武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
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0260人間七七四年
2008/04/03(木) 22:07:04ID:1eFs5Gk5>(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
これは別に矛盾しないんじゃないの?
今川を滅ぼすための同盟なんだし単純に氏真が掛川に逃げ込んだため
自分も氏真を追うつもりだみたいな書状を出したんじゃ
これと大井川で分割ってのは直接的に関係しているとは言いきれないと思う
>>250
武田内での勝手な配置替えと他国を巻き込んでしまった勝手な軍事行動とは
同列に扱えるとは到底思えない。
>>253
>『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。〜
10日余りとかは武田の勝手な言い分としか思えないが、
出陣の日にちは取り決めてあったのか、12月11日には徳川は遠江にいたと思われるが
十余日たってから家康が出陣したとはそもそもいつを指すのか?
>(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)
状況がそうさせたのであって、徳川からすればもし北条の出陣がなければ武田に遠江から
追い出されていたのではと考えてしまうような状況なんじゃ?
>『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
恐らくこの時点では徳川はもう武田を敵対勢力に近いものとみなしていたのだろう
>過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」
律儀と言うよりは力関係を考えてか家康は暫くの間は武田とは敵対していないな
ただこの武井夕庵あて書状、1572年の書状にも同様に言えることだろうけど
この手の外交における宣伝文書はあまり当てにならないんじゃ
武田も徳川もお互い相手が悪い、讒言者のいうことを信用しちゃいけない
絶対自分は裏切らないみたいな文書を信長に送ってるんだし
どちらが誓詞を破ったに関しては上にもあったけど、まず最初に破ったのは武田。
その後の武田は一応、家康に対して律儀に盟約を守っていたと言って良いと思うけど
徳川は武田の事を信用できなかったってことだろうな。
最初に武田がとった不信感を植え付ける行動を除外して1570年以降だけで見るならば
誓詞を破った及びう非があるのはは徳川と主張することも可能かもしれないけど、
全体を通してどちらが破ったというのであれば、まず最初に破ったのは武田でいいんじゃないか?
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