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武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2

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0001人間七七四年2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP
立てた。
0006人間七七四年2008/02/12(火) 04:55:56ID:Gwu62lrb
前スレ>>998


30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/07/23(日) 23:34:28 ID:Sr9fEDKH
>>28
実はそれは信玄の遺言らしいよ。
信玄が上杉と同盟しろと息子の勝頼に言ったそうだ。



0007人間七七四年2008/02/12(火) 07:32:21ID:nrix+xtl
信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。

今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。

義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。

四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。

本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。

四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。

どう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
0008人間七七四年2008/02/12(火) 12:48:26ID:GTLHdq5n
前スレからコピペ

>信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。

後半は同意するとしても前半は無理ないか?信玄はかなり前から病を患っていた
といわれてる。それをなんとか押して上洛に出たんだろ。
信玄が死んだ後、強大になった織田が武田家を放っておいてくれるとは思えんし
健康が悪い事を承知で勝負に出たんだろ。健康管理だけの問題ではないと思うぞ。

>今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。

今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
家康にとらてしまっている三河を分割する案さえ跳ね除けられてるのに。
それと三国同盟が結ばれたのは信玄がまだ信濃もとってない頃だと思うが。
予言者じゃないんだから10数年先の義元敗死から今川との関係悪化までの
流れを全部読みきって事前に手を打っておくのは無理と思うが。
特に義元敗死はどの大名にとっても意外な事態だったろうし。
後、当時の武田にとって今川との同盟関係をさらに強固にしておく事は重要で
その意味で義信の妻が今川から来たのは無理が無い事だと思うが。

>義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。

勝頼陣代説だが、これは一次資料の裏づけがないそうだぞ。

>四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。

代が変われば若い家臣が側近となるのは結構よくある事だぞ。

>本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。

信玄の時代に本拠を諏訪に移すべきだったというがいつごろ移すべきだったと思うんだ?
武田家は甲府に根付いた名門だし、甲府は要地だ。そんな簡単には移れまい。
それに北条や今川との戦いではむしろ甲斐が本拠でよかった面もあるだろう。
それから道についてだが、戦国時代道を整備するのはリスクを伴う事だし、
信玄は信濃を通るに当たって棒道を良く使ったとも言われる。
道のことを考えなかったわけじゃあるまい。それから新府城は壬午軍乱のとき
徳川家康が本陣としているし、戦略上無駄な地ではなかったようだぞ。

>四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました

小山田や穴山はもともと一つの勢力としてやってきた歴史がある。
信玄以前の武田家の拡張においてその傘下に入った。(建前は同盟関係。実際は違うが)
彼らにとって武田家の傘下に入ったのが生き残りの選択だったように
織田に寝返ったのもそうだったんだろう。それは戦国の数多の豪族の行動原理でもある。

全体的に後付の論理が多くないかな?滅亡原因うんぬんでいったら信長や秀吉も
そうなってしまう。ただ勝頼はよくやったほうだと思う。それでも長篠等の
いくつかの失点はある。全てを信玄のせいにするのもどうかな、と思うよ。
0009人間七七四年2008/02/12(火) 12:50:02ID:GTLHdq5n
>>5
信忠って武田攻めでは高遠以外でろくに戦ってないじゃん。
織田・北条・徳川に圧倒的な大軍で攻められて戦う前から武田家は自壊してたし。
0010人間七七四年2008/02/12(火) 17:30:32ID:VUdrewOB
やー、戦う前から自壊してた、じゃあますます武田家の立場が…
そこは信忠が優秀だったから仕方なかった、と思いたいんだよね、武田スキーとしては

つか三者から攻められて逃げ場なかったのも信玄の負の遺産だし
謙信は、信玄が死んだら早速のように信長に「一緒に武田を滅ぼしましょう」なんて持ちかけてるし…
今川北条との同盟を残した信虎とはえらい違いだね
信玄と勝頼を比較した場合、軍事では勝頼に軍配が上がっても、総合力では信玄が上なんだろうが
それでも上二人より信虎の方が遥かに優秀だったんではないか、と思うよ
0011人間七七四年2008/02/12(火) 18:33:13ID:t3KcpVEu
信忠の能力は決して低くないけど、勝頼みたいな猛将タイプだと楽には行かない。
織田にとって武田は徳川や北条と勝手に戦ってくれれば別に問題ないし、
当時の武田もワザワザ織田に攻撃を仕掛ける程の余裕は無かった。
それなら武田が崩壊するの待った方が得策。
実際木曽謀反の知らせを受けて武田征伐が決まったし。
0012人間七七四年2008/02/12(火) 19:47:16ID:OQZCsEiL
>>10
最後の段階で北条が敵に回っていたのは、さすがに勝頼の責任でしょう。
信玄は少なくとも北条との関係改善はやってから死んでいるのだから。
0013人間七七四年2008/02/12(火) 21:44:15ID:GTLHdq5n
>>10
>>12の人も言ってるけど信玄は北条との関係はちゃんと改善して同盟を残してる。
武田は北条の対上杉に協力し、北条は三方ヶ原において武田に援軍も出してくれてる関係。
時々信玄死亡時に北条と敵対してたかのように言う人がいるのがなぜなのか非常に不思議だ。
勝頼が北条の方にも戦いを広げた結果1582年の時点で武田は疲弊しきってた状態だし。
これで織田・徳川・北条に攻められたのでは自壊もやむないよ。

あと信虎は最後まで北条とは同盟してないよ。
信虎が残したのは今川と同盟して北条を牽制する路線。
北条との同盟が結ばれ今川・北条・武田の三国同盟が結ばれるのは信玄の代において
河東一乱において今川と北条の戦いを信玄が仲介する事をきっかけとする。
0014人間七七四年2008/02/12(火) 21:49:02ID:W/9Kh13w
>>9
実は北条は武田が滅亡したという報が入るまで国境付近に陣を張ったまま動いてない
0015人間七七四年2008/02/12(火) 21:55:41ID:GTLHdq5n
>>14
確か武田の西上野の重要拠点である箕輪城は2月の段階で北条に攻略されてたはずでは。
勝頼滅亡は3月11日。
0016人間七七四年2008/02/12(火) 21:59:46ID:ldrStON7
箕輪城が北条の手に落ちたのは2月28日らしいが、
攻城戦はなかったのでは?
0017人間七七四年2008/02/12(火) 22:03:14ID:GTLHdq5n
城が手に落ちている以上軍隊が進軍しているような。
>>14のいうように陣を張ったまま動いてないという事はないのでは。
0018人間七七四年2008/02/12(火) 23:48:17ID:aXHMNhhq
織田・徳川の武田掃討戦とは違う戦いじゃないの?
0019人間七七四年2008/02/13(水) 09:14:51ID:zZgZWKeV
北条の箕輪奪取も織田・徳川に呼応して攻め込んだもの。
時日も1582年2月で織田・徳川の侵攻と同時期。
勝頼が滅ぶのは3月11日。
0020人間七七四年2008/02/13(水) 17:29:03ID:wMMMhloD
上野方面は軍事力を背景にした調略が主だと思う。
逆に駿河方面は結構城を落としている。
>>14の言うようなのは俗説にすぎない、信長だって駿河方面の働きに関しては認めている。
上野方面は、滝川の関東入部の為にあえて何も言わなかった可能性があるとおもう。
0021人間七七四年2008/02/14(木) 03:31:53ID:cOeulvQF
>今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
こんな方法いくらでもあると思うけど
0022人間七七四年2008/02/14(木) 12:41:48ID:ZuMqmjoE
>>21
・彼我によほど大きな差がある、乃至は事前に戦で大勝してかなわないと認識させている。
・時間をいくらかけてもいい。
・他国からの介入はほぼ考えなくてよい。
のなら、方法はいくらでもあるだろうけどな。
0023人間七七四年2008/02/14(木) 17:07:07ID:sKvpu2lw
今川家を温存したまま実権握って乗っ取ればいいんじゃない?
0024人間七七四年2008/02/14(木) 17:39:37ID:+yaj6Hdy
氏真じゃ当主にふさわしくないということで隠居してもらって、
義信の子(産まれたら)を今川の当主にすれば乗っ取りは可能だけど、
北条が氏真を担いだら史実とあんまり変わらないだろう。
0025人間七七四年2008/02/14(木) 22:11:11ID:POKPCVYr
合戦はオレに任せろ!と今川の家臣を自由にする権利を得たあと
徐々に取り込んでいって
0026人間七七四年2008/02/14(木) 22:28:34ID:QfgnhrV8
>>23
どうやって?
他家である武田家に実験を握ろうとされて今川がはいそうですかとはいわんでしょ。
この場合でもまず一合戦して実力差を見せ付けるなり相手の抵抗力をそぐなりしないと。
>>25
信玄が三河攻め持ちかけた時の今川の返答によると
織田と同盟してる武田なんか今川にしてみると半分敵だそうです。
家臣を自由にする権利なんかくれそうにない。
0027人間七七四年2008/02/14(木) 23:01:32ID:qkrHDVGP
>>26
実際は家臣団が武田の調略にあってまともに抵抗できなかったんだろう氏真。
他家とはいえ義信の嫁が義元の娘。
もちろん義信が死んでいなく親父の戦略に賛成したら乗っ取りも可能だけど、
義信を殺して嫁を駿河に返した時点で絶縁したのだからその手は使えない。
0028人間七七四年2008/02/14(木) 23:25:46ID:2Rt9Rbq4
武田バブルの始まりは三方ヶ原の戦いで
バブルの崩壊は長篠だと思っている。
滅亡は運が悪かっただけ。


今の日本の借金だらけは田中角栄のせいだーに似てる気もする。
解説は↓
0029人間七七四年2008/02/14(木) 23:40:00ID:2Rt9Rbq4
そもそも武田”バブル”の始まりとされる三方ヶ原というよりは
信玄の西上作戦は朝倉義景の撤退により事実上の破綻をきたしていた。

おかげで2万の兵を信長が動員する事が可能になって徳川軍との
挟撃が可能になった。でも家康が(その当時はトンパチで有名)が
先制攻撃を仕掛けたせいで、各個撃破するチャンスを信玄に与えて
しまったと思う。三方ヶ原の勝利という会心の一撃で
武田バブルの始まり。でもそれが武田強しを武田家内外にしめした
ことで常に戦い勝つ事を勝頼に要求されたのかもね。
ぶっちゃけ信長包囲網がない場合に織田全勢力vs武田全勢力で
戦っても武田は勝てなかったと思うし。三方ヶ原の時こそ絶好の
タイミングだと思う。(でも志賀の陣の時の方が信長は追い込まれていたが)
長篠の時は越前と琵琶湖を掌握してるから更に信長は強くなってるし。
0030人間七七四年2008/02/14(木) 23:52:49ID:2Rt9Rbq4
で信玄の死後、勝頼は手紙を書く時も信玄の名前を騙ってたし。
明智城攻め、高天神城攻め、そして長篠城攻めと。
万を越える軍事活動をしたのも。武田家内での
自分の支持を高める為、また勝ちつづける事でしか生きていけない
武田家の方針。(また敗北は自身の支持を落すことになりかねない。)
それによって内政が疲弊したとしても。(信玄時代から重税で
西上作戦の頃には破綻寸前というか破綻したという説も)

でバブルが弾けた長篠にしても設楽ヶ原に誘い込むかのように
弱い事を信長は風潮してまわって。長篠は織田・徳川の
鶴翼の陣で柵を構えたように言われてるけど。
実際は、徳川軍主体で、織田の援軍数千が設楽ヶ原にいて
織田の主力のほとんどは後方で待機。(長篠自体が8時間の長丁場なので)
織田の本体が前線の部隊に”補給”もしくは”後詰め”する
ような形で圧倒した。で勝頼はまけるべくしてまけた。
0031人間七七四年2008/02/14(木) 23:57:52ID:qkrHDVGP
なんか真珠湾後の日本みたいだな武田は
0032人間七七四年2008/02/14(木) 23:59:18ID:2Rt9Rbq4
で破綻した武田家と経済を立て直すために勝頼は
改革として新府城と新しい城下町を建設した。
幸い、信長自身は武田領にさほど関心が無かったので
(美濃・遠江の緒城以外は)攻めてくる心配はなかった。

滅亡の原因は不運な謙信の死と木曽氏の反乱。
0033人間七七四年2008/02/15(金) 00:00:31ID:2Rt9Rbq4
>>31
あと長篠の戦い=ミッドウェー海戦にもよく似てる。
ウィキでミッドウェー海戦について調べたら経緯とかもよく似てるし。
0034人間七七四年2008/02/15(金) 00:02:49ID:3y7OEbtb
今川の重臣をそそのかす
 ↓
クーデターを起こさせ氏真を暗殺させる
 ↓
武田が犯人を正規の合戦で倒す
 ↓
今川家は武田の物
0035人間七七四年2008/02/15(金) 00:14:41ID:aCw5qiNw
>>34
北条の存在がある以上そんな簡単にクーデターで氏真を倒せるだろうか。
武田家とのつながりで重臣がクーデターを起こしたのだとしたらうまくいっても
やっぱり北条の動きが問題になりそうな気がする。
0036人間七七四年2008/02/15(金) 00:31:29ID:yMj66ajA
>>31 >>33
日本は武田みたいに滅びなくて良かったな〜。
0037人間七七四年2008/02/15(金) 10:10:52ID:wUwaQZpQ
三方ヶ原がバブルの始まりというけど、武田ってこの一連の遠征に必要な
軍資金の捻出にかなり苦労してたはず
0038人間七七四年2008/02/16(土) 04:29:42ID:SK3vBEXc
>>37
バブル=経済が好景気
という意味ではないこの場合。

少なくとも三方ヶ原の勝利の時点で武田の(強さの)株がうなぎ上りに
なって、長篠前夜までに(信長の陽動で、”武田強いよー恐いよー”
的な事を触れ回ってたせいもあるけど)強さのバブルに
関しては現在に誇張されるくらいまで高かった。
経済が貧困だったのは言うまでもないが。
(なにせ、北条領から出ていって戻ってくる奴はいるけど、
武田領から出ていって戻ってきた奴を見た事無いといわれる
くらい重税かつ過酷といわれてたが)
長篠前夜までの武田家は
勝ちつづける

戦い続ける

多くの金がいる
という悪循環で経済が疲弊してたし、長篠でバブルが弾けて
結局、勝頼は内政重視に方向転換せざるをえなかった。
この悪しき悪循環を作った張本人は信玄であり。
信玄の頃は領土と広げる事で金を得ていたが、
勝頼の頃はある程度大きな大名が周辺諸国を平定してて
(大きないくさをして勝たない限り)大きく領土を広げれない
状況だったのも事実。
0039人間七七四年2008/02/16(土) 17:31:34ID:RcM1PeQ3
金が無くて貧しい

金を得るために戦争

戦争のために金が必要
0040人間七七四年2008/02/17(日) 04:24:05ID:A8MdP0rD
信玄は家康に「貴公は尾張に入られよ。わしは美濃に入る」とか言って家康と織田領
0041人間七七四年2008/02/17(日) 04:27:39ID:A8MdP0rD
信玄は家康に「貴公は尾張に入られよ。わしは美濃に入る」とか言って家康と織田領を
今川の時と同じく奪えば良かったのに。
0042人間七七四年2008/02/17(日) 17:35:20ID:a4466s/u
家康は馬鹿じゃないんで、信玄なんかより信長の方が圧倒的に実力が上だと見切っていた
信玄と手を組んで強大な織田軍団に歯向かったところで勝てる訳がない

事実、家康は信長に逆らわぬまま生き残り、信玄は単独で家康を潰すことも出来ずに寿命が来て死亡
0043人間七七四年2008/02/17(日) 23:28:00ID:JHe/Lfzc
時系列をちゃんと考えて書けよw
武田と同盟して今川を挟み撃ちにして潰したのが1568年
この1568年までに徳川は同盟しているはずの武田から攻撃を受けたりもしていて
武田が信用に値しない事が今川滅亡までに分かっていたはず。
武田との同盟は、武田側から反故にされている状態なのでありえない。

一方、織田はその前年に斉藤家を滅ぼして拠点を岐阜に移したが、
織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している。
今川が滅亡した年には足利義昭を奉じて上洛しているが
この時点で「織田は強大で勝てるわけがない」と思うわけがないw
0044人間七七四年2008/02/17(日) 23:44:01ID:3yJKopT3
信用は外交において重要な要素の一つだよな。

もちろん家康が織田と運命を共にする必要はないが、
「武田と織田どちらを選んでも苦労します、しかしどちらかと手を組まねばなりません。さあどっち」
と言われれば織田を選ぶだろ、手前勝手な協約違反を犯されている家康にしてみれば。
遠江の協約違反は、信玄にとっても勝頼にとっても高くついたかと。
0045人間七七四年2008/02/18(月) 00:43:01ID:p5snrVml
まああれも家康に抗議されたら信玄は謝ってすぐに兵を引かせてるんだけどね。
そんでその後に家康は上杉と対武田で手を結ぶ。
そんで武田は1571年に駿河の戦況が一段落したら徳川領土に進撃して各地を
攻略する。1572年が西上。
家康にしても西が織田家である以上、いづれは武田の敵と結んで武田を攻めたような
気がしなくもない。家康にしてみれば領土拡大を目指そうとすれば西が織田である以上
東の武田を攻めるしか領土拡大の道がないわけで。
0046人間七七四年2008/02/18(月) 10:42:59ID:UFtsMm6L
>>45
実力だけで見るなら武田と結んで織田領侵攻の可能性もあったんだろう。
上洛前の織田は武田と比べてまだ新興勢力だし、石高もそれほど違わない。
それでも武田と敵対してしまったのは武田家の行動に対して不信感を抱いてるからだろう。
0047人間七七四年2008/02/18(月) 17:43:23ID:h8baApBq
徳川が三河を平定して遠江に領土を拡大させている時期に
織田は美濃攻めで10年も足踏みしてたからね。
この時期徳川は織田とも武田とも組んでいたわけだけど
今川が消滅した時点で織田が美濃を平定していなくて上洛もしていなかったら
例え不信感があったとしても、織田を捨てて武田と組まざるをえないかも知れない。
織田がいいタイミングで勢力を伸ばしてくれたので武田を捨てる事が出来て
結果として徳川にとっても良い選択になったね。
0048人間七七四年2008/02/18(月) 18:03:53ID:UFtsMm6L
武田は西ではなく東に進むべきだった。
織田、徳川を後詰め北条を倒して関東を手に入れたら例え織田が大きくなっても関東+甲信駿なら十分対抗できるし、
謙信が死んだあと織田と挟み撃ちすれば越後越中まで手に入る。
欲を出して上洛したのが間違いだったな。
0049人間七七四年2008/02/18(月) 20:00:16ID:u919jZC1
>>43
>織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している
いったい、いつのことですか?
清洲同盟締結時は信長は尾張ほぼ一国。家康はいうまでもない。
その後家康が三河を統一したのは66年(ただし水野氏など織田領もあるので完全とは?)
その頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。
もう一度お聞きしましょう。いったいいつ、徳川の領土が織田を上回ったんですか?

>>47
>美濃攻めで10年も足踏みしてたからね
誤解というか、知らないで言っているのか。
信長が本格的に美濃攻略を始めたのは1561年から。そして67年には美濃全土征服完了。
どのような特殊な数え方をすれば10年になるんですか?

もう一つ指摘すると、美濃に関して信長はずっと苦戦していて最後に稲葉山を攻略
して征服したと思われているが事実は違う。61年の開始以降、東でも西でも少しずつ
侵略を進めて、67年にはもう斉藤氏は美濃中央部をなんとか保っているというくらい
押し込まれていた。途中からは北伊勢と同時侵攻を始める始末。67年の稲葉山開城は、
最後のトドメというくらいのもの。
0050人間七七四年2008/02/18(月) 23:58:17ID:ykieHPLs
その後家康が三河を統一したのは66年(ただし水野氏など織田領もあるので完全とは?)
その頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。

このウソ凄い
0051人間七七四年2008/02/18(月) 23:58:26ID:p5snrVml
>>46
信玄が駿河侵攻を開始したのは1568年12月。
信長が上洛開始したのは1568年9月。
というか既に武田領内への塩止めを行い上杉とも結んでいる今川を放置しておくわけにも
いかない。
この時期の武田は織田領国への侵攻というのは考えられる状況じゃない。

>>48
その徳川が上杉と結んで武田に敵対しているからこそ武田も北条戦の間隙をぬって
徳川領土に侵攻したわけで。
そして徳川と戦うという事は織田との戦いも意味するわけで。
0052人間七七四年2008/02/19(火) 03:55:53ID:s2dD6kQD
>>50
嘘?水野氏は村木救援などでわかるように、桶狭間以前から織田方。家康
との仲介を務めたあとも明らかに織田に従っている。
尾張については、推定で64年9月頃に犬山を攻略して完全支配。
美濃では64年に鵜沼城、猿啄城を落とし、65年には加治田城が調略で降服。
さらに堂洞城を落とす。

自分は何も提示せず根拠もあげずに人の発言を嘘よばわり。最低の態度ですね。
0053人間七七四年2008/02/19(火) 06:49:28ID:VXhfmrik
>>51
だから織田徳川と敵対せずに東に行けばいい話じゃないの?
あわよくばと思って徳川に手を出して、さらにその後ろの織田にも手を出したのが致命的。
領土拡大以外に明確な戦略がなく、海を手に入れても無節操に外征しまくったのが一番の失敗。
0054人間七七四年2008/02/19(火) 11:03:24ID:hAaU+bw7
>>53
だからあわよくばじゃないんだってば。
北条との戦いに集中するには後ろの徳川を一発ぶちかましておかないと
背後をつかれる。徳川攻めにもちゃんとした理由があった。
第一畿内の反織田勢はそろそろ危なくなってきたから信玄が東を攻めている間に
信長に畿内の覇権を確立されちゃどうしようもない。
実際信玄病死後に反織田勢がつぎつぎとつぶされていったのを見れば明らかだろう。
だから北条とはほどほどのところで和睦して西へ向かった。
0055人間七七四年2008/02/19(火) 11:40:24ID:g5xc3ABi
>>54
ぶちかますも何も、徳川とは同盟してた。
駿河は武田、遠江は徳川という取り決めもあったが、
武田が先に破った。
時間軸を見直せ。
0056人間七七四年2008/02/19(火) 20:00:26ID:hAaU+bw7
>>55
だから、その時に信玄は家康に注意されたらさっさと兵を引いてるんだよ。
そっちこそ時間軸を見直せ。そんで信長にも家康に遠慮して遠江以降には入らないと
言っている。
その後で家康が上杉と対武田で同盟を結んだから信玄は北条攻めの間隙をぬって
徳川領土侵攻をせざるをえなかったんだよ。
0057人間七七四年2008/02/19(火) 20:10:27ID:chl55akr
>>56
家康にとっては約束破って進入してきた武田に対する策として上杉と盟約を結ぶのは当然の行動だろ。
そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない。
一度約束を破ってるのだから両者間に緊張の糸が張り詰めるのは当然の事で、
約束を破られた相手が対抗処置を取るのもまた当然。
時が経てば緊張が和らぐ可能性もあるのに再び武田側から約束をぶち破るとか・・・
徳川が対武田の策を練ってきたから以前に最初武田が約束違反をしたのが最大の問題だろ。
0058人間七七四年2008/02/19(火) 21:41:53ID:hAaU+bw7
>>57
>>そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない
上杉と徳川の同盟は1570年10月8日。秋山の遠江侵入が正月。
この間に詫びも入れたけど徳川は上杉と対武田の同盟を結び敵となる道を選んだ。
そして1571年に駿河攻略がひと段落した後の徳川攻めが1571年2月から。
北条との戦いに忙しい信玄としてはそんな悠長に待っているわけにはいかん。
駿河がひと段落した間隙をぬって徳川に一発ぶちかましていくつもの城を攻略し徳川軍にも打撃を与え
山家三方衆なども服属させてその力を削いだ。これによって徳川の動きを封じることが出来た。
絶縁し上杉と対武田の同盟を結んだ時点で家康は武田に対する敵対意思を表明したようなもの。
これを放置して北条との戦いに集中してる間に背後をつかれる危険性は放置するには大きすぎる。
0059人間七七四年2008/02/19(火) 22:50:37ID:VXhfmrik
>>58
だから同盟結んでるのに侵入した時点で下心見え見えだろう。
信玄も徳川と同盟を結んだものの、本心は徳川が今川で手こずってる間に駿河と遠江の大部分を
頂くつもりだからわざわざ氏真を遠江へ追い出したが、まさか徳川があんなに早く遠江を平定する
とは思ってなかったから、ちょっかいを出して邪魔してみたんだろう。
家康も馬鹿じゃないから、信玄の狙いはわかったらすぐ手を打って背後の上杉と結んだんだろう。

先に侵入しといて「徳川の脅威」とか吹聴するなんてどっかの覇権国かよ。
0060人間七七四年2008/02/19(火) 23:17:11ID:hAaU+bw7
>>59
だから、結局その後で謝って兵を引いたし弁明もした。
すぐというが時間軸は秋山遠江進入が1568年12月18日。
信玄が徳川に謝るのはこの1568年12月23日。
徳川と上杉の同盟は1570年10月8日だぞ。
この間に信玄は北条と対峙して戦い、一回甲斐に戻って小田原を攻め、さらには駿河を
攻撃したりして目まぐるしく戦っている。秋山進入からすぐに徳川と上杉の同盟が結ばれたと思っているなら
それは間違いだ。さらにこの間の1569年4月24日に信玄が一端駿河から撤退すると
5月17日には今川氏真に対して
(武田領国である)駿河に戻してあげるから掛川城明け渡して、という交渉を行って開城させている。
信玄が北条との対戦にかかりきりになっている情勢を自分の勢力拡大に都合よく利用しようという意思は
家康からも十分見て取れる。
1570年10月における徳川上杉同盟は武田が情勢を挽回して駿河を再び手中にしつつある状況を鑑みて
1569年5月17日における自身の行動も鑑みての行動と考えたほうがわかりやすいだろう。
0061人間七七四年2008/02/19(火) 23:45:29ID:VXhfmrik
>>60
人のレスを読め。
侵入したことによって不信感を抱かせてしまったんだろう。
配下の雑兵が迷い込んだならともかく、武田家の重臣が一軍を率いて堂々と侵入した。
いくら謝ろうがこんな行動ができるのは信玄の指示なしにはできない、と思われるのは当たり前。
んなソ連軍や中国人民解放軍並みの言い訳を100%信用するほど戦国の世は甘くないよ。
だから家康も上杉と結ぶ決断をしたんだろう。

とにかく人のレスをしっかり読んでくれ。
0062人間七七四年2008/02/19(火) 23:52:14ID:wbl0iydE
家康も息子をぬっころしてるし。あんまり言えないんだが。


信玄の場合は義信が駿河侵略の障害になったという”大義名分”があるけど。
家康の場合は、単にむかついたから信康を殺したという説が
近年有力なんだが。(信長が命令というのが通説だったけど、
この事実を隠す為に誤魔化した可能性があるんだが)
0063人間七七四年2008/02/19(火) 23:52:27ID:hAaU+bw7
>>61
だからそっちも人のレスをしっかり読んでくれ。
家康は上杉と結ぶ前に、武田が駿河から一端撤退したのを見て
今川氏真に武田の取り分であるはずの駿河にもどしてあげるから
掛川城を渡せ、という交渉を行って開城させているんだよ。
これも立派な背信行為でなくてなんだという。
それで武田が情勢を挽回して駿河をほぼ手中にしそうだから自身の背信行為も踏まえ、
さらなる勢力拡大の為に上杉と手を結んだと>>60には書いてある。
>>60には時間軸もあるからちゃんと見てくれ。
0064人間七七四年2008/02/19(火) 23:55:22ID:VXhfmrik
>>63
アホですか?
秋山の侵入が先なのになぜ背信行為とかになるのか意味不明。
人のレスを読め。
秋山の侵入が徳川に危機感を抱かせ、武田家に対する不信感を植え付けたって書いてあるだろう。
日本語がわからないのですか?
0065人間七七四年2008/02/19(火) 23:59:04ID:KggvdTXm
>>62
むかついたって・・・
岡崎派閥と浜松派閥の確執説じゃないの
0066人間七七四年2008/02/20(水) 00:03:10ID:UidaDws/
>>64
わかってるといってるだろう。
秋山の侵入の後で信玄は謝ったし兵も引かせた。
まずこの事実をちゃんと見ろ。
信長に対しても家康に遠慮して遠江に入るつもりはないと説明してる。
そして家康もこの時からしばらくは武田に対して不穏な動きは見せていない。
だが家康は信玄が4月24日に駿河から一端撤退してすぐに戻ってくる気配が
ないとみるや5月17日には掛川の今川氏真に対して武田の取り分である駿河に
戻してあげるから掛川城を渡せといっているんだよ。
これが武田が北条との戦いにかかりきりになっている状況を利用して自分の勢力拡大を目指そうとする
背信行為でなくてなんだという。そちらこそちゃんとレスを読め。
0067人間七七四年2008/02/20(水) 00:07:56ID:O6f9NGt9
>>66
だから、そんな言い訳が信用できないから家康が手を打ったんだろう。
配下の重臣が軍を率いて堂々と侵入するのは当主の命令がないと無理。
もし織田の明智が数千を率いて信濃に侵入すれば普通に同盟破棄だろうに、
なぜ武田になると基準が甘くなる?
0068人間七七四年2008/02/20(水) 00:13:57ID:UidaDws/
>>67
当時の遠江は武田の信濃におけるほど確定した家康の領土じゃないだろう。
そのまだ自分の領土じゃない領域に対して同盟相手の軍が一時的に入り
それに対して注意したら相手はすぐさま兵を引いて謝ってるんだぞ。
この間わずか5日。そして5ヶ月後にその同盟相手が駿河から兵を引いて
すぐに戻ってきそうにないと見るや敵対してる相手にその同盟相手の取り分である
はずの駿河に戻してあげるから掛川城渡せ、というのはおかしくないのか。
なぜここで徳川の行為はスルーされる。

ちなみに織田でいうなら織田が武田の西上前の同盟時に両属の遠山氏を完全に支配化に
組み込んでいるのは大抵甘くなるんだけどな。
0069人間七七四年2008/02/20(水) 00:15:09ID:UbZyVJph
>>52
横からだが
多分嘘というのは家康の(ほぼ)三河統一を66年としていることだと思う

>>66
謝って兵を引いたぐらいで不信感が消えるわけないだろう
国力が互角ならまだしも、武田と比べると半分程度の国力である徳川としては
いつ武田に攻められるか、そして攻められたら単独では勝てないのだから
何らかの安全保障を必要とするのは当然だと思うが
0070人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:06ID:UidaDws/
>>69
その安全保障というのが武田が駿河から兵を引き、北条との戦いにかかりきりに
なっている状態を見て、今自分が攻めあぐねている掛川城にこもる今川氏真に
駿河にもどしてあげるから掛川城渡せ、と持ちかけて開城させることだと?
どう見てもこの行為は徳川が武田が北条との争いにかかりきりになっている状況を
掛川城を手に入れるために利用し、あわよくば駿河をもめざす為の配慮としか見えないんだが。
0071人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:20ID:UbZyVJph
>>68
>なぜここで徳川の行為はスルーされる。
別に誰もスルーしてないと思うが

>組み込んでいるのは大抵甘くなるんだけどな。
意味がよくわからないが、何が言いたいんだ?
0072人間七七四年2008/02/20(水) 00:19:42ID:O6f9NGt9
>>68
>当時の遠江は武田の信濃におけるほど確定した家康の領土じゃないだろう
武田と徳川が同盟を結ぶ際に「大井川を境に」という取り決めはあったのに?
開き直りでしかないよそれ。
それを言うなら徳川が駿河に侵入しても問題ないだろうに、キミは「背信行為」と言う。
見事なダブルスタンダードじゃん。
0073人間七七四年2008/02/20(水) 00:22:08ID:vc9HElhc
>>68
約束破っても謝っておけばそれですべて済むとお考えで?
家康が対武田を考慮し実際に行動に移すのはすべて信玄の約束破りから。
0074人間七七四年2008/02/20(水) 00:22:09ID:UbZyVJph
>>70
安全保障というのは上杉との同盟の話のつもりで書いた
0075人間七七四年2008/02/20(水) 00:23:25ID:UidaDws/
>>71
スルーしていないかもしれないがかなり話の展開が飛んでいる。
掛川交渉はどう見ても家康の領土拡大の行動にすぎんだろうが。安全保障じゃなくて。

>>67が織田の例をあげたのでね。
織田がやってることも背信行為にあたるはずなのに大抵スルーされるか甘くなるという例だよ。
0076人間七七四年2008/02/20(水) 00:25:10ID:UbZyVJph
>>70
掛川に関してはこの時期には既に武田と徳川はほぼ敵対みたいな関係になっていたから
別に徳川が何しようと仕方ないんじゃないか?
でその敵対の原因は武田の盟約違反にあると

まあこの敵対関係は織田の仲介でいちおう小康状態になったけど
お互い相手を信用していなかったんだろうな
0077人間七七四年2008/02/20(水) 00:25:45ID:O6f9NGt9
>>75
>>73の「約束破っても謝っておけばそれですべて済むとお考えで?」はどう答える?
0078人間七七四年2008/02/20(水) 00:26:14ID:UidaDws/
>>72
ダブスタはそっちだろう。
信玄が無謬なんていわん。だけど徳川にも状況を見て自身の領土拡大を
目指そうとする意思は明確にあった。戦国乱世の常道。
武田が一回侵入したのも事実ならその後その問題が収束してるのも
武田がいなくなった状態を徳川が自身の領土拡大に利用してるのも事実というだけだ。
0079人間七七四年2008/02/20(水) 00:28:33ID:O6f9NGt9
>>78
信玄の侵入はきれいな侵入、兵を引けばすべてはなかったことに。
徳川の侵攻は汚い侵攻、すべては領土拡大を目指す行動。

ダブルスタンダードなうえ開き直ってる。
0080人間七七四年2008/02/20(水) 00:28:59ID:UidaDws/
>>77
これから答えるさ。こっちもリロードとかが追いつかないんでね。

>>73
ならばその行動が武田の謝罪と撤兵を受け入れ、5ヶ月も平穏に過ごし
武田がいなくなった後でその状況を自身の勢力拡大に利用しようという行動で
なければまだ説得力もあろうが。
0081人間七七四年2008/02/20(水) 00:29:50ID:UbZyVJph
>>75
話の展開が飛んでるのはあなたのほうじゃ
まず最初に武田の違約があったことを踏まえずに掛川の事例だけ抽出しても
意味ないと思うが

>織田がやってることも背信行為にあたるはずなのに大抵スルーされるか甘くなるという例だよ。
状況が違いすぎると思うが・・・
0082人間七七四年2008/02/20(水) 00:30:50ID:O6f9NGt9
>>80
だから、盟約破った時点で不信感が生まれたんだろう。
5か月も平穏と言うが、武田はすでに信用できない相手と考えてるからそのあとの行動に移ったんだろう。
0083人間七七四年2008/02/20(水) 00:31:21ID:UidaDws/
>>79
別に武田の行動を綺麗だなんていってないが?勝手にいうのはやめてもらおうか。
武田の行動が汚いというなら徳川の行動も汚い。
どちらも領土拡大を目指した背信行為のやりあい。
だけどなぜか徳川の行動はスルーされる。
そしてそんな相手が武田の後背を脅かす危険性についても。
0084人間七七四年2008/02/20(水) 00:33:51ID:O6f9NGt9
>>83
だから、先にやったのは武田だからだろう。
徳川が先に仕掛けたのなら盟約違反は徳川になるが、
先に盟約違反したのは武田だから、
そのあと徳川の行動を責めるのはおかしいじゃん。
なぜそんな簡単な社会常識も理解できない?
0085人間七七四年2008/02/20(水) 00:34:17ID:UidaDws/
>>81
だから踏まえてるといってるだろう。
進入の後で謝罪撤兵、信長へも家康に遠慮して遠江に入らないという申告してる事、
5ヶ月平穏だったこと、これらも踏まえずに掛川の事例もみないで
徳川の行動と危険性がスルーされるのはおかしいといってる。
0086人間七七四年2008/02/20(水) 00:35:56ID:UbZyVJph
>>80
武田はいきなり不意ついて襲った前科あるから、
徳川の行動はある意味当然だと思うが
0087人間七七四年2008/02/20(水) 00:36:16ID:O6f9NGt9
>>85
>だから踏まえてるといってるだろう。
これまで何人の人が「武田が先に盟約を破ったから」と言ってるのだけど、
そこは理解できる?
「先に盟約を破った」ということの意味は理解できる?
0088人間七七四年2008/02/20(水) 00:37:53ID:UidaDws/
>>82
謝罪も撤兵も受け入れ5ヶ月平穏で武田がわざわざ苦境にある状況で
動き出しているのにそれが何故徳川に野心はないといえる。

>>84
社会常識というならその相手が謝罪も撤兵もしてさらに5ヶ月の間には普通に
共同作戦も進行させて、その相手が苦しくなったのを見計らって
自身の領域拡大に利用してる行動が何故きれいだといえる。
優秀な戦国大名としての策謀だろう。
0089人間七七四年2008/02/20(水) 00:37:54ID:UbZyVJph
>>85
>5ヶ月平穏だったこと、
平穏だったか?
お互い他に主となる相手がいるため行動出来なかっただけじゃ
0090人間七七四年2008/02/20(水) 00:41:32ID:O6f9NGt9
>>88
だから「先に盟約を破った」という言葉の意味理解できる?
武田に不意をつかれたのは徳川。
戦略方針の転換とそのための準備は必要だろう。
そもそも徳川だって遠江の制圧が最優先問題だから、
武田に対する備えができても攻めることは無理だろう。

というか、なぜそこまで無理な擁護をするのか意味不明。
0091人間七七四年2008/02/20(水) 00:42:24ID:UidaDws/
>>86
状況利用して自身の領域拡大につなげてる時点で
当然とも思えないが。少なくとも安全保障という感じではないだろう。

>>87
理解もしてる。そしてその後の行程も理解してる。
さらには家康の掛川交渉における行動が綺麗とは言えないことも理解してる。

>>89
普通に書状のやり取りしてるように見えるが。
0092人間七七四年2008/02/20(水) 00:45:13ID:UidaDws/
>>90
なんかずれてるなあ。擁護じゃないんだって。
武田を汚いといいたいならそれでもいいと言ってる。
だけどどう見ても徳川の行動は安全保障の域を超えてる、
自身の領域拡大を目指した策謀だといってる。
準備期間がどうとかという問題じゃなくて武田が駿河からいなくなって
戻ってきそうにないのを見て動いてるだろうといってる。
0093人間七七四年2008/02/20(水) 00:46:39ID:O6f9NGt9
>>91
>理解もしてる。そしてその後の行程も理解してる。
>さらには家康の掛川交渉における行動が綺麗とは言えないことも理解してる。
理解してないじゃん。
武田が先に盟約を破ったのなら徳川だって律儀に守る必要はないだろう。
キミの「遠江はまだ完全に徳川家の領地じゃないから侵入オッケー」
という理屈が通用するのなら
「駿河はまだ完全に武田家の領地じゃないから交渉の材料に使うのはオッケー。どうせ空手形だし」
も問題ないはずだろう。
なぜそこでダブルスタンダード?
0094人間七七四年2008/02/20(水) 00:48:24ID:UidaDws/
>>93
いや、両方を対等に見て汚いというならそれでいい。
その二つが並列するなら問題ない。
ただ徳川も状況を利用してやれることはやろうとしてるという事を理解して
もらえりゃそれで十分。
0095人間七七四年2008/02/20(水) 00:51:29ID:UbZyVJph
徳川が安全保証の域を越えて本気で武田領を狙うというなら
1569年1570年の武田が北条(と上杉)と敵対している時期に
北条上杉と同盟して武田と敵対すべきだったのに
信長の和睦受け入れて武田とは休戦状態で自ら攻めこむようなことはしなかったからなー
(信長を配慮してか武田との国力の差からかはわからないけど)
0096人間七七四年2008/02/20(水) 00:54:06ID:O6f9NGt9
>>94
だから「先に盟約を破ったのは武田」という言葉は理解できる?
先に破った方が悪いに決まってる。
並列する問題じゃない。

というか、キミのその独りよがりのこじつけ理論としつこさは
上洛スレの武田厨にそっくりだな。
まさか本人?

だったらもう相手しない。
一人で妄想してろ。
0097人間七七四年2008/02/20(水) 01:01:46ID:UbZyVJph
>>91
普通に武田と徳川は敵対関係に入っていったって感じだと思うが
まさか兵を引いて謝ったからもとの同盟状態に戻ったとでも?

だいたい本当に秋山が見附あたりまで進出して徳川の兵と交戦したというなら
掛川にいる徳川は退路たたれて、
もし武田本軍が遠江に進出してきたら方位殲滅されかねない状況にさせられているのだから
徳川からすれば武田が本気で自分たちに敵対しようとしていると思われてもおかしくないんじゃ
秋山が苦戦したのか武田本軍が今川残党や一揆のせいで動けなかったから一気に徳川敵対へ
動くことが出来なかっただけとか考えている可能性もあるし
0098人間七七四年2008/02/20(水) 01:02:42ID:UidaDws/
>>95
そう。掛川交渉のあと、武田と徳川はしばらく平穏を保つ。
まあこの間は家康も信長の畿内戦に借り出されたりと忙しかったからな。
そんでしばらくは徳川も平穏だったのだけど1570年10月にいきなり
上杉と同盟しちゃうんだわ、これが。
北条との駿河争奪戦を有利に進めかけていた武田はこれを受けて
北条との戦いの最中に背後をつかれる事を避けるため
1571年に北条の駿河における要衝である深沢を攻略した後で
徳川遠征に出る事になる。
0099人間七七四年2008/02/20(水) 01:08:27ID:UidaDws/
>>96
並列するに決まっているだろう。
君自身が言ったんだろう。
武田の理屈が通るなら家康の理屈も通るって。
無理して切り離しているのはそっちだろう。

>>97
とりあえずそこまで急激とも思えないが。
0100人間七七四年2008/02/20(水) 01:19:59ID:UbZyVJph
>>94
両方対等にみるなら
最初に違約した武田は汚いこれだけは確実で
あとは武田も徳川も大名として当然の行動している程度にしかならないと思う

>>98
恐らく武田が駿河をほぼ占領し始めたため、武田に対して危機感を抱きだしたんだろう
69年後半や70年前半は武田は北条と激戦繰り広げていて徳川に構う余裕がないため
徳川の安全は保障されていたが、駿河での情勢が徐々に武田有利となってきて
また武田が徳川領に攻めこんでくる可能性が出てきたと
だから自分の安全を守るため取りあえず上杉と同盟を結んだといったところかな?

徳川は織田と武田が敵対するまでは武田が割と不利な状況になっても
積極的に武田領に攻めこむようなことはしていないし、
織田と武田の同盟も考慮していた可能性もあるから、専守防衛とまではいかなくても
自分の安全保障のための行動だったのかもしれん

もっともその徳川の行動は武田から見れば十分敵対行為に映るがな
北条上杉と敵対して不利な情勢だから今なら倒せると思って徳川が敵に回るという可能性は
十分考えられる、今は攻めてきてないけどいつ攻めてくるかわからないし、だったらと・・・

まあ一度不信感が生まれた以上はちゃんと婚姻とか人質をお互いに出すとかしないと
難しいんだろうな、徳川に他に攻める相手がいれば武田も安心できたんだろうけどさ
いくら信長が両者の間を取り持っても限界はあったんだろう
0101人間七七四年2008/02/20(水) 01:31:50ID:UbZyVJph
>>99
お互い敵対してからの行動は大名として当然の行動だろ

でも最初に盟約破ったのは武田でそれに関しては武田が悪いとなるんだから
並列するような問題じゃないと思うが
0102人間七七四年2008/02/20(水) 01:37:39ID:UbZyVJph
一応北条が駿河に出陣した時期と
秋山が徳川と激突した時期はかぶるから
北条が介入の姿勢を見せたから武田は今回は引いただけにも見えるからなー
徳川としては武田を信用するのは難しいと思う

また武田が北条との戦いに一段落ついたら次は自分じゃないかと警戒もするんじゃないかと
徳川が上杉との同盟を1570年後半まで待ったのは、精一杯の誠意かもしれん
0103人間七七四年2008/02/20(水) 11:08:47ID:T9NRAleD
縁組みしても平気で同盟を破る武田だから信用が無いだけだろう。
何の問題も無く共通の敵を持ってる間はいいけど、
いったん問題が生ずると「また裏切るのか」と思われるのが当たり前。
そもそも徳川の取り分となるはずの遠江の奥深くまで侵入して徳川と交戦した時点で言い訳ができない。
もし北条が介入しなかったらそのまま徳川を滅ぼした可能性もあるから、
徳川も情勢を判断するのに半年近く待ったんじゃないかな。
で、その結論は「武田は信用できない、保険をかけよう」と北条、上杉との連携を模索し始めた。
しかし、「信」が通字なのに信用の無い武田って一体・・・
0104人間七七四年2008/02/20(水) 14:34:50ID:mf4XHb45
>>103
内から向けられた信用を重視した結果外から向けられる信用を無くしたって事ではないかな
つまり近視眼的(ry
まぁそれ以前にこの時期の信玄ですら徳川滅ぼせるはずもなさそうでは?
信長は義昭と親密な時代だし更には北条と敵対して挟撃って事もある
信長とて婿が居て大義名分ある徳川を支援しないわけにもいかんだろうし経済的に信玄より豊かな大名が複数敵に回るのはかなりやばいと思うよ
外交に関する信用云々に関しては全て同意できるが
0105人間七七四年2008/02/20(水) 14:48:12ID:T9NRAleD
それが信玄が謝った理由でしょうね。
騙し討ちで徳川本隊を遠江で討つ作戦がうまく行かず、
北条が駿河に介入して来て信長も仲裁に乗り出した。
ここで徳川攻めを強行すれば織田、徳川、上杉、北条、今川残党による
武田包囲網が誕生してしまう。
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