加藤清正の影響力
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0001人間七七五年
2007/07/05(木) 17:00:38ID:eHocIWoc情勢は変わったのか?
子飼い大名や外様大名、豊臣家自体の帰趨に
どのような影響を与えたであろうか?
0002人間七七四年
2007/07/05(木) 17:05:53ID:Y7YNH7ID加藤清正は日本最強の武神として名を残す。
0003人間七七四年
2007/07/05(木) 17:43:57ID:+aZ33trPだからと言って豊臣恩顧の大名が豊臣方につくとは思えないが
躊躇して二の足は踏むだろうな
徳川方は疑心暗鬼になって、城攻めは大幅に遅れそう
0004長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/06(金) 02:50:32ID:bs54+l23そんな行為しといておとがめなしだしね
いやあるにはあったが「はは、清正殿らしい」ですむところが。
0005人間七七四年
2007/07/06(金) 09:51:32ID:yVske4Y7子飼いのリーダーは間違いなく清正だったのだろう。
常識的には大坂に籠城は無いと思われるが、戦闘が始まれば、どう転ぶか
わからない。秀頼上洛の折り、警護に就いた者等もわからないが、正則は
間違いなく清正と行動を共にするだろう。
そもそも大坂の陣になる前に調停役として奔走しただろし、家康も且元を
扱うようには当然できないわけで、ケンカも売れにくくなる。
豊臣家も案外説き伏せられ、移封に応じて、徳川幕府の一大名として残った
可能性もある。まあどうせ次代には取り潰されるんだろうけど。
0006人間七七四年
2007/07/10(火) 21:19:15ID:vq+gxEaf0007人間七七四年
2007/07/11(水) 23:11:02ID:5LNNE30A0008人間七七四年
2007/07/12(木) 09:46:35ID:vDm8JjwF福島や細川らと国元や江戸に留め置かれてしまい。
何もできない。
0009人間七七四年
2007/07/12(木) 19:10:44ID:GxHjFWNa清正が発言力を持っていて絶対に堀を埋めさせていなかったら家康は撤退するしかなかっただろう。
0010人間七七四年
2007/07/13(金) 09:29:22ID:ORr/lOFQ0011人間七七四年
2007/07/13(金) 10:09:07ID:nwAExNjf文治派(石田三成、大谷吉継、小西行長、増田長盛etc)=淀派
武断派(清正、福島正則、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政etc)=北政所派
という図式なので当然仲は良くない。実のところ武断派vs文治派というより、
淀派vs北政所派というのが派閥対立の本質。清正&行長の肥後赴任の際も
行長をわざわざ呼び寄せて引き出物を渡した上、
「加藤主計守に遅れはとられまじ」
と煽っている。ただ、朝鮮役以前の清正は増田長盛など文治派にも親しい
者はいたようだし、頭目の三成ともそれほどの逸話はない。考えるに、
清正と文治派の仲違いは行長との肥後領地をめぐる訴訟紛争に端を発し、
朝鮮役での讒訴(これも行長が大きく絡んでいる)が決定打になっている。
つきつめると、清正は三成以上に行長を憎んでいたのかもしれない。
だが、伏見城の件など、関ヶ原以後の淀殿は清正の言うことは聞いたようだ。
ま、関ヶ原で文治派が全滅した以上、もはや秀頼大事の清正、正則ぐらいしか
頼みに出来なかったのだろうが。
0012人間七七四年
2007/07/13(金) 10:37:36ID:ORr/lOFQそうすると清正が生きていれば清正次第では大坂の旗頭となる可能性もありそうですね。
それとも両家の調停にのりだすか、家康にすれば清正は相当邪魔な存在だったのでしょうね。
関ヶ原では国元に残っていますが、どういう経緯でそうなったのでしょうか?
家康の命でしたっけ。
0013長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/13(金) 11:57:15ID:3L0BF8ZD宇土城を一応攻めるけど城下で遭遇戦くらいしか行われてない。
加藤の小西に対する怨念は異常だよ。逆に小西も加藤を相当憎んでる。
小西は何度も清正暗殺を計り朝鮮・明軍に清正の渡航日や撤収日等の
重要な情報を漏らして加藤の暗殺を何度も謀っている。
しかし小西は嘘つきだと全く相手にされず失敗する。
加藤は朝鮮から帰国後朝鮮の戦功訴訟で五大老味方につけて小西に大恥じをかかせてる。
(訴訟の内容が小西は戦下手の屑といわんばかりの内容)
まじでこの二人はやばい
0014人間七七四年
2007/07/13(金) 13:16:31ID:ORr/lOFQ戦功訴訟の話は初めて知りました。
先鋒争いでは小西の京城一番乗り等の戦功に対し、
加藤は軍律違反で蟄居させられたりで
小西有利的に思ってました。
0015人間七七四年
2007/07/14(土) 01:09:35ID:mgQDnGt1まあ隣国なんてたいてい険悪か
南部と津軽も今でももめるし
0016人間七七四年
2007/07/14(土) 01:20:32ID:9h6V2uQBやっぱ朝鮮人に対する配慮かね
0017長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/14(土) 02:11:15ID:ePoMZvCp秀吉生存中は確かに小西有利だよ。
秀吉死後三成襲撃を経て出された結論は完全に加藤有利
・小西の軍功は大半が偽りで嘘である事。
・小西等は嘘つきで信用できない。
などといったような事を四大老が認めてしまった。
小西の権威は完全に失墜し面子は丸潰れである。
後に関ヶ原で真っ先に敗走し宇喜多隊に大迷惑掛けたのをみると
どうも小西の戦闘指揮能力には疑問を持ってしまう。
朝鮮での小西の事を鍋島は曰く「あんな大軍率いれば勝てるに決まってる」
>>15
その二人を唐入りの先鋒にするから。
肥後は裕福な土地で兵もそこそこ強いしから先鋒にはもってこいで二人を配置した。
競わせようと秀吉はしたんだろうけど完全にこれは裏目に出たね。
南部と津軽はまぁしょうがないかなぁ
>>16
それが一番かと。
どうしてもあれを語らないといけないからなぁ
ただ加藤が出れば立花にも可能性がでるし気にせずやってほしいわぁ
0018人間七七四年
2007/07/14(土) 11:35:05ID:Pf7lXlTm0019人間七七四年
2007/07/14(土) 15:54:22ID:aUm+2qgo清正公(俺達熊本県民はこう呼んでいる)は二条城での秀頼と家康の和議の席で毒饅頭を食べさせられてその後熊本城で落命したという話がある
0020長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/15(日) 09:23:31ID:nBKvKTRNよく言われてるね。清正もわかってて食べたとか。
この時期に一斉に死ぬってのも怪しいしね。
清正も速く死にたいとかいってたし、死ぬ前に豊臣家にそれなりの恩返しはできた
と満足してたみたいだし本人は幸せだった…かな?
0021人間七七四年
2007/07/15(日) 23:06:46ID:s+pjQiUD0022人間七七四年
2007/07/16(月) 03:06:50ID:flBA9+PX七本槍とか糞連中なんて存在意義がない、別にこいつらが居ようが居まいが秀吉にとっては
どうでもいい存在。
結局こいつ等の功績と言えば間接的に豊臣政権を崩壊させただけ。
0023人間七七四年
2007/07/16(月) 11:32:24ID:kAXFirCd0024人間七七四年
2007/07/16(月) 13:36:08ID:+ZXlw3bB0025人間七七四年
2007/07/16(月) 17:53:38ID:5XjpreNUフリーパス状態にさせてしまった正則よりはマシだろう。
まあ>>23の言うように秀吉の自爆が一番の原因だけどな。
0026長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/17(火) 14:19:22ID:S8ini7UF0027人間七七四年
2007/07/17(火) 14:49:30ID:bYdrr+lq直接には豊臣系大名をアンチ家康の大義のもとに糾合しない(できない)
まま関ヶ原に突っ走った三成ら豊臣政権主流派の器量不足(長期的戦略の
欠如)かと。秀吉の負の遺産もあるが、彼の耄碌と失策振りは晩年の
少なくとも2、3年には明らかだったわけで、これに手を打てずに家康による
勢力分断を許した責任は大きい。秀吉遺臣の旗頭となりうる人物(血縁ある
正則、清正)を政権主流から追い落とした文治派の自業自得といった面も
見逃せないと思う。
関ヶ原直後一時的に黒田如水が清正を押し立てて秀頼補佐の名目の下、豊臣
恩顧の外様を結集して反家康の大勢力を構築できそうな状況が出現したが、
三成らにせめてこれくらいの戦略眼があればという気がしてならない。
というわけで、結局はそれを封じ込めた家康の辣腕に納得することになる。
>>26
おそらくは北政所絡みと思われるが、今後の研究待ちでござろう。
0028人間七七四年
2007/07/17(火) 14:57:52ID:hbA3S0gH三成が器量不足?馬鹿いってんじゃねえよ。
加藤、福島、浅野みたいな裏切り者が三成の理想を理解できずに
裏切りかましたのが一番の責任だろうが
0029人間七七四年
2007/07/17(火) 15:16:07ID:8pql6VKK漏れも 々 と意味も無く賛同する。
特に子飼い筆頭格の正則や清正の影響力は絶大。
朝鮮の役の軍功を握りつぶされたと清正が言えば
三成嫌いの大合唱。
いじめの典型的なパターンだな。
0030長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/17(火) 15:16:45ID:S8ini7UFその三成の理想って奴を語ってくれないと説得力が全然ないぞ?
是非語ってくれ。
0032人間七七四年
2007/07/17(火) 17:06:24ID:8pql6VKK自民党も参院選惨敗。
0033人間七七四年
2007/07/17(火) 18:27:22ID:12oDWiMH加藤福島がそれに追随したことも大きいと思う。
子飼いの二人がそれやったら影響力強いわな。
ここから屋台骨がぐらついたわけだし。
まあそれだけ家康の力が強かったんだろうが。
0034人間七七四年
2007/07/18(水) 10:07:49ID:AJbGyY0Q三成の器量不足には同意だが、清正如きでもどうにもならんよ
0035人間七七四年
2007/07/18(水) 14:30:26ID:uHl0ghb3>>28
三成は吏僚としての才覚は抜群だが、政治指導者としての能力を欠いている。
どんなに布陣、段取りがよくても「太閤恩顧だから〜してくれる、〜だろう」
という根拠で戦ってしまっている。
対する家康は会戦直前まで、空手形だろうがなんだろうが恩賞を約束する書状
を乱発したり、古田織部などあらゆるつてを使用しての工作に余念がない。
空手形とはいっても彼の知行260万石を担保としたものでもあり、それなりの
信用はおけるわけだ。
「ご恩と奉公」という武士の基本的価値観があるが、ご恩=恩賞(領地、金銭
、官位)であることを見逃してはいけない。大義とは開戦のための便宜であって
戦争は何らかの見返りなしには継続できない。たとえ恩賞が期待できない防衛
戦でも本領安堵=生活保障という見返りはあるわけで、これが「忠義」の後ろ
盾になった。これは現代でも同じこと。
いくら武将といっても家臣、領民の圧力をうける領国経営者であり、結局、
誰もただ働きなどしないということだ。
>>34
まさに同感。
清正は肥後の築城、土木工事や領国経営など内政能力、朝鮮等での活躍など
軍事においても非凡な武将ではあるが、あくまで一方面の司令官、行政官
としてのもの。いくら遺恨ありとはいえ豊臣政権の心臓部である五奉行、
さらにはその頭目である三成襲撃(これによって分裂は回復不能となり、
三成蜂起の直接の原因となった)は、彼の「器量」の限界を示している。
清正自身それは感じていたフシがあり、関が原後に「豊臣家存続」に
は尽力しても、「豊臣政権」のための運動は行なっていない。徳川政権下
の一領国経営者として、せめて豊臣譜代の仁義を通すのに精一杯だった、
というのが実情だろう。
ただし、掌を返して徳川に媚びた他の豊臣恩顧の外様大名と比べるとき、
清正の態度はやはり見事といえるし、これこそ、多くの作家、史家達が
彼を賞賛する理由なのではないだろうか。
0036人間七七四年
2007/07/18(水) 16:57:41ID:RfUc9NL9すれば事実なんだが、二人の器量不足?って何を基準にして言ってんの?
家康と比べてってことなら、結果から言えばみんな器量不足でしょ。
三成なんかたかが19万余石程度の小身で天下を割って戦したこと自体
すごい器量だと思うけど。
0037人間七七四年
2007/07/18(水) 21:02:24ID:k+wipsV2加藤清正の影響力はまことに強かったのだな。
0038人間七七四年
2007/07/18(水) 23:49:36ID:APatkZ35まあ家康より劣ったってのは事実だけど
0039人間七七四年
2007/07/19(木) 02:19:09ID:6m/lQ/fY俺が絶対主人公にしてほしい人
・島津義弘
・立花宗茂
・鍋島直茂
・加藤清正
なんでこれだけのすごい人物をスルーするNHK
朝鮮征伐が絡むものを意図的にスルーしているとしか思えないぞ
【配役候補者】
立花宗茂: キムタク
島津義弘: 渡辺謙
李舜臣: 出川哲郎
0040人間七七四年
2007/07/19(木) 15:38:10ID:QIizdrJE0041人間七七四年
2007/07/19(木) 17:31:17ID:EzzZZR/E関が原で秀頼を担ぐことができず総大将は毛利とかいう小者だお( ^ω^)
三成のやったことは小者が野心を持つとこうなるという見本だお( ^ω^)
役人は役人らしく大人しくしてればよかったんだお( ^ω^)
大坂の陣で豊臣恩顧の大名をまとめられるのは清正公だけだお( ^ω^)
豊臣の旗頭になれるのは清正公をおいて他にないお( ^ω^)
後世の人気を見れば一目瞭然だお( ^ω^)
これだけ民衆に愛された武将はいないお( ^ω^)
( ^ω^)おっ( ^ω^)おっ( ^ω^)おっ
0042人間七七四年
2007/07/19(木) 19:44:07ID:+3blC2dm既に始ってたんじゃなかったかな。
まず正則の「佐吉はなんとなく好かん」からはじまって・・・。
清正vs行長は朝鮮役での騙し合いからかな?
0043人間七七四年
2007/07/19(木) 20:22:00ID:ZPoLCyGN>二人の器量不足?って何を基準にして言ってんの?
国の政権を担う為政者としての資質ですな。直接の政策立案や軍事指揮では
なく、一つの政権方針に基づいて行政、軍事、司法、外交を統合的に指導
する能力と言い換えてもいい。これを満たすのは、同時代ではやはり家康
のみということにはなってしまうが・・・。
>三成なんかたかが19万余石程度の小身で天下を割って戦したこと自体
>すごい器量だと思うけど。
そのとおり。当時の彼は豊臣政権においてすら失脚している近江佐和山19万
4000石の一大名にすぎないのだから、そこからあの短期間で関ヶ原の鶴翼の
陣まで持っていけたということは彼の能力の高さの証左だろう。しかし、
ここであわよくば家康を排斥できたとしても、その後の政権維持はどうする
のか。毛利も上杉も宇喜多も豊臣譜代ではない上に、三成よりも大身だ。
幼い秀頼の下で、秀吉存命時ほどの発言権を持てること自体怪しいではないか。
まして、一度の会戦での決着を選択した(前夜の夜襲案を拒否している)以上、
負ければ滅亡しかなく、事実そうなってしまったのだから、ここらあたり、
三成の為政者としての資質なきを嘆かざるを得ない。そしてそれは、三成
襲撃という感情的行動で政権分断をほぼ回復不能にしてしまった清正らにも
いえることだ。
>>38
そう。小早川秀秋には関白と百万石だね。
多くが廃棄されてしまったと思われるが、三成側も家康並みとはいかないまでも
相当数の勧誘は行なっていたと判断するのが自然。ただし、大手メガバンクの
投資話と一信用金庫の投資話どちらを採るかとなれば、答えは自ずと決まるの
が人情だろう。
>>42
そのころの史料はなかったかと。ただ、佐吉は市松、虎之助より新参なので
なんらかの内訌はあったかも。とにかく証拠がない。行長vs清正は明確には
肥後赴任から。ただし熱心な日蓮門徒とキリシタンでは、はなから上手く
いくわけがいないともいえる。ここらへんは秀吉の判断ミス。
0044人間七七四年
2007/07/20(金) 10:21:58ID:SyM+/lPc正則「いけすかん」
清正「そうかも知れんが秀吉様が重く用いているんだから優秀なのだろ、そう毛嫌いするものではない」
別に朝鮮出兵前までは別に石田と加藤はそんな険悪な仲じゃないかと
0045人間七七四年
2007/07/20(金) 10:54:16ID:eFyDKdlS漏れもそう思う。
逆に三成より正則へのライバル心の方が清正の立場からすれば
旺盛であっても不思議ではないと思う。
どうみても清正>正則なのに血縁の濃さで常に正則の後塵を拝してきた事の方が
不満があったのではないだろうか。
0046人間七七四年
2007/07/20(金) 23:27:25ID:e9+47MeB0047人間七七四年
2007/07/21(土) 11:52:34ID:Me2eEzHR妄想ではないよ。実際正則が清正に先んじて大名になったとき、清正は同じ
血縁者の自分が旗本のままだったことに愚痴を漏らして秀吉から「お虎め、
いま少しはものの役に立つものと思うていたものを・・」とたしなめられて
いる。これは正則が清正より年長でかつ血縁の親疎からいっても妥当である
ことによる。ただ、ふたりの競争関係はあくまで家族的かつ健全なもので、
憎悪を含むようなものではないことは、後の三成襲撃や伏見城会見の際に
清正が事実上の武断派頭目として主導したことに正則も文句を言ったり、
余計な自己主張をしていない点からも明らか。
おそらくは正則自身、一派の頭目としての清正を認めていたものと思われる。
正則「なんで我らが大御所の倅の城まで普請せねばならん!輝政よ、貴公
大御所の婿ゆえなんとかいうてくれんか?」
清正「市松よ、文句があるなら領国に戻って戦支度でもするがよかろうよ。」
正則「ぅぬ・・・」
0048人間七七四年
2007/07/21(土) 14:55:09ID:nHtMPqsxなんだかんだいって、みんないい汗かいたじゃん
0049人間七七四年
2007/07/23(月) 15:02:29ID:QeqY1skm清正&島津を主人公としたゲームを作って
朝鮮先行発売だ!
0050人間七七四年
2007/07/30(月) 13:52:59ID:4+gSI1d/■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています