\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
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0001人間七七四年
2008/03/09(日) 00:03:06ID:FfuX1AuH若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204974533/
0002人間七七四年
2008/03/09(日) 00:13:43ID:Kyk6iZ6b常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
だが向こうはレスが900超えてるんで次スレとして使用されるべきか?
0003人間七七四年
2008/03/09(日) 00:24:17ID:FfuX1AuH0005人間七七四年
2008/03/09(日) 01:03:40ID:Q93wzTLx0006人間七七四年
2008/03/09(日) 02:48:50ID:Lm1o5GVw0007人間七七四年
2008/03/09(日) 10:48:19ID:KMClk/zl0008人間七七四年
2008/03/09(日) 12:29:29ID:f7mnEjG/こちらへ移動してください
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
0010人間七七四年
2008/03/12(水) 17:40:34ID:RkCGS8Si0012人間七七四年
2008/03/12(水) 18:22:06ID:RkCGS8Siたぶん陸中以北は少なくとも南陸奥には入らないと思うなあ
陸前のうち大崎あたりはともかく伊達領は入ると思う…んだけど…?わからんですw
いずれにしても北関東はともかく南奥州の盟主までいくと
佐竹贔屓したい俺から見てもやりすぎと突っ込みをいれさせてもらいたい
0014奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/03/13(木) 00:06:00ID:DTjcfbOK0015奥七郡の人
2008/03/13(木) 21:19:13ID:Sg5EWhgu江戸氏でも建前上の関係だし
大掾となると更に外に位置する
0016人間七七四年
2008/03/16(日) 00:56:13ID:eI99IiuA関東、南奥州の盟主になったつもりで武田家無き後は源氏之頭領になった気になり
若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒されまくり
武田信玄、上杉謙信にはびびりまくりの妄想だけは戦国最強武将佐竹義重のへたれを語り合おうではかいか!!
これの方がふさわしいぞ!
0017人間七七四年
2008/03/16(日) 22:59:32ID:iBeTeWZLこんな事誰も言ってないし書いてもない
>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?
>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?
結論 >>1=北条厨
0018人間七七四年
2008/03/16(日) 23:12:46ID:0WRWWAs10019人間七七四年
2008/03/17(月) 23:49:22ID:XVVvLP5/0020人間七七四年
2008/03/21(金) 16:00:39ID:0ZXVw9Ng0022人間七七四年
2008/03/22(土) 22:43:13ID:7DLOrDav0023人間七七四年
2008/03/24(月) 21:51:08ID:oPx6PBUJ0024人間七七四年
2008/04/13(日) 17:58:56ID:16A4lpEY0025人間七七四年
2008/04/13(日) 18:19:31ID:vQBEjTg8仲悪すぎだろ。
0026奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/04/13(日) 23:20:36ID:TneVOK7w0027人間七七四年
2008/04/20(日) 03:38:06ID:EntL3eQzだからこそ、骨肉の争い・泥沼化。
まあ、輝宗当主時はそうでもないが…。
0028人間七七四年
2008/04/22(火) 07:24:26ID:oXx/iOYO政宗「叔父上、叔母上はお元気ですか?」
義重「あぁ、元気じゃ。いつもソチの事を案じておるわ。」
政宗「叔母上には色々と助けて戴きましたゆえ…」
義重「だったな…」
政宗「宜敷くお伝え下さい…」
義重「伝えておこう。義宣や義広には内緒にな…」
政宗「恐縮です」
0029奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/04/23(水) 01:02:09ID:5LkUsh+F0030人間七七四年
2008/04/23(水) 12:56:13ID:amUM+Cxg実は義重と政宗は八百長やっていて、律儀な義宣だけが奥州の反伊達勢力を結集してまじめに戦争している図が浮かんだw
003128
2008/04/27(日) 03:09:58ID:vAwS0oIFそう感じましたか…
私は義重夫人が実家(伊達)の為に色々と暗躍した…って事と、それを知りながら夫人を咎め立てしなかった義重の懐の深さを表現したつもりだったのですが…
しかし義重夫人って、どんな女性だったのだろう?
良く言われる様に、婚家より実家を第一(大切)に考えた(活動した)…実の息子より実家の跡取り(甥)を優先したのでしょうか?
0032人間七七四年
2008/05/23(金) 03:38:30ID:ocnQwiEq義昭・義重・義宣の三代で…じゃなくて義重・義宣の二代で…
茨城県と秋田県が協力して大河誘致運動すれば良いのに…って。
今、茨城県は塚原卜伝の誘致をしてるけど。
0033人間七七四年
2008/05/24(土) 19:26:11ID:pHpM4Cl01年持たせるのはきついよな
0034人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 05:11:54ID:WK+t6kin0035人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/06(金) 23:02:54ID:GHIW1RFpでるよ。少なくとも義宣は
0036人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 00:29:24ID:DQG3qnay石田三成の大河ドラマなら出るけどね、上杉家の家来の話だもの。
まあ、そんなには出ないよな
0037人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 01:30:56ID:cAxka0iT無 理 す ぎ る
0038人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 12:59:43ID:hgp+GdMK0039人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 20:47:40ID:lpyFVPg+数年前の茨城県立歴史館での「佐竹展」で、赤い旗指物が展示されてました。
秋田からの借り物です。
秋田へ行って見て来て下さい…とは軽々に言えませんが、お近くにお寄りの際は是非とも…orz
0040人間七七四年
2008/06/10(火) 00:51:09ID:+6KyY5bb役者はケンどーこばやし??
0041人間七七四年
2008/06/11(水) 21:36:12ID:eUo3B+sy徳川に対する上杉&佐竹と、漁夫の利を狙う伊達、東に陽動されている家康を見て呼応する三成&島左近。
move、or not move、that's probrem!な状況で。
0042人間七七四年
2008/06/12(木) 02:58:47ID:1Jcpa9La祖父曰くご先祖さんだとさ
本家は茨城県岩瀬
0043人間七七四年
2008/06/18(水) 18:08:02ID:r7Kw/zfHもしお祖父様のお話が本当なら、真壁の家臣か組下かもね。
常陸平氏(大掾系)なのか、藤氏秀郷系なのか…。
ちなみに貴家の家紋は?
0044人間七七四年
2008/06/18(水) 20:55:25ID:URI+M4ms0045人間七七四年
2008/06/18(水) 23:35:13ID:kPI8BnVk丸に笹竜胆と丸に一引きっす
0046人間七七四年
2008/06/18(水) 23:40:57ID:kPI8BnVk自分でも色々調べたんですが…中々分からず
祖父があの世にいっちまう前に調べたくて
(´∀`∩;)
昔の家系図は泥棒にパクられて行方不明に
0047人間七七四年
2008/06/19(木) 06:10:46ID:5JGUASH1青柳は全国に多い名字。
常陸にいた青柳で最も勢力が大きいのは江戸家臣の青柳氏。清和源氏義光流武田一党。
それ以外はシラネ
武田信親の二子信雄、武田弥七郎と称し、須賀村を食む、
のち江戸氏に属し、行方郡青柳村を領す、
子左大夫信利、その子信家、大膳という、その子信正藤左衛門と称す、
天正十六年、佐竹氏の為に没落し、流浪す、天下統一の後、
再び青柳村の古館に住し、青柳氏と称す、子信勝善右衛門と称す、
その二子勝貞、信之あり、勝貞の子貞信、式部と称し、享保中水戸侯に謁す、
その子信嗣、子信栄(青柳系図)
以上新編常陸国誌より
0049人間七七四年
2008/07/23(水) 12:28:26ID:1a+dTQi7義重の肖像画なんてあったか?義宣と間違ってる気がするが
0050人間七七四年
2008/07/23(水) 17:34:17ID:VON6xOKQ光栄の佐竹氏の幟が白地だったから誤認してたよ
そうか赤か。かっこいいな!来年の大河に登場を期待したい
0051人間七七四年
2008/07/23(水) 18:52:29ID:RpC0bJ4Eうちにあるのは白地に黒だし
0052人間七七四年
2008/07/23(水) 21:21:56ID:vyKXeMze0053人間七七四年
2008/07/24(木) 01:16:47ID:GNRTlxYZ頼朝の佐竹攻め受ける前は、源氏筋でありながら親伊勢平氏勢力だし、地元の親分格吉田氏も平氏だし。
赤=平家、白=源氏。
>>50
佐竹が赤指物翻すのなら源平合戦まで遡らないと。
005439
2008/07/26(土) 01:19:30ID:fk0SmwpD赤地に白ではありません。訂正致します。
0055人間七七四年
2008/07/26(土) 02:43:54ID:KJrQPyKc0056人間七七四年
2008/08/17(日) 12:04:48ID:Scj2QxqEあれって本当なの?
出所が確認できないので信用していいのかどうか迷うんだけれど。
0057人間七七四年
2008/08/26(火) 18:54:25ID:mMgeV1Phttp://raxel.blog21.fc2.com/blog-category-9.html
ttp://www.kougetsu.co.jp/htmls/S-42.html
0058人間七七四年
2008/08/28(木) 04:24:15ID:O/sOkD9k義重や義宣が史実では関わらない場所にまで
出没してくることになるよ。一豊やまつみたいにw
0059人間七七四年
2008/08/31(日) 03:58:22ID:nz1mntS20060人間七七四年
2008/08/31(日) 11:35:37ID:td9zvdMQttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%87%8D
0063東義久ってどお?
2008/09/17(水) 09:50:39ID:78Aw6xBgザッと調べてみたが、どうやら『義昭家譜』だけらしいよ。
という事は、2つの理由が考えられます。
1.佐竹側の拡大解釈。
2.義昭が断ったので、上杉側の資料に記載していない。
これは皆さんの想像に任せます。恐々謹言。
006456
2008/09/17(水) 10:49:03ID:9Nqs2vzMおお、これは有益な情報ありがとうございます。
仮に事実だとしても佐竹側しか記録に残さないでしょうけれど、
それにしても諸条件から鑑みてありえない話のような気がしてなりません。
0065人間七七四年
2008/09/17(水) 12:36:32ID:49KDUOUPお供つけて全国行脚って設定で
0066東義久ってどお?
2008/09/17(水) 14:13:34ID:78Aw6xBg「管領譲渡の話」ですが、実は私もほんの少し気になっていました。
「憲政自ら常陸へ行った」というのは、眉唾物だと思いますが…
本当のところは「使者を送って打診した」ぐらいでしょうね。
0067人間七七四年
2008/09/19(金) 01:40:38ID:QtNSSukv何も憲政が常陸まで出向かなくとも下野辺りで落ち合って会談した可能性はあるのでは…などと想像してみる。
が、使者を遣わし口上述べさせた…ってのがやはり妥当でしょうね。
管領様からの御使者に対して一門重臣総出で饗応しただろう…だから佐竹に記録が残ったとも考えられる。
0068人間七七四年
2008/09/19(金) 17:03:20ID:OFx11GNoでも、憲政の領地の上野や武蔵あたりまで維持できるか?となると、
当時の佐竹氏の力では、そこまで遠征するのは難しかったんじゃないか?。
後年、栃木南部が北条軍に押されて、佐竹氏は何度も後詰めしているが、
やっとという感じ。軍勢は、南に行ったと思ったら、次は福島県の方に
北上したりして、南と北で大忙し。
0069人間七七四年
2008/09/20(土) 04:54:07ID:D9RWt+LL義昭は今更「家名」を貰った所でマイナスばかりでメリット無し
「上杉」を名乗ったら、一門が許さないだろうし…対北条への思惑もあっただろう
「管領職」だけを受けるのなら、必ずしも北条との敵対を意味しないだろうな
と、思った
0070人間七七四年
2008/09/27(土) 13:50:13ID:2rV+hiuN管領職を譲られても謙信のように北関東を一時的にまとめあげることも叶うまい
0071人間七七四年
2008/10/01(水) 17:04:18ID:cQaA1uGM0072東義久ってどお?
2008/10/02(木) 15:41:42ID:gHAvo8a2弘治二年(1556)頃まで義昭は、白河結城氏に対する北上政策一本だけで…
太田より南の江戸・大掾・小田や、西の宇都宮(というか放浪中の広綱)と仲が良かったようだよ。
南下を始めて小田と戦うようになったのは…海老島の戦い辺りでしょうかね。
>>69-70さんへ。これはあくまでも私見ですが…
その頃、北条や里見が独断で「管領」「副将軍」を名乗っているから、問題ないと思いますよ。
ただ、>>69さんの言う通り「一門が反対した」が「今の所」一番真実に近いように思います。恐々謹言。
0073人間七七四年
2008/10/02(木) 19:23:00ID:4Vwy1rOB名乗っても上杉謙信のように関東管領というネームバリューを
フルに近い形で利用するのは難しいんじゃないの?って話
0074人間七七四年
2008/10/06(月) 12:29:29ID:ZvBhGYvU義昭は旧体制からの飛躍を目指していたから、どちらかと言うと北条なんかの思想に近い
0075人間七七四年
2008/10/06(月) 13:55:27ID:rEDdBVoX0076東義久ってどお?
2008/10/13(月) 15:24:45ID:hEfmoIx9義昭時代の政治・軍事力は、やや低かったのでしょうか?
永禄七年(1564)1〜2月や九年2月の小田攻めを見ても、小田領は(常陸国で)自身の守護管掌国であるのにも関わらず、謙信(の政治・軍事力)に頼っていたようですし…、
前者ではその後、北義廉が小田城代になったけど、簡単に氏治に奪回されていますね。
加えて、自らも府中に移住してまで力を入れた、大掾乗っ取り計画(永禄七年6月〜九年6月27日)も僅か3年で頓挫してますね。
常陸南部に対して政治・軍事力を高めたのは…
太田三楽斎父子が片野に入城(永禄九年6月28日)してからでしょうね。
>>74さんへ。
いいとこ突きましたね。それを失念していました。お見事です。
これは以前「\●/佐竹氏を語るスレ 其の2」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
でレス574の顔文字さんも語っていたのですが…
義昭は府中に居城を移したり、旧小田領に対して検地するetc.していたから、
今川北条武田以上信長・宇喜多直家と同じ位、肩書きよりも現実主義・実力主義だったかもしれないね。
(ただし、朱印状や分国法・分検帳がないけど…)恐々謹言。
0077人間七七四年
2008/10/13(月) 17:18:06ID:dTudji6b小田城が奪還されたのも大掾の取り込みが頓挫したのも義昭の死後だよ
小田攻めは謙信の関東管領就任後だから共戦するのは自然だと思う
佐竹が常陸守護と言っても、小田氏もまた幕府から所領を安堵されているわけで
佐竹が独断で潰していいという事はない
その点、公方や管領を味方陣営に引き込めばその大義を得る事ができる
謙信にしても管領就任間もなくだから力を誇示して関東衆を掌握する必要があった
双方の利害が一致した結果として行われたものだ
無論、関東衆にとって謙信の持つ兵力が魅力的であったのは間違いない
0078人間七七四年
2008/10/14(火) 06:02:41ID:ChlxBYbR南関東は北条は纏め上げたと言うより領国化を進めてたが…
ここで一つ皆さんに考えて戴きたいのは「左京大夫」は南奥などの諸大名に乱発されてるのに対して「右京大夫」はほぼ関東では佐竹のみって事
たしか足利幕府の右京大夫って細川管領家…じゃなかった?
0079人間七七四年
2008/10/14(火) 08:16:49ID:Irp0eGmE確かに足利幕府では右京大夫は細川管領家しか任じられない官途。
つまり右京大夫=管領ということなんだな。
知ってのとおり関東独立志向の関東公方は、
京都寄りの関東管領上杉家と仲が悪かった訳だ。
そこで関東公方は「私的な」管領を任じることで、関東の体制を見直そうとした。
佐竹義人は血脈も管領に値する人物だったことから、
足利持氏は京都とは関係無しに義人を「右京大夫」にした。
佐竹はそれ以来「関東だけの右京大夫」を名乗った。
何故佐竹に上杉憲政が関東管領を譲る気になったのか、
何故佐竹が北関東南奥の盟主になれたのか、ちゃんと理由があるのだ。
同じように岩松や小山も右京大夫を名乗ったことがある。
だが数代後の子孫にまで受け継いだのは佐竹のみだろう。
ついでに里見は関東公方の政所管理関係者だったっぽいので、
これまた「関東副将軍」を名乗る下地があったということだな。
佐竹の関東での政治的立場は中央も知っていたらしく、
織田信長は佐竹義重に初めて手紙を送ったとき「左京大夫」と下り書きしている。
「右京大夫」は慣例からダメなので左京大夫にしたんだろう。
ただ山内殿に遠慮したのか京都に配慮したのかは知らないが、
佐竹義重自身が「佐竹右京大夫」と示された例は知らない。
子の佐竹義宣は正式に朝廷から右京大夫を任命された。
足利幕府が滅亡してフリーになった「右京大夫」を、
故事を知っていた秀吉が義宣に名乗らせた訳だ。
こういうところは秀吉の粋なところであり、おっかないところでもある。
ちなみに戦国時代の越後の上杉と佐竹の通常の動員兵力は同じくらいだ。
5000よりは多いが10000まではいかないくらい。6000〜8000くらいだな。
永禄四年の大小田原攻めといい、永禄七年の小田攻めといい、
佐竹義昭は山内殿をフルにコキ使って自制力の拡大に利用しているな。
こういうことを言うとまた荒れるかもしれないけどな。
0080人間七七四年
2008/10/14(火) 10:44:24ID:t1v7XdzA0081人間七七四年
2008/10/14(火) 11:23:20ID:/5YJ4vxIだから越後上杉の5000と佐竹の5000は質が違うと思う。
能力の高低じゃなくて、家臣掌握の問題ね。
0082人間七七四年
2008/10/14(火) 12:40:15ID:t1v7XdzA土地土地によって支配の形も違う
0083人間七七四年
2008/10/20(月) 10:32:02ID:VUtgz3xv0084人間七七四年
2008/10/20(月) 12:23:37ID:cAFXcO2Z宿老で佐竹家中で最高位の権力。
東、北、南、小貫、和田、梶原と同格で、こいつらとタメ口をきける立場。
仕事としては、上記の連中と違って、常に当主のそばにいて、
外交、内政、軍事にわたるかなりの権限をもった。
公方、管領、関東八館などが書状を送るときには岡本が奏者となる事が多く、
また佐竹の直轄地および新たに入手した土地の年貢の管理、
外様的立場にある地侍等の三分の一上前の上納請求、
戦争での戦術、戦略に関する参謀などなど、家中最大の実力者。
0085人間七七四年
2008/10/22(水) 20:45:15ID:0bokgfdA岡本家は出羽でも家老職を出した家柄。
0086人間七七四年
2008/10/23(木) 12:18:47ID:oY/Vetbu佐竹関連の書状を見ると梅江斎宛てのものが非常に多いけど
いまひとつ岡本氏の実像が掴めない
0087人間七七四年
2008/10/24(金) 12:18:22ID:5j3zVTYY岡本氏は藤原秀郷流で鎌倉幕府御家人の家系。
もとは奥州の岩城付近に所領を持っていて、
次第に強くなった岩城氏に法体で家臣となった。
(法体で家臣となったということは所領をほぼ全て没収されたのかもしれない)
そして佐竹山入の乱に岩城氏が介入した時に、
岡本妙誉が直接反佐竹勢力との間に入って交渉し、
佐竹義舜に所領を貰い、やがて次第に佐竹家臣化していく。
この頃一時妙誉は在京していたこともあり、ここに京都とのつながりがある。
太田では松山という場所に少林院という禅寺を構えて定住。
妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
(ひょっとすると梅見での三十三館主暗殺はここで行われたのかも知れず、
あるいは偕楽園造立は梅好きな禅哲に最初の起源があるのかもしれない)
ちなみに佐竹にきた岡本妙誉の子のひとりは岩城に住み、
ここで佐竹系岡本と岩城系岡本に別れた。
0088人間七七四年
2008/10/25(土) 09:49:54ID:A3TRH0O9なるほど
家臣てのとは微妙に違うみたいだね
天海とかみたいなものか
禅哲も高僧で顔が広かったのだろう
小山氏みたいな名門大名から室を迎えたぐらいだし
0089人間七七四年
2008/10/29(水) 23:07:51ID:VqPIRE79簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
0090人間七七四年
2008/10/29(水) 23:08:25ID:2o/Z2UHB簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。
0091人間七七四年
2008/10/30(木) 07:19:07ID:WAcVQLOz>>妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
>>もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
市街地をくぐる「梅香トンネル」で有名?な梅香だな。
0092人間七七四年
2008/10/30(木) 11:02:38ID:iVnu9L8V「高僧」が「女犯」するのか?
知行を貰ってれば「家臣」だろ…普通
小山氏は確かに名門だが、佐竹の重臣に嫁を出すって事は当時の「格」が佐竹より下って事を示す例証と言うべきか…
禅哲の室(小山女)が正室腹なのか側室腹なのかにもよるだろうが…
0094人間七七四年
2008/10/31(金) 03:33:52ID:5yjwdOZu禅哲には当然家族は居たし家人も居ただろう…どうやって養う?
たまから貰ってると考えるのが自然じゃないかな
出典を示せって事なのか?
009594
2008/10/31(金) 03:47:20ID:5yjwdOZuだから〜○
失礼しました
0096人間七七四年
2008/10/31(金) 12:39:43ID:okRoc25s普通、僧で家臣になる事はないよ(無論例外はあるが)
だから武家に仕える場合は還俗して僧籍を抜ける、禅哲の孫である宣綱も還俗して佐竹の家臣になった
僧に対しては寺を建立して住職に据えたり、寺領と言うものを宛がう
寺領というのは読んで字の如く寺の領地であるが
これに対しては租税や兵役の義務は発生せず
基本的に武家の介入を受けない、言わば武家によるお布施である
大名などがこのように寺を保護する事で僧達も大名に協力するが
決して武家の主君と臣下の関係ではない
0097人間七七四年
2008/11/04(火) 02:22:53ID:WjTkZ2fB何を当たり前の事を長々とレスしてんだか…
当時、僧が妻帯するのが普通か?(浄土真宗系は別だが)まぁ女犯をおかす破戒僧は居ただろうが…
法体だからと言っても必ず坊さんとは限りないし
だからといって岡本一族が僧侶じゃなかった…とは言わないけどね
0099人間七七四年
2008/11/09(日) 21:41:49ID:IyKd7dHA0100佐竹敬久
2008/11/10(月) 23:14:57ID:m72d1yr+まれた総額2兆円の定額給付金について、「市町村が事務を行うなら相当シンプルな形でないと混乱
を来す。所得制限なしが望ましい」と述べ、定額給付金に所得制限を設けることに反対する姿勢を表
明した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2008111000295
0101人間七七四年
2008/11/22(土) 03:49:18ID:zbn7ZAWC何を煽ってるんだか?
ここ一連の岡本氏のレスの流れから無報酬と決め付けてるわけじゃないから検討違いとは言えないなあ。
寺領あるいは知行・役料を受けて佐竹家に属してなければ外交にたずさわることは出来ないしね。
0103人間七七四年
2008/12/18(木) 04:48:26ID:nYUY6Rrh0104人間七七四年
2008/12/20(土) 09:53:17ID:kLxJqssg0105人間七七四年
2008/12/30(火) 15:47:27ID:e4pIwe/10106人間七七四年
2009/01/07(水) 00:35:54ID:iKlvSTRG五参の桐とどうちがうの?
0107鬼義重
2009/01/08(木) 15:28:00ID:dX/JLJcS0108人間七七四年
2009/01/09(金) 08:51:49ID:UZ5nwWis家康から佐竹領安堵を受けたが急死して
白紙に戻されたって話の真偽はどうなの?
以前、義久が安堵を勝ち取った話はウソで、義宣に露見しそうになって自害したらしいって話を戦国板で読んだんだが
いろいろ見てみたがどっから出てきた話だかわからん。
0109人間七七四年
2009/01/09(金) 14:27:27ID:3UzszSvF義久が家康に「自分の存命中は国替えをしない」と約束を取り付けたと言うのは
江戸中期に小野寺道維が古老の話しを纏めたものが出典
秋田叢書に収録されている
これによると義久の独断で行ったらしい
書状などが残っているわけではないから真偽は不明
藩史類を見る限り義久はあまり家中での評判はよくなかったようだ
どこの藩でもそうだけど、あまり強大な力を持ちすぎると
嫉みも手伝って動向を疑われやすく色々と責任を押し付けられて奸臣のようにされてしまう事が多い
義久も伊達との内通や義重夫人との密通までにおわせるものがある
0110人間七七四年
2009/01/09(金) 16:20:27ID:UZ5nwWisおぉありがとう。
東義久はけっこう好きだから、評判が下がるのは個人的には(涙)なんだが、好きな梶原政景も一度は北条側へ寝返りしたりと一癖あるから仕方ないな。
それが忠実すぎたらアゴで奴隷のように使われるし、少し危ういくらいが待遇よくなるだろうし乱世の生きる術だし。
0111人間七七四年
2009/01/14(水) 17:11:44ID:U4x70mWL東家は義久の兄が継ぐが若死に
東家の養子に義重の次男喝食丸内定
「喝食丸」は東家嫡男の幼名とか…
その義重次男が白川結城家に入嗣
東家に義久復帰
義重に重用され、事実上の三家筆頭へ
って事でOK?
0112人間七七四年
2009/01/14(水) 19:53:11ID:Uoeqbp17義久は養子ではなく、恐らく義久の為に再び酒出家が創出された。
というのは北酒出家は承久の乱の時に美濃に所領を得て移り、
たぶん所領を横領されて幕府奉公衆になったあと、義篤の時に常陸へ戻ってきて、
佐竹基親が馬場家を創出し馬場篤親を名乗った。
南酒出家も同じく美濃へ移ったと思われ、北酒出と争って吸収されたか滅亡した。
つまり養子というか養父がいなかったので、創出だな。
そんで佐竹東家の幼名が喝食というのは正しい、
また東家を白川義広が継ぐかもしれなかったというのも恐らく正しい。
だが白川義広は結局東家を継いでないので、義久はずっと東家のまま。
義久は義広が成人する前から活躍しており、元亀年間からすでに佐竹一家筆頭。
酒出家は義久の兄の義忠が継ぎ、さらに後に馬場家の子孫で大山家の女婿で
大山を名乗っていた何某が継いだ。血脈としては本来の酒出に戻ったことになる。
0113105
2009/01/15(木) 15:52:21ID:Fs7g5iKlhttp://www.asgy.co.jp/cgi-bin/kmnlist.pl?kiri
の19113番です。
秋田武鑑には東家の家紋が五三桐となっていたので・・・
0114人間七七四年
2009/01/15(木) 15:53:58ID:SWyi5VvV0117人間七七四年
2009/01/16(金) 08:19:12ID:Czt3HAV7佐竹三家にしてもそうだ
義久は佐竹宗家とは別に秀吉に音物を送ったりしている
小田原着陣の際に献上したものを見ると東家は宇都宮や結城などと同じぐらいの量がある
いかに義久が力を持っていたか窺い知れる
そういや三家の通称は
南=三郎
東=源六郎
北=又七郎
でいいんだっけ?
0118人間七七四年
2009/01/17(土) 09:50:43ID:7PtnoQDuわしもいろいろ悩むところなんだが、
佐竹三家は「自立した領主ではない」訳ではないはず。
戦国時代は、権限が分掌された、宗家の意を受けて動く存在。
無論ある程度の自由はあったが、それは北条にとっての
氏照や氏邦の所領と同程度のもの。
「北条氏照は北条家臣ではない」とは普通言わないのと同じで、
「佐竹義久は佐竹家臣ではない」と言うことはないだろう。
豊臣政権時代は、豊臣から六万石を貰い一見独立した領主に見えるが、
これは「奏者領」とでも呼ぶべきもので、巨大な所領を持つ大名の多くが、
豊臣政権との交渉窓口として家臣に分割給与されたもの。
豊臣から見て外様の旧族大名、例えば毛利(安国寺)や、島津(伊集院)、
宇都宮(芳賀)なども同程度の所領を貰っている。
ついでに佐竹「家臣」の範囲だが、
実際問題は「家臣」の定義次第だが、佐竹の場合は洞中(≒分国)に属する
領主は佐竹「家臣」として見なしても問題ないと思う。
じゃあ例えば小田、大掾、太田、江戸、小野崎、真壁、船尾、大山、小場の
何処までが「家臣」で、何処までが「家臣」じゃないの?と問われると、
ぶっちゃけ厳しいものがあるからな。「全部家臣じゃねーよ」というなら、
他の大名だって「家臣」じゃなくなるのが当然出てくるわけで。
佐竹は彼らの軍勢指揮権は持っており、彼らの家臣に対して官途付与等の
人的関係を持つことまではあったが、独自の外交は許していたし、
その本領内部に立ち入ることもなかった(が、ある程度の監督、所領宛行はしていた)。
歴史的経緯を見れば、これらは豊臣政権によって最終的には
佐竹に帰属すると見なされたわけで、広義の佐竹家臣と見なして問題はないだろう。
0119人間七七四年
2009/01/17(土) 13:33:32ID:a94peSOZ毛利家臣から秀吉直臣になったのは小早川隆景くらいか。
0121人間七七四年
2009/01/18(日) 17:23:53ID:F7+Tdxfoしかし彼らは
・軍事指揮権
・外交の権限
・婚姻の権限
・農民に対する兵役や年貢などの賦課権
・宗家旗本以外に対する知行の権限
・官途、受領や一字の付与権
・商人、職人に対する諸役賦課・免除権
・過書の発給権
・制札・禁制の発給権
など、大名が持ち得る権限を全て持っていたと言っていい
彼らはあくまで佐竹宗家とは別家であり
起請文でもって盟約を結んでいた点、江戸や真壁らと同じであったと言える
まだ佐竹宗家から分離して年月が浅い点、他よりは宗家に近い関係ではあったが
義久の代は上記のような権限を持つに至っていた
例えば真壁氏についてだが、その家譜に於いても天正18年に佐竹の配下となったと記している
つまり彼ら自身も佐竹の配下であったつもりはなかったのだろう
秀吉の名により佐竹の家臣に位置付けられた事によってお互い主従の契約を結ぶに至ったと見るべきではなかろうか
0122人間七七四年
2009/01/20(火) 02:02:21ID:YMJ2b2W8秋田転封後の、佐竹義宣とその側近層が主要な位置を占める体制に
なっていくわけだけれど
0123人間七七四年
2009/01/21(水) 18:09:11ID:UBb7tS/bだからその辺は「家臣」の定義次第なわけだよ。
「家臣」という言葉を乱用してしまうために、こういう齟齬が出てきてしまう。
(ただオイラは学問的な場でない限り、別にある程度の乱用はかまわないと思うけど)
戦国期の佐竹の家格制(あくまで格式)の中では、
・御一家 = 東北南、江戸、大塚、山能、大山、石塚、小場等々
(擬制的な血縁関係を元にした佐竹の「一門」。特に東北南と宗家から養子が入った家は
「御親類中」と呼ばれ、その他の一家より格が少し上だった)
・御諸家 = 千葉、小山、宇都宮、那須、小田、大掾、伊達、蘆名、岩城、小田原等々
(本来は佐竹と同格の家々。ただし大掾は1564頃以降、小田は1583頃以降、
佐竹の洞に含まれるようになる。つまり洞は格式でなく実力を元に構成された、
佐竹氏の諸勢力編成原理ということになる)
・諸家からお分かり候御傍 = 塩谷、武茂、松野、宍戸、太田、梶原等々
・近進 = 和田、小貫、伊藤新蔵人、井上信濃守等々
(その他恐らく別名「氏子(うちこ)」、あるいは「抱え」を宛がわれた人々もこの中に入る。
和田、小貫などの宿老は御一家と同格とされる。)
などに分かれており、近世的?に「家臣」などとは言わないわけだ。
>>121の定義だと、佐竹では、「家臣」=近進だけ、ということになってしまう。
さらにこの定義で見るならば>>118でも言ったとおり北条氏照も「北条家臣」ではない。
松山城の上田はどうなの?あるいは織田の柴田や明智、羽柴はどうなの?
ってことにもなりかねない。それほど「家臣」を厳密適用する必要はあるのかな?
むしろ厳密にするなら「家臣」ではなく、「近進」を使うべきじゃないか。
それに>>121の権限はあくまで宗家大名を後ろ盾として行使できるものであって、
佐竹東らが「自立」的に運用できるものではないはずだよ。
どれだけ自立的かどうかで「家臣」か否かを計るのは微妙じゃないかな。
あるいは中世的な諸勢力混在の在り方を、近世的、あるいは現代企業の社員的な
意味合いで「家臣」の定義付けを行うのがそもそも間違っているか。
あと一応文書での裏づけだと、上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
もっとも家中と「家臣」をどこまで同じと見るかは謎。
0125人間七七四年
2009/01/21(水) 21:17:12ID:UBb7tS/b奥州相馬氏は戦国時代なら館、御諸家クラス。格式では伊達、岩城、蘆名と同じ。
豊臣政権では佐竹の「与力」になったとされる。
多分「特に命令がない場合は佐竹といっしょに行動すること」的な立場と思われる。
0126東義久ってどお?
2009/01/23(金) 14:36:04ID:K2tpCXCv>上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
>岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
彼らに加えて、河井堅忠もね!! (上杉家文書。私は見た)。
で、北条家(というか氏政)には、馬場篤親を使者として送っているよね?
馬場篤親はどの位置にいたのかな?
0127人間七七四年
2009/01/23(金) 15:48:50ID:rGaveVw/馬場篤親=佐竹基親は勿論御一家。
ただあくまで格式なので、実際には馬場はほとんど近進(=直臣、旗本)と
同じ程度の実力しか持っていなかったと思われる。
これは山入や部垂に加担した宇留野や小田野も同じで、
大山や小場のように自立気味だった家々とは違うと思う。
馬場は半ば浪人的に常陸にやってきたし、宇留野は謀反人だからね。
で、馬場は元々室町幕府奉公衆的な家なので、同じ奉公衆の
備中伊勢庶流=北条にはそういう繋がりで派遣されたわけだぬ。
縁故で外交する中世だぬ。佐竹は、或いはこの頃の人々は、
北条の出自を早雲の父のところまで完全に知っていたわけだ。
0128東義久ってどお?
2009/01/23(金) 16:14:44ID:K2tpCXCvいえいえ、それほどでも…
そうゆうつながりだったんですね。説明ありがとう。
確か、馬場家は鎌倉〜南北朝時代に美濃に分家した子孫なんだよね?
奉公衆・美濃といえば遠山氏もそうだよね?
あなたのレスは、佐竹研究に大いに役立つので
あとこれからも不定期的にカキコしてください。頓首。
0129人間七七四年
2009/01/23(金) 22:59:27ID:VnhMZIFU小場氏も宇留野氏同様に謀反人だよ
小場氏の地位が飛躍的に高まったのは後に義重の弟を当主に迎えた為
小田野氏は山入氏一族だが佐竹宗家側についた
最終的に山入氏を討ったのも小田野氏
0130人間七七四年
2009/01/24(土) 09:39:50ID:TinKFnJU大概の佐竹関連書籍では存在すらスルーされているけど
義重の娘は高倉権大納言永慶の正室となっていますよね
戦国時代に高倉家を介しての朝廷や中央政権との動きがあったのだろうか
0131人間七七四年
2009/01/24(土) 18:35:41ID:GZZOxzLGスマン。佐竹の近進とほとんど同じ扱いになったということね。
宇留野や天神林(多分小田野も山入から)などは元々は大山家などと同じで、
宗家の手が入らない所本領を分け与えられていたが、
謀叛のせいで没収されて、佐竹から「抱え」と言われる土地を
一代の間のみ預け置かれるか、数十貫程度の所領を宛がわれる給人的な感じになった。
それではあんまりだと思ったのか、家格だけは近進より高く設定された。
小場や山能は義昭に過去の謀叛のことで圧力をかけられて
本領を安堵される代わりに養子を受け入れざるを得なくなった可能性が大有り。
これは江戸も同じだったが、忠通は拒否したのか、義昭に攻められて降伏してるね。
これ以降やっと別家を立てないという政策に変化したらしく、
手綱の再庶の大縄義辰なんかは有能だったので
「抱え」ではなく所領を貰ったが、やっぱり近進と同じ扱い。
近進真崎重宗も兄義保の戦死で真崎家を継いだが、真崎家の本領は
重宗の「抱えの地」的な扱いを受けて、そのまま宗家に接収されるという形になった。
0132人間七七四年
2009/01/25(日) 12:02:25ID:NingtQUkその義重の娘は江戸重通の長男に嫁ぎ、江戸氏滅亡時に救出された後に公卿高倉家に再嫁したんじゃなかったか…
高倉家に嫁いだ時期は、(推測ですが)豊臣政権が全国統一してからだと思う。
0133人間七七四年
2009/02/03(火) 01:01:03ID:Gq406UBO0134人間七七四年
2009/02/19(木) 23:16:10ID:wnvTtZjbとても面白かったです。
これ原作で大河ドラマは、どれぐらい現実味があるでしょうか?
0135人間七七四年
2009/02/20(金) 00:32:58ID:a+/38exgそれを消化して小説として完成させる能力は皆無だから、
永遠に大河作家にはなれないだろう。
0136人間七七四年
2009/02/20(金) 11:38:17ID:7UYxD/Ev序章として義昭を取り上げ、転封後の家中騒動や大坂の陣を丁寧に描けば良いと思う…
0137人間七七四年
2009/02/20(金) 12:18:23ID:9Rf2g8hl史料の調査能力なんてものも全くありゃしない。
あれは国盗り大名ゲームをそのまま文章にしただけ。
「おのれ高増め!」「うおおー!」「そうかの」「されど」「左様か」
「おのれ昭為!」「仕寄るかの」「不憫よの」「氏政め、たばかったか」
こんなんばっか。
小説でも三文足らずなのに、ドラマになる可能性なんか微塵もないわい。
0138人間七七四年
2009/02/21(土) 00:37:32ID:yTL0S5Ak原作がどれだけクズだって、或いはどれだけ素晴らしくても
脚本と演出によって全然別物になりますから。
0139人間七七四年
2009/02/26(木) 12:04:03ID:WuHMPLTNやはり茨城では幕末史があまりに強烈だから佐竹が省みられる事がない…
秋田の方で支援してもらわねば映像化はまず無理
0140人間七七四年
2009/03/06(金) 13:17:10ID:wdDcDnb+常陸の佐竹ゆかりの観光地自体がほとんどないから観光の誘致は難しいし。
佐竹寺くらいなのがもうちょっとあればなぁ。
秋田は関ヶ原後だからなー。
常陸太田市と宇都宮市で共同誘致とか県を越えた同盟誘致しかないだろ。
でもまぁ県を越えた誘致なら、より結び付きの強い群馬栃木両毛地区の由良足利兄弟に遅れを取るかも知れん。
0142人間七七四年
2009/03/07(土) 09:27:47ID:7asJ7pXb義宣を主役にすればよいかと
義宣時代は歴代で最大の繁栄を誇ったし久保田藩初代藩主でもある
そうすれば茨城と秋田が繋がるし
0143人間七七四年
2009/03/08(日) 05:23:36ID:Qbk18K1u1 北条に圧迫され、北から伊達も圧力をかけてきて滅亡寸前
2 小田原の役で復活、常陸全土を領国化 全盛期
3 関ヶ原
4 減封され秋田へ
メリハリがあって良いのか?
・・・いやなんかストーリーのバランス良くないよな?
0144人間七七四年
2009/03/08(日) 10:45:03ID:P03DhLlh葦名家臣団からは佐竹が葦名支援から手を引き続けるなら伊達を頼るしかないと脅迫される。
しかし小田原参陣で常陸一国を安堵され選択が間違ってなかったことに家中の声望がたかまり、父の鬼義重も越えられたかと噂される。
会津征伐では隣国徳川を牽制し天下への野心を見せる。
しかし上杉と打ち合わせした白河口決戦シナリオと違い、徳川は上杉侵攻せず引き返す。
三成では家康には勝てない!ここに至って家臣分裂し義宣は無念に思う。
そして秋田での再出発では新たに経済通の家臣を使って新たな佐竹を作る!
0145人間七七四年
2009/03/14(土) 12:42:29ID:wXc1E6jvそのストーリーで原作を書いて
NHKに提出するんだ!
0147人間七七四年
2009/03/14(土) 18:02:01ID:3tqa5IFY脚本家にすべてを委ねるみたいだ
やっぱり良い企画書と地元の政治力かな
0148人間七七四年
2009/03/15(日) 02:54:30ID:7/5huUQkやっぱりくノ一役は長澤まさみかなw
0149人間七七四年
2009/03/30(月) 23:12:16ID:92T0lItM0150人間七七四年
2009/03/30(月) 23:43:41ID:yimXVsre懐古された派遣は大坂に入って景勝に退治されています。
つーかここ佐竹スレッドです。
0151人間七七四年
2009/04/11(土) 23:42:21ID:I9UhF6jJ0152人間七七四年
2009/04/12(日) 21:15:05ID:TlDFcTaj0153人間七七四年
2009/04/12(日) 21:16:54ID:TlDFcTaj0154人間七七四年
2009/04/12(日) 21:57:37ID:hZmWTw0G…北家の当主なだけに
0155人間七七四年
2009/04/13(月) 12:57:19ID:h5LfAAb10156人間七七四年
2009/04/14(火) 14:10:09ID:oTdi+4iM源姓佐竹出羽守敬久公
久保田城に入城し補修を開始!
源氏の旗を掲げて
引きこもりや無職の牢人を
全国から集めて
山形県へ進駐併合の上、
出羽独立と佐竹幕府樹立宣言キボンヌ!
0157人間七七四年
2009/04/14(火) 16:07:02ID:L2qEVQjiバカタレ
0158人間七七四年
2009/04/14(火) 22:27:48ID:5d2VIHRMおもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ
0159新羅三郎義光
2009/04/14(火) 22:28:50ID:5d2VIHRMおもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ
0160人間七七四年
2009/04/17(金) 09:42:13ID:/H8b/2A80161人間七七四年
2009/05/18(月) 23:02:09ID:OR4QsA390162人間七七四年
2009/05/30(土) 15:59:29ID:vjJFbWOWもう竜馬は観とうなかった!
0163人間七七四年
2009/05/30(土) 19:12:03ID:klJRdSqn0164人間七七四年
2009/06/16(火) 20:34:13ID:eRkUHYrH0165人間七七四年
2009/06/26(金) 02:12:30ID:huMJ/jmq佐竹義重でググるとそのネタが結構出てくる。
ワシは佐竹を相当調べているが、義重と盛隆がそんな関係にあったなんてことは
一切見たことも聞いたこともない。
つーか、戦国時代の一大名同士が衆道関係だったなんてことはまず有り得ない。
そんで義重と盛隆が実際に会ったことなんて一度も無かった可能性が強い。
二人が同じいくさに出陣したという記録は無い。会合したという話も無い。
だが腐女子は取り付き始めているようだ。
0166人間七七四年
2009/06/26(金) 09:18:44ID:+Zn471Kiナッちゃんみたいに社会的に抑圧されてる連中特有の世間への復讐心が感じられるし。
0167人間七七四年
2009/07/02(木) 16:44:30ID:pct0qbFe明らかに悪意のあるものも多い
佐竹関連もだいぶやられてる
0169人間七七四年
2009/07/23(木) 00:09:57ID:Pexjg2hb佐竹義宣〜ピエール瀧
これで2時間ドラマ
0171人間七七四年
2009/07/23(木) 07:05:07ID:xq2FVnoL0172人間七七四年
2009/07/23(木) 11:42:04ID:9tSWfOJI0173人間七七四年
2009/07/23(木) 13:50:36ID:gF6gVacd現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
関東地域で会話が理解できない地は初めて。
ばっちり会話は理解できるが群馬と北埼玉のイントネーションが同じなのもワロタ
0174人間七七四年
2009/07/23(木) 23:11:26ID:yBrqwYEB文章に直して見ると古語だったりするんだけどイントネーションと早口で聞き取れない。
茨城弁は東北弁、関東弁、京弁(古語)が混ざっているから結構独特なようだ
逆に言うと茨城人は広範囲の方言を理解できる
まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
茨城県南(土浦以南の常磐線沿い)は完全に標準語化していて他地域とは掛け離れている
やはり水戸藩領(佐竹領)と他藩の文化の違いが影響しているのだろう
0175人間七七四年
2009/07/23(木) 23:42:16ID:RtTgUCDC現在の(伝統的な)方言分布と戦国大名の行動範囲が奇妙に一致してるんだよなあ。
関東南西部を本拠とする北条の影響が、東北部の常陸・下野には最後まであまり及ばなかったし、
逆に佐竹の勢力圏が南奥州(福島県地方)に及んでるという事実。
こうなったのは地形もからんでるのかねえ?
0176人間七七四年
2009/07/24(金) 08:43:31ID:WAKtib1z勢力伸長は直線距離じゃなく交通の便によって進む
そして現代と戦国時代頃では地形も主要道路も差がある
例えば佐竹の勢力範囲は大まかに見て那珂川が境界になっている
下野でも那珂川内は佐竹の支配領域だ
そして上那須衆と佐竹が結び付いたのも、江戸時代までは
太田→大子(依上)→黒羽→白河のルートが西廻りの主要街道だったからだ
そして北廻りは太田→小里→東館→近津→赤館で
赤館からは白河、石川、鮫川(赤坂)の方面に伸びる事ができる
そして洞という広域の意味での支配地は、南は鬼怒川と霞ヶ浦系の内海で仕切られている
後は元々常陸は奥州支配の前線基地だったのが大きく影響しているのだと思う
かつて常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
現在の方言圏と一致するのは偶然ではないだろう
南陸奥には常陸と同じ地名も多く移民も多かった
常陸にとって奥州は古代から身近な存在であり
常陸北部に割拠した佐竹が陸奥に支配を拡げていったのも必然と言えるかもしれない
0177人間七七四年
2009/07/24(金) 08:52:38ID:1fGesz86すごく面白いところに気づいている。つーかもうそれがほとんど答え。
何を言っているのかわからねーとと思うが、俺も頭がどうにかなりそうだ。
東国と奥羽の習俗は出雲近辺と一致する傾向がある。
しかし何故か北関東から南陸奥あたりは、出雲を含まない西国の習俗に近い。
例えば、「砂の器」のように、出雲の方言は東北の方言に似ている。
あるいは出産の習俗で、東国奥羽や出雲では子供の健康を願って胎盤を戸口に埋めるが、
西国と北関東南陸奥では出産の為に母屋から離れた場所に産室を設け、
出産後は胎盤を、血を嫌い、穢れを忌避して産室の床下深くに埋める。
東国奥羽=出雲、西国=北関東南陸奥が不思議に結ばれているのだ。
さらにオオクニヌシの息子のタケミナカタは天孫のタケミカヅチに敗れ、信濃の諏訪まで逃げたこと。
東国に出雲系の国造が多いという事実。南関東に氷川(斐川)神社が多く分布するという事実。
一方、天孫のタケミカヅチを祀る鹿島社とフツヌシを祀る香取社が、
言わば東国の出入り口となる常総の内海の南北両脇に鎮座しているということ。
そして西国政権に対して新皇将門の出現、鎌倉幕府の誕生。
民俗学だとかダビンチコードだとかそんなチャチなもんかも知れんが、
もっと恐ろしいものの片鱗かもうわなにふじこ
0178人間七七四年
2009/07/24(金) 22:40:03ID:MZCsi05s>常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
伊達厨が怒り狂うぞw
0180人間七七四年
2009/07/29(水) 23:36:29ID:hBx+G+kS>茨城人は広範囲の方言を理解できる
>まあ、茨城・栃木・福島・宮城と山形の一部は同じ系統らしいが。
白河結城→芦名に養子に行った義広も、ことばのギャップは感じなかったのかな?w
0181奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/30(木) 05:36:24ID:86q3KK3m0182人間七七四年
2009/07/30(木) 23:16:51ID:we5W6p04小大納言は伊達晴宗の娘だったな。
0183人間七七四年
2009/08/27(木) 00:49:36ID:rW3bbVnd0184人間七七四年
2009/10/04(日) 09:11:25ID:eI0gniYD上杉佐竹最上連合軍が伊達をフルボッコしてたのに残念だ。
0185人間七七四年
2009/11/12(木) 11:53:21ID:99BxaFIf「ほくじょうさま」なのか
「きたしろさま」なのか
いまだに分からん
0186人間七七四年
2009/11/15(日) 19:30:57ID:+5edpc01音読み訓読みで分けると確かに「ほくじょうさま」「きたしろさま」のどちらかですね。
音訓交じりで読むと「きたじょうさま」
義昭が隠居して義重に家督を譲り常陸府中に在った時は何と呼称されてたのだろう?
もしかして「南城様」とかだったりして…?
0187人間七七四年
2009/11/17(火) 00:27:55ID:htzrRbcl>現地の年寄りがまったく理解不能な言語で会話しててびっくりした。
あの辺りは旧小田氏や武蔵の太田氏や梶原氏の影響じゃないの?
もっと山の方の八郷や柿岡に行くと三楽という屋号の家が多数存在しますね。
0188人間七七四年
2009/11/17(火) 08:24:38ID:C7oliXZF0189人間七七四年
2009/11/17(火) 08:37:35ID:zvaEYb730190人間七七四年
2009/11/17(火) 10:07:09ID:lTzRFQHj義重も義宣もかなり振り回されている
義久などは骨抜きにされていたし
0191人間七七四年
2009/11/18(水) 00:13:28ID:DIiodkwq0192人間七七四年
2009/11/18(水) 11:21:44ID:a+9B+5Cm義広が葦名を継ぐと余計に伊達と戦うなって義宣に言ってたらしいし。
0193人間七七四年
2009/11/18(水) 11:30:23ID:4ACWuLtX実家と嫁ぎ先が戦わないようにするのは当然の役目だったろう。
0194人間七七四年
2009/11/19(木) 15:15:23ID:hNlLiiVv止め立てしてくるんじゃ
獅子身中の虫みたいなもんだ
0195人間七七四年
2009/11/19(木) 20:49:25ID:fXGy/8Qp実家が優位になるように嫁ぎ先の裏でコッソリ工作…が
何となくいやらしい。
0196人間七七四年
2009/11/20(金) 00:35:15ID:lTII7Xur0198人間七七四年
2009/12/08(火) 00:13:08ID:/gyX8lUp渋すぎる
0200人間七七四年
2009/12/09(水) 08:02:47ID:t/R9rAv+義宣ちゃんはポニーテール(笑)
0201人間七七四年
2009/12/09(水) 20:41:23ID:p9pZKFRJ0202人間七七四年
2009/12/10(木) 00:27:34ID:5vlWb5XD0203人間七七四年
2009/12/10(木) 16:39:59ID:72QUkaff0204人間七七四年
2009/12/12(土) 22:43:38ID:LW5/gegT0205人間七七四年
2009/12/15(火) 01:02:04ID:ZYBsLw9O>義宣ちゃんはポニーテール(笑)
まるで暗黒帝団のプリキュアみたいだ。
それとザクとは違うのだよザクとはと毛虫が方っているなっ。
凄すぎる。でも野戦や夜戦には強いだろう。
0206人間七七四年
2009/12/27(日) 01:40:36ID:qYwvHPwP0207人間七七四年
2010/03/06(土) 03:09:09ID:qRE9Slfp0208人間七七四年
2010/03/08(月) 00:23:14ID:tKZp65Wsエンブレム見た限りなまはげにするつもりなんだろうな…
0209人間七七四年
2010/03/12(金) 15:16:09ID:iKPV4b8T0210人間七七四年
2010/05/22(土) 15:46:33ID:u9vHdhE+tukaxuetkure
0211人間七七四年
2010/05/22(土) 20:11:41ID:kpU5lZ/z>かつて常陸国の成立以来北へ支配を広げ陸前(宮城県)付近まで常陸国であった
常陸国風土記にもそんなこと書いてないけどな。それは何を根拠にしてるんだ?
0212人間七七四年
2010/05/22(土) 22:42:41ID:7YQKAVF7そして画像がネット上に全然ないんだよね〜
小さいサイズしか
0214人間七七四年
2010/05/26(水) 19:15:35ID:3OVON/HU0215人間七七四年
2010/05/26(水) 22:42:26ID:4i/ItxUW0216人間七七四年
2010/05/26(水) 23:23:50ID:iH+Ba/OG0217人間七七四年
2010/05/26(水) 23:36:59ID:4i/ItxUWそれに驚いた。
0218人間七七四年
2010/05/26(水) 23:38:04ID:4i/ItxUWwikiってのはwikipediaで使われるシステムの名称。
0219人間七七四年
2010/05/27(木) 10:49:26ID:IsY4AXkSもとより、相殺がそうさつでも正しくなった世の中。
0220人間七七四年
2010/05/27(木) 12:56:27ID:7CYhHjpQ単語としておかしな形になる事はしばしばあるが、そういう伝統だから気にする日本人はいない
いちいちツッコミ入れるのは在日かなんかだろ
0221人間七七四年
2010/06/11(金) 16:20:10ID:8pot5/+N0222源新羅三郎義光
2010/10/22(金) 22:18:46ID:ZfIDRPkH\●/佐竹氏を語るスレ 其之肆
前のを踏襲しました
0223人間七七四年
2010/12/07(火) 08:20:54ID:Pr0BqS6o0224人間七七四年
2010/12/07(火) 12:33:36ID:N2rYMoL+どうしてああなった
0225人間七七四年
2010/12/29(水) 19:38:05ID:90jVp0OAつか白河と田村と小田が連携してるっぽかったから小田を屈服させる為には白河撃ちたかったんでない?
0226人間七七四年
2010/12/30(木) 05:46:49ID:38M2sO160227人間七七四年
2010/12/30(木) 05:50:51ID:Diek0liLあのまま攻めて政宗の首飛ばす事もできたんだし命助けてやっただけ有り難く思えよ
0229人間七七四年
2011/01/06(木) 12:52:05ID:RZ5HcgOfというか元々佐竹氏と白川結城氏は宿敵関係
100年前から争い続けている
と言うのも山入一揆の際に佐竹領であった依上や南郷が白川結城氏の手に渡ってしまったからだ
だから一揆終結後はこれの奪還こそが佐竹氏最大の悲願であった
特に佐竹義篤が依上を奪還してからは一進一退の激戦が展開され
葦名氏、田村氏、石川氏、岩城氏、那須氏らも加わり高野郡を巡る戦いは予断を許さない状況が続く
更には後北条や小田氏、結城氏なども絡み、より複雑化する
何より佐竹氏にとっては他の地域と違い白川結城氏との戦いは本領を守る戦いであり
南郷は本拠地の太田を守る上でも最大の懸念であった
佐竹氏にとっては何を差し置いても優先させるべき事だったのは当然と言える
0230人間七七四年
2011/01/21(金) 00:08:09ID:hJOSVbJr静岡大学の小和田教授が執筆したものだが。あのイラストが酷過ぎるねぇ。
まあ兜が由来のものに近かったことと、小和田さんの面白みがない一般論の文面だったが。。。
今年発の歴史戦国記事だったのでまあいいとしましょう。
そろそろ佐竹家がブレイクする前兆でしょうかね。
0231人間七七四年
2011/01/21(金) 01:05:17ID:XSdzUk950232人間七七四年
2011/01/21(金) 01:22:47ID:snAnfnoRこんな雪の中でも義重は布団を使わなかったのかと実感できるよ
0233人間七七四年
2011/01/21(金) 02:09:51ID:XSdzUk950234人間七七四年
2011/01/21(金) 02:20:24ID:snAnfnoR六郷では地元の郷土史家を紹介してもらって、佐竹や秋田の歴史について語り合ったけど
残念ながら茨城の歴史にはまるで疎い方だった。
曽我の兄弟が大好きで、その話ばかり語っておられたが元気だろうか・・・
0235人間七七四年
2011/01/21(金) 02:51:43ID:hJOSVbJr六郷はなにもないが、資料館に直筆の手紙が秘蔵されている。
あとニテコサイダーがお薦めだよ。(サッカリン入り)
0236人間七七四年
2011/01/21(金) 02:54:37ID:hJOSVbJr0237人間七七四年
2011/01/26(水) 15:40:46ID:XaITnNDK0238人間七七四年
2011/01/27(木) 12:49:57ID:wvGYIdqU大河にならない限り無理だな。
やるならその前の源義家・義光兄弟から始めて、戊辰戦争(みじめ・・・)までやらないと。
0239人間七七四年
2011/01/27(木) 17:33:28ID:XfVCuHV2http://www.shirakami.or.jp/~kksasaki/soda.htm
0240人間七七四年
2011/01/28(金) 03:48:57ID:htV+IU8T同盟 北関東管領上杉政虎
宿敵 常陸の粒小田氏治
0241人間七七四年
2011/01/29(土) 22:57:19ID:MpTgPh/i今のニテコサイダーは残念ながら、昔のニテコサイダーの味にはかなわねえね!
おおかたお土産好きで保存料、甘味料依存症で、ぶよぶよで皮膚がただれていないかい?きみ?
0242人間七七四年
2011/01/30(日) 00:44:45ID:/IyCmpE4そもそもあんたが>>235のサッカリン野郎だろ。
自分の肌見てそう書いてるからヘンにリアルなんだね。
0243人間七七四年
2011/02/02(水) 20:07:23ID:PMAkZ2Yi味方を無事に帰らせた河合忠條と
茅根通正は勇敢だったな。
奥羽永慶軍記―須賀川落城のこと
佐竹史探訪―秋田さきがけ新報社
に詳しく書いてある。。
0244人間七七四年
2011/02/11(金) 20:24:51ID:9UvfeKBP小山降伏。結城大敗に怯え宇都宮降伏。
里見も北条に屈して相房和睦
佐竹も白川結城義親に攻撃され
「白川之城落居、其外数ヶ所被打明、義重敗北之由」で
北条が田村に来春には佐竹退治するから出兵依頼。
田村も安子島氏に出陣を促してる。
そして北条が春になり結城城攻めを再開。
謙信死去。
明らかに関宿での失策が北条に対等に戦う機会を失わせてしまってて佐竹にとって致命的だったよね。
0245人間七七四年
2011/02/12(土) 18:13:23ID:2mvERn4zジリジリ押されていたとは思うが。
0246仙台藩百姓
2011/02/12(土) 23:45:14ID:aTAMGC77それに現実には関宿落城後に常陸方面への進攻は停滞して専ら上野方面に矛先が向いているおね( ^ω^)
そもそも関宿を落城させた原因は謙信の失策によるもので佐竹等は関係あるまいお( ^ω^)
0247人間七七四年
2011/02/13(日) 04:36:09ID:qkZnt2S20248人間七七四年
2011/02/13(日) 14:39:28ID:IBgm5iRR勝頼が景勝から上野を譲渡されて出兵してきたから佐竹らもそれに合流したりしてたし
たびたび北条が依頼してんのに葦名が佐竹攻めに協調してくんないしで、
常陸北部まで攻め上がる余裕が無くなっただけ。
そのうち滝川が上野の来たら北条直轄地以外の影響圏の北関東諸将が織田に仕えて背を向けたし。
まあ謙信との戦いの為に氏康時代からは北関東諸将を排除して北条直轄化の進行がまったく進まずにいた自立勢力が織田への対立離反だから
謙信のやってたことは無駄にはなってなかった。
のち滝川逃亡からは直轄地化を進め由良足利領を強制譲渡させようとしたね。
結局、佐竹らの支援も無駄になり桐生へ転封させられる。
小山は佐竹に逃げてたけど滝川が北条を威圧して祗園城を返却してあげたら
滝川逃亡後に小山は北条に付いて佐竹涙目だし
佐野は仲間割れして討ち死にすると北条からの養子が継ぐことになるし
宇都宮城まで攻撃されて降伏したりと佐竹はどんどん追い詰められてる。
謙信死後も勝頼や滝川と西から北条を圧迫する有利な展開がありながら生かせなかった。
0249人間七七四年
2011/02/14(月) 01:16:20ID:n//9V5gq0250人間七七四年
2011/02/14(月) 16:08:38ID:GQvS15f90251人間七七四年
2011/02/28(月) 20:40:23.01ID:bSt/Rqep実像は腑抜けなのか、はたまた太平の世では名君になれたのか?
圀敗れても人生を全う出来たことと仕えていた家臣がいたからには人間的には優れていたのであられような。
0252人間七七四年
2011/02/28(月) 20:54:03.46ID:0pUpnrMk0253人間七七四年
2011/02/28(月) 22:26:27.68ID:e2NHp21f上杉×北条
豊臣×毒牙
葦名×伊達
0254人間七七四年
2011/03/02(水) 13:58:17.64ID:1x7lifdY最終的にはより強大な勢力によってその多くが土地を失うことになった
悲劇であるが滑稽でもあるな
0255人間七七四年
2011/03/02(水) 15:11:59.81ID:MMud4DU90256人間七七四年
2011/03/24(木) 16:19:04.54ID:gEd3IRp/乃木大将みたいなもんで
戦争は下手だが、統率能力はあったのではないか?
0257人間七七四年
2011/03/25(金) 17:42:39.16ID:bOETo3JX0258人間七七四年
2011/03/25(金) 20:28:39.11ID:33irIAf+佐竹と景勝どっちが目上?
0259人間七七四年
2011/03/25(金) 20:49:29.01ID:HjXwUhn9ただ政宗のは偽書状が多いから怪しい。
佐竹は源氏嫡流だけど、景勝は関東管領山内殿だから本能寺の変あたりの頃だと景勝の方が上じゃないか?
その後も会津120万石の大老だし。
0260人間七七四年
2011/03/25(金) 22:43:37.47ID:gIISAq5I百姓がいなくなったとおもっていたが
まだ伊達の負け犬の遠吠えする奴いるんだな
冗談は震災前でも被災後の配給食と変わらないレベルの仙台の給食だけにしてくれよ
0263人間七七四年
2011/03/26(土) 01:54:13.62ID:BaZjA448確か東北会津の葦名盛氏が長尾と文書で呼んだことあるけど彼は親北条で御館の乱に出兵してる。
また後年弱体化し佐竹に吸収されている時に[羽柴政権]関東管領に泣きついている
0264人間七七四年
2011/10/01(土) 15:00:33.58ID:L9W2iTZ+0265人間七七四年
2011/10/01(土) 22:55:13.16ID:PdpPa8AV同じ諱とか読みが一緒とか多い
0266人間七七四年
2011/11/04(金) 23:25:19.09ID:2b8I3iGs■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています