当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧
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0001人間七七四年
2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0864862
2011/11/01(火) 00:24:14.78ID:ZkK8kOvj室町末〜桃山初あたりの戦場では、適当に入手したり配布されたりした頬当や喉輪を着けて、
頭や首を防護していた下級兵士はそれなりにいただろう。
宣教師の記録によれば、日本人は喉輪やシコロ程度を付けていても武装したとみなされていたようだし。
また、遺品はほとんどないが、鉢巻に横長の鉄板を縫い付けた額鉄(ひたいがね、後世の鉢鉄の前身か)
という簡易防具も使われていた。
ただ、頬当や額鉄は、兜を持てない足軽にとっては顔面よりもあくまで頭部を守るためのものであったと思われる。
江戸期に入って軍規の整備が進み、武士の階層が固定化して以降、平の足軽が面頬を装備することはなくなった。
0865人間七七四年
2011/11/01(火) 05:12:17.84ID:PlXHPQeO最後の場面で兜を用いなかったのは、天辺の穴から髷を出せないためしっかり固定できず、撮影の激しい動きに対応できなかったからだろう。
ところで、この時小道具として用いた兜の鉢は、某有名画家が所有していた平安期の本物で、文化財指定された物、と読んだだ記憶があるのだが、現在調べても該当するものがない。映像を見る限りそれらしい物で、平安期のものと言うのは真実らしく思える。
0866人間七七四年
2011/11/01(火) 15:35:59.23ID:JnbdnHSC↑現在ロンドン塔に所蔵されている
徳川秀忠がジェームズ1世に送った胴丸が好きだな。色合いが綺麗
これって実際に秀忠が着用したことはあるんだろうか
それとも贈答用に新しく作られたもの?
0867人間七七四年
2011/11/01(火) 16:36:35.11ID:KGcMnF1n家康の鎧は奈良の岩井が作っていたから、この秀忠のものも岩井の作だろう。日の丸縅と同時期に一連の作として作られたのではないか。
家康のものは大坂夏の陣に用いたとの説があり、これが正しいとすれば秀忠の方も夏の陣に用いた可能性がある。
しかし、実戦に使用すれば汚れるはずで、そのようなものを贈答品に用いたかは疑問もある。
0868人間七七四年
2011/11/01(火) 16:41:20.60ID:R8ebT6iE0870人間七七四年
2011/11/01(火) 18:17:30.81ID:zYJjO1p10871人間七七四年
2011/11/01(火) 20:36:05.54ID:JnbdnHSC言われてみれば確かに似てるな、
と思って調べてみたら海外サイトで詳しい情報を見つけた↓
http://www.heritage-images.com/Preview/PreviewPage.aspx?id=1197058&pricing=true&licenseType=RM
秀忠が贈った胴丸は1610年、Iwai Yozaemonの作だそうだ
0872人間七七四年
2011/11/02(水) 06:00:39.76ID:5IMCi9fo家康は壮年期には南蛮甲冑など、新しいもの用いたが、晩年は伝統的な毛引縅、大袖付きの胴丸具足に回帰したことがわかる。
0873人間七七四年
2011/11/02(水) 17:26:01.45ID:iqOMclv60874人間七七四年
2011/11/04(金) 11:29:34.53ID:BD+2F0HJ「はつぶり」の漢字表記は「半首」もしくは「半頭」。
「七人の侍」で菊千代が被っていた鎖シコロ付きの星兜は、
平安期の本歌を基にして甲冑師の明珍宗恭(今年の1月に死去)が製作したもの。
江戸期のものならまだしも、動きの激しい映画の撮影に本物の中世甲冑を使えるわけがない。
ただし、そのモデルについては特定しがたい。がんばって調べてくれ。
>>866-868
>>870-873
岩井与左衛門が製作を監修し(兜のシコロの裏に朱書き銘が入っている)、
徳川将軍から海外君主に贈呈されたとされる具足は、
現在イギリスに2領、フランスに4領、オーストリアに1領が伝わっているが、
いずれも日本国内にある日の丸紋柄威胴具足(徳川美術館)、紅糸威胴具足(水戸東照宮)と
ほぼ同様の作りこみである。共通点としては、
・鍬形台を打った阿古陀形筋兜に目の下頬
・大袖付きの毛引威本小札丸胴
・筒籠手に筒臑当、佩楯はばらつきがあるが板佩楯が多い
・金銀蒔絵を金具廻や小具足に施す
といったようなことが挙げられる。
興味深いのは、徳川家一門の所用するものには葵紋を入れた金物が打たれているのに対し、
贈呈された具足については葵紋が使われていないどころか別の紋が入っているのである。
これは既製品を再生して一領に仕立てていたと考えられるが、
いかなる意図があってこのような方針をとったのかは不詳である。
宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』にもっと詳しい調査報告が載っているので、
興味がある人はそちらを読んでほしい。
0875人間七七四年
2011/11/04(金) 20:44:22.64ID:50eGmW8Bそのかわり籠手や脛当てに菊、桐、巴、をはじめとして何種類もの紋が散らされている。
徳川美術館の熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず。
葵の紋が入っているのは上田博物館にある松平信一のものくらいのもの。
これはもともと家康のものであったが、紋柄縅で葵の紋を出している他、金物にも葵の紋が散らしてある。
その他、家紋が入っているのは尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴くらいではないか。これは珍しく前田又左衛門と名前まで入っている。
赤穂大石神社森長可の伊予札胴乃金物に入るはの桐紋で、鶴丸ではない。
家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか。
0876人間七七四年
2011/11/05(土) 00:37:34.19ID:C2XLGN4K徳川家用の甲冑には必ず葵紋が入っているとまで言い切るつもりはないが、
あれだけ海外に贈られた具足には一つも入っていないというのも不思議な感じがする。
>>熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず
熊毛植の方は調べていないのでわからないが、羊歯具足の方には、シコロの鉢付鋲などに葵紋が入れられている。
また、
>>尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴
は、胴の形状や弾痕からして、江戸初期に流行した試し胴であり、古く見ても利常の代が上限に見える。
「前田又左衛門」の銘切りは後世による伝来の付加の一環で行われたのではないか。
>>森長可の伊予札胴の金物に入るのは桐紋
桐紋が当時権威性の高いものだったという前提で考えると、長可の伊予札胴は目上の者から下されたものという可能性が高い。
そうであれば、自分の紋に変えたりすることなくそのまま使用するのが普通だろう。
この場合、長可にこの胴をあげたのは信長か秀吉ということになるが、作域に新しい特徴が見られるので、
実際は忠政所用だったかもしれない。
>>家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか
家紋ではなく紋様として好まれたデザインは多々あり、多くの現存甲冑にも取り入れられているが、
どう見ても一般的ではなく、家紋としか考えられない紋を付けた最古の例は、
鎌倉時代の遺品にもある(鶴嶺神社の赤糸威大鎧は十字紋の裾金物を打つ)。
それ以来連綿と続き、多少特別な意味合いを帯びることはあってもとりわけ特異な行為ではなかったと思える。
もちろん、オーダーでないレディメイドの量産品(近世の一部の御貸具足を除く)には、
最初は特定の家紋が付くことはなかったろう。
0877人間七七四年
2011/11/08(火) 10:00:57.14ID:apqPjTEG笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
大高城兵糧入れの時点で仏二枚胴具足があったらオーパーツになるんじゃないか?
革包の仏胴なら当時からすでにあったのかもしれないけど
0878人間七七四年
2011/11/08(火) 10:05:11.38ID:apqPjTEGおっと、>>877のリンク見れないな。こっちを見てね
0879人間七七四年
2011/11/08(火) 13:18:00.34ID:xcmwFD7E1550年代終わりの製作と考えるのは、確かにしっくりこないが、それとてこれといった根拠があってのことではない。
現在の久能山東照宮に来る前は、江戸城紅葉山文庫に羊歯具足などともに保管されていたこと、葵の紋をつけた豪華な蒔絵の具足櫃に入れられていること、あえて修理の手をいれていないこと、などから判断して、徳川家にとって特別な意味をもった具足であったことは事実。
0880人間七七四年
2011/11/08(火) 23:13:18.81ID:zrUF6GdE金陀美具足は、人によっては製作された年代を江戸前期(家康死後)に推定することもあるが、
個人的には上限を桃山期(関が原合戦の前後)に引き上げてもいいんじゃないかと思う。
桶狭間の合戦時に、形式が何であれ金をふんだんに使った甲冑を用意できるほどの
経済的余裕や地位が松平家にあったとは考えにくいし、『信長公記』中の元康の格好を、
金色の具足が朝日に照らされて赤く見えたのだろうと解釈するのには苦しさを覚える。
そうではなく最初から朱色を添えた鎧を使用していたのではないか。
静岡浅間神社には今川義元が調製させた家康着初めの鎧と伝わる小ぶりの腹巻が伝わるが、
これを用いていたのも否定できないだろう。一般的な腹巻に比べると、
少年用とあってサイズはやや小さめだが、幅の狭い本小札(奈良小札)を紅糸で毛引きに威し、
草摺を9間に割り、背中の引き合わせには背板を設けるといった入念な室町末期の作域で、
奈良の甲冑師による作品と見られる(かつては同作の袖・兜も付いていただろうが、いまは胴のみ)。
よって、この腹巻は、本来は今川氏真の元服鎧として作られたものを、
お下がりとして元康が頂いたとする説もある。
お古とはいえ今川家嫡男の品を義元が元康に与えたことは、
彼が松平家をどのように見ていたのかを考える上でもヒントになろう。
元康も元康で、義元が戦死するまでは今川家を離れようと思わなかったはずで、
戦陣に際しては厚遇の証として主から下された鎧を着て手柄を立てることを
考えていたとするのが人情としては自然だろう。
気がかりなのは元服から桶狭間まで成長期にあっただろう元康の体形だが、
そこは当時の栄養事情から、背丈はあまり変化しなかったとすれば間に合ったかもしれない。
ttp://www.youtube.com/watch?v=SR2U6nmP2as
↑紅糸威小腹巻(0:55前後から写真が登場。字幕では増善寺所蔵とあるが誤り)
うがった見方をすれば、青年期の元康の行動を隠蔽するために、
金陀美具足(家康存命中に作られたか、死後に幕府が製作させたかは不明だが)に、
改めて大高城兵糧入れの伝来を付加し、この腹巻を世間の耳目から遠ざけようとしたと考えられる。
世情の安定化と幕府による統治の正当化の一環として家康神君化が進められたわけだが、
反乱や下克上を否定する幕府にとっては、家康も若い頃に主家である今川に対して離反・敵対し、
駆逐している事実が非常に不都合な材料だったのである。
であるから、戦国の臭いを放ち、今川家の影をまとう腹巻を封じ、
見栄えのよい金陀美具足を掲げたと思うのだが・・・。
0881人間七七四年
2011/11/09(水) 00:03:56.50ID:mf3WtZO+俺も金陀美具足は作風からして桃山時代が一番しっくりくるのではないかと思う
そういや、家康少年時代の召領として後世に創作された金小札の童具足なんてのもあるよね
0882人間七七四年
2011/11/10(木) 00:27:08.66ID:kbSqamA4肩先に付いてる程度と思ったら、肩全体を覆うくらいだった。
大袖が省略された代わりに大きくしてるんだろう。
前立以外はほんとにシンプルで実用的だなー。元和偃武以降の甲冑と好対照だ。
0883人間七七四年
2011/11/10(木) 01:14:24.16ID:lgxyTSMN大仰な立物は戦闘時の邪魔になるように見えるが、
あの時期の武将の軍装は目だって何ぼの感覚が当たり前だったので、
あの弦月の前立だけだとむしろ控えめな印象を覚える。
陣羽織や指物などと合わせて効果的に演出していたのだろう。
実戦期の兜の立物は消耗品のコンセプトで製作されており、
素材には軽い木材や薄い金属が主に使用されているため、
武器や物が引っかかった時に壊れたり抜けたりしやすい作りになっている。
また、元和偃武をもって世の中の気分が穏やかになったわけではない。
実際は幕府の武断政治によって大名の改易が多発して大量の浪人が発生、
殺気立った雰囲気は家綱・綱吉の頃までなかなか落ち着かなかった。
大阪の陣より間は空くが島原の乱が起こっているし。
甲冑もこの時期までは緊迫した時勢を反映して実用を強く意識していた。
装飾が増えるようになるのは太平気分が広がった17世紀後期から。
0885人間七七四年
2011/11/10(木) 10:20:19.52ID:NGGLqTQ7因島水軍城所蔵の白紫緋糸段威腹巻って、もともとは小早川隆景の着領だったんだな
「一個人」12月号にそう書いてあってびっくりした(監修・文は笹間良彦氏の弟子、棟方武城)
村上吉亮の元服時に贈ったものと聞いていたからてっきり贈答用に新しく作らせた腹巻かと思ってた
0886人間七七四年
2011/11/10(木) 13:12:16.20ID:9J4vksb/体に密着していれば、重量が肩だけにかからず分散されるから、使い心地が胴丸などよりも良かったのではないだろうか。
背中部分に合わせ目があることは防御の面では不安があるが、それが腹巻の愛用された理由だと思う。
0887人間七七四年
2011/11/11(金) 20:46:32.90ID:UkVilvACそのまま当世具足などの後世の鎧に使われた例とかあるのでしょうか?
0888人間七七四年
2011/11/11(金) 22:01:02.50ID:9CqoG5+O古物を形を変えずに使うことはあったかもしれないが
(寺社に奉納されていた古い甲冑を後世の人間が引っ張り出して戦に赴いた話も伝え聞くから)、
現存品では時勢に合うように改造を施されたものが結果的には目立っている。
一例として、福島県の都々古別神社には、当世眉庇や脇立用の角元を付け直された鎌倉期の星兜鉢が残っている。
また、実用を離れた江戸中期の復古調甲冑にも、古い鉢や札を流用して大鎧や胴丸を仕立てた作品が散見される。
当たり前だが年代の上がるほど、甲冑は部品が離れたり破損したりしやすいので、
特に中世甲冑が完品で伝わるケースは稀である。
江戸期の当世具足の中に室町末期の兜鉢が使われていたりするとそれだけでも大変価値のあるものといえる。
0889人間七七四年
2011/11/14(月) 20:03:09.62ID:B3i4s+oeやっぱりレプリカはレプリカだなあ
三斎着用甲冑は京都国立博物館で見た本物が草摺下二段に緋色ビロウドなのに
レプリカは草摺下一段だけ、後何故か袖にも貼ってある意味不明仕様
乗馬時に鞍との当たりを柔らかくするためって説明が本物にはあったが
レプリカには説明も当然なくただの色分けにしかなってねえ
出来が悪いとまで言うつもりはないが、本物の後に見ると感動がないな
0890人間七七四年
2011/11/14(月) 20:59:00.91ID:chseaMsY拙者は大甲冑展の武者行列のほうに参加してたでござる
行列といっても、みやこめっせから平安神宮までの数百メートルの間だけど。
平安神宮には七五三の子供たちがいっぱいで、我々と一緒に写真撮影していった。
0891人間七七四年
2011/11/15(火) 15:23:32.23ID:4s2yEod3>笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
例えば直江兼続の「愛」の甲冑にも(胴についての)異議は述べてないわけだが・・・
だからといって気づかなかったわけじゃあない。
所蔵者の神社や旧大名家ではそういう建前なんだから、あえて言わないだけってのも多いよ。
それを言っちゃうと出入り禁止ってとこも実際にある。
所有先が公的な博物館に移ったりすると、そこらへんも問題なく発言できるようになるけどね。
0892人間七七四年
2011/11/15(火) 23:39:40.46ID:dQ7iwkUrいや、それがどの本だったか、異議を唱えていないだけならまだしも
「人質時代にこんな高価な具足を新調した家臣の苦労が偲ばれる」みたいに書いてたので
本心から伝来を信じているように思えた
そりゃまあ、あの時代には絶対に仏二枚胴などなかったと断定するつもりはないけど
0894人間七七四年
2011/11/18(金) 13:20:18.23ID:8EvC3yus0895人間七七四年
2011/11/20(日) 22:38:16.48ID:o2Canb1U12月11日まで靖国神社遊就館で館蔵の刀剣や甲冑が特別展で公開されてるよ。
非常に面白いし、展示品の質もよいので東京近郊に住んでる人は見に行くといい。
それとも、ここに書き込んでる人はもう知ってるか。
0896人間七七四年
2011/11/25(金) 13:29:22.52ID:1WUSyaqZ0897人間七七四年
2011/11/25(金) 20:26:33.36ID:9qoOW++I0898人間七七四年
2011/11/25(金) 20:59:06.65ID:qiEUe5HKそれ何て本に書いてあったの?事実誤認もはなはだしいね。
確かに室町末期ごろから地方での生産が目立ち始め、
とりわけ関東地方では五枚胴が登場するなどの特色が現れるけど、
それでも近世に入るまで日本の甲冑生産第一位は奈良で、次に京都・大坂が来る。
徳川幕府が開かれると新たに江戸が加わるんだけどね。
学術専門書だけど、宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』に詳しい研究報告が載ってるよ。
0899人間七七四年
2011/11/26(土) 04:13:17.11ID:uGTmdInH洛中洛外図なんかにも鎧師の絵があるよね
0900聖徳太子
2011/11/29(火) 12:02:19.03ID:opS95nw70901人間七七四年
2011/11/29(火) 14:44:25.23ID:x7Zg+wg7http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A2%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%84&oe=utf-8&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=904&bih=711&sei=MXHUTtr-JZDDmQXP-ZiDAQ
0902人間七七四年
2011/11/30(水) 23:58:28.33ID:3Vy2W7CYttp://www.youtube.com/watch?v=qXRlFprj9Go
忍緒を蝶結びで締めると安定性が悪いし、余った端の先がぶらぶらしてダサいし、
物に引っかかったり敵につかまれたりしてろくなことがないのできっちり締めましょう。
ちなみに解説してる人は現役甲冑師の三浦公法氏。日甲研の常務理事で、数多くの作品を修復・製作してきた方。
お兄さんの三浦権利氏も西洋甲冑師として有名である。
0903人間七七四年
2011/12/01(木) 00:50:54.95ID:qfD31S6s本じゃなくてとある掲示板の書き込みです。どう考えてもおかしいと思ったんですがやっぱりデタラメだったみたいですね。ありがとうございました。
0905人間七七四年
2011/12/03(土) 20:21:49.33ID:eG0+9E7Ohttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1314345476/624-633n
[632:世界@名無史さん≪sage≫ (2011/12/03(土) 17:59:38.34 0) AA]
>>630
モンゴルと満州とトルコとチベットが抜けてる
1.中国
2.日本
3.モンゴル
4.トルコ
5.満州
6.チベット
7.朝鮮
0907人間七七四年
2011/12/07(水) 11:36:38.89ID:jWxabXk10908人間七七四年
2011/12/09(金) 19:11:18.19ID:Lq7veLW80909人間七七四年
2011/12/10(土) 02:05:41.12ID:xYw26WVeしかし、この染料の成分に絹糸を犯す成分が含まれており、糸が傷みやすいという欠点があった。家康が家臣たちに使用は好ましくないとお触れを出したが、流行は止まらなかった。
近代以後に修理される場合は、この八幡黒の縅は紺糸縅や茶縅に置き換えられていることが多い。化学染料を使えば絹糸を安全に黒く染めることも可能だが、当時とは異なった素材を使うことを避けるためにこうなる。
家康自身の物も大半が八幡黒。井伊や本多の物も、現在は紺や茶縅だが、オリジナルは八幡黒。家康の大高城兵糧入れの金陀美具足は、修理を禁止されていたのでボロボロの黒糸縅のまま。
この八幡黒は、京都の男山八幡近くで行われていた染なので、地方にはあまり用いられなかったと思われる。
0910人間七七四年
2011/12/10(土) 11:00:21.96ID:U5XJc8Mf刀も武用の柄巻きには黒は使うなという言い伝えがあるけど、
これも繊維が傷むのを嫌ったのが理由だと思う。
想像だけど、忍者が黒い服を着ないというのもまた同じ理由からなんじゃないかな。
0911人間七七四年
2011/12/10(土) 21:50:51.76ID:e6e7O1UWhttp://samurai-collection.jp/
0912人間七七四年
2011/12/15(木) 10:17:43.90ID:hEMX5XDc「八幡黒」の読みは「やわたぐろ」が正しいはずだが。
八幡黒の染料は五倍子(ふし)というヌルデの木にできる虫こぶ。
黒色の主成分は五倍子に含まれるタンニンで、
鉄気を多く含ませた水を媒染剤にして色を固定させることから劣化の具合が早いとされる。
『雑兵物語』にも「鎧の威糸に黒糸はよくない」と書いた一節があったような。
実は、五倍子と鉄水はお歯黒によく使われていた組み合わせであり、
お歯黒をヒントにして八幡黒が生まれたのかもしれない。
また、材料は違うが京都・吉岡憲法染のヤマモモと鉄媒染による黒染めや、
シャリンバイの材と泥土で色を付ける大島紬も、
タンニンを鉄で生地に固着させるという点では八幡黒と仕組みが同じである。
0913人間七七四年
2011/12/16(金) 11:12:10.94ID:WZ5y2AkMしっかしいつ見てもひどいクオリティの商品だな。
そのくせ偉そうな価格ばかり並んでいるんだから笑ってしまうよ。
中国製なら丸武よりも安く抑えてアピールすりゃいいと思うんだがなあ。
ギャラリーに甲冑購入者の家の写真が出てるが、成金趣味がにじみ出ている。
金はあるが物を知らない連中をターゲットにしてるということでいいんだな。
みんなはここから絶対に買うなよ!
0914人間七七四年
2011/12/20(火) 10:30:50.38ID:JcmldS7j確かに安土桃山時代の遺品では見た記憶ないな
このイラストみたいに島津義弘が丸に十文字の前立を付けているのは時代的におかしいことなんだろうか
http://blog-imgs-30.fc2.com/r/o/u/route123/rekishikaidou.jpg
0916人間七七四年
2011/12/20(火) 12:28:49.75ID:JcmldS7j江戸中期の新作と言っても差し支えない程らしい
木瓜の前立も後補だと思うよ
0917人間七七四年
2011/12/20(火) 12:44:28.58ID:yFbvbJOJ0918人間七七四年
2011/12/20(火) 13:51:53.81ID:R0dof5wQもちろん建勲神社の物とは別物で、室町後期の由緒正しい紺糸縅の胴丸。どこのものかは説明がなかったが、説明がないということは京都博物館の所有だったのかもしれない。
鍬形の間に入る形の前立で、建勲神社のものと同じ方式。前立だけが後世の作と言うことはあり得ると思うけれど。
0919人間七七四年
2011/12/20(火) 21:47:02.71ID:DfnyYRDq室町末期まで、鍬形の中央に付ける立物は、遺品・肖像・合戦絵巻などから推測するに、
利剣を立てて三鍬形とするか、鏡や笠印などを挿すのが一般的だったとされる。
家紋をあしらったもので、当時に作られたと言えるものは現在も発見されていない。
消耗品ゆえに消え去ってしまったとも考えられるが、文献や絵画にもそれらしき記録が見当たらないため、
そもそも作られていなかったのではないかという説が有力。
ただ、断っておくと、胴や袖、シコロに打つ八双鋲などに家紋としか考えられない図案を用いた例は結構ある。
また、徳川家の輪貫、仙台藩の八日月、加賀藩の猪目、高槻藩の二等辺三角形などの合印は家中のシンボルとはなりえても、家紋ではない。
>>918
伝・織田信長所用の紺糸威胴丸具足は、所蔵者はあくまでも建勲神社で、京博に寄託しているのが実情。
あれは江戸期の復古調甲冑だが、研究の進んだ後期に作られたと見られ、作域の水準は高いほうである。
ただし他にも同じくらいのできばえの復古調鎧はいくらでもあり、この具足が室町時代のものとして重文指定されてしまったことは、
いくら昔(1954年)のこととはいえ、文化庁のミスであるといわざるを得ない。
笹間良彦氏は小札の不揃いな箇所があると指摘し、古物を仕立て直したものとしている。
ここでもう一つ、あまり指摘されていないことだが、兜のシコロが江戸期の方法で作られていることが、時代の新しい証拠である。
中世末まで、本小札のシコロは、両端をひねり返して吹き返しを形成するのが定法だった。
甲冑の当世具足化が進んだ桃山・江戸初期には吹き返しが更に形骸化して小さくなり、省略されることになるのは周知の通りだが、
江戸中期以降に甲冑が太平の気分を受けて加飾化が進むと、再び吹き返しが飾りのパーツとして大型化する。
この江戸期の吹き返しは、原則としてシコロとは別に製作してから兜に取り付けるため、
ここで中世の本歌か復古調かを見分ける一つのポイントになることがある。残念ながら信長の紺糸威の兜は該当してしまうため、江戸期の作である。
0920人間七七四年
2011/12/20(火) 23:16:14.97ID:JcmldS7jいつもながら詳しい解説ありがとう!すっきりしたわ
しかし信長の胴丸って江戸時代の完全新作だったのか
0921人間七七四年
2011/12/29(木) 17:37:53.54ID:iU4f3JQZ一軒小屋のような神社でも鎧って奉納されてるんだな
何か丸武とかで作られたっぽい古風の胴丸だったけど
0922人間七七四年
2012/01/08(日) 16:02:36.65ID:uEA8dVpFあけおめ 今年こそ良い年になりますように!
0923人間七七四年
2012/01/18(水) 22:50:23.23ID:ZtKnQeWx三重県ローカルのケーブルテレビ局が作った歴史番組で、日本の甲冑特集の回。
最初はまあまあ見ることができたが、
5:10あたりで「小札」の読みを「こふだ」と言ったところから怪しくなっていく。
8:06の「吹返し」の説明も違う。兜の種類じゃなくてパーツの名前なのに。
8:14の「笠シコロ」になると出てくるのは日根野シコロ。しかもまた兜そのものとして解説しているし。
8:33からは伝・森田浄雲の具足が出てくるが、どう見ても室町末期までには持っていけない。
総革製で、札の威しも見た感じ粗雑なので、下手すりゃ幕末物かもしれん。
11:00から信長が南蛮甲冑を着たなんてのも確固たる証拠がない話。
12:30で紹介する復古調甲冑は更にいい加減な現代作という・・・。
結論としては、見たい人は見ればいい、ただし勉強のためにはあまりならない番組だった。
0924人間七七四年
2012/01/19(木) 14:59:47.69ID:k3HnnNDr「胴丸鎧」のキャプションとともに出てくるものも全然胴丸鎧じゃないし・・・
ひょっとして胴丸鎧と胴丸を混同してるのか?
う〜ん、お粗末と言わざるを得ない出来だな・・・
専門家に監修してもらえばよかったのに
でも威糸を穴に通す作業を動画でちょっとだけ見れたのはよかった
0925人間七七四年
2012/01/25(水) 10:38:17.90ID:mbox5SCO長篠の戦で真田信綱が討ち死にしたときに着用していたという具足が信綱寺に保存されてるそうだ
桶側胴を黒漆で塗り込めた仏二枚胴なんだが、当時としてはかなり新しい様式なんじゃないか?
この頃の主流は従来からの胴丸・腹巻か、せいぜい伊予札の丸胴や最上胴丸くらいだろうし
0926人間七七四年
2012/01/25(水) 15:56:39.74ID:cwGOV7jb付近の山に逃れた武田方の兵が、飢え死にしたとかいう話もあるように、戦いののちは織田、徳川軍がその付近を支配したから、武田の関係者が行動することが出来たとは思えない。
長久手の戦いでは、数的に劣勢であったために、勝った徳川方もすぐに兵を引いたから、戦場で森長可の首のない遺体を回収する余裕があり、討ち死に時に着用していたという甲冑が残るが。
0927人間七七四年
2012/02/09(木) 22:32:26.10ID:AhF6hODa時代考証や合戦のリアリティにこだわった映画だということで観てみた
確かに中盤の攻城シーンだけは見ごたえあったけど、
天正2年(1574年)という時代設定を考えると、劇中に登場する具足がどうも・・・
文禄・慶長期に発生したはずの日根野頭形兜を草なぎが被ってるし、
出てくる具足の胴も板物の二枚胴ばかり、足軽は完全に畳具足で統一。
これが中央の織田配下の軍装というならまだしも、小大名同士の田舎合戦の話だし・・・
出来ればそのへんも専門家を招いてしっかり再現してほしかったところ
まあNHKの大河ドラマでさえ、甲冑衣装は同じものをいろいろな時代に使いまわしてるんだから
贅沢な要求なのはわかってるけど・・・新調は金かかるんだろうなあ
0928人間七七四年
2012/02/10(金) 14:30:00.50ID:LrdtfC7n舞台設定は原作のクレしんにならっておそらく武蔵国のあたり、
ていうか今の春日部市周辺だろうから、甲冑の考証にこだわるなら
関東風を強く出した格好にすべきだろうね。
大名・城主レベルなら旧来の阿古陀兜と本小札の胴丸・腹巻に加えて、
新式の六十二間の筋・小星兜や最上胴・五枚胴を当てればいいんだろうけど、
足軽あたりにばらばらな武装をさせるのがかえって困難そう。
0929人間七七四年
2012/02/19(日) 15:44:44.21ID:tvkq+E1g↑は岩国歴史美術館所蔵の色々威胴丸。伝来によれば安芸武田氏の最末期当主である光和の所用という。
光和の後1、2代で安芸の武田氏は滅び、光和の遺児・小三郎が毛利氏の下で周防武田氏を興すことになる。
幅の狭い奈良小札、10間の草摺、色々威、広袖という点が室町末期の甲冑であることを物語るが、
面白いことに、胸板に最上胴(胴丸か腹巻かは不明だが)の板札を再利用している。
写真が小さいのでわかりにくいが、うっすらと胸板に素懸威用の穴が見える。
もちろん当時は表面を絵革で包んでいたので使用する分には普通の胸板と変わりなかっただろう。
こうした部品の再利用は制作費の節約と考えるのが自然だが、総体に手の込んだ作域なのでどこまで効果があったのかは疑問。
0930人間七七四年
2012/04/05(木) 02:16:14.04ID:59VVc1da各形式どころか小具足の記事すら建っている
しかも貴重な写真も豊富だからありがたい
0932人間七七四年
2012/04/06(金) 19:31:21.38ID:0tS4J5Sf0933人間七七四年
2012/04/06(金) 19:41:54.96ID:Sp3A8l3r無断でやってもめてもめんどくさいし
0934人間七七四年
2012/04/06(金) 21:33:58.54ID:JHQBd8Yl遠くて行けないのが残念。
(竹虎雀)ttp://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A9C93819A91E2E7E2E1918DE3E1E2E1E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5
(梅鶯)ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/art12033019560002-n1.htm
梅鶯の胴に弦走革が付いていないのは、明治初期に展示していたところを心無い参拝客が切り取って盗んだため。
ちなみに、この2領を修理した小沢正実氏は牧田三郎氏(故人・人間国宝)の弟子。牧田氏も生前は東博で文化財指定された甲冑を修理していた。
0935人間七七四年
2012/04/06(金) 23:39:06.09ID:xAjnNvVv0936人間七七四年
2012/04/19(木) 22:49:18.32ID:8VLlZzLb>>674
「斎藤実盛所用の兜、大袖、臑当」?・・・どう見ても室町じゃないか〜wwwむざんやな〜wwwwww
>>686
「楠正成の兜」?・・・こんな復古調兜に大楠公の名前を被せるとは却って失礼千万である!
>>687
「新田義貞の兜」?・・・モノはすごく上等だが室町末〜桃山から上には持っていけないね。後北条が作らせた小田原鉢だよ。
>>688
「平敦盛の鎧」?・・・金箔押しの最上胴と阿古陀兜が哀愁より笑いを誘う。
>>690
「北郷忠相の南蛮胴具足」?・・・臑当だけが古い。だけど他のパーツが室町とか無いから。
>>694
「源義経の色々威腹巻」?
「佐藤忠信の兜」?
「弁慶の籠手に静御前の鎧」?
>>695
「湛増の鉄烏帽子」?・・・源平オールスターズ、もうやめてくれよ。
>>699
「大祝家の鶴姫の胴丸」?・・・本当、戦う女の子って人気あるよねぇ。
0937人間七七四年
2012/05/31(木) 23:29:19.19ID:g3GwZj+Q0938兜丸
2012/06/06(水) 21:17:14.04ID:HbUEK99lこの兜は鉢(腰巻という、しころの付けてある部分の上の部分の所)が回転する兜で、攻撃を受けると受けた方向に回転して受け流せる。
あまり普及しなかったらしい。
それから当世具足で胴の中央に鎬(しのぎ)が立ててあるのは日本の甲冑でされていたことではなく南蛮胴から取り入れたこと。
そしてその南蛮胴を利用したのが南蛮胴具足。
鎬は鉄砲の弾を左右に弾くために立てられたもの。
0939人間七七四年
2012/06/07(木) 14:37:50.78ID:rzVUkHcUなんでそこで半島が出てくるんだ?
というか、鎧の捏造とか言ったって朝鮮には鎧自体残ってないだろ
0940人間七七四年
2012/06/15(金) 06:37:23.06ID:wA8Ebykj↑メトロポリタン美術館所蔵の李氏朝鮮の鎧みたい。
1935年寄贈みたいな事が書いてあるから、これは信じてもよいんではないか?
ttp://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/40014198
↑明治時代に流出した有名な足利尊氏所用伝来のある大鎧
ttp://www.metmuseum.org/search-results?ft=Kabuto&rpp=100&pg=1
↑同館所蔵の日本兜達。
殆どが戦前に米国人に買われてあっちに寄贈されたもののようだから
疑り深い人達?も信じられるのではないか。
ttp://web.archive.org/web/20070702172556/http://www.picure.l.u-tokyo.ac.jp/arc/stibbert/content_j/tn01.html
↑明治時代にイギリス人によって収集された、
イタリアにあるスティッベルト博物館所蔵の日本鎧兜郡。
これはもう消えているサイトをインターネットアーカイブで掘り起こしたものだから、
いつまで残っているかは知らない。
よって画像が欲しい人は、さっさと保存しておくことをオススメする。
0941人間七七四年
2012/06/25(月) 11:34:07.60ID:lEHtlTFb李朝全般のイメージとして使用されてることだろね。
原資料自体が少ないって言うのとはまた別なんだ。
0942人間七七四年
2012/06/25(月) 13:17:37.88ID:QI2mkIiL城の比較と同様無理有りすぎ
そもそも戦闘様式からして違うし
0943人間七七四年
2012/06/26(火) 07:07:23.36ID:88U++JJG0944人間七七四年
2012/07/03(火) 23:51:11.29ID:5Y/CwkuCただ、氏の絵では桃山時代になっても杉形じころの兜が出てきたりするし
毛引威の具足を着ている武者も多すぎる気がするんだよね
まあ当時の統計資料が残っているわけでもないし、このへんは解釈の違いなんだろうけど
0945人間七七四年
2012/07/05(木) 11:32:05.57ID:wH4CqKkr0946人間七七四年
2012/07/06(金) 18:47:57.61ID:2Xkh1uwyあの絵は好きなんだけど、資料としてはぼけまくりの輪郭で台無しだよねw
もっとシャープな線で描ける人がいたら
0947人間七七四年
2012/07/06(金) 21:55:52.01ID:wzJAUqi5なおかつ「正確に」描写できているかどうか、というレベルで見てみると殆どがアウトである。
絵やイラストで食っているのに怪しいレベルの人間もいる。
もっとも日本甲冑自体が、よく観察・勉強しないと適切に描けない構造になっている上に、
戦のなくなった近世以降、絵画における武装表現は中世の頃よりも低下していったから仕方ない部分もある。
近代の歴史画家で甲冑をはじめ有職故実に特に通じていたのは小堀鞆音、安田靫彦、前田青邨、松岡映丘など。
中でも鞆音は自分で大鎧を製作したり、青邨は甲冑武具のコレクションを収集したりして(今は歴博が所蔵)
自分の作品に反映させている。
0948人間七七四年
2012/07/19(木) 23:54:53.67ID:YfXN5oN/Google検索で正しい表記を差し置いてトップに出てくる間違いをピックアップしてみた。
間違いではなく当て字であると開き直れなくもないが、やっぱり使うと恥ずかしいから注意してほしい。
・「桶川胴」…「桶側胴」が正式。板を矧ぎ合わせて作った胴の表面が桶のように見えることから「桶側」の名が付いた。
始末が悪いことに、MARU武や光ZAN堂が自社製品の紹介にこの「桶川」を平気で使っているもんだから
(チェック係がいないのかね?それとも新物のメーカーはそんなことも知らない連中の集まりなのかね?)、
「埼玉の桶川辺りで発明されたから桶川胴という」なんて言いだす輩も出かねないほどの勢いでこの誤記が広まっている。
・「頭成兜」…検索して調べた限りでは、どうやらFF11に登場するアイテムのせいらしい。
あとは「なりかぶと」の音を聞いただけで「成兜と書くんだろう」と判断した人間が多数いるからなのかもしれない。
「なり」の漢字表記は「形」で、物の形や格好を意味する言葉。
頭形だったら「頭の形をした」、桃形だったら「桃の形をした」ということ。
皆は気を付けてくれよな!
0949人間七七四年
2012/07/23(月) 22:58:34.05ID:ClaJ1KmE桶川胴は実際に出てきてびっくりしたことあるわ
あと関係ないけど、五枚胴に変換しようとしたらゴマ移動になるよなw
0950人間七七四年
2012/07/24(火) 16:45:42.28ID:Chx9nd010951人間七七四年
2012/07/30(月) 04:53:14.14ID:ueWH6btF0952人間七七四年
2012/07/31(火) 00:24:03.90ID:SKwtAoLo歴史群像とかでも当世具足ばっかだからな・・・当世具足も好きなんだけどね
0953人間七七四年
2012/07/31(火) 14:20:45.46ID:H8lI0ZRe多くの若者はゲーム・漫画の影響で戦国武将ファンから甲冑に興味を広げていくことが多く、
奇抜さに惹かれることから当世具足に注目が集まりやすい。
中世甲冑の写真を見たければ、小学館の『原色日本の美術 甲冑と刀剣』がバランスよく載っててお勧め。
他、古本になるけど至文堂『日本の美術 No.24 甲冑』も解説が充実している。
あとは博物館や寺社の所蔵品図録に目を通すのもいい。
0954人間七七四年
2012/07/31(火) 23:55:09.78ID:9mzQtP6M0955人間七七四年
2012/08/01(水) 15:54:59.94ID:B4V/kXD7日本最古の大鎧(これは小札が一領ぶん残るだけで甲冑の形をしていない)から江戸時代、松平定靜奉納の復興大鎧まである。
現地まで行かないと入手できないのが難。
0956人間七七四年
2012/08/01(水) 16:18:22.18ID:EG4bEQnc本物を見に行くならともかく、図録だけを求めにわざわざ現地に赴く必要はない。
日本の古本屋やスーパー源氏で探せば済む話。
0957人間七七四年
2012/08/01(水) 20:33:59.60ID:P8VNyeAA42年版には甲冑の写真は少ないのでご注意。現在、現地でどんなものが売られているのかは、最近行っていないので知らない。
0958人間七七四年
2012/08/01(水) 23:52:32.22ID:XRYiPYdK紹介ありがとう。両方とも近くの図書館にあったけど、
大型本なのでなかなか借りてじっくり読む気にはならなかったんだよな・・・今度借りてみよう。
個人的には同じく図書館にあった岡山県立博物館のパンフレット(?)の「武士の美と心」が良かった
伝・足利尊氏奉納の腹巻とか、室町後期の前立挙二段、胸板・脇板に絵革を貼った古風な素懸威最上腹巻とか
数は少ないけど見ごたえのある写真が載ってた
>>957さんもありがとう!
大山祇神社にはいつか必ず行くつもりだから、お土産に60年版かそれ以降のものを買うよ
0959人間七七四年
2012/08/02(木) 16:02:29.52ID:TI/bti6G原文が乗っていないので、その社伝がいつどのような形で生まれたものかは判断できない。江戸時代以後に推測で書かれた可能性も否定できない。
真偽の程は不明だが、そのような伝承があると言う事実は記録して置く必要がある。
腰の部分が絞られるのは室町中期以後によく見られるが、それでもこの胴丸の腰部の細さは異常。
0960699
2012/08/02(木) 22:57:37.42ID:6AuZlXt7大山祇神社宮司の家系の人間である三島安精が昭和41年に『海と女と鎧』という小説を書いたことで広まった。
そもそもが室町末期から二百年以上離れた時代に作成された記録(というか物語)なので相応に割り引かねばならない。
その上、『家記』の一節に「鶴姫の比類無き働き、鎧とともに今に伝はるなり」とあるそうだが、
三島は神社の資料や宝物を調べているうちに件の胴丸を「これは女物に違いない」と思い(込んで)、
上記の文に結び付けて本を書いたという顛末である。
おまけに笹間良彦が描いた、胴丸を着用した鶴姫の絵が宝物館の展示場で現物の脇に飾られているものだから、
見物客にますます「紺糸裾素懸威胴丸=女鎧」が刷り込まれていく。
「草摺が11間」とか、「脇部の構造が特殊」とか、「腰の窄まりがきつい」からという指摘が挙がり、
そのどれもが「だから女性らしい」という現代人的な感性を伴い、女性用鎧を肯定してきたわけだが、
いずれもが徒立打物戦の激化に対応するためということで説明ができる以上は、
女性用であるとすることに説得力が感じられない。
また、胴回りの細さについては目測だけでなく、同時代の他の遺品と数値データによる比較で、
普通か特殊かを考えることはできるだろうが、それで着用者の性別まで断定することは性急かつ危険ではないか。
0961699
2012/08/02(木) 23:16:34.79ID:6AuZlXt7これはまったくの想像だが、『大祝家記』を書いた人間が現在鶴姫の鎧といわれている胴丸を見て、
「これは腰細だから女性用だ」と思って記録を作ったのだとすると面白く感じる。
戦の絶えた近世、甲冑のシルエットは丸みを帯びた太鼓腹になり、
戦国期の逆三角形の胴は忘却の彼方にあったからだ。
平和ボケの甲冑しか知らない江戸期の人間が、
実用具であった昔の甲冑を解釈したらこうなったという具体例になる可能性はあるだろうか。
0962人間七七四年
2012/08/02(木) 23:23:49.97ID:HPi/Y3e1西洋甲冑の影響だと主張する人もいるけどどうなんだろうな
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。