武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
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「川切り」なしの新資料を発見しました。それは…
1.永禄十一年12月12日付 家康→遠州井伊谷(三河国境・現引佐町)の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写「鈴木重信氏所蔵文書」です。
2通それぞれに…
「…略…甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、
『(家康は)君たちの身体を考え、決して見放さない』」とか、
判物には「甲州より…略…
『起請文を差し出した上は、(君たちも)身体をかけて、間違いなく裏切らないで欲しい
…略…(信玄より)先に(家康に)忠誠を示す判形を差し出したからには、相違あるまじきなり。
細かいことは菅沼定盈より…』」という一文がありますよ。
だけどこの次に発行した、
つまり12月20日に発行した、
家康→(見付と二俣の間の)遠州国人匂坂吉政あて判物には「甲州云々」の一文がなくなっているんだよ。
始めは「川切り」の協定はなく、
後日、現場(遠江)が混乱してから改めて決めたんじゃじゃないかなぁ?→これは「次回の秋山の行動」と一緒にして書きますね。
2.>信玄が先に協定を破った
これはあなたの言う通りですね。
3.>10日余り云々について
これは年表を作ってみました。
私見ですが、6日〜18日を計算しての事と思われます。
12月6日 信玄出陣。
12月12日 家康→遠州井伊谷の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写。
その中に「甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、起請文を差し出した上は云々」という一文がある。
12月12日 氏真、敗れる。
12月13日 信玄、駿府入城。北条軍蒲原に到着。
12月15日 氏真、掛川に到着。
12月18日 家康、浜松に入る。
以上、楽しいゴールデンウィークを!!恐々謹言。四月廿一日。
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