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【裏切り】朽木元綱【名将】

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0001人間七七四年2007/09/07(金) 16:19:42ID:WT0Ni3Mk
決して地味ではない語れ
0220人間七七四年2008/11/23(日) 23:26:29ID:u7eUPSog
>>219
尾張〜駿河くらいまではなかなかそんな感じでは?
0221人間七七四年2008/11/24(月) 17:20:49ID:1pqaF6yv
>>220
濃尾平野と異なり、三河〜駿河というのは山と海に挟まれた土地だからなぁ。
0222人間七七四年2008/11/25(火) 23:40:01ID:RXUuETFk
東海、関東大名はいいよな
でかい治水工事なんてほとんど外様の大名に
外注してもらってんだから
本来ならもっと豊かになってないといかんが
そんな話聞いたことないな
0223人間七七四年2008/11/27(木) 18:50:33ID:GtyGun5N
関東はまだしも三河、遠江あたりは農耕面積がそんなにあるわけじゃないしねぇ。
0224奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/11/27(木) 23:42:39ID:zrioAXz8
なんだかゲームマップを見ながらの書き込みに見える。
0225人間七七四年2008/11/29(土) 18:51:34ID:7TAN3Ir/
>>217
米が取れない地域は、それ以外の収入を増やすしかないからなぁ。
朽木谷の場合は街道の通行権、商業権、林業に対する課税だけに安定的だったのかな。
0226人間七七四年2008/12/01(月) 22:29:03ID:czrcFTjv
京都様様だな
大都市近くはそれなりの旨味があるからね
0227人間七七四年2008/12/02(火) 17:58:37ID:bMPsKUZr
>>226
当時の京はどれくらいの市場規模を持っていたのかな。。。
0228人間七七四年2008/12/02(火) 17:59:29ID:Xw7C+ne+
江戸以前は日本唯一の十万都市じゃないの?
0229人間七七四年2008/12/03(水) 01:37:35ID:C0HJSLTX
>>228
問題は江戸期だね。
0230人間七七四年2008/12/03(水) 02:47:32ID:bAxKNm7T
寛永十一年の洛中は410,089。
その後微減していって正徳五年で三十万くらいになる
0231人間七七四年2008/12/04(木) 14:05:03ID:h85b7aFv
>>230
市場としては縮小傾向だったのね。。。
0232人間七七四年2008/12/04(木) 14:22:54ID:78PWIz5U
武家社会の恩恵が受けられるところじゃないしねぇ。
むしろ、なぜ大都市で居られ続けたのかがよくわからんくらいだ。
まあ、それでも朽木さんとこにとっては十分広い市場だったんじゃないかしら。
0233人間七七四年2008/12/05(金) 06:32:16ID:UTVrxvV8
>>232
京だけでなくその周辺への流通もあるのでは?
0234人間七七四年2008/12/07(日) 00:36:50ID:xqQ7HyBB
前に福知山城に行ったとき、城内の展示物や説明文を見ていたら、結構はっきりした口調で
「関ヶ原の恩賞で福知山に転封されてきた有馬氏は苛政を行い領民を苦しめた。
その後、数代を経て福知山城主となった朽木氏は善政を行い領内を発展させた。」
という意味のことが書かれていた。

朽木と京極は、近江の名家同士で豊臣期の所領も近いけど、つながりあったのかな?
関ヶ原で、当初は大谷の北陸攻めに加わり、機を見て東軍に寝返りと同じ経緯をたどっており、
京極の裏切りが朽木元綱に影響を与えたのかと少し思った。
0235人間七七四年2008/12/07(日) 16:27:53ID:M61moVS1
近隣勢力同士、互いに影響し合うことはあるでしょ。
実際、元綱の嫡子・宣綱の室は高吉女(マグダレナ)だし、宣綱の次子・高通が京極高知の
女婿になっているくらいで。
0236人間七七四年2008/12/12(金) 01:33:58ID:NcntzUJN
婚姻は年齢的に関ヶ原前?
0237人間七七四年2008/12/15(月) 00:28:39ID:NtUdrOEo
元綱と言えば、関ヶ原の役後、嫡子・宣綱と共に瀬田橋の修造奉行に任命され、
これを無事成功させている。
父子が家康、秀忠に近侍できたのはこの瀬田橋の修造が評価されたからとも
言われている。
0238人間七七四年2008/12/17(水) 12:57:39ID:wP5h2QQW
越前とか伊勢の太閤検地してたり
豊臣直轄領の代官してるから
民政に精通してたタイプだったんでしょう
0239人間七七四年2008/12/18(木) 22:10:29ID:opQBxiET
>>238
あれ?罷免されなかったっけ?
0240人間七七四年2008/12/22(月) 03:28:30ID:mFls7xd8
>>238
武功は聞かないなぁ。
0241人間七七四年2008/12/22(月) 09:00:18ID:v0FMutYU
一族に三好三人衆に義輝が殺された時、討死したやついなかったっけ?
0242人間七七四年2008/12/22(月) 16:04:59ID:rrwcNB2j
宮本昌孝の小説には朽木鯉九郎という人物が出て来るけど
モデルは晴綱の弟の直綱や輝孝辺りかな。
0243人間七七四年2008/12/23(火) 17:16:18ID:EBa1vkON
>>242
少し前に出てました。
>>http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189149582/182-184
0244人間七七四年2008/12/24(水) 01:54:19ID:SS6ed8tx
>>240
三好勢が京の足利義昭を襲撃した際、防戦にあたったとされているが
それ以外はあまり聞かないね。
関が原後、忠節を示すために戦ったという記録はないのかな?
02452422008/12/24(水) 15:31:48ID:nbzakFlr
>>243
thx
>>241宛のレスのつもりでしたが、やはり三人の誰かがモデルなのでしょうね。
0246人間七七四年2008/12/25(木) 20:04:58ID:PiCC4RgE
>>244
兵力が兵力なので。。。
0247人間七七四年2008/12/28(日) 17:17:37ID:jfRSnrf3
佐和山城攻撃に参加しているが、果たして軍功と言えるものかねぇ。
0248人間七七四年2008/12/31(水) 06:02:06ID:n0N53Yjp
関ヶ原での足取りと追うと・・・

伏見城攻撃に参加
     ↓
大谷吉継の軍勢に加わる
     ↓
京極高次を西軍に誘うも失敗
     ↓
関ヶ原本戦にて東軍に寝返り、大谷吉継を攻撃
     ↓
佐和山城攻撃に参加

何かフラフラしてますなぁ・・・
0249人間七七四年2008/12/31(水) 07:00:47ID:4NSdVyME
近江にあって東軍につくってのは判断は、まぁ無理だよな
だからそこ京極は家康に手厚く迎えられたわけだけど……
0250人間七七四年2008/12/31(水) 07:29:14ID:PCq7/6RT
むしろ東軍についた京極の方が英断ですわな。
しかも、あまり籠城戦に適さない大津城で集中攻撃に耐えなければならない。
朽木が同じことをしたらサッサと蹂躙されて終わり。
西軍に加わったのはある意味、妥当な判断ですよ。
脇坂のように裏工作をしていれば、本領の2万石をそのまま安堵されていたのでしょうけど。
0251人間七七四年2008/12/31(水) 15:56:49ID:IBEKTPJH
「磯野家の野望」では、磯野家重臣ですよ>元綱
0252人間七七四年2009/01/01(木) 01:19:56ID:wzvpWWWD
>>251
またマイナーな。。。
0253人間七七四年2009/01/06(火) 02:26:16ID:DRDAzlZs
>>251
磯野の配下だった時期もあるしね。
俺は朽木プレイの時は京極さんは拾ってやるぞ、同族だしな。
0254人間七七四年2009/01/06(火) 23:44:38ID:qnKNEzkc
>>253
六角、姉小路、尼子は?
0255人間七七四年2009/01/07(水) 01:16:29ID:k7CsItco
群雄割拠の近畿にあって
明治の世まで残ったのは京極と朽木だけ。
0256人間七七四年2009/01/10(土) 03:39:49ID:9YiZKpqH
朽木家の被官って殿原衆と呼ばれてたけど
殿原衆って禅を信仰する在地郷士も
そう呼ばれてたから
関係性あるのかい?
0257人間七七四年2009/01/27(火) 01:16:25ID:Erzl4ojq
>>255
京極は改易された家もあるしねぇ。。。
0258人間七七四年2009/01/29(木) 01:29:51ID:Sg6h2zQZ
京極高通
0259人間七七四年2009/02/01(日) 01:50:05ID:FnUWgRJ6
>>258
それが何か?
0260人間七七四年2009/02/01(日) 17:23:20ID:fJ+ir1q+
俺も先祖をたどっていけば
0261人間七七四年2009/02/02(月) 12:38:03ID:+wS1/r6Q
>>260
百姓でしょ、どうせ。
0262人間七七四年2009/02/06(金) 04:25:04ID:HGdrTgMN
「百姓」というのは氏も出自もある立派な身分階層だぞ。
江戸期に農民が基本的に自営農家になるまでは、百姓と言えば、下人を使って自分の農園を経営する
農村の上流階層。「百姓様」と呼ばれていた。
0263人間七七四年2009/02/07(土) 21:55:42ID:NCN64zGa
>>262
君の場合は小作人でしょ?
0264人間七七四年2009/02/07(土) 23:34:22ID:VbB5QbqY
先祖辿って小作人しかいないとか、それはそれで凄いことだと思うw
0265人間七七四年2009/02/09(月) 14:02:18ID:+nb8y9Ml
>>264
今も小作人のようなものでしょw
0266人間七七四年2009/02/10(火) 03:43:13ID:n3bkN3lB
ねえねえ、君ら、何の話してるの?
0267人間七七四年2009/02/10(火) 04:06:14ID:5wOCLpOe
そういや京都に京極って友達いたな
やっぱり関係あるのかな?
0268人間七七四年2009/02/11(水) 15:13:15ID:8EQgB9cz
朽木さんの子孫ってどこにいるんだろうね?
0269人間七七四年2009/02/11(水) 23:52:44ID:N8riY1fr
いらっしゃるようです。

ttp://www.kisnet.ne.jp/~matikado/kutuki01.html
>朽木家研究のためにこのほど福知山市へ転居してきた朽木家直系子孫の
>朽木 彰さんから寄託を受けた新資料も一部展示した。
0270人間七七四年2009/02/14(土) 16:15:51ID:zr+OyLO8
>>269
もう「○綱」ではなくなっているんだね。
0271人間七七四年2009/02/14(土) 17:47:16ID:GZgReSWo
ここまで続くとかぶりまくると
ひこにゃんの実家筋の分家さんも
困ってたなぁ
0272人間七七四年2009/02/16(月) 14:06:14ID:840lsEAP
朽木村って野生の鹿が多いよね。
0273人間七七四年2009/02/17(火) 18:42:23ID:luPZKN1G
冬は多い
0274人間七七四年2009/02/18(水) 03:39:39ID:b00R3fvU
>>271
名前もいい加減、ネタ切れするよね。
0275人間七七四年2009/02/21(土) 02:46:46ID:33XdexhL
>>274
江戸時代の後半にもなると、結構変な字を当てた諱が増えてくるからね。
0276人間七七四年2009/02/21(土) 08:53:14ID:0mcq+SyO
その時代の流行とかは……無いか。
0277人間七七四年2009/02/25(水) 16:48:44ID:VeZTkEFI
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/kutuki.htm
0278人間七七四年2009/03/01(日) 17:37:39ID:R5kUEMUb
しかし、朽木家って分知を繰り返し、やたら枝分かれしてるのね・・・
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/kukki.htm

元綱━━━┳━━━宣綱━━━┳━━智綱
近江高島. ┃..    6,470石..  ┃   4,770石
9,950石..  ┣━━━友綱.    ┣━━高通
.       ┃..    3,010石.  ┃   (峰山藩)
.       ┗━━━稙綱.    ┣━━良綱 
...            (福知山藩).┃   1,000石
..                    ┗━━元綱
                          700石 
0279人間七七四年2009/03/02(月) 01:35:09ID:YPaXxp1L
>>278
曾祖父、祖父と同じ名前を名乗ってるし・・・稙綱、元綱
0280人間七七四年2009/03/02(月) 04:10:18ID:wjjCBI8h
>>278
高通って、通字の「綱」が無いね。
他家からの養子でも無さそうなのに不思議だな。
0281人間七七四年2009/03/02(月) 17:37:04ID:Vzl8+eZ8
京極高知の養子になったからです。
0282人間七七四年2009/03/03(火) 21:20:40ID:Z0zyuwAX
高知から見ると甥になるのかな?
0283人間七七四年2009/03/03(火) 22:23:03ID:xQ3ArbLX
>>281
京極家に入る前の諱は何だったんだろ?
0284人間七七四年2009/03/04(水) 04:24:10ID:A3Thhkje
>>283
不明。
幼少の頃に京極家に入ったのかな?
秀忠の小姓になっているけど、当時であれば朽木家の庶子でも秀忠に
近侍できただろうし。
0285人間七七四年2009/03/04(水) 10:38:52ID:LPpgP+iw
嫡流は分知を繰り返して知行を半減させていったものの、
宣綱弟の稙綱、宣綱次男の高通と明治維新まで続く大名家を
派生させただけでも、並の交代寄合とは一味違うな。
0286人間七七四年2009/03/05(木) 19:09:31ID:AHaYIq5N
高通と稙綱はほぼ同年配なんだね。

朽木元綱 1549〜1632年
  ┃
  ┣━━ 宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去
  ┃     ┃
  ┃     ┣━━智綱
  ┃     ┣━━高通 1603〜1666年
  ┃     ┣━━良綱        
  ┃     ┗━━元綱        
  ┃     
  ┣━━ 友綱 1599〜1662年 
  ┃
  ┗━━ 稙綱 1605〜1661年
0287人間七七四年2009/03/05(木) 22:03:05ID:Plhrnb4y
元綱56歳の時の子か>稙綱
随分とお盛んなこった。
0288人間七七四年2009/03/05(木) 23:02:18ID:oByePbhk
>>283
高綱だよ
0289人間七七四年2009/03/06(金) 03:25:14ID:Q6F5VMCJ
>>288
「高」は京極家の通字なんだが、最初から養子入りすることでも決まってた?
0290人間七七四年2009/03/06(金) 04:55:24ID:moCLrG8X
>>289
朽木家の嫡流は長子・智綱がいるし、それ以外の男子もいる。
分知するにしても宣綱自身、知行は6,470石しかない。
とすると、宣綱が妻の実家である京極家に働きかけ、京極一族として秀忠の小姓に
送り込んだのかも知れないね。

京極高知としても、秀忠治世下での厳しい大名統制を見るに、丹後一国の国持大名
の地位を保てるとは考えていなかったのでは?
高広、高三に秀忠の小姓であった甥の高通を加えることで、丹後を三分割し、リスク
の回避に努めたのかも知れない。
0291人間七七四年2009/03/07(土) 23:31:09ID:3USZoqf9
>>290
他大名がドシドシ改易されていたしね。
0292人間七七四年2009/03/08(日) 01:48:55ID:QI2KQEQw
丹後京極氏も宗家は改易されたしな。
後年、2,000石の旗本(高家)として再興してはいるが。
0293人間七七四年2009/03/08(日) 13:13:06ID:3uEBNyzQ
高知も強かだからなぁ。
義父・毛利秀頼の遺領(南信・飯田)の大半を相続しているし。
秀頼の嫡子・秀秋は1万石を相続したのみ。
おそらく姉・松の丸殿と義姉・常高院の働きかけがあったんだろうけど。
0294人間七七四年2009/03/08(日) 23:10:38ID:8xfhALQn
秀秋はその後、大坂の陣で豊臣方についてあぼ〜ん・・・
0295人間七七四年2009/03/09(月) 16:40:41ID:vBbQwBq1
地味だが手堅いなぁ
0296人間七七四年2009/03/10(火) 14:27:52ID:IPwy1u/8
元綱の肖像画って見たことないね。
0297人間七七四年2009/03/11(水) 12:21:18ID:FZ6AQWu2
>>296
ttp://s3.amazonaws.com/cogolo_faces/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E5%85%83%E7%B6%B1/imgs/www.ikedaya.com/images2/nobukatsus/bakufu/kutsuki-mototuna.jpg
0298人間七七四年2009/03/11(水) 20:48:42ID:g3Hmcfc9
>>297
顔グラやんけ。。。
0299人間七七四年2009/03/14(土) 12:54:43ID:qG1hgtBS
>>286
>宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去

当時で81歳ってのもエラいご長寿だなぁ。
地震で死ななければどんだけ長生きしていたんだよ。
0300人間七七四年2009/03/14(土) 13:05:01ID:9+glQ5G+
戦国から江戸時代生き残った武家は
長寿に恵まれた人物を輩出できたとこが
多いのよねん
0301人間七七四年2009/03/14(土) 13:22:23ID:dcUZiu9M
血統値の高い保守派が居れば分裂しにくいし
上の代から認められた知行は貰った本人が生きてる間は取り上げにくいし

死んだら手をつけるかと思ってる方が先に死んじゃうからな
0302人間七七四年2009/03/16(月) 01:18:16ID:EkZICQwf
>>300
逆に平和な世になると軟弱になっていく。
0303人間七七四年2009/03/18(水) 17:20:43ID:We9P4seV
下級層ほど逞しい
0304人間七七四年2009/03/24(火) 17:04:17ID:5xh04OHV
江戸期のブランド・朽木盆知って 
高島の男性、全国から100枚収集

ttp://www.kyoto-np.co.jp/static/2009/03/17/P2009031700054.jpg
各地を回り10年がかりで集めた朽木盆と石田さん(高島市朽木市場)

江戸時代全国に名を知らしめた高島市朽木の特産品で漆絵盆の「朽木盆」を収集している男性が同市にいる。
県外の骨董(こっとう)業者が買い集め地元にはほとんど残っていなかったが、「里帰りさせたい」と10年ほど
前から金沢や岡山、京都などの骨董店からこつこつと買い求め約100枚になった。
「朽木でも朽木盆は知られていない。できるだけ公開していきたい」と話す。
高島市教委朽木村史編さん室編纂監の石田敏さん(62)=同市朽木市場。朽木盆は、江戸時代、大名から庶
民までが愛用し非常に人気があった。
黒漆地の丸盆に朱漆で十六弁菊や草花模様を描いた盆が代表的で、1675(延宝3)年には松尾芭蕉が「盃の
下ゆく菊や朽木盆」と詠んだほか、名物茶器収集家として知られた松江藩主・松平治郷が1枚1650両で購入し
たとの記録もあるなど、江戸時代前期には全国ブランドになっていたという。朽木の木地師は明治中期に廃業し
たといわれる。
石田さんが初めて朽木盆に出会ったのは1978年。朽木中の担任として家庭訪問したとき、使われていた。
「これが朽木盆か。地域で観賞できるように戻したいと思った」。
朽木にはすでになく、岐阜、神戸、大阪、県内などの骨董店で買い求めた。
集めたものは直径が9−36センチ。菊文菓子皿も多い。石田さんは「江戸時代、卓越した技と斬新な絵で垂ぜ
んの的だった。今は、骨董ブームで何でも朽木盆の名で売られている」と危惧しながら、地元の歴史遺産の保
存活動を続けている。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009031700054&genre=K1&area=S10
0305人間七七四年2009/03/29(日) 19:42:11ID:JwoSZDmg
特産品も地味なのかw
0306人間七七四年2009/03/29(日) 19:46:37ID:LGFoVp3W
>>297
うほっ、いい男。
0307人間七七四年2009/04/02(木) 17:17:52ID:ONrF6Vs2
違うから。。。
0308人間七七四年2009/04/09(木) 04:05:28ID:t/o8e9Ce
肖像画とか無いんでしょ?
0309人間七七四年2009/04/10(金) 18:51:47ID:spSR4VF6
位牌はあるんじゃない?
0310人間七七四年2009/04/11(土) 20:36:32ID:d4PZiR/g
菩提寺に行けば何かあるかも知れませんね。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
興聖寺(高島市朽木岩瀬)
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/img247/247_1.jpg

曹洞宗高巌山興聖寺の旧秀隣寺庭園を訪れた。
国の名勝指定の池泉回遊式庭園で、1530年、朽木稙綱(たねつな)を頼って室町幕府12代将軍
の足利義晴が滞在した際、作庭したとされる。
「本当ならば、足利庭園というほうがぴったりくるのですが」と副住職の森泰孝さん(56)。
国道沿いの看板にも、足利庭園と表示されている。
作庭当時は付近に秀隣寺があったため、先々代が旧秀隣寺庭園と名付けたそうだ。
秀隣寺がやや北側の朽木野尻に移転した後、江戸時代に興聖寺がここに移転してきた。
同寺の開基は朽木家の祖である佐々木信綱で、代々朽木家の菩提寺となっている。
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/shiga247.html
0311人間七七四年2009/04/15(水) 21:28:10ID:1ZUJeFJi
朽木家というだけで萌えてくる。。。
0312人間七七四年2009/04/29(水) 14:40:02ID:ICDS0Jzc
>>311
そうかな
0313人間七七四年2009/05/05(火) 01:32:19ID:74kdJZ6M
足利家の従属大名として慎ましやかに暮らす。
0314人間七七四年2009/05/06(水) 12:40:24ID:zEb0joSR
>>313
足利氏をかくまった家として有名なのだが。
0315人間七七四年2009/05/19(火) 12:15:14ID:Zpr6Ixzy
だって将軍家の御料所を預かっていたわけでしょ?
0316人間七七四年2009/05/28(木) 01:02:01ID:5R4kqFwV
足利家から離れるタイミングも絶妙
0317人間七七四年2009/06/11(木) 18:27:33ID:HbE1upSO
裏切りなんて別にどうってことないでしょ。
0318人間七七四年2009/06/12(金) 19:21:47ID:o1os9BSb
小豪族が忠義だの義理だの立てていたら生き残れないですよ。
生き延びた側が正義になる。
0319人間七七四年2009/06/13(土) 15:48:04ID:DvSpjJiN
Kyoto Shimbun 2009年5月29日(金)
湖北ゆかりの新収蔵品公開
あすから長浜城歴博

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下間家伝来の火縄銃(上)と大身槍(中)と朽木元綱にあてた片桐且元の書状(下)

滋賀県長浜市公園町の長浜城歴史博物館の「新収館蔵品展」が30日に始まる。
東本願寺の坊官を務めた「下間家」伝来の大身槍(おおみやり)や火縄銃、湖北出身の戦国武将・
片桐且元の書状など、昨年度に購入、寄贈を受けた17件、21点を紹介する。
「大身槍」(室町時代後期)は刃長が約50センチあり、鞘(さや)に漆塗り、柄に螺鈿(らでん)を施し
た豪華な造り。稲富流の火縄銃とともに下間家から寄贈された。いずれも石山本願寺と織田信長と
の合戦で使われた可能性があるという。

片桐且元書状は、豊臣秀頼の家老だった且元が1610年5月、近江出身の大名朽木元綱にあてた。
駿府(静岡市)で徳川家康や秀忠と面会した様子などが記されており、且元が徳川方との協議の折
衝役を担っていたことを示す史料として興味深い。
大通寺の第9代住職能満院達位が描いた「牡丹(ぼたん)図」(江戸後期)や、国友鉄砲鍛冶の国友
戸十郎が鉄砲伝来の経緯を考察した書物など、長浜ゆかりの資料がある。6月22日まで。
入館料は高校生以上400円、小中学生200円。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009052900081&genre=I1&area=S20
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