福島の戦いで伊達に惨敗した上杉軍のことは、慶長5年10月時点で徳川家康に報告されている。
島津と違って、最上にも負けた上杉は、武力殲滅がふさわしいと考えたのだろう。
家康は、明年春の雪解けを待って、福島へ侵攻することを政宗に約して、一端兵を退かせている。

福島の戦いは伊達成実の『成実記』のその概要が記されている。伊達の侵攻を警戒した上杉が福島
表で迎撃態勢を調えていたが、伊達勢が押し込むようにしてその大半を瀬上町で粉砕、福島町へ潰走
させた。そのとき、政宗は上杉の首級100余を見聞したとある。伊達軍は翌日には梁川方面に出て
帰陣。上杉軍の掃討戦だったことを示している。この戦いでは伊達成実は、上杉領内で大量の内応者
を出させるなど、主に謀略将校として活躍している。