【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】
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0001人間七七四年
2010/06/24(木) 01:10:35ID:Bse0lv8F公的資格なしで軍事占拠し続け、戦いにつぐ戦いの中で一生を終え
た戦国時代幕開けを飾る武将。
稀代の名将か、はたまた単なる戦闘オタクか。評価の定まらぬ畠山
義就について語りませんか?
0002人間七七四年
2010/06/24(木) 01:15:20ID:/PguvnW1ただの戦闘馬鹿ではない。
0003人間七七四年
2010/06/24(木) 01:19:25ID:35cPqf2P政長との関係上、戦い続けるしかなかっただけで
政長と義就の関係が室町時代の縮図なんだが
テキトーな処で手を打たなかった辺りが、義就の特異性というかなんというか
ぶっちゃけ「迷いを捨てた足利直冬」みたいな存在だけどw
0004人間七七四年
2010/06/24(木) 01:34:55ID:/PguvnW1実際のエピソードのパクリだよね。
0005人間七七四年
2010/06/24(木) 01:45:12ID:35cPqf2P政長方が神保、遊佐、筒井で
義就方が越智、古市、甲斐、誉田
つーか越智家栄が最高に胡散臭いw
コイツが黒幕かあるいは細川の手先だw
0006人間七七四年
2010/06/24(木) 09:14:51ID:V6GeTYmo山の上で長期間野宿をずっとし続けて
あの時代の人間はよほど強靭な体にできてるんだろうね
0007人間七七四年
2010/06/24(木) 10:54:01ID:hEH2MZvNあたし、この人の肖像画どこかで見て、一辺でファンになったわ。もう一度探してみるわ。
0008人間七七四年
2010/06/24(木) 11:32:18ID:6nSzl3uf0009人間七七四年
2010/06/24(木) 11:45:45ID:Bse0lv8Fこれでっか?
ttp://base1.nijl.ac.jp/~rekijin/20001383/index.html
顔、よく分からんが
0010人間七七四年
2010/06/24(木) 12:05:00ID:hEH2MZvNこれかなー?
すごく存在感あるなー、って感じたんだけど。
ここにある歌、義就ちゃんの歌なの?
何て書いてあるの?
0011人間七七四年
2010/06/24(木) 23:49:41ID:Bse0lv8F歌は義就のもの。ただ、読めない字が多く、どんな歌かは分からないねー。
絵は江戸時代の画家が描いたものなんで、実際の義就に似てるかどうかは分か
らないよ。
0012人間七七四年
2010/06/26(土) 09:03:20ID:aIfYD4ln誰か忘れたけど。
0014人間七七四年
2010/06/26(土) 23:41:42ID:b+7FIHvuそもそも戦国大名の定義があいまいなのでなんとも言えん
個人的には土着勢力を切り離して集権を行い近代化した大名を戦国大名と言いたいが
それだと細川政元が戦国大名で武田信玄は戦国大名じゃないということになる
0015人間七七四年
2010/06/27(日) 10:36:51ID:bpDOvLfEそれも認識がゆがんでいるようなw
その定義なら信玄よりもっと遅れた体制だった織田信長なんてなんて呼べばいいんだw
0016人間七七四年
2010/06/27(日) 16:11:00ID:zv2USwwT普通に考えると、戦国時代の大名ね。
じゃあ戦国時代はいつから?
義就の頃は将軍の権威は地に落ちてたでしょうけど、未だかろうじて室町幕府のシステムは機能してたから、戦国時代じゃあないと思いますけど。最後の管令が亡くなったあたりかな?
0017人間七七四年
2010/06/27(日) 17:22:17ID:+ah1GJ9z0018人間七七四年
2010/06/27(日) 18:10:07ID:Raq4Tjzp0019人間七七四年
2010/06/27(日) 19:04:32ID:bpDOvLfE個人的には細川政元の暗殺による京兆家の分裂の方が大きいと思うが。
0020人間七七四年
2010/06/27(日) 22:14:54ID:12Gbgj2u細川氏綱は最初から最後まで三好長慶の操り人形なんで、室町幕府の機構とし
ての管領とは言えないね。
やはり氏綱以前の明応の政変で室町幕府はシステム崩壊、戦国時代の始まり
と思う。
0021人間七七四年
2010/06/28(月) 01:52:42ID:AsMZk7bf「名大将」
「王法、仏法の敵」
0024人間七七四年
2010/07/05(月) 00:32:59ID:cr1yZj4e0025人間七七四年
2010/07/07(水) 00:44:32ID:O0LiZjeL永澤俊矢が畠山義就を演じた。
0026名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/10(土) 22:01:48ID:Ta0pRyjG0027名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/10(土) 22:20:14ID:e0HS1ZYI政略云々を別にしても不思議。
0028名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/11(日) 01:10:31ID:11I2UM6c0029名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/11(日) 01:14:22ID:BAN3iI6/印象があるな。
0030人間七七四年
2010/07/22(木) 10:12:15ID:9CFEBsem0031人間七七四年
2010/07/22(木) 23:27:32ID:liXG69OE0034人間七七四年
2010/07/28(水) 23:11:42ID:nXpAn8oa0036人間七七四年
2010/08/02(月) 13:40:13ID:0i6pGFpF0037人間七七四年
2010/08/15(日) 00:51:23ID:uJRiTBi90038人間七七四年
2010/08/15(日) 08:27:42ID:/w+p2RHZ0040人間七七四年
2010/08/15(日) 17:28:52ID:uJRiTBi90041人間七七四年
2010/08/25(水) 13:40:55ID:jPCmQhkU意図を色々考えさせられる名前だ
0042人間七七四年
2010/08/26(木) 18:55:38ID:SMTVK8at織田信忠「考えさせられる名前だよね」
0044人間七七四年
2010/08/27(金) 01:16:51ID:yapq9KTG0045人間七七四年
2010/08/29(日) 14:39:13ID:a/IyvIrpそんなんで諸大名からかなり嫌われていたとか。
キャリアや年齢的にも細川勝元、山名宗全、斉藤妙椿が死んで以降は
政長と義就が一番上に来てしまい若年の政元(聡明丸)を無視していたかも。
政元と義就は、後に互いに河内や摂津の占領地を交換し和解している。
勝元時代は政長と組んでいた京兆家は、政元時代には義就と組むようになる。
0046人間七七四年
2010/08/29(日) 20:34:51ID:BxE1uxtvそれこそ信玄や謙信、信長がいた時代にいたら面白かったと思うよ
0047人間七七四年
2010/08/29(日) 21:25:44ID:aKLR2lm70048人間七七四年
2010/08/30(月) 04:15:37ID:L4V4ZtZI「よしなり」になっちょるなw
それと放送大学で見たんだけど政長の兄の弥三郎って諱は義富なんだね
0049人間七七四年
2010/08/30(月) 17:27:27ID:6kiXw6TF義富は系図上の不確かな諱のはず。
0050人間七七四年
2010/08/30(月) 21:29:39ID:d1W0r2O8家臣からは、「畠山家の血統を引いていないのでは?」と思われていたらしい。
そして義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている
いわば典型的な足軽女w
流石にBで売春婦で足軽女の息子では、いくら優秀でも家臣は支持を躊躇するわな…
そんなこんなでこれらの事が政長擁立支持の背景となっている。
政長は持国の弟の持富の子だが、母親の方は、家筋的にはまだマシだったらしい。
0051人間七七四年
2010/08/30(月) 22:00:56ID:d1W0r2O8http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1283139593/
1 :ぽキール星人φ ★:2010/08/30(月) 12:39:53 0
部落解放同盟福岡県連合会の定期大会が福岡市で開かれ、「人権侵害救済法」の早期制定に
向けて取り組むなどとする大会宣言が採択されました。
福岡市早良区の早良市民センターで開かれた今年度の定期大会には、県内22の地区協議会の
代表などおよそ470人が参加しました。大会では、部落解放同盟中央本部の中央執行委員長も務める、
福岡県連合会の組坂繁之副委員長が、「最近では、顔の見えないインターネットを使った露骨で
悪質な差別が見受けられる。政権交代を果たした民主党を中心に、超党派で人権救済の法整備を
求めるとともに、わたしたちも人権の町作りに向けて頑張っていこう」と呼びかけました。
大会は最後に、人権を守るための独立した国の機関の設置などを盛り込んだ「人権侵害救済法」の
早期制定に向けて取り組むなどとする大会宣言を採択しました。
ソース:NHK北九州のニュース
http://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023629371.html
0052人間七七四年
2010/09/08(水) 18:30:31ID:UOlBBVA/政長流⇒高家
能登⇒高家
二本松⇒水野家臣
関東⇒喜連川藩士
日向⇒薩摩藩士
なのに義就流は…
0053人間七七四年
2010/10/19(火) 19:55:50ID:VxUMcF8q0055人間七七四年
2011/01/23(日) 00:41:43ID:GtNbdeFkらあるんじゃないか。
0056人間七七四年
2011/03/26(土) 18:15:19.54ID:o3dHWJGDまあ武器が違うから、各時代で戦い方は違うが。
山県有朋なんかよりずっと将才あると思う
0058人間七七四年
2011/10/14(金) 13:23:17.04ID:qiWzl/TZ0059人間七七四年
2011/10/18(火) 14:49:29.28ID:FgOWA4CN応仁の乱終結による東西両軍の停戦や(足利義政による)西軍諸大名の領地の安堵と帰国には一切同調しなかった。
応仁の乱がまさに終わろうとしている時期に義就は、洛中から軍勢を河内に向けて進撃を開始させる、
河内のほぼ全域を占領、それを受けて義就系で元西軍側の大和国人である古市氏や越智氏が大和を制圧する。
これで畠山義就は、将軍足利義政の応仁の乱終結の施策を無視する形で河内と大和を占領し実効支配する事になってしまった。
つまり、畠山義就は、はじめて室町幕府を無視する形で河内と大和の支配を独力の軍事力で実現した大名となってしまった。
しかも支配した場所は、畿内の河内と大和である。
これが、畠山義就が、初めての戦国大名と言われる所以である。
0061人間七七四年
2011/10/19(水) 00:29:58.76ID:bfUpQ/5Hそうだね、一体何処から城下町のアイデアを持って来たのか不思議。
義就は、1483年にも河内に攻めて来た畠山政長の軍勢を淀川の堤防を決壊させて壊滅させている。
大したアイデアマンである事は間違い無い。
義就よりはるかに若い細川政元は、丹波や摂津に散々城や館、砦を造ったが、ついに城下町は造らなかった。
被官で摂津国人の池田氏は城下町を造っていた様だが…
事実上の丹波・摂津両国の守護所は、古代からの大都市である洛中の細川管領邸であった為に
ワザワザ新たぶ城下町を造る必要性を感じなかったのかも知れないが。
0062人間七七四年
2011/10/19(水) 01:56:02.71ID:w0qg+f8m城下町はどうも、大和の古市氏などが拠点への領域内の政治経済の集権という、城下町形成に近いことを始めているので、
大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい。で、そのあたりと縁の深い義就が影響を受け河内で一国単位で
展開したのが誉田への集権、ということなのだろう。
しかし畿内は土地の権利関係が諸権門の間で錯綜しすぎていたのと、京都の存在感が余りにも大きかったので
なかなか城下町を形成しづらかったのも確かだろうね。
足利義尚の鈎の陣なんて、鈎をあのまま近江の城下町化しようとしていたんじゃないかと思うことがある。
0063人間七七四年
2011/10/23(日) 17:06:42.06ID:u96yHLmF古市澄胤やその父があたりが、始めたのを義就がパクッタのかな。
大和武士は、ほぼ全員興福寺の衆徒で
興福寺の二大名跡である一乗院とその傘下の筒井氏・越智氏、
大乗院とその傘下の十市氏・古市氏などがいる。
一乗院と大乗院は共に張り合っており、双方の門跡が自己の発言力の増大のために
国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、
自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させていた。
このノウハウが、城下町の形成に役立ったのだろうか?
0064人間七七四年
2011/10/23(日) 21:30:44.78ID:y5v3wUbyそのあたりなんだろうね。応仁の乱で幕府機構からは失脚した形になった義就は、
幕府に頼らない自己の権力確率のためならどんなことでもやってた感じがする。
0065人間七七四年
2011/10/31(月) 09:59:36.79ID:J83HZKPvそれらの施策の結果として畠山義就は、幕府から独立した戦国大名になってしまう。
義就は、幕府から独立した状態で死去し、息子の基家は、その体制を引継いで
幕府に頼らない独立した河内統治を継続する。
しかし1493年の明応の政変で、管領畠山政長が自害し息子の尚順が、紀伊に逃亡すると
畠山基家は、幕府に復帰する事になる。
そういう意味では、基家は一度は折角にも幕府に帰参したのに、
その後、しばらくしたら幕府には中央政府としての権威も力も無くなってしまう、と言える。
0066人間七七四年
2011/11/01(火) 00:30:29.10ID:kyGAvKNE0067人間七七四年
2011/11/01(火) 00:33:03.36ID:R8ebT6iE0068斯波義敏
2011/11/01(火) 01:07:52.33ID:iD0+xVrc0069人間七七四年
2011/11/01(火) 17:28:56.38ID:pOh25q/6将軍の親衛隊(五番衆≠奉公衆)が、明応の政変で解体されるんだぜ。
官僚組織(奉行衆)は、京兆家としても次の将軍も必要だから残したけど。
これでは、中央政権と言えるのかどうか…
しかも政元が、京で兵を挙げ畠山政長とそれに近い人物の邸宅や拠点を制圧。
その後上原と京兆家家宰の安富が率いる京兆家2万の軍勢が、河内に進撃すると
大名達は将軍義材と管領政長を見捨て続々と京兆家軍勢に合流、しかもその時に
一部の奉公衆も逃げ出した。
また、残存した奉公衆と政長勢8000が、正覚寺城に篭城するも、京兆家軍勢に包囲され、
援軍である根来寺衆徒勢と紀州国人衆の斉藤の軍勢1万が、赤松政則に撃退されると、
篭城を諦め政長は切腹、尚順は紀伊に逃亡、将軍義材は降伏する。
この時点で奉公衆は、事実上崩壊する。残りの奉公衆残存部隊が詰衆を結成するが、
将軍のボディーガードにもならない状態になる。
0070人間七七四年
2011/11/03(木) 06:02:59.52ID:CP8X/of+ざっと56年間、三世代継続してやっていた訳だ。
0071人間七七四年
2011/11/03(木) 18:24:18.57ID:6iZO42i+■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています