加藤清正の影響力
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七五年
2007/07/05(木) 17:00:38ID:eHocIWoc情勢は変わったのか?
子飼い大名や外様大名、豊臣家自体の帰趨に
どのような影響を与えたであろうか?
0043人間七七四年
2007/07/19(木) 20:22:00ID:ZPoLCyGN>二人の器量不足?って何を基準にして言ってんの?
国の政権を担う為政者としての資質ですな。直接の政策立案や軍事指揮では
なく、一つの政権方針に基づいて行政、軍事、司法、外交を統合的に指導
する能力と言い換えてもいい。これを満たすのは、同時代ではやはり家康
のみということにはなってしまうが・・・。
>三成なんかたかが19万余石程度の小身で天下を割って戦したこと自体
>すごい器量だと思うけど。
そのとおり。当時の彼は豊臣政権においてすら失脚している近江佐和山19万
4000石の一大名にすぎないのだから、そこからあの短期間で関ヶ原の鶴翼の
陣まで持っていけたということは彼の能力の高さの証左だろう。しかし、
ここであわよくば家康を排斥できたとしても、その後の政権維持はどうする
のか。毛利も上杉も宇喜多も豊臣譜代ではない上に、三成よりも大身だ。
幼い秀頼の下で、秀吉存命時ほどの発言権を持てること自体怪しいではないか。
まして、一度の会戦での決着を選択した(前夜の夜襲案を拒否している)以上、
負ければ滅亡しかなく、事実そうなってしまったのだから、ここらあたり、
三成の為政者としての資質なきを嘆かざるを得ない。そしてそれは、三成
襲撃という感情的行動で政権分断をほぼ回復不能にしてしまった清正らにも
いえることだ。
>>38
そう。小早川秀秋には関白と百万石だね。
多くが廃棄されてしまったと思われるが、三成側も家康並みとはいかないまでも
相当数の勧誘は行なっていたと判断するのが自然。ただし、大手メガバンクの
投資話と一信用金庫の投資話どちらを採るかとなれば、答えは自ずと決まるの
が人情だろう。
>>42
そのころの史料はなかったかと。ただ、佐吉は市松、虎之助より新参なので
なんらかの内訌はあったかも。とにかく証拠がない。行長vs清正は明確には
肥後赴任から。ただし熱心な日蓮門徒とキリシタンでは、はなから上手く
いくわけがいないともいえる。ここらへんは秀吉の判断ミス。
0044人間七七四年
2007/07/20(金) 10:21:58ID:SyM+/lPc正則「いけすかん」
清正「そうかも知れんが秀吉様が重く用いているんだから優秀なのだろ、そう毛嫌いするものではない」
別に朝鮮出兵前までは別に石田と加藤はそんな険悪な仲じゃないかと
0045人間七七四年
2007/07/20(金) 10:54:16ID:eFyDKdlS漏れもそう思う。
逆に三成より正則へのライバル心の方が清正の立場からすれば
旺盛であっても不思議ではないと思う。
どうみても清正>正則なのに血縁の濃さで常に正則の後塵を拝してきた事の方が
不満があったのではないだろうか。
0046人間七七四年
2007/07/20(金) 23:27:25ID:e9+47MeB0047人間七七四年
2007/07/21(土) 11:52:34ID:Me2eEzHR妄想ではないよ。実際正則が清正に先んじて大名になったとき、清正は同じ
血縁者の自分が旗本のままだったことに愚痴を漏らして秀吉から「お虎め、
いま少しはものの役に立つものと思うていたものを・・」とたしなめられて
いる。これは正則が清正より年長でかつ血縁の親疎からいっても妥当である
ことによる。ただ、ふたりの競争関係はあくまで家族的かつ健全なもので、
憎悪を含むようなものではないことは、後の三成襲撃や伏見城会見の際に
清正が事実上の武断派頭目として主導したことに正則も文句を言ったり、
余計な自己主張をしていない点からも明らか。
おそらくは正則自身、一派の頭目としての清正を認めていたものと思われる。
正則「なんで我らが大御所の倅の城まで普請せねばならん!輝政よ、貴公
大御所の婿ゆえなんとかいうてくれんか?」
清正「市松よ、文句があるなら領国に戻って戦支度でもするがよかろうよ。」
正則「ぅぬ・・・」
0048人間七七四年
2007/07/21(土) 14:55:09ID:nHtMPqsxなんだかんだいって、みんないい汗かいたじゃん
0049人間七七四年
2007/07/23(月) 15:02:29ID:QeqY1skm清正&島津を主人公としたゲームを作って
朝鮮先行発売だ!
0050人間七七四年
2007/07/30(月) 13:52:59ID:4+gSI1d/■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています