武田最大の裏切り者って誰だろうか
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0001人間七七四年
2009/05/26(火) 07:10:20ID:DRc0B8H70032奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/06/11(木) 07:47:22ID:5yYmlRQ50033仙台藩百姓
2009/06/11(木) 09:41:28ID:s+2BBtfAでも一番は間違いなく信玄だお( ^ω^)
1、親父裏切って国を乗っ取る
2、今川、北条を裏切って駿河分捕る
3、織田、徳川裏切って攻め込む
4、中途半端な所で氏んでみんなの期待を裏切る←これ一番
0034人間七七四年
2009/06/12(金) 00:15:20ID:YQekvt+j時勢が読めず遅参して秀吉に仕置きされたり
天下分目の戦でビビッて友軍を誤射壊滅させるとか
火事場泥棒しようとして家康に
100万石の約束を水の泡にされたり
ダラダラ生きてホモ光に諂って自称副将軍気取りで終わるよりは
ロマンがあっていいと思うけどなぁ
0035人間七七四年
2009/06/23(火) 22:44:22ID:BzCiDVYcかっこつけて腹黒やってここ一番でへたれない正宗に価値はないよ
0036仙台藩百姓
2009/06/23(火) 23:51:53ID:owz1M3xv0037人間七七四年
2009/07/09(木) 01:01:30ID:vyrnkcKQ戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くして領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
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武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
毛利元就(適正値)
統率98 武勇72 知略115 政治89
徳川家康(適正値)
統率102 武勇88 知略100 政治115
豊臣秀吉(適正値)
統率105 武勇65 知略110 政治120
織田信長(適正値)
統率120 武勇105 知略105 政治105
北条氏康(適正値)
統率95 武勇82 知略89 政治110
上杉謙信(適正値)
統率92 武勇99 知略68 政治95
信玄が信長よりスタートに恵まれない → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。家督相続をめぐる争いもあり、信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。
0038人間七七四年
2009/07/09(木) 01:09:21ID:fD4rsKRRどこが暴君だってんだ。
普通に同格相手に勢力を拡大してる。嘘をつくなよ。
>>家臣や国内の不満を生むこととなり息子の勝頼は拡大路線をつらなけらばいけないこととなる
ソースよろしく。でてこないだろうけど。
>>度重なる外交への不義により武田家への他国の信用性はゼロに等しく、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することが
>>結局できなかった
これもソースよろしく。普通に勝頼は関東諸侯やら上杉やらと結んでる。
信玄死亡時は北条が同盟国。長篠と御館を押し付けるのはおかしすぎ。
>>一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
武田滅亡は長篠の7年後だが、7年が1か月か。すごいすごい。
長篠直後で勝頼が援軍に行けない状態でも岩村城を5か月かけても落とせなかったくせに。
武田が崩壊したのは長篠と御館で北条や徳川との多方面作戦での疲弊。
その間たくさん戦ってる。
>>信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
随分苦労してるがな。
画像が畠山じゃねえか。
その基準なら信長さまは統率40代きりそうだな。
知略はぼろぼろだな。
>>信玄が武田よりスタートに恵まれない
そもそもこの文章がおかしいと思わんのか。
信長と書きたかったんだろうが実際恵まれてないんだが。
だから笠原上杉、長尾上杉、北条、織田徳川、上田原後の信濃連合
十分戦ってる。
いい加減妄想はやめとけ。
とりあえず根拠となる資料を出して立証してもらおうか
>>信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
毎年餓死者が続出する貧国甲斐と信虎を追放した事で国人統制の問題もあった。
>>一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
はいはいうそうそ。
信秀はもとから尾張で最強の実力者。弾正忠家の実力は20万石以上。それに加えて津島熱田の経済力を有してる。
信長は普通に継承してる。信長がそむかれたのはその素行から。
上杉からは5年で西上野20万石とってるし、北条からは2年で駿河15万石とってるが。
>>謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や
その後で第4回川中島で撃退も成功。西上野も攻略してる。
>>氏康の病気をねらって
氏康が病気になるのは武田が駿河の大部分を手に入れたあとだといってんだろ。低脳が。
>>両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができず。
北条は駿河の継承権を譲り受けてる。西上野は上杉の領土。
普通に北信濃・西上野・駿河と50万石を軽く超える領土を得てるんだが。
とりあえず資料だしてくれや。お前の妄想の。
あ、なんとなくだけど、これからお前の要領で
信長さまの紹介文書いてあげるから。
0039人間七七四年
2009/07/09(木) 01:10:10ID:fD4rsKRR織田信長
日本史上、有数のキチガイである戦国大名。
同格の斎藤義龍にとても勝てず、幼君にも何度も負けてるすさまじい戦下手。
ただ桶狭間で敵先陣と間違えて本陣突っ込んだり、手も足もでない斎藤義龍が早死にし
信玄謙信がちょうどいいタイミングで死に、畿内に勢力の真空が生まれていたという
非常な幸運に恵まれてはいた。しかし素行が悪すぎた為、家臣や味方に生涯裏切られ
最後は息子ともども重臣にころされ、織田家は完全に崩壊した。
信長死後誰も織田家を守ろうとせずみんなで自分の勢力拡大に走った面からも
いかに慕われていなかったかがわかる。
戦国でもっとも短期で崩壊した大名であろう。
武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
これを基準とした場合の信長の能力地
織田信長
統率40 武勇50 知略52 政治45
信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ→キチガイ織田厨のウソ
信秀はもともと尾張最強の実力を有しており、晩年には三河と美濃の領域は失ったが
尾張国内の力は顕在。信長は普通にこれを継承しており、後で素行の悪さでそむかれた。
実際継承時は弟も林も柴田も佐久間も平手もおじも従っており、名古屋周辺だけなんて
ありえない事がわかる。
信長は信玄より戦が強い→キチガイ織田厨のウソ
実際信長は生涯において格下相手に負けまくっている。
その敗戦数は数十に達する。根っからの戦下手。
秀吉・家康の天下は信長のおかげ→キチガイ織田厨の大ウソ
信長死後、織田家は完全に崩壊しており、秀吉はその旧織田家の勢力争いを勝ち抜き、
さらに多くの大名を倒して天下を統一した
秀吉は織田の一族でも何でもなく、もちろん信長から禅譲などしてもらっていない。
秀吉の天下は彼の実力によるもの。家康に至ってはなにをかいわんや。
0040人間七七四年
2009/07/10(金) 16:13:10ID:2rq2LQwO0041人間七七四年
2009/09/26(土) 00:47:19ID:BA/anhlM0042人間七七四年
2009/11/01(日) 09:57:46ID:0bJSsvVA0043人間七七四年
2009/11/21(土) 10:17:09ID:rIlpKmbS0044人間七七四年
2009/11/22(日) 00:33:43ID:CdcLzBpT0045人間七七四年
2010/04/24(土) 05:43:41ID:qSM1nXvNまあ、どちらかだけでも致命的で、仮に片方が寝返らなくても、どうしようもなかっただろうが。
木曽と穴山なら、やっぱり年月が深い分、穴山の裏切りの方が印象は強いね。
小山田は、最後の土壇場だっただけにイメージは悪い。
真田は、北条とやりとりしていようが、仮に岩櫃に迎えるなら、上杉だけじゃなく北条との交渉も必須だから何とも。
0046人間七七四年
2010/04/24(土) 08:49:38ID:6zXR4vKt問題は木曽と穴山が連携してたかだね
小説によっては穴山→木曽だがその逆も考えられるし、織徳個別の調略にたまたまそれぞれが釣られたのかもしれんし
0047人間七七四年
2010/04/26(月) 07:24:46ID:vxvs1yBT0048人間七七四年
2010/04/27(火) 11:15:45ID:40AggLS50049人間七七四年
2010/06/29(火) 23:12:22ID:I/cUF32g子供同士の結婚を破談にするわ、
養女の夫と子供に怨念抱くわ、マジ最悪。
0050人間七七四年
2010/06/30(水) 02:15:23ID:fprNUYGv強力な権力を持つ戦国大名を目指した父親を追放し、諸豪族連合政権のような
脆弱な組織にしてしまい、息子の義信を死なせて、その弱い結びつきの
家臣団の結束をさらに弱体化させた。
0051人間七七四年
2010/06/30(水) 02:46:13ID:XsDIGjhp同盟関係にあった諏訪を突如攻め滅ぼし、その娘を側室にして勝頼を産ませ、
同盟関係にあった今川を突如攻め滅ぼし、まんまと安倍金山を手中にして
金不足を補ったが、代わりに外交での信用度を失った。
0052人間七七四年
2010/06/30(水) 04:02:30ID:htwfAnAI確か滅亡の数ヶ月前までは武田は二万の兵を出すほど協力だった。
二万の兵があれば峻険な甲斐・信濃の地形を利用すれば織田の大軍とて攻略は難しかった。
それなのに最後の瞬間に勝頼を見捨てて出仕しなかった兵卒たちが悪。
0054人間七七四年
2010/06/30(水) 09:43:53ID:EwVLCLvm0055人間七七四年
2010/06/30(水) 10:26:15ID:b2sPgGzS織田がきたら真っ先にやられるだろうしあんまり責められないと思う。
そこへいくと穴山じゃないかな。
まともに戦えず負けたのは武田が
甲信の盟主としての信任を失ってたってのが大きいんだろうね。
豪族全体がもう武田とか嫌だと思ったんだろ。
0056人間七七四年
2010/07/08(木) 06:55:10ID:z+lh3dUW自称木曾義仲の子孫(しかもその可能性は相当に薄い)の木曾氏が
飛躍したんだと思うが。
0057人間七七四年
2010/08/09(月) 04:51:41ID:13IhqfUN0058人間七七四年
2010/11/20(土) 13:12:31ID:VoUnFNGH松代通記には、藩祖信之が、信勝と同時に元服を許された、とあるけど、それ以外、武田家臣当時の信之の事跡がない。
江戸時代も、見性院と信松院を見舞った、保科より、真田を上に扱う必要はない。
0059人間七七四年
2010/11/20(土) 14:04:09ID:SUQ+wyCU穴山氏は、駿河今川と誼みを通じ、従って太郎義信謀叛の際も弟・彦五郎信邦が義信側についたが、その後も穴山氏立場はゆるぎなく、信玄は穴山を江尻に三ヶ月分の兵糧を運んで甲斐に一時撤退し、
0060人間七七四年
2010/11/20(土) 14:21:38ID:6jNzfLChあそこで裏切るとか
0061人間七七四年
2010/11/20(土) 14:43:34ID:kcRI2W8w0062人間七七四年
2010/11/20(土) 16:46:59ID:SUQ+wyCU0063人間七七四年
2010/11/20(土) 23:20:31ID:gkBLlEh3親父の敵である毛利に降ったんだもん。
0064人間七七四年
2010/11/22(月) 09:47:50ID:hoZaTBMO0065人間七七四年
2010/12/05(日) 14:08:09ID:BqoKbeCm裏切られすぎの勝頼はやっぱり悪い主君だったのかな。
0066人間七七四年
2010/12/06(月) 02:11:21ID:iDkgAB2cいったい、勝頼のせいで何人の武田武士が死んだんだか・・・
0067人間七七四年
2010/12/06(月) 03:04:49ID:xj+wy28r0068人間七七四年
2010/12/06(月) 22:44:50ID:3d4Z5v450069人間七七四年
2010/12/08(水) 22:19:42ID:htwbHuEm0071人間七七四年
2010/12/12(日) 17:20:05ID:TaS8c8f20072人間七七四年
2010/12/12(日) 17:59:51ID:oqQqk+j+信虎がいる状態では、例え晴信に家督が譲られようとそうはいかない。
0073月孔雀
2010/12/13(月) 17:25:13ID:0maK9ntO0074人間七七四年
2010/12/13(月) 22:26:49ID:DD/NdWAT0075人間七七四年
2010/12/14(火) 00:24:47ID:N0qWfxNn0076人間七七四年
2010/12/14(火) 17:13:22ID:pyIG3HjM武田家の現金収入も減りすぎ。軍事活動も調略もおわた
期待にこたえられなかった黒川金山に一票
0077人間七七四年
2010/12/16(木) 00:53:59ID:nLfqjfgO信長・秀吉・家康が束になってやっと若輩勝頼にギリギリで勝った。、
武田最大の裏切り者は真田だよね。
0078人間七七四年
2010/12/16(木) 01:56:19ID:ZNxSvY2s追放後の晴信には家臣を従える威厳はなかったみたいだし。
その後に出家して信玄に名を変えて家臣達から認められたんだよね?
0079人間七七四年
2010/12/16(木) 03:16:51ID:Xvt2niCR>その後に出家して信玄に名を変えて家臣達から認められたんだよね?
当時武田家を牛耳っていた最重臣で晴信の後見人でもあった板垣信方が
上田原の戦いで戦死したから、晴信の権力が増大したってだけ。
0080人間七七四年
2010/12/19(日) 12:19:42ID:KB5Zj8yj0081人間七七四年
2010/12/19(日) 20:07:19ID:rMrm9WAn信玄の死因は結核ではなく胃癌というのが有力。
0082人間七七四年
2010/12/19(日) 20:09:51ID:PFbf9Bvw0083人間七七四年
2011/03/27(日) 19:45:07.16ID:8Vc3Ahiv0084人間七七四年
2011/07/03(日) 13:01:26.47ID:OA8BGNusある意味あそこで甘利と板垣が戦死したのは晴信にとって光明だったな
その後の戦いでは別にその二人死んでも采配は冴えてるし武田軍の動きも悪くない
0085人間七七四年
2011/07/04(月) 22:03:23.51ID:QDsFM5vH穴山の裏切りみて逃げた 多数
土壇場で裏切った 小山田
裏切った訳じゃないのになんか裏切ったみたいな扱い 武田信豊 武田信廉
なんか分からないけど忠臣扱い 真田
0086人間七七四年
2011/07/04(月) 22:20:37.93ID:RLT0dJ730087人間七七四年
2011/07/05(火) 04:09:21.24ID:vFKc0TDW諫言して遠ざけられても最後の戦いにはせ参じた忠臣
勝頼は少なくとも部下に寝首かかれたみたいな最後じゃないだけ良かったかも
0088人間七七四年
2011/07/05(火) 16:21:35.88ID:r5UDFhkf信廉は完全に敵前逃亡だから、裏切りといって差し支えない。
信豊も小諸から関東に逃れようとしていたと考えると、微妙なところ。
0089人間七七四年
2011/09/16(金) 15:37:41.94ID:axEfI9Shえんがちょえんがちょ
0090人間七七四年
2011/09/16(金) 23:07:01.73ID:9DWb4V0M0091人間七七四年
2011/09/16(金) 23:12:11.25ID:9DWb4V0M通常時からバラバラ裏切られまくって絶頂期に腹心に襲われて親子ともども滅んだ馬鹿は?
0093人間七七四年
2011/09/17(土) 00:38:07.58ID:zdZTsT610094人間七七四年
2011/09/17(土) 01:22:43.80ID:5PkvPh/H0095人間七七四年
2011/09/17(土) 11:25:30.07ID:pVhxKH9L明智光秀『裏切るなんてとんでもない奴がいたもんだ』
小早川秀秋『本当にそうですよね』
『俺達は、敵を討っただけだから』
0096人間七七四年
2011/09/17(土) 23:31:08.20ID:ZoQ856XVあいつが織田と手切れを選択しなければ
武田家は生き残っていただろうに
勝頼が可哀そうだ
0097人間七七四年
2011/09/18(日) 00:03:55.07ID:2wfYVsSy0098人間七七四年
2011/09/18(日) 00:54:31.77ID:LIWJcF5L0099人間七七四年
2011/09/18(日) 01:28:06.47ID:cKQVk/l/完全に便所ひきこもりオヤジが無能だな
0100人間七七四年
2011/09/18(日) 06:10:25.07ID:9u1tpoJb0102人間七七四年
2011/09/18(日) 09:09:43.74ID:LIWJcF5L→息子たち全員無能な
0103人間七七四年
2011/09/18(日) 18:31:30.62ID:cnstVtI9昌幸の城に行ってたらどうなってただろう。
0104人間七七四年
2011/09/18(日) 18:59:25.81ID:mpqTwPJs0105人間七七四年
2011/09/18(日) 19:17:42.87ID:wRfRn9Fl朝倉景鏡みたいなマネして助かると昌幸が思うとでも?
0106人間七七四年
2011/09/18(日) 20:17:33.40ID:2040RLd+実際史実でもなんもしないまま織田に属した訳だし
勝頼の首の功績を求めるとかみたいな事しなけりゃ
0107人間七七四年
2011/09/18(日) 20:54:02.72ID:LIWJcF5L実際はその後すぐ光秀に襲われて織田なんぞ乞食レベルに没落したくせにw
0108人間七七四年
2011/09/19(月) 08:41:48.60ID:P1EHmUI2毛利戦線もこの時期にはさして厳しかった訳でもないし
0109 忍法帖【Lv=23,xxxPT】
2011/09/19(月) 12:40:19.23ID:nY6xbSZ+0111人間七七四年
2011/09/19(月) 13:37:09.21ID:xdSYq6pW0113人間七七四年
2011/09/20(火) 11:50:34.41ID:e80WhcAuみなの期待を裏切って陣没した信玄公だろ
0114死
2011/09/21(水) 06:55:18.42ID:J/dWWioE昌幸が簡単に勝頼差し出すとは思えないんだけどな
関ヶ原でも圧倒的に不利な西軍につく奴だし
織田相手にも戦ったと思うけどね
0115人間七七四年
2011/09/21(水) 07:04:38.88ID:GoM3+RbD大将の毛利があこまで名前負けのチキンとは誰も思ってなかったからな
毛利両川が東軍で毛利本隊が戦闘力に入らないなんて後世じゃないとわからんよ
0116人間七七四年
2011/09/21(水) 07:39:12.02ID:cO/iIDeX近畿圏を西軍に抑えられてた訳だし
そんな状況ですら信幸を保険として東軍に付かせてた訳なんだから
0117人間七七四年
2011/09/21(水) 07:58:26.96ID:JM2oV5Baアホかお前
それこそ親子同士で斬り合いになるほどの激論を交わしたらしいぞ
ボケてるのか
0118人間七七四年
2011/09/21(水) 08:22:42.66ID:cO/iIDeX信幸いい奴過ぎるだろう
そもそも家臣とかの事全く考えずにあんな状況の勝頼を無条件でたすけようってのは人の主としてはクズだろ
0119人間七七四年
2011/09/21(水) 08:26:15.28ID:i2GYyZLy0120人間七七四年
2011/09/21(水) 08:30:50.41ID:cO/iIDeXそもそも真田はそこまで武田と長い関係じゃないんだから
むしろそこらへんが勝頼が真田にいかなかった理由かもしれんし
0121人間七七四年
2011/09/21(水) 09:22:06.63ID:tbbmVwQ+まぁゆるぎない事実だから仕方ないな
0122人間七七四年
2011/09/21(水) 18:30:56.08ID:fIwh5U0i0123人間七七四年
2011/09/21(水) 20:26:45.82ID:7rs8OChPだが、村上義清を相手に二度の大敗をして重臣を失い
完全に信濃攻めが頓挫していた武田家を、
一躍、甲斐の虎(二代目)に仕立て上げたのが真田家だしなぁ。
昌幸だって幼い頃から信玄の近習として仕え、
信玄に我が眼と評された程の人物だし、勝頼が頼っても不思議はない。
まぁ、信玄の従兄弟で文武にも優れた重臣筆頭(独立領主説も)の小山田信茂には及ばないけどね。
0124人間七七四年
2011/09/21(水) 21:29:36.69ID:esE7b6kD勝頼が昌幸のもとへ行き、昌幸が戦うとして、織田はどうするだろうか?
>>111
保科は信忠軍が高遠城に迫った時、織田に寝返ろうとしていたみたいだよ。
信長公記に「保科はここ(高遠城)で、城に火を放って織田方に転じようとし、この計画を小笠原信嶺のもとへ夜中に知らせてきたが、これを信忠に知らせる時間もなかった」
って書いてある。
0125人間七七四年
2011/09/21(水) 23:26:42.59ID:pfQolBQbあの時期に勝頼が岩櫃まで行くのは困難だから却下。って判断だろ。
0126人間七七四年
2011/09/21(水) 23:43:32.10ID:esE7b6kD井伊直政が秀吉の家来となった石川数正を見たときと似たような気持ちだろうか?
0127人間七七四年
2011/09/21(水) 23:45:19.91ID:JM2oV5Baその時二人はどんな会話したとかの史料はないの?
0128人間七七四年
2011/09/22(木) 00:15:40.43ID:DlNWIy+R秀吉が井伊を茶会に招待した。
そこには石川がいた。
そこで井伊は「主君に背いて殿下(秀吉)に従う臆病者との同席は断る」と言った。
0129人間七七四年
2011/09/22(木) 01:17:40.01ID:uyn6mXBkその説は根拠が無いし、保科勢は二の丸で戦っているから、どうもおかしい。
脱出の経緯には、森長可に騙されたとかいう説や、捕縛された後逃げたという説もある。
0130人間七七四年
2011/09/22(木) 01:51:53.57ID:DlNWIy+R信長公記に書いてあるんだよ
0131人間七七四年
2011/09/22(木) 01:55:16.37ID:MEsH7y0z■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています