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武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2

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0001人間七七四年2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP
立てた。
0002人間七七四年2008/02/11(月) 21:33:45ID:nYfTnegi
前スレ

武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153644378/
0003人間七七四年2008/02/11(月) 21:34:12ID:ZEMIL4xO
         r彳云ヽ、
         , -イ。弋ソ__ 二ミヽ/\         人
       _//> ´ ̄      ̄  ̄ ̄¨ヽ、    `Y´
     /\//        \       ',
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0004人間七七四年2008/02/11(月) 22:49:14ID:U1wmpqoM
武田家滅亡の原因を作ったのは織田信長です。
0005人間七七四年2008/02/12(火) 04:23:46ID:VUdrewOB
それ言ったら実際に軍を指揮した信忠も

つか武田家いくらなんでも弱すぎ=簡単に滅びすぎ
信忠が有能だったからなんだろうけどな
0006人間七七四年2008/02/12(火) 04:55:56ID:Gwu62lrb
前スレ>>998


30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/07/23(日) 23:34:28 ID:Sr9fEDKH
>>28
実はそれは信玄の遺言らしいよ。
信玄が上杉と同盟しろと息子の勝頼に言ったそうだ。



0007人間七七四年2008/02/12(火) 07:32:21ID:nrix+xtl
信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。

今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。

義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。

四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。

本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。

四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。

どう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
0008人間七七四年2008/02/12(火) 12:48:26ID:GTLHdq5n
前スレからコピペ

>信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。

後半は同意するとしても前半は無理ないか?信玄はかなり前から病を患っていた
といわれてる。それをなんとか押して上洛に出たんだろ。
信玄が死んだ後、強大になった織田が武田家を放っておいてくれるとは思えんし
健康が悪い事を承知で勝負に出たんだろ。健康管理だけの問題ではないと思うぞ。

>今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。

今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
家康にとらてしまっている三河を分割する案さえ跳ね除けられてるのに。
それと三国同盟が結ばれたのは信玄がまだ信濃もとってない頃だと思うが。
予言者じゃないんだから10数年先の義元敗死から今川との関係悪化までの
流れを全部読みきって事前に手を打っておくのは無理と思うが。
特に義元敗死はどの大名にとっても意外な事態だったろうし。
後、当時の武田にとって今川との同盟関係をさらに強固にしておく事は重要で
その意味で義信の妻が今川から来たのは無理が無い事だと思うが。

>義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。

勝頼陣代説だが、これは一次資料の裏づけがないそうだぞ。

>四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。

代が変われば若い家臣が側近となるのは結構よくある事だぞ。

>本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。

信玄の時代に本拠を諏訪に移すべきだったというがいつごろ移すべきだったと思うんだ?
武田家は甲府に根付いた名門だし、甲府は要地だ。そんな簡単には移れまい。
それに北条や今川との戦いではむしろ甲斐が本拠でよかった面もあるだろう。
それから道についてだが、戦国時代道を整備するのはリスクを伴う事だし、
信玄は信濃を通るに当たって棒道を良く使ったとも言われる。
道のことを考えなかったわけじゃあるまい。それから新府城は壬午軍乱のとき
徳川家康が本陣としているし、戦略上無駄な地ではなかったようだぞ。

>四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました

小山田や穴山はもともと一つの勢力としてやってきた歴史がある。
信玄以前の武田家の拡張においてその傘下に入った。(建前は同盟関係。実際は違うが)
彼らにとって武田家の傘下に入ったのが生き残りの選択だったように
織田に寝返ったのもそうだったんだろう。それは戦国の数多の豪族の行動原理でもある。

全体的に後付の論理が多くないかな?滅亡原因うんぬんでいったら信長や秀吉も
そうなってしまう。ただ勝頼はよくやったほうだと思う。それでも長篠等の
いくつかの失点はある。全てを信玄のせいにするのもどうかな、と思うよ。
0009人間七七四年2008/02/12(火) 12:50:02ID:GTLHdq5n
>>5
信忠って武田攻めでは高遠以外でろくに戦ってないじゃん。
織田・北条・徳川に圧倒的な大軍で攻められて戦う前から武田家は自壊してたし。
0010人間七七四年2008/02/12(火) 17:30:32ID:VUdrewOB
やー、戦う前から自壊してた、じゃあますます武田家の立場が…
そこは信忠が優秀だったから仕方なかった、と思いたいんだよね、武田スキーとしては

つか三者から攻められて逃げ場なかったのも信玄の負の遺産だし
謙信は、信玄が死んだら早速のように信長に「一緒に武田を滅ぼしましょう」なんて持ちかけてるし…
今川北条との同盟を残した信虎とはえらい違いだね
信玄と勝頼を比較した場合、軍事では勝頼に軍配が上がっても、総合力では信玄が上なんだろうが
それでも上二人より信虎の方が遥かに優秀だったんではないか、と思うよ
0011人間七七四年2008/02/12(火) 18:33:13ID:t3KcpVEu
信忠の能力は決して低くないけど、勝頼みたいな猛将タイプだと楽には行かない。
織田にとって武田は徳川や北条と勝手に戦ってくれれば別に問題ないし、
当時の武田もワザワザ織田に攻撃を仕掛ける程の余裕は無かった。
それなら武田が崩壊するの待った方が得策。
実際木曽謀反の知らせを受けて武田征伐が決まったし。
0012人間七七四年2008/02/12(火) 19:47:16ID:OQZCsEiL
>>10
最後の段階で北条が敵に回っていたのは、さすがに勝頼の責任でしょう。
信玄は少なくとも北条との関係改善はやってから死んでいるのだから。
0013人間七七四年2008/02/12(火) 21:44:15ID:GTLHdq5n
>>10
>>12の人も言ってるけど信玄は北条との関係はちゃんと改善して同盟を残してる。
武田は北条の対上杉に協力し、北条は三方ヶ原において武田に援軍も出してくれてる関係。
時々信玄死亡時に北条と敵対してたかのように言う人がいるのがなぜなのか非常に不思議だ。
勝頼が北条の方にも戦いを広げた結果1582年の時点で武田は疲弊しきってた状態だし。
これで織田・徳川・北条に攻められたのでは自壊もやむないよ。

あと信虎は最後まで北条とは同盟してないよ。
信虎が残したのは今川と同盟して北条を牽制する路線。
北条との同盟が結ばれ今川・北条・武田の三国同盟が結ばれるのは信玄の代において
河東一乱において今川と北条の戦いを信玄が仲介する事をきっかけとする。
0014人間七七四年2008/02/12(火) 21:49:02ID:W/9Kh13w
>>9
実は北条は武田が滅亡したという報が入るまで国境付近に陣を張ったまま動いてない
0015人間七七四年2008/02/12(火) 21:55:41ID:GTLHdq5n
>>14
確か武田の西上野の重要拠点である箕輪城は2月の段階で北条に攻略されてたはずでは。
勝頼滅亡は3月11日。
0016人間七七四年2008/02/12(火) 21:59:46ID:ldrStON7
箕輪城が北条の手に落ちたのは2月28日らしいが、
攻城戦はなかったのでは?
0017人間七七四年2008/02/12(火) 22:03:14ID:GTLHdq5n
城が手に落ちている以上軍隊が進軍しているような。
>>14のいうように陣を張ったまま動いてないという事はないのでは。
0018人間七七四年2008/02/12(火) 23:48:17ID:aXHMNhhq
織田・徳川の武田掃討戦とは違う戦いじゃないの?
0019人間七七四年2008/02/13(水) 09:14:51ID:zZgZWKeV
北条の箕輪奪取も織田・徳川に呼応して攻め込んだもの。
時日も1582年2月で織田・徳川の侵攻と同時期。
勝頼が滅ぶのは3月11日。
0020人間七七四年2008/02/13(水) 17:29:03ID:wMMMhloD
上野方面は軍事力を背景にした調略が主だと思う。
逆に駿河方面は結構城を落としている。
>>14の言うようなのは俗説にすぎない、信長だって駿河方面の働きに関しては認めている。
上野方面は、滝川の関東入部の為にあえて何も言わなかった可能性があるとおもう。
0021人間七七四年2008/02/14(木) 03:31:53ID:cOeulvQF
>今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
こんな方法いくらでもあると思うけど
0022人間七七四年2008/02/14(木) 12:41:48ID:ZuMqmjoE
>>21
・彼我によほど大きな差がある、乃至は事前に戦で大勝してかなわないと認識させている。
・時間をいくらかけてもいい。
・他国からの介入はほぼ考えなくてよい。
のなら、方法はいくらでもあるだろうけどな。
0023人間七七四年2008/02/14(木) 17:07:07ID:sKvpu2lw
今川家を温存したまま実権握って乗っ取ればいいんじゃない?
0024人間七七四年2008/02/14(木) 17:39:37ID:+yaj6Hdy
氏真じゃ当主にふさわしくないということで隠居してもらって、
義信の子(産まれたら)を今川の当主にすれば乗っ取りは可能だけど、
北条が氏真を担いだら史実とあんまり変わらないだろう。
0025人間七七四年2008/02/14(木) 22:11:11ID:POKPCVYr
合戦はオレに任せろ!と今川の家臣を自由にする権利を得たあと
徐々に取り込んでいって
0026人間七七四年2008/02/14(木) 22:28:34ID:QfgnhrV8
>>23
どうやって?
他家である武田家に実験を握ろうとされて今川がはいそうですかとはいわんでしょ。
この場合でもまず一合戦して実力差を見せ付けるなり相手の抵抗力をそぐなりしないと。
>>25
信玄が三河攻め持ちかけた時の今川の返答によると
織田と同盟してる武田なんか今川にしてみると半分敵だそうです。
家臣を自由にする権利なんかくれそうにない。
0027人間七七四年2008/02/14(木) 23:01:32ID:qkrHDVGP
>>26
実際は家臣団が武田の調略にあってまともに抵抗できなかったんだろう氏真。
他家とはいえ義信の嫁が義元の娘。
もちろん義信が死んでいなく親父の戦略に賛成したら乗っ取りも可能だけど、
義信を殺して嫁を駿河に返した時点で絶縁したのだからその手は使えない。
0028人間七七四年2008/02/14(木) 23:25:46ID:2Rt9Rbq4
武田バブルの始まりは三方ヶ原の戦いで
バブルの崩壊は長篠だと思っている。
滅亡は運が悪かっただけ。


今の日本の借金だらけは田中角栄のせいだーに似てる気もする。
解説は↓
0029人間七七四年2008/02/14(木) 23:40:00ID:2Rt9Rbq4
そもそも武田”バブル”の始まりとされる三方ヶ原というよりは
信玄の西上作戦は朝倉義景の撤退により事実上の破綻をきたしていた。

おかげで2万の兵を信長が動員する事が可能になって徳川軍との
挟撃が可能になった。でも家康が(その当時はトンパチで有名)が
先制攻撃を仕掛けたせいで、各個撃破するチャンスを信玄に与えて
しまったと思う。三方ヶ原の勝利という会心の一撃で
武田バブルの始まり。でもそれが武田強しを武田家内外にしめした
ことで常に戦い勝つ事を勝頼に要求されたのかもね。
ぶっちゃけ信長包囲網がない場合に織田全勢力vs武田全勢力で
戦っても武田は勝てなかったと思うし。三方ヶ原の時こそ絶好の
タイミングだと思う。(でも志賀の陣の時の方が信長は追い込まれていたが)
長篠の時は越前と琵琶湖を掌握してるから更に信長は強くなってるし。
0030人間七七四年2008/02/14(木) 23:52:49ID:2Rt9Rbq4
で信玄の死後、勝頼は手紙を書く時も信玄の名前を騙ってたし。
明智城攻め、高天神城攻め、そして長篠城攻めと。
万を越える軍事活動をしたのも。武田家内での
自分の支持を高める為、また勝ちつづける事でしか生きていけない
武田家の方針。(また敗北は自身の支持を落すことになりかねない。)
それによって内政が疲弊したとしても。(信玄時代から重税で
西上作戦の頃には破綻寸前というか破綻したという説も)

でバブルが弾けた長篠にしても設楽ヶ原に誘い込むかのように
弱い事を信長は風潮してまわって。長篠は織田・徳川の
鶴翼の陣で柵を構えたように言われてるけど。
実際は、徳川軍主体で、織田の援軍数千が設楽ヶ原にいて
織田の主力のほとんどは後方で待機。(長篠自体が8時間の長丁場なので)
織田の本体が前線の部隊に”補給”もしくは”後詰め”する
ような形で圧倒した。で勝頼はまけるべくしてまけた。
0031人間七七四年2008/02/14(木) 23:57:52ID:qkrHDVGP
なんか真珠湾後の日本みたいだな武田は
0032人間七七四年2008/02/14(木) 23:59:18ID:2Rt9Rbq4
で破綻した武田家と経済を立て直すために勝頼は
改革として新府城と新しい城下町を建設した。
幸い、信長自身は武田領にさほど関心が無かったので
(美濃・遠江の緒城以外は)攻めてくる心配はなかった。

滅亡の原因は不運な謙信の死と木曽氏の反乱。
0033人間七七四年2008/02/15(金) 00:00:31ID:2Rt9Rbq4
>>31
あと長篠の戦い=ミッドウェー海戦にもよく似てる。
ウィキでミッドウェー海戦について調べたら経緯とかもよく似てるし。
0034人間七七四年2008/02/15(金) 00:02:49ID:3y7OEbtb
今川の重臣をそそのかす
 ↓
クーデターを起こさせ氏真を暗殺させる
 ↓
武田が犯人を正規の合戦で倒す
 ↓
今川家は武田の物
0035人間七七四年2008/02/15(金) 00:14:41ID:aCw5qiNw
>>34
北条の存在がある以上そんな簡単にクーデターで氏真を倒せるだろうか。
武田家とのつながりで重臣がクーデターを起こしたのだとしたらうまくいっても
やっぱり北条の動きが問題になりそうな気がする。
0036人間七七四年2008/02/15(金) 00:31:29ID:yMj66ajA
>>31 >>33
日本は武田みたいに滅びなくて良かったな〜。
0037人間七七四年2008/02/15(金) 10:10:52ID:wUwaQZpQ
三方ヶ原がバブルの始まりというけど、武田ってこの一連の遠征に必要な
軍資金の捻出にかなり苦労してたはず
0038人間七七四年2008/02/16(土) 04:29:42ID:SK3vBEXc
>>37
バブル=経済が好景気
という意味ではないこの場合。

少なくとも三方ヶ原の勝利の時点で武田の(強さの)株がうなぎ上りに
なって、長篠前夜までに(信長の陽動で、”武田強いよー恐いよー”
的な事を触れ回ってたせいもあるけど)強さのバブルに
関しては現在に誇張されるくらいまで高かった。
経済が貧困だったのは言うまでもないが。
(なにせ、北条領から出ていって戻ってくる奴はいるけど、
武田領から出ていって戻ってきた奴を見た事無いといわれる
くらい重税かつ過酷といわれてたが)
長篠前夜までの武田家は
勝ちつづける

戦い続ける

多くの金がいる
という悪循環で経済が疲弊してたし、長篠でバブルが弾けて
結局、勝頼は内政重視に方向転換せざるをえなかった。
この悪しき悪循環を作った張本人は信玄であり。
信玄の頃は領土と広げる事で金を得ていたが、
勝頼の頃はある程度大きな大名が周辺諸国を平定してて
(大きないくさをして勝たない限り)大きく領土を広げれない
状況だったのも事実。
0039人間七七四年2008/02/16(土) 17:31:34ID:RcM1PeQ3
金が無くて貧しい

金を得るために戦争

戦争のために金が必要
0040人間七七四年2008/02/17(日) 04:24:05ID:A8MdP0rD
信玄は家康に「貴公は尾張に入られよ。わしは美濃に入る」とか言って家康と織田領
0041人間七七四年2008/02/17(日) 04:27:39ID:A8MdP0rD
信玄は家康に「貴公は尾張に入られよ。わしは美濃に入る」とか言って家康と織田領を
今川の時と同じく奪えば良かったのに。
0042人間七七四年2008/02/17(日) 17:35:20ID:a4466s/u
家康は馬鹿じゃないんで、信玄なんかより信長の方が圧倒的に実力が上だと見切っていた
信玄と手を組んで強大な織田軍団に歯向かったところで勝てる訳がない

事実、家康は信長に逆らわぬまま生き残り、信玄は単独で家康を潰すことも出来ずに寿命が来て死亡
0043人間七七四年2008/02/17(日) 23:28:00ID:JHe/Lfzc
時系列をちゃんと考えて書けよw
武田と同盟して今川を挟み撃ちにして潰したのが1568年
この1568年までに徳川は同盟しているはずの武田から攻撃を受けたりもしていて
武田が信用に値しない事が今川滅亡までに分かっていたはず。
武田との同盟は、武田側から反故にされている状態なのでありえない。

一方、織田はその前年に斉藤家を滅ぼして拠点を岐阜に移したが、
織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している。
今川が滅亡した年には足利義昭を奉じて上洛しているが
この時点で「織田は強大で勝てるわけがない」と思うわけがないw
0044人間七七四年2008/02/17(日) 23:44:01ID:3yJKopT3
信用は外交において重要な要素の一つだよな。

もちろん家康が織田と運命を共にする必要はないが、
「武田と織田どちらを選んでも苦労します、しかしどちらかと手を組まねばなりません。さあどっち」
と言われれば織田を選ぶだろ、手前勝手な協約違反を犯されている家康にしてみれば。
遠江の協約違反は、信玄にとっても勝頼にとっても高くついたかと。
0045人間七七四年2008/02/18(月) 00:43:01ID:p5snrVml
まああれも家康に抗議されたら信玄は謝ってすぐに兵を引かせてるんだけどね。
そんでその後に家康は上杉と対武田で手を結ぶ。
そんで武田は1571年に駿河の戦況が一段落したら徳川領土に進撃して各地を
攻略する。1572年が西上。
家康にしても西が織田家である以上、いづれは武田の敵と結んで武田を攻めたような
気がしなくもない。家康にしてみれば領土拡大を目指そうとすれば西が織田である以上
東の武田を攻めるしか領土拡大の道がないわけで。
0046人間七七四年2008/02/18(月) 10:42:59ID:UFtsMm6L
>>45
実力だけで見るなら武田と結んで織田領侵攻の可能性もあったんだろう。
上洛前の織田は武田と比べてまだ新興勢力だし、石高もそれほど違わない。
それでも武田と敵対してしまったのは武田家の行動に対して不信感を抱いてるからだろう。
0047人間七七四年2008/02/18(月) 17:43:23ID:h8baApBq
徳川が三河を平定して遠江に領土を拡大させている時期に
織田は美濃攻めで10年も足踏みしてたからね。
この時期徳川は織田とも武田とも組んでいたわけだけど
今川が消滅した時点で織田が美濃を平定していなくて上洛もしていなかったら
例え不信感があったとしても、織田を捨てて武田と組まざるをえないかも知れない。
織田がいいタイミングで勢力を伸ばしてくれたので武田を捨てる事が出来て
結果として徳川にとっても良い選択になったね。
0048人間七七四年2008/02/18(月) 18:03:53ID:UFtsMm6L
武田は西ではなく東に進むべきだった。
織田、徳川を後詰め北条を倒して関東を手に入れたら例え織田が大きくなっても関東+甲信駿なら十分対抗できるし、
謙信が死んだあと織田と挟み撃ちすれば越後越中まで手に入る。
欲を出して上洛したのが間違いだったな。
0049人間七七四年2008/02/18(月) 20:00:16ID:u919jZC1
>>43
>織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している
いったい、いつのことですか?
清洲同盟締結時は信長は尾張ほぼ一国。家康はいうまでもない。
その後家康が三河を統一したのは66年(ただし水野氏など織田領もあるので完全とは?)
その頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。
もう一度お聞きしましょう。いったいいつ、徳川の領土が織田を上回ったんですか?

>>47
>美濃攻めで10年も足踏みしてたからね
誤解というか、知らないで言っているのか。
信長が本格的に美濃攻略を始めたのは1561年から。そして67年には美濃全土征服完了。
どのような特殊な数え方をすれば10年になるんですか?

もう一つ指摘すると、美濃に関して信長はずっと苦戦していて最後に稲葉山を攻略
して征服したと思われているが事実は違う。61年の開始以降、東でも西でも少しずつ
侵略を進めて、67年にはもう斉藤氏は美濃中央部をなんとか保っているというくらい
押し込まれていた。途中からは北伊勢と同時侵攻を始める始末。67年の稲葉山開城は、
最後のトドメというくらいのもの。
0050人間七七四年2008/02/18(月) 23:58:17ID:ykieHPLs
その後家康が三河を統一したのは66年(ただし水野氏など織田領もあるので完全とは?)
その頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。

このウソ凄い
0051人間七七四年2008/02/18(月) 23:58:26ID:p5snrVml
>>46
信玄が駿河侵攻を開始したのは1568年12月。
信長が上洛開始したのは1568年9月。
というか既に武田領内への塩止めを行い上杉とも結んでいる今川を放置しておくわけにも
いかない。
この時期の武田は織田領国への侵攻というのは考えられる状況じゃない。

>>48
その徳川が上杉と結んで武田に敵対しているからこそ武田も北条戦の間隙をぬって
徳川領土に侵攻したわけで。
そして徳川と戦うという事は織田との戦いも意味するわけで。
0052人間七七四年2008/02/19(火) 03:55:53ID:s2dD6kQD
>>50
嘘?水野氏は村木救援などでわかるように、桶狭間以前から織田方。家康
との仲介を務めたあとも明らかに織田に従っている。
尾張については、推定で64年9月頃に犬山を攻略して完全支配。
美濃では64年に鵜沼城、猿啄城を落とし、65年には加治田城が調略で降服。
さらに堂洞城を落とす。

自分は何も提示せず根拠もあげずに人の発言を嘘よばわり。最低の態度ですね。
0053人間七七四年2008/02/19(火) 06:49:28ID:VXhfmrik
>>51
だから織田徳川と敵対せずに東に行けばいい話じゃないの?
あわよくばと思って徳川に手を出して、さらにその後ろの織田にも手を出したのが致命的。
領土拡大以外に明確な戦略がなく、海を手に入れても無節操に外征しまくったのが一番の失敗。
0054人間七七四年2008/02/19(火) 11:03:24ID:hAaU+bw7
>>53
だからあわよくばじゃないんだってば。
北条との戦いに集中するには後ろの徳川を一発ぶちかましておかないと
背後をつかれる。徳川攻めにもちゃんとした理由があった。
第一畿内の反織田勢はそろそろ危なくなってきたから信玄が東を攻めている間に
信長に畿内の覇権を確立されちゃどうしようもない。
実際信玄病死後に反織田勢がつぎつぎとつぶされていったのを見れば明らかだろう。
だから北条とはほどほどのところで和睦して西へ向かった。
0055人間七七四年2008/02/19(火) 11:40:24ID:g5xc3ABi
>>54
ぶちかますも何も、徳川とは同盟してた。
駿河は武田、遠江は徳川という取り決めもあったが、
武田が先に破った。
時間軸を見直せ。
0056人間七七四年2008/02/19(火) 20:00:26ID:hAaU+bw7
>>55
だから、その時に信玄は家康に注意されたらさっさと兵を引いてるんだよ。
そっちこそ時間軸を見直せ。そんで信長にも家康に遠慮して遠江以降には入らないと
言っている。
その後で家康が上杉と対武田で同盟を結んだから信玄は北条攻めの間隙をぬって
徳川領土侵攻をせざるをえなかったんだよ。
0057人間七七四年2008/02/19(火) 20:10:27ID:chl55akr
>>56
家康にとっては約束破って進入してきた武田に対する策として上杉と盟約を結ぶのは当然の行動だろ。
そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない。
一度約束を破ってるのだから両者間に緊張の糸が張り詰めるのは当然の事で、
約束を破られた相手が対抗処置を取るのもまた当然。
時が経てば緊張が和らぐ可能性もあるのに再び武田側から約束をぶち破るとか・・・
徳川が対武田の策を練ってきたから以前に最初武田が約束違反をしたのが最大の問題だろ。
0058人間七七四年2008/02/19(火) 21:41:53ID:hAaU+bw7
>>57
>>そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない
上杉と徳川の同盟は1570年10月8日。秋山の遠江侵入が正月。
この間に詫びも入れたけど徳川は上杉と対武田の同盟を結び敵となる道を選んだ。
そして1571年に駿河攻略がひと段落した後の徳川攻めが1571年2月から。
北条との戦いに忙しい信玄としてはそんな悠長に待っているわけにはいかん。
駿河がひと段落した間隙をぬって徳川に一発ぶちかましていくつもの城を攻略し徳川軍にも打撃を与え
山家三方衆なども服属させてその力を削いだ。これによって徳川の動きを封じることが出来た。
絶縁し上杉と対武田の同盟を結んだ時点で家康は武田に対する敵対意思を表明したようなもの。
これを放置して北条との戦いに集中してる間に背後をつかれる危険性は放置するには大きすぎる。
0059人間七七四年2008/02/19(火) 22:50:37ID:VXhfmrik
>>58
だから同盟結んでるのに侵入した時点で下心見え見えだろう。
信玄も徳川と同盟を結んだものの、本心は徳川が今川で手こずってる間に駿河と遠江の大部分を
頂くつもりだからわざわざ氏真を遠江へ追い出したが、まさか徳川があんなに早く遠江を平定する
とは思ってなかったから、ちょっかいを出して邪魔してみたんだろう。
家康も馬鹿じゃないから、信玄の狙いはわかったらすぐ手を打って背後の上杉と結んだんだろう。

先に侵入しといて「徳川の脅威」とか吹聴するなんてどっかの覇権国かよ。
0060人間七七四年2008/02/19(火) 23:17:11ID:hAaU+bw7
>>59
だから、結局その後で謝って兵を引いたし弁明もした。
すぐというが時間軸は秋山遠江進入が1568年12月18日。
信玄が徳川に謝るのはこの1568年12月23日。
徳川と上杉の同盟は1570年10月8日だぞ。
この間に信玄は北条と対峙して戦い、一回甲斐に戻って小田原を攻め、さらには駿河を
攻撃したりして目まぐるしく戦っている。秋山進入からすぐに徳川と上杉の同盟が結ばれたと思っているなら
それは間違いだ。さらにこの間の1569年4月24日に信玄が一端駿河から撤退すると
5月17日には今川氏真に対して
(武田領国である)駿河に戻してあげるから掛川城明け渡して、という交渉を行って開城させている。
信玄が北条との対戦にかかりきりになっている情勢を自分の勢力拡大に都合よく利用しようという意思は
家康からも十分見て取れる。
1570年10月における徳川上杉同盟は武田が情勢を挽回して駿河を再び手中にしつつある状況を鑑みて
1569年5月17日における自身の行動も鑑みての行動と考えたほうがわかりやすいだろう。
0061人間七七四年2008/02/19(火) 23:45:29ID:VXhfmrik
>>60
人のレスを読め。
侵入したことによって不信感を抱かせてしまったんだろう。
配下の雑兵が迷い込んだならともかく、武田家の重臣が一軍を率いて堂々と侵入した。
いくら謝ろうがこんな行動ができるのは信玄の指示なしにはできない、と思われるのは当たり前。
んなソ連軍や中国人民解放軍並みの言い訳を100%信用するほど戦国の世は甘くないよ。
だから家康も上杉と結ぶ決断をしたんだろう。

とにかく人のレスをしっかり読んでくれ。
0062人間七七四年2008/02/19(火) 23:52:14ID:wbl0iydE
家康も息子をぬっころしてるし。あんまり言えないんだが。


信玄の場合は義信が駿河侵略の障害になったという”大義名分”があるけど。
家康の場合は、単にむかついたから信康を殺したという説が
近年有力なんだが。(信長が命令というのが通説だったけど、
この事実を隠す為に誤魔化した可能性があるんだが)
0063人間七七四年2008/02/19(火) 23:52:27ID:hAaU+bw7
>>61
だからそっちも人のレスをしっかり読んでくれ。
家康は上杉と結ぶ前に、武田が駿河から一端撤退したのを見て
今川氏真に武田の取り分であるはずの駿河にもどしてあげるから
掛川城を渡せ、という交渉を行って開城させているんだよ。
これも立派な背信行為でなくてなんだという。
それで武田が情勢を挽回して駿河をほぼ手中にしそうだから自身の背信行為も踏まえ、
さらなる勢力拡大の為に上杉と手を結んだと>>60には書いてある。
>>60には時間軸もあるからちゃんと見てくれ。
0064人間七七四年2008/02/19(火) 23:55:22ID:VXhfmrik
>>63
アホですか?
秋山の侵入が先なのになぜ背信行為とかになるのか意味不明。
人のレスを読め。
秋山の侵入が徳川に危機感を抱かせ、武田家に対する不信感を植え付けたって書いてあるだろう。
日本語がわからないのですか?
0065人間七七四年2008/02/19(火) 23:59:04ID:KggvdTXm
>>62
むかついたって・・・
岡崎派閥と浜松派閥の確執説じゃないの
0066人間七七四年2008/02/20(水) 00:03:10ID:UidaDws/
>>64
わかってるといってるだろう。
秋山の侵入の後で信玄は謝ったし兵も引かせた。
まずこの事実をちゃんと見ろ。
信長に対しても家康に遠慮して遠江に入るつもりはないと説明してる。
そして家康もこの時からしばらくは武田に対して不穏な動きは見せていない。
だが家康は信玄が4月24日に駿河から一端撤退してすぐに戻ってくる気配が
ないとみるや5月17日には掛川の今川氏真に対して武田の取り分である駿河に
戻してあげるから掛川城を渡せといっているんだよ。
これが武田が北条との戦いにかかりきりになっている状況を利用して自分の勢力拡大を目指そうとする
背信行為でなくてなんだという。そちらこそちゃんとレスを読め。
0067人間七七四年2008/02/20(水) 00:07:56ID:O6f9NGt9
>>66
だから、そんな言い訳が信用できないから家康が手を打ったんだろう。
配下の重臣が軍を率いて堂々と侵入するのは当主の命令がないと無理。
もし織田の明智が数千を率いて信濃に侵入すれば普通に同盟破棄だろうに、
なぜ武田になると基準が甘くなる?
0068人間七七四年2008/02/20(水) 00:13:57ID:UidaDws/
>>67
当時の遠江は武田の信濃におけるほど確定した家康の領土じゃないだろう。
そのまだ自分の領土じゃない領域に対して同盟相手の軍が一時的に入り
それに対して注意したら相手はすぐさま兵を引いて謝ってるんだぞ。
この間わずか5日。そして5ヶ月後にその同盟相手が駿河から兵を引いて
すぐに戻ってきそうにないと見るや敵対してる相手にその同盟相手の取り分である
はずの駿河に戻してあげるから掛川城渡せ、というのはおかしくないのか。
なぜここで徳川の行為はスルーされる。

ちなみに織田でいうなら織田が武田の西上前の同盟時に両属の遠山氏を完全に支配化に
組み込んでいるのは大抵甘くなるんだけどな。
0069人間七七四年2008/02/20(水) 00:15:09ID:UbZyVJph
>>52
横からだが
多分嘘というのは家康の(ほぼ)三河統一を66年としていることだと思う

>>66
謝って兵を引いたぐらいで不信感が消えるわけないだろう
国力が互角ならまだしも、武田と比べると半分程度の国力である徳川としては
いつ武田に攻められるか、そして攻められたら単独では勝てないのだから
何らかの安全保障を必要とするのは当然だと思うが
0070人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:06ID:UidaDws/
>>69
その安全保障というのが武田が駿河から兵を引き、北条との戦いにかかりきりに
なっている状態を見て、今自分が攻めあぐねている掛川城にこもる今川氏真に
駿河にもどしてあげるから掛川城渡せ、と持ちかけて開城させることだと?
どう見てもこの行為は徳川が武田が北条との争いにかかりきりになっている状況を
掛川城を手に入れるために利用し、あわよくば駿河をもめざす為の配慮としか見えないんだが。
0071人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:20ID:UbZyVJph
>>68
>なぜここで徳川の行為はスルーされる。
別に誰もスルーしてないと思うが

>組み込んでいるのは大抵甘くなるんだけどな。
意味がよくわからないが、何が言いたいんだ?
0072人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:42ID:O6f9NGt9
>>68
>当時の遠江は武田の信濃におけるほど確定した家康の領土じゃないだろう
武田と徳川が同盟を結ぶ際に「大井川を境に」という取り決めはあったのに?
開き直りでしかないよそれ。
それを言うなら徳川が駿河に侵入しても問題ないだろうに、キミは「背信行為」と言う。
見事なダブルスタンダードじゃん。
0073人間七七四年2008/02/20(水) 00:22:08ID:vc9HElhc
>>68
約束破っても謝っておけばそれですべて済むとお考えで?
家康が対武田を考慮し実際に行動に移すのはすべて信玄の約束破りから。
0074人間七七四年2008/02/20(水) 00:22:09ID:UbZyVJph
>>70
安全保障というのは上杉との同盟の話のつもりで書いた
0075人間七七四年2008/02/20(水) 00:23:25ID:UidaDws/
>>71
スルーしていないかもしれないがかなり話の展開が飛んでいる。
掛川交渉はどう見ても家康の領土拡大の行動にすぎんだろうが。安全保障じゃなくて。

>>67が織田の例をあげたのでね。
織田がやってることも背信行為にあたるはずなのに大抵スルーされるか甘くなるという例だよ。
0076人間七七四年2008/02/20(水) 00:25:10ID:UbZyVJph
>>70
掛川に関してはこの時期には既に武田と徳川はほぼ敵対みたいな関係になっていたから
別に徳川が何しようと仕方ないんじゃないか?
でその敵対の原因は武田の盟約違反にあると

まあこの敵対関係は織田の仲介でいちおう小康状態になったけど
お互い相手を信用していなかったんだろうな
0077人間七七四年2008/02/20(水) 00:25:45ID:O6f9NGt9
>>75
>>73の「約束破っても謝っておけばそれですべて済むとお考えで?」はどう答える?
0078人間七七四年2008/02/20(水) 00:26:14ID:UidaDws/
>>72
ダブスタはそっちだろう。
信玄が無謬なんていわん。だけど徳川にも状況を見て自身の領土拡大を
目指そうとする意思は明確にあった。戦国乱世の常道。
武田が一回侵入したのも事実ならその後その問題が収束してるのも
武田がいなくなった状態を徳川が自身の領土拡大に利用してるのも事実というだけだ。
0079人間七七四年2008/02/20(水) 00:28:33ID:O6f9NGt9
>>78
信玄の侵入はきれいな侵入、兵を引けばすべてはなかったことに。
徳川の侵攻は汚い侵攻、すべては領土拡大を目指す行動。

ダブルスタンダードなうえ開き直ってる。
0080人間七七四年2008/02/20(水) 00:28:59ID:UidaDws/
>>77
これから答えるさ。こっちもリロードとかが追いつかないんでね。

>>73
ならばその行動が武田の謝罪と撤兵を受け入れ、5ヶ月も平穏に過ごし
武田がいなくなった後でその状況を自身の勢力拡大に利用しようという行動で
なければまだ説得力もあろうが。
0081人間七七四年2008/02/20(水) 00:29:50ID:UbZyVJph
>>75
話の展開が飛んでるのはあなたのほうじゃ
まず最初に武田の違約があったことを踏まえずに掛川の事例だけ抽出しても
意味ないと思うが

>織田がやってることも背信行為にあたるはずなのに大抵スルーされるか甘くなるという例だよ。
状況が違いすぎると思うが・・・
0082人間七七四年2008/02/20(水) 00:30:50ID:O6f9NGt9
>>80
だから、盟約破った時点で不信感が生まれたんだろう。
5か月も平穏と言うが、武田はすでに信用できない相手と考えてるからそのあとの行動に移ったんだろう。
0083人間七七四年2008/02/20(水) 00:31:21ID:UidaDws/
>>79
別に武田の行動を綺麗だなんていってないが?勝手にいうのはやめてもらおうか。
武田の行動が汚いというなら徳川の行動も汚い。
どちらも領土拡大を目指した背信行為のやりあい。
だけどなぜか徳川の行動はスルーされる。
そしてそんな相手が武田の後背を脅かす危険性についても。
0084人間七七四年2008/02/20(水) 00:33:51ID:O6f9NGt9
>>83
だから、先にやったのは武田だからだろう。
徳川が先に仕掛けたのなら盟約違反は徳川になるが、
先に盟約違反したのは武田だから、
そのあと徳川の行動を責めるのはおかしいじゃん。
なぜそんな簡単な社会常識も理解できない?
0085人間七七四年2008/02/20(水) 00:34:17ID:UidaDws/
>>81
だから踏まえてるといってるだろう。
進入の後で謝罪撤兵、信長へも家康に遠慮して遠江に入らないという申告してる事、
5ヶ月平穏だったこと、これらも踏まえずに掛川の事例もみないで
徳川の行動と危険性がスルーされるのはおかしいといってる。
0086人間七七四年2008/02/20(水) 00:35:56ID:UbZyVJph
>>80
武田はいきなり不意ついて襲った前科あるから、
徳川の行動はある意味当然だと思うが
0087人間七七四年2008/02/20(水) 00:36:16ID:O6f9NGt9
>>85
>だから踏まえてるといってるだろう。
これまで何人の人が「武田が先に盟約を破ったから」と言ってるのだけど、
そこは理解できる?
「先に盟約を破った」ということの意味は理解できる?
0088人間七七四年2008/02/20(水) 00:37:53ID:UidaDws/
>>82
謝罪も撤兵も受け入れ5ヶ月平穏で武田がわざわざ苦境にある状況で
動き出しているのにそれが何故徳川に野心はないといえる。

>>84
社会常識というならその相手が謝罪も撤兵もしてさらに5ヶ月の間には普通に
共同作戦も進行させて、その相手が苦しくなったのを見計らって
自身の領域拡大に利用してる行動が何故きれいだといえる。
優秀な戦国大名としての策謀だろう。
0089人間七七四年2008/02/20(水) 00:37:54ID:UbZyVJph
>>85
>5ヶ月平穏だったこと、
平穏だったか?
お互い他に主となる相手がいるため行動出来なかっただけじゃ
0090人間七七四年2008/02/20(水) 00:41:32ID:O6f9NGt9
>>88
だから「先に盟約を破った」という言葉の意味理解できる?
武田に不意をつかれたのは徳川。
戦略方針の転換とそのための準備は必要だろう。
そもそも徳川だって遠江の制圧が最優先問題だから、
武田に対する備えができても攻めることは無理だろう。

というか、なぜそこまで無理な擁護をするのか意味不明。
0091人間七七四年2008/02/20(水) 00:42:24ID:UidaDws/
>>86
状況利用して自身の領域拡大につなげてる時点で
当然とも思えないが。少なくとも安全保障という感じではないだろう。

>>87
理解もしてる。そしてその後の行程も理解してる。
さらには家康の掛川交渉における行動が綺麗とは言えないことも理解してる。

>>89
普通に書状のやり取りしてるように見えるが。
0092人間七七四年2008/02/20(水) 00:45:13ID:UidaDws/
>>90
なんかずれてるなあ。擁護じゃないんだって。
武田を汚いといいたいならそれでもいいと言ってる。
だけどどう見ても徳川の行動は安全保障の域を超えてる、
自身の領域拡大を目指した策謀だといってる。
準備期間がどうとかという問題じゃなくて武田が駿河からいなくなって
戻ってきそうにないのを見て動いてるだろうといってる。
0093人間七七四年2008/02/20(水) 00:46:39ID:O6f9NGt9
>>91
>理解もしてる。そしてその後の行程も理解してる。
>さらには家康の掛川交渉における行動が綺麗とは言えないことも理解してる。
理解してないじゃん。
武田が先に盟約を破ったのなら徳川だって律儀に守る必要はないだろう。
キミの「遠江はまだ完全に徳川家の領地じゃないから侵入オッケー」
という理屈が通用するのなら
「駿河はまだ完全に武田家の領地じゃないから交渉の材料に使うのはオッケー。どうせ空手形だし」
も問題ないはずだろう。
なぜそこでダブルスタンダード?
0094人間七七四年2008/02/20(水) 00:48:24ID:UidaDws/
>>93
いや、両方を対等に見て汚いというならそれでいい。
その二つが並列するなら問題ない。
ただ徳川も状況を利用してやれることはやろうとしてるという事を理解して
もらえりゃそれで十分。
0095人間七七四年2008/02/20(水) 00:51:29ID:UbZyVJph
徳川が安全保証の域を越えて本気で武田領を狙うというなら
1569年1570年の武田が北条(と上杉)と敵対している時期に
北条上杉と同盟して武田と敵対すべきだったのに
信長の和睦受け入れて武田とは休戦状態で自ら攻めこむようなことはしなかったからなー
(信長を配慮してか武田との国力の差からかはわからないけど)
0096人間七七四年2008/02/20(水) 00:54:06ID:O6f9NGt9
>>94
だから「先に盟約を破ったのは武田」という言葉は理解できる?
先に破った方が悪いに決まってる。
並列する問題じゃない。

というか、キミのその独りよがりのこじつけ理論としつこさは
上洛スレの武田厨にそっくりだな。
まさか本人?

だったらもう相手しない。
一人で妄想してろ。
0097人間七七四年2008/02/20(水) 01:01:46ID:UbZyVJph
>>91
普通に武田と徳川は敵対関係に入っていったって感じだと思うが
まさか兵を引いて謝ったからもとの同盟状態に戻ったとでも?

だいたい本当に秋山が見附あたりまで進出して徳川の兵と交戦したというなら
掛川にいる徳川は退路たたれて、
もし武田本軍が遠江に進出してきたら方位殲滅されかねない状況にさせられているのだから
徳川からすれば武田が本気で自分たちに敵対しようとしていると思われてもおかしくないんじゃ
秋山が苦戦したのか武田本軍が今川残党や一揆のせいで動けなかったから一気に徳川敵対へ
動くことが出来なかっただけとか考えている可能性もあるし
0098人間七七四年2008/02/20(水) 01:02:42ID:UidaDws/
>>95
そう。掛川交渉のあと、武田と徳川はしばらく平穏を保つ。
まあこの間は家康も信長の畿内戦に借り出されたりと忙しかったからな。
そんでしばらくは徳川も平穏だったのだけど1570年10月にいきなり
上杉と同盟しちゃうんだわ、これが。
北条との駿河争奪戦を有利に進めかけていた武田はこれを受けて
北条との戦いの最中に背後をつかれる事を避けるため
1571年に北条の駿河における要衝である深沢を攻略した後で
徳川遠征に出る事になる。
0099人間七七四年2008/02/20(水) 01:08:27ID:UidaDws/
>>96
並列するに決まっているだろう。
君自身が言ったんだろう。
武田の理屈が通るなら家康の理屈も通るって。
無理して切り離しているのはそっちだろう。

>>97
とりあえずそこまで急激とも思えないが。
0100人間七七四年2008/02/20(水) 01:19:59ID:UbZyVJph
>>94
両方対等にみるなら
最初に違約した武田は汚いこれだけは確実で
あとは武田も徳川も大名として当然の行動している程度にしかならないと思う

>>98
恐らく武田が駿河をほぼ占領し始めたため、武田に対して危機感を抱きだしたんだろう
69年後半や70年前半は武田は北条と激戦繰り広げていて徳川に構う余裕がないため
徳川の安全は保障されていたが、駿河での情勢が徐々に武田有利となってきて
また武田が徳川領に攻めこんでくる可能性が出てきたと
だから自分の安全を守るため取りあえず上杉と同盟を結んだといったところかな?

徳川は織田と武田が敵対するまでは武田が割と不利な状況になっても
積極的に武田領に攻めこむようなことはしていないし、
織田と武田の同盟も考慮していた可能性もあるから、専守防衛とまではいかなくても
自分の安全保障のための行動だったのかもしれん

もっともその徳川の行動は武田から見れば十分敵対行為に映るがな
北条上杉と敵対して不利な情勢だから今なら倒せると思って徳川が敵に回るという可能性は
十分考えられる、今は攻めてきてないけどいつ攻めてくるかわからないし、だったらと・・・

まあ一度不信感が生まれた以上はちゃんと婚姻とか人質をお互いに出すとかしないと
難しいんだろうな、徳川に他に攻める相手がいれば武田も安心できたんだろうけどさ
いくら信長が両者の間を取り持っても限界はあったんだろう
0101人間七七四年2008/02/20(水) 01:31:50ID:UbZyVJph
>>99
お互い敵対してからの行動は大名として当然の行動だろ

でも最初に盟約破ったのは武田でそれに関しては武田が悪いとなるんだから
並列するような問題じゃないと思うが
0102人間七七四年2008/02/20(水) 01:37:39ID:UbZyVJph
一応北条が駿河に出陣した時期と
秋山が徳川と激突した時期はかぶるから
北条が介入の姿勢を見せたから武田は今回は引いただけにも見えるからなー
徳川としては武田を信用するのは難しいと思う

また武田が北条との戦いに一段落ついたら次は自分じゃないかと警戒もするんじゃないかと
徳川が上杉との同盟を1570年後半まで待ったのは、精一杯の誠意かもしれん
0103人間七七四年2008/02/20(水) 11:08:47ID:T9NRAleD
縁組みしても平気で同盟を破る武田だから信用が無いだけだろう。
何の問題も無く共通の敵を持ってる間はいいけど、
いったん問題が生ずると「また裏切るのか」と思われるのが当たり前。
そもそも徳川の取り分となるはずの遠江の奥深くまで侵入して徳川と交戦した時点で言い訳ができない。
もし北条が介入しなかったらそのまま徳川を滅ぼした可能性もあるから、
徳川も情勢を判断するのに半年近く待ったんじゃないかな。
で、その結論は「武田は信用できない、保険をかけよう」と北条、上杉との連携を模索し始めた。
しかし、「信」が通字なのに信用の無い武田って一体・・・
0104人間七七四年2008/02/20(水) 14:34:50ID:mf4XHb45
>>103
内から向けられた信用を重視した結果外から向けられる信用を無くしたって事ではないかな
つまり近視眼的(ry
まぁそれ以前にこの時期の信玄ですら徳川滅ぼせるはずもなさそうでは?
信長は義昭と親密な時代だし更には北条と敵対して挟撃って事もある
信長とて婿が居て大義名分ある徳川を支援しないわけにもいかんだろうし経済的に信玄より豊かな大名が複数敵に回るのはかなりやばいと思うよ
外交に関する信用云々に関しては全て同意できるが
0105人間七七四年2008/02/20(水) 14:48:12ID:T9NRAleD
それが信玄が謝った理由でしょうね。
騙し討ちで徳川本隊を遠江で討つ作戦がうまく行かず、
北条が駿河に介入して来て信長も仲裁に乗り出した。
ここで徳川攻めを強行すれば織田、徳川、上杉、北条、今川残党による
武田包囲網が誕生してしまう。
0106人間七七四年2008/02/20(水) 20:07:29ID:cWkoaBKY
ID:UidaDws/はやたらと掛川交渉における徳川の領土拡大野心とやらをほざいているが、
この時代の大名なら領土拡大する野心を抱いて当然の事なんだがね。
そもそも武田との今川領を分け合う盟約が領土拡大の為のもので、
最初に武田側から盟約を破棄して進入してきた。
それに対して徳川も対武田外交を展開して対抗。
掛川交渉が武田との盟約違反だというが、武田が徳川領に侵入してきた時点で盟約は白紙なんだから、
武田に非はあれど徳川には非は全くない。
0107人間七七四年2008/02/20(水) 20:40:32ID:UidaDws/
>>106
非が全くないというのは語弊があるな。
盟約が白紙だというなら抗議もせずに戦いを挑むべきだったな。
抗議して相手の謝罪も撤兵も受け入れ5ヶ月放置しといてその同盟相手が
苦境にあって撤兵した時点でその状況をダシにして勢力拡大にしようしたのは
まぎれもなく背信行為だろうが。
0108人間七七四年2008/02/20(水) 21:07:54ID:cWkoaBKY
>>107
遠江平定は完了していない。武田による突然の背信行為。
武田は徳川の倍の国力。対武田同盟を上杉と結んでいない。
頼みの織田は畿内方面に夢中で当てにならない。
この様な状況でいきなり武田と全面戦争できるわけねえでしょ。
一時的にでも武田の謝罪を受け入れてその場を凌ぐ。
武田としたらまた隙あらば徳川領を掠め取ろうとするだろうし、
徳川としたらとにかくこの窮地を凌ぎたいという思惑でのことであって、
双方共に未来永劫この休戦が続くとは思ってねえだろ。
どうにかして一息ついたところで今度は武田が窮地に立っている。
徳川としたらこれは二度とこないかもしれない絶好の好機なんだから武田包囲網に参加するのも当然。
背信行為だとか非難するほどの信頼関係なんて武田・徳川間には全く無い。
片方が窮地に立てばもう片方はそこを衝いてくる。
史実では武田が窮地に立ったわけだが、徳川が窮地に立っていれば武田も迷わずそこを衝いてくるだろうよ。
それともあれか?信玄は徳川との休戦に安心しきって徳川に対する策なんて講じていなかった間抜けなのか?
最初の盟約時ならともかく、自分が裏切りかました後の一時的な休戦なんだから、
この休戦に安心しては駄目なんじゃないのかね?
0109人間七七四年2008/02/20(水) 21:28:08ID:UidaDws/
>>108
だから結局徳川は武田に撤兵を要求するしかなかったし現にそれをした。
それに対し信玄は謝罪して兵も引かせていることを考慮しろよ。
そのまま突っ込む選択肢だってありえた事を考慮しろ。
片方が片方の窮地につけこむ関係だというならそれは武田を非難するのもおかしくなるな。
武田の窮地に対して1569年の5月の時点で徳川がやったのは武田包囲網に
対する参加じゃなくて、武田が窮地に陥っている状況を利用した掛川開城交渉だ。
それで1570年10月に武田が駿河の戦いを優位に進めたのを見て行ったのが
上杉との同盟だ。
武田の窮地を自分の勢力拡大に利用して、武田が力を盛り返したから武田の敵と結んだ、
ただそれだけの事。
0110人間七七四年2008/02/20(水) 22:05:33ID:MD9KPYM8
謝罪すればそれですべてチャラになるなんて虫が良すぎじゃないか?
徳川は武田に殴られたから殴り返した。
現代の法律で言えば正当防衛で徳川は無罪、武田は有罪だよ。
「先に約束を破って攻め入った」ってことはそういうことなのだよ。
0111人間七七四年2008/02/20(水) 22:10:39ID:O6f9NGt9
ID:UidaDws/は武田に対する思い入れが強すぎて物事を客観的に見れなくなってる。
他の人も書いてあるが武田が盟約違反して遠江に深く侵攻した上、
徳川と交戦した時点で武田の盟約違反により同盟は白紙。
双方がその時すぐ戦争状態に突入しなかったのはそれぞれの事情によるもの。
武田は対武田包囲網の形成を危惧してとりあえずの撤兵。
徳川は国力差と援軍が望めないことを考慮する上の謝罪受け入れ。
で、武田が北条と再同盟して徳川も上杉と結んだら双方が戦争状態に突入した。

信玄にとって最初盟約違反して掛川攻め中の徳川本隊の背後まで侵攻した時に
一気に徳川本隊を捕捉せん滅して三河、遠江を真空状態にする考えだったんだろうけど、
秋山隊が予想外の抵抗を受けたし駿河の情勢が悪化したから実現しなかった。

かつての同盟国を次々と滅ぼした信玄が弱小勢力の徳川にわざわざ謝罪する理由も考えず、
他人の意見も全く受け入れず、ひたすらそれを持ち出して「徳川の領土の野心」
と頑固に突っぱねるID:UidaDwsの思考回路は素晴らしいというか幸せだな。
0112人間七七四年2008/02/20(水) 22:13:07ID:cWkoaBKY
>>109
片方が片方の窮地につけこむ関係てのは休戦してからの関係で、
最初に盟約を結んだ時の関係ではねえよ。
何かの誤解があって徳川領に侵入したのならともかく、
明確な侵攻意思を持って侵入したのだから武田に弁解の余地なんて無いだろ。
0113人間七七四年2008/02/20(水) 22:15:52ID:UidaDws/
>>110
だから、その場で殴り返してないだろうといってるんだよ。
現代の法律でいうなら相手が謝罪してその場から立ち去って
しばらく立った後で相手が窮地になったときに昔の事を持ち出して
殴り返すようなものだ。これは現代の法律でいえば正当防衛にはあたらん。
0114人間七七四年2008/02/20(水) 22:19:54ID:UidaDws/
>>111
>>徳川は国力差と援軍が望めないことを考慮する上の謝罪受け入れ。
>>で、武田が北条と再同盟して徳川も上杉と結んだら双方が戦争状態に突入した。

全然経緯が違うんだが。武田が北条と再同盟するのは1571年の末。
上杉徳川が同盟するのは1570年10月。
さらに武田の窮地を利用しての掛川交渉が1569年5月。
徳川は北条と武田が争っている真っ最中に武田に牙を向いているんだよ。
それから北条が駿河の薩垂峠に現れて武田と対峙するのは1569年1月23日。
秋山進入は1568年12月18日で信玄謝罪が1568年12月23日というのも
考慮しろ。
経緯を妙に改変する態度は気に入らない。
0115人間七七四年2008/02/20(水) 22:21:25ID:O6f9NGt9
>>113
その場で殴り返しなければ犯罪にならないってのか?
どんなトンデモ犯罪理論?
0116人間七七四年2008/02/20(水) 22:21:35ID:UidaDws/
>>112
だから言われたらさっさと兵を引いてるというのに。わずか5日だぞ。
そのまま突っ込む選択肢があったのは無視か。
0117人間七七四年2008/02/20(水) 22:22:33ID:O6f9NGt9
>>116
>そのまま突っ込む選択肢があったのは無視か
そのまま突っ込むと武田包囲網形成だから引いたんだろう。
0118人間七七四年2008/02/20(水) 22:25:03ID:UidaDws/
>>115
犯罪と主張し正当防衛を訴えるなら
その場で実力行使に訴えるなり警察に通報すべきだったろう。
警告して相手が謝罪して引いた後というなら示談になっているはずだが。
そして相手の窮地に付け込んでその相手の財産をダシにして自分の財産をふやそうと
するのは現在では詐欺や横領にあたるはずだが。
0119人間七七四年2008/02/20(水) 22:25:32ID:O6f9NGt9
つまりキミの考えはこうだ
>現代の法律でいうなら相手が謝罪してその場から立ち去って
>しばらく立った後で相手が窮地になったときに昔の事を持ち出して
>殴り返すようなものだ。これは現代の法律でいえば正当防衛にはあたらん。

犯罪被害者は警察に届け出れば「昔のことを持ち出す」ことになって
無効ってことだな。
武田厨去れ
0120人間七七四年2008/02/20(水) 22:30:10ID:UidaDws/
>>117
だから、北条本軍が駿河の薩垂峠にあらわれて武田と対峙するのは
1月末だといっているだろう。
北条はこの当時上杉との戦いで詰めの段階を迎えようとしていて
まさか関東の利権の多くを謙信に譲ってまで信玄に対することを選んでくるというのは
予想できがたいはずだ。
織田もこの時は三好残党と戦ったりしているはずだが。
上杉も本庄とかの相手がある。
当時の状況ではそんな性急に武田包囲網は出来がたい。
もう少し立てば別だろうが。その状況で武田は引いていることも考慮してくれ。
0121人間七七四年2008/02/20(水) 22:32:52ID:cWkoaBKY
>>118
戦国時代に警察に通報するとかありえねえだろ。

>そして相手の窮地に付け込んでその相手の財産をダシにして自分の財産をふやそうと
>するのは現在では詐欺や横領にあたるはずだが。
現在の価値観を戦国時代に当てはめすぎだろ。
下克上・生き残るためにドロドロの謀が日常茶飯事な戦国時代でも、
信頼は重要なこと。
その信頼を最初にぶち破ったのが武田。
信頼を破られた被害者の徳川としては休戦を結んだとはいえ、
時は戦国時代なのだからそれだけでは安心できない。
いつまた武田が休戦を破るかどうか不透明。
それならばと積極的に対武田の対策をすることが駄目なのなら、
戦国時代を生きていくのは不可能だろ。
0122人間七七四年2008/02/20(水) 22:33:06ID:UidaDws/
>>119
警察に届出せずに一端は謝罪を受け入れるふりをして
相手の窮地に付け込んでその相手の財をダシにして
自分の財産を増そうとするのは詐欺もしくは横領だろう。
武田が逮捕されるなら徳川も逮捕されるだろうな。
0123人間七七四年2008/02/20(水) 22:36:56ID:UidaDws/
>>121
最初に現在の価値観を持ち込んできたのはそっち。
戦国時代に現在の価値観をあてはめるのが無理というなら
そもそもやらんでくれ。
というか何度も言いたいのだが、1569年5月の掛川交渉は
対武田の対策じゃないんだよ。
武田の状況を利用しての勢力拡大のための交渉なんだよ。
徳川の本当の対武田対策は1570年10月の上杉との同盟なんだよ。
0124人間七七四年2008/02/20(水) 22:37:20ID:O6f9NGt9
>>114
>秋山進入は1568年12月18日で信玄謝罪が1568年12月23日

秋山が「侵入」したじゃなく秋山が見附を占領したのは12月18日。
で、信玄謝罪までの間に「家康が信玄に猛抗議」ということも抜けてる。

>それから北条が駿河の薩垂峠に現れて武田と対峙するのは1569年1月23日。

その前に1568年12月黄梅院を甲斐に戻したことが抜けてる。
時系列を順に並ばず肝心なところを軽く書いたり抜けたり妙に改変してるのはキミの方。
0125人間七七四年2008/02/20(水) 22:42:14ID:cWkoaBKY
現代の法律とかをあてはめるのはお互い止めにしようぜ。
大事なのは当時の価値観・常識を考えること。

武田と徳川が今川領を分け合う盟約を協定。
武田がいきなり盟約違反で徳川の領域に侵攻。
猛抗議と武田の謝罪と撤兵でとりあえず休戦。
信頼関係をぶち破ってきた武田に警戒心を抱いた徳川が対武田の外交を展開。
ちょうどその時期は武田家が苦境の時期。

窮地の時期に意趣返しをした徳川は当時だとどのように捉えられたのか?
最初に被害にあった徳川としたら当然の行為なのか、
それとも窮地の時期に意趣返しするのは卑怯千万なのか?
詳しい人いたら解説お願いします。
(一連のスレの流れに対して冷静かつ中立的でいられる人が条件です。)
0126人間七七四年2008/02/20(水) 22:44:43ID:UidaDws/
>>124
抜かしてないって。
>>109の時点で
>>だから結局徳川は武田に撤兵を要求するしかなかったし現にそれをした。
と徳川の抗議については触れているだろう。

その黄梅院の甲斐出戻りは12月23日以前だったか?
第一北条が全力で入ってこれるかは別問題。北条が上杉に対して利権の多くを譲る決断を
するのはまだ先の事。
0127人間七七四年2008/02/20(水) 23:02:18ID:mf4XHb45
>>125
盟約破りは当時でも大名としてはかなりのレベルでのタブー
これを1回してしまうと信頼という点から後々に響いてくる

また盟約破りをした相手に意趣返しをしないのもタブー
これをしないと周りの大名から軽んじられる為
たとえ国力差があったとしても何らかの形でやっておかないと馬鹿にされて滅亡フラグ成立

ぶっちゃけこの辺の外交関係は戦国時代に限らず現代も一緒なんだがな
0128人間七七四年2008/02/20(水) 23:02:56ID:UidaDws/
>>125
>>信頼関係をぶち破ってきた武田に警戒心を抱いた徳川が対武田の外交を展開。
>>ちょうどその時期は武田家が苦境の時期。

あーいや、ここの流れだけどうも皆ちがうんだ。
何度もいうが掛川交渉は徳川の対武田の外交じゃないんだよ。
武田の駿河をダシにした自己勢力拡大の交渉。

その流れを正確にいうなら、
武田が北条と戦っている間に武田に警戒心を抱いたらしい徳川が
敵である今川氏真に駿河をダシにして開城交渉し開城させる。
武田しばらくは北条と乱戦。徳川と武田領はしばらく平穏。
武田が駿河争奪戦を優位にしはじめた1570年10月に徳川が対武田の外交として
上杉と同盟。
これを受け武田が駿河の北条の要衝である深沢を攻略した後に1571年2月徳川領土に侵攻。

こういう流れになる。
0129人間七七四年2008/02/20(水) 23:07:26ID:O6f9NGt9
>>128
キミだけの妄想トンデモ理論を受け入れる人がいないからキミと違う見解になるの当たり前。

>何度もいうが掛川交渉は徳川の対武田の外交じゃないんだよ。
>武田の駿河をダシにした自己勢力拡大の交渉。
それの何がいけない?
武田が遠江に対する野心がすでにむき出しになってるのだから、
開城交渉に武田の駿河を口約束に使うのは別にいいだろう。

で、誰が極悪か一番の当事者に判断してもらえば一番分かりやすいのだが、
今川氏真が掛川開城後北条に渡ってから徳川に行って今川衆を率いて武田と戦ってた。
つまり、今川から見ても一番許せないのは武田。
0130人間七七四年2008/02/20(水) 23:11:06ID:cWkoaBKY
>>127
なるほど。確かに盟約破りをされたまま泣き寝入りするのは非常にまずそうだね。
他にも詳しい人いたら>>125への回答お願いします。

>>128
>あーいや、ここの流れだけどうも皆ちがうんだ。
>何度もいうが掛川交渉は徳川の対武田の外交じゃないんだよ。
>武田の駿河をダシにした自己勢力拡大の交渉。
今川の残党を武田にぶつけようとしたのは武田に対する対策でもあるでしょ。
そもそも武田が盟約を破らなければこの様な交渉もなかったのでは?
そりゃあ勿論掛川での氏真との交渉は勢力拡大が第一だろうけど、
同時に今川残党を使って対武田対策を行ったと考えるべきなんじゃないのか?
0131人間七七四年2008/02/20(水) 23:12:26ID:UidaDws/
>>129
>それの何がいけない?
>武田が遠江に対する野心がすでにむき出しになってるのだから、
>開城交渉に武田の駿河を口約束に使うのは別にいいだろう。

話がずれまくってる。
俺がいつも言っているのは徳川が掛川交渉したのは対武田の外交じゃないと
いう事。その他の問題はまた別の問題だな。流れをちゃんと認識しろといってる。

その氏真にしてみれば徳川は(口約束だけど)駿河に戻してあげるよ〜、とか
言ってるんだから北条に放逐された身としては身を寄せるしかないだろ。
結局家康も氏真に駿河なんて返さなかったのを忘れたか。
0132人間七七四年2008/02/20(水) 23:16:53ID:UidaDws/
>>130
さてどうだかね。
今川残党はもともと駿河において残ってるものは残って武田に抵抗してる。
そんでこの時駿河を放逐された今川氏真はそのまま北条に身を寄せ、
さらには北条において氏真は駿河の継承権を北条に譲る事を約束させられている。
もし徳川のいう事とはまるで違った形に氏真も北条も動いている。
徳川もそんな後の事まで期待してたかどうか。
0133人間七七四年2008/02/20(水) 23:16:55ID:O6f9NGt9
>>131
>俺がいつも言っているのは徳川が掛川交渉したのは対武田の外交じゃないと
だから対武田外交じゃないのって何が悪い?
徳川が掛川を落してはいけない?今川の心証を良くすれば対武田で共同戦線組めるかもしれないのに?
実際氏真が徳川で城主になって武田と戦った。

>結局家康も氏真に駿河なんて返さなかったのを忘れたか。
家康が駿河を手に入れたのは1582年武田征伐のあと。
そん時氏真が何してたのか調べてみろ。
0134人間七七四年2008/02/20(水) 23:21:59ID:UidaDws/
>>133
だからまずは認識のずれを修正しろと言ってる。
それがずれると話がいつも食い違う。
今川氏真が徳川に身を寄せたのがいつだと思ってる。
まず氏真は北条に身を寄せて北条に駿河を譲ることを約束させられた。
それにもかかわらず北条と武田が再同盟してしまうと居場所がなくなって
出ざるをえなくなり前に口約束をしてた徳川に身を寄せた。
氏真は本来徳川に身を寄せたくて寄せたわけじゃないんだよ。

京都にいたな。その気になれば呼び戻して還俗させ駿河に戻してやることもできたな。
でも家康はしなかった。つまりはそういうことだ。
0135人間七七四年2008/02/20(水) 23:25:22ID:O6f9NGt9
>>134
>でも家康はしなかった。つまりはそういうことだ。
氏真本人がその気がなかったはずだが?
氏真は京で僧になって公家と交流して文化人の生活に満足してたんだぞ。
そもそも京での生活を家康が援助してた。
一方同盟国を裏切りまくった武田は滅んだ、最後は重臣一族に尽く裏切られての滅亡。
つまりそういうこと。
0136人間七七四年2008/02/20(水) 23:30:48ID:UidaDws/
>>135
最後の2行の文章にまるで話の関連性がないな。無駄なあおりはやめておけい。

満足してたかどうかなんてわからんさ。機会があればもう一度駿河を持ちたい
気持ちはあったろうさ。でも徳川にしてみれば新しく得た駿河という大国を
いきなり氏真に丸ごとやるなんて出来るわけない。戦功あった家臣にやらないとな。
もともと約束実行が無理になるのは家康だって承知の上だったろうさ。
駿河丸ごとやることに比べれば氏真私人の京都での生活援助くらい安いもんだったろうさ。
0137人間七七四年2008/02/20(水) 23:38:45ID:O6f9NGt9
>>136
だから今川残党を対武田に使うための口実だから別にいいじゃない?
氏真を城主にしたし、城主やめて京に行った後も援助してたし、
関ヶ原のあと子孫と一緒に高家という身分にして今川家を守った。
戦国で旧主にここまでする方が珍しいぞ。
で、領民に重税をかけて、国が富むほど周辺国を略奪して同盟国を裏切りまくった
武田はどういう結末だったのかを見れば、
どれほど信用されないものなのかわかるはず。
0138人間七七四年2008/02/20(水) 23:49:30ID:UidaDws/
>>137
最初は今川の心証をよくして云々といってたのにそれかい。
今川残党を対武田云々というのは>>132にも挙げたけどその効果はかなり
怪しいぞ。
元々駿河の今川残党はそのまま武田に抵抗してるし、掛川追放された氏真は
北条に身を寄せて北条に駿河譲る約束させられているし、と家康の言ったのとは
まるで違った形に動いてる。家康もそこまで期待なんかしてないと思うが。

もと勢力の主である程度の血筋を持つものを保護するのは結構よくある事でもある。
後々そのコネクションがつかえる可能性があるから。
上杉とかそういった他国亡命者を重臣とかにしてるだろ。武田も真田とか使ってる。
徳川にしてみれば駿河の代わりと思えば生活援助は安いもんだし、今川の血筋を大切に
していることを示すのは駿河支配においても悪くない。

で、最後の3行は例によって関連性がない。武田の同盟国裏切りも戦国時代というのを
考慮すればよくある例の一つにすぎないんだが。重税も略奪も。
それで生き残った大名家も結構ある。武田が滅んだのはその他の諸要素の複合。
信用云々だけで戦国勢力が滅びるもんじゃないよ。
0139人間七七四年2008/02/20(水) 23:56:22ID:O6f9NGt9
>>138
>勢力の主である程度の血筋を持つものを保護するのは結構よくある事でもある。
よくあることだし駿河支配にいいならなぜ武田にそれができない?
徳川が駿河を手に入れたのは信長の武田征伐によるものであって氏真の功績ではないし、
建前上信長から拝領したものだから氏真に駿河を与えるのが筋違い。
それでも氏真を援助し続けた。
戦国で旧主が利用価値を失っても見捨てずに援助し続ける大名がどれだけいるか調べてみれば?

で、最後の3行だけどスレタイに沿ったものだから無関係ではない。
「武田が滅亡した理由は信玄の悪行」スレである以上、
同盟国を裏切ったり信用をなくしたことが武田の滅亡の主因と書いてて当たり前。

キミと違って武田厨でもマンセーでもないから。
0140人間七七四年2008/02/21(木) 00:04:03ID:ZehnsOCS
>>139
その勢力の主と自分の勢力が衝突しなければ優遇しない事もないんだが。
武田の場合はもろに被っちゃってるからな。

そう、結局の所、今川氏真を駿河の太守に戻すのはどうやっても不可能なんだよ。
信長云々が無くて徳川の独力で切り取ったとしても領土は手柄のあった家臣にわけねばならない。
家康が氏真にやった約束は結局の所実現不可能な自己勢力拡大のための方便に過ぎなかった。

そもそも旧主がいろいろあって出戻りするなんて事態がそもそも珍しいからな。
駿河統治における徳川のアピールとしては氏真保護は悪くないといってるでしょ。
利用価値がないわけじゃないんだよ。

無関係だね。この議論においては。スレタイも間違ってるし。
信用云々だけで戦国勢力が滅びるわけじゃないと言ってるでしょ。
この議論が終わった後で話す話題だと思うが。
0141人間七七四年2008/02/21(木) 00:06:38ID:EasfvWop
>>140
>無関係だね。この議論においては。スレタイも間違ってるし。
よく読め、スレタイは「武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2」。
気に食わないなら上洛スレに戻れば?
0142人間七七四年2008/02/21(木) 00:08:22ID:ZehnsOCS
>>141
なんで上洛スレなのかよくわからないが。

今話されているのは1568年から1571年までにかけての
今川関連の話だろ?正直それとは筋違いな話だと思うが。
0143人間七七四年2008/02/21(木) 00:18:00ID:lIdVsuZk
何か進んでるなーと思えば、二人でヒートアップしてたのか。
まあ、おちつけ。
0144人間七七四年2008/02/21(木) 00:22:42ID:0uBdkmyN
同盟国に対して、一方的に違約して攻め入ったというのは十分に背信行為と言え
それに対して謝罪をするというのであれば言葉だけで謝罪をして良しとするのではなく
謝罪の意を述べた上で責任を取るところまでして初めて謝罪したと言えるのではないでしょうか?

秋山の遠州侵入については、
(1)秋山の切腹
(2)領土の割譲
(3)金品による賠償
この3つのうちの一つを実行してこそ、「謝罪した」と言えると思います。

(1)と(2)については実行していないことは明白ですが、
(3)について信玄は実行したのでしょうか?
もし金品による賠償もしていたのであれば、きちんと責任を持って謝罪したといえて
その後の家康の今川との駿河割譲策は家康の領土拡張の野望によるものと解せられ信玄の責任はないことになりますが
金品による賠償もなしに書状でだけ謝罪したのであれば、言葉でだけ謝ってみせて違約の責任は取っていないことになり
家康が信玄に不信を抱いて駿河を今川と取引して武田と事を構えたとしても
無理からぬことと考えます。
すると、信玄が家康への信頼回復を怠ったために家康を決定的に敵に追いやったこととなり
あわせて信長への警戒心を煽ったということになり、信玄の失策だったということになろうかと思います。

不勉強にて、私は信玄が家康に金品での賠償をしたという記録を見つけることができなかったのですが
その点について史料があるのでしょうか?
0145人間七七四年2008/02/21(木) 00:27:18ID:ZehnsOCS
>>144
正直な話、戦国時代においてそういう形で謝罪を表す例を私は知りません。
ましてその時その人物の領土でなかった場所での衝突において。
あなたの謝罪の例や違約責任の例はどうも近代民主国家の賠償事例について
語っているように見えるのは気のせいでしょうか。
0146人間七七四年2008/02/21(木) 00:32:42ID:EasfvWop
>>145
戦国時代でも責任者の切腹か処罰、謹慎を持って謝罪とする。
金品の補償も領土の割譲(城の譲渡)も前例がある。
0147人間七七四年2008/02/21(木) 00:35:49ID:ZehnsOCS
>>146
例を挙げてみてくれい。
それがこの時の事例に該当するのかどうかを検証しましょ。
0148人間七七四年2008/02/21(木) 00:41:30ID:EasfvWop
>>147
信玄が主張したように秋山が勝手に動いたとすれば、
秋山は軍令違反となり最低限謹慎以上の処分を受けなければいけないが、
それがない以上当主の黙認による軍事行動になる。

あと、このスレは「1568年から1571年までにかけての今川関連の話」
ではなく、武田滅亡の理由は信玄にあるかどうかを討論するスレ。
勝手に決め付けてはいかん。
0149人間七七四年2008/02/21(木) 00:43:29ID:ZehnsOCS
>>148
おーい、例を挙げてみてくれというたんじゃが。

でも実際のところ「1568年から1571年までにかけての今川関連の話」
になってしまっているわけで。
本来これは武田の滅亡がどうとかの問題とは関連しない議論な気もするが。
0150人間七七四年2008/02/21(木) 00:44:02ID:0uBdkmyN
私が知っている事例では、福島正則が家臣が徳川家の足軽に侮辱されて
自害した時に、その上司である旗本・伊奈図書の切腹を正則が要求したという
事件があります。
また、信長が同盟者家康の高天神城の救援に間に合わず、金品をもって償ったという
事例がありますね。

ちょっと、今回の事例に当てはまるかどうかは自信ないですけど、戦国気風のなかにそのような風習があったものと理解しているところです。
0151人間七七四年2008/02/21(木) 00:52:05ID:ZehnsOCS
>>150
福島の話はもはや治国の時代になってからのような気がするが。
独立勢力があい争う戦国真っ只中とは違うような。
治国の代において各勢力がまとまって秩序を守る事が必要な時代には
基本的に勢力内部の争いを収める喧嘩両成敗の原理も通用しそうですが
戦国時代に独立勢力同士でそういうのあるのだろうか。あったら戦国時代じゃ
ないような気もするが。

信長の徳川への金品贈答は援軍出せなかった事で高天神が攻略されて押され気味の徳川に
これを送るから軍資金にして頑張ってという意味だったような。
0152人間七七四年2008/02/21(木) 01:00:03ID:EasfvWop
>>149
甲陽軍鑑では対上杉、北条和睦のために典厩と梅雪の切腹と領地の割譲を高坂が提案した。
この時代では関係修復のために責任者の切腹は当たり前。
そもそも秋山は軍令違反なのに謹慎すら命じられないじゃ建前だけの謝罪であることは明白。
こんな三文芝居にだまされる大名はいない。
あと、スレ違いという自覚があればそろそろやめたら?
0153人間七七四年2008/02/21(木) 01:03:36ID:ZehnsOCS
>>152
でも実際切ってないでしょ。現実には。
梅雪も典廚も最後があれだから軍鑑は描写が冷たいんだ、これが。
そんで切らずとも上杉との和睦はうまく言ってたような気もするが。

やめたいのだけどねえ。これを理由にしていわれなき武田叩きが入るのでは
こちらもついついレスが……。
0154人間七七四年2008/02/21(木) 01:04:49ID:0uBdkmyN
福島の話は関が原の前哨戦の岐阜上陥落直後の話であり、治国の時代ではいのではないでしょうか。
0155人間七七四年2008/02/21(木) 01:09:49ID:ZehnsOCS
>>154
豊臣が一旦天下を治めてしまった後では基本的に治国の意識が発生してます。
惣無事令とかありますね。
関ヶ原も戦国乱世の独立勢力同士の離合衆参というよりは豊臣家という傘のもとでの
主導権争いという気分が結構あります。
0156人間七七四年2008/02/21(木) 01:10:30ID:EasfvWop
>>153
結局キミがしたのは武田擁護だけだろう。
そんなの最初からわかってる。
オレも武田が好きだし叩きたいわけでもなく、
なぜ失敗をしたかレスしたかだけだろう。
このスレでも「武田家滅亡の理由」だから、そこで武田の失敗を言って何もおかしくない。
そこを「叩き」ととらえるのはキミの思い込みの激しさから来た勘違いだけだろう。
0157人間七七四年2008/02/21(木) 01:11:44ID:EasfvWop
>>153
あと、実際切ってないから上杉との和睦が景勝の代になるまで実現しなかったんだろう。
肝心なところをわざとスルーするでない。
0158人間七七四年2008/02/21(木) 01:17:03ID:ZehnsOCS
>>156
いや、失敗なら失敗でいいんだが
どうも妙な方向で叩かれているというか。
ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろうか。

>>157
いや、違うのだ。謙信との和睦がならなかったのは
北条と上杉がそれぞれを拒否したからだ。書状もある。
武田はこの3者同盟を受け入れたいと言っている。
0159人間七七四年2008/02/21(木) 01:19:36ID:0uBdkmyN
清水宗治の切腹と土地の割譲も、敵対した人物に対する当然の処置と言えそうですが
同盟中敵対行為をとった秋山も敵対者として責任をとって切腹なりの処置があってもいいのではないですか?

>152さんの件についても、典厩と梅雪の切腹と領地の割譲を高坂が提案したという事実が挙げられており、
たとえそれが実現しなかったにせよ、真の和睦のためにはココまでしなければいけないという当時の基準だったと見做すことも
できます。
0160人間七七四年2008/02/21(木) 01:24:55ID:EasfvWop
>>158
だから切ってないからだろう。
話をループさせるなよ。

>ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろう
それならやめればいいだろう?
過去レス読んでわかったけど、そもそも話の発端は「武田家が東に行くべき」
というカキコに対してキミが「武田家に対して領土的野心を持つ徳川家が悪いから」
と時系列をごちゃにした意味不明な発言から始まったんだろう。
キミが意味不明な擁護をしなければ今川の話が出なかった。
スレ本題の武田家滅亡の原因に戻ればいいじゃん。
0161人間七七四年2008/02/21(木) 01:27:21ID:ZehnsOCS
>>159
清水宗治の切腹と土地割譲は数年にわたって相争い
食うか食われるかの状況で瀬戸際まで迫った毛利と織田における最終局面での
和睦策。実質的に敗北していた毛利の降伏に近い。
それでも毛利は最後まで清水の切腹を拒否していた。
武田と徳川の局面はここまでいってるのだろうか。

いや、その典厩と梅雪の切腹と割譲に関してもかなり眉唾。
実際は謙信は「勝頼となら和睦してもいいけど北条とは絶対いやだ。」といい
北条も「この三者和睦を妨げているのは上杉だ。」として拒否してる。
こういう背景の下にこの三者和睦は成立しなかったわけで。
当時の武田はぜひともこの三者和睦を結びたかったみたいだがこういうわけだった。
典厩も梅雪も最後がアレだから軍鑑はかなり筆が辛い。
0162人間七七四年2008/02/21(木) 01:31:30ID:ZehnsOCS
>>160
その北条上杉武田の三者和睦については>>161を参照の事。

東に行くべきゆうてもそもそもあの当時は信長の畿内覇権確立が迫りつつ
あったので東に傾いてる場合じゃないんだが。
実際北条との戦いが済んだらさっさと総力をあげての織田徳川戦にむかったわけだし。
そんで徳川に対してがどうので駄目だったみたいな言い方をされていや武田にもそれなりの
事情がですねえryという話になったわけで。
まあ明日があるので今日はもう寝るわ。
0163人間七七四年2008/02/21(木) 01:31:45ID:EasfvWop
>>161
だから、成立かどうかは別として当時の価値観では一度敵対したら
和睦するのに責任者の処罰が必要だということだろう。
それ以上話をずらさないでくれ。
キミの話はいつもこう言ってはああだと、脇道に逸れてはループ。
一個のテーマに絞って話せ。

キミが要求した「戦国時代の和睦に対する条件」は例として存在してるからそれでいいだろう。
成立しなくても結局「和睦するならそれをやらなければ」というのは当時の人間の価値観だから。
0164人間七七四年2008/02/21(木) 01:35:50ID:0uBdkmyN
私は今川関係の話は十分に武田滅亡の原因だと思いますよ。
同盟していた家康に背信行為をして不信感を持たせて敵対に追いやってしまったために
背後の信長も信玄に警戒心を抱かせることになった。
そして武田滅亡はほぼ織田・徳川家二家による侵攻により滅び去った。(北条はたいした働きはしなかったし)
この二家との信頼関係をきちんと結べなかったのは、遠州侵略が深因でしょう。
0165人間七七四年2008/02/21(木) 01:36:12ID:ZehnsOCS
>>163
ちょっと待て。
本当に人のレスを読んでいるのか?
甲陽軍鑑は典厩と梅雪に辛いことはわかっているだろう。
そして成立がどうとかの問題に関してもこの両者がぶっちゃけ関係あったか
わからないといっている。
そんな事関係なしに上杉と北条が和睦を拒否してるのだから。
そんでただでさえ筆がこの二人には辛い軍鑑が香坂に切ってしまえ発言させてないと
何故いえる。
0166人間七七四年2008/02/21(木) 01:42:49ID:ZehnsOCS
>>164
いや、ぶっちゃけ織田が武田を生かしておいてくれるかなんて
正直わからんわけで。巨大大名の存在なんて大抵肯定されないんもんだ。
無茶言われて唯々諾々と従えば家中崩壊でもあるから。
だから武田は織田の畿内覇権が確立する前に戦いを挑むしかなかった。
0167人間七七四年2008/02/21(木) 01:47:36ID:EasfvWop
>>165
だから「和睦するなら責任者の切腹」という条件が出てんだろう。
甲陽軍鑑にかぎらず、戦国期では敵対したもの同士の和睦の条件で一番よくあげられるのは
「城主の切腹」「城の明け渡し」の二つ。
これに関してほぼ常識だから知らないなら自分で勉強しろ。

武田の遠州侵攻は辺境の村を略奪したという簡単なものではなく、
徳川本隊のいる掛川と本拠地の三河との連絡を切断するように重臣が軍を率いて見附を占領した。
さらに掛川の出陣は武田の要請によるもの、
徳川が掛川に出陣したわずか数日後秋山が徳川側の見附を占領。
これはどう考えても立派な敵対行為。
キミが「信玄が謝罪したからいいじゃん」と軽く言うが、
信長が和睦調停に乗り出すほど両者の関係が緊張してた。
普通なら「当主の命令なく無断で侵攻した秋山は軍令違反により切腹か謹慎」
は筋なのに、手紙一通にお茶を濁したから不信感が増大した。
武田家では当主に無断で軍を動かしたほどの軍令違反が処罰されないことはありえんし、
他家でもあり得ないから、同盟破りの侵攻→お茶濁し程度の謝罪が徳川を反武田に追い込んだ。

以上はこれまでさんざん言われたこと、これ以上話をループさせるな。
0168人間七七四年2008/02/21(木) 02:02:51ID:ZehnsOCS
>>167
城の明け渡しとかは完全な敵対状態だぞ。何年も争った。
たった数日ですぐに謝って兵をひかせてそれとはちょいと
急激にすぎる気もするがね。
0169人間七七四年2008/02/21(木) 02:04:02ID:ZehnsOCS
まあ寝る。
0170人間七七四年2008/02/21(木) 02:08:06ID:EasfvWop
>>168
家康を誘いだしてから遠州の奥深くまで進行して、
徳川側の城を占拠して家康と岡崎の連絡を絶つ。
完全に敵対状態だろう。
兵が小競り合いするわけじゃないからそこは理解しろ。
あと引いたというが、武田にとって予想外の家康の反応と情勢が悪化したから兵を引いたんだろう。
それもお茶濁し程度の手紙一枚の謝罪。

これらもすでに言われてること。
もう一度言う、話をループさせるな。
0171人間七七四年2008/02/21(木) 02:58:13ID:tGTEmqmP
最初は今川はほぼ無力化したのでこれを機についでに徳川にも攻撃かけようとして、
罠にかけて不意打ちしたまではよかったけど、
徳川が意外と強かったことと、駿河情勢も怪しくなった上に北条が敵対したので
諦めて兵を引いたってことかな。

徳川の掛川開城における氏真との交渉や北条との交渉は単に武田と敵対しているからでは、
でも家康はその後は信玄の要請による信長の仲介を受けて、
武田の危機的な状況時に武田の弱みに付け込むようなことはせずに対武田には参戦しないで、
専守防衛に徹している感じがする。
0172人間七七四年2008/02/21(木) 16:08:20ID:tDhNEfbM
徳川を攻めるだけではなく武力によって遠江占領の既成事実化の狙いもあったんだろう
秋山が見附を占領して見附から大井川までの遠江の大半を武田領として確保
徳川に対して掛川攻めを要請して出て来た所、見附を占領して徳川の退路を断って城下の盟を強要する
もし従わなければ駿河にいる本隊と挟み撃ちにして徳川を葬り去るという構想だったんだろう
駿河情勢の悪化と北条の態度硬化(駿河侵入と同時に北条が武田と絶縁)によって駿河の武田本隊が逆に徳川、北条、今川に挟み撃ちされかねないから一旦引く
で、秋山が敵地で孤立した形になって長く見附を維持できないから見附も徳川に明け渡す(返還する)、ということだったんだろう
徳川、北条を読み切れなかったのが失敗の原因だが、その近視的な戦略が武田を滅ぼす最大の原因
もし義信の構想通り三国同盟を堅持して信長と同盟せず美濃へ侵攻したら、信長の飛躍的な成長はなく武田も信長に滅ぼされる事無かった
0173人間七七四年2008/02/21(木) 20:38:26ID:Msy+UBMi
>>126
12月12日北条氏政小田原出陣、沼津着 ←静岡県史だから信憑性は微妙 
駿東郡八幡郷に禁制
12月13日蒲原城に北条氏信『地方史静岡22』
12月15日北条氏規沼津の竜雲寺に禁制 秋山遠江進入
12月16日氏規富士郡に禁制
12月19日氏政、大宮城の富士に感状
12月18日の段階で既に北条は行動している

>>125
>第一北条が全力で入ってこれるかは別問題。北条が上杉に対して利権の多くを譲る決断を
>するのはまだ先の事。
敵対して全力で武田に向かえる状態ではないとはいえ既に北条が武田に対して行動しはじめているのに
その上徳川とも敵対するわけにはいかないだろう、武田としては駿河の方が優先だし
だから信玄が謝罪して兵を引かせ、信長を通じて徳川に明確な敵対行動を取らせないようにして
北条の問題を片付けて後に全力で徳川に向かったのは正しい判断
この機会を活かせなかった徳川は戦国大名としては甘い気もする、
徳川としては織田との関係もあるから仕方が無かったのかもしれないけど

>>147
秀吉の北条征伐のきっかけとか考えれば検証するまでも無いと思うが
逆に問うがいきなり同盟破って侵攻してきて侵攻側の都合が悪くなったので謝罪しました
そして元のような同盟関係でいられるって例は存在するのか?
人質とかもださないで
しかも国境でのちょっとした利権争いとかじゃなくて、武田の場合は完全に軍事行動だしな
金ヶ崎直後に浅井が謝罪していれば謝罪だけで許されていただろうか?武田はそれぐらいの行動してると思う

それ以前に一方的にいきなり同盟破って攻めこんだら、ほとんどの場合そのまま敵対し続けるか、
情勢が変化するまで敵対し続けるような気がするが

>>158
叩かれるというか、単に事実を言われてるだけ、
単にあなたが異常に武田を擁護しようとするからこんな風になってるだけだと思う

>>162
当時の価値観としての話として軍艦の例を挙げているのに
そんなこと言っても見当違いなだけじゃ
つか人にレス読んだのかという前に少し落ち着いて話の流れを読んでレスしたほうが
武田を批判されると流れ無視してレスの一部に対して条件反射でレスしているように感じられる
だから回りの人間にはあなたが話を逸らしまくっているように感じられちゃうんじゃ
0174人間七七四年2008/02/22(金) 04:14:08ID:25Cav3Bi
武田に関しては織田方との婚姻もあった
まぁ既に遠山夫人は亡くなっていたが遠山夫人の産んだ勝頼嫡男(後の信勝)は存在してるから無碍にもできないだろう
武田将来の当主の可能性のある人物が縁戚関係にある織田とその同盟である徳川は武田に対して攻勢に出づらいって面もやはり存在する
この面は外交的信用の関係になってくるから家康の判断は間違いないと思うが?
0175人間七七四年2008/02/22(金) 12:55:57ID:7M+aiNoS
外交を取るか直接的な利益を取るかだな

ただこういった盟約破りの不意打ちは初動で上手くいけばいいけど失敗すれば大変だと思う
毛利は陶裏切った時は即座に動いて安芸をほぼ制圧して体勢整えることに成功
浅井は織田裏切った時は失敗してジリ貧ってなったし
0176人間七七四年2008/02/22(金) 16:01:05ID:9vwB/sa7
毛利の場合も陶が部下の進言を受け入れて厳島にいかなかったら終わってたぞ
0177人間七七四年2008/02/22(金) 19:34:54ID:fVHbQOzR
それでも元就なら…元就ならきっと何とかしてくれる…


いや、実際問題、厳島への誘導という策略が失敗したら次の策を用意するだけだろう、元就は
0178人間七七四年2008/02/22(金) 19:58:22ID:3s2im/s+
厳島での勝利というウルトラCを成し遂げたからこその毛利元就
成功してる人間の「もし失敗していたら」という妄想はイマイチ面白くないな
その逆じゃないと夢がない

ちなみに元就の厳島誘導は陶の内部分裂を画策した上での成功なんだから
運というよりも実力の結果
あまりIFの対象にはならない
0179人間七七四年2008/02/22(金) 21:15:20ID:xMxdtSQI
また逃げたな、不当な武田叩きは許しません!の彼
0180人間七七四年2008/02/23(土) 03:19:43ID:RDymhVlh
いつものことだ。
超理論展開した挙句に、不利になると不当な武田叩きはとかスレ違いなどと突然言い出し、
周りに自分の方が正当と思わせようとイメージ戦略展開してそれも駄目だと散々煽って立ち去る。

無理に武田を擁護しようとしなければ知識はあるんだから板的に有用な人間になるだろうに。
0181人間七七四年2008/02/24(日) 09:23:12ID:3vimArac
知識が偏ってる上に中途半端な件はスルーなんだろうか
まぁ無理に武田を擁護しようとしてるからこうなるんだろうが…
0182人間七七四年2008/02/25(月) 21:31:22ID:SW2IXP8h
上で挙げた毛利の例は厳島じゃなくてその前段階
1554年春に陶が石見に攻めこんで吉見と戦っていた時に突如裏切ったこと
毛利は5月に裏切ると陶が動けない隙に、安芸国内の大内方の諸城
銀山城己斐城草津城桜尾城仁保城を5月中に落として、更に厳島を占拠して
門山城を落として能美島占拠して、折敷畑で迎撃に成功すると
翌年には安芸の南東部の保木城丸屋城を落として、安芸の大半を制圧して
どうにか大内が本格侵攻するまでに、大内とどうにか少しは戦えるような状況にまで持っていった

まあ結果は厳島での鮮やか過ぎるほどの大勝利なため
その前段階での裏切ってからの一年ほどの行動もまた凄いことなのにあまり目立たない
0183人間七七四年2008/02/25(月) 23:53:58ID:lqODLoOA
信長の桶狭間も日頃から善政を敷いていたお陰で領民に慕われ
その協力があったからこそ、という意見もあるしな。
一見、奇跡のように思える大勝利にも、当然のように
要因となった努力の細かい積み重ねがある訳だ。
0184人間七七四年2008/02/26(火) 01:12:36ID:EOcYsqvt
信玄も上田原で大勝していれば……

0185人間七七四年2008/02/26(火) 02:11:53ID:/njrzkH2
上田原って…大軍で寡兵の豪族を攻めた、言っちゃ悪いが九割方武田が勝てたはずの戦じゃねーか
せめて北条相手に勝って小田原制圧とかやらかしてくれたら良かったんだけどな
信玄が織田信長や毛利元就くらいの戦の天才だったら、関東進出も成功してたかもしんない

でも逆に言えば、危なっかしく思える自転車操業ながらも信玄は上手に敵を選んでいたと思う
今川義元に滅ぼされる事もなく(半分以上親父のお陰だけど)、豪族を潰していって着々と領土拡大
なんせ唯一勝った国持ち大名が、今川氏真だってんだから徹底してるよ、これは凄い
謙信や氏康と団栗の背比べして延々消耗戦やらかした辺り、大局的な視野には乏しかったんだろうけど
なんというか、悪党として獲物を選ぶ眼があった、とでもいうべきかな
勝てなかったけど負けなかったし

結局、信玄の本質って戦に強い名将ではなく、謀略で相手の裏をかく策士だったから
その軋みが出たんだろうねぇ。信玄のやり方ゆえに領土が増えて、それゆえに滅んだ
0186人間七七四年2008/02/26(火) 02:30:59ID:xPqVLn4m
最後の最後で織田を裏切って自滅しちゃったから
とても獲物を選ぶ眼があったとは思えんw

>上田原
信玄は自分より兵力が上の相手に勝った事が一度もないもんだから
信玄厨はしばしば、大軍で負ける方が無能なだけと抜かすが
当の信玄が聞いたら耳が痛くて仕方ないだろう
首を取られずに負傷で済んだから良かったものを
まだ若かったから、あんな酷い大敗を喫しても仕方ないってんなら
大軍に負けた家康、長野業盛、今川氏真、全員が信玄より遥かに若い青二才だ
0187人間七七四年2008/02/26(火) 05:55:52ID:NGxLvygM
織田を裏切ったのと武田が滅んだのは単なる結果論でしかなく
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性もあるわけだが
0188人間七七四年2008/02/26(火) 13:05:38ID:/njrzkH2
そりゃー可能性の話になったら殆ど何でもありだよ
信長なんて稲生合戦の時点で、普通なら勝てずに死んでたかも知れんし
勝頼が長篠で信長の首を取れた可能性だってあるかも知れない

でも実際に織田の手によって武田は滅ばされた訳で
その原因が信長を激怒させた信玄の裏切りにあるのではないか
と言及されるのは自然な事だろう
>>獲物を選ぶ眼
俺個人としては、信玄は晩年も信長に対してはあくまで腰の低い手紙を送り続けているし
織田が朝倉と争ってる隙に火事場泥棒的に徳川領を頂いて、事が済んだら織田には頭下げて再び同盟結ぶ気だったんじゃないかなぁ
と推測してたりする。旧今川領争奪から始まる「徳川家」との争いであって大恩ある織田と反目する気はなし、としてね
その辺は信長って意外と甘い奴で、裏切って自軍に歯向かった相手でも謝ってきたら許したりしてるし
まぁ残ってる書状の信長の激怒っぷりから察するに、実際にそうして成功したかどうかは分からんけど
あの慎重な戦略家の信玄(既に50の坂を越えて、自分が病弱なのも知っている)が
本気で織田を打倒して上洛を考えていた、なんてロマン溢れる説よりは現実的じゃないか
0189人間七七四年2008/02/26(火) 13:52:26ID:kNQKLXpY
いきなり信玄厨とか言い出して悪意丸出しの物言いに終始する>>186に失笑
もっと冷静になってから書き込めばよかろうに
0190人間七七四年2008/02/26(火) 14:00:25ID:kyYnyhbT
>>189
事実だからしょうがない。
信玄は孫子の信条通り、確実に勝てる相手としか戦わないから弱小勢力を潰しながら大きくなったのだが、
周りが大勢力ばかりになると損するタイプ。
大局を見る目がないというか戦略眼がないというか、目先の利益だけで動いてたとしか見えん。
0191人間七七四年2008/02/26(火) 14:27:28ID:/njrzkH2
その辺は正直、甲斐という殆ど商人すら訪れない山奥の田舎で生まれ育っちゃった弊害もあると思うよ
あと、戦国大名として出発した時点で恵まれた環境にあり
常に自分より弱い豪族らと戦い続けた事が、結果的に信玄の用兵家としての成長を妨げたのかも知れない
(勿論、信長や元就なんて天才レベルは初陣や若い頃の戦功も半端ないと承知の上で)
終生、自分と兵力・国力が同程度以上の相手には勝つ事が出来ず、行き詰まりを迎えてしまった
用兵が全てではないが、少なくとも信長や元就のような国力の差を用兵によって覆せる男ではなかった

山賊の英雄が、都会の軍人の英雄と戦ってしまった悲劇、という表現はしっくり来る
ある意味、信玄は充分に優秀で、優秀すぎて
それまでの自分のやり方が通じない程に強大な相手と戦うまでに成長してしまった事に悲劇性があるのだと思う
0192人間七七四年2008/02/26(火) 14:52:46ID:xPqVLn4m
ちと美化しすぎな気もするが概ね同意
信玄も優秀だから戦術が中の上レベルだったり晩年に失態多いのを残念がられるんであって
局地的な戦略眼や内政手腕は一流の英雄
思えば信虎も、信玄とは逆に閉鎖的な甲斐において近代的な改革を押し進め権力集中を図った結果、家臣に追放されたし
勝頼も含めて不遇な一族だよな

>189
不当な武田叩きをしてしまってサーセンw
0193人間七七四年2008/02/26(火) 17:14:29ID:XRtK2KkU
>>190
お前も>>189様に謝っといたほうがいいぞ
不当な武田たたきしちゃったんだから
0194人間七七四年2008/02/26(火) 19:20:23ID:UkewBYl6
織田を裏切ったのと武田が滅んだのは単なる結果論でしかないから
「信長を裏切ったから滅んだ」というのは違うでしょ
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性のほうが確率から言ったら高いでしょ
信長はたまたま運良く宝くじに当たったようなもんでしょ
0195人間七七四年2008/02/26(火) 19:27:37ID:kS2Q/wAo
>>188
信長はまあそれなりに苦境に立っていたし、少しでも敵を減らして北近江戦線に集中したいだろうから
一時的な再同盟なら結ぶかもね。
ただし、織田の天下が安定期になったら武田家は冷遇されること間違い無しだろうな。
(それまで武田家が存続できていたらだが)
ただ単に徳川領に侵攻した程度なら頑張り次第で信頼を多少回復できるかもしれないが、
岩村城でのやらかしで信長の怒りを沈静化することは不可能フラグたっちまったんだよなあw
>>188のレスでもあるように信長は敵に対しても意外と甘い。
しかしそれ以上に血族に対して甘く、秋山が信長の叔母に当たる遠山夫人を強奪されて怒りはMAX寸前。
更に追い討ちをかけるように息子の坊丸(勝長)を拉致で怒りゲージが計測不能なまでに上昇でオワタ・・・
もし、最初から再同盟を考えていたのなら岩村城での行動は短絡的な行動なんだよなあ。
まあ息子を人質程度ならどうにか怒りの矛先を収めることも可能かもしれないが、
未亡人を強奪という織田家一族にとってこの上ない屈辱を与えてしまった行動が余計すぎる。
息子拉致と未亡人強奪しといて「いやこれは徳川との争いで織田さんに対しては反目する気はないっす」て主張はさすがに無理だろうな。
0196人間七七四年2008/02/26(火) 19:34:49ID:kS2Q/wAo
>>195の続き。
岩村城での件は秋山の独断だと釈明して秋山に腹切らせて有耶無耶にって手段もあるけど、
これだと秋山の与力の晴近衆や他の家臣たちの不信を増長させてしまい将来的な禍根になりかねないね。
もし将来的に織田家と衝突した際に離反者を出しかねない。
やっぱり秋山の独断でしたというのも厳しいな。
0197人間七七四年2008/02/26(火) 21:57:14ID:/njrzkH2
>>岩村城での件
あ、その件に関しては秋山の暴走として…とレスしようと思ってたのに先手を打って釘を刺されたね
まぁ信玄の目的は徳川領のみ、という説はあくまで俺の考えに過ぎないんで
他の人が受け入れられなくてもしょうがない。それが当たり前
明確な根拠がある訳ではなく、妄想の域を出ないし
ただ、やはり本気で織田と敵対しようとしていただなんて
それまでの信玄の冷静さを考えると、どうしても違和感がある
自分の死期が近い事を悟っていた、なんて予知能力はないにせよ
年齢と体調を考慮して寿命が少ない事くらいは自覚していただろう
なんせ、信玄がその生涯にわたって切り取った領地の、10倍近くもの国力を持つ織田が相手(単純に石高だけで8倍ほど
しかも信玄の生涯の基本戦略は、常に自分より国力で劣る相手を選ぶ事にあった(上杉や北条も動員兵力では基本的に下
最後の最後で、死期が近く時間が残されてない信玄が、そんな無謀な目標を持っていたとは思えない
耄碌してた可能性も否めないが、上洛だなんて周囲に対するアピールに過ぎず(織田との和睦後の牽制含む
あくまで格下の徳川を、強大な後ろ盾の織田が動けない内に潰して領土を増やすだけのつもりだった
と考えた方が、それまでの信玄の戦略と基本路線が変わらず、受け入れやすい

まぁ俺個人が信玄スキーというか、信虎や勝頼も含めて武田スキーなんで、どうも信玄を過大評価(織田家との敵対は滅亡の主因だからね
してるかも知れんけど、こういう考え方もあるって事で温かい目で見てやって下さい
0198人間七七四年2008/02/26(火) 22:26:25ID:ypnvglW0
>>197
死ぬ前に急に欲が出ておかしくなったんじゃない?
0199人間七七四年2008/02/27(水) 03:33:36ID:GzMG46b/
英雄とは時代を照らすために燃えることを運命づけられた一個の彗星である。
彼が先頭を切って走るその後に新たな世界が広がっていく。
0200人間七七四年2008/03/02(日) 23:05:39ID:y/vYW8ms
織田が京を、武田が関東を制圧説は結構支持するけどな。
三国志に天下三分の計とかあるけど、当時の日本は
頼朝が鎌倉に幕府を立てた、その前に富士川で20万の兵を集めて
兵士を追い払った事、さらに溯ること平将門の反乱があったこと。
という事から天下二分の計のようなものがあったと。

で、信長がどうなるかはわからなかったが。源氏の八幡太郎義家の
子孫である武田氏が関東を制すれば結果、織田がどんなに大きくなろうと
対抗できる”力”を得ることができると考えてたのかもしれない。
(事実、関東で力をつけた家康が天下を取ったわけだし)
信虎時代も武田・上杉氏vs今川・北条氏で戦ってたように。
(関東管領の力が弱ってたのを見定めて)駿河と関東を手にしようと
たくらんでた可能性も否定できない。

で、こっからはおいらの脳内イメージだが。信玄は関東の地を得て
信勝が成人するまで生きる予定だったが。関東制覇がおもいのほか
進まないのと。(氏政がアホだから楽観的だった部分もあるけど。
当時言われてたのが、北条の土地から出て行くものはあったけど、
帰ってくるものもいた。だが、武田の土地から出ていって帰ってくる例は
なしといわれるように領民からすれば北条の方がかなりマシと考えてたから)
あとは信玄自身も死期が近いのを悟っていたからとも

で上洛して勝頼の諏訪家が朝廷よりなんらかの官位を頂いて
武田家よりも諏訪家の方が上の要職につけるか。
仮に上洛できなくても織田の主力部隊との”決戦”を挑み
勝っておけば次世代の勝頼がたとえアホでも簡単に上洛しやすい
環境にしておこうと考えたのかもしれないな。
0201人間七七四年2008/03/03(月) 00:07:03ID:fxOxrR+D
>>200
>源氏の八幡太郎義家の子孫である武田氏
釣りか?武田は新羅三郎義光の子孫
0202人間七七四年2008/03/03(月) 11:35:34ID:yJW+h/P+
甲斐源氏は一度も源氏の本流になったことないぞ。
つーか、義家の嫡男暗殺をかまして関東源氏から総スカンを食らって逃げた義光の子孫が甲斐武田氏だろう。
釣りでなければアホ過ぎ。
0203人間七七四年2008/03/03(月) 18:03:43ID:MyBlvakw
勝頼や氏政をアホ呼ばわりしてるが
目先の領土欲に目が眩んで最悪の裏切りかました挙句に、嫡男死なせた信玄が一番アホと言われてもしゃあないぞ。
駿河侵攻以前の信玄は英雄と呼ぶに相応しいが、晩年の所業はハッキリ言ってフォロー不可能。
0204人間七七四年2008/03/04(火) 14:19:46ID:1SEAYXbA
諏訪は騙し討ち同然だった気が。
0205武田竜芳ってどお?2008/03/12(水) 15:40:14ID:dsPPvJ6V?2BP(1)
大変亀レスですまんが…
秋山の家康占領地侵犯について…一言
「大井川を境に、つまり駿府は武田、遠江は徳川で折半する」
↑これは『三河物語』『甲陽軍艦』などの軍記物にしか載っていません!!
信玄と家康がやり取りした書状を郷土史、
特に『静岡県史』資料編7 中世三などで探してみても見当たりません。
なので、私は遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています。

それを証明できる決定的な書状があります。
それは永禄十二年12月23日付 信玄→家康あて書状「恵林寺文書」です。そこに次のような文章がありますよ。
「…略…(私も)遠江にまかり立ちたいのですが、
(武田に降伏してきた)駿河の諸士たちの仕置きがあるから(←これはウソで実際には北条の援軍が来たから)、
一両日伸ばさざるを得ません。
三日のうちに(遠江に向かって)出陣しますから、
早々に掛川を包囲してください。
かの地で(あなたと)対面することは、
大変めでたいです。
恐々謹言」

信玄は、氏真の首を取るために…
秋山別働隊をあからじめ掛川の背後に動かし、
自分は正面の駿府から攻めるつもりだったのではないでしょうか?
だけど北条の援軍が早く到着したことで、掛川侵攻作戦を中断したんじゃないのかな?
あまりにも急だったので秋山には知らせていなかったんだと思うよ。
0206人間七七四年2008/03/12(水) 19:44:45ID:YB0BPNUn
>>205
「今川領折半密約は信憑性の低い史料にしかないから疑わしい。一次資料を見ればむしろそういった約束はなかったと考えられる。」
という主張でよろしいでしょうか。
だとすれば、この主張には一定の説得力はあると思います。

ただ、だから信玄の行動(秋山の行動)には問題がなかったとはなりません。
理由はあなたが書いてあるとおりです。
>遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています
これが事実だと仮定の上で話を進めますが、これは当然遠江の’今川領’に関することでしょう。
だとしたら、’徳川占領地’は当然に徳川が切り取った、徳川のものです。
それが武田の軍に侵入して攻撃して占領したとなれば、当然、武田の約束違反になります。
つまり「武田が約束を先に破ったから徳川は武田と敵対することにした」というこれまでの
通説は変わりません。あなたの主張によっても、通説は否定されないのです。

「遠江切り取り自由というのは、そこが徳川占領地であっても有効。つまり武田は徳川を攻めても
そこが遠江なら信義に反したことにはならない。逆に徳川には抗議する資格も無い。」
なんて約束が交わされていたというのなら話は別ですがね。しかし、比較すれば弱小とはいえ、
一国を支配する大名である徳川がこんな無茶苦茶な約束をしたとはどう妄想を連ねても考えられません。
0207人間七七四年2008/03/13(木) 21:27:41ID:k3PZUGX+
『三河物語』は軍記物ではなく、一応一次史料ですよ。
徳川贔屓が入っているところもあって、全てを鵜呑みにするのは危険だけれど。
0208人間七七四年2008/03/14(金) 00:01:01ID:L88mvp6D
あいにくと武徳編年集成そのものは読んでいないのだけど、
この中に信玄が家康に陳謝したという手紙が蒐集されていると聞きました。
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようですが、それを覆すほどの論拠がおありなのでしょうか
それがあるなら素直に「川きりは嘘」と認識を改めたいのですが、それなしに「きっと・・・だろう」では研究者の意見に軍配をあげざるを得ないところです。

いかがでしょうか。
0209人間七七四年2008/03/14(金) 00:09:07ID:EFnnA+cN
>>208
その手紙の陳謝は
同盟中ってほどでもないが一応友好関係にあるのに秋山と徳川勢が戦ったことについてであって
徳川の取り分である遠江に侵攻したことについて謝っているわけではない、
と思う

なので必ずしも上の意見と完全に相反するわけではないと思う
0210人間七七四年2008/03/14(金) 11:01:40ID:L88mvp6D
研究者が「武徳編年集成」の書簡を見て、その上で川切りが定説とされている以上、あなたがそれを読みもせずに「戦ったことの謝罪だけだと思う」といっても信憑性がありません。
川切りがなかったと主張するのであれば、「武徳編年集成」を実際に読んで原文掲載のうえで反論しなければ。

また、例え川切りがなかったにしろ、同盟国に戦闘を仕掛けたという時点ですでに手紙による陳謝ではすまない責任問題だと思いますが?
0211人間七七四年2008/03/14(金) 11:37:57ID:d/uHtLy7
>>210
あなたが読んで示してないのに相手には読んで原文を挙げる事を
要求するのはどうかと思われる。
相手に要求する以上まずそちらも原文を挙げて示すべきではなかろうか。
世の中にはいろんな研究者がいる事をお忘れなく。

それから武徳編年集成は江戸時代の1740年に幕臣木村が編纂し
1741年に徳川吉宗に献上した徳川家康を称える為の一代記。
同時代資料でもなく、戦国時代から100年以上経った徳川史観全盛期の頃に
書かれたもので他に同時代資料の裏づけが無い場合は信憑性に疑問を持たれる書物。
0212人間七七四年2008/03/14(金) 12:36:02ID:M6HD4h7N
>>211
キミも信憑性に問題があると思うならその根拠を挙げるべきだろう。

あと、川切りがあろうがなかろうが、徳川に掛川城攻めを要請した時点で
徳川に対して掛川はおまえの切り取り分だと言ってるのと同じ。
しかも徳川に対して2度も掛川攻めを要請しておきながら徳川が出陣して掛川に攻めかかったら、
秋山が徳川の背後に回り徳川の守備隊を排除して見附を強引に占拠。

切り取り自由だとしても同盟国がすでに確保済みのものを攻め落としていいわけがなく、
ましてやこの行動は徳川本隊と岡崎の連絡を絶つこの上ない敵対行為。
例えるなら織田が金ヶ崎攻めの最中に裏切った浅井の行動と同じレベル。

それを「遠江は切り取り自由」「武田は謝罪だけ」と重箱の隅を突っつくような反論で弁護できるほど、
武田の行動は甘くないよ。
それとも武田家では一部将が勝手に軍を動かして同盟国だろうとどこだろうと攻め取れる決まりになってるのか?
普通は勝手に軍を動かしたら謹慎以上の処分だろうに。
0213人間七七四年2008/03/14(金) 12:47:23ID:d/uHtLy7
>>212
2段目以下の事には特に触れていないよ。
ただ武徳編年集成の信憑性の是非について指摘してるだけ。

信憑性に疑問があるという根拠は
>>211に書いてるとおり武徳編年集成自体が戦国時代から100年以上経った
1740年に幕臣によって
徳川家康を称えるために編纂されたものだから。
同時代資料の裏づけが無いなら鵜呑みにするのは危険だよ、と言っている。
0214人間七七四年2008/03/14(金) 12:53:43ID:M6HD4h7N
編纂であって著作ではないから別にいいじゃない?
一次史料の裏付けがあるなら信憑性があるでしょう。
武徳編年集成の記述が一次史料と不一致の部分があるなら信憑性がないかもしれないけど、
そういう論点ならちゃんと不一致の部分を挙げるべき。
あと、一次資料に基づいた編纂史料は価値がないとおしゃるなら、
現在保存されてる一次資料以外の史料はすべてシュッレター行き?
家康をたたえるからって、当時の幕府では盲目な武田マンセーのかなり酷かったと思うけど?
0215人間七七四年2008/03/14(金) 13:01:27ID:d/uHtLy7
>>214
>>205からの流れを見返してほしい。
信玄が家康に謝った手紙が>>205の人は探してみても見つからず、
逆に信玄が家康に遠江でお会いしましょう、と言ってる書状があると述べてる。
それで>>208の人が武徳編年集成にその記述があるらしい、と述べているので
武徳編年集成単独での資料価値について疑問点を指摘したんよ。

それを言ったら甲陽軍鑑とかのほうが武徳よりはるかに成立年代も早いけど
それを同時代資料とつき合わせずに鵜呑みにしていいの?という問題がある。
まして百年以上先では。
0216人間七七四年2008/03/14(金) 13:21:42ID:M6HD4h7N
>>215
なるほど、そういう流れか。
それなら手紙に関する武徳編年集成の記述を検証すればいいだけじゃない?
内容も見ずに信憑性のあるなしを論議するのは不毛だと思う。
甲陽軍鑑だろうと武徳編年集成だろうと内容ではなく編纂された年代だけで信憑性を判断するのはおかしいでしょう。
0217人間七七四年2008/03/14(金) 13:32:31ID:d/uHtLy7
>>216
たいていの傾向として
同時代資料に記述が無いのは信憑性を疑われる。
後世にいろいろ付け加えられるわけだし。
基本的に同時代資料>>>後世の編纂物。
そういう場合はむしろなぜそのように書かねばならなかったのか?
という点を研究されるらしい。

それから>>205の人が無いといっていたのは信玄と家康が今川領土を
大井川でわけあうという書状が無い、という事だった。
それで>>208の人が信玄が家康に謝った記述が武徳にはあるといってた。ごめん。
0218人間七七四年2008/03/14(金) 20:14:32ID:WzheFc5m
>>210
いや孫引きというか引用ではあるが読んだ上での意見なんだが、
それ以前にあなたは何か勘違いしているようだが。

手紙の内容はあくまで徳川と秋山が戦ったことに対しての謝罪であって
何らかの協定を結んでいた文章はあるものの、その書状だけでは
武田と徳川が大井川を境とする協定を結んでいたかまでは分からない。

定説では、何らかの協定=軍鑑などにある大井川での分割協定と考えて、この書状を分割協定の根拠にしているらしいが
何らかの協定が対今川で共闘、領土に関しては切り取り自由という協定だった可能性も無いわけではない

上の信玄が家康に陳謝したという手紙というのでは、
徳川武田間で何らかの協定盟約があったことの証明にはなっても
その協定の内容までも証明する史料ではないということ。

まあその実際の協定が軍鑑などにある大井川での分割以外に有力なのが見つかっていないので、
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようだが。
0219人間七七四年2008/03/15(土) 13:41:48ID:9qg1tX1Y
直接の文書は知りませんが、岩波新書の「武田信玄と勝頼」の中で、

「同年五月二十三日付けの信玄の書状によれば、
家康は「先約」に基づいて遠江の人質を受け取りたいと主張し、
信玄もこれを認めている。
氏真が遠江の武士から取っていた人質を、家康が引き継いだのだと思われる。
これは、家康が遠江に君臨することを意味するが、
そういう「先約」があったわけである。」

とあります。
順当に考えてやはり遠江は家康が領有するという密約があつたということではないでしょうか。
0220人間七七四年2008/03/28(金) 11:31:15ID:6sNY6jgB
うーん・・・つーか、義信が主張していたように、飛弾攻略に集中していた方が、よかったんじゃね?
そこから美濃に行くか越中に行くかは、考えどころだけど。
織田との関係は悪くなかったんだから同盟を結び、越中を手中におさめ、信濃との二方面から越後に乱入する。
0221人間七七四年2008/03/28(金) 15:39:59ID:s5FDYWaZ
武田は山国がほんとに好きだな
0222人間七七四年2008/03/29(土) 01:32:47ID:Vaa8ooBE
越中で上杉と衝突するのに二方面どころじゃないだろ
0223人間七七四年2008/03/29(土) 08:59:31ID:MX1epd3D
義信の主張通りなら美濃へ行って織田と衝突することになるだろう
その方が結果的に武田が後世に生き残ることになると思うけど
0224人間七七四年2008/03/29(土) 14:12:36ID:WHfaepXp
つーか武田軍は一度だけ飛騨方面より越中に入ってるだろ
0225人間七七四年2008/04/01(火) 20:04:43ID:iq7excej
せっかくの金山もほとんど掘りつくし
その採掘に支配地から男女を無理矢理連れて来て恨みを残し(度々叛乱あり)
無駄な長期戦を意地になって勝つまでやるし
しかもそのせいで重臣はバタバタ死ぬし(無敗?ぷぷ、損得勘定できないガキの戦)
気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて、遺体は腐ってしまいました(残念!!)
0226人間七七四年2008/04/01(火) 22:16:25ID:QxklzeYC
春休み全開だなw
0227人間七七四年2008/04/01(火) 23:17:04ID:GdmunYx3
過激だが事実だわなぁ
信玄自身も「上杉とむきなって戦ったのは不味かった」と認めてる。
信長や伊達ならさっさと頭下げて状況打破できたんじゃね?
0228人間七七四年2008/04/01(火) 23:52:24ID:jv9fs5EF
伊達なら土下座外交で最後には上杉より優位な立場に
信長なら自分より国力下の上杉なんて楽勝(信玄の立場なら後背の今川との同盟で憂いがないから
0229人間七七四年2008/04/02(水) 01:27:52ID:OUSFtdVk
日本が行ってきた土下座外交は今
0230人間七七四年2008/04/02(水) 02:42:48ID:MLa10qNl
>>227
それまでに培った信頼というものが皆無だからな
結局軍事的を背景にした外交しかできなかった
これはあきらかに信玄の限界
0231人間七七四年2008/04/02(水) 07:42:34ID:/D5RDjX5
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
もしかしたら信玄は内部の者に暗殺されたのかも…
「老い先短いジジイの今生の想い出作りに付き合わされて無駄死にさたかないべ」
「やっちまうべ?」
「んだんだ」って感じで
しょせんは豪族の集まりの田舎軍団だし
0232人間七七四年2008/04/02(水) 07:44:17ID:e0T+PVpD
↑(笑)
0233人間七七四年2008/04/02(水) 09:24:39ID:LPf2BBWa
春休み全開だなw
0234人間七七四年2008/04/02(水) 23:23:06ID:NjprYtua
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
0235人間七七四年2008/04/02(水) 23:28:03ID:hWsSo1ig
武田に恨みあんのか?
0236人間七七四年2008/04/03(木) 00:34:17ID:YQcg4/iA
武田にお金盗られたのよ
0237人間七七四年2008/04/03(木) 02:21:04ID:BM4XlB+k
>>225
>気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて
この辺が春休みムキ出しなんだが
頭大丈夫か?w
0238人間七七四年2008/04/03(木) 05:15:47ID:ETUXSpJ+
おかしいかな?
各所に最低限の備えを残しても7、8万は動員できるだろ
敵地の中たかが二万五千で何ができる?
あと武田には恨みはないよ
ただ武田マンセーからかうと面白いだけ
0239人間七七四年2008/04/03(木) 09:12:49ID:jzyLywvf
バカだから自分のバカ発言のバカさに気が付かないのも無理はない。
そもそも信玄最後の戦闘、通称「西上作戦」は
アホの言う「慌てて計画性の無い上洛軍を挙げる」ではなく
本願寺や足利義昭からの再三の要請を無視できなくなって
やっと重い腰を上げで挙兵した物だよ。
しかもこれは上洛を目的としていた物ではない可能性が非常に高い。
その辺を全く考慮していない(知らないのなら無理もないが)アホ発言なんだよ。

からかわれてるのは お ま え www
0240人間七七四年2008/04/03(木) 09:27:17ID:ETUXSpJ+
じゃあ何しに来たの?
死ににきたの?
腐りにきたの?

それとも囲まれて打ち取られて塩漬けにされにきたの?
0241人間七七四年2008/04/03(木) 09:29:16ID:hCTeww1b
信玄の中じゃ未だ将軍の権威>>織田の脅威 だったのか
0242人間七七四年2008/04/03(木) 09:53:16ID:ETUXSpJ+
上洛の意思が無いってことは、しょせんは戦国を領土拡げるだけの陣取りゲームくらいにしか考えれなかったという信玄のスケールの小ささを教えてくれたって事で、ありがとねぇ〜(≧▽≦)丿
0243人間七七四年2008/04/03(木) 14:42:29ID:8K1yrV1H
本当に春休みなんだなw

>>241
将軍が「織田を滅ぼせ」と言えばそれだけで
織田攻撃を正当化するための立派な「大義名分」になる時代なんだよ
それで織田の周囲が全部敵に廻って一斉に攻撃を仕掛ければ織田を潰せるじゃんか

>>242
信玄の展望の小ささはこのスレでも再三既出
改めてアホのお前が書く必要もない

信玄は将軍や本願寺に懇願されて
仕方なく形だけ上洛するように見せかけて挙兵した
断れない理由もちゃんとあった
実際の目的は上洛ではなく織田領の切り取りで
或る程度の所まで来たら停戦協定を結んで引き上げざるをえない状態
0244人間七七四年2008/04/03(木) 14:58:51ID:ETUXSpJ+
確かに信玄はものが見えないね
チミのゆーとーりだよ
あの時代では致命的だね
戦が強いから自分の代はだいじょうぶでも、次の代では武田が滅ぶ事までも見えずに敵を増やし、更には織田にまで喧嘩売ったんだか
タイトルどおり、武田が滅んだのは信玄のせい

チミとは違うかもしれないけど、やたら信玄マンセーしてるバカにも教えとけよ
信玄は猪武者だって
0245人間七七四年2008/04/03(木) 15:06:00ID:hCTeww1b
>243
で、実際に義昭はがんばってそれをやったわけだが。
結果は足並みがそろうはずもなく織田に各個撃破された訳だ,


どんな大義名分があっても勝てない戦にはでないのが名将ってもんだろ
0246人間七七四年2008/04/03(木) 15:21:20ID:8K1yrV1H
春休みだなぁw

>>244
ちなみにオレは初代スレの>>1

>>245
当然足並みは揃わなかったが
織田は滅亡寸前ぐらいの窮地に追い込まれていた
領土が急激に広がり敵対勢力も急激に増えたために各地に奔走しまくっていた
明智救出のために信長自身が出馬して重症を負ったりもしてる
信玄が存命だった時期はまだ織田家に圧倒的な力があったわけではないし
武田は独力で織田に勝てなくても、他の勢力と共闘して潰す事ができる唯一の後期でもあった
信玄死去をきっかけに敵対勢力を個別に潰す事ができるようになったので
それで徐々に体制を整えて行けただけの話
信長マンセーもほどほどにね
0247人間七七四年2008/04/03(木) 15:33:25ID:sURl3ijU
信長を倒せた可能性は志賀の陣が最初で最後だったな。
体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
武田がようやっと出てきた頃には畿内の反織田勢力は虫の息。

将軍の命令も、信長と戦う理由のあるものに大義名分を与えただけで、信長と
戦う理由のないもの、信長と結んだ方が得をするものは将軍の命令なんか無視
して信長と結んだ。
0248武田竜芳ってどお?2008/04/03(木) 15:40:48ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>206-219さんへ
わざわざレス有難うござる。
特に私の意見を捕捉してくれた人には「大井」に感謝!!

まず、長いので私から皆さんへのレスを2つに分けますね。
・「川きり」協定に関して。
・秋山の行動に関して。→これは次回ね。

1.簡潔にまとめ
今川領の遠江は「切り取り自由」と言う事もありうるのではないか?
その根拠は、
(1).「川きり」の書状がないこと。
(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
もし協定が「川きり」ならば、掛川は大井川から相当離れているから「編纂物」と「書状」の記述は矛盾するでしょ。
あの「長泰殴打事件」みたいにね。

(3).この書状「恵林寺文書」は大変有名で実物も残っている(『武田信玄の生涯』に写真が掲載されている)。
これは写しではなくオリジナルのものだから間違いなく「一級史料」なわけで、
これに関しては編纂物に引用されている「書状写」より信頼できるんじゃないの?

(4).他の国分け協定、例えばあの「越相同盟」や氏真→氏直の「駿河譲渡」それに「毛利と宇喜多の国分け」などは、
具体的な内容の書状が残っているんだけど、
この協定に関しては『武徳編年集成』や『軍艦』『三河物語』などの編纂物しか具体的な記述がないんだ。
皆さんは「駿河は信玄、遠江は家康」と明確に記された書状がないのがおかしいと思わないのかな?

2.『武徳』は他にも書状と矛盾している記述がある。2つ。
(1).「信玄は父を追放した親不孝者である」
→追放された信虎が信玄のグチをこぼした書状がない。あの昌幸だって高野山から書いた手紙で(信之に)本音を述べているのにね。
(2).「信玄は氏真妹を駿河へ送り返した」
→これも、関連書状を読む限りでは、氏真の方から何らかの理由(謙信との密約?)があって、送り返すように要請し、その代わりに氏真→信玄に誓詞を送ったらしいよ。(ただし「誓詞」は現存せず)

3.『三河』は知っての通り三代家光の時代、寛永三年(1626)頃、旗本の大久保彦左衛門によって書かれたもので、大雑把に言うと2つの目的で書かれたものなんだよ。
(1).大久保家がどんなに徳川家に忠誠を尽くしてきたか? どれほど(の血を流して)働いてきたか? 
(2).元和偃武(1615年)以降、新鋭の文官達が官僚として出世していくのに対し、彦左衛門以下、譜代の武官達は疎外されていく事。

つまり、彦左が理想とする「(戦国時代の)主従の在り方」を社会にアピールする目的で書かれたものであり、一概に「歴史」を残すために書かれたとは言えないんだよね。

確かに自身も従軍したと思われる「第一次上田城攻防戦。神川の戦い」(天正十三年)なんかは、大変細かい描写で書かれていて面白いし、それにこの戦いは、なぜかあまり書状がないので『三河』を信用するしかないんだけどさ…

「駿遠分割協定」(永禄十一年)に関しては、彼がまだ9〜10歳でしょ? だから信用できないんだよね。やはり、これに実際携わったと考えられる信玄・家康・梅雪・酒井忠次などの書状や同時代人の『家忠日記』の方が信用できるんだよ。

結論1としては、
「川きり」の協定もそうだけど…
「編纂物を100%信用するのは、ちょっと危険かな」
「定説・通説だけど改めて調べてみると、新しい発見があるかもよ」
と、言いたかったのさ!!
宿題としては、
『武徳編年集成』で調べてみるしかないね。(入手が難易だけど…)
0249人間七七四年2008/04/03(木) 15:41:09ID:hCTeww1b
>246
なんだかんだいって織田に喧嘩を売ったのは信玄最大の失策
だったんじゃないかという気がするけど。
0250武田竜邦ってどお?2008/04/03(木) 16:00:57ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>212さんへ
信玄の第一次武蔵・相模侵攻(永禄十二年8月24日から10月7日まで)の時、
つまり、三増峠の戦い(永禄十二年(1569年)10月6日)の時、
馬場美濃は高坂弾正の後詰として、信州牧之嶋城(長野県信州新町興禅寺)の留守居役を任じられていたが、
「面白いので法度を破って高見の見物に来た」とのたまわって勝手に軍を率いて信玄に合流したが、
お咎めなしだったよ!!
0251人間七七四年2008/04/03(木) 16:08:04ID:8K1yrV1H
>>247
信玄の西上作戦の時の信長の行動は
徳川に援軍として佐久間の手勢を送ったが「動くな」と指示した
信長は京都から岐阜に戻ったが軍勢を整える事もなくそのまま待機

おそらく信長は信玄の行軍を岐阜まで許しておいて、そこで対峙しようと考えていたのだろう
野戦で短期決戦なら家康のようにコテンパンに叩かれる恐れもあるけど
信玄の西上作戦の軍勢は長期戦には向いてないからな
織田のほうが圧倒的に強いのであれば織田領に入れずに三河で武田と決戦をすればいいが
当時の織田は四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった

>体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
それは信玄死去以降の話だな
0252人間七七四年2008/04/03(木) 16:13:02ID:Wj4CcV25
test
0253武田竜邦ってどお?2008/04/03(木) 16:13:23ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>219さんへ ます、大変有難う。
あなたが「あの」書状を指摘してくれたおかげでようやくあの「三増峠」第一幕が完成しました。
その「返礼」ではないのですが…
つまり、永禄十二年(1569)5月23日付 信玄→信長家臣津田盛月?・武井夕庵あて書状「神田孝平氏所蔵文書」には…
(↓ココに注目!!)
『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。
十余日たってから信長の先導部隊と称して、家康が出陣しました。
先約のごとく、遠州の人質らを受け取りたいと(家康が)言ってきたので望む通りにしました。』
(↑つまり「十日間もちんたらしやがって何やってんだ」)

「氏政が氏真を救うために、駿河薩田山へ出陣して、信玄と対陣し(たから)、
(家康は)掛川の(周囲)数ヶ所に砦を築き、掛川を落城させることが出来ました。」
(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)

その後、氏真を生害させるか? 三河・尾張の間に(身柄を)送るべきだった。なのに…

(↓ココに注目!!)
『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
掛川に籠城していた(今川の)家臣たちが、何事もなく駿河に帰って来て(私を悩ます)とは、思いも寄りませんでした。
氏真・氏康父子と和睦してはならないと、家康は誓詞で明らかにしているけど、この(協定違反)に関して信長殿はどう思うのか?』
(↑@つまり信玄は「家康こそ協定を破った!!」 A「駿遠分割協定は信長が仲介・斡旋した事」がわかる)

過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」

結論
1.信玄と家康の「駿遠分割協定」(永禄十一年2月16日)は、信長の仲介・斡旋により成立した事がわかる。
この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したという事だね。
2.信玄は、秋山を遠江から撤退させたけど…
家康は、信玄との協定を破って「勝手に氏真・氏康父子と和睦したこと」かつ謙信と誼を通じた

どちらが誓詞を破ったのかな?

0254人間七七四年2008/04/03(木) 16:44:05ID:daQ6gmVq
>>251
東より西の方が脅威だったんだろうな。
明けて一月、義昭は堅田に味方を籠もらせたが、柴田・明智・丹羽・蜂屋に追い払われる。
二月、自ら出陣し石山攻め、これを陥とす。
三月、入洛し、翌四月、義昭が立てこもる二条城を包囲。義昭との間に和議が成立。
鯰江城に籠もる佐々木を佐久間・蒲生・丹羽・柴田に命じて攻めさせる。
さらに佐々木を支援する百済寺に放火。
0255人間七七四年2008/04/03(木) 20:25:26ID:Q/KHyUSd
>>251
>四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった
【四面楚歌】
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。

当時の織田家の主な敵
武田家(甲信。補給が課題点。徳川に対する処置をしなければ尾張・美濃に進むのは不可能)
長島一向一揆(伊勢長島。城に篭られたら鉄板で脅威だが遠征能力には疑問あり)
浅井家(北近江の小谷城周辺のごく一部、虫の息で現状維持することが限界)
朝倉家(越前一国。加賀、若狭の一部? 財政悪化&家臣の離反、軍役拒否等で進退窮まった状態。
     志賀の陣以降は浅井家の援軍での出兵以外に軍を動かすことは無く、自分から仕掛ける余裕は最早無し)
六角家(織田家の主な敵に加える必要はないのではないかとも思えるほどの弱小勢力。)
松永家(大和。寺社、土豪の多くが敵対する筒井に味方し大和国の主導権争いで劣勢状態。
     織田家の敵として殆ど機能していない状態。)
石山本願寺(城に篭れば鬼のような守備力を発揮するが、積極的には動かない。
         志賀の陣の好機にも大坂周辺を荒らした程度でそれ以降目立った動き無し)
三好一族(結束力が脆いのがネック。反三好との攻防で膠着状態。)

とまあ確かに織田家の周辺には多数の敵が存在していたが
徳川家、筒井家、細川、荒木等反三好勢と織田家に味方した勢力も多数いて
君の言うような四面楚歌状態ではなかったんだけどね。
反織田勢力の存在はしっかりと数に入れるのに、親織田勢力を無視するとかよそうぜ。
武田上洛スレのテンプレにもあるけど、織田家は少なく見積もっても3万弱を対武田に使えたと計算できるよ。


0256人間七七四年2008/04/03(木) 20:51:27ID:mKQQxEzm
>>255
本当に集められるんだったら軍勢を率いて浜松に出向き
織田・徳川連合軍で武田を潰せば良かったんじゃない?
実際には佐久間の手勢を送っただけ、信長は岐阜で事態を静観するだけ
武田撤退後も追撃をせずに徳川に大量の金銀を送っただけ
0257人間七七四年2008/04/03(木) 21:27:41ID:Q/KHyUSd
>>256
西の方が魅力的な国土だし敵も疲弊している。
何より畿内の安定が最重要。
東はまだ疲弊していない武田家だし、魅力的な国土ではない。
浜松に佐久間の3千は籠城目的だし妥当な数字。
それ以上援軍を送ると城に兵を収容できなくなる。
浜松城を中心に籠城して守りに徹すれば1年や2年で攻略されることはまずない。
徳川が守りに徹して武田を引き付けてる間に西を安定化させるってのが信長の当面の戦略でしょ。
0258人間七七四年2008/04/03(木) 21:30:54ID:daQ6gmVq
遠くの火事場より近くの火事場だわな。
武田相手で慎重になってたのも事実だろうがな。
0259人間七七四年2008/04/03(木) 21:44:03ID:mKQQxEzm
>>257
あなたの言ってる事は完璧に正しいんだけどね
春休みの人の言うように「織田は圧倒的な軍事力」で
「畿内の敵対勢力は虫の息」と言うのが本当なら
武田に壊滅的なダメージを与えてやればいいわけよ
わざわざ岐阜まで何しに帰ったの
0260人間七七四年2008/04/03(木) 22:07:04ID:1eFs5Gk5
>>248
>(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
これは別に矛盾しないんじゃないの?

今川を滅ぼすための同盟なんだし単純に氏真が掛川に逃げ込んだため
自分も氏真を追うつもりだみたいな書状を出したんじゃ
これと大井川で分割ってのは直接的に関係しているとは言いきれないと思う

>>250
武田内での勝手な配置替えと他国を巻き込んでしまった勝手な軍事行動とは
同列に扱えるとは到底思えない。

>>253
>『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。〜
10日余りとかは武田の勝手な言い分としか思えないが、
出陣の日にちは取り決めてあったのか、12月11日には徳川は遠江にいたと思われるが
十余日たってから家康が出陣したとはそもそもいつを指すのか?

>(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)
状況がそうさせたのであって、徳川からすればもし北条の出陣がなければ武田に遠江から
追い出されていたのではと考えてしまうような状況なんじゃ?

>『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
恐らくこの時点では徳川はもう武田を敵対勢力に近いものとみなしていたのだろう

>過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」
律儀と言うよりは力関係を考えてか家康は暫くの間は武田とは敵対していないな

ただこの武井夕庵あて書状、1572年の書状にも同様に言えることだろうけど
この手の外交における宣伝文書はあまり当てにならないんじゃ
武田も徳川もお互い相手が悪い、讒言者のいうことを信用しちゃいけない
絶対自分は裏切らないみたいな文書を信長に送ってるんだし

どちらが誓詞を破ったに関しては上にもあったけど、まず最初に破ったのは武田。
その後の武田は一応、家康に対して律儀に盟約を守っていたと言って良いと思うけど
徳川は武田の事を信用できなかったってことだろうな。
最初に武田がとった不信感を植え付ける行動を除外して1570年以降だけで見るならば
誓詞を破った及びう非があるのはは徳川と主張することも可能かもしれないけど、
全体を通してどちらが破ったというのであれば、まず最初に破ったのは武田でいいんじゃないか?
0261人間七七四年2008/04/03(木) 22:10:43ID:1eFs5Gk5
>>259
3万と2万5千じゃ、それなりにお互い消耗するからじゃ、
まして武田迎撃したところで領土が増えるわけでもないし。

岐阜にいたのは単純に冬だから例年通り岐阜に帰っていただけだと思うが。
0262人間七七四年2008/04/03(木) 22:23:08ID:daQ6gmVq
>>261
小谷城を包囲・朝倉の援軍と対峙中の帰還だから恒例の帰還って可能性は低いんじゃないかな。
武田の遠江侵攻開始と信長の岐阜帰還はどっちが早い?
0263人間七七四年2008/04/03(木) 23:18:40ID:1eFs5Gk5
>>262
1572年年表
7月29日朝倉近江着
虎御前山に砦を築く
9月16日信長横山に帰る
10月3日信玄甲斐発
10月5日信長書状 武田が和睦(上杉との?)に応じそうなので喜ばしいとかいう書状
10月10日信玄遠江着
11月3日秀吉、浅井朝倉を破る
11月13日安宅信康 義昭信長に降伏
11月14日秋山岩村落とす
11月20日信長書状 謙信に武田との断交を告げる
12月3日朝倉帰国
12月22日三方ヶ原

年表だとこんな感じ
岐阜への正確な帰還は不明だと思う
ただ信玄の出陣前に横山まで引いているから、信玄の影響ってのはこの段階ではないと思う
そして武田との敵対は11月後半だから、その時点じゃ武田の影響で岐阜にいるのか
冬だから岐阜にいるのか判断つかない
ただ春になったら武田が三河にいるにも関わらず上洛しているから武田の織田への影響は
あまり高くないんじゃないかと考えるが。
0264人間七七四年2008/04/03(木) 23:25:40ID:sURl3ijU
九月十六日 小谷表から横山城へ帰還。後、岐阜へ。
十月三日  信玄、甲府を出立。

朝倉は小谷城の救援には来てもそれ以上南下の姿勢は見せない。実際に、織田本隊が岐阜に
帰還して留守の木下隊のみになっても何もせず十二月には越前に帰国。
大和は味方の筒井が優勢で松永は逼塞状態。六角も同様。
三好は反三好勢力と攻防で忙しい。後に織田につく荒木が台頭を始める。

緊急を要する戦線はない。だったら翌年に備えて一度岐阜に戻って兵を休めようとか考え
てもまあおかしくはないわな。武田が東から出てくると噂があるのならなおさら。
0265武田竜芳ってどお?2008/04/21(月) 15:35:02ID:Hxzvjp03?2BP(1)
>>260さんへ。貴札披見。態々啓候。
「川切り」なしの新資料を発見しました。それは…
1.永禄十一年12月12日付 家康→遠州井伊谷(三河国境・現引佐町)の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写「鈴木重信氏所蔵文書」です。
2通それぞれに…
「…略…甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、
『(家康は)君たちの身体を考え、決して見放さない』」とか、
判物には「甲州より…略…
『起請文を差し出した上は、(君たちも)身体をかけて、間違いなく裏切らないで欲しい
…略…(信玄より)先に(家康に)忠誠を示す判形を差し出したからには、相違あるまじきなり。
細かいことは菅沼定盈より…』」という一文がありますよ。

だけどこの次に発行した、
つまり12月20日に発行した、
家康→(見付と二俣の間の)遠州国人匂坂吉政あて判物には「甲州云々」の一文がなくなっているんだよ。

始めは「川切り」の協定はなく、
後日、現場(遠江)が混乱してから改めて決めたんじゃじゃないかなぁ?→これは「次回の秋山の行動」と一緒にして書きますね。

2.>信玄が先に協定を破った
これはあなたの言う通りですね。

3.>10日余り云々について
これは年表を作ってみました。
私見ですが、6日〜18日を計算しての事と思われます。
12月6日 信玄出陣。
12月12日 家康→遠州井伊谷の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写。
その中に「甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、起請文を差し出した上は云々」という一文がある。
12月12日 氏真、敗れる。
12月13日 信玄、駿府入城。北条軍蒲原に到着。
12月15日 氏真、掛川に到着。
12月18日 家康、浜松に入る。
以上、楽しいゴールデンウィークを!!恐々謹言。四月廿一日。
0266武田竜芳ってどお?2008/07/09(水) 13:18:09ID:K8qkUsoa
1.『武徳』の書状写を見てきました。
「川切れ」協定に関する書状2つ。(これ以外にはないらしい…)
(1).年欠2月16日付 信玄→家康宛書状写『武徳』より
「いささかも(徳川殿の)疑心に思い当たりはありませんが、
誓詞を取り交わすのを望んでいるそうで、
(徳川側が)前もって準備して(持参して)きたのは誠に都合が良い。
(早速)信玄の誓詞も書写し、使者の目の前で血判してお渡しします。
ますます御入魂になりましょう。恐々謹言
 二月十六日 信玄(判)
  徳川殿」

(2).年欠2月16日付 穴山信君→酒井忠次宛副状「島原市・本光寺所蔵田島家文書」
「今回、双方の使者が(互いの間を)奔走した結果、
家康から誓詞を頂けたのは、とても有り難い事です。
信玄の誓詞も書写し、血判したものを渡しましょう。
いよいよ相互に御入魂になるよう、
(互いに)取りなすことが何よりも肝要です。恐々謹言
  武田左衛門大夫
 二月十六日 信君(花押)
  酒井左衛門尉(忠次)殿」

※『武徳』では「永禄十一年」としているが、
『戦国遺文 武田氏編第2巻』では「永禄十二年」としている。
結論
あっさりし過ぎて他の資料が発見されない限り、わかりませんねぇ。恐々謹言。
0267人間七七四年2008/08/08(金) 06:29:22ID:SUYzhSOr
織田厨は小者の武田信玄
(織田厨達の脳内じゃそうらしい)
、徳川家康、豊臣秀吉とばかり実力を比べて、
「織田信長どんな大名より凄い」
を唱える馬鹿。

例:
一つの教室で(戦国板)
一人のいじめられっこがいる(織田厨)
その子は自分より下の子達(徳川厨、豊臣厨、武田厨)をいじめて
自己満足してる。
0268人間七七四年2008/08/24(日) 12:06:25ID:+6JCxp+f
なんか、ここまでのレスがスレ違いな気がするのだが・・・。

信玄は、自分が死んだ後の事を考えていなかったのだろうか?
ってなくらい何もしないで死んだ気がするなぁ。
0269人間七七四年2008/08/26(火) 06:40:55ID:SMLM+c49
義信を追いやった時点でダメ
0270人間七七四年2008/08/26(火) 09:59:33ID:JZ3b/h2S
>>250
「面白いので法度を破って高見の見物に来た」とのたまわって勝手に軍を率いて信玄に合流したが、

馬場ちゃんかわいいw 萌え
0271人間七七四年2008/08/26(火) 23:40:10ID:Ba1Jsi/D
>>268
勝頼は正式に家督を継いでるし、財政疲弊もしてないし、百万石を超える戦力はそのまんまなんだけどな。
0272人間七七四年2008/08/29(金) 19:02:15ID:maLdPl+S
信玄は三年死を隠したわけだけど、葬儀はどうしたの?
死んだときは何もしないで、三年後に『お葬式』をやったの?
それとも『三回忌』をしたの?
0273人間七七四年2008/08/29(金) 20:33:34ID:6ebFCys/
>>272
そんな資料のないもん誰が知るか。
0274人間七七四年2008/08/29(金) 21:29:51ID:maLdPl+S
叱られても。
恵林寺とかになんも残ってないわけですか。
滅亡すると史料も散逸して哀しいですね。
0275人間七七四年2008/08/29(金) 21:40:24ID:6ebFCys/
>>274
常識的に考えれば武田信玄が死去したら数日後に葬式はするだろ。
0276人間七七四年2008/08/29(金) 21:50:59ID:Ch1B1tQc
たしかやってるはず。勝頼が3年後に。ソース忘れた
0277人間七七四年2008/09/02(火) 19:55:43ID:Yx56iRJP
長篠から武田滅亡にいたるまでの期間
若手の武将で名をあげた人てどれくらいいたんだい?
滅亡時に30歳前後の武将でさ
0278人間七七四年2008/09/09(火) 21:06:55ID:Nw2xyio3
>>265
>始めは「川切り」の協定はなく、
>後日、現場(遠江)が混乱してから改めて決めたんじゃじゃないかなぁ?→これは「次回の秋山の行動」と一緒にして書きますね。
12月12日付の時点では武田軍が遠江に侵入していたけど、
12月20日の時点では信玄との話し合いもつき、武田と北条は駿河で対峙、秋山らは要請を受けて遠江から撤退
武田の脅威が無くなったから「甲州云々」の一文が消えたという可能性もあるんじゃ?
初めから「川切り」の協定はあったけど、内心では切り取り次第と思っていたが北条の介入で
武田が切り取りする余裕が無くなったため、改めて「川切り」の協定を持ち出したとか。

徳川から武田へ「川切り」に関しての抗議がいっていれば確実なんだけど、それがない以上
これもただの推測に過ぎないが。

ところでこの間読んだ武田の本(平山氏?)に野田城で人質交換時に信玄が駿河攻めた時捕らえた
酒井忠次息女もいたと書いてあったが本当かな?
0279東義久ってどお?2008/09/17(水) 17:29:06ID:78Aw6xBg
>>278&270さんへ。レスありがとう。必ず返レスするからね。
>>272&276さんへ。うろ覚えだが…確か『軍艦』のはずです。(載ってなかったらゴメン)
0280東義久ってどお?2008/09/24(水) 10:23:16ID:yeNXgC2J
>>270「馬場萌え」さんへ、追記しますね。
馬場は武田四名臣の中で唯一、信玄より(7つ)年上ということもあってか、もう1つ信玄の意志に逆らった話があるよ。

1568年、駿府今川館を武田軍が放火した時、
信玄はあらかじめ今川家の財宝を運び出すように命じていたが…
馬場は「そんな事をしたらお屋形様は、貪欲な大将として後世の笑い者になる」と考え…
運びだした金銀財宝を逆に火中に投じてしまった。
後からそれを聞いた信玄は「馬場のいう事はもっとも」と納得し、
お咎め無しだったとさ!!

他にもいろんな話があるから、時間があるなら『甲陽軍艦』の現代語訳をお奨めするよ!!

>>272さんへ。ソースの追記。
天正4年(1576)4月16日〜26日に行われた葬儀について。
原版は見ていませんが…
『武家事紀』と『甲斐国志』の2ソースにあり、
『甲斐国志』の中にある「天正玄公仏事法語」(※玄公…信玄公)という恵林寺の記録に詳しく書いてあるそうです。
「天正玄公仏事法語」によると…
16日が、本葬儀で、
26日まで七回忌をやったらしい。
(なぜ、三回忌ではないのか?は不明)
0281東義久ってどお?2008/09/24(水) 10:26:53ID:yeNXgC2J
>>278さんへ。返レス誠に有難う御座居ます。
1.「酒井忠次息女」情報2つ。
(1).『家忠日記増補追加』より。
「(永禄十一年(1568)十二月)二十八日、…略…、
先日駿河の城が落城して氏真他国(遠江)に走った時、三州(三河)の人質松平源三郎(家康の異父弟、勝俊(康俊))および酒井忠次の娘を駿府に捨て置く。
是を預かる三浦与市郎は、今川氏真に叛いて武田信玄に属す。
是によって三浦その人質を叩いて(脅して?)、甲州に行き、是を信玄に遣わす。
信玄大いに喜んで、遠三両国を攻略するには良き人質なりと言って、警護の士を置いて固く是を守らせる。」
とあります。

(2).永禄十二年(1569)二月二十三日付 山県昌景→忠次宛書状(東京都 酒井家文書もしくは致道博物館所蔵文書)より。
この手紙の最後の辺に…
「甲州にいる御息女の事、(三河へ)帰れるように(信玄様)に必ず申し上げますから、御安心下さい」とあります。

手持ちの資料によると以上です。何か役に立てなくてごめんなさい。

2.秋山の行動について
まとめようと努力しましたが…
遠江の国人達の行動について、あまりも矛盾した記述が多いので中断しました。年表(というか日程表)だけは作成したので、公開しても迷惑でないならレス下さい。

但し北遠の国人天野氏については…
天文二十三年(1554)8月 信玄が信州下伊那郡攻略して、下伊那衆の盟主である下条信氏が信玄に降伏した。
以降は、下条信氏が東美濃の遠山氏や遠州天野氏の調略を任されていたが、永禄五年(1562)から飯田城代に任命された秋山に代わったらしい。
以上が『戦国遺文武田氏編』第1巻の複数の書状から推測できます。
(つまり、信玄の方が家康よりも古くから遠江に影響を及ぼす。)

3.川切りについて
結論を先に言われてしまいました。同意しますね。
前回から改めて「川切り」が載っている江戸時代の編纂物を可能な限り読んでみた所、面白い事が分かりました。
『武徳』だけは永禄十一年(1568)2月16日なのですが…
『軍艦』『三河記』『浜松御在城記』など記事の掲載順序から推測するに、
家康が掛川に進出した(同年12月27日)頃に「川切り」の盟約がなされたと解釈できます。
『軍艦』なんかには入山瀬(掛川市…掛川と高天神の中間地点)と場所まで書かれていて、そこで人質交換をしたそうです。
武田側は不明ですが、家康側は前述した松平源三郎らしい。
(つまり、松平源三郎は駿府で信玄に捕まった説。と「川切り」盟約時交換説の2つある事になります。)
これで、「川切り」は出尽しました。恐々謹言。
0282人間七七四年2008/09/25(木) 08:22:04ID:3AU0AhWQ
>>277
土屋弟、曽根内匠、エトセトラ
0283人間七七四年2008/11/13(木) 04:33:43ID:firU6ZsA
上洛軍って一般的に言われてるけど
駿府城奪取後も守りきれないと判断してすぐ引き払うくらいの信玄が
本当に京都まで行くと思ってたとは考えられん
せいぜい尾張と美濃に入って引き返すくらいに考えてた様な希ガス
0284人間七七四年2008/11/13(木) 22:57:54ID:JJnmVpC2
>>283
一回駿河から引いたのは
本格的に駿河を手にする為に北条や上杉などに手を打つ必要が
あったからで、最終的にちゃんと駿河は獲得している。
0285人間七七四年2008/11/14(金) 00:22:47ID:y7zFNMSe
うん、だからそういう判断する信玄が京都までいくとは思えん
0286人間七七四年2008/11/14(金) 00:52:47ID:uCAGuqae
つうか、上洛軍が「史実」なんて言ってる人いるん?
0287人間七七四年2008/11/14(金) 01:29:22ID:GanF1Pa5
とりあえずルイス・フロイスは信玄が上洛してくるだろう事を
非常に恐れて報告書に書いてるな。
書状でも義昭が信玄に天下静謐を求め、信玄もこれにこたえてる。
信玄の胸中はともかく、当時の周囲には「信玄上洛してくるんじゃね?」的な
意識は結構あったみたいだ。
0288人間七七四年2008/11/14(金) 01:31:43ID:uCAGuqae
>>287
それは、ゆくゆくはってことであって、あの行軍において、という限定にはならんのでは?
0289人間七七四年2008/11/21(金) 01:19:56ID:3aH+ejI+
・「川きり」協定に関して話を戻すが
三河物語(だったと思う)に信玄が天竜川以西だけでなく大井川以西まで取りやがってと
憤慨するシーンがあったから本来は天竜川で分ける予定だったが、
武田の苦戦により大井川に変えて遠江を徳川にと変えたと言うのはどうだろう?

武田は事前に天野の調略をしていたし、そう考えると秋山の行動も自然になる
そしてこの考え方だと先に破ったのは家康ということに。

>>281
人質の件は確実ですか、情報ありがとうございます。
しかしこれだと武田に対して徳川が警戒心を抱くのも当然かと思う。

川切は1568年12月27日か、川切の盟約の内容は判りますか?
0290武田竜芳ってどお?2008/11/21(金) 15:46:31ID:G0SrTKHO
>>289さんへ。態々読んでいただきまことに有難う。
>「川きり」協定に関して
私もそう思います。これで一致しましたね。
で、さらに秋山の行動について追加すると…

遠江の見付(現在の「磐田市阿多古山」・中世は「愛宕山」)を徳川よりも先に占領しましたよね? その地は非常に重要なんですよ。
というのは、同地は遠江の国府がある場所であり、同国内で一番、賑やかだったそうです。
(つまり、国府を先に落としたのが、秋山隊になるわけね!!)
そこを徳川軍の先鋒である奥平貞勝(信昌の祖父)・長篠菅沼正貞・田峰菅沼定直?が、秋山隊を攻撃したらしい。
↑これらが発生した月日が、12月12日から17日の間なのです。

そして、家康自身が浜松に入城したのが18日だから、見事に天竜川を挟んで分割していますね。

>川切は1568年12月27日か、川切の盟約の内容は判りますか?
これも次回にカキコします。恐々謹言。
0291人間七七四年2008/11/21(金) 16:42:02ID:6vFUqtWf
織田は畿内制圧と天下を狙ったし、北条だってまだしも関東制覇ってビジョンがあった。
でも武田は無秩序に領土拡大しかしなかったから回りじゅう敵だらけだし、義信が死んじゃうし。
地政学的には武田家は遅かれ早かれ
上杉と戦って日本海に出る、北条と衝突しても関東を制圧、あるいは東海道と上洛狙って織田徳川同盟とぶつかる
の3つしかないんだから、どれか一つだけでも徹底して本腰入れていけば血路は開けたかもしれないのに。

つまりさ、周辺の弱小勢力を潰して武田騎馬隊最強伝説wをつくったのはいいけど
自分より大きい勢力に中途半端に喧嘩売ってただけなんだから、最終的に潰されたのは当然の結果
信玄が戦略家だと思っちゃってると浜松にまで侵入してきた武田は脅威だけど、
織田の視点から武田は大局的な戦略のない局地戦だけ強い集団としてみると
武田の軍事行動の限界も自ずとわかるし、
そんなのがのそのそ出てきたところで台風みたいなもので一時的に被害を受けても脅威にはなれなかったと思うんだ。
0292武田竜芳ってどお?2008/11/21(金) 17:35:07ID:G0SrTKHO
>>291さんへ。つまり信長=曹操。信玄=呂布説!?ってところ?
確かに信玄は、目の前の敵しか見えてないようだね。
諏訪→村上→小笠原→村上→謙信(川中島)→(西上野)→(飛騨)→駿河。以降省略。
とかね。義信死もここに含まれます。

最終的に信玄は、信長・家康攻略のみに絞ってしまい、「遺言」で勝頼に強制し、苦労する羽目になってしまった。
氏康死→氏政、越相→第二次甲相みたいに「柔軟な外交」ができなかったのが、敗因じゃないだろうか?
0293人間七七四年2008/11/21(金) 20:06:24ID:6vFUqtWf
291ですが三国志は昔演義の小説読んだくらいで詳しくないのでよくわかりません。
ただ北条は柔軟な外交という手段を駆使しながら関東制覇という目的はずっと一本通してたでしょ。
でも信玄は目的が無いというか、戦争で勝つという手段の為には目的を選ばずというか。
強引な言い方だけど、戦争で勝ったり勢力を拡大するってのは関東制覇なり畿内の掌握なりの目的の為の手段でしかないと思うわけですよ
あんな中途半端に確かな勝算もなしに織田に喧嘩ふっかけても仕方ない、せっかく昔は友好関係だったのに。
友好関係結ぶくらいだったら最後まで利用して他の目的に注力しろと。
あんな状態で家督譲られても勝頼も困るでしょ。
じりじり徳川領を侵食していっても肝心の織田は大きくなる一方。討つ好機は次元の彼方にさちゃった。

信玄最後の徳川領侵攻なんて要は上杉の関東派兵が北条にとって脅威にならなかったのと同じ。
あんなもん時々来る気まぐれなナマハゲみたいなもんで城の中でやり過ごせばいい。勝手に自滅するし。
せっかく武田は戦闘には強かったのに。やっぱりそれだけじゃ勝てないんですよ。
0294人間七七四年2008/11/21(金) 23:44:16ID:3+RmeAPy
>>291
なんというかお笑いにもならない意見なんだが。
信玄死亡時ではまわりに同盟国がいくつもいるんだが。
周りが敵だらけってどんな冗談。
第一そんな事いったら信長・北条・上杉、全部周囲が敵だらけだが。
しかも対北条戦や上杉戦は信玄の戦略が光ったものなのに何をいってるのか。
最後の武田滅亡は勝頼の失策、長篠と御館が大きいんだが。
>>292
柔軟な外交というか北条と武田では状況が違いすぎるんだが。
>>293
その割には周囲を敵に回されたりくるしんでたかな。
信玄死去の前には包囲網勢と連携して反撃する手筈を構築していたんだがな。
徳川にとって脅威にならなかった?その徳川自身が武田に挑まざるを得ず
大敗を喫してるんだけどな。
0295人間七七四年2008/11/22(土) 19:30:46ID:VX84+8ML
上杉の運の良さに比べると腹が立つほど運が悪いな
0296人間七七四年2008/11/25(火) 01:27:23ID:pHmRp2M1
レス忘れていました。
>>281
>遠江の国人達の行動について、あまりも矛盾した記述が多いので中断しました。
すごいよくわかります、この地域や東美濃奥三河もそうですが、どれを信用すればいいのかと思うことが度々。
>年表(というか日程表)だけは作成したので、公開しても迷惑でないならレス下さい。
是非お願いします。

>>290
逆に見附は徳川方の奥平菅沼らが占拠していたが、
秋山が12月15日にそれを破って占拠したというのも見たことある。

>「川きり」協定に関して
他にも小笠原が武田に合流しようとしたが、徳川へと変えたとかもあり、
もっともこれはこの直前まで見附を保持していたのが秋山だから無理ないか。

また12月23日付信玄の家康あて書状で掛川を囲むように(その時点では既に囲んでいたような)
家康に要請する書状があるが、これも本来は武田が攻める積りだったが、
それが難しくなったので徳川の切り取りを認めたようにも見える。
0297人間七七四年2008/11/28(金) 21:56:49ID:J0jP+ksO
>>294
できるやつが、仕事増やして、こなすなら何も問題はない
出来ないやつが仕事増やして、効率落とすなら問題だ
あいつもしてるからどうとか、そんなの関係なかろう
現状に見合った戦略を策定できないのは無能だ
無能とは言わないか、少なくとも有能ではない
北条やら上杉やらとの戦争で、信玄の光った戦略って具体的に何さ
0298人間七七四年2008/11/28(金) 23:33:53ID:pBU/5Cyx
関東遠征は見事だと思うぜ。
第一次・第二次駿河遠征は北条が競り勝ったけど、
それの打開策としてきっちり機能した訳だしな。
0299人間七七四年2008/11/28(金) 23:55:19ID:7bYhA0+Y
>>297
信玄が効率落としたというなら
その他の大名もしっかり効率落としてる事になる。
第一信玄は実際にその中で見事な戦略をつくり領土を拡大させて百万石以上作ってる。
これで有能でないとか言ったら日本の戦国時代に名将なんかいない。

北条・上杉との戦いで光った信玄の戦略について知らないって
よほど東国の戦国史に詳しくないのか知りたくないのか。
対上杉戦
川中島は有名なので省略。
西上野攻略戦
第4次川中島の後、信玄は北条と連携して謙信が関東遠征で攻略した上野と武蔵北部の獲得を目指す。
信玄は堅城箕輪に依る名門長野一門を中心とした西上野を攻略すべく戦略をめぐらす。
信玄は和田城を調略して箕輪と謙信の直接的な連絡路を切断。
和田に大量の鉄砲を配備する一方で自身も主力を率いて謙信と対峙しその動きをブロック。
さらに北陸一揆・芦名・北条とも連携して謙信の動きを絡め取り、信玄本隊とは別に真田に
別動軍を率いさせて吾妻郡を攻略させる。
そして箕輪周辺の上杉方の城を次々と攻略・調略し1565年には倉加野城を攻略し
箕輪を完全に孤立させる包囲網形成。1566年には満を持して大軍で総攻撃し堅城箕輪攻略。
西上野は武田の手に帰する。
北条戦では>>298の人もいうように関東遠征・北条包囲網・甲越和与などによる
大規模な戦略で北条の動きを絡め取り駿河を攻略。

十分過ぎるほど有能な戦略家といえるだろう。
0300人間七七四年2008/11/29(土) 00:20:39ID:9z7tsKLE
>>297
さすがに信玄が有能じゃないっていうのはないよ。
信玄が対等以上の北条と戦って駿河を得て再同盟するのは2年余り。
他の周囲を敵にした大名と比べても十分成果をあげてるほうだよ。
逆になんで周囲を敵にした他の大名が「できる奴」で
信玄が「できない奴」なのかがわからない。
0301人間七七四年2008/11/29(土) 07:38:31ID:uSLyIPOX
>>298
いきあたりばったり感があったが、まあ結果は出たよな

>>299
他がどうとか関係ないんじゃね?と言っている訳だが
信玄の行動はある程度把握しているが、お前が何を持って「光った」としているのかなぞ、わかるわけなかろう?
支城郡を陥落させ、目標を孤立させ、追い込むって普通の戦略だよな
北条も、織田も、徳川も、毛利、尼子、大内、結構見られるよな
よく見られる戦略が「光った」戦略で、それをすれば名将なのか?
それとも他に解釈の仕方があるのか?
俺の解釈で会ってるなら、まるで日本全国名将の大バーゲンセールだな
北条包囲網は地域的に大規模ってのは理解できるが、関東遠征は違うよな
越後との和睦は政治情勢というか、関係上大規模ってことか?
大規模だから、「光った」戦略なのか?
おまえの「光った」の基準がいまいち分からんのだよ
だから具体的に、何が光った戦略で、どういうものが[光る」要素なのか知りたかったんだが
答えてもらえるかな

>>300
特定の誰かをさして「できるやつ」とは言ってないだろう?
現状を鑑みて、手に余る仕事をしているのは少なくとも有能ではないといっている
結果的に仕事をこなせたとして、仕事に終われたことに変わりはない
0302人間七七四年2008/12/01(月) 22:43:42ID:BE+ndpL4
>>301
優れてるかどうかって他者との相対性って大事だと思うが。
同格以上の上杉相手に分断戦略やって見事に領土拡大したのは見事だと思うが。
他の連中で同格以上にこれやってる例教えてちょ。
ていうかさ、お前はマイナス面は他者との比較は関係ないといって
プラス面は他者の比較をだすわけか?めちゃくちゃすぎだろ。
後、俺は北条・織田・毛利なんかの連中と武田が隔絶してるなんて思ってないがな。
関東遠征もその移動距離や行動・影響からいって十分大規模だな。
越相同盟はその影響や将軍使って大がかりに外交してる所だな。
「光った」ってのはようするにその戦略で優れた効果を生み結果を出したということだ。
実際その結果みれば十分だろ。

>>300に対して云ってる理屈だと日本の戦国時代に有能いないぞ。
2年もしないで大敵から結果をだした信玄でもダメなら。
ここにもこたえてくれや。
0303人間七七四年2008/12/02(火) 17:52:46ID:UZybS+L+
>>301
一つ一つはありふれた手なのに、
その一つ一つ確実に成果を上げて、状況をひっくり返していることが
光った戦略というものだろうに。

というか戦略ってのは一つじゃなくて、すべてが繋がりあっているもの。
どれか一つの要素を取り出して、それが普通とか良い始めるのは戦略というものを理解していない。
0304武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 10:57:15ID:9KZlEmST
1.>>289さんへ。遅くなりました。
(1).『甲陽軍艦』品第三十四「信玄公駿州仕置の事」より
「家康は入山瀬という所に到着して信玄公へ使いを進めて申すには…

『今川氏真が掛川にいます。氏真の事は家康に任せて下さい。
(だから)一緒に攻めて欲しい。信玄公が駿州を支配したいのなら、
その軍事力をもって大井川まで進出し、
遠州一国は家康が手柄次第に切り従わせる。』

と申して来ました。
駿河に差し出していた家康の人質を、
氏真は見捨てて掛川に退却してしまったので、
(信玄は)家康の弟松平源三郎の身柄を確保していたのである。

(それだから)信玄は『(川切りの件は)承知した』と言い、
家康とは問題が起こらなかった。これにより家康は掛川に赴いた。」
-------------------------------------------------------------------
(2).「三河記」中より。こっちは「大日本史料」十之一に掲載してあるので信憑性増し。
(秋山と奥平・菅沼の戦いのあと)家康は浜松を出て、(秋山と)戦う。…中略…
(信玄は)氏真が掛川にいるから、家康と共に(氏真を)攻め討つべく、
大井川を境とし、駿河は信玄、遠江には家康が支配しようと約束した。
(その後)秋山は、…中略…(遠州を撤退し)駿河に入る。

とこんなところです。
0305武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 11:03:41ID:9KZlEmST
>>296さんへ。
1.レス有難う、かつあなたも苦労されたのですね?
情報が混乱しているのは2つ考えられます。
(1).秋山隊の進路と、三方ヶ原戦役で信玄が通ったルートが重なっているので、
  きっと混同しているのでしょうね。
(2).「徳川に忠実であった」と子孫が示したかったのでしょうか?

2.日程表。あくまでも「私見」
永禄十一年(1568)
・2月16日 信玄・家康、共同出兵を約束。互いに誓詞を交わす。
・8月 家康→家臣小笠原貞信ら宛書状(唐津小笠原文書)。
「(信玄に内通している)犬居城主天野藤秀が領内に配っている回文を入手しなさい」

12月12日 信玄、駿河侵入。家康は西から秋山隊2000〜3000は北から遠州侵入。
     家康→遠州井伊谷国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時宛起請文写・判物写。
     (「甲州云々」あり。詳細は>>265)
?日 天野藤秀、一方で天方城・遠州飯田城を味方に付け、
(↑これらは犬居⇔掛川へ至る街道上にある城)
他方では秋葉山・光明山・只来城を味方に引き入れて人質を取って秋山隊に渡す。
(↑これらは天竜川沿いにある山、城)
秋山は天竜川に沿って南下し、二俣城に入る。

?日 秋山、徳川方の久能城(袋井市)主久能宗能を攻撃するも失敗。
?日 秋山、見付を占領し、阿多古山(愛宕山)に陣する。
(磐田市見付…ここには遠江の国府があり、商工業の盛んな町だった。)
?日 徳川先陣の奥平・長篠菅沼・田峰菅沼が、秋山隊を攻撃するも敗退。
18日 家康(つまり徳川本軍)、浜松入城。

20日 家康→匂坂(さきさか、現磐田市、豊田町)城主匂坂吉政宛判物。
   所領790貫文安堵。
   (これ以降の家康書状から「甲州云々」がなくなる。詳細は>>265)
21日 家康→久野宗能宛判物。所領2500貫文安堵。
23日 信玄→家康宛書状。「掛川城攻撃を要請」詳細は>>205
?日 大井川を境に駿河を信玄、遠江を家康が支配することを取り決める?
   『軍艦』『三河記』

?日 家康、天竜川を渡る。秋山、遠江の占領地と人質を家康に渡して信州または駿河に後退か?内容は>>253
26日 家康→鵜殿氏長ら宛起請文写&判物写2通
   「鵜殿らに二俣城の守備を任せる&本領安堵する」
27日 徳川軍、掛川城包囲す。
28日 家康→久野千菊丸(宗能の子。家康の人質になっていた)宛判物。本領加増。
29日 氏真→天野藤秀宛感状。朝比奈泰朝→天野藤秀宛副状(天野文書)。
   (天野、秋山と縁を切り今川に属す?)

永禄十二年(1569)
1月2日 家康→天野藤秀宛判物写『遠江国風土記伝巻八』。
    内容は所領500貫文安堵。(天野、家康に付く?)
8日 信玄→家康宛書状写。
「信玄の思う所を使者の口上にて…秋山撤退するから掛川を早々落城させてほしい」
9日 信玄→信長宛書状。
「信長と家康が(信玄に)疑心を抱いているから、(信玄は掛川城攻撃に参加せずに)遠慮して、未だ駿府に滞在中」
16日 家康、掛川城の北の天王山に布陣する。
とこんな所です。
0306武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 11:08:36ID:9KZlEmST
>>294さんへ。
>柔軟な外交というか北条と武田では状況が違いすぎるんだが。
簡潔な説明、宜敷お願いします。

とりあえず浅はかな知識から「柔軟な外交」を考えてみたよ!
(1).条件としては…2つ
@松姫と信忠を結婚させる。
A勝長を返還する。もしくは新しい盟約のため人質生活継続。

(2).時期としては…2つ
>>251>>255-257>>261-264さんが詳しく状況説明しているので…
私の説明はカットね。

@三方ヶ原の勝利(1572年12月22日)ののち信玄・信長は和睦する。
すると勝頼は、信長・氏政と盟約がある状態で家督を嗣ぐ事が可能?

A信玄死後、信長と和睦。(1573年4月12日)
勝頼は、本願寺と縁がないから手切れも可能じゃない?
仲介役は京在住の信虎さん。
0307人間七七四年2009/01/22(木) 23:41:41ID:pYtbfwKj
最近ちょっと調べたら
1572年以降も北条は駿河に定書などの行政文書残していた
再同盟後も駿河の一部は北条領だったのか?
0308人間七七四年2009/01/23(金) 00:24:36ID:T5FbHfDS
そう。

再同盟に臨んで領土調整が行われてる。
簡単に言えば、駿河(黄瀬川・狩野川以西)は武田のもの、武蔵は北条のもの。
両家とも、当該地域にあった城を相手に明け渡してる。

逆に言えば、黄瀬川・狩野川以東の駿河は北条領として残った。
沼津の大平山のあたりなんかが北条領として残った駿河。
0309人間七七四年2009/01/23(金) 00:30:59ID:RnnB3OUU
おお素早いレスthx
0310人間七七四年2009/01/25(日) 06:00:56ID:O+4kYq6E
岩村攻略が最大のやらかしだったな。
あれさえなきゃ信玄の死後和睦できたと思う。
0311人間七七四年2009/01/25(日) 11:52:39ID:3ajEAuGb
>>310
長篠後にも、一度織田から打診がなかったっけ?アレはただの俗説?
0312人間七七四年2009/01/25(日) 11:53:35ID:3ajEAuGb
とりあえず、岩村を攻略していないと、木曽がもっと早々に寝返った可能性もある気がする。
0313人間七七四年2009/01/25(日) 20:33:51ID:L+CM4vsg
どうなんだろ、自分は一次史料ではまだ確認できていない。
0314人間七七四年2009/01/29(木) 23:05:11ID:Xu4nWvL8
遠江小山城について簡単に調べると1570年以前に武田が領有し、それを徳川が攻防の末1570年に取り戻したように書かれているが、
これは合っているのでしょうか?
0315人間七七四年2009/01/29(木) 23:21:01ID:JYXbsnEv
1578年武田築城、1582年徳川奪還→廃城では?
0316人間七七四年2009/01/29(木) 23:24:44ID:JYXbsnEv
失礼、その以前か、1570年は。
1570年以前が武田、1570年に徳川、翌年に再び武田、その後改築、1582年炎上、徳川へかな?
0317人間七七四年2009/01/29(木) 23:34:17ID:Xu4nWvL8
やはりそんな感じか。
この辺が原因で武田と徳川は結局戦うことになったのかな。
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