輸送ができないなんてソースいるか?常識じゃん
それともう1つ三河譲渡って・・・。織田と徳川は建前上は別勢力だよ。
その状態で三河譲渡なんて事になったら徳川が領地を失うからそれはない。
まあ遠江まででしょう。でもそれで一端和睦したら武田が再度動く前に
浅井滅亡義昭追放であんまり史実と変わらん。朝倉までは手が回らないかも
しれないけど浅井がいなければ朝倉の動きは大幅に制限されるし。
0770人間七七四年
2010/10/23(土) 16:08:17ID:hUHgAq8lそもそも朝倉側に物資がないなんて決め付けるのがおかしくないか?
信長は家康を全力で守ろうとする意思は見受けられない。
いざとなれば自領さえ守れれば家康なんて切るでしょ。
別に家康を配下に入れて、尾張に加増してやれば家康だって大喜びでしょ。
0771人間七七四年
2010/10/23(土) 17:34:11ID:bpxs5QfCただ滅ぶ少し前まで大軍起こしてるから信憑性にかけるが
0772人間七七四年
2010/10/23(土) 23:57:59ID:bdrlhAtF豊かだろうが物資が不足してようが関係ない。雪のせいで比叡山に物資が
輸送不可になるからあれ以上の継戦は朝倉側にとって不可能だったと
言ってるだけだ。それでこれは定説でソース云々なんて問題じゃないし
無視しようと思えばできるであろう幕府と朝廷の仲介を受け入れたのも
状況証拠の1つではないかと。実際あの講和で朝倉側が得たものなんて無い
それに徳川にとって三河は先祖伝来の土地なのに主君でもない信長が勝手に
三河譲渡なんて決定したら徳川に裏切られても文句は言えない。
0773人間七七四年
2010/10/24(日) 00:44:01ID:8oqe6gf5朝倉から依頼してきたわけじゃない。
つまり朝倉はまだまだ籠城に耐えられる状況なのは明白で
逆に信長は周囲の状況がどんどん悪化して耐えられない状況まで
追い詰められていたというのが事実。
家康は長男や正室まで殺すように命令してる信長が
いまさら家康の心配なんてしないだろうね。
家康だって武田にも織田にも手も足も出ない状態なんだし
抗議の自決でもするかもね。
0774人間七七四年
2010/10/24(日) 00:57:25ID:6Jo7PCBP信長が追いつめられてたとかどんだけ〜
0775人間七七四年
2010/10/24(日) 00:58:40ID:Euq893Ft追いつめられて朝倉は余裕だったんなら織田軍の近江からの完全撤退くらい
要求しても良さそうなもんだけどな。それと信康の処刑については異論が
ある。もう1つ100歩譲って徳川が滅びてもいいと信長が思っていたと
しよう。でもそれを表に出しちゃったら家康が包囲網に付く可能性も十分
あるよね。そんな事になったらさすがに詰んじゃうと思うんだけど。
0776人間七七四年
2010/10/24(日) 01:05:02ID:8oqe6gf5そもそも反信長で指示してた将軍が黒幕なんだし。
官位とか奪われたら困るし。
結局、朝倉が物資に困ってたとする一次史料もないのに
そこをウヤムヤにしてウソついてただけでしょ。
0777人間七七四年
2010/10/24(日) 01:13:38ID:Euq893Ft撤退するのは信玄の西上作戦の時もそうなんだしいつもの話だよね。
それに朝倉が義昭の仲介を無視したってそりゃ義昭の顔はつぶれるかも
しれんが義昭は信長憎しで固まってるんだから別にどうって事はない。
0778人間七七四年
2010/10/24(日) 01:20:39ID:Euq893Ftつけて貰う事である程度代用可能。
0779人間七七四年
2010/10/24(日) 02:16:43ID:6Jo7PCBPその理論だと信長雑魚・武田最強になるらしいww
0780人間七七四年
2010/10/24(日) 04:57:02ID:3mRtIlsrそんなに自信満々に主張するんだろうね。
やっぱり狂信すると信長に一方的に有利な解釈をしてるのに
自分は中立だと盲信しちゃうんだろうなー。
なんだか恐い話だよな。
それに官位&官職と幕職じゃまったく違うw
朝廷と幕府の両方から取り上げられる可能性の方が強いのに何を言ってらっしゃるのかわかりません。
0781人間七七四年
2010/10/24(日) 08:40:57ID:Euq893Ftさてそもそも何でこんな話になったか考えようぜ。
あんたら武田厨の意見はこうだ。まず前提として信長は大した事がない。
その実例として武田は朝倉にも追いつめられて朝廷に泣きついた。
と言っている。で俺は反論として、信長は確かに朝廷に泣きついたが朝倉も
雪の関係であれ以上の継戦は無理でしたよー。と言ったらあんたらに
んなーこたない。ソース出せと言われたんで、ソース以前の問題に朝倉は
毎年冬になると撤兵してるし、雪が積もってたら物資の輸送は不可。
大体朝倉が大人しく撤兵してるのが証拠。と言ったら朝倉は朝廷と義昭の
意向に従っただけだと言われたわけだ。
さてここであんたらの話を一応飲もう。そうすると1つ大きな矛盾が
生まれる。まず志賀の陣の講和条件の1つとして近江はどうなったかと
言うと北群三分の一は浅井に残りは織田にという条件でした。後は人質交換
とか両者の撤兵とかそういう当たり前の条件ね。
0782人間七七四年
2010/10/24(日) 09:06:03ID:Euq893Ft逆らって官位とか奪われたら困るから泣く泣く撤兵したと言うニュアンス
だけどそれは信玄にも当て嵌まるよね?もし朝廷が間に入ったら信玄も
撤兵せざるを得ないわけだ。でそれを書いたら講和条件は三河譲渡だと
言われた。節子それ講和やない。降伏や。あんたらの言う信長一方的ピンチ
だった志賀の陣の講和条件が上記で武田が絡むと戦場にもなってない三河を
譲渡しないといけないってどんだけ矛盾してるんでしょうか?
まあ家康も三方ヶ原でぼろかすに負けてはいる。でも浜松城はまだ健在だし
兵もまだ七千はいるんだよ。普通に考えたら講和条件は遠州半国に人質を
徳川、織田から出す程度でしょう。MAX遠州一国の割譲が限界。
それも両者が撤兵してだ。常識だと思うけど一度遠征から引いたら再度挙兵
するのに結構時間いるよね。ましてその場合進軍ルートである遠江の領国化
も必要なんだから普通より時間がかかる。
0783人間七七四年
2010/10/24(日) 09:17:37ID:Euq893Ft攻めてくる事は信長には解ってるんだぞ。信長なら史実と照らしあわせても
仮に信玄の再挙兵が1年後だとしてもそれまでに和睦出来る勢力と和睦
しつつ戦線を縮小しながら畿内を小康状態にして浅井を滅ぼすくらいの
事はできるだろう。更に致命的な事にうかうかしてると上杉が北陸から
戻って来る。それがなくても国力は表高で信長は信玄の2倍だしね。
結局定説を無視してまで信長を貶めるとブーメランで信玄に返ってくる。
0784人間七七四年
2010/10/24(日) 09:19:12ID:Euq893Ftろうか。
0785人間七七四年
2010/10/24(日) 12:57:29ID:3mRtIlsr長々と妄想を語ってるだけか。
読む価値もないな。
だいたい三河なんて信長の領地でさえない利害得失のない場所じゃないか。
それを与えるくらいで武田と和睦できればラッキーじゃん。
もともと家康を助けるなんて無理な状況なんだから。
余裕ある朝倉は自分から和睦を頼んでないし
余裕がまったくない信長はどうしても和睦したがって申し出ていた
この事実は史料を見る限り変わらない事実だよ。
0786人間七七四年
2010/10/24(日) 13:43:00ID:Euq893Ftなるだろ?美濃信濃間は山地だけど三河尾張間はんな事ないわけで状況が
とんでもなくやばくなる事なんて明らかだろ?後和睦って双方メリットが
あるから結ぶものであってじゃああの時点で朝倉が講和するメリットって
雪以外何だったんだよ?まさか何のメリットも無かったとか言わんよな?
0787人間七七四年
2010/10/24(日) 13:55:57ID:3mRtIlsrあなたの問いにはすでにさんざん書いてるし
そちらはなぜ新たな証拠も出さずに
無駄に長いレスしてんの?
それただの粘着じゃん。
0788人間七七四年
2010/10/24(日) 13:57:04ID:lW60tyzD0789人間七七四年
2010/10/24(日) 14:02:53ID:Euq893Ft撤兵したという証拠あんのそれ出せよ?人に史料だのソースだの言っといて
自分が出せないなんて事はないよな?
0790人間七七四年
2010/10/24(日) 14:20:11ID:3mRtIlsr自分の思う通りにならないからって
火病を発症させて
ちゃぶ台ひっくり返すなよw
ちょっと我が儘すぎだぞ。
織田厨って幼児かよ…
0791人間七七四年
2010/10/24(日) 14:38:44ID:Euq893Ft今度は火病だの幼児だの意味不明だ。こっちは一次資料は確かに無い。
だが戦国期において毛利家が義昭の仲介を無視したりとかしばし朝廷や
幕府が無視されている事は事実だ。更に何度も書くが信玄の西上作戦時を
代表として朝倉軍は雪の降る季節は撤兵している。これらを総合すると
朝倉は雪のせいで撤兵したなんて事はすぐ導きだせるし、割と定説だと
思う。あと信長公記も甲陽軍鑑とかと比較すればよっぽど信頼できると
思うが。
0793人間七七四年
2010/10/24(日) 18:05:46ID:HbRbjUDI>>こっちは一次資料は確かに無い
ないならすっこんでろよw
毛利は大友との和睦で隆元が「毛利のためにならないなら和睦しない方が」と言っても元就は和睦してるしw
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
0794人間七七四年
2010/10/24(日) 18:09:10ID:HbRbjUDI角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は40以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
他にもいろいろ載ってますので興味ある方は歴史読本8月号のバックナンバーを買おう!
0795人間七七四年
2010/10/25(月) 03:39:15ID:6SZRDbOQ秀吉が自分の生い立ちを落とすことで他の諸大名の同情を買うためのでっち上げなんだよ
じゃないと農民の倅(笑)が天下人になるわけがないでしょ?
安土城の石垣なんてほんとは秀次の八幡城のことなんだよ
0796人間七七四年
2010/10/25(月) 08:59:46ID:B+2QoeZX0797人間七七四年
2010/10/25(月) 11:43:55ID:waqCCypP0798人間七七四年
2010/10/27(水) 06:54:28ID:RithdJF20799人間七七四年
2010/10/27(水) 11:18:55ID:mZhEmIjZ(これは信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだから)
周辺が敵ばかりという拡大された戦線・国内における今や乏しい金の産出量という状況に置かれた勝頼は本当に憐れだよなあ・・・・
明智城・高天神城を落としても焼け石に水だったし、これじゃあどんなに優秀な武将でも滅亡は免れなかったはず・・・・
0800人間七七四年
2010/10/27(水) 12:10:52ID:pPQRHbR0意見があるけど嘘だよな。史実を見ればわかるけど信濃から美濃へ直接
攻撃する事は不可能。だからと言って今川は義元存命中は武田より格上。
やるなら桶狭間の後にすぐに今川を裏切るべきだったよな。それなら
一向宗に悩まされたいる徳川なぞ無視して駿遠三を1570年くらい
までには領有できた筈。北信を一部上杉に譲って同盟組めば北条への
牽制になるし。何であんな何年間も放置したんだ?
0801人間七七四年
2010/10/27(水) 15:12:24ID:+CQasML3部分的には同意できるが、納得できない部分もあるな。
不毛な争いをしたため遅れをとったのではないというのには同意。遅れを取ったのは
一言で言えば「信玄(謙信)は尾張に生まれなかったから」
近畿に覇権を打ち立てるのに、肥沃な濃美平野を拠点として押さえ、その生産力と兵力を
背景に地形的に強力な統一勢力が立ちにくい近畿を制圧するというのは当時の状況から
最も有効な手段のひとつだっただろう。
桶狭間の後すぐに駿河に侵攻は不可能。
今川、北条という強大な大名勢力に甲斐一国では太刀打ちできないから信濃へ侵攻した。
信濃へ侵攻したから上杉謙信と戦う羽目になった。
逆に信濃を併呑してなければ例え義元不在の今川でも侵攻は到底無理だろう。
また北信を一部上杉に譲って同盟と言うのも可能性は薄い。建前上、上杉は村上氏の旧領回復のために
戦っている。北信を一部というなら当然村上氏を置くだろうしそうなれば村上氏に
「信濃の旧秩序回復」という大義名分を与えてしまうことになる。
当時の状況として上杉との妥協はともかく北信の割譲はありえない選択だったと思われる。
0802人間七七四年
2010/10/27(水) 16:47:59ID:jPi5iUlm信玄は大将首を挙げた経験がない。討ち取った最大の大物が長野業盛程度。
義元のみならず浅井朝倉斎藤北畠勝頼松永と討ち取りまくった信長の真似は無理だろう。
0803人間七七四年
2010/10/27(水) 16:51:23ID:ahC4/5gvあと宣伝してる甲府市に信玄は過大評価ですから崇めるのは止めろと言えばいい
>>1の健闘を祈ってる
0804人間七七四年
2010/10/27(水) 16:57:30ID:pcaafVCY何せ史実で極限まで弱体化した幼君に何回も大敗しウルトララッキーパンチで義元うち取ったのを実力と勘違いし
本願寺斉藤北畠武田浅井朝倉など常に圧倒的大軍で寡兵の敵に負けまくり最後は寡兵の光秀に奇襲され
天下奪われただけなんだし。
武田はおろか、長衆我部元親、伊達政宗あたりにも余裕で負けそうだ。
0805人間七七四年
2010/10/27(水) 17:27:29ID:pPQRHbR0人なんだから。戦争に強ければ天下取れるんなら上杉謙信か朝倉宗滴が
天下取ってる。それと桶狭間は決してラッキーパンチじゃない。
まず第一にそもそも今川義元と織田信長はそこまで凄い国力に差があった
わけじゃない。信長50万弱、義元70万石ちょいくらい。
それとあれ先に軍事行動を起こしたのは実は織田方だし、近年では実は
奇襲じゃなかったなんて説もあるくらいだし。
0806人間七七四年
2010/10/27(水) 17:43:22ID:+CQasML3そういう武将同士を何か格闘技の選手みたい単体で抜き出してあっちが強いの弱いの
というゲーム脳に支配された論は全く意味が無い。
戦国大名権力というのは組織体であり、大将個人のパーソナリティが組織に与える影響は大きいが
当然すべてではない。
ともあれ信長の軍事指揮能力に疑問符がつくのは同意。
桶狭間は冷静に考えてまぐれ。無論義元の迂闊さもあってのことだが、言うなれば
采配に関して下手糞同士が泥仕合した結果、たまたま寡兵のほうが勝っただけだろう。
その他の合戦に関しても、信長の指揮能力の卓越さが伺われるようなものは何もない。
しかし結果として信長が他を圧倒したのは、所詮采配などと言われる指揮能力では
局地戦の勝敗を左右することはできても、全体としての流れを作るに至らないということ。
寡兵をもって大敵を倒したところで、その果実たる領土や利権を得るには力不足でどうにもならない
ということは信長自身が桶狭間のあと身をもって体験したことだろう。
政治目的における戦争の勝利条件とは、味方側が充分に余力を残した上で圧勝すること。
その勝利が覚束ないなら小競り合いで機会を譲るのが妥当。
ランチェスター戦略を理解していたとしか思えない信長の方針こそがその天才性であり
それ以外は並以下の軍事能力。信長は優れた将軍ではないが極めて優れた軍務大臣と言える。
強いの弱いのって子供か?
0807人間七七四年
2010/10/27(水) 17:55:07ID:pcaafVCY討ち取る幸運があったから信長は勢力を広げたんだろう。
それから別に戦術は重要性が低いわけではない。信長の場合は政略や国力や調略などで戦術的弱さを克服してるが
克服できない場合は次々大友みたいに飲み込まれるだけ
そもそもことの発端は>>802なわけで。
0808人間七七四年
2010/10/28(木) 02:15:29ID:IYAB/X2i和睦斡旋なんてしてないで。
その後上杉足利相手にすれば良い。まぁ、勝てるかはしらん。
0809人間七七四年
2010/10/28(木) 12:39:24ID:5FLjsZAj0810人間七七四年
2010/10/28(木) 12:39:48ID:K56cHlH6高校野球でいうと優勝候補と言われながら一回戦敗退するのと同じ感じだよw
0812人間七七四年
2010/10/28(木) 12:45:52ID:K56cHlH60813人間七七四年
2010/10/28(木) 12:47:23ID:K56cHlH60815人間七七四年
2010/10/28(木) 13:04:35ID:K56cHlH6「親、妹婿」などに手をつける「非道」で
のし上がりましたが「勝頼」は「親族」には
まったく手をつけづ逆に土地を与え
力を付けさせ
「家臣」は死力を尽くしていますが土地を与えず
多くを死なせ
最後には頼りにしたはずの
「親族衆」にそっぽを向かれている始末です。
「戦国時代中期」は、まずは「親族を襲う、力を削ぐ」などで
「権力集中」が上策と思われます。
0817人間七七四年
2010/10/28(木) 15:29:00ID:1YnRLR8j地方大会1回戦負けレベル
斉藤浅井本願寺北畠武田朝倉。弱すぎる
0818人間七七四年
2010/10/28(木) 16:15:07ID:zYy2/tai0819人間七七四年
2010/10/28(木) 17:41:14ID:nfM3qxPz0820月孔雀
2010/10/28(木) 17:59:31ID:2joSbrCn0821月孔雀
2010/10/28(木) 18:57:41ID:2joSbrCn周辺からの嫌われ者になっていたような。
0822人間七七四年
2010/10/28(木) 19:56:06ID:+AuObBv9俺にも出来そうw
0823人間七七四年
2010/10/28(木) 19:59:45ID:ZiGRAtN+なのに何故生前直接絡みがなく年齢一周りも違う信長を引き合いにだす?
0824人間七七四年
2010/10/28(木) 20:13:46ID:BJ++y6Rz0825人間七七四年
2010/10/29(金) 02:42:26ID:RELMvdvR0826人間七七四年
2010/10/29(金) 02:51:43ID:w4S+n+VO0827人間七七四年
2010/10/29(金) 09:37:24ID:P/imKiyJ軍勢の指揮能力に関しては謙信に一歩も二歩も譲り、謀略や政治的な成果=兵力や
実効支配で何とか五分に持って行ったのが実情だし、
その謀略についても毛利氏や織田氏配下の秀吉のように劇的な効果を上げたわけではない。
敵勢力に動揺を走らせた程度。
そして政治的な成果においては織田氏の足元にも及ばない。
まあ何でもそつなくできるっちゃそうなんだが、どれも中途半端。
器用貧乏という言葉がこの上も無く似合う武将。それが信玄。
0828人間七七四年
2010/10/29(金) 10:09:49ID:2WpV6WYjとは思う。
0829人間七七四年
2010/10/29(金) 11:35:58ID:CRovKdME肉親を殺し追い出しピンチになれば追い出した母親にすがりつき
連戦連敗で敵の主君が相次いで死んだのにつけこみ攻め込むも撃退される
そして子供相手に家臣の切り崩しというセコい手でやっと勝つも統治に失敗、一揆を起こされる
秀吉の命令を無視するも小田原の状況が悪くなると顔真っ青になり土下座するヘタレ
0830人間七七四年
2010/10/29(金) 12:42:59ID:hp9Q5haz信長は浅井朝倉を始め沢山の大名を滅ぼしてる!!
0831人間七七四年
2010/10/29(金) 14:37:25ID:MCEnAJpy信玄過大評価って信じてた頃もあったけど
調査すればするほどハンパない凄さがわかるわ。
0832人間七七四年
2010/10/29(金) 15:43:21ID:CRovKdME政宗はそれを上回る過大評価
滅ぼせた大名が子供君主となった蘆名のみ
遥か格下の相馬にも勝てない凄まじいヘタレっぷり
南部にさえやられ役にたたないものを次々開発し財政破綻を起こす
唯一の戦功は味方を銃撃で撃ち取ったぐらい
0833人間七七四年
2010/10/29(金) 15:50:25ID:oGs1vE7vいいんだよ、戦国なんだから。
どんな手を使っても最終的に勝った者が正しいの。
じゃあお前、20代前半で自分の家の年収なり資産を2倍3倍にできるか?
できないだろ? 政宗はそれが出来たすごいやつなの。
0834人間七七四年
2010/10/29(金) 16:14:35ID:qUm8N7IR俺は三好長慶。後毛利元就より大内義興の方が偉大な気がする。彼が元就の
年齢まで生きてたら尼子滅ぼして北九州と中国は完全に大内の物になってた
と思う。後は元就の長男に今川義元、竜造寺当たりかな?逆に過大評価は
元親だな。島津は微妙。
0835人間七七四年
2010/10/29(金) 16:47:22ID:CRovKdME流石に父親や弟殺して母親追い出すような人道に反する真似や
続けて主君の死んだ所をセコい手使って奪って収入増やす無理だな 恥を知ってればそんな事はしないからな
しかも天下人に喧嘩売った後土下座もしないなぁ 俺ならさっさと降って大領維持してるよw
その後平和に満足せずわざわざ逆恨みして煽動してまた土下座するような事も俺ならしないな
腹を切る覚悟もない癖に領土に執着する欲だけは武士っていうヘタレにはなりたくないもんだwww
0836人間七七四年
2010/10/29(金) 16:50:39ID:CRovKdME増やす無理×
増やすのは無理○
肉親殺してまで収入増やしたいと思うのは真性のキチだけだろ
それとも肉親殺してでも収入増やしたいと思ってんのか?そういう奴は精神科行けよ
0838人間七七四年
2010/10/29(金) 17:01:51ID:rxA8berD畿内が滅茶苦茶になってたおかげ。家康が東にいなかったら武田に瞬殺されてたのは間違いない。
家康が東にいて斉藤がガタガタで浅井が斉藤攻め手伝ってくれたから美濃取れただけ。
信玄が死んで畿内の勢力も連携がうまくとれなかったから勝てただけ。
0839人間七七四年
2010/10/29(金) 17:02:13ID:CRovKdME現代の話で振られたから仕方ない
それに感覚が違うと言っても肉親同士が争った例がわざわざ特筆されんのは希有だから
まあ伊達は親子争いがお家芸だから仕方ないかもしれんが
だからといって無理やりお涙頂戴話にするのもどうかと思うがな 捏造大好き政宗
0840人間七七四年
2010/10/29(金) 17:08:17ID:qUm8N7IRみんな親戚だからあまりガチでやり合わない事を良い事に政宗1人だけ
本気だしました感があって確かにルール違反ではあるわな。
>>838 はいはい信長は全部運です。信玄は運が無かったね(笑)
0841人間七七四年
2010/10/29(金) 17:19:41ID:CRovKdME上杉や佐竹にやられかけたのを惣無事令で助かったのが伊達厨フィルターだと何故か邪魔された事になるという捏造っぷり
叔父の最上に攻められた時も追い出した母親に泣きついて追い出されても息子想いの母が命を張り止めて入るなど
政宗は運が良すぎる
大抵自分の父親をどうこうした奴は過大評価だろう
0842人間七七四年
2010/10/29(金) 17:28:23ID:0omZDXWm0843人間七七四年
2010/10/29(金) 19:21:18ID:oGs1vE7vまあお前みたいなもんは始めっから相続した領土を2倍3倍になんてできないから
天下人から目を付けられることも無く見過ごされるから土下座しなきゃいけないパターンにならなくて楽だよな。
0844人間七七四年
2010/10/29(金) 19:24:16ID:hp9Q5haz0845人間七七四年
2010/10/29(金) 19:25:24ID:CRovKdMEできない× やらない○
流石マジキチ政宗マンセーだな
身内殺しを何とも思わないとは信奉対象によく似たキチ脳ですね
0846人間七七四年
2010/10/29(金) 19:29:22ID:CRovKdMEただ無能捏造大好き政宗はせっかく盗った会津を統治できないで一揆起こされる有り様
見物してた農民に銃撃を加える基地外頭 流石にそこまでバカな事は俺ですらやらんわ
0847人間七七四年
2010/10/29(金) 19:46:42ID:MCEnAJpyしかも伊達累代が宝物を寄贈して尊崇してきた寺社は
上杉に大敗して北目に逃げる時に全部燃えちゃったしw
政宗は伊達累代最大の恥晒しだよな。
0848人間七七四年
2010/10/29(金) 20:01:49ID:hp9Q5haz0849人間七七四年
2010/10/29(金) 20:41:02ID:a4IYxWaR家康が織田も豊臣も滅ぼした。戦国最強
織田は雑魚
0850人間七七四年
2010/10/29(金) 20:44:16ID:JeWN80XJ今携帯だから立てられないorz
0851人間七七四年
2010/10/29(金) 20:45:07ID:a4IYxWaR0852人間七七四年
2010/10/29(金) 21:07:43ID:oGs1vE7vスケート滑ってるだろうが。
0853人間七七四年
2010/10/29(金) 21:17:48ID:a4IYxWaR武田の血を引く北条氏直の子だって生き残ったし
0854人間七七四年
2010/10/29(金) 21:44:53ID:oGs1vE7v俺等みたいな百姓足軽の子孫の方が今世紀中にも滅びそうだよ。
0855人間七七四年
2010/10/29(金) 21:44:56ID:jb+YmaNr上杉謙信 戦100 政62財90謀60 外50 戦略20
織田信長 戦90 政100財120 謀100 外100 戦略100
点数つけるとこんなかな、信長最強だわ
0856人間七七四年
2010/10/29(金) 21:51:10ID:a4IYxWaR実際斉藤浅井武田朝倉北畠本願寺と各地で大敗や大苦戦繰り返した雑魚
最後は寡兵の光秀に奇襲され家を滅ぼした領土拡張率0
信玄は直接対決で家康より遥かに上が確定してるし織田も秋山や山県が蹴散らしたから論ずるまでもない
信長と比較するなら伊達政宗、長宗我部元親、宇喜多直家あたりだろう。
0857人間七七四年
2010/10/29(金) 21:52:41ID:a4IYxWaR0858人間七七四年
2010/10/29(金) 21:59:06ID:OTfwYqdl神様家康を唯一フルボコにした信玄は最強
その信玄と互角に戦った謙信も最強、苦しめた村上長野も最強
信玄に媚びまくった信長はチンカス
信長が評価されたのは、明治の軍学から
これは明治政府の敵、徳川を否定して代わりに信長を持ち上げただけに過ぎない
そんな時代でも信玄の評価は最強w
0859人間七七四年
2010/10/29(金) 22:09:45ID:a4IYxWaR0860人間七七四年
2010/10/29(金) 22:28:20ID:MCEnAJpy0861人間七七四年
2010/10/29(金) 22:32:09ID:JeWN80XJ何度言ったら分かるんだこのニートはw
0862人間七七四年
2010/10/29(金) 22:49:57ID:XnjM9J1I捏造なんていってるのはお前だけ
史実では磯野一人にボロカスにやられ朝倉の大軍を蹴散らした家康によって救われただけ
0863人間七七四年
2010/10/29(金) 22:52:47ID:DsP4nwd2織田家が捏造して勝った事にしただけ。
織田が勢力を一時期広げたのを後世の学者や地元マンセー馬鹿歴史家が作り変えて過大評価しまくった結果が今。
0864人間七七四年
2010/10/29(金) 22:55:03ID:WGy2ejxl0865人間七七四年
2010/10/29(金) 22:55:57ID:qUm8N7IR少なくとも11段の構えまで破ったなんて話は捏造です。
後長野の話は講談だって言うけど実際信玄が上野半国を得るために相当な
時間を掛けたのは事実。
0866人間七七四年
2010/10/29(金) 22:58:08ID:WGy2ejxl信長なんぞ幼君で混乱しまくった斉藤に何回も大敗し浅井の美濃侵攻と調略が何とか成功して
やっとこさ美濃とれただけ。
0867人間七七四年
2010/10/29(金) 23:14:04ID:CRovKdME統治もできない奴が侵略(笑)
ゴロゴロ寝返る中でのスピードなら織田の武田攻めのが上だわなw
勝頼が奮闘してた武田>>>>>>>>>政宗周辺の諸大名>主君が相次いで死に寝返る奴続出する蘆名
むしろあのスピードは当たり前 その領土を見事治めたならまだしも一揆起こされてる無能が何言ってんのw
0868人間七七四年
2010/10/29(金) 23:14:05ID:qUm8N7IR1周り違う信長を一々引き合いに出すなよ。
美濃斎藤家は長良川の戦い開戦前には圧倒的兵力差があり決着も早々に
ついており家中分裂でも御舘の乱なんかとは物が違う。
更に義龍は領土拡張を信長の猛攻の前に断念しており、それどころか
美濃平定さえできていない。更に義龍以降の美濃は合議制の為君主が誰でも
独裁制のとこと比較すれば影響が少ない上、龍興は長島一向一揆や朝倉三好
なんかに従い最後まで信長に抵抗しており氏真さん当たりとはレベルが違う
というより戦国期において自家と同格の勢力を倒すのは相当難しい。
信玄ってだれか同格の人倒したっけ?諏訪、小笠原、村上、長野、今川
全部格下ばっか。
0869人間七七四年
2010/10/29(金) 23:16:37ID:JeWN80XJ0871人間七七四年
2010/10/29(金) 23:25:04ID:JeWN80XJつまりメール欄が空白のやつはいちいち電源切り替えてから書き込みしてるということ
そう考えないとつじつまが合わないわw
0872人間七七四年
2010/10/29(金) 23:26:49ID:OTfwYqdl村上長野を神扱いするのは疑問に思う
そして信玄が苦戦したのも分かる
なんで苦戦したかは、結局バックに長尾上杉関東勢力がいたからでしょ
朝鮮戦争やベトナムと同じこと
0874人間七七四年
2010/10/29(金) 23:28:06ID:CRovKdMEしかし信玄が過大と言われるが一番の問題は後継だと思うが
長男の義信を実際は何があったか知らんが殺して正式な跡継ぎだか後見人だかを勝頼にするなら
病気なんだから早いうちに退いて勝頼に一任してた方が良かったろうに
よりによっていつ死ぬかわからん病気の状態で大軍を興して財政に打撃を与えたんだからボケたとしか思えん
織田の余裕を武田に向けられたらという懸念があっての大軍なのかもしれんがそれなら始めから動かなきゃ良かったのにな
0875人間七七四年
2010/10/29(金) 23:39:45ID:OTfwYqdl義信事件を逆に利用した面もあるぞ
おかげで、うっとしい国人衆を黙らすことが出来て
反信玄派を消すことができた
信長は逆に、一番信頼していた家臣の謀反で殺さたw
この差は酷いよねw
0876人間七七四年
2010/10/29(金) 23:42:57ID:MCEnAJpy0877人間七七四年
2010/10/29(金) 23:44:34ID:JeWN80XJ0878人間七七四年
2010/10/30(土) 00:22:57ID:kyLEAx/d0879人間七七四年
2010/10/30(土) 03:45:25ID:Dh8VfPBPそれいっちゃ
正式な跡目を決めずに死んで跡継ぎに問題を残し不和と不信の種を自国に留まらず他国にも植え付け
結局最後は親類衆に裏切られ滅亡した武田家は立つ瀬が無いと思うけど。
0880人間七七四年
2010/10/30(土) 04:27:22ID:qneQqosQ本人の判断能力が著しく欠けた猪武者だったから滅んだだけ。
長篠でも御館の乱でも新府でも判断を下したのは勝頼。
最近の研究では勝頼の権力基盤は結構強かったとされてるし。
0881人間七七四年
2010/10/30(土) 06:20:33ID:L5WjIlPq0882人間七七四年
2010/10/30(土) 07:19:42ID:DxV3Q21P0883人間七七四年
2010/10/30(土) 09:27:08ID:UfPxtwqg間違い無く織田徳川の追撃にあって損害受けてた事は確実だし、
御館の乱も不手際は見られるものの、そもそも北条は雪が原因で援軍に
来られない上関東は3大勢力の均衡で持ってきたのに上杉を北条に
乗っ取られたら周囲が格上勢力ばかりになる。まあ新府城は確かに失策だが
逆に義信の方が武田は今まで拡大勢力で国を持たしてきたのにその根幹を
否定するような真似をしている為よっぽど無能だと思う。
0885人間七七四年
2010/10/30(土) 15:14:57ID:NiqiVcUD信玄の一生はお家の戦いだったって見方もある
これは武田家・甲斐の歴史が物語っている
応仁の乱勃発から、荒れに荒れているのが甲斐国
信虎以前までは武田家に権力はなくお飾り状態
お家騒動をくり返し主権は守護代や国人に移っていた
一番荒れていたのは、国人同士の争いが苛烈になった
信虎の前代ジーさんの武田信昌・次男VS信虎の父武田信縄の代理戦争
この争いに勝利したのが信虎で、
信虎は武田家の争いに勝って家を一つにまとめただけ
国人・守護代との争いは続いていて、一応甲斐の統一を果たしたが
なお抵抗は激しく、信虎追放、信玄擁立は過程でしかない
つまり、信玄の家督相続時は武田の権力はまだまだ弱かった
こういう争いに一つの終止符を打ったのが信玄で、義信事件が契機になったと思う
そして武田家が真にひとつにまとまり完成したのが三方ヶ原の戦いじゃないのかな
0886人間七七四年
2010/10/30(土) 15:34:27ID:RV8lVdfK信長と同盟を結べとか遺言を残しとくべきだったな
謙信を頼れとか言ってる時点で終わってる
武田滅亡は信玄のせい
0887月孔雀
2010/10/30(土) 15:43:49ID:JhJNPm8p信長には、降参するしかないぞ、首が跳ぶって。
0888人間七七四年
2010/10/30(土) 15:56:20ID:usfLbJGx信長がそんなへタレなら、そのへタレにまんまと先越された
信玄も謙信もただの大マヌケじゃねえかw
0889人間七七四年
2010/10/30(土) 17:38:17ID:2UdZZtcgまぁそこは低脳だが筆頭に武田厨らしい奮闘ぶりだなぁ
織田を貶めたら武田も織田以上に貶めていることに
武田厨は永遠に気づくことないだろうなぁ
0890人間七七四年
2010/10/30(土) 17:40:33ID:Dh6rYx0p0891人間七七四年
2010/10/30(土) 18:13:31ID:If771voe長篠では雨でぬかるんだ地面で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に突撃
1578年北条氏政が8月に入って上野へ着陣、氏邦を越後上田に出陣させ(石川孫四郎氏所蔵文書)(小森沢文書)
9月には景勝の坂戸攻撃が開始されるが武田軍が妻有まで救援のため出陣したため(石川孫四郎氏所蔵文書)(小森沢文書)
北条方はそこで前進を阻まれ、さらに降雪によって身動きがとれなくなり、ついに12月上旬
『来春無三出勢に及』ぶとして兵を引いた。河田長親も北条の帰陣と時期を一にして
能登越中の諸将を率いて能庄に着陣し景勝方の立場を明確にした。
御館の乱では北条・伊達・葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する
織田が武田を滅ぼせたのも勝頼の馬鹿な行動で極限まで国人の疲弊と不満が高まってたから離反が起きたからというだけ。
0894人間七七四年
2010/10/30(土) 22:03:22ID:P1yBnCU5まともな判断能力がある奴が家継いでたらかなりマシな結果になってたはず
0895人間七七四年
2010/10/30(土) 22:25:47ID:UfPxtwqg信長は勝頼が高天神城を攻めてる時も長島一向一揆を優先したり長篠以降は
信忠任せにするなど完全に武田を格下の片手間でどうにかなる相手としか
扱ってない。俺は違うと思うが仮に勝頼が有能だったら今度は織田家が
全力で武田に当たるだけで大して歴史が変わったとは思えん。
0896人間七七四年
2010/10/30(土) 22:32:12ID:P1yBnCU5木曽が離反したから美濃〜信濃ルートが開けたがそれまでは手出しできなかったといっていい。
高天神城攻囲戦でも水野勢らが援軍として加わってやっと落とせたんだし
東美濃攻防戦上村合戦などもみてわかるように信長が全力で攻撃しようとうまい武田方に撃退されて終りだろうな
勝頼の自爆がなきゃ何もできなかったろうよ
0897人間七七四年
2010/10/30(土) 22:39:31ID:UfPxtwqg0898人間七七四年
2010/10/30(土) 22:40:42ID:9nBDSgYP朝倉浅井と滅んでしまった以上、武田は最早片手間相手で十分な相手。
近畿が不安定な以上甲斐、信濃に出張るメリットもあまりない。
一方の武田家は浅井朝倉長島と次々と滅ぼされ織田家との勢力の格差は開くばかり。
勝頼もこれ以上の戦力格差を広げまいと守勢に徹する徳川家に攻勢に出らざるおえない。
しかも織田が一番苦しい状況で織田家を裏切ってしまったため最早織田家に頭も下げれない。
武田に残された道は結局戦術段階で戦略をひっくり返す機会であり、それが到来したのが長篠の戦い。
信長、家康の主力との決戦に勝てばこれ以上とない大きな戦略的意義を得ることが出来る。
っというか戦術で戦略をひっくりかえさなくてはならないなんて状況をおいていってしまった時点で
信玄の負の遺産がいかにでかいか。
0899人間七七四年
2010/10/30(土) 22:47:05ID:P1yBnCU5長篠は戦術でひっくりかえすどころかまるで城のような陣地&雨でぬかるんだ地面&大量の鉄砲&かなりの数的不利
これで突っ込んだら大敗する事くらい誰でもわかる。これを理解できなかったのが勝頼
信玄の負の遺産?勝頼が全ておじゃんにしただけ。信玄が死んだ時点ではまだチャンスはあった。
0900人間七七四年
2010/10/30(土) 22:52:24ID:kHBLxZ43無茶で無理な決戦と外交や内政で失態をやらかした勝頼が武田滅亡の主要因
まともな武将が継いでたら相当織田も苦戦をしいらされていただろうな
史実で織田と武田が戦ったのみると長篠以外は高遠、岩村、上村合戦、東美濃攻防、三方が原など
常に圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗&大苦戦&大損害なんだから勝頼がアホな事しなけりゃ
織田は負けたかもしれんな
0901人間七七四年
2010/10/30(土) 22:56:53ID:UfPxtwqgMAX5割だが信玄は信長を滅ぼせるチャンスはあった。しかしそれは強大な
信長包囲網があってこそ。例え徳川を滅ぼしたとして武田の勢力圏は
限界170万石。対して第一次包囲網を破った後の織田家は越前含めりゃ
350万石どのみち倍以上の差は埋まらん。
0902人間七七四年
2010/10/30(土) 22:59:53ID:kHBLxZ43畿内の残存勢力と結んで包囲網引いてころあいをみて決戦すればいいだけだろう
0903人間七七四年
2010/10/30(土) 23:09:12ID:9nBDSgYP0904人間七七四年
2010/10/30(土) 23:12:49ID:UfPxtwqg物資なんかの支援はしていたが軍事的な衝突は織田からしかけたんだから。
武田がそこまで脅威になるようなら毛利に喧嘩売らなきゃいいだけ。
波多野クラスなんて多分当時の信長には痛くも痒くもない。北条?織田と
国境も接してないしあんまり中央に興味ないよね。本願寺ももうこの時期に
なると籠もってるだけだし。謙信存命中の上杉は晩年になっても関東に遠征
しようとした事からもわかるように北条とはやっぱり相容れないものがあり
ゲームのような関東三国同盟なんて無理。かといって謙信の死まで待つと
信長の領土は400万石を超えてしまう。そもそも頃あいっていつよ?
0905人間七七四年
2010/10/30(土) 23:42:18ID:RV8lVdfK0906人間七七四年
2010/10/31(日) 00:21:29ID:6Ndt/X1iその割りには長篠以降も警戒してたがな
武田崩れがおきたのにびっくりしてたくらいだし
0907人間七七四年
2010/10/31(日) 00:26:27ID:z7aKGG6K0908人間七七四年
2010/10/31(日) 02:20:12ID:47adVUzv長篠以降も武田の強さ日本一って書かれた資料が織田家領内に存在するくらいだし
勝頼がもう少し馬鹿じゃなきゃ少なくとも滅亡は避けれたろうな
0909人間七七四年
2010/10/31(日) 02:47:40ID:z7aKGG6K浅井が裏切り朝倉浅井に挟み撃ちにあった金ヶ崎
浅井朝倉に囲まれ押し込まれた志賀の陣
全線が崩壊し寡兵で本願寺を打ち破った天王寺
あれ?信玄まったく絡んでねーじゃんwww
浅井朝倉本願寺を武田程度と一緒にするなよww
0910人間七七四年
2010/10/31(日) 02:53:20ID:z7aKGG6Kすまん間違えた
信長公記確認したら天王寺じゃなくて福島野田の戦いだった
つまり信長が苦戦したのは金ヶ崎、志賀、福島野田の3つ
どっちにしろ絡めてない信玄ワロスw
信長が信玄を警戒する理由がないw
0911人間七七四年
2010/10/31(日) 02:57:43ID:d5029KEp勝頼を跡継ぎにしたのは誤りとか勝頼が無能とか
歴史の事実としたら
武田の絶頂期は三方ヶ原で
勝頼が信長に負けただけ
死んだ後のことまで信玄のせいにするのは酷ってもんだ
勝頼が信長に負けた
つまり信長は勝頼より上でだったっていいでしょう
これが歴史の事実だ
0912人間七七四年
2010/10/31(日) 03:02:11ID:z7aKGG6K0913人間七七四年
2010/10/31(日) 03:22:54ID:aE2D1bG30914人間七七四年
2010/10/31(日) 03:32:33ID:aE2D1bG3「信長の野望」というタイトルで、織田信長の時代を中心にしたゲームでありながら、
なぜか武田信玄が毎回のシリーズで、全武将中最も能力値が高く、2位が信長ということが多いようです。
信長の革新者としての能力は数値に留められるものではないですが、伝統的な戦国の為政者という枠にはめたとしたら、信玄が一位ということでしょうか?
光栄さんの歴史観が日本の若者ひいては世界中の若者の歴史観にも影響を与えるものなので、そこらへんは慎重に気をつけて頂きたいところです。
0915人間七七四年
2010/10/31(日) 04:10:16ID:3Q1m47m7まったくのウソで
実際は大苦戦しまくりの三ヶ月間で
苦戦した末に信長の方から和睦を言い出してる。
5万対1万6000での伊勢平定戦で織田は大苦戦して和睦をした。
阿坂城では生涯唯一と言われる秀吉の怪我まであった(矢が左股に刺さった)
さらに大河内城でも織田軍は大苦戦しバタバタと将が討ち死にしまくり。
将来の織田幹部候補が大量に死んでる。
結局、和睦になり、北畠側が人質として茶箋丸を取ることになった。
そしてやってきた茶箋丸には警備として織田に寝返った者たちも含めた
尾張・伊勢500が駐屯するようにやってきた。
そして織田に内部から乗っ取りを謀られた。
北畠側はその時に和睦が罠だったと気づいた。
勝家が長島で大敗して勝家が殿を努めたが猛烈な追撃を受け
旗指物を奪われ大負傷しために
柴田軍が殿を勤められなくなり変わって
殿をした氏家直元が戦死したろう。
その後の柴田は怪我療養中で動きがない。
手取川や熊見川の戦いは必死に否定してるし
それに義昭が挙兵した時でまだ信玄が生きていた頃の信長は進退に窮して
4月5日には正親町天皇から勅命を出させて何とか義昭と和睦してもらってたじゃん。
志賀の陣でも、のちの本願寺との和睦もそうだけど信長は苦戦の末に正親町天皇に頼りまくってるじゃん。
斎藤義龍に信長は最低でも2回は負けてるし・・・
そもそも浅井や朝倉の領土拡張に比べれば信玄の才覚の方が上だしw
0918人間七七四年
2010/10/31(日) 04:58:01ID:GHcAGROI日本語下手すぎてワロタw
20点
0919人間七七四年
2010/10/31(日) 06:27:05ID:PefAkVToただ単に石高の差だけで勝てただけだし。
それでもやたら絶体絶命になって天皇や将軍ら上位権力に土下座し情けに縋って生き延びてきただけだし
0920人間七七四年
2010/10/31(日) 08:35:09ID:aE2D1bG30921人間七七四年
2010/10/31(日) 10:49:42ID:SZy9nkKp勝頼が信勝の後見人に過ぎなかった「陣代説なんていう甲陽軍艦にしか
確認できないようなものを持ちだしてる時点で、ID:z7aKGG6Kは叩き要素があればどんなソースでも気にも留めない悪質な信玄アンチに見える
0922人間七七四年
2010/10/31(日) 11:49:57ID:xXgEWru20923人間七七四年
2010/10/31(日) 12:34:56ID:cluGXsOd自分で空想しただけ。
>>919->>920
では、オマエ等の中では誰が強いと思んだ。
聞きたいね。
0925人間七七四年
2010/10/31(日) 13:58:21ID:9rFaPnJe自業自得だからしかたがない。
0926人間七七四年
2010/10/31(日) 14:08:55ID:PefAkVTo最初に出版した角川書店が信長公記は第一級資料と自らをマンセーしたのが出典なのにシッタカ素人過ぎてワロタ
0927人間七七四年
2010/10/31(日) 14:45:38ID:SZy9nkKp謙信上洛スレで手取り川(笑)をどうこうほざくようなシッタカ素人が、信長公記を叩ける
言える立場じゃねえだろボケナス死ねよ
0928人間七七四年
2010/10/31(日) 14:46:50ID:9rFaPnJeアスペルガーだが(ID:PefAkVTo)は何でそんなに馬鹿なんだ?
0929人間七七四年
2010/10/31(日) 14:52:34ID:SZy9nkKp信長公記を叩ける言える立場
↓
信長公記を叩ける立場
0930人間七七四年
2010/10/31(日) 14:54:04ID:+A+7tDWr0931人間七七四年
2010/10/31(日) 14:55:33ID:aE2D1bG30932人間七七四年
2010/10/31(日) 15:04:13ID:SZy9nkKp戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
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武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
毛利元就(適正値)
統率98 武勇72 知略115 政治89
徳川家康(適正値)
統率102 武勇88 知略100 政治115
豊臣秀吉(適正値)
統率105 武勇65 知略110 政治120
織田信長(適正値)
統率120 武勇105 知略105 政治105
北条氏康(適正値)
統率95 武勇82 知略89 政治110
上杉謙信(適正値)
統率92 武勇99 知略68 政治95
信玄が信長よりスタートに恵まれない → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。
0933人間七七四年
2010/10/31(日) 15:29:19ID:+A+7tDWrでも一向一揆系のスレって何故か立たないよな。
0934人間七七四年
2010/10/31(日) 16:11:24ID:PefAkVTo0935人間七七四年
2010/10/31(日) 16:24:27ID:KyCu7mDH484 :人間七七四年:2010/10/31(日) 07:45:18 ID:PefAkVTo
どっちにしろ1、2年のうちに家臣に殺されるか
和睦斡旋を朝廷にシカトされて敗死する。
0936人間七七四年
2010/10/31(日) 16:25:54ID:KyCu7mDH長篠で武田を破った織田を
謙信が手取川で粉砕したんだから
北条のビビり方が尋常ないのもわかるわな。
そして援軍を派兵したいってのも
北条からすれば謙信の上洛成功の可能性を非常に高く認識してたのがわかる。
0938人間七七四年
2010/10/31(日) 17:07:55ID:2BYjlLr1だがは基本全レス。レスアンカーもこまめに付ける。
上から目線の罵倒混じりの偉そうな文章。
ID変えて自演してくることもあるが、そんなに頻繁にIDは変えない。
出現時間帯が決まってる。
アンチ秀吉はとにかくしょっちゅうID変える。1レスごとに変えてくると言っても過言じゃない。
文章が全体的にだがより幼稚。コピペ多し。
出現時間帯が不規則。(こっちは本当にニートかも)
あと決定的に違うのはだがは絶対的武田マンセー。
織田は勿論大嫌いだが、武田と比較されると北条でも上杉でも叩く。
アンチ秀吉は全般的に東国マンセー西国叩き。
西国カテゴリの信長秀吉が嫌い。その所属武将の丹羽前田柴田滝川や藤堂大谷も大嫌い。
三好毛利島津長宗我部も大嫌い。最近は吉川小早川叩きに熱心。
東国は武田だけでなく北条や直江兼続、伊達政宗マンセーしまくり。
秀吉叩きたいあまり北条マンセーが行き過ぎて「小田原城の兵数1000人」とか頓珍漢なことも。
因みに歴ゲー板の過大過小スレじゃこの両方が同時に出現してそれはそれはカオスになったこともある。
0939人間七七四年
2010/10/31(日) 17:15:25ID:2BYjlLr1881 名前:人間七七四年 投稿日:2010/10/30(土) 06:20:33 ID:L5WjIlPq
自分の家臣に嫡男共々殺害された信長ほどの馬鹿はなかなかいない。
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
328 名前:人間七七四年 投稿日:2010/10/30(土) 06:41:53 ID:L5WjIlPq
巷間も何も毛利家臣が捏造した話を
作者が取材先の毛利家臣から
マンセー話として聞き取っただけだろ…
330 名前:人間七七四年 投稿日:2010/10/30(土) 19:53:51 ID:L5WjIlPq
関ヶ原の賊として左遷され辺境山口県のさらに辺境の寒村萩で築城せざる負えなかった負け犬糞田舎大名の一配下が花の大江戸で有名になるわけねーだろアホ。
郷土愛フィルターで夢を見るのもいい加減にしろよw
↑こういうわけで今このスレで暴れてるのはアンチ秀吉の方な。
だがは武田と織田以外は興味ないんで、毛利叩きとかはしない。
0940人間七七四年
2010/10/31(日) 17:20:21ID:w7/wyB6xやっぱビュロスしかりハンニバルしかり戦術的に優れていても戦略的に優れていなけりゃ最終的に勝者にはなれんのな
信玄は戦術戦略両方優れてはいたがなんせ慎重すぎたんでしょう
群雄にはなれても覇者にはなれんのが信玄の限界
0942人間七七四年
2010/10/31(日) 18:34:36ID:xXgEWru20943人間七七四年
2010/10/31(日) 18:38:33ID:Wj39KxkI0944人間七七四年
2010/10/31(日) 20:36:20ID:2oDD/DJQ0946人間七七四年
2010/10/31(日) 21:22:00ID:wJT/2CPJまた、長篠の戦いでも勝頼が決戦を避けたい織田・徳川を無理やり誘い出したが、最後で失敗しただけで、それを間違えなければ長篠の戦でも勝ってたって言っている。
姉川の戦いでも、3ヶ月後には浅井・朝倉は他国に侵攻できるほどだし、大してダメージ与えられなかった等、面白い事をたくさん教えてくれた。
0947人間七七四年
2010/10/31(日) 21:32:49ID:GVny/KeF実際は引き分けさ
0948人間七七四年
2010/10/31(日) 22:03:46ID:JC5V2M8q大軍を寡兵で破ったり、戦略的劣勢を覆したことがない信玄がねえ・・・・・
そもそも織田も今川も西進と考えたし、北条も関東優先で信玄なんて相手にされてなかった。
0949人間七七四年
2010/10/31(日) 22:28:41ID:Ktf34TJN無知な奴w
0950人間七七四年
2010/10/31(日) 22:57:35ID:JC5V2M8q内政:日本史の内容にもなる信長VS地方伝説の信玄=信長の圧勝
謀略:城攻めもそれなりにこなし、多数の国を謀略合戦双方で切り取りまくった信長VS城攻め苦手な信玄=信長の圧勝
外交:基本に忠実な遠交近攻、恥も外聞も顧みず土下座外交もする信長VS自分の都合のいいように外交をしたあげく八方敵だらけの信玄=信長の圧勝
だがは現実を認めろよ
0951人間七七四年
2010/11/01(月) 00:02:56ID:ArbSP9RD戦国時代だから戦に焦点いきがちだけど
信長は当時で最も優れた政治家だったことが領土拡大の要因だな
信玄や謙信の方が戦は上手いかもしれんが
広範囲にわたる統治の上手さは格段に信長が上だな
0952人間七七四年
2010/11/01(月) 01:14:55ID:Y3//YTWy寡兵で大軍を破るのはすごいが武田はそうせざるを得ない状況に追い込まれるような勢力じゃない
ましてや立場上寡兵を率いるような立場でもないのに信玄に寡兵で大軍を破るような戦歴を求めるのは的外れ
信玄は常に大軍で寡兵を攻めるように動いたし乾坤一擲の勝負にならないよう戦略を立てていた
これは戦での常道であり至極まっとうな戦略
まぁおかげで地方覇者どまりだけど
0953人間七七四年
2010/11/01(月) 01:43:33ID:nUxh712Mで勝つべくして勝てなかったり辛勝だったりするパターンばっかだからな。戦の度に有力家臣が死にまくりだし。
0954人間七七四年
2010/11/01(月) 01:59:58ID:eKWb5a5t>>広範囲にわたる統治
あっちこっちに火がついていて
とてもそうは思えないんですが・・・
0955人間七七四年
2010/11/01(月) 02:02:31ID:AYvonC1E0956人間七七四年
2010/11/01(月) 02:33:31ID:N11tXSrG0957人間七七四年
2010/11/01(月) 03:00:32ID:M9rcqmOJ戦国時代の戦争って城攻め砦攻めばっかだぞw
野戦なんて数えられる程度、野戦をやっても最終的には城を攻め落とすのが目的だからね
ここを苦手とかは戦が弱いと言うのと同じw
西上も結果的に城取り作戦なわけだし
0958人間七七四年
2010/11/01(月) 03:08:08ID:gCj5BzSeその点に織田武田にケチつけるのはナンセンス。
0959人間七七四年
2010/11/01(月) 07:22:18ID:U8u2loVa0960人間七七四年
2010/11/01(月) 10:24:29ID:uLp03X99武田軍=農民
0961人間七七四年
2010/11/01(月) 14:00:14ID:vEHunIsQ0962人間七七四年
2010/11/01(月) 14:15:08ID:/nIaipke所詮は甲府の山猿。
0963人間七七四年
2010/11/01(月) 14:38:53ID:ZGYHjU1D0964人間七七四年
2010/11/01(月) 16:48:30ID:PFnQfLxp謙信>>>秀吉
0966人間七七四年
2010/11/01(月) 19:11:14ID:SQlrKQl0それが間違い
0967人間七七四年
2010/11/01(月) 20:02:29ID:AYvonC1Eそのせいで勝頼は滅んだ
0968人間七七四年
2010/11/01(月) 20:37:26ID:9+xSAp2Gもっと金掛けて作れば良いのに。
0969人間七七四年
2010/11/01(月) 20:54:43ID:XBxtfl/k0970人間七七四年
2010/11/01(月) 21:56:45ID:SQlrKQl00972人間七七四年
2010/11/01(月) 23:28:17ID:Y3//YTWyやっぱ良くも悪くも信玄はにんきですな
0973人間七七四年
2010/11/01(月) 23:57:47ID:LQ1h113pそれ含めて最強ならそういうことでもいいけど。
0974人間七七四年
2010/11/02(火) 00:47:41ID:Q92zHaPW最強と言って問題なかろう。
0976人間七七四年
2010/11/02(火) 10:29:19ID:Gc/zeZJW戦争目的達したほうが勝ちでしょ。
だから
5回に渡る川中島合戦 謙信×−信玄○ (信濃に対する上杉の影響力排除)
姉川の戦い 信長×−浅井○ (浅井家存続と織田軍撃退)
三方ヶ原の戦い 信玄×−家康○ (遠江、三河防衛)
0977人間七七四年
2010/11/02(火) 10:32:26ID:+D+2IIHS朝から薬ってんじゃねーよw
0982人間七七四年
2010/11/02(火) 14:52:30ID:Gc/zeZJWせめて自分の頭で考えてから批判して欲しいな。
じゃあもう少しわかりやすく言うと
川中島
上杉の戦争目的は信州奪還(村上氏に)武田は受身でそれを阻止できたんだから武田の勝ち。
姉川の戦い
織田の戦争目的は浅井氏の滅亡もしくは無力化。その後も浅井氏は蠢動し
比叡山立てこもりなどを起こしているから目的は全く達成されてない。
三方ヶ原の戦い
武田の戦争目的が上洛か、織田氏との決戦か、徳川の覆滅か
取り合えず遠江・三河侵攻かはわからないが、そのいずれも達成できてない。よって武田の負け。
要はね戦国時代の合戦といえど政治の一環なんだから、犠牲者の多寡とかで
判定つけても意味ないと言いたいんだよ?
反論は受け付けるけど言ってる意味もわからない低能はレス不要。
0983人間七七四年
2010/11/02(火) 16:51:37ID:+D+2IIHSそんな勝利の基準があるかよ
そもそも織田軍はこの一戦のみで小谷城まで攻略しようとしてたって話のソースは何?
0985人間七七四年
2010/11/02(火) 18:22:21ID:k+AGEP5G姉川合戦で浅井が「勝った」などとは思わないだろう。
川中島で武田が「勝った」とも思わないだろう。
三方が原で徳川が「勝った」とも思わないだろう。
それに、いずれも決定的に勝ち負けはついてなく、一方が「優勢」あるいは「劣勢」と
思った戦いだったと思う。
0986人間七七四年
2010/11/02(火) 18:51:37ID:JH76Q33Lこれなら正しい
0987人間七七四年
2010/11/02(火) 21:00:10ID:GzzF9hr20988人間七七四年
2010/11/03(水) 01:52:43ID:oVCk/vGr信長>信忠>家康、秀吉、勝家、光秀>丹羽、滝川、信孝
こんな感じ?
それとも家康はもっと優遇されたたのかな
0989人間七七四年
2010/11/03(水) 07:50:50ID:eCo69ZlIあれが参考にならないかな。
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