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武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2

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0001人間七七四年2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP
立てた。
0157人間七七四年2008/02/21(木) 01:11:44ID:EasfvWop
>>153
あと、実際切ってないから上杉との和睦が景勝の代になるまで実現しなかったんだろう。
肝心なところをわざとスルーするでない。
0158人間七七四年2008/02/21(木) 01:17:03ID:ZehnsOCS
>>156
いや、失敗なら失敗でいいんだが
どうも妙な方向で叩かれているというか。
ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろうか。

>>157
いや、違うのだ。謙信との和睦がならなかったのは
北条と上杉がそれぞれを拒否したからだ。書状もある。
武田はこの3者同盟を受け入れたいと言っている。
0159人間七七四年2008/02/21(木) 01:19:36ID:0uBdkmyN
清水宗治の切腹と土地の割譲も、敵対した人物に対する当然の処置と言えそうですが
同盟中敵対行為をとった秋山も敵対者として責任をとって切腹なりの処置があってもいいのではないですか?

>152さんの件についても、典厩と梅雪の切腹と領地の割譲を高坂が提案したという事実が挙げられており、
たとえそれが実現しなかったにせよ、真の和睦のためにはココまでしなければいけないという当時の基準だったと見做すことも
できます。
0160人間七七四年2008/02/21(木) 01:24:55ID:EasfvWop
>>158
だから切ってないからだろう。
話をループさせるなよ。

>ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろう
それならやめればいいだろう?
過去レス読んでわかったけど、そもそも話の発端は「武田家が東に行くべき」
というカキコに対してキミが「武田家に対して領土的野心を持つ徳川家が悪いから」
と時系列をごちゃにした意味不明な発言から始まったんだろう。
キミが意味不明な擁護をしなければ今川の話が出なかった。
スレ本題の武田家滅亡の原因に戻ればいいじゃん。
0161人間七七四年2008/02/21(木) 01:27:21ID:ZehnsOCS
>>159
清水宗治の切腹と土地割譲は数年にわたって相争い
食うか食われるかの状況で瀬戸際まで迫った毛利と織田における最終局面での
和睦策。実質的に敗北していた毛利の降伏に近い。
それでも毛利は最後まで清水の切腹を拒否していた。
武田と徳川の局面はここまでいってるのだろうか。

いや、その典厩と梅雪の切腹と割譲に関してもかなり眉唾。
実際は謙信は「勝頼となら和睦してもいいけど北条とは絶対いやだ。」といい
北条も「この三者和睦を妨げているのは上杉だ。」として拒否してる。
こういう背景の下にこの三者和睦は成立しなかったわけで。
当時の武田はぜひともこの三者和睦を結びたかったみたいだがこういうわけだった。
典厩も梅雪も最後がアレだから軍鑑はかなり筆が辛い。
0162人間七七四年2008/02/21(木) 01:31:30ID:ZehnsOCS
>>160
その北条上杉武田の三者和睦については>>161を参照の事。

東に行くべきゆうてもそもそもあの当時は信長の畿内覇権確立が迫りつつ
あったので東に傾いてる場合じゃないんだが。
実際北条との戦いが済んだらさっさと総力をあげての織田徳川戦にむかったわけだし。
そんで徳川に対してがどうので駄目だったみたいな言い方をされていや武田にもそれなりの
事情がですねえryという話になったわけで。
まあ明日があるので今日はもう寝るわ。
0163人間七七四年2008/02/21(木) 01:31:45ID:EasfvWop
>>161
だから、成立かどうかは別として当時の価値観では一度敵対したら
和睦するのに責任者の処罰が必要だということだろう。
それ以上話をずらさないでくれ。
キミの話はいつもこう言ってはああだと、脇道に逸れてはループ。
一個のテーマに絞って話せ。

キミが要求した「戦国時代の和睦に対する条件」は例として存在してるからそれでいいだろう。
成立しなくても結局「和睦するならそれをやらなければ」というのは当時の人間の価値観だから。
0164人間七七四年2008/02/21(木) 01:35:50ID:0uBdkmyN
私は今川関係の話は十分に武田滅亡の原因だと思いますよ。
同盟していた家康に背信行為をして不信感を持たせて敵対に追いやってしまったために
背後の信長も信玄に警戒心を抱かせることになった。
そして武田滅亡はほぼ織田・徳川家二家による侵攻により滅び去った。(北条はたいした働きはしなかったし)
この二家との信頼関係をきちんと結べなかったのは、遠州侵略が深因でしょう。
0165人間七七四年2008/02/21(木) 01:36:12ID:ZehnsOCS
>>163
ちょっと待て。
本当に人のレスを読んでいるのか?
甲陽軍鑑は典厩と梅雪に辛いことはわかっているだろう。
そして成立がどうとかの問題に関してもこの両者がぶっちゃけ関係あったか
わからないといっている。
そんな事関係なしに上杉と北条が和睦を拒否してるのだから。
そんでただでさえ筆がこの二人には辛い軍鑑が香坂に切ってしまえ発言させてないと
何故いえる。
0166人間七七四年2008/02/21(木) 01:42:49ID:ZehnsOCS
>>164
いや、ぶっちゃけ織田が武田を生かしておいてくれるかなんて
正直わからんわけで。巨大大名の存在なんて大抵肯定されないんもんだ。
無茶言われて唯々諾々と従えば家中崩壊でもあるから。
だから武田は織田の畿内覇権が確立する前に戦いを挑むしかなかった。
0167人間七七四年2008/02/21(木) 01:47:36ID:EasfvWop
>>165
だから「和睦するなら責任者の切腹」という条件が出てんだろう。
甲陽軍鑑にかぎらず、戦国期では敵対したもの同士の和睦の条件で一番よくあげられるのは
「城主の切腹」「城の明け渡し」の二つ。
これに関してほぼ常識だから知らないなら自分で勉強しろ。

武田の遠州侵攻は辺境の村を略奪したという簡単なものではなく、
徳川本隊のいる掛川と本拠地の三河との連絡を切断するように重臣が軍を率いて見附を占領した。
さらに掛川の出陣は武田の要請によるもの、
徳川が掛川に出陣したわずか数日後秋山が徳川側の見附を占領。
これはどう考えても立派な敵対行為。
キミが「信玄が謝罪したからいいじゃん」と軽く言うが、
信長が和睦調停に乗り出すほど両者の関係が緊張してた。
普通なら「当主の命令なく無断で侵攻した秋山は軍令違反により切腹か謹慎」
は筋なのに、手紙一通にお茶を濁したから不信感が増大した。
武田家では当主に無断で軍を動かしたほどの軍令違反が処罰されないことはありえんし、
他家でもあり得ないから、同盟破りの侵攻→お茶濁し程度の謝罪が徳川を反武田に追い込んだ。

以上はこれまでさんざん言われたこと、これ以上話をループさせるな。
0168人間七七四年2008/02/21(木) 02:02:51ID:ZehnsOCS
>>167
城の明け渡しとかは完全な敵対状態だぞ。何年も争った。
たった数日ですぐに謝って兵をひかせてそれとはちょいと
急激にすぎる気もするがね。
0169人間七七四年2008/02/21(木) 02:04:02ID:ZehnsOCS
まあ寝る。
0170人間七七四年2008/02/21(木) 02:08:06ID:EasfvWop
>>168
家康を誘いだしてから遠州の奥深くまで進行して、
徳川側の城を占拠して家康と岡崎の連絡を絶つ。
完全に敵対状態だろう。
兵が小競り合いするわけじゃないからそこは理解しろ。
あと引いたというが、武田にとって予想外の家康の反応と情勢が悪化したから兵を引いたんだろう。
それもお茶濁し程度の手紙一枚の謝罪。

これらもすでに言われてること。
もう一度言う、話をループさせるな。
0171人間七七四年2008/02/21(木) 02:58:13ID:tGTEmqmP
最初は今川はほぼ無力化したのでこれを機についでに徳川にも攻撃かけようとして、
罠にかけて不意打ちしたまではよかったけど、
徳川が意外と強かったことと、駿河情勢も怪しくなった上に北条が敵対したので
諦めて兵を引いたってことかな。

徳川の掛川開城における氏真との交渉や北条との交渉は単に武田と敵対しているからでは、
でも家康はその後は信玄の要請による信長の仲介を受けて、
武田の危機的な状況時に武田の弱みに付け込むようなことはせずに対武田には参戦しないで、
専守防衛に徹している感じがする。
0172人間七七四年2008/02/21(木) 16:08:20ID:tDhNEfbM
徳川を攻めるだけではなく武力によって遠江占領の既成事実化の狙いもあったんだろう
秋山が見附を占領して見附から大井川までの遠江の大半を武田領として確保
徳川に対して掛川攻めを要請して出て来た所、見附を占領して徳川の退路を断って城下の盟を強要する
もし従わなければ駿河にいる本隊と挟み撃ちにして徳川を葬り去るという構想だったんだろう
駿河情勢の悪化と北条の態度硬化(駿河侵入と同時に北条が武田と絶縁)によって駿河の武田本隊が逆に徳川、北条、今川に挟み撃ちされかねないから一旦引く
で、秋山が敵地で孤立した形になって長く見附を維持できないから見附も徳川に明け渡す(返還する)、ということだったんだろう
徳川、北条を読み切れなかったのが失敗の原因だが、その近視的な戦略が武田を滅ぼす最大の原因
もし義信の構想通り三国同盟を堅持して信長と同盟せず美濃へ侵攻したら、信長の飛躍的な成長はなく武田も信長に滅ぼされる事無かった
0173人間七七四年2008/02/21(木) 20:38:26ID:Msy+UBMi
>>126
12月12日北条氏政小田原出陣、沼津着 ←静岡県史だから信憑性は微妙 
駿東郡八幡郷に禁制
12月13日蒲原城に北条氏信『地方史静岡22』
12月15日北条氏規沼津の竜雲寺に禁制 秋山遠江進入
12月16日氏規富士郡に禁制
12月19日氏政、大宮城の富士に感状
12月18日の段階で既に北条は行動している

>>125
>第一北条が全力で入ってこれるかは別問題。北条が上杉に対して利権の多くを譲る決断を
>するのはまだ先の事。
敵対して全力で武田に向かえる状態ではないとはいえ既に北条が武田に対して行動しはじめているのに
その上徳川とも敵対するわけにはいかないだろう、武田としては駿河の方が優先だし
だから信玄が謝罪して兵を引かせ、信長を通じて徳川に明確な敵対行動を取らせないようにして
北条の問題を片付けて後に全力で徳川に向かったのは正しい判断
この機会を活かせなかった徳川は戦国大名としては甘い気もする、
徳川としては織田との関係もあるから仕方が無かったのかもしれないけど

>>147
秀吉の北条征伐のきっかけとか考えれば検証するまでも無いと思うが
逆に問うがいきなり同盟破って侵攻してきて侵攻側の都合が悪くなったので謝罪しました
そして元のような同盟関係でいられるって例は存在するのか?
人質とかもださないで
しかも国境でのちょっとした利権争いとかじゃなくて、武田の場合は完全に軍事行動だしな
金ヶ崎直後に浅井が謝罪していれば謝罪だけで許されていただろうか?武田はそれぐらいの行動してると思う

それ以前に一方的にいきなり同盟破って攻めこんだら、ほとんどの場合そのまま敵対し続けるか、
情勢が変化するまで敵対し続けるような気がするが

>>158
叩かれるというか、単に事実を言われてるだけ、
単にあなたが異常に武田を擁護しようとするからこんな風になってるだけだと思う

>>162
当時の価値観としての話として軍艦の例を挙げているのに
そんなこと言っても見当違いなだけじゃ
つか人にレス読んだのかという前に少し落ち着いて話の流れを読んでレスしたほうが
武田を批判されると流れ無視してレスの一部に対して条件反射でレスしているように感じられる
だから回りの人間にはあなたが話を逸らしまくっているように感じられちゃうんじゃ
0174人間七七四年2008/02/22(金) 04:14:08ID:25Cav3Bi
武田に関しては織田方との婚姻もあった
まぁ既に遠山夫人は亡くなっていたが遠山夫人の産んだ勝頼嫡男(後の信勝)は存在してるから無碍にもできないだろう
武田将来の当主の可能性のある人物が縁戚関係にある織田とその同盟である徳川は武田に対して攻勢に出づらいって面もやはり存在する
この面は外交的信用の関係になってくるから家康の判断は間違いないと思うが?
0175人間七七四年2008/02/22(金) 12:55:57ID:7M+aiNoS
外交を取るか直接的な利益を取るかだな

ただこういった盟約破りの不意打ちは初動で上手くいけばいいけど失敗すれば大変だと思う
毛利は陶裏切った時は即座に動いて安芸をほぼ制圧して体勢整えることに成功
浅井は織田裏切った時は失敗してジリ貧ってなったし
0176人間七七四年2008/02/22(金) 16:01:05ID:9vwB/sa7
毛利の場合も陶が部下の進言を受け入れて厳島にいかなかったら終わってたぞ
0177人間七七四年2008/02/22(金) 19:34:54ID:fVHbQOzR
それでも元就なら…元就ならきっと何とかしてくれる…


いや、実際問題、厳島への誘導という策略が失敗したら次の策を用意するだけだろう、元就は
0178人間七七四年2008/02/22(金) 19:58:22ID:3s2im/s+
厳島での勝利というウルトラCを成し遂げたからこその毛利元就
成功してる人間の「もし失敗していたら」という妄想はイマイチ面白くないな
その逆じゃないと夢がない

ちなみに元就の厳島誘導は陶の内部分裂を画策した上での成功なんだから
運というよりも実力の結果
あまりIFの対象にはならない
0179人間七七四年2008/02/22(金) 21:15:20ID:xMxdtSQI
また逃げたな、不当な武田叩きは許しません!の彼
0180人間七七四年2008/02/23(土) 03:19:43ID:RDymhVlh
いつものことだ。
超理論展開した挙句に、不利になると不当な武田叩きはとかスレ違いなどと突然言い出し、
周りに自分の方が正当と思わせようとイメージ戦略展開してそれも駄目だと散々煽って立ち去る。

無理に武田を擁護しようとしなければ知識はあるんだから板的に有用な人間になるだろうに。
0181人間七七四年2008/02/24(日) 09:23:12ID:3vimArac
知識が偏ってる上に中途半端な件はスルーなんだろうか
まぁ無理に武田を擁護しようとしてるからこうなるんだろうが…
0182人間七七四年2008/02/25(月) 21:31:22ID:SW2IXP8h
上で挙げた毛利の例は厳島じゃなくてその前段階
1554年春に陶が石見に攻めこんで吉見と戦っていた時に突如裏切ったこと
毛利は5月に裏切ると陶が動けない隙に、安芸国内の大内方の諸城
銀山城己斐城草津城桜尾城仁保城を5月中に落として、更に厳島を占拠して
門山城を落として能美島占拠して、折敷畑で迎撃に成功すると
翌年には安芸の南東部の保木城丸屋城を落として、安芸の大半を制圧して
どうにか大内が本格侵攻するまでに、大内とどうにか少しは戦えるような状況にまで持っていった

まあ結果は厳島での鮮やか過ぎるほどの大勝利なため
その前段階での裏切ってからの一年ほどの行動もまた凄いことなのにあまり目立たない
0183人間七七四年2008/02/25(月) 23:53:58ID:lqODLoOA
信長の桶狭間も日頃から善政を敷いていたお陰で領民に慕われ
その協力があったからこそ、という意見もあるしな。
一見、奇跡のように思える大勝利にも、当然のように
要因となった努力の細かい積み重ねがある訳だ。
0184人間七七四年2008/02/26(火) 01:12:36ID:EOcYsqvt
信玄も上田原で大勝していれば……

0185人間七七四年2008/02/26(火) 02:11:53ID:/njrzkH2
上田原って…大軍で寡兵の豪族を攻めた、言っちゃ悪いが九割方武田が勝てたはずの戦じゃねーか
せめて北条相手に勝って小田原制圧とかやらかしてくれたら良かったんだけどな
信玄が織田信長や毛利元就くらいの戦の天才だったら、関東進出も成功してたかもしんない

でも逆に言えば、危なっかしく思える自転車操業ながらも信玄は上手に敵を選んでいたと思う
今川義元に滅ぼされる事もなく(半分以上親父のお陰だけど)、豪族を潰していって着々と領土拡大
なんせ唯一勝った国持ち大名が、今川氏真だってんだから徹底してるよ、これは凄い
謙信や氏康と団栗の背比べして延々消耗戦やらかした辺り、大局的な視野には乏しかったんだろうけど
なんというか、悪党として獲物を選ぶ眼があった、とでもいうべきかな
勝てなかったけど負けなかったし

結局、信玄の本質って戦に強い名将ではなく、謀略で相手の裏をかく策士だったから
その軋みが出たんだろうねぇ。信玄のやり方ゆえに領土が増えて、それゆえに滅んだ
0186人間七七四年2008/02/26(火) 02:30:59ID:xPqVLn4m
最後の最後で織田を裏切って自滅しちゃったから
とても獲物を選ぶ眼があったとは思えんw

>上田原
信玄は自分より兵力が上の相手に勝った事が一度もないもんだから
信玄厨はしばしば、大軍で負ける方が無能なだけと抜かすが
当の信玄が聞いたら耳が痛くて仕方ないだろう
首を取られずに負傷で済んだから良かったものを
まだ若かったから、あんな酷い大敗を喫しても仕方ないってんなら
大軍に負けた家康、長野業盛、今川氏真、全員が信玄より遥かに若い青二才だ
0187人間七七四年2008/02/26(火) 05:55:52ID:NGxLvygM
織田を裏切ったのと武田が滅んだのは単なる結果論でしかなく
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性もあるわけだが
0188人間七七四年2008/02/26(火) 13:05:38ID:/njrzkH2
そりゃー可能性の話になったら殆ど何でもありだよ
信長なんて稲生合戦の時点で、普通なら勝てずに死んでたかも知れんし
勝頼が長篠で信長の首を取れた可能性だってあるかも知れない

でも実際に織田の手によって武田は滅ばされた訳で
その原因が信長を激怒させた信玄の裏切りにあるのではないか
と言及されるのは自然な事だろう
>>獲物を選ぶ眼
俺個人としては、信玄は晩年も信長に対してはあくまで腰の低い手紙を送り続けているし
織田が朝倉と争ってる隙に火事場泥棒的に徳川領を頂いて、事が済んだら織田には頭下げて再び同盟結ぶ気だったんじゃないかなぁ
と推測してたりする。旧今川領争奪から始まる「徳川家」との争いであって大恩ある織田と反目する気はなし、としてね
その辺は信長って意外と甘い奴で、裏切って自軍に歯向かった相手でも謝ってきたら許したりしてるし
まぁ残ってる書状の信長の激怒っぷりから察するに、実際にそうして成功したかどうかは分からんけど
あの慎重な戦略家の信玄(既に50の坂を越えて、自分が病弱なのも知っている)が
本気で織田を打倒して上洛を考えていた、なんてロマン溢れる説よりは現実的じゃないか
0189人間七七四年2008/02/26(火) 13:52:26ID:kNQKLXpY
いきなり信玄厨とか言い出して悪意丸出しの物言いに終始する>>186に失笑
もっと冷静になってから書き込めばよかろうに
0190人間七七四年2008/02/26(火) 14:00:25ID:kyYnyhbT
>>189
事実だからしょうがない。
信玄は孫子の信条通り、確実に勝てる相手としか戦わないから弱小勢力を潰しながら大きくなったのだが、
周りが大勢力ばかりになると損するタイプ。
大局を見る目がないというか戦略眼がないというか、目先の利益だけで動いてたとしか見えん。
0191人間七七四年2008/02/26(火) 14:27:28ID:/njrzkH2
その辺は正直、甲斐という殆ど商人すら訪れない山奥の田舎で生まれ育っちゃった弊害もあると思うよ
あと、戦国大名として出発した時点で恵まれた環境にあり
常に自分より弱い豪族らと戦い続けた事が、結果的に信玄の用兵家としての成長を妨げたのかも知れない
(勿論、信長や元就なんて天才レベルは初陣や若い頃の戦功も半端ないと承知の上で)
終生、自分と兵力・国力が同程度以上の相手には勝つ事が出来ず、行き詰まりを迎えてしまった
用兵が全てではないが、少なくとも信長や元就のような国力の差を用兵によって覆せる男ではなかった

山賊の英雄が、都会の軍人の英雄と戦ってしまった悲劇、という表現はしっくり来る
ある意味、信玄は充分に優秀で、優秀すぎて
それまでの自分のやり方が通じない程に強大な相手と戦うまでに成長してしまった事に悲劇性があるのだと思う
0192人間七七四年2008/02/26(火) 14:52:46ID:xPqVLn4m
ちと美化しすぎな気もするが概ね同意
信玄も優秀だから戦術が中の上レベルだったり晩年に失態多いのを残念がられるんであって
局地的な戦略眼や内政手腕は一流の英雄
思えば信虎も、信玄とは逆に閉鎖的な甲斐において近代的な改革を押し進め権力集中を図った結果、家臣に追放されたし
勝頼も含めて不遇な一族だよな

>189
不当な武田叩きをしてしまってサーセンw
0193人間七七四年2008/02/26(火) 17:14:29ID:XRtK2KkU
>>190
お前も>>189様に謝っといたほうがいいぞ
不当な武田たたきしちゃったんだから
0194人間七七四年2008/02/26(火) 19:20:23ID:UkewBYl6
織田を裏切ったのと武田が滅んだのは単なる結果論でしかないから
「信長を裏切ったから滅んだ」というのは違うでしょ
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性のほうが確率から言ったら高いでしょ
信長はたまたま運良く宝くじに当たったようなもんでしょ
0195人間七七四年2008/02/26(火) 19:27:37ID:kS2Q/wAo
>>188
信長はまあそれなりに苦境に立っていたし、少しでも敵を減らして北近江戦線に集中したいだろうから
一時的な再同盟なら結ぶかもね。
ただし、織田の天下が安定期になったら武田家は冷遇されること間違い無しだろうな。
(それまで武田家が存続できていたらだが)
ただ単に徳川領に侵攻した程度なら頑張り次第で信頼を多少回復できるかもしれないが、
岩村城でのやらかしで信長の怒りを沈静化することは不可能フラグたっちまったんだよなあw
>>188のレスでもあるように信長は敵に対しても意外と甘い。
しかしそれ以上に血族に対して甘く、秋山が信長の叔母に当たる遠山夫人を強奪されて怒りはMAX寸前。
更に追い討ちをかけるように息子の坊丸(勝長)を拉致で怒りゲージが計測不能なまでに上昇でオワタ・・・
もし、最初から再同盟を考えていたのなら岩村城での行動は短絡的な行動なんだよなあ。
まあ息子を人質程度ならどうにか怒りの矛先を収めることも可能かもしれないが、
未亡人を強奪という織田家一族にとってこの上ない屈辱を与えてしまった行動が余計すぎる。
息子拉致と未亡人強奪しといて「いやこれは徳川との争いで織田さんに対しては反目する気はないっす」て主張はさすがに無理だろうな。
0196人間七七四年2008/02/26(火) 19:34:49ID:kS2Q/wAo
>>195の続き。
岩村城での件は秋山の独断だと釈明して秋山に腹切らせて有耶無耶にって手段もあるけど、
これだと秋山の与力の晴近衆や他の家臣たちの不信を増長させてしまい将来的な禍根になりかねないね。
もし将来的に織田家と衝突した際に離反者を出しかねない。
やっぱり秋山の独断でしたというのも厳しいな。
0197人間七七四年2008/02/26(火) 21:57:14ID:/njrzkH2
>>岩村城での件
あ、その件に関しては秋山の暴走として…とレスしようと思ってたのに先手を打って釘を刺されたね
まぁ信玄の目的は徳川領のみ、という説はあくまで俺の考えに過ぎないんで
他の人が受け入れられなくてもしょうがない。それが当たり前
明確な根拠がある訳ではなく、妄想の域を出ないし
ただ、やはり本気で織田と敵対しようとしていただなんて
それまでの信玄の冷静さを考えると、どうしても違和感がある
自分の死期が近い事を悟っていた、なんて予知能力はないにせよ
年齢と体調を考慮して寿命が少ない事くらいは自覚していただろう
なんせ、信玄がその生涯にわたって切り取った領地の、10倍近くもの国力を持つ織田が相手(単純に石高だけで8倍ほど
しかも信玄の生涯の基本戦略は、常に自分より国力で劣る相手を選ぶ事にあった(上杉や北条も動員兵力では基本的に下
最後の最後で、死期が近く時間が残されてない信玄が、そんな無謀な目標を持っていたとは思えない
耄碌してた可能性も否めないが、上洛だなんて周囲に対するアピールに過ぎず(織田との和睦後の牽制含む
あくまで格下の徳川を、強大な後ろ盾の織田が動けない内に潰して領土を増やすだけのつもりだった
と考えた方が、それまでの信玄の戦略と基本路線が変わらず、受け入れやすい

まぁ俺個人が信玄スキーというか、信虎や勝頼も含めて武田スキーなんで、どうも信玄を過大評価(織田家との敵対は滅亡の主因だからね
してるかも知れんけど、こういう考え方もあるって事で温かい目で見てやって下さい
0198人間七七四年2008/02/26(火) 22:26:25ID:ypnvglW0
>>197
死ぬ前に急に欲が出ておかしくなったんじゃない?
0199人間七七四年2008/02/27(水) 03:33:36ID:GzMG46b/
英雄とは時代を照らすために燃えることを運命づけられた一個の彗星である。
彼が先頭を切って走るその後に新たな世界が広がっていく。
0200人間七七四年2008/03/02(日) 23:05:39ID:y/vYW8ms
織田が京を、武田が関東を制圧説は結構支持するけどな。
三国志に天下三分の計とかあるけど、当時の日本は
頼朝が鎌倉に幕府を立てた、その前に富士川で20万の兵を集めて
兵士を追い払った事、さらに溯ること平将門の反乱があったこと。
という事から天下二分の計のようなものがあったと。

で、信長がどうなるかはわからなかったが。源氏の八幡太郎義家の
子孫である武田氏が関東を制すれば結果、織田がどんなに大きくなろうと
対抗できる”力”を得ることができると考えてたのかもしれない。
(事実、関東で力をつけた家康が天下を取ったわけだし)
信虎時代も武田・上杉氏vs今川・北条氏で戦ってたように。
(関東管領の力が弱ってたのを見定めて)駿河と関東を手にしようと
たくらんでた可能性も否定できない。

で、こっからはおいらの脳内イメージだが。信玄は関東の地を得て
信勝が成人するまで生きる予定だったが。関東制覇がおもいのほか
進まないのと。(氏政がアホだから楽観的だった部分もあるけど。
当時言われてたのが、北条の土地から出て行くものはあったけど、
帰ってくるものもいた。だが、武田の土地から出ていって帰ってくる例は
なしといわれるように領民からすれば北条の方がかなりマシと考えてたから)
あとは信玄自身も死期が近いのを悟っていたからとも

で上洛して勝頼の諏訪家が朝廷よりなんらかの官位を頂いて
武田家よりも諏訪家の方が上の要職につけるか。
仮に上洛できなくても織田の主力部隊との”決戦”を挑み
勝っておけば次世代の勝頼がたとえアホでも簡単に上洛しやすい
環境にしておこうと考えたのかもしれないな。
0201人間七七四年2008/03/03(月) 00:07:03ID:fxOxrR+D
>>200
>源氏の八幡太郎義家の子孫である武田氏
釣りか?武田は新羅三郎義光の子孫
0202人間七七四年2008/03/03(月) 11:35:34ID:yJW+h/P+
甲斐源氏は一度も源氏の本流になったことないぞ。
つーか、義家の嫡男暗殺をかまして関東源氏から総スカンを食らって逃げた義光の子孫が甲斐武田氏だろう。
釣りでなければアホ過ぎ。
0203人間七七四年2008/03/03(月) 18:03:43ID:MyBlvakw
勝頼や氏政をアホ呼ばわりしてるが
目先の領土欲に目が眩んで最悪の裏切りかました挙句に、嫡男死なせた信玄が一番アホと言われてもしゃあないぞ。
駿河侵攻以前の信玄は英雄と呼ぶに相応しいが、晩年の所業はハッキリ言ってフォロー不可能。
0204人間七七四年2008/03/04(火) 14:19:46ID:1SEAYXbA
諏訪は騙し討ち同然だった気が。
0205武田竜芳ってどお?2008/03/12(水) 15:40:14ID:dsPPvJ6V?2BP(1)
大変亀レスですまんが…
秋山の家康占領地侵犯について…一言
「大井川を境に、つまり駿府は武田、遠江は徳川で折半する」
↑これは『三河物語』『甲陽軍艦』などの軍記物にしか載っていません!!
信玄と家康がやり取りした書状を郷土史、
特に『静岡県史』資料編7 中世三などで探してみても見当たりません。
なので、私は遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています。

それを証明できる決定的な書状があります。
それは永禄十二年12月23日付 信玄→家康あて書状「恵林寺文書」です。そこに次のような文章がありますよ。
「…略…(私も)遠江にまかり立ちたいのですが、
(武田に降伏してきた)駿河の諸士たちの仕置きがあるから(←これはウソで実際には北条の援軍が来たから)、
一両日伸ばさざるを得ません。
三日のうちに(遠江に向かって)出陣しますから、
早々に掛川を包囲してください。
かの地で(あなたと)対面することは、
大変めでたいです。
恐々謹言」

信玄は、氏真の首を取るために…
秋山別働隊をあからじめ掛川の背後に動かし、
自分は正面の駿府から攻めるつもりだったのではないでしょうか?
だけど北条の援軍が早く到着したことで、掛川侵攻作戦を中断したんじゃないのかな?
あまりにも急だったので秋山には知らせていなかったんだと思うよ。
0206人間七七四年2008/03/12(水) 19:44:45ID:YB0BPNUn
>>205
「今川領折半密約は信憑性の低い史料にしかないから疑わしい。一次資料を見ればむしろそういった約束はなかったと考えられる。」
という主張でよろしいでしょうか。
だとすれば、この主張には一定の説得力はあると思います。

ただ、だから信玄の行動(秋山の行動)には問題がなかったとはなりません。
理由はあなたが書いてあるとおりです。
>遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています
これが事実だと仮定の上で話を進めますが、これは当然遠江の’今川領’に関することでしょう。
だとしたら、’徳川占領地’は当然に徳川が切り取った、徳川のものです。
それが武田の軍に侵入して攻撃して占領したとなれば、当然、武田の約束違反になります。
つまり「武田が約束を先に破ったから徳川は武田と敵対することにした」というこれまでの
通説は変わりません。あなたの主張によっても、通説は否定されないのです。

「遠江切り取り自由というのは、そこが徳川占領地であっても有効。つまり武田は徳川を攻めても
そこが遠江なら信義に反したことにはならない。逆に徳川には抗議する資格も無い。」
なんて約束が交わされていたというのなら話は別ですがね。しかし、比較すれば弱小とはいえ、
一国を支配する大名である徳川がこんな無茶苦茶な約束をしたとはどう妄想を連ねても考えられません。
0207人間七七四年2008/03/13(木) 21:27:41ID:k3PZUGX+
『三河物語』は軍記物ではなく、一応一次史料ですよ。
徳川贔屓が入っているところもあって、全てを鵜呑みにするのは危険だけれど。
0208人間七七四年2008/03/14(金) 00:01:01ID:L88mvp6D
あいにくと武徳編年集成そのものは読んでいないのだけど、
この中に信玄が家康に陳謝したという手紙が蒐集されていると聞きました。
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようですが、それを覆すほどの論拠がおありなのでしょうか
それがあるなら素直に「川きりは嘘」と認識を改めたいのですが、それなしに「きっと・・・だろう」では研究者の意見に軍配をあげざるを得ないところです。

いかがでしょうか。
0209人間七七四年2008/03/14(金) 00:09:07ID:EFnnA+cN
>>208
その手紙の陳謝は
同盟中ってほどでもないが一応友好関係にあるのに秋山と徳川勢が戦ったことについてであって
徳川の取り分である遠江に侵攻したことについて謝っているわけではない、
と思う

なので必ずしも上の意見と完全に相反するわけではないと思う
0210人間七七四年2008/03/14(金) 11:01:40ID:L88mvp6D
研究者が「武徳編年集成」の書簡を見て、その上で川切りが定説とされている以上、あなたがそれを読みもせずに「戦ったことの謝罪だけだと思う」といっても信憑性がありません。
川切りがなかったと主張するのであれば、「武徳編年集成」を実際に読んで原文掲載のうえで反論しなければ。

また、例え川切りがなかったにしろ、同盟国に戦闘を仕掛けたという時点ですでに手紙による陳謝ではすまない責任問題だと思いますが?
0211人間七七四年2008/03/14(金) 11:37:57ID:d/uHtLy7
>>210
あなたが読んで示してないのに相手には読んで原文を挙げる事を
要求するのはどうかと思われる。
相手に要求する以上まずそちらも原文を挙げて示すべきではなかろうか。
世の中にはいろんな研究者がいる事をお忘れなく。

それから武徳編年集成は江戸時代の1740年に幕臣木村が編纂し
1741年に徳川吉宗に献上した徳川家康を称える為の一代記。
同時代資料でもなく、戦国時代から100年以上経った徳川史観全盛期の頃に
書かれたもので他に同時代資料の裏づけが無い場合は信憑性に疑問を持たれる書物。
0212人間七七四年2008/03/14(金) 12:36:02ID:M6HD4h7N
>>211
キミも信憑性に問題があると思うならその根拠を挙げるべきだろう。

あと、川切りがあろうがなかろうが、徳川に掛川城攻めを要請した時点で
徳川に対して掛川はおまえの切り取り分だと言ってるのと同じ。
しかも徳川に対して2度も掛川攻めを要請しておきながら徳川が出陣して掛川に攻めかかったら、
秋山が徳川の背後に回り徳川の守備隊を排除して見附を強引に占拠。

切り取り自由だとしても同盟国がすでに確保済みのものを攻め落としていいわけがなく、
ましてやこの行動は徳川本隊と岡崎の連絡を絶つこの上ない敵対行為。
例えるなら織田が金ヶ崎攻めの最中に裏切った浅井の行動と同じレベル。

それを「遠江は切り取り自由」「武田は謝罪だけ」と重箱の隅を突っつくような反論で弁護できるほど、
武田の行動は甘くないよ。
それとも武田家では一部将が勝手に軍を動かして同盟国だろうとどこだろうと攻め取れる決まりになってるのか?
普通は勝手に軍を動かしたら謹慎以上の処分だろうに。
0213人間七七四年2008/03/14(金) 12:47:23ID:d/uHtLy7
>>212
2段目以下の事には特に触れていないよ。
ただ武徳編年集成の信憑性の是非について指摘してるだけ。

信憑性に疑問があるという根拠は
>>211に書いてるとおり武徳編年集成自体が戦国時代から100年以上経った
1740年に幕臣によって
徳川家康を称えるために編纂されたものだから。
同時代資料の裏づけが無いなら鵜呑みにするのは危険だよ、と言っている。
0214人間七七四年2008/03/14(金) 12:53:43ID:M6HD4h7N
編纂であって著作ではないから別にいいじゃない?
一次史料の裏付けがあるなら信憑性があるでしょう。
武徳編年集成の記述が一次史料と不一致の部分があるなら信憑性がないかもしれないけど、
そういう論点ならちゃんと不一致の部分を挙げるべき。
あと、一次資料に基づいた編纂史料は価値がないとおしゃるなら、
現在保存されてる一次資料以外の史料はすべてシュッレター行き?
家康をたたえるからって、当時の幕府では盲目な武田マンセーのかなり酷かったと思うけど?
0215人間七七四年2008/03/14(金) 13:01:27ID:d/uHtLy7
>>214
>>205からの流れを見返してほしい。
信玄が家康に謝った手紙が>>205の人は探してみても見つからず、
逆に信玄が家康に遠江でお会いしましょう、と言ってる書状があると述べてる。
それで>>208の人が武徳編年集成にその記述があるらしい、と述べているので
武徳編年集成単独での資料価値について疑問点を指摘したんよ。

それを言ったら甲陽軍鑑とかのほうが武徳よりはるかに成立年代も早いけど
それを同時代資料とつき合わせずに鵜呑みにしていいの?という問題がある。
まして百年以上先では。
0216人間七七四年2008/03/14(金) 13:21:42ID:M6HD4h7N
>>215
なるほど、そういう流れか。
それなら手紙に関する武徳編年集成の記述を検証すればいいだけじゃない?
内容も見ずに信憑性のあるなしを論議するのは不毛だと思う。
甲陽軍鑑だろうと武徳編年集成だろうと内容ではなく編纂された年代だけで信憑性を判断するのはおかしいでしょう。
0217人間七七四年2008/03/14(金) 13:32:31ID:d/uHtLy7
>>216
たいていの傾向として
同時代資料に記述が無いのは信憑性を疑われる。
後世にいろいろ付け加えられるわけだし。
基本的に同時代資料>>>後世の編纂物。
そういう場合はむしろなぜそのように書かねばならなかったのか?
という点を研究されるらしい。

それから>>205の人が無いといっていたのは信玄と家康が今川領土を
大井川でわけあうという書状が無い、という事だった。
それで>>208の人が信玄が家康に謝った記述が武徳にはあるといってた。ごめん。
0218人間七七四年2008/03/14(金) 20:14:32ID:WzheFc5m
>>210
いや孫引きというか引用ではあるが読んだ上での意見なんだが、
それ以前にあなたは何か勘違いしているようだが。

手紙の内容はあくまで徳川と秋山が戦ったことに対しての謝罪であって
何らかの協定を結んでいた文章はあるものの、その書状だけでは
武田と徳川が大井川を境とする協定を結んでいたかまでは分からない。

定説では、何らかの協定=軍鑑などにある大井川での分割協定と考えて、この書状を分割協定の根拠にしているらしいが
何らかの協定が対今川で共闘、領土に関しては切り取り自由という協定だった可能性も無いわけではない

上の信玄が家康に陳謝したという手紙というのでは、
徳川武田間で何らかの協定盟約があったことの証明にはなっても
その協定の内容までも証明する史料ではないということ。

まあその実際の協定が軍鑑などにある大井川での分割以外に有力なのが見つかっていないので、
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようだが。
0219人間七七四年2008/03/15(土) 13:41:48ID:9qg1tX1Y
直接の文書は知りませんが、岩波新書の「武田信玄と勝頼」の中で、

「同年五月二十三日付けの信玄の書状によれば、
家康は「先約」に基づいて遠江の人質を受け取りたいと主張し、
信玄もこれを認めている。
氏真が遠江の武士から取っていた人質を、家康が引き継いだのだと思われる。
これは、家康が遠江に君臨することを意味するが、
そういう「先約」があったわけである。」

とあります。
順当に考えてやはり遠江は家康が領有するという密約があつたということではないでしょうか。
0220人間七七四年2008/03/28(金) 11:31:15ID:6sNY6jgB
うーん・・・つーか、義信が主張していたように、飛弾攻略に集中していた方が、よかったんじゃね?
そこから美濃に行くか越中に行くかは、考えどころだけど。
織田との関係は悪くなかったんだから同盟を結び、越中を手中におさめ、信濃との二方面から越後に乱入する。
0221人間七七四年2008/03/28(金) 15:39:59ID:s5FDYWaZ
武田は山国がほんとに好きだな
0222人間七七四年2008/03/29(土) 01:32:47ID:Vaa8ooBE
越中で上杉と衝突するのに二方面どころじゃないだろ
0223人間七七四年2008/03/29(土) 08:59:31ID:MX1epd3D
義信の主張通りなら美濃へ行って織田と衝突することになるだろう
その方が結果的に武田が後世に生き残ることになると思うけど
0224人間七七四年2008/03/29(土) 14:12:36ID:WHfaepXp
つーか武田軍は一度だけ飛騨方面より越中に入ってるだろ
0225人間七七四年2008/04/01(火) 20:04:43ID:iq7excej
せっかくの金山もほとんど掘りつくし
その採掘に支配地から男女を無理矢理連れて来て恨みを残し(度々叛乱あり)
無駄な長期戦を意地になって勝つまでやるし
しかもそのせいで重臣はバタバタ死ぬし(無敗?ぷぷ、損得勘定できないガキの戦)
気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて、遺体は腐ってしまいました(残念!!)
0226人間七七四年2008/04/01(火) 22:16:25ID:QxklzeYC
春休み全開だなw
0227人間七七四年2008/04/01(火) 23:17:04ID:GdmunYx3
過激だが事実だわなぁ
信玄自身も「上杉とむきなって戦ったのは不味かった」と認めてる。
信長や伊達ならさっさと頭下げて状況打破できたんじゃね?
0228人間七七四年2008/04/01(火) 23:52:24ID:jv9fs5EF
伊達なら土下座外交で最後には上杉より優位な立場に
信長なら自分より国力下の上杉なんて楽勝(信玄の立場なら後背の今川との同盟で憂いがないから
0229人間七七四年2008/04/02(水) 01:27:52ID:OUSFtdVk
日本が行ってきた土下座外交は今
0230人間七七四年2008/04/02(水) 02:42:48ID:MLa10qNl
>>227
それまでに培った信頼というものが皆無だからな
結局軍事的を背景にした外交しかできなかった
これはあきらかに信玄の限界
0231人間七七四年2008/04/02(水) 07:42:34ID:/D5RDjX5
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
もしかしたら信玄は内部の者に暗殺されたのかも…
「老い先短いジジイの今生の想い出作りに付き合わされて無駄死にさたかないべ」
「やっちまうべ?」
「んだんだ」って感じで
しょせんは豪族の集まりの田舎軍団だし
0232人間七七四年2008/04/02(水) 07:44:17ID:e0T+PVpD
↑(笑)
0233人間七七四年2008/04/02(水) 09:24:39ID:LPf2BBWa
春休み全開だなw
0234人間七七四年2008/04/02(水) 23:23:06ID:NjprYtua
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
0235人間七七四年2008/04/02(水) 23:28:03ID:hWsSo1ig
武田に恨みあんのか?
0236人間七七四年2008/04/03(木) 00:34:17ID:YQcg4/iA
武田にお金盗られたのよ
0237人間七七四年2008/04/03(木) 02:21:04ID:BM4XlB+k
>>225
>気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて
この辺が春休みムキ出しなんだが
頭大丈夫か?w
0238人間七七四年2008/04/03(木) 05:15:47ID:ETUXSpJ+
おかしいかな?
各所に最低限の備えを残しても7、8万は動員できるだろ
敵地の中たかが二万五千で何ができる?
あと武田には恨みはないよ
ただ武田マンセーからかうと面白いだけ
0239人間七七四年2008/04/03(木) 09:12:49ID:jzyLywvf
バカだから自分のバカ発言のバカさに気が付かないのも無理はない。
そもそも信玄最後の戦闘、通称「西上作戦」は
アホの言う「慌てて計画性の無い上洛軍を挙げる」ではなく
本願寺や足利義昭からの再三の要請を無視できなくなって
やっと重い腰を上げで挙兵した物だよ。
しかもこれは上洛を目的としていた物ではない可能性が非常に高い。
その辺を全く考慮していない(知らないのなら無理もないが)アホ発言なんだよ。

からかわれてるのは お ま え www
0240人間七七四年2008/04/03(木) 09:27:17ID:ETUXSpJ+
じゃあ何しに来たの?
死ににきたの?
腐りにきたの?

それとも囲まれて打ち取られて塩漬けにされにきたの?
0241人間七七四年2008/04/03(木) 09:29:16ID:hCTeww1b
信玄の中じゃ未だ将軍の権威>>織田の脅威 だったのか
0242人間七七四年2008/04/03(木) 09:53:16ID:ETUXSpJ+
上洛の意思が無いってことは、しょせんは戦国を領土拡げるだけの陣取りゲームくらいにしか考えれなかったという信玄のスケールの小ささを教えてくれたって事で、ありがとねぇ〜(≧▽≦)丿
0243人間七七四年2008/04/03(木) 14:42:29ID:8K1yrV1H
本当に春休みなんだなw

>>241
将軍が「織田を滅ぼせ」と言えばそれだけで
織田攻撃を正当化するための立派な「大義名分」になる時代なんだよ
それで織田の周囲が全部敵に廻って一斉に攻撃を仕掛ければ織田を潰せるじゃんか

>>242
信玄の展望の小ささはこのスレでも再三既出
改めてアホのお前が書く必要もない

信玄は将軍や本願寺に懇願されて
仕方なく形だけ上洛するように見せかけて挙兵した
断れない理由もちゃんとあった
実際の目的は上洛ではなく織田領の切り取りで
或る程度の所まで来たら停戦協定を結んで引き上げざるをえない状態
0244人間七七四年2008/04/03(木) 14:58:51ID:ETUXSpJ+
確かに信玄はものが見えないね
チミのゆーとーりだよ
あの時代では致命的だね
戦が強いから自分の代はだいじょうぶでも、次の代では武田が滅ぶ事までも見えずに敵を増やし、更には織田にまで喧嘩売ったんだか
タイトルどおり、武田が滅んだのは信玄のせい

チミとは違うかもしれないけど、やたら信玄マンセーしてるバカにも教えとけよ
信玄は猪武者だって
0245人間七七四年2008/04/03(木) 15:06:00ID:hCTeww1b
>243
で、実際に義昭はがんばってそれをやったわけだが。
結果は足並みがそろうはずもなく織田に各個撃破された訳だ,


どんな大義名分があっても勝てない戦にはでないのが名将ってもんだろ
0246人間七七四年2008/04/03(木) 15:21:20ID:8K1yrV1H
春休みだなぁw

>>244
ちなみにオレは初代スレの>>1

>>245
当然足並みは揃わなかったが
織田は滅亡寸前ぐらいの窮地に追い込まれていた
領土が急激に広がり敵対勢力も急激に増えたために各地に奔走しまくっていた
明智救出のために信長自身が出馬して重症を負ったりもしてる
信玄が存命だった時期はまだ織田家に圧倒的な力があったわけではないし
武田は独力で織田に勝てなくても、他の勢力と共闘して潰す事ができる唯一の後期でもあった
信玄死去をきっかけに敵対勢力を個別に潰す事ができるようになったので
それで徐々に体制を整えて行けただけの話
信長マンセーもほどほどにね
0247人間七七四年2008/04/03(木) 15:33:25ID:sURl3ijU
信長を倒せた可能性は志賀の陣が最初で最後だったな。
体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
武田がようやっと出てきた頃には畿内の反織田勢力は虫の息。

将軍の命令も、信長と戦う理由のあるものに大義名分を与えただけで、信長と
戦う理由のないもの、信長と結んだ方が得をするものは将軍の命令なんか無視
して信長と結んだ。
0248武田竜芳ってどお?2008/04/03(木) 15:40:48ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>206-219さんへ
わざわざレス有難うござる。
特に私の意見を捕捉してくれた人には「大井」に感謝!!

まず、長いので私から皆さんへのレスを2つに分けますね。
・「川きり」協定に関して。
・秋山の行動に関して。→これは次回ね。

1.簡潔にまとめ
今川領の遠江は「切り取り自由」と言う事もありうるのではないか?
その根拠は、
(1).「川きり」の書状がないこと。
(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
もし協定が「川きり」ならば、掛川は大井川から相当離れているから「編纂物」と「書状」の記述は矛盾するでしょ。
あの「長泰殴打事件」みたいにね。

(3).この書状「恵林寺文書」は大変有名で実物も残っている(『武田信玄の生涯』に写真が掲載されている)。
これは写しではなくオリジナルのものだから間違いなく「一級史料」なわけで、
これに関しては編纂物に引用されている「書状写」より信頼できるんじゃないの?

(4).他の国分け協定、例えばあの「越相同盟」や氏真→氏直の「駿河譲渡」それに「毛利と宇喜多の国分け」などは、
具体的な内容の書状が残っているんだけど、
この協定に関しては『武徳編年集成』や『軍艦』『三河物語』などの編纂物しか具体的な記述がないんだ。
皆さんは「駿河は信玄、遠江は家康」と明確に記された書状がないのがおかしいと思わないのかな?

2.『武徳』は他にも書状と矛盾している記述がある。2つ。
(1).「信玄は父を追放した親不孝者である」
→追放された信虎が信玄のグチをこぼした書状がない。あの昌幸だって高野山から書いた手紙で(信之に)本音を述べているのにね。
(2).「信玄は氏真妹を駿河へ送り返した」
→これも、関連書状を読む限りでは、氏真の方から何らかの理由(謙信との密約?)があって、送り返すように要請し、その代わりに氏真→信玄に誓詞を送ったらしいよ。(ただし「誓詞」は現存せず)

3.『三河』は知っての通り三代家光の時代、寛永三年(1626)頃、旗本の大久保彦左衛門によって書かれたもので、大雑把に言うと2つの目的で書かれたものなんだよ。
(1).大久保家がどんなに徳川家に忠誠を尽くしてきたか? どれほど(の血を流して)働いてきたか? 
(2).元和偃武(1615年)以降、新鋭の文官達が官僚として出世していくのに対し、彦左衛門以下、譜代の武官達は疎外されていく事。

つまり、彦左が理想とする「(戦国時代の)主従の在り方」を社会にアピールする目的で書かれたものであり、一概に「歴史」を残すために書かれたとは言えないんだよね。

確かに自身も従軍したと思われる「第一次上田城攻防戦。神川の戦い」(天正十三年)なんかは、大変細かい描写で書かれていて面白いし、それにこの戦いは、なぜかあまり書状がないので『三河』を信用するしかないんだけどさ…

「駿遠分割協定」(永禄十一年)に関しては、彼がまだ9〜10歳でしょ? だから信用できないんだよね。やはり、これに実際携わったと考えられる信玄・家康・梅雪・酒井忠次などの書状や同時代人の『家忠日記』の方が信用できるんだよ。

結論1としては、
「川きり」の協定もそうだけど…
「編纂物を100%信用するのは、ちょっと危険かな」
「定説・通説だけど改めて調べてみると、新しい発見があるかもよ」
と、言いたかったのさ!!
宿題としては、
『武徳編年集成』で調べてみるしかないね。(入手が難易だけど…)
0249人間七七四年2008/04/03(木) 15:41:09ID:hCTeww1b
>246
なんだかんだいって織田に喧嘩を売ったのは信玄最大の失策
だったんじゃないかという気がするけど。
0250武田竜邦ってどお?2008/04/03(木) 16:00:57ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>212さんへ
信玄の第一次武蔵・相模侵攻(永禄十二年8月24日から10月7日まで)の時、
つまり、三増峠の戦い(永禄十二年(1569年)10月6日)の時、
馬場美濃は高坂弾正の後詰として、信州牧之嶋城(長野県信州新町興禅寺)の留守居役を任じられていたが、
「面白いので法度を破って高見の見物に来た」とのたまわって勝手に軍を率いて信玄に合流したが、
お咎めなしだったよ!!
0251人間七七四年2008/04/03(木) 16:08:04ID:8K1yrV1H
>>247
信玄の西上作戦の時の信長の行動は
徳川に援軍として佐久間の手勢を送ったが「動くな」と指示した
信長は京都から岐阜に戻ったが軍勢を整える事もなくそのまま待機

おそらく信長は信玄の行軍を岐阜まで許しておいて、そこで対峙しようと考えていたのだろう
野戦で短期決戦なら家康のようにコテンパンに叩かれる恐れもあるけど
信玄の西上作戦の軍勢は長期戦には向いてないからな
織田のほうが圧倒的に強いのであれば織田領に入れずに三河で武田と決戦をすればいいが
当時の織田は四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった

>体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
それは信玄死去以降の話だな
0252人間七七四年2008/04/03(木) 16:13:02ID:Wj4CcV25
test
0253武田竜邦ってどお?2008/04/03(木) 16:13:23ID:1eFs5Gk5?2BP(1)
>>219さんへ ます、大変有難う。
あなたが「あの」書状を指摘してくれたおかげでようやくあの「三増峠」第一幕が完成しました。
その「返礼」ではないのですが…
つまり、永禄十二年(1569)5月23日付 信玄→信長家臣津田盛月?・武井夕庵あて書状「神田孝平氏所蔵文書」には…
(↓ココに注目!!)
『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。
十余日たってから信長の先導部隊と称して、家康が出陣しました。
先約のごとく、遠州の人質らを受け取りたいと(家康が)言ってきたので望む通りにしました。』
(↑つまり「十日間もちんたらしやがって何やってんだ」)

「氏政が氏真を救うために、駿河薩田山へ出陣して、信玄と対陣し(たから)、
(家康は)掛川の(周囲)数ヶ所に砦を築き、掛川を落城させることが出来ました。」
(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)

その後、氏真を生害させるか? 三河・尾張の間に(身柄を)送るべきだった。なのに…

(↓ココに注目!!)
『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
掛川に籠城していた(今川の)家臣たちが、何事もなく駿河に帰って来て(私を悩ます)とは、思いも寄りませんでした。
氏真・氏康父子と和睦してはならないと、家康は誓詞で明らかにしているけど、この(協定違反)に関して信長殿はどう思うのか?』
(↑@つまり信玄は「家康こそ協定を破った!!」 A「駿遠分割協定は信長が仲介・斡旋した事」がわかる)

過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」

結論
1.信玄と家康の「駿遠分割協定」(永禄十一年2月16日)は、信長の仲介・斡旋により成立した事がわかる。
この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したという事だね。
2.信玄は、秋山を遠江から撤退させたけど…
家康は、信玄との協定を破って「勝手に氏真・氏康父子と和睦したこと」かつ謙信と誼を通じた

どちらが誓詞を破ったのかな?

0254人間七七四年2008/04/03(木) 16:44:05ID:daQ6gmVq
>>251
東より西の方が脅威だったんだろうな。
明けて一月、義昭は堅田に味方を籠もらせたが、柴田・明智・丹羽・蜂屋に追い払われる。
二月、自ら出陣し石山攻め、これを陥とす。
三月、入洛し、翌四月、義昭が立てこもる二条城を包囲。義昭との間に和議が成立。
鯰江城に籠もる佐々木を佐久間・蒲生・丹羽・柴田に命じて攻めさせる。
さらに佐々木を支援する百済寺に放火。
0255人間七七四年2008/04/03(木) 20:25:26ID:Q/KHyUSd
>>251
>四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった
【四面楚歌】
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。

当時の織田家の主な敵
武田家(甲信。補給が課題点。徳川に対する処置をしなければ尾張・美濃に進むのは不可能)
長島一向一揆(伊勢長島。城に篭られたら鉄板で脅威だが遠征能力には疑問あり)
浅井家(北近江の小谷城周辺のごく一部、虫の息で現状維持することが限界)
朝倉家(越前一国。加賀、若狭の一部? 財政悪化&家臣の離反、軍役拒否等で進退窮まった状態。
     志賀の陣以降は浅井家の援軍での出兵以外に軍を動かすことは無く、自分から仕掛ける余裕は最早無し)
六角家(織田家の主な敵に加える必要はないのではないかとも思えるほどの弱小勢力。)
松永家(大和。寺社、土豪の多くが敵対する筒井に味方し大和国の主導権争いで劣勢状態。
     織田家の敵として殆ど機能していない状態。)
石山本願寺(城に篭れば鬼のような守備力を発揮するが、積極的には動かない。
         志賀の陣の好機にも大坂周辺を荒らした程度でそれ以降目立った動き無し)
三好一族(結束力が脆いのがネック。反三好との攻防で膠着状態。)

とまあ確かに織田家の周辺には多数の敵が存在していたが
徳川家、筒井家、細川、荒木等反三好勢と織田家に味方した勢力も多数いて
君の言うような四面楚歌状態ではなかったんだけどね。
反織田勢力の存在はしっかりと数に入れるのに、親織田勢力を無視するとかよそうぜ。
武田上洛スレのテンプレにもあるけど、織田家は少なく見積もっても3万弱を対武田に使えたと計算できるよ。


0256人間七七四年2008/04/03(木) 20:51:27ID:mKQQxEzm
>>255
本当に集められるんだったら軍勢を率いて浜松に出向き
織田・徳川連合軍で武田を潰せば良かったんじゃない?
実際には佐久間の手勢を送っただけ、信長は岐阜で事態を静観するだけ
武田撤退後も追撃をせずに徳川に大量の金銀を送っただけ
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