氏政は乱当時佐竹の下に一統した反北条連合と絹川にて対陣中であり
ただちに本格的支援は行えなかった。そのため氏邦や由良等上野の他国衆を通じ
北条高広、長尾憲景、河田ら上野にいる上杉方諸将を調略して彼らをもって
景虎支援の先鋒とした。7月17日に沼田城を攻略、そのまま越後上田荘まで進攻し
樺沢城などを攻略し、坂戸城を攻撃した。八月になると北条の軍勢も上野に進軍、
九月には氏邦らが上田荘まで進軍する。その後厩橋北条、河田に樺沢城の守備を委ね
来年の氏政自身の進軍を約し維持を命じる。北条の軍勢は12月に上野に後退させ
氏邦に沼田城を管轄させた。氏政は『景虎没命の上は上州の仕置当方申し付くべくの条
勿論に候』と景虎が滅亡した事により上野支配権を主張するようになり
同じく上野支配権を主張する勝頼と関係が悪化していく。

ここで疑問なのはなぜ勝頼は上野支配権を譲るくらいの低姿勢な土下座外交を
しなかったのか?という事。自らが苦しい状況なら氏政が信長や武田に対して
したような低姿勢な対応を図るべきと思うが。