【裏切り】朽木元綱【名将】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2007/09/07(金) 16:19:42ID:WT0Ni3Mk0002中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62
2007/09/07(金) 16:42:39ID:3avDJSE8関ヶ原の裏切りと信長の朽木谷(峠?)越えを助けたことしか
知らない
0003人間七七四年
2007/09/07(金) 16:56:57ID:pdAkyRZz0004人間七七四年
2007/09/07(金) 18:07:48ID:YVMSqeJBショボいけど上手く時流を乗りきってる
0005人間七七四年
2007/09/07(金) 18:34:46ID:PayNiIWD0006人間七七四年
2007/09/07(金) 21:15:25ID:e1X3x+bt0007人間七七四年
2007/09/07(金) 22:11:35ID:WT0Ni3Mk9550石の詳細わかる人います?
0008宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/09/07(金) 22:44:20ID:f6ZCRCof『朝暉神社文書』『徳川実記』『義演准后日記』慶長5年11月2日条などを
参考にすると、近江佐和山城攻めの後家康に安堵されたのは、
高嶋郡朽木庄、針畑庄、三谷庄、高嶋本庄内二か村、広瀬庄内三か村、
音羽庄内一か村、山城国愛宕郡久多郷、 合計9595石とされている。
00097
2007/09/07(金) 23:26:23ID:WT0Ni3Mk関係ないですが自分は朽木元綱みたいなあまり知られていない武将に興味があります。
よって朽木氏についても調べてみようと思ったのですが、
近江とは全く関係のない地方に住んでいる為、情報をネットぐらいでしか得られません。
戦国板の住人の中には自分と同じ悩みの人もいるでしょうし、
何か良い方法はないでしょうか。
やはり、地元の図書館にいくしかないでしょうか。
0010人間七七四年
2007/09/07(金) 23:29:26ID:pdAkyRZz大名じゃなくなったのかな?
0012人間七七四年
2007/09/13(木) 13:13:05ID:FDHJ9tWU0013人間七七四年
2007/09/17(月) 02:24:25ID:uDpYRIsn関ヶ原の合戦時にはもう52だし
何してたのかね
0014Y ◆nzdGjBH722
2007/09/17(月) 04:02:33ID:GQuoX81o0015宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/09/17(月) 04:05:01ID:WEN45E6X信長の朽木越え以前の元綱の動向。
1歳 天文18年(1549)、朽木晴綱の嫡子として誕生。
3歳 天文20年(1551)、三好長慶に敗れた足利義輝が、翌年正月まで朽木庄に滞在。
5歳 天文22年(1553)、再び、三好長慶に敗れた足利義輝が、永禄元年(1558)まで
朽木庄に滞在。
7歳 天文24年(1555)、佐々木宮大神主重吉の「朽木竹松」宛ての神事銭請取状があり、
家督を継いでいたと思われる。
18歳 永禄9年(1566)、浅井長政の高嶋郡侵攻に対し、人質を差し出す。
20歳 永禄11年(1568)、足利義昭から「名字地(朽木庄)」を安堵するとの
御判御教書を得ている。
22歳 元亀元年(1570)、越前朝倉攻めから撤退中の織田信長を助ける。
これぐらいか。「近江朽木氏の研究」などを参照。
0016宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/09/17(月) 04:08:08ID:WEN45E6X大事なの忘れてた。
父晴綱が死去したのが、おそらく天文19年(1550)。元綱2歳の時。
0017人間七七四年
2007/09/17(月) 12:38:48ID:b2td5rwj0019人間七七四年
2007/09/21(金) 00:48:47ID:EjXRgrwThttp://www.genbu.net/data/oumi/hanifu_title.htm
資料館 朽木越えなど通称鯖街道といってドライブには最
適ですが・・
http://www.city.takashima.shiga.jp/kankou/amidayama/
shiryo1.htm
専門書ですので高価です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4840620261.html
ご教授願いたいのですが明智光秀丹波平定後、明智秀満と
藤木権兵衛が旧横山城改築後の福知山城城代となりました
が、その後の藤木氏はどのような活躍をしたのでしょうか
?彼も丹波衆一派だったようですが、山崎、関が原の活躍
など知りたくて。藤孝の家臣だとも。。その後朽木氏が
徳川幕末まで安定し、城主継承しましたが・・
朽木村で高齢の方であれば近江一帯すべて勢力を誇示してきたと
聞き及んでます。
0020人間七七四年
2007/10/12(金) 16:01:27ID:TNKIHFNB始祖が義綱(佐々木信綱の曾孫)だからかな。
ちなみに歴代には氏綱 能綱 時綱 貞綱 稙綱 晴綱がいる。
稙綱 晴綱は偏諱だろうから 将軍家との近さがわかるね。
朽木谷。。
0021人間七七四年
2007/10/12(金) 18:01:46ID:kmTDvqyW0022人間七七四年
2007/10/12(金) 20:13:36ID:JkQFV8co晴綱の弟に義輝から諱を賜ったらしき人物がいる
0023宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/10/12(金) 21:12:46ID:tfddIaCf朽木氏系図 (『朽木氏の研究』「室町中・後期における朽木氏の系譜と動向」参照)
破線は推定
貞高――――――┬貞武―――――――直親――――――┐
満若 U 弥五郎 弥五郎 |
弥五郎 U 刑部少輔 材秀 |
信濃守 U 貞綱 |
高親 U |
U |
└貞清 |
弥次郎 |
歓喜 |
┌――――――――――――――――――――――――――┘
|
└――――――――┬稙綱――――――┬晴綱―――――――元綱
U 竹松 | 弥五郎 竹松
U 弥五郎 | 宮内大輔 弥五郎
U 稙広 | 信濃守
U 民部少輔 | 河内守
U | 牧斎
U | 十兵衛
U |
├賢綱 ├藤綱――――――┬女
U 中務丞 | 弥六 |
U 信濃守 | 刑部少輔 ├女
U | 長門守 |
└弥七郎(直綱カ) | └弥次衛門
├成綱
| 左兵衛尉
|
├輝孝
| 弥十郎
|
├興正寺
└兵庫助
0024人間七七四年
2007/10/13(土) 23:57:53ID:Ffj/ew6A詳しい、レスありがとう。勉強になります。
あと元綱の元は、細川昭元からの偏諱かな?
0025人間七七四年
2007/10/15(月) 12:09:14ID:IDCyZxil0026人間七七四年
2007/10/18(木) 02:49:51ID:KhUdDm7Q子孫は旗本&大名だもんなぁ・・・勝ち組っしょ。
0027人間七七四年
2007/10/22(月) 03:19:06ID:G6oXl52qスレが立つ寸前まで盛り上がったんだが・・・
0028人間七七四年
2007/10/26(金) 00:13:34ID:Yls4GbIH儒学者・岩渓嵩台の墓 整備され子孫らが参拝
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/1016haka.jpg
福知山藩の8代藩主、朽木昌綱(1750−1802)が福知山に呼び寄せ、藩士たちに儒学を教えた
岩渓嵩台(いわたに・すうたい)の墓が、福知山市下篠尾の円応寺にある。
その墓がこのほど、檀家たちの協力で整備され、15日に嵩台の子孫3人が訪れ参拝。
「きれいにしていただき、本当にうれしい」と喜び、江戸時代に描かれたとされる嵩台の肖像画の
掛け軸などを寺と市に寄贈した。
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/1016sutai.jpg
嵩台は、安永7年(1778)に、昌綱の招へいで福知山へやって来たとされる。最初のころは京都
から月1回通っていたが、その後、福知山の内記町に移り住んだ。
(以後略)
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/16/002383.html
0029人間七七四年
2007/10/26(金) 00:21:09ID:wOqwDUftこのスレの朽木は「くつき」と読むんだよね?
0030人間七七四年
2007/10/28(日) 22:30:29ID:KLlZDbs4朽木 宣綱(くつき のぶつな、1582年(天正10年) - 1662年6月16日(寛文2年5月1日))は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
朽木元綱の子。官位は従五位下兵部少輔。号は立斎。
はじめ豊臣氏、次いで徳川氏に仕えた。江戸幕府のもとでは6470石を領する旗本の一人として
仕えた。だが、後に弟の朽木稙綱が大名に取り立てられたために宗家としての地位は弱まった。
また、妻の名字である京極を称した息子の一人高通は、丹後峰山一万三千石の大名となる。
寛文2年5月1日、寛文地震に巻き込まれ近江国朽木にて死去した。
享年81、法号は崇玄。
0031人間七七四年
2007/10/29(月) 03:03:14ID:Ke21MygEだいぶん前に歴史と旅で見たの思い出したんだが
現当主の方が昌綱の肖像画とそっくりなんだよ。
よくいう「ハンコいらない」のレベルw
0032人間七七四年
2007/11/04(日) 03:48:36ID:s4Q+VV19今はどうなのか知らないけど。
ttp://sakuraoffice.com/P10006712.jpg
0033人間七七四年
2007/11/17(土) 15:08:11ID:FC7n2tI6家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転したそうだ
0034人間七七四年
2007/12/04(火) 15:05:17ID:NdWa2UB2地理的な意味があるのかな?
0035人間七七四年
2007/12/12(水) 02:24:16ID:fYAnwEry山奥で三好もわざわざ追ってこないのかもw
0036人間七七四年
2007/12/13(木) 16:21:34ID:al0IiiUL0037人間七七四年
2007/12/28(金) 16:32:42ID:ldn+JVfV元はどこから来たのだろう?
0038人間七七四年
2008/01/06(日) 21:09:03ID:CE2fujcw晴元の子、細川昭元?
細川晴元
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150021673/
0039人間七七四年
2008/01/07(月) 18:34:50ID:X/qeTHIK0040人間七七四年
2008/01/25(金) 14:43:03ID:y1gmWCDc0041人間七七四年
2008/01/28(月) 02:37:29ID:zB54yMYU--------------------------------------------------------------------------------
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/buke/sassa.jpg
佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。
その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷に
沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたことも
あり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。
1528年三好元長が京都に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱
は義晴を厚遇した。その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。
さらに1551年にも将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という
地勢が将軍の避難所としての条件を持っていたことを示している。
朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも将軍
家に多く仕えている。たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆とし
て名がみえ、足利将軍家との関係の深さを示している。
0042人間七七四年
2008/01/28(月) 02:38:06ID:zB54yMYUttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1922.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1924.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1929.jpg
●稙綱が将軍義晴のために建てた館跡、宣綱のとき秀隣寺となった。
秀隣寺が移転したあと興聖寺となり現在に至っている。
●興聖寺本殿(右端)
--------------------------------------------------------------------------------
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1936.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1937.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1941.jpg
●江戸時代、朽木氏が所領支配の拠点とした朽木陣屋跡
●陣屋跡に残る土塁の一部(右端)
--------------------------------------------------------------------------------
元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と転々
としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然の身の処し
方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原の合戦では、最初
西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあったが近江高島郡九千石を
安堵され、近世に生き残ることができたのである。
江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名となった。この
稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。
0043人間七七四年
2008/01/28(月) 02:38:36ID:zB54yMYU--------------------------------------------------------------------------------
福知山城の城跡に建つ、福知山朽木氏初代稙昌の父朽木稙綱を祀る朝暉(あさひ)神社。
本殿前の門には、神紋として朽木家の定紋「隅立四つ目結」が据えられている。
・右:隅立四つ目結
・左:朝暉(あさひ)神社
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/huk_zin.jpg
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/huk_mon.jpg
■参考略系図
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/kz/kutuki_k.jpg
(引用元)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html
0044人間七七四年
2008/01/28(月) 22:43:08ID:PExYJbr/ttp://www.ikedaya.com/images2/nobukatsus/bakufu/kutsuki-mototuna.jpg
0046人間七七四年
2008/01/30(水) 17:23:30ID:O92E9LOF長禄2年(1458)になると、足利義政が朽木貞高に朽木荘を安堵した。
それはその翌々年に室町幕府の御料所として、毎年100貫文を貢納させる下心があったからともとれる。
以来、朽木氏は応仁・文明の戦乱の打ち続く中で、ひたすら幕府に密着して終始した感があった。
まもなく、足利将軍はたびたびこの谷筋に難を避けることになる。
享禄元年(1528)12代将軍義晴は管領細川氏の失政によって孤立すると、はじめ六角氏の援助を求めて
近江に来たが、その分流の縁故から朽木稙網(たねつな)を頼って朽木谷に入り、同4年(1531)までここ
で政務を見た。朽木氏は居館を朽木陣屋内に設けて仕えた。
さらに13代将軍義藤(義輝)も、三好党に追われて坂本・穴太・堅田を転々としたが、三好党と六角氏が戦
うことになると、天文12年(1543)と同22年〜永禄元年(1558)の5年間を、2度にわたって難を避ける
ために滞在している。
永禄11年(1568)織田信長が近江に侵入して六角氏は滅びるが、その分流でありながら朽木氏はこの
時も独自の行動をとって、その所領を失うことがなかった。元亀元年(1570)信長が若狭からこの朽木谷
へ入って来た際も巧みに対応することによって、その支配に従った。
このようにして,天正18年(1590)の豊臣秀吉の天下になると、高島都の蔵入地900石の代官となり、
いわゆる太閤検地の奉行などを勤めたりしたのである。
0047人間七七四年
2008/01/30(水) 17:26:09ID:O92E9LOF谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。
長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。
しかし,朽木氏も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年
(1497)・永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、
その通過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。
なお、この街道の往来について、「朽木文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車5
4台に積んで貝鮑が京へ行くとかいったことまで記している。
この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運ばれた結果であろう。
0048人間七七四年
2008/01/30(水) 18:19:07ID:O92E9LOF中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった
多くの惣村が成立した。
これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下には中間と呼
ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。
16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜40軒の家から棟別銭を取り立てた。
時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。
永正元年(1504)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの
祈誓文などが残っている。
朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」
といったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めて
いった。しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。
0049人間七七四年
2008/01/30(水) 18:21:43ID:O92E9LOF〜谷朽木〜
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、朽木氏は途中から徳川方に味方をし、その結果さらに
この谷筋支配を保ち得た。
慶長6年(1601)朽木元綱が領有した範囲は、もとの朽木荘29か村をはじめとして、針畑荘・
三谷荘・本荘・広瀬荘・音羽荘・山城久多荘を含めると9,595石であった。
翌7年、村ごとの検地が行われた。
この朽木氏を俗に「谷朽木」とも呼んだのは、居所を朽木谷の野尻に定めたからであった。
家の格式は表向き1万右に満たなかったため、交代寄合に位置づけられ、その所領も朽木知
行所と呼ばれた。
しかし、実質は大名に準じて江戸にも参勤交代することになっていた。
そしてその家筋は、いずれも旗本として明治維新に至る。
0050人間七七四年
2008/01/30(水) 18:22:43ID:O92E9LOF江戸期を通じて朽木知行所内の村高には、なにほどの変化もなかった。
あっても100石とか、100石以下が大部分を占めたのは、もともと田畑が乏しい地理的条件
によったからであろう。
この時代の村数を「朽木文書」によってみると、
旧朽木荘(市場・岩神・穴ケ瀬・宮前・坊・野尻・上柏・下柏・古川・大野・村井・栃生・椋川・
麻生・横谷・轆轤・地子原・雲洞谷・平良・小川・荒川)21か村
旧針畑荘(能家・桑原・古屋・中牧・小林・生杉・庄屋・小入谷)8か村
旧三谷荘(角川・保坂・途中谷・山中・大杉・轆轤・天増川・梨ノ木・椋川・自在坊・六ツ石・
水谷・追分)13か村
合計42か村になる。
これらの村々は平地の村とは違い山林関係の生業の割合が強く、この傾向は特に麻生・
地子原・雲洞谷から西の村々で大きいものがあった。年貢は村高の40〜50%に及んだが、
自然条件に災いされることもあったから、川成などで差し引かれることが多かった。その他
山方年貢として四二寸米・川狩米・茶年貢・油草代米・薪代米・みそ米代などがあった。
0051人間七七四年
2008/01/30(水) 18:23:31ID:O92E9LOF中世から引き続き、何といってもこの地域を特徴づけてきたのは林業であった。
しかし、安曇川を下る筏は琵琶湖への出口の南船木港(安曇川町)に材木座が置かれ、
木材を特権的に取り扱い、運上・座役銀などの租税・手数料に当たるものを取り立てた。
炭焼にも市場・岩神の問屋支配があり、これを、仲介しないと炭の売り立ては堅く禁じら
れていた。
なお、轆轤周辺は麻生木地山ともいった。
かなり古くから轆轤師(のちの木地屋)が集結して、朽木氏の庇護を受けながら椀・盆など
木器の木地を生産した。中世〜近世を通じての経歴は、著名な木地屋根元地と伝承され
る近江小椋谷の「蛭谷氏子狩帳」「大岩助左衛門日記」などに記録をとどめている。
岩神には数軒の塗師屋もあったが、そこで彼らの木地に漆工したのである。
朽木盆はその製品の中で、黒地に朱で十六菊を描いたものが、特に*「菊盆」*と呼ばれ
て著聞した。
0052人間七七四年
2008/02/03(日) 19:36:00ID:+zdGoOYm>朽木知行所
知行所ということは旗本扱いですね。
事実、万石未満なのでそういう分類なのは当然ですが、一般に旗本は知行所における
行政監督をしない場合が多かったようですね。
幕府がそれを嫌ったというのが主な理由ですが、実際には代官が主にそれらを担当し
ていたようです。
その点から見ても、直接知行地の行政監督を行い、在地領主であり続けた朽木氏と
いうのはその枠組みからは外れていたのですね。
0054人間七七四年
2008/02/05(火) 08:16:11ID:AGMpB2U0交代寄合の一覧
(須原屋版「文化13年武鑑」による)
[編集] 表御礼衆
菅沼家 三河設楽郡新城領主 帝鑑間詰 元丹波亀山藩藩主
竹谷松平家 三河宝飯郡西郡領主 帝鑑間詰 元吉田藩藩主
榊原家 駿河有度郡久能領主 帝鑑間詰 久能山東照宮門番 家督時に五位諸大夫任官
本家筋にあたる。
本堂家 常陸新治郡志筑領主 柳間詰
生駒家 出羽由利郡矢島領主 柳間詰 元高松藩藩主
山名家 但馬七味郡村岡領主 柳間詰 屋形号
松平(池田)家. 播磨神崎郡福本領主 .柳間詰.. 鳥取藩松平(池田)相模守家分家
元播磨山崎藩主・元因幡鹿奴藩主 初代松平
(池田)輝澄は徳川家康娘・督姫男
平野家 大和十市郡田原本領主 柳間詰 賤ヶ岳の七本槍の家系
木下家 豊後速見郡立石領主 柳間詰 日出藩分家
山崎家 備中川上郡成羽領主 柳間詰 元丸亀藩分家
最上家 近江蒲生郡大森領主 柳間詰 元山形藩藩主・屋形号
戸川家 備中都宇郡撫川領主 柳間詰 元庭瀬藩藩主
竹中家 美濃不破郡岩手領主 柳間詰
溝口家 陸奥岩瀬郡横田領主 柳間詰 新発田藩分家
朽木家 近江高島郡朽木領主 柳間詰 福知山藩本家筋
近藤家 遠江引佐郡気賀領主 柳間詰 元井伊谷藩藩主
金森家 越前南条郡白崎領主 柳間詰 元郡上八幡藩藩主分家
五島家 肥前松浦郡富江領主 柳間詰 福江藩分家
伊東家 日向郡賀郡飫肥領主 柳間詰 飫肥藩分家
0055人間七七四年
2008/02/05(火) 08:16:44ID:AGMpB2U0那須衆
那須家 下野那須郡福原領主 .柳間詰 .元烏山藩藩主
福原家 下野那須郡佐久山領主 柳間詰 . 那須衆
芦野家 下野那須郡芦野領主 .柳間詰 . 那須衆
大田原家 ..下野那須郡森田領主 . 柳間詰め 大田原藩分家・那須衆
美濃衆
高木(西)家 美濃養老郡多良領主 柳間詰 美濃衆
高木(東)家 美濃養老郡多良領主 柳間詰 美濃衆
高木(北)家 美濃養老郡多良領主 柳間詰 美濃衆
信濃(伊那)衆
知久家 信濃伊奈郡阿島陣屋領主 ..柳間詰 伊那衆
小笠原家 ..信濃伊奈郡伊豆木陣屋領主 柳間詰 勝山藩分家 伊那衆
座光寺家 .. 信濃伊奈郡山吹陣屋領主 .柳間詰 伊那衆
三河衆
松平家 三河加茂郡松平領主 柳間詰 松平家庶長子家 三河衆
中島家 三河渥美郡大崎領主 柳間詰 三河衆 備中松山藩板倉家類家
四州に準ずる家
米良家 日向児湯郡米良領主 柳間詰 無高 肥後菊池氏後裔・肥後
.人吉藩主相良家の扶養
0056人間七七四年
2008/02/05(火) 08:17:26ID:AGMpB2U0須原屋版には、記載のない交代寄合
四州に準ずる家
岩松家 上野国新田郡新田庄内120石 新田義貞の末裔 明治の華族令で、男爵を授かる。
0057人間七七四年
2008/02/07(木) 18:22:39ID:Stp6E0BBまた微妙なお家柄ばかりですね。
0059人間七七四年
2008/02/11(月) 02:36:38ID:HmyIZDlg旗本交代寄合、朽木家96百石の陣屋跡 江戸期を通して領有した
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20074.jpg
陣屋址の中心へ
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20073.jpg
陣屋井戸
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20075.jpg
堀の一部
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20076.jpg
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20079.jpg
朽木家菩提寺の興聖寺
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20078.jpg
朽木街道界隈は東海自然街道になっている
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/kutikijinya275igai.html
0060人間七七四年
2008/02/18(月) 00:32:53ID:hbUeZPHv0061人間七七四年
2008/02/19(火) 14:26:29ID:EUoJIIcO006260
2008/02/25(月) 00:32:51ID:tjPJoPvu0063人間七七四年
2008/02/28(木) 15:42:48ID:o2lVYb7z0064人間七七四年
2008/02/29(金) 16:17:49ID:XxoZSC2A元綱はどうだったんだろう?戦後、代官してた蔵入地を召し上げられてる。
0065人間七七四年
2008/03/01(土) 05:03:53ID:m+Jmq04C脇坂→事前通告で安泰
朽木→通告なしで召し上げられるも名家ヲタの家康の意向で復活
小川、赤座→わりとどうでもよかったのでまとめてあぼん
0067人間七七四年
2008/03/01(土) 12:14:08ID:LEk4cK7s逸話としては「あ?朽木なんていてもいなくても大局に影響ないし」みたいなことを
言われたというのがあったが、実際には家康の名門好きが影響したんだろうね。
小川みたいなやつは家康好きじゃなさそうだし。
それにしても、この4人は所領が残った2人はその後幕閣を輩出している一方、改易された2人は
直後に病死と溺死だもんな。明暗が分かれた感がある
0068人間七七四年
2008/03/02(日) 18:17:44ID:faS9i9wP改易⇒家名存続という流れではないのでは?
単純に減封。
代官領+所領の一部を召し上げられたという話。
0069人間七七四年
2008/03/03(月) 18:40:02ID:HP1Fga1/六角を裏切り、明智を裏切り、ついには西軍まで裏切ったのだから
家康に信用されるはずがない。
おまけに出自も不明。
こりゃ処分対象だわな。
朽木と祖を同じくする六角は、佐々木に改姓して幕臣になっているし、
(別に血統を違える藤原北家の六角氏が幕臣になっているが)
やっぱり宇多源氏の末裔、旧幕府奉公衆という格式がポイントだった
のかな。
0070人間七七四年
2008/03/04(火) 03:27:50ID:u3tfd9qj0071人間七七四年
2008/03/05(水) 16:29:18ID:nB9aFwkK家臣ゼロの一城主から始まる戦国世渡り物語。
天下を穫るなんて夢のまた夢、時の権力に靡き続けるのが
朽木プレイの醍醐味。
0072人間七七四年
2008/03/07(金) 01:20:06ID:/xvBgTYo山間の豪族だけど一応、幕府の奉公衆だったしね。
0073人間七七四年
2008/03/08(土) 04:56:36ID:1l6EeZqh――――――――――――――――――――――――――――――――
朽木元綱(蒼天録データ)
重視/幕府・名声
思考/保守鳩派
出身/近江
出自/国人
兵科/足軽 長槍
特技/哀願
策戦/混乱 誘導
能力/政治58 統率37 知略62
義理/19
野心/57
――――――――――――――――――――――――――――――――
0074人間七七四年
2008/03/15(土) 18:36:00ID:is17D+JI混乱はよく分からんな。
道案内=誘導?
三好軍に対して防戦したこともあるから統率は40台くらいでいいんじゃね?
0075人間七七四年
2008/03/16(日) 14:21:09ID:+K5m+6500076人間七七四年
2008/03/16(日) 15:51:15ID:EBo78/Xb隠岐氏とか宗氏でプレイできないんだっけ?
0077人間七七四年
2008/03/17(月) 03:06:04ID:sQOlcXHT登場しないものはプレイしようがないですよね。
自分で登録する以外には。
0078人間七七四年
2008/03/17(月) 06:45:05ID:S68WhB5F0079人間七七四年
2008/03/18(火) 03:33:10ID:bPnXCEWHちょっとこのスレの方向とは合わないんですが・・・。
0080人間七七四年
2008/03/20(木) 18:21:17ID:KQuhXRqb何となく引き籠るにはちょうど良い能力って気もしますが。
幕府の奉公人なら使者の適性有りかも。
0081人間七七四年
2008/03/24(月) 05:14:37ID:f1fuIDBW宣綱なんて地震で倒壊した屋敷の下敷きにならなかったら、
さらに長生きしていただろうし。
0082人間七七四年
2008/03/28(金) 06:28:32ID:qhq2Fx5Aそういう事例って他にどれくらいあるのでしょうか?
0083人間七七四年
2008/04/08(火) 16:23:22ID:zviEJtscそれほど武功があるわけじゃないし、特徴は捉えてるんじゃない?
0084人間七七四年
2008/04/09(水) 04:58:39ID:kapRpCjJ0085人間七七四年
2008/04/10(木) 11:20:01ID:2/b1o2480086人間七七四年
2008/04/11(金) 22:45:53ID:fMSa34Up攻めた際、信長軍が岐阜から到達するまで防戦した過去がある。
信長が義昭を奉じている限りにおいては敵対する理由が無い。
浅井に従っていたとしても、足利>>>>>>浅井という判断をしたのは当然のことでしょう。
0087人間七七四年
2008/04/24(木) 14:48:40ID:w7pLCVaH0088人間七七四年
2008/04/29(火) 12:46:31ID:lH/0zlc80089人間七七四年
2008/04/30(水) 21:44:24ID:8ilNq9AY0090人間七七四年
2008/05/10(土) 23:59:22ID:EBubWHFM俺も小川は冷遇する。
あいつはキリシタンか?
0091人間七七四年
2008/05/23(金) 02:53:10ID:TD9JVrz9能力もそうだが、人格的にも裏切りやすいしな。
調略されやすいのも問題だ。
0092人間七七四年
2008/05/29(木) 12:26:37ID:UVJCm6AX脇阪>>>朽木>>>(越えられない壁)>>>小川・赤座
になるのか?
0093人間七七四年
2008/05/29(木) 15:15:22ID:i4VUOfE80094人間七七四年
2008/05/29(木) 20:59:30ID:j3xApcHEなんだっけ、『風になびくススキ』だかなんだかだっけ?
0095人間七七四年
2008/05/29(木) 21:23:13ID:uUBcACK7禿同 あれは酷すぎだと思う
実際小川って織田家ではどのくらいの扱いだったんだろ
0096人間七七四年
2008/05/30(金) 08:29:46ID:AdHU0vKy0097人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 14:19:28ID:ivkaTTwKだがそれが(・∀・)イイ
0098人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 19:02:01ID:oB1uQSp20099人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 21:39:57ID:4cxEvzrF大谷刑部の祟りだな。
0100人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 22:00:17ID:/liSss8Kこれが古来よりの武家の作法である。
もし大谷行部が祟るというのなら、彼は武士にあるまじき不心得者である、と言う事だ。
0101人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 22:04:37ID:3qoIj2k/死んだ者を恐れ祟りを生み出すのは生きている人間だ。
0102人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 13:45:21ID:foXUd8LK0103人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 14:47:26ID:uPFcXl8E0104人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 20:57:53ID:1WqnlT24101はその辺を理解出来ず陳腐な宗教論に転化している。
0105人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 00:20:42ID:tarJ/2SX0106人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 19:13:41ID:ixKNPD/+0107人間七七四年
2008/06/09(月) 15:34:24ID:6XgdX/Qx義輝が天文二十年〜二十一年、天文二十二年〜永禄元年というところか
0108人間七七四年
2008/06/09(月) 16:01:20ID:+FYAIIOb0109人間七七四年
2008/06/10(火) 12:15:50ID:eSCtX3LO0111人間七七四年
2008/06/10(火) 15:11:56ID:eSCtX3LO0112人間七七四年
2008/06/10(火) 16:00:00ID:ScW7tn8m0113人間七七四年
2008/06/10(火) 16:20:53ID:7AugmIPX0114人間七七四年
2008/06/10(火) 16:26:30ID:ScW7tn8mそれに前田も賤ヶ岳の時勝家を裏切ってるわけで。
0115人間七七四年
2008/06/11(水) 00:37:00ID:KLEKcvjl慶長11年(1606)に溺死したんじゃないの?>赤座
0116人間七七四年
2008/06/11(水) 08:45:36ID:DVYdp7Lv「武士」「祟り」で検索してもかなりの事例がヒットするんだが、
武士は祟らない、というのは何処の話なんだ?詳細希望。
0117人間七七四年
2008/06/11(水) 17:54:51ID:nMSf9oQM0118人間七七四年
2008/06/12(木) 04:02:49ID:q2NIcsuO時代が人をそうさせるのでは?
0119人間七七四年
2008/06/12(木) 10:46:27ID:ogzvB5/t0120人間七七四年
2008/06/13(金) 01:16:30ID:49SIypQ2スレ違いだが、高校の先輩に犬山城主のご子息さんがいたな。
0123人間七七四年
2008/06/13(金) 17:01:57ID:cZG4meL+・江戸時代ならいざ知らず、犬山城の所有者を「犬山城主」と呼ぶことに違和感がある。
のどちらかだろう。
0124人間七七四年
2008/06/15(日) 10:29:10ID:duuVRLtj江戸時代と違った意味で、犬山城主じゃない?。
0125人間七七四年
2008/06/16(月) 12:30:37ID:AAzJSweH0126人間七七四年
2008/06/16(月) 13:51:01ID:5RKGIbKt0127人間七七四年
2008/06/16(月) 19:28:55ID:sWHBmaw5>近現代
>明治の廃藩置県で廃城となったが、明治24年(1891年)の濃尾地震で天守の一部や櫓・城門などが
>こわれたため、明治28年(1895年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。
>平成16年(2004年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人犬山城
>白帝文庫に移管されている。
>
>2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(43番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模
>の日本100名城スタンプラリーが開始された。
財団法人犬山城白帝文庫 理事長 成瀬 淳子
(第12代犬山城主成瀬正俊の長女)
ttp://www.inuyamajohb.org/gaiyou/images/dairi.jpg
ttp://www.inuyamajohb.org/gaiyou/index.html
0128人間七七四年
2008/06/18(水) 05:14:46ID:NbCvhmCH世が世ならお姫様?
0129人間七七四年
2008/06/19(木) 12:09:13ID:nUQhdezg可愛い、結婚したい。
0130人間七七四年
2008/06/20(金) 01:41:32ID:NxQqKpgv結婚しても、財団化した以上は城主にはなれんけどね。
0131人間七七四年
2008/06/24(火) 01:42:09ID:qpiF/vWV0132人間七七四年
2008/06/29(日) 23:04:39ID:q9NMFd8a福知山の朽木家は子爵に叙せられたが。。。
0133人間七七四年
2008/07/02(水) 04:13:08ID:S8rEVCU+大名家の爵位は珍しくないっしょ。
0134人間七七四年
2008/07/05(土) 00:15:50ID:P+8g+q8t見た目は↓だが、けっこうクセになる。
0135人間七七四年
2008/07/09(水) 08:09:50ID:y2R/V9eeそれは俺のことか?(^^ゞ
0136人間七七四年
2008/07/13(日) 19:33:41ID:0eXG6aVc0137人間七七四年
2008/07/15(火) 05:15:19ID:LXto4UcS信長不在を突き、三好三人衆が京の義昭を襲った際、防戦に努めた。
あとは関ヶ原か。
0138人間七七四年
2008/07/17(木) 18:01:53ID:ksLBRxxF0139人間七七四年
2008/07/17(木) 20:22:33ID:+40ZAqYm求められると嫌と言えない性格だったのかな〜
0141人間七七四年
2008/07/23(水) 00:52:58ID:E8YLAs7n信長軍の朽木谷通過を許したのは、
@信長が足利将軍家の旗印を握っていた
A梟雄・松永弾正を使いこなす信長の器量を見込んだ
という2点が考えられる。
しかし、その判断力も関ヶ原ではやや鈍ったのかも知れない。
豊臣政権という絶対の存在、それに東西両軍の軍事的拮抗。
大谷吉継という抑え役が目の前に立ち塞がっていたこともあるのだろうが。
0142人間七七四年
2008/07/25(金) 02:26:54ID:vG4RfHPHそれでも、息子を徳川将軍家に仕えさせて幕閣にまでなってるんだから、
立ち回りと言う点ではかなりの才覚をもっていると思う。
0143人間七七四年
2008/07/25(金) 08:11:17ID:v5dv92iE0144人間七七四年
2008/07/25(金) 21:06:05ID:agzlzgJ20145人間七七四年
2008/07/27(日) 08:40:49ID:BoKmNSCnリカバリーが巧かったね。
しかし、家光に厚遇されたと聞くと……
0146人間七七四年
2008/07/27(日) 23:00:52ID:LzjjNjk0どんな批判です?
別に「豊臣家に忠誠を誓う=三成に忠誠を誓う」ことではないのに。
寝返ったことが許せないなら、東軍大名は総じて批判されるべき。
0148人間七七四年
2008/07/29(火) 01:51:25ID:JwCfgDIu西島太郎氏の戦国期室町幕府研究や朽木氏の研究論文をまとめた
著書が出ているが・・・・・やはり高い。
0149人間七七四年
2008/07/31(木) 23:43:04ID:bb6adfe40150人間七七四年
2008/07/31(木) 23:56:39ID:qK6BraY+0151人間七七四年
2008/08/12(火) 17:53:16ID:El3kx9KP『室町中・後期における近江朽木氏の系譜と動向』というやつですかね?
0152人間七七四年
2008/08/13(水) 05:11:36ID:b78rX89Jhttp://etc7.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1200069092/782
0153人間七七四年
2008/08/14(木) 18:47:26ID:wksgVz1E具体的にはどのあたりに疑問が存在するのでしょうか?
0154人間七七四年
2008/08/14(木) 20:59:46ID:soVqhp1H朽木ってそんなにすごかったの。
バスで高校やからド田舎やと思っていたのに
高島市には朽木高校が必要。
滋賀県の県庁所在地が朽木になってもいいのではないか。
0155人間七七四年
2008/08/17(日) 12:24:43ID:ES3qDQ7a0156人間七七四年
2008/08/27(水) 15:21:27ID:H21+eIYP0157人間七七四年
2008/08/27(水) 19:08:09ID:mLdium+j0158人間七七四年
2008/08/30(土) 13:46:56ID:bOxp4feu>近江佐々木氏の一族で六角家の祖泰綱、京極家の祖氏信の兄高信が近江国高島郡高島を領し
>高島氏を名乗り、高信の次男頼綱の子頼信が同郡横山荘を与えられ横山氏を、氏綱が田中荘を
>与えられて田中氏を、そして末弟の義綱が朽木荘の地頭職を得て朽木氏を称したのにこの系統
>は始まります。
とありますが、田中氏というのは田中吉政に繋がるんでしょうかね?
0159人間七七四年
2008/08/31(日) 17:44:42ID:MbIDddJy田中なんてあちこちにいるから関係なさそう。
0160人間七七四年
2008/09/01(月) 19:47:25ID:5MLh1FVF朝倉攻めには元綱の従兄弟(元綱の母は飛鳥井雅綱の女)にあたる
飛鳥井雅敦が同行していたからなぁ。
織田方がその血縁を利用したと考えられるよね。
0161人間七七四年
2008/09/03(水) 12:56:24ID:y9hP7v3Q出自は相当怪しいみたいで一定しない。
芋百姓出身というのが正しいのでは?
0162奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/09/04(木) 00:11:48ID:tAUZI6+I0163人間七七四年
2008/09/04(木) 15:16:53ID:DmDFo5cvそこに反応?
0164人間七七四年
2008/09/05(金) 14:03:27ID:PSVUdYIg近衛前久もそうだけど、何で公卿ってのは何かにつけて従軍したがるんだろうな?
0165奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/09/06(土) 01:39:20ID:0g9FCRon0166奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/09/06(土) 01:40:17ID:0g9FCRon0167人間七七四年
2008/09/06(土) 22:15:22ID:heBOpChrしかし、飛鳥井レベルで官軍になれますかね?
0169人間七七四年
2008/09/07(日) 04:45:21ID:zLg+tFuw大義名分という点では、最初から足利将軍家の旗印を掲げた平定戦ですから、
わざわざ公家を介在させる理由は無いでしょう。
接待ゴルフではありませんが、レジャー半分の戦見物ではないでしょうか。
ところが、浅井が敵方につくという不測の事態に直面した際、陣中の誰かが
飛鳥井と朽木の婚姻関係に着目したと。
となると、その誰かというのは松永久秀あたりと思われます。
漫画だと木下藤吉郎が万が一に備えてネゴシエーションしていたという筋が
多いわけですが。
0170人間七七四年
2008/09/10(水) 00:00:29ID:q4JQeDWcそれで、朽木荘の住民は、領主との信頼関係を損ねると言う事で、徳政令が出ても
自分たちには適応しないでほしい、と、申し立てしてたりする。
0171人間七七四年
2008/09/10(水) 15:11:14ID:cskoEvRg知行地に足を踏み入れることの少ない他の旗本(知行取)に比べると
統治がきめ細かい。
0172人間七七四年
2008/09/13(土) 01:44:13ID:31RgzDSsそもそも朝倉攻めは建前上、武藤友益を討伐するということで幕府、朝廷が許しを
与えているわけだが。
飛鳥井雅敦や日野輝資などが従軍したのもそのため。
0173人間七七四年
2008/09/15(月) 00:33:08ID:UB3AVUgq0174人間七七四年
2008/09/17(水) 23:14:30ID:BcvLBzNn朝倉方でしたよね。
0175人間七七四年
2008/09/20(土) 15:52:37ID:qot11TNd0176人間七七四年
2008/09/21(日) 22:22:32ID:rxaM+Zfm0177人間七七四年
2008/09/23(火) 04:14:43ID:nCR+AyEC分家が本家を家格・石高で上回った例としては、飯野保科家の例があるね。
保科正之が会津に転封になる際、義兄・正貞に保科家累代の宝物類を引き渡し、
飯野保科家を宗家とした経緯があるので。
0178人間七七四年
2008/09/23(火) 11:35:45ID:PVmbkiBX0179人間七七四年
2008/09/26(金) 00:23:58ID:brxhXxiH>義兄・正貞
廃嫡されたよね、確か。
0180人間七七四年
2008/09/27(土) 13:35:12ID:q2E7kNJ6戦国駆け込み谷
0181人間七七四年
2008/10/01(水) 19:28:51ID:txrJ8etc武田見性院と保科家の関係に加え、正直の後室が家康の異父妹という家系。
これは当然、利用されるでしょ。
0182人間七七四年
2008/10/01(水) 22:46:50ID:1Kbaflbfその中に義輝の剣の師匠役として朽木鯉九郎という人物が出てきます。
実在した人物なのかはわかりませんがなかなかいいキャラです。
0183人間七七四年
2008/10/04(土) 01:20:48ID:WH76WNMm近江・朽木谷を領する朽木稙綱の子、次男・藤綱か四男・輝孝であろう
将軍・足利義輝に仕え御部屋衆となる、松永久秀・三好三人衆らに攻められた義輝と共に討死
ttp://kazusanosukede.gozaru.jp/busyou/busyouitiran-ka.htm
0184人間七七四年
2008/10/05(日) 01:57:29ID:OxfyhCovその中に朽木白哉、朽木ルキアという兄妹が出てきます。
実在した人物なのかはわかりませんがなかなかいいキャラです。
0185人間七七四年
2008/10/05(日) 03:46:33ID:ByVI+pDCその久秀とも元綱は通じているんだよねぇ。。。
0186人間七七四年
2008/10/08(水) 11:20:39ID:/p88S2Je久秀云々というよりは信長軍の有する大義名分を重んじたんでしょう。
将軍家は越前出兵を是認しているわけですから。
0187人間七七四年
2008/10/15(水) 00:32:18ID:RuVhJhZU0188人間七七四年
2008/10/15(水) 00:54:46ID:SoQqHFA0ここだけか…厳しい世界だ
0189人間七七四年
2008/10/16(木) 09:06:38ID:e6UY54EV0190人間七七四年
2008/10/16(木) 11:50:37ID:vTBbecB2戦国期では三傑の次ぐらいの評価が定着している。
0191人間七七四年
2008/10/18(土) 01:10:15ID:KhnO9kjy四大貴族「朽木家」の二十八代目当主、護廷十三隊六番隊隊長
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E7%99%BD%E5%93%89
0192人間七七四年
2008/10/21(火) 18:20:32ID:iMBw8At+架空の人物はどうでもいいです。
0193人間七七四年
2008/10/24(金) 18:21:30ID:z5I6INbsそんなバカなw
0194人間七七四年
2008/10/25(土) 03:31:52ID:Y5tZKOCWそりゃ朽木文書のおかげでご飯食べさせて
もらってる史学界が評価しないのも
さびしい話ですな
特に応仁の乱で京都焼け野原なった
資料乏しい中世史はね
0195人間七七四年
2008/11/01(土) 23:48:55ID:bG73Y9R90196人間七七四年
2008/11/03(月) 00:41:24ID:RKVg9yMB改易しなくてもいいよ」って言われたってのは本当なんかね?
0197人間七七四年
2008/11/03(月) 21:02:01ID:x6Je5ok7戦力的には微々たるもの。
いてもいなくても大差は無いしねぇ。
但し、若狭と京を結ぶ街道筋を押さえていた土着豪族だけに
利用価値有りと判断したのでは?
0198人間七七四年
2008/11/03(月) 22:22:32ID:lGEO+S+l信長・将軍たすけたり忠義厚いと判断したとか
0199人間七七四年
2008/11/03(月) 22:24:50ID:lGEO+S+l0200人間七七四年
2008/11/03(月) 22:24:56ID:YCB29JZU誰だって天下安定させるためには、旧勢力もある程度保全しないといけなくなるっつーの。
家康が信長や秀吉以上に名家好きだって言う論拠が欲しいわ。
0201人間七七四年
2008/11/03(月) 23:37:32ID:x6Je5ok7朽木氏って名家か?
だったら、本家筋にあたる佐々木六角氏を何故保護しなかったんだ?
という話になるしねぇ。
そもそも家康が名家(主に源氏)を高家として遇したのは、徳川政権の
「源氏の棟梁」という表看板と系図詐称の辻褄合わせでしょ。
木曾の山村氏のように、万石以下の在地領主(代官)として街道筋を
治めさせておくか・・・という程度の存在でしょ。
朽木氏は在地の交替寄合だったしね。
0202人間七七四年
2008/11/05(水) 22:25:54ID:i6Ea1ytk配置させてるから多少の恩(鎌倉以来の本領安堵)を
売って街道筋の保全を勘案したんじゃないかな
下手に潰してしまうと後々災いの種になるし
山越えは土地勘ないと今でも遭難してるしさ
0203人間七七四年
2008/11/06(木) 02:52:07ID:clyEMUGw信長時代から存在感としてはかなり薄めだったしね。
金ヶ崎の時には役に立ったけど・・・それだけという感じもする。
まあ、全国支配の段階になると街道の保全管理が重要課題になってくるので
とりあえず潰さずに使うか・・・と。
0204人間七七四年
2008/11/08(土) 21:26:36ID:3jfIMHyj回答は無いようですね。
0205人間七七四年
2008/11/11(火) 22:59:44ID:5Jul7b7J伝承できた家が重宝されたのかな
家康公将軍任官で配膳役してることから推測する
0206人間七七四年
2008/11/13(木) 03:52:17ID:0vIZayDF意外なところに顔を出すものだな。
0207人間七七四年
2008/11/16(日) 03:49:15ID:k0V2lzWM朽木元綱の嫡子・宣綱が、家康の太政大臣任官の儀式にて配膳役を務めているね。
征夷大将軍に任じられた時となると・・・誰?
0208人間七七四年
2008/11/17(月) 23:26:29ID:EwqcUGxkただ朝廷、公家とのやりとり作法は
江戸時代でもわざわざ高家取り立てて
指導してもらうくらいだから
稀少だったかもしれないね
室町幕臣系かなり明智光秀に与して悲惨な結果なってるし
0209人間七七四年
2008/11/18(火) 11:38:22ID:8009mpa2明智と朽木の繋がりってのもよく分からないね。
0210人間七七四年
2008/11/18(火) 12:12:11ID:lqqeJdsw明智と朽木に直接の上下関係はなかった(と思う)けど
所領がご近所さんだし、なにかと繋がりはあったんじゃないかな
こんな曖昧な繋がりじゃだめか^^;
0211人間七七四年
2008/11/18(火) 13:21:34ID:xybM7AhTただ幕臣奉行衆、奉公衆どうしの絆は強かったみたいだな
幕臣系いっぱい抱えた細川家も
参勤交代の折りは朽木に挨拶は欠かさなかったとか
どこかのサイトでみたんだけど…
細川家一流の交際術かもしれないけどね
0212人間七七四年
2008/11/18(火) 13:42:39ID:qYuSc1P5次第にその価値も薄れたんだろうけどな。
0214人間七七四年
2008/11/19(水) 07:08:20ID:dVd8PmfR0215人間七七四年
2008/11/19(水) 19:01:21ID:X12q8jYO一番余裕があったみたいじゃない
交代寄合基本的に無役だし
吉原で身を崩すのはこの階層が多いよ
0216人間七七四年
2008/11/21(金) 10:59:30ID:k5z1uGQzしかし、知行取というのは凶作で収入激減なんて事態もあり得るからね。
そのあたりは蔵米、切米取りの方が安定している。
それでも基本的にベースアップがない階層だけに、市場経済の前には無力だったはず。
0217人間七七四年
2008/11/22(土) 21:22:51ID:r85TmFn6鯖街道の商業税と木材座からの運上なんかがメインか
ただ飛騨の匠を抱えた飛騨奉行がかなり蓄財できる
美味しいポストだったみたいだったから
朽木もそんなに悪くないと思うよ
0218人間七七四年
2008/11/23(日) 18:58:18ID:XUOATh7f安定収入ではあるけど、といって生産性が劇的に上昇する性格のものでも
ないしねぇ。
0219人間七七四年
2008/11/23(日) 19:33:10ID:kC0H/L0f物流の動脈拠点で物資が豊富
換金特産物にも恵まれた
豊かな領地なんてあったのかいな
何かしら問題は抱えてるじゃまいか?
0221人間七七四年
2008/11/24(月) 17:20:49ID:1pqaF6yv濃尾平野と異なり、三河〜駿河というのは山と海に挟まれた土地だからなぁ。
0222人間七七四年
2008/11/25(火) 23:40:01ID:RXUuETFkでかい治水工事なんてほとんど外様の大名に
外注してもらってんだから
本来ならもっと豊かになってないといかんが
そんな話聞いたことないな
0223人間七七四年
2008/11/27(木) 18:50:33ID:GtyGun5N0224奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/11/27(木) 23:42:39ID:zrioAXz80225人間七七四年
2008/11/29(土) 18:51:34ID:7TAN3Ir/米が取れない地域は、それ以外の収入を増やすしかないからなぁ。
朽木谷の場合は街道の通行権、商業権、林業に対する課税だけに安定的だったのかな。
0226人間七七四年
2008/12/01(月) 22:29:03ID:czrcFTjv大都市近くはそれなりの旨味があるからね
0227人間七七四年
2008/12/02(火) 17:58:37ID:bMPsKUZr当時の京はどれくらいの市場規模を持っていたのかな。。。
0228人間七七四年
2008/12/02(火) 17:59:29ID:Xw7C+ne+0229人間七七四年
2008/12/03(水) 01:37:35ID:C0HJSLTX問題は江戸期だね。
0230人間七七四年
2008/12/03(水) 02:47:32ID:bAxKNm7Tその後微減していって正徳五年で三十万くらいになる
0231人間七七四年
2008/12/04(木) 14:05:03ID:h85b7aFv市場としては縮小傾向だったのね。。。
0232人間七七四年
2008/12/04(木) 14:22:54ID:78PWIz5Uむしろ、なぜ大都市で居られ続けたのかがよくわからんくらいだ。
まあ、それでも朽木さんとこにとっては十分広い市場だったんじゃないかしら。
0233人間七七四年
2008/12/05(金) 06:32:16ID:UTVrxvV8京だけでなくその周辺への流通もあるのでは?
0234人間七七四年
2008/12/07(日) 00:36:50ID:xqQ7HyBB「関ヶ原の恩賞で福知山に転封されてきた有馬氏は苛政を行い領民を苦しめた。
その後、数代を経て福知山城主となった朽木氏は善政を行い領内を発展させた。」
という意味のことが書かれていた。
朽木と京極は、近江の名家同士で豊臣期の所領も近いけど、つながりあったのかな?
関ヶ原で、当初は大谷の北陸攻めに加わり、機を見て東軍に寝返りと同じ経緯をたどっており、
京極の裏切りが朽木元綱に影響を与えたのかと少し思った。
0235人間七七四年
2008/12/07(日) 16:27:53ID:M61moVS1実際、元綱の嫡子・宣綱の室は高吉女(マグダレナ)だし、宣綱の次子・高通が京極高知の
女婿になっているくらいで。
0236人間七七四年
2008/12/12(金) 01:33:58ID:NcntzUJN0237人間七七四年
2008/12/15(月) 00:28:39ID:NtUdrOEoこれを無事成功させている。
父子が家康、秀忠に近侍できたのはこの瀬田橋の修造が評価されたからとも
言われている。
0238人間七七四年
2008/12/17(水) 12:57:39ID:wP5h2QQW豊臣直轄領の代官してるから
民政に精通してたタイプだったんでしょう
0239人間七七四年
2008/12/18(木) 22:10:29ID:opQBxiETあれ?罷免されなかったっけ?
0240人間七七四年
2008/12/22(月) 03:28:30ID:mFls7xd8武功は聞かないなぁ。
0241人間七七四年
2008/12/22(月) 09:00:18ID:v0FMutYU0242人間七七四年
2008/12/22(月) 16:04:59ID:rrwcNB2jモデルは晴綱の弟の直綱や輝孝辺りかな。
0243人間七七四年
2008/12/23(火) 17:16:18ID:EBa1vkON少し前に出てました。
>>http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189149582/182-184
0244人間七七四年
2008/12/24(水) 01:54:19ID:SS6ed8tx三好勢が京の足利義昭を襲撃した際、防戦にあたったとされているが
それ以外はあまり聞かないね。
関が原後、忠節を示すために戦ったという記録はないのかな?
0246人間七七四年
2008/12/25(木) 20:04:58ID:PiCC4RgE兵力が兵力なので。。。
0247人間七七四年
2008/12/28(日) 17:17:37ID:jfRSnrf30248人間七七四年
2008/12/31(水) 06:02:06ID:n0N53Yjp伏見城攻撃に参加
↓
大谷吉継の軍勢に加わる
↓
京極高次を西軍に誘うも失敗
↓
関ヶ原本戦にて東軍に寝返り、大谷吉継を攻撃
↓
佐和山城攻撃に参加
何かフラフラしてますなぁ・・・
0249人間七七四年
2008/12/31(水) 07:00:47ID:4NSdVyMEだからそこ京極は家康に手厚く迎えられたわけだけど……
0250人間七七四年
2008/12/31(水) 07:29:14ID:PCq7/6RTしかも、あまり籠城戦に適さない大津城で集中攻撃に耐えなければならない。
朽木が同じことをしたらサッサと蹂躙されて終わり。
西軍に加わったのはある意味、妥当な判断ですよ。
脇坂のように裏工作をしていれば、本領の2万石をそのまま安堵されていたのでしょうけど。
0251人間七七四年
2008/12/31(水) 15:56:49ID:IBEKTPJH0252人間七七四年
2009/01/01(木) 01:19:56ID:wzvpWWWDまたマイナーな。。。
0253人間七七四年
2009/01/06(火) 02:26:16ID:DRDAzlZs磯野の配下だった時期もあるしね。
俺は朽木プレイの時は京極さんは拾ってやるぞ、同族だしな。
0255人間七七四年
2009/01/07(水) 01:16:29ID:k7CsItco明治の世まで残ったのは京極と朽木だけ。
0256人間七七四年
2009/01/10(土) 03:39:49ID:9YiZKpqH殿原衆って禅を信仰する在地郷士も
そう呼ばれてたから
関係性あるのかい?
0257人間七七四年
2009/01/27(火) 01:16:25ID:Erzl4ojq京極は改易された家もあるしねぇ。。。
0258人間七七四年
2009/01/29(木) 01:29:51ID:Sg6h2zQZ0259人間七七四年
2009/02/01(日) 01:50:05ID:FnUWgRJ6それが何か?
0260人間七七四年
2009/02/01(日) 17:23:20ID:fJ+ir1q+0261人間七七四年
2009/02/02(月) 12:38:03ID:+wS1/r6Q百姓でしょ、どうせ。
0262人間七七四年
2009/02/06(金) 04:25:04ID:HGdrTgMN江戸期に農民が基本的に自営農家になるまでは、百姓と言えば、下人を使って自分の農園を経営する
農村の上流階層。「百姓様」と呼ばれていた。
0263人間七七四年
2009/02/07(土) 21:55:42ID:NCN64zGa君の場合は小作人でしょ?
0264人間七七四年
2009/02/07(土) 23:34:22ID:VbB5QbqY0265人間七七四年
2009/02/09(月) 14:02:18ID:+nb8y9Ml今も小作人のようなものでしょw
0266人間七七四年
2009/02/10(火) 03:43:13ID:n3bkN3lB0267人間七七四年
2009/02/10(火) 04:06:14ID:5wOCLpOeやっぱり関係あるのかな?
0268人間七七四年
2009/02/11(水) 15:13:15ID:8EQgB9cz0269人間七七四年
2009/02/11(水) 23:52:44ID:N8riY1frttp://www.kisnet.ne.jp/~matikado/kutuki01.html
>朽木家研究のためにこのほど福知山市へ転居してきた朽木家直系子孫の
>朽木 彰さんから寄託を受けた新資料も一部展示した。
0270人間七七四年
2009/02/14(土) 16:15:51ID:zr+OyLO8もう「○綱」ではなくなっているんだね。
0271人間七七四年
2009/02/14(土) 17:47:16ID:GZgReSWoひこにゃんの実家筋の分家さんも
困ってたなぁ
0272人間七七四年
2009/02/16(月) 14:06:14ID:840lsEAP0273人間七七四年
2009/02/17(火) 18:42:23ID:luPZKN1G0274人間七七四年
2009/02/18(水) 03:39:39ID:b00R3fvU名前もいい加減、ネタ切れするよね。
0276人間七七四年
2009/02/21(土) 08:53:14ID:0mcq+SyO0277人間七七四年
2009/02/25(水) 16:48:44ID:VeZTkEFI0278人間七七四年
2009/03/01(日) 17:37:39ID:R5kUEMUbhttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/kukki.htm
元綱━━━┳━━━宣綱━━━┳━━智綱
近江高島. ┃.. 6,470石.. ┃ 4,770石
9,950石.. ┣━━━友綱. ┣━━高通
. ┃.. 3,010石. ┃ (峰山藩)
. ┗━━━稙綱. ┣━━良綱
... (福知山藩).┃ 1,000石
.. ┗━━元綱
700石
0279人間七七四年
2009/03/02(月) 01:35:09ID:YPaXxp1L曾祖父、祖父と同じ名前を名乗ってるし・・・稙綱、元綱
0281人間七七四年
2009/03/02(月) 17:37:04ID:Vzl8+eZ80282人間七七四年
2009/03/03(火) 21:20:40ID:Z0zyuwAX0284人間七七四年
2009/03/04(水) 04:24:10ID:A3Thhkje不明。
幼少の頃に京極家に入ったのかな?
秀忠の小姓になっているけど、当時であれば朽木家の庶子でも秀忠に
近侍できただろうし。
0285人間七七四年
2009/03/04(水) 10:38:52ID:LPpgP+iw宣綱弟の稙綱、宣綱次男の高通と明治維新まで続く大名家を
派生させただけでも、並の交代寄合とは一味違うな。
0286人間七七四年
2009/03/05(木) 19:09:31ID:AHaYIq5N朽木元綱 1549〜1632年
┃
┣━━ 宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去
┃ ┃
┃ ┣━━智綱
┃ ┣━━高通 1603〜1666年
┃ ┣━━良綱
┃ ┗━━元綱
┃
┣━━ 友綱 1599〜1662年
┃
┗━━ 稙綱 1605〜1661年
0287人間七七四年
2009/03/05(木) 22:03:05ID:Plhrnb4y随分とお盛んなこった。
0289人間七七四年
2009/03/06(金) 03:25:14ID:Q6F5VMCJ「高」は京極家の通字なんだが、最初から養子入りすることでも決まってた?
0290人間七七四年
2009/03/06(金) 04:55:24ID:moCLrG8X朽木家の嫡流は長子・智綱がいるし、それ以外の男子もいる。
分知するにしても宣綱自身、知行は6,470石しかない。
とすると、宣綱が妻の実家である京極家に働きかけ、京極一族として秀忠の小姓に
送り込んだのかも知れないね。
京極高知としても、秀忠治世下での厳しい大名統制を見るに、丹後一国の国持大名
の地位を保てるとは考えていなかったのでは?
高広、高三に秀忠の小姓であった甥の高通を加えることで、丹後を三分割し、リスク
の回避に努めたのかも知れない。
0291人間七七四年
2009/03/07(土) 23:31:09ID:3USZoqf9他大名がドシドシ改易されていたしね。
0292人間七七四年
2009/03/08(日) 01:48:55ID:QI2KQEQw後年、2,000石の旗本(高家)として再興してはいるが。
0293人間七七四年
2009/03/08(日) 13:13:06ID:3uEBNyzQ義父・毛利秀頼の遺領(南信・飯田)の大半を相続しているし。
秀頼の嫡子・秀秋は1万石を相続したのみ。
おそらく姉・松の丸殿と義姉・常高院の働きかけがあったんだろうけど。
0294人間七七四年
2009/03/08(日) 23:10:38ID:8xfhALQn0295人間七七四年
2009/03/09(月) 16:40:41ID:vBbQwBq10296人間七七四年
2009/03/10(火) 14:27:52ID:IPwy1u/80297人間七七四年
2009/03/11(水) 12:21:18ID:FZ6AQWu2ttp://s3.amazonaws.com/cogolo_faces/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E5%85%83%E7%B6%B1/imgs/www.ikedaya.com/images2/nobukatsus/bakufu/kutsuki-mototuna.jpg
0298人間七七四年
2009/03/11(水) 20:48:42ID:g3Hmcfc9顔グラやんけ。。。
0299人間七七四年
2009/03/14(土) 12:54:43ID:qG1hgtBS>宣綱 1582〜1662年 ※寛文地震により近江国朽木にて死去
当時で81歳ってのもエラいご長寿だなぁ。
地震で死ななければどんだけ長生きしていたんだよ。
0300人間七七四年
2009/03/14(土) 13:05:01ID:9+glQ5G+長寿に恵まれた人物を輩出できたとこが
多いのよねん
0301人間七七四年
2009/03/14(土) 13:22:23ID:dcUZiu9M上の代から認められた知行は貰った本人が生きてる間は取り上げにくいし
死んだら手をつけるかと思ってる方が先に死んじゃうからな
0302人間七七四年
2009/03/16(月) 01:18:16ID:EkZICQwf逆に平和な世になると軟弱になっていく。
0303人間七七四年
2009/03/18(水) 17:20:43ID:We9P4seV0304人間七七四年
2009/03/24(火) 17:04:17ID:5xh04OHV高島の男性、全国から100枚収集
ttp://www.kyoto-np.co.jp/static/2009/03/17/P2009031700054.jpg
各地を回り10年がかりで集めた朽木盆と石田さん(高島市朽木市場)
江戸時代全国に名を知らしめた高島市朽木の特産品で漆絵盆の「朽木盆」を収集している男性が同市にいる。
県外の骨董(こっとう)業者が買い集め地元にはほとんど残っていなかったが、「里帰りさせたい」と10年ほど
前から金沢や岡山、京都などの骨董店からこつこつと買い求め約100枚になった。
「朽木でも朽木盆は知られていない。できるだけ公開していきたい」と話す。
高島市教委朽木村史編さん室編纂監の石田敏さん(62)=同市朽木市場。朽木盆は、江戸時代、大名から庶
民までが愛用し非常に人気があった。
黒漆地の丸盆に朱漆で十六弁菊や草花模様を描いた盆が代表的で、1675(延宝3)年には松尾芭蕉が「盃の
下ゆく菊や朽木盆」と詠んだほか、名物茶器収集家として知られた松江藩主・松平治郷が1枚1650両で購入し
たとの記録もあるなど、江戸時代前期には全国ブランドになっていたという。朽木の木地師は明治中期に廃業し
たといわれる。
石田さんが初めて朽木盆に出会ったのは1978年。朽木中の担任として家庭訪問したとき、使われていた。
「これが朽木盆か。地域で観賞できるように戻したいと思った」。
朽木にはすでになく、岐阜、神戸、大阪、県内などの骨董店で買い求めた。
集めたものは直径が9−36センチ。菊文菓子皿も多い。石田さんは「江戸時代、卓越した技と斬新な絵で垂ぜ
んの的だった。今は、骨董ブームで何でも朽木盆の名で売られている」と危惧しながら、地元の歴史遺産の保
存活動を続けている。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009031700054&genre=K1&area=S10
0305人間七七四年
2009/03/29(日) 19:42:11ID:JwoSZDmg0307人間七七四年
2009/04/02(木) 17:17:52ID:ONrF6Vs20308人間七七四年
2009/04/09(木) 04:05:28ID:t/o8e9Ce0309人間七七四年
2009/04/10(金) 18:51:47ID:spSR4VF60310人間七七四年
2009/04/11(土) 20:36:32ID:d4PZiR/g―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
興聖寺(高島市朽木岩瀬)
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/img247/247_1.jpg
曹洞宗高巌山興聖寺の旧秀隣寺庭園を訪れた。
国の名勝指定の池泉回遊式庭園で、1530年、朽木稙綱(たねつな)を頼って室町幕府12代将軍
の足利義晴が滞在した際、作庭したとされる。
「本当ならば、足利庭園というほうがぴったりくるのですが」と副住職の森泰孝さん(56)。
国道沿いの看板にも、足利庭園と表示されている。
作庭当時は付近に秀隣寺があったため、先々代が旧秀隣寺庭園と名付けたそうだ。
秀隣寺がやや北側の朽木野尻に移転した後、江戸時代に興聖寺がここに移転してきた。
同寺の開基は朽木家の祖である佐々木信綱で、代々朽木家の菩提寺となっている。
ttp://www.aiai-work.com/hitoaruki/shiga247/shiga247.html
0311人間七七四年
2009/04/15(水) 21:28:10ID:1ZUJeFJi0312人間七七四年
2009/04/29(水) 14:40:02ID:ICDS0Jzcそうかな
0313人間七七四年
2009/05/05(火) 01:32:19ID:74kdJZ6M0315人間七七四年
2009/05/19(火) 12:15:14ID:Zpr6Ixzy0316人間七七四年
2009/05/28(木) 01:02:01ID:5R4kqFwV0317人間七七四年
2009/06/11(木) 18:27:33ID:HbE1upSO0318人間七七四年
2009/06/12(金) 19:21:47ID:o1os9BSb生き延びた側が正義になる。
0319人間七七四年
2009/06/13(土) 15:48:04ID:DvSpjJiN湖北ゆかりの新収蔵品公開
あすから長浜城歴博
ttp://www.kyoto-np.co.jp/static/2009/05/29/P2009052900081.jpg
下間家伝来の火縄銃(上)と大身槍(中)と朽木元綱にあてた片桐且元の書状(下)
滋賀県長浜市公園町の長浜城歴史博物館の「新収館蔵品展」が30日に始まる。
東本願寺の坊官を務めた「下間家」伝来の大身槍(おおみやり)や火縄銃、湖北出身の戦国武将・
片桐且元の書状など、昨年度に購入、寄贈を受けた17件、21点を紹介する。
「大身槍」(室町時代後期)は刃長が約50センチあり、鞘(さや)に漆塗り、柄に螺鈿(らでん)を施し
た豪華な造り。稲富流の火縄銃とともに下間家から寄贈された。いずれも石山本願寺と織田信長と
の合戦で使われた可能性があるという。
片桐且元書状は、豊臣秀頼の家老だった且元が1610年5月、近江出身の大名朽木元綱にあてた。
駿府(静岡市)で徳川家康や秀忠と面会した様子などが記されており、且元が徳川方との協議の折
衝役を担っていたことを示す史料として興味深い。
大通寺の第9代住職能満院達位が描いた「牡丹(ぼたん)図」(江戸後期)や、国友鉄砲鍛冶の国友
戸十郎が鉄砲伝来の経緯を考察した書物など、長浜ゆかりの資料がある。6月22日まで。
入館料は高校生以上400円、小中学生200円。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009052900081&genre=I1&area=S20
0320人間七七四年
2009/06/13(土) 18:33:55ID:fismJE190321人間七七四年
2009/06/17(水) 14:46:03ID:3bts4XeB0322人間七七四年
2009/07/01(水) 07:11:35ID:xTakTh1C0323人間七七四年
2009/07/05(日) 01:13:35ID:gxMhLUXl0324人間七七四年
2009/08/08(土) 12:58:06ID:346UPapB0325人間七七四年
2009/08/13(木) 02:12:17ID:lgeyFYHb福知山朽木家直系の人だね
血統的には慶喜の曾孫
しかも慶喜のクロスもある
本家子孫のことはなんかの本で読んだけど
題名とかわからない
朽木村近辺のゴルフ場勤めだとか
0327人間七七四年
2009/09/12(土) 07:52:57ID:3FSEZ9Ku0328人間七七四年
2009/10/18(日) 00:08:30ID:68xnLxy40329人間七七四年
2009/10/18(日) 07:34:08ID:iTVzJ3GT0330人間七七四年
2009/12/07(月) 18:30:04ID:06GQaX7a0331人間七七四年
2009/12/07(月) 21:10:22ID:gSRA+HIS解る方いますか?
0332人間七七四年
2009/12/07(月) 23:57:42ID:wm3wuHqr元綱も信澄の寄力になってたはず
近所に光秀の本拠地があるから本能寺の時は厳しそうですよね
よく知らんけど
その後潰されなかったのは信澄の仇討ちで信孝相手に張り切ったのかもしれんね
0333人間七七四年
2009/12/08(火) 03:49:54ID:UXGzfjnC四国攻めに参加予定で、信澄や信孝・丹羽と一緒にいたって事かな?
0334人間七七四年
2009/12/08(火) 09:10:19ID:ojunoXM10335人間七七四年
2009/12/29(火) 16:07:33ID:LV9Ann1Q助けたというより抵抗しなかっただけじゃないの?
0336人間七七四年
2010/02/07(日) 01:05:10ID:E/UIweaX朽木元綱なんて知らんな。
0337人間七七四年
2010/02/07(日) 01:58:51ID:jjPY6Mif0338人生七七四年
2010/02/07(日) 12:49:54ID:8ScFxoKC0339人間七七四年
2010/02/12(金) 17:18:45ID:HwPinfNyあの時代に生き残れただけでも並ではないと思うのだが。
0341人間七七四年
2010/02/14(日) 20:16:59ID:9ozejsnrそれを雑魚とか言うのはそれをゲームのキャラみたいにしか見れてない証
0342人間七七四年
2010/02/21(日) 01:54:36ID:8sJuDnc/にされているのを忘れてはならない。
尋常な殺し方ではないぞー
長い時間をかけ恥辱に塗れた嬲り殺しじゃー
0343人間七七四年
2010/02/21(日) 06:56:32ID:hK0LlGq41万石で3億円くらい4:6としても1.2億円
当時の米の取れ高が2000万石これにいろいろ加味して
だいたい10倍をGDPとすると2億石に現在のGDP500兆円当てはめると
1石あたり 25万 1万石で 25億 4:6で 10億円
1万石で200人くらいの動員数と考えて、
0344人間七七四年
2010/03/06(土) 19:51:56ID:Ht3AjzLjじゃ、佐々木氏の流れを汲む連中がどうなったかと言えば・・・
0345人間七七四年
2010/03/07(日) 09:52:28ID:aJNaADJW但し、佐々木に復姓してはいるが。
0346人間七七四年
2010/03/13(土) 01:58:14ID:vqjUV4Lw高家の六角氏は別物だったしね。
0347人間七七四年
2010/03/18(木) 14:52:24ID:DhGrwFnl0348人間七七四年
2010/03/20(土) 19:15:59ID:bcCu8EJ7――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
生年:天文18(1549)
没年:寛永9.8.29(1632.10.12)
戦国時代の武将。父は晴綱。母は飛鳥井雅綱の娘。
三好長慶と対立した将軍足利義輝が天文20(1551)年より1年足らず,さらに同22年より4年余りを
朽木氏の本領朽木谷(滋賀県朽木村)で過ごした際,叔父たちがこれに近侍。元綱は義輝暗殺後
の永禄11(1568)年,足利義昭から所領を安堵された。元亀1(1570)年,越前朝倉義景を攻めた織
田信長が浅井長政の寝返りにあって退路を阻まれた際,朽木越えで京都に導くなどの功績をあげ,
信長,次いで豊臣秀吉に仕えた。文禄4(1595)年,高島郡蔵入地の代官を務める。慶長5(1600)年
の関ケ原の戦では最初石田三成方に属したため,朽木荘など9595石の安堵にとどまったが,その
後徳川方として大坂の陣に参加。中世以来の所領を維持し,近世大名への道を開いた。
(石田晴男)
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E5%85%83%E7%B6%B1
(石田晴男)
0350人間七七四年
2010/03/27(土) 20:39:38ID:pvhoCW4n幕府への貢献度は高いのに。
0351人間七七四年
2010/03/28(日) 18:50:19ID:Vfkr3Qv5維新まで父祖伝来の朽木谷を支配したのだから稀有な存在だよね。
0352人間七七四年
2010/03/31(水) 13:16:52ID:gH1u1IQ0他は相馬や島津ぐらいか。
0353人間七七四年
2010/03/31(水) 13:41:47ID:g/wGZDkA0354人間七七四年
2010/04/01(木) 18:18:49ID:4UHqMfzi0355人間七七四年
2010/04/04(日) 19:43:58ID:Sa3KmiUT幕府は領主と領民の結びつきを嫌い、大身の旗本ですら生涯数回程度しか
領土に端を踏み入れられなかった。
交替寄合は参勤交代のある家柄。
といって大名ではないので転封の対象に挙がることもなく、島津家のように
軍事的脅威でもない。
微妙なところに根を下ろしたという印象。
0356人間七七四年
2010/04/14(水) 16:47:53ID:yWI+aBBg0357人間七七四年
2010/04/20(火) 23:54:31ID:UNRnM/Jj0358人間七七四年
2010/05/01(土) 17:40:31ID:JiZ0Qiac0359人間七七四年
2010/08/15(日) 07:23:12ID:3pgvVkkS0360人間七七四年
2010/10/23(土) 01:08:17ID:KtXBL61P0361人間七七四年
2010/12/09(木) 13:51:34ID:zCgrehtg0362人間七七四年
2010/12/09(木) 18:58:15ID:UYq10lam0364人間七七四年
2010/12/13(月) 20:42:53ID:ShF/h2/j>>363
脇坂と朽木は事前に書状出してたようだ
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50606786.html
0365人間七七四年
2010/12/13(月) 21:10:20ID:QjzWCrDE0366人間七七四年
2010/12/14(火) 01:16:18ID:luKfjtOE0367人間七七四年
2011/07/10(日) 01:21:58.84ID:VGvQGR8/0368人間七七四年
2011/09/15(木) 00:23:03.76ID:Y4wp/Bh5じーちゃんは「うちは宇多源氏佐々木氏の末裔」ってよく言ってた。
熊本だけどね。www
0369人間七七四年
2011/11/03(木) 02:42:02.55ID:PnucCXXN0370人間七七四年
2011/11/03(木) 07:04:41.78ID:g66xTW2q■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています