困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
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0001人間七七四年
2008/03/08(土) 20:08:53ID:5YkPWQKJ「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。
<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
0002人間七七四年
2008/03/08(土) 20:11:18ID:5YkPWQKJ友としては最高の漢だと思うがどうだろう?
0003人間七七四年
2008/03/08(土) 20:54:41ID:X1R2Z+Or終了
0004人間七七四年
2008/03/08(土) 21:17:55ID:Sgs8gipHシフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う
0005人間七七四年
2008/03/08(土) 21:35:22ID:5YkPWQKJ「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。
0006人間七七四年
2008/03/09(日) 01:36:55ID:ywOKQjoS0007人間七七四年
2008/03/09(日) 02:44:10ID:Lm1o5GVw0008人間七七四年
2008/03/09(日) 03:05:15ID:9zftFmnbそれって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか
0009人間七七四年
2008/03/09(日) 03:38:27ID:ywOKQjoS勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。
義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。
0010人間七七四年
2008/03/09(日) 11:04:11ID:ZdQgTE3V0011人間七七四年
2008/03/09(日) 11:09:47ID:ZdQgTE3V0012人間七七四年
2008/03/09(日) 12:22:04ID:f7mnEjG/こちらへ移動してください
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
0013人間七七四年
2008/03/09(日) 20:00:28ID:Y2vbzgRD0014人間七七四年
2008/03/10(月) 04:31:32ID:FvxH7bh5やっぱり格好良い!
0015人間七七四年
2008/03/11(火) 19:15:24ID:9ta/11fm0016人間七七四年
2008/03/11(火) 19:42:22ID:OPKuXIBy義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?
0017人間七七四年
2008/03/12(水) 10:43:48ID:tnv/5N18本当に同じDNAが含まれてるのか?
0019奥七郡の人
2008/03/12(水) 23:12:08ID:5Dh/0FsL天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した
0020人間七七四年
2008/03/13(木) 04:41:01ID:k6XoqFlO家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが
0021人間七七四年
2008/03/13(木) 06:25:07ID:eh9RLI180022奥七郡の人
2008/03/13(木) 17:47:11ID:Sg5EWhgu天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14〜15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている
0023人間七七四年
2008/03/13(木) 18:47:59ID:k6XoqFlOなるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。
0024人間七七四年
2008/03/13(木) 22:53:04ID:JAmbFwqM0025人間七七四年
2008/03/14(金) 14:16:48ID:+qwIl/ww末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ
0026人間七七四年
2008/03/14(金) 20:08:07ID:qIwHtJ0fと言うのだろうが、
六番目は宇喜多だろう?
0027人間七七四年
2008/03/14(金) 20:22:58ID:gVy2lZVF当時の両者の力量を端的に示している。
0029人間七七四年
2008/03/15(土) 02:15:34ID:oY6AXpyD0030人間七七四年
2008/03/15(土) 04:52:27ID:9WDBdA110031人間七七四年
2008/03/15(土) 09:45:19ID:tGOQdE7J完全に格下なのにな
0032人間七七四年
2008/03/15(土) 10:47:37ID:+PIHOFfQ中納言の宇喜多や織田
少将の伊達を
差し置いて豊臣六大将?
0033人間七七四年
2008/03/15(土) 10:52:35ID:D4h6c+wx格下だと思っているのならこんなところまで来て暴れないでください。
普通にしてれば佐竹系スレは北条方の話や白河あたりの話で楽しくやれるのに
伊達の方々が来るとどうしてか人取り橋の話や石高比較の話になってしまい不毛です。
佐竹なんかよりもっと大きくて、あなた方が思う伊達と同格以上で、
かつ伊達が渡り合った相手のスレがあるならそちらへ行って存分に思いの丈をぶつけてきてください。
大崎スレとか。
0034人間七七四年
2008/03/15(土) 11:15:40ID:D4h6c+wx「豊臣政権の六大将」が豊臣政権化のいつ頃言われていたことなのでしょうかね…
宇喜多は57万石ですから公式発表における石高としては佐竹より上。
官位も従三位の上一応秀吉の一門衆。六大将に入ってないのは確かに不思議です。
伊達が少将になったのは慶長二年。秀吉のほぼ最晩年でした。
伊達は豊臣政権化では冷遇されてる感がありますね。経緯を考えると仕方ありませんが。
逆に佐竹は実力というより三成と懇意だったということや、
立地などの物件的に厚遇されています。そういう面も加味しての六大将かもしれません。
宇喜多に関しては実に謎ですが。
0035人間七七四年
2008/03/15(土) 11:25:06ID:tYj29Wqh0036奥七郡の人
2008/03/15(土) 11:25:24ID:xoZ43/JY0037人間七七四年
2008/03/15(土) 11:55:15ID:+PIHOFfQ備前中納言は身内だからランク外か
勉強になりましたm()m
0038人間七七四年
2008/03/15(土) 14:15:04ID:XjpuvLyhというのも身内だからさ。身内親族にそんな感情持たないだろう。普通は。
一蓮托生みたいなもんだもん。
それだけに政宗が佐竹領を攻め出したときは
心底「なんでやねん!!」と思っただろうな。水戸の人だけども大阪弁で。
それくらいの行為。まさに寝耳に水の行為だったろう。
0039奥七郡の人
2008/03/15(土) 15:28:59ID:xoZ43/JY周囲はみんな親戚みたいなものだし
佐竹の宿敵である小田や那須だって親類
伊達あたりは遠方だから大して関心がなかっただけで
お互い激しい敵意を感じ始めたのは天正15年の葦名氏後継問題からだろう
それも豊臣氏の東国進出により3年程で終った
0040人間七七四年
2008/03/15(土) 19:03:59ID:ARdsdPZR血縁があるからこそ紛争の種になる
大体、佐竹は身内同士の争いで中世の大半を過ごしたようなものだ
それを克服したからこそ、戦国期には一門の分裂だけは起きなかったが
義宣の代にも大掾一族の謀殺、秋田での老臣粛清等々やっとるね
0041人間七七四年
2008/03/15(土) 23:24:22ID:jMY5JLSa秋田で兄弟くわせなあかんからね。
戦争より内政を取った場合・内政でもうけたお金で食べていこうと思った場合
久保田城を選ぶわな。平野だしね。そのいざこざで粛清が。
まあ宿老粛清はさすがに問題だが、
将来を考えれば久保田選ぶわな。律義者の場合は、ここらへんのビジョンがはっきりしていたな。
兄弟改易されて戻ってきているわけだし、一族の長としてこれからずっと皆を食わせなならん。
だから武器は捨てよう、秋田で開拓者となろう。という・・・
まあ、大阪の陣にはもちろん参加はしたけどね。基本は武士だしね。
ただ、リチギーがそこまで皆を思っても、芦名の残党は最終的に迎合できなかったみたいだね。
一度は常陸で復興したものの移転後は角館。そこでまた復興を目論むという。
やはり他家だからな。居心地悪かったのか復興だけは忘れられなかったのか・・・
とにかくいろいろ絡んでいるので難しい。
0042人間七七四年
2008/03/16(日) 22:47:31ID:iBeTeWZLこんな事誰も言ってないし書いてもない
>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?
>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?
結論 >>1=北条厨
0043人間七七四年
2008/03/17(月) 05:09:13ID:ggh4so6i0044人間七七四年
2008/03/17(月) 07:27:59ID:21P34qHc佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。
0046人間七七四年
2008/03/17(月) 12:01:45ID:X0R3g9vUまた、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。
0047人間七七四年
2008/03/17(月) 14:57:56ID:/7vkqP+V細かい解説、感謝です。
「一万石あげるから〜」ってのも凄い話ですね。
それを断って自力で本領安堵を勝ち取った相馬も凄いですが。
0048人間七七四年
2008/03/17(月) 15:16:27ID:ggh4so6iたしか相馬は伊達とも仲良くて、
本領安堵には伊達の裏添えがあったとかどうとか
相馬は田村とかをバリバリ攻撃してる印象が強いが
もしかしたらみんなに好かれるタイプだったのかもしれん。
0049人間七七四年
2008/03/17(月) 18:02:42ID:FBB7o3EVしかも周りを結城伊達北畠に囲まれて
0050人間七七四年
2008/03/19(水) 02:10:55ID:KTDCj3Iw大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。
それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。
その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。
0051人間七七四年
2008/03/19(水) 09:10:31ID:V7D/EpRQ0052人間七七四年
2008/03/19(水) 18:18:34ID:rDokS0Iw0054人間七七四年
2008/03/25(火) 17:15:29ID:jvzTbumq姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?
0055人間七七四年
2008/03/28(金) 17:25:32ID:Xu/nsa2T山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。
0056人間七七四年
2008/04/06(日) 17:51:26ID:u9p0dtDXそんな経緯でもらえなかったんじゃ?という単純な話ではさすがに無いか
0057人間七七四年
2008/04/24(木) 01:24:41ID:robALqTcそっちの方が徳川(松平)氏より古い…。
佐竹に松平姓を与えるって事は、佐竹本宗家に佐竹分家の姓を名乗れって事と同じになる。
佐竹は平安時代末からの清和源氏の名門だから庶子家も沢山…。そのなかに松平という庶子家がたまたまあった。
茨城県常陸太田市松平(旧久慈郡水府村松平)
0058人間七七四年
2008/05/02(金) 06:31:50ID:0WzpgHB9芦名義廣(盛重→義勝)も弟の岩城貞隆の様に江戸で浪人して再び世に出ようとしなかったのが悔やまれる。
義宣が徳川への実質的な証人として二人は要らないと思ったのか…?
義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
或いは?
0059人間七七四年
2008/05/02(金) 17:21:10ID:Mo9y3PWk> 義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
> 或いは?
味方討ちの失態と娘婿忠輝の無礼を咎めて伊達を改易、仙台は芦名60万石の城下として栄えました。
幕末にも、宗家佐竹氏の助言をよく容れて会津征討に活躍し明治政府でも仙台藩出身者は重く用いられています。
もし、伊達家がその後も仙台藩主であったなら、こうはいかなかったとする識者の意見も多いです。
0060人間七七四年
2008/05/05(月) 03:55:19ID:WEjuBe2x芦名が本家筋より大封を得るのか。
そんじゃ本家は忠輝の後釜で越後高田75万石!
秀忠「大御所様、忠輝の後は律儀な右京大夫で如何でしょうか?」
家康「ふむ。悪く無いな…。しかし上杉がねたもうぞ?」
秀忠「右京大夫は関ヶ原で西軍についた訳でもありますまい?」
家康「まあな。ちと灸を据え過ぎたか…。将軍家の善き様にせい」
秀忠「有り難き幸せに御座居ます」
0061人間七七四年
2008/05/08(木) 15:42:49ID:JggcDJ+50062人間七七四年
2008/05/19(月) 23:13:18ID:TZ7OKaSK親子揃って義理堅いなぁ。
0063人間七七四年
2008/05/20(火) 00:02:06ID:XN2c0rYM0064人間七七四年
2008/05/23(金) 02:35:31ID:fWYzbyT+秀吉への贈り物を政宗に託したが改易…
佐竹を裏切って伊達に鞍替えした大名家は秀吉に潰されてるな…
石川昭光とかも。
0065人間七七四年
2008/05/29(木) 00:48:23ID:XHfNcqho与力しかも従兄弟の宇都宮国綱が改易…。
佐竹氏も連座で危なかったとか…。
この危機を三成のお陰で助かった…って事だが、具体的に三成はどの様な働きをしたのか?
又、宇都宮改易の真実とは?
浅野からの養子を断わったからとか、検地(石高)に不正があったとか…。
本当だろうか?
0066(´ω`)
2008/05/29(木) 01:15:27ID:rlxd6W6O惣無事令違反。
国綱と近臣らは浅野養子を認める方向で動いていたらしいが、芳賀高武がこれに反対。
勝手に養子の件は無理と三成に報告。養子肯定派のひとり北条何某を四条河原で斬首。
そのうえ下野に戻って肯定派の今泉高光の上三川城を攻めた。思いっきり私闘。
そんで大名の国綱が責任を取らされて改易。
石高は多分全く関係ないし、養子の件も間接的な原因であって直接の理由ではない。
おそらくこういう非常に恥ずかしいことから改易されたため、
それを糊塗するために石高とか養子とかが理由だと後付けされたのだと思う。
0067人間七七四年
2008/05/29(木) 02:23:22ID:XHfNcqhoサンクス!
しかし惣無事令は九州や関東奥羽の地域限定…。
関東奥羽惣無事令は1587年発令で、1590年の小田原征伐そして奥羽仕置での天下統一後で法令自体の目的は達せられたはず。
宇都宮改易は1597年、発令から10年後…。
それでも惣無事令は廃止されず生きてたのか?
秀吉が出した切支丹禁令が徳川幕府成立後再び持ち出されようなものか?
それにしても芳賀高武、よく切腹や斬首させられなかったな。不思議。
0068人間七七四年
2008/05/30(金) 21:49:26ID:u3DXtiFX同族ながら葦名や岩城や多賀谷、以外なら宇都宮や辞退されたけど相馬と盛り沢山。
0069人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 05:17:54ID:YVoNsm7s相馬利胤(三胤)の嫁は芦名出身で親戚。
秋田の佐竹家は北関東・南奥の名家やその家臣が盛沢山。
本当に義理堅いよ、義宣。
0070人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 06:34:06ID:FsM13khDもっと評価されても良いのでは?
0071人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 06:18:27ID:Z/orRfHn>>67さんは一応「サンクス!」と答えているが、レス自体は消化不良っぽい気がする。僕もなんか、もうちょい解説が欲しいな。
出典とか出して、「その後」も含めて詳細をレスして頂ければ幸いです。
その後の佐竹氏。
その後の宇都宮氏(一族含む)
また、その時の秀吉、家康、三成、長吉等々。
あるいは、景勝や秀行。
0072(´ω`)
2008/06/05(木) 11:24:27ID:1bFy986Zそれは兎も角、この「宇都宮氏改易事件は芳賀高武の私闘のせいだった説」は実証できない。
つまりオイラの推測に過ぎないのだ。というのもそれに関する史料がなく、
よく探せば見つかるのかもしれないけど(あれば実証されてるので多分無いんだろう)、
オイラもめんどくさいのでそこまではしたくないからなのだ。
じゃあ何でそう思ったのか、ということを説明する。
まず宇都宮氏改易の原因とされるものには概ね次のようなものがある。
1.初めの検地で18万石だったにも関わらず、あとの太閤検地で39万石も出てきたので、
石高を詐称していると指摘されたため。
2.浅野長重が養子に入ることを断ったため。
3.(2)をしたために長重の不興を買い、(1)であると讒言されたため。
まず(1)だが、これは有り得ない。これは他のスレでもオイラが何度も言っていることだけど、
初めの検地は差出検地なので国人や家臣からの申告から導き出された数字であり、
過小に申告されるのは当り前だからだ。秀吉が検地をしたのは関東が初めてじゃない。
長浜時代からきちんと官僚たちが実測した検地を行っていて、実測の太閤検地を行えば
必ず差出のときより大きな数字が出てくるのは分かり過ぎるほど分かりきっていた事なのだ。
秀吉は以前高野山金剛峯寺を検地したことがあって、その時には差出から実測の検地で
17倍もの違いが出てきた。しかし金剛峯寺は刀狩を厳命されただけだった。
従って、たかだか18万→39万で2.2倍ほどの宇都宮が、それが原因で改易されるならば、
「公儀豊臣」が成り立たず、(3)も含めるならば、全くの私怨で裁定されたことになる。
もちろんそういうことがあったかもしれないことを否定するわけじゃないが、
オイラとしてはそう考えることはあまりにも馬鹿馬鹿しいので(だって私怨で公儀が
捻じ曲げられることがあるというなら、もはや法令なんて必要ないし、何でもありじゃないか)、
この説は消さざるを得ないのだ。当然(3)も無くなる。
また太閤検地は文禄四年(1595)であり、宇都宮改易は慶長二年(1597)。
なんで石高詐称が発覚してから改易まで二年も要するのかも説明できない。
(2)は所謂謀略説で、その後浅野長重は(3)を行ったとされる。
(3)は上記のことから無いので(2)だけ見る。
実は宇都宮国綱は長重が養子に入ることを一度了承している。
しかしこのことは宇都宮の家宰にあたる芳賀高武を通さず、国綱が北条何某と今泉高光の
間で決めたことであり、その為に高武は激怒して、養子の件を破棄することを石田三成に
告げて、北条を京都の四条河原で斬首、次いで国許に逃げた今泉を追って下野に帰り、
慶長二年(1597)五月頃に今泉の居城上三川城を攻め高光を自刃させた。
以上のことはぶっちゃけ史料を見たわけじゃなく、ネット上から拾った情報だが、
別に否定する根拠も無いので実際にあったことなんだろう。多分上三川町市あたりでも
見ればそれなりの史料付きで載っていることだと思われる。
さてこれが事実だとすると、仮に(2)が有り得たとしても、それ以前の問題となってしまう。
0073(´ω`)
2008/06/05(木) 11:27:43ID:1bFy986Zということだが、惣無事(私闘禁止)というのは常に維持されるべきものだ。
では小田原征伐、奥州仕置以降は私闘をしてもいいのかという風には当然ならない。
即ちそれ以降も当然ながら惣無事であって、態々別の法令を以って惣無事令に変える
必要も無いので、常に惣無事は生きていると見るのが自然。
結果的に秀吉の死を以って、事実上惣無事令は棚上げされるけど(家康も三成もどちらも
「公儀豊臣」を掲げたに違いないので、関が原ではどっちも私闘ではないと言い張った)。
この宇都宮改易について佐竹義宣は父の義重に書状を送っている。
「宇都宮殿御不奉公有之に付而」と改易の理由を詳しくは語っていないが、
「就之我等身上などへも上様より仰出之儀も御座候」と佐竹にも秀吉から
何らかの咎があるのではないかと言われたというようなことが書かれている。
しかし三成に執り成してもらって「身上相続候て満足仕候」となった。
だが「猶々宇都宮欠所に付而、宮之荷物一駄も我等分国中江相透申候はば、
可為曲事由」「宮之荷物一たんもとをし不申様に可被仰付候事肝要に候、
境目江は涯分申付候」ともあり、必ずしも佐竹が潔白であるとは
認識されていない様にもとれる。
仮に(2)が原因だとしたら、佐竹が上記の書状のようなことを言われることは
無いはずだ。浅野長重養子のことは純粋に宇都宮家中のことであって、佐竹には
何の関り合いも無い(もし佐竹に関りがあるとすれば、秀吉は佐竹にも長重のことを
宇都宮に取り成すように連絡した場合だけだ。無論そんな事実は今のところ無い)。
しかし芳賀高武の惣無事令違反ならそうはいかない。
芳賀高武は佐竹義宣の従兄弟であって、義重の甥にも当たる。
当然国綱も同然で、佐竹にも親族としての多少の監督責任が発生すると
見られても不思議ではない。つまり「汎佐竹親族」間の徹底した一族管理体制が
成されていないと見られたということだ(逆に言えば、秀吉は佐竹にまで疑念を向けることに
よってこれ以後同様な事件を佐竹家中では絶対に起こさないようにと釘をさしたとも取れる)。
以上ということです。
オイラから見れば、(1)(2)(3)のどれよりも、芳賀高武が馬鹿な行動を
咎められて改易に至ったというほうが、シンプルで、判りやすく、不明な点も一切無いので、
そう考えるわけです。態々別の説を立てて浅野の陰謀だの何だのという必要もないし。
問題は史料から実証できないということだけで(´ω`)
まあ結局は信じるか信じないかという話になってしまうわけだけど。
0074人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 12:35:42ID:4cxEvzrF0075人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 08:15:03ID:lpyFVPg+惣無事令違反は大名同士の私戦を禁じた法令…で、大名家家中の内紛(闘争)での適用は大袈裟過ぎと思われるのですが…。
0076人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 08:57:32ID:e5eIM/9i恣意的な運用や適用はよくあること。
0077人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 09:40:16ID:1eEjkjqJ恣意的…誰のですか?
親佐竹の宇都宮家改易は、対徳川包囲網を綻ばせ…親徳川の蒲生(減転封されたとはいえ)を宇都宮に封じた点では失策と思われ。
蒲生の後釜に上杉を会津に転封して奥羽の鎮将として伊達・最上〜徳川ラインを断つ…としても、飛び地だらけの上杉は仮想敵国が多すぎた。
これも失策ではないか…と思われ。
この為、後の上杉征伐で宇都宮や小山が一時本営となり義宣が身動き取れなくなった。
0078人間七七四年
2008/06/22(日) 22:41:32ID:/21BosXo日程はこんな感じ
第1回:平成20年5月17日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣@
第2回:平成20年6月28日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣A
第3回:平成20年7月19日(土)10:00〜11:30 佐竹義宣肖像画の謎
↓連絡先などはこちらまで
ttp://www.iju-join.jp/prefectures/ibaraki/208000/k/721/
こういうイベントを増やしていって
少しずつ太田辺りでも佐竹家が見直されるようになってくるといいね
0079人間七七四年
2008/06/25(水) 03:01:20ID:TGbwMteD結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう
0080人間七七四年
2008/06/25(水) 03:06:00ID:TGbwMteD移動します
0081人間七七四年
2008/06/25(水) 08:54:04ID:EcYDasun0082人間七七四年
2008/06/25(水) 22:19:02ID:DA80aQ8z0083人間七七四年
2008/06/25(水) 22:45:42ID:oJYz2dPd0084人間七七四年
2008/06/26(木) 09:22:29ID:neEM2lKd上杉・佐竹は長年の盟友 義宣は景勝大好きのはずですが
0085人間七七四年
2008/06/26(木) 09:42:11ID:jtxhdd1/江戸に近い常陸に54万石持つ佐竹は、徳川にとって脅威だったと言われることがあるが、
北条政権を事実上継承した徳川は、むしろより佐竹にとって脅威じゃい。
関が原以後の転封は徳川視点で見られることがあるが、
純粋に佐竹の視点から見れば、徳川の存在は北条よりもでかかったんじゃい。
豊臣による天下の元で戦場は封鎖されていたから、秀吉生存前は大して問題ではなかったが、
秀吉が死んだあと、上杉佐竹vs徳川という抗争が始まったのは、
小田原討伐以前の状況の再現じゃい。
徳川が佐竹を関東から追い出して、関八州支配するのは全く当然のことで、
佐竹が上杉と徳川に対抗したのも歴史的に当然のことなんじゃい。
0086人間七七四年
2008/06/26(木) 11:49:51ID:TCsQ7LZbだから 佐竹と上杉はいい関係なんでしょ?
だから 大河出るかって?って書き込みに、出るって書いただけだけど?
大好きが気に入らなかった?
小説では 義宣が景勝に兄事してたって感じで書いてあったから書いただけですよ。
0087人間七七四年
2008/06/26(木) 14:29:02ID:YQyzfRRG野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを
戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。
0089人間七七四年
2008/06/28(土) 00:49:13ID:mPx/cdTj0090人間七七四年
2008/06/30(月) 01:39:56ID:YSxdx837マルチ!
西軍に通じた?
西軍に通じたと見なされた…か、上杉に通じた…の方が、まあ妥当だろう。
事実上は中立で、心は上杉にあり…家名存続の為、徳川に使者を送った。
その後東義久に軍勢を持たせ秀忠のもとへ送った事実を考慮すれば、積極的で無いにしろ徳川方(東軍)とも言えるだろう。
0091人間七七四年
2008/06/30(月) 01:49:04ID:4bs2tGh6きゃつはチョン。>>88の言う梶原とは別人じゃ!
家康自身はいつから「吾妻鏡」読み始めたのだろうか?
秀吉に「関東はぬしにやる」とか言われてからだろうか?
小田原北条氏とは懇意にしていた家康としては、京都の魅力もさることながら、関東への憧憬もあったのでは?
秀吉が京を取るなら、こっちは関東でかまわぬ、むしろ頼朝・後北条氏がそうであったように、自分は関東で覇を唱える所存だったのでは。
で、吾妻鏡で佐竹氏の記述があったのを見かける。
源平期には、平家方として頼朝陣営の脅威であった佐竹氏。
佐竹の存在ゆえ、頼朝は京へ上洛するのを躊躇ったとまで書かれている。
家康が関東を一手に握るには、佐竹の存在は目の上のこぶ。
0092人間七七四年
2008/07/08(火) 21:03:13ID:DLIGlDtO結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?
家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ
0093人間七七四年
2008/07/13(日) 14:38:33ID:0sgNW4Qu家光の時代には源氏正当性論争が起き、後年の由比正雪が正統源氏として佐竹を反徳川の看板にしていたのでは?と妄想。
0095人間七七四年
2008/07/13(日) 18:38:43ID:tN0b/nUr清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ
0096人間七七四年
2008/07/16(水) 23:34:00ID:WBu+79vV右の草摺と比べて、左の草摺は明らかに太腿を考慮しておらず、威した糸も鋭角に落ちている。
鎧櫃の上で足を折っているなら、当然草摺の隙間から見えるべき左の脛当が無い。
また、左の袴は鎧櫃の角で明確にたわんでおり、袴の中に何も無い事が見受けられる。
佐竹義宣が左足を欠損したという記録は無く、また伊達政宗の彫像などの例を考えると、
こういう見え方のする肖像画を欠損の事実無しに残す事も考え難い。
この肖像画って、本当に義宣を描いた物なんでしょうか?
0097人間七七四年
2008/07/17(木) 01:06:49ID:A0RljBHt0098人間七七四年
2008/07/17(木) 14:10:01ID:3ANe3cT40099人間七七四年
2008/07/17(木) 21:35:46ID:3O3oHsdZ義宣と判断できる要素もよくわからない
兜が義宣の物と伝わるものに似てるような気はするけど
そういや太田市梅津会館でやってる今週土曜の佐竹義宣講座
第三回はちょうど
「佐竹義宣肖像画の謎」
だな
誰かネラーの参加者いないかな
0100人間七七四年
2008/07/18(金) 02:20:36ID:DCjj+2Vf最も知られている天徳寺蔵佐竹義宣像は佐竹義宣本人。
少なくとも佐竹家の人間であることは間違いない。そうじゃないという理由は何も無い。
義宣は梅毒に感染していたので、顔には相応に崩れていたと思われる。
よって顔をあえて肖像画には出さなかった可能性もある。
肖像画では左足は台の上に胡座をかくような形で乗せられており、
足の先が正面の草摺からちょこっと飛び出しているが、
大きさ的に微妙なのは、梅毒によって左足が収縮などしていたのかもしれない。
身につけている具足も間違いなく義宣のもので、
その二枚胴は現在八幡秋田神社が所有している。
義宣蔵には他にちゃんと顔の出ているやつもあって、
そこで着ている人皮仏胴の具足も義宣所蔵のもの。
ちなみに兜のフサフサは毛虫を表していて、ケムシ→ゲムジ→ゲンジ→源氏のシャレ。
0101人間七七四年
2008/07/18(金) 08:23:31ID:OTdWP8fS百足と同じで縁起物だったのだろう
水戸の県立歴史館にも義宣の毛虫前立兜のレプリカあったな
毛虫というか動物の尻尾みたいだけど
ふさふさしてて触ると気持ち良さそう
0102人間七七四年
2008/07/18(金) 08:33:07ID:7HIyeqfE0103人間七七四年
2008/07/18(金) 10:14:34ID:/c06/8yS梅毒が体の崩れるレベルまで進行しているとするなら、晩年に描かれた物という事になるな。
どう考えても不名誉な姿だから、後の代への戒めとしたのかねぇ。
0104人間七七四年
2008/07/18(金) 20:20:39ID:OTdWP8fS肘の下辺りに膝が来てると見れば足も普通だし
甲冑姿で鎧櫃に腰掛けて戦国時代の勇姿を画いてるわけじゃん
勘繰り過ぎだよw
0106人間七七四年
2008/07/19(土) 09:06:51ID:cSQXqiw5爪先なんて見えてないじゃん
絵のバランスが悪いからわかりにくいけど三枚の草摺りは正面に付いている
右側に見えているのが本来左足の前にある草摺り
その横から膝が出てるのが見えるよね
左足首は股間の前に付いてる草摺りから右足の下に入っている
0107人間七七四年
2008/07/19(土) 18:53:46ID:f4V7XwXV爪先がケツの下にあるなら、
鎧櫃のカドに引っかかっている袴が何処の物なのか分からんと言ってる。
脛当があるなら、ああいうたわんだ形にはならないだろ?
0108107
2008/07/19(土) 19:01:32ID:f4V7XwXV0109人間七七四年
2008/07/19(土) 19:06:52ID:osXG3r8X絵画の技法とか分からんけど、当時の肖像がなんて現代から見ればどれもいわいる
写実的な「そっくり」さを追求するタイプじゃないもんばっかりなわけだし。
ぶっちゃけ足がどうこうとか絵を見て判断するより、来歴とかそっち調べた方がよくね?
0111人間七七四年
2008/07/21(月) 16:10:01ID:s6k1AfU0どっちにしろ梅毒が進行する前って事だ
あの甲冑をいつ頃愛用してたかが分かれば年代も分かって来るんじゃないか?
0112人間七七四年
2008/07/23(水) 13:38:12ID:Jk9gUTPp0113人間七七四年
2008/07/23(水) 20:55:50ID:DCHnco7k0114人間七七四年
2008/07/24(木) 09:48:40ID:ahiEuqvG北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
つまり二頭体制になってしまうわけだ。
例えば武田で、晴信が信虎を追放したり、信玄が義信を廃嫡したりしたのは、
この二頭体制の克服を目指したものなんだわ。
佐竹は武田ほど激情型ではなかったので、やんわりと家督交代が行われてきたが、
それでも最終的には義宣が義重の家臣をブチ殺すことで、
ある意味「義重の息の根」を止めたということ。
実は義宣vs義重の戦いだったということだぬ。
義重時代も義重の近臣筆頭の車斯忠と、死んだ義昭の近臣筆頭の和田昭為が争って、
結局義重は和田昭為を追放してる。
あとはやっぱり豊臣を見ていて、三成派と清正正則派で争ったのとかを見て、
二の舞にはならないように先手を打ったんだろうな。
0115人間七七四年
2008/08/26(火) 04:34:26ID:kCE+VJYu新入りの身からすれば良い上司だったんだろう>義宣
秋田で酒造やってた筈>木村重成子孫
0116人間七七四年
2008/08/26(火) 15:30:49ID:S6RnseWT> 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
> 北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
> 佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
> 例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
> そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
> 自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
島津義久・義弘・忠恒の「三殿体制」も有名だし、小倉時代の細川忠興・忠利の二頭政治も山本博文氏の本で知られるようになった。
島津家の例は極端だしあまり例がない話だが、この時期の隠居と当主と両方いる家には大なれ小なれ似たようなことがあったのではなかろ
うか。
0117人間七七四年
2008/08/31(日) 19:31:15ID:p6oClXL40118人間七七四年
2008/09/04(木) 00:06:55ID:r5tyamP9勝手というより、「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?
常陸太田は内陸だけど、海からはそう遠くない。
横手は川沿いとはいえかなり奥地。
0119人間七七四年
2008/09/04(木) 00:12:07ID:bCLh6/w4もう引退してたから政治どうでもよくて無責任に好きなこと発言してただけじゃね?
別に本気で言った訳じゃなくて、息子の方も本気とは受け取ってないんじゃない?
0120人間七七四年
2008/09/04(木) 01:03:32ID:/fMpKgL9関ヶ原の戦後処理のこととか、色々あったろうに。
0121人間七七四年
2008/09/04(木) 09:43:30ID:uzb3kVgLうーむ、そうだろう。
常陸太田は内陸だけど、のちに本拠とした水戸城は、川や湖に囲まれていて、
本丸直下まで舟で行けた。江戸城や大阪城も同様なのだから、秋田の新城も
「海運」を重要しただろう。
ただし、水戸の水運は、那珂湊まで容易に行き来できるが、
鹿島灘方面の波が荒く、川舟に米俵を積んだまま海に出られなかった。
0122人間七七四年
2008/09/04(木) 09:48:51ID:uzb3kVgL江戸に運ぶとなると、鹿嶋や九十九里浜の波が高いため、
水戸から涸沼にいったん運ぶ。ここで陸揚げして馬で北浦まで運ぶ。
北浦からまた舟に乗せて、利根川に入り、さかのぼって江戸川に入り、
江戸に運んだ。こうすれば川舟のままで運べる。
0123人間七七四年
2008/09/04(木) 11:48:14ID:bCLh6/w4東海道があるし
かの北畠親房も挫折した水戸の海よ
0125人間七七四年
2008/09/05(金) 21:38:51ID:Wq8sc6ru鹿島灘や九十九里浜を一気に超えて、房総半島の先端を通過したが、
東京湾(江戸湾?)に入るのは、風向きの都合でやや難しかったようで、
南風が吹くまで湾口の港で待ったらしい。
佐竹のいる秋田から、江戸へ舟を回航するのはほとんど無理か。
むしろ、大阪に物資を舟で輸送した方が容易だったろう。
常陸育ちには、海運はほとんど無理。
0126人間七七四年
2008/09/06(土) 16:56:15ID:GT9K5/vWおいおい
利根川の東遷は江戸時代だろ
江戸初期までの利根川は江戸(東京)湾に流れていたのだから、佐竹の常陸時代には無理
0127人間七七四年
2008/09/25(木) 14:57:18ID:m+PHuKRZ0128人間七七四年
2008/10/01(水) 23:58:00ID:cxf9AN2K0129人間七七四年
2008/10/02(木) 16:37:15ID:16MwD7Ca前にしか進まない生き物=決して後ろに引かない
という意味を込めて、前立に使われてるんだけど。
ひょっとしてこのスレの住人、
あのケムシ兜の意味知らない人の方が多いのか。
0131人間七七四年
2008/10/14(火) 05:46:05ID:ChlxBYbRまじ!?
配役は決まったのかな?
大河は謙信の頃から描くようだから、義昭は無理っぽいが義重・義宣辺りは端役で出てくるのかな?
車丹波もかぁ…
義宣より丹波の方が出番多かったりして…orz
0132人間七七四年
2008/10/29(水) 23:11:28ID:2o/Z2UHB0133人間七七四年
2008/10/30(木) 10:14:07ID:bMKTif/w肖像画で顔を隠してるのは病かなにかで顔があれなんだっけか?
0134人間七七四年
2008/10/30(木) 12:17:52ID:2ZeuMpZY隠すくらいなら若い頃の姿にすればいいし
と言うか恐らく若い頃をモデルにしたんじゃないかと思う
甲冑を纏い粗末な鎧櫃に腰掛ける姿はいかにも戦国武将という感じだ
品のいい江戸大名より戦国を生きた荒武者的な表現をしたかったのだろう
義宣も戦国時代を駆けた最後の世代だし、そういう自負を多分に持っていたと思う
0135人間七七四年
2008/10/30(木) 13:25:57ID:bMKTif/wせめて東義久が登場して「親方さま!ついに佐竹の地は安堵されましたぞ!」→腹黒松方家康が食事に毒まぜていて義久急死→佐竹減転封→松方家康が悪魔の笑み
みたいな流れだと非常に楽しめるんだがw
0136人間七七四年
2008/10/30(木) 15:06:59ID:2ZeuMpZY大河で佐竹義宣でもやらん限りは…
0137人間七七四年
2008/11/03(月) 23:42:03ID:lacoL/Ng0138人間七七四年
2008/11/04(火) 01:09:00ID:kThazXkf0139人間七七四年
2008/11/06(木) 23:58:21ID:W7eckBvlそうかい。上下化粧本買おうとしたよ。
単行本でるまでまつか。
0141佐竹敬久
2008/11/10(月) 23:09:20ID:m72d1yr+に所得制限を設けることについて「とても耐えられない。市町村での実務に混乱が起きる」と述べ、
難色を示した。
http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111001000234.html
0142139
2008/11/14(金) 00:40:27ID:pxdli/3+ありがとう
0143人間七七四年
2008/11/22(土) 04:02:49ID:zbn7ZAWCごめんなさい。文庫本じゃなかった…「新装版」でした。文庫本よりちょっと大きい…。
内容もハードカバー版より微妙に追加や削除がなされているようです。
そういえば新人物往来社の「常陸・秋田 佐竹一族」も、新装版が出てた。
絶版だったから買ってみたが誤植が多かった(名前間違いとか)…orz
こちらもおすすめ出来ないかな。「新装版」に釣られたよ。間違い探しするなら別だけど(笑)
0144人間七七四年
2008/11/28(金) 17:30:04ID:NqFbTbMr家臣と33館の暗殺は武勇伝とも違うし
0146人間七七四年
2008/11/30(日) 11:35:55ID:4zu4ki7c0147仙台藩百姓
2008/11/30(日) 13:38:31ID:PWR4HyU1大坂の陣でもボコボコにやられてるし思いのほか戦下手だお( ^ω^)
0148人間七七四年
2008/11/30(日) 17:04:04ID:E7rn5gQ5引き立て役で。
0149人間七七四年
2008/12/01(月) 08:37:00ID:1hDo/2vR0151人間七七四年
2008/12/03(水) 13:14:46ID:tVknFmVl政宗とは仲悪いんだろうけど
0152人間七七四年
2008/12/03(水) 22:48:05ID:CYAcAL6F0153人間七七四年
2008/12/04(木) 02:10:26ID:LwJkJRrp【陸奥】相馬氏を語る【下総】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211757850/
0155人間七七四年
2008/12/18(木) 05:13:28ID:nYUY6Rrh公儀からの軍勢催促が少なかった為苦戦したんだ
一万位の軍勢は出そう思えば出せたろう
二、三千の寡兵で善戦したんだ(上杉の助けもあり)
軍功の為なら前方の味方を攻撃する様な卑怯な振る舞いをした奴も居るのにな
0156人間七七四年
2008/12/21(日) 06:10:05ID:FBK9tDHN0159人間七七四年
2009/01/25(日) 11:41:08ID:NingtQUk0160人間七七四年
2009/01/28(水) 22:32:20ID:UenYpsiLhttp://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20090128l
0161人間七七四年
2009/02/20(金) 11:26:22ID:7UYxD/Ev0162人間七七四年
2009/02/22(日) 09:41:38ID:six4+oC1むざむざ北条に明け渡す失態を演じられましたな。山内殿は越山してまでしてきた関東でのこの仕打ちに
情けなく思っておられましたぞ!
0163仙台藩百姓
2009/02/22(日) 10:24:21ID:YGcgC2GZ越相同盟で関東衆にそっぽを向かれて以来
上野周辺でちょろちょろするのが精一杯で何もできなかったおね
いかに謙信の実態が無力であったかよく分かるお( ^ω^)
0164人間七七四年
2009/02/22(日) 10:30:27ID:kfRrW2o+あそこで上杉と共同して北条を撃退してたら、北条の下総下野上野戦線はかなりの停滞を余儀なくされていたろう。
南奥戦線も被官化できなかった為に、彼らの士気は低く、田村攻略戦での攻城戦は停滞ばかり。
そもそも佐竹は攻城戦が下手なのだろうか。
野戦に関しては金山採掘を背景に鉄砲3000丁で川や湿地帯を前に対陣して戦線維持が基本のようだが。
0165仙台藩百姓
2009/02/22(日) 11:10:57ID:YGcgC2GZ里見、佐竹、結城といった連中の占める力の方が大きかったと
さすが口だけ番長だお( ^ω^)ピ
0166人間七七四年
2009/02/22(日) 16:07:50ID:C/6SlDGN御家来衆の中に山内殿さんへの不信感があって馳走に反対したみたいですね。
0167人間七七四年
2009/02/22(日) 16:21:01ID:C/6SlDGN言えますな。山内殿さんが関東での信用が薄かったのも
結果的に簗田持助さんが割りを食った要因なわけでしょうね。
0168人間七七四年
2009/02/22(日) 20:34:25ID:uPQGB7Se0169人間七七四年
2009/02/23(月) 11:57:07ID:sLF+Nhoz君主権の確立と中央集権化とはそういうこと。幕府下で大規模なお家騒動が起きなかったのも
この時の処置のおかげでもあるんでないかな?
0171人間七七四年
2009/02/23(月) 15:52:11ID:xY9QO6ze国人が集団で佐竹の城に来たのだろう
よもや謀殺されるとは誰一人思ってなかったに違いない
0172人間七七四年
2009/02/23(月) 16:38:16ID:viRpOw6u0173人間七七四年
2009/02/26(木) 09:00:24ID:B6uYIfer0174人間七七四年
2009/02/26(木) 09:36:10ID:4mxkm8vg0175人間七七四年
2009/02/27(金) 00:32:59ID:dvz4/ZwA0176人間七七四年
2009/02/27(金) 03:40:07ID:LCpbRAyf0178人間七七四年
2009/03/01(日) 10:33:57ID:TpSRsVL1謀略仕掛けるときは手紙攻撃だ
あとは寝返った武将に「旧主は殺さないで」ってお願いされて守ったり
家康に所領問題で味方して貰って以来、ずっと味方してて義理堅い人
0179人間七七四年
2009/03/01(日) 19:12:07ID:rB2JlcXJ0180人間七七四年
2009/03/02(月) 00:44:20ID:gRUNj/UW0181人間七七四年
2009/03/02(月) 09:09:02ID:3EBLoE+r最上さんの家臣って降将ばっかで
降った人間には手をかけないしいい人はいい人よ
税も軽かったみたいだし
定めたターゲットには容赦ないが
0182人間七七四年
2009/03/03(火) 14:16:09ID:qQWwg61O仙北一揆のどさくさに紛れて、湯沢城主を呼び出して義光自ら暗殺してるからウソついてんじゃねーよ。
義康暗殺だって義光が山形城へ呼び寄せてから高野山へ行かせた道中に暗殺してんだろが。
こんなクーデターまがいのことを家臣が勝手にやれるとでも?
家康に人質に出した次男を跡目に据える為に義康暗殺したのは明白。
0183人間七七四年
2009/03/03(火) 17:19:58ID:YSr3Ed6Nまずは楯岡の名前で湯沢城代の八柏に嘘の寝返りの予定の手紙を書いて、わざと小野寺側に手にはいるようにしむけ
義道は八柏を斬る
んで鮭延が書状で西馬音、山田、柳田、松岡、深掘の五将を最上側に引き入れ
由利や延沢らと三方から押し寄せて湯沢城は火付けられて散々に燃えた
あとは関ヶ原後にも仙北一揆があったけど
これは六郷の方で佐竹側が処理しているが
0184人間七七四年
2009/03/03(火) 17:37:49ID:TDHn/rajそれお前軍記だろw
偽書なんて本気で通用すると思ってんの?
毛利元就が偽書で新宮党w晴久に滅亡させた話も講談レベルのネタだし。
秀吉の奥州征伐後に起きた仙北一揆の時の湯沢城代は三春日向だから。
0185人間七七四年
2009/03/03(火) 22:00:31ID:YSr3Ed6N0186人間七七四年
2009/03/03(火) 22:59:39ID:GRKS4253信長公記と太閤記の違いが
0187人間七七四年
2009/03/04(水) 01:24:10ID:KVbDwnhr0188人間七七四年
2009/03/04(水) 22:13:44ID:XnuSyJVY0189人間七七四年
2009/03/05(木) 01:09:30ID:GjQEsFYc0190人間七七四年
2009/03/05(木) 07:42:11ID:mA8gngQ6そもそも仙北一揆の鎮圧で小野寺側の湯沢城をそんな大規模かつ派手に攻めたら、
奉行の大谷も上杉側と一緒に来てるんだから言い逃れできずに秀吉の怒りを買いまくり改易だろ。
なんの本を見て書いてるんだよお前は…政宗だって手紙で様子を探ろうとするなど仙北一揆に興味津々だったし甥にチクられるぞ(たしか解釈によっては仙北一揆に政宗が関与してるようにも見える怪しい書状なんだよな)
0191人間七七四年
2009/03/06(金) 00:16:05ID:NrBaTXXF小野寺はそのあと秀吉にちゃんと訴えたって書いてありましたよ
そっちこそ何に書いてあるのさ、その三春日向を謀殺した話
後学の為に教えて欲しい
0192人間七七四年
2009/03/06(金) 16:14:23ID:wdDcDnb+お前は書状とか知らんのか?
色部文書における小野寺氏横手宿老中書状とかの内容すら知らないみたいだな。
それでは神戸小野寺氏文書の内容や藩主亀井コレ政宛言上状も読んだことないね?
ちなみに研究者は三春日向を三春弥三郎のことなのではないかとしている。
0193人間七七四年
2009/03/06(金) 16:19:22ID:wdDcDnb+0194人間七七四年
2009/03/06(金) 20:06:08ID:oJWVLLJ5明後日読みに行ってくる
0195人間七七四年
2009/03/07(土) 00:31:56ID:yFtTsvG2小野寺スレに移動願います
謀殺の話から宇喜多直家登場→最上義光登場→最上謀殺話→小野寺へ飛び火…
0196人間七七四年
2009/03/07(土) 00:37:34ID:yGjTjrrd関ヶ原後に島根で落ちぶれた小野寺の自己申告の信憑性なんて軍記とどっこいどっこいだろ。
そしてスレ違い甚だしい。いい加減にしろ
0197人間七七四年
2009/03/07(土) 10:09:21ID:bgugRa51それに最上の裁量権ってなんだ?単に仙北一揆の鎮圧を命じられたに過ぎない。
家康と並んで関東惣無事の通達役だった上杉や豊臣奉行の吉継に比肩できる裁量権でも何でもない。
伊達は仙北一揆で裁量権どころか兵も出してないわけだが?
小野寺氏横手宿老中書状には義光が計策の人だから用心しろと指示していたし、小野寺は義光の通過に対して大谷や上杉にも不安を打ち明けている。
民も悪謀多き義光を極度に恐れていた。
そして案の定、義光による暗殺事件が起きた。
これみんな一次資料なわけだが。
0198人間七七四年
2009/03/07(土) 10:55:59ID:bYxlKyoz某所では有名な荒らしなんでスルーしたほうが懸命です。
伊達・上杉・最上関連荒らし報告スレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1230354419/
0199人間七七四年
2009/03/07(土) 11:30:09ID:DYaSY9vu0200人間七七四年
2009/03/08(日) 02:48:48ID:lTDc1FCJ0201人間七七四年
2009/03/08(日) 11:07:07ID:P03DhLlh過ちを糺すために反論され議論に負けるとすぐそれだw
0202人間七七四年
2009/03/09(月) 08:08:59ID:taBbn5rB佐竹の金山採掘技術って他の大名に比べても技術高い方だったんかな?
秋田へ移封後には日本一の鉱山発見したくらいだし。
0203人間七七四年
2009/03/09(月) 10:26:00ID:pGdVtdE00204人間七七四年
2009/03/09(月) 13:01:26ID:H7RlMwyx水戸徳川時代は甲斐の金堀衆などを招いて採掘したが
殆ど採掘できずに水戸藩は貧乏だった
なので地元では佐竹の金堀衆は高度な技術を持っていたと言われている
しかし近代でも八溝金鉱の採掘は行われているがたいして産出されなかった
単に掘り尽くしただけかもしれない
0205人間七七四年
2009/03/09(月) 15:09:25ID:I9S0jYgb佐竹が秋田移封後に即発見した旧最上領だった地
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%86%85%E9%8A%80%E5%B1%B1
0206人間七七四年
2009/03/11(水) 12:27:47ID:0lPXli+Hいつ頃からあるんだろうね?
武田や上杉からの技術移転かな。
0207人間七七四年
2009/03/14(土) 12:41:30ID:wXc1E6jv0208人間七七四年
2009/03/15(日) 10:47:20ID:dl1dCrQc0209人間七七四年
2009/03/20(金) 00:56:54ID:/DG0fI6+0210人間七七四年
2009/03/20(金) 10:10:16ID:rloz7vED八溝山系はかなり古いよ
承和3年(836年)には既に金の採集を行っていた記録がある
この辺りには古くから金堀衆がいたものと思われる
0211人間七七四年
2009/03/20(金) 20:58:03ID:DGKooVAx色部文書じゃむしろ軍記の裏付けというか元ネタになるんじゃ?
鮭延が陣張りして困ってるよーな内容だし
三春日向の名前だって小野寺氏側の史料にしかでてこないぞ?
0212人間七七四年
2009/03/21(土) 22:46:16ID:ankVlYQl0214人間七七四年
2009/03/27(金) 23:43:01ID:0sEGP3tw0215人間七七四年
2009/03/28(土) 12:23:05ID:/n0wbKyR色部文書は越後や庄内、秀吉の奥羽征伐での検地や仙北一揆関連で横手など手広く書簡の一級資料がある。
これが軍記の元ネタとは恐れ入る基地外ぶりだ。
0216人間七七四年
2009/03/28(土) 17:24:51ID:KjIpao40載っているのは新潟県史で違いない
0217人間七七四年
2009/03/28(土) 20:11:44ID:Dc8BEeT+→色部文書は仙北とか「奥州」の事を手広く扱ってんだよ!
三春日向は「小野寺」側の資料にでてくるよね?
→三春日向は「横手」市史にでてくるんだよ!
※小野寺氏=横手周辺に勢力を張った大名
お前何がしたいの?
0218人間七七四年
2009/03/29(日) 08:55:12ID:Zn5NtJCQ他に色部文書の時代区分から該当する軍記はあまりないですね。
奥羽永慶軍記が元ネタとは初めて聞きましたが誰が唱えてる説なんでしょうか?
色部文書を使ってるなら明らかに間違いの部分が奥羽永久軍記にはありますが、なぜ間違いを訂正してないんでしょうか?
あと著者は佐竹側の方ですが、色部文書を見れる立場だったんですか?
0220人間七七四年
2009/03/30(月) 08:30:50ID:+blJwTYw0221人間七七四年
2009/03/30(月) 19:32:23ID:HS3XNgN8でも軍記はちゃんと一次史料と合わせてみても優良なモノであることに違いはないよ
多くの研究者も史料にしているしね(奥州の史料少ないのもあるけど)
佐竹領の人間が書いたってだけだからわりかし公平だし(少なくとも最上や小野寺を贔屓にする理由はない
0222人間七七四年
2009/03/30(月) 23:01:23ID:0hctNx2a小野寺側にしか城主暗殺の記述が確認されてないことに
反論できてないのなw
0223人間七七四年
2009/04/01(水) 07:25:12ID:zziTfR9B奥羽永慶軍記において、誤解した上杉定勝が自分の母を殺したと思い込んで、直江兼続を憎み殺した話も色部文書に書かれてる話なのかwww
能書きいらんからさっさと色部文書からソース出してみろよアホがw
0224人間七七四年
2009/04/01(水) 12:49:18ID:qY+R3L460225人間七七四年
2009/04/04(土) 07:53:17ID:cJIUVu/S具体的に軍記のどの部分の裏付けだよ?ちゃんと書いてみろよ。
例えば奥羽永慶軍記の岩崎合戦なんて存在そのものが史家によって否定されたりしてるわけだが。
だいたい仙北一揆の詳しい内容は上杉年譜や景勝一代略記や越後治乱記や管窺武鑑によるところが大きい。
最上側資料自体がほとんどないし、鮭延寺開基之縁起は18世紀半ばに作られたから内容なんて怪しいもんだ。
しかし小野寺資料は津和野藩の亀井氏の江戸家老米原綱貞に話した内容は1640年には完成しており、藩主亀井氏に宛てた言上状はそれ以前に書かれている。しかも小野寺義道本人が書いている一次資料に三春弥三郎と書かれている。
お前は一次資料を否定してムチャクチャな事を言ってまで最上を美化して気持ち悪い。
義光を美化するために都合が悪い義時や三春日向の暗殺を否定したりして歴史を捏造すんなよ基地外!
0226人間七七四年
2009/04/05(日) 08:58:56ID:GbYZGGeoアンチ直江の鮭厨は真性基地外荒らしだから、
自治体史を書く史家はことごとくみんな嘘つきらしいよw
最上義光は人間性のかけらも無い、神にも等しき清廉潔白で、正々堂々にして人殺しを憎み、優しく義理人情に溢れた正義超人なんだとさwww
そんな神聖かつ偉大な人物像なのに、なんで天下をとれなかったんだろうねプププ
0227人間七七四年
2009/04/12(日) 21:17:52ID:TlDFcTaj0228人間七七四年
2009/04/12(日) 21:25:52ID:TlDFcTaj0229人間七七四年
2009/04/12(日) 21:42:41ID:XGmW9DIO0230人間七七四年
2009/04/12(日) 21:54:46ID:hZmWTw0Gあれ?初当選じゃ無かったか?
0231人間七七四年
2009/04/12(日) 22:06:48ID:VBaXH66I0232230
2009/04/12(日) 22:07:05ID:hZmWTw0G藩主復帰って事で…
0233人間七七四年
2009/04/12(日) 22:12:32ID:jYn58qZX秋田市長→秋田県知事
つまり、領主が国主・藩主になったようなもんだな。
0234人間七七四年
2009/04/12(日) 22:25:04ID:OrvSgCsT最上スレでいじめられ以来、病状進行したね
0235人間七七四年
2009/05/17(日) 10:14:21ID:k62FVzpf0236人間七七四年
2009/05/17(日) 13:37:57ID:AaMxrS15市長や知事は昔風に言えば奉行や代官にちかいんじゃねーの??
0237人間七七四年
2009/05/17(日) 13:48:38ID:idtIRMUM0238人間七七四年
2009/05/17(日) 13:55:02ID:85ji3G2U公選知事は領主の方が近い。
0239人間七七四年
2009/05/20(水) 13:22:25ID:oWSmiSjO今の知事と昔の領主と比べると権力があまりに違いすぎる
憲法的にも主権国民なんだから知事は限定的な権力を預かってるのに
過ぎない
0240人間七七四年
2009/06/15(月) 11:44:35ID:1mFdjocA政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は義重の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、
6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、
7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。
0241仙台藩百姓
2009/06/15(月) 14:02:59ID:KiQpm4LB後詰めにも行けないのに敵中で蜂起させても捨て駒にする他ないし
信頼でもってた義重がそんな事するとは思えないお( ^ω^)
まあ、向こうは当てにしてたかもしれないけど
佐竹にとっては大事な時期に無駄な騒ぎ起こしたくないだろうし迷惑な話しだったおうね( ^ω^)
0242人間七七四年
2009/06/16(火) 01:10:52ID:eRkUHYrHもし佐竹が関与してなきゃ義重の陣にやってきた時点で拒絶してたろうね。
佐竹内には岩城経由で二階堂盛義の正妻(伊達出身)や重臣の須田盛秀も在陣してたし。
0243人間七七四年
2009/07/02(木) 02:05:07ID:OewS63RT忍城攻囲中か転戦中の義宣の陣じゃないのか?
義重は義宣に小田原参陣させて自身は太田に居て北方の守りをし、大勢が決したあと宇都宮で秀吉に謁見したと思ってた…
0244人間七七四年
2009/07/05(日) 12:59:05ID:z8MZvRqUもしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。
0246人間七七四年
2009/07/08(水) 21:04:14ID:5YopciW6佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出したわけだが。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。
0247人間七七四年
2009/07/10(金) 20:20:00ID:X2P97FUv箭田野氏が領地を安堵されたなら蒲生氏に取り込まれてしまったわけで
義宣の思惑が上手く行ったとは言い難いと思うが…
箭田野兄弟がどこまで佐竹と連絡を取り合っていたかは分からないが
南会津の葦名残党は義広が秀吉と連絡を取り合って伊達に抵抗していたのは間違いない
葦名当主として健在なのを秀吉にアピールし会津の支配権を取り戻そうとしていたわけだ
だが、実際には秀吉は葦名の存在を無視してしまい上手くいかず
同じく滑津など石川庄周辺の佐竹領も没収されてしまい返還される事はなかった
伊達も佐竹も豊臣政権に翻弄されたと言ってよいだろう
どうにも惣無事令の基準は分かりにくい
豊臣内の派閥争いなども絡んでいるらしが
0248人間七七四年
2009/07/12(日) 12:05:52ID:R2+ZR3Gqかも知れないが豊臣政権の奥羽探題格の蒲生家に佐竹派の箭田野が存在する事になったのは良かったのではないか?
箭田野を引き取り領地を与え家中に加えるよりはね…
0249人間七七四年
2009/07/12(日) 14:15:28ID:mDsGPEz5佐竹の役割が奥羽鎮護では無く、対家康用になったので
葦名領堪忍分として常陸の旗頭を認め厚遇されたんでしょ。
里見などに比べたら破格どころじゃない厚遇は旧葦名領分含みだから。
だから北過ぎる太田から、江戸に近い南方の佐竹領でなかった水戸に本拠を置くように言われたわけだし。
北は相馬を寄騎や岩城に三男養子、さらに赤坂や赤館まで安堵されたわけだし(佐竹大陪臣的な義久は小早川や直江や石川や鍋島みたいな位置だが)下野佐竹領も安堵。
下野宇都宮氏も佐竹と関係深かったわけだし。
さすがに兄弟がいた位置が佐竹領にならないのが失敗は無理やり過ぎる。
0250人間七七四年
2009/07/12(日) 15:28:03ID:D3BKtR/I何を言っているのかわからんが、少なくとも箭田野義正は秋田へ行っている。
そんで義宣と対立した梶原政景を態と秋田領から逃がしている。
0251人間七七四年
2009/07/12(日) 22:23:07ID:KfsT5g4+そうじゃないと辻褄が合わない
>>249
佐竹は洞中を自領として申請したわけで別に秀吉が恩賞として増やしたわけではない
豊臣政権を上手く利用して洞を廃し集権化を図る事に成功したと言える
赤館や下野の一部は佐竹の領地だし安堵されるのは当たり前かと
0252人間七七四年
2009/07/13(月) 05:55:27ID:PEJY3EK60253人間七七四年
2009/07/13(月) 08:04:45ID:zm3LZbYM同時代の人々もそのように認識しておりました。
0254人間七七四年
2009/07/13(月) 13:22:16ID:PEJY3EK6例えばどんな時に彼らは認識してたの?
それがわかるような書状とか教えて。
私は北条側について秀吉に参陣しなかった事が彼らの破滅だったと思ってたけど違うんだ。
鹿島まですべて佐竹洞中だから秀吉が与えただけなんだ。
0255人間七七四年
2009/07/13(月) 22:38:27ID:+gX5xyagつまり佐竹では初めから鹿島郡辺りも自領と認められるつもりでいた事になる
そして義宣は洞中の領地を書き出して秀吉に渡し、御朱印を貰った事を書状の中で説明している
0258人間七七四年
2009/07/16(木) 09:46:51ID:PRT3rWCo『遠藤広家文書』(天正十六年)三月十三日付遠藤高康宛伊達政宗文書写
「(前略)
佐竹ニ而者、府中と江戸殿間に干伐出来、義重自身有出張、一和之雖御意見候、
江戸殿悉手詰故、時宜相切、府中へ義重打向、被及弓矢候由ニ候、佐竹洞中悉取糺候
(後略)」
政宗が府中と江戸が戦争たことを示して佐竹洞中が取り乱れたと言っている。
また岩城の仲介で江戸が懇望して佐竹義舜と条々を取り交わしたた際にも、
江戸は佐竹の「洞之諸沙汰」に申し合わせることが肝要であるとの起請文を受けている。
小田に関しては直接佐竹の洞中に属したことを示す文書は無いが、
天正十一年に氏治の当時五歳の嫡子守治が佐竹に行ったこと、
天正十五年に小田に帰されたことが『烟田旧記』にあり、
これは守治が佐竹の小田に対する人質となったことを示している。
このとき小田は佐竹に屈服し、小田洞は佐竹洞の下位の洞として包摂されたと見る。
洞についてあれこれと言うならば、せめて市村高男のせめて「戦国期における
東国領主の結合形態」くらいは読んでおかなければならない。
0259人間七七四年
2009/07/16(木) 10:11:48ID:PRT3rWCo(伊勢辺りからの船で)少なくとも二度以上、太田城に直接来ている。
また同様に佐竹義久も小田原陣以前に上洛し、秀吉と直接面談していると思われる。
その際に東国関東の秀吉の成敗について詳しい内示があったと見られ、
佐竹洞中の一部が小田原に参陣したかったのは、佐竹と羽柴の間での密約があったと見える。
このことは多分佐竹の近世常陸領形成に割合に重要な意味を持つと思われるんだが、
どうも研究がちゃんと進んでいないのか、残念ながら誰も指摘しない。
0260人間七七四年
2009/07/18(土) 23:24:04ID:31upJBix木田余城を攻略した際に鹿島・行方の諸将を入れているし
小川岱の対陣でも佐竹方として出兵している
多気山城の築城の際にも普請に駆り出されているしね
正確に言えば江戸氏や大掾氏の洞中であるため佐竹の洞中に包括されていた
だから彼らを介して出兵を要請する事が多かったようだ
それが次第に佐竹が支配を強めて直接支配を及ぼすようになる
ちなみに後に討伐される額田氏や三十三館主の島崎氏、烟田氏、田野辺氏などは小田原に参陣している
常陸誌料等によると江戸氏も家臣を義宣に従軍させた事が記されている
額田や水戸、鹿行などは義宣に領地の明け渡しを要求された話しが残っており
又、義宣はしきりに配下の領地替えを行っている
つまり彼らは転封を嫌って反発し討伐されたのではないだろうか
この辺りはまだまだ研究の余地があるね
0261人間七七四年
2009/09/07(月) 00:24:45ID:Ssov/2gw0262人間七七四年
2009/09/13(日) 21:47:51ID:JZqfiY/W地図に名前が出てきたのと、話題に出たのみかい?
0263人間七七四年
2009/09/14(月) 19:56:52ID:7Fe0Pr5g名前出てこなかったねw
0264人間七七四年
2009/10/04(日) 09:06:47ID:eI0gniYD0265人間七七四年
2009/10/04(日) 11:22:17ID:psuEg5HC0267人間七七四年
2009/10/04(日) 16:31:30ID:rHUNig+a(慶次は爺さんだけどw)
あー見たかったなそういうの、、吉継や秀康とかも一緒に
0268人間七七四年
2009/10/04(日) 17:57:35ID:IFfym2zKいかんせん実力ないから書けないんだろうね。
0269人間七七四年
2009/10/04(日) 21:07:18ID:+tRJJikP0270人間七七四年
2009/10/04(日) 22:58:03ID:eI0gniYD0271人間七七四年
2009/10/04(日) 23:48:24ID:nYWnQD1I0272人間七七四年
2009/10/10(土) 10:06:38ID:UmJzAv4Y0273人間七七四年
2009/10/10(土) 12:05:07ID:lCfJVO/A逆に、書ける人にとっては良いネタとは思う。
関ヶ原について裏まで脚本作り込んだら
かなり面白いドラマできるだろうなぁ。
0274人間七七四年
2009/10/12(月) 23:24:53ID:kuyLA2sN小和田教授のアドバイスを無視した結果があのスイーツ大河
何せ戦国時代に京都から大坂まで1日で行けると思っているような連中ですからw
0275人間七七四年
2009/10/13(火) 16:07:25ID:1vMscgzs0277人間七七四年
2009/10/19(月) 23:27:44ID:P5Lb0lrX今次の脚本家はダメダメxx
0278人間七七四年
2009/11/06(金) 23:24:23ID:GsvhFwy4これは買いだね。
0279人間七七四年
2009/11/06(金) 23:45:19ID:hmX5E/Ry拙い話ではなかったが、わりとありきたりで今ひとつ盛り上がりに欠けた。
池波正太郎ほどでなくてもいいから
もう少し独自のドラマを展開させても良かったな。
0280人間七七四年
2009/11/07(土) 07:00:00ID:PZ0oh3lo0281人間七七四年
2009/11/07(土) 20:53:57ID:kf/380ju0282人間七七四年
2009/11/08(日) 03:38:26ID:dBQ/TVJY0283人間七七四年
2009/11/08(日) 22:11:59ID:GBrsotkSこれがまたステレオタイプというかご都合主義の典型というか
設定に何の捻りもない。
他の武将との丁々発止や義宣の葛藤がうまく書けないから
適当な女を持ち出してお茶を濁したという印象。
0284人間七七四年
2009/11/09(月) 23:15:58ID:lDR+RxY3まあそれはそれでよいのでは?
家臣団が多く出てくるのもおもしろいね。
0285人間七七四年
2009/11/10(火) 01:24:27ID:zOWcGEcj鉱山もあったし。住めば都ってここが由来でもいいだろって感じ。
東北の中では、着倒れとか言われて派手好みだったし比較的恵まれて
いたんじゃないか。
0286人間七七四年
2009/11/10(火) 04:46:18ID:husqC0Skまた源義家などの件から、源氏隆盛の故地だから縁起がよいなどと義重などは言っていたとか。
0287人間七七四年
2009/11/10(火) 08:18:55ID:xAJDWfbh恵まれてたというのは言い過ぎ、ひいきの引き倒しだ。
それほどひどくは無かった、という程度。
藩財政は江戸前期から累積大赤字。
近年の研究では、江戸時代の百姓はわりあい裕福だったというけれど、
秋田藩は例外的に、マルクス主義者が言うような
重税と飢饉、に打ちひしがれ、餓死や間引きが横行した悲惨な百姓そのものだ。
秋田の農業は、米ひとつに依存しすぎだし、
江戸時代の秋田は、米作りには寒すぎる国だった。
0288人間七七四年
2009/11/10(火) 09:10:38ID:Z8U2b75fそもそも藩財政が黒字の藩の方が例外的だしなw
江戸時代の奥州が米に向かないのも、佐竹が重税で百姓を圧迫していたのも事実だが
余所者な上、殿様・その係累に趣味人多いしな
0289人間七七四年
2009/11/10(火) 10:08:57ID:auHZ+FgM美人を皆連れていったからってのは無茶なこじつけな気もするが
ありえない話ではない気もしてきたよ。。。。
0290人間七七四年
2009/11/10(火) 10:52:01ID:Ur+kIY2B国替えの際に百姓は連れていっちゃいけないし
さすがに女中が何千人もいたなんて聞いた事がない
元々武家の割合は5〜6%の上に、義宣に従ったのは半数以下
それで美人がいなくなったというなら元々極僅かしかいなかったと言う事になる
あと、茨城県南・県西地方は佐竹領じゃない所が多い
美人の話しは鰰・金山と共に水戸藩に対する当て付けであって、歴史ではなく笑い話しの類だ
0291人間七七四年
2009/11/10(火) 11:41:54ID:rlHx2jCr可能性はあるんじゃね?
0292人間七七四年
2009/11/10(火) 11:52:40ID:BAr1Lev40293人間七七四年
2009/11/10(火) 11:57:46ID:Ur+kIY2B秋田に限らず東北は美人多いし
0294人間七七四年
2009/11/10(火) 23:00:58ID:gN+Y8vUZ茨城の美人を秋田に連れて行く
秋田からはブスを茨城に送る
ほぼ同人数と同年代の娘を条件に徳川も容認したんだよ
だから両極端になっているんだ、400年経っても
0295人間七七四年
2009/11/10(火) 23:16:30ID:xAJDWfbh秋田美人という概念ができたのは昭和に入ってからです。
0296人間七七四年
2009/11/11(水) 05:23:36ID:NYO+xIQd0297人間七七四年
2009/11/11(水) 11:16:42ID:jzSfTgd1茨城にブスが多いのは事実なんだよな
つまり現実には逆に秋田にブスが増えたって事だよなw
0298人間七七四年
2009/11/11(水) 12:16:03ID:bVWsEaKn5年前くらいまで仙台はブスばっかりで驚愕したけど、今年仙台行ったら可愛いやつがかなり生息してたw
不景気で東北の美人が仙台に集まってきたんかなwww
茨城県も岩城や相馬から美人を誘致しろよw
0299人間七七四年
2009/11/11(水) 18:12:08ID:fkB8NRS80300人間七七四年
2009/11/11(水) 18:33:32ID:7NYmbwzb化粧に誤摩化されるな。
0301人間七七四年
2009/11/11(水) 20:33:53ID:NYO+xIQd「仙台」は昔からそうよ
近県産の美人がいるから「仙台」にいる女性は美人がいる
一歩仙台から出るとガッカリ
あるいは地元産の女学生の顔をみるとガッカリ
0302人間七七四年
2009/11/11(水) 21:36:55ID:dpUJfKCtまあ、水戸は水戸市だけじゃなく「水戸藩領」を指す場合が多いんだけど。
県南は近世になって他県から流入した人が大半を占めているから基本的に別
完全に標準語で茨城弁分からない人が多いし。
あと、県境の地域は隣県からの行き来があるから幾分マシだ。
0303人間七七四年
2009/11/11(水) 23:08:50ID:i3KXQCDV0304人間七七四年
2009/11/12(木) 08:54:08ID:O+3dj5nH単語ひとつ理解できない。群馬県方面は語尾のアクセントが違うくらいなのに、なぜ筑波はああまで違うんだ。
江戸のスパイが潜入してもすぐわかるようにするためか?
もう5年以上前だが盛岡からバスで大館市内に連泊仕事で行った時、?百貨店1階を歩いていたら美人店員ばっかで感動した。特に資生堂の人。
その百貨店潰れたらしいのが残念だな〜。
0305人間七七四年
2009/11/12(木) 10:01:30ID:99BxaFIfつか、百貨店の店員が標準語使えないほうがおかしいだろ。
資生堂の店員がブスだったら企業イメージに係わるだろ。
沖縄だって内地観光客相手の店はウチナーグチじゃなかったぞ。
0306人間七七四年
2009/11/12(木) 10:33:58ID:erWinDjr0307人間七七四年
2009/11/12(木) 12:04:33ID:tt9nEWyL義宣とかは完全に茨城弁だったはず
義宣「出羽さ国替えだとよ」
頼久「でぇ〜〜〜、なぁ〜んだっぺまずー」
昭為「久やん(義久)があーだらごと言ったからだっぺよ」
義宣「したっけ徳川で城受け取りにきっから仕度しといておごれや」
0308人間七七四年
2009/11/12(木) 12:56:08ID:erWinDjr武家は和歌とか必須科目だし
0309人間七七四年
2009/11/12(木) 15:37:05ID:O+3dj5nH0310人間七七四年
2009/11/12(木) 17:39:25ID:iwjC3X0h正札竹村
0311人間七七四年
2009/11/12(木) 19:29:20ID:iTJf3Qm/「〜だぎゃあ」「〜ぜよ」「〜ずら」「〜でがす」etc
0312人間七七四年
2009/11/12(木) 22:13:31ID:O+3dj5nHあぁ滅亡したのは、たしかに正札大名だったかも。
なぜか中三大名とごっちゃになって迷って「?」と書いた。
0313人間七七四年
2009/11/13(金) 09:26:10ID:seZLfwcCちっとも美味しくないんだが。
個人の好みにもよるけどね。
0314人間七七四年
2009/11/13(金) 09:43:18ID:22ET4w6D0315人間七七四年
2009/11/13(金) 10:19:00ID:seZLfwcC佐竹の何代目かが広めたんだろ
0316人間七七四年
2009/11/13(金) 14:06:05ID:gidy8NF/どこで食べたの?
おみやげのきりたんぽセットとか食べただけで言ってない?
秋田のまともな郷土料理の店で食べてごらんよ。
0317人間七七四年
2009/11/13(金) 14:12:06ID:DvvSZ4hSカレーライス
0318人間七七四年
2009/11/13(金) 14:43:25ID:4DkZzzQ5>その後,側室との間に嫡男ができるも2才で病死するなど,私生活は不幸続きだった。
自殺って何か理由でもあったの?
0319仙台藩百姓
2009/11/13(金) 15:27:51ID:bqVL82vMどこでも婚姻関係は複雑に絡んでいるし今更正洞院だけ死ななければならないと言う事もないおね( ^ω^)
義宣は後に側室も追い出したりしているから単に不仲だったのかもしれんお( ^ω^)
要するに何だか分からないお┐ (´ω`) ┌
0320人間七七四年
2009/11/13(金) 15:49:25ID:gidy8NF/「茶や能楽、京文化にかぶれて文弱に流れた義宣を、死をもって諌めた」
と史書にはあるが、それも後代の人間があれこれ想像した理由に過ぎない。
実家の那須家が滅んでしまい絶望したのか、と想像する人もいるが。
0321人間七七四年
2009/11/13(金) 17:38:14ID:+ycfmyp8常陸国の事は箇条書きで秋田移封後が三行で終わる小説はつまらん
0322人間七七四年
2009/11/13(金) 18:25:12ID:sxeN3Ofvttp://www.mononofu.net/SHOP/T0035.html
0323人間七七四年
2009/11/14(土) 01:41:10ID:xFFCiKxi愛の前立てより若干つかみが悪いかもしれん
0324人間七七四年
2009/11/14(土) 01:53:57ID:O9Bsq2T4礫徐は奇萌伊から。。。
322>>貧乏臭いね。。。
確か岩城貞隆愛用の茶器とか。もっと格式あるものじゃないと
0325人間七七四年
2009/11/14(土) 02:11:45ID:O9Bsq2T4ここにありますのでご参考に
0326人間七七四年
2009/11/14(土) 02:33:13ID:O9Bsq2T4これも
0327人間七七四年
2009/11/14(土) 12:17:25ID:SvUCSANJ常陸時代からの習慣だろうか
伏見にいた頃はさすがにスッピンだったろうけど
0328人間七七四年
2009/11/14(土) 20:33:09ID:vzVM01Bk鼻が欠けてたとかさ。
0329人間七七四年
2009/11/14(土) 22:20:44ID:rQopczVk昔は梅毒説もあったが今は否定されているようだ
0330人間七七四年
2009/11/15(日) 00:10:27ID:ZKNaRG/gオヤジの義重も用心深い人だったし、その辺は似てるかも。
0332人間七七四年
2009/11/15(日) 15:35:05ID:l3Osv5bY普段から付けていたなんて聞いた事ないな
0333人間七七四年
2009/11/16(月) 09:47:44ID:9+Fo0ijl・・・・と、自分も何かで読んだことがある。wikiや小説の類ではなく、学術書で。
だから藩祖なのにスッピンの肖像画がないとか何とか。
ただ義宣の場合、親父の鬼義重のエピソードとごっちゃになってたりするからな。
どこまで本人の逸話なのか、よく分からん。
0334人間七七四年
2009/11/16(月) 10:40:45ID:MEKGQtRF肖像画って死後何十年何百年経ってから描かれるものがあるし
大名全員の肖像画があるわけでないから別に不思議な事ではない
それと確かに義重と義宣を混同してるものって結構見掛けるよね
義宣肖像画と言われているものも実際どうなのだろうか
去年太田の歴史館で義宣肖像画に関しての講演会やってたけど聴いてみればよかったな
0335人間七七四年
2009/11/16(月) 17:20:06ID:mminZVyH中三は、久保田の庶民による一揆で追い出されました。
新しい物にはすぐ飛びつく。
田舎で珍しい行列作ってでも行ってみたり、食べてみたり。
でも、リピートしない。
0336人間七七四年
2009/11/16(月) 17:45:07ID:mminZVyH保存食というほど、きりたんぽ自体は日持ちしない。
最近の流行のきりたんぽは、あきたこまちを使った肉厚のたんぽ。
でも、俺は昔のポロポロと煮崩れしてしまうササニシキや、キヨニシキを使ったのが好き。
鶏ガラでしっかりと出汁を取ってね。
使う鳥は比内地鶏を始めとするブランド系のが手に入ればいいけど、何でもいい。
使う鶏肉も何でもいい。但し、鶏もつを入れること。<ここポイント。鶏もつ(産卵管と黄身のところ。)
具材は、ごぼう、長ネギ、舞茸(うちでは昔、金茸という松林に生えるキノコを使っていた。
香りも味も良く、またがきんちょの俺でも採る事が出来たキノコ。今、高級品。)
うちでは、しらたきを入れないけど入れるのが多いみたい、あと油揚げ入れる人も居るね。
仕上げにセリ。せりは根のひげの所を捨てずに(ここが一番うまい)。
たんぽじゃなくて、「だまこもち」ってのも有る。
これは、炊き上げたうるち米を半殺しに潰したて一口大
(肉団子の一回り多きぐらい)に丸めたもの。
今は、このだまこも既製品が有るけど、この手の既製品は焼いてある。
うちで、だまこをやる時は焼かずにそのまま使っていた。
これを、きりたんぽの代わりに入れれば良い。
これなら、小さい子供と一緒に作って食べれるから面白いよ。
0337人間七七四年
2009/11/16(月) 18:21:16ID:0Raamk8f『学術書』ねぇ・・・
佐竹義宣について書かれた『学術書』なんてそうそう無いと思うけど。
出典が無い以上、いち奇説として扱っておくべきだろう。
義宣については、家臣が彼を恐れていたため、
顔を仰ぎ見ることができなかったというエピソードがあったけどね。
0338人間七七四年
2009/11/16(月) 18:35:20ID:GLoY6W7B0340人間七七四年
2009/11/16(月) 21:13:47ID:tEqGBNqa>義宣については、家臣が彼を恐れていたため、
>顔を仰ぎ見ることができなかったというエピソードがあったけどね
出典は?
0341人間七七四年
2009/11/16(月) 22:45:11ID:MEKGQtRF秋田叢書に集録されている小野寺道維の聞き書きが出典だと思う
0342人間七七四年
2009/11/16(月) 23:40:03ID:FnvO9A6p0343人間七七四年
2009/11/17(火) 00:09:40ID:htzrRbclやはり、祖父義昭父義重と続く大家頭領だからでしょう。
>>義宣肖像画と言われているものも実際どうなのだろうか
秋田天徳寺や旧太田御殿(太田城)付近の古刹にはもしかしたら秘蔵として
後世に発見されるかもしれませんね。
>>俺は昔のポロポロと煮崩れしてしまうササニシキや、キヨニシキを使ったのが好き。
貴殿は食通? キヨニシキなんて何年ぶりに聞いたでしょうかねぇ。
お釜でたいたキヨニシキなんて最高の香りがして、ササニシキや越光なんか目じゃないですね。
食欲をそそります。
0344人間七七四年
2009/11/17(火) 12:26:40ID:2uJEFAF2秋田に飛ばされて正解だった気がするが。
0345人間七七四年
2009/11/17(火) 15:47:21ID:C7oliXZF0346人間七七四年
2009/11/17(火) 18:52:20ID:lTzRFQHj別にそういう学説があるわけでもないし決着もなにも無いと思うけど
0347人間七七四年
2009/11/17(火) 20:49:09ID:eumZAqk3ニ●モノ出して、格式って言われてもなあ・・・
最近知ったかぶりが多いな。
0348人間七七四年
2009/11/17(火) 21:59:25ID:PZkqiYYd(元、足利尊氏画像ではむりやりガニマタにしてつま先を横に向けた)
左足だけあぐらにした、という結論になったような。
0349人間七七四年
2009/11/17(火) 23:34:39ID:lTzRFQHj肖像画は殆どが後世に描かれたもので本人見ながら描くわけではないし
あの義宣肖像画と言われている絵も結構新しく
明治時代に義宣の甲冑見ながら描かれたもので、画家は義宣の身体的特徴など知る由しもない
でも、あの肖像画は異彩を放っていてなかなか良いよ
0350人間七七四年
2009/11/18(水) 11:15:25ID:a+9B+5Cm0351人間七七四年
2009/11/18(水) 22:35:41ID:yWVCkuPW手紙なんかの交流はあったんだろうか
0352人間七七四年
2009/11/19(木) 18:42:52ID:RYB1GaWP伊達政宗と観劇したりする話が載ってるよ。
もちろん、これも藩主の『お仕事』だけどね。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2512.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1971.html
政宗のこと、大嫌いなんじゃないかと思ってたが
意外とそうでもないのか?
つくろってるだけなのか?
これも、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2512.html
0353人間七七四年
2009/11/19(木) 19:46:35ID:fXGy/8Qp親兄弟でもないのにうっかり仲良しこよしして、
徳川幕府から「あいつら手を組んで何か企んでるのか?」と
痛くもない腹を探られてもマズイっしょ。
ふと思ったんだが、佐竹家は結構親兄弟の仲が良いよな。
いがみ合い殺し合いばかりの伊達家とはかなり違う。
0354人間七七四年
2009/11/19(木) 20:15:21ID:RYB1GaWPいい話・悪い話スレを読み進めていくうちに、
大名同士の交流の話が沢山出てきて、認識を変えた。
政宗とか、三斎さんとか、交友関係幅広い人もいるし。
表向きは禁止だが、裏では羽目外さない程度にやっていいという
典型的な日本的法令(?)だよ、多分。
まあ、義宣は友人多くなかっただろうけどね。
0355人間七七四年
2009/11/19(木) 20:44:22ID:fXGy/8Qpそう思うと、ちと気の毒のような・・・・。
政宗は交流好きというか、わーっと騒ぐのが好きそうだよね、何となく。
0357人間七七四年
2009/11/19(木) 21:49:18ID:RYB1GaWP義宣は寝る時の逸話も示すように、一瞬たりとも気を抜けない一生を送ったと思うよ
政宗みたいに、適度に息抜きしつつ遊んでふざけて人生謳歌、ってタイプじゃないよね。
君主ってホント大変な仕事だよ・・・
>>356
頭はずば抜けていいのに、あちこちで角を立てる不器用な三成と馬が合ったんだろか。
真面目な人間が好きなのかな。
義宣は、理性の人って感じだよね。
悪く言うと冷酷な側面もあるんだけど…
0358人間七七四年
2009/11/19(木) 22:25:16ID:AfkkQblk結果的に敗者となってしまったから
同じことをした他の君主より悪く見られがちなんだと思う。
まあ移封減封された大名なんて、どこも似たり寄ったりなわけだが。
仮に伊達政宗が一揆の煽動の咎で出羽へ移封になったとして、
佐竹家のようにそこそこ治められたか?というと疑問だな。
0359人間七七四年
2009/11/19(木) 22:28:16ID:AfkkQblk政宗が為政者としてどうこう…というのではないんだ。
家臣団が付いて来たかどうかがポイントじゃないかと思うので。
0360人間七七四年
2009/11/19(木) 22:57:47ID:TIx/hGsp性格も似てる感じだし
逸話なんかからすると義宣は派手好きでイケイケな人物像が浮かぶ
0361人間七七四年
2009/11/19(木) 23:05:20ID:AfkkQblk相違点:義宣=長男気質、政宗=一人っ子気質
そんなイメージがある
0362人間七七四年
2009/11/19(木) 23:13:42ID:dUjPJLe50363人間七七四年
2009/11/20(金) 00:29:05ID:lTII7Xurなんか贋作でも作者が腕のいい職人みたなのいで、一つあってもいいかもね。
0364人間七七四年
2009/11/20(金) 01:20:12ID:HMX+2DTa0365人間七七四年
2009/11/20(金) 02:27:47ID:YGrJX/qP奥州大名は軒並み悲惨。
同じ頃、義宣は茶に能に遊びほうけてたんだけどね。
どうしてこんなに心境が違うのか。
0366人間七七四年
2009/11/20(金) 05:04:18ID:xL9ZXyeX俺や最上の爺さんや秋田実季なんかはそれはもう古式に則った綺麗な和歌を詠んだもんだぜ」
と言ってるぐらいなので南部と津軽だけが田舎だったんじゃね
0367人間七七四年
2009/11/20(金) 07:43:10ID:HMX+2DTa伊達や上杉らは朝鮮出兵してる中で
秀次との婚姻のおかげで義光は出兵もしないで何が水飲みたいだよ
しかも小野寺領の火事場泥棒までやろうとして小野寺領侵攻までした。
>>366
政宗は奥州の田舎者だから早く朝鮮から戻れてほんと良かったって言ってるな。
他家資料で政宗の和歌がすごいうまいとか書かれてないから政宗の自己満だろうな。
0368人間七七四年
2009/11/20(金) 09:00:25ID:0cdEMa24出兵させられるかしないですむか
分からないまま待機させられていたら
故郷が恋しくなっても不思議はないと思うけどね。
生きて戻れる保証はないわけだし。
あと、当時茶道と能は遊びではなく重要な政治活動の一部だから。
それを疎かにすると仲間はずれなんてレベルじゃ済まないから。
0370人間七七四年
2009/11/20(金) 10:03:02ID:0A8U6NQLもっとも東国からだと名護屋行くだけでも大変だったけど
名護屋普請もしなければいけないし
0371人間七七四年
2009/11/20(金) 10:19:18ID:YRA5/l160372人間七七四年
2009/11/20(金) 10:37:54ID:1CTmFGWQ最上と上杉の争いは余所でやってくれよ
こんな過疎スレまで荒らすこたぁないだろ
0373人間七七四年
2009/11/20(金) 12:19:04ID:WROtfw/80374人間七七四年
2009/11/20(金) 12:29:49ID:HMX+2DTaしかも内政やってた秀次との婚姻から侵攻失敗を不問にしてもらった。
しかしこれが最上らと協調しての秀次謀反と疑われ秀吉に秀次は殺される。
0375人間七七四年
2009/11/20(金) 13:03:39ID:ZSP4YuLfSubなら病院へ行け
スレタイや2つ前のレスも読めないのか
0376人間七七四年
2009/11/20(金) 22:43:57ID:VYCd9+Udttp://373news.com/_bunka/jikokushi/126.php
義弘の家来・神戸久五郎の覚書が面白い。
「途中から黒具足、甲(かぶと)には水牛の角の立物(たてもの)を被った
武者がこちらに向けて駆けてくる。よく見れば、石田治部殿(三成)ただ
一人、供の騎馬武者一人も付けられていない。治部殿は佐渡で惟新様(義
弘)がご苦労されていると聞き、お見舞のため参ったと申された」
何と、三成はただ一騎で義弘主従を迎えに来たのである。
なんと律儀な三成であろうか。佐竹義宣とウマが合いそう。
0377人間七七四年
2009/11/20(金) 23:10:47ID:I3G4nqob0378人間七七四年
2009/11/21(土) 17:14:39ID:q7Iuc7n2危急で超多忙のときだぞ。詳しくはURL見ればわかる
0379人間七七四年
2009/11/21(土) 17:45:52ID:M+RKtK33戦の最中で島津を怒らせてしまうんだよな・・・
もし義宣が東軍に付いていたとしても
遅かれ早かれ家康は佐竹を潰したと思う。
自分の領土の隣りに家柄抜群の万石取り大大名は
いて欲しくないからな。
0380人間七七四年
2009/11/21(土) 18:07:11ID:/eZCR66Mちゃんと読めよ
岩崎合戦
慶長か文禄期のどちらかにあった。
横手市史では周辺状況と遺された史料から文禄年間の方がリアリティを感じるとしてる。
0381人間七七四年
2009/11/21(土) 19:42:36ID:q7Iuc7n2島津隊は、しかし、周囲が戦乱の巷になり、大谷吉継までが自刃するという異常事態に陥っても
動かず、寄せてくる敵を撃退するに留まっていた。
この時、島津隊は、先鋒に島津豊久、先鋒右備えが山田有栄、本陣が島津義弘であったという。
石田三成は家臣・八十島助左衛門を遣わして、前線に出陣するように促したが、島津豊久は
「委細心得候」(了解しました)と返事をしたものの、まったく動かなかった。
三成は再度八十島を遣わすと、馬上から申し述べるのを腹を立てた島津家の者は「討ち取り候へ」
と叫んで威嚇するので、彼は駆け戻った。
それを知った三成は、自身一人で島津隊に馳せ寄り、「敵勢相掛け候間、跡へ押し寄せられ候へ」
(敵勢に突撃するので、後に続いて下され)と命令したが、島津豊久は、「面々切りに手柄次第に
相働くべく候」(めいめい手柄次第、自由に戦いたいと思っている)と返答して断った。
これを聞いた三成は「近比能くござあるべし」(好きなようにいたせ)と力なく言い、帰って
いったという。(以上『山田晏斎覚書』)
これらはもちろん島津義弘の方針によるものであろうが、何とも三成がかわいそうである。
0382380
2009/11/21(土) 19:46:05ID:q7Iuc7n2ttp://4619.web.fc2.com/hero1.html
から。
0383380
2009/11/21(土) 19:49:38ID:q7Iuc7n2といったところだろうか。
0384人間七七四年
2009/11/21(土) 20:57:57ID:oUHEs6EO直江…自覚してスパムメール(直江状)を送りつけた
義宣…???
世の中はいつも変わっているから頑固者だけが悲しい思いをするのか
0385人間七七四年
2009/11/21(土) 23:28:27ID:8Vhs3MLL主力を形成する毛利や小早川が内通している時点で終わっている
どうせ情報筒抜けなら前以て親密な諸将に連絡したほうがよかったかも
そうすれば佐竹みたいな中立勢力を西軍に引き込めたかもしれない
もっとも逆に東軍に走らせる可能性も否定できないが
0386人間七七四年
2009/11/22(日) 11:21:59ID:Eejrqtwe秋田移封後に追い出したんだよね。
あと側室なのになんで御台って呼ばれてるのか良く分からん。御台って正室の
名称だよね?調べたら継室は多賀谷重経の娘ってなってるし。
多賀谷氏の娘貰うために離縁したのかとも思ったけど時期が合わないし。
わざわざ側室を離縁するなんて面倒臭い事をしたからにはよっぽどの理由があったのかな。
側室なんて別に屋敷に飼い殺ししとけば良いんじゃね?と思うのだが。
当時の側室とかってあんまり追い出されるとかの話聞かないけど、聞かないだけで一般的なことだったのかな。
閨閥争いで負けて追い出されたのかな?
なんか義宣のお嫁さん達、調べたら書いてある事ごちゃごちゃで、(夭折した子供も
側室の子供だったってのもあるし、正室の子供って書いてあるのもあるし。)そのうえ、
3人とも末期がほんのり不幸風味だし…。
よくわからないので誰か教えてください!!
0387人間七七四年
2009/11/22(日) 16:13:35ID:Tn1aYyvhもしかすると多賀谷氏に勝るとも劣らぬ身分の出だったからかもしれない。
義宣は岩瀬御台に二階堂氏再興を約束して輿入れさせた。
しかし秋田移封でそれが叶わなくなってしまう。
義宣を御台に詫び、横手城へ彼女を預けた。
というのも、横手城は二階堂氏の遺臣・須田盛秀が城代をしていたから。
岩瀬御台はそこで領民に慕われつつ、二階堂・蘆名の菩提を弔って暮らしたという。
0388人間七七四年
2009/11/22(日) 17:01:14ID:tMltxY7P・だが二階堂に後継ぎが欲しい。
・岩瀬御台は若いので子供を産めるだろう。
・二階堂一族の誰かに嫁がせるために離縁。
・岩瀬御代「今更そんなこと言われても義宣以外におらんわ」
・二階堂一族「側室とはいえ、藩主の妻だった人だしなあ…」
0389人間七七四年
2009/11/22(日) 20:09:31ID:OvN5o4JI確実に梅毒に罹っていたと分かっているのは結城秀康くらいか?
0390人間七七四年
2009/11/22(日) 22:12:45ID:d4IdP6xP乏精子症だったのだろう
そういや従兄弟の宇都宮国綱もなかなか子供が出来なくて例の浅野の養子問題でゴタゴタ起きたし
毛利なんかも輝元に子供出来なくて秀秋押し付けられそうになったりしたけど
佐竹は幸いそういう騒ぎにはならなかったね
義重が頑張って男子5人生ませたのが幸いしたというところか
ほんと跡継ぎいないのは深刻な問題だね
佐竹も戦国時代は割と短命な当主が多かったから義重も早めに隠居したのかもしれない
0391人間七七四年
2009/11/23(月) 12:54:17ID:x1qIzUl5「義宣の妹(鬼義重の娘)は高倉永慶という公家の正室」
という記述を見つけた。
この夫婦の息子が佐竹北家の義隣らしいんだけど、
この妹って人は義宣の2人の妹のうち
江戸氏実通に嫁いだほうと解釈していいだろうか?
ちなみに元記事には、
「永慶と正室の息子のうち、一人は最上義光へ養子に入った家親」
とあって、かなり眉唾なんだがw
0392人間七七四年
2009/11/23(月) 13:39:24ID:bxU9n5/O家譜系図よると義重の長女で、初め水戸城主江戸重通の次男宣通(実通)に嫁いだが水戸落城により離縁した
まだ幼かった為、実際には輿入れしていなかったようだ
その後、高倉大納言永慶に嫁いで子供のうち二人は佐竹北家と東家の養子に入った
最上の話しは見た事がない
サイト主が何か勘違いしたのだろう
0393人間七七四年
2009/11/23(月) 13:54:14ID:x1qIzUl5サンクス。
やっぱり最上云々は間違いだよなあ。
ところで江戸に嫁いだのは次女じゃなかったっけか?
長女は岩城常隆の正室だった気がする。
(のちに伊達成実の継室になった人)
0394人間七七四年
2009/11/23(月) 14:02:46ID:x1qIzUl50395人間七七四年
2009/12/09(水) 09:40:21ID:KxSw7kAh秋田の公文書館も関連書籍は出版していないようだ
0396人間七七四年
2010/02/11(木) 13:23:36ID:lj74MPeB関ヶ原の時に、佐竹義宣が家康に寝返った理由が「織部が茶器で釣ったから」と解説していた。
いろんな意味で心が折れたorz
0397人間七七四年
2010/02/11(木) 17:08:38ID:CDmsDzj1寝返ってねーべよ・・・・寝返ってたら出羽さ飛ばされねがっぺよ・・・・orz
つか、織部が説得に当たったが「東軍に味方する」という返事はもらえなかった
って説のほうが一般的じゃね?
話変わって、
義宣は秋田で江戸言葉を使うのを禁止して
使ったら罰金払わせたそうだが
誰かその辺に詳しい人いないかい?
0398人間七七四年
2010/02/12(金) 14:40:47ID:iI2sK1nr相変わらず不憫な佐竹キャラ付け
0399人間七七四年
2010/02/12(金) 23:49:45ID:XCiNLj+L0401人間七七四年
2010/03/04(木) 18:49:30ID:DrOY+KWxヒストリアというと、論文誌が出てくるな。
NHKのアレはすっかりミーハーくさい番組に成り下がった感がある。
(「そのとき・・・」も結構言ってることは適当だったがw)
0402人間七七四年
2010/05/28(金) 00:08:08ID:iZ6ZzQyqマンガ「雪の峠」読んだよ。面白かった。
義宣よりも、渋江内膳や梶原政景が主役の内容だったね。
0403人間七七四年
2010/06/07(月) 12:40:45ID:CySfddxe0404人間七七四年
2010/06/07(月) 12:46:27ID:QevZtBL2そのネタ2年周期くらいで必ず書き込まれるなワロタ
0405仙台藩百姓
2010/06/07(月) 14:35:37ID:klztcYEn0406人間七七四年
2010/06/07(月) 18:13:52ID:CySfddxe週刊戦国武将買ったら片足でいかつい感じでかっこよかったから気になったんだ
今まで佐竹義宣なんて弱小武将興味なかったけど
0407人間七七四年
2010/06/07(月) 23:34:55ID:aMnXu3juこいつが動いてれば
0408人間七七四年
2010/06/08(火) 09:52:51ID:swTL2yVM佐竹の江戸屋敷跡なんだってさ。
佐竹は単独で動いても無意味だろ。
景勝が南進して秀康と激突したら秀康の背後を霍乱するというのが
当初からの役目だったろうから。
0409人間七七四年
2010/06/08(火) 10:40:25ID:SGO/1UVGむしろ何で三成は義宣に計画を明かさなかったのだろうか
昌幸と義宣ぐらいには前以て知らせるべきだったな
そうすれば対応のしようもあったのに
0410人間七七四年
2010/06/08(火) 18:32:25ID:6mqmLbNj義宣は登場しないみたいだな。
南部晴政
宇都宮広綱
姉小路頼綱
尼子晴久
が登場確定。
0411人間七七四年
2010/06/08(火) 23:50:31ID:p6XR8jrI拙者は不器用ですからって。。。
失礼じゃないかね。。。
まあ毛虫盾鎧採用の努力はみとめますけど
0412人間七七四年
2010/06/09(水) 01:10:33ID:tR3wGdFg0413人間七七四年
2010/06/11(金) 11:24:30ID:foAPu3om0414人間七七四年
2010/06/12(土) 12:16:00ID:H+CAAXJN俺の愛季ちゃんや夜叉九郎や美髯公や分身の術が使える由利ちゃんが登場しないのはどういうわけだ?
せめて佐竹の騎下としてでもかまわないから相馬義胤くらい出せよ。
ほんとは会津のSEXリーダーだったアッシーナも登場させてもらいたいんだけどな・・・
0415人間七七四年
2010/06/12(土) 13:04:17ID:H+CAAXJNttp://www.capcom.co.jp/basara3/main.html
韓国語サイトでなぜか話題になってた義重の甲冑
ttp://www.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_14&uid=3827&fid=3827&thread=1000000&idx=1&page=11&number=2246
0416人間七七四年
2010/07/08(木) 20:59:46ID:R1AohaPZマジワラタw
0417名無しさん@そうだ選挙に行こう
2010/07/11(日) 02:52:03ID:kqQ4vsWI面白そうやね。でも漫画読まんからなー。
0418人間七七四年
2010/07/12(月) 17:26:02ID:ZiHGfqpb0419人間七七四年
2010/07/28(水) 11:44:49ID:82LZoplQ実際に大活躍したのは親父の久幹の方なんだが。
0420人間七七四年
2010/07/30(金) 01:09:17ID:OyFU5VFJ取り潰しをギリギリで免れたと見るべきか
単に関八州には置いとけないから適当な口実で飛ばされただけか
でも、いずれにせよ水戸にはいられなかっただろうけど
ちなみに土佐とは違って、旧佐竹系の家は
徳川政権下の水戸でも厚遇されたみたいだね
0421人間七七四年
2010/07/30(金) 07:53:01ID:Bv9edpKQもっとも帰農した佐竹旧臣に対しては25年間無税だったし
藩士に取り立てられた家も多少はある
まあ、後に水戸藩の重税に苦しめられたのは皆同じだけど
佐竹旧臣はかなりの数(恐らく1万以上)常陸に留まったから水戸藩も当初は迂闊な事できなかったのだろう
0422人間七七四年
2010/07/30(金) 12:16:05ID:FQO2m73S水戸徳川家の当主、徳川博物館館長に会いに行って佐竹の話を出したら
「佐竹は敵だっ!!」
と一喝されて、取り付く島もなかったってさ。
今でもこんな意識なのに、当時厚遇されてたわけがない。
0423人間七七四年
2010/07/30(金) 15:28:15ID:S9t0WO0d>今でも
平成以降、21世紀の現在でも…という意味なら相当狭量なお人ってことにw
0424人間七七四年
2010/07/30(金) 23:26:26ID:dsFcvDk3車一揆だって頼房が来る前の出来事だし。
ああ、頼房どころの話じゃなくて権現様の敵ってこと?
0425人間七七四年
2010/07/30(金) 23:45:40ID:lJRJqPkiむしろそっちのほうが多いんじゃないか?
0426422
2010/07/31(土) 08:54:21ID:JzoaaJ0F先代かもしれんが・・・
日本史板の会津長州スレでもみれば分かるが
恨みってのは世襲するんだよ・・・
>>424
大久保彦左衛門だって
「直接戦った連中よりも、佐竹が一番憎たらしい」って書いてたじゃん?
おそらく徳川一門の共通認識だよ。
さらに幕末の奥羽越列藩同盟からも裏切ったし (あくまで徳川視点だが)
0427人間七七四年
2010/07/31(土) 10:37:10ID:/5u5KuUD帰農した佐竹の末裔はもとより、佐竹の領民(例:小生瀬)から元々農民だった人の子孫(超重い年貢)まで
どんだけいるんだよww
個人的感情はあるとしても公の立場の人が大昔の話を持ち出して
「○○は敵」だのなんだのと言ったらいかんね
0428人間七七四年
2010/07/31(土) 12:30:28ID:6OINWwgn生瀬は頼房以前だから冤罪だな。
それにあれは佐竹の代官が往生際悪く
年貢を持っていったのが発端ともいえる。
0429422
2010/07/31(土) 12:52:22ID:JzoaaJ0F水戸藩の領民が水戸家を恨んでたなんて、現代人の後付け知識だよ。
水戸藩が重税だってことは、他藩と比較しなければ分からないことだ。
当時の百姓に他藩の税率を知る機会なんてまずない。
殿様をうらむなんて、天災が起きたから、天地を恨むようなものだ。
名もない百姓の家と、殿様の家を同次元で比べるのも全く意味がない。
先祖代々の教えが、百姓の家で現代まで伝わるのはレアだ。
この博物館長が、人間的に寛容な人だとは到底言えないが、
国公立の博物館ではないんだから、そのくらいの意見を持っててもいいんじゃね?
逆に現代の佐竹家の人が「徳川は敵」と言ったって、このスレの住民はおかしく思わないだろ。
むしろ、現代に残った貴重な証言だと思うべき。
長文スマソ
0430人間七七四年
2010/07/31(土) 13:29:10ID:6OINWwgn話もあったっけ。
0431人間七七四年
2010/07/31(土) 14:02:15ID:JzoaaJ0Fあったね。
島崎城を保存することになった時、地元の人が反対したらしい。
「侵略者の佐竹の城なんか、保存する理由がない」って。
0432人間七七四年
2010/07/31(土) 14:55:20ID:U51FS5hO佐竹と言われて真っ先に思い浮かべるのは楽天の佐竹投手だし
徳川といえば水戸黄門
0433人間七七四年
2010/07/31(土) 19:52:22ID:0to/N/Hw三十三館仕置きのときに逃げ出して生き延びたとかの。
法事で潮来市に行ったりもするのかな?
0434人間七七四年
2010/07/31(土) 22:48:58ID:0to/N/Hwところで↓に興味があるんだが行けそうもない俺の代わりに
行ってもらっていいですか?
http://www.sopia.or.jp/kcs/maibun/
「鹿嶋の中世城郭ー鹿島城跡と塚原館跡」開催
0435人間七七四年
2010/08/04(水) 01:55:20ID:m8bWCNP/頼房時代説もあるよ
月日は記載されているものがあるが年は不明というべきか
つうか佐竹の代官というのが明らかに言い掛かりなんだが
全く根拠がないし不祥事の隠蔽の為に濡れ衣を着せようとしてるとしか思えない
だいたい生瀬村とか数百石しかないのにわざわざ秋田や江戸から佐竹の代官がやって来て
生瀬村だけピンポイントに僅かな年貢を持って行くとか余りに阿保らしい話しだ
0436人間七七四年
2010/08/04(水) 21:55:35ID:7eNcgkFFおざなりにしか書かれていない理由が分からない。
普通なら「佐竹はこんなひどいことをした」と書くんじゃないか?
0437人間七七四年
2010/08/05(木) 09:49:06ID:1gHtukk3そんな「佐竹の代官」とハッキリ分かるぐらいなら秋田藩が処罰されてるよ
だが水戸藩の方では逆に隠したかったようで藩の書物には一切書かれていない
何人かが個人的に書き記していた事と、周辺の村々でひっそりと語り継がれた事で
近代になってから事件が明るみになった
0438人間七七四年
2010/08/05(木) 10:38:20ID:pgUgHaQ7ものすご〜くうろ覚えで申し訳ないが、
地元の一主婦が独力で調べて小冊子にまとめて
ようやく世間に知られるようになった筈
0439人間七七四年
2010/08/05(木) 12:33:33ID:aYX/HphH瀬谷義彦著 『茨城の史話』(茨城新聞社)
「生瀬の乱を考える――有力な慶長七年説」
・だがここで『大子町史』に結集された益子公朋氏の慶長七年説に注目する必要がある。
それは長い間大子地方を含む水戸藩北郡の郡吏として、領民とじかに接していた加藤寛斎の前記の
『常陸国北郡里程間数記』の慶長七年説と、事件後藩命によって小生瀬村の再興のため大子村から移住した
旧家大藤家の分家に残る書き上げの慶長七年説とを、地元の伝承を忠実に伝えているものとして評価し、
慶長七年十月を強く主張するものである。その事件の内容を要約すると次のようになる。
慶長七年佐竹氏の秋田転封後(中略)。そこで家康の命で佐竹転封後の慶長七年六月、常陸地方を治めるため
水戸に派遣されていた重臣の一人芦沢信重(伊賀守)が、一隊を率いて生瀬地方に来り、村民を皆殺しにした。
その時村民が逃げこんだ場所が地獄沢といわれ、今日でも正式な地名として残っている、というのである。
0440人間七七四年
2010/08/05(木) 12:34:42ID:aYX/HphHそこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることをあげて、
前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、この騒動は
慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。実に耳を傾けるべき説明であるが、
交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、
村民皆殺しという事件が起こった十月には、まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、
一時的ではあったが、幕府の直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の家臣車丹波らによる
水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。生瀬の乱はこうした時に起こった
ということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった
重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、
禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、
勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように生瀬乱前の情勢を概観すると、
旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、
他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
0441人間七七四年
2010/08/05(木) 12:43:01ID:aYX/HphH同書によると、高倉逸斎『探旧考證』(文化年間)、石川清秋『水戸紀年』(文政十年序)など
江戸時代後期には水戸藩の学者や藩士によって事件について書かれているようです。
0442人間七七四年
2010/08/05(木) 17:00:19ID:1okJifNmなのに皆殺し…
0443人間七七四年
2010/08/10(火) 10:01:31ID:XjmcZ/kcこの慶長七年説を否定する立場の人たちはもういないの?
0444人間七七四年
2010/08/10(火) 12:08:26ID:Jf9Lzccp佐竹が領民に特に優しい政権だったとは思ってません。
唐入りの時だって「年貢を納められないやつは磔にしちまえ」って命じてたよね。
0445人間七七四年
2010/08/11(水) 09:03:59ID:/0ufSsT2あくまで佐竹の方がマシだったと言ってるだけ
俺は水戸藩北部出身だけど確かに水戸藩の評判は良くない
でも佐竹のを事よく知っている人もほとんどいない
水戸藩でも斉昭は結構人気があるし
>>440
その説は明らかにおかしい
確かに佐竹は従来通りに夏までの年貢を納めさせているが
あくまで従来通りだから別におかしくもなんともない
そしてちゃんと切手を渡している
佐竹が夏までの年貢を納めさせた証拠を残しているわけだ
それで水戸藩役人が夏までの年貢を取り立てに来たのなら
間違いなく「二重取り」になり村人が反発するのは当たり前
秋の年貢を取り立てに来たのなら佐竹は何の関係もない
0446人間七七四年
2010/08/11(水) 09:37:02ID:41cQLZjE悪いけど2ちゃんねらーのその場限りの反論よりも大学教授や地元の史家が
調査した結果発表した説の方が説得力があります。せめて
彼ら並の手間をかけて調査した結果を書いてみてはどうですか?
0447人間七七四年
2010/08/11(水) 09:51:14ID:41cQLZjEそれに水戸藩じゃないって書いてあるでしょ。幕府直轄時代だし、その直後に水戸を治めるのは
頼房じゃなくて武田信吉。
0448人間七七四年
2010/08/11(水) 10:23:49ID:/0ufSsT2何かおかしな部分ある?
学説、取り分け歴史においては逐次変容を続け固定する事はない
歴史書や論文を読めば変説を続けている事は誰でも分かると思うけどね
それに学者や郷土史家も明らかに嘘を書いたりして貶たり持ち上げたりする人物がいるのも事実
書物はあくまで「内容」によって判断するべきで
「学者が書いたから」というだけで中身が信用に足ると思うのは余りに馬鹿な話し
例えば慶応大教授の林氏が「米を食べると頭脳が働かなくなりパンを食べると偉大な人間になる」という
いわゆる「米を食べると馬鹿になる」説を真面目に唱えたけど
彼は間違いなく偉い教授様だから君は鵜呑みにして信用するという事かね?
トンデモ学者なんて世界中に溢れているんだよ
0449人間七七四年
2010/08/11(水) 10:29:31ID:/0ufSsT2年代については確証はないんじゃないのか?
それに別に水戸藩でも天領でもいいけど俺が言いたいのは佐竹の責任にするのは濡れ衣だと言う事
0450人間七七四年
2010/08/11(水) 10:39:55ID:41cQLZjE>歴史書や論文を読めば変説を続けている事は誰でも分かると思うけどね
そのとおりですね。>>440の
>かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
瀬谷氏にはそうした変化についていく姿勢があるようです。逆にあなたの方が説得力の乏しい旧説に大した根拠もなくしがみついているだけですね。
こちらは学者が書いたから、ではなく史料や記録を引いて自説を補強していることに説得力を感じています。逆にあなたの反論?には具体性がないから
説得力がないんですよ。たとえばその渡した切手なるものは何に載っているんです?こちらは県内在住なので「茨城県史料」等は参照できますから。
0451人間七七四年
2010/08/11(水) 10:45:55ID:41cQLZjE>年代については確証はないんじゃないのか?
なんで疑問形なんですか?あなたこの事件に詳しいんじゃなかったんですか?
>それに別に水戸藩でも天領でもいいけど俺が言いたいのは佐竹の責任にするのは濡れ衣だと言う事
>>440に
>それによると、佐竹の家臣の中には、
禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、
勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
とありますね。佐竹本家というよりも家臣たちが苦しい懐をまかなうために色々やったのでしょう。
水戸藩時代の年貢の重さはともかく、少なくともこの事件をもって水戸徳川家の悪政の根拠とするのは
濡れ衣の可能性が高そうですね。
0452人間七七四年
2010/08/11(水) 13:15:44ID:k7LxgoLc郷土史関係も徳川方の勝者史観な書物を下敷きにして
まとめられていることが多い。鵜呑みにするのは危険。
まあそれはどこの地方でも同じ事だろうけどな。
佐竹が格別領民に優しかったとは思わないが
大事な財産の一部である彼らを皆殺しにはしないだろう。
水戸徳川への濡れ衣というなら、何故徳川は
「佐竹がこんな酷い事をやった」と書き残さずに
自分らのシンパがやったと書き残したんだ?
0453人間七七四年
2010/08/11(水) 17:50:56ID:41cQLZjE実際に戦後の郷土史関係当たってみればわかることですが照山修理の一件を全国的に
有名にしようとしていたり、彰考館運営をはじめ学問関係での浪費を批判するなど、
水戸藩に対して批判的な論調も多いですよ。
あなたや上の人は反対にそういう一昔前の逆黄門史観に支配されすぎに見えるんですが。
>何故徳川は
>「佐竹がこんな酷い事をやった」と書き残さずに
>自分らのシンパがやったと書き残したんだ?
それは一体何という記録の事を言っているの?
0454人間七七四年
2010/08/11(水) 22:40:53ID:ruMvIuQS佐竹氏が関東戦国史の中で果たした役割を過大視する傾向も否めないけど、それも自然。
逆もまたしかり。
0455人間七七四年
2010/08/12(木) 01:15:50ID:LSPbQxMy禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、
勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
これは酷い、捏造と言われても仕方ないレベル
本多らの禁令にはこんな事書いてないし一体どんな解釈なのか謎過ぎる
>とありますね。佐竹本家というよりも家臣たちが苦しい懐をまかなうために色々やったのでしょう。
という事は結局佐竹の指示じゃないし、治安維持は受け取り側によって行われていたのだから
そちらの落ち度としかいえない
>水戸藩時代の年貢の重さはともかく、少なくともこの事件をもって水戸徳川家の悪政の根拠とするのは
濡れ衣の可能性が高そうですね。
水戸藩の悪政は生瀬事件によって言われているのではない
三穀切り返しなどの悪法や無理のある水増し石高による高税などによるもの
これは水戸藩士が非難している
他にも労役の賃金踏み倒しや人口の激減などにも顕れているが
>>454
そんな人はまずいないな
藩内の事情はもっと複雑だから水戸家vs佐竹旧臣というような構図にはならない
それと茨城県内の郷土史では佐竹の位置は決して高くない
過大評価されたものなど無いしむしろ否定的なものがある
端的に言えば旧体制から脱する事が出来ず北条伊達に敗北したという評価のみ
実際そんなものだろう
0456人間七七四年
2010/08/12(木) 11:39:02ID:nHGQhgeCあれは「多少の自治を許されていた土民vsそれを許さない振興勢力のチンピラ」。
末端の平侍まで権現様の意向が行き渡っていた訳じゃなし、
一部の跳ねっ返りが「あいつら俺たちに逆らったぜ。
俺たちに逆らうという事は徳川に逆らうという事だ。
よし、殺っちまえ!」と考えたとしても不思議じゃない。
つか、どんどんスレタイから外れて行ってなくね?
0457人間七七四年
2010/08/12(木) 13:39:54ID:S7mJwla5義宣について話すネタなんて、そんなに多くないし。
0458人間七七四年
2010/08/12(木) 14:47:20ID:o/YCAx9N0459人間七七四年
2010/08/13(金) 00:38:15ID:pR/kMV9Y「解決法」が、全国的にかなり行われている。
0460人間七七四年
2010/08/13(金) 09:25:15ID:3ON20DnZ0461人間七七四年
2010/08/20(金) 11:53:48ID:Jy5ZuKNF慶長七年十月十七日は新暦1602年11月30日
慶長七年十月十八日は新暦1602年12月1日
今では初冬だね
当時は今より寒かったらしいから雪でも降ってたかな?
翌慶長八年新暦1603年徳川家康征夷大将軍に…江戸に幕府を開く
0462人間七七四年
2010/10/06(水) 23:08:56ID:ouciNa1E0463人間七七四年
2010/10/07(木) 01:26:30ID:WdcBnVuU0464人間七七四年
2010/10/07(木) 02:13:53ID:WdcBnVuU結局北条にも押し負けていたのは否めないよね。
@関宿開城の仲介をやったのは痛恨の戦略ミス。
おかげで北条は下野に侵攻できるようになり、上杉は関東の拠点捨てて撤退してしまい、
下野で北条与党相手に延々と戦い続けるハメになって長期的には大損。
A沼尻合戦の戦後処理で、せっかく佐竹派に乗り換えた長尾と由良をかばうことができず、
いい様に潰されて、真壁に「手抜きの対応、前代未聞だ」と罵られてる。
その結果、佐野・皆川を経て直接宇都宮まで攻め込まれてる。
B戦略的に無意味な大平城を攻めている間に、
伊達に黒川城を落とされて蘆名滅亡。
家督は義宣に移っていたことから、この敗戦を義宣の責に帰する人も少数いるが、
義重本人が出陣してるし、義重の選択である可能性が高い。
以上、義重の致命的な戦略ミスを3点。
あまり戦略的発想に長けた人ではなかったと考えられる。
では、戦術的能力は高かったのかというと、これも華々しい勝利とは無縁。
福島正義氏が何十年も前に言ったように、義重の凄かったところは戦略・戦術ではなく、
外交の力で佐竹の広大な勢力圏を作ったことだと言える。
0465人間七七四年
2010/10/07(木) 02:37:08ID:TcH0BkKGんで田村の城って周囲を湿地に囲まれた攻め口が限られる縄張りで内応や調略でぜんぜん落ちない。
それでいて力攻めできるような被害度外視の城攻めを
佐竹にはできない。
だから北上が停滞して伸び悩むようになるし
それを無視して義広を助けに行くことは難しいよやっぱり。
対北条に関しては圧倒的戦力差だからジワジワやられたとは言え
あそこまで北条の勢力拡大をおくれさせたのは評価できるんじゃないかな?
そういうや葦名に義広を入れた時にも三楽斎が活躍したんだよね。沼尻後の失敗なんかも三楽なんじゃないかw
0466人間七七四年
2010/10/07(木) 03:49:42ID:dWYjgl57佐竹側は北条軍を直接粉砕しない限りその場を佐竹サイドで押さえる事は不可能
沼尻合戦以降は藤岡ライン以北にまで北条サイドに加担したり破れて乗っ取られる勢力が増えるのだから。
滝川が関東から去り、徳川北条同盟成立時点で佐竹サイドの劣勢は火をみるより明らかで
上野戦線でも離反続きとはいえ着々と侵略の手が伸び沼尻以降は真田のいる北部以外全て北条のものなんだから
0467人間七七四年
2010/10/07(木) 06:17:20ID:AFjGmWc3佐竹の元に逃げて旧領回復を狙ってた小山秀綱が
滝川が上野にきて北条に無理やり祇園城を秀綱に返却させたんだよな。
その滝川が北条に敗れていなくなると
秀綱はそのまま北条に属して佐竹を裏切る。
これで小山氏まで北条版図に組み込まれ宇都宮が危機に陥る。
小山はたしか北条配下になるに当たり条件として弟の結城の家督も要求したんだっけ?
こんな感じで佐竹結城宇都宮連合が破綻寸前。
滝川の敗北が北条の勢力拡大に大きく貢献しちまってたから
佐竹の責任を追及するのも酷だよね。
0468人間七七四年
2010/10/07(木) 08:13:55ID:6MlSA3WM義重が一方的に命令出来るのはせいぜい宗家の旗本ぐらいのもの
あくまで洞中での協議の結果を代表して交渉に当たる立場でしかない
例えば関宿の開城なども城主の簗田がそれを望んでいる以上
義重は要請を入れて開城の仲介をするか無視して簗田が滅びるのを傍観するしかない
0469人間七七四年
2010/10/07(木) 19:06:10ID:kQ/vOamp佐竹氏の下に一統し危機感を持って緒家が互いに婚姻関係を結び強固な結束をするに至っている
これ以降の反北条連合の中心的位置にいたのは義重であり、例えば鬼怒川対陣などでも
それ以前にないような結束が見られる。義重は反北条連合全体を指揮する立場にいたといえるに近いのではないか。
無論反北条勢全体を直轄地域として支配してるわけではないので沼尻以降劣勢が確実になると下野でもボロボロ離反が出てきてるが。
0470人間七七四年
2010/10/07(木) 20:02:30ID:WdcBnVuU近い、とは言えると思うけど、義重が指図できたのは三家くらいか?
佐竹の真の勢力範囲って久慈川中・下流域だけかもしれない。
大山氏とか、那珂川沿いの佐竹一族への指揮権も、かなり限定的なものだったみたいだしね。
0471人間七七四年
2010/10/07(木) 20:10:28ID:WdcBnVuU前半は賛成。
関宿に関しては、謙信の上から目線の命令うぜー、大体下総のことなんてどうでもいい
と、思ってた義重と家臣団が主導して、簗田に開城を促した可能性が高いと思っている。
謙信は「関宿が陥落したら常陸が危険になるぞ」と書状を出したが
義重の方は、あまり危機感を持たず、冷淡だったと考えられるw
0472人間七七四年
2010/10/07(木) 20:27:45ID:WdcBnVuU>あそこまで北条の勢力拡大をおくれさせたのは評価できるんじゃないかな?
そうだよ。茨城生まれの市村高男氏が言う通り、
関東地方の戦国史を、北条氏が支配地を拡大していく歴史としか考えなかった従来の研究がおかしいんだ。
圧倒的な北条に対して、義重は頑張った。
でも、摺上原は色々残念だった。
佐竹・蘆名・相馬・岩城の全兵力なら伊達に十分勝っていたのに
戦力の集中に成功した伊達にしてやられた。
猪苗代城が内応してあっという間に落ちるのは計算外だったんだろうな。
大平攻めは伊達の反転を期したものだったが、計算大外れ。
三楽斎は戦国時代に棲み付いた一種の妖怪みたいなものだからなぁ・・・
若い義重じゃ手に負えなかったのかもね。
0473人間七七四年
2010/10/07(木) 20:56:00ID:AFjGmWc3義重には計算外だったんだろう
0474人間七七四年
2010/10/07(木) 22:32:43ID:bvfduu5o反北条連合は『佐竹氏の下に』一統されたというのは黒田基樹氏始め大体どの本でも書いてると思うが…。
連合軍とはいえ皆好き勝手に動いてたわけではないぞ。77年に一統された後の反北条連合の動きを
見ると佐竹が中心となり鬼怒川対陣、勝頼と連携しての東上野や下総飯沼、関宿、下野榎本小山、常陸牛久
方面の外征など佐竹義重が反北条連合を率いて侵略行動を行っている
沼尻の合戦でも連合軍は会津方面からの援軍を含め相当な数だがこのときも義重が中心的立場で軍事行動を
行っているといえるのだから反北条連合全体を動かしていたといえる
0475人間七七四年
2010/10/08(金) 07:33:05ID:IsEQ4wvP三家もかなり権限が強かったみたい
義久と義重の取り交わした起誓文でも「南郷での事は何事も義久と相談して取り決める」というような一文がある
つまり東家の担当区域に関しては義久の承諾なしには義重も命令を行使できなかった
また、手柄を立てた武将に対して佐竹宗家と北家が同時に褒美を与えている事例もある
普通褒美は主君から臣下へくだされるものだが、北家の家臣でもないのに
宗家と同様に褒美を与えている事から見て北家も強い権限を持っていた事がうかがえる
こう言った事は佐竹に限らず洞を形成する関東東北の大名に見受けられる事だ
大小複数の洞によって結ばれた関係は非常に複雑であり
外交以前に内交の難しさがあった
0476人間七七四年
2010/10/08(金) 08:16:19ID:IsEQ4wvP黒田氏は常総の研究に重点を置いていない事を留意しなくてはいけない
佐竹宗家は盟主的な立場に押し上げられてはいたけど
あくまで諸氏は「一定の敬意」を向けていただけで佐竹の命令下に動いていたのではない
佐竹の下に統一されていたのではなく、反北条反伊達の下に統一されていたと見るべき
だから佐竹が諸氏の行動を抑制するような書状は存在しない
0477人間七七四年
2010/10/08(金) 14:26:31ID:7xn6h29qでも、関東戦国史とか東国の戦国合戦でも同様に書かれてないか?
反北条の元一統『一つの束ねる』という事は束ねる元となる中心人物がいなくてはならないのが
自明の事で、その後の軍事行動は文字通り佐竹義重が総大将として下野南部や下総北部、常陸南部、上野東部などへ
外征してるわけで、これは事実上反北条連合の長となったと見ていいだろう。
一統後反北条連合内部で結城も宇都宮も那須も壬生も皆好き勝手には動いていない。
堅密な連携と一体となっての軍事行動が行われている。
0478人間七七四年
2010/10/08(金) 18:32:38ID:T7+lcf0J『東国の戦国合戦』を引っ張り出してみたけど、市村氏の記述は最大限で
「反北条連合の中心である佐竹義重」程度だよ。
黒田氏は本当にそんなこと書いてるのだろうか。記憶違いかも。
「堅密な連携と一体となっての軍事行動」なんて、物凄いことは一度もやってないと思うw
義重が連合の中心となったとか、連合を「主導」したと言うことはできるけど、
「一統」したとか、そこまでは誰も思ってないだろうが「支配」したなどとは到底言えない。
>>474で挙げられてる義重の「外征」「侵略行動」も、ほとんど放火・略奪してまわってるだけなんだよね。
諸氏の独立性が極めて強い「洞中」の常陸・下野・下総の社会では、その特質として防衛はめっぽう強いが
それをまとめて攻撃的な軍隊として運用することは至難のわざ。
旗下の諸氏にめいめい放火させるのは、洞中連合の特性に合った攻撃方法と言えるのかもしれないw
反北条連合連合成立後も、諸氏の足並みは全くそろわなかった。
元々みんな仲が悪く怨念が溜まってるのに、北条の脅威の一点で結びついてるだけだからね。
那須と宇都宮、大掾と江戸、宇都宮と塩谷、那須宗家と大関・大田原等々の争いが勃発し、
義重が調整に大きな手間を使った。
佐竹一族の大山と小場でさえ、少なくとも天正六年まで小競り合いしてる。
諸氏は皆「好き勝手に」動きまくっている。
長くなったが、そんなエゴまみれの諸氏をなだめたり脅したりして
からくも反北条連合を纏め上げ、北条に対抗していた義重はすごいってこと。
0479人間七七四年
2010/10/08(金) 18:44:06ID:T7+lcf0J豪族に毛の生えたような諸氏の連合で北条の大勢力に対抗するのは所詮無謀だったのかもしれないな。
上杉や滝川・武田、あるいは徳川や羽柴といった強大な勢力との連携がないと
北条を利根川の向こうに押し返すのは無理だったろうね。
0480人間七七四年
2010/10/08(金) 20:35:38ID:z+jAN782もう少しうまくいったんじゃないかな。
0481人間七七四年
2010/10/09(土) 01:06:44ID:9W8mNhsq戦国北条一族では佐竹氏の下に一統された、と確かにあるよ。
いやいやよく調べてみ。佐竹ら反北条連合は77年の鬼怒川対陣、その後勝頼と連携して
北条方の下野榎本小山足利館林〜下総関宿、森屋、飯沼〜常陸牛久、土浦など
広範囲にわたって断続的に攻撃し、北条は戦力の拡散を余儀なくされている
反北条の成立は77年頃。これ以降沼尻まで反北条連合内部で大々的に内輪でもめてたっけ?
むしろ勝頼と手を組んだ時期なんて皆川や壬生など反北条側に寝返る勢力がぞろぞろ出てきてるし
結束間が強まってるようにしか見えないけど。
沼尻以降は北条の戦略的優位が決定的になってボロボロ離反出てきたがそれまでは少なくとも
一体となって北条の前進を阻み、勝頼と連携した時期は侵略までしている(実際飯沼城など攻略されてるし)
0482人間七七四年
2010/10/09(土) 01:13:40ID:gEI4/R6r一応は佐竹の指導力を一定以上は評価しないと
沼尻の戦いで葦名や石川らからよしみで
援軍もらえなかっただろうしな。
北方でそういうことができる以上は
南方での反北条という共通の敵に対しては
下野下総常陸における佐竹は一目置かれている以上の存在だよね。
0483人間七七四年
2010/10/09(土) 02:47:08ID:UMsIq0T/>戦国北条一族では佐竹氏の下に一統された、と確かにあるよ。
もし本当に黒田氏がこう書いていたなら、そりゃ黒田氏の認識がズレてるよw
いや、間違ってるというより、彼の北条愛ゆえに、佐竹を北条氏的なものとして見すぎたんだろうね。
ちなみに、上述の市村高男氏は黒田氏の研究姿勢を批判してこう言ってたよ。
「下野の豪族に対して『国衆』という言葉を濫用しているが、下野や常陸では当時『国衆』という言葉自体一切使われていなかった。
戦国時代を研究する上で、正確な言葉を使うことは非常に大事だ。
『国衆』は相模・武蔵で使われてた言葉であるが、宇都宮氏・那須氏・小山氏にこの言葉を当てはめることはできない。
彼らは『洞中』であって、『国衆』とは全く性格が異なるものだ」とね。
一つの研究対象に没入すると、良くあることだ。
『佐竹ら反北条連合は77年の』〜以下に関しては、>>479にも書いてるが武田と同盟したからでしょ、ってw
武田のバックがあれば色々すんなり行くよね。安心感が違うw
>77年頃。これ以降沼尻まで反北条連合内部で大々的に内輪でもめてたっけ?
>>478に納得してくれないようだから細かいこと書くけど、
天正9年から11年にかけて益子氏と笠間氏の間で、結城氏まで巻き込んで合戦数回やってるよ。
那須と塩谷も毎年のように合戦してる。天正5年に2回、6年と8年にも一回ずつ。13年には薄葉ヶ原合戦があったなぁ。
天正10年には佐竹洞中の松野と武茂が那須に攻められ、翌年佐竹が報復してる。
那須は火薬庫だw
>実際飯沼城など攻略されてるし
小山を落とせたらなあ、大戦果だったんだけど・・・無い物ねだりだね。
一連の書き込み長々と書いてきたけど、あなたを論破したいとかそういう風に思ってるわけじゃなくてな、
まあ佐竹好き同士仲良くしようってことなんだけどさ。
>>480 >>482
完全同意。
せめて佐竹の本領がもうちょっと広かったら、歴史が色々変わってたんだろうなとおもうよ。
0484人間七七四年
2010/10/09(土) 03:43:05ID:UMsIq0T/佐竹と宇都宮、あるいは佐竹と結城それぞれの洞に両属してる家が多いし
どこまでが佐竹の勢力圏なのか良く分からないよね。
まして三家でさえ独立的だったと聞いたらホント混乱しちゃうよw
よくこんな連中をまとめ上げることができたなあと感心するわ。
IFだけど、佐野宗綱が戦死して養子を佐竹から迎えることに成功してたら
佐野氏も佐竹洞中に取り込んだことになったのかな?
やっぱり遠からず親北条派の佐野家臣のクーデターガ起こって、
養子は殺されたり人質として小田原に送られたりする可能性が高いか。
0485人間七七四年
2010/10/09(土) 03:50:14ID:KIYOHwBy内輪もめに関しては認識が足りなかったから同意しとく。
>『佐竹ら反北条連合は77年の』〜以下に関しては、>>479にも書いてるが武田と同盟したからでしょ、ってw
>武田のバックがあれば色々すんなり行くよね。安心感が違うw
君は佐竹氏の北条領への侵略攻囲に否定的な見解を書いてるが実際侵略している。
沼尻合戦以前1582〜84年段階でも佐竹氏ら反北条連合は小山や小泉など攻撃し、これが北条の出兵のきっかけとなり
沼尻の合戦となる。ちなみに反北条連合の北条方への攻撃は沼尻以降にも続く。放火や略奪に限定された話とは到底思えないけど。
0486人間七七四年
2010/10/09(土) 04:05:38ID:UMsIq0T/そりゃ義重だって「あわよくば小山や古河など拠点城郭を陥落させて、北条を追い落としてやる」とか
そのくらいの勢いで上野まで攻め込んだんじゃないかとおれも思うよ。
でも、結果的には「今回も放火して帰ってきました」ってのがほとんどでしょ。
ここら辺はあなたとそれほど意見が違うとも思わないんだけどね・・・
0487人間七七四年
2010/10/09(土) 05:07:11ID:gEI4/R6r結城や小山らも傘下に入ろうなんて
プライドが許さんもんなぁ。
まぁ宇都宮佐竹の婚姻の力がジワジワでてきて
養子が結城に入った時点でかなり発言力は強化できたろうけど。
しかも岩城、葦名にも子供入ってるからねぇ。
このころの佐竹になると盟主に近い立場になるんかな?
ただ葦名重臣達は佐竹の支援は受けたいけど
当家は佐竹の風下には立たん!
佐竹の命令は聞きたくないわみたいな自己中っぷりが激しいがw
0488人間七七四年
2010/10/09(土) 10:00:06ID:Y9AwTGEmそれに強く反発したのが北関東などの諸氏なわけだ
彼らは後北条氏の支配を受けて自立性を失う事を恐れ
皆、中小勢力であったから寄り合って反抗勢力を形成し
その中で比較的国力と家格が高かった佐竹が中心となっていった
つまり諸氏は自家の特権を守り自立性を維持する為に集合したわけであって
佐竹が諸氏を従えて命令を下すような事になればそれは重大な裏切りであり
そもそもそんな事をすれば後北条に従うのと大差なく、反北条同盟の意味がなくなり瓦解する
だから佐竹の独断で進退するような事は有り得ないのだ
対北条や伊達への防戦の為に呼び掛けて諸氏を集める事は出来ても佐竹の都合で集める事はできない
まして敵方に対して犠牲を惜しまず打ち掛からすような命令もできない
だからいつも「攻め」に関しては消極的にならざるをえない
彼らは北条や伊達に対しては共通する危機意識から協力しているが
本来は彼ら同士も勢力を競い合うライバルなのだ
前面の敵に対すると同時に横に牽制をするという複雑さがある
0489人間七七四年
2010/10/09(土) 12:51:09ID:fEKC9+x2関東管領勢力圏が利根川以西で
反上杉で古河公方を支えた土着勢力連合圏が利根川以東と言う歴史的な流れが残ってるんだよね。
そんで仙道は公方や大国から自分らの意見を貫徹するために平等な傘一揆連合圏
北条の支配も関東管領の支配も拒否ると。
0490人間七七四年
2010/10/13(水) 02:01:37ID:ZT3ST6Aj景勝は猿に頼まれた奥州管領も満足にできないし
0491人間七七四年
2010/10/13(水) 02:13:51ID:IzGWAAVy北条の沼田攻めに際し援軍を派遣し前進を阻んできた恩人だろうが
0492人間七七四年
2010/10/13(水) 02:22:37ID:M//9KTiD一年も遅けりゃ北条と伊達に挟まれ瞬殺されてたのは間違いない
北条単体にもやられまくってたしな
0493人間七七四年
2010/10/13(水) 04:09:14ID:GSGqSNRg0494人間七七四年
2010/10/13(水) 10:01:19ID:tgm6VL/r\●/佐竹氏を語るスレ 其之参
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1219073980/
\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1204988586/
0495人間七七四年
2010/10/13(水) 12:22:51ID:0pRnUZm+0496人間七七四年
2010/10/13(水) 13:05:15ID:aHmThT1e惣無事無かったら最上との停戦&郡山合戦和睦が無く政宗討ち死に
惣無事無かったら佐竹の蘆名支援は継続し蘆名弱体化も無く政宗討ち死に
惣無事無かったら交渉課程が削除され、北条に和戦両用の準備期間の猶予も与えられずに
秀吉に攻め込まれて瞬殺されるだけ。
0497人間七七四年
2010/10/13(水) 15:32:40ID:aVdb5U07滅亡寸前に追い込まれてた宇都宮や那須や結城や水谷は即死
総無事令なかったら政宗の対葦名外征は中止することなく88〜89年程の間で葦名は即死
史実で葦名支援してた佐竹もろとも即死
総無事例なかったら最上は親伊達派となり大崎葛西とも和睦
佐竹も葦名も総無事令で助かっただけ
0498人間七七四年
2010/10/13(水) 17:10:58ID:0pRnUZm+0499人間七七四年
2010/10/13(水) 17:30:22ID:ikCoj7Xaありえない。惣無事令があったから佐竹は牽制され政宗は命を永らえてる。
そもそも惣無事令がなければ早々に伊達は周囲からフルボッコで滅亡。
葦名にしたって惣無事の主催者秀吉から自由な切り取りを許されてない上杉が秀吉から佐渡の領地化を許されて
その佐渡攻略で上杉が渡海して留守してる隙に
会津に政宗が侵攻したに過ぎない。
伊達滅亡に伴い佐竹が拡大し、北条への押さえの力が拡大していき
しかも秀吉も沼田城において調停なんて手順も踏まずに前田上杉徳川で北条を攻めてくる。
そもそも北条には関東王国支配以外の計画すらない。
それは徳川&上杉と信濃甲斐で争った時のヘタレぶりでもわかる。
0500人間七七四年
2010/10/13(水) 20:12:04ID:0pRnUZm+と思ったが、どうせ過疎スレだしどうでもいいか
0501人間七七四年
2010/10/13(水) 21:56:36ID:UzFKAMPd豊臣の影響力を深淵させる事で懐柔し豊臣方につこうとする効果をも持つに違いない。
何もなければ圧倒的に不利なのは葦名佐竹サイドなのは明白だが豊臣の後ろ盾があったからこそ
伊達包囲網が形成され政宗はピンチに陥っていた。これがなくなれば北関東南奥州で次々に北条伊達サイドに鞍替えする諸士
が増えるはずだ。当然北条単体にも自力では対抗がほぼ不可能となっていた佐竹は伊達の侵攻により
滅亡へと向かうのは自明の事。上野でも真田氏は急峻な地形や上杉の援軍、合戦時の洪水等を生かして
うまく防戦してきたとはいえもはや持久戦に持ち込まれれば落城は時間の問題
次は当然越後にも矛先が向かうのは自明で東国は圧倒的勢いで北条伊達サイドによって
塗り替えられていたに違いない。
0502人間七七四年
2010/10/13(水) 22:01:22ID:yAj0d7ZrそのIFは全く無意味だよ。
秀吉と早いうちから関係を作っておかなかった伊達の先見性の欠如と
外交というもうひとつの戦争で佐竹に敗れた結果に過ぎない。
0503人間七七四年
2010/10/13(水) 22:14:26ID:aHmThT1e知識がまったくないのバレバレだな。
秀吉が味方してたから伊達包囲網ができたとか
伊達相手に蘆名と佐竹が圧倒的に不利とかバカバカしい真逆のことを書いてるし
どうしようもない無知低脳
0504人間七七四年
2010/10/13(水) 23:32:52ID:YWcABTv00505人間七七四年
2010/10/13(水) 23:59:12ID:0pRnUZm+今から惣無事令なくす事は出来ん
結局北条も佐竹も伊達も豊臣の手の内で踊らせられたに過ぎん
0506人間七七四年
2010/10/14(木) 04:30:15ID:BwhSN64W>>503で結局ぼかされてしまったな
政宗に有利一辺倒に働く停戦令が存在するって無理がないか?
何のために停戦令出すんだか。
0507人間七七四年
2010/10/14(木) 07:31:40ID:ZON5OdGd荒らしに構う奴も荒らしだぞ
【異常】Sub荒らし報告・観察スレ【誇大妄想】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268982684/
0508人間七七四年
2010/10/14(木) 13:29:49ID:Z0013OkPそれに異議があるなら史料を出して反論してみろや。
出さずに違うとか書くなんて伊達厨って心底バカだな。話にならんわ。
伊達のデタラメ捏造話には
いい加減付き合いきれんな。
0509人間七七四年
2010/10/14(木) 19:02:46ID:8yeqBjK7仙台のアホ説に根拠を求めるなyow
0510人間七七四年
2010/10/15(金) 13:46:54ID:RSfre04N0511源新羅三郎義光
2010/10/22(金) 22:17:14ID:ZfIDRPkH\●/佐竹氏を語るスレ 其之肆
0512人間七七四年
2010/12/07(火) 08:23:23ID:Pr0BqS6o0513人間七七四年
2010/12/07(火) 08:56:31ID:TfmIwqbP0514人間七七四年
2010/12/07(火) 11:40:07ID:+8fbVVfD0515人間七七四年
2010/12/07(火) 15:38:38ID:Pr0BqS6o0516人間七七四年
2010/12/07(火) 19:00:27ID:XWNi09eN0518人間七七四年
2010/12/07(火) 21:31:00ID:oAbrbSM+佐竹義隆の記録に残ってるもんな
0519人間七七四年
2010/12/20(月) 12:29:16ID:n2y5dJB00520人間七七四年
2010/12/20(月) 13:13:00ID:yZ4DRLMq0521人間七七四年
2010/12/29(水) 19:05:16ID:90jVp0OA0522人間七七四年
2010/12/30(木) 12:26:21ID:zKJ3ZGy1そりゃ初めは無表情さ
でも厳しい、ほんとはこんなの全然厳しくないんだよ、厳しい訓練に耐えて頑張ってる内に
感情を取り戻して、表情も戻って
学校へ行く勇気だって出てくるんだよ
強くならなきゃしょうがないでしょ
弱かったら社会でやって行けないんだから
学校のいじめ程度で逃げ出してたらこの先何十年どうすんのって事よ
親御さんだっていつまで元気な訳じゃないんだから
だからみんな家に預けるんでしょ
強くなるためにまず必要なのが、痛みを知る事
体罰ってのは弱い子にこそ必要なわけ
家に来る親御さんみんなそこを勘違いしてる
0523人間七七四年
2010/12/30(木) 12:51:06ID:KP/qTS7c0525人間七七四年
2011/09/07(水) 21:06:45.84ID:XpqAlhbb三成が襲撃された時に助けたの義宣だけだし
佐竹の存在が全くなかった事にされるという
0527人間七七四年
2011/09/08(木) 20:32:07.32ID:RuR4nLdg義宣の一番有名な逸話なのに。
0528人間七七四年
2011/09/09(金) 12:06:21.48ID:wtpHAmTK0529人間七七四年
2011/09/18(日) 11:44:01.53ID:qbsZm85w0530人間七七四年
2011/09/24(土) 22:45:09.50ID:1Ol1O2Em常陸の大大名だったのに端役ですら登場せず、
かたや佐竹に滅ぼされる運命の常陸鹿島の塚原卜伝は主役でドラマ化だもんなぁw
0531人間七七四年
2011/09/25(日) 02:30:30.75ID:KxZqS004下手な話し作られるよりは埋もれていた方が幸せかなと思う
研究書でも大量に出してくれれば満足です
0532人間七七四年
2011/09/25(日) 15:14:30.36ID:THdQQOGR下2行に全面的に賛成。
今の状態で大河にされた日には黒歴史になること間違いない。
だったら地味でもいいから律儀に研究されたほうが何百倍もマシ。
0533人間七七四年
2011/10/29(土) 15:02:20.41ID:uD6DEZs50534人間七七四年
2011/10/30(日) 20:50:02.26ID:c1Xkc2O10536人間七七四年
2011/10/31(月) 00:11:42.94ID:wSV5dglc0537人間七七四年
2011/10/31(月) 02:49:02.10ID:hy1Mg+NI0538人間七七四年
2011/10/31(月) 23:02:59.86ID:CERMI1Ly大きな家紋が彫られて金の装飾が施された豪華な大砲だね。
五百目=1.875gだから4ポンド砲だな。後装式の仏朗機砲で、照準もついてる。
0539人間七七四年
2011/11/08(火) 16:32:39.08ID:GEbDbn1s0540人間七七四年
2011/11/08(火) 17:10:07.27ID:mTq/PHop佐竹の処分まで二年もかかったのは島津の始末を優先させたからという説を見たことがある
0541人間七七四年
2011/11/08(火) 20:27:43.55ID:/s2xxt+wあれだけ律義者が揃ってりゃ
豊臣政権も安泰だったと思われるが?
0542人間七七四年
2011/11/08(火) 22:52:24.03ID:Es/5/dYCあっちこっちに義理立てれば身動き取れなくなるって。
幸村が助命してくれたり仕送りしてくれた真田本家に義理
立てたら大坂城に入れなくなる。律儀すぎるのも困り者だ。
0543人間七七四年
2011/11/09(水) 14:15:17.13ID:DVNgU/hS0544人間七七四年
2011/11/09(水) 22:10:09.57ID:ogYcdTpv■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています