>>6
良かった。ただし、黒幕論者は前久が信長の武田攻めについて行こうとした時に、
「お前なんか木曾から行け」と言われた話を出して、不仲だったとしているが、この話は甲陽軍鑑のもので傍証はない。
実際には、馬揃えには馬選びの段階から非常に張り切って参加しているし、石山本願寺攻めでは自ら軍を率いて織田の陣城を警備している。
さらに本願寺に出向いて和平交渉を行った。顕如が開城を決意した後も子の教如は徹底抗戦を主張していたが、
前久の説得によって和平に同意した。教如はそれ以前に前久の養子になっており、
その後も真宗大谷派(東本願寺)門首の家と近衛家はずっと仲が良い。
信長はこのことを非常に高く評価して、天下統一の後には一国を献上するとまで言ったという。

>>10
元々島津は藤原摂関家の家来の惟宗氏で、近衛家の薩摩・大隈・日向にまたがる
日本最大の荘園・島津荘に下司職として下向して武士となった。
近衛前久は島津の所へ下向したこともあったし、息子の近衛信尹が薩摩に流されたときには島津義久がちゃんと面倒を見ていた。
関が原の戦いでは逃げてきた島津の家臣を匿って家康に島津の本領を安堵するよう交渉している。
このため、近衛と島津の仲は20世紀まで(笑)非常に良かったようだ。
来年の大河の篤姫も、島津の生まれで近衛の養女になった。