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1600年2月10日に2年に渡る向羽黒山城の改修が終わったので
かねての計画にそって(大坂城・広島城・神指城)を開始しただけです。
これに伴って佐竹家より築城に詳しい車丹波守猛虎ら家臣300人が派遣され3月18日に神指城が築城されます。
4月1日に築城による上杉の増強を恐れた家康が上洛催促・改修について詰問する。
4月14日に兼続が返書を出しているが
(直江状は後世の作り話ある・家康はどう返答しようがどっちにしろ大坂・広島級の城作りを阻止するつもりでしょう)
5月3日に会津征伐を宣言。5月10日には早くも神指城の二ノ丸の工事を開始し12万人を動員。
6月1日にはついに神指城の本丸と二ノ丸の土塁と石垣、水堀と門が完成。
6月10日に下野北部や陸奥白河の防御力をあげるように命令してるので国境はかなりの堅塁化しており7月24日に家康が小山でストップです。
こんな感じで神指城はほぼ完成をみてるんですね。
要するに家康が来なかったから神指城に籠城する必要がなくなったんです。
家康が会津に侵攻してきたら神指城は広島城並みの非常に頼り甲斐のある巨城だったでしょう。
ついでに関が原後に家康の命令で廃城にしてるだけです。まったく新府城とは築城経緯も築城思想も違いますね。
それと対立してから築城したわけでもありません。最初から築城予定だったし家康は築城を根拠に戦をふっかけたんです。
直江状はまったくの講談話で、これを持ち出して貶す人間は史実を知らない無知と言ってもよいですね(笑)