【海道一の弓取り】今川義元、北条氏康に圧勝
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0001人間七七四年
2010/09/13(月) 04:56:10ID:3TtBUKuw天文14年(1545年)【狐橋の戦い】今川義元○-●北条氏康
信玄率いる武田軍は合戦に参加せず、今川軍は独力で北条軍を撃破
小田原北条勢を駿東(駿河国東部)から追い出した
氏康は父・氏綱が奪取していた駿東を守りきれず、領土を削り取られる結果に
0033人間七七四年
2010/09/24(金) 13:48:11ID:E569CX9Vこの手の釣りもさすがにもう何も釣れんでしょうに。
0034人間七七四年
2010/09/24(金) 14:54:03ID:bfUOkE0aどう見ても義元のが格上でしょ。
0035人間七七四年
2010/09/24(金) 15:02:33ID:tpK/4XKz0036人間七七四年
2010/09/25(土) 23:14:58ID:3JVQXJ3S信秀がカスだったかもしれないし信長も後に負けまくってる
関東の諸将を義元が蹴散らせる保証もない
よってあなたの意見はただの妄想になります
0037人間七七四年
2010/09/29(水) 08:20:45ID:cMHEiSh/マムシの斉藤道三にも一目置かれてた猛将だろ
三河の松平なんか信秀にフルボッコされて今川に泣き付いてるし
信秀がカスなんて歴史知らない人の意見だよ
よって義元は間違いなくけっこう強い
信長>義元>氏康
0038人間七七四年
2010/09/29(水) 10:39:48ID:M2Kz8ez90039人間七七四年
2010/09/29(水) 11:07:44ID:cMHEiSh/信秀は三河捕れそうだったが義元が松平の肩もって立ちはだかったんだろ
勉強しろオマエw
目的のためには手段を選ばない信玄が義元存命中は駿河を一度も攻めなかった
それだけ義元は強かったんだよ
0040人間七七四年
2010/09/29(水) 12:49:34ID:AWadvkL8お前も勉強したほうがいいよ
信秀が負けた戦いは今川軍は雪斎が主将だよ
義元が強いというより、雪斎が強いんだよ
それと義元存命中は駿河を攻めなかったのは、信濃侵攻中だったからだよ
誰も知ってる基本だと思うのだが
0041人間七七四年
2010/09/29(水) 14:45:53ID:M2Kz8ez9捕れそうとか妄想乙www坊主に軽くひねられ松平のガキを誘拐、ところが一族があっさり捕まり誘拐した子を泣く泣く返す羽目にw
有数の商業地を持ってるのに道三に負け雪斎に負け色々負の遺産を残したヘタレ
信長が狂乱をしてたのもひとえに信秀のヘタレぶりが情けなくて見てられなかったんだろうwww
0042人間七七四年
2010/09/29(水) 15:55:29ID:MtBeaeZt義元から結構学んだ事もあったみたいだ。
寄親・寄子制度なんかは大いに模範にしたみたいだ。
あと東海地方で鉄砲を本格的に実践で使ったのは信長ではなく義元なんだぜ。
それを見て信長は鉄砲を大量に購入したんだぞ。
だから義元の軍制を信長は独自に改良して強兵を作り上げたとも言える
0043人間七七四年
2010/09/29(水) 18:40:36ID:F5EZD+lW0044人間七七四年
2010/10/02(土) 05:38:51ID:/idoEyzT雪斎という優秀な軍師が義元に仕え続けたのは義元の人望だろ
竹中半兵衛みたく優秀な人材は、主人が無能と思えば主人を見捨てて裏切る
それに義元は河東一乱で自ら指揮をとって勝利してる
政治家としても武将としても優秀だよ
>>41
主張したいことあるなら、まず冷静になってくれ
それから書き込んでちょ
0045人間七七四年
2010/10/02(土) 13:22:01ID:EjvD+ILL河東一乱を義元が自ら指揮したというソースは?
そもそも花蔵の乱も、河東地域の北条に対抗するために武田と結ぶのも
雪斎がしたのに、河東一乱だけ雪斎が何もしないわけないでしょ
仮に義元が指揮してたとしても、側には雪斎が居て間接指揮してたのは
想像に易い
0046人間七七四年
2010/10/02(土) 14:12:05ID:Ci+1SbJ20047人間七七四年
2010/10/02(土) 15:47:40ID:gMKWEdvA0048人間七七四年
2010/10/02(土) 16:38:28ID:/idoEyzT義元に嫉妬してるんだね
わかるよ
0051人間七七四年
2010/10/03(日) 16:38:03ID:7m/zbhoUただ義元は戦場で鎧甲冑に陣羽織姿で武将としての最後としてはかなってるが
信長はお寺で寝巻き姿で自刃だからねぇ・・・・
0052人間七七四年
2010/10/04(月) 13:49:57ID:f3kF3HKe上だと思う。
>>39
信秀ねぇ。
清康じいさんに手も足も出なかったんじゃなかったけか?
弱い時の松平と比べるのは、逆に織田を貶めているとしかみえんが・・・。
0053人間七七四年
2010/10/04(月) 17:27:57ID:AaXUSi0Z家督継いでから戦死するまで終始西方の弱小勢力相手にしてただけだし、氏康みたいに巨大な敵を
撃破したことないじゃん。
しかも立て続けに戦争続けて遠江と三河の地元勢力に大きな負担かけ続けてたから
義元死んだら駿河以外の領土が一気に離れて行ったし。
0054人間七七四年
2010/10/04(月) 17:49:36ID:fhhW5tBS松平を取り込んでいったり等々
ただ、戦となるとあまり強いイメージが無い。駿東を北条に奪われ、
小豆坂では信秀に破れ、桶狭間では兵力でかなり優位にあったのに、
むしろ油断してしまう結果に。
0055人間七七四年
2010/10/05(火) 08:24:43ID:JZfV8AiD自分で答えを言ってないか?
義元が死んだら、今川が一気に下降したって事は、それだけ優秀だったって事
だよね。
まあ、戦上手かと言えば、>>54の言う様に外交手腕が択一していたんではない
かと。
あと、別に氏康が優秀じゃないって言うわけではないよ。
河越夜戦(本当に夜戦があったかは自分的には疑問視しているけど)の勝ち戦
は実力でしょう。
それよりとーちゃんの方が凄すぎると言うか、継承している部分をどうしても
マイナスしちゃうんだよねぇ。
後北条の基を作ったのはとーちゃんでしょ。
>>54
油断して負けたって言うのは、最近否定されてきているよね。
実際どう言った戦いだったのか、見てみたい気がする。
0056人間七七四年
2010/10/05(火) 13:21:49ID:2Y0ZtJe/でも氏康は自分の死後も信玄や謙信相手にびくともしない磐石な体制を築いてた点で義元より遥かに上だし
義元だって氏規の地盤を引き継いだからこそある程度までいけたんだと思うけどな。
0057人間七七四年
2010/10/05(火) 14:58:29ID:loSA/FHN0058人間七七四年
2010/10/05(火) 15:40:22ID:JZfV8AiD氏康が体制を築いたのではなく、とーちゃんが築いたんじゃないか?
税収にしても、軍規にしても。盤石にしたのは氏康かもしれないけど。
まあ、その為に軍の進軍が遅いのが氏直の時に響いている気がしないでもないけど。
氏規じゃなくて、氏親じゃないっけ?
まあ、それはいいとして、義元の場合には家督争いしているからねぇ。
それでも今川って言う家柄は武器にはなったんだろうと思う。
ちなみに自分は義元好きではなく、氏綱好きなので、実は後北条贔屓だった
りする。
0059人間七七四年
2010/10/05(火) 18:05:17ID:2Y0ZtJe/義元も勢力拡大のスピードは実は凄いんだけど北条に簡単に駿東取られたり
桶狭間で負けたりとか割と脆い部分が目立つんだよね。
まあ優秀な戦国大名でも命からがら逃げたってことはよくある話だけど死んでしまってはね。
桶狭間でも先鋒は順調に勝ち続けてたんだよ。
それが本陣突かれてそのまま死ぬってのは戦としては最悪なわけで。
義元は戦に関しては基本的な部分から能力的に問題があったのかもしれない。
総大将を重臣に任せて自分は駿府で後方支援してたほうが上手くいったんじゃないかな。
0060人間七七四年
2010/10/06(水) 05:33:06ID:TSxsrKjl最近の研究では、意外にもベジータと悟空くらいの差しかなかった
つまり、桶狭間は交通事故ではなかった
0061人間七七四年
2010/10/06(水) 05:57:14ID:WbCtdOHj老練な氏綱にしてやられたのはマイナス点にならない
北条の当主が氏康に代わると義元は外交・軍事的手腕の高さを見せ付ける
武蔵・扇谷上杉家の上杉朝定や上野・山内上杉家の上杉憲政と同盟して
氏康を挟み撃ちにし、奪われていた河東地域を奪還した
河東地域は北条早雲から代々の北条家の領地。つまり氏康は自分が当主の時点
では自分の領土だっ地域を奪われた情けない戦国大名ということになる
戦国で名将と言われる信長・秀吉・信玄・謙信・元就・義元・氏康の中で
もとの領土を失ったんは氏康ただ一人
これが氏康が信長・秀吉・信玄・謙信に比べて高く評価されない一因
0062人間七七四年
2010/10/06(水) 07:50:38ID:4lNEWH4u>戦国で名将と言われる信長・秀吉・信玄・謙信・元就・義元・氏康の中で
もとの領土を失ったんは氏康ただ一人
これが氏康が信長・秀吉・信玄・謙信に比べて高く評価されない一因
これはさすがに強引過ぎるし不勉強としかいいようがない。
100万石超の大名にとっての駿東5万石程度どうでもいいレベル。
信玄だって信濃北端部は謙信に取られたまま終わったし謙信も最終的には
西上野20万石を信玄に取られたままだった。
元就も北九州は最後は奪われて死んだし。
伊達政宗や長宗我部元親や島津義久に至っては大減封。
戦国大名なんて優秀な当主だって領土取ったり取られたりってのは日常茶飯事。
駿東取られたからマイナスってのは揚げ足取りでしかない。
0063人間七七四年
2010/10/06(水) 09:13:21ID:SHlnPy1E義元だって奇襲なんかで死ななきゃちゃんと碁盤固めてたと思うけど
信長も信忠に譲って信長一人死んでもあまり支障のない体制にしてたし
政宗の親父の輝宗もかなり穏やかな状況で息子に譲ってるし ちと早いが
基本大名は適齢になれば跡継ぎの為に地盤固めると思うけどね 信玄謙信はともかく
そもそも義元はまだ脂ののってる歳だし奇襲で死ぬなんて予想出来ないから仕方ないんじゃないかな
氏真が駄目なのはその後でよくわかるけど
0064人間七七四年
2010/10/06(水) 11:23:40ID:4lNEWH4u常に自身の命が危なくなるような戦いはあまりしてない。
勝った時はもちろん、負けて退くときも多少の損害は出ても本陣は粛々と引いていく。
それをだね、圧倒的大軍で進行しながら本陣だけでも敵の倍の兵力を有し山上に陣取りながら
あっけなく討ち取られるってのは戦国大名失格としか言い様がないわけで、
何のための本隊五千人だと。 斥候くらい十分に出しておけと。
酒盛りするまえに直属揮下の統率くらい取っとけってことだろ。
滅亡覚悟の戦ならともかく、余裕勝ちの戦で不慮の戦死って時点でせいぜい陶晴賢レベルだな。
あと信長は全く別ね。 信長は別に光秀と合戦するつもりではなかったわけだから。
0065人間七七四年
2010/10/06(水) 12:17:15ID:SHlnPy1Eしかも自分の領地内だし比べるのもおかしいかと
まあ義元を中心にまとまってた今川と氏真を中心にまとまってた今川じゃ天と地だな
0066人間七七四年
2010/10/06(水) 12:31:56ID:13VlnoRJ0067人間七七四年
2010/10/06(水) 12:39:28ID:YUxYpdiJそれはあるかもなぁ。
とーちゃん死んだら、いきなり大事だもんね。
それを切り抜けられる器量も、運もあったと言うのは間違いないと思う。
氏真は、典型的な猪武者って感じだよなぁ。
政局が見えていなかったとしか思えない。
>>64
言いたい事は解るが、その解釈は義元の戦方面の才能しかみていないんじゃないか?
優秀と言われている武将は、戦術面だけではなく、戦略面でも長けているもの。
まあ、みんな桶狭間で台無しになっている気がしないでもないけど。
だからこそ、歴史に残る事になったのかもね。
0068人間七七四年
2010/10/06(水) 12:44:30ID:YUxYpdiJあるけど、どうなんだろうね。
本当なら恐るべき尾張と言う土地柄。
まあ、スレ違いか。
0069人間七七四年
2010/10/06(水) 12:53:18ID:4lNEWH4u簡単なことだよ。 氏康は戦略、戦術ともに並以上だったけど義元は戦術はさっぱりだったってこと。
この時点で氏康と義元のどっちがトータルで優秀かは決定的。
更に言えば戦術面で能力無くても自分がそれに気付いてれば危険を冒さないからずいぶんマシなんだよ。
でも義元さんの場合それも分かってなかったから勝てる戦を戦死という最悪の結果にさせてしまった。
敵を知り己を知れば、ってやつの真逆をやっちゃったらまあ負けるよな。
0070人間七七四年
2010/10/06(水) 15:09:23ID:YUxYpdiJ0071人間七七四年
2010/10/06(水) 15:21:13ID:bVlgCxxKだから義元は戦国時代では稀に見る鉄砲をいち早く実践で取り入れて
本格的に使用した武将だぞ?
信長はそれを見て自分も鉄砲を大量に購入したんだと何度言えば分かる。
義元は戦術的にも決して劣った武将などではない。
桶狭間は本当に不幸な不慮の事故みたいなもんなんだ・・・・
0072人間七七四年
2010/10/06(水) 17:22:16ID:4lNEWH4u新兵器の鉄砲あったのに戦死しました。って、それ余計に無能を強調してるようなもんじゃん。
ハードウェアなんてのは時代とともにすぐに広まるんだからしばらくすれば
鉄砲なんて戦国大名の標準装備状態になったじゃん。
だいたいハードに頼って勝てるのは最初のうちだけ。 義元が本軍に鉄砲を集中配備して
それで織田軍を撃退したとか言うのなら見事なもんだけど、あいにく当日は雨だったらしいしね。
いずれにせよ戦が仕事の戦国大名が奇襲であれ討ち死にしたこと自体が不慮の事故で済むようなもんじゃない。
だいたい勉強や仕事でミスして不幸でした。で許されないだろ?
無法の戦国の世なんて特に結果が総ての世界だよ。
0073人間七七四年
2010/10/06(水) 22:49:43ID:XyW6IQNSだけか?
それに結果だけで言ったら、家康以外は無能ということに・・・。
0074人間七七四年
2010/10/06(水) 23:06:36ID:SHlnPy1E大内義隆の例もあるから稲葉山に攻めかかる事もせんだろうし血縁利用して伊勢かね
ただ三好と戦うには兵力足りないだろうし尾張を併呑しにきただけじゃないかなぁ
0075人間七七四年
2010/10/06(水) 23:53:52ID:Q16OUF7B0076人間七七四年
2010/10/07(木) 08:29:53ID:AdI9E7ks安定させて、小勢力をどんどん併合していくってのが、政治面、外交面の強い
義元の真骨頂かも。
桶狭間も、デモストレーションのひとつだったんではないかと。
まあ、死んじゃったけどね。
0077人間七七四年
2010/10/07(木) 15:25:14ID:fR02CqsI名門てのは家柄を大いに利用してハプスブルク帝国みたいに婚姻戦略で勢力広げる事ができるからねw
信長みたいに家柄にコンプ持ってる大名は自力で勢力広げて力で捻じ伏せなきゃ
ならないんだろうけど。
まぁ義元なら機内を平定したら信長なんかよりも武力を使わずに幕府開けただろうし
周辺の大名も従ってきたんじゃないの?
0078人間七七四年
2010/10/07(木) 16:02:56ID:8vMvaR2xただ婚姻戦略で勢力拡大した場合って必然的に直轄領が増えづらいから宗主家の力が不安定になりがちなんだよね。
室町幕府や豊臣政権みたいな感じで後で血みどろのゴタゴタになりやすくて。
信長みたいに片っ端から潰してったほうがその時は死人がたくさん出るけど政権的には安定しやすい。
0079人間七七四年
2010/10/08(金) 00:49:38ID:+lZLVuem>>信長みたいに片っ端から潰してったほうがその時は死人がたくさん出るけど政権的には安定しやすい。
この論点こそ奇怪。
「武力だけでとった政権」ほどもろいのは歴史家の常識。
信長政権は裏切りの連続だぞ。安国寺にももろさを露見された。
どこが安定しているのか?
0080人間七七四年
2010/10/08(金) 01:22:34ID:649IgH9h信長の採ったいわゆる覇道というのは過激で過酷な処置だから最初は至る所で反発を招く。
でも大勢力が存在しないことで各反発を根気強く潰していくことで確実に強固な統治体制を作れる。
前漢が呉楚七国の乱、清朝が三藩の乱で地方の大勢力を駆逐したことで全盛期を現出したのが
これらの好例といえる。
それと欧州の各国が中世から近世に移行するときに起こった絶対王政も諸侯の力を大幅に削いで
王家に国家の力を集中させることにより非効率な封建制度から近代国家へと進歩することができた。
特にモザイク状に諸侯が分立して長らくハプスブルク家の影響下に置かれてきたドイツ地方が
プロイセン王国によって統一されドイツ帝国が成立したことにより急激に国家の力を増大したことも
権力集中化によるものだといえる。
信長が覇道の最中に本能寺で倒れた真の理由は今となっては光秀にしか解らんことだ。
信長の光秀に対する対応に不備があったのかもしれないし光秀に全く別の野心があったのかもしれない。
ただ、信長の統一事業の方針自体は日本を近代化させるという意味ではまさに当然の方策であり
少なくとも豊臣政権のように大国が多数並立し、形式的にのみそれらが結束しているというような
脆弱なものでないことであるのは確実だといえる。
0081人間七七四年
2010/10/08(金) 08:16:14ID:sci6kLjCそう言うやり方もあるって事でいいかと。
0082人間七七四年
2010/10/08(金) 16:03:11ID:zPH8assn秀吉や家康は片っ端から武力使わなくても、ある程度まで勢力を大きくして
それでほぼ従えてきたわけだが・・・。
武力は要所要所で使えばそれでいいんだよ。
頭が良い人間は武力だけでモノを言わせたりせず、あらゆるモノの力を
利用して勢力を広げるもんだ
0083人間七七四年
2010/10/08(金) 16:08:44ID:zPH8assn徹底して信長に抵抗したか。
理由は一つ、自分よりも格下の家柄としてしか見てなかったからだよ。
要するに織田家如きに何で俺が!って事だよ、幾ら血で血を洗う戦国時代でも
権力や権威ってのも大いに認められる要素だったのは確実。
もし仮に今川義元が本能寺寸前の信長と同じ勢力なんかを作ったら
それこそ本願寺も毛利も武田も上杉も軍門に下っただろうな。
義元もとっくに征夷大将軍に任命されてるだろうし。
0084人間七七四年
2010/10/08(金) 16:26:04ID:z+jAN7820085人間七七四年
2010/10/08(金) 16:28:54ID:8vyKdfLz勇次郎厨かよ
0086人間七七四年
2010/10/08(金) 16:43:03ID:649IgH9h武田、上杉、毛利の徹底抗戦こそ新時代を切り開く新興勢力に潰される旧勢力の象徴だよ。
現に武田は徹底抗戦どころか無様な自己崩壊を起こし、上杉も本能寺が無ければ確実に根絶やしにされてたろうし
毛利もせいぜい小諸侯として存続できればマシな程度だ。
征夷大将軍だの太政大臣だの関白だの関東管領だの旧来の制度にとらわれている限り
いくら大勢力であろうと時代に取り残されて哀れな末路をたどるしかない。
0087人間七七四年
2010/10/08(金) 17:24:29ID:z+jAN782信長だって旧権力の官位もらったりしてんじゃんw
0088人間七七四年
2010/10/08(金) 17:52:25ID:649IgH9h最後は右大臣返上して無官だったじゃん。
0089人間七七四年
2010/10/08(金) 18:28:02ID:l7V7NcLSいい加減にしてくれ
スレタイも読めんのか
0090人間七七四年
2010/10/08(金) 19:12:36ID:j7mcL4o6将軍家の権威を高めようと頑張ってた足利義輝が征夷大将軍を返上して義元に継がせる訳ないし。
それでも義元としては天下に号令をかけたい。力がないのに権威がある。力があるのに権威がない。
この2人がうまくいくわけがない。
信長と義昭と同じような構図で陰謀戦が始まるだけっぽい。
結局、義元が下手に上京しちゃうと戦国時代が長引いただけでしょ。
0091人間七七四年
2010/10/09(土) 01:15:56ID:Xu6H4AWb0092人間七七四年
2010/10/09(土) 09:51:43ID:K5gWmFwQ河東一乱は、奇襲でも突発的でもない。
戦いの前に、お互い時間をかけて準備をしたガチンコの戦い。
義元と氏康のどっちがトータルで優秀かは結果がでているよ。
0094人間七七四年
2010/10/09(土) 12:39:00ID:K5gWmFwQ天文14年は、戦いの前から義元と氏康の関係が悪化していて
第三者による和平工作が行なわれていた。
交渉決裂の結果、義元と氏康が出陣して戦いとなった。
義元は、交渉決裂を見越して、関東や武田と連絡をとる戦術をとっている。
氏康も、勝つための裏工作をしなければならなかったのに、
出陣した時すでに不利な状態に陥って駿東を明け渡すこととなった。
同じ時間があったのに戦術で遅れをとっている。
0095人間七七四年
2010/10/09(土) 12:59:28ID:RlRcYPO1征夷大将軍になる事が目的ではないでしょう。
真の始皇帝型ではなく文王的な将軍を補佐し政治を司ることを目的とした上洛。
始皇帝型をもくろんだのは信長だけでしょうね。。
0096人間七七四年
2010/10/09(土) 15:28:09ID:vIbxFgu8北条氏のスタート地点があるとはいえ伊豆、小田原を抑えた後になっては
戦略的に大した意味もなく、国力に大きく貢献するほどの土地でもなく
むしろ領有することによって今川氏をいたずらに刺激するだけになる厄介な土地だったのかもしれない。
一時占領したのは今川に対する示威行動のようなもんで、氏康としても駿東を死守して
いつまでも関東勢力以外と敵対し続けるのは有効でないと思ったのかもしれないな。
0097人間七七四年
2010/10/10(日) 19:29:28ID:dtU7iXD80098人間七七四年
2010/10/10(日) 19:48:45ID:aeYXLfg9関東管領から報告されてしまい
幕府に悪事がバレて
縁を切られて
氏名も堂々と名乗れないほどの
悪事を関東でやってた
伊勢ハゲタカ金貸し商会は。。。
0099人間七七四年
2010/10/10(日) 23:15:49ID:rPvUVDoi0100人間七七四年
2010/10/10(日) 23:49:36ID:zGYdEeeU思うが。
0101人間七七四年
2010/10/10(日) 23:54:06ID:n8cF1p0g幕府側の勢力はまだまだあったし、そこに今川の力が加われば戦国時代はすぐに収まってたはず
足利将軍と今川副将軍でなんとかやって行けるんじゃね
0102人間七七四年
2010/10/10(日) 23:57:20ID:RtZpTNRQ果たして義元にできるかどうか
0103人間七七四年
2010/10/11(月) 00:09:33ID:I4/MEgOhもらって「義元」と名乗ったらしいけど、これって将軍への野心が湧きそう
な気がする
0104人間七七四年
2010/10/11(月) 00:41:19ID:lVp0bd64何たって将軍家の一族だし
反幕府方の暗殺に見せかけて、自分が将軍になるって手もあるが
そんな事をするような人物ではないな
0105人間七七四年
2010/10/11(月) 07:03:37ID:B9VcI31T事実、上杉氏によって伊勢の悪事が幕府に知れ渡るや
幕府からの後ろ盾を伊勢は失い、
三浦半島で大苦戦するようになり
今までの勢いがまったく無くなるもんな。
0106人間七七四年
2010/10/11(月) 09:28:10ID:HYvzf7si大内義興の二番煎じになるだけだと思うがな。
細長く伸びきった領土の保全も心配だ。 武田に駿河を急襲されたら一気に瓦解しそうだぞ。
0107人間七七四年
2010/10/13(水) 15:10:50ID:Y5vWURQk義元は上洛して機内を牛耳ったら本拠を機内に移すと思うけどな。
0108人間七七四年
2010/10/13(水) 17:11:38ID:hIriViQU大内に比べれば今川は雑魚
桶狭間の時期に今川が天下にもっとも近かったって設定は
信長を持ち上げるための捏造なのを知らないの?
今川が三好大内朝倉大友に勝てるのかよ
0109人間七七四年
2010/10/13(水) 18:15:34ID:p0v8WWEc0110人間七七四年
2010/10/13(水) 20:53:54ID:ixVWXYg2戦国前半期の大内と今川って総合的な格や実力ってどっちが上なの?
昔っから東の今川と西の大内が俺の中でイメージが似ててしょうがないんだけど。
ただ大内氏って何者?
出自は朝鮮の王族と自称したり室町時代は反乱起こしたり足利一族でも管領家でもないのに
驚異的に巨大な勢力を維持し続けたりと不思議な一族だよね。
0111人間七七四年
2010/10/13(水) 22:31:48ID:zJ6ISRfs恐らく勢力も格も大内のが上
上洛時は過大に言えばほぼ北九州、中国を纏め上げてる状態で天下にもっとも近かったと言える
息子が尼子にやられて急に覇気を無くしたが内政に力を入れれば西の都と言えるぐらい栄えさせた政治力もある
ただそんな大内でさえ失敗した前例があるから義元も慎重だろうしわざわざ似たように稲葉山城を攻めたりしないだろう
伊勢の方通って上洛するんでないか
0112人間七七四年
2010/10/13(水) 23:10:22ID:ixVWXYg2あれって意味あったの? どうせ義興の力が届いたのも畿内程度だろうしその間に
本国が尼子の脅威にさらされたし、結局ただの義興の天下人ごっこだったっぽくない?
それに比べると今川義元は義興に比べればゆっくりだけど着実に京都を目指してたということなのかな?
0113人間七七四年
2010/10/14(木) 11:23:24ID:LInzu/aw0114人間七七四年
2010/10/14(木) 12:20:35ID:LInzu/aw三好VS今川
長慶さんがいれば負けない
大内VS今川
当主殿がふぬける前なら負けない
朝倉VS今川
そうてきさんがいたら負けない
浅井連合軍だったら面白そう
大友VS今川
そもそも勝てる可能性を探すのが難しい
0115人間七七四年
2010/10/14(木) 18:43:21ID:AuIVMZJO0117人間七七四年
2010/10/16(土) 08:55:46ID:kJugKMvg0118人間七七四年
2010/10/18(月) 00:25:36ID:ttNirZN8ttp://cocoro.boy.jp/sengoku/index.html
<主だった武将を抜粋し、総合ポイントで順位付け>
北条氏康 253p(戦闘78政治93知力82)
小早川隆景 249p(戦闘73政治86知力90)
織田信長 245p(戦闘75政治85知力85)
武田信玄 238p(戦闘79政治80知力79)
三好長慶 233p(戦闘67政治84知力82)
豊臣秀吉 232p(戦闘75政治80知力77)
今川義元 231p(戦闘74政治80知力77)
斎藤道三 228p(戦闘66政治76知力86)
伊達政宗 228p(戦闘71政治81知力76)
毛利元就 227p(戦闘73政治77知力92)
徳川家康 226p(戦闘74政治78知力74)
上杉謙信 226p(戦闘92政治64知力70)
島津義弘 224p(戦闘90政治63知力71)
長宗我部元親 218p(戦闘74政治72知力72)
0120人間七七四年
2010/10/22(金) 14:40:17ID:shms47t1天皇や将軍の権威を認めてしまってるww
0121人間七七四年
2010/10/22(金) 15:10:07ID:sHJOJE6b信長なんて部下に暗殺された人として三好長慶以下の評価でしょ。
0122人間七七四年
2010/10/22(金) 21:35:20ID:bgnIsnvW同盟結んでたしその配下が天下を取ったわけだし
0123人間七七四年
2010/10/22(金) 23:54:07ID:/8saZRT20124人間七七四年
2010/10/23(土) 00:18:52ID:aiY1vXux海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
0125人間七七四年
2010/10/23(土) 13:11:19ID:apl8U9m7徳川が捏造しただけじゃね。
0126人間七七四年
2010/10/23(土) 13:26:30ID:L5lgf/1P考え方がおかしい。「海道一の弓取」とは東海道で一番強い人のことでしょ?
今川が強かった時代に今川を「海道一の弓取」と呼ぶのは間違ってないし、
徳川が強い時代に徳川を「海道一の弓取」と呼ぶのも間違っていない。
「海道一の弓取」自体を誰か特定の人だけのキャッチフレーズと考えてないか?
0127人間七七四年
2010/10/24(日) 00:40:57ID:4lM9tZth海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
0128人間七七四年
2010/10/24(日) 12:35:49ID:4QqK4FXh秀吉が褒めたっていうのは徳川史観の捏造
0129人間七七四年
2010/10/24(日) 12:36:50ID:4lM9tZth海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
0130人間七七四年
2010/10/24(日) 17:44:05ID:gDJBiZ1J0131人間七七四年
2010/10/25(月) 18:02:31ID:ZyR9/HhM海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
海道一の弓取=徳川家康のこと。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 誰が、今川義元のことと捏造宣伝したのか? 小和田哲男の静岡人?
秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
0132人間七七四年
2010/10/26(火) 22:31:03ID:g91axYXZhttp://www.j-stars.co.jp/da0018.htm
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