武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
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0001人間七七四年
2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP0002人間七七四年
2008/02/11(月) 21:33:45ID:nYfTnegi武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153644378/
0003人間七七四年
2008/02/11(月) 21:34:12ID:ZEMIL4xO, -イ。弋ソ__ 二ミヽ/\ 人
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0004人間七七四年
2008/02/11(月) 22:49:14ID:U1wmpqoM0005人間七七四年
2008/02/12(火) 04:23:46ID:VUdrewOBつか武田家いくらなんでも弱すぎ=簡単に滅びすぎ
信忠が有能だったからなんだろうけどな
0006人間七七四年
2008/02/12(火) 04:55:56ID:Gwu62lrb30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/07/23(日) 23:34:28 ID:Sr9fEDKH
>>28
実はそれは信玄の遺言らしいよ。
信玄が上杉と同盟しろと息子の勝頼に言ったそうだ。
0007人間七七四年
2008/02/12(火) 07:32:21ID:nrix+xtlあの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。
どう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
0008人間七七四年
2008/02/12(火) 12:48:26ID:GTLHdq5n>信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
後半は同意するとしても前半は無理ないか?信玄はかなり前から病を患っていた
といわれてる。それをなんとか押して上洛に出たんだろ。
信玄が死んだ後、強大になった織田が武田家を放っておいてくれるとは思えんし
健康が悪い事を承知で勝負に出たんだろ。健康管理だけの問題ではないと思うぞ。
>今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
家康にとらてしまっている三河を分割する案さえ跳ね除けられてるのに。
それと三国同盟が結ばれたのは信玄がまだ信濃もとってない頃だと思うが。
予言者じゃないんだから10数年先の義元敗死から今川との関係悪化までの
流れを全部読みきって事前に手を打っておくのは無理と思うが。
特に義元敗死はどの大名にとっても意外な事態だったろうし。
後、当時の武田にとって今川との同盟関係をさらに強固にしておく事は重要で
その意味で義信の妻が今川から来たのは無理が無い事だと思うが。
>義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
勝頼陣代説だが、これは一次資料の裏づけがないそうだぞ。
>四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
代が変われば若い家臣が側近となるのは結構よくある事だぞ。
>本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
信玄の時代に本拠を諏訪に移すべきだったというがいつごろ移すべきだったと思うんだ?
武田家は甲府に根付いた名門だし、甲府は要地だ。そんな簡単には移れまい。
それに北条や今川との戦いではむしろ甲斐が本拠でよかった面もあるだろう。
それから道についてだが、戦国時代道を整備するのはリスクを伴う事だし、
信玄は信濃を通るに当たって棒道を良く使ったとも言われる。
道のことを考えなかったわけじゃあるまい。それから新府城は壬午軍乱のとき
徳川家康が本陣としているし、戦略上無駄な地ではなかったようだぞ。
>四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました
小山田や穴山はもともと一つの勢力としてやってきた歴史がある。
信玄以前の武田家の拡張においてその傘下に入った。(建前は同盟関係。実際は違うが)
彼らにとって武田家の傘下に入ったのが生き残りの選択だったように
織田に寝返ったのもそうだったんだろう。それは戦国の数多の豪族の行動原理でもある。
全体的に後付の論理が多くないかな?滅亡原因うんぬんでいったら信長や秀吉も
そうなってしまう。ただ勝頼はよくやったほうだと思う。それでも長篠等の
いくつかの失点はある。全てを信玄のせいにするのもどうかな、と思うよ。
0009人間七七四年
2008/02/12(火) 12:50:02ID:GTLHdq5n信忠って武田攻めでは高遠以外でろくに戦ってないじゃん。
織田・北条・徳川に圧倒的な大軍で攻められて戦う前から武田家は自壊してたし。
0010人間七七四年
2008/02/12(火) 17:30:32ID:VUdrewOBそこは信忠が優秀だったから仕方なかった、と思いたいんだよね、武田スキーとしては
つか三者から攻められて逃げ場なかったのも信玄の負の遺産だし
謙信は、信玄が死んだら早速のように信長に「一緒に武田を滅ぼしましょう」なんて持ちかけてるし…
今川北条との同盟を残した信虎とはえらい違いだね
信玄と勝頼を比較した場合、軍事では勝頼に軍配が上がっても、総合力では信玄が上なんだろうが
それでも上二人より信虎の方が遥かに優秀だったんではないか、と思うよ
0011人間七七四年
2008/02/12(火) 18:33:13ID:t3KcpVEu織田にとって武田は徳川や北条と勝手に戦ってくれれば別に問題ないし、
当時の武田もワザワザ織田に攻撃を仕掛ける程の余裕は無かった。
それなら武田が崩壊するの待った方が得策。
実際木曽謀反の知らせを受けて武田征伐が決まったし。
0012人間七七四年
2008/02/12(火) 19:47:16ID:OQZCsEiL最後の段階で北条が敵に回っていたのは、さすがに勝頼の責任でしょう。
信玄は少なくとも北条との関係改善はやってから死んでいるのだから。
0013人間七七四年
2008/02/12(火) 21:44:15ID:GTLHdq5n>>12の人も言ってるけど信玄は北条との関係はちゃんと改善して同盟を残してる。
武田は北条の対上杉に協力し、北条は三方ヶ原において武田に援軍も出してくれてる関係。
時々信玄死亡時に北条と敵対してたかのように言う人がいるのがなぜなのか非常に不思議だ。
勝頼が北条の方にも戦いを広げた結果1582年の時点で武田は疲弊しきってた状態だし。
これで織田・徳川・北条に攻められたのでは自壊もやむないよ。
あと信虎は最後まで北条とは同盟してないよ。
信虎が残したのは今川と同盟して北条を牽制する路線。
北条との同盟が結ばれ今川・北条・武田の三国同盟が結ばれるのは信玄の代において
河東一乱において今川と北条の戦いを信玄が仲介する事をきっかけとする。
0015人間七七四年
2008/02/12(火) 21:55:41ID:GTLHdq5n確か武田の西上野の重要拠点である箕輪城は2月の段階で北条に攻略されてたはずでは。
勝頼滅亡は3月11日。
0016人間七七四年
2008/02/12(火) 21:59:46ID:ldrStON7攻城戦はなかったのでは?
0017人間七七四年
2008/02/12(火) 22:03:14ID:GTLHdq5n>>14のいうように陣を張ったまま動いてないという事はないのでは。
0018人間七七四年
2008/02/12(火) 23:48:17ID:aXHMNhhq0019人間七七四年
2008/02/13(水) 09:14:51ID:zZgZWKeV時日も1582年2月で織田・徳川の侵攻と同時期。
勝頼が滅ぶのは3月11日。
0020人間七七四年
2008/02/13(水) 17:29:03ID:wMMMhloD逆に駿河方面は結構城を落としている。
>>14の言うようなのは俗説にすぎない、信長だって駿河方面の働きに関しては認めている。
上野方面は、滝川の関東入部の為にあえて何も言わなかった可能性があるとおもう。
0021人間七七四年
2008/02/14(木) 03:31:53ID:cOeulvQFこんな方法いくらでもあると思うけど
0022人間七七四年
2008/02/14(木) 12:41:48ID:ZuMqmjoE・彼我によほど大きな差がある、乃至は事前に戦で大勝してかなわないと認識させている。
・時間をいくらかけてもいい。
・他国からの介入はほぼ考えなくてよい。
のなら、方法はいくらでもあるだろうけどな。
0023人間七七四年
2008/02/14(木) 17:07:07ID:sKvpu2lw0024人間七七四年
2008/02/14(木) 17:39:37ID:+yaj6Hdy義信の子(産まれたら)を今川の当主にすれば乗っ取りは可能だけど、
北条が氏真を担いだら史実とあんまり変わらないだろう。
0025人間七七四年
2008/02/14(木) 22:11:11ID:POKPCVYr徐々に取り込んでいって
0026人間七七四年
2008/02/14(木) 22:28:34ID:QfgnhrV8どうやって?
他家である武田家に実験を握ろうとされて今川がはいそうですかとはいわんでしょ。
この場合でもまず一合戦して実力差を見せ付けるなり相手の抵抗力をそぐなりしないと。
>>25
信玄が三河攻め持ちかけた時の今川の返答によると
織田と同盟してる武田なんか今川にしてみると半分敵だそうです。
家臣を自由にする権利なんかくれそうにない。
0027人間七七四年
2008/02/14(木) 23:01:32ID:qkrHDVGP実際は家臣団が武田の調略にあってまともに抵抗できなかったんだろう氏真。
他家とはいえ義信の嫁が義元の娘。
もちろん義信が死んでいなく親父の戦略に賛成したら乗っ取りも可能だけど、
義信を殺して嫁を駿河に返した時点で絶縁したのだからその手は使えない。
0028人間七七四年
2008/02/14(木) 23:25:46ID:2Rt9Rbq4バブルの崩壊は長篠だと思っている。
滅亡は運が悪かっただけ。
今の日本の借金だらけは田中角栄のせいだーに似てる気もする。
解説は↓
0029人間七七四年
2008/02/14(木) 23:40:00ID:2Rt9Rbq4信玄の西上作戦は朝倉義景の撤退により事実上の破綻をきたしていた。
おかげで2万の兵を信長が動員する事が可能になって徳川軍との
挟撃が可能になった。でも家康が(その当時はトンパチで有名)が
先制攻撃を仕掛けたせいで、各個撃破するチャンスを信玄に与えて
しまったと思う。三方ヶ原の勝利という会心の一撃で
武田バブルの始まり。でもそれが武田強しを武田家内外にしめした
ことで常に戦い勝つ事を勝頼に要求されたのかもね。
ぶっちゃけ信長包囲網がない場合に織田全勢力vs武田全勢力で
戦っても武田は勝てなかったと思うし。三方ヶ原の時こそ絶好の
タイミングだと思う。(でも志賀の陣の時の方が信長は追い込まれていたが)
長篠の時は越前と琵琶湖を掌握してるから更に信長は強くなってるし。
0030人間七七四年
2008/02/14(木) 23:52:49ID:2Rt9Rbq4明智城攻め、高天神城攻め、そして長篠城攻めと。
万を越える軍事活動をしたのも。武田家内での
自分の支持を高める為、また勝ちつづける事でしか生きていけない
武田家の方針。(また敗北は自身の支持を落すことになりかねない。)
それによって内政が疲弊したとしても。(信玄時代から重税で
西上作戦の頃には破綻寸前というか破綻したという説も)
でバブルが弾けた長篠にしても設楽ヶ原に誘い込むかのように
弱い事を信長は風潮してまわって。長篠は織田・徳川の
鶴翼の陣で柵を構えたように言われてるけど。
実際は、徳川軍主体で、織田の援軍数千が設楽ヶ原にいて
織田の主力のほとんどは後方で待機。(長篠自体が8時間の長丁場なので)
織田の本体が前線の部隊に”補給”もしくは”後詰め”する
ような形で圧倒した。で勝頼はまけるべくしてまけた。
0031人間七七四年
2008/02/14(木) 23:57:52ID:qkrHDVGP0032人間七七四年
2008/02/14(木) 23:59:18ID:2Rt9Rbq4改革として新府城と新しい城下町を建設した。
幸い、信長自身は武田領にさほど関心が無かったので
(美濃・遠江の緒城以外は)攻めてくる心配はなかった。
滅亡の原因は不運な謙信の死と木曽氏の反乱。
0033人間七七四年
2008/02/15(金) 00:00:31ID:2Rt9Rbq4あと長篠の戦い=ミッドウェー海戦にもよく似てる。
ウィキでミッドウェー海戦について調べたら経緯とかもよく似てるし。
0034人間七七四年
2008/02/15(金) 00:02:49ID:3y7OEbtb↓
クーデターを起こさせ氏真を暗殺させる
↓
武田が犯人を正規の合戦で倒す
↓
今川家は武田の物
0035人間七七四年
2008/02/15(金) 00:14:41ID:aCw5qiNw北条の存在がある以上そんな簡単にクーデターで氏真を倒せるだろうか。
武田家とのつながりで重臣がクーデターを起こしたのだとしたらうまくいっても
やっぱり北条の動きが問題になりそうな気がする。
0037人間七七四年
2008/02/15(金) 10:10:52ID:wUwaQZpQ軍資金の捻出にかなり苦労してたはず
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