【武田】2万5千で上洛【信玄】その54
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0001人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:02:34ID:yYtI1/Rehttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209256180/l50
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0002人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:03:38ID:yYtI1/Re・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
0003人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:04:09ID:yYtI1/Reちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
0004人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:04:35ID:yYtI1/Re●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0005人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:05:04ID:yYtI1/Re・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0006人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:05:25ID:yYtI1/Re1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
0007人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:06:07ID:yYtI1/Re織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
0008人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:07:11ID:yYtI1/Re●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
0009人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:07:37ID:yYtI1/Re計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
0010人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:08:21ID:yYtI1/Re三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
0011人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:09:19ID:yYtI1/Re正月…五ヵ条の条書。
二月…織田信長、上洛。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第一次元亀の争乱)
四月…織田・徳川連合軍、越前に侵攻。浅井長政の離反により敗走。(第一次越前侵攻)
五月…守山合戦。織田家武将の稲葉良通、六角残党を掃討。
織田信長、千草峠を越えて美濃に帰国。
宇佐山城…森可成、
永原城…佐久間信盛、
長光寺城…柴田勝家、
安土城…中川重政、
それぞれ配置し南近江(湖南回廊)を確保。
六月…野洲川落窪合戦。六角義賢、敗走。
織田・徳川連合軍、北近江に侵攻。(第一次近江侵攻)
池田城で謀反。荒木村重、池田勝正を追放。
近江姉川で織田・徳川連合軍、朝倉・浅井連合軍に勝利。(姉川・横山合戦)
横山城…羽柴秀吉を配置し湖北に備える。
七月…織田軍、佐和山城を包囲。(翌年二月まで)
織田信長、上洛。次いで美濃に帰国。
三好三人衆と三好康長、畿内に出陣。
斎藤龍興、三好三人衆側に参加。
安宅信康、兵庫に上陸。次いで尼崎に布陣。
八月…古橋城合戦。三好長逸、攻略。次いで高安城の松永軍と対峙。
織田信長、上洛。
織田・足利連合軍、河内、次いで摂津に進軍。(野田・福島合戦)
九月…石山本願寺、蜂起。(第一次石山合戦)
朝倉・浅井連合軍(湖北十ヶ寺も含むか?)、南近江に侵攻。(第二次近江侵攻)
坂本合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。織田信治と森可成、戦死。
宇佐山城合戦。朝倉・浅井連合軍、大津から山科に転進。
織田・足利連合軍、摂津から撤退。
織田軍、志賀に着陣。(志賀・堅田合戦)
朝倉・浅井連合軍、比叡山に布陣。比叡山延暦寺、協力。
篠原長房、兵庫に出陣。
十一月…小木江城合戦。長島一向一揆、勝利。織田信興、戦死。(長島一向一揆)
堅田合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。坂井政尚、戦死。
織田軍、六角残党と和睦。さらに篠原長房とも和睦。
十二月…織田軍、朝倉・浅井連合軍と和睦。
織田信長、美濃に帰国。
0012人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:10:01ID:yYtI1/Re正月…篠原長房、阿波に帰国。
宇佐山城…明智光秀を配置。
二月…佐和山城の磯野員昌、織田信長に投降。
佐和山城…丹羽長秀を配置。
肥田城…蜂屋頼隆を配置か?
備前児島の本太城で反毛利の軍事行動。(毛利と村上の間で確執か?)
四月…本太城、包囲戦の末に落城。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第二次元亀の争乱)
五月…箕浦合戦。浅井軍と湖北十ヶ寺の連合軍、敗退。
織田軍、北伊勢に侵攻。(第一次長島合戦)
柴田勝家、負傷。氏家直元、戦死。
篠原長房、備前児島に出陣。(反毛利行動による浦上への支援)
交野城合戦。松永久秀、安見直政を攻める。安見直政は自害。(三好・松永の乱)
これより摂津・河内・大和は争乱状態に。
六月…吹田城合戦。和田惟政、吹田城を攻め落とす。
篠原長房、阿波に帰国。
高屋城合戦。三好義継と松永久秀、畠山昭高を攻めるも撤退。
七月…篠原長房、河内に出陣。
和田惟政、三好義継・松永久秀の連合軍と戦う。
八月…織田軍、近江に侵攻。余呉・木本を放火。(第三次近江侵攻)
辰市合戦。筒井軍、三好・松永連合軍に勝利。
郡山合戦(白井河原合戦)。荒木村重、勝利。和田惟政、戦死。
九月…志村城合戦。織田軍、攻略。小川城、開城。(第一次湖南一向一揆)
金森城合戦。川那辺秀政、降伏。
織田軍、比叡山延暦寺を焼き討ち。(比叡山焼討)
坂本城…明智光秀を配置。これにより湖南支配が強化。
織田信長、上洛。
織田信長、竹内季治を斬首。(竹内事件)
織田家武将の明智光秀、高槻城に救援。
この頃、織田信長、細川信元と石成友通たちと和睦か?
織田信長、美濃に帰国。
十月…宮部城の宮部継潤、織田信長に投降。
槙島城合戦。三好義継・松永久秀の連合軍、攻勢。
高屋城合戦。三好康長、攻勢。
十一月…篠原長房、高屋城包囲戦に合流。(〜十二月までか?)
0013人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:10:23ID:yYtI1/Re正月…金森城・三宅城で合戦。六角残党と一向一揆、敗退。(第二次湖南一向一揆)
二月…利根川対陣。(上杉×北条・武田)
三月…織田軍、近江に侵攻。余呉・木本を放火。(第四次近江侵攻と河内侵攻)
木戸城・田中城で合戦。
織田信長、上洛。(織田信長、細川信元・石成友通と謁見)
四月…交野城合戦。織田家武将の佐久間信盛や柴田勝家ら、三好・松永連合軍に勝利。
(他に明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・池田勝正・伊丹親興・和田惟長らも参加)
五月…織田信長、美濃に帰国。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第三次元亀の争乱)
七月…織田軍、近江に侵攻。小谷城合戦。(第五次近江侵攻)
朝倉義景、小谷城に後詰。
毛利輝元、備前に侵攻。
八月…朝倉家武将の前波、魚住、富田らが織田軍に投降。
織田家武将の中川重政、失脚。
摂津中嶋城合戦。細川昭元、三好・松永連合の攻撃を受ける。
九月…織田信長、美濃に帰国。(朝倉軍は小谷城に滞陣のまま。)
一七ヵ条の異見書。
岩村城の城主の遠山景任、死去。
十月…武田信玄、甲府を出陣。
第一次岩村城合戦(時期諸説あり)。織田軍(河尻・池田らか?)、攻略。
毛利輝元と浦上宗景、講和。
十一月…第二次岩村城合戦。武田家武将の秋山信友が攻め、開城。
二俣城合戦。開城。
安宅信康、義昭信長に降伏。
十二月…朝倉義景、越前に帰国。
織田信長、佐久間・水野・平手らを援軍として徳川家康に派遣。
三方ヶ原合戦。武田軍、織田・徳川連合軍に勝利。
摂津中嶋城合戦。再度、三好・松永連合の攻撃を受ける。
上村合戦(時期諸説あり)。武田軍、遠山残党に勝利。
この頃…浦上宗景、三村元親、尼子勝久らは織田信長と誼を通じる。
宇喜多直家は毛利輝元と誼を通じる。
0014人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:10:48ID:yYtI1/Re正月…野田城合戦。(二月に落城)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第一次将軍蜂起)
二月…近江石山城合戦。落城。(第六次近江侵攻)
摂津中嶋城合戦。三好・松永連合軍、勝利。細川昭元、堺へ逃走。
今堅田城合戦。開城。
三月…織田信長、上洛。細川藤孝と荒木村重、織田信長に臣従。
高槻城で謀反。高山重友、幕府派の和田惟長を追放。
四月…織田信長、上京に放火。二条御所包囲。
織田信長と足利義昭、和睦。
鯰江城合戦。六角残党と一向一揆、敗退。(第三次湖南一向一揆)
百済寺焼討。織田信長、美濃に帰国。
武田信玄、死去。
六月…高屋城で謀反。遊佐信教、畠山昭高を殺害。三好康長、入城。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第二次将軍蜂起)
七月…織田信長、上洛。
二条御所合戦。三淵藤英、降伏。
槙島城合戦。将軍足利義昭、降伏。次いで追放。
上桜城合戦。篠原長房、三好長治に攻められて戦死。
0015人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:11:30ID:yYtI1/Re>1-17テンプレ
>18-55武田が徳川領切り取りに専念したら・その間織田はどう動くか
>40-54武田が織田との同盟を維持していれば・織田の外戚同盟者への扱い
>55天正初期畿内年表
>56-114織田の畿内への対処
>74-81浜松岡崎などを攻めた場合
>82-134東美濃について・武田による美濃攻めの可能性
>106天正初期織田軍年表
>136-190吉田城を落とせたらどうなるか
>140-168領土交換は可能かについて・武田は織田と再同盟したかったか
>167-190織田のとるべき行動・信玄が生きていても大勢は変化無しか
>186-229武田上杉北条間の外交について
>230-298東三河を2ヶ月で支配し岡崎強襲して数日で落とせるかについて
>297-310どうすれば上洛が出来るか・どの時期なら可能だったか
>311-312小田原遠征について
>316-523東三河を2ヶ月で支配し岡崎強襲して数日で落とせるかについて
>316-324小谷城が瞬殺された理由
>370支城無視して本拠を一気に落としたという成功例
>417-447七尾救援と畠山春王丸について
>432-460岡崎城と三河の支城について
>459三河国のお城一覧リンク
>438-459人質はどこに置かれるか
>453-521嫡男戦死の影響について
>484-527兵農分離・貨幣経済について
>512-528 >653-667長島について
>543-597 >666東三河を2ヶ月で支配し岡崎強襲して数日で落とせるかについて
>549-556 >657-669本拠地移転
>554三河の城リンク
>554-583軍役動員力・一万石でどれだけ動員できるか
>567兵站を維持するのに必要な人員試算
>598-667美濃越前間の軍事行動の可能性について・朝倉家の内部状況
>653-691包囲網の状況
>673謙信年表
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>733-738出陣までにかかる時間
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>842-877農民兵の実体について・農繁期の動員・大名の経済力
>867-879 >896-901対上杉のために必要な守備兵力について
>892-901後期信長の直属の兵力について
>897-918各大名の経済状況
>916織田の軍事行動期間一覧
>924-947各大名の守備兵力・北信濃の守備兵力・美濃越前間の軍事行動の可能性について
0016人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:12:10ID:yYtI1/Rehttp://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/14.html
【武田】2万5千で上洛【信玄】 (避難所)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/computer/34542/1191676222/
0017人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 04:14:33ID:Cxq4mAhS0018人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 11:41:39ID:wYBmJcR/しかし、このスレでは信長が戦力的に断然有利であろうと結論している。
なぜか?
このスレでは、過去の資料などを持ち出してもっともらしく議論されているように見せて実は所詮ゲーム脳の発想しかないからだ。
総石高が何万石だから総兵力が何人。
このような考えがそのまま当てはまるわけが無いのである。
第一次包囲網当時の信長は美濃・尾張以外に近江・京など近畿に勢力を広げているが、まだ確固たる支配体制を整えていない。
近江で織田に付いた勢力は近江での戦で織田に味方する勢力であり。
京付近で織田に付いた勢力は京付近の戦で織田に味方する勢力。
全てがそうではないが基本的にはこのようなもの。
つまり、実際に信長が自由に動かせるのは尾張・美濃の兵力のみ。
信長の家臣である柴田・丹羽・木下・明智などの将が率いる兵も当然尾張・美濃兵である。
第一次包囲網は信長が尾張・美濃兵を率いる家臣達を近畿各地に派遣し、その地域の味方勢力の協力の元敵に当たると言う図式である。
尾張・美濃の動員は3人役どころではなく4人役・5人役の状態であり、到底さらに尾張・美濃兵で武田に立ち向かうなど出来ない状態である。
0019人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 12:19:28ID:EkrYb9bS>京付近で織田に付いた勢力は京付近の戦で織田に味方する勢力。
それなら織田が優勢な京や近江の防衛は全く問題ないじゃない
尾張、美濃から兵を派遣するのは一部の指揮官クラスで問題なし。
守るだけだし戦況は五分で充分。圧倒的な勝利は必要なし
調略、裏切り含め現状維持同然なら織田の勝ち
織田は順調に進出しており、武田の侵攻が継続しない限りそのまま支配を固めてしまう
京や近江の軍まで岐阜や東海道に派遣するなら浅井、朝倉、本願寺などが脅威になる
それと>>3のテンプレにも
>無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
とはある
ついでに武田本隊に対しても徳川の体制が崩壊しない程度に対処しておけばいいだけ
織田側からの決戦の必要性は低い
以上テンプレからは外れる考察
0020人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 15:34:34ID:uqY3Vnbgこのスレは石高だけでおおよその兵力を計算しているけど
経済や各国の人口も含めて考えたら武田のほうが圧倒的に不利になると思うんだが
それでいいの?
0021人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 20:15:49ID:QIEYBFxx信玄の死が大して影響ないって主張してる奴って
井沢ぐらいでねwww
しかも胡散臭い逆説でwww
0022人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 23:53:39ID:avm0lv5Jそもそも今のままでは武田に都合よく計算されてるんだけど
0023人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:03:16ID:xNkCo9R4ウィキを読んでも、武田はとても間に合わない
あれは上洛作戦とはいえない内容だ
さらに、朝倉が出兵をやめ戻った時点で決定的に破綻している
結局、信長の電撃作戦のスピードに誰も付いてこれなかったというのが史実だ
0024人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:03:47ID:VdvG1Chw前スレ>>999
>9が前提になってる
朝倉などの遠征能力(機動力といいかえてもいいか)のある勢力に比べれば防御の兵は少なくてもいい
長島自体が織田の勢力圏に包囲されてる状態でもあり
>3の
>無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
からすれば俺から見れば過剰な防御人数だと思うが
0025人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:31:01ID:+Zp+o4/Hwikiを鬼の首とったようにかざすのは・・・。
>>24
過剰か?長島が包囲されるのは1573年9月の第2次伊勢長島攻め以降でしょ?
信玄死んで武田が引き返して半年近くたった後の。
1573年4月で信玄生きて進軍続けるなら包囲とはいえないのでは。
0026人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:44:02ID:05cprYUK疑問なんだけど
上洛してなにするのよってかんじだな
徳するのは足利と近畿内勢力ぐらいだろ
武田場合、権威を全国に流布できるぐらい
結局、最大勢力の織田を潰せば
天下人候補の筆頭席が与えられるってことでしょ
だから、武田が美濃尾張を平定すれば
実質、最大勢力になるから
天下をとったことになるわな
秀吉、勝家の例でみれば確実
0027人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 00:55:51ID:xNkCo9R4一々反論しなくていい、お互い時間の無駄だから
>>25
特に重要なのは日付だよ、農繁期になったら撤退だから
>>26
よくウィキくらい読めよ
徳川の支城、落としてるのに1ヶ月くらい掛けてる、スピード0なんだよ
あれでは徳川ですら息を止められないうちに撤退だ
0028人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 01:01:29ID:+Zp+o4/H農繁期になったら撤退とかまさか兵農分離とか信じてない?
戦国の軍隊は軍役衆だから別に困んないでしょ。
0029人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/09(月) 01:16:10ID:05cprYUK上洛自体、意味がないってことね
この遠征で徳川を屈伏させ
隣接した尾張美濃を平定すれば
実質、決戦に勝利したことで
天下人ってことでしょ
0030人間七七四年
2008/06/09(月) 10:08:49ID:VdvG1Chwwikiと地図見ればわかるが長島は織田の勢力圏の真っ只中にある
勢力圏を維持し、一向一揆の活動に制限さえ加えることができればいいんだし
長島自体を武力鎮圧や兵糧攻めをしようというわけではない
長島の攻撃さえしのげればいい
>>28
軍役衆とはいえ裏づけになる財力が織田と武田じゃ雲泥だし
駿河をとったばかりで商業力なども怪しいので
無理せず農繁期には帰ると可能性が高いと思われる
決戦をしかけるなら別だが
>>29
いくらなんでも徳川を屈服させるのと尾張美濃を平定させることは別だと思うが
尾張美濃平定が条件なら織田との決戦は回避不可能
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