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文治派(石田三成、大谷吉継、小西行長、増田長盛etc)=淀派
武断派(清正、福島正則、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政etc)=北政所派

という図式なので当然仲は良くない。実のところ武断派vs文治派というより、
淀派vs北政所派というのが派閥対立の本質。清正&行長の肥後赴任の際も
行長をわざわざ呼び寄せて引き出物を渡した上、
「加藤主計守に遅れはとられまじ」
と煽っている。ただ、朝鮮役以前の清正は増田長盛など文治派にも親しい
者はいたようだし、頭目の三成ともそれほどの逸話はない。考えるに、
清正と文治派の仲違いは行長との肥後領地をめぐる訴訟紛争に端を発し、
朝鮮役での讒訴(これも行長が大きく絡んでいる)が決定打になっている。
つきつめると、清正は三成以上に行長を憎んでいたのかもしれない。

だが、伏見城の件など、関ヶ原以後の淀殿は清正の言うことは聞いたようだ。
ま、関ヶ原で文治派が全滅した以上、もはや秀頼大事の清正、正則ぐらいしか
頼みに出来なかったのだろうが。