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戦国期の英雄を紹介するスレ

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0001人間七七四年2008/12/30(火) 00:47:31ID:bY1/J260
李舜臣(イ・スンシン、り・しゅんしん)
略歴 おおよそ戦国史マニアで彼の名を知らないものはモグリとされるのは勿論、
朝鮮人・韓国人で彼の名を知らない、というものは非国民扱いされるといっても
あながち過言でないくらい有名な男である。

勿論その人気は今も朝鮮半島で絶大なものがあり、水兵の世界に生きる人々の中にも彼を尊敬する者は多い。
日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた東郷平八郎も彼を尊敬していた。
当時の日本人(正確には日本政界)が韓国(大韓帝国)を植民地の対象とし、
そこに住む人民の心の痛みを顧みないほどに軽く見ていたことを考えれば、
軍人と軍人の世界とはいえこれはなかなか特筆に価しよう。
はっきり言って李舜臣は悲劇の英雄である。

勿論それが彼の名声を高めているのはやはり日本も朝鮮・韓国も中国も同じアジアの人間である(笑)。
1576年に32歳で科挙の武科試験(この時落馬で骨折しながらも柳の木皮で折れた足を縛る不屈の精神で
試験を続行したエピソードを持つ)に合格して軍人の仲間入りした舜臣だが、これは当時としては遅咲きらしい。
順調と言えないスタートを切った舜臣はその後妬みや濡れ衣の為に相次ぐ左遷と、親友にして旧友にして
左議政(今日の首相)である柳成龍(ユ・ソンヨン、りゅう・せいりゅう)の引き立てによる返り咲きとを繰り返す。

舜臣が水軍を率いて対日戦線に従軍したのは48歳のときだが、
その5年前にも彼は外敵と戦っている(鹿屯(ノクトン)島の戦い)。
戦った相手は後に中国で覇を唱えた清を建国した女真族である。
この戦いにも彼の活躍と悲劇が見られる。この戦いにて彼は
左足の踵に矢を受けながらそのまま戦い続けて敵を撃退するという
ギリシャ神話のアキレスも吃驚の奮闘をする(笑)。
そして上官の李鎰(イ・イル、り・いつ)に兵力増強を何度も要請するが無視された。
この時既に彼は妬まれていた様である。

援軍の来ない鹿屯島に女真族の一派である兀良哈(オランケ)の猛攻を受けた舜臣は敵将を討ち、
撃退した上に捕虜となっていた味方を数多く救出したが、馬鹿にならない損害を蒙った。
李鎰はその責を舜臣に嫁して斬罪に処そうとしたが、舜臣は李鎰の非と自らの功績を主張して刑に服さなかった。
舜臣は斬刑は免れたものの一兵卒に落とされた。当時の一兵卒は白衣(当時の日常服)が軍装だったので、
これを「白衣従軍」という。そして舜臣の白衣従軍の屈辱はこれで終らなかった。

しかし捨てる神あれば拾う神ありである。秀吉軍侵攻の前年に朝鮮では
日本の侵略がないとする意見が大勢を占めながらも申し訳程度の防備増強が為され、
日本に近い海域に有能な武将を配置した。この時前述の柳成龍が全羅道水域の守備に
舜臣を全羅左水使として抜擢する(持つべきものは友達である)。
この抜擢は七階級も特進した大昇進であり、当然の様に群臣の批判の声が上がったが、
舜臣の力量を正しく評価していた宣祖王(第14代李氏朝鮮王)がその声を沈めた。

任地に着いた舜臣は即座に兵器と軍紀の実情調査を行い、その整備を怠ることなくやがて日本軍の侵攻を迎えるのである。

文禄 約ニ百年の泰平に慣れた上に、政府上層部の大半が日本は侵略してこないとたかを括っていて、
更には両班の腐敗体質から民衆の支持を失っていた朝鮮は日本軍上陸(1592年4月12日)二十日目で首都開城を蹂躙され、
七十数日後には二人の王子が捕らえられ、先鋒加藤清正軍が兀良哈に達するほどの不甲斐なさだった。
そんな惨めな陸上戦の一方で李舜臣率いる水軍は上陸の二十五日目に
慶尚道玉浦(オクポ)・合浦で藤堂高虎率いる日本水軍を撃破し、開戦以来最初の勝利をもたらす。
ちなみに同じ水軍でも慶尚右水使元均(ウォン・ギュン、げん・きん)は戦わずして逃げいている。
朝鮮軍をなめ切っていた日本軍の間にあっても「李舜臣」の名は早くも侮り難い敵将として知り渡り、
李氏朝廷はこの戦功に嘉善太夫(従二品)の位階を授けた。

物量に勝る豊臣軍はその後も水軍を建て直してはかかってくるが、
舜臣はゲリラ戦で日本水軍を撹乱する。周知の通り、日本軍の補給は大打撃を受け、
陸上戦の快進撃にも歯止めがかかる。連戦連勝と全羅右水使にしてよき後輩である
李億祺(イ・オクキ、り・おくき)の援軍に気勢を上げた水軍を率いた舜臣は
元均・李億祺とともに1592年5月29日に唐項浦(タンハンポ)沖に急襲を敢行し、
豊臣水軍の軍船26艘を沈める完全勝利を得た。またこの戦いは有名な亀甲船(クプクソン)のデビュー戦でもあった。
現物が一つも残っていないのでいまだに謎の多い亀甲船は元々兀良哈対策に舜臣が考案した者らしい。

0002人間七七四年2008/12/30(火) 00:48:15ID:bY1/J260
大敗を喫した豊臣軍は見乃梁(キョンネリヤン)海上に軍を終結させた。
ここは暗礁が多く、大船を動かし辛い海域で、点と線の戦いに慣れていても面の戦いに慣れない日本軍は地形を頼りとした。
だが舜臣は7月8日に数艘の板屋戦船で巧みな挑発を行い、
脇坂安治の水軍を誘き出して突出した脇坂水軍を「鶴翼の陣」で包囲して撃滅。
脇坂は僅か13艘で釜山方面に敗走した。この完勝により舜臣は正憲太夫(正ニ品)を授かった。
翌日には加藤嘉明・九鬼喜隆といった豊臣水軍生え抜きの二将も敗れる。
この間陸上線では朝鮮軍は苦戦を続け、朝鮮側では翌年8月に李舜臣を
忠清道・全羅道・慶尚道の三道水軍統制使に任じて水軍を託すと一方では和平工作を進めた。
ここに文禄の役は一持休戦の形で終結する。

慶長 休戦中、李舜臣を恐れた豊臣軍は対馬の人・要時羅をスパイとして送り込み、
加藤清正・小西行長の再来襲の偽情報を流すが、これを見破った舜臣は出撃命令に応じなかった。
そると李朝朝廷内では待っていたように舜臣を妬む群臣達により命令違反として位階を剥奪して、
彼に二度目の白衣従軍を命じた。1597年2月の事で、護送車で漢城に護送される彼を民衆は嘆き哀しんで何度も車の前をふさいだという。

5ヶ月後、舜臣抜きで戦った朝鮮水軍は巨済島沖でそれまでの快勝が嘘のような大敗を喫し、
李億祺将軍は自らの最期を悟ると入水し、元均は逃走中に豊臣軍に斬り殺された。
尚、この戦いにおいて道場主が自らの分身のモデルとした塙団右衛門が敵船拿捕の手柄を挙げ、
彼の主君加藤嘉明は内股に矢を受けたり、海中に落ちたりしながらも先頭に立って抜刀して奮戦した事をえこひいき(笑)に付け加えたい。

翌月、朝鮮王朝は大慌てで舜臣を三道水軍統制使に再任した。
白衣従軍中に老母を病で失い、末子が戦死し、多くの戦友(例:李億祺)を失い踏んだり蹴ったりの
彼に残されていたのは僅か12 艘の軍船で、しかも豊臣水軍の再来は間近に迫っていた。
が、漢(おとこ)の真価は逆境にどうあるかにある!9月16日に全羅道鳴梁(ミョンリャン)に
133艘の敵船を迎えた舜臣は潮の干満を利用して豊臣水軍を翻弄し、敵船31艘を沈めて西進を阻んだ。
10倍の敵を迎え撃って、自軍の3倍近い敵船を沈めた勝利を快勝と言わずしてなんと言おうか。

約1年2ヶ月を経た1598年11月18日に豊臣水軍は鳴梁戦の復讐戦とも言うべき戦いを露梁(ノリャン)にて
500艘の軍船を率いて挑んできた。朝鮮・明の連合軍は200艘で迎撃し、これを撃破した。
既に3ヶ月前に豊臣秀吉が没しており、ここに最後の海戦も終結し、李舜臣は、朝鮮軍は国土防衛に成功した。
しかしながらこの最後の戦いにおいて天運彼に味方せず、舜臣は流れ弾に胸板を貫かれ、致命傷を負った。
舜臣は盾でもって自分の周囲を囲わせ、駆け寄る甥(兄の子)李莞(イワン)に「戦闘中だ!俺の死を知らせるな!」と言い残して、
既に敗走を始めた日本水軍を見ながら舜臣は息を引き取った。最期の最期まで国防を考えて迎えた激死だった。

供に戦った明の水軍提督 (ちんりん)は粗暴な性格で知られ柳成龍は舜臣との衝突を懸念するほどだった。
舜臣がうまく彼に譲って衝突を避けていた事もあったが、舜臣の死を知ったは三度船上に座り込んで慟哭したという。

戦後 李舜臣の死の七年後、民衆の手によって廟が建てられ、舜臣の画像が祭られた。
前述の東郷平八郎を含め多くの水軍の世界に生きるものが彼に敬意を表し、
日本の中学校の歴史教科書にすらその名を現し、李氏朝鮮国王の名を一人として知らない人間でも李舜臣の名は知るものが多い。

現在釜山市の龍頭山公園に建つ李舜臣像は日本への窓口とも言える彼の地にて日本を睨む方角で建てられている。
話は逸れるが、中国三国志の有名軍師・諸葛孔明はその死に際して漢中の定軍山に自らを葬るように遺言し、
蜀皇帝劉禅は「孔明は死して尚、魏を見張るつもりか…。」と言って、その遺言に従った(「供え物不要」の遺言には従わなかったが)。
諸葛孔明と李舜臣は外敵と戦い、国を守った士として、死後も外敵を監視する役を担った
(または担わされた)わけだが、両者の諡号(しごう:死後に故人の功績に対して贈る名前)がとも 
に「忠武」であるのは果たして偶然だろうか?孔明の事を知る後世の李氏朝鮮王朝が
それにあやかって救国の英雄・李舜臣に送ったと薩摩守は見ているが如何なものだろうか?

ともあれ、その功績を称える声が朝鮮半島においてやむことはない、恐らくは半永久的に……。
0003人間七七四年2008/12/30(火) 01:04:30ID:bY1/J260
ここ数年で日韓関係が変化してきている。以前に比べるとぎすぎすした感じは薄らいできた
ようである。しかし、日本人政治家の発言などをみる限り関係改善に寄与しているのは、先進
国の仲間入りを果たした韓国人の自信と余裕によるのであろう。「日本文化解禁」や韓国映画
のヒットなどはその端的な例といえる。
0004人間七七四年2008/12/30(火) 02:35:02ID:nZ7SANx5
なんだこのバカスレは
0005人間七七四年2008/12/30(火) 04:42:04ID:9m+U9Ab3
戦国期の英雄を紹介するが口実にしか見えない件
0006人間七七四年2008/12/30(火) 05:03:40ID:33nseAY1
在日乙
0007人間七七四年2008/12/30(火) 05:54:39ID:CJmIP/pA
>>1-2
この時代のほとんどの朝鮮人が腐ってたということがわかりました。
0008人間七七四年2008/12/30(火) 06:45:16ID:kVFKhsef
水神・李舜臣の前に無力な秀吉水軍であった。
0009人間七七四年2008/12/30(火) 09:03:39ID:33nseAY1
朝鮮人はこんなに強いニダ!!
<ヽ゚д゚>ノ
朝鮮人の数々の戦績!

◆神作譲(帰化人。犯行時は小倉)足立コンクリート惨殺事件犯人。親は三郷在日部落の名主
◆都○洋(在日。犯行時は別姓)同上犯人。現在、在日暴力団極東会構成員
◆和田慎一郎(帰化人)早稲田大サークルによる集団婦女暴行事件主犯
◆林ますみ(帰化人)和歌山毒入りカレー犯人
◆織原誠二(在日。金聖鐘)英国人ルーシー・ブラックマン殺害犯
◆李昇一(在日)『ガキの使い』騙り140人以上の女性をレイプした強姦魔
◆金保(在日。通名は永田保)多くの少女を強姦した鬼畜牧師。朝日新聞は通名のみで報道
◆酒鬼薔薇聖斗(在日。通名は東慎一郎)神戸の淳君首切り犯
◆郭明折(在日)韓国キリスト教の宣教師。連続強姦魔で少女含む被害者100人以上
◆金大根(在日)連続児童虐待の強姦犯。女児6名が死亡
◆金弁植(韓国籍)韓国の強姦犯で指名手配中に逃亡目的で来日、日本で主婦100名以上をレイプ
◆李東逸(韓国籍)檀国大学教授。芝居観覧のため来日中、日本人女優Nを強姦
◆沈週一(在日)各地でベランダから女性の部屋へ侵入し9人を強姦
◆張今朝(在日)長野で『一緒に猫を探して』と小学校4年生の女性をレイプ
◆ペ・ソンテ(在日)女子小学生14人をレイプ
◆宋治悦(在日)主婦19人を強姦
◆崔智栄(在日)朝鮮大学校生。木刀で傷を負わせ、少女2人を車の中で強姦。他に在日と朝鮮籍の共犯者有り
◆鄭明析(在日)韓国人カルト『摂理』教祖。日本人1000人、台湾人100人、米英仏人などを強姦
◆宅間守(両親が朝鮮部落出身)池田小学校大量殺人犯
◆野田孝行(帰化人)脱北者支援という名の民団の密入国工作員。中国にて拘束
◆ホソクミュン(韓国籍)密入国元締めの一人。対馬で逮捕
◆金平和(在日)女性をバックに入れて拉致監禁、強姦。別女性も6日監禁および強姦
◆オウム真理教事件全般(オウムは朝鮮カルト)麻原並びに幹部はコリアン
…等々、他多数
0010人間七七四年2008/12/30(火) 13:09:58ID:7Maoa36h
朝鮮人はどこの国でも犯罪を犯しても許されなければいけない!
朝鮮人以外はクズ!
糞舐め民族朝鮮人!
0011人間七七四年2008/12/30(火) 16:40:40ID:fueyafAk
英雄と言えば
雑魚チョンを蹴散らした加藤清正だろ

0012人間七七四年2009/01/01(木) 03:54:39ID:pINKUC3h
島津義弘を忘れてもらっちゃ困るぜ
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