>>219さんへ ます、大変有難う。
あなたが「あの」書状を指摘してくれたおかげでようやくあの「三増峠」第一幕が完成しました。
その「返礼」ではないのですが…
つまり、永禄十二年(1569)5月23日付 信玄→信長家臣津田盛月?・武井夕庵あて書状「神田孝平氏所蔵文書」には…
(↓ココに注目!!)
『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。
十余日たってから信長の先導部隊と称して、家康が出陣しました。
先約のごとく、遠州の人質らを受け取りたいと(家康が)言ってきたので望む通りにしました。』
(↑つまり「十日間もちんたらしやがって何やってんだ」)

「氏政が氏真を救うために、駿河薩田山へ出陣して、信玄と対陣し(たから)、
(家康は)掛川の(周囲)数ヶ所に砦を築き、掛川を落城させることが出来ました。」
(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)

その後、氏真を生害させるか? 三河・尾張の間に(身柄を)送るべきだった。なのに…

(↓ココに注目!!)
『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
掛川に籠城していた(今川の)家臣たちが、何事もなく駿河に帰って来て(私を悩ます)とは、思いも寄りませんでした。
氏真・氏康父子と和睦してはならないと、家康は誓詞で明らかにしているけど、この(協定違反)に関して信長殿はどう思うのか?』
(↑@つまり信玄は「家康こそ協定を破った!!」 A「駿遠分割協定は信長が仲介・斡旋した事」がわかる)

過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」

結論
1.信玄と家康の「駿遠分割協定」(永禄十一年2月16日)は、信長の仲介・斡旋により成立した事がわかる。
この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したという事だね。
2.信玄は、秋山を遠江から撤退させたけど…
家康は、信玄との協定を破って「勝手に氏真・氏康父子と和睦したこと」かつ謙信と誼を通じた

どちらが誓詞を破ったのかな?