>>24-25
直接には豊臣系大名をアンチ家康の大義のもとに糾合しない(できない)
まま関ヶ原に突っ走った三成ら豊臣政権主流派の器量不足(長期的戦略の
欠如)かと。秀吉の負の遺産もあるが、彼の耄碌と失策振りは晩年の
少なくとも2、3年には明らかだったわけで、これに手を打てずに家康による
勢力分断を許した責任は大きい。秀吉遺臣の旗頭となりうる人物(血縁ある
正則、清正)を政権主流から追い落とした文治派の自業自得といった面も
見逃せないと思う。
関ヶ原直後一時的に黒田如水が清正を押し立てて秀頼補佐の名目の下、豊臣
恩顧の外様を結集して反家康の大勢力を構築できそうな状況が出現したが、
三成らにせめてこれくらいの戦略眼があればという気がしてならない。

というわけで、結局はそれを封じ込めた家康の辣腕に納得することになる。


>>26
おそらくは北政所絡みと思われるが、今後の研究待ちでござろう。