大阪夏の陣で七手組が出撃していれば?
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0001戦国オタク
2010/09/06(月) 17:23:51ID:bwW71Nf4http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/kassenzu/oosakanatunozinfuzinnzu.jpg
上記の布陣ですが。各部隊の戦力は豊臣方
真田信繁本隊三千五百、与力二千、計五千五百。毛利勝永六千五百。
大野治房四千六百。速水守久隷下七手組一万四千六百。
徳川方
松平忠輝九千、松平忠直1万五千、井伊直孝三千。藤堂高虎四千五百、
本多忠朝五千五百、榊原康勝五千四百、酒井家次五千三百、
前田利常以下二万。徳川家康一万五千、徳川秀忠二万三千、徳川義直一万五千。
史実に沿った戦闘経過。
天王寺口では五月七日正午毛利勝永隊と本多忠朝隊と戦闘、毛利隊は本多隊撃破、
ついで第二陣榊原康勝隊、第三陣酒井家次隊をも撃破、家康本陣に突入。
真田信繁隊は松平忠直隊と激戦の末これを突破、家康本陣に突入。
岡山口では大野治房隊と前田利常隊が戦闘、井伊直孝、
藤堂高虎両隊は家康救援のため戦線離脱。大野治房は自軍の一部を秀忠本陣に突入させた。
七手組は秀頼の参陣をまって出撃予定であったが秀頼は来ず待機のままであった。
信繁家康本陣突入時、速水守久久が自己の判断で家康本陣に突入していれば家康は
討ち取られ、その後、速水守久隊、毛利勝永隊、真田信繁隊、大野治房隊が
秀忠本陣に突入すれば、家康討ち死にで志気の低下した徳川軍は撃破可能だったろう。
その後は徳川軍は一旦退き体制の立て直しを策したろう。
豊臣恩顧の外様集は秀頼に帰参したろう。
0017人間七七四年
2010/09/07(火) 18:07:27ID:Xrs4au/bどうでしょう、家康は戦場ではかなり気がはやる人物のようですから
思ったことをそのまま口に出しているだけな気がします
まぁ、総大将がそんなこと言っても冷静に突っ込める人物が多いのが徳川家ですが
0018戦国オタク
2010/09/07(火) 18:28:19ID:FtYa3kV4三方ヶ原、本能寺では討ち死にの可能性高かったと思います。
生き延びたのは運が良かったため、だけでしょう。
0019人間七七四年
2010/09/07(火) 18:33:55ID:PoAw1Plk所説はあるけどホント何で出無かったんだろうなあ
0020人間七七四年
2010/09/07(火) 21:03:29ID:hr3/Wooi本人は出る着まんまんだったらしいけどね
0022人間七七四年
2010/09/07(火) 21:18:07ID:Bu2YSPtT0023人間七七四年
2010/09/07(火) 22:55:22ID:mI5IkHBVそれにとりあえず幕府軍を追い返す手だてはどうなのかね
家康を殺す以外ないってのならかなり厳しいと思うが
0024人間七七四年
2010/09/07(火) 22:55:56ID:fvaXWcyh徳川に2度勝ってる上に三方原でも参戦してるし作戦全般取り仕切れただろうに
あっさり冬の陣で滅亡してたかもしれんがw
0025人間七七四年
2010/09/07(火) 23:17:18ID:PoAw1Plk0026人間七七四年
2010/09/07(火) 23:47:59ID:mI5IkHBV直接戦いたかったとか思ってたら死ぬけど
0027人間七七四年
2010/09/07(火) 23:57:37ID:fvaXWcyh予備隊投入すれば一気に突き崩せたんじゃないかなぁ
冬の陣以降の戦いだけでも毛利や信繁が幕府軍に恐れられるような名声獲得したんだから
昌幸なら最初から幕府軍も及び腰になりそう
家康ならそれを口実に黒田とか加藤とか伊達すり潰す口実にして先鋒に使いそうだけど
0028戦国オタク
2010/09/08(水) 09:27:40ID:ExlDLDBWこの戦いで、秀忠は踏みとどまって戦おうとしましたが、家康は現に逃走しています。
それでも真田隊にもう少し余力があればしとめられたと思います。
豊臣の生き残り手段は戦場で家康仕留める以外なかったと思います。
>>27
豊臣方は戦線中央を正面と割り切って真田隊、毛利隊で攻め込み
徳川の陣形を完全に突き崩しています。その結果七手組から家康本陣まで
完全にがらあきになり、七手組は進撃さえすれば家康本陣攻撃可能でした。
0029戦国オタク
2010/09/08(水) 09:39:32ID:ExlDLDBW家康が討ち死にすれば、戦場には豊臣恩顧の武将がうようよしており、
彼等の向背量りがたいので、秀忠は危なくて戦闘継続できんでしょう、
とりあえず兵をまとめて引き上げるしかなかったでしょう。
0031戦国オタク
2010/09/08(水) 10:39:47ID:ExlDLDBWhttp://sanadasandai.gozaru.jp/itsuwa/yukimura/yukimura-07.htm
同時代資料の記述からみても、家康相当やばかったと思いますよ。
0032人間七七四年
2010/09/08(水) 11:13:27ID:mU8OckB1結局豊臣が滅亡してたとは思うけどあの時点で家康が討ち取られたら天王寺口は壊走だろうし京と大和方面に撤退でしょうね
まぁ豊臣側は手練れが多いので当然徹底的に追撃するでしょうけど第一線の毛利や真田も戦力的には限界ですしね
ただ家康の死で伊達とかまた馬鹿な事考えそうな気はするねぇw
0033人間七七四年
2010/09/08(水) 11:29:29ID:phDnK22nまた幕府軍が苦戦したのも事実だし、家康・秀忠の旗本も戦闘に加入したのも事実
しかし家康が危機だったという話はない
混乱し損害を追いつつも撃退したというのが適当だと思う
『大日本史料』を読んだ感想だけど
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
0034人間七七四年
2010/09/08(水) 11:33:13ID:3KTuFpc2片倉の息子が又兵衛討ち取ったぐらいしか
0035人間七七四年
2010/09/08(水) 11:51:37ID:mU8OckB1伊達に限らず藤堂とかも酷いねw
黒田、加藤、上杉とか一応戦国末期に生き残りも大したことないし
まー領土貰えるわけでもなく嫌々出陣してる部分もあるんだろうけどさ
0036戦国オタク
2010/09/08(水) 14:26:49ID:ExlDLDBW一等酷いのは前田だろう、その気になれば大野治房隊など一撃で壊滅できたはず
なんとなく戦闘したふりしてただけで、治房に秀忠本陣突っ込ませても平気な顔してる。
隙があれば寝返る気満々。
0037人間七七四年
2010/09/08(水) 16:31:25ID:PQw8X8Hd0038人間七七四年
2010/09/08(水) 17:18:53ID:3KTuFpc20039人間七七四年
2010/09/08(水) 19:17:54ID:s7xs4WQs0040人間七七四年
2010/09/09(木) 09:27:57ID:IeYhNQxo0041戦国オタク
2010/09/09(木) 10:24:49ID:nCElX3ighttp://sanadamaru.syuriken.jp/s-yukimura.html
「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。
大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(『本多家記録』)
ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と『朝野旧聞哀稿』
一応資料はあるみたい。
これらの資料は江戸時代成立だから家康に有利な脚色はしてもこのような
大敗したとする脚色はしないでしょう。事実だったと思いますよ。
0042戦国オタク
2010/09/09(木) 10:45:21ID:nCElX3ighttp://www.samurai-journal.com/db/sengokubusyo.html
このサイトでは『朝野旧聞哀稿』は徳川家の記録となってますよ。
徳川家が家康が自害寸前だったとする作り話記録しないでしょう。
0043人間七七四年
2010/09/09(木) 14:29:13ID:IeYhNQxo後は『耶蘇会年録』にも似たような話がある
前者は服装を白い小袖としているが『慶長見聞集』では茶色としている
実際問題、白い小袖は遠目に映えて危険なのでそのような格好をするとは思えない
また、後者も家康敵視の記述なので問題がある(家康死亡時に暗殺説を載せているし)
ちなみに『老将談話』の当該箇所には編纂者の「変更の要ありか」という注釈文がある
どちらかというと噂話のレベルかと
0044戦国オタク
2010/09/09(木) 15:13:34ID:nCElX3ig逆の解釈も可能と思いますが、家康が自害寸前追い込まれた、と言う
話は側近から伝わり広く知られていたが、記録に残すのは皆躊躇した。
『耶蘇会年録』は幕府に遠慮せずそのまま記録した、『老将談話』
は徳川の実戦経験豊富な武将の話、当時の歴戦の武将は苦境に追い込まれて
自害寸前にいたったとしても武将として不名誉と考えていなかった。
しかし編纂者はこの事実をそのまま記録するのはやや危険と判断した。
家康の旗印が打ち捨てられて敗走した時点で生命の危機に陥ってると
考えるのが普通だと思う。
0045人間七七四年
2010/09/09(木) 15:55:40ID:IeYhNQxo『耶蘇会年録』はキリシタンを弾圧しているこの時期の家康についてはバイアスをかけた表記なのは事実
それに『老将談話』という題名に惑わされてはいけない、後世の軍記物がスゴそうに見えるような題名を
付けることはよくあること
それに勝敗相反すとか東軍の醜態を記した手紙を載せた「細川家記」や、勝利は家康の運とか家康の旗本を
三里に渡り追い散らしたとする「薩摩旧記」にもそのような話は無い
ちなみに「薩摩旧記」には同じ文中に家康・秀忠の旗本で逃げたものはいないとも書いている
0047戦国オタク
2010/09/09(木) 19:33:08ID:nCElX3ig「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして
本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延び
その到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」
朝野旧聞哀稿のこの記述はかなり具体的で実際に現場に居た武将の
談話と思うよ、自害寸前の事実は広く知れ渡っていて隠しようがなかったんじゃない。
「細川家記」や「薩摩旧記」の記述者は現場に居なかったので詳細は
記述出来なかったと思うよ、それに外様だから、伝聞だけで余計な記述
しないほうが無事と思ったんじゃない。
0048人間七七四年
2010/09/09(木) 20:01:30ID:lU0kMNCw切腹しようとするたびに家臣に止められてるけど。
三方が原以来倒れることのなかった家康の馬印が倒れるほど本陣が
混乱していたのは確かで、家康が危機に陥ってたのは確かでしょう。
ただ、あと一押しがあれば家康を討ち取れたかっていうと疑問符がつく。
ケツまくって逃げ始めたときの家康の逃げ上手さは史実が示すとおり。
家康を討ち取れなければ、大坂方はすぐにジリ貧に陥るだろうね。
0049人間七七四年
2010/09/09(木) 20:12:36ID:DZOrgz6H0050人間七七四年
2010/09/09(木) 20:25:12ID:IeYhNQxo床几に正純を置き、家康が玉造方面の谷間にいたのは戦闘前から
しかもこの組み合わせ、関ヶ原合戦でもやっていたりする
ちなみに「大日本史料」ではこの部分の記述は除かれている
東大のエライさんは載せるに値しないと判断したということ
0051戦国オタク
2010/09/09(木) 20:40:12ID:nCElX3ig仮に真田信繁が適当な白髪首を槍先に掲げて、「江戸内府討ち取ったり」
て喚き叫んで突っ込んでいったらどうなっただろう。加藤嘉明、黒田長政、
前田利常あたりは動揺して戦闘中止したんじゃないかな。そうすると
秀忠隊が戦線離脱、一時的かもしれないが幕府軍大和に撤収、になったかも知れない。
0052人間七七四年
2010/09/09(木) 21:11:50ID:DZOrgz6H0053人間七七四年
2010/09/09(木) 21:12:48ID:lU0kMNCwしかも自分に都合のよい「仮に」しか考えてない。
日本史上、相手の大将を討ち取ったという虚報を流して勝ったという例が
どれだけあるのか、まずそれを検証しろよ。
で、こうこうこういう理由でこの作戦は非常に有効だから勝てるって証明してみせてよ。
つーか、このとき家康は内府じゃありません。
0054人間七七四年
2010/09/09(木) 21:12:52ID:IeYhNQxo後者は慶長17年に既に亡くなっているので、この逸話は論外なのです
0055人間七七四年
2010/09/09(木) 22:05:05ID:hzbRKfV9まずは目先の事を片付けるだろうし真田が家康討ちとれるとこまで来てるなら包囲されて殲滅されあぼん
つーか現将軍たる秀忠がいるしそこまで動揺しないだろうし秀忠もむやみに退いたりしないでしょ
0056戦国オタク
2010/09/10(金) 10:05:57ID:U7a+73OQ本営を真田兵に蹂躙され、馬印倒されて「討ち取ったり」って喚かれりゃ、
討ち死にしたって思うのが当然。大軍であっても動揺が広がれば総崩れ
って珍しくないよ。淝水の戦い、厳島の戦い。
0057人間七七四年
2010/09/10(金) 11:00:20ID:UIakjD27将軍も秀忠だし
実際天王寺口はあの状況で本陣突かれても崩壊してないんだからさ
家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも
0058戦国オタク
2010/09/10(金) 11:17:58ID:U7a+73OQ外様の武将は徳川家に忠節心持ってるわけじゃなく、家康怖さに参陣
してるだけ。秀忠の命令に素直に従うかどうか?
真田信繁もそのあたり狙って家康付けねらったんだから。
0059戦国オタク
2010/09/10(金) 12:01:08ID:U7a+73OQ「家康が討ち取られても案外整然と退却できたかも」
古来退き戦が一等難しい、兵に退却の指令だした時、追撃されれば
総崩れが相場。
0060人間七七四年
2010/09/10(金) 12:52:47ID:UIakjD27真田や大野は消耗してるし親衛隊様は動く気ないし
0061人間七七四年
2010/09/10(金) 13:14:54ID:g7BBMQcmなんてのはご都合的な展開
0062戦国オタク
2010/09/10(金) 13:56:09ID:U7a+73OQIFものってみんなそうだけど。ことさらあげつらいのは野暮でしょう。
0063人間七七四年
2010/09/10(金) 16:29:58ID:aUNzHvR4外様でも黒田、藤堂、池田、浅野、京極なんかは
純粋に徳川への忠誠心で動いてると思うよ
後は豊臣への積もりにつもった恨み
毛利とか島津とか伊達あたりは忠誠心なんてかけらもないと思うけど
0064戦国オタク
2010/09/10(金) 17:13:43ID:U7a+73OQ戦国大名そんな甘い連中じゃないでしょう。
幕末の諸藩は譜代、親藩さえ新政府に忠節誓ったんだよ。
長州の恨み買った会津は抗戦しましたがね。
「純粋に徳川への忠誠心」そんな武将居る訳ないっしょう。
0065人間七七四年
2010/09/10(金) 18:41:25ID:RfpySgls三百年余りたった幕府と各藩の関係と出来たばっかの頃の関係を同列に語られても困る
0066戦国オタク
2010/09/10(金) 18:44:06ID:U7a+73OQNHK「名将の采配」で取り上げてたが、状況をかなりはしょって伝えてる。
信繁の幻の秘策は、真田隊、毛利隊で天王寺口の徳川諸隊を吊り上げ、
家康本隊ががらあきになった時、明石隊が奇襲をかけて家康を討ち取る
と言うシナリオだが、この策に現実性帯させるには、秀頼を茶臼山まで出陣させ、
徳川諸隊を吊り上げ、浅野を寝返らせて明石隊と共に奇襲することが
必要だったと思う。信繁は長く紀州九度山に居住していたので、浅野と
気脈通じていた可能性なかったとは言えないと思う。
0067人間七七四年
2010/09/10(金) 18:46:19ID:/VwxitrZこれだけ尽くしましたよっていうスタンスを見せることが大事なの。
0068人間七七四年
2010/09/10(金) 18:47:13ID:cmoqVBhe下手に戦わなかったりしたら幕府から咎められて改易になるかもだし
例え戦況が不利でも寝返る奴戦わない奴なんかいんのか
大阪城周辺以外全部幕府側だぞ 忠誠だの戦況以前に幕府にマイナス行為をする利益がない
秀忠家康が二人死んだら話は別だけどさぁ
0069戦国オタク
2010/09/10(金) 18:48:44ID:U7a+73OQ戦国大名は利害以外では動かない、その点は幕末よりもっと徹底してる
一歩間違えれば一族滅亡が現実に起こっていた時代。忠節心など持ち合わせてない。
0070戦国オタク
2010/09/10(金) 18:59:01ID:U7a+73OQこの時代の戦では、戦況が不利になれば寝返る武将履いて捨てるほどいたよ。
家康が討ち死にすれば幕府が存続するか否か不透明。
秀忠は無類の戦下手、徳川譜代衆、旗本は合わせて五万くらいは居たようだが
真田隊5500、毛利隊6500、大野治房の別働隊1500に引っ掻き回され
敗退重ねる弱兵、戦国武将はその点を良く見てるよ。
0071人間七七四年
2010/09/10(金) 19:01:39ID:RfpySglsそれはそうだな
そうするとだ家康を討ち取ろうが秀頼が出陣しようが寝返る奴は出よう筈も無い
滅亡寸前の豊臣に付き危ない橋を渡るより家康が死んでも揺るぎそうもない強大な徳川家に尽くし政権内の地位を高めた方が安全だしな
0072人間七七四年
2010/09/10(金) 19:20:37ID:RfpySgls仮に家康を討ててもその時点でほぼ無力化する部隊の方が多いし
ヘッド家康を失っても副ヘッド秀忠が無事で翻弄されててもまだまだ元気で数の居る徳川と疲れはて数も少ない豊臣どっちに付いたら得かなんて子供にも分かる
0073人間七七四年
2010/09/10(金) 19:24:30ID:qdkRcU2k江戸幕府に抵抗した大名がいたか?いなかっただろ。
よって、夏の陣で家康が討ち取られようと普通に秀忠に従うわな
0074人間七七四年
2010/09/10(金) 19:35:42ID:/VwxitrZ幕閣の政治外交手腕に対抗できる人物が豊臣家には皆無。
真珠湾で米国海軍に大打撃を与えた旧日本軍が、最後にはアメリカに
物量や政治力で押し切られたのと同じように、豊臣家が最終的に敗北する
結末が目に見えてる。
0075人間七七四年
2010/09/10(金) 19:37:09ID:cmoqVBhe別に大御所が死んだって将軍健在なら不安定にはならなくないか?
将軍あっての幕府だけど大御所は別に必要ないし
仮に頭おかしい奴が一人寝返ったらそいつの国元に周りの幕府の諸将が攻め込むでしょ
国元が落とされたら付き従う兵士は霧散するしどうすんの
0076人間七七四年
2010/09/10(金) 20:17:37ID:0vEpjbu1あの番組は酷かったね
知らない人は見てて全く流れが分からないだろう
浅野と言っても監視の役人がいただけで大名自体は直接接触してないでしょ
0077戦国オタク
2010/09/10(金) 20:34:25ID:U7a+73OQ浅野は信繁が紀州九度山脱出するのを黙認してたようだが。信繁、昌幸
幸長は旧知の間柄だし、浅野長晟や浅野家重臣と接触はしてたろう。
0078人間七七四年
2010/09/10(金) 20:47:20ID:cmoqVBhe家康秀忠の二人を討ち取った後ならまだしも二人が健在な状況でそんな日本全部を敵に廻すような危険すぎる賭をやるとは思えない
結局オタクさんの言うような事は家康秀忠両方を討ち取らないと無理でしょう
例え秀忠が戦場では無能でも将軍という立場がある限り諸将はそう簡単に離反しない
0079人間七七四年
2010/09/10(金) 20:57:18ID:VksRIGtI0080人間七七四年
2010/09/10(金) 20:59:47ID:0vEpjbu1「あれは誰かな?」「あれは毛利勝永だよ」とか見物してたエピソードは笑うな
こんな戦で無理に兵力失う気は全くないってのがよく出てて
0081人間七七四年
2010/09/10(金) 21:46:06ID:g7BBMQcm傍観はしていません、しっかり戦っています
取りあえず『大日本史料』を読んでみたらいかがでしょうか
まぁ2、3日は余裕で潰れますが
0082人間七七四年
2010/09/10(金) 21:54:32ID:qdkRcU2k0083戦国オタク
2010/09/11(土) 09:57:46ID:Qmr068hJ黒田と加藤は秀忠隊二万三千が大野治房別働隊千四百に切りたてられたのを
みて、しょうがねーなって感じで秀忠救援に向かったんだよ。百戦錬磨の黒田長政
加藤嘉明あたりは何こいつらって思ったでしょうな。山っ気あったら秀忠ぶっ殺してたろうね。
0084人間七七四年
2010/09/11(土) 18:13:18ID:r6UHIq92もっとも山っ気があったろう政宗すら密かに真田の子女を匿う程度しかしなかったんだしその二人が寝返るなんてまず無いわな
0085戦国オタク
2010/09/11(土) 18:48:07ID:Qmr068hJ徳川って1584年の小牧長久手以後30年間まともな戦闘経験無し。一方
豊臣浪人衆は朝鮮の役、関ヶ原で戦闘経験豊富、まともに戦闘やれば勝負にならない。
加藤、黒田、伊達の助勢でなんとか勝てただけ。外様がそっぽむけば逃げ回るしか
能ないポンコツ兵団。
0086戦国オタク
2010/09/11(土) 18:57:37ID:Qmr068hJ秀頼が七手組率いて家康本陣に殴りこみかけてりゃ如何動いたか解らない。
この時点でも徳川、浅野、黒田の主君は秀頼、徳川を誅するのは主君の
命により逆臣を討つで正当性確保でき、なんら精神的抵抗無かっただろう。
0088人間七七四年
2010/09/11(土) 19:19:07ID:4aAEagb4局地戦で勝ったからと言って大局が変わるとは思えんな
家康秀忠両方が死なない限り幕府は健在で地元が不安になるから寝返るに寝返れないっての
そんぐらい家臣の身を預かる大名ならわかるだろ
0089戦国オタク
2010/09/11(土) 19:26:50ID:Qmr068hJ小田原攻めではまともな戦闘なし。関ヶ原では300名程度の島津隊
をよせばいいのに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉三隊で追っかけて、反撃
食らって井伊直政は重傷(後に死亡)、松平忠吉負傷とポンコツぶり丸出し。
0090戦国オタク
2010/09/11(土) 19:32:56ID:Qmr068hJ二万三千もの兵力にも係らず千四百程度の部隊に追っかけまわされるポンコツ兵団
敵に回したって痛くも痒くもないって思ったんじゃない。このポンコツ
に攻められたって落城ありえない、国許の留守部隊で楽勝でしょう。
0092人間七七四年
2010/09/11(土) 21:27:37ID:4aAEagb4そのポンコツの集まりじゃん
何だそのおめでたい思考は 例え国元の城が小田原城より堅固でもそんな安心はできんわw
万に一つ城が落ちたら兵士の家族も皆殺しになるのにそんなお気楽な思考する奴は流石にいないと思うが
0093人間七七四年
2010/09/12(日) 00:47:05ID:Hka9VSTs侍クラスは変わらないが、兵員は関東兵になり、弱体化した。
また本能寺以降、急激な領土拡大のため、新規召し抱えの侍が増え、
精鋭では無くなってしまった。
0094人間七七四年
2010/09/12(日) 07:10:56ID:xMM39mgMこの時点においても秀頼が徳川の主だとか……。
征夷大将軍就任によって形式的に家康が上位に。
二条城会見によって実質的にも立場が逆転してる。
結局のところ、家康がスタコラ逃げまくって馬印が倒れて、
秀忠本陣も柳生宗矩が刀を抜いて戦わねばならなかったほど混乱しても、
外様大名は誰一人として鉾先を変えようとしなかった。
なぜなら大名達は将軍家に本領安堵を受けており、その御恩に報いるために
参陣しているのだから。将軍家の御恩を放り出して寝返るには、家康と秀忠の
両者が揃って討ち死にするくらいの事態にならないといけないが、
夏の陣の大坂方の力ではまず無理。
0095人間七七四年
2010/09/12(日) 08:42:27ID:1hCTNmTg下手に裏切ると朝敵にもなる
外様大名的には家康、秀忠本陣が蹂躙されるのは恩を売るチャンスとしてオイシイ状況だったんだろう
家康が本陣捨てて逃走してるのに崩れずに逆に真田が討ち取られて毛利が撤退してるのがその証拠
0096人間七七四年
2010/09/12(日) 13:41:18ID:ixdwBIHr歴代の征夷大将軍みりゃわかるじゃん?
鎌倉将軍も室町将軍も大半が実権を取り上げられ、裏切られ、追放され、殺されてるからな。
0097人間七七四年
2010/09/12(日) 15:37:15ID:W+QrqmNe将軍という存在の権威を過小評価しすぎ。
幼い将軍を擁立しても、その将軍(九条父子や宗尊親王)は成長するにつけて、独自の主従関係を
構築するなどして、執権(得宗)の脅威になりうるような存在になり、そのつど混乱が起こり将軍が
追放されるなどしているけど、結局北条氏は最期まで将軍の存在を必要とし続けていたわけだ。
後年の細川氏、三好氏、それから信長なんかも、将軍の権威や独自性には悩まされ続けたわけで、
「くその役にも立たない」というのはあまりにもイメージありきすぎる
0098人間七七四年
2010/09/12(日) 18:36:04ID:ixdwBIHrごめん。確かに君の言うとおりだ。
前言撤回するよ。俺が不勉強すぎた。
×ウンコの役にも立たない
○ウンコの役くらいには立つ可能性は否定できない
0099戦国オタク
2010/09/12(日) 19:05:26ID:LJKBrJv2出来星の将軍家なんて誰も敬意払わない、家康の出自も怪しいし。
外様衆はいやいや従ってただけ。浅野が寝返りってうわさ飛べば全員信じたし。
前田は状況によっちゃ寝返るつもりだったようだし。七手組の進撃あれば
家康も秀忠も首飛んでたろうね。ポンコツ徳川兵団なんて軽蔑の対象
だったんじゃない。
0100人間七七四年
2010/09/12(日) 19:23:55ID:OIxIQCVYそれ〜が寝返るとか侮蔑の対象とか完全な妄想じゃん
仮に徳川に不満があったとして一回勝てそうな状況だからって豊臣に寝返る利益あんの?
大阪城は冬のような堅固さは無いし主力が大阪に来てるから国元は不安、自国以外の全国全てが敵に回る、将軍に刃向かった武家として悪名が高まる
状況だけでこれだけ言えるのに事前に計ってるならまだしもそんな動きはカケラも見えない
浅野が寝返ったとして果たして続く奴、信じる奴がいるかどうか
0101戦国オタク
2010/09/12(日) 19:53:44ID:LJKBrJv2「豊臣に寝返る利益」めちゃくちゃあるんじゃない。徳川の領地取り放題。
「自国以外の全国全てが敵に回る」当時の徳川家の勢力範囲は関東甲信越と
遠三駿の三カ国と北陸の一部のみ。西国は外様衆がほとんど。それにこの
どうにもならん弱兵部隊じゃ一万も兵があれば充分制圧可能。関ヶ原も大阪の陣も
外様衆の力で勝っている、徳川本隊は手のつけられない惰弱集団。
0102人間七七四年
2010/09/12(日) 20:00:03ID:xMM39mgM武士の主従関係の原則は御恩と奉公。こんなこと中学生でもわかる。
将軍である秀忠が自分の領土を保証してくれるから、秀忠のために
働くんだよ。史実で徳川方が乱れても外様大名が誰も裏切らなかったのは、
お先真っ暗な秀頼よりも秀忠に味方した方が御家存続に繋がると判断したからだ。
今までいろんなIFスレ見てきたが、史実の検証もろくにせずに
自分の願望で書き込むとこういう恥ずかしいことになる。
0103人間七七四年
2010/09/12(日) 20:13:55ID:xMM39mgM豊臣秀頼がハンニバル級の武将なら
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1280541171
0104戦国オタク
2010/09/12(日) 20:15:12ID:LJKBrJv2「領土の保証」ってのは武力の裏付けあって始めて有効。
豊臣の寄せ集めの少数の部隊にボコボコされる程度の武力じゃ
誰も相手にしない。秀頼が出陣してれば外様衆の寝返り続出。
なんせ二万三千で千四百に切り崩されるような武力じゃどうせいってのよ。
0105戦国オタク
2010/09/12(日) 20:21:05ID:LJKBrJv2このスレ書いてるうちに徳川討滅には余り大げさな仕掛けいらないんじゃ
無いかと思い出しましてね、一〜二万の征討軍で充分じゃないかと思い
ストーリー練り直し中。
0106人間七七四年
2010/09/12(日) 20:38:29ID:CzKySauh持久戦したら敗北街道まっしぐらの大坂より
全国の諸大名を味方にしてる徳川に味方するわ。
寝返った瞬間に留守にした城攻撃されたらたまらんし
0108人間七七四年
2010/09/12(日) 21:18:18ID:ixdwBIHr言ってることが稚拙すぎるw
御恩云々というならば、そもそも徳川はじめ諸大名は、豊臣のために奉公を尽くさねばならないw
ところが諸大名は秀頼が幼少なのをいいことに、秀頼領をほとんど分け取りにしちゃうという
すばらしい奉公をした挙句、お手盛りで領地を増やしまくった腹黒の徳川に尻尾振って
ついて行っちゃったわけだ。
わかるかなー?そもそも御恩と奉公が全然成立してないんだよ。
御恩と奉公などというカビの生えた言葉を持ち出しても頓珍漢なだけで全然説得力ないんだよw
0109人間七七四年
2010/09/12(日) 22:04:09ID:RGi7zShE関ヶ原の戦いも家康が秀吉の遺訓を破ったりしてたけどそんなのはっきりいってどうでもいいんだよ。
いざ戦争が始まれば強そうな方につく。家康に味方した連中は家康が勝ちそうだったから味方した。
「家康は秀吉公の遺言をやぶっておる」などいくら奇麗事いっても、立花みたいに敗軍の将となり浪人になってしまえばアホなんだよ(立花は大名に復帰できたけど)
0110人間七七四年
2010/09/12(日) 22:21:22ID:xMM39mgM諸大名は武家の棟梁となった家康と秀忠から本領を安堵されている。
その御恩に報いるために大坂で奉公した。
もっと言えば、大坂で奉公することによって、さらなる安全を保障されることが
期待できたから、徳川方についたわけ。
室町期の将軍が御恩を施そうとしても意味を成さなかったのは、権力が弱かったから。
権力のない輩が手形を切っても信用されないが、当時の徳川家には信用があった。
時代が下ろうとも、武家政権の原則は御恩と奉公であり、それを担保するのが武力です。
おわかり?
0111人間七七四年
2010/09/12(日) 23:12:32ID:wTkBqcIM0112人間七七四年
2010/09/13(月) 00:03:58ID:V625qmNCよくそんなお目出度い思考によくなれるな
じゃあ寝返って負けたらどうすんだ?築き上げたもの全て失うんだぞ 今で言えば全財産投資するようなもんだ
必ず幕府に勝てるなんて保証は豊臣が出来るわけないし豊臣に寝返ったからと言って自分の領地を加増してくれる保証もない
幕府は今の土地財産を保証してくれてるし戦功をあげれば覚えめでたきものとなって幕府内での地位があがるかもしれない
博打で全財産・自分家臣家族の命を賭けて戦うのと確実な安全を保証されて戦うの
どちらがいいかなんて基地外でもなきゃわかるよな
家康秀忠が死ねば話は別だが普通は死ぬ危険のある不安定な近道より死ぬ危険の少ない安全な道を選ぶわな
0113人間七七四年
2010/09/13(月) 00:09:40ID:qFvMcqKi幼稚園児でもわかる簡単な理屈だ
幕末をみれば彦根藩は率先して江戸攻めに加わってるしw
0114人間七七四年
2010/09/13(月) 00:19:41ID:p3j6vHGE大阪城が裸城
大坂方の兵力は枯渇寸前
淀君と秀頼の体制は腐ってる
ことじゃね
淀君には外様もうんざりしてるんだろうし最後までそのわがままに付き合った加藤と福島はあんな状態だし
大阪の陣に参戦してる外様も十分な所領を経営してる訳で関ヶ原以降15年かけて築き上げた地位を投げ出すわけにはいかんでしょ
0115人間七七四年
2010/09/13(月) 00:34:25ID:n/zpWohf間に朝鮮出兵や関ヶ原の戦いこそあるけど、もう地方同士の争いは終結してずいぶん時間が過ぎてるわけで
「今の地位や領土を保ちたい」と安泰願う大名たちばかりになっていると思うよ
「豊臣に寝返ってあわよくば今より多くの領土を得る」なんてギャンブル思考なんておらんでしょ。そんなの考えてたのは行き場のない浪人だけだよ
0116人間七七四年
2010/09/13(月) 00:39:56ID:p3j6vHGE実際2世大名が多いし江戸には妻子居るわけだしね
いまさら戦国時代に戻られても困るって大名も多いだろうな
特に東北の諸藩は政宗なんかが居るから幕府による統制が無くなると非常に困る
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