武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
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0001人間七七四年
2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP0133人間七七四年
2008/02/20(水) 23:16:55ID:O6f9NGt9>俺がいつも言っているのは徳川が掛川交渉したのは対武田の外交じゃないと
だから対武田外交じゃないのって何が悪い?
徳川が掛川を落してはいけない?今川の心証を良くすれば対武田で共同戦線組めるかもしれないのに?
実際氏真が徳川で城主になって武田と戦った。
>結局家康も氏真に駿河なんて返さなかったのを忘れたか。
家康が駿河を手に入れたのは1582年武田征伐のあと。
そん時氏真が何してたのか調べてみろ。
0134人間七七四年
2008/02/20(水) 23:21:59ID:UidaDws/だからまずは認識のずれを修正しろと言ってる。
それがずれると話がいつも食い違う。
今川氏真が徳川に身を寄せたのがいつだと思ってる。
まず氏真は北条に身を寄せて北条に駿河を譲ることを約束させられた。
それにもかかわらず北条と武田が再同盟してしまうと居場所がなくなって
出ざるをえなくなり前に口約束をしてた徳川に身を寄せた。
氏真は本来徳川に身を寄せたくて寄せたわけじゃないんだよ。
京都にいたな。その気になれば呼び戻して還俗させ駿河に戻してやることもできたな。
でも家康はしなかった。つまりはそういうことだ。
0135人間七七四年
2008/02/20(水) 23:25:22ID:O6f9NGt9>でも家康はしなかった。つまりはそういうことだ。
氏真本人がその気がなかったはずだが?
氏真は京で僧になって公家と交流して文化人の生活に満足してたんだぞ。
そもそも京での生活を家康が援助してた。
一方同盟国を裏切りまくった武田は滅んだ、最後は重臣一族に尽く裏切られての滅亡。
つまりそういうこと。
0136人間七七四年
2008/02/20(水) 23:30:48ID:UidaDws/最後の2行の文章にまるで話の関連性がないな。無駄なあおりはやめておけい。
満足してたかどうかなんてわからんさ。機会があればもう一度駿河を持ちたい
気持ちはあったろうさ。でも徳川にしてみれば新しく得た駿河という大国を
いきなり氏真に丸ごとやるなんて出来るわけない。戦功あった家臣にやらないとな。
もともと約束実行が無理になるのは家康だって承知の上だったろうさ。
駿河丸ごとやることに比べれば氏真私人の京都での生活援助くらい安いもんだったろうさ。
0137人間七七四年
2008/02/20(水) 23:38:45ID:O6f9NGt9だから今川残党を対武田に使うための口実だから別にいいじゃない?
氏真を城主にしたし、城主やめて京に行った後も援助してたし、
関ヶ原のあと子孫と一緒に高家という身分にして今川家を守った。
戦国で旧主にここまでする方が珍しいぞ。
で、領民に重税をかけて、国が富むほど周辺国を略奪して同盟国を裏切りまくった
武田はどういう結末だったのかを見れば、
どれほど信用されないものなのかわかるはず。
0138人間七七四年
2008/02/20(水) 23:49:30ID:UidaDws/最初は今川の心証をよくして云々といってたのにそれかい。
今川残党を対武田云々というのは>>132にも挙げたけどその効果はかなり
怪しいぞ。
元々駿河の今川残党はそのまま武田に抵抗してるし、掛川追放された氏真は
北条に身を寄せて北条に駿河譲る約束させられているし、と家康の言ったのとは
まるで違った形に動いてる。家康もそこまで期待なんかしてないと思うが。
もと勢力の主である程度の血筋を持つものを保護するのは結構よくある事でもある。
後々そのコネクションがつかえる可能性があるから。
上杉とかそういった他国亡命者を重臣とかにしてるだろ。武田も真田とか使ってる。
徳川にしてみれば駿河の代わりと思えば生活援助は安いもんだし、今川の血筋を大切に
していることを示すのは駿河支配においても悪くない。
で、最後の3行は例によって関連性がない。武田の同盟国裏切りも戦国時代というのを
考慮すればよくある例の一つにすぎないんだが。重税も略奪も。
それで生き残った大名家も結構ある。武田が滅んだのはその他の諸要素の複合。
信用云々だけで戦国勢力が滅びるもんじゃないよ。
0139人間七七四年
2008/02/20(水) 23:56:22ID:O6f9NGt9>勢力の主である程度の血筋を持つものを保護するのは結構よくある事でもある。
よくあることだし駿河支配にいいならなぜ武田にそれができない?
徳川が駿河を手に入れたのは信長の武田征伐によるものであって氏真の功績ではないし、
建前上信長から拝領したものだから氏真に駿河を与えるのが筋違い。
それでも氏真を援助し続けた。
戦国で旧主が利用価値を失っても見捨てずに援助し続ける大名がどれだけいるか調べてみれば?
で、最後の3行だけどスレタイに沿ったものだから無関係ではない。
「武田が滅亡した理由は信玄の悪行」スレである以上、
同盟国を裏切ったり信用をなくしたことが武田の滅亡の主因と書いてて当たり前。
キミと違って武田厨でもマンセーでもないから。
0140人間七七四年
2008/02/21(木) 00:04:03ID:ZehnsOCSその勢力の主と自分の勢力が衝突しなければ優遇しない事もないんだが。
武田の場合はもろに被っちゃってるからな。
そう、結局の所、今川氏真を駿河の太守に戻すのはどうやっても不可能なんだよ。
信長云々が無くて徳川の独力で切り取ったとしても領土は手柄のあった家臣にわけねばならない。
家康が氏真にやった約束は結局の所実現不可能な自己勢力拡大のための方便に過ぎなかった。
そもそも旧主がいろいろあって出戻りするなんて事態がそもそも珍しいからな。
駿河統治における徳川のアピールとしては氏真保護は悪くないといってるでしょ。
利用価値がないわけじゃないんだよ。
無関係だね。この議論においては。スレタイも間違ってるし。
信用云々だけで戦国勢力が滅びるわけじゃないと言ってるでしょ。
この議論が終わった後で話す話題だと思うが。
0141人間七七四年
2008/02/21(木) 00:06:38ID:EasfvWop>無関係だね。この議論においては。スレタイも間違ってるし。
よく読め、スレタイは「武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2」。
気に食わないなら上洛スレに戻れば?
0142人間七七四年
2008/02/21(木) 00:08:22ID:ZehnsOCSなんで上洛スレなのかよくわからないが。
今話されているのは1568年から1571年までにかけての
今川関連の話だろ?正直それとは筋違いな話だと思うが。
0143人間七七四年
2008/02/21(木) 00:18:00ID:lIdVsuZkまあ、おちつけ。
0144人間七七四年
2008/02/21(木) 00:22:42ID:0uBdkmyNそれに対して謝罪をするというのであれば言葉だけで謝罪をして良しとするのではなく
謝罪の意を述べた上で責任を取るところまでして初めて謝罪したと言えるのではないでしょうか?
秋山の遠州侵入については、
(1)秋山の切腹
(2)領土の割譲
(3)金品による賠償
この3つのうちの一つを実行してこそ、「謝罪した」と言えると思います。
(1)と(2)については実行していないことは明白ですが、
(3)について信玄は実行したのでしょうか?
もし金品による賠償もしていたのであれば、きちんと責任を持って謝罪したといえて
その後の家康の今川との駿河割譲策は家康の領土拡張の野望によるものと解せられ信玄の責任はないことになりますが
金品による賠償もなしに書状でだけ謝罪したのであれば、言葉でだけ謝ってみせて違約の責任は取っていないことになり
家康が信玄に不信を抱いて駿河を今川と取引して武田と事を構えたとしても
無理からぬことと考えます。
すると、信玄が家康への信頼回復を怠ったために家康を決定的に敵に追いやったこととなり
あわせて信長への警戒心を煽ったということになり、信玄の失策だったということになろうかと思います。
不勉強にて、私は信玄が家康に金品での賠償をしたという記録を見つけることができなかったのですが
その点について史料があるのでしょうか?
0145人間七七四年
2008/02/21(木) 00:27:18ID:ZehnsOCS正直な話、戦国時代においてそういう形で謝罪を表す例を私は知りません。
ましてその時その人物の領土でなかった場所での衝突において。
あなたの謝罪の例や違約責任の例はどうも近代民主国家の賠償事例について
語っているように見えるのは気のせいでしょうか。
0146人間七七四年
2008/02/21(木) 00:32:42ID:EasfvWop戦国時代でも責任者の切腹か処罰、謹慎を持って謝罪とする。
金品の補償も領土の割譲(城の譲渡)も前例がある。
0148人間七七四年
2008/02/21(木) 00:41:30ID:EasfvWop信玄が主張したように秋山が勝手に動いたとすれば、
秋山は軍令違反となり最低限謹慎以上の処分を受けなければいけないが、
それがない以上当主の黙認による軍事行動になる。
あと、このスレは「1568年から1571年までにかけての今川関連の話」
ではなく、武田滅亡の理由は信玄にあるかどうかを討論するスレ。
勝手に決め付けてはいかん。
0149人間七七四年
2008/02/21(木) 00:43:29ID:ZehnsOCSおーい、例を挙げてみてくれというたんじゃが。
でも実際のところ「1568年から1571年までにかけての今川関連の話」
になってしまっているわけで。
本来これは武田の滅亡がどうとかの問題とは関連しない議論な気もするが。
0150人間七七四年
2008/02/21(木) 00:44:02ID:0uBdkmyN自害した時に、その上司である旗本・伊奈図書の切腹を正則が要求したという
事件があります。
また、信長が同盟者家康の高天神城の救援に間に合わず、金品をもって償ったという
事例がありますね。
ちょっと、今回の事例に当てはまるかどうかは自信ないですけど、戦国気風のなかにそのような風習があったものと理解しているところです。
0151人間七七四年
2008/02/21(木) 00:52:05ID:ZehnsOCS福島の話はもはや治国の時代になってからのような気がするが。
独立勢力があい争う戦国真っ只中とは違うような。
治国の代において各勢力がまとまって秩序を守る事が必要な時代には
基本的に勢力内部の争いを収める喧嘩両成敗の原理も通用しそうですが
戦国時代に独立勢力同士でそういうのあるのだろうか。あったら戦国時代じゃ
ないような気もするが。
信長の徳川への金品贈答は援軍出せなかった事で高天神が攻略されて押され気味の徳川に
これを送るから軍資金にして頑張ってという意味だったような。
0152人間七七四年
2008/02/21(木) 01:00:03ID:EasfvWop甲陽軍鑑では対上杉、北条和睦のために典厩と梅雪の切腹と領地の割譲を高坂が提案した。
この時代では関係修復のために責任者の切腹は当たり前。
そもそも秋山は軍令違反なのに謹慎すら命じられないじゃ建前だけの謝罪であることは明白。
こんな三文芝居にだまされる大名はいない。
あと、スレ違いという自覚があればそろそろやめたら?
0153人間七七四年
2008/02/21(木) 01:03:36ID:ZehnsOCSでも実際切ってないでしょ。現実には。
梅雪も典廚も最後があれだから軍鑑は描写が冷たいんだ、これが。
そんで切らずとも上杉との和睦はうまく言ってたような気もするが。
やめたいのだけどねえ。これを理由にしていわれなき武田叩きが入るのでは
こちらもついついレスが……。
0154人間七七四年
2008/02/21(木) 01:04:49ID:0uBdkmyN0155人間七七四年
2008/02/21(木) 01:09:49ID:ZehnsOCS豊臣が一旦天下を治めてしまった後では基本的に治国の意識が発生してます。
惣無事令とかありますね。
関ヶ原も戦国乱世の独立勢力同士の離合衆参というよりは豊臣家という傘のもとでの
主導権争いという気分が結構あります。
0156人間七七四年
2008/02/21(木) 01:10:30ID:EasfvWop結局キミがしたのは武田擁護だけだろう。
そんなの最初からわかってる。
オレも武田が好きだし叩きたいわけでもなく、
なぜ失敗をしたかレスしたかだけだろう。
このスレでも「武田家滅亡の理由」だから、そこで武田の失敗を言って何もおかしくない。
そこを「叩き」ととらえるのはキミの思い込みの激しさから来た勘違いだけだろう。
0157人間七七四年
2008/02/21(木) 01:11:44ID:EasfvWopあと、実際切ってないから上杉との和睦が景勝の代になるまで実現しなかったんだろう。
肝心なところをわざとスルーするでない。
0158人間七七四年
2008/02/21(木) 01:17:03ID:ZehnsOCSいや、失敗なら失敗でいいんだが
どうも妙な方向で叩かれているというか。
ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろうか。
>>157
いや、違うのだ。謙信との和睦がならなかったのは
北条と上杉がそれぞれを拒否したからだ。書状もある。
武田はこの3者同盟を受け入れたいと言っている。
0159人間七七四年
2008/02/21(木) 01:19:36ID:0uBdkmyN同盟中敵対行為をとった秋山も敵対者として責任をとって切腹なりの処置があってもいいのではないですか?
>152さんの件についても、典厩と梅雪の切腹と領地の割譲を高坂が提案したという事実が挙げられており、
たとえそれが実現しなかったにせよ、真の和睦のためにはココまでしなければいけないという当時の基準だったと見做すことも
できます。
0160人間七七四年
2008/02/21(木) 01:24:55ID:EasfvWopだから切ってないからだろう。
話をループさせるなよ。
>ぶっちゃけこの今川関連の話って武田滅亡に関連あるのだろう
それならやめればいいだろう?
過去レス読んでわかったけど、そもそも話の発端は「武田家が東に行くべき」
というカキコに対してキミが「武田家に対して領土的野心を持つ徳川家が悪いから」
と時系列をごちゃにした意味不明な発言から始まったんだろう。
キミが意味不明な擁護をしなければ今川の話が出なかった。
スレ本題の武田家滅亡の原因に戻ればいいじゃん。
0161人間七七四年
2008/02/21(木) 01:27:21ID:ZehnsOCS清水宗治の切腹と土地割譲は数年にわたって相争い
食うか食われるかの状況で瀬戸際まで迫った毛利と織田における最終局面での
和睦策。実質的に敗北していた毛利の降伏に近い。
それでも毛利は最後まで清水の切腹を拒否していた。
武田と徳川の局面はここまでいってるのだろうか。
いや、その典厩と梅雪の切腹と割譲に関してもかなり眉唾。
実際は謙信は「勝頼となら和睦してもいいけど北条とは絶対いやだ。」といい
北条も「この三者和睦を妨げているのは上杉だ。」として拒否してる。
こういう背景の下にこの三者和睦は成立しなかったわけで。
当時の武田はぜひともこの三者和睦を結びたかったみたいだがこういうわけだった。
典厩も梅雪も最後がアレだから軍鑑はかなり筆が辛い。
0162人間七七四年
2008/02/21(木) 01:31:30ID:ZehnsOCSその北条上杉武田の三者和睦については>>161を参照の事。
東に行くべきゆうてもそもそもあの当時は信長の畿内覇権確立が迫りつつ
あったので東に傾いてる場合じゃないんだが。
実際北条との戦いが済んだらさっさと総力をあげての織田徳川戦にむかったわけだし。
そんで徳川に対してがどうので駄目だったみたいな言い方をされていや武田にもそれなりの
事情がですねえryという話になったわけで。
まあ明日があるので今日はもう寝るわ。
0163人間七七四年
2008/02/21(木) 01:31:45ID:EasfvWopだから、成立かどうかは別として当時の価値観では一度敵対したら
和睦するのに責任者の処罰が必要だということだろう。
それ以上話をずらさないでくれ。
キミの話はいつもこう言ってはああだと、脇道に逸れてはループ。
一個のテーマに絞って話せ。
キミが要求した「戦国時代の和睦に対する条件」は例として存在してるからそれでいいだろう。
成立しなくても結局「和睦するならそれをやらなければ」というのは当時の人間の価値観だから。
0164人間七七四年
2008/02/21(木) 01:35:50ID:0uBdkmyN同盟していた家康に背信行為をして不信感を持たせて敵対に追いやってしまったために
背後の信長も信玄に警戒心を抱かせることになった。
そして武田滅亡はほぼ織田・徳川家二家による侵攻により滅び去った。(北条はたいした働きはしなかったし)
この二家との信頼関係をきちんと結べなかったのは、遠州侵略が深因でしょう。
0165人間七七四年
2008/02/21(木) 01:36:12ID:ZehnsOCSちょっと待て。
本当に人のレスを読んでいるのか?
甲陽軍鑑は典厩と梅雪に辛いことはわかっているだろう。
そして成立がどうとかの問題に関してもこの両者がぶっちゃけ関係あったか
わからないといっている。
そんな事関係なしに上杉と北条が和睦を拒否してるのだから。
そんでただでさえ筆がこの二人には辛い軍鑑が香坂に切ってしまえ発言させてないと
何故いえる。
0166人間七七四年
2008/02/21(木) 01:42:49ID:ZehnsOCSいや、ぶっちゃけ織田が武田を生かしておいてくれるかなんて
正直わからんわけで。巨大大名の存在なんて大抵肯定されないんもんだ。
無茶言われて唯々諾々と従えば家中崩壊でもあるから。
だから武田は織田の畿内覇権が確立する前に戦いを挑むしかなかった。
0167人間七七四年
2008/02/21(木) 01:47:36ID:EasfvWopだから「和睦するなら責任者の切腹」という条件が出てんだろう。
甲陽軍鑑にかぎらず、戦国期では敵対したもの同士の和睦の条件で一番よくあげられるのは
「城主の切腹」「城の明け渡し」の二つ。
これに関してほぼ常識だから知らないなら自分で勉強しろ。
武田の遠州侵攻は辺境の村を略奪したという簡単なものではなく、
徳川本隊のいる掛川と本拠地の三河との連絡を切断するように重臣が軍を率いて見附を占領した。
さらに掛川の出陣は武田の要請によるもの、
徳川が掛川に出陣したわずか数日後秋山が徳川側の見附を占領。
これはどう考えても立派な敵対行為。
キミが「信玄が謝罪したからいいじゃん」と軽く言うが、
信長が和睦調停に乗り出すほど両者の関係が緊張してた。
普通なら「当主の命令なく無断で侵攻した秋山は軍令違反により切腹か謹慎」
は筋なのに、手紙一通にお茶を濁したから不信感が増大した。
武田家では当主に無断で軍を動かしたほどの軍令違反が処罰されないことはありえんし、
他家でもあり得ないから、同盟破りの侵攻→お茶濁し程度の謝罪が徳川を反武田に追い込んだ。
以上はこれまでさんざん言われたこと、これ以上話をループさせるな。
0168人間七七四年
2008/02/21(木) 02:02:51ID:ZehnsOCS城の明け渡しとかは完全な敵対状態だぞ。何年も争った。
たった数日ですぐに謝って兵をひかせてそれとはちょいと
急激にすぎる気もするがね。
0169人間七七四年
2008/02/21(木) 02:04:02ID:ZehnsOCS0170人間七七四年
2008/02/21(木) 02:08:06ID:EasfvWop家康を誘いだしてから遠州の奥深くまで進行して、
徳川側の城を占拠して家康と岡崎の連絡を絶つ。
完全に敵対状態だろう。
兵が小競り合いするわけじゃないからそこは理解しろ。
あと引いたというが、武田にとって予想外の家康の反応と情勢が悪化したから兵を引いたんだろう。
それもお茶濁し程度の手紙一枚の謝罪。
これらもすでに言われてること。
もう一度言う、話をループさせるな。
0171人間七七四年
2008/02/21(木) 02:58:13ID:tGTEmqmP罠にかけて不意打ちしたまではよかったけど、
徳川が意外と強かったことと、駿河情勢も怪しくなった上に北条が敵対したので
諦めて兵を引いたってことかな。
徳川の掛川開城における氏真との交渉や北条との交渉は単に武田と敵対しているからでは、
でも家康はその後は信玄の要請による信長の仲介を受けて、
武田の危機的な状況時に武田の弱みに付け込むようなことはせずに対武田には参戦しないで、
専守防衛に徹している感じがする。
0172人間七七四年
2008/02/21(木) 16:08:20ID:tDhNEfbM秋山が見附を占領して見附から大井川までの遠江の大半を武田領として確保
徳川に対して掛川攻めを要請して出て来た所、見附を占領して徳川の退路を断って城下の盟を強要する
もし従わなければ駿河にいる本隊と挟み撃ちにして徳川を葬り去るという構想だったんだろう
駿河情勢の悪化と北条の態度硬化(駿河侵入と同時に北条が武田と絶縁)によって駿河の武田本隊が逆に徳川、北条、今川に挟み撃ちされかねないから一旦引く
で、秋山が敵地で孤立した形になって長く見附を維持できないから見附も徳川に明け渡す(返還する)、ということだったんだろう
徳川、北条を読み切れなかったのが失敗の原因だが、その近視的な戦略が武田を滅ぼす最大の原因
もし義信の構想通り三国同盟を堅持して信長と同盟せず美濃へ侵攻したら、信長の飛躍的な成長はなく武田も信長に滅ぼされる事無かった
0173人間七七四年
2008/02/21(木) 20:38:26ID:Msy+UBMi12月12日北条氏政小田原出陣、沼津着 ←静岡県史だから信憑性は微妙
駿東郡八幡郷に禁制
12月13日蒲原城に北条氏信『地方史静岡22』
12月15日北条氏規沼津の竜雲寺に禁制 秋山遠江進入
12月16日氏規富士郡に禁制
12月19日氏政、大宮城の富士に感状
12月18日の段階で既に北条は行動している
>>125
>第一北条が全力で入ってこれるかは別問題。北条が上杉に対して利権の多くを譲る決断を
>するのはまだ先の事。
敵対して全力で武田に向かえる状態ではないとはいえ既に北条が武田に対して行動しはじめているのに
その上徳川とも敵対するわけにはいかないだろう、武田としては駿河の方が優先だし
だから信玄が謝罪して兵を引かせ、信長を通じて徳川に明確な敵対行動を取らせないようにして
北条の問題を片付けて後に全力で徳川に向かったのは正しい判断
この機会を活かせなかった徳川は戦国大名としては甘い気もする、
徳川としては織田との関係もあるから仕方が無かったのかもしれないけど
>>147
秀吉の北条征伐のきっかけとか考えれば検証するまでも無いと思うが
逆に問うがいきなり同盟破って侵攻してきて侵攻側の都合が悪くなったので謝罪しました
そして元のような同盟関係でいられるって例は存在するのか?
人質とかもださないで
しかも国境でのちょっとした利権争いとかじゃなくて、武田の場合は完全に軍事行動だしな
金ヶ崎直後に浅井が謝罪していれば謝罪だけで許されていただろうか?武田はそれぐらいの行動してると思う
それ以前に一方的にいきなり同盟破って攻めこんだら、ほとんどの場合そのまま敵対し続けるか、
情勢が変化するまで敵対し続けるような気がするが
>>158
叩かれるというか、単に事実を言われてるだけ、
単にあなたが異常に武田を擁護しようとするからこんな風になってるだけだと思う
>>162
当時の価値観としての話として軍艦の例を挙げているのに
そんなこと言っても見当違いなだけじゃ
つか人にレス読んだのかという前に少し落ち着いて話の流れを読んでレスしたほうが
武田を批判されると流れ無視してレスの一部に対して条件反射でレスしているように感じられる
だから回りの人間にはあなたが話を逸らしまくっているように感じられちゃうんじゃ
0174人間七七四年
2008/02/22(金) 04:14:08ID:25Cav3Biまぁ既に遠山夫人は亡くなっていたが遠山夫人の産んだ勝頼嫡男(後の信勝)は存在してるから無碍にもできないだろう
武田将来の当主の可能性のある人物が縁戚関係にある織田とその同盟である徳川は武田に対して攻勢に出づらいって面もやはり存在する
この面は外交的信用の関係になってくるから家康の判断は間違いないと思うが?
0175人間七七四年
2008/02/22(金) 12:55:57ID:7M+aiNoSただこういった盟約破りの不意打ちは初動で上手くいけばいいけど失敗すれば大変だと思う
毛利は陶裏切った時は即座に動いて安芸をほぼ制圧して体勢整えることに成功
浅井は織田裏切った時は失敗してジリ貧ってなったし
0176人間七七四年
2008/02/22(金) 16:01:05ID:9vwB/sa70177人間七七四年
2008/02/22(金) 19:34:54ID:fVHbQOzRいや、実際問題、厳島への誘導という策略が失敗したら次の策を用意するだけだろう、元就は
0178人間七七四年
2008/02/22(金) 19:58:22ID:3s2im/s+成功してる人間の「もし失敗していたら」という妄想はイマイチ面白くないな
その逆じゃないと夢がない
ちなみに元就の厳島誘導は陶の内部分裂を画策した上での成功なんだから
運というよりも実力の結果
あまりIFの対象にはならない
0179人間七七四年
2008/02/22(金) 21:15:20ID:xMxdtSQI0180人間七七四年
2008/02/23(土) 03:19:43ID:RDymhVlh超理論展開した挙句に、不利になると不当な武田叩きはとかスレ違いなどと突然言い出し、
周りに自分の方が正当と思わせようとイメージ戦略展開してそれも駄目だと散々煽って立ち去る。
無理に武田を擁護しようとしなければ知識はあるんだから板的に有用な人間になるだろうに。
0181人間七七四年
2008/02/24(日) 09:23:12ID:3vimAracまぁ無理に武田を擁護しようとしてるからこうなるんだろうが…
0182人間七七四年
2008/02/25(月) 21:31:22ID:SW2IXP8h1554年春に陶が石見に攻めこんで吉見と戦っていた時に突如裏切ったこと
毛利は5月に裏切ると陶が動けない隙に、安芸国内の大内方の諸城
銀山城己斐城草津城桜尾城仁保城を5月中に落として、更に厳島を占拠して
門山城を落として能美島占拠して、折敷畑で迎撃に成功すると
翌年には安芸の南東部の保木城丸屋城を落として、安芸の大半を制圧して
どうにか大内が本格侵攻するまでに、大内とどうにか少しは戦えるような状況にまで持っていった
まあ結果は厳島での鮮やか過ぎるほどの大勝利なため
その前段階での裏切ってからの一年ほどの行動もまた凄いことなのにあまり目立たない
0183人間七七四年
2008/02/25(月) 23:53:58ID:lqODLoOAその協力があったからこそ、という意見もあるしな。
一見、奇跡のように思える大勝利にも、当然のように
要因となった努力の細かい積み重ねがある訳だ。
0184人間七七四年
2008/02/26(火) 01:12:36ID:EOcYsqvt0185人間七七四年
2008/02/26(火) 02:11:53ID:/njrzkH2せめて北条相手に勝って小田原制圧とかやらかしてくれたら良かったんだけどな
信玄が織田信長や毛利元就くらいの戦の天才だったら、関東進出も成功してたかもしんない
でも逆に言えば、危なっかしく思える自転車操業ながらも信玄は上手に敵を選んでいたと思う
今川義元に滅ぼされる事もなく(半分以上親父のお陰だけど)、豪族を潰していって着々と領土拡大
なんせ唯一勝った国持ち大名が、今川氏真だってんだから徹底してるよ、これは凄い
謙信や氏康と団栗の背比べして延々消耗戦やらかした辺り、大局的な視野には乏しかったんだろうけど
なんというか、悪党として獲物を選ぶ眼があった、とでもいうべきかな
勝てなかったけど負けなかったし
結局、信玄の本質って戦に強い名将ではなく、謀略で相手の裏をかく策士だったから
その軋みが出たんだろうねぇ。信玄のやり方ゆえに領土が増えて、それゆえに滅んだ
0186人間七七四年
2008/02/26(火) 02:30:59ID:xPqVLn4mとても獲物を選ぶ眼があったとは思えんw
>上田原
信玄は自分より兵力が上の相手に勝った事が一度もないもんだから
信玄厨はしばしば、大軍で負ける方が無能なだけと抜かすが
当の信玄が聞いたら耳が痛くて仕方ないだろう
首を取られずに負傷で済んだから良かったものを
まだ若かったから、あんな酷い大敗を喫しても仕方ないってんなら
大軍に負けた家康、長野業盛、今川氏真、全員が信玄より遥かに若い青二才だ
0187人間七七四年
2008/02/26(火) 05:55:52ID:NGxLvygM織田のほうが自滅で先に滅びた可能性もあるわけだが
0188人間七七四年
2008/02/26(火) 13:05:38ID:/njrzkH2信長なんて稲生合戦の時点で、普通なら勝てずに死んでたかも知れんし
勝頼が長篠で信長の首を取れた可能性だってあるかも知れない
でも実際に織田の手によって武田は滅ばされた訳で
その原因が信長を激怒させた信玄の裏切りにあるのではないか
と言及されるのは自然な事だろう
>>獲物を選ぶ眼
俺個人としては、信玄は晩年も信長に対してはあくまで腰の低い手紙を送り続けているし
織田が朝倉と争ってる隙に火事場泥棒的に徳川領を頂いて、事が済んだら織田には頭下げて再び同盟結ぶ気だったんじゃないかなぁ
と推測してたりする。旧今川領争奪から始まる「徳川家」との争いであって大恩ある織田と反目する気はなし、としてね
その辺は信長って意外と甘い奴で、裏切って自軍に歯向かった相手でも謝ってきたら許したりしてるし
まぁ残ってる書状の信長の激怒っぷりから察するに、実際にそうして成功したかどうかは分からんけど
あの慎重な戦略家の信玄(既に50の坂を越えて、自分が病弱なのも知っている)が
本気で織田を打倒して上洛を考えていた、なんてロマン溢れる説よりは現実的じゃないか
0189人間七七四年
2008/02/26(火) 13:52:26ID:kNQKLXpYもっと冷静になってから書き込めばよかろうに
0190人間七七四年
2008/02/26(火) 14:00:25ID:kyYnyhbT事実だからしょうがない。
信玄は孫子の信条通り、確実に勝てる相手としか戦わないから弱小勢力を潰しながら大きくなったのだが、
周りが大勢力ばかりになると損するタイプ。
大局を見る目がないというか戦略眼がないというか、目先の利益だけで動いてたとしか見えん。
0191人間七七四年
2008/02/26(火) 14:27:28ID:/njrzkH2あと、戦国大名として出発した時点で恵まれた環境にあり
常に自分より弱い豪族らと戦い続けた事が、結果的に信玄の用兵家としての成長を妨げたのかも知れない
(勿論、信長や元就なんて天才レベルは初陣や若い頃の戦功も半端ないと承知の上で)
終生、自分と兵力・国力が同程度以上の相手には勝つ事が出来ず、行き詰まりを迎えてしまった
用兵が全てではないが、少なくとも信長や元就のような国力の差を用兵によって覆せる男ではなかった
山賊の英雄が、都会の軍人の英雄と戦ってしまった悲劇、という表現はしっくり来る
ある意味、信玄は充分に優秀で、優秀すぎて
それまでの自分のやり方が通じない程に強大な相手と戦うまでに成長してしまった事に悲劇性があるのだと思う
0192人間七七四年
2008/02/26(火) 14:52:46ID:xPqVLn4m信玄も優秀だから戦術が中の上レベルだったり晩年に失態多いのを残念がられるんであって
局地的な戦略眼や内政手腕は一流の英雄
思えば信虎も、信玄とは逆に閉鎖的な甲斐において近代的な改革を押し進め権力集中を図った結果、家臣に追放されたし
勝頼も含めて不遇な一族だよな
>189
不当な武田叩きをしてしまってサーセンw
0194人間七七四年
2008/02/26(火) 19:20:23ID:UkewBYl6「信長を裏切ったから滅んだ」というのは違うでしょ
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性のほうが確率から言ったら高いでしょ
信長はたまたま運良く宝くじに当たったようなもんでしょ
0195人間七七四年
2008/02/26(火) 19:27:37ID:kS2Q/wAo信長はまあそれなりに苦境に立っていたし、少しでも敵を減らして北近江戦線に集中したいだろうから
一時的な再同盟なら結ぶかもね。
ただし、織田の天下が安定期になったら武田家は冷遇されること間違い無しだろうな。
(それまで武田家が存続できていたらだが)
ただ単に徳川領に侵攻した程度なら頑張り次第で信頼を多少回復できるかもしれないが、
岩村城でのやらかしで信長の怒りを沈静化することは不可能フラグたっちまったんだよなあw
>>188のレスでもあるように信長は敵に対しても意外と甘い。
しかしそれ以上に血族に対して甘く、秋山が信長の叔母に当たる遠山夫人を強奪されて怒りはMAX寸前。
更に追い討ちをかけるように息子の坊丸(勝長)を拉致で怒りゲージが計測不能なまでに上昇でオワタ・・・
もし、最初から再同盟を考えていたのなら岩村城での行動は短絡的な行動なんだよなあ。
まあ息子を人質程度ならどうにか怒りの矛先を収めることも可能かもしれないが、
未亡人を強奪という織田家一族にとってこの上ない屈辱を与えてしまった行動が余計すぎる。
息子拉致と未亡人強奪しといて「いやこれは徳川との争いで織田さんに対しては反目する気はないっす」て主張はさすがに無理だろうな。
0196人間七七四年
2008/02/26(火) 19:34:49ID:kS2Q/wAo岩村城での件は秋山の独断だと釈明して秋山に腹切らせて有耶無耶にって手段もあるけど、
これだと秋山の与力の晴近衆や他の家臣たちの不信を増長させてしまい将来的な禍根になりかねないね。
もし将来的に織田家と衝突した際に離反者を出しかねない。
やっぱり秋山の独断でしたというのも厳しいな。
0197人間七七四年
2008/02/26(火) 21:57:14ID:/njrzkH2あ、その件に関しては秋山の暴走として…とレスしようと思ってたのに先手を打って釘を刺されたね
まぁ信玄の目的は徳川領のみ、という説はあくまで俺の考えに過ぎないんで
他の人が受け入れられなくてもしょうがない。それが当たり前
明確な根拠がある訳ではなく、妄想の域を出ないし
ただ、やはり本気で織田と敵対しようとしていただなんて
それまでの信玄の冷静さを考えると、どうしても違和感がある
自分の死期が近い事を悟っていた、なんて予知能力はないにせよ
年齢と体調を考慮して寿命が少ない事くらいは自覚していただろう
なんせ、信玄がその生涯にわたって切り取った領地の、10倍近くもの国力を持つ織田が相手(単純に石高だけで8倍ほど
しかも信玄の生涯の基本戦略は、常に自分より国力で劣る相手を選ぶ事にあった(上杉や北条も動員兵力では基本的に下
最後の最後で、死期が近く時間が残されてない信玄が、そんな無謀な目標を持っていたとは思えない
耄碌してた可能性も否めないが、上洛だなんて周囲に対するアピールに過ぎず(織田との和睦後の牽制含む
あくまで格下の徳川を、強大な後ろ盾の織田が動けない内に潰して領土を増やすだけのつもりだった
と考えた方が、それまでの信玄の戦略と基本路線が変わらず、受け入れやすい
まぁ俺個人が信玄スキーというか、信虎や勝頼も含めて武田スキーなんで、どうも信玄を過大評価(織田家との敵対は滅亡の主因だからね
してるかも知れんけど、こういう考え方もあるって事で温かい目で見てやって下さい
0199人間七七四年
2008/02/27(水) 03:33:36ID:GzMG46b/彼が先頭を切って走るその後に新たな世界が広がっていく。
0200人間七七四年
2008/03/02(日) 23:05:39ID:y/vYW8ms三国志に天下三分の計とかあるけど、当時の日本は
頼朝が鎌倉に幕府を立てた、その前に富士川で20万の兵を集めて
兵士を追い払った事、さらに溯ること平将門の反乱があったこと。
という事から天下二分の計のようなものがあったと。
で、信長がどうなるかはわからなかったが。源氏の八幡太郎義家の
子孫である武田氏が関東を制すれば結果、織田がどんなに大きくなろうと
対抗できる”力”を得ることができると考えてたのかもしれない。
(事実、関東で力をつけた家康が天下を取ったわけだし)
信虎時代も武田・上杉氏vs今川・北条氏で戦ってたように。
(関東管領の力が弱ってたのを見定めて)駿河と関東を手にしようと
たくらんでた可能性も否定できない。
で、こっからはおいらの脳内イメージだが。信玄は関東の地を得て
信勝が成人するまで生きる予定だったが。関東制覇がおもいのほか
進まないのと。(氏政がアホだから楽観的だった部分もあるけど。
当時言われてたのが、北条の土地から出て行くものはあったけど、
帰ってくるものもいた。だが、武田の土地から出ていって帰ってくる例は
なしといわれるように領民からすれば北条の方がかなりマシと考えてたから)
あとは信玄自身も死期が近いのを悟っていたからとも
で上洛して勝頼の諏訪家が朝廷よりなんらかの官位を頂いて
武田家よりも諏訪家の方が上の要職につけるか。
仮に上洛できなくても織田の主力部隊との”決戦”を挑み
勝っておけば次世代の勝頼がたとえアホでも簡単に上洛しやすい
環境にしておこうと考えたのかもしれないな。
0202人間七七四年
2008/03/03(月) 11:35:34ID:yJW+h/P+つーか、義家の嫡男暗殺をかまして関東源氏から総スカンを食らって逃げた義光の子孫が甲斐武田氏だろう。
釣りでなければアホ過ぎ。
0203人間七七四年
2008/03/03(月) 18:03:43ID:MyBlvakw目先の領土欲に目が眩んで最悪の裏切りかました挙句に、嫡男死なせた信玄が一番アホと言われてもしゃあないぞ。
駿河侵攻以前の信玄は英雄と呼ぶに相応しいが、晩年の所業はハッキリ言ってフォロー不可能。
0204人間七七四年
2008/03/04(火) 14:19:46ID:1SEAYXbA秋山の家康占領地侵犯について…一言
「大井川を境に、つまり駿府は武田、遠江は徳川で折半する」
↑これは『三河物語』『甲陽軍艦』などの軍記物にしか載っていません!!
信玄と家康がやり取りした書状を郷土史、
特に『静岡県史』資料編7 中世三などで探してみても見当たりません。
なので、私は遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています。
それを証明できる決定的な書状があります。
それは永禄十二年12月23日付 信玄→家康あて書状「恵林寺文書」です。そこに次のような文章がありますよ。
「…略…(私も)遠江にまかり立ちたいのですが、
(武田に降伏してきた)駿河の諸士たちの仕置きがあるから(←これはウソで実際には北条の援軍が来たから)、
一両日伸ばさざるを得ません。
三日のうちに(遠江に向かって)出陣しますから、
早々に掛川を包囲してください。
かの地で(あなたと)対面することは、
大変めでたいです。
恐々謹言」
信玄は、氏真の首を取るために…
秋山別働隊をあからじめ掛川の背後に動かし、
自分は正面の駿府から攻めるつもりだったのではないでしょうか?
だけど北条の援軍が早く到着したことで、掛川侵攻作戦を中断したんじゃないのかな?
あまりにも急だったので秋山には知らせていなかったんだと思うよ。
0206人間七七四年
2008/03/12(水) 19:44:45ID:YB0BPNUn「今川領折半密約は信憑性の低い史料にしかないから疑わしい。一次資料を見ればむしろそういった約束はなかったと考えられる。」
という主張でよろしいでしょうか。
だとすれば、この主張には一定の説得力はあると思います。
ただ、だから信玄の行動(秋山の行動)には問題がなかったとはなりません。
理由はあなたが書いてあるとおりです。
>遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています
これが事実だと仮定の上で話を進めますが、これは当然遠江の’今川領’に関することでしょう。
だとしたら、’徳川占領地’は当然に徳川が切り取った、徳川のものです。
それが武田の軍に侵入して攻撃して占領したとなれば、当然、武田の約束違反になります。
つまり「武田が約束を先に破ったから徳川は武田と敵対することにした」というこれまでの
通説は変わりません。あなたの主張によっても、通説は否定されないのです。
「遠江切り取り自由というのは、そこが徳川占領地であっても有効。つまり武田は徳川を攻めても
そこが遠江なら信義に反したことにはならない。逆に徳川には抗議する資格も無い。」
なんて約束が交わされていたというのなら話は別ですがね。しかし、比較すれば弱小とはいえ、
一国を支配する大名である徳川がこんな無茶苦茶な約束をしたとはどう妄想を連ねても考えられません。
0207人間七七四年
2008/03/13(木) 21:27:41ID:k3PZUGX+徳川贔屓が入っているところもあって、全てを鵜呑みにするのは危険だけれど。
0208人間七七四年
2008/03/14(金) 00:01:01ID:L88mvp6Dこの中に信玄が家康に陳謝したという手紙が蒐集されていると聞きました。
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようですが、それを覆すほどの論拠がおありなのでしょうか
それがあるなら素直に「川きりは嘘」と認識を改めたいのですが、それなしに「きっと・・・だろう」では研究者の意見に軍配をあげざるを得ないところです。
いかがでしょうか。
0209人間七七四年
2008/03/14(金) 00:09:07ID:EFnnA+cNその手紙の陳謝は
同盟中ってほどでもないが一応友好関係にあるのに秋山と徳川勢が戦ったことについてであって
徳川の取り分である遠江に侵攻したことについて謝っているわけではない、
と思う
なので必ずしも上の意見と完全に相反するわけではないと思う
0210人間七七四年
2008/03/14(金) 11:01:40ID:L88mvp6D川切りがなかったと主張するのであれば、「武徳編年集成」を実際に読んで原文掲載のうえで反論しなければ。
また、例え川切りがなかったにしろ、同盟国に戦闘を仕掛けたという時点ですでに手紙による陳謝ではすまない責任問題だと思いますが?
0211人間七七四年
2008/03/14(金) 11:37:57ID:d/uHtLy7あなたが読んで示してないのに相手には読んで原文を挙げる事を
要求するのはどうかと思われる。
相手に要求する以上まずそちらも原文を挙げて示すべきではなかろうか。
世の中にはいろんな研究者がいる事をお忘れなく。
それから武徳編年集成は江戸時代の1740年に幕臣木村が編纂し
1741年に徳川吉宗に献上した徳川家康を称える為の一代記。
同時代資料でもなく、戦国時代から100年以上経った徳川史観全盛期の頃に
書かれたもので他に同時代資料の裏づけが無い場合は信憑性に疑問を持たれる書物。
0212人間七七四年
2008/03/14(金) 12:36:02ID:M6HD4h7Nキミも信憑性に問題があると思うならその根拠を挙げるべきだろう。
あと、川切りがあろうがなかろうが、徳川に掛川城攻めを要請した時点で
徳川に対して掛川はおまえの切り取り分だと言ってるのと同じ。
しかも徳川に対して2度も掛川攻めを要請しておきながら徳川が出陣して掛川に攻めかかったら、
秋山が徳川の背後に回り徳川の守備隊を排除して見附を強引に占拠。
切り取り自由だとしても同盟国がすでに確保済みのものを攻め落としていいわけがなく、
ましてやこの行動は徳川本隊と岡崎の連絡を絶つこの上ない敵対行為。
例えるなら織田が金ヶ崎攻めの最中に裏切った浅井の行動と同じレベル。
それを「遠江は切り取り自由」「武田は謝罪だけ」と重箱の隅を突っつくような反論で弁護できるほど、
武田の行動は甘くないよ。
それとも武田家では一部将が勝手に軍を動かして同盟国だろうとどこだろうと攻め取れる決まりになってるのか?
普通は勝手に軍を動かしたら謹慎以上の処分だろうに。
0213人間七七四年
2008/03/14(金) 12:47:23ID:d/uHtLy72段目以下の事には特に触れていないよ。
ただ武徳編年集成の信憑性の是非について指摘してるだけ。
信憑性に疑問があるという根拠は
>>211に書いてるとおり武徳編年集成自体が戦国時代から100年以上経った
1740年に幕臣によって
徳川家康を称えるために編纂されたものだから。
同時代資料の裏づけが無いなら鵜呑みにするのは危険だよ、と言っている。
0214人間七七四年
2008/03/14(金) 12:53:43ID:M6HD4h7N一次史料の裏付けがあるなら信憑性があるでしょう。
武徳編年集成の記述が一次史料と不一致の部分があるなら信憑性がないかもしれないけど、
そういう論点ならちゃんと不一致の部分を挙げるべき。
あと、一次資料に基づいた編纂史料は価値がないとおしゃるなら、
現在保存されてる一次資料以外の史料はすべてシュッレター行き?
家康をたたえるからって、当時の幕府では盲目な武田マンセーのかなり酷かったと思うけど?
0215人間七七四年
2008/03/14(金) 13:01:27ID:d/uHtLy7>>205からの流れを見返してほしい。
信玄が家康に謝った手紙が>>205の人は探してみても見つからず、
逆に信玄が家康に遠江でお会いしましょう、と言ってる書状があると述べてる。
それで>>208の人が武徳編年集成にその記述があるらしい、と述べているので
武徳編年集成単独での資料価値について疑問点を指摘したんよ。
それを言ったら甲陽軍鑑とかのほうが武徳よりはるかに成立年代も早いけど
それを同時代資料とつき合わせずに鵜呑みにしていいの?という問題がある。
まして百年以上先では。
0216人間七七四年
2008/03/14(金) 13:21:42ID:M6HD4h7Nなるほど、そういう流れか。
それなら手紙に関する武徳編年集成の記述を検証すればいいだけじゃない?
内容も見ずに信憑性のあるなしを論議するのは不毛だと思う。
甲陽軍鑑だろうと武徳編年集成だろうと内容ではなく編纂された年代だけで信憑性を判断するのはおかしいでしょう。
0217人間七七四年
2008/03/14(金) 13:32:31ID:d/uHtLy7たいていの傾向として
同時代資料に記述が無いのは信憑性を疑われる。
後世にいろいろ付け加えられるわけだし。
基本的に同時代資料>>>後世の編纂物。
そういう場合はむしろなぜそのように書かねばならなかったのか?
という点を研究されるらしい。
それから>>205の人が無いといっていたのは信玄と家康が今川領土を
大井川でわけあうという書状が無い、という事だった。
それで>>208の人が信玄が家康に謝った記述が武徳にはあるといってた。ごめん。
0218人間七七四年
2008/03/14(金) 20:14:32ID:WzheFc5mいや孫引きというか引用ではあるが読んだ上での意見なんだが、
それ以前にあなたは何か勘違いしているようだが。
手紙の内容はあくまで徳川と秋山が戦ったことに対しての謝罪であって
何らかの協定を結んでいた文章はあるものの、その書状だけでは
武田と徳川が大井川を境とする協定を結んでいたかまでは分からない。
定説では、何らかの協定=軍鑑などにある大井川での分割協定と考えて、この書状を分割協定の根拠にしているらしいが
何らかの協定が対今川で共闘、領土に関しては切り取り自由という協定だった可能性も無いわけではない
上の信玄が家康に陳謝したという手紙というのでは、
徳川武田間で何らかの協定盟約があったことの証明にはなっても
その協定の内容までも証明する史料ではないということ。
まあその実際の協定が軍鑑などにある大井川での分割以外に有力なのが見つかっていないので、
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようだが。
0219人間七七四年
2008/03/15(土) 13:41:48ID:9qg1tX1Y「同年五月二十三日付けの信玄の書状によれば、
家康は「先約」に基づいて遠江の人質を受け取りたいと主張し、
信玄もこれを認めている。
氏真が遠江の武士から取っていた人質を、家康が引き継いだのだと思われる。
これは、家康が遠江に君臨することを意味するが、
そういう「先約」があったわけである。」
とあります。
順当に考えてやはり遠江は家康が領有するという密約があつたということではないでしょうか。
0220人間七七四年
2008/03/28(金) 11:31:15ID:6sNY6jgBそこから美濃に行くか越中に行くかは、考えどころだけど。
織田との関係は悪くなかったんだから同盟を結び、越中を手中におさめ、信濃との二方面から越後に乱入する。
0221人間七七四年
2008/03/28(金) 15:39:59ID:s5FDYWaZ0222人間七七四年
2008/03/29(土) 01:32:47ID:Vaa8ooBE0223人間七七四年
2008/03/29(土) 08:59:31ID:MX1epd3Dその方が結果的に武田が後世に生き残ることになると思うけど
0224人間七七四年
2008/03/29(土) 14:12:36ID:WHfaepXp0225人間七七四年
2008/04/01(火) 20:04:43ID:iq7excejその採掘に支配地から男女を無理矢理連れて来て恨みを残し(度々叛乱あり)
無駄な長期戦を意地になって勝つまでやるし
しかもそのせいで重臣はバタバタ死ぬし(無敗?ぷぷ、損得勘定できないガキの戦)
気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて、遺体は腐ってしまいました(残念!!)
0226人間七七四年
2008/04/01(火) 22:16:25ID:QxklzeYC0227人間七七四年
2008/04/01(火) 23:17:04ID:GdmunYx3信玄自身も「上杉とむきなって戦ったのは不味かった」と認めてる。
信長や伊達ならさっさと頭下げて状況打破できたんじゃね?
0228人間七七四年
2008/04/01(火) 23:52:24ID:jv9fs5EF信長なら自分より国力下の上杉なんて楽勝(信玄の立場なら後背の今川との同盟で憂いがないから
0229人間七七四年
2008/04/02(水) 01:27:52ID:OUSFtdVk0230人間七七四年
2008/04/02(水) 02:42:48ID:MLa10qNlそれまでに培った信頼というものが皆無だからな
結局軍事的を背景にした外交しかできなかった
これはあきらかに信玄の限界
0231人間七七四年
2008/04/02(水) 07:42:34ID:/D5RDjX5もしかしたら信玄は内部の者に暗殺されたのかも…
「老い先短いジジイの今生の想い出作りに付き合わされて無駄死にさたかないべ」
「やっちまうべ?」
「んだんだ」って感じで
しょせんは豪族の集まりの田舎軍団だし
0232人間七七四年
2008/04/02(水) 07:44:17ID:e0T+PVpD■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています