【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
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0001名無しめじ
2008/08/29(金) 20:34:50ID:/tFttwQy0002名無しめじ
2008/08/29(金) 20:37:45ID:/tFttwQy本読んだら、鍋島直茂は怪力で敵兵300人は倒したらしい
0003人間七七四年
2008/08/29(金) 20:52:50ID:TKcFxFQc0005人間七七四年
2008/08/29(金) 21:01:14ID:CLxA5PH50006人間七七四年
2008/08/29(金) 21:06:54ID:bhFSpqX3・沖田畷後の竜造寺家を滅亡の淵から救う
・簒奪成功
後は何かあったの?
0007人間七七四年
2008/08/29(金) 21:10:18ID:JRDHq7NS鍋島直茂は怪力で、今まで300人の敵を倒したらしい。
0008人間七七四年
2008/08/30(土) 03:27:47ID:/zveb9amそれでも充分すげーだろww
0009人間七七四年
2008/08/30(土) 10:11:04ID:qx7hvA8j0010人間七七四年
2008/08/30(土) 11:19:33ID:tNzXIThIまぁそう言われるとそうだったな
大名家を乗っ取るには十分な功績だ
>>9
お前がやってみろwwwwwww
0011人間七七四年
2008/08/30(土) 13:45:15ID:k9v7a/E80013人間七七四年
2008/09/02(火) 13:41:40ID:TJ2iAjFP焼き物
0014人間七七四年
2008/09/02(火) 16:34:50ID:CTNq4oCg>>11じゃないけど返答。
朝鮮侵略の時は首の代わりに鼻をそいで秀吉の下へ送り、その量で武功が決まっていた
数多くの大名家が鼻を送ったが最も多かったのは鍋島家だったという…
0015人間七七四年
2008/09/02(火) 19:24:16ID:WzPR5zR60017人間七七四年
2008/09/05(金) 09:28:50ID:opip0/Jp0018人間七七四年
2008/09/05(金) 10:34:33ID:8BJcxSKl華々しい活躍だけが武功ではない。
0019人間七七四年
2008/09/06(土) 00:40:50ID:Ae8Ch8Eh正規の兵じゃないのも入ってるんじゃないのそれ。
民間人とかもさ。
そんなにずばぬけて敵兵殺すか捕らえるかすれば何かしら活躍話があるだろ。
0020人間七七四年
2008/09/07(日) 10:38:39ID:JNRDa2r20021人間七七四年
2008/09/07(日) 10:43:52ID:6wP8TJBDhttp://sf01.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000170710030001
0022人間七七四年
2008/09/07(日) 11:00:27ID:oKj/ZogO0023人間七七四年
2008/09/08(月) 05:39:03ID:kwBZ7Vn/加藤清正、立花宗茂、島津義弘
住民虐殺鬼畜男
鍋島直茂
0024人間七七四年
2008/09/08(月) 16:31:36ID:PIiVoyhs孔子「その通りだ」
弟子「しかし逆に童貞は女に気持ち悪がられます」
孔子「確かに」
弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」
孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」
弟子「では30年も侵入を許していない砦は相当頼もしいのでしょうか?」
孔子「建てられてから30年も経つと、砦はどうなるかね?」
弟子「多くは朽ち果て、場合によってはうち捨てられます」
孔子「そのような砦を攻める者はいないということだ」
0025人間七七四年
2008/09/10(水) 09:46:23ID:RD4onPws史伝 鍋島直茂 以外で。
0026人間七七四年
2008/09/11(木) 18:40:14ID:o0wxl8BC如何せん、鍋島はいうに及ばず龍造寺にも言えるが、
一般的に知名度が低いもんで、
北部九州以外でそれらについての本を探すのは殆ど不可能。
然るに小生佐賀まで買いに行った次第。
以下、購入できたものをご紹介奉る。
@「日峯さん 佐賀藩祖鍋島直茂の日日 田中耕作著 佐賀新聞者刊」
A「初期の鍋島佐賀藩ー藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことどもー 田中耕作著 佐賀新聞社刊」
B「五州二島の太守 龍造寺隆信 川副博著 佐賀新聞社刊」
C「肥陽軍記 原田種眞著 勉誠社刊」
@は読み物的な感じで、直茂・龍造寺信周、同高房、円空尼等の話もあります。
Aは佐賀藩のシリーズもの、4冊(初期〜幕末)の内に1冊。直茂の野望みたいな書き方してます。
Bはやっぱ龍家無しには・・・ということで、南北朝争乱から沖田畷まで、細かく資料を提示しながら書いてます。肥前周辺の情勢、人名が豊富です。
Cは肥陽軍記の現代語訳
他に、九州の戦国争乱に関する資料としては、
吉永正春って人の本なんかがあると重宝します。大友寄りの本ですけど・・・。
以上!
0027人間七七四年
2008/09/11(木) 21:21:16ID:picTfaxlヨッシーの本は「筑後戦国史」しか持ってないな。
たまたまブクオフに有ったから買えたけど、うちの地域からすると浮いてた。
0028人間七七四年
2008/09/14(日) 09:41:26ID:2nfO9tym| | | | | \ | | | | | || |
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0029人間七七四年
2008/09/14(日) 18:55:45ID:yiAP4/TZ器は小さいが、知恵と勇気は一級品だとか。・・・微妙に当てはまるような。
0030人間七七四年
2008/09/15(月) 00:49:05ID:f8yVlZrA天下の三陪臣の逸話ですね
秀吉曰わく、
「天下は大気、勇気、知恵、この三つさえ備わっていれば難なくとれる。
陪臣の中でこのうち二つまで身につけている者がいる。
小早川隆景、直江兼続、鍋島直茂の三人である。しかし、
隆景は大気と知恵は有るが勇気に欠ける。
兼続は大気と勇気は有るが知恵が足りない。
そして直茂は勇気と知恵は有るが大気が無い。
このうち一つでも欠けていれば天下はとれぬ。」
0031人間七七四年
2008/09/18(木) 11:59:53ID:vw22k5yF0032人間七七四年
2008/09/18(木) 14:18:16ID:5VdJJIi90034人間七七四年
2008/09/18(木) 17:15:38ID:2pJ6kTIT凄いなぁ見事に予言してるわ。
0035人間七七四年
2008/09/19(金) 02:32:32ID:NmovSwPX良く言えば誇り高いような、悪く言えば鼻持ちならんような
兼続自身のエピソードと妙にリンクする逸話だな
0036人間七七四年
2008/09/20(土) 00:08:16ID:nP8k5rh3そうか?肥前を乗っ取った張本人なんだが…
0037人間七七四年
2008/09/20(土) 05:26:36ID:lxFzMifI中央進出や地方統一に乗り出すこともなく所詮田舎のローカル止まり。
0038人間七七四年
2008/09/20(土) 15:58:13ID:q2XmEH3p0039人間七七四年
2008/09/20(土) 21:40:23ID:nP8k5rh3ここまで一回も話題に出てない勝茂カワイソス。。
0040人間七七四年
2008/09/20(土) 21:51:46ID:NFx8OwhM0041人間七七四年
2008/09/20(土) 22:21:02ID:guqjN70R自分らはそれなりに権力のある親類格として収まった
なんてことを言われたりもするけどね。
0042人間七七四年
2008/09/21(日) 02:40:49ID:6EzTBu2/0043人間七七四年
2008/09/21(日) 21:28:20ID:nJP9jiPIとはいえ、それゆえ竜造寺が延命したともみるべきかまもな。
精々10年程度だたけど。
0044人間七七四年
2008/09/21(日) 22:27:40ID:S5qJqkOU多少強引でも後に傷が残っても踏み込む度胸がないと天下はとれんと秀吉さんは言ったのだろう
別に誰もが天下を望む訳ではないが
0045人間七七四年
2008/09/21(日) 23:11:05ID:inejHSIt何にしても、切っても切れない関係だから
天下盗りにはどちらの家も欠けて無いことが必要条件かなと思う
0046人間七七四年
2008/09/22(月) 01:20:31ID:sX002wdZ直茂が実質的に龍造寺家を乗っ取ったのは沖田畷で隆信が戦死した後なんだが、
その後は島津に半従属化してるし、秀吉の九州征伐があったりで家の存続に手一杯だったのだろう。
天下取りに乗り出すタイミングなんか無かったのでは?
0047人間七七四年
2008/09/22(月) 05:49:45ID:oqpiiboX反大友を貫き勢力を拡大したのは見事だけど強い猜疑心と慢心が身を滅ぼした
沖田で有馬や家久を討ちとっていたとしても九州統一は無理
その前に肥後で手間取る、赤星あたりに
0049人間七七四年
2008/09/25(木) 19:28:29ID:QezfMQAi龍造寺家をのっとった不忠者という評価と二つあって困るわ
0050人間七七四年
2008/09/25(木) 19:31:28ID:8Zz1VnGW0051人間七七四年
2008/09/25(木) 21:15:24ID:3AU0AhWQ0052人間七七四年
2008/09/25(木) 23:09:35ID:8Zz1VnGWありがとう
でも柳川城は天正九年まで蒲池氏の城だったと思う。
入城したのはその後だよね。
0054人間七七四年
2008/09/27(土) 18:44:37ID:nBVr2fe+0055人間七七四年
2008/09/30(火) 20:28:49ID:FABnxu2y0056人間七七四年
2008/09/30(火) 21:29:34ID:3L5VrXpF0057人間七七四年
2008/10/13(月) 09:33:50ID:5/ZrGPe80058人間七七四年
2008/10/18(土) 12:53:00ID:VIpc47es0059人間七七四年
2008/10/23(木) 23:34:43ID:FsEPZenv0061人間七七四年
2008/10/25(土) 20:53:45ID:ajb3TM6v0062人間七七四年
2008/10/25(土) 22:24:32ID:JmslW3GBおまいはイタリアか
0063人間七七四年
2008/10/31(金) 14:59:44ID:w4eUOizU島原の乱で結構やったのにな・・・。
0064人間七七四年
2008/11/02(日) 17:05:48ID:ciWv+KzOhttp://www.whitemagic-inc.co.jp/talents/nabeshima/
0065人間七七四年
2008/11/03(月) 14:54:01ID:/Gz/rE2C「ぼたもち会」には参加してるんだろうか
親父が出ているかな
0066人間七七四年
2008/11/11(火) 10:01:57ID:lncV5pa// ヽ
/ /\ |
| i| ノ \\\ ノ
i| ( i| (●) (●)ソ <じ〜ぶん〜らーしーい〜こーいをそぉお〜♪
) ( ソ ~" ) "~ |)
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 ̄` ̄ ̄ ̄ヽ ヽノ ̄ ̄´ ̄
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`\ー'"ヽ |'´
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/`ー/ ,イ
/ / |`ー/
三 ( < | /
`ー'' ノ <_
ー- '
0067人間七七四年
2008/11/11(火) 12:22:57ID:gAMMRpOO0068人間七七四年
2008/11/12(水) 04:53:32ID:hec2u0Qg0069人間七七四年
2008/11/12(水) 11:01:09ID:qjVWpO000070人間七七四年
2008/11/13(木) 06:54:30ID:m8r28XPi0071大人の名無しさん
2008/11/13(木) 07:21:10ID:2AhTGECl0072人間七七四年
2008/11/16(日) 00:07:11ID:fzet8mNn0073人間七七四年
2008/11/21(金) 12:18:24ID:4ddSqP8h0074人間七七四年
2008/11/22(土) 23:12:08ID:7UvnqOUx0075人間七七四年
2008/11/23(日) 00:42:45ID:qdL9Z+Sk0076人間七七四年
2008/12/09(火) 21:36:37ID:tOnZk34y相当なプレイしてっぞ なもし。
0077人間七七四年
2008/12/13(土) 20:46:28ID:knasXHB2昭和の御代に皇太子と美智子妃のご成婚を強硬に反対し、美智子妃を虐めた松平信子も
鍋島一族。
0078人間七七四年
2008/12/17(水) 21:04:14ID:tYwytO7q0079人間七七四年
2008/12/26(金) 20:28:12ID:gLe6n5Rp0080人間七七四年
2008/12/31(水) 12:42:31ID:wIGbbOz+やっぱこの男も宗茂みたいに大男なの?
0081人間七七四年
2009/01/03(土) 21:22:47ID:2zer0bpe0082人間七七四年
2009/01/15(木) 14:58:55ID:dCZ1xahp0083人間七七四年
2009/01/15(木) 16:29:02ID:SWyi5VvV@真田が成功した罠
0084人間七七四年
2009/01/15(木) 22:48:40ID:H6p7VZOu0085人間七七四年
2009/01/17(土) 03:42:29ID:j5fSDnFy諫早家や武雄家などは鍋島藩の政治の中枢にいるし、藩主家も
藩内の一門や龍造寺ファミリーに気を使わねばならず、直轄領が
少なくなってしまっていたというしな。
0086人間七七四年
2009/01/17(土) 23:35:06ID:L0W9dO/4{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;;、
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;>
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f. そんな風に思っていた時期が
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `! 俺にもありました
0087人間七七四年
2009/02/02(月) 10:26:11ID:sRD+42MO0088人間七七四年
2009/02/02(月) 19:22:42ID:ajtBjnz0関ヶ原の時の筑後攻めでも三万以上動員してるし
0089人間七七四年
2009/02/04(水) 01:07:50ID:M7tLJolk0090人間七七四年
2009/02/05(木) 00:27:34ID:crNyGffC0091人間七七四年
2009/02/07(土) 15:08:27ID:CQEzuzfq実際の筑後攻めの動員兵力は、大体2万人ぐらいらしい
それでも1万石当たり550人ぐらい動員した計算になるが。
0092人間七七四年
2009/02/08(日) 08:57:48ID:4vkPR2sz輩出した気風を育んだのが一番の功績か
大隈自身は、それらを尊重しつつも、時代的には
葉隠れクソ食らえだったらしいけれど
0093人間七七四年
2009/02/08(日) 13:28:28ID:+7pcGLlB金融、司法、教育、外交の基本を作っている。
つまり今の日本は佐賀が作っている。
0094人間七七四年
2009/02/09(月) 12:01:27ID:ynkZ7HII薩長土肥の肥はおまけで鍋島自体は維新に後向きだった。
0095人間七七四年
2009/02/09(月) 14:22:19ID:rjeFLCii軍事力をてにいれ、戊辰戦争では連戦連勝で
日本を統一している。
0096人間七七四年
2009/02/10(火) 11:03:07ID:NiwxS0z7政治や軍事の美味しいとこは薩長に持ってかれたような
0097人間七七四年
2009/02/10(火) 12:50:13ID:CJkpV7VH対し佐賀藩は7連発スペンサー銃、アームストロング砲、
臼砲連隊という西洋の1流国並の装備だった。
戊辰戦争で薩長が敗走を繰り返したのに対し佐賀藩は無敗で
函館までいっている。
0098人間七七四年
2009/02/10(火) 15:02:55ID:rdEzLBTj【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
鍋島直茂・勝茂についての結論は化け猫だった。
0099人間七七四年
2009/02/11(水) 10:51:46ID:aefh8R4j鍋島が島津のために頑張ればというか、不利な状態で時間稼ぎしただけで
直茂は大阪で秀吉に会い、島津攻めに協力すると申し出ている
0100人間七七四年
2009/02/11(水) 11:18:15ID:RVIaLl8y0101人間七七四年
2009/02/11(水) 19:32:35ID:AKQwGBPL0102人間七七四年
2009/02/11(水) 19:39:26ID:NbkmAl7c島津に味方することはないな。
0103人間七七四年
2009/02/24(火) 10:10:40ID:/9tRcubb朝鮮での鼻削ぎやら原城の虐殺やら血は争えな
0104人間七七四年
2009/02/24(火) 17:13:24ID:qGYUjEQa0105人間七七四年
2009/03/09(月) 16:45:55ID:V2nxaHR/鼻削ぎは他の大名家もやっているよ。
あと、原城については
「皆殺しという事にして(ry」
という疑惑がある。
0106人間七七四年
2009/03/09(月) 17:08:07ID:2k/H8Rkm役目済ましで送る兵数じゃない
0107人間七七四年
2009/03/09(月) 20:10:30ID:Fb5xaO1b0108人間七七四年
2009/03/11(水) 01:22:10ID:+kRM6bzt0110人間七七四年
2009/03/13(金) 21:49:04ID:jj0iFRMM鍵を握ってるのは隆信の母慶ァ尼ですな。
この人が凄いのは夫に先立たれ髪をおろして尼になったにも関わらず
龍造寺家の行く末を案じ鍋島家との絆を強めるために自ら家臣の鍋島清房
と再婚したことである。
吉岡妙林尼、立花ァ千代と並び称される戦国九州の三女傑の一人である
ことは間違いないでしょう。
0111人間七七四年
2009/03/15(日) 15:24:54ID:cGEVvuIG>ことは間違いないでしょう
慶ァ尼を妙林尼、ァ千代と一緒にするとは鍋島が考えそうなことだなw
0112人間七七四年
2009/03/25(水) 20:45:39ID:HAbnDCczイギリスは、薩摩の砲台は全部破壊し尽くしましたが、上陸しての白兵戦は行いませんでした。
中国(アヘン戦争)では、上陸したうえで相当に内陸部深くまで攻め入り、文章にするのもおぞましいほどに、かなり酷い振る舞いをしました。
(インド⇒中国の英国戦略は、陳舜臣さんの「阿片戦争」参照…で良かったと思います。記憶が正しければ…^^;)
しかし、日本では…薩摩「示現流」の武士を相手に白兵戦をするのは余程に恐ろしかったらしく、砲台を破壊するに留めて、あとは外交で解決する道をとりました。
(⇒この話は司馬遼太郎さん「竜馬がゆく」参照)
0114人間七七四年
2009/03/31(火) 17:27:01ID:94PZAu5s>「葉隠」の説く武士道を考える
> -「葉隠」武士道の犬死理論の陥穽-
>著作と責任/佐藤弘弥
http://www.st.rim.or.jp/~success/hagakure_ye.html
佐藤弘弥なる視野狭窄な御仁による珍葉隠論。
珍文章のしょっぱなから、ヒステリックなオナニー全開である。
「ヤンキースのマツイ」のたとえだとか、
そこらの中学2年生も感涙にむせびそうな、すばらしい思考のお綴りである。
この特大場外ホームラン級の知性が書いた小児的ファンタジーが
ネットで上位にひっかかり、目に★な方も多いだろうから、
とりあえずこのスレで駆除しておく。
377 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 22:47:23
>>.374
佐藤弘弥(笑)
空き樽は音が高いっていうか、キジも鳴かずば打たれまいに・・・
閑古鳥が鳴くサヨ系じゃんじゃんで市民記者を
しょぼしょぼやってればええのに(笑)
【検索ワード】
葉隠、佐藤弘弥、馬鹿、思い込みの禿しい爺さん、三島由紀夫
武士道、山本常朝、田代陣基、新渡戸稲造
0115人間七七四年
2009/04/05(日) 14:08:48ID:y67U7qAZ宗茂と腐れ縁なのは龍造寺家晴の方だな。
関ヶ原での柳川攻めにも家晴は参加してるし。
0116人間七七四年
2009/04/06(月) 17:36:58ID:McCTcHaK両方とも筑紫方面で長い間対陣していた訳だし
自分が若ければ鍋島なんかに負けはせんみたいな事言ってるし
0117人間七七四年
2009/04/08(水) 23:30:47ID:OccUJ61y道雪の場合は秋月種実じゃね?
ただ、遺言の内容から道雪が家晴を恨んで死んだのは分かる。
0118人間七七四年
2009/04/13(月) 10:13:57ID:dmUdeTiOhttp://www.mukogawa-u.ac.jp/~seibiken/2-teirei-18.htm
0119人間七七四年
2009/04/16(木) 20:04:29ID:QPU8kvwN「すいません、上にある鍋島直茂取ってもらっていいですか?」って話し掛けられた
ウドの大木という形容がよく似合う俺が、棚に手を伸ばしつつ「MGのF2ですね、甲冑ver.ですか?」と尋ねたら
「オフッwww直茂って言ったら家老しかないじゃないですかwwオフフwww
甲冑なんて忍びねぇwwwwオホフww忍びねぇよウフフwww」
とかテンション急上昇されて怖かったので、「佐賀藩よ」って言って逃げてきた
0120人間七七四年
2009/04/25(土) 15:55:44ID:PdvtfYph0122120
2009/05/01(金) 20:33:51ID:G3uDBCS7レスありがとうございます
鍋島氏は鍋島に居住する前は、長岡氏を称してたようですが
鍋島に下向した際には、長岡天神から分祀して館内で祀ってるのに改名しています。
また天神様を態々長岡から分祀してるのは、何か特別な理由があるのでしょうか?
鍋島家は神仏をとてもよく敬ってるように思えるのに、以上の事が不思議です。
0123人間七七四年
2009/05/12(火) 18:52:22ID:LX3uO1WW鍋島氏の出自が長岡氏ってのは詐称だよ。
本当は鍋島村の地侍上がりっぽい。
0124人間七七四年
2009/05/14(木) 22:07:17ID:2zh+tFA7有難うございます。
では直茂の祖父、鍋島清久の頃なら問題ないですかね
清久は妻として野田大隈守の娘を娶ってますが、三瀬の野田氏は
すでに三瀬氏に改名(1409年)してますので、この野田大隈守とは誰なのかという疑問が生じます。
三瀬に野田氏が居住して100年以上経過し、分家した形跡もなく改名してるのは、野田氏の本筋が現れたからではないのか?
もしこの野田大隈守の祖がそれに当たるなら、鍋島氏口伝による長岡から下向というのも否定出来ないのではないか
と考えてみたのですが如何でしょう
0126人間七七四年
2009/06/01(月) 18:29:29ID:PpwLFxHz0127人間七七四年
2009/06/30(火) 19:48:49ID:UDiKZJ5l関ヶ原の戦いが終わった後の出兵だから、領有化なんて無理。
それに、宗茂は柳川城に籠城していた訳で、
兵力はいくらあっても不足はない。
0128人間七七四年
2009/07/16(木) 00:02:09ID:U2AWe+0V0129人間七七四年
2009/07/16(木) 17:26:11ID:9khlO4tk0130人間七七四年
2009/07/16(木) 17:56:51ID:Bme2AkJq直茂が溺愛したのは、勝茂の弟・忠茂だった。
0131人間七七四年
2009/07/16(木) 19:03:03ID:wQdoSzws俺も彼の息子に産まれたかったわ。
お爺ちゃんは哀れ過ぎて合掌するしかない・・
0132人間七七四年
2009/07/17(金) 08:25:41ID:uH/yOUDc祖父はどういった理由で哀れだったの?
0133人間七七四年
2009/07/19(日) 22:19:46ID:3GP6pifB0134人間七七四年
2009/07/19(日) 22:27:48ID:3GP6pifB島津が怖くて怖くてたまりませんでした
ワタシは島津にかないませんので騙して存命しましたヘタレ大名です WWW
0135人間七七四年
2009/07/21(火) 14:04:09ID:S5a1NPRo0136人間七七四年
2009/07/23(木) 19:11:14ID:GUeY41BMパパが可愛そう。
0137人間七七四年
2009/08/20(木) 10:00:50ID:OVQafhXo0138人間七七四年
2009/08/20(木) 11:03:19ID:CAVyAcVR不思議。堀涙目
0140124
2009/08/24(月) 17:56:13ID:h7xJ2n6/@坊門家末裔説
北部九州の各地で荒神信仰があるが、これは瀬戸内海沿岸地方でも多く見られ特に岡山県が最も盛んであったようである。
その岡山県笠岡市にある真鍋島という島には荒神社があるが、大納言の藤原氏が移り住んだという言い伝えがあるようだ。
この藤原氏に該当する者は見当たらないが、この頃断絶している坊門家がこれに当たらないだろうか?
また鍋島家は江戸時代、品川の海雲寺境内に千躰荒神を祀って事から荒神信仰を継承している事が分かる。
以上の事から、真鍋島の藤原氏が佐賀に下向して鍋島と称したと考えられないだろうか?(こじつけかなw)
A熱田社家長岡家説
14世紀半ば、中島郡鈴置郷の熱田社領を妙興寺に寄進した際の文書から藤原清重という大宮司を確認できるが
この寄進された熱田社領は現在の愛知県稲沢市祖父江町付近であり、地名には長岡や鍋島、野田といった所も確認できる。
また同時期の熱田社家には長岡家というのがあったらしいが、この長岡氏が清重末裔と共に下向した可能性はないだろうか?
B米原市長岡の息長氏末裔説
後鳥羽上皇の近臣だった藤原能茂(熱田大宮司篠田家)の子孫が後鳥羽院御影堂領の管理をしており
息長氏末裔と共に下向した説。
可能性として一番高いのはAの説になるが、長岡京に熱田社家の長岡氏が居住していた事を裏付ける物はないが、
西岡被官衆には野田氏がおり熱田の流れを汲む可能性があるが、いまだ未確認。(長岡京市史を物色中w)
※余談だけど、文永の役で少弐景資の配下に見える篠田氏、多々良浜の合戦で南朝方に見える星野氏
少弐氏の庶流と言われてる筑紫氏などが、官位や家紋の一致により熱田大宮司家の可能性が出てくるんだよなぁ
0141人間七七四年
2009/08/24(月) 18:20:15ID:+bVDLrzi葉隠自体が、裏付けのない証言集だから。
佐賀藩も葉隠は禁書扱いだし。
まあ、堀直政を天下の三陪臣と一人としている
「名将言行禄」も信憑性は低いけどな。
0142人間七七四年
2009/08/25(火) 08:06:25ID:wEPH2SrKもともとどの記録が一番古いからわからないが、明治時代の名将言行録まで
いかずとも、江戸時代の書物にも三陪臣の話は出てる。
18世紀末の米沢藩の記録では直江と小早川しか出てこないが、形はだいたい
同じ。
0143人間七七四年
2009/08/25(火) 12:12:03ID:HxtKg3T30144141
2009/08/25(火) 22:49:25ID:A9wOIJe5>天下の三陪臣と一人としている
じゃなくて
>天下の三陪臣の一人としている
だった。打ち間違えた。
しかも「名将言行録」も間違えてるし・・・。
本当に申し訳ない。
0145人間七七四年
2009/08/29(土) 18:53:55ID:zcaWbJCu0146人間七七四年
2009/09/23(水) 21:50:53ID:rc4gZNAxhttp://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1424963.article.html
0147人間七七四年
2009/10/21(水) 01:43:20ID:TI1TTq+Y0148人間七七四年
2009/11/14(土) 06:57:46ID:QPki74a00149人間七七四年
2009/11/18(水) 07:38:52ID:aEWFXfEG粟田口一派によって作られた物のようだけど、肥前の地侍が簡単に手に入れれる代物なのかなぁ
0150人間七七四年
2009/11/18(水) 08:49:06ID:cix2wyYC話は変わるが>>146を見に行ったが拝観料300円とは
1時間以上もかけて行く価値もなかった
0151人間七七四年
2009/11/18(水) 12:37:09ID:aEWFXfEG肥前の歴史って研究してる人っていないのか?
偶然ばかりで片付けられないだろw
0152人間七七四年
2009/11/18(水) 12:43:12ID:a+9B+5Cm有馬晴純なんて大村、松浦、志岐、千々石に養子出したみたいだけど波多親も実子だって説もあるみたいだし。
0153人間七七四年
2009/11/18(水) 19:58:53ID:aEWFXfEGウィキによると国光作の太刀がもう一口、松原神社から行方不明になってる
勝茂伝の太刀は村正作だし筑前、筑後の刀鍛治が作った物が全くないのも、偶然だろうか
このほか、秀吉や家康に謁見した際に献上した刀もあったのだろうか?
0154人間七七四年
2009/11/18(水) 21:00:17ID:OOKNik35鍋島は主家筋から国を乗っ取ったし、ついてきた者の中には
土豪の人もいて取り入る為に刀ぐらい献上する人もいたろう。
徳川に系図譲った吉良みたいなもんだよ。
0155人間七七四年
2009/11/18(水) 21:16:22ID:OOKNik35むしろ大大名と類される家の当主で明治維新まで続いた名家なら
昔の刀を持ってない家なんてないと思う。
0156人間七七四年
2009/11/21(土) 06:02:10ID:K5wGaCtC諫早領は表向きは1万2千石だけど実高は10万石と言われていて、
貧乏大名家というのは建て前で、諫早家は
本当は物凄く裕福だったらしい。
また、諫早家は前領主・西郷氏の政策を継承して善政を敷いていて、
移封当初は西郷氏再興の一揆を起こすなど
諫早家に反抗した領民も、諫早家を名君と慕う様になったそうな。
0157人間七七四年
2009/11/21(土) 10:24:47ID:8wieW4SW諫早家が大名って初耳だな
0158人間七七四年
2009/11/21(土) 12:36:49ID:R0nr+bw2隣に諫早と似たような規模の大村藩があるし
0159人間七七四年
2009/11/21(土) 18:58:32ID:K5wGaCtC諫早家始祖の龍造寺家晴は
秀吉に直接、旧西郷領の領地を安堵されている。
家晴の死後、二代当主の諫早直孝が
徳川幕府に大名の地位の返上を願い出て、認められた。
0160人間七七四年
2009/11/22(日) 17:07:16ID:0lFOratL0161人間七七四年
2009/11/24(火) 10:15:43ID:rchwdWWB0162人間七七四年
2009/12/09(水) 14:25:05ID:OQND5D0+この頃の鍋島家ってこんな家格高かったのかな?
それから300年程経た戦後まもなく(?)、花山院家の末裔の方が困窮してか鍋島家を
頼って来られ高校の古文の先生をしておられたが、直朝との間の子供は早世してるようで
血の繋がった親族が居ないにも関わらず鍋島氏を頼ったのは
背に腹は代えられなかったからだろうか?
時代が違えど直朝に嫁ぐ300年程前の鍋島家の氏素性を、当時の花山院家は知っていた
可能性もあるんじゃないか?
0163人間七七四年
2009/12/09(水) 17:54:35ID:Sv9lrcqV0164162
2009/12/11(金) 23:31:09ID:H3AdVZBy晩婚といっても鍋島家の出自が地侍だったらいくら大名家になろうとも
嫁がないんじゃないのか?
龍造寺(村田)家も、戦後困窮して家財や土地まで処分してるが、こちらは行政
すら援助してないからな
家主は町民の名前は呼び捨てだし、金の無心までしてたからな
隆信の頃から伝わる歴史的価値ある物もあったようだが、町民から嫌われてれば
行政も何も出来なかったのかな(昭和30年代後半かな)
また西銀座デパート(龍造寺の屋敷もこの辺にあったのかな?)で雑貨屋していた
某名家から嫁いだ方は上品で御綺麗な方だったようだが
良い話は聞かなかったらしいよ
0165人間七七四年
2009/12/15(火) 01:04:39ID:fYfI3lS10166人間七七四年
2010/01/15(金) 22:03:18ID:b9/BQrcC大河でやってほしいわ
0167人間七七四年
2010/01/17(日) 21:20:16ID:P0P8bWis「我輩は鍋である」
0168人間七七四年
2010/01/18(月) 14:35:07ID:wK8DM9vY0169人間七七四年
2010/01/19(火) 10:48:49ID:xi8hdk3F0170153
2010/01/19(火) 14:06:22ID:m4PcSDKk神代家に伝わる刀も南北朝時代の山城国産の物があるな
神代、鍋島両家に伝わる刀いずれも山城国産と言うのは、これまた偶然なのでしょうかw
>>154
亀レスになりますが
肥前の土豪や地侍がどのようにして山城国産の刀を手に入れ、鍋島氏に献上したのでしょう?
また山城国産の刀を献上して取り立てられた家は、当然藩の着到帳に記載されてると思うが
どのような家が考えられるでしょうか?
肥前から遠く離れた山城国産の刀ばかり何振もあるのは、さすがに不自然じゃないのかな?
あと、産地の山城国って言うのも意味があると思うのだが
0171人間七七四年
2010/01/23(土) 00:57:48ID:RyCVSzFY捕捉すると忠吉は元々は龍造寺家臣で、佐賀藩のお抱えになった人物。
日本刀の半可通としては、忠吉経由で山城刀が入って来たんでね? と推察。
神代家の方は高良神社の伝手か、鍋島家から拝領したか……か?
ついでに書くと……
筑前の刀は、新刀期の筑紫信国系は黒田家中で独占してたので他国にまず流出しないし、
古刀になると有名所の左文字は南朝に付いて玉砕したらしいから、少弐関係者の方で忌避したのかも知れん。(平戸左ってのもいたけど)
筑後の刀鍛冶については、江戸時代には有名所は少ないし、古刀では離散した左文字系の大石左がいるけど左文字の縁で同上。
他に三池典太こと光世も筑後だけど、平安時代のだから真作は余程の運とか縁が無い限り拝むことすら出来んだろう。
ヲタの悪い癖が出てしまったw
0172人間七七四年
2010/01/31(日) 23:56:08ID:/4eoNDVT地侍を蔑視している事は分かるが、何を主張したいのか分からん。
0173人間七七四年
2010/02/05(金) 00:03:59ID:eoLtgm7A0174人間七七四年
2010/02/05(金) 20:36:04ID:1e7/antH0175人間七七四年
2010/02/06(土) 17:57:19ID:b3lotGqz0176人間七七四年
2010/02/06(土) 18:34:59ID:5kHK5wYp0177人間七七四年
2010/02/20(土) 10:37:57ID:RCC+cziZ隆信が死んだ後のボロボロの龍造寺家を存続させたのは凄い。
直茂本人の外交能力が卓越したものがあるし、
隆信の親族で優秀な武将を部下として使いつつシンパに取り込んだり、
直茂には、武将というよりも
有能な経営者というイメージを持ってしまう。
0178人間七七四年
2010/02/20(土) 20:39:53ID:diBG9UYQでもなー。
隆信を死に追いやったのは直茂だと云われているしなー。
わざと会社を倒産させてそのあと再建したから偉いとは云えないしねー。
0179人間七七四年
2010/02/24(水) 11:23:54ID:0DPv/9jx0180人間七七四年
2010/03/08(月) 23:24:02ID:akDFK8Vi↓
島津義弘率いる大友軍が肥前を攻め落とす
↓
竜造寺隆信を処刑して鍋島直茂を佐賀城主に任命
↓
勢いに乗った大友宗麟は立花某に命じて伊予を攻め落とさせる
↓
島津からその隙を突かれて豊後を奪われ大友宗麟は伊予へ逃がれ大友(家)は島津に寝返る
↓
ほどなくして毛利軍により伊予陥落し大友宗麟は処刑され立花某と大友(盛)は毛利に寝返る
↓
鍋島直茂が肥前で後を継いで大名に
↓
鍋島軍が薩摩→豊後→安芸と立て続けに攻め取る
↓
豊後からは大友(家)が伊予を攻め取り毛利輝元を処刑し
↓
鍋島軍は軍事力増大中←今ココ
それにしても鍋島直茂の金集めの上手さは異常
0181人間七七四年
2010/03/10(水) 21:22:17ID:7GFjLOki0182人間七七四年
2010/03/20(土) 23:39:05ID:ygXYObFj名前は分っているんでどこかに戦死者名簿がないかな
0183人間七七四年
2010/03/26(金) 13:01:18ID:GpWGXiyJ> 島津方軍記には沖田畷の戦いで川上左京に隆信の居場所を教えたのは
直茂だと書いてあるが
それはウソくさい。
0184人間七七四年
2010/03/26(金) 13:02:50ID:GpWGXiyJ> 晩婚といっても鍋島家の出自が地侍だったらいくら大名家になろうとも
> 嫁がないんじゃないのか?
いや、大名になら嫁いだでしょ。
0185人間七七四年
2010/03/26(金) 20:36:15ID:JhKT3Yh5沖田畷の戦い(抜粋)
此レハ偖置此処ニ又川上左京久堅ハ、軍ハ今カ花ト心得テ、我手三百余騎ヲ引テ桑原ノ陣ヲ忍ヒ出テ、
寺山カ死シタル籏ヲ奪ヒ取リ、肥前ノ軍衆ニ様ヲ替へ、陣屋々々ヲコナタコナタニ廻リ玉ヒシカ、
鍋島ニハタト行合、「如何ニ申サン、鍋島殿。某ハ士ノ身ニテ未練ナカラモ今中務殿ノ横入ニ目暮ンテ、
我身隆信公ノ御陣所ヲハタト忘レ候ヒシカ、教エ玉へ、鍋島殿」ト泪ヲ流シテ申シケル。
鍋島モ、勢ヲ見レバ薩摩勢印シヲ見レバ、肥前方、暫シガ間ハアキレ果テテゾ御座シマス。
鍋島殿運ノ尽キニヤ、大敵ノ薩摩勢ヲ味方ト心得テ我君隆信公ハアナタニ見へシ。
小松原ノ本陣ニ三十六騎ヲ御側ニ召サレ、母衣カケ武者ニテ御坐シマス。急キ参レ」ト
教エケレバ川上殿ハ鍋島カ教ニ行キ頓テ小松原ニモナリヌレバ左京モ□□□ノ中ト心得テ装束改メ
「我レヲ誰トカ思フラン。薩摩ニ於テモ、島津義久カ郎等川上左京久堅トハ我事ナリ。
此度、赤星兄弟子供カ恨ミニ太刀ヲ請玉へ」ト大音揚ケテ申シケル。隆信聞シ召サレ、
偖テハ薩摩ニ於テ家アル士カ、又ハ家ナキ士ナラバ、目下廻り首ヲ討テ」ト申シケル。
左京聞シ召サレ「偖ハ中々思ヒモ依ラン仰カナ。士カ士ヲ討ツニ、目下目上ノ差別アルマシト、
去フヨリ早ク三尺六寸ヲ抜キ持テ隆信カ弓手ニ廻リ隆信カ首ヲ水モタマラス打チ落ス。
年ヲ申セバ五十七。御側ノ三十六騎ハ此ノ由ヲ見ルヨリ、主ヲ討レテハ叶フマジト切テ掛レバ、
左京ハ隆信ヲ討チタル勢ニテ爰ヲ戦度ト戦エバ三十六騎モ同シ枕ニ討チ伏スル頓テ隆信カ首ヲ
太刀ノ切リ先キニ貫キテ本丸陣ヲ心静カニ立出テ小松原行ケバ鍋島四洲添島彼ノ両大将ハ此ノ由ヲ
一目見ルヨリ、扨テハ中々、我敵何国マデ落チ行ク。逃スナト云フヨリ早ク切テ掛レバ、
川上ハ心得クリト云フ儘ニ士卒ニ下知シテ群カル敵ヲ迫ツマクリツ爰ヲ戦土卜戦へバ、
又向敵一千余騎ハヤスヤスト打取リ仕スマシタリト云フ儘ニ陣所ヲ差シテ引テ行ク。
頓テ隆信ノ首ヲ中務殿御覚ナサレ心得タリト云フ儘ニ、小高キ所ニ走セ登リ、大音揚ケテ名乗ル様、
「肥前ノ大将龍造寺隆信ヲ川上左京久堅カ討チ取リタリ」ト呼ハレケル。
0186人間七七四年
2010/04/18(日) 10:11:05ID:0o8TEDZ080数年ぶりに復元するらしい。
本年度から3年計画で堀の一部(長さ約230m)を掘り返し、地中に眠る赤石の石積みを発掘。
この石積みを生かして護岸を整備し、往時の風情をよみがえらせる。
佐賀城の堀は、開発にさらされながらも北堀、西堀、南堀が逆コの字形に現存。
江戸期の絵図や文献によると、東堀は70メートルを超えたが、1939(昭和14)年までに埋め立てられたという。
0187人間七七四年
2010/04/18(日) 10:40:38ID:EvMdvu/n疎まれて隆信によって柳川へ飛ばされた信生は隆信を恨んでたからな。
そもそも信生主導で蒲池滅亡させて、筑後の国人たちの恨みを隆信1人に押し付けて人心を隆信から離反させたのも信生
0188人間七七四年
2010/04/19(月) 10:15:44ID:gk9hszxy直茂にとって都合の悪いのは隆信の仕業にして記録を残してるのがみえみえする
0189人間七七四年
2010/04/23(金) 07:03:32ID:uUdYmvye世界のナベアツ
0190人間七七四年
2010/04/23(金) 12:28:36ID:eopVOO4/実権を握って実務やってたのは宰相の直茂って感じでしょ
結局は権力闘争で直茂がじわじわと権力を奪っていく。
それに気づいた隆信が柳川へ左遷したもんだから島津に隆信を殺させた。
0191人間七七四年
2010/04/23(金) 13:11:43ID:HbO4DdcH軍事的才能にかんしてのみ
隆信 > 直茂
という説があるようだが。どうなの?
0192人間七七四年
2010/04/23(金) 13:38:35ID:uUdYmvye島津は最左翼にいて前方の鍋島隊と戦わずに隆信のいる位置までやってきていて不信感がおきない方がおかしい。
0193人間七七四年
2010/04/23(金) 15:04:50ID:eQPUlw/M朝鮮出兵でも戦時諜報で明軍の弱点を突いた戦いをしている。
0194人間七七四年
2010/04/23(金) 15:08:45ID:uUdYmvye朝鮮での戦いだって島津マンセー捏造だし
0195人間七七四年
2010/04/23(金) 15:20:22ID:jwOZW9X2軍議を無視して島原にいるのがおかしいだろ。
0196人間七七四年
2010/04/24(土) 10:38:13ID:HzIVuTcp今山でのピンポイント奇襲も大友家臣との内通がなせる技なんでは?
討ち死にした大友総大将からして経歴不明の変なやつだったし。
今山での小勝ちでも龍造寺の不利な状況はまったく変わらなかったし
その後の和睦で実質的に大友に降伏してる。
そのために毛利支援を龍造寺はやれなかった。
0197人間七七四年
2010/04/25(日) 00:33:38ID:50sPPaAt大友側から情報をもらってたのが今山で
島津側に情報を与えたのが沖田畷だろうな。
秀吉には龍造寺の内情を率先して流して信頼を得て纂奪したんだろうね。
0198人間七七四年
2010/04/25(日) 09:58:37ID:uQuarYPdttp://www.nicovideo.jp/watch/sm5688585
5:36から
0199人間七七四年
2010/04/25(日) 18:34:33ID:RN6OVmP20200人間七七四年
2010/04/26(月) 10:29:05ID:lHNfIc+hむちゃくちゃ荒れるだろうなw
0202人間七七四年
2010/05/02(日) 00:14:55ID:9DbJONlw葉隠という本は、山本さんという取り立てて優秀でもなかったKYな爺が
嫉妬僻みで有名人をこき下ろして、実践してもいない空論ひけらかして
自分は凄い覚悟なんだって自慢しているようにしか見えなくて苦手。
エピソード集としては面白いんだが、思想書としては……
このスレで言うことじゃないかもしれんが。
0203人間七七四年
2010/05/03(月) 19:07:01ID:VdqdRrA4またそれほどの軍を指揮する親貞の系図関係が不明なのも変な話。
まあ宗麟の弟とする人が多いようだが。
甥という記述はよく見るね。誰の子か知らんが。
今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。
佐賀藩以外の史料で検証してみましょう。
八月十三日付けで、今山合戦直前に肥前国人の横岳鎮貞・江上武種に知行充行状が発行されてる。
宛がわれたのは肥前の龍造寺氏の所領か勢力圏で、その後、今山合戦の後の十一月八日付けで
与える坪付が充行状通りに両名に発給されてる。
他に充行状は残ってないが、神代長良に、佐賀・小城両郡内で二千町を超える恩賞が与えられてる。
「九州治乱記」にも引用されてる書状に、八月二十日付で大友宗麟から田尻鑑種宛に
今山敗戦に接し、自ら肥前国境を流れる筑後川を越え、対岸の肥前千栗まで兵を進めると書いてある。
すなわち、今山合戦後も大友の本隊は依然として高良山に駐留しており、健在だった。
その後、十月二十三日付けで、大友宗麟から龍造寺隆信・鎮賢父子宛てに起請文が出てるが
それには隆信が大友の年寄へ起請文が提出して降伏の意を伝えてきたので、それを受け入れると書いてある。
その五日後、宗麟は隆信を赦免して、十一月まで戦後処理を行なって帰陣してる。
その後、元亀三年に隆信と筑紫広門・横岳鎮貞との間に所領紛争が起きるが、大友が三者間の調停に乗り出し
それが不備に終ると大友は「逆臣顕然」という理由で、隆信討伐の軍勢を、勢力圏内の諸勢力へ催促してる。
結局、隆信は天正五年に周辺勢力を仲介して、大友の裁定に従ってる。
また、天正六年には大友から龍造寺に対して、日向方面への出陣命令が出てる。
以上の事から、今山合戦で龍造寺は勝利したものの、局地戦での勝利に過ぎず
今山合戦を含む元亀元年の戦いは大友が勝利して、今までの通説であった
「今山合戦後に肥前から大友の勢力を駆逐した」というのは間違いであり
その後も大友氏は肥前に多大な影響力を及ぼしてる。
0204人間七七四年
2010/05/03(月) 22:20:40ID:m3SYktT5> 今山合戦で龍造寺が勝利したというのは、ある程度事実ですが
> 大友が大敗したとか宗麟が逃げ帰ったとか言うのは捏造です。
龍造寺が持ちこたえたので、大友も攻めあぐねて撤退した。
ということだと思う。
0205人間七七四年
2010/05/04(火) 01:00:40ID:+i0QMhNF竜造寺を許してやっただけ。
0206人間七七四年
2010/05/05(水) 19:26:26ID:tNrTQE5bのちに鍋島が創作したんだろな
0208人間七七四年
2010/06/02(水) 23:40:04ID:rrcKVlVX0209人間七七四年
2010/06/03(木) 22:55:52ID:6EgJyocn0210人間七七四年
2010/06/05(土) 00:50:52ID:6UwqWpJ10211人間七七四年
2010/06/06(日) 15:51:56ID:YEgjk2Pgリズムが良い
0212人間七七四年
2010/06/12(土) 16:25:03ID:acnUTExq0213人間七七四年
2010/06/12(土) 21:27:52ID:f7URSo9V田代さんのご先祖の後、龍造寺隆信に龍造寺家を継がせたんじゃなかったかな〜?
0214名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/10(土) 17:58:20ID:5M2cbpjU匿名だけど妄想が数百年伝わるって…
0215人間七七四年
2010/07/13(火) 22:29:26ID:wJDhiSwE鍋島氏の信仰の対象を調べてみると、直茂の祖父清久は徳善院に英彦山から分霊を勧請しております。
この祭神である天忍穗耳命は天火明命の長男(次男?)であります。
また西与賀町大字相応津にある日子神社の祭神も天忍穂尊命であり、第3代藩主綱茂が創建に係っています。
他にも直茂が建立した日子神社もあり、代々信仰の対象だった事が知れます。
徳善院北側にある八幡神社は鶴岡八幡からの勧請とありますが、鶴岡八幡の祭神にない
仲哀天皇が祭られています。
この祭神は、三瀬に1264年に下向したとされる野田周防守大江清秀が建立した杉神社も同じで
こちらは香椎宮から分霊を勧請している。
少し脱線するが八女の星野村を領した星野氏だが、戦国期、星野氏の重臣である樋口実長の墓には
「星野胤実十四代嫡孫藤原実長之墓」とある。 ※なぜか賜姓の調姓から藤原姓に改姓(復姓)している。
領内にある麻生神社は宇佐神宮から勧請したようだが、ここも仲哀天皇が祭ってあるようだ。
0216人間七七四年
2010/07/13(火) 22:30:26ID:wJDhiSwE鍋島氏と1382年に下向したとされる野田周防守を調べてみた。
鍋島清久の妻は、野田大隅守の娘であるが、この野田周防守は大隅守の祖にあたる人物と思われるが
1264年に三瀬に下向した野田周防守とは、無関係という事で話を進めてみたいと思います。
まず現在の野田姓の分布を調べると、愛知県と北部九州に特に多く、中でも愛知県一宮市
には著しい偏りが見られる。
これは、信雅親王を守護し土着した野田氏の末裔と見られ、楠木氏の末裔と言う事に系図ではなっており
南北朝時代には堺市にある野田城に居住していたとされる。
楠木野田氏の祖とされる人物は野田清房(野田四郎)といい、三瀬に下向した野田清秀の子孫
「房儀」に繋がる可能性もある。
この野田城付近には百舌鳥という場所があるが、このあたりに勢力を誇った物集女(もずめ)氏は
「万代」「毛受」「毛須」「裳伏」「藻伏」とも書かれ、室町時代には西岡被官衆として将軍家の家臣
であったようだ。
読み方が違うが、柴田勝家に仕えた毛受(めんじゅ)氏、愛知県一宮市の毛受という小字名がついた場所
などもあることから、楠木野田氏との関係もうかがえるのではないか
この西岡被官衆には名前の通字に「泰」を使用する野田氏がいるが、熱田家系図にある
「泰重」に繋がる可能性がある。
さらにこの楠木野田氏の末裔と見られる家の家紋は、目結紋が多い事も分かっており、
鍋島氏と下向した野田氏も同じ紋を使用していたら同族の可能性が高いと思われる。
0217人間七七四年
2010/07/13(火) 22:37:32ID:wJDhiSwE以上のような事や、鍋島家に伝わる刀が山城国産である事等を考えてみても、同氏の出自は
尾張氏男系の末裔もしくは南朝皇族の末裔の可能性があり、
土豪や地侍上がりの小豪族ではない事は明らかだと思う。
余談だが、多々良浜の戦いでは、尊氏家臣の富永氏が旗を使って敵を欺いたとされてる。
その功により尊氏より現在の新城市や設楽郡あたりに所領を得るが、ある時期より菅沼氏に代わる。
この菅沼氏は清和源氏土岐氏流とされるが、家紋は釘抜紋である。
土岐氏流の明智氏の家紋は、桔梗紋であるが、同じ土岐氏流の菅沼氏は釘抜紋(目結紋)。
また明智氏の祖は長山遠江守で、熱田大宮司家長山氏の可能性はないのだろうか
調姓の星野氏、黒木氏、河崎氏の家紋は亀甲四つ目結や裏桔梗を用いていたような記述もある。
また、坂本竜馬の家紋は組み合い角に桔梗紋であるが、それ以前は丸に田の字紋であったようだ。
以上、鍋島氏の出自を調べて判明した事と関係するであろう史実を書いてみた。
風呂敷を広げすぎてしまったがw
0218人間七七四年
2010/07/14(水) 00:05:27ID:lVenPpdf> また明智氏の祖は長山遠江守で、熱田大宮司家長山氏の可能性はないのだろうか
それは考えたことがなかった。
0219人間七七四年
2010/08/17(火) 19:54:36ID:Q4x8/TMu0220人間七七四年
2010/08/20(金) 12:19:33ID:nEAMTB5v八女市大籠には、筑紫氏、中園氏、埜田(野田)氏の墓があるがいずれの家の戒名にも共通の字が書いてあるようだ。
また正八幡宮が近くにあり、祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰と菅原道真を祭る。
この正八幡宮神社は、川崎三郎源定宗が川崎庄の宗廟として建立した神社を、筑紫広門が接収したとされる。
川崎氏は星野氏や黒木氏と同族である調姓のはずだが、ここでは源氏を称してる。
【筑紫氏と鍋島氏】
*筑紫氏
経稔ー経重ー尚重ー尚門ー秀門ー惟門ー広門(1556-1623)ー晴門
*鍋島氏
経秀ー経直ー女子ー清直ー清久ー清房ー直茂(1538-1618)ー勝茂
両家とも目結紋を用いていたので系図を並べてみたが、「経」の字を使ってる年代(世代)が
ほぼ同じ頃と言うのがわかる。
筑紫氏、鍋島氏、中園氏、野田氏、三瀬氏、星野氏、黒木氏、河崎氏、樋口氏 これらは祖を辿れば藤姓熱田大宮司家祖
藤原李範に行き着くはずである。
また八幡愚同訓は、この氏族に書かれたんじゃないかと思う。
0221人間七七四年
2010/09/01(水) 23:12:13ID:uTgT8jI1この八女市大籠の埜田氏の祖は埜田仙長といい、この埜田家より分家した中薗家の
家紋は五瓜に剣唐花である。
このような事から年代的な裏付けは出来ないものの、有馬、大村両氏との繋がりが想像でき
この関係を利用し、鍋島氏が武器を調達し龍造寺家内での勢力を増す一因となったのかもしれない。
0222人間七七四年
2010/09/03(金) 11:55:23ID:S6ZPLGdN0223人間七七四年
2010/09/03(金) 16:55:14ID:K6T50vgv0224奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2010/09/03(金) 21:50:27ID:F5VPl35J0225人間七七四年
2010/09/04(土) 04:30:08ID:ImHEc0/d0226人間七七四年
2010/09/04(土) 11:00:18ID:+Ya4n5s+肥前には平家の滅亡によって没落したと思われる武家の存在は認められないし、
元々小規模な名主的土豪が群立してた状態であって鎌倉時代になっても変動無し。そのまま個々に御家人に編入されただけだそうだ。
余程の確かな系図か下知状でも無いと村の地頭クラスの祖は箔をつける為のでっち上げだろう
0227人間七七四年
2010/09/04(土) 11:50:22ID:+Ya4n5s+それにしては初めて知行与えられたのが1530年の田手畷の戦いでの功績による本庄80町(龍造寺氏から)
有名な赤熊軍だがその格好はどう見ても百姓だったそうで、やはり名主(有力百姓、庄屋)と思うけどね
0228人間七七四年
2010/09/04(土) 12:09:20ID:+Ya4n5s+それまでは鍋島観音寺が鍋島家代々の菩提寺で152年も経ってやっと自領に菩提寺立てるのもおかしいだろう。
実際は鍋島村の名主で田手畷の戦いでの功績で初めて武家に昇格し本庄を領地にしたのでは
0229人間七七四年
2010/09/04(土) 19:41:50ID:rol+pTfjttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=702
ここ読むと鍋嶋経秀の記載が、天台宗の寺院の過去帳に書かれてるようだけど
当時は農民でも天台宗の寺に埋葬できたのかな?
長岡経直が建立したとされるここ↓は、菩提寺ではなかったのですかね?
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=119
>赤熊軍だがその格好はどう見ても百姓だった
敵を欺くのが目的だから、何も問題ないと思うのですが
0230人間七七四年
2010/09/04(土) 21:29:21ID:+Ya4n5s+当時は厳密に武士と百姓の区別が無かったからなあ、名主クラスならおかしくないでしょ。土豪とそれ程変わらないよ。
南北朝の戦乱期に名主的土豪クラスになってそれで通例の地元の鍋島を姓としたが知行認められない
(「御恩と奉公」関係になって無い)以上、正式な武士って訳にもいかず田手畷の戦いで初めて当てはまったとみるべき
>>長岡経直が建立したとされるここ↓は、菩提寺ではなかったのですかね?
鍋島家の菩提寺になったと記録がなければ違うでしょ
0231人間七七四年
2010/09/05(日) 12:49:46ID:/jiedBD1この鍋島観音寺というのは観音様を祭っていたのですかね?
1324年に後醍醐天皇が長岡庄(現在の岐阜羽島のあたり)に北野天満宮を創建してるが
これの別当寺に祭る大須観音と関係ないかな?
>>140のAに書いた妙興寺に寄進された中島郡鈴置郷の熱田社領は、この長岡庄に建立した
北野天満宮と木曽川でしか隔てておらず、やはり熱田大宮司家との関係が考えられるのですが
上の「鍋島家の由来」を読んで、今まで長岡天満宮と思ってたので結びつかなかったが
北野天満宮という事だったので
0232人間七七四年
2010/09/05(日) 16:51:33ID:R34ACzKm0233231
2010/09/07(火) 19:14:58ID:EQvRMkN6言葉足らずで、すいません。
229のURLに書かれてる事と、関連性ないかと思ったのです。
>>230
田手畷の戦いでの赤熊一団だった石井一党や野田氏は、鍋島氏の家臣という事になってますが
御恩も無しに鍋島氏に奉公していたのですかね?
石井氏は、菩提寺や家紋から桓武平氏の流れを汲む事が想像でき、また鍋島清久の室は官位(大隅守)
を称する娘であることから、この両家が武士か百姓の区別つかない鍋島氏に従ったとは考えにくいのですが…
0234人間七七四年
2010/09/08(水) 09:27:28ID:BYkrXp0aいやだから石井一党や野田氏も鍋島と同じw家紋なんて気に入ったものを使ってるだけだし、
当時の地方武士の官位は殆ど自称だよ。
0235人間七七四年
2010/09/08(水) 10:41:42ID:BYkrXp0a鍋島町には地名に鍋島伊勢入道(佐々木伊勢守藤原経秀)の館跡と思われる横馬場、立町、北少路、南少路などが残ってるからな。
それにね。本家の苗字名乗れるのは嫡流のみで庶子は知行地を苗字にするから、
鍋島家臣の野田氏が熱田大宮司の一族野田氏と関連するわけないでしょ。
苗字、家紋、官位、氏神とかそういった物で地方武家の出自を調べようというのがそもそも間違い。
それが適用出来るのは名門の本家筋のみだよ
0236人間七七四年
2010/09/09(木) 22:29:42ID:dx79lpLk葉隠は元々は怪文書だからね。
佐賀藩は鍋島家が龍造寺家を乗っ取ったと言われるが、
実際は諫早・多久・武雄鍋島・須古鍋島の龍造寺四家が
藩の実権を握っていて、藩政を運営していた。
鍋島藩といいながら、実は藩は龍造寺が仕切ってた訳で、
そういう体制に反感を持っていた藩士も結構いたんじゃない?
0237人間七七四年
2010/09/11(土) 00:16:23ID:UJEaNKU0やっぱ武将としては総合力で
信生>>>家久だよな〜。
0238人間七七四年
2010/09/11(土) 00:52:35ID:rSLS6RMa0239人間七七四年
2010/09/11(土) 15:34:57ID:/RbAr8ew寛政4年(1792年)4月1日、雲仙岳媚山が崩壊し、津波が発生した。
その津波により、肥前、肥後両国で1万5千人の人命が失われた。
0240人間七七四年
2010/09/11(土) 20:13:35ID:WLB2GPC8肥前では室町末期から百姓が苗字名乗ったり、家紋を使用したり、官位を称していたのかも知れないけど
鹿児島には紀姓伊集院氏族で家紋は四つ目結紋の野田氏。
熊本には佐々木氏族で家紋は四つ目菱紋の野田氏。(都道府県別姓氏家紋大事典より)
随分と偶然が重なるんだなw
0241人間七七四年
2010/09/12(日) 10:29:23ID:HxxM+7Si佐々木氏を名乗る以上、家紋もあわせるだろw辻褄合わせしないといけないからな。家紋使用に制限は無い。
鹿児島には野田町があるから伊集院氏野田は知行地が野田だったからじゃないのか?
0242人間七七四年
2010/09/12(日) 10:34:04ID:HxxM+7Si0244人間七七四年
2010/09/12(日) 11:11:37ID:HxxM+7Si他人の初耳なんて知ったこっちゃ無いよw。佐々木氏の代表紋が四つ目結。
ただ、婚姻や流行りだったとかでも家紋は使うから家紋=出自とは考えない方がいい
0245人間七七四年
2010/09/12(日) 12:13:22ID:HxxM+7Siまず両野田家の最初の苗字と本貫地調べてみないと解らんね。手元に資料無いからよろしくな。
本家の苗字名乗れるのは嫡流のみで庶子は知行地を苗字にするから、当初から野田姓なら佐賀の野田家と
何かしら関連あるんじゃね?知行地を苗字にしたなら只の偶然か
0246人間七七四年
2010/09/12(日) 19:29:02ID:I93/F6OW有難う御座います。
鍋島氏が下向したとされる1382年と言えば、大和町に曹洞宗の玉林寺が千葉氏家臣の鎰尼信濃守季高によって
建立され、大隅から来た藤原氏の無着禅師が開山している。
鍋島氏も千葉氏を頼ったとされてるので、もしかすると関係してくるのかもしれませんね。
自分は関東在住なので郷土関係の資料は国会図書館行かなければわからないし…
ちなみに
佐賀の四つ目結紋の野田氏は清源族となっている(都道府県別姓氏家紋大事典より)
0247人間七七四年
2010/09/12(日) 19:38:31ID:I93/F6OW三 蒙古襲来絵詞の作製地
ttp://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/index.htm
平治物語絵詞を見ることができた人は限られているらしいが、熱田大宮司家の人間が絵師を伴ってこれを閲覧し
蒙古襲来絵詞に加筆し利用した可能性はないだろうか?
梅松論によると多々良浜の戦いで熱田大宮司家野田氏が、足利家の鎧や小袖を着て参戦した事が書かれており
旗を用いて敵(南朝方)を欺いたとされる。
この旗は熱田大宮司家が持っていた錦の御旗であり(目結紋の可能性は?)、結果多くの南朝方の同志を失った為
その後出自を偽らざる得なかったのではないか?
この辺が、鍋島氏が出自を偽った原因と考えるんだけど…
0248人間七七四年
2010/10/05(火) 20:09:23ID:TLVXNJW4蒙古襲来絵詞が伝わったとされる名和氏の家紋は帆かけ舟であるが
羽継原合戦記による熱田大宮司族野田家の家紋と同じである。
この熱田大宮司家祖は行氏と考えられるが、同年代の名和氏の名前には「行」の通字
が使われてる事から、何らかの関係が考えられる。
また竹崎季長が元寇後に賜った海東郷は、海東氏(大江氏)の所領と思われるが、海東氏は熱田宮司家の
養子となっている。
0249人間七七四年
2010/10/07(木) 11:16:28ID:6SHrqyLY0250人間七七四年
2010/10/20(水) 19:25:11ID:lTApKTBc> 家系に女子を挟むのは斬新だな。
野球の継投でも途中で左腕をはさむ。気にするな。
0251人間七七四年
2010/10/31(日) 05:13:08ID:Wh0QW5dv0252人間七七四年
2010/10/31(日) 09:32:46ID:+3Ym4xzl納得しちゃダメだよww
0253人間七七四年
2010/12/01(水) 19:44:30ID:Y/Haic7aなんで裏切ったのにその後藩の中心人物として動いているのさ?
0254人間七七四年
2010/12/07(火) 05:26:26ID:Pr0BqS6o秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり
中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで
龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。
0255人間七七四年
2010/12/13(月) 13:59:56ID:mS4/uVpKなんで島津の軍が村中城を包囲してんだよw
0256人間七七四年
2010/12/19(日) 21:58:20ID:UjEM+TdB0257人間七七四年
2010/12/20(月) 01:16:25ID:n2y5dJB00258人間七七四年
2010/12/20(月) 18:41:21ID:40DhEGHj勝茂の初陣は巨済島沖の海戦
どちらもなかなか派手な戦での初陣
0259人間七七四年
2010/12/21(火) 12:07:31ID:F9Q6gm980260人間七七四年
2010/12/21(火) 18:08:16ID:84e0eNLE3000の兵で城を包囲は当時の戦の規模なら割と普通にあると思うけど?
村中城なんて武装化した屋敷の程度だったろうし
0261人間七七四年
2010/12/21(火) 18:14:14ID:qPm52E8Nどうやって島原から佐賀まで行くのか
方法があるならお聞かせ願いたいんだけど
0262人間七七四年
2010/12/21(火) 18:23:02ID:84e0eNLEなぜ行けないと思うのかが解らないのだが?本気で数人程度で首持参して城明け渡せと交渉すると考えるほうが無理がある
0263人間七七四年
2010/12/21(火) 18:30:20ID:PEdhLYSD隆信の首を持ってきたところで取引が成立しないのは島津軍だってわかってるはずだし
その佐賀までやってきて包囲エピソードは成立しないわな。
0264人間七七四年
2010/12/21(火) 18:54:52ID:qPm52E8N城を明け渡せってエピソードなのあれ?
首の受け渡しの話だと思ってたんだけど
首の受け渡しだけなら島原から80キロ近く離れてる佐賀まで行く必要は全くないし
手勢を引き連れての行軍なら龍造寺の本拠地ド真ん中まで3000が素通り出来るものなのか?
0265人間七七四年
2010/12/21(火) 19:47:49ID:84e0eNLEおいおい、、、二つは別の話だと思ってたわけ?
沖田畷の戦いで龍造寺傘下の肥前豪族は軒並み討ち取られてる。村中城までは守る将無き空き家同然
0266人間七七四年
2010/12/21(火) 20:20:16ID:PEdhLYSD隆信の首を国主に見せるべく
薩摩に運ばれたとしか書かれてないし
0267人間七七四年
2010/12/21(火) 20:27:02ID:qPm52E8N討死したのは主に隆信の馬廻り衆、とても肥前の豪族軒並みとは言える規模じゃない
江上・後藤の軍勢は大した損害も無く佐賀に帰還していて、しかも後藤の根拠地は島原‐佐賀の中間にある
それと沖田畷合戦の後、諫早の西郷が逆襲するという風聞がたち島津と有馬は島原の防備を固めたとフロイスの書状や上井覚兼日記にある
ついでにフロイスの日本史だと隆信の首はしばらく島原の城に留め置かれた後、薩摩に送られた事になってる
0268人間七七四年
2010/12/23(木) 10:37:11ID:q33gDh19サッカーボールじゃあるましいし。
0269人間七七四年
2010/12/23(木) 12:05:34ID:GKlBLz5l0270人間七七四年
2010/12/29(水) 18:59:25ID:90jVp0OA0271人間七七四年
2011/01/06(木) 05:58:02ID:fFsuftco0272人間七七四年
2011/01/07(金) 00:45:39ID:TZN99Kucその龍造寺に臣従していた家臣団がそのまま残っている中で
鍋島氏が仮に悪い逸話を捏造しようとしても
真実を知ってる人間とその身内が居る限りは無理だと思うんだがね
0273人間七七四年
2011/01/07(金) 01:34:02ID:bHwyq0oH鍋島に不満があろうが
叛旗を翻したら
たちまち鍋島藩ごとみんな揃って改易されるだけだし
鍋島に反抗なんてできないだろ・・・
0274人間七七四年
2011/01/07(金) 04:16:03ID:7lb3G4qn0275人間七七四年
2011/01/07(金) 06:47:35ID:ORVJCoEcそうでもない。
鍋島は竜造寺一族のメシを保障して、プライドにも配慮してガス抜きをしていたから。
0276人間七七四年
2011/01/07(金) 18:05:13ID:bHwyq0oH言ってんだから鍋島が簒奪したのは明白じゃん。
0277人間七七四年
2011/01/07(金) 18:21:20ID:YWhENaibその時、竜造寺一族の大半は鍋島を支持した
(少なくても反旗をひるがえすことはなかった)。
0278人間七七四年
2011/01/08(土) 00:28:12ID:ShODHPCpたとえ本心では直茂に不満があったとしても、それを言えなくさせたのは
背景(豊臣政権や徳川幕府)でもあろうし、龍造寺家家臣としての実績でもあろうし
何より家臣団全体の信頼じゃなかったかと思う。
家臣団の中に不満があれば龍造寺回帰の動きがあってもおかしくないからね。
肥前の熊さんは一代の英雄であったとは思うけど
人心掌握という点ではちょっと問題ある人ではあるよな
0279人間七七四年
2011/01/08(土) 05:11:29ID:JhD0SIM7隆信の息子の家系に・・・
いまさら大甥如きに
デカイ顔されたくない大叔父たちの
対抗意識もうまく利用したんだな。
0281人間七七四年
2011/01/23(日) 12:07:03ID:M/VuSY/e朝鮮の役で死んでくれたのでホッとしたろうな。
0282人間七七四年
2011/01/24(月) 17:20:45ID:mQrB1axj鍋島閑叟が肥後の首塚から高伝寺に改葬したって事になってるけど
隆信の首に関しては胡散臭い話が多すぎてどれが真実なのかわからんね
0283人間七七四年
2011/01/24(月) 18:07:32ID:DQ9FcGmN墓からして各地にたくさんある人物や
中国の人が逃げてきた日本で死んだ伝説の徐福や楊貴妃の墓まであるしね。
0284人間七七四年
2011/02/10(木) 16:02:50ID:Arxr+u/gみんな幕末の官軍みたいな格好してたんだよね?
0285人間七七四年
2011/02/13(日) 01:22:54ID:JydACSsu独自に幕府と繋がりを持っていたのを警戒したのかな?
0286人間七七四年
2011/02/13(日) 09:57:42ID:9M1jIfHb0287人間七七四年
2011/02/16(水) 22:08:32ID:Vxvyu2x50288人間七七四年
2011/02/22(火) 21:16:54.80ID:3gfHXqak理系な成富に出来ない事をしてた
0289人間七七四年
2011/03/24(木) 16:16:26.62ID:gEd3IRp/> 文系的な智恵者
たとえがよくわからんww
0290人間七七四年
2011/04/14(木) 09:03:45.96ID:kb+Y+FZM出世できたのは竜造寺の血縁だったからだし主な功績は
今山 お家維持 主家乗っ取りだけど、主家乗っ取りに関しては元々家老
だったわけだし実質上の当主が討死してるわけでそこまで難しい話とは
言い難い。今山は確かに凄いけど大友にとっては所詮局地戦に過ぎない
わけで後は御家維持をどう評価するかだよなあ。
0291人間七七四年
2011/04/14(木) 18:05:30.38ID:RCOjBz2b0292人間七七四年
2011/04/14(木) 22:17:56.26ID:lc8ITYiY特に何の能力に秀でてたかといえば、やはり知略と人望ではなかろうか
知略は戦での功績でも分かるし、やはり>>291の言うところの評価は大きい
人望は、体裁は主家乗っ取りであるのに、竜家一族含め家臣一同が割れることなく
従ったところに認められる
おそらく隆信の後半時代からすでに家臣の信頼は直茂にあったんではないかな
0293人間七七四年
2011/04/14(木) 23:06:03.88ID:LMmveRlZ所詮局地戦って負け惜しみ以外の何ものでもないだろ
厳密に局地戦ではない戦争なんて国家総力戦以外無いんだから
0294人間七七四年
2011/04/14(木) 23:59:56.26ID:LMmveRlZ今山で行われた戦闘を指して『局地戦』と呼ぶのなら分からないでもない
今山の戦いという言い方自体が当時一部将でしかない直茂視点のものだから
0295人間七七四年
2011/05/26(木) 17:24:47.37ID:PQ0djswG0296人間七七四年
2011/07/16(土) 05:48:57.52ID:5H4OmCjz小城藩:黄城=小城
鹿島藩:鹿城=鹿島
唐津藩:鶴城=唐津東
佐賀の高校の別称は江戸時代当地の呼び名だよね
蓮池城は跡地が学校になってないから知られてないだけで蓮城とか芙城とか呼んでたのかな
0297人間七七四年
2011/07/16(土) 09:01:27.99ID:1mhhLTId龍造寺一族が文句も言えずに従わざる負えない程の権臣になって纂奪に成功してること。
今山で勝ったところで何にも情勢は好転してないじゃん。
そもそも包囲の大友総大将自体が何者だか不明なやつだし。
0298人間七七四年
2011/07/16(土) 13:57:08.96ID:3QgEXfyC井沢の小説を根拠に歴史を騙るな
0299人間七七四年
2011/07/16(土) 15:11:32.16ID:whnG6D2q鍋島の内通は島津側の記述にある。
0301人間七七四年
2011/07/16(土) 15:45:47.93ID:vB3/8bj3http://edu-project.com/akahosi.htm
赤星の琵琶語りが原典じゃないか
赤星がえらく活躍してるから何かおかしいと
0303人間七七四年
2011/07/16(土) 16:42:29.21ID:vB3/8bj3それに「そもそも」と言える根拠は何よ?
ちゃんと出典挙げれば簡単に済む話だろ
0304人間七七四年
2011/07/16(土) 20:17:57.72ID:1mhhLTId鍋島は柳川方面防衛の任があったはずなのに
いつの間にか戦場にいるし
しかも島津は何で鍋島軍の近くを素通りして
長駆確実に隆信の居場所に怪しまれずに近付いて隆信を殺せたの?
鍋島が案内したから怪しまれずに近付けたとしか思えないんだが。
そこら辺りの回答を頼むわ。
0305人間七七四年
2011/07/16(土) 23:22:36.24ID:RNGGqD2P0306人間七七四年
2011/07/17(日) 13:33:06.27ID:39kboqp6なぜか隆信だけが道義を弁えない恩知らずと罵られ人心が離れていくとか
明らかに鍋島が隆信を罠に落として裏切って纂奪してるのは明白だよな。
0307人間七七四年
2011/07/17(日) 16:10:24.71ID:Pqaa2gE20308人間七七四年
2011/07/27(水) 15:37:06.46ID:+9HmjCP20309人間七七四年
2011/07/27(水) 16:06:18.80ID:ZDIy9UB/0310人間七七四年
2011/07/27(水) 16:24:18.32ID:ti07AVoXもし人心が離れてなければ
佐賀県はもっと広かったかもなw
0311人間七七四年
2011/07/27(水) 17:49:50.96ID:bUQL5AmJ恩がある蒲池を討ったから罰が当たったんだという話で終わらせちゃ駄目な問題だろう
0312人間七七四年
2011/07/27(水) 19:10:52.10ID:1F4uHtCH自らの正当性を出すために
人心が隆信から離れたストーリーを作って
纂奪を人心の話に転化しただけだろ
0313人間七七四年
2011/07/27(水) 22:58:04.32ID:tMFIkQc2いるんだけど(たぶん全部同一人物なんだろうけど)
前後の状況を研究すれば研究するほど龍造寺隆信という人物の人間性から
当然の帰結っていう結論しか出ないんだよねw
簒奪でも下克上でも委譲でもなんでもいいけど
結果的に肥前にとっては最高の選択だったのは間違いないわけで。
そしてそれをほとんどの「龍造寺一族」もまた納得していたとしか思えないわけで。
ついでにいえば「龍造寺こそ正統な肥前の支配者」だと最後まで思っていた龍造寺旧臣は
たぶん鍋島直茂本人だったわけで・・・w
0314人間七七四年
2011/07/28(木) 00:01:05.65ID:uaak63G70315人間七七四年
2011/07/28(木) 01:08:19.75ID:4JUOH6vW秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり
中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで
龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。
吉川広家や直江兼続や佐竹義久や北信愛や深水長智や伊集院忠棟らと違って
隆信を罠にはめては敗死させ、柳川攻略を推奨した鍋島の罪を隆信の汚名に押し付けたことで
主家が衰えたのを良いことに簒奪したのが鍋島直茂
高房成人後藩政を高房に戻す旨の請文を直茂はガン無視した。
5歳で家督を相続した龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻を殺し、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなか死ねず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んで鍋島への遺恨を表した。
高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も変死。
そして高房の息子の伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張したため佐賀藩は軟禁する。
幕府も鍋島氏の藩政が安定化しつつあったため、この問題に関しては真剣に取り合うことがなかった。
化け猫伝説も鍋島を暗に非難する目的から作られた。
0316人間七七四年
2011/07/28(木) 02:14:34.77ID:6p7mgDrS伯庵が誰に相談もせず還俗して幕府に訴訟をを起こした事は無視
訴訟自体も水ヶ江家当主の証言で伯庵に理無しと早々に証明された話
化け猫騒動の原作である瀬川如皐の花野嵯峨猫魑稿は1853年の創作
0317人間七七四年
2011/07/28(木) 02:21:29.03ID:MVc4Osekしかしじゃあ龍造寺隆信がもし生き残ってその後もお館として
君臨しつづけたらどうなったかって想像してみると
龍造寺家は完全に消え、江戸期の肥前に大領主は存在しなかったかもな
直茂が隆信を罠に嵌めて云々というのはまさに好き嫌いのみ(笑)で
見解が分かれる部分なので議論するつもりもないが、
当時の武将たちは少なくとも長年の主家・龍造寺よりも
それに取って代わった鍋島を支持した
龍造寺の求心力はその程度だったってことであり
晩年の隆信が著しく人望を失っていたのは間違いないと見る
0318人間七七四年
2011/07/28(木) 02:25:53.51ID:MVc4Osekあんまりいじめちゃいけないw
>>315の文章に突っ込もうと思ったら上段にも下段にもツッコミどころはいくらでもあるw
0319人間七七四年
2011/07/28(木) 12:22:35.11ID:kuQGljFrやっぱりムキになって鍋島擁護するのは子孫かなんかなんじゃないのか?
しかも白庵って、本当なら小領でも与えるのが筋なのに僧籍にしやがって鍋島は不義だって怒ってんじゃん。
鍋島が危険人物認定し僧籍を強制して軟禁したんだろうが。
誰にも相談しないなんてことはない。
龍造寺主膳正や朝山将監らに相談してるし。
水ヶ江って形骸化してんだろ。
まあ龍造寺長信→多久安順を指してんだろうが。
そもそも水ヶ江を継いでいた龍造寺鑑兼→諫早家晴は鍋島と仲が良くて鍋島と共に柳川統治にも絡んでいて
隆信が沖田畷に出陣する時に鍋島と一緒に柳川城で筑後肥後の留守を守れと命じられている。
その家晴は隆信が暗殺した蒲池旧臣まで厚遇してる。
あからさまに水ヶ江関係者は鍋島と同調して隆信謀殺に関与してるだろ。
政家が隠居した際に幼少の長法師の代わりに鍋島に運営は任せたが
家督は長法師=高房に譲ってる。
さらに直茂→高房→勝茂の順で家督を譲るはずだったが高房が死んだから勝茂とか意味不明な弁解をしてるし。
この白庵と安順が幕府評定所で対決したってことになっているが
そもそも安順だって今更、白庵なんてガキが自分らの主上になるなんて容認できるわけもない。
さらに多久・諫早・後藤の肥前藩三国老がみんなそれに同意した証拠もない。
幕府の意向を安順が汲んだだけのただのデキレースとしか思えない。
0320人間七七四年
2011/07/28(木) 13:34:24.10ID:uaak63G7とりゃーず島津側の軍記ってなんなのかググっても2ちゃんのスレしかヒットしないけんが
どういう史料なのか教えてくれん?
0321人間七七四年
2011/07/28(木) 14:11:05.69ID:kuQGljFrわすが30メートルと左翼に偏った場所。
隆信は薩摩の川上を味方だと誤認して斬られている。
右翼の鍋島や神代らが川上らを自軍だと偽って
右翼から中央を経て左翼にいた隆信の元に案内しなければ不可能な離れ技を川上はやっている。
0322人間七七四年
2011/07/28(木) 14:39:18.00ID:oHmsjozI0323人間七七四年
2011/07/28(木) 15:58:26.01ID:YWVUNA8s宣教師の文書とかで分かるのは龍造寺勢が冗談みたいな量の砲を撃ち込んだから
連合軍が後退しながら弓矢で応戦した事ぐらい
0324人間七七四年
2011/07/28(木) 16:50:00.51ID:4JUOH6vW森岳から出陣した有馬軍の鋭鋒に左翼の竜造寺軍が圧倒されていたから
隆信が督戦に左翼へ進出してきたんだろ。
右翼の鍋島は傍観しててて軍事的連携も支援もしてないから。
>>319
隆信の祖父の弟の子である鑑兼の家系は水ヶ江の家督を巡って
隆信と対立していた家系で立場が隆信兄弟や子と違うからな。
家晴は水ヶ江の領地を奪われていたから(隆信の弟の長信に与えられていた)
豊臣政権によって政家が肥前安堵を受けた時に領地が無くなった。
下関で秀吉と交渉して諫早を西郷から奪って領地にして良いと言われてるが
ここでも豊臣窓口の鍋島に恩を受けているはずで、家晴と鍋島の絆は固いよな。
多久安順なんて鍋島の次女の千鶴を正室にして癒着してるし。
親類同格4氏といいながらも一番地位が低かったとされる信周なんて
どんな実績があったかも不明で無能だろ。
高房に続いて変死した政家の弟の後藤家信に至っては幕府評定所に呼ばれさえしてないから不都合なことがあったんだろ。
0325人間七七四年
2011/07/28(木) 17:03:30.70ID:aXxfchN/0326人間七七四年
2011/07/28(木) 19:22:05.53ID:ykmg9y7Jそれで大鉄砲持ってる隆信の馬廻りを食い止めるって凄すぎるなww
0327人間七七四年
2011/07/28(木) 20:38:12.12ID:kuQGljFr全身真っ赤の装束に縄襷で目が血走ってたらしいからな。
田畑にある細い畦道を進軍する龍造寺中央隊は左右展開しての銃砲支援も難しいんじゃないか?
甲冑姿で田んぼに足を踏み入れるのはヤバいしな。
0328人間七七四年
2011/07/30(土) 10:39:19.59ID:Q5xLFjZz>>534
一斉射撃についてルイス・フロイスが1584年に薩摩で見聞した記録がある。
直訳された文章の抜粋で判りにくいが、この事例では槍や弓矢の運用についても記録しているので、戦国時代の実戦を知ることができる。
ドン・プロタジョは山上に留る能はず、また旧位置に引返すことも困難であるを見て徐々下山し、敵の銃撃の大部分を受くべき所に到った。
この間に隆信の軍は非常な勢で月の形になって進撃し、中務とドン・プロタジョの陣を包囲し、第一に銃五百挺を一斎発射した。
わが軍はほとんど皆地上に伏してこれを避け、銃撃が終った後槍隊の突撃せんことを期待したが実現した。
日本人は我等の如く楯を用ひない故ドン・プロタジョとその兄弟ドン・エステバンは銃撃に面して非常な危険を冒してゐた。
備前守殿といふ武士が、彼らの前に幅二パルモ〔約半メートル〕高さは人の腰まで達する鉄の戸を置いた。
これによって彼等は辛うじて銃丸を避けることができた。
敵は激しく銃を発射し、暫くの間弾丸は雨の降るやうであったが、ドン・プロタジョとその兄弟は長く腰を屈めてゐることができず、立って体を露出した時、大きな弾丸が激しくドン・エステバンの兜に当り、彼は地上に倒れた。
ドン・プロタジョは直に救助に駈けつけたが、その兄弟は死したやうであった。
併し再び見た時少しく動き始めたので、手をもって抱き上げたところ、不思議にも傷なく意識を回復した。彼等両人は二回敵銃隊の中に突入して死せんとしたが、部下が彼等を抱き止めた。
戦は四月二十四日の朝八時に始まり、正午過ぎまで続いた。最初の銃撃が終って、一時間槍をもって激しく戦ったが、隆信の軍は槍と共に銃を用ひ、その兵数が比較にならぬ程多かったため、わが兵はその寨内に退くに至った。
・・・・・
敵は再び寨を攻めたので、薩摩の兵は打って出たが、すでに頗る疲労してゐた。而して隆信の兵は多数の銃と少数の弓、長き槍と短き剣を持ってゐたが、薩摩の兵はこれに反して銃器は少数で、弓は多く、槍は短く剣は長かった。
・・・・・
戦闘は激しく行はれ、双方槍を使ふ余地なく、薩摩の兵は前に人なきが如く突進した。
銃は弾丸を込める時がないためこれを用ひず、薩摩の兵は甚だ弓に熟練し大いにこれを用ひ、敵は少からずこれに苦しめられた。
戦闘の最も激しい時薩摩の部将の一人は、最も勇敢なる兵士数人と共に偶然他の兵に離れて進み、隆信の駕籠の側に到って戦ひ始めた。
隆信は部下の兵の間に争が起ったものと考へ、高声に今は互に戦ふ時にあらず、汝等は隆信がここに在ることを知らざるかと言った。
この際彼の轎夫達は槍をもって突かれて駕籠を棄てた。川上左京殿と称する薩摩の青年武将は彼の名を聞き、その起ち上ったところを襲ひ、我等は汝を尋ねて来たと言って槍をもって突いた。
彼に槍をつけた人に直に首を斬られた。
竜造寺隆信の死が伝って、その軍隊は恐怖のあまり混乱し、皆背を転じて急に逃げ始めた。
彼等は啻に鎧のみならず、衣服をも脱し、身を軽うして追撃する敵より遁れんとし、負傷者及び死者の上を越えて逃げた。
かくの如き場合に恐怖は人に翼を与へ、重荷となるものは皆かくの如く急な破滅を免れる邪魔となるものである故、彼等は携へた物を棄て始め、
啻に槍、銃、弓矢、立派なる鎧及び黄金の飾を施したる兜のみならず、後方に聞えた叫喚は前方の死の像を示した故、剣も長剣も棄て、一層早く走るため、或る者は一切脱して裸体となった。
また乗馬の純然たる疲労のため地に倒れて死するものもあった。
▼火縄銃について語ろう▲
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156341397/
これだと薩摩兵が偶然隆信の前面に至ってそのまま首を獲ったという事になってるね
0329人間七七四年
2011/08/02(火) 03:15:09.54ID:aK2eVJjfその文章はところどころ捏造してあるじゃねーかw
ドン・プロタジョの有馬軍は後方の島津が陣取る山への合流をしようとしたが
島津からの援兵もなく合流も拒否られたから
山上の島津の下の麓で、島津前衛として敵を迎撃していて
有馬の船の大砲2門と共同でドン・プロタジョは迎撃して
隆信の息子2人ら最有力の軍勢を圧していた。
そして海岸の一部の竜造寺軍は敗走を始め、中央からやってきた軍勢と合流した。
それを眺めていた敗北必死の島津軍が有馬の闘いに驚嘆していた。
隆信は圧倒的優勢下に愉快げに「勝利は確実だ」と言い
島津軍は滅亡寸前で最後の自殺的抵抗をして少なからず敵を悩ませた程度だった。
たまたま戦闘の現場から離れていた島津の幾人かの兵が
しばらく徒歩で歩いて隆信の駕籠の前方に現れた。
後方の騒ぎ程度の認識だった隆信は味方同士で争っている場合じゃないと言ったら
川上左京が「我等はあなたを探し求めてきたのです」と言って槍で隆信を刺した。
息子達の敗走を止めるために隆信が中央から海岸の左翼の支援にきたのだろうが
戦端が開かれてない傍観していた右翼の鍋島の内通で
川上がゆるりと歩きながら中央を通過して左翼の隆信のところまで
鍋島の案内ゆえに迷いもぜずに至ったと思われ、それゆえ味方だと誤認した隆信が
あっけなく討ち取られているのがわかる。
0330人間七七四年
2011/08/02(火) 04:59:44.56ID:sDom76er0331人間七七四年
2011/08/02(火) 06:54:47.04ID:wUZgj7uc気になる単語だけ他所で調べたほうがいい
0332人間七七四年
2011/08/02(火) 13:08:35.25ID:oPTRB3bB無駄に>>328は長い駄文で誰も読まないよな〜
捏造に必死になる前に
まずはまとめる能力を学んだ方がいいわな。
0333人間七七四年
2011/08/02(火) 13:22:48.50ID:CFPYF50K鍋島隊を通らなければ進めない位置にいたん?
http://www.geocities.jp/fummyextra/0202.html
このサイト参考にするとそうは思えないんだけどさ
0334人間七七四年
2011/08/02(火) 13:34:41.60ID:oPTRB3bBそもそもそのサイトは島津の活躍を捏造してる。
実際の島津はほとんど活躍してないどころか負けてただけで
有馬と赤星が活躍が頑強に抵抗してたに過ぎない。
0335人間七七四年
2011/08/02(火) 16:52:40.86ID:EcXyIfpJそもそも有馬と竜造寺の最激戦地を突っ切るとか無理だしな。
0337人間七七四年
2011/08/02(火) 23:25:51.38ID:6U4uH8of0338人間七七四年
2011/08/03(水) 00:25:11.19ID:3MhHOBfo背後で本軍が士気崩壊起こしてるのに
0339人間七七四年
2011/08/03(水) 00:38:36.05ID:DZw4xjWH例えば戦史の数々でそういう事が頻繁に起きてきたから
同様な事例が起きても不思議じゃないと主張するの?
同様のことが起きた数々の戦いの具体例を挙げて下さい。
0340人間七七四年
2011/08/03(水) 01:41:33.61ID:/Fe5E3xK0341人間七七四年
2011/08/03(水) 01:57:54.37ID:eMwORmEdその後、開放されると鍋島の命令を聞く良い子に変身してる。
すると今度は江上家種が勝茂を養子にしたりと必死に
鍋島に迎合して関心を買おうとしてるが結局、
朝鮮出兵で鍋島配下として出陣し鍋島により釜山で狂死扱いされてるし。
0342人間七七四年
2011/08/03(水) 02:28:42.25ID:DZw4xjWH龍造寺軍を恐れている島津軍3000は追撃すらしてない。
だから江上や後藤も鍋島軍同様に大した損害もなく領国へ帰ってるどころか
諫早の西郷が島津や有馬に逆襲すると風聞がたち島津や有馬は島原防備に専念してた。
島津と赤星がサッカーボール扱いしてた隆信の首を所持した10人ばかりの島津軍が島原〜佐賀間にある後藤の領土を堂々と威圧行軍し佐賀城を包囲し隆信の首の返却を申し出る。
龍造寺幹部は降伏やむなしと震えていたが
1人鍋島のみが「籠城を続け降伏しないし、武運が絶望的に無い隆信の首なんて受け取ったら、こっちに不幸が移るからいらねーよ」と島津軍に言い放ったんだよな。
0343人間七七四年
2011/08/03(水) 07:15:57.92ID:HtdyLjm60344人間七七四年
2011/08/03(水) 11:20:57.11ID:IDaqPHvw0345人間七七四年
2011/08/03(水) 21:47:03.96ID:3MhHOBfogoogle earthで現在の地形を見てみる
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1861388.jpg
・緑の◯枠で囲った部分が沖田畷
・水色の部分は川
・赤い点が隆信が討死した地点
・鍋島隊の居たのは本光寺と川を挟んで0.4km程の位置で林がある場所付近
隆信は三会(赤い□枠)から2.3km進撃して渡川直後の地点で討たれた
川上の初期配置はおそらく本光寺から隆信が襲撃された地点までの1.5km内
青線上付近のどこかになると思う
0346人間七七四年
2011/08/04(木) 21:26:13.58ID:VD6valYk三会軍議で突然に隆信本隊→中央、鍋島隊→山手へ入替る。
鍋島の諜略で隆信は中央の泥沼を進軍する事となった。
0347人間七七四年
2011/08/04(木) 22:08:26.34ID:US6qeXlBいつの間にか戦場にやってきて
正面の島津軍と一切戦わず
追撃を受けず撤退も無傷
隆信の首の返却も受け取り拒否
いったい何しにきたんだ…
しかも島津軍迫るって危機的状況で
鍋島は佐賀に支援に来いって呼び戻し命令に
「それがしは死んだも同然」とか
何ら活躍もせず無傷の軍を持ちながら意味わからん返答して拒否り島津軍進軍阻止行動すら取らずに龍造寺本家を焦らせる始末。
結局、隆信の母が鍋島は隆信の兄弟も同然だからすべて任せるから来てくださいって頼まれるまで傍観を決め込む。
鍋島が佐賀に来るとすんなり兵を引く島津軍…
鍋島の自作自演臭が激しいよな。
0348人間七七四年
2011/08/04(木) 22:27:29.47ID:olsRNuvA龍造寺全体が四方八方からフルボッコにされてる時期なので信昌も動くに動けない状況
0349人間七七四年
2011/08/05(金) 11:44:02.90ID:eYlI9vJLそんなにヒドい状況になってない
耳川敗戦以来、ベテランがいない若者だらけの大友軍は黒木氏攻めで大苦戦してたから
龍造寺は倉町信光の派兵程度で対応できてる。
そもそもそんなにヤバいなら鍋島に佐賀に来いなんて言わないし、
鍋島本人も佐賀に行かないだろ。
鍋島が拒否したから龍造寺一族が困りきって
宿老代表で龍造寺信周が筑後川を渡り迎いに来て初めて動いてる。
それまで島津の侵攻を傍観してたのが鍋島。
督戦のため中央から移動してきた隆信の死んだ場所は右翼の有馬隊がいた森岳前方1500メートル。
隆信の前方には龍造寺左翼にあたる海側の江上と後藤隊が有馬隊と戦っている最中。
赤星の中央は小川・納富軍が陣に攻め寄せてくるのを死守。
島津隊は左翼に展開し猿亘・伊集院・新納と並んで左翼陣を形成し
龍造寺軍右翼の鍋島と神代と対陣していたと言うか両軍は傍観していた。
0350人間七七四年
2011/08/05(金) 15:19:26.05ID:FeblkH5k無理やり擁護してるやつって
関係者じゃねぇかと思っちゃうわ。
0351人間七七四年
2011/08/05(金) 16:17:06.83ID:LQoB3uEk0352人間七七四年
2011/08/05(金) 22:03:12.94ID:/INgtSMtそれはともかく、鍋島の文禄慶長の功ってどのくらいなん?
0354人間七七四年
2011/08/06(土) 10:04:54.73ID:45H5zWtp0355人間七七四年
2011/08/06(土) 10:17:17.73ID:vTAPfPVN0356人間七七四年
2011/08/06(土) 11:53:02.85ID:T69Mg2Y3王子二人も小西達の方が上手く交渉に使えそうだし
0357人間七七四年
2011/08/07(日) 20:48:06.87ID:6PGnwfJbちょっと調べれば戦術が華麗に決まった訳じゃない泥仕合だった事は分かるのに
0358雲龍院元信
2011/08/07(日) 20:54:22.46ID:AF4/a+jy0359人間七七四年
2011/08/16(火) 01:18:25.74ID:MoDq0X4Tっていう幻想を抱いてる人が研究者の中にもいるんじゃない?w
でも実際の戦国時代ってごちゃごちゃの泥仕合の中で勝敗決まることが多いよなw
通信手段も発達してないし組織戦術も完全に確立してないわけだし。
大勢で勝ってても目の前の戦場でそこの指揮官が死ねばその方面は壊走するしな。
全体では勝ってるから味方が救援に来るまで粘ろう!っていう意識はほとんどないわけで。
まぁそれが味方であっても各武将ごとに指揮系統が独立してる戦国の常識だし
だからこそ寡勢であっても相手の武将さえ倒せば勝利をもぎ取れるチャンスがあるわけだが。
0360人間七七四年
2011/08/26(金) 13:59:48.78ID:QDazOluS0361人間七七四年
2011/11/16(水) 11:57:44.38ID:6T/GPd3o軍記で戦がスペクタクルな脚色をされるのは仕方が無い
0362人間七七四年
2011/11/22(火) 23:08:47.74ID:Pzc7s+M70363人間七七四年
2011/11/23(水) 11:06:44.44ID:e5n9I8UV従五位下ももらっているな。
0364人間七七四年
2011/11/23(水) 16:30:06.79ID:n2XJrxuT0365人間七七四年
2011/11/24(木) 06:28:06.41ID:KjwSdEou中学のころになぜ九州の大名がこんなところにと思ったもんだ
墓前でなんどもサッカーしたことあるわ
いま思えばとんでもないわな
0366人間七七四年
2011/11/25(金) 14:41:29.51ID:jQ9/KZrvここか、茨城の鹿島と混同する人も居そうだ
0367人間七七四年
2011/11/26(土) 03:01:18.44ID:vdXUiKGq0368人間七七四年
2011/11/26(土) 23:57:58.86ID:u6CDVjch(忠茂公御代之馬乗歴々、平侍并歩行次第不同記より)
侍の1/3以上は元々龍造寺の家臣でまた下総国から来た者もいるとある。
0369人間七七四年
2011/11/27(日) 22:44:30.42ID:+wKWQ3nwおれが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ
その世界では有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だよ
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだね、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろ?
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